大化の改新!
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大化の改新とは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我家を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)の後に行われた政治改革のことです。
では、大化の改新について、その内容をすこし詳しく見てみましょう。
時代は、聖徳太子が亡くなったのをいいことに、蘇我氏がまるで天皇気取りで国を取り仕切っていた頃のこと。
蘇我蝦夷(そがのえみし)などは、天皇の墓でしか使ってはいけない陵(みささぎ)という言葉を自らの墓につかったり、自分の子供らを王子と呼ばせたりとやりたい放題。
その蝦夷の子、蘇我入鹿(そがのいるか)は、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を死に追いやるなどの横暴の数々を振るっておりました。
そこに、かつて聖徳太子が派遣した隋や唐の政治制度を学んだ留学生らが続々と帰国!
彼らは、「一部の豪族や皇族がそれぞれに土地や人民を支配している今の制度では、日本はダメになる。唐のように天皇を中心とした国家を作るべきだ!」と密かに動き出します。
この天皇中心の政治は、亡き聖徳太子が理想として掲げていた政治体制でもありました。
では、この日本を天皇を中心とする国家にするには・・・。
そう、まずは蘇我氏を倒さねばなりません。そして、動き出したのが中臣鎌足でした。彼は、けまりの会で中大兄皇子に接近、密かに心に秘めていた蘇我氏討伐を打ち明けます。
そして、645年の6月。遂に実行の日を迎えることになります。
その日は、朝鮮からの使者が朝廷に来ており、蘇我入鹿も必ずここに姿を現すことになっています。見事、予定通りに現れた入鹿でありましたが、普段から警戒心の強い入鹿は腰につけた刀をはずそうとしません。そこで、鎌足は、何とか言いくるめ、入鹿に刀をはずさせることに成功します!
計画は順調・・・のはずでした・・・が!
刀を持たせて待機させていた2人の若者が姿を現しません。何と、2人の若者は、ここに来て恐れをなし、その場から動くことが出来ないでいたのです。
只ならぬ雰囲気に、いよいよ入鹿も「何かある」と感じ始めます。
そこに、飛び出してきたのが中大兄皇子。自らも身を隠し、この状況を見守っておりましたが、臆する若者2人をもはや待てぬと飛び出してきたのです。
皇子の刀は入鹿を切りつけ、入鹿はその場に倒れこみます。
外は、土砂降りの雨。入鹿の亡骸は、その雨の中、外に放置されました。
その事件を聞いた、蝦夷も「もはや、これまで」と屋敷に火を放ち自害。
見事に蘇我一族を倒した皇子らは、その後、理想としていた政治改革を実行。朝廷は、日本で始めてとなる年号を作り、この年を大化元年としたことから、645年から始まる、この改革の事を大化の改新と呼ぶようになりました。
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