チェルノブイリ原発事故
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チェルノブイリ原発事故とは、1986年4月26日1時23分(日本時間では6時23分)に当時のソビエト連邦(現在のウクライナ)で起こった原発事故です。
この原発事故により、現在でも現場から30キロ圏内は居住禁止、486もの村や町が消滅、およそ40万人もの人が故郷を失い、被災者は現在までに500万人にまで及ぶともいわれています。
この悲惨なチェルノブイリ原発事故は、なぜ起こったのか、その原因と被災者がここまで増えてしまった要因を見ていきましょう。
チェルノブイリ原発事故の原因
チェルノブイリ原発事故は、ソ連のウクライナ共和国キエフ州チェルノブイリ地区にある原子力発電所で発生します。この場所に原発の建設が始まったのは1971年から。当時は、原子炉が4基あり、さらに5号炉と6号炉が建設中でした。
事故が起こったのは、この4号炉です。
4号炉は1983年12月21日に完成します。なぜ、この日に完成させたのか?実は、次の日の12月22日はソ連では原子力産業の記念日となっていたんですね。ですから、何としてでもその日までに完成させなければならなかったわけです。でも、実は、この4号炉、建設途中から問題がありました。途中で耐熱素材などが手に入らず、年内中の完成は、ほぼ無理という状態だったんです。しかし、それでは、この建設に関わっている上層部などは困ってしまうんですね。「期日までに間に合わないなんて仕事できないねぇ」なんてことになって評価が下がってしまったら大変ですからね。そこで、どうするか?「別に耐熱素材じゃなくても平気じゃない?」って偽装建築を命じるんです。
そもそも、チェルノブイリ原発事故の発生した4号炉では、建設途中から問題があったということなんですね。
しかし、そんなことは一部の人間しか知らず、1984年の3月には運転を開始します。
この原子炉ですが、実は日本や欧米の原子炉とは違った方式で動いています。黒鉛型といわれ、ソ連独特の方式です。
日本の原子炉は基本的には次のような方式で動いています。
原子炉の中にある燃料棒は水の中に入っていて、この燃料棒が核分裂を起こすことにより、高熱が生み出されます。この熱によって回りの水が熱せられて蒸気が発生し、この水蒸気により発電機のタービンが回って電気が起こる方式です。
この水が実は大切で水は熱を伝える働きの他にウランの核分裂で発生する中性子の速度を遅くする役目も果たしているんです。中性子の動きが遅くなると他のウランに中性子が当たりやすくなります。すると核分裂が促進されるんです。なので、この水の事を減速材といいます。
では、この水が無くなるとどうなるのか?
燃料棒が過熱状態になる恐れがあります。しかし、水は中性子の動きを遅くする役割を果たしていますので、その水が無くなるということは、中性子の動きがもとに戻るんですね。すると、中性子がウランに衝突しにくくなるので核分裂の連鎖反応が減るわけです。つまり、問題があり、水が無くなるようなことがあっても事故の拡大を抑える効果も期待できるわけです。
しかし、ソ連の黒鉛炉では、黒鉛が減速材の役割を果たします。なので、原子炉の水は日本の原子炉などと比べるとかなり少ないんです。その水が無くなった場合、燃料は過熱状態、さらに黒鉛はそのままですので核分裂の連鎖反応が続く・・・。つまり、水が無くなってしまったらえらいこっちゃなんですね。
さらに、当時の黒鉛型原子炉には格納容器もありませんでした。放射能が漏れれば、すぐに外部に放射能が出ていってしまうんです。
ですが、なぜ、ソ連は独特の黒鉛型原子炉にこだわったのか?
メリットとしては、原子力発電所の運転を止めないでも核燃料の交換ができます。ソ連の黒鉛型では、チャンネル炉という直径13センチ、長さ10メートルほどの細長いチャンネル原子炉が1661本も並びひとつの原子炉を形成しているんですが、このひとつひとつのチェンネル炉を引っ張り出して交換すればいいので日本などの原子炉のように運転を止める必要はありません。また、使用済みの燃料棒からプルトニウムが取り出しやすく、核兵器の材料に使えたんです。なのでソ連は黒鉛型の原子炉を利用していたんですね。
安全確認のための実験が事故を招いた
原子力発電所で使われている機械などは、どこの電力を使っているのか?当然のようですが、自らが作り出す電力で動いています。
でも、ちょっと危険な感じがしますよね。なんらかのアクシデントで停電なんかになったらどうするのか?外部からの電力に切り替えればいいのですが、それもできないような状態だったらどうするのか?緊急用の自家発電装置に頼るわけですが、これがすぐに運転開始できるとは限りません。
そこで、停電した時にどれくらいの時間なら原子炉が止まっても発電は続けられるのかの実験を行うことになりました。実際、原子炉は止まっても発電機のタービンは惰性で動き続けているのでしばらくは発電できるんですね。自家発電装置が動き出すまでの時間、どれくらいまでなら原子炉は止まっても発電を続けられるのかをテストしようとしたわけです。
ちょうどその頃、4号炉が運転を開始してから2年間が経過していて定期点検のため運転を停止することになっていました。ならば、この4号炉で実験をしようということになります。
チェルノブイリ原発事故の経緯
1986年4月25日。この日のAM1:06から実験に備えて4号炉は全熱出力3200MWから徐々に出力を低下させ、明け方には1500MWtと半分程度の出力を維持させておきました。
14:00実験に支障が出る可能性があることから「緊急炉心冷却装置」という安全装置を切断してします。これは、原子炉にトラブルが発生したらタンクに貯めてある大量の水を流し込んで原子炉を冷やして停止させる仕組みのものです。しかし、実験のための操作をセンサーが事故と判断し緊急冷却装置を作動させてしまうと困るので切ってしまうんですね。
これとほぼ時間を同じくして、給電指令所から、電力需要が多いので、しばらくそのままで発電を続けてほしいとの連絡が入ります。
結局、発電を停止してもいいという連絡が入るのは夜の23:10。実験が深夜にズレ込み、いら立っていたであろう実験員と深夜勤務要員のみで実験は開始されます。
4月26日、AM0:05。出力は720MWt。AM0:28。出力は500MWt。運転員が局所出力制御系から低出力レンジ自動出力制御系へと切り替え作業を行ったところ、出力が30MWtまで下がってしまいます。
原因は、前日の夜から低出力運転を続けていたために原子炉の中では中性子を吸収するキセノンがどんどん溜まっている状態だったのです。キセノンが溜まると中性子を吸収するので核分裂の進行が抑えられ原子炉の熱出力が低下することがあるんですね。
そんなことを知らない運転員は、何とか出力を戻そうと原子炉の中に入っている制御棒を大量に引き上げてしまいます。
制御棒は、核分裂で発生する中性子を吸収する機能があります。それをどんどん引き上げるのですから、当然、中性子が発生し、核分裂が促進されることとなります。
実は、この時すでに大事故へのカウントダウンが始まっていました。制御棒が極端に少ない不安定な状態で、さらには原子炉内は核分裂が異常に増大!
しかし、そんなことは知らない運転員たち。AM1:03には、出力が200MWtまで回復し安定化。これで実験を開始できると強引な判断を下します。(本来なら700Mwtでの実験が妥当とされていた)
AM1:23:04(ここからは一瞬の出来事なので秒単位)。実験開始の為、第8タービン発電機への水蒸気を停止させ、4台の主循環ポンプの回転数を減少させます。これにより、ポンプから炉心送られる冷却水が減少、それに反して原子炉内の水蒸気が増加、炉心で水蒸気の圧力が急激に高まります。
ちょっと、難しいですけどね。少ない冷却水が高い熱を吸収して沸騰してしまうわけです。沸騰した水は、冷却の機能を失いますので、原子炉が過熱していくんですね。
実験開始からわずか30秒後のAM1:23:30。原子炉の過熱に慌てた運転員は、すぐにでもこの状態を何とかせねばと緊急停止ボタンを押します。
これにより、いったん原子炉から引き上げられていた制御棒が一斉に原子炉に入れられました。ところが、この制御棒の先端には黒鉛が入っていたんです。黒鉛は、中性子の速度を遅くして核分裂の連鎖反応を継続させる動きがあります。
まぁ、通常であれば、制御棒が正しく原子炉の奥まで到達しますので中性子を吸収して核分裂を弱めてくれるわけなんですが、緊急時では、制御棒の落下速度が遅すぎたんですね。黒鉛の部分が入り、中性子を吸収する部分が入る前に原子炉の核分裂反応がむしろ上昇してしまい、過熱がますます進みます。そして、蒸気圧が急上昇し、チェンネル原子炉が破壊されるとともに固形の黒鉛が破壊され、制御棒の通る穴をふさいでしまったのです。これで、制御棒が奥まで入らない状態になります。
そのため、制御棒は核分裂を減少させるどころか先端部分の黒鉛が核分裂を促進し暴走。すぐさま、水蒸気爆発を起こしました。
数秒後、今度は、過熱した水蒸気から発生した水素が爆発。原子炉は粉々になり、原子炉内の放射性物質が外部に飛び出していったのです。
むき出しになった原子炉。しかし、その後も核分裂は続き、強い放射線は発生し続けていったのです。
実験開始からほんの一瞬の出来事でした。
直接の死者は31人!?
チェルノブイリ原発事故による死者数は、公式に発表されたものですと31人となっています。原発の運転員と消火活動を行った消防隊員。警備員です。そして、放射能症候群に冒されたのは238人です。
しかしながら、事故の処理にあたった軍人や労働者などを合わせれば、その数は数十万人にまで及ぶともいわれていますが、事故との因果関係を証明する手段が難しく、正確な数字はわかっていません。
事故後のソ連政府の対応
最初の避難命令が出されたのは事故の翌日の4月27日午後2時になってからです。現場から3キロほど離れたチェルノブイリ原子力発電所で働く関係者らが住む5万人ほどの住民に対して指示が出されます。
もちろん、原子力発電所で働く関係者ですから、事故の事実は知っている人も多かったでしょう。しかし、さほど重大な事故だという認識はなかったようです。避難しても3日ほどで戻ってこれるといわれて避難させられたといいます。
実際には、最初の爆発だけで広島の原発の10倍もの放射性物質が飛び出した計算になるほどの大事故だったのにです。
ソ連政府が国民に向けてチェルノブイリでの事故を発表したのは、4月28日の夜のニュースでです。実は、4月28日の午前7時にスウェーデンの原子力発電所にて検知器が異常な高レベルの放射能を感知しており、ソ連国内で原発事故が発生した可能性があると発表してしまったんですね。これで、ソ連も黙っているわけにもいかず発表。しかし、そのニュースの扱いは非常に小さなものでした。
また、事故のあった4号炉のすぐ近くにある1号炉と2号炉は、なんと運転を続けていました。3号炉はたまたま運転が止まっていましたが、3号炉の担当者などは現場に留まったままでした。
事故の翌日には、運転はすべて止められますが、その後再開。再び運転は止められることになりますが、3号炉だけは2000年まで運転が続くことになります。
原子炉は石棺となる
放射線を出し続ける原子炉をどうにかするために、結局はコンクリートで完全に覆ってしまおうということになります。幅100メートル、奥行き200メートル、高さ50メートルと巨大なコンクリートで覆われた姿は「石棺」と呼ばれるようになっていきます。
ですが、この石棺。実は、穴が開いてるんですね。内部で発熱が続いているために換気のための穴をあけなければならなかったのです。まぁ、フィルターは付いているんですけどね。どこまで信用できるのか・・・。
また、さらに内部で発熱しているのでコンクリートの劣化が問題となっているんですね。石棺を更に巨大なコンクリートで覆ってしまえばいいのですが、かなりのお金が掛かるようですし、覆ったところで半永久的にそれが繰り返されていくわけですけどね。
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