本文全48則は、2004年3月から1年間、少しずつ連載しました。
Yahooホームページの廃止により消失しましたが、2024年2月に整理し再掲しました。
ホームページ用にかなり短縮しましたので、語り尽くせなかった点も多々あります。
ぜひこちらの本も読んでいただきたくお願いいたします。
このホームページは後十年と経たない内に、私と共に消滅してしまうでしょう。
本をお求めいただけば、それよりいくらか後まで残ると思います。ご興味を持っていただいた方がおられましたら、
ぜひ本をお手元に置いていただきますよう、お願い申し上げます。
無門関をテキストとして禅に真剣に取り組み、自らの肉体を苛めてまで修行に取り組んでおられる方々を思うと、
このような解釈書もどきの雑文を発表することは恐れ多いことです。
無門関の私なりの理解を通じて、私自身は一つの安心を見出し、物事の本質を見たような気がします。
しかしそれは禅の目指す悟りとは全く別のものでしょう。禅に関する書物を読めば読むほど、
私と禅の間の深淵は一段と深くなってゆくようです。
でも、私はその深淵の反対側に立ちつつ、自分なりの安心は得られたような気がしています。
これを読んでくださった方も解釈の是非ではなく、解釈の幅とアイデアを一例としてご理解いただき、
新しい物事の見方のヒントにしていただければと思います。
ここに述べた解釈は、本来の意味とは違うものかもしれません。出版されている多くの参考書とは全く違う独断的なものです。
「心の安寧を求めるに独りよがりになりて周囲見えず。
書き終えて尚闇が深まりておられる筆者がお気の毒なよう」とコメントを下さった方がありました。
しかし、米国の禅の本には「無門関は日本では原著と異なる解釈がなされている」とするものもあります。解釈に幅があることもこのテキストの特色でもあると思います。
拙著も無門和尚の提起された課題に対する一つのアウトプットです。間違っているとしても、
それが私という一個の人格が真面目に取り組み、真剣に反応した一つの実例です。
禅の世界を論理的に捉えて楽しんでいただける方々があり、拙文に対しご意見をいただければありがたく思います。
2005年3月
2024年2月(再版)上村一路
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