Tanzanight

『Long way Home』 第五章

5.

 まひるが居なくなってから、もうかなり経った。

 相変わらず透はまひるを探し続けている。だが、手を広げるにつれて集まる情報にも信憑性も薄れ始め、先日の写真のような見間違いやデマが多くなっているらしい。その度に一喜一憂する透は、次第に焦燥感を深めていった。

 「何ぃ! また間違い!? どうなってるんだお前の情報網は!! どんな時でも正確確実がお前の信条じゃなかったのか!? 今動いている一連の調査は、その情報が基盤になってるんだ。全てお釈迦にする気か!! あーーーごちゃごちゃぬかすな! もういい!!」

 電話を切っても、まだ透は気が納まらないように肩で荒く息を吐き、身を震わせている。

 「また…、違ってたの?」

 私はいれていた日本茶をお盆に載せて、透がいる居間の方へと歩いて行った。調査がうまくいかなくなった頃からだろうか、透はこの部屋に来る回数が増え始め、最近では毎日のようにここにいる。

 「話にならん!揃いも揃っていい加減なことばかり言いやがって…。」

 「透…。」

 「わかってる。あいつらだって協力してくれているのは確かだ。感謝はしてる。だが…、これだけやってるのに手掛かりひとつ……。」

 透は苦悩の表情でゆっくり首を振り、うな垂れた。

 「自分の無力さが歯がゆくてならん。偉そうな事言っても、何もできないんだからな。」

 「そんなことないよ。透はがんばってるじゃない。私すごいと思ってるんだよ? 今やってることもそうだし、プエルタの時だって……。」

 「プエルタ?」

 「あれは…、あの時は透がいたから私たち助かったんじゃない。透がいろんな仕掛け作って、外に警報が漏れるのも押さえて…」

 「だが、警察は来た。」

 私の言葉をさえぎり、強い口調で断言する透。いつのまにか顔を上げ、真剣な眼で私を見ていた。

 そして『警察』という言葉を聞いて、私はプエルタの前に集まるパトカーと野次馬の群れを思い出す。あれのせいで、私はまひるに駆け寄ることも出来なかったのだ。

 「何より俺のツメが甘かった。俺があそこでヤツを仕留めていれば。もっと徹底的に倒していれば…。」

 「でも、透だからあそこまで。」

 「同じ事だ!あのとき俺が倒していたなら、まひるがプエルタの外へ出ることは無かった!!」

 私の脳裏に忘れられない光景が蘇る。パトカーのライトに照らされ、無数の拳銃を向けられた、まひるの…姿……。

 「あの時はあれで精一杯だと思ってた。だが、あんなんじゃ全然足りなかったんだ。もっと、もっともっと! 別の手を! 何か効果的な手段を! 何段にも重ねて徹底的に準備しておくべきだった!!」

 「透……。」

 「まひるがいなくなったのは俺のせいだ。だから、探すのは、俺の役目だ。もっと…もっと手を尽くして……。」

 その言葉はもう、私には向けられていない。

 自分に向かって言い続ける透の厳しい表情に、私は何も言うことが出来なかった。

.

.

 次の朝、透は久々に出かけて行った。

 朝イチに電話が入って叩き起こされたらしい。「少しは良さそうな情報が入ったから少し遠出する。でも今回は早めに帰れそうだ。」と言い残して。

. 

 しかし、透はなかなか帰らなかった。

 これまでなら遅くても5日もあれば帰ってきたのだが、今回は既に1週間を過ぎても戻らない。

 私は透が残していった資料の山を少しずつ見ていくことにして、端から手に取った。

 だが、すぐに私は呆然となった。その量はあまりにも膨大だったのだ。改めて、透はこんなものを相手にしていたのかと驚かされる。そして、これだけの調査をこなす透でさえ手に余るまひる探し…。私はこの途方も無い人探しに、透がずっと無力感と戦いながら取り組んできたということに今更ながら気付かされた。

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 それからしばらく、私はその資料に埋もれて過ごす日々が続いた。

 そんなある日のことだ。その日も一日中資料を見ていた私は、疲れを取ろうとお風呂にお湯を入れてゆっくり入ることにした。お風呂場に行き、そこにある給湯器の操作盤をにらみつける。普段は全然平気なお湯入れ作業も、こんな感じに疲れきっている時は注意が必要だ。

 それというのも前に一度、間違えてお湯をあふれさせた事があるからだ。

 私はもともと下手に自動化された機能はいらないと思っていたから、お湯入れも適当にやっていたのだが……。あのとき風呂場の扉を開いた瞬間に広がった、お湯が溢れ続ける惨状を目の当たりにして、私は流れ出すお湯を前に思わず周りを見回してしまった。いかにもそれが、まひるのやりそうな失敗だったからかもしれない。

 結局ここの給湯器は下手に自動化されている上、まひるが説明書きをどこにしまい込んだのか見つからなかったので、一つ一つ試しながら使い方を覚えた。「何でお風呂入れるためにわざわざこんな面倒な事しなきゃなんないんだか…。」 そう、ひとり文句を言いながら。

 給湯器の設定を確認すると、私は浴槽の端に座ってしばらくお湯が溜まるのを眺めていた。そして4分の1くらい溜まったところで服と下着を脱ぎ、脱衣所に放り投げる。

 湯煙が舞い上がる中、シャワーから出したお湯で軽く身体を流し湯船に片足を入れた。ぼおっとしている頭をはっきりさせたくて、お湯は少し熱めに入れていた。触れた足の先がピリピリする。熱すぎる感じがして、給湯器の温度設定を少し下げた。既に入っているお湯はちょっと足した水で埋める。あくまでもちょっとだけ。前回はこの埋め水を入れすぎて失敗したからだ。

 そしてゆっくりと湯船に腰をおろした。お湯はやっと腰の上に届いたくらいで、蛇口からは音を立ててお湯が降り注いでいる。しばらくその落ちる様を眺めていた私は、何げなくそこに手を差し出した。軽い衝撃を与えながら手に当たり、飛び散る湯。しかしその様子を見て私は顔をしかめた。そう、ただのお湯でさえ、ここではこんなにも簡単に触れることが出来る。私は、手を触れることが出来るのだ。

 でも…、あの時、私が差し出した手は届かなかった。ライトに照らされたまひるが、無数の銃口を向けられていた、あの時でさえ。

 思い返す。私は、本当に手が届かなかったのだろうか。何が何でも届かせようとしたなら、止める手を振り切ってまひるの元に駆け寄ることができたんじゃないか。駆け寄って抱き締めてあげることができたんじゃないか。

 それまで、自信過剰とまでは行かないけれど、私は自分に力が有るものと思っていた。

 だからこそまひるを守りたかったし、守ろうとしていた。

 でも、学園で群衆の隙間から言葉が飛んできた時、そのちっぽけな悪意の刃に私は無力だった。プエルタで天使と戦ったときも、透の力が無ければ私は一瞬で蹴散らされていた。プエルタの外でまひるが警察や野次馬に囲まれていた時でさえ、私は駆け寄って抱き上げてあげることも出来なかった。

 それまで有ると思っていた私の力は、何の役にも立たなかった。私でなければ出来なかったはずの、傷ついたまひるを抱きしめてあげるべき私の腕は、警官の腕に遮られてそれを振り払うことすら出来なかったのだ。

 お湯の中に差し出されたままの手を見る。あの時、この手は何も出来なかった。だからと言って、まひると一緒にいた時だって何が出来たかと言うと…はしゃぐあのコを叩いてたしなめたくらい。守るなんて、何もしていない。

 結局、まひるにとってこの手は彼女を叩く存在でしかなかったのだ。まひるを守り、癒す事ではなく、叩く事しか。私は顔をうつむけ、手を握り締めた。それまで手のひらを滑らかに落ちていたお湯が、拳に変わったことでハジけ飛ぶ。私の手には、何の力も…無い。

 あれ以来何度も襲われた後悔の想い。そして無力感。私はまた、その無言で押し寄せる重い塊に包まれ、押しつぶされている。

 手に当たるお湯の衝撃だけが、私が今ここに居ることを教えてくれていた。

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 そして、出て行ってから2週間が経った頃、突然透は帰ってきた。

 しかし、透は出迎えた私にも何も言わずに虚ろな眼を向けると、そのまま床に倒れこんで眠ってしまった。その姿はこれまでに無く焦燥感にさいなまれ、疲れきっていた。

 結局、透は一晩眠ってまた出かけて行った。その言葉は少なく、朝起きた私にも特に何も知らせない。あったのはただ一言、「しばらく家に居られなくなった。ここに、居てもいいか?」そうつぶやいた言葉だけ。

 その言葉が私に向けられた言葉なのか、それともここには居ない、この部屋の本当の主に向けられたのか…正直わからない。私には、黙ってうなずく事しか出来なかった。

. 

 それからというもの、透は毎日のように帰ってきて、毎日のように出かけるようになった。

 けれど私にはもう途中経過は知らせてくれない。私だって本当は知りたかったのだ。けれど、消耗していく透の様子を見ていると、それを言葉にするのは酷で聞けなかった。無視されるとか相手にされないのではない。だが、次第に透の言葉には報告とは呼べない、曖昧な言葉が増えていった。

 毎朝出て行って夜遅く帰る透。それを見送るだけの日々が続く。

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 そして、今日もまた透は朝早くに出て行った。昨日の件よりはまだ見込みがあると言って。

  最近はこの繰り返しだ。気ばかり焦ってその結果が伴わず、お互いが行き違っているのが分かる。疲れと空しさだけが積み重なっていく。思い出すまひるの顔も、辛そうな表情ばかりになっていった。

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 久々に穏やかな天気の日だった。

 透は朝早くに出て行った。特に何時頃帰るとかは言わない。それがもう、いつものことになっている。

 その日の昼過ぎ。私は洗面所の鏡の前にいた。

 最近ちょっとやつれたかな、と思う。近頃はろくに外へ出ていないので無理もないが、見た感じ頬の辺りがやせた気がして、どこか不健康だ。

 そして鏡に映る姿に向かい、「こんな顔、まひるに見せたくないな…。」と、ひとりで言っていた時。ふと鏡の中の自分に、何か違和感を感じた。

 「………?」

 すぐには判らなかった。

 もう一度鏡をよく見直してみる。その違和感の原因が何なのか、どこにあるのか。

 そして…気づいた。気づいてしまった。

 「もしかして、これ…。」

 そっと、指先で鏡に触れてみる。

 「まさか、この模様って…。」

 鏡に触れた指先を撫でるようにすぅーっと動かし、鏡に映った私の、眼のあたりをなぞる。

 「まひると…、同じ…?」

 そこには、まひるの眼を覗いた時に見えたのと同じような模様が、見えた。

 気がつくと鏡に触れた自分の手にも、何か青いもやのようなものがかかっている気がする。

 もう一度鏡を見る。やっぱり模様がある。どこか不思議で妖しい輝きをした、まひるが持っていた眼の模様……。

 

 私は思わず何度も瞬きを繰り返した。

 そして気がついた時にはもう手のもやは消えていた。鏡を見ても、瞳は普通の眼にしか見えない。

 「…どういうこと!?」

 気のせいなのだろうか。私はそう思おうとした。

 まひるの眼はとても綺麗だった。吸い込まれそうなくらい深い色を満たして私をとりこにした。だから、まひるを想うあまり、私もあの眼を自分の眼に重ねてしまったのか。心当りがあるとすればひとつだけ。でもそれは…。私はその思いを頭から追い出すように声に出してつぶやく。

 「今のは……。気のせい、よね。」

 そして鏡を見直したが、瞳に変化は無かった。青いもやも現れていない。

 だが…私の心には大きく深い不安が残った。

 「気のせい、よね。」

 もう一度繰り返す。でも、自分に言い聞かせようとするその言葉には、既に何の意味も無い。私はもう、自分自身の声を信じていなかった。

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 あれから何度も鏡を見た。結局、あれ以来瞳に変化は見られない。でも、どうしようもなく怖かった。あのプエルタの夜の、落ちた大型スクリーンを持ち上げて起きあがった天使が思い出される。

 アイツの顔にも、確かに同じ物があった。同じ、模様の入ったモノが、ついていた。

 これは……アレと同じものなのだろうか。何か、背中の方からぞっとする風が近づいてくる予感がした。

 冷たい風はだんだんと私に這い寄り、私の体を包んでいく。そして、頭にふと、恐ろしい可能性が現れた。もしかしたら…、私もあの天使みたいな、人間とは違う生き物の、アノ、化け物に…? そう思った途端、身体を包んでいた風が私の身体に入ってきた。体中を突き刺すように冷たい風が染み込んで、全てが芯から震えて、冷たい怖さに押しつぶされそうになる。ただただ怖い。自分が変わる? アレになる!? 身体が寒くて何も考えられない。

 ひとりで居るのは嫌だと思った。誰かそばにいてくれる人がいないと、おかしくなりそうで。いや、自分からおかしくなっていきそうで。

 でもたとえ誰かがいたとしても、その人をあの凶暴な力でねじ伏せてしまうかもしれないと思い、またそれが恐怖を呼んでどうにもならなくなっていく。

 しかし何より、その怖さを誰も気づいてくれていないことが怖いと思った。私はここで、このまま誰にも知られずに化け物に変わるのか。誰かを手にかけ、それでも何も感じないあの天使のようになってしまうのか。そんな想像が自分の中で暴れ狂う。

 でもそれでも、ひとりで怖いのは嫌だ。誰かにいてほしい。誰か。傍にいてくれるひと。全ての事情を知っている人、それでいて受け止めてくれる人。

 ひとりの顔が浮かんだ。……そう、透がいる。透ならば、これを分かってくれる。透にそばにいてほしい。あのひょうひょうとした顔で大丈夫だと言ってほしい。透はどこにいるのだろうか。帰って来てほしい……。

 でもその夜、透は戻らなかった。

 私は居間の真ん中で膝を抱えながら、一睡すること無く透の帰りを待ちつづけ……結局、朝の日の光を見たことでようやく落ち着いて、床にころがって眠った。眠りは浅いものだった。

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 「あ…、おかえり…。」

 玄関が荒々しく閉まる音に、私は目が覚めた。まだ頭がぼぉっとする。窓の外を見るともう暗い。浅い眠りながらもすっかり寝入ってしまったようだ。

 だが、私が床から身体を起こして言った言葉は透の耳に届いていないようだった。またハズレだったらしい。いらいらした険しい顔で、何かブツブツ言っている。

 その様子に、私から声をかけた。まだ胸がムカムカしているが、今の透にそれは出さないほうがいい。勤めて明るく聞こえるように声を出した。

 「お疲れ。…何か、飲む?」

 そう聞く私だが、透からの返事は無い。

 「お腹減ってない?何か作ろうか。」

 「………。」

 「…透、大丈夫?…透?」

 「うるさい! 聞こえてるから黙っててくれないか!! 何もしないなら俺の邪魔もするな!!」

 「な…、何もしないって、突然、何…?」

 突然向けられた鋭い敵意に、意味が分からずうろたえる。

 「言葉どおりだよ! まったくいい身分だな! 俺が調べに出歩いている間も、どうせ日がな一日この部屋で思い出に浸ってるんだろう! まひるまひると!!」

 「だって、それは透がこの部屋に居ろって…。」

 「ああ言ったさ! まひるにとって一番大事なのはお前だ! 俺じゃない! だからこそお前にはここで待てと言った! 俺が外でアイツを探すと言った!! そうだ、そう言った!」

  起きたばかりでまだ床に座ったままの私と、入ってきたばかりの透では、自然と私が見下ろされている状態になる。部屋の灯りが逆光になって顔が良く見えないが、私がこれまで見たことがないくらい険しい表情をしているのはわかった。

 「だから! だからずっと、ずっと探し続けてきた! 知り合いのツテも使ったし、紹介だって無理言って何度も利用した! 親の金だっていくら使ったかわからん!! そうやって、お前がこの部屋にいる間、俺はどんな場所だって行ってきたんだ! だがもうダメだ! 無理を言うのも限界に来てる!」

 顔をしかめた透は私に背を向けて歩き始めた。でも声は止まらない。

 「ああそうさ! もう俺の手には負えない、お手上げだ! 何をしたらいいかもわからん! 思いつく手段はすべてやった! だが出てくるのは訳がわからん妖しいデマばかり! どうにもならん!! これ以上どうしろってんだ!! あいつは! まひるはどこへ行った!!」

 そう叫び、透は振り向きざま壁に拳をぶつける。気が高ぶって力加減が出来なければ、自分の手の方を痛めてしまうというのに全く気にしていない。ここまで荒れている透は初めてだった。

 私は思わず立ち上がって駆け寄り、壁にぶつけた透の拳を手に取る。折れている様子はなかったが、透の手は痛々しく血がにじんでいた。

 「透…。」

  だが透は私の手を振り払い、私に向き直ると言い続けた。

 「こんなものはどうでもいい! それよりこれからどうする! このままずっとこの生活を続けるのか!? お前はそうしたいのか!? あれから、まひるがいなくなってからどのくらい経った! 俺がずっと、手を尽くして探している間、お前は何をしていた!! ずっとこの部屋にいるだけだっただろう! それとも何か、もうまひると会いたくないのか!? 想い出の中のまひるでもう満足なのか!?」

 パァン!! という音とともに透の頬に赤い痕が残る。

 気づいたときには、私の手は動いたあとだった。そしてそれからは止まらない。言葉が次から次へと口をついて、私の中に溜まっていた感情を吐き出していく。

 「そりゃ私だって透が苦労してるのは判ってるわよ!! ずっと頑張って探してきたんだもん! 分かってる!! あれからずっと、ろくに休まず頑張ってる事も! アチコチの知り合いから情報集めてる事も! 借りばっかり作って、そのせいでだんだん友達とも家族とも上手く行かなくなってる事も! 今までの事全部、並みの人間に出来る事じゃないってことだって!! わかってる! わかってるわよ! ずっとそばで見てたんだから!! そうよ、私だって不安だよ! まひるに会いたくて会いたくて仕方ないよ! 想い出だって、今じゃ悲しいだけだもの!! でもね!? 私だって、私だって、どうかなっちゃいそうなの!!」

 言っている自分でも滅茶苦茶なのはわかってる。眼から涙があふれているのも感じる。

 でも、さっきまで平静を装っていた自分はどこかへ行ってしまった。一旦口に出した瞬間から、急激に大きくなる恐怖が追いかけてきて、呑み込まれそうになっていた。

 「怖くて、怖くて! 自分がどうなっちゃうのかわからなくて! 何が起きてるのか誰に聞いたらいいのかもわからなくて!! これこそアンタになんかわからないでしょ! アンタだけじゃないんだ! わたしだってわかんない!! どうしたら! どうしたら、いいのか……。」

 ここまで言ったところで声が詰まって何も言えなくなった。涙が後から後から出てきて、顔がくしゃくしゃになっている。

 狙いを見失った腕だけが振り回され、透の顔といわず腕といわず当り続ける。

 「何か…あったのか?」

 透が私の腕をつかむ。暴れていた腕が透の手に押さえ込まれて、次第に動きが弱くなる。

 顔を覆っていた腕を無理やり開かれ、目の前に透の真剣な眼差しが見えた。見えた瞬間、私の顔を覗き込んだ透の眼がさらに細く、険しくなる。

 「香澄、これは……。」

 その言葉にハッとする。またあの眼になっている!?

 今になって、透に気づかれる事がむしろ一番の恐怖だったことに気がついた。今一番、私の近くに居る人。この人に拒絶されたら……。

 見られたくない! そう思ってまた腕をかざし、透を押しのけようとした瞬間、私は逆に引き戻され、透に抱きすくめられていた。

 ちょうど私の腕が透の胸を押している格好のまま、その周りを透の腕に囲まれている状態になったが、それでも構わず私は暴れ続ける。

 「落ち着け! 香澄!!」

 「離してよ!! 見たんならわかるでしょ!? 見たとおりよ! 私だって、いつどうなるかわかんないの! 私のそばにいたらあんただってどうなるか! 私があんな風に、プエルタの、アイツみたいになったら! あんな……」

 「まひるみたいに、か?」

 頭の上の方から、透の優しく落ち着いた声が聞こえてくる。私の腕が止まった。

 「悪い方にばかり考えるな。天使は、あの化け物だけじゃない。まひるだってそうなんだ。とても同じ天使には見えないが、まひるもなんだ。そしてまひるもきっと、お前と同じように苦しんでた。俺たちにもぎりぎりまで言わずにな。」

 そう言って、透はぎゅっと、腕に力を込めた。私の身体が強く抱きしめられる。

 「でも今は、おまえのそばには俺がいる。俺が守る。だから…、今だけはそんなこと言わないでくれ。」

 「透…。」

 抱きしめられる強さに体が反応し、反射的に腕にぐっ、と力が入って抵抗する。けれど、私にはそんな気持ちは無かった。眼を閉じて、透の胸に軽く頭を押し付ける。

 「今は……何も…考えたくないよ……。」

 言葉と同時に、透の胸を押していた私の腕から力が抜ける。

 「ん、どうした? 手ぇ出したら、『死んだ方がマシだってくらいぶっとばす』んじゃなかったのか?」

 「ばか…。」

 苦笑してそう言うと、私はそのまま手を下ろし、透の身体に身を預けた。

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