「俺行かない」
 シンから吐き出されたその言葉に、キラの動きがぴたりと止まった。



 戦争が終わり、キラとシンの間にも色々なことがあったが二人が一緒に住むことを決めるのに時間はかからなかった。二人はラクスの勧めで良い地域に建てられた快適なマンションに一室を借りていた。二人ともザフトに所属していたが今はラクス付きの軍人であるからプラントの外に出ることはあまりなかった。だから日々この部屋から二人で仕事場に出勤しそれぞれこの部屋に帰ってきていた。世界は新たな紛争の火種もなく、かつてよりも余裕の出ているザフトだったので兵士への拘束時間も減っている。もちろんそれでもキラはラクスの下で働いているのでラクスの部下として信用の証として、極秘事項から瑣末な事項まで様々なことを任され日々を忙しく過ごしていた。そしてシンもそんなキラの下で働いている。モビルスーツに乗る必要のなくなった二人ではあったが、ザフト内でも一、二を争う優秀な腕であったので、強制されることはなかったが二人とも訓練の手を緩めはしなかった。何かがあったときに大切なものを守りたいという想いは二人にとっても共通のものであったからだ。
 だからこそキラは困惑していた。先程シンの口から漏れた台詞に驚きを隠せない。「俺行かない」とはっきり告げたシンの意図が掴めなく、疑問だけが迷子の子犬のようにキラの頭の中を駆け回る。先ほどまでのキラは、白い隊長服を着ながら朝の準備でばたばたと慌しく部屋を行ったりきたりしていたのだが、今はシンの前で動きを止めシンをいぶかしんで見つめていた。
 シンはソファに足を上げて膝を折りたたんだ状態のまま行儀悪く座っている。その腕の中には大きな赤いクッションが強く抱き込まれていた。仕事に出かける気配はまったくない。シンはクッションに顔をべたりと貼り付けてもう一度念を押した。
「俺行かないから」
「シン?」
 キラは訳が分からなくて自然と表情が曇っていく。キラが思い返す限り、昨日から今日にかけてシンや自分に特に変わったことはなかった。昨日もいつも通り二人で基地に出勤し仕事をこなし二人で帰ってきたのだ。家に帰った後はシンが作ったご飯を食べて二人でテレビを見て一緒に寝る。それだけだ。いつも通り仲良く、たまに甘い雰囲気になる。そんな状態で作られる心地の良い空間、そして愛し愛される日々だ。つまり昨日は二人にとっては極普通の一日にすぎなかったはずだ。だからこそ今日の朝になってシンが突然このようなことを言う理由がキラには皆目わからなかった。
 軍服の襟をとめて整えながらキラは首をかしげる。
「行かないってどういうこと?もしかして具合が悪いの?」
「違う…」
「だったら何で」
「とにかく行かない。俺行きたくない」
 シンはそう言いながらもクッションから顔を上げないで、ただ子供のように顔をそこに貼り付かせたままキラとも視線を合わさずてこでも動かなそうだった。寝起きで整えもしてない漆黒の髪はぼさぼさでところどころ跳ねており、服も寝巻きのまま着替えるそぶりもない。キラは時計をちらりと見てそろそろ本気で接する時だと悟り、少し怒ったようにシンを見据える。
「シン、いい加減にして。理由がないのに行かないなんて仕事なんだから許されないよ?」
「許されなくたって行くもんか」
「シン!」
 減らず口を叩くシンにキラは厳しい声で応じる。もしかして具合が悪いのを隠してこんな態度なのかとも思ったが、今日の朝ベッドで触れたシンの体温はいつもと同じで異変はなかった。それにキラの見たところシンは具合が悪いのではなく感情的なものでこうなっているように感じられ、再びキラの頭に疑問が浮かぶ。ザフトで何かがあったわけでもない。現在のキラたちの仕事は危険もなければ不快なこともない仕事だ。シンはいつも一生懸命キラの下で働き、少しでもキラの役に立とうと頑張っていた。そこまで考えてキラは困惑を脱し落ち着きを取り戻した。やはり今日のシンはいつものシンではないと気付いて心配になる。だからゆっくりとシンの前に立って、頭を俯けているシンに柔らかく尋ねた。
「シン、本当にどうしたの?僕、何かした?それとも君に何かあったの?理由を言ってよ」
「別に」
 しかしシンは感情の窺えない声で意味を成さないことを言うだけだった。キラにまったく応じる気のないシンに、それでもキラは状況を理解しようと懇願するようにもう一度呼びかける。
「ねえ、シン…」
 シンはクッションに顔を貼り付かせたまま体を僅かにこわばらせる。
「別に…。ただ行きたくないだけだ」
「だからどうして?」
「理由なんてないっ」
 しつこく尋ねてくるキラに、淡々とではあったがシンはクッション越しに少々乱暴にそう吐き捨てる。そのそっけない返事にキラは一瞬体をびくりとさせるがややあって小さく溜め息をついた。そしてくるりと反転しシンから離れていく。そのままキラはテーブルに置いていた自分の鞄を手に取り最後の持ち物チェックをする。それも完了して部屋の出口へと向かい扉に手をかけた。扉の取っ手も扉自体もシンがいつもしっかりと掃除してくれているのでぴかぴかだった。キラは綺麗に磨かれた取っ手を下に押して扉を引き、まさに部屋を出ようとしていたのにシンは一向に何の反応も示さなかった。扉をくぐる直前キラは納得のいかない不機嫌な顔でシンを振り返る。キラが振り返っても、シンは相変わらずクッションをぎゅうっと抱いたまま視線を床に投げていた。
「シン、じゃあもう君の好きにすればいいよ」
 それでも無視を続けるシンに、キラは扉をすり抜ける前に冷たい言葉を投げかけた。
「でもね、君のしていることって子供そのものだよ」
 その言葉にシンはがばりと顔を上げてキラの姿を追う。しかしそこにはもはやキラの姿はなかった。扉はキラの手を離れ、きしみながらゆっくりと閉まっていく。シンの指がクッションに深く食い込みクッションが痛そうに歪んだ。シンはそこにもう一度ばふんと顔を埋めて沈黙の部屋にぽつんと一人留まった。





 ラクスは珍しく苛々した様子のキラを和やかに見つめていた。キラがこんな風に負の感情を表に出していることはあまりなく本当に珍しいことであった。特に戦争が終わりひとまずの平和を享受している今、キラを悩ませることはそんなにあるわけではないのだ。
「今日のキラは何か心配事を抱えていらっしゃるようですわね」
「ラクス、ごめん…」
 キラはラクスに勘付かれるほど自分が仕事に打ち込んでいなかったことに気付き、書類から顔を上げ申し訳なさそうに謝った。それでもラクスはそんなことは気にならないのか穏やかに首をかしげる。
「どうかなさったのですか?」
「うーん、まあ…」
 キラは煮え切らずに小さく呟き本日何度目かの溜め息をつく。ラクスの専用ルームはとても明るく、輝く電光はまるで春の陽光のように部屋中を照らしていた。キラは落ち着かなげに立ち上がり持っていた書類を近くの棚にしまいこむ。そしてそのまま心ここにあらずという表情で視線をぼうっと無意味に漂わした。ラクスはザフト側から用意された大きな椅子に上品ながら堂々と座っており、そんなキラを柔らかく見つめている。そうしてキラはいくばくかした後、ラクスの視線に応えるようにぽつりと言葉を漏らした。
「シンが今日ザフトに行かないって駄々をこねたんだ」
「まあ、そうでしたの」
 情報網をたくさん持っているラクスは実はそんな情報はとっくに知っていたがまるでいま初めて耳にしたとばかりに相づちを打った。キラはそれには気付かず視線を棚に預けたまま淡々と言葉を吐き出していく。
「僕が理由を聞いても何も言わないんだ。ただ行きたくないってそれだけ。そんなのいつものシンらしくないじゃない。シンはいつだって人一倍仕事をして、いつだって人一倍モビルスーツの訓練をして、家に帰っても色々家事やら雑用やらやってくれてさ。本当にいつも動き回っている元気な子なのに、何で急にこんな……」
 キラの言葉にラクスはゆるりと微笑んだ。
「あらあら、それではシンはキラのためにいつも頑張っていたのですわね」
「え?」
 キラは虚をつかれたようにラクスの方を振り返る。ラクスは椅子に座りながら白く柔らかい手を自身の頬に軽く添え首をこてんと傾けた。
「あら、そうではないのですか?わたくしはシンがいつも努力なさっているのはキラのためだと思っていましたわ」
「それは……」
 (考えてもみなかった)でも言われてみれば確かにその通りのような気がしてくる。シンがいつも誰よりも仕事を頑張るのはキラに認めてもらいたいから。モビルスーツの訓練を誰よりも頑張るのはシンがライバル視しているアスランや恋人のキラに負けたくないから。そして家に帰った後もキラを休ませて自分だけせっせと家事をしたり雑用をしていたのも全部キラに認めてもらいたいから。そう言われると間違いなくその通りのように思えてくる。シンはかつてキラにアスランじゃなく自分に頼ってほしいとそうこぼしたことがあった。シンは自分がキラよりも年下であることを気にしているので、キラに認めてもらってちゃんと頼ってもらえるようにと誰よりも努力してきたのだ。考えてみれば、確かにラクスの言うとおりであった。
「でも、それでも仕事を理由もなくサボるなんて絶対に駄目だよ」
 キラは胸をざわめかせるシンへの思いを抑えつけて今日の朝のシンのことだけを考える。キラが怒っているのはいつものシンではなくて今朝のシンなのだ。キラは壁に寄りかかって、ここにはいないシンの顔を思い浮かべ、むうっとしたまま言葉を続けた。
「たいした理由もなく仕事をサボるなんてそんなこと子供のすることだよ。ラクスだってそう思うでしょ?」
 キラは自身の考えを揺るがないものだと思ってラクスに同意を求めた。しかしラクスは顔を緩ませて先程よりも優しい顔でキラを見つめ返す。
「あらあら、それでは今のシンは2年前のキラと同じですのね」
「え?」
 またしても想定外のことを言われキラの目がぱちくりとしばたたく。よく分からないという様子を隠さないキラにラクスは優しく歌うようにキラを導いていく。
「2年前、わたくしとキラが初めてお会いした時、キラはアークエンジェルでとてもつらそうでしたわ。戸惑って、どうしていいか分からなくて、それでも戦うしかなくて、泣いて、泣いて――あなたはただの子供でしたわ」
 封印していた苦しい記憶がキラの頭に唐突に鮮明に蘇り、キラは拳をぎゅっと握り締めた。今や遠い過去の記憶になりつつあるその記憶は、しかしそこに依然として存在し一生消えはしないのだ。動揺して顔を青ざめさせたキラにラクスは悲しそうに微笑んだあと優しく続ける。
「でも、キラが子供でしたのは当たり前でしょう?コーディネイターだから成人が早いだとかそんなものは能力の話で、心の話ではありませんもの。キラは実際にまだたったの16歳でしたし、現実があなたに突きつけたものは、子供が受けるには過酷でしたわ。大人が受けたって簡単には耐え切れないものですし乗り越えられないものでしたわ。ですから、キラは苦しみ失敗もし迷い、そして人を傷付け、また自分も傷付けられ、たくさん泣きました。すべて当たり前のことですわ。わたくしはキラを責めませんし、誰もキラを責められません」
「ラクス……」
 そうしてラクスは慈愛と優しさを込めてふんわりと笑った。
「そしてシンもまたあの時のキラと同じようにまだ子供なのですわ、キラ。シンが受けた苦しみは大変なものでシンが乗り越えてきたものも想像を絶するものでしょう。シンは人一倍頑張り屋さんですから、一見すると大人と同じように思えてしまうかもしれませんが、それでもやはりまだ子供なのです。たくさんの苦しみを抱えて、それを乗り越えて、でも一部は乗り越えられなくて、それで苦しんでいる子供なのですわ」
 そこまで言われてキラの顔が苦しげにゆがんでいく。ラクスの言葉が鋭い剣のように胸に痛く突き刺さった。キラは自分の鈍感さにようやく気付き、突如としてシンに対する罪悪感と自責の念が嵐のように心を乱していく。それでもラクスは優しく言葉を綴った。
「悲しいことですが、世界にはそのような子供たち、大人たちがたくさんおりますわ。そのような中でわたくしができることはそうたいしたことはありません。ですが、あなたは違いますでしょう?」
 キラがのろのろと俯けていた顔を上げると、ラクスの穏やかで慈しみを込めた瞳とぶつかった。
「キラ、あなたはシンを救えます。シンは子供で、ですが戦争の間は子供として振る舞うことを認められず、戦争が終わったらあなたに恋をし、だからこそあなたには子供と思われたくなくて子供でいられない、そんな子供なのです。今日のシンはきっと――そうですわね、きっとただ、仕事をしないことであなたに甘えたかっただけなのでしょう。それこそ子供のように、ですわね」
 ラクスがふわりと微笑むと周りの空気が優しさに染まっていった。その言葉がキラの心にじくじくと染みていき、キラの瞳がじわりと潤んだかと思うと目尻に小さな雫があふれだす。キラは戦争が終わってから自分があっけないほど簡単に日常に溶かされていたことを思い知る。キラだって同じ経験をしたのだからシンのことをもっとわかってあげなければならなかったのに、大人ぶって年上ぶってそのくせ全然きちんと振る舞えていなかった。シンに何でもしてもらって、それを当たり前のように軽く受け取っていた。キラがシンから愛情をもらう代わりに、シンはキラのためにどれほどの努力を重ねていたことだろう。まだたった16歳の子供だというのに。完璧ではないのは当たり前だ。(僕だって、全然完璧なんかじゃないのに…)
 拳を固く握り締めるキラに、ラクスはそっと近寄ってその震える肩に優しく触れる。
「キラ、自分を責める必要はありませんわ」
「でも…っ」
「わたくしが思うに、世界は傷付いた子供ばかりなのです。そしてわたくしは――あなたも癒されますようにと、そう願っておりますわ」
 だから、そんな悲しい顔をしないでくださいませ、とラクスは可愛らしく唇を尖らせて、その後で柔らかく微笑んだ。そんなラクスの気遣いを前にして、キラはまた胸がじんわりとする。そうして涙をごしごしと白い軍服の袖でぬぐって、いつもの通りに穏やかに微笑んで見せぽつりと声を漏らした。
「ラクス、君ってやっぱり凄いね」
「そうでしょうか?わたくしはただ思ったことを行っているだけですわ。わたくしもまた自分勝手な子供にすぎませんから」
 そう言ってラクスはふふっと微笑んだ。




 キラはその後で仕事をまっとうした。仕事のことでシンを怒った以上、自分がきちんとやらないことには自分に納得がいかなかったからだ。もちろん仕事の間中シンのことが頭をよぎり、今頃どうしているだろうとか色々考えてしまったのも事実である。でも与えられた仕事は手抜きをせずに納得のいくまでこなしたと自負できた。もっともラクスがここでも気を遣ってくれ、今日のキラにはいつもほど大変な仕事を回さず、それもできる限り早く仕事を終わらせられるようにと配慮してくれた。キラはますますラクスには頭が上がらないと内心で独りごちる。ラクスへの感謝と自責の念と、そしてシンに早く会いたいという思いがキラの心であふれかえった。
 ザフト内部で交わされる挨拶もそこそこにキラは飛んで帰った。通り過ぎる人々の中に何人か重要な人がいたような気もするがキラは気にしてられなかった。それらの結果かどうか、ありがたくもいつもよりも早い夕方にマンションに着くことができ、キラはそれでも尚はやる気持ちを抑えられずエレベーターすらも待ちきれなかった。部屋の前に着くと、識別番号と声帯認証を行いあわてて扉を開ける。急いで帰ったため軍服も髪も乱れていたがそんなことも一顧だにせず、リビングへと通じる廊下をきょろきょろと見渡しながらシンを探した。
「シン?」
 キラがリビングに入るとなんとシンは今朝の格好のまま、まだソファにぽつんと座っていた。腕の中にはクッションがあり、しかし今はもう力なく抱かれているだけだった。シンはクッションに埋めていた顔をゆるりと上げてキラをぼんやりと見つめる。眠っていたのだろうか、それともずっと起きていたのだろうか、どちらにせよシンの目元は少しだけ赤く腫れていた。
 (シンの馬鹿……本当に不器用なんだから)キラはそう思うと同時に胸がぎゅっと苦しくなった。キラが無知で無関心だっためにシンに無理をさせてきたので、その事実がキラを際限なく糾弾する。しかしここで眉を寄せたりすればシンはきっと動揺してしまう。だからキラは自分を責める気持ちを何とか抑え込み柔らかく微笑んだ。
「シン、ただいま」
 シンはキラがすこぶる怒って帰ってくると予想していたようで、キラの和やかな態度にキツネにつままれたような顔をした。シンは今朝と変わらぬぼさぼさ頭を少しだけ揺らがせ気の抜けたような表情でキラを見やる。キラは鞄を床に静かに置き困ったように首を傾け微笑みかけた。
「シン、『おかえり』って言ってくれないの?」
「あ……」
 シンの渇いた口内から微かに音が漏れる。シンはまだ状況を理解していなかったが、キラが優しく笑うからぽつりとキラに言葉を落とした。
「おかえり…」
「ただいま」
 シンが返事を返してくれたことでキラは嬉しくなり、たたたっとシンに駆け寄った。そしてクッションを抱えたままのシンをクッションごと上からぎゅううっと抱き締める。(嬉しい。わかんないけど、この腕の中にシンがいるってそれだけで僕はすごく嬉しい)キラはシンへの想いが溢れ出さんばかりになって苦しいほどにシンが好きだと自覚する。そしてその想いを伝えたいとただただシンを抱き締めた。さっきまで自分のうかつさや考えなしを責めていたのに、シンを前にするとそういう気持ちもふっ飛んでいき、シンへの優しい愛だけがキラの心をいっぱいにする。
 放心状態のシンをそのままにキラは慈愛を込めて抱き締め続けた。その内にシンがおずおずと窺うように口を開く。
「あ、あの…?キラさん…?」
「なに?」
「あの、なんで……」
 怒っていたんじゃなかったんですか?と問いたげなシンに、キラは微笑んだ。
「ごめんね、シン」
「え?」
 何で謝られたのかも理解できずシンの疑問は深まるばかりであった。不思議そうな顔をしているシンにキラは軽く笑いかける。(君は誰かに甘えたかったんだね。訳もなく我侭を言って、それを困ったように、でも優しく受け入れてほしかったんだ)キラはシンの身の上を考えた。シンは2年前にオーブで家族を亡くして以来プラントで軍事訓練を受けザフトに入ってずっと戦ってきた。その間、世界はぴりぴりとしていて心が休まる時などなかったはずだ。アカデミーでもザフトでもシンを甘やかしてくれる手があったとは思えないし、きっとシン自身もそのような手は望まずにただ何かを守ろうと必死に戦っていたのだろうと思う。戦争が終わって心の荷が下りた後はキラと出会い惹かれあって、シンは今度はキラのために努力を重ね出した。(気付かなくて、ずっと無理をさせていてごめんね。――でもそういうことを君に言ったら君はきっと怒って拗ねて認めないから……だから、)
 キラはシンを抱き締めたままソファに倒れこむ。キラが下になってシンの頭をそっと抱え込みながら静かにソファに寝そべった。シンは倒れる衝撃とキラの行動自体への驚きでクッションをぽろりと床に落としてしまう。しかしキラは構わず自分の胸の上にシンの頭が乗るようにしながら優しい腕の中でシンをゆっくりと抱き締めていった。突然全身の密着度が上がったことでシンの若い心は動揺を隠せなかったがそれでもそれが思いのほか気持ちが良くてシンはちんぷんかんぷんながらもそっと目をつぶる。とくんとくんとキラの心臓の音がシンの心に響いてくる。女性のように柔らかいわけではないけれども、温かい守るような腕の中だった。ずっと忘れていたその優しさに安堵してシンの瞳が再び潤んできて慌ててそれをぐっとこらえる。
 キラは穏やかに柔かくシンの頭を撫でてやりながらシンを抱き締め続けた。(僕はこんな風に君を甘やかしたことなかったな)
「シン、大好きだよ」
 キラは心のままにそう口にした。その言葉にシンの体が少し跳ねる。シンの頬が赤く染まって心臓の鼓動が高まっていった。シンはキラの胸に顔をうずめ、まだ全然釈然としなかったがそんなことはもう重要ではなくシンはいま幸せだと本当に心からそう思った。そしてキラが大好きだという気持ちが心の奥からあふれ出し、その思いのままにシンも小さく本心を伝える。
「俺も、キラさんが大好きです。あと…今朝のことは…」
「もういいよ。明日は一緒に行こう?」
 キラに優しくそう言われ、シンはキラをぎゅうっと抱き締め返した。それがシンの返事だった。上の方からキラのかすかな笑い声が聞こえてきて、シンもキラの心音を聞きながら不意に穏やかな笑みに彩られる。今キラが自分の傍にいて自分を抱き締めていて、自分もキラを抱き締め返しているということだけでシンはたくさんの幸せを感じた。



 二人は長いことそうやって抱き締めあって、ふとシンがもぞもぞと体を動かした。キラが不思議そうにシンに目を向けた途端、シンのお腹からぐーっという間抜けた音が盛大に鳴り響く。瞬間、シンの顔が真っ赤に染まって、シンはぼそぼそと言い訳がましく言葉を吐き出した。
「お、お腹がすいてるんです!俺今日一日何も食べてなかったから…っ」
「そ、そっか」
 キラは笑いを噛み殺しきれなくて、ふふっとつい笑い声が漏れる。そしたらシンの頬が更に真っ赤に染まっていった。
「笑わないでください!」
「う、うん、ごめんね?そうだよね、お腹すいてるよね」
 キラはいまだに笑いを含みながらシンの頭に優しくキスを落とすとゆっくり立ち上がる。シンはキラが離れてしまったことを少しだけ名残惜しく思いながらそのままキラを見つめていた。キラはシンと視線を合わせてにこりと破顔する。
「じゃあ今日は僕がご飯を作るから君は待ってて」
「え、でも」
「いつも君ばかりやっているでしょ。これからは僕もやるからね」
「でも」
 言い募るシンにキラは優しく微笑んだ。
「お願い、僕にもやらせて」
「え、ええ?まぁ、はい…キラさんがそう言うなら、」
「うん、じゃあ君はとりあえずその髪や服をどうにかしてきてね」
「あっ…」
 シンはそういえばと自分の格好に思い当たり顔をしかめた。すっかり忘れていたが、自分は朝起きたまま何もしていない。キラはあえてわざと批判げに眉をひそめると、軽くうそぶいた。
「そんな格好じゃ今日の夜は何もできないかな」
「ええ?分かりましたよ!今綺麗にしてきます」
 慌ててそう叫んだシンはそのままびゅっと風呂場に飛んで行き、キラはそんなシンを微笑みで見送った。(ああ、僕ってシンのこと本当に好きだ)何気ないことでそう実感する。こうして二人の生活が今日からまた新たに始まるのだ。キラは今度こそちゃんとシンを幸せにしようと心に決め、まずは料理に初挑戦だとひそかに意気込んだ。




はじめの一歩で君に近づく




戻る





もちろんキラさんの料理はド下手ですw最高のコーディネーターでも挑戦してないことは無理なんですよね。今回の話は16歳なんてコーディネイターでもまだまだ子供だよ!と気付いて書きたくなった話です。シンを可愛がりたいというか甘えさせられて満足。
それにしてもラクスさんが万能すぎてどうしよう。