羽織より
 紙衣の似合ふ
 齢かな
はおりより
  かみこのにあふ
  よわいかな
父如瓢の還暦に
初雪や
  鹿食の箸を
 膳の上
はつゆきや 
 かじきのはしを
   ぜんのうえ
旧居に帰りて
父の記憶の中から作られた自作の本があります。そこには、家の事・自分の事・祖父や家族の事そして郷土の事が書き記されています。

その本の中から抜粋して書き溜めようと思います。まずは《曾良庵》の事です。
「曾良庵」とは。   (家記考)より
 
さて諏訪は芭蕉翁と奥の細道を旅した河合曾良の生まれた土地で、その為か昔から俳句が盛んであった。系列も一つではないらしいが、

江戸中期に【藤原文輔】という人がいた。上諏訪の人で和泉屋喜右エ門といい、盛んに俳道の復古を説き、曾良の後継をもって自ら任じ、蕉門

四世曾良庵と名乗って天明の頃『穂屋野の春』という機関紙を発行した。その弟子の中に【顕湖亭文嘯(ぶんしょう)】という人がおり、この人が

曾良庵を継ぎ、次に【茶山】という人を経て、【雪人】が受け継ぎさらに祖父【一太郎】にさづけられたらしい。昭和60年ごろ、岡谷の親戚鳴沢偉次君

が他から調べてきて一太郎に辿りつき、名跡を継いだ時に文台(文机)が渡っている筈だというのだが、まったく記憶にない。現実にあるべきなら

ば、東京にあったのかもしれない。しかし、雪人師のお墨付きともいうべき一文が「曾良庵句集」の跋文に残っている。それが、下の文である。
                                                   
                                                          (父 日出男文)
守矢唯一(ゆいつ)叟(そう)は鵞湖俳壇の耆宿(きしゃく)也。小にして才を負て敏甚、其残(きざん)に滑稽を学びて、夙(つと)に其の名を馳(は)す。

芸を百家に遊ぶ。ひとり蕪村が正声を賞して神と共に遊ぶが如し。余東都に在るの日叟亦上京して、塵事に奔走す。然も尚箇事を忘れず実によく

見性の域に入れり。余為に曾良庵の号を贈りて之を祝す。此号は曾良翁の俳系文輔・文嘯・茶山を経て余の家に伝えしものなり。

今年叟余が湖畔の寓を訪れて、年来の吟詠を採輯せしを録して以て示される。蓋しその還暦を記念せんとするなり。閲して嘆じていわく是集や、

叟が各時代の風調を網羅して綽として特見あり。所謂自家の醜を自家の発するものなり。

以て自伝に代ふべく以て児孫に胎(のこ)すべしと、叟亦うなづく。仍(よっ)て顛末を記して序となす。
                                                  
                                                                   昭和辛未年七月
                                                                       諏訪 雪人 誌
諏訪には大正初年から、根強く自由律俳句を作り続ける人達がいた。昭和15年の暮れにその中心的存在であった山田蒲公英(ほこうえい)さんが

「海紅」主宰の中塚一碧楼先生をお招きして、諏訪の句会を開催した事があった。その句友達の多くは父のかつての句友でもあり、父は誘われて

この会に参加し、この時から再び「海紅」に同人として迎えられる事となった。