歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記第二次長州征伐
   

第二次長州征伐


 第二次長州征伐(だいにじちょうしゅうせいばつ)とは、幕府が15万もの兵を引きつれ長州藩の討伐に乗り出した出来事です。この第二次長州征伐では、長州藩の連勝。幕府の力のなさが露呈する結果となり、いよいよ幕府の権威が地に落ちることとなります。

 しかし、15万もの兵を送り込んだ幕府軍はなぜ敗北することになったのでしょうか?

 では、この第二次長州征伐について簡単に学んでいきましょう。

 そもそも、なぜ長州藩は幕府や朝廷から嫌われ、攻撃まで受けることになったのか?まずは、そこから説明しますね。

 当時の長州藩は、かなり過激で急進的な攘夷派。攘夷っていうのは、外国人を日本から追い出せ!っていう考えの人たちのことですね。この攘夷の考えを持った人たちが長州藩のリーダー的存在となっていってからは、外国船をなんと長州藩単独で砲撃したり過激な行動をしていくようになります。

 しかも、長州藩では尊王攘夷といって天皇を中心とする統治体制を理想として掲げていたので、まぁ、幕府からは嫌われますよね。まぁ、これはわかります。でも、朝廷からも嫌われる理由はないじゃんって思いますよね。天皇の味方ですものね。

 ですが、当時の天皇であった孝明天皇は、公武合体という考えに傾いていました。まぁ、外国人嫌いだったのは有名なのですが、幕府と直接争うことは好んでなかったんですね。なので公武合体、すなわち朝廷(公)と幕府(武)が協力して国政を担っていきましょうという考えにいたっていたというわけです。

 なので急進的であり、朝廷内でも影響力を強めていた長州藩には頭を悩ませていたんですね。ですから、八月十八日の政変っていって長州藩は京都・朝廷から追い出されることになります。「君たちがんばってるのはわかるけど、テンション高すぎるし、空気よまないから嫌い・・・」ってところですね。

 「いやいや、勘弁してくださいよ〜。俺たちも国のこと思ってやってるんすよ〜」ってことで長州藩は無罪を主張し兵を引きつれて京都御所に向かいます。しかし、これが受け入れてもらえず、「もうこうなったら公武合体派の排除と京都奪取だ!」ってことで御所を守る会津藩や薩摩藩と争うことになってしまいます。この時、御所に向けて砲撃もしているので長州藩は完全に朝廷の敵という扱いになってしまうんですね。(禁門の変

 もう、朝廷からも幕府からも敵とされた長州藩は、禁門の変から2日後、ついに第一次長州征伐を受けることになります。普通ならここで長州藩は壊滅となってもいいくらいですが、この第一次長州征伐に先駆けて、幕臣、勝海舟と話し合いを設けた西郷隆盛(薩摩藩・当時は公武合体派が多数)が公武合体の限界と雄藩の連合による新政権の実現を説得されており、長州の温存を考えた西郷は、降伏条件を呑めば許してやる!と戦火を交えることなく長州藩を降伏させています。

 さて、ここまでで何となく長州藩が幕府や朝廷から嫌われていたのかがわかったと思います。尊王攘夷を掲げ、どの藩よりも先駆けてがんばってきた長州藩は逆にその急進的な行動によって幕府はおろか、朝廷にまでも睨まれてしまったんですね。

 こりゃもう幕府に15万の兵で攻められたら、確実に負けです。実際、第一次長州討伐では、戦うこともなく誤っちゃってますもんね。しかし、実際、第二次長州征伐において長州側は勝っちゃう!いったい長州藩に何がおきたのでしょうか?次は、そこのところを見ていきますね。

 第二次長州征伐にて長州藩側勝利の大きな要因があの薩長同盟です。

 八月十八日の政変や禁門の変、さらには第一次長州討伐で敵対し犬猿の仲であった薩摩と長州。しかし、土佐を脱藩し長州に身を寄せていた坂本龍馬の仲介で薩摩と長州が手を組んだ同盟ですね。

 もう、この頃には長州は外国船砲撃の報復として外国に惨敗させられており、攘夷(外国追い出す)なんて、現実的に無理と悟っていた頃。薩摩藩もイギリスと戦っており、これまた甚大な被害を受け、攘夷は無謀であると感じ取っていたころだったんです。そして、両藩は「外国を追い出すのは現実的に無理だね。とはいえ、このままの日本じゃやばいから幕府を倒して新たな日本の道を切り開いていきましょう。」という意見で一致したんですね。

 そして、もうひとつ第二次長州討伐で長州側が勝利した要因が武器です。

 薩摩藩はイギリスから軍艦や武器を大量に購入していたんです。薩摩とイギリスは戦ったことがあったんですけどね。薩摩はただでは転ばなかったってことですね。その武器を坂本龍馬の仲介で長州藩も手に入れていました。対する幕府軍はもう戦国時代のような武器です。槍、刀、馬・・・。時代遅れもいいとこ・・・。

 この薩長同盟とそれによる武力の差が長州側勝利の理由ですね。あっ、あと戦闘のさなか徳川家茂が亡くなったのも幕府軍の戦意を削ぐ原因となったというのも大きな要因です。

 では、最後に第二次長州討伐の動きを見ていきましょう。

 長州藩が最新の武器などを手に入れていることを察知した幕府は、朝廷からの許しを得て長州再征に動き出します。まずは、長州藩、10万石の削封や藩主である毛利敬親の隠居などの処分を通達。しかし、長州がこれらの処分に抵抗した為、薩摩藩を含む西国32藩に出兵命令を出しました。

 しかし、薩摩藩と長州藩はすでに薩長同盟を結んでいたため、薩摩は出兵を拒否。ですが、幕府側は総勢15万という兵で長州征伐に乗り出すのです。

 幕府側は石州、芸州、大島、小倉の四方から一気に攻め込む作戦。(ですから、この戦いは四境戦争ともいわれますよ)。



 石州では、長州1000人に対して幕府3万。芸州では、長州1000人に対し幕府5万。大島でも長州500人ほどに対して幕府は2000人。小倉では、長州1000人に対し幕府2万と数の上では幕府の圧勝。

 しかし、前途したように武器では長州側の圧勝。小倉では、坂本龍馬の海兵隊がユニオン号(乙丑丸)に乗り参戦したのは有名です。大島でも高杉晋作が自ら丙寅丸を指揮して戦っています。

 そして、大阪にいた徳川家茂がこの戦いの最中に病死。徳川慶喜は、朝廷に休戦協定を願い出て撤退。事実上は幕府の大敗であり、幕府の求心力が大きく低下することになりました。