シンは現在重要な任務を預かっていた。それは艦長からじきじきに申し付けられたので重要な任務ではあったが、任務の内容ははなはだどうでもよく感じられた。休暇に浮かれて艦長の前をのん気に歩いていたのがいけなかった。呼び止められ任務を言い渡され、現在はその任務を果たすために艦内を急ぎ足で歩いている。ミネルバはカーペンタリア基地で補給を受けている最中だったが数日後にはまた出発しなければならない。今日は数少ない地上での休息日なのだ。それをこんなことに邪魔されるなんて実に面白くなかった。早く任務を終わらせてしまおうと、目的の人物の部屋まで足を急がせる。幸いその任務は上官に伝言を伝えるというごく簡単なものだったのですぐに果たせられるものだ。
「キラさん、入りますよ」
 シンは伝言の相手である上官の部屋の前で立ち止まり、扉の横にある連絡内線スクリーンにそう呼びかける。すると程なくして了承の言葉を受けたのでシンは部屋へと入っていった。シンが入っていくと、キラは執務机でせっせと書類に走らせていたペンをいったん止めて顔を上げる。
「どうしたの?シン」
「伝言です」
「何?」
「アスランさんがちょうどこの基地に来ているのであなたに会いたいそうですよ」
 シンがそう言った途端、キラの顔がぱっと光を受けた花のように輝いた。ペンを放り出しガタンと立ち上がって、シンの方にいそいそと近寄ってくる。
「アスランが来てるの?」
「そうみたいですね」
「え、どうしよう……すごく嬉しい」
 そんなもん知るかとシンは思ったがもちろん口には出さなかった。一応キラは上官だから、分はわきまえているつもりだ。でも目の前で頬を紅潮させながら、そわそわと出掛ける準備をし始める上官を見ると、何となく不愉快な気持ちが押し寄せてくる。だからシンはつっけんどんに唇を尖らせた。
「会いに行くつもりですか?」
「もちろん。僕だってアスランに会いたいもの」
 後ろを向いたまま返事をするキラをよそに、シンは机の上にうず高く積もった書類を意地悪くちらりと一瞥する。
「じゃあ、この明日までに提出しなきゃいけない書類はどうするんですか?」
 そう言われたとたん、キラの動きがぴたりと止まった。そして思ってもみなかったとばかりに、勢いよくくるりと回転してシンを振り返る。ばちりと合ったキラの顔はぽかんとしていて、棘を刺された風船のように興奮の空気が抜けてしまったようだった。
「どうしよう」
 アスランに会えるということですっかりキラの頭からは仕事のことが吹き飛んでいたらしい。ごく自然にシンの唇から長い溜め息が漏れ出した。
「とにかく伝えましたからね。俺の任務は完了です。まあ後はご自由に」
 所詮自分には関係のないこと。ここに長居する理由もない。言うべきことを言い終わったシンがとっとと立ち去ろうとしたら、後ろからにゅっと伸びてきた細めの手に腕をがしっと掴まれてしまった。明らかに嫌なタイミングで引き止められてしまったことでシンは内心舌打ちをする。しかし仕方がないので渋々振り返ってやると、自分の鼻先にキラの懇願したような珍しい表情が迫っていた。
「何ですか?」
 シンは警戒して一歩後ろに退いた。
「シン、お願い」
 キラは尚も至近距離からシンをじーっと見つめて瞳を潤ませる。そんな顔をされたら普通の人間なら動揺するに違いないがシンは違った。まったくわざとらしいと思いながら、不機嫌さを隠しもせずに乱暴にキラの手を振り払う。
「冗談じゃありません。何で俺がアンタの仕事なんて手伝わなきゃいけないんですか」
 そうすると、ほんのさっきまで下手に出ていたのが嘘のように、キラはうって変わって楽しそうに口端を上げて小首をかしげ微笑んだ。
「何、シン、嫉妬してるの?」
「はあ?」
 シンはもう心底呆れ果てたというように眉間に皺を寄せ、口から出た言葉が自然と冷たさを帯びる。しかしキラはまるで悪戯をしでかした子供のように、しかしやはり大人しか生み出せない独特の笑みを浮かべてシンを見つめていた。
「嫉妬してるんでしょ。僕がアスランと出掛けるから」
「何で俺がそんなことに嫉妬しなきゃいけないんだ!」
 あまりにも勘違いで自意識過剰なキラの言葉に、シンの怒りが一瞬で爆発する。キラの言葉をより深く理解すればするほど、怒りの火山がマグマを伴いグツグツとより激しく煮え立っていき、シンはキラをぎっと睨んだ。
「言っとくけどな、俺はアンタが誰とどこに行こうがどうだっていいね!いっそ今すぐ艦から出て行ったってかまやしないさ。それにな、この際アンタが戦闘中にMIAになったって俺は気にしないぞ。むしろ清々してやるさ!」
 わなわなと怒りが溢れてきて思いついた罵詈雑言をまくし立てたら、キラは驚いたように目を真ん丸くした。しかしそれもほんの一瞬のことでキラはその直後小さく笑みを浮かべてシンを見返した。今まさに部下にひどいことを言われたのにキラは穏やかに微笑んだままだった。その反応にシンの怒りが何故か急速にしぼんでいき、冷静さの天使が今頃になって頭へと舞い戻ってくる。キラが何も言い返してこないことが逆にシンのばつの悪さを増長させた。上官に暴言を吐いた罰などと言われ、ここぞとばかりに仕事を押し付けられるとシンは罵倒しながらも心のどこかで身構えていた。もしかしたらトイレ掃除一週間までさせられると予想していたのだが、拍子抜けするほどキラは何も言わず小さな笑みを浮かべてただ静かに俯いただけだった。その姿を見ていると、シンは段々と罪悪感が増していき狼狽する。体をもぞもぞさせて、視線を意味もなく左右へと泳がせた。
「えー、あー、今のはちょっと言い過ぎたかもしれないですね……ごめんって、キラさん、本当に――ごめん」
 それでも黙って下を向いているキラにシンは自分の頭をがしがしとかいて一拍置いた後、罪悪感を吹っ切るように溜め息をついた。
「わかりました。とにかく俺がキラさんの残った仕事を片付けておきますから、あなたはとっとと遊びにでもなんでも行ってください」
 シンがそう譲歩の言葉を発するか発しないかの内に、キラはがばっと顔を上げていつも以上に顔をほころばせて満面の笑みを浮かべた。
「本当に?」
「え……」
「じゃあ行ってくるね。シン、後は宜しくね。あ、ちゃんとやっておかないとトイレ掃除3ヶ月だから」
 シンが呆然としている内にキラはてきぱきと用意を再開させて、シンが何か返事をする前に笑顔でバイバイと手を振って部屋から出て行ってしまった。残されたシンはしばらくの間、部屋の持ち主によって目の前でしっかりと閉じられた扉を見つめていた。そしてゆっくりと部屋の持ち主の机に目を向ける。そこには自分のではない書類が無情にも塔のようにそびえていた。
 シンははぁともう一度大きく溜め息をついた。
「やられた…」



 あれからキラの仕事をなんとか片付けるのに8時間もかかってしまった。時刻はもう夜の9時になっている。今更出掛けるのも気が乗らないほどシンはぐったりしてしまい、とぼとぼと自分の部屋に向かっていた。今日という一日を楽しんできたのだろうか、はしゃいだ笑い声で艦に帰ってくるクルー達と何度かすれ違った。ちくしょう、俺だって本当は……と思うとキラに対しても関係ないクルーに対しても腹が立ってくる。(俺は今日は今後の長い艦内生活のために必需品を買い溜めする予定だった。それからプラントにいる友人がもうすぐ誕生日だから贈り物を選んで送って、それから好きなバンドがカーペンタリアでライブをしてるからそれを見に行って、それからレイやルナ達に会ったらその辺でお茶したり遊んだり……)そこまで考えて、シンははっとする。そういえばキラはこういう時何をしてるのだろうか? どこかに補給で寄ったりしてもキラはいつも艦内に留まっていた気がする。キラは優秀だけど元来の軍としての仕事自体膨大だし、その上プラントのラクス・クラインやオーブのアスハと何かしら連絡を取り合って色々やっているようだった。だからキラはせっかくの休息も楽しめず、いつも艦内に残り仕事をしているようだった。それは伝言をする前の今日のキラの様子を見たって明白である。今日のキラもシンが伝言を伝えるまでは休暇になど目もくれず机に張り付いていたではないか。
 シンは疲れた体を引きずりながら天を仰いだ。
「……まぁ、今日ぐらいはいいか」
 (キラさんだって楽しむことが必要だ)シンはそう思って今頃アスランと楽しんでるだろうキラを想像した。そうするとさっき和やかな気持ちでキラの休暇を認めたばかりなのに、途端何故かまたムカムカしてきた。自分でも分からないぐらい不愉快な気分になる。(でも何も俺に仕事を押し付けることはないよな。キラさんは何でもかんでも断らずに引き受けるからいけないんだ。その皺寄せが俺に来るんじゃないか)
 そうむかむかと考えてムスッとした顔でずんずん歩いていたら、後ろから誰かに名前を呼ばれた。
「シン〜」
「キラさん!?ってアンタ何なんですか、何でそんな酔ってんですか」
「へ?酔ってないよ〜」
「軍人の癖に酒に呑まれてどうすんですか。まったくもう」
 シンはへろへろしてるキラの腕を引っ張って小言を言いながら方向転換してキラを部屋まで連れていってやる。キラは時折楽しそうに通りすがりのクルーに絡んではいたが抵抗はしなかった。シンはキラの部屋までたどり着くと、キラを乱暴にベッドに座らせた。しかしキラは座りながらも視線は自分の机に向いており、仕事がきちんと終わっているのを確認して嬉しそうに笑顔を向ける。
「あ、ちゃんと終わってるー。シン、偉い偉い」
 キラはシンの頭をいいこいいこと優しく撫で始めた。普段のキラはシンにはこんなことしないので酔いの激しさが窺える。
「ちょっと止めてくださいよ!」
 シンはどきまぎしてキラの手を強引にならない程度に自分の体から遠くに押しやった。懐かしい優しい両親の手とキラの手が不意に重なって、シンは照れ臭くなり頬を染めそっぽを向く。それにキラはくすりと苦笑して、今度はシンの腕をぐいと引き寄せ隣に座らせる。そしてそのままキラはシンの肩に自分の頭をもたせかけた。
「キラさん?」
 シンの不思議そうな声には答えず、何かに思いを馳せるような顔でキラはぽつりと言葉を落とす。
「アスランね、楽しそうだったよ。オーブでカガリと仕事して、今は楽しいみたい。カガリもアスランが傍にいて喜んでるって」
 良かった……と最後にそう呟くキラは穏やかに微笑んでいた。でも酔ってるせいもあるかもしれないけど、どこかその表情は悲しい陰を秘めていて、シンは何て返事していいのかわからなくなった。
「……今日は楽しかったですか?」
 だから、キラのことを聞いた。シンが休日を返上してまで働いたのだから、その代わりにキラが楽しんでなくては困るのだ。
「楽しかったよ」
 そうしてキラは出し抜けににこりと笑ってシンの顔を覗き込む。
「シンは今日一日僕のことでアスランに嫉妬してくれた?」
 悪戯そうに笑うキラにシンは開いた口が塞がらないとまた呆れ返ってキラを睨んだ。
「するわけないです。俺が何のために?アンタ馬鹿ですか」
「そっか、残念」
 キラはそう言ってまた楽しそうに微笑んだ。何がしたいんだ、なんなんだアンタはとシンは訳が分からず眉をひそめるが、キラはシンの葛藤などお構いなくそのままばふーっとベッドに倒れ込んでしまった。そして緩みきった顔で大きくあくびをして全身の伸びをしたあと目をつぶる。しばらくすると、キラの方からすーすーというのん気な寝息が聞こえだした。やはり酔っていたのか、いつものことなのか、人がいるのにいとも簡単に寝入ってしまったキラにシンは困惑を隠せなかった。
「なんなんだ、アンタは本当に」
 様々な謎と戸惑いをシンに残して、当の本人は気持ち良さそうに寝息をたてている。シンはどうしていいか分からず、この上司のマイペースぶりにほとんど嫌気のようなものまで感じてきた。しかしキラの穏やかな寝顔を見ている内にシンの心も段々と落ち着いてきて、不意に顔がほころぶ。
「こうしていればアンタも可愛いのにな」
 キラの上に毛布をかけてやって、シンは部屋の電気を消した。そして「おやすみ」と小さく声をかけて部屋を出る。本当に今日は大変な一日だった。明日こそは自分の休息を楽しもうと決意して歩き出す。明日あの上官にもっと受け持つ仕事を減らして自分の休暇をきちんと享受するべきだと進言しようかな、なんて柄にもないことを少し考え、そんなことを考えてしまう自分を忌々しく思った。




性悪なのか淋しがりなのか計算なのか強がりなのか





戻る





タイトル通りの話を書けた気がする(笑)
タイトルは「耽溺する五題」の内のひとつです。
(お題配布元さま:リライト