ウィーン会議
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ナポレオン全盛期の時代には、ヨーロッパのほぼ全土が彼の手中に治められてしまったわけなんですが、そのナポレオンがヨーロッパの連合軍に敗北してしまうと、その後の国境線などをどうしようか?ということが問題となってきます。
そこで開かれたのが1814年のウィーン会議でした。
開催された場所は名前の通り。オーストリアのウィーンです。議長となったのはオーストリアの外相メッテルニヒ。この会議には、オスマン帝国を除くヨーロッパの国々が参加しました。
さて、ナポレオンによってグチャグチャにされてしまった国境。今後どうしましょうか?と問われてまず思い描くのが元に戻せばいいんじゃない?っていう案です。まぁ、それが一番無難に思えますね。これを正統主義っていいます。
正統主義:ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻すという主張 |
しかし、違う案も出てくるんです。それが勢力均衡。つまり、第二のナポレオンが出てこないように一国のみ強大な力を持たないように「力を均衡化しましょうよっ」という案です。
勢力均衡:かつてのフランスのように飛びぬけた力を持つ強国を出現しないよう力の均衡を図るべきという主張 |
さ〜て、どうしまようか?各国思惑が入り乱れ決まるものも決まらない。こんな会議の状態をよく「会議は踊る、されど進まず」なんていいますね。
そんな隙をついて、エルバ島に閉じ込められていたナポレオンは、そこから脱出。パリ戻って皇帝に返り咲いてしまいます(ナポレオンの百日天下)。まぁ、これはすぐにイギリス、オランダ、プロイセンなどの連合軍によってナポレオンは敗北させられてしまうわけなんですが、「おいおい、いつまでも決めかねているのはさすがにマズいぞ!」という空気になりようやく1815年6月にウィーン議定書が締結されます。
では、そのウィーン議定書の内容を簡単に見ていきます。
1)フランス、スペイン、ナポリ王国でのブルボン王朝の復活。正統主義に基づいてフランスは1790年当時の国境に戻す。
2)フィンランド・ベッサラビア(現在のモルドバ共和国)がロシア領になる。
3)ロシアはワルシャワ大公国の大部分を併合し、そこをポーランド立憲王国としポーランド国王はロシア皇帝が兼ねる。
4)プロイセンはラインラント(ライン川流域)など領土を大幅拡大。
5)スイスが永世中立国になる。
6)オランダがオランダ立憲王国として復活。旧オーストリア領ネーデルラント(ベルギー)を併合。
7)オーストリアは北イタリアのロンバルディア、ヴェネツィアを獲得。
8)ドイツ連邦が成立。オーストリアを盟主都市35の君主国と4つの自由市からなる緩やかな連合体。
9)イギリスは旧オランダ領のスリランカ、ケープ植民地を獲得。
と、まぁ、こんな感じです。このウィーン議定書によって得をしたのは、イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアといったところ。フランスを打ち破った4大国ですね。
このウィーン会議で決められた新しいヨーロッパの国際秩序のことをウィーン体制といいます。
ウィーン体制を維持するために2つの軍事同盟も結成されました。一つがロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱した神聖同盟。これは君主間の盟約であり、政治的、外交的な拘束があったわけではありません。キリスト教の正義、隣人愛の精神に基づく盟主間の盟約であり、イギリス王、オスマン帝国皇帝、ローマ教皇を除くヨーロッパの全土の盟主が加わりました。
もう一つが四国同盟。これはロシア、イギリス、プロイセン、オーストリアによるウィーン体制下による政治、軍事同盟です。これはウィーン体制の維持のために利用されます。
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