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手取川の戦い


 
手取川の戦い(てどりがわのたたかい)とは、1577年に起きた上杉謙信VS織田軍の戦いです。

 では、なぜこの戦いは起こったのか?まずは、手取川の戦いが起こった原因からみてきましょう。

 それまでの織田と上杉は、武田氏や一向一揆勢を敵対視していたため、敵の敵は味方といった具合に同盟関係にあったんです。

 ですが、1575年に長篠の戦いにて織田信長徳川家康との34000もの大連合軍で武田軍を破ります。その後、北陸の一向一揆に対する政策に重点を移していました。

 一方の上杉謙信も武田がいなくなったので北陸に勢力を伸ばしたいんです。

 北陸への勢力拡大という目的がバッティング!これで織田信長と上杉謙信は対立していくことになります。



 上杉謙信は、織田信長と戦うために祖父依頼の禁であった一向宗徒との連携を結ぶことを決意します。織田と対立する一向宗徒と手を組み打倒織田を目指したんですね。

 1576年11月、上杉謙信は、織田信長と結ぶ畠山氏の能登・七尾城を攻めます。

 当時の七尾城では、、1574年に畠山氏の城主、畠山義慶が殺され後を継いだ弟の義隆も間もなく急死。城主に統率力がなくなっており、実際に権力を握っていたのは、長続連(ちょうつぐつら)・長綱連(ちょうつなつら)の親子でした。その彼らが織田信長と密かに繋がっていたんですね。

 上杉謙信としては、織田と結ぶ長一族を倒し、領土を北陸の越後から越中、そして能登へと拡大し上洛を目指す計画です。

 上杉謙信に七尾城を攻められた長続連・綱連の親子は弟の連龍を安土の織田信長のもとへ走らせ援軍を求めます。織田信長は、その要請に答え柴田勝家を総大将とする48000の大軍を派遣しました。

 織田の大軍と上杉軍は加賀の手取川にて対陣します。しかし、その時すでに上杉軍は七尾城を攻め落としていたんですね。それを知った織田軍は戦意を喪失し、そのまま撤退を試みました。

 しかし、それを許さない上杉軍。35000の兵で川を背にして逃げる織田軍を追いかけます。上杉軍に討ち取られるもの、あるいは川に溺れる者・・・。次々に織田の兵士たちは倒れ、上杉謙信は最初で最後の信長軍との戦いを白星で飾ることとなりました。

 勢いに乗った上杉謙信は、次は関東に攻め込もうと北条氏との対峙の準備をしていましたが1578年3月脳出血でこの世を去ることとなります。享年49歳でした。