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歴史年代ゴロ合わせ暗記>チベットの歴史

チベットの歴史


 チベットによるとチベット王がチベットを治めたのは紀元前127年といいます。しかし、チベットで最初の王朝として歴史に刻まれるのは7世紀に入ってから・・・。

 ソンツェン・ガンポ王のもと吐蕃(とばん)が最初の王朝として成立します。この吐蕃は、今のチベット地域だけでなく、現在の中国、青海省辺りも、その領土としていました。

 この吐蕃の時代にインドと中国から仏教が伝えられ、チベット文字などもつくられます。763年には唐に侵攻し長安を一時占拠したこともあります。

 しかし、この吐蕃も9世紀後半には衰退し、チベットはいくつかの地方国家に分裂していきます。

 この9世紀後半ごろにチベット仏教(ラマ教)は形づくられたものだと考えられています。

 チベットというと非常に宗教と結びつきの強い国ですよね。ダライ・ラマは、誰もが知る人物です。このダライ・ラマは、生まれ変わるとされており、ダライ・ラマが亡くなると、その生まれ変わりを探して次のダライ・ラマとする決まりがあります。しかし、このダライ・ラマのお話は、もうちょっと後になります・・・。



 9世紀後半に誕生したチベット仏教(ラマ教)ですが、その後、多くの流派に分裂していきます。ガギュ派、サキャ派、ゲルク派などなど・・・。

 その後、モンゴル帝国がチベットに進出してきた時に、この中のサキャ派がモンゴル帝国の後ろ盾を受けて5代座主のパスパが国師となります。

 このため、サキャ派が13世紀にはモンゴルの後援のもとチベットの政治と宗教の全般を握ることなり、チベットでは、政教一致という統治が始まるのです。

 15世紀ごろになるとチベット仏教の流派、ゲルク派にて教団の教主が死ぬと生まれ変わるという決まりが作られます。

 1578年にモンゴル諸部族の間で最有力指導者であったアルタン・ハンにより、このゲルク派の教主にダライ・ラマの称号が送られました。

 さぁ、これがダライ・ラマの始まりですね。

 このゲルク派は、その後勢力を拡大!17世紀半ばにはチベット全域を統一するのでダライ・ラマがチベットの最強権力者となるのでした。

 しかし!いきなりダライ・ラマによる統治にピンチがやってきます。ダライ・ラマ5世が亡くなると、その生まれ変わりと称する人物が3人も現れてしまうのです。

 もちろん揉めます。

 1718年には、清なども軍をチベットに送り込むなどして介入してきます。その清が1720年にチベット首都のラサに入り、ダライ・ラマ6世をたてました。

 この清の思惑は何なのか?当然、チベットに勢力を伸ばすつもりなわけです。

 1724年に清はチベットに進行。そして、保護国としました。1751年には正式にチベットは清の一部とされます。

 ですが、清もそれほど熱心にチベットを中国の一部にしようとは考えていなかったようです。おそらく、チベットは交通が不便などの理由があったのでしょうね。

 ですから、この時点では、チベットはダライ・ラマのもとでまとまっていました。

 なので1913年にはチベットはダライ・ラマ13世のもと独立宣言がなされています。

 しかし!その少し前に辛亥革命によって清朝は倒されていますね。そして、中国を統一した中国共産党は、チベットの独立宣言を認めまいと軍をチベットに送り込みます。

 これにより、チベットは中国によってチベット平和開放協定を結ぶことになるんです。内容は、ダライ・ラマの統治は変更しないし、寺院なんかもそのままでいいよ。言語も尊重するよ。ただし、チベットに軍政委員会と軍区司令部を作らせてね。中央人民政府の派遣した要員を除き、できるだけチベット地方の要員を仕事に参加させるようにするから、といった内容。文面だけ見れば確かに平和協定・・・。

 しかし、その後、中国は軍事的圧力によって漢民族主権の経済が作られ、チベット政府は、こんな平和開放協定なんて意味を持たないと抗議しますが、中国側は聞き入れません。

 1959年にはラマ僧らによって反乱も起こりますが、中国軍により鎮圧。

 その後、ダライ・ラマ14世はインドに亡命。1965年には中国政府はチベット自治区とし、チベットには中国共産党が派遣した役人によって政治が握られています。

チベット独立問題