「コメットさん☆」とは何だったのか?

はじめに

私にとって「コメットさん☆」は「大好きな作品」です。

「面白い」という感想や「好み」という嗜好ではなく、はっきりと感情的に「好き」なのです。

ここ数年でも「好きな」作品はありましたが、その思い入れの度合いは段違いです。

大げさにいってしまうなら私にとって十年に一度の作品かもしれません。

ということでここでは

「何故自分はこの作品をこんなにも大好きなのか?」

「自分にとって『コメットさん☆』とは何だったのか?」

ということを考えていきたいと思います。

「至好回路」とはそもそも、その疑問を解明することに当初の目的がありました。

そして「コメットさん☆」はようやく現れた、それをなすべき作品なのです。


第5回

「位置」

2002.5.8 up

冒険やファンタジー、バトル(スポーツ的な競技も含めて)を中心とした非日常的な物語に対して、基本的に日常的な出来事を積み上げていく物語は、全体的に地味な印象に陥りがちで、またそれを支える演出や脚本に余程の力がないと視聴者を惹きつけることは難しい。

TVアニメは、スポンサーや視聴率の壁もあり、NHKを除く民放では、倦厭されがちなジャンルとなってしまっている。
日曜7時半という枠で長年、日本アニメーションで制作されてきた「名作劇場」が97年「家なき子レミ」を最後に終了してしまったことは、その象徴的な出来事だろう。

結果的にエキセントリックなストーリー展開、派手なアクション、過剰なセックスアピール、やたらとテンションの高い気質のキャラクター、トリッキーで凝った演出など、視聴者の興味を惹きつけるべく刺激性の強い作品が幅をきかせている。
その好悪は別として、そういった作品が求められ、それに応じて製作されている現状は市場原理として仕方がないし、今のところ覆しようがない。
もちろん、アクションもセックスアピールもを内包しビジネスとして成功させながらアニメ作品としての価値を十二分に持ち合わせた作品も存在してるし、リスクの高いアニメ製作において、そちらの方が優位にたつことも当然でそれは理解できる。
それは、娯楽として、エンターテイメントとして重要なことで、否定する気はさらさらない(むしろそういうものがない物はどうかと思う)が、そればかりが過剰な作品が蔓延すれば、食傷してまう。

現在のアニメビジネスを取り巻く環境から考えれば、娯楽として抑制の効いた「地味」な作品は、TVアニメというジャンルの中では圧倒的に不利で、成立しづらいのだろう。故にそういった作品は数が少なく、その中で良作もまた稀少だ。
それを求めるのは、それこそ個人の趣味嗜好の問題でしかないのだが、「稀少」であるからこそ、飢餓感からくる渇望は、よりいっそう強まってしまう。

「コメットさん☆」は、その空白にポンと予期しないところから現れた作品なのだ。


はっきり言ってしまえば、「コメットさん☆」は過去に人気のあった知名度のある作品のリメイクとして作られ、それによる話題性、魔法少女モノという女児向け玩具アニメの定番などを「売り」として企画された、良く見かけるありがちでベタなものだ。
リメイク・続編ものはアニメにおいて、ビジネス的打算が優先的で、内容がともなわない作品の事例は枚挙に暇がないのが実情だ。
だから、実際放映が始まる前の私の印象も、「またリメイクか」という冷ややかなものだった。
しかし、蓋を開けてみれば

ファンタジーを基本としながらも地に足の着いた日常的テーマを中心とした物語。
感情面を大切にした落ち着きのあるキャラクター。
それらを描写するための地味ながら力のある演出。

などなど、制作スタッフは、必ずしも「売れる」とは限らないスタイルを選択し、ありがちなベタな企画の枠の中で、「娯楽として抑制の効いた地味な作品」に、敢えて挑んでいる。

現在のアニメの主流に逆らっているというその自覚(は確実にあったと思う)が、熱意となって作品の丁寧さ誠実さとして画面に定着したのではないだろうか?

この作品は種々の要素の組み合わせ、引っ張り合いから生まれた偶然性によって形作られている。
「コメットさん☆」という作品は、今現在の幾多あるアニメ作品の中で、稀な存在であり独特な位置にある。
おおげさに言えば孤高の存在なのだ。

「コメットさん☆」が「コメットさん☆」足りえたことは「奇跡」なのかもしれない。


第4回

「演出スタイル」

2002.3.31 up


「コメットさん☆」の演出スタイルは、一言で表現するなら大人っぽい。

フレーミング、情景描写、間の取り方などによく気が配られ、キャラクターの細かな芝居、表情とカットのつなぎ、声優の演技を含めて、キャラクターのしゃべっている台詞の裏にある微妙な心理を観客に読み取ってもらうように作られている
映像作品としてそれは必ずしも珍しいことではないが、これが子供番組だと考えると、そこそこの理解力、読解力を要求されるシーンの多さ、その作風は妙におとなっぽく感じられるのだ。

見るからに子供番組のその内容と大人っぽい演出スタイルの共存。
これが「コメットさん☆」の持つ魅力のひとつではないだろうか?

けれど、正直これは、あまり子供向けTVアニメに適した演出法ではないのかもしれない。
映画と違いTVは誰しもが画面に集中して最初から最後まで見てくれるとは限らないからだ。
細かな芝居、表情とカットのつなぎで情感を描いていても、視聴者がそれを見逃してしまう可能性もある。
だが、これは記号的、表面的な喜怒哀楽以上の感情を視聴者に伝える為に適した方法であることは確かで、子供の感受性と演出の要求に応えられるスタッフを信じられるからこそできることで、敢えてそのスタイルを選んだことの意味は深いのではないかと思う。

では、そういった演出スタイルをとっているから「コメットさん☆」が特殊なのか?というと、そういうわけでもない。現実的、日常的な世界観、設定を基本とし作品なら(上手いか下手かは別として)ごく普通に用いられている方法論だろう。

「コメットさん☆」という作品の特殊な所は、空想的、マンガ的な世界観の物語に、この演出スタイルが用いられている点で、そういった作品は必ずしも多くはない。

空想的世界、ファンタジーを描いた作品の中には、最初からその大きなウソに甘えて、「現実」を何一つ照射しせず、本当にただの絵空事でしかないものがよく見受けられる。無論それを良しとすることで成り立つ作品もあり、それもひとつの方法論だ。
が、少なくとも私はそいうったものにさほど魅力を感じない。

では「コメットさん☆」はどうか?

「星の国のお姫様が魔法を使って大活躍!」なんて話を絵で描いて見せても、誰もリアルだとも、ホントのことだとも思わないだろう。
しかしコメットさんという主人公の自然な感情の流れが積み重ねられることにより、観客は少なくとも作品を見ている間は、その主人公がが作品世界内で息づいていると感じ、大きなウソで作られた世界を許容してくれる。
つまり空想的、非現実的なファンタジーを世界観としながら「記号的、表面的な喜怒哀楽以上の感情を視聴者に伝える為に適した」演出スタイルを取っていることが、ここで、生きてくるのだ。
現実の生々しい「リアルさ」でもなく、極端に記号化された「マンガ」でもない。
空想的日常世界の理想化された主人公をホントっぽく描く。
それがコメットさん☆という作品のスタイルなのではないだろうか。


第3回

「対象年齢」

2002.3.8 up 

「コメットさん☆」の物語の大筋は「魔法の国のお姫様が王子様を探しに地球にやってくる」というメルヘンティックで子供にとってとっつきやすく理解もしやすいものではないかと思う。
「魔法の国のお姫様」という時点で、対象年齢は主として3才から6才、上まで入れても小学1年生ぐらいとみるのが妥当だろう。

事実、脚本のおけやあきら氏は視聴対象を3〜4才として考えていることをインタビューの中で語っている。(「otomeX vol.1」ホビージャパン刊参照)例えば「わくわく動物園」「きらきらにすむ妖精」など日常を一歩踏み出したファンタジーを描いた回は、ねねちゃんつよしくんと同世代の子の視線から見ても、楽しい話だと思える。

けれど、実際には物語の後半、「王子様探し」を軸にケースケとコメットさん☆の関係、イマシュンとメテオさん★の関係がドラマの中心になっている。これについては、小学生中学年か高学年の女の子には共感できても、幼稚園以下の小さい子には少し理解しがたいのではないだろうか。

コメットさん☆の12才という設定年齢と恋愛要素から考えても、おそらく少女向けとして、実際には小学3,4年生ぐらいまでを対象の視野に入れていたのではないかと考えられる。

しかし、コメットさん☆の性格設定が、現代の小学生から共感をかち得るキャラクターとは思えない。
お姫様という特異な立場、その為地球の(日本の)日常的常識を知らないという浮世離れした純粋無垢なキャヤクター、礼儀正しく、落ち着きのあるその立ち振る舞いは、むしろ大人が理想とする少女像といえる。

「明るく元気で、友達思い、ちょっとおっちょこちょい。どこにでもいそうな身近なの女の子。」
そのキャラクター像は、例を挙げるまでもなく、少女向け作品で今のところ定番化してしまっている。だが、それだけに、これがやはり一番最大公約数的で幅広い年齢層の女の子が親しみしやすい作りなのだろう。
物語とキャラで同世代の女の子の共感を得つつ、変身やバトルのキャッチーな部分で低年齢層に玩具をアピールする。
最近のヒット作品はおしなべてこの原則に沿っているのではないかと思う。

要するに「コメットさん☆」は、この原則から逸脱しているのだ。
ただ、このコメットさん☆の性格設定もラブコメ要素を最低限に抑えて、あくまでも子供向けのメルヘンとして割り切って作り、ネネ&ツヨ(と同世代の子)から見て「素敵なお姉さん」という位置であればそう問題ではなかったのかもしれない。
しかし、実際には、この「子供向けのメルヘン」や「コメットさん☆の性格付け」と「恋愛要素」は、相反する形で作品に共存している。

完成した作品の獲得したバランスは、作り手の「作りたいもの、子供に見せたいもの」と「ビジネスとして成功させるため」のぎりぎりの選択の結果だったかもしれない。
個人的には話の内容を低年齢層にしぼって、前半の「ゆっくり王国作り」のような話が最後まで延々続いてくれても良かった。が、前半のあまりに地味な(無論自分は大好きだが)展開を見ていると、余りの子供に対するアピールの少なさに、その視聴率を危惧してしまったのも確かだ。

しかし、ラブコメを物語の中心のひとつに持ってきている為に、かえって作品を見てもらいたい年齢の中心がぼやけてしまって、どっちつかずなものになってしまった印象もやはり拭えない。
これでは、子供向けの玩具宣伝番組としては失敗なのかもしれない。


だが、子供でも、女の子でもない自分が、大人の視点で見てしまうと、子供向けのメルヘンとしても、少女向けのラブコメとしても十分楽しめてしまう。
それは、対象がはっきりと定まっていない「ゆらぎ」があったが故に、期せずして作品が多層的な「面白さ」を獲得したからなのではないだろうか?
形式化されたヒロイン像や、対象をぎりぎりまで絞って作られた作品では、味わえる「面白さ」は単一になってしまいがちで、下手をすると「甘いだけ」「辛いだけ」の味しかもちえない。
それに対して「コメットさん☆」は、バランスの取れた「美味い」作品、味わいのある作品だったのではないだろうか。


第2回

「玩具宣伝番組」

2002.2.15 up 2002.3.1 修正

近年、アニメファンをターゲットにし、ビデオソフトやキャラクター商品のセールスを前提としたTVアニメの数は増加したが、一方でTVアニメの主要を占める大手出版社の漫画原作のアニメ化と玩具会社をメインスポンサーとした玩具宣伝の為の作品は依然として一定数作られている。
その中で、ロボットアニメはいわばこの「玩具宣伝番組」のスタンダードであり、「魔法少女アニメ」は少年向けのロボットアニメに対して少女向けのスタンダードとして数多く作られてきた。
ところがこの「玩具宣伝番組」という言葉は「30分間オモチャのコマーシャルをしているだけの代物」という意味で蔑称として主に用いられている。
しかし、漫画原作作品がキャラクターやストーリーなど原作の枠を逸脱するのは難しく、アニメ制作者にとって自由度が極めて制限されるのに対し、「玩具宣伝番組」はスポンサーである玩具会社の提案する商品の宣伝が成り立てば、キャラクターや世界設定、物語に関してある程度の自由度が与えられる。
結果として「玩具宣伝番組」と揶揄されながらも、否そうであるが故にアニメ制作者の奮闘の結果、その中から過去幾多の傑作が誕生した。
それは「機動戦士ガンダム」の例を挙げるまでもないだろう。
「玩具宣伝番組」が、漫画や小説のアニメ化よりも自由度が高いとはいっても、自由度に関してはアニメファンを対象に作られるオリジナル作品の方がより高いのも確かだ。
だが、そこには、玩具宣伝番組とは異なって、売れるソフト及びキャラクター商品を展開するため「玩具」とは別にファンの需要、要求に応えるキャラクターやストーリーを供給しなければならないという別の制約がうまれる。まったくの自由というわけにはいかない。
これはビジネスとしての一長一短であって、「アニメ」としてどちらがいいか悪いかという問題にはならないだろう。ただ対象となる観客が異なることとビジネスとしての目的性によって、自由と制約が規定され、作品の内容や方向性が決まってくるにすぎない。


自分にとって、アニメの面白さとは、「子供向け」とか「大人向け」「マニア向け」などの対象の括りに左右されるものではない。
「大人向け」「マニア向け」に作られていてもつまらないものはつまらない。むしろ子供向け「なのに」、「だからこそ」面白いアニメはいくらでもある。
アニメにおいて、大人向けに作られて、高い文学性やテーマを持った作品だけが価値をもつわけでもなく、「子供向け」であるというだけで価値がないことにはならない。
同様に「玩具宣伝番組」だからといって価値がないことにはならないはずだ。
いい年をした大人のアニメファンが、子供向けの玩具宣伝番組をわざわざ見ているのは、普通の人達からみればまったくの奇異にみえるかもしれない。
しかし、それは、それらの作品から、傑作が誕生する可能性があることを知っているからであり、それを信じ待ちつづけているからなのではないだろうか?
つまるところ自分にとって待ちつづけたその傑作が「コメットさん☆」だったのだ。
そして、その作品に携わった制作スタッフの技術や実力、才能は「子供向け」「玩具宣伝番組」といった表向きの括りに何の影響も関係もない。
それだけは確かだろう。


第1回

「魔法少女」

2002.1.31up 2002.2.15修正

自分が何故「コメットさん☆」に入れ込んでしまうのか?
というひとつの答えが「魔法少女モノであるから」ということは、否定しようがない。(無論、それだけが理由というわけではないが)

しかし、ここ数年間を見ても「魔法少女モノ」にカテゴライズされる作品は、何本も作られている。同時期に「おジャ魔女どれみ」という良作が存在するにもかかわらず、それを追い越して「コメットさん☆」に惚れ込んでしまったことには、別の理由があるはずだ。
「コメットさん☆」という作品は、アニメというジャンルの中で、繰り返し作られてきたひとつのカテゴリー、所謂、「魔法少女アニメ」に属することに、異論はないだろう。
しかし、一口に「魔法少女」といっても、そのジャンルの中で、変遷を遂げ、様々なバリエーションを生んでいる。

70年代の「魔法使いサリー」「魔女っ子メグちゃん」に始まり、80年代、「魔法のプリンセスミンキーモモ」において「変身してオトナになる」というエポックが生み出される。
さらに「クリィミーマミ」では普通の女の子が魔法を手に入れるという日常的ファンタジーが描かれ、等身大の少女を描き、ジャンルとしていったん円熟を迎える。
そして、魔法少女アニメは、90年を境に大きく様変わりする。
そのきっかけとなったのが「美少女戦士セーラームーン」の登場である。
「セーラームーン」は「魔法のアイテムで変身する」という70年代、80年代に培われたパターンを踏襲しつつ、襲いくる敵を必殺技で倒すという、ヒーローモノの要素を付加することで、新境地を開き爆発的ヒットを飛ばした。
さらに主人公以外に脇を固める準ヒロインを複数配置することで、それぞれのキャラクターにファンがつくという形で、アニメファンを大量に取り込み、「キャラ萌え」の基礎となるものを確立していった。

以降「セーラームーン」を雛型とした「美少女バトルモノ」は全盛を迎え、少女向けの玩具アニメの多くが、この体裁をとり、「魔法少女」とは一線を画するカテゴリーを生み出した。(ただ大枠では「変身魔法」であり「魔法少女」にカテゴライズされると考える。)
そして、この流れは、オタク的に「魔法少女」「変身美少女」というジャンルが、「萌え」要素として、確実に認知され、ひとり歩きをはじめる結果となる。
その例の一つが「天地無用!」のパロディ企画から始まった「魔法少女プリティサミー」だろう。OVAから始まり、TVシリーズまで作られた本作は、ずばり「魔法少女」と銘打たれているのにもかかわらず、基本的には「美少女バトルモノ」の形がとられており、視聴、消費の対象は、元となる「天地無用!」シリーズのファンとオタクだけとなる。「セーラームーン」や「ミンキーモモ」、「クリーミーマミ」といった作品が、あくまで少女玩具の宣伝番組として少女向けに作られ、その上で、アニメファンが、それらをオタク的に喜ぶ、という構造を持っていた。が、「魔法少女」というカテゴリーがオタクの間で認知浸透すると、今度はその表層的な記号が流用され、作品が作られるケースが増えていった。(アニメにかぎらず、ゲーム、漫画でこの手のパロディネタは多い)それらは、子供の頃から「魔法少女アニメ」を見て育ったオタクの欲求に応えた作品であり、その登場は必然的だったといえる。

そんな中で奇跡的に良作として登場したのが、「おジャ魔女どれみ」であろう。「セーラームーン」からバトルモノの要素を抜いて主人公の年齢を下げ、視聴対象の年齢も若干下げられている。作画や演出のレベルも、トータル的に高く、シナリオも学校や友達関係など小学生の日常的な生活に重点が置かれ、時に道徳的、教訓的要素も盛り込みつつ、明るく楽しい子供番組として良質に仕上がっている。なおかつオタクが喜ぶキャラ萌え要素も捨てていない。「どれみ」は「魔法少女アニメ」の現代の一つの到達点といっていいだろう。
しかし、この90年代の十年間は私にとって、くすぶり続けた期間だった。それは、この「美少女バトルモノ」のカテゴリーに属する作品に対して、私自身が、今ひとつ乗り切れなかったことに大きな原因があった。

それは、私自身が「魔法少女アニメ」に思い入れを抱くきっかけになる作品が「ミンキーモモ」(初代)であり、その後の「クリィミーマミ」をはじめとするスタジオぴえろの魔女ッ子シリーズの洗礼を受けてきてしまったが為であり、その時代の作品の持つ雰囲気への郷愁と思い入れをどうしても、捨てきれないで、今まできてしまったからだ。
スタジオぴえろ魔女ッ子シリーズの伝統を継承した「ファンシーララ」も、シリーズに対する思い入れが強すぎた為か、必ずしも満足はできなかった。「良作」であるという認識の元にある「どれみ」ですら、好きなことは好きでも、全肯定してのめり込む作品ではなかった。その心のくすぶった、煮え切らない現状にまさに彗星のごとく現れたのが「コメットさん☆」なのである。

「魔法の国のお姫様が人間界にやってくる」などの王道的設定にみられる古典的味わい。
少女向け、子供向けのメルヘン・ファンタジーの体裁をとりつつ、配慮の行き届いた脚本と演出で描かれる少女の心の内面や成長。
そして、オタクが喜べる要素の適度な配置。
これらは、80年代の「魔法少女」の特質であり、自分が、一番心躍らせて、見ていたアニメの構造そのままである。
そして、作品とコメットさん☆というキャラの持つ、ゆったりとした、優しい落ち着きのある雰囲気が個人的な嗜好にすこぶるマッチしていた。

過去十年間、常に心の底で求め続けながら得られなかった「理想の魔法少女アニメ」、この作品はその理想に限りなく近づいた作品なのだ。
客観的に見ればそれは、年を重ねてしまったアニメオタクが、自分が好きだった過去の作品を投影して勝手な期待や過剰な思い入れをしているだけなのかもしれない。
ただ「コメットさん☆」という作品の底に、その「自分が好きだった過去の作品」が持っていた普遍的価値が存在することを確信している。
それがなければ過剰な思い入れなどできはしないのだから。


(2001年夏コミ発行「コメットさん☆本」より加筆修正)