第二十七則 不是心仏

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和尚に僧が聞いた。「まだ人に説かれなかった法がありますか」 和尚は「ある」と答えた。「それは何ですか」との僧の問に和尚は答えた。「心でもなく、仏でもなく、物でもない」

無門和尚の解説:この和尚はこの問を受けて、家財を全て持ち出さねばならなくなって、大いにうろたえてしまった。


これまでにいろいろなことが説かれてきたが、まだ説かれなかったもの、説くことができなかった法とは何か、との問いです。

心とは精神の働きであり、それは何らかの媒体の上で作動するソフトウェアでしょう。物とはそれを支えるハードウェア、仏とはそれらを統合する法則、と考えることが出来ます。仏とは何か、という問いは、ハード、ソフトを統合している本質の法則とは何かということでしょう。それはある宗教では万能の神であり、真理であり、教義でしょう。

ここで提起されている仏でもない、ということは、その法則すらがこの世界に依存しているということ、これら全ての背景となっているものがある、ということでしょう。


物事の背景となっている舞台を、場、という言葉で表すことがあります。運動場、会議場などという現実のものから、磁場、力場、ベクトル場など計算上のものもあり、ミクロの世界にはニュートン引力と全く異なる弱い核力、強い核力などの新しい力の作用が現れる場、また素粒子の位置を決定することが不可能になる量子効果が現れる場があります。

大きい方には、現在の宇宙を表す時空の場、ビッグバンの開始直後に現れたという空間自体が強い相互反発力を持ったインフラトン場、 さらにビッグバン以前の時間も空間も物質もない、まだ確定した名前すらない場があります。 それぞれの場にはその場を支配する法則があり、それに従ってその場の中の物、または時間や空間が変動します。



禅の世界においても、心、仏、物は、全てひとつの「場」の中で動いています。それは何でしょうか。 その「場」はまだ禅の説法の中では説明されていないし、それを表す言葉も確立されていません。 この和尚が意味したのは時間と空間と物質が渾然となる物理的な意味での事物の根源の場ではないでしょう。 心がありそれを支える物質がありそれを統合する本質論があるが、それらを存在させ、成立させている場のことを言っていると思います。

この和尚は、そのような場を扱う法は「ある」と断言します。そしてそれはまだ誰も説いていないと言います。これまで沢山の説法があり沢山の和尚達が検討結果を残してきました。しかしこの基本となる場については誰も説いていません。それが説かれなかったということは、それが説くことが出来なかったともとれますし、説く必要がなかったとも考えられます。

人間は科学の世界では、その先はどうなってるの、その前はどうだったの、という背景の場についても質問を繰り返し、とうとうこの宇宙の始まる前、ビッグバン以前のまだ名前のついていない場にまで到達しました。まだその新しい場の中での心、物、法則にあたる構成要因は解明されていません。きっと人間はそれらへの追及もあきらめないでしょう。


現実の世界での心を扱う禅においても、心、物、そして仏性を生み出している場、それを意識し理解しようとすることは意義あることかもしれません。しかし、それは誰も説いたことはありません。説かれる必要がなかったのかもしれません。お前が敢えて繰り返し問うから答えたのだが、それにどう取り組むかは、お前自身が考えることだ、と和尚は言ったのでしょう。

無門和尚は詠って言います。この和尚は親切に教えすぎている。説明すればするだけ良いということではない。説明することによって却って仏を貶めることになる、と。

いかに心の階梯を遡り、または駆け下って本質を求めても、現在の段階を無視していたのでは現在自体を見失ってしまうでしょう。いたずらに答を現在の外に求めてはならない、それなら却って考えない方がよい。説明しない方がよい。それがこれまでに説かれなかった理由でもあるのでしょう。

心、物、法則を超えたものを理解しようとするなら、それなりの覚悟と理解が必要です。これまで説かれなかった法などを求めるよりも、まずこれまでの教えをよく学べ、と無門和尚の指摘であると思います。


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犬足:「心でもなく、仏でもなく、物でもない」とは、どんな状態でしょう。 無を「何もない」と考えると、「何もない状態がある」というパラドックスを生じてしまいます。

無限大にはアレフゼロ、アレフワンなどのレベルがあり、無限大にも大小があります。 それに倣って無にもレベルを考えました。仮に「ナレフ」と呼んでみます。アレフはヘブライ語のA。
ナレフは「無のアレフ」と私が勝手につけましたが、 ポーランドにナレフ川というのがあって、ポーランド分割の際に境界線の一部だったそうです。

ナレフ0:何も物質がない状態。宇宙の、暗黒物質も星間物質もない真空状態。 通常水素原子が若干あるそうですがそれも全て取り去った純粋の空間。

ナレフ1:ナレフ0の宇宙が生まれる前の状態。 ここから「量子揺らぎ」により空間と物質と時間が生じ、ビッグバンという宇宙の始まりが創生されます。

ナレフ2:量子揺らぎを生ずるナレフ1の「場」自体を取り去った状態。 不確定性によるゼロの禁忌もありません。 ここかからナレフ1を産み出すには未知の大きな飛躍が必要で、これが本当の万物の創生でしょう。これは神の意思としてもいいでしょう。

ナレフ3:ナレフ2の神の意思すら取り去った、本当に何もない状態。 パラドックスのひとつに「全能の神は自分が持ち上げることが出来ないほど重い岩を作ることが出来るか」というのがあります。 これに倣って「神は自分自身を完全に消滅させることが出来るか」とし、それが可能であった場合、 神が消えた後に残る(残らない?)状態がナレフ3でしょう。

現代の物理学で扱っている「無」、量子真空は、ナレフ1ということになります。
無門和尚の「無」は、どこまでを考えられたのでしょうか。