秀吉・高松城の水攻め
三木城を”干し殺し”にし鳥取城を”渇殺し”と兵糧攻めを成功させた羽柴秀吉(豊臣秀吉)。いよいよ、毛利氏との対決の為、備中(岡山)に侵攻しました。
天正10年(1582年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は3万もの兵を引きつれ高松城に攻め入ります。この高松城は、備中における毛利氏の最前線であり、清水宗治(むねはる)が守っていました。しかし、高松城はまわりを沼や堀で囲まれており、攻め込むには細い道を通る他ない。これでは、大軍で攻め立てるのは難しい。
もちろん、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、得意の兵糧攻めも考えたことでありましょうが、毛利本隊が援軍として背後から攻めてくるとも限らない状況。ならばと、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は部下のとんでもない案を採用します。
城ごと水攻めにしてしまおうというのです。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、近くの農民達を集め、多額の金を使い堤防を作らせました。破格の給料を示された農民たちは、昼夜問わずに働き、わずか12日間で堤防は完成したといいます。
その堤防は、全長4キロ、高さ8メートルという巨大なものでした。
これにより、足守川の水は、せき止められ、高松城は徐々に水浸しになってゆく。しかも、季節はちょうど梅雨時・・・。
この異常な状況に、高松城を任されている清水宗治も黙ってみているはずもありません。当然のごとく、毛利氏に援軍要請を出します。そして、毛利輝元を総大将に、小早川隆景(たかがげ)、吉川元春(きっかわもとはる)ら兵1万余りが到着しました。
だが、その時すでに高松城は、湖に浮いた孤島状態。高松城を助けるには、堤防を壊す他ないが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)がそう簡単には堤防に近づけることさえさせてはくれない。
ならばと、毛利輝元は秀吉との話し合いを持ちかけます。その交渉に当たったのは、秀吉とも面識のある禅僧でした。この交渉にて、羽柴秀吉(豊臣秀吉)側は、毛利氏の領土半分を渡せ!また、清水宗治は切腹しろと迫ります。
その条件は、毛利氏にとっては到底飲める条件ではありませんでした。
しかし、その時、歴史を動かす大事件が起きます。本能寺の変です。
信長が明智光秀の裏切りにより、本能寺で自害してしまったのです。
「信長公が亡くなった!」
この知らせにより、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、高松城どころではありません。一刻も早く、信長の敵打ちに・・・。
幸い毛利側には、信長公の死は知られていない。羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、敵陣に通じる交通網を遮断し、毛利側に信長の死を伝える使者が来るのを防ぎます。
そして、交渉の条件を緩め、清水宗治の切腹、それさえ受け入れてくれれば、すぐにでも兵を引き上げると伝えました。
清水宗治は、秀吉から送られた酒と肴で宴を開き、その後、自害します。清水宗治の死を見届けた秀吉は、毛利氏からの追撃を防ぐ為、高松城に築き上げた堤防の水を切り落とすと迅速に姫路城に向かって兵を走らせました。
その道のりはおおよそ70キロ。これを2日で駆け抜け、後に中国大返しと言われました。
毛利側が、信長の死を知ったのは、その後。羽柴秀吉(豊臣秀吉)に信長の後ろ盾がないとわかれば、清水宗治を切腹させることも抑えられたし、そもそも秀吉すら倒すことができたのに・・・。と毛利しは歯軋りしたことでしょう。
その後、秀吉は、信長弔い合戦に勝利し、いち早く織田家の主導権をにぎることになるのです。
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