東条英機
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太平洋戦争を遂行した元内閣総理大臣 東条英機(とうじょう ひでき)。敗戦後、A級戦犯とされ絞首刑に処されることとなります。
現在でも評価はわかれるところですが、この東条英機とは、どういった人物だったのでしょう?それでは、少し詳しく東条の人生を見ていってみたいと思います。
現在の東京都千代田区で1884年7月30日に東条英教(ひでのり)の三男として東条英機は生まれます。父親の英教は、日清戦争にて大本営参謀を務めた人物。
東条英機も1905年には、陸軍士官学校を卒業。順調に出世を重ね1937年には関東軍参謀長になり、日中戦争の推進者となります。
1938年には、陸軍次官に就任。1940年には第二次近衛文麿内閣にて陸相を務めます。この時に外相の松岡洋介とともに日独伊の三国同盟の凍結に務めました。
東条は、第三次近衛内閣でも陸相を務めますが、日米衝突を回避しようとする近衛首相と対立。内閣総辞職後には、内大臣木戸孝一の薦めもあり東条が総理大臣に就任することとなります。
東条は、現役の軍人のまま首相、陸相、内相を兼任。昭和天皇からのお言葉もあり、開戦的な考えを改め日米開戦回避を模索しますが、やがてアメリカからの中国の日本軍全面撤去などの要求はとても無理であり、これ以上の交渉は無理だと判断。太平洋戦争へと踏み切るのでした。
太平洋戦争では、開戦直後は日本が調子よかったのはご存知ですね。のりにのっている時に東条英機は、総選挙を行い翼賛政治会を結成します。これは、日本の歴史上、唯一の一国一党政治体制。つまりは、独裁体制築き上げたってことですね。
しかし、ミッドウェー海戦の敗戦以降は、日本の戦局が不利になってきます。すると、東条支持であった人々も「あれ?何か違うんじゃない?」ってことになってくるんです。あの、内大臣木戸孝一らの重臣でさえ、倒閣の動きを見せ始めます。
東条は、内閣改造などで対応しようとしますが、サイパン島が陥落すると責任をとるかたちで総辞職に追い込まれました。
敗戦後は、拳銃自殺を図るも失敗。極東裁判にてA級戦犯のひとりとして絞首刑に処されるという最後でした。
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