これは想像の域を出ませんが、まずは共進亭という西洋料理屋があり、そこからホテルへと移行していったようです。福岡の近代化という文章の中に
『第13回九州沖縄八県連合共進会が、1910(明治43)年に福岡県の主催により、肥前堀(ひぜんぼり)埋立地(現アクロス福岡周辺)で開かれました。この共進会を契機として、福博電気軌道(ふくはくでんききどう:旧市内電車の貫線)の開通、博多駅の改築、県公会堂の建築、抱洋閣(ほうようかく:福岡初の洋式ホテル)の建築等が行なわれました。また東中洲には、一杯飲屋をはじめ精洋亭(せいようてい)・共進亭(きょうしんてい)などの西洋料理店も開業しました。福岡市が九州第一の大都市をめざして踏み出すきっかけをつくったイベントでした。 』
という記述もある。共進亭ホテルが開業するのは1929年。おじの年齢が定かでないのではっきりとしたことは言えないが、曾祖母の生まれが明治4年ということを考慮しても開業当時60歳前後であったと考えられる。先の葉書の説明書きにも書いたが、JTBへの移譲は真平おじが亡くなったからと考えたほうがすっきりするように思う。