□スカイ・クロラ 感想
http://sky.crawlers.jp/index.html

押井守監督の作品としては、びっくりするぐらい正攻法で素直な映画。
たっぷり見れる迫力のある空戦とか、キルドレというミステリアスな存在の真実が、徐々に明かされていく構成とか、登場人物の不安と苦悩とか、、「観客に見てもらいたいもの、理解してもらいたいもの」がきっちりわかるようにかかれていて、難解なところはあまりなく、ほんとに押井作品かいなと、思わせる反面、全体的な温度の低さが災いしてかエンターテイメントとしては、やや退屈。
この映画がどこまで受けるかどうかというところは正直微妙。
ただ、押井作品を理解する、あるいは楽しむためには、「いつもの押井」の芸、すなわち犬だの鳥だの魚だののイコンや、繰り返し紡がれる虚構と現実のモチーフを知らないと、いかんともしがたいというのが持論なんですが、おそらく今回の映画はそういうものを、知らなくてもすんなり見られる。
小難しい長台詞もない、話の筋もわかりやすいし、世界観も複雑なわけではない。
それでいて、「いつもの押井」も健在。
なので、押井作品初体験者には、とても入りやすい映画なのではないかと思います。

ただ、そういう人がこの映画を見てどういう感想を持つかは、自分にはわからない。
そしてこの映画に込められたメッセージをそういう観客によってどう受け止められるのか、がポイントであって、それがわからないかぎり自分にはこの映画の評価をしようがない、そう思いました。

そのことについてちょっと詳述します。

この映画で押井は「若い人たちに伝えたいことがある」「真実の希望を伝えたい」と映画のパンフでも語っている。
これだけメッセージ性にこだわった発言をする押井を自分はほとんど知らないし、それだけにこの作品の特別性、押井監督の本気度を感じ、かなり構えて見にいきました。
ところが、見終わった直後の自分の感想は「この映画のどこに希望があるんだ?」というところで、しばらく悩みました。

いきなりオチのネタバレを書きますが、映画は、「ティーチャー」と呼ばれる絶対に倒せない敵方のエースパイロット(つまり戦っても何も変らない大人社会の象徴)へ戦いを挑んで、カンナミが死に、代わりに、カンナミによく似たキルドレがクサナギの元に赴任して終わる。
キルドレは、クローンか何かの一種で、戦死しても、保存された戦闘データやパーソナリティを上書きされて蘇ってくる、ということがわかり、クサナギによって、救いのように語られた「死」すらも、永遠に続く生の終わりを意味しない。
かわりにカンナミは繰り返される同じような日常でも些細な変化はあり、そこに価値や希望はあるという。

見終わった直後は、「死」ですら終わりではない無限地獄のどこに希望があるんだ?とかなり当惑した。
「死」すら日常の些細な変化のひとつにすぎないものだというなら、死と生の間の価値に1mgくらいの差しかないようにしか見えず、その1mgに真実の希望を見出せというのは、ものすごく残酷なことなのではないのだろうか?
それは、生きることへの絶望を通り越した諦念にしか見えない。
キルドレの存在は、それこそ綾波レイの「私の代わりは他にいるもの」というあれで、その自分という存在の代替価値の低さ、生の薄さが若者の茫漠たる不安の元で、それが「死」への欲望を掻き立てる原因であるとするなら、「生と死の間の価値には1mgしか差がない」という真実を突きつけられることに絶望しはしないだろうか。
「生と死の間には1mgの差があるから生には価値がある」と、そこに希望があると思うのだろうか・・・
と、ここまで考えて自分の考え方の間違いに気づいた。
繰り返される日常からの逃避が死への欲望を掻き立てる、しかし、「死」は救いにならないことをこの映画は突きつける。
ならば無限に続くと思われるような生の中で、些細な出来事の中に価値や希望を見出して生きていくしかない、と。
ここまで考えて、やっとこの映画が何を伝えようとしたのかが見えてきた気がする。

個人的には、もう若者とはいえない自分には、その1mgの真実の希望というのは、実際のところよくわかる。わかるんだけれど、それはそれなりに生きて絶望感も経験して、諦念を手に入れた者にしか受け入れられない真実なんじゃなかろうかと。
それをここまでストレートに描いてしまっていいものなのかどうなのか・・・

ただ押井監督も、ありきたりな「希望」とか「夢」とかいう世間にあふれる励ましのメッセージが空虚で、胡散臭いものでだと当の若者たちが感づいていているということをわかりきった上でこの映画を作っているということもわかる。
そういう空虚なありきたりのメッセージでは意味がない、それこそ、「耳をすませば」を見て自殺したくなるっような人たちに向けて、真実を語ろうとしている、それだけに、この映画は、押井監督にとってすごく誠実なものなのだろうなとは思う。
参考:http://anond.hatelabo.jp/20080716061204

正直、この押井監督のメッセージが当の「若者」にどう届くのかまったく未知数で、どうにも判断を保留するしかない。というのが見終わってあれこれ考えた現時点での結論です。


ここからは、若かった頃の自分と押井作品を絡めての感想

「虚構と現実の二重性」「繰り返される終わらない日常」「自分は何者で、どこから来てどこへいくのか」「胡蝶の夢」・・・
今回の映画でも、キルドレの存在のあり方が、この「いつもの押井」のモチーフそのもので、押井好き的にはニヤニヤするところなんだけど、今回はいつもとちょっと違う気がした。
というのは、そこにメッセージ性が絡んできているからだ。
過去の作品だと、このモチーフは、キャラの心情的な何かと直接リンクするものではなかったと思う。
押井のこのモチーフは、現実と虚構の二重性を暴く為のものであったり、受け手の世界のあり方の価値観に変容を迫る装置として機能するものであったり、あるいは単なる繰り返しの戯言といったものでしかなかったように思える。
しかし、キルドレたちは、未来も過去もない永遠に繰り返される生の中で茫漠たる不安を抱えており、登場人物たちに大きな負荷を与える装置とし、やや否定的な色彩を帯びている。そのことに軽く違和感を感じながら見ていた。

押井作品を振り返って自分にとって「ビューティフルドリーマー」がそうだったように、不透明で不安定な未来を否定して、永遠に続くモラトリアムを生きるという夢は本当に悪夢だっただろうか?
「もしかしたら今生きている現実の自分は夢の存在でしかないんじゃないか」
「虚構と現実は等価である」
といった妄想は、生きることを不安にさせるものではなく、逆に生きづらい現実をやり過ごす、魅惑的で甘味な麻薬であり、希望だったんじゃないだろうか。

カンナミは何度戦って死んでも、何度も何度もクサナギと出会い、肌を重ね、時を過ごすことが出来る。それも、思春期の心と体のまま。
それは見方を変えればとても魅惑的で幸福なことではないのだろうか?
少なくとも自分にとって押井作品の中にある真実の希望とは、あの甘味で魅惑的な妄想そのものだったのではないだろうか、と・・・

(記 2008/8/6)




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