| その洋館は武蔵野の面影を残す西東京の一角に、ひっそりと建っていた。緑のツタを這わせた外壁にはレースのカーテンで飾られた出窓が並び、二階に続く階段の踊り場に明かり取りのステンドグラスが輝く。小さいながら薔薇の花を植えた庭園があり、道行く人々の目を楽しませている。 洋館は近所の住人から「病院」と呼ばれていたが、実際は病院ではなかった。その証拠に医院の名を示す看板も、通う患者の姿も見られない。長く空き家だったものを、館に住む初老の紳士が遠縁の少女の療養にと買い求め、半年ほど前に引っ越してきたという話だ。 少女は病弱らしく、普段はあまり外に顔を見せず、学校にも通っていない。時折庭で遊んでいるのを見かけるが、蒼白い肌が長い闘病生活を物語っている。それでもこちらに気が付くと小走りに駆け寄ってきて、深々と頭を下げて挨拶をする様がかわいらしいと、その中年女性が言い添える。話し相手を務めている若い男は頷くと、さらに先を促した。 「中学生くらいの、目がパッチリとして利発そうな可愛い子よ。でも、本当に色が白くてねえ。ああ言うのを抜けるような白い肌って言うのかしら。そう言えば髪も瞳も色が薄かったから、そういった病気かも知れないね」 問いかけた若い男はその話を聞くと、納得がいったようだった。 「知り合いなの、おたく?」 女の問いには答えずに無言で会釈すると、若い男は背を向けて立ち去っていく。 「何よ、人が親切に教えてやったのに」 文句を言いながらも、女は男の後ろ姿を見つめていた。長髪を頭の後ろでまとめ、漆黒のスーツに映える深紅のビロードの紐で結わえている。そんな派手な格好が、悔しいくらいによく似合う美丈夫だ。 「ま、いいオトコだから、許しちゃうけどね」 女はそう言いながらも、今見たばかりの男の顔を思い出せない自分に、驚いていた。 「例の人殺し、まだ捕まらないのかしら。ご近所でこうも立て続けに殺人事件だなんて、なんだか気味が悪いですよね、先生(ドクター)」 飲みかけのティーカップをサイドテーブルに置いて、茉莉が話しかけた。ドクターと呼ばれた初老の男は書き物の手を止め、少女の方に顔を上げる。白髪が交じる髪はきれいに整え、細いフレームに度の強いレンズのメガネを鼻の上にのせた姿は、医者と言うより学校の先生の方が似合いそうだ。 「そのようだね。茉莉も外を歩くときは気を付けなさい」 「あら、私なら大丈夫ですわ。お散歩のときはいつも、頼みもしないドクターが付いてきてくださるでしょ」 茉莉がちょっと拗ねた口調で反論する。ドクターは少女の小さな皮肉に苦笑すると、それは茉莉のことを心配しているからだと、聞き飽きた弁解をはじめた。 二人が居る書斎は、館の外観に違わず西洋アンティークの家具がセンス良く配置され、壁一面を使った書棚には古い本が並んでいた。マントルピース付きの暖炉は本物でなかったが、冬にはガスの火が部屋を暖める。窓際の大きな樫のデスクに座るドクターから、よく見える位置に置かれた革張りの古いソファーが、茉莉の定位置だった。 大きめのソファーにちょこんと腰掛けた茉莉は、白い肌によく似合うモノトーンのワンピースを着ている。傍らのライトスタンドの光を浴びて銀色に見えるほど、黒いリボンで二つにわけた髪の色が薄い。触れれば壊れてしまいそうなか弱さだったが、整った顔に浮かぶ表情は可憐で、それが少女の印象を愛くるしいものにしている。 「それならば、今夜は僕一人で出掛けるとしよう。どうやら茉莉は僕との散歩は嫌いらしい」 「ドクターのいじわる! 私、そんなこと言ってないわ」 「おやおや、そう聞こえたがね」 ドクターの逆襲に、茉莉が頬をふくらませる。ドクターはそんな茉莉を、実の父親のような暖かな表情で見守った。 「わかった、わかった。出かける支度をしてきなさい。今夜は天候がよいから、少しくらい歩いても身体に障らないだろう。それに月がとてもきれいだ」 茉莉に指示しながら、ドクターは椅子の背にかけてあった薄手のジャケットに袖をとおした。 深夜の街は月明かりで蒼く染まり、まるで深海を歩いているようだと、茉莉は思う。郊外の一角は人通りも無く、遅い時間でもないのに動く物は並んで歩く二人の影だけだ。 「きれいですね、ドクター」 「ああ、そうだね。夜の闇は街の汚点を隠してくれる。昼間見るより数倍、美しい」 茉莉は頷きながら昼間の街並みを想像してみたが、上手くいかなかった。身体が弱いせいか、茉莉は陽の光に長時間当たっていることができない。すぐに気分が悪くなり、ひどい時には動けなくなってしまうので、昼間は館の庭から外に出ることができない。それで、たまにこうして夜の散歩を楽しんでいるのだ。 「昼間に出歩くことができれば、私にもお友達ができるのかしら」 何気なく漏らした一言に、ドクターの表情が曇った。 「寂しいのかい?」 「いいえ、私にはドクターが居るから、寂しくなんかないわ。ただ……」 「ただ、どうしたんだい?」 「こうして外を歩いていると、昔のことを思い出してしまって。病気になる前には、学校に行って、お友達とお話しして」 茉莉の目はどこか遠くを見ているようだった。楽しい記憶を探しているのかも知れない。しかしドクターはますます不機嫌そうに、眉間に皺をよせた。 「おやおや、今日の茉莉は少しおかしいね。茉莉はずっと僕と二人で住んでいて、学校に行ったことなんかないじゃないか」 「えっ?」 その事実を初めて聞かされたかのように、茉莉は大きな目を丸く見開いた。色素の薄い瞳をのぞき込むメガネのレンズが月光を反射して、ドクターの表情を窺い見ることができない。 「わたし、ずっと、ドクターと、一緒に?」 「そうさ、茉莉は僕とずっと二人で暮らしてきた。今までも、これからも」 ドクターの声が、どこか遠くから聞こえてくる。心の中を見透かすように空気の振動を介することなく、精神に直接作用する。茉莉はその言葉に抗って、自分の記憶を必死で手繰った。 学校の名前は? クラスの担任は? 仲良しだった友達は? 「そもそも学校には行っていないのだからね、何も思い出せなくて当然だよ」 「でも、でも、思い出せないの。お母さんも、お父さんも!」 自分の言葉に愕然とした。 父の顔も、母の顔も、記憶に無い。まるで切り取られたように、ドクターと暮らしはじめる以前の記憶が無くなっている。 不安が襲ってきた。自分は今、固く封印された扉を、禁断の鍵で開け放とうとしているのではないか。扉の先には、一体何が待ち受けているのだろう。 両手で自分の肩を抱いてその場に蹲った茉莉を見て、ドクターは小さく舌打ちした。それから取って付けたように柔和な表情を浮かべ、茉莉の身体を抱きよせる。 「茉莉、茉莉、何も怖がることはない。今日は疲れたのだね。さあ、薬を飲みなさい」 「お薬?」 ドクターの右手にはいつの間にかガラスの小瓶が握られていた。中は赤い液体で満たされている。 「そうだ、これを飲めば楽になる。さあ、口を開けて」 茉莉は小さな唇を開き、ドクターの手によって液体を注ぎ込まれるのを待った。瓶の蓋が開かれると、瓶からは生臭い、何とも嫌な鼻を突く匂いが溢れ出て、顔をしかめずにいられない。しかしドクターは構わず、茉莉の口の上に瓶を傾ける。 最初の一滴が舌の上に落ちると、薬の匂いが芳醇な果実の香りに取って代わった。口の中に甘い滋味が広がり、注がれた液体を一滴残さず飲み干そうと、白い喉が上下する。 たちまち不安は無くなった。それどころか紅い霞が思考を覆いつくし、脳裏から何もかもが消え去る。 茉莉の表情が穏やかになり、やがて全ての感情が消えていくのを見て、自分の研究の成果に満足しているのだろうか、ドクターは何度も頷く。やがて瓶が空になると、茉莉の背中をそっと支え、立ち上がるのを手伝った。 「よい子だ、茉莉。とてもよい子だ。気分が良くなったのなら、散歩の続きをしようか」 虚ろな瞳でドクターを見つめ返す茉莉の口元から、紅い雫が一滴こぼれ落ちる。それはまるで、茉莉の表皮が裂けて、別の何者かが生まれようとする裂け目に見えた。 男が首を左右に振ると、その動きにあわせて纏めた長い髪が揺れる。足下には、コンクリートの塀に寄りかかるように、OL風の若い女が倒れていた。男は先程からその女の喉元を見ていたが、ピクリとも動かない。眠るように目を閉じて、女は死んでいるのだ。 やがて男は死体を抱き上げると、人目につかない場所に運び込んだ。まるで身体の一部を抜き取られてしまったかのように軽い死体を丁寧に地面に寝かせると、男は黒いスーツの懐から大型のハンティングナイフを取り出す。 「悪いが切り刻ませてもらうよ。ここまではっきりとした証拠を、残すわけにはいかないからね」 物言わぬ死体に向かって弁解すると、ナイフの切っ先を蒼白い首筋に突き立てた。 「昨日はごめんなさい、ドクター」 難しい顔で夕刊に見入っていたドクターは、茉莉が書斎に入ってきたのに気がついていなかった。顔を上げると、新聞越しに、畏まった表情の茉莉が立っている。一晩休んで体調は回復したようで、かすかに桜色に染まった頬が、愛おしさを強調していた。 「何がごめんなさいなのかな?」 「お散歩の途中で私、また気分が悪くなってしまって。ドクターのお薬を頂いてから、記憶がないの。どうやって帰ってきたのかしら? ドクターにご迷惑をおかけしなかった?」 「そんなことかい。茉莉はちゃんと、自分の足で歩いて帰ってきたよ。それに僕は茉莉の主治医だからね、気に病むことはないよ」 読んでいた新聞を机の上に置くと、心配ないという風に微笑んで見せた。 「それならよかった、安心したわ。でも、自分でも知らない間に、一人で歩いているなんて、まるで夢遊病みたいね」 「多分、神経が疲れていたのだろう。2,3日様子を見て、問題ないようだったら、また散歩に連れて行ってあげるよ」 「ああ、安心した。また入院、って言われたら、どうしようかと思った」 「おやおや、それが本音かい」 ドクターがからかうと、すっかり元気を取り戻した茉莉が、舌を出してみせる。 「そんな意地悪を言うドクターには、お茶のご用意をしてあげません」 「それは困るなあ。茉莉の入れてくれる紅茶は、僕のささやかな楽しみなのだから」 「ささやか、は余計ですわ。ドクターはアッサムのロイヤルミルクティーでよろしくて? 砂糖は多めで」 ドクターの好みは、ダージリンのストレート。茉莉の当てつけに、ドクターが反撃の糸口を探していると、彼女が新聞の見出しを指さした。 「あら、それ? 嫌だ、また人殺し。今度はバラバラ殺人ですか」 「あ、ああ。でも、これまでの事件とは、別の犯人かもしれないなあ」 「あら、どうしてですか?」 「今までの犯人は、殺しても死体はそのままだったのに、今回は丁寧に切り刻んでいる。記事を読むだけでも、大層悲惨な状況だったようだよ」 茉莉は可愛らしい顔をしかめた。残酷な話は好きでない。その様子を見たドクターは、取り繕うように続けた。 「どちらにしろ、私たちには関係ないことだよ。それよりも茉莉、紅茶はストレートでお願いできないかな。それとできればダージリンで」 少しでも明るい話題へと会話を戻そうとしたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。 「あら、誰かいらしたようですね。あ、ドクターはそのまま。私が行きますわ」 ドクターは軽やかな足取りで茉莉の後ろ姿を見送くると、再び新聞記事に目をやった。たちまち不快な表情が広がる。 「一体、誰が……」 我知らず呟いた言葉が、かすかに震えていた。 突然の訪問は速達を届けに来た郵便配達人だった。しかし今時速達郵便を送ってくる酔狂な知人は、世間から隔離されて暮らす二人には心当たりがない。いかにも高価そうな封筒には墨跡も鮮やかに宛名が書かれ、古風な封蝋の上に印まで押されている。 「速達なんてはじめて見ました。誰からです?」 好奇心から何気なく訪ねた茉莉だったが、差出人の名前を見て顔色を変えているドクターに驚いた。 ドクターが手荒に封を開けると、これも高価そうな透かし入りの厚手の紙が出てきた。震える手で手紙を開いたドクターの様子は、明らかに怯えている。 「や、やはり。彼か。だが、許可なんかできない。絶対に、この館には入れられないぞ」 意味不明の言葉を呟くドクターの様子に、理由もわからないまま不安に駆られた茉莉は、手紙をのぞき込もうとした。しかし寸前でドクターが手紙をくしゃくしゃに丸め、その上でそれだけでは安心できないのか、ポケットからライターを取り出すと封筒ごと火を付けて暖炉に投げ込んだ。 「茉莉、すぐに引っ越しの支度をしなさい。今週中、いや明日にでもこの街を出るのだ」 「お引っ越しですって? そんな急に言われても、無理ですわ」 茉莉は最初、冗談だと思ったが、ドクターは真剣だった。血走った目で茉莉を見つめ、何時になくきつい口調で同じ言葉を繰り返す。 「口答えしないで、すぐに準備にかかりなさい。できるだけ遠くへ、そうだ、今度は大陸に移ろう。あそこならば目立つことなく、二人で暮らしていける」 そう言いながらも、ドクターは慌ただしく机の上の書類をまとめ、古い革鞄に詰め込みはじめた。 「ち、ちょっと待ってください、ドクター。こんな急に、それも外国に引っ越すなんて、せめて理由くらい教えて下さい」 ドクターはその問いかけにも応えず、普段は茉莉にさえ触れさせない書棚の本を乱暴に引き抜いて、手近の紙袋に放り込んでいく。必死に手を動かしながらも、目に見えない誰かに向かって、館への訪問を禁ずる言葉をしきりに呟いている。そうすることでまるで、近づいてくる災厄から逃れられるかのように。 「何をしている。そんなところに立っていないで、自分の部屋で荷物をまとめなさい」 切迫したドクターの声に追い出されるように、茉莉は仕方なく自分の部屋に戻った。 男は洋館を囲む煉瓦塀の前に佇んでいた。昨晩に続き、月の美しい夜だ。その整った顔が月明かりを受け白く輝き、闇に浮かびあがる。 「館の主には断られてしまったが、これは予想されたこと。こちらも予定通り、同居人にお願いするとするか」 男は誰ともなしにそう言うと、人間業とは思えない跳躍を見せて、自分の背丈より遙かに高い塀を軽々と飛び越えた。 気がつくと茉莉はひとりで、館の庭に佇んでいた。どうやら引っ越しの準備で疲れてしまい、いつのまにか夢を見ているらしい。 蒼白い輝きを放つはずの月が、この世界では血のように真っ赤な色で輝き、見慣れたはずの景色を紅く染めている。どこからか腐った果実のような甘い匂いが香ってきたが、どうやらそれは血の匂いらしい。不気味な、それでいて蠱惑的な血の芳香が、身体にまとわりついてくる。 「ここは嫌だ。こんな所には来たくないのに」 この悪夢からの逃げ道を探すため辺りを見回すと、門の外に人影が立っているのに気がついた。 「こんばんは、お嬢さん」 低いが良く通る声を掛けてきたのは、背の高い若者だった。黒いスーツに黒いシャツを合わせ、長い黒髪をオールバックにして、赤い紐で一つにまとめている。そんな洒脱な装いが似合う端正な顔は、肌の色こそ東洋人だが、彫りの深さはギリシヤ彫像を思い出させた。 「どちら様ですか?」 見覚えのない男の出現にとまどう茉莉に向かい、男は整った顔にかすかな笑みを浮かべながら、自分のことを准尉と呼ぶように言った。 「名前は言えないんだ。だけど名無しでは話すときに困るだろう?」 「ジュンイって、ご職業?」 「軍隊の階級。貴族の方々のために近衛兵を務めている。少尉の下だから、ま、そんなに偉くはないよ」 「近衛兵? でもそのお洋服、とても軍人さんには見えないのですが?」 実際のところ、茉莉は本物の軍人を見たことがなかったが、お話の中の近衛兵と言えば豪華な軍服と相場が決まっている。そもそも軍人が制服以外の服で街中を歩くことがあるのかどうかさえも判らない。 「そうだね。だけど君のところのドクターだって、白衣を着ているところを見せたことがないだろ。それと同じことだよ」 何が同じなのか納得がいかないような気もしたが、それよりも男がドクターを知っていることに驚いた。 「ドクターを知っていらっしゃるのですか?」 「昔の知り合いなんだ」 「ドクターが軍隊にいただなんて、聞いたことがありませんわ」 「いや、彼は軍にいたわけではない。近所に住んでいたのさ」 そこまで聞いて、茉莉は急におかしさがこみ上げてきた。つい先程までは不気味な紅い月にとまどっていたのに、今は見知らぬ男との会話を楽しんでいる。さすがに夢の中だ。 「そんなところに立っていらっしゃらないで、中に入ってお茶などいかがですか? ドクターも准尉さんにお会いすれば喜ぶと思いますわ」 「いや、今夜は遠慮しておこう。手土産も無しに旧友を訪ねるのは気がひけるからね」 柵越しに准尉はどこか皮肉めいた笑みを浮かべて、茉莉の誘いを断った。 「あら、気になさることないのに」 「ご招待、感謝するよ。近いうちに必ず寄らせてもらう」 茉莉の笑顔に向けて片目はつぶると、准尉は館の前から立ち去っていった。 次の日、ドクターは引っ越しの手配に朝から外出をして、館に帰ってきたのは日没も近い夕方のことだった。疲労の色が濃かったが、いつものように茉莉が入れた紅茶を飲みながら、新生活の夢を語って聞かせる。茉莉も話を聞きながら、ドクターと一緒なら外国での生活も悪くないと思い始めていた。しかし茉莉が准尉と名乗る男との不思議な夢の話を持ち出すと、ドクターの顔色が変わった。 「それで、その男を館に招待したのか?」 「はい。でも、全部夢の話ですよ」 まるで世界の終わりを聞かされたかのように、ドクターの顔からは血の気が失せ、額には脂汗まで浮かんでいる。 「なんて事を……。茉莉、すぐに館を出よう。今夜は近くのホテルに泊まって、明日の朝一番の飛行機で旅立つぞ」 「その必要はありません」 夢の中で聞いた、良く通る声が書斎に響いた。まるで影から生まれたように、准尉が夕日の当たらない部屋の隅から姿を現す。ドクターも茉莉も、驚いて声も出ない。 「やあドクター、お久しぶりです。そちらのお嬢さんからご招待いただいたので、早速参上しましたよ」 准尉は二人に向かって丁寧にお辞儀をすると、返事を待たずソファーに腰掛ける。茉莉はその姿を信じられない思いで見つめた。夢の中の人物が訪ねてくるなんて、現実にはありえない。それとも自分はまだ、夢を見ているのだろうか。 「や、やはり君か」 ドクターが絞り出すような掠れ声で、准尉に呼びかけた。 「ええ、私が来たからには想像がつくでしょうが、貴族院のお偉方がいたくご立腹です。あの方々の許可も得ずに子を成し、他人の領土で狩りを行わせるとは、明らかに反逆行為ですから」 「待ってくれ、この子は特別なんだ。この子を創ったのは、決して私利私欲のためではない。そのことは、あの方々も判ってくれる、判ってくれるとも」 「人間だった時の記憶を改ざんし、命令通りに動くようにしたからですか? だが血が足りなくなれば、すぐに精神が不安定になる。実験は失敗ですよ、ドクター」 「確かにまだ、改良の余地がある。しかし次は成功させてみせる。血を与える者には絶対服従する、完全な吸血鬼を創り出す」 二人の間で交わされる会話が、茉莉には理解できなかった。やはりこれは夢の続きなのだろうか。 「ドクター、一体何を?」 すがるようにドクターを見たが、視線をあわそうとしない。代わりに准尉が、辛そうに問いかけてきた。 「いずれは思い出さなければならないからね。君は自分が通っていた学校を覚えているかい? 担任の名は? 級友の顔は? ご両親はどこに住んでいる?」 准尉の声が、昨夜の記憶を呼び起こす。眩暈がした。 大切なことを思い出せないのは、久しぶりに外の空気を吸って、気分が悪かったから。ドクターにお薬をもらえば治るはず。そして、そして……。 目の前で女が震えていた。茉莉が雑誌でしか見たことがない流行のスーツを着こなし、ブランドもののバックを肩にかけた、OL風の女だ。顔は覚えていないが、胸元から覗く女の白い首筋は鮮明に記憶に残っている。女が息をするたびに上下する細い首が愛おしい。そこに口づけしてみたい、暖かな皮膚の下で脈動する血管の動きを感じてみたい。 (何を考えているの、私?) だが茉莉の心は、自身の希望を理解している。それを認めたくないのだが、身体の奥底から溢れ出す欲求は止めようがない。色素の薄い大きな瞳が紅く輝き、蒼白い肌に浮かび上がった小さな紅唇から、真珠色に輝く鋭い歯が現れた。そして茉莉は、人間のものではない、剃刀のように鋭い歯を、女の柔らかな首に突き立てる……。 「私、吸血鬼だ」 昨夜の記憶が蘇り、茉莉は自分の正体を悟った。今は全てが判る。茉莉だけでなく、ドクターも准尉も吸血鬼だ。ドクターが茉莉の血を吸って、その一族に招きいれた。准尉は他人の夢には簡単に入り込めるのに、建物に入るのには住人の許可が必要だ。 「そうだ、君はドクターが創り出した吸血鬼だ。人の生き血を吸って、永遠に生きる闇の眷族の一員だ」 准尉がソファーから立ち上がり、手を差し伸べてきたが、茉莉はその手に触れるのが恐ろしくて後退りした。 「でも、私のことを愛してくれていたのでしょ? 実験なんて、嘘でしょ?」 ドクターに助けを求めたが、何も応えてくれない。茉莉にではなく准尉に向けられたその顔には、不安と期待が入り交じった、卑屈で嫌らしい笑いが浮かんでいる。その表情が、自分だけが助かりたい、そう言っていた。 「ドクター!」 茉莉は叫ぶと、ドクターに向かって飛び出す。その手がドクターの首に掛かる瞬間、准尉が茉莉の身体を抱きとめた。 「放して! こいつが、こいつが私を!」 准尉の腕の中で泣き崩れる茉莉を見くだして、ドクターがシャツのカラーをゆるめる。 「助かったよ、准尉。親を襲うだなんて、この恩知らずが」 だが准尉はドクターの言葉を無視すると、腕の中で暴れる茉莉に対して、諭すように語りかけた。 「落ち着いて聞きなさい。君には二つの選択肢がある。闇の眷族として生きるために、私と一緒にこの館を出るか。それとも、この男と共に滅びるか。辛い選択だが君の命だ。自分自身で決めなさい」 「でも私、人を殺したわ。これからも人の命を奪わないと、生きていけないんでしょ? そんなの無理よ」 「確かに我々は、人の命を糧にして生きている。その死を敬わなければ、ただの怪物だ」 「死を敬う?」 「そうだ。生物は全て、他の生物の犠牲の上で生きている。人も吸血鬼も、例外はない。大切なのは、それらの死を無駄にせず、どんなに辛くても生きる意志を持つことだ」 「そんなの詭弁だわ」 茉莉の身体から離れると、准尉は悲しげに微笑んだ。 「知っているさ。それでも我々は、生きていかなければならないんだよ」 茉莉はこの時、吸血鬼の悲しみを知った。それは他人の死を意識しなければ生きられない者のみが知る悲しみだ。涙が自然と頬を伝った。 「さて、ドクター」 准尉の右手には、いつの間にか大型のハンティングナイフが握られている。黒衣をまとったその姿は、死に神を連想させた。 「個としては人間を食する吸血鬼も、種としては人類に比べてあまりに脆弱だ。それ故、我々はお互いに助け合って生きている。その基本ルールすら守れない者は、親たる資格が無い。まして自分の子を実験材料とする輩なぞ、同族でいることすら許し難い」 美しい死に神が、ドクターを見つめる。 「准尉、君は?」 「貴族院の死刑執行命令を持っていますよ。近衛兵の私が手土産も無しに、遊びに来たとでも思いましたか?」 終わりを待たずに、ドクターが扉に向かって走り出した。しかし影のように素早く動いて、准尉が行く手を遮る。その手でナイフがきらめいた。 「茉莉、助けろ! 茉莉っ!」 ドクターの叫びを聞くのは辛かった。それでも応えることはできない。別れの言葉を呟くのが、茉莉のできる全てだった。 「さようなら、ドクター」 愛されたと思い、恩人だと慕った。その男の最後をせめて見ないですむように、茉莉は目を閉じた。 二つの影が夜の道を静かに歩いている。何処に行くのか、茉莉は知らない。ただ昨日までの居心地の良い場所に、戻れないことだけは確かだ。 それでも、と茉莉は思う。何も知らずにただ生きていた時より、生きていく意志を持てた今の方がましなのだろう。道の先を照のが、薄い月明かりしか無かったとしても。 「後悔なんか、しない」 茉莉は小さな声で、しかし力強く呟いた。 |
| 〈完〉 |
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