膵臓研究のメッカを尋ねて
マルセイユ大学・国立研究所に留学して

大平 千秋 東北大学第三内科・助手
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昭和五十八年二月より昭和五十九年五月まで約15ヶ月間、私は昭和五十八年二月より昭和五十九年五月まで約フランスの南マルセイユにあるフランス国立研究所(略称INSERMU-31)に留学しました。
この留学を通じて経験したことや、感じたことを、留学先の研究所の紹介と共に述べてみたいと思います。

留学に先立って
INSERMU-31の所長は、サール教授(Prof.H.Sarles)で、膵臓病、特に慢性アルコール性膵炎の世界的権威として知られている。
ここを留学先として私が決めたのは、当時在局していた東北第三内科での私の研究テーマが、実験膵炎の病組織学的研究であったことにつきるのですが、それに加えて、フランス文化、言語に対するあこがれや、ヨーロッパの多くの美術に対する興味も大きな魅力となっていたからである。
ふつう留学の一般的な形は、大学に籍を残し出かける場合が普通であるが、私は留学資金調達の問題と、生まれつきの好奇心から、もう少し欲深く、他国の生活を体験したく、日本の海外進出企業に便乗し、アフリカでの生活を経験してからフランスにわたる道を選んだ。
当時、フランスのマルセイユには、弘前大学医学部の先輩にあたる西村先生(当時兵庫医大第四内科)が留学されており、その関係で、神戸製鋼会社の嘱託医として、リビアにあるミスラタ市の神戸製鋼会社の診療所長として働くことなり、リビアに渡った。。
 
リビア国・ミスラタ市
 
北アフリカ・リビア国の副都市ミスラタは、人口六〇万で、トリポリよりエジプト寄り二〇〇kmの地中海沿岸にある。ここで妻と(妻で医者だったため)約七ヶ月間、約三〇〇名の日本人従業者の健康管理と、緊急医療を目的として、その他、インド人五〇名、バングラディッシュ人五〇名、東欧圏(ユーゴスラビア他)若干名、スーダン、エジプト人、リビア人数十名を対象として、診療にあたることになった。
アフリカの灼熱の太陽は、日中五〇度近くにも気温をあげ、砂嵐(ギブリと呼ばれている)になやまされ、サソリに注意して、九月に大過なく仕事を務めあげ、フランスに渡った。
リビアに寄った目的の一つに、フランス語の習得があったが、実際に現地に行ってみるとフランス語は使用されておらず、この当てはすっかり外れてしまった(日本を出発した時点で、私はフランス語に関しては、ほとんど知識がなかった)。
 
フランス語取得のためのフランス人家庭滞在

まずマルセイユ市に、西村先生と、東大第一外科より留学されておられた赤尾周一先生を訪ね、いろいろアドバイスを受けた。結局フランス語の習得が必要との結論になり、フランス中央部のリヨン市、西方の温泉地で有名な
ヴィシー市では、フランス人の家庭に四ヶ月滞在し、日中は学校に通い、四ヶ月で目途をたてて、再度マルセイユにもどった。
サール教授

教授は、St.Margurite病院(Napoleon(ナポレオン)U世時代に設立)の部長であり、さらにフランス国立研究所U-31の所長を兼任している。
一九六三年に、第一回目の国際膵炎のシンポジウムが、サール教授のもとでマルセイユにおいて開かれ、ここで膵炎の古典的分類が決められた。
その後も、サール教授の指導下で、膵炎に関する業績が、数多く発表され、マルセイユは、当時から膵炎研究のメッカとしての位置を年々と固めてきたといえる。
教授は、若い頃にアメリカに留学しており、語学も堪能、そのフランス的な人間味と、高貴さと、また日本人も驚くような、きめ細かい人間味を持ち合わせており、フランス人のみならず、ヨーロッパはもとより、世界の膵臓病をリードしてきたと言える。
その父の影響もあり、教授はまた大の日本びいきで、自宅には浮世絵の大コレクションを有しており、一九七二年に、東大第一外科の中村耕造(現国立がんセンター病院内科)の留学大成功以来、毎年の如く、日本人留学生が教授のもとで研究生活を送ってきている。
教授は、自宅からは、朝早くより、その堂々たる体躯を日本の本田の小さなバイクに乗せて、研究所にディスカッションのため出て来る。早朝と夜遅い時間が、忙しい教授の日常勤務のため、研究者たちとのディスカッションのための唯一の時間帯なのである。
学問的な厳しさは有名で、私など英文一編、二十回程なおされたものである。
 
栄光のINSERM U-31
パリよりTGV(新幹線)で、南下すること五時間、日本にはない明るい青色の地中海に面した人口九十万の商業都市マルセイユの郊外約二qに研究所がある。地下一階、地上二階の小さな研究所であるが、各国の教授クラスの人々から、全く無名の留学生まで、多くの研究者が、当地を訪れ、多くの成果を生みだした場所である。
研究所内ではフランス語がやはり主体であるが、英語も共通語としてよく話される言語であった。
フランス語では国内の学会でも、時には英語で行われるとのことで、フランス語を国策で保護する国ですら、時代の流れには逆らえないものと感じた。
 研究部門としては、形態学、病理学部門では、形態学、病理学部門では、P.Lechane de laporre が電顕組織免疫学的手法で膵のLactoferrin, Pancreatic atone prtein(PSP), IgAの局在など、途中からは米国よりジョージア医科大学の解剖学教授のBockman Date, E.が純粋膵液中のタンパク栓の電顕的検討の仕事を進めていた。
 生化学的部門では、C.Figarellaが、膵液中ラクトフェリンの定量、特にアルコール性慢性膵炎で上昇することを述べており、またトリプシノーゲンの活性化の機序についての研究が進めていた。
 また、前述のPSPは、Aran de Caro 等により、膵石より抽出された特別なタンパク質で、膵石形成に関与していると考えられる、アルコール性性慢性膵炎の石灰化、膵石形成の解析で興味がもたれている。
 その後、生理学部門では、H.Verine がカルシウム代謝について研究しており、サール教授の弟である J.C.Dagon mRNAを測定、膵タンパク合成、分泌に関して non,parallei enzyn secretion theory を提唱している。
 その後、動物実験で、アルコールの急性負荷、慢性負荷時の阻害分泌の変化を研究しているグループや、三四歳で教授になった R.L.angien の亜鉛、脂肪、タンパクの欠乏による疎外分泌の変化の研究を行っており、その他内視鏡、胆汁酸の部門もあり、すべてをここに記載できない程である。
 
研究のスタッフと留学生
 外国、特に欧米諸国では、単一民族で研究所を構成されることは稀であり、一流の研究所では多国籍になるのが当然のようである。それにより、文化、生活様式、、言語の違いは日常的にみられ、研究所には、ある寛容が生じているように思われる。
 私が友達になったゾルダン君はハンガリーから来ていたが、ロシア語、ハンガリー語、フランス語、英語、ポーランド語もこなし、研究所内の通訳というべき存在となっていた。
 一方、アルゼンチンからきたホワン君は、自国語以外全く話せなかったが、それでも皆、学生寮に食事を盗みに行ったり、職員食堂で、無断でチケットを分け合って食べたりして、最終的には皆良い仕事をまとめ上げたようである。
 議論したり、アイデアを別にして、仕事がきまると、実験そのものは、単純労働の面もあるので、語学は思ったより気にしなくとも良いとの印象をここでは持った。
 
研究内容について(課題と成果)
 私の興味は、膵炎の病理組織学であったので、ポーレット女史の指導で、膵の免疫組織学の仕事を行った。
 慢性膵炎に膵でのigA の局在にていて三ヶ月ほど仕事をしてみたが、これはうまくゆかず中断した。人体側では主膵管に狭窄があり、手術された膵組織を三ヶ月かけて検討した。直径0.8oという、文献上最も小さな臨床症状を呈した脾腫瘍ということなので、これは
Digestive disses and Sciences に、Chronic obstructive Pancreatitis, nesidioblastosis, and small endocrine pancreatic tumor の題で論文になった。これは日本に帰国してから、私の医学博士論文ともなった。
 この二つの論文については、サール教授が「大変、美しい仕事だ」とほめて下さり、はるばるアフリカを渡り、夜遅くまで一人残って標本を切ったり、染めたり、英文を書いたりした苦労が一編にとんでしまう思いがした。極めてハードな生活ながら、全体としては幸福に恵まれた研究所生活であった。
 
フランスの生活
 一般的な印象では、フランスの生活は、生活に必要なもの、例えばパン・チーズ・ワイン、野菜、肉等は安く、ぜいたくさえしなけらば、安く生活できる。
 地中海沿岸のカフェテラスに座って、太陽の光と海の照り返し浴びていれば、一杯三フラン(約70円)のカフェで、一日、時間が過ごせる雰囲気がここにある。
 ヨーロッパは日本と同様、歴史の古い地であり、飽きることはない。特にマルセイユはフランスでも特有の風光明媚なところで、近くのニース、カンヌ、モナコにも劣らない美しい土地である。
 私の最初の目的である美術館回りも、フランス滞在中、フランス国内のみならず、マドリッド、ローマ、ミュンヘン、ストックホルム、ウィーンと広範囲に亙り、休みにはキャンパスに向い、絵を描く時間をもてたのは、最高の幸福であった。
 私は自費留学のため、当研究所からは、月給をもらうことはなかった。アパート代は、三万円程で、食事も妻と二人暮しで、五万円程もあれば間に合った。フランス人のようにつつましく暮らしたと言えるだろう。
 貯金の多くは、スペイン旅行、イタリア旅行、ウィーン、ドイツ旅行、パリ見物等で使われたようである。それも安宿を探して、パンを立ち食べながらの旅である。
 そして日本に帰ってきて、ふと思うことは、今経済大国となった日本のことであり、その円の強さは五年前でも十分実感したものである。しかし私が留学したフランスの生活を思い出す時、本当に日本は豊かな国になったのであろうかと疑問に思わざるを得ない。
 月々二十万円の月給でも、家を持ち、郊外に別荘を持ち、地中海でヨットを楽しむことができるフランス中流階級の人々。学問的なところでは、徹底的にオリジナルな仕事を目指す研究態度は、これまた、日本の研究に欠けている大きな問題であろう。
 最後に、今になって振り返ってみれば、学問的な業績よりも、今でもなお私の頭の中で異国の文化と文化がきしみあって、まだ続いているといった状況これこそが留学、日本を離れて生活する最大の意義であることを痛切に感じるのである。
[略歴]昭和52年弘前大学医学部卒業。54年東北大第三内科入局。57年〜59年フランス留学。61年東北大助手。6210月仙台鉄道病院第二内科勤務。