聖徳太子のエピソード
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飛鳥時代の伝説の摂政。聖徳太子。ホント?ウソ?と疑いたくなるようなエピソードも多い人物ですが、後世に伝えられた、この聖徳太子のエピソードについて、ちょっと見てみましょう。
わずか20歳で摂政に・・・
日本初の女帝、推古天皇の摂政になったのは聖徳太子が若干20歳の時。摂政というのは、天皇が子供だったり、女性だったりする場合に天皇の代わりに政治を行う役職のことですね。わずか20歳で摂政ですからすごい・・・。その後、「冠位十二階」「憲法十七条」、また遣隋使を派遣するなどを行います。
大国、中国にもビビらない!
遣隋使において、聖徳太子は小野妹子に国書という手紙を持たせています。内容が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」、つまりは「日が昇る国である王の私が、日が沈む国の王であるあなたに手紙を書きましたよ」ってこと。中国大陸を統一した大国の隋に対等な立場で手紙を送るなんぞ当時としては異例の異例!隋の王、煬帝は当然激怒!しかし、その頃の隋は高句麗と戦闘状態にあり手こずっていたころ。結果、隋から翌年に使者が来て対等外交が始まります。そこまで計算していたのか!聖徳太子!
神様になった聖徳太子
聖徳太子は仏教を厚く保護したことでも有名ですね。法隆寺や四天王寺を建てました。こうした行いや数々の偉業から、平安時代には、聖徳太子自身が信仰の対象とされるようになります。「太子信仰」と呼ばれ、多くの太子像が作られました。
実は、天皇になっていた
崇峻天皇と推古天皇の間に実は、聖徳太子が即位していたのではないか?という説もあります。隋の歴史書である「随書」には、当時の天皇が男であったと記載されているんです。また、聖徳太子が亡くなるまでの間、女帝の時代には設けないはずの役職である伊勢斎王が設けられていた。これは、おかしい。男の天皇が推古天皇の前にいたのではないか?それなら聖徳太子に違いないってことですね。
でも、本当は存在しなかった!?
厩戸王(うまやとおう)という人物で法隆寺を建てた王族が存在したらしいというのはわかっているんですが、聖徳太子という名前は日本書紀にもでてこない・・・。また、17条憲法の漢文の特徴も聖徳太子が生きた時代のものと合っていないなどのことから聖徳太子というヒーローは後世に作り上げられた人物なのではないか?ともいわれています。
まだまだある!聖徳太子のホント?ウソ?エピソード
厩で生まれる
母親が厩の戸にあたった拍子に生まれたという伝説。キリストに似てますね。中国から伝来したキリスト教一派の景教の影響か?
10人の言葉を同時に理解する
1度に10人の訴えを聞いて、的確に答えることができたというエピソード。何か、これならできる人がいそうな気も・・・。
予言ができた
『日本書紀』に「兼ねて未然を知ろしめす」と書かれており、「未来記」という予言書を残していたとも言われています。
神馬に乗って空を飛ぶ
諸国から推古天皇に献上された馬のなかから神馬を見抜いて、聖徳太子が乗ると空を翔けたといわれる。
四天王像で戦う
物部氏との争いで蘇我氏が苦戦している中、14歳であった聖徳太子がヌルデの木で四天王像をつくり、蘇我軍に加勢。見事勝利し、その四天王を安置する寺院、四天王寺ができた。
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