歴史の部屋

後藤文夫。《法廷証第166号、速記録第1、638頁》

 本証人は1934年の岡田内閣の内務大臣であった。そしてその期間中に1936年の陸軍の叛乱が起こり、そして岡田総理大臣暗殺が企てられた。本証人は岡田が包囲されていた3日間総理大臣代理の役を務めた。岡田及びその内閣は軍部に悩まされた。当時陸軍の最高首脳部連には、陸相川島大将、あまり活躍していなかった参謀総長閑院宮、参謀次長杉山大将、教育総監渡邊大将、軍務局長今井少将、関東軍司令官南大将、関東軍参謀長板垣少将等がいた。

 1940年近衛首相が大政翼賛会創設を決意した際、証人に対し、この会の諸計画立案に関して意見を徴した。証人は、橋本がその一員であったところの準備委員会において、多くのことを試みた。証人は後に総務委員会における一地位を占め、会務に参与した。

 大政翼賛会の設立後は、他には重要な団体がなくなった。結果は、高い地位を占めた官僚によって全面的に統制された重要な公事結社の創設であったのである。この結社は年八百万円までの政府の補助を受けた。そしてすべての県、区、町内にまで及んだ。

 反対訊問において、証人は大政翼賛会の実践要綱及び運動規約の作成に関与したと述べた。証人は大政翼賛会の理事の一人であって、総務(ここに「委員会のメンバー」と補うと意味が分かりやすい)の数は正確には記憶していないが、30名から40名ぐらいの数であったと言っている。翼賛会は1940年10月10日に設立され、1945年の鈴木内閣中解体された。大政翼賛会綱領の中の言葉、すなわち『我々ハ世界ノ道義的指導者タラントス』という実践要綱の言葉は、彼らが国民の道義的水準を高め、他の国々からの尊敬を得ようと努めるという意味であった。

 要綱の第二項における『本会ハ、世界新秩序ノ確立ニ努ム』という言葉に関して、証人は、本会はそれをなす時間がなく、幸いにもまたそれほど有力なものにもならなくて済んだと述べた。

 証人は、大政翼賛会の目的は『万民一億一心、職分奉公ノ国民組織ヲ確立シ、ソノ運用ヲ円滑ナラシメ、モッテ臣道実践体制ノ実現ヲ期スル』以外どのようなものでもなかったと述べた。この目的の中には、世界の道義的支配者であろうとする観念や、世界新秩序の確立のために活動するという観念は全然含まれていない。公事結社と称したことに関して、証人は、それは政治結社ではないものと意味したと言った。証人は、翼賛会は政府によって統制されていたのであり、同会が国民を統制したのではないと述べた。政府から受けた八百万円の金銭は、国民の臣道実践を目的とする翼賛会運営の費用として用いられた。

 臣道実践に関しては、証人は日本国民が日本国民として尽くすべき兵役、納税及び法律上、道義上の義務を含むところの義務を実践することであると言った。

 大政翼賛会は、国民をして大英帝国や米国に対し、非人道的な、また非合法的な戦争を準備させるために設立されたのではなかった。

 証人はさらに、政党が解散させられたのは、大政翼賛会の設立の結果ではなかったと言った。議会政党は準備委員会が組織される以前にすでに解散させられていた。当時近衛が一大政党を結成しようとしているという見解が一般的に広まっていた。そして証人は、各政党の指導者が右の単一合同政党に参加する意図の下に、それぞれの政党を解散しつつあったのだと信じていた。これは証人の誤解であったかもしれないが、とにかく政党は解消した。近衛は自分の最初の一党結成の計画を放棄した。同時に国内の輿論は、かような観念は日本国体に即したものではないという傾向にあった。この雰囲気のうちに、準備委員会が開かれたのであった。

 かようにして近衛の意図は、日本国民が各々異なった政治的観念や政見を持っていても、すべての階層の日本国民が同意し得る団体を設立するということであった。それは一定の綱領と、それを実行する能力を持った一大政党ではなくて、あらゆる意見と傾向を持った、あらゆる種類の人々が同意し、運用することができる団体であった。強力な政党を欲した人々にとっては、この会は大きな失望であった。彼らは大政翼賛会に加入できるようにその政党を解消したのであった。(←この一文は、「彼らが既に自分たちの政党を解消していたので、彼らは大政翼賛会に加入できた。」と訳す方が適切だろう)しかしながら大政翼賛会が政治力を持たなかったことに対しては、非常に不満であった。

 これらの政治家は、有力な新政党設立の必要を感じたので、大政翼賛会を退いて翼賛政治会を形成した。近衛内閣が国会において、大政翼賛会は公事結社であって政事結社ではないと言明したのは、この時であった。

 大政翼賛会は、国民の職責はどのようにあるべきかに関する精神的な運動を主として遂行した。それはおもに国内運動に関したものであった。たとえば生産の増強、国民生活の規律というようなものであった。翼賛政治会の成立後、大政翼賛会の機能には大して変化はなかった。そして依然としてその機能を続けた。一方翼賛政治会は議会活動に乗り出し、またその政策要綱を宣言したりした。《法廷記録第1664−72頁》

 この証人は、本件において証言するため、巣鴨拘置所から召喚されたのである。

 奉天事件考察の際、すでに本官が触れた岡田証言《宣誓口供書、法廷証第175号及び176号》同時にまた法廷記録第2177号Aである、これもまた本官がすでに注意を喚起した1934年東京控訴院において述べられた大川博士の証言に注意を促したい。

 反対訊問において、この証人は以下のように述べた。

  1、満州における田中積極政策は、武力によるのではなくて、平和裡に遂行することになっていた。

  2、日本の国策は、平和的に中国に進出することであった。日本は紳士協定によってその他の地域への平和的進出を阻止された結果、この政策をとらざるを得なくなった。当時日本は、非常な人口過剰で悩んでいたので、いずれかに進出しなければやってゆけない状態にあった。

 田中隆吉もまた、検察側によってこの目的のために召喚された。

 田中証人の陳述は、左の事柄に関してであった。すなわち、

  1、1928年6月4日の張作霖殺害事件。

   (a)証人は1942年、同殺害事件に関する報告書を見た。その記録は紛失している。《法廷証第180号》証人は記憶からその内容を述べている。

   (b)この殺害は関東軍高級将校河本大佐によって計画された。

   (c)関東軍司令官は右の事件となんら関係がない。

   (d)右の計画は河本大佐以下十名によってなされた。右の計画は大佐自身だけのものであった。尾崎大将の役割はただ命令に従うことであった。彼は爆破事件となんら関係がなかった。

   (e)(1)証人は1935年に、この事件について河本大佐から聞いた。

     (2)証人は1929年尾崎大佐から聞いた。

  2、1930年及び1931年における満州に対する軍の態度。

   (a)将校名――建川少将、橋本欣五郎、長勇大尉、板垣大佐、石原中佐。

  3、1931年《春》の桜会の結成。

   (a)1930年12月1日の会合は、橋本大佐が招集したのであった。

   (b)目的は(1)国内革新の遂行、(2)満州問題の解決。

  4、1931年9月18日の満州事変。

   (a)計画された事件であった。

   (b)関与した日本人の主な者は、建川少将、橋本中佐、大川周明、長勇大尉であった。長大尉及び橋本中佐が自分に告げたところによればあ、関東軍の指導者は次の人々であった。参謀長板垣大佐、参謀副長石原中佐。

   (c)この計画は日本の国内情勢並びに満州の情勢を打開するためである。その目的のために満州における支那軍閥の勢力を駆逐し、ここに一つの新天地、いわゆる王道楽土をつくって共存共栄下に置いて、日本のコントロールのもとに満州の経済的開発を行なって、日本国家を安定にし、かつまたアジアの安定勢力としようとしたのである。

   (d)証人は、橋本から1934年、次のようなことを聞かされた。すなわち、

    (1)満州事変は関東軍によって企てられた。

    (2)究極の目的は、満州を、亜細亜の復興をもたらす基地とすることである。

    (3)事変の前後における願望。

 証人は詳細な計画について述べていたのであり、土曜日には建川が証人に、その事件が関東軍によって計画中であると告げたと言いきったのである。《記録第2010頁参照》しかしその前日、検察側は繰り返し努力したにもかかわらず、証人をしてこの陳述をさせることができなかった。《記録第1966、1975、1983、1987、2003及び2086頁参照》

 すでに本官が注意を促したように、この橋本が述べたと称せられる言葉に対する信憑性の保障は全然ない。右は自白書としての信憑性に関する通例の保障さえも有していない。橋本がこの証人に向かって述べたと言われている話をした際には、彼は決して自白をしていたのではない。彼が罪を自白するということを促すように動機は、あり得なかったのである。彼が少しでも罪を意識していたということはあり得ない。理由は簡単である。すなわち、当時の日本において、だれか右の行動を犯罪として考えていた者があったということは誰も問題にしていないからである。当時同事件は、その当座において日本に有利であると考えられた若干の結果を生じたのであり、自分こそその事件の張本人であると、間違った誇りや自慢したかもしれない(←正誤表によると「自慢したかもしれない」は誤りで「自慢から主張したかもしれない」が正しい)ということもあり得るわけである。本官の意見では、かような性質の伝聞証拠に基づいて、橋本が右の行為において自分の協力者であったと指名したと称せられている人物の何人かに責任を負わせようとすることは、危険であろう。

 1928年以来、日本においては東条内閣の成立まで11の異なった内閣が成立し、瓦壊した。

 弁護側によれば、これらの内閣の多くは、国際情勢とはなんら関係なく、単に国内的理由から瓦壊したのである。これらの内閣が倒れた理由の中には、次のようなものがある。すなわち田中内閣は1929年7月1日閣内不一致のために倒れた。濱口内閣が1931年4月13日に倒れたのは、首相の病気のためであった。第二次若槻内閣は1931年12月12日、若槻と内務大臣安達との間に、内閣は連立であるべきか否かに関する意見の相違があったために倒れた。

 犬養内閣は、国内政治問題に関連して、若干の青年将校が犬養を暗殺したので、1932年5月25日瓦壊した。斎藤内閣は1934年7月7日、若干の大臣及び政府高官に累を及ぼした疑獄事件のため崩壊した。1936年3月8日の岡田内閣の崩壊は、2・26事件の結果であった。1937年2月1日の広田内閣の崩壊は、広田と寺内陸相の間に衆議院を解散すべきか否かに関する問題で意見の相違を生じたためであった。林内閣は、1937年5月3日、彼が議会を解散して瓦壊した。新たに選ばれた議会が林の国内諸政策に反対したのであった。第一次近衛内閣は1939年1月4日、防共協定に関する閣僚間の意見の不一致のために倒れた。1939年8月29日の平沼内閣の崩壊は、内部軋轢と突然の予期しなかったドイツとロシヤ間の不可侵条約締結のためであった。阿部内閣は1940年1月15日、国内物価政策と貿易省設置の問題で倒れた。米内内閣は、新政党形成に関する意見不一致のため、1940年7月21日崩壊した。第二次近衛内閣の崩壊は、1941年7月17日、外交交渉に関する近衛と松岡外相との意見の相違によって生じた。第三次近衛内閣は、対米政策について近衛が東条と意見を異にしたことによって、1941年10月16日崩壊した。

 ヒトラーと異なって、日本においては、起訴状に述べられている期間中、これらの内閣または軍部内における支配的地位を継続的に占めていたものは一人もいなかったのである。これらの内閣中三つの場合において、すなわち1927年4月20日から1929年7月1日に至る田中内閣、同29年7月2日から1931年4月13日に至る濱口内閣、並びに1937年2月2日から同年7月3日に至る林内閣の期間中において、被告中のだれ一人として内閣の一員または参謀総長もしくは軍令部総長であった者はないのである。

 この点に関連して挙げられた証拠によって明らかにされた数個の意味ありげな事件は次のようなものである。

  1、1928年6月4日の張作霖殺害事件の結果、1929年7月の田中内閣の崩壊。

  2、濱口内閣時代における1931年の三月事件。

  3、濱口の暗殺及びその結果としての1931年4月14日における濱口内閣の崩壊。

   (a)被告南を陸軍大臣とした1931年4月14日の若槻内閣の登場。

   (b)1931年9月18日の奉天事件。

   (c)1931年の十月事件。

   (d)若槻内閣の崩壊と、それに続く被告荒木を陸軍大臣とした1931年12月13日の犬養内閣の成立。

  4、1932年の五月事件。1932年5月15日の犬養の暗殺と、その結果である同内閣の崩壊。

  5、被告荒木を陸軍大臣とした1932年5月26日の斎藤内閣の成立。

   (a)被告広田外務大臣として登場する。

  6、斎藤内閣の崩壊と、1934年7月8日被告広田が外務大臣として留任した岡田内閣の成立。

   (a)1936年の陸軍の叛乱。

  7、岡田内閣の倒壊と、その後継としての1936年3月6日の広田内閣の成立。

   (a)1936年の勅令。

   (b)1937年2月2日の林内閣の就任、被告中この内閣の閣員であった者はない。

  8、広田内閣の崩壊に際して、宇垣大将が組閣を命ぜられたが、軍部の反対のためにこれは挫折した。

   (a)広田、賀屋、板垣、木戸及び荒木をそれぞれ外務、大蔵、陸軍、文部大臣とした1937年1月4日の第一次近衛内閣の成立。

  9、1940年の大政翼賛会の創立。

 この期間中のいろいろな政治的暗殺の責任者と見られていた軍閥は、特定な陸軍あるいは海軍ではない。検察側の証人のうち一人として、右の軍閥が関東軍であるとか、もしくは他の陸軍あるいは海軍の一部であると言い得たものはなかった。幣原男爵はその証言において、この軍閥というのは関東軍とは全然異なっており、南陸軍大臣は確かにこの軍閥の中には入っていなかったことを明らかにした。幣原証人によれば、陸軍の『ある青年将校等』が右の軍閥を形成したというのである。彼はそれらの者の名前を挙げることはできなかった。彼は本法廷のどの被告をも、右の軍閥に属しているものとして指名はしなかった。幾人かの証人は、被告橋本、板垣及び小磯を右の期間中の不祥事件のあるものに関連があるとして指名した。しかしこれらの証人等でさえも、彼らを軍閥に属するものとは言わなかった。だれ一人として、荒木大将が軍閥と関係があると言った者はなかった。かえって犬養健は、荒木は満州事件の拡大を防ぐため全力を尽くしたが、青年将校一派を統御することは荒木の力では及び得なかったと証言した。荒木自身でさえも、この一派の暗殺の的として狙われたのであった。

 王立国際問題協会による1932年の調査の中で、日本におけるこのような事態の展開は次のように説明されている。すなわち、1931年12月13日、当時の民政党内閣に代わって犬養氏を首相とする政友会内閣ができた。新政府はその就任当日、金輸出禁止を行なった。『1927年7月以来その職にあり、1930年2月行なわれた総選挙の結果、引き続き再確認されていた前政府は、依然として議会における大多数を占めていた。右の議会は、同政府崩壊の際、開会さえもしていなかった。かような情勢のうちに保守派が自由主義派に代わったことは、日本においては・・・・議会政治はまだ風土に順応していない、か弱い外来物であるということを示している。それは間もなく暴力をもって明示されるようになった。というのは、政友会の核心をなした金融家、産業家らは、日本の政治における新運動の背景にある推進力ではなかったからである。彼らは政権を思いがけなく獲得するや否や、直ちに金本位離脱を断行したが、これは疑いもなく彼らが代表する利益にとっては有利なものであった。しかし彼らが、公の財政に関する右の処置を彼らの私的な利益に利用することは実際成功したこと、あるいは成功したと思われたことは、かえって当時日本も含めて全世界を吹き荒らした経済的嵐に乗って、急速に日本において力を有しつつあった新政治勢力によって、不正であるとして攻撃される理由となった。2月20日行なわれた総選挙において、他のすべての党に対して議会において136の大多数を占めた政友会の復帰によって、保守派の議員は、その後三ヶ月以内に彼らの自由主義派の同僚議員が陥った運命を逃れることができた。

 『前面に押し進みつつあった推進力―前面というよりも、それは下から盛り上がりつつあったのであるから、表面という方があたっているかもしれない―この推進力はあらゆる色彩の議会政治家に敵対していた。かつ議会政治が代表していると目せられた産業及び金融「資本家」のブルジョア的都会文明にも敵対していた。この推進力は日本陸軍であった。そして陸軍は、収穫逓減という形ですでに現われつつあった日本農村の過度耕作と、人口過剰の経済的反動と、併せて最近の世界的農産物価格の暴落のため、農村プロレタリアとしての絶望的苦境に陥っていた農民階級の擁護者をもってみずから任じていた。当時都会の産業労務者人口の激増にもかかわらず、農民はなお日本全人口の52%を占めていた。かつ日本陸軍の編成は一般徴兵制度によっていたのであり、兵の中核はこの農村プロレタリアの青年層によって構成されていた。青年将校らは兵卒とその家庭の窮境をよく知っていた。《青年将校が部下と人情味のある関係を保っていたことは、賞賛に値することである。これらの将校自身も、また比較的低い社会層の出身者であったのである。》農民の苦難の姿が青年将校間に起こした政治運動は、彼らの上官の暗々裡の同情と承認を受けた。日本軍の高級将校は、青年将校の熱意ある努力がもたらすべき結果によって利益を得たかったことは兵隊と同様であった。ところが高級将校は用心深く背後に止まり、兵は実力と経験とを欠いていたために積極的に動かなかった。かようにして青年将校は軍農暴動(the military-agrarian out-break)の鉾先の《もっと現実的にいえば、暗殺の刃、爆弾または弾丸を使う》役割を演じなければならなかったのであった。

 『欧米流に言えば、この暴動は「ファシスト」または「ナショナル・ソシアリスト」(国家社会主義)運動であった。・・・・

 『これら「ファシスト」的日本将校が単に思慮の足りない理想家にすぎなかったとしても、彼らが政権を握った結果として生ずべき波乱は相当大きかったであろう。ところが日本では、不幸にして犯人が愛国的動機に動かされ、殺人の意図を実現する代償として一命を捧げる決意さえあれば、政治的犯罪やそのための暴力の使用は理想または名誉と相反しないと、伝統的武士道精神が教えてきていたのである。従って1931年9月18日と1932年5月26日との間、形式は別として、事実においては、全国に放たれた軍のは、数次の政治暗殺という結果になって促進されたのであった。・・・・

 『日本人による日本人の政治的暗殺は、1932年にも一度あったが、これは特異な日本の国民道義観の表現であった。

 『この一連の政治的暗殺の最初の犠牲者の一人は、1929年7月民政党内閣を組織した政治家濱口氏であった。』同氏は、1930年11月14日受けた負傷の結果、翌年8月27日死去した。『その後、1930年のロンドン海軍軍縮会議の際に知己となった一日蓮宗の僧侶と一海軍航空隊員とによって結成された「血盟団」は、1932年2月9日井上準之助氏《倒壊した民政党内閣蔵相》と3月6日団琢磨男爵《三井の総取締役》を暗殺することに成功した。これらの罪は、いずれも血盟団創設者である二人が教唆し、凶器を与えた一農村青年によって実行されたものであるだけに、特に卑怯なものであった。』・・・・

 『これら一連の罪の極点に達したものとして、1932年5月15日実行された犯行において、海軍青年将校6名、陸軍士官学校生徒もしくは元生徒11名の一団は、当時の総理大臣犬養氏を官邸で射殺し、東京の五つの重要な建物に爆弾を投じた。犯人は皆軍服を着用し、爆破隊が市街に散布したビラでは、「軍人行動隊、農民決死隊」と自称していた。爆破隊中のある者は自動車に乗って仕事をした。爆弾を投げられた五つの場所は、政友会本部、警視庁、日本銀行、三菱銀行と内大臣官邸であった。民間別動隊である農民決死隊員は、同時に東京の数箇の発電所を襲ったが、成功しなかった。その日の暴動の結果、犬養氏とともに8名の負傷者が出たが、死亡したのは総理大臣だけであった。

 『これらの事件は、いずれの点においても日本の伝統にかなうものであった。暗殺者の方は、行動を終えた後、日本の慣習に従って憲兵隊本部へ自首し、これによって自分の名誉を完うしたのである。そして他方、この兇悪な暴行の行なわれた際、犬養氏とその家族は最大の勇気と威厳とを示したのである。・・・・

 16日早暁武装した歩兵中尉二名、少尉一名は、私服の将校三名とともに陸軍省に至り、荒木陸軍大臣に面会を要求した。彼らの要求は拒絶された。彼らは参謀次長に面接した。然し拘禁はされなかった。

 『凶報に接した内閣は直ちに総辞職をしたが、別に沙汰があるまでその職務を続行するよう、天皇の下命があった。東京株式取引所ばかりでなく、大阪、神戸、名古屋の取引所も業務を一時停止した。海軍大臣大角大将と陸軍大臣荒木大将は、それぞれ各艦隊司令官、各師団長に対して、不穏の動揺を取り締まるよう命令を出した。

 『しかし1932年5月15日の暴行に対するこの公式の非難は、陸海軍幹部が、その結果発生すべき事態を政治的に利用しない意思であったということを意味しない。その実際の意向は、翌日東京朝日新聞に掲載された内面指導記事で暗示された。すなわち、

   『昨日の事件に陸軍将校が参加していないことは、最高幹部は一般の信用を保持していることを示すものである。しかし青年将校は国民の苦悶を承知しているから、幹部が国民の信頼を欠いている政治家と協力すれば、軍紀が保たれ得るかどうかは疑問である。であるから、国民は腐敗した政党政治を排除し、現下の情勢に対処し得る強力な国家的政府を要求すべきである。軍は政友会内閣または連立内閣の継続を承認できない、と。』

 『その後の組閣交渉にあたって、軍は二政党のうちのいずれかに属する政治家が、形式的にも再び政権を握ることを実際に拒否し、しかも軍はこの拒否に、事実上ばかりでなく、陸海軍大臣は軍の推薦に係る現役軍人でなければならないという憲法上の規定によって法律上にも効力をもたせることができた。この際の軍の政治に対する干渉は、単に消極的なものではなかった。何となれば、軍はまたどのような新内閣が成立しようとも、農業無産階級を救済するため、強力かつ有効な手段をとらなければならないという条件を提出した。軍はその主張を通した。』その結果が斎藤内閣となった。

 陸海軍の幹部は、その結果として起こった事態を政治的に利用したくないということをあえて示さなかったかもしれない。しかし事態そのものは、彼らがつくり出したものではなかった

 上述の軍の政権掌握は、本法廷における被告中のだれかが、侵略的意図をもっていたことを少しも示すものではない。本官はこれに関連して、当時における日本の事態に関するスチムソン氏の判断を援用することができると思う。

 日本人が人間の一代の短期間内に、封建的専制制度の孤立状態から近代的工業国家に化したことを指摘してから、スチムソン氏は次のように述べている。いわく、『日本は、先見の明のある元老の一団の指導のもとに、西洋文明の物質的要素を驚くべき速度で摂取した。活発にして明敏な日本国民は、技術、工業、商業において巨大な進歩を遂げた。この産業の発展の結果として、社会的、政治的な観念もまた次第に発達しつつあった。日本が議会政治的な特色をもつ憲法を採用し、その人民間に選挙権を普及しつつあった。しかし1850年以前の7世紀間は、日本で政治を行なった特権階級は武士であって、農工商業に携わる者は、下位の役割しか与えられていなかったのである。・・・・

 『日本人のように愛国心の熾烈な人民の生活の中に、長い間存続して来たこの伝統――は、現代の人民主権の理論によって簡単に覆すことの出来ない成果を生んでいた。内閣制度が導入された後も、多年その指導者は軍人であった。文官政府が全人民の代表として、陸海軍の忠誠奉仕の対象となるべきであるという理論は、日本国民に一般的には受け入れられていなかった。軍部の首脳部は内閣に従属するものではなくて、国家の元首としての天皇に直接独立に上奏することができた。西洋流の民主主義的思想も発達しつつはあったがこの発達は遅々たるものであり、かつ大多数人民の間には充分普及していなかった。1930年に、イギリス及び合衆国との海軍条約の批准は、海軍軍令部部長加藤大将によって反対された。文官である政府の長、濱口雄幸首相の進言に基づいて、この海軍の反対を斥けて、天皇が同条約を批准したとき、この現代憲法政治の方向に沿った行ないは、深い怨みを買ったのであり、これに続いた反動的暴挙の中のあるものは、この影響を受けた結果であったかも知れない。濱口氏はその後間もなく軍国主義的熱狂者によって暗殺された。また諸秘密団体が結成されたが、これらは日本の歴史の上に有害な影響を及ぼす運命をもっていたのである。

 『しかし1931年9月当時、政府の職にあった政治家たちは、未だ穏健な憲政派に属し、西洋の考えを取り入れる運動を指導して来た人々であった。濱口氏に代わって若槻礼次郎氏が首相となった。同氏は、ロンドン海軍軍縮会議の日本側代表団の首席であった人である。外務省を統轄していたのは、対外問題、特に中国に対して合理的な、また自由主義的な政策をもって有名な幣原喜重郎男爵であった。大蔵大臣井上氏は日本の信用、金融状態を健全化したのであり、これは全金融界の認めるところであった。衆議院議員選挙に男子普通選挙制度が採用され、これによる第一回選が(←正誤表によると「第一回選が」は誤りで「第一回選挙が」が正しい)1928年2月に行なわれた。

 『要するに国務省の目に映じたわが隣人である日本人は、愛国心の熾烈な、自負心に満ちた、敏感な、覇気ある国民として、合衆国に対して元より友好的態度の伝統をもっていた。しかしこの友好的態度は、移民法として最近わが国の議会が採用したところの、日本の目には、侮辱的な形式と見えるものによって傷つけられたのであった。彼らが祖先からうけ継いだ軍国主義の長所と弱点は、産業革命に伴う経済社会状態の発展と、それとともに訪れた西洋民主主義の観念によって、わずかに部分的に改変されたに過ぎないのであって、政府は依然としてこの二要素を反映し、この二要素は今日も完全に融合することなく、それぞれ支配権を握ろうとしているのである。』

 軍部が事態を政治的に利用することをあたえて(←正誤表によると「あたえて」は誤りで「あえて、」が正しい)いとわなかった(←厭わなかった)ことは、なんら驚くに足りない。しかしこのようにして権力を握った彼らに、なんらか共同謀議もしくは侵略的企図があったと、なぜこれによってわれわれが推論しなければならないか本官としては理会出来ない。彼らに政治的権力を握られた事態をもたらした諸事件に、彼らがなんらか関係があるとすることができるような証拠は、全くない。いずれにせよ、これらの不祥事件は、当時の日本の国内事情によって、充分に説明されているのであって、必ずしも本件で主張されているような種類の共同謀議を、われわれに推論させるものではない。またこのようにして権力を握った者が、たまたま軍人であったという事実も、起訴状中に主張されるような種類の軍事的侵略の企図を、なんら示すものではない。上に述べた事情は、この諸事件並びにその中に、なんら右のような侵略的企図をもっていない一部の軍人が関係していたことについて、充分な説明を与えるものである。 従ってこれらの諸事件をもって、なんらか侵略戦争もしくはそういう戦争を究極の目的としてもつ権力の獲得に対する全面的企図を意味するものと認めることは、本官はできない。

 従って、これ以上各事件を別々に検討する必要はない。1931年の三月事件及び十月事件は、政府の転覆のために企てられたものであり、被告橋本がこれに参加したことは、明白に認められているところである。しかしこれらの企てを、本件で主張されている共同謀議の目的と結びつけるような証拠はなんら見出すことができない。

 広田内閣崩壊後の宇垣大将の組閣の失敗は、軍の反対によるものであった。この反対は『現役軍人でありながら政治に容喙していたものたち』から受けたと宇垣大将は述べている。そこになんら邪悪なものがあったとは、本官は納得できない。これに続いた内閣は林内閣であって、同内閣には被告中だれも列しなかったのである。

 1936年2月26日東京に起こった軍人の叛乱は、彼らが転覆を企図していた社会、政治秩序を代表するものに対して、『直接行動』に訴えて、軍の首脳部をむりに動かそうとする日本陸軍内の過激分子による企てであった。それは政治的革命及び叛逆という二重の性格をもっていた。この叛逆が日本陸軍のような紀律厳格な団体の中であり得たということは一つに保守派と「青年将校」派との間に生じていた分裂によるものであった。保守派は陸軍の政治関与を禁ずる明治天皇の命を重んずと称していた。それはともあれ、続いてできた内閣は、なんら共同謀議に参与したという訴追を受けていないのであり、その上すでに示したように、広田を除いて他の被告は、だれもこの内閣に列しなかったのである。

 1936年の勅令の通過は、憲法上重大な変化を生んだものであって、検察側はこれを目して、軍による政治権力獲得への重要な一歩であるとしている。この勅令は陸海軍大臣の地位に関するものであった。本官にはこの憲法上の変化が、検察側の考えるような邪悪な動機に基づいて行なわれたとは考えられないのである。軍紀粛正は当時焦眉の急の問題となりつつあった。この勅令の起草者の考えたと思われるところに従えば、これの実現方法は現役の高級将官を内閣に入れ、それによっておのずから青年将校の統御を期待し得るようにすることであった。この考えは本官には不合理なものとは思われない。またなぜこれからなんらか邪悪の企図を読みとらなければならないか、理解できない。

 現在の問題に関する限り、若槻内閣の倒壊はなんら不吉な前兆を意味するものではなかった。若槻自身が同内閣倒壊の事情を本法廷で述べている。同氏は安達内相の態度をもって、この倒壊に責任があるものとした。氏は南陸相をなんらこの事件と結びつけることはしなかった。同内閣の外相であった幣原男爵も同じ趣旨の証言をして、同内閣の倒壊したのは、なんら南大将の行動によるものではなかったと述べている。

 大政翼賛会の設立は1940年近衛首相によって決定された。同会は1940年10月10日に創立した。検察側証人後藤文夫は、同会の目的は次のようなものであると述べた。すなわち『万民一億一心職分奉公ノ国民組織ヲ確立シ、ソノ運用ヲ円滑ナラメ、モッテ臣道実践体制ノ実現ヲ期スルヲモッテ目的トス』と。検察側に従えば、『大政翼賛会は周知のナチス、ファシスト政党を原型とする忠実な模型であって、政府を利し、反対を抑圧するために人民を支配するものである。』同会をこのように特性づけることは支持するような証拠は絶対に全くない。これは単に検察側諸国の邪推に過ぎない。弁護側証人は、本会をもって増大しつつあった国家の危機に対応するためにつくられた平和的な団体であると述べた。検察側はこの証言に対して、単に『このような主張をするのは、その危機とは共同謀議者らだけにその発生の責任がある危機であったという重大な事実を、弁護側は完全に看過しているのである。』と批評を加えているだけである。危機がこうしてつくられたものと仮定しても、団体そのものの性質を変更するものではない。どのような政治家でも、危機が、国家自体が以前とったある手段に基因するかもしれないからといってそれを見逃すことはできない。この批判は団体の性質及び機能に関する適切な調査を助けるものではない。それは国家の政策を支配しているものにある特定の動機を結びつけるのを承認するように、人の頭を感情的に傾かせる作用をもつ方向転換の問題を提供するにすぎない。しかしわれわれは、われわれの努力を、団体の機能及び運営を述べること及び事実の適切な評価に限定しなければならない。『各々そのところを得』は、日本の社会的機構において、特殊な意義を有している。日本の階級制度に対する信頼は、人間対国家の関係に関する概念全体において根本的なものである。どんなに大政翼賛会という団体が国際的意識を有する人々にとって不祥なものであると見えようとも、もしわれわれが、日本人が従来から秩序及び階級制度に依存しているということを想い起こしさえすれば、それにはそれほど悪質なものはなかったのである。

 以上指摘したように、検察側は共同謀議者による政権簒奪の跡をたどるために、共同謀議の第三段階を印するものとして、広田内閣を挙げている。広田は、主として法廷証第935号及び第216号によって裏づけられた彼の外交政策のために、共同謀議者として指名されている。

 広田が最初に外務大臣に任命されたのは、1933年9月14日斎藤内閣においてである。記録には、その期日前、主張されている共同謀議と広田との関係は何ものをも示していない。右の時期以前、同人は陸軍あるいは海軍において、どのような地位にもついたことはない。同人は外務官吏としてアメリカ合衆国、英国、中国、オランダ及びソ連に勤務したほか、本省の要職にもついたのである。同人は1930年10月15日から1932年11月19日までソ連駐在大使であった。その任から解かれて、1933年9月14日、外務大臣の地位受諾を要請されるまで自適の生活を送っていた。検察側は、同人のソ連駐在大使としての活動に関する種々述べたが、本官はかような活動になにか邪悪なものがあったと見る者は、一人もないと思う。むしろこの期間に関する証拠は、検察側の同人に対する立証が絶望的性質のものであること及びなんとかして同人を引っ張り込もうとする狂気じみた努力を示すものである。

 この広田に対する証拠から得られる最大のものは、同人の対ソ政策はソビエット政府にとって敵意を有していたものであるということである。しかしその当時他の多くの責任のある政治家もソ連に対して類似の政策をとっていた。われわれはアメリカ合衆国でさえ1933年までソ連を承認しなかったことを記憶する。ソ連政府が樹立された当時、ソ連は世界の既存政府に対して、革命を奨励する宣伝及び活動をもって、他の国々に対する共産化を含む自己の政策を行なったことによって他の国家から嫌われ者となった。ウィルソン大統領は1919年、次のように言明した。『本政府《合衆国》の見解では、われわれのとはまったく異なり、またわれわれの道義感にまったく相容れない国際的観念を有する国家とともに立ち得る共通な立場はあり得ない。・・・・われわれは、われわれの制度に対して陰謀を企てることを決意し、それをあえてしようとし、またその外交官が有害な暴動の扇動者となるような政府の代表者に対し、旧来の関係を認め、あるいはまたそれらに好意的待遇を与えることを認めることはできない・・・・。』

 ケロッグ国務長官は、1928年にクーリッジ政権の態度の概要を次のように述べた。『世界に現存する政治、経済及び社会的秩序の崩壊をもたらすことを使命とし、それに応じて他国に対する行動を規律しようとする一団の代表者である政府との関係を友好国家間において通常の基礎の上に樹立することはできないということは、合衆国政府の固く信ずるところである。』

 検察側の広田に対する立証は、実際において1936年8月7日の閣議決定から始まっていると言わなければならない。その決定は法廷証第216号であり、検察側は右の決定は明らかに侵略的なものであると主張している。後ほどこの事項を考察して見る。本官の現在の目的のためには、記録には、広田が外務大臣になる前、参画者としてあるいは同情者として、訴追されている共同謀議と関係を有していたことを示すものは全然ないと言えばそれで充分である。同人が共同謀議者と称せられるものの間に知られていたこと、あるいはその共同謀議の目的に関する同人の見解をだれかが知っていたことのいずれをも示すものでさえ全然ない。また同人をこの地位につかせようとするなにかの種類の、なにかの企図がどこかにあったということを示すものは絶対に存在しない。要するにかような企図はなかったのであり、広田は、みずから求めないのにさらに共同謀議者と称せられるものがだれも、まったく知らないうちに、その地位についたのである。

 検察側は、広田の外務大臣としての対満政策は同時の対華政策でもあったとしてそれを非難している。これらの政策に関して、後刻検討する機会があるであろう。これらは現在のところでは、関連性を有していない。われわれがここで記憶しなければならない唯一のことは、同人の外務大臣あるいは総理大臣としての就任は、同人自身もしくは他のだれかの企図の結果によるものであるということは確立されていないということである。こうして少なくともこの段階までは共同謀議――(←正誤表によると「共同謀議――」は誤りで「共同謀議者――」が正しい)(それがだれであろうと)――による政治的権力の獲得はなかったのである。

 広田は岡田後継内閣の外務大臣として留任したが、同内閣は1936年の2・26事件の結果倒壊した。同人は1936年3月9日天皇のお召によって組閣の大命を受けた。その内閣は起訴状の係争点とはどのような関係ももたない事柄に関する寺内陸軍大臣の議会解散の要求を拒絶したため、1937年2月1日倒壊した。

 1937年1月20日、政友会の大会は声明を発してその内閣がとった政策を非難した。同大会はその声明において、不手際な防共協定は、多国間に疑惑を起こし、準戦時体制をもたらし、純然たる官僚経済は善よりも害をなしたと宣明した。広田内閣の措置は一般的に国家の福祉に基づくものではなく、官僚及び軍部の独善に支配されていると誹謗した。広田内閣は二週間の後倒壊した。次田証人は、広田内閣の崩壊の責任は軍部特に議会制度改革に反対した衆議院議員にあったと述べた。対立は極度に激しくなり、陸相は遂に辞表を提出し、広田は内閣を継続することができなくなった。

 次にこの件に関して検察側が示した最後の段階について考察してみよう。検察側によれば、この最後の段階に到達したのは、1941年10月18日、東条内閣が成立したときである。

 本官は、米内内閣崩壊に際し、東条が入閣したことについて、なにも不祥なことを認めることはできない。東条は米内内閣の倒壊と全然関係がない。検察側は東条の行動あるいは態度が、1940年7月の同内閣倒壊の原因であったことを示すどんな証拠をも提出できなかった。東条はそのときまで航空総監の職にあり、政治には全然関係も関心ももつことなく、日本の航空兵員の訓練に専念していた。畑前陸相は東条を後継陸軍大臣の候補者として奏薦するのにあるいは急ぎ過ぎたかもしれない。しかしそれに政治的権力を奪おうとする企図、あるいは試み、あるいは熱望のどのようなものも見出すことはできない。急ぐということはいつ推奏することが適当であったかというようなことを意味しない。推奏するのは前陸軍大臣の任であるべきであった。

 検察側は近衛内閣の崩壊に関する東条の役割を非常に強調した。しかしこれは確かに不祥な企図のどのようなものの一部でもない。東条は正直な意見を抱き、その意見を述べるについてはなんら躊躇せず、その信念の鞏固なことを示した。証拠は、当時国家の直面している急迫した事態に鑑みて、東条を含む全内閣は新しい政治家にバトンを渡して、できることならば災難を避ける機会を与えるため退陣を希望したことを明らかに示している。

 さて東条内閣そのものについて、検察側はその内閣は共同謀議者の完全な寄り集まりであると描写している。島田、東郷及び東条の結合そのものが、何か不祥なもののように見られている。

 島田は海軍大臣に就任するまでは、なんら政治的地位についていなかった。同人の初期の経歴はすべて、海上勤務及び軍令部出仕であった。同人が海軍大臣となる以前においては同人が訴追されている共同謀議と何らかの関係があるとするような証拠は何もわれわれの前に提出することができなかった。同人の支那方面艦隊司令長官としての行動について、検察側は何か言ったようであるが、本官は何ぴとも、この行動をもって、島田が共同謀議と関係があったと称し得られるものはないと思う。島田が海軍大臣に選ばれた裏面に、なんらか計画があったことを示す証拠は、全然われわれの前に提出されてはいない。日本の海軍大臣であって現役名簿中の先任将校以外の者があったことはないようである。従って海軍大臣の地位に関する限り、もしわれわれがこの問題に関する実際の慎習(←正誤表によると「慎習」は誤りで「慣習」が正しい)を考慮していれば、1936年の勅令は現実には海軍大臣の地位には影響を与えなかった。海軍大臣奏薦の義務及び責任は前任海軍大臣の手中にあった。その前任海軍大臣が自分の後任に関する推薦をしてから後は、かような指名は任命に相当するのであった。なぜかと言えば、実際の習慣では、海軍大臣任命に関してはなんら個人的選択の自由を持っていない総理大臣としては命令的のものとして受け入れたからである。前任海軍大臣は及川であり、同人が島田を推薦した。及川は本件において証言をし、自分の後任として島田を推薦した理由を述べた。この証言の中には、及川あるいはその他の何人も島田をこの内閣に入れることについて、なんらかの計画をもっていたと暗示するものは一つもない。島田自身が、大臣として自分が選ばれることには、なんら関係していないことは確実である。島田がその地位につこうとして、なんらか努力していたことを、わずかでも示すものさえない。島田みずから本件において証言をなし、みずから長い取調べを受けた。本官は、島田はきわめて率直な軍人ではっきりした質問に対しては、常にはっきりした回答をしていたとの印象を受けた。同人はその任命は求めはしなかったがこれを受諾した。ただし最初はこれを拒絶したかつ事実それは嬉しくない任命であったと率直な態度で本法廷で述べた。島田大将のこれらの陳述は、及川大将の証言によって充分に確証された。東条と島田との間に、個人的にせよあるいは相互の政治的利害関係からにせよ、何か関係があったとわれわれが言い得る何ものもわれわれの前には提出されていない。島田大将と東条は、当時知己の間柄でさえなかった。東条が島田を自分の内閣の欲したから、同人が任命されたという主張を立証する証拠は全然ない。かような主張には絶対に何の真実性もない。

 島田の政策及び大臣としての行動は、本官の現在の目的のためには関連性のない考慮事項である。しかしながらその地位を受諾するに先だって島田は東条から聖慮を体して「白紙にかえって、」戦争回避の目的の下に誠心誠意外交交渉の妥結に努力することを、政府の政策とする旨の保証を得たという証拠が出ている。これについては本官は後ほどさらに多く言及する機会をもつであろう。本官の現在の目的としては、島田が海軍大臣の地位に就任したことは、同人による権力の獲得ではなかったことを観察するだけで充分である。それは共同謀議者の一人が権力を獲得し、かつその権力の獲得を共同謀議促進の目的でした場合ではない。これは実際には政治家が正当な順序で権力ある地位につき、それによっておそらく初めて共同謀議者であるという名称を受けるに値することになる場合である。

 以上と同じことは東郷についても言える。東郷が訴追されている共同謀議に対して、同情者であったとさえいうことを示そうとする東郷に不利なものは全然ない。検察側はある段階において、被告東郷は1941年10月東条内閣に列する以前には、なんら共同謀議にも関係しているとは主張しないことを認めた。東郷は東条内閣においてどのような役目を尽くし、かつそれによって同人は共同謀議者またはその他の者となる犯罪を犯したか否かについては、われわれは後ほどこれを取り上げて見よう。本官の当面の目的のためには、彼の場合にも、東郷またはだれかその他の者が、最も合憲的に東郷に到来したこの地位獲得の計画をもっていたことを示すものは、全然ないと言うだけで充分である。同人が、候補として名指された総理大臣から来たるべき内閣の外務大臣として就任するようにとの要請を受諾したときには、同氏は1940年11月以降実際において引退し、勤務から離れ、無任所の名目上の大使の地位にあった。この任命の申出は東条大将と東郷氏との間の個人的関係の結果生じたものではない。この両者の間にはかような関係はなく、また東郷氏とこの新内閣の他の閣僚の間には、なんら親しい関係はなかった。東郷氏は当時外務省の古参であり、普通の任命手続上において、その省の最高地位に選ばれる資格のある者であった。われわれは同人の選択について自然でかつ明白な理由以外のものを探す必要はない。同人の選択の根拠が何であったとしても、検察側の主張するような邪悪な性質の企図または計画は、その背後にはなかった。東郷の経歴をもってその共同謀議への参加者、または同情者として関連させるものは何もない。同人がどのような程度にしても共同謀議者に気に入っていたということは、暗示することさえできない。これを共同謀議者らが政権を獲得しようとするものであると、検察側が描写しようとすることは、まったくもって沙汰の限りである。すでに本官が説述したように現在の目的のためには、東郷がこの内閣の外務大臣として、どんなふうに行動したかは重要な問題ではない。それによって同人が何か犯罪を犯したかどうかは後ほど調べて見る。ここで本官の述べるべきことは、東郷はこの権力を求めず、また同人はこの権力を獲得しなかったということだけである。同人がその地位についたのは、訴追されている共同謀議者のうちのだれの行動でもなく、また計画の結果でもない。

 東郷氏がその地位を受諾した意図は、証拠を見れば一目瞭然である。同氏は国際情勢殊に日米関係の推移について、なんらかの了解が得られるまでは、当時においては外務大臣の責任を受諾することを好まなかった。同人は東条から交渉進展の一般方向を知り、同人から中国への駐兵問題を含めて、日米交渉の諸問題は再検討されるべきであるとの言明を得た。この保証を得たので同人はその地位に就任することを受諾した。いずれにせよ、同人の行動は共同謀議者または政治的権力を獲得し、もしくは政治的権力にありつこうとする共同謀議の同情者の場合ではない。それは自分の国の歴史上の危機に際して、政治家として重大な責任を引き受けたことである。そしておそらくそれによって検察側が今や同人に与えようと欲する名称を受けるに値するものとなったのであろう。

 しかし東条の場合においても、同人が1941年10月日本の総理大臣となることによって、政治的権力を獲得したと言えるかどうかを調べて見よう。そのとき総理としての主なる候補者は、東久邇宮、宇垣大将、及川大将及び東条大将であって、当時の重大問題を処理することのできる総理大臣が必要とされていた。

 1941年10月15日東久邇宮を首班とする内閣の問題が起こった。宮内大臣松平と天皇はこれに反対した。東久邇宮については事実困難とする諸点があった。首相としての宮の地位を軍が利用し、国家を戦争に引き込む可能性があった。宮の周囲の人々は多くの危険分子を含むものと考えられていた。その上に東久邇宮は敏腕家ではあったが、政治的経験及び訓練がなく、殊に事態は極度に困難であったので、宮としてこの事態を把握され、それを処置する計画を案出することは、ほとんど不可能であったのである。

 当時海軍と陸軍との間に意見の対立すなわち陸軍は即時戦争を主張していたので、及川は好ましくないと思われた。もし及川が任命されると、陸軍の反動はさらに強いものとなったであろう。

 宇垣大将は前回において組閣に失敗した。そして同様な失敗を繰り返す可能性が未だに続いていた。

 かようにして他の候補となり得る人物を全部ふるいにかけた結果、遂に東条に白羽の矢が立ったのである。もし東条が選ばれて、天皇から9月6日の御前会議の決定を無視することを命ぜられたならば、同人こそは陸軍を統制することができるだろうと一般に考えられていた。またもし陸軍が、あの段階において陸軍の統制がとれなくなったならば、殊に当時軍隊はすでに南仏印の彼方にまで南進していたことに鑑みて、どのような事態が招来されるかは、何ぴとの予断も許されないことであると信じられていた。かような不測の結果を避けるため、軍を掌中に握っていると考えられていた東条こそ、特に過去数日間の同人の言辞から量っても、同人はアメリカに対して直ちに戦争を遂行することを主張していなかったから、この任に当たるべきであると考えられていた。

 これらの事柄はすべて1941年10月17日の重臣会議において、慎重に考慮された。この会議に出席したのは若槻、原、岡田、阿部、清浦、米内、広田並びに林であった。出席者の名声と地位の高かったことについては、ほとんど論の余地はなかった。出席者中には陸軍側からただ二人、すなわち阿部、林の両大将があり、海軍側からも二人、すなわち米内、岡田の両大将があった。これらの政治家に対して会議の以前または間に、外部からなんらかの影響力が働いたという証拠はまったくない。これらの人々の思想と言動は、ある個人または個人の集団により、なんらかの形で統制され得たという証拠は皆無であり、またかようなことを示唆するのは非常識も甚だしいことである。これらの政治家がなんらかの目的を下心に蔵して、東条を推薦するような理由をもっていたということを思わせるような節はまったくない。これらの政治家からなんらか事実が隠蔽されたことがあるという主張は、検察側からはまったく出ていない。近衛公爵によって慎重に作成された完全で長文の諸事件の概要が、議事の第一番目の項目として彼らに読み聴かされた。その説明の中で近衛公は、もし10月初旬に外交が失敗に帰したならば、政府は戦争遂行の決意をなすであろうという、1941年9月6日の御前会議の決定を、明らかに指摘したのであった。同公は外交的解決の成功の可能性に関する陸軍及び政府の相違した諸主張を説明した。陸軍の立場は日本の主張が容認される見込みはないというのであり、一方政府はさらに多くの時間が与えられたならば、外交交渉は成功すると信ずるというのであった。近衛公は統帥部は1941年9月6日の決定に従って、政府に戦争への突入を迫っているという事実に注意を喚起した。東条はもちろん統帥部の中には入っていなかった。近衛公はさらにアメリカとの交渉中に含まれていた難問題は、次の通りであると指摘した。すなわち、(1)中華民国からの撤兵意図の問題、(2)三国同盟、(3)太平洋地域における通商上の無差別。同公は中華民国からの撤兵問題に関する陸軍、政府及び合衆国の態度を説明した。戦争に対する政府及び陸軍の見解は詳細に述べられた。同公はまた海軍の立場と、外交か戦争かの決定を首相に一任しようとするその結論とを説明した。同公は海軍部内に戦争は避けるべきであるとの強い意見があったことを指摘した。さらに加えて4月から当時に至る期間のアメリカとの外交関係の推移を追って、時間的順序を強調しながら説明した。同公はアメリカとの外交交渉の成功の可能性に関する陸軍と政府の相違した見解を、再び指摘することによって結んだのである。これを基礎として重臣らは各自の見解を披瀝した。彼らは懸案を一つ一つ考慮して、最後に、東条を推薦すべきであり、同時に彼に陸相の職を兼任させるべきであるという決定に至ったのである。

 われわれはこの選考が賢明だったか否かの問題に没入する必要はない。われわれの注意を必要とするところは、ただ東条を首相として選んだことに関して、上に述べられたことに鑑みて、同人が首相になったことはなんらかの陰謀の結果であったとか、同人自身またはだれかが同人に代わって、かようにすることによってかの危機に際して政権を手中に収めたのだと言おうとするのは、まったく馬鹿げたことであるということである

 検察側を代表しコミンズ・カー氏は証拠の全体を「考慮」すれば、東条は共同謀議の初期において、全東亜の征服のために謀議した「陸軍青年」将校の一人であった・・・・という必然的な結論に到達すると断じた。本官はどのようにしてカー氏が、東条は諸証人が言及した「陸軍青年将校」の一人であると、かくもはっきりと言いきり得たか了解し得ない。証人たちのうちのだれにもせよ、東条の名を挙げた者はなかったのである。カー氏の主張の基礎は、東条が陸軍の将校であったということ、及び当時同人が若年であったということ以外に何もない。本官は東条が証人たちによって「陸軍青年将校」と名指された一団のうちの一人であったと、法廷記録に載っている証拠に照らして思い込むように、われとわが身を説得し得るような心理状態を突きとめることさえできないと、白状しなければならない。こういう信念が、以上の事情を事実として正しく表現するに近いということの裏づけとなる資料はなんら存しない。かような信念を胸中に抱くに至った際、なんら重要な資料は考慮に入らなかったように見える。公明正大な心にはかような信念は宿らないと思う。これは唯々諾々と物事を受け入れるような心に浮かぶ信念である。提出された証拠はかような疑いを起こさせることさえしない。まして「必然的な結論」に到達するなどとは論外である。

 東条に言及してカー検察官は言う。『同人の経歴は謀議の期間を通じ、間断なく迅速に進級し、大佐、参謀本部の課長から次々に重要有力な職につき、遂に第三次近衛内閣の陸軍大臣として非常に力を得た結果、その内閣を瓦解させた。同人は首相兼陸相となって日本を対米英蘭攻撃に導き、これらの諸国に対する戦争初期から、日本の最終的敗戦の初期までその職にあった。

 『東条は大佐かつ課長《1931年8月1日から1934年3月5日まで》として、また歩兵第23旅団長たる少尉《1934年8月1日より1935年8月1日まで》として、満州侵略に相当重要な役割を演じたので、その功労に対して勲章を授与されている。』

 間断なく迅速に進級したことは、ある将校が謀議者であったことに必ずしも関係があると本官は信じない。その期間を謀議の存在した期間と叙述するのは、単に検察側の主張に過ぎない。少なくともわれわれに提示された資料は、同人の間断のない迅速な進級及び授賞が、同人の功労あるいは上官が功労と認めたもの以外の事柄と関係があったことを示していない。

 総理大臣としての権力を把握するために、東条は近衛内閣の瓦解を来たしたということが示唆された。

 この示唆の根拠はカー検察官の最終論告の抜粋に現われている。すなわち

 『1941年7月2日の御前会議に東条、鈴木、平沼及び岡は出席した。その会議で大東亜共栄圏、中日事変の処理、北方諸問題に関する重要決定がなされ、かつ対仏印、タイ施策の妨害排除、南方要域に対する交渉及び施策、ソビエットに対し密かに戦備を整えること、対英米戦争の準備等に関する決定もなされた。《法廷証第588号、第1107号、第779号、記録6566頁》

 『1941年9月6日の御前会議に東条、鈴木、武藤及び岡は出席したが、そこで決定されたのは

  1、日本は南方進出を続けること、

  2、日本は米英蘭に対する戦争の準備を完成すること、

  3、日本は外交手段により要求の貫徹に努めるが、10月初旬に至っても貫徹の目途がつかない場合は、対米英蘭開戦を決意すること、

  4、日本は米ソの協同を防止すること、

 であった。』《法廷証第588号、第1107号、法廷記録8814頁》

  《法廷証第588、1107号、記録第8、814頁》(←この一行は省くのが正しい)

 『1941年10月12日ごろ、東条は自分自身を首相にすることとなり、また日本に米国、英国並びにオランダを攻撃させることとなった、その計画の最終的な仕上げをした。同人自身及び近衛、及川《海相》鈴木《企画院総裁》並びに外相との会議において、東条は開戦の断固たる決心を求めた。及川は戦争は避けようと欲した。《法廷証第1、147号、記録第10、246頁、法廷証第1、148号、記録第10、251頁、法廷証第1、136A号、記録第10、272頁》

 『10月14日の閣議において、この問題に関しては行き詰まりが見られた。《法廷証第1、148号、記録第10、258−10、263頁》

 『10月15日に鈴木は、近衛が東条の見解を容認しない限りは、内閣総辞職は避けられない旨の東条のメッセージを木戸に手交した。《法廷証第1、150号、記録第10、276頁》後ほど鈴木は電話で、木戸に東条の考えは陸海の融和を確立しようとするものであると伝えた。』《法廷証第1、150号、記録第10、276頁》

 『この結果、近衛内閣は辞職し、《記録第10、285頁》東条が首相となり、及川が海相を免ぜられ、嶋田がこれに代わり、そして永野が海軍軍令部総長として留任した。嶋田を海相に、永野を軍令部総長にすえ、陸海の協調がなって、ここに東条はその所期の目的を達し、真珠湾、コタバル、ダバオ並びに香港に対する攻撃については、だれも異議を挿む者がなくなったのである。』

 右の最終論告において、参照された書証は次のようなものである。

  法廷証第588号−日米会談に関する1941年7月2日付決議(←正誤表によると「7月2日付決議」は誤りで「7月2日付諸議」が正しい。「諸議」とあるが、「7月2日付諸決議」または「7月2日付諸議決」が正しいだろう)

  法廷証第1、107号−1941年御前会議出席者の氏名表。《記録第10、140頁》

  法廷証第779号−1941年7月2日の御前会議議事録からの抜粋。《記録第7、904頁》

  法廷証第1、147号−1941年10月12日付木戸日記からの抜粋

  法廷証第1、148号−内閣辞職の原因に関する近衛首相自身の手記。

  法廷証第1、136A号−獄中においてなされた東条の陳述からの抜粋

  法廷証第1、150号−1941年10月15日付木戸日記からの抜粋

 われわれはこの点についての嶋田、東郷、東条の証拠をもっている。その証拠は、当時の情勢に関する彼らそれぞれの見解を余すところなく明らかにしたものであって、かつそれまでの累次の内閣の瓦解に至った理由を説明しているものである。

 右に関して検察側並びに弁護側によって引用された証拠の全体を本官は慎重に検討してみた。本官の了解するところでは、これらの証拠は東条が当時の情勢に関して自身で決意を固めるに至ったこと、並びにその断乎たる態度を現わしたものであることを明確に示している。

 われわれの当面の目的にとっては、同人の決心の基礎をなしたところの結論、すなわち当時の日米間の紛議をもって調整不可能であるとなしたその結論が、果たして間違いのないものであったかどうかを調べて見る必要はないのである。あるいはその結論は正しかったかも知れない。この点について言及した弁護側の証拠は、当時東条の到達した結論を充分に支持するものである。この証拠については後ほど論議する。現在においては、本官はこの証拠が1941年7月のはるか以前に、合衆国政府が日米問題の調整が不可能であるとの決定に到達していたことを明確に示すものであると言えば足りる。少なくとも1941年3月以来の同国政府の対日措置を考えてみれば、日米両国の政治家ならば、だれしも右の米国の決定についてなんら疑問を有する余地はあり得なかったのである。本官は再び繰り返し強調するものであるが、現在のところ、双方のいずれが右事態に関する責任を負うべきものであったかは、さして重要ではないのである。事態はまさに右のようなものであったのであり、かつ東条はそれをはっきりと洞察していたのである。いずれにしても、同人は自身の結論に到達し、それに基づいて決定をなしたのである。

 ここで問題となっているような非常時に際しては、東条のような地位にあった人ならば、だれもがある決定に到達すべきであり、かつ勇気をもって自己の信念に確信をもつのが当然であると考えられる。その後に続いて起こったことは、事の成り行きとして当然に起こったことである。それらの出来事が、なんらかの意図をもってなされたものであるとは考えられない。東条は事態の進展に伴い、求められれば全責任をその双肩に担う覚悟は充分有していたかもしれないが、権力を掌中に収めようなどとは決して意図していなかったのである。

 今や証拠によって充分に示されているように、当時の日本は、ある人もしくは一群の人々にとって、権力が重要価値を有するものと考えられていたような時ではなかったのである。それはまさに日本の死活の時であったのである。東条を初めすべての政治家が充分承知していたように、それは国家としての日本の存在自体が深刻な危険にさらされていた時なのである。多少とも要職にあった政治家や外交官は、挙げて国家の名誉を傷つけずに滅亡から免れる方法を見出すのに頭を悩ましていた。このような重大時期においては、政治家は権力の把握に身をやつしてはいられないのである。彼らは重責を担い、そして勇断をもって差し迫った危険に対処するという、厳粛な義務の履行を求められているのである。

 東条は急迫した危険を充分に承知の上で、登場してきたことは明白である。同人は政治家としてその全力を尽くして外交上の処置を継続したが、結局米国との間において、名誉ある解決を見るに至らなかったのである。右に関連してわれわれの前に提出された証拠中には、この出来事をもって政権を把握しようとしたものであると烙印づける試みを正当化し得るようなものは全然見出し得ないのである。

 それ以前の政変については、証拠はせいぜいある特定の大臣もしくは内閣に関して、どうしても満足し得ない人々があったということを示しているにすぎない。このような不満を有した人々もしくは一派が、何か特定の内閣の瓦解もしくは特定の大臣の失脚を図ろうとして場合によっては成功もし、あるいは不成功に終わったということは認め得るところである。また同時にこのような人々もしくはかような一群の人々が、日本の対外政策ないしは対外関係について、ある種の見解を持していたということもあり得る。かりにある内閣の瓦解の結果として、被告中のだれかが権力にありついたとしても、それはその者がかような権力を掌中に収めることを画策したからではなくて、たまたま同人が画策者でない憲法によって定められた当局者の信任を博していた者であったからにほかならない。

 ここに述べられた陳述(story)は多少行き過ぎの感あり、おそらくはヒットラーの一件と関連をもたせようと意図されたためと思われる。


 (c)一般的戦争準備(英文での章立ては、次の通りである。PART W OVERALL CONSPIRACY Third Stage The Preparation of Japan for Aggressive War Internally and by Alliance with The Axis Powers---General Preparation for War 訳すと、第4部 全面的共同謀議 第三段階 国内的な、そして枢軸諸国との同盟による、日本の侵略戦争への準備―――戦争への一般的準備)


 付属書A第5項は、直接的、一般的戦争準備を論じている。クイリアム代将は、本段階の証拠提出にあたって、これを『1932年以降日本ニヨッテ行ナワレタ侵略戦争ノタメノ一般ノ海軍、陸軍、生産及ビ財政ノ準備ニ関スル』部分であると特色づけている。同検察官は次の命題立証のために、証拠を提出しようとしたのである。すなわち、

  日本は海軍、陸軍及び経済的準備を行なった。そして

  (a)それは合法的防御の必要をはるかに越えたものであった。

  (b)またそれは、その真の目的として、条約等の違反による侵略戦争を行なう共同謀議を遂行しようとするものであった。

 以上のことを立証するために、同検察官は次の資料を提出した。

  1、軍需品及び戦争資材の生産を増加するために、日本によってとられた措置並びにその目的のために採用された財政上の手段。

  2、日本の一般的陸軍軍備。

  3、日本の一般的海軍軍備。

 日本の生産方面並びに財政方面の戦争準備を立証するために、同検察官は主としてJ・G・リーバート氏の証言によっている。リーバート氏は経済財政事項の専門家である証人として出廷させられたのである。同氏は1945年10月以来、連合国最高司令部経済科学部に勤務しており、明らかに本裁判に用いるために、戦争に対する日本の経済的並びに財政的準備の特別な調査を行なった。

 リーバート氏の陳述は、本件における法廷証840号である。リーバート氏がその陳述準備にあたって依存した主な文書は、1937年6月23日付『五年計画』《法廷証第841号》並びに『重要産業拡充計画』《法廷証第842号》である。

 この証拠に基づいて、検察側はクイリアム代将が上述のように申し立てた命題を立証したと主張している。検察側によれば、リーバート氏の証言は次の点を立証したものである。

  1、(a)1937年6月日本の陸軍省は、軍需資材の生産の五ヶ年計画を作成した。《法廷証第841号》

    (b)この計画の目的は、主要軍需資材の戦時における補給の完璧を期するために、産業の促進と統制を確実にすることであった。

  2、この計画は企画院の作成した主要産業に関する他の計画と、密接な関係を有していた。《法廷証第842号》

 検察側はこれらの計画の不祥な前兆的性格を示すために、次のような特徴を強調した。すなわち、

  1、それらは日本の全経済の人為的促進と統制を必要なものとした。

  2、それらは普通の合法的な企業が支持または正当化し得ないところの費用で、国家の自給自足の達成を要求した。

  3、それらは選定された産業に対する政府による奨励金、特権及び特別保護、国庫補助金、配当及び利潤の保証並びに他の金融上の特権の付与を要求した。

  4、それらは国策と軍事行政との統一に基づくものであった。

  5、それらは日本、満州及び中国における原料並びに他の資材及び燃料に関する自給自足を促進し、平時態勢から戦時態勢への転換に留意して、軍需資材産業に対する急速な統制を実施することを規定していた。

  6、飛行機、兵器及び弾薬、戦車及び軍用自動貨車や戦力の主要要素を構成する他の装備、並びにかような要素に直接関連した品目の急速な生産に重点が置かれた。

  7、1941年末までに、日本が軍需資材の生産に関する限り、東亜並びに太平洋諸国の征服と支配の計画を遂行し得る位置につくことを保証するために、これらの計画は人智の及ぶ限り完全かつ広汎になされていた。

  8、生産計画の充分な意義と目的は、2、3の選ばれた産業を概観することによって、明らかになるであろう。すなわち、

   (a)電力産業。《法廷証第843号》

    (1)これらの計画は、1941年までに電力生産を大々的に増加させることを規定した。

    (2)この産業は1936年に、電力管理法の施行によって全体主義的基礎におかれ、この法律の基づいて、政府によって統制される国策会社が設立された。統制措置は電力の分配にまで及んだ。

   (b)石油の生産及び輸入。《法廷証第844号》

   (c)石炭業の発展。

   (d)化学工業の発展。

   (e)造船業の発展。

   (f)製鉄業の発展。

   (g)工作機械工業の発展。

   (h)自動車工業の発展。

   (i)非鉄金属の生産。

   (j)航空機工業の発展。

  9、あらゆる点について、強力な統制が加えられた。

  10、日本の経済組織の中に従属地域を統合して、それによって日本経済の必要とする物資と富とを獲得するとともに、さらにまた日本の産業生産を支える外国貿易の最大利益を確保するために、全体主義的金融統制が採用された。

 検察側はさらに1931年以降、全般的陸海軍準備のあったことを立証したと主張して、次の点の強調している。すなわち、

  1、1938年4月の総動員法。

  2、1940年末の総力戦研究所の設立及びその活動。

  3、委任統治諸島の要塞化。

  4、日本の全般的な海軍の戦争準備。

   (a)日本は、みずから加盟国であったところの軍備制限の諸条約によって課せられた制限制肘から、自己を自由にした。

    (1)日本は『1936年海軍条約』の署名を拒絶した。《法廷証第58号》

 この点に関する弁護側の主張は、主に高橋弁護人の冒頭陳述及び次の各証人の供述書の中に見出される。

  1、吉野信次。この証人は商工省の課長、局長、次官、最後に大臣として1925年から1938年まで商工省に勤務した。戦争中二年間愛知県の知事をしていた。同人の宣誓口供書は本件法廷証第2368号であって、その全証言は法廷記録第18198−18240頁に記録されてある。

  2、岡田菊三郎。この証人は1935年から陸軍省整備局戦備課に服務し、国家総動員並びに陸軍軍事動員に関する企画業務に一貫して従事していたのである。この証人の証言は、記録第18271−18339頁に記録された。

  3、大和田悌二。この証人は1917年から1940年8月まで逓信省に勤務し、電気局長、電力管理準備局長官、最後に逓信次官を勤めた。この証人は電力管理法の立案並びに実施に直接関係した。同人の証拠は記録第18243−18280頁に見られる。検察側はこの証人に対して反対訊問を行なわなかった。《記録第18270頁》

  4、小野猛。この証人は1935年7月逓信省管船局長になり、次いで1938年1月逓信次官に就任した。同証人の証言は記録第18342−18355頁に見られる。同人の宣誓口供書は法廷証第2369号である。

  5、真山寛二。この証人はもと企画院調査官で、物動計画の設定の各四半期ごとの実施計画に従事した。同人の証言は記録第18357−18378頁に見られる。

 吉野証人は次のように述べた。同人は商工大臣として、中日事変勃発当初の一年間、戦時経済政策の企画運営にあたり、リーバートの触れた経済諸政策について、すべて直接間接に関係していた。証人によれば、支那事変後の経済政策は、戦争準備というよりは純然たる戦時経済そのものを示すものである。

 基礎産業の確立に関する政策については、この証人は、第一次大戦以後戦争と経済との関係について、理論及び政策の上に生じた大きな変化を指摘した。それ以前においては、戦争は一国の経済力と全然無関係ではなかったけれども、大国はそのすべての必要を、自国の経済力の範囲内だけで賄い得るものと考えられていた。

 真に世界戦争というものは存しなかったから、大国は常に中立国からの補給を利用し得た。日本は合衆国及びイギリスから借金をして日露戦争を行なった。ところが第一次大戦においては、世界の大国はすべて戦争に巻き込まれたので、国際通商は文字通り杜絶した。戦闘はあらゆる経済力を蕩尽せしめるものであった。高級爆薬、航空機、化学の出現は、当時存在した国防上の武器に欠陥があることを明らかにした。

 一国の安全を保障するために必要な産業は、どんな犠牲を払っても、これが確立に努力することが国家の常識となった。この戦時要因は、戦後経済においてもその重要性を持続したのである。

 次に同証人は、日本及び第一次大戦中日本と連合した諸国における数種の特殊産業の発展の説明を行なった。同人は(1)染料、グリセリン産業、(2)製鉄業、(3)石油業、(4)造船業の発展を詳細に論じて、これら各種産業の合理化のために日本のとった方策を説明した。

 これらの産業は確かに軍需産業となり得る性質のものであった。同時に日本の経済生活におけるこれらの産業の重要性も、また認めなければならない。単にこれらの産業が重大な潜勢力をもっていたということだけで、この発展が、検察側の主張するような邪悪な動機を有するものとする理由は、本官にはなんら認められないのである。

 この期間に産業合理化のためにとられた各種の方策は、当時の世界に存した諸情勢の下においては、充分正当化し得るものであった。これらの合理化方策に関して、同証人は次のように述べた。『これは日本だけの問題ではなくて、英米その他世界各国共通の政策であった。日本はこの点遅れて、その方策も各国のそれに則ってなされたものである。』

 『主な問題は、第一次大戦中に起こった各種工業の再整理の問題であった。各国はすべて既存の工業を拡張しただけでなく、他国に依存していたいろいろの製品を生産する新規の工業をも起こした。これは交戦国ばかりでなく、中立国さえこれを行なった。戦争が終わったとき、世界の経済は需要に比して著しく供給過多の事態に直面していた。しかもこれに加えて、戦争による消耗は世界の購買力を減少させていた。世界の列強は戦時工業の再整理、及びその後片づけのために新しい経済政策を採る必要に迫られていた。

 『それは多数の失職者を生ぜしめる原因となるものであり、また労働不安のときにおいて、危険なものであった。そこで法外な費用を費やしてまで生産設備を維持しようと努力した。各国は「一にも獲得二にも獲得」の新政策に従った。各国は自国の国産品愛用を奨励する諸方策をとった。日本もこれに追随して、1920年には国内産業の振興、国産品愛用の運動を起こした。』

 この証人が次の点を指摘したのは正当である。すなわち『日本工業の特徴として中小工業が多く、それが輸出品の生産組織であった。彼らは無謀な競争をして、海外市場を混乱状態に陥れた。』

 日本は、中小工業、輸出工業に関しては業界の秩序を確立して、無謀極まる過当な競争を抑制しなければならなかった。この点については、政府の統制が必要であった。初め政府は、大工業に対しては『放任主義(←「放任主義」に小さい丸で傍点あり)』の態度をとった。これは大工業者は自分自分で事態を始末していくものと考えたからである。大不況の間に、日本は金の輸出解禁等いくらかの対策を講じたが、これによって日本の産業界は一時的に窒息の状態となった。政府は産業合理化及び一部大産業の援助に精進したが、この努力は満足な実を結ばなかった。そこで政府は、経済危機にあっては、大規模の産業に対しても国家権力の発動を必要とするという見解を抱くに至った。そして1931年重要産業統制法が制定された。

 『この法律は理念上全体主義的であるように見えるが、内容は決してそうではない。この法律は中小工業の統制と業者の任意的協定とを目標としたものである。それは過半数のものが欲するところに、少数者側が肯んじない場合には、国家はただちに干渉して、後者がこれに従うように強要し得るという原則に基づくものである。大多数が欲するものに反しても、国策上の必要を満たすために強権の発動を許すということを支持してはいないのである。それはカルテル助長の方策であった。』

 カルテルについては、日本は大体国際連盟の研究に従って規定を設けた。重要産業統制法にはカルテル助長の規定のほか、取締規定をも加えてあった。適当な公示のために規定が設けられた。それは米国のクレイトン法の原則に従って、内容を広く輿論に訴えているもので、この方が刑罰をもって取り締まるよりは望ましいと考えられたのである。日本の産業合理化方策は他の国々が実施してきた常道を踏襲したもので、これから一歩も埒外に出るところのないものである。1937年の輸出入の制限に関する特別措置法は、これとまったく趣きを異にする。これは戦時経済実施の基本法である。

 この証人は、リーバート氏の言及した戦時重要物資生産に関する五ヶ年計画については、何も知っていなかった。

 岡田証人はこの五ヶ年計画について説明した。この計画はこの証人によって起草されたものである。法廷証第841号、842号について、同証人は次のように述べた。『両計画はそれぞれ目的がありますが、それは日本の国力の充実であります。法廷証841号の方はもっぱら軍事計画であり、842号《『1937年5月29日付重要産業五ヶ年計画要綱、1937年6月10日付重要産業五ヶ年計画要綱実施ニ関スル政策大綱、及び企画院作成ノ生産力拡充計画要綱』》の方は軍事的要素を多分に含みたる平和経済の建設案であります。日本はソ連の軍力の発展というものに対する措置をとらねばなりませんでした。』

 ソ連の産業の飛躍はものすごいものであったと言えよう。その鋼鉄業は、1929年に戦前の水準に達したが、両次の五ヶ年計画の後には戦前の三倍半となった。1933年にはソ連の鋼鉄生産は世界の第三位、欧州の第二位、その翌年には世界の第二位、欧州の第一位に上った。1937年には、その鋼鉄生産額は1、770万トンに達した。日本はさらに、ソ連は第三次五ヶ年計画を開始しようとしていると信じた。こうして日本は、ソ連の計画した生産額の少なくも半分に達しなければならないと断ずることを余儀なくされた。

 日本の重要産業は海外からの輸入原料に依存するものが多かったから、日本の経済的基礎は薄弱で、自主性に乏しかった。日本は国際貿易上不利であった。これより以前は、日本は繊維工業と軽工業とに依存して、辛うじて貿易の帳尻を合わせることができた。日本は、近代国家としての資格を整えるとともに、民族の将来の幸福をはかるためには、重工業を振興するということが、ぜひとも必要であると信ぜられた。

 同証人は次のように述べる。『当時おそらくソ連が第三次五ヶ年計画をやるだろうと考えましたが、その第三次五ヶ年計画の終末期と睨み合わせたということは事実であります。しかしながらこの五年の終期という、その終末の年については、実は深い意味はないのであります。産業建設計画は、数年を一期として進まなければなりません。初めの五年計画が完成したら、また次の五年計画を予定しておった次第で、五年の終期、1941年末(16年度末)ということに深い意味はありません。』・・・・

 『法廷証841号は中国事変の勃発によって廃棄されましたが、これに代わってはるかに規模の大きい生産拡充、特に軍需動員というものを実施しなければならなくなった関係上、書証842号の方は、これが建設に必要な物資を直接軍需消費に消耗するために予定の計画通り実行されずに縮小歪曲されて、当初の計画とはよほど変わったものに変形して行ったのであります。』

 『両書証の計画は、ともに極めてわずかな経済統制を準備しておったにすぎませんが、中国事変の発展のためやむを得ず広汎な経済動員となり、最後には徹底せる国家総動員にまで推移したのであります。・・・・

 法廷証第841号に関する反対訊問において、同証人は、目標は五ヶ年後であり、1942年及びそれ以後は、戦時能力を必要とするとの言葉に注意したと述べた。このことは1941年までに戦争があるだろうということを示したものではなかった。それは単に140の飛行中隊に対する陸軍航空機生産が完了されることを意味するにすぎなかった。けだしこれらの飛行隊を編成しながら、飛行機を供給しないならば無意味なものだろう。

 同年度ニオケル開戦ニ際シテハ、特ニ設備急速補填ノ策ヲ講ズと述べている同文書第5項の(3)に関しては、証人は、これは1942年に関するものであると述べた。証人はあくまでも1941年という年はなんら重要な意味をもっていないと主張するのかどうかという質問に対して、次のように答えた。すなわち『コレハコノ年1941年ニ、仮ニソビエットト戦端ガ開カレルトシテ、陸軍ノ飛行機140中隊ニ対シテ補給ガデキルカトイウ見当ニスギマセン。

 証人は右の文書にある『開戦第一年』という言葉は自分で書いたと述べた。これは飛行中隊の編成が完了した場合に補給ができるかどうかという点に関する見積りにすぎなかった。1943年に至る諸計画が樹立され、そしてさらにその継続が予定されていた。証人はさらにその前にも諸計画が立案され、その中には、1935年を戦時第一年とするものがあったこと、またそれよりさらに遡って、何年か前に1933年を第一年とし、1934年を第二年とする国家総動員計画が立てられていたことを指摘した。

 大和田(オオワダ)悌二氏は電力工業につき委曲を尽くして説明した。同証人は電力国家管理法の規定は、その大部分が1938年8月10日から実施されたと言っている。

 検察側の主張によれば、日本における水力電気の開発は戦争目的に向けられており、《法廷記録第18、252頁》そしてその目的で発電事業は逐次全体主義的統制の下に置かれるようになったといわれている。検察側の主張では、このことは次の事実によって示されている。すなわち右管理法案が通過を見るまでは、発電会社はすべて初めから民間会社であったというのである、検察側の主張は次の通りである。『該法律が採択されて以来、電力事業は全体主義的な傾向を帯びてきた』と。《記録第18、253》

 大和田氏はこの法律にまつわる諸事情を余すところなく説明した。この法案についてさえその中から戦争準備だけを嗅ぎ出すのはまったく不条理である。

 同証人は、1929年度ごろに行なわれた国際的ブロック経済の確立に伴って、どのようにして日本が最小限度の自給自足経済を確立する必要に直面したかを説明した。右の諸計画はほぼ1938年に最終的に完成を見たとはいえ、案として取り上げられたのは概ねその当時すなわち1929年ごろのことであった。

 右の証人の言葉によれば、電力国家管理法の一つの目標、日本の電力をその後長期間にわたって開発しその生命を長くするということであった。それまでのような小さな形で開発すると、この水利も長く経たないうちに開発し尽くされるであろう。日本は水力の濫費を避け、それを最も経済的かつ有効に使わなければならなかった。

 日本の地形は、西部には水力がなく、東部の方には非常に豊富である。この東西の発電所を送電線によってつなぐことができたならば、西部の方は、それまでは石炭を使って電力を起こしていたのが、今度は東部の水力によって、石炭を使わない電気で賄うことができるようになる。この石炭を節約するということも、水力の国家管理を行なう一つの目的になっていた。次に農村方面への送電の問題があった。同証人の証言によれば、日本はこの電力管理を考慮した際、一つの模範としてスイスの例にならった。スイスは日本と同じように天然資源が少ないのであるが、日本も同国にならって家庭電化を普及させ、家庭工業を盛んにして『日本にとって一つの自活の途をここに見出さなければならない』と考えた。しかし営利だけを主眼として電力開発をやっていたのでは、家庭に電気を供給することが困難であると考えられた。

 国家管理の諸動機は、まず第一に(以下証人の証言から引用)『日本の包蔵水力をなるべく有効合理的に開発をいたしまして、その効果を百パーセントに発揮したいということが一つ。次には日本に非常に乏しいところの石油であるとか、石炭であるとかいう燃料を、電力によってかえまして、これを愛惜(←この漢字二文字、判読困難。英文ではeconomizeであり、「節約する」という意味である。文脈上も「節約」が最も適切と思われるが、「節約」には見えない。「代替」でも意味が通じるが、「代替」でもなさそうである。「愛惜」のように見えないこともないし、「愛惜」でも一応意味が通じるので、仮に「愛惜」としておく)しようということが第二であります。さらに電力の発生を豊富にし、その供給を豊富にいたしまして、従って料金を低廉に導いて、その料金に公共的な方面に対しては、特殊の考慮を加えて廉価で供給できるように出す。』

 『大規模なる方法によって、水力の開発並びに電気の供給をやらなければならないという前提からいたしまして、それで水力の開発方針並びに供給の大きな根本の方針は、政府がこれを決定いたします。ただその決定をいたしますときには単純に政府の官吏だけで定めることなく、電力審議会というものに諮問いたしまして、決定をいたしますが、この審議会の内容は、大多数が消費者の代表、あるいは翼賛議員でありますとか、学識経験者というようなものによって組織されております。政府みずからこれらの方針を実行に移したのでなくて、ここに日本発送電会社という特殊会社を創立いたして、この会社をして実行にあたらしめたのであります。この発送電会社は、純粋の民間株式によってできておる会社でございます。』

 日本における電力開発は、経済上の必要に迫られて行なわれたものであると同時に、戦争のための産業に転用される可能性をもっていたかもしれないとはいえ、本官の意見では、それが日本の経済的必要によって行なわれたものであることをこの証言は余すところなく説明していると思う。リーバート氏が次のように言ったのはあるいは正しいかもしれない。すなわち『電力事業は日本の事業のうち、最初に国営化されたものの一つであった』と。そしてそれはおそらく『総力戦を支持する新体制の支柱の一つ』として用いられる可能性をもっていたかもしれない。しかし本官はこれが戦争準備の一段階であったという見解には与し得ない。ましてなんらかの侵略戦争の準備の一段階だというに至ってはなおさらのことである。

 小野氏は造船について述べた。同氏は造船を奨励し、これに補助金を与え、大型船舶を就航させようとする造船奨励(←漢字2文字判読困難。the Shipbuilding Encouragement Lawなので、「奨励」でいいと思うが)法、及び遠洋航路補助法が通過した理由を説明した。この証人に対してもまた検察側は反対訊問をしなかった。《記録第18、355頁》

 (同証人はその口供書においていわく)『我が日本の海運界は往時より外国古船の輸入により発展し・・・・・その大部分は時代遅れの古船又は・・・・劣悪船にして・・・・・開運の能率的運営に少なからざる支障となりたるのみならず・・・・・我が船舶に海難頻出して人命の喪失異常に上り世論囂々(ごうごう)として政府の古船政策を批難するに至れり・・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 『輿論は政府において速やかに船腹(←英文ではsurplus ship tonnageなので、直訳すると「余剰船舶トン数」ということになる)の徹底的整理と船質の改善とを敢行すべきことを要求せり・・・・然るに・・・・造船界は船舶過剰の結果・・・・造船設備過剰にして無為に日を送るのやむなきに至り・・・・多大の失業者を発生しこれが救済の実施を必要とするに至れり』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 『全国船主団体、造船業団体並びに労働団体と協議の上・・・・船腹の整理による海運市況の恢復、海運の合理化・・・・新船建造による造船業の振興及び失業救済等の施策発案せられたり・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)(そして)この措置は1932年に実施に移された。(以下引用つづき)『該措置に伴い経済的目的は達成せられ、該事業は恢復するに至れり。よって英国及び諾威(ノルウェー)においても日本の成功に注目し相次いで同趣旨の政策を採用するに至れり・・・・本政策は五十万総噸を解体し三十万総噸を新造し・・・・外国船舶の輸入禁止制度も昭和8年5月施行せられたり・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 『政府の意図したる所は全然過剰船腹を整理して、市況を恢復せんとする経済的政策に外ならず・・・・又本邦船腹は本政策により現実に減少せり・・・・政府の要求する所は船舶各箇の経済性能の優良化を企図したるものにして・・・・戦争を意図し、特に高速優秀船を建造せしめんとしたるに非ず・・・・高速船の若干存在せしことは高速の要求に応ぜんとする経済的事情に原因するに外ならず・・・・本政策は新造船を内地造船所において製造し諸材料は国産品を使用すべきことを規定せり・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)1937年にはこの計画は廃止され、最新式の船舶の建造が始められた。

 『右により・・・・業者が多年要望して実現し得ざりし所をある程度の助成により具体化したるに外ならず・・・・諸国が超優秀船を建造して覇を大西洋に争う壮観は世人の周知する所、日本業者の熱望する所なりき・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 この証人は、次に1937年の製鉄事業法が、海軍の反対にも拘わらず、何ゆえに通過をみたかを説明した。本法は他の重要諸産業と同様造船にも免許制を規定している。これは不必要な競争と混乱を防止するための規定である。当時存在していた造船所には許可が与えられ現状が維持された。

 この証人は日本の海運及び造船政策を余すところなく説明した。この造船業の造船能力はどうであったにせよ、採用された政策の理由は充分説明され、それがある戦争に対する準備を意味するものでないことが明示された。

 この点に関して吉田英三(ヒデミ)の証言《法廷証第3、003号》近藤信竹氏の証言《法廷証第3、003−B号》にも言及してよかろう。近藤氏は1930年6月より1932年12月まで軍令部第一課長、1935年12月から1938年12月まで軍令部第一部長、1939年10月から1941年9月まで軍令部次長であった。

 『証人が軍令部第一部第一課長になったのは、1930年の倫敦軍縮条約締結直後であります。従って新情勢に対し国防計画を一層守勢的に立て直さなければならないという時でした。華府海軍条約で我が海軍の主力艦及び航空母艦の保有量を英米の6割に制限せられましたが、その後諸種の情報により米海軍は着々渡洋作戦を準備し、必要が起これば何時でも日本近海まで来攻するものと考えられましたので、これに対して巡洋艦以下軽快艦艇を整備し、日本近海における邀撃(←漢字2文字判読困難。英文ではinterception。「迎撃」という意味である。「迎撃」の類義語に「邀撃(ようげき)」というのがあり、そのように見えなくもないので、一応「邀撃」としておく。2文字目はほとんど消えており、1文字目は「激」のようにも見える)作戦において主として魚形水雷の活用により我が国防を完くせんと努力しておったのであります。』

 『然るに1930年の倫敦軍縮条約で補助艦の保有量を制限せられ、我が海軍の特徴ある軍備を抑えられたばかりでなく、米海軍が新式艦を整備するものを手を束ねて見ていなければならないことになったのであります。これがため本条約の御批准に関し、枢密院で非常な問題となったのでありますが、一方米国上院ではスチムソン氏の脱帽演説("Hats off"speech)が行なわれ、日本国民の感情に少なからぬ刺激を与えました。軍令部としてこれに対処する方策としては、猛訓練による術力の向上による外、本条約の制限以外の小艦艇及び飛行機を整備し、新たに生じた軍備上の諸欠陥を補う外ないとの結論であったのであります。』

 右に述べたように、同証人は1935年−36年のロンドン会議開催当時においては、軍令部第一部長であった。その一ヶ月後日本は同会議から脱退した。証人は次のように述べている。すなわち『この会議における我が国の主張は、従来の不脅威不侵略の軍備という主張をさらに一歩進めたものでありましたが、不幸各国の容るる処とならなかったのであります。よって自分は爾後は乏しい国力に鑑み、なるべく少ない予算の範囲内で、いかにして国防の責に任じ得るものたらしめるかに関し種々研究致しましたが、結局軍備に後述のごとき特徴を持たせることの外ないということになりました・・・・』証人は自分の命名した『第三次補充計画』及び『第四次補充計画』というものの内容及びこれらがいかにアメリカの軍拡計画の影響を受けたかを説明し、特に1940年の『ヴィンソン案』及び『スターク案』に言及して、次のような趣旨のことを述べた。すなわち

 (ここから和文でも英文でも、カギ括弧等の引用開始の記号なしに行動証人の説明の引用が始まっている。どこまでが引用であるか、非常に分かりにくいが、引用の終わりと思われる部分を、後で指示しようと思う)それまでは彼らは米国の海軍拡張に対しなんとか国防計画を立ててきたものの、この厖大な計画が実現してきた場合、限りある国力の範囲内で、いかにして国防の責を全くし得るかについては、彼らはほとんど方策を見出し得なかった。米国の貿易制限は強化されてくるし、蘭印、仏印等との交渉は一向に進捗せず、国家存立の根本が脅かされる有様であった。米合衆国艦隊のハワイ進出、米英の重慶政府援助強化は、重慶政府として(←正誤表によると「政府として」は誤りで「政府をして」が正しい)戦勝われにありと思わしめ中日事変解決はますます困難の度を加えた。情況かくのごとくで、いつ戦禍が東亜に波及するかもしれぬという心配があったので、第三次、第四次補充計画の実施を急がねばならなかった。

 第四次補充計画の戦艦二隻は工事も進捗していなかったし、防衛上特に必要な小型艦艇の建造促進に全力を注ぐため、1940年11月右主力艦の工事を打ち切ることになった。また同年秋ごろ商船を応急的に改装して、特設航空母艦をつくる案が提出された。

 1940年末ころから国際情勢は急激に悪化した。比島予備軍の徴集、米陸軍長官の真珠湾戒厳令発布、北支駐屯米軍の引き揚げ、「シンガポール」海峡東口の機雷敷設、豪軍の馬来(Malayaマラヤ)増強、在マニラ比島軍増援のための米、英、豪等の軍事会談等の情報が次々に入った。

 軍令部としては米国の海軍大拡張及び国際情勢に鑑み、日本は資源に乏しいながらも海軍軍備をなんとかせねばならなかった。1941年5月に中小型潜水艦各9隻、その他の防御用艦艇の臨時追加、補充計画を実施に移し、さらに同年8月には航空母艦一隻、巡洋艦二隻、駆逐艦26隻、潜水艦33隻、その他防御的兵力を目標とした応急軍備計画を実施に移したのであるが、とうていこれでは米海軍(の拡張計画の進展)には追い付けず、焦燥の念に駆られたのであった。これらの軍備計画は米海軍の圧倒的大拡張と日本の眼に映じた同国をめぐる軍事包囲の緊迫に刺激されて泥縄的にやったもので、その内容も防御的の小艦艇を主とするものであった。

 これらの諸方針が決定されつつあった際、国力が貧弱であるということは大きな悩みの種であった。そこに多くの困難があった。一旦戦争となった場合、日本の艦船建造速度は遅くなることはあっても、これを速くすることは不可能と思われたが、英米の建艦は著しく促進されるものと思われた。

 日本には戦時に艦艇の補助として改装使用し得る優秀商船を有すること、(←正誤表によると「優秀商船を有すること、」は誤りで「優秀商船はきわめて少ないのに対し、英米は多数の優秀商船を有すること、」が正しい)日本は予備空軍となし得る民間航空機を英米が有するほどには持っていなかったこと。日本には戦時兵器製造に転用し得る民間工業が少ないのに反し、英米は大規模な民間工業力を有し、かつこれを軍用に転用し得る立場にあったこと。

 日本は戦時資源に乏しいのに反し、英米はあり余るほどの資源を有していたこと、これがため平時から比較的多くの既成兵力を整備すること――それが貧弱な国力に対する負担を重くするものであるに拘わらず――を要することとなった。英米両国が迅速な動員が可能で、かつ莫大な資源を利用することができるのでこの必要が起こったのである。これらの諸要素を考慮することなしには、国防上重大な欠陥が生ずるに至ったであろう。(←近藤証人の説明の引用は、ここで一旦終わると見ていいだろう。もっとも、直後にまた続いていくのだが。この引用部分について、和文では最後まで引用の記号はなかったが、英文では途中から、引用の「”」マークが出て来た。しかし、途中からつけるのもおかしいので、無視した)

 さて空母艦の問題については、証人は次のように言っている。すなわち『リチャードソン海軍大将の供述書には、日本海軍が侵略戦争準備のために航空母艦の建造に努力したように述べられております・・・・』

 航空母艦は進攻的に使用せられ易いのでありますが、航空母艦を含む艦隊の進攻を防御するために航空母艦が必要であることも一般に認められているところであります。日本海軍当局は他国が航空母艦を有する以上その防禦のために航空母艦を絶対的に必要と考えておりました。』

 『日本は航空母艦搭載機により攻撃せられる危険多く、、かつその場合の被害はきわめて大きいのであります。・・・・日本は四面、海で、かつ国土狭長でありますから、航空母艦搭載機の攻撃圏外にある地域はありません。日本の大都市大工業地帯及び交通の幹線はほとんど全部海岸近くにあります。日本の家屋は可燃性の材料でつくられており、爆弾によて被害はきわめて大きく焼夷弾を使用したときは特に大火災となるおそれが大きいのであります。』

 日本を防御するためにはきわめて多数の飛行場と飛行機を必要とします。かかる攻撃に対する防御手段としては、飛行機、対空火器、阻塞気球等がありますが飛行機が最も有効であります。防御すべき物が海岸にある場合は対空火器、阻塞気球では攻撃を阻止するに充分の効果を期待し得ないのであります・・・・日本は天候不良のため、飛行機の移動集中に障害となるので、飛行場及び飛行機の所要数は一層大であります。』

 『日本は国力が豊かでないから、多数の飛行機を保有することは不可能であります。また土地狭く、特に平地が少ないので、飛行場建設は困難であります。』

 『一方艦隊には、他国が航空母艦を有する限り、航空母艦を含んでいない場合、偵察力及び遠距離における攻撃力並びに対空防御力で格段の差を生じ、飛行機の発達に伴って航空母艦を含まない艦隊は存在の意義がないようになって来ました。この艦隊の航空母艦力を充分対手国と匹敵し得るようにして、これで国土防空を兼ねさせることは有利であります。』・・・・

 『なお日本の航空母艦が・・・・防御的意図に基づいて建造せられたことはその航空母艦の性能から見れば明らかであります。航空母艦を進攻的に使用するには、付属の各種艦艇が必要でありますが、日本海軍にはその準備はありませんでした。』

 吉田英三氏は1946年6月から1947年5月まで第二復員局資料整理部々員であり、1946年以降旧海軍々備に関する報告類を多種多様にわたり作製した。1947年4月、弁護側から米国海軍艦艇に関する米国海軍省の公文書の写しを貸与され、1941年12月7日現在における日米両海軍の現有艦艇及び建造中の艦艇比較表を作製するようにとの依頼を受け、比較図表2葉(=2枚。原資料では下線が「2」にもかかっているように見えるが、英文を参照し、「比較図表」のみに付した)を作製、これらを弁護側に手交したが、これが法廷証第3、003号−A及び3、003号−Bである。

 同証人はひとつ重要な発見をした。それは往時日本軍令部が米国海軍兵力量に関し、推測判断しておった数量と、公文書によって示された現実量とはきわめて接近しているという事実、並びに日本の推定が実際の数字よりも幾分下回っていたという事実である。

 委任統治領の要塞化に関しては、検察側の証拠は、人を納得させる力をもっていないと本官は考える。弁護側の証拠は次のように述べている。すなわちこれらの島々は要塞化されておらず、かつ日本政府が他の列強にこれらの島々の視察を許容しなかったとしたならば、それは日本がこの点について列強がその脳裡に描いていた幻影を払拭することを欲しなかったからであったと。本官は弁護側の説明の方が人をうなずかせるものをもっていると思う。

 日本のとった処置――すなわち検察側の用いた描写法を借りれば、軍備制限条約によって押し付けられた制限及び拘束から自らを解放しようとしてとった処置――をとらえて、検察側はいろいろさまざまなことを言った。この点に関し日本の立場を説明するものとして弁護側から比較的多数の証拠が提出された。この点に関し、(1)榎本重治及び(2)近藤信竹の証拠を挙げることができよう。

 日本がとった行動の重要性及びその行動から侵略的な意図ないしは準備を、われわれが推断すべきであるか否かという問題との関係を理解するため当時ほとんど各地で起こっていたかつまたそれが軍備縮少運動失敗の理由と信ぜられていた一つの現象に着目することは、けだし適切なものであろう。本官としてはこの点については国際問題協会の述べているところを借りて引用したい。国際社会全体に関して同協会は左の通り述べている。

 『社会生活のあらゆる分野において、権力が「法律上(←「法律上」に小さい丸で傍点あり)」の選挙民の中に撒布されていたよりも、最近には、「事実上ノ(←「事実上ノ」に小さい丸で傍点あり)」専門家たちの手中に急速度にかつ効果的に集中しつつあったことは周知の事柄である。憲法上の理論と政治上の事実との間の、この顕著なしかもますます増大するくいちがいの理由は、決して不明瞭なものではなかった。その理由は民主主義が近代の二つの重要制度(←正誤表によると「重要制度」は誤りで「主要制度」が正しい)の一つに過ぎなかったということにある。いま一つの制度は産業主義であった。産業主義の発展は社会機構の複雑性の増大並びに、必然的に事実として専門家の手中に入っていった物質的技術の進歩をもたらすに至った。しかもそれは、ちょうど人々が自身の運命を自分で支配出来るようになったと夢想しておった際であった。』

 『右の傾向は生活のあらゆる分野において一様に見られたのである。しかしながら、もたらされた結果には、種々の専門家のそれぞれの機能及び公衆との関係における、一定の基本的な相違に応じて、それぞれの分野において甚だしい差異があった。たとえば経済の分野においては、問題の専門家たちは産業、商業、かつ財政上の制度の運営の専門家であった。そしてこの制度は、発展するに従って、それが有利にもしくは有効に運営されるべきものとするならば、いな、いやしくも運営されるべきものとするならば、そのためには全世界的な活動の分野を要求してやまなかったのである。事実経済の専門家たちはその専門的な立場からして、物の観方が一層世界的とならないではいられなかった。そして当時人類の生活を窒息させつつあった偏狭な国家主義は、経済の専門家にとっては彼らの仕事を首尾よく果たすためにその職業上の努力を尽くして、必至の闘争をいどんでいた龍的怪物であった。従って経済の分野においては、一国の選挙民から専門家へ権力の移ることは、どんな場合にも公益のための建設的な国際協調を阻害するものとなるはずはなかったどころか、かえってそれを促進する傾きを帯びてさえいたのである。他方、軍備縮小並びに安全保障の分野においては、選挙民より問題の専門家への権力の移譲のもたらした結果は、ちょうど正反対であった。』

 『この分野においては、1932年には世界中の男女は「次の戦争」には彼らもその子供もまたその家屋も、空爆に曝されるであろうということを充分意識しており、従って彼らは戦争再発の防止を、切に望んでいたのである。ところが軍備縮小並びに安全保障の集団的調整を通じての平和の保証を実現させるということは、この部門の専門家たちが本来そのために訓練され、かつ実行を委任された仕事ではなかったのである。この部門においては専門家の仕事は平和維持を保証するということではなくて戦争が勃発した場合には、自分自身の彼らの国家の勝利を確保するために、最善を尽くすということであった。1932年の軍備縮小会議とその専門委員会の経験は、単に従来の訓令を破棄するだけでは、昔からの古い職業的な伝統を拭い去り、陸海空軍の諸将星を国家の戦争遂行の専門家から、国際的平和機構に関する専門家へと転ずるというような、奇蹟をもたらすことはできないことを明白にした。』

 『ジュネーヴにおける世界軍縮会議の専門委員会の軍事専門家がその各々の国のための新たな役割において全然失敗したことは、彼らの個人的な悪感情もしくは不信義などの仮説に依存するまでもなく、あの有名な職業的習癖の力を考慮すれば、充分説明され得るのである。』

 どの国家でも『戦争の準備から平和の機構へとかわる公式の政策並びに国民の希望の目的の変化は充分の誠意をもってなされたものではなかったしかつ曖昧なものであった。一方においては平和のために効果ある機構こそは、今や政治家の真摯な目的であるとの想定の上に、専門的立場からしてこの平和に対する機構が平和撹乱者に対して、いかに最も有効に適用されることが出来るかを考慮するように指令されていたのである。しかし同時に各国の専門家グループ、(←正誤表によると「各国の専門家グループ、」は誤りで「各国の専門家グループは、」が正しい)その国家兵力の大量縮減につき、政治家が同意した場合は、どうすれば自国の戦力縮減を最小限度に止めて軍備縮小をはかり得るかと、狭い国家的観点から検討するように、依然指令されていたのである。』

 もしこれが軍縮会議自体において起こったとすれば、それはすべての国の人心に影響を与えつつあったもので、従ってだれも平和機構の成功を信じなかったのである。

 国際問題協会の報告中に言及された『有名な職業的習癖の力』というものは、関連ある時代のどの特色とも、なんら特別な関係をもっていないかもしれない。軍事上の利害の規制は常に同様な運命に逢着していたようである。各国ともその仮想敵国の軍備縮少に賛成した。各国とも自分自身の特殊の力の縮減を好まなかった。『獅子は鷲の目を睨みつけながら「われわれは猛禽の爪を廃止しなければならない」と言った。鷲はまたじっと獅子の目を睨み返して「猛獣の爪は廃止しなければならない」と言った。』熊はだれにでも抱きつくということ以外のものは、何でも廃止するということに賛成であった。

 1856年のパリー会議を嚆矢として、何か軍事上の問題を規制しようと試みられたときには、いつもきまって諸列強は、その態度をその問題に関する彼らの現有または予期することのできる力と密接に相関連させている。彼らは常に狭い実利的動機によって動かされて来た。ロイズ博士は「空爆」に関するその論文中にて、このような態度は彼のいわゆる「軍事上の利害」の本質そのものによって当然必要となって来たものであると説明している。

 本官はここでこの博学な著者の見解を検討しようとするものではない。ただ本官がここに指摘しておかなければならないのは、これらの会議における、もしくはそれに関連しての日本側の態度には、彼らが何か侵略的企図のために準備をしていたとの推定に、われわれを導くような異常なものはなんらなかったということだけである。

 イングリッシュ氏は軍備に関する証拠を多々提出している。その証拠は次のようなものである。

  (1)法廷証862A及び863A――1938年5月19、20日の両日に『ジャパン・アドヴァタイザー』紙上に発表された『陸軍、戦時法案を説明す』と題する記事からの抜粋。これは陸軍省発行になる国家総動員法案中の規定説明のパンフレットであると言われている。

  (2)法廷証864――兵役法が1939年3月8日に修正され、1941年4月1日に帝国議会によって改訂されたことを示すために、1941年――42年度のジャパンイーヤブック(日本年鑑)からの抜粋。

  (3)法廷証865――1941年1月22日に、日本の全般的軍事的準備の一環として、内閣が兵力資源確保の人口政策を強行することを決定したことを示す、1941年企画院発行の『国家基本政策要綱』と題するパンフレット。この政策の意義についてパンフレットは『東亜共栄圏ヲ建設シテ、ソノ悠久ニシテ健全ナル発展ヲ図ルハ皇国ノ使命ナリ。』と言っている。

  (4)法廷証866――橋本被告著、1940年出版の『革新の必然性』と題する著書からの抜粋。これによって橋本が、1940年に他国を征服するのに必要な限度にまで、軍備を増強すべきことを唱導したことを示すものと主張されている。

  (5)法廷証867――東京駐在ドイツ大使オット発リッベントロップ宛、1941年7月13日付電報の写真版でありその提出目的は既に右日付には日本は真剣に軍事的動員の措置をとり、軍事的準備を整えていたことを示すにある。同電文にはすなわち『日本ガ真剣ニ軍事的動員ノ措置ヲナシテイル徴候ガ、此処デ認メラレル』と述べてある。

  (6)法廷証588――これは日本が英米蘭と戦端を開くの決意をもって、1941年10月末までにその戦争準備を完整すべき決議が、1941年9月6日の御前会議において採択されたことを示そうとするものである。同書証は『米、英国蘭等各国ノ執レル対日攻勢』にふれている。

  (7)法廷証868――これは1940年に勅令第648号によって、「総力戦研究所」設置の事実を示すものである。

  (8)(a)法廷証870――「総力戦研究所」が行なった机上演習の記録。1941年8月上半期。

    (b)法廷証871――同研究所作製、第一次総力戦机上演習経過記録であって、第三期すなわち1941年8月より第九期1942年10月に至るまでの成果。

  (9)法廷証872――日本各地の港で交付されるべき軍需品、弾薬、機械類、燃料、石油その他の員数を示す表並びに電報をまとめたもの。1941年11月11日。

  (10)法廷証873――飛行集団長15日南京出発南部印度支那へ向かう旨の、1941年11月在南京第三飛行集団長発、陸軍次官並びに参謀次長あて電報。

  (11)(a)法廷証874――1941年11月付戦時月報。この書証は『軍ハ鋭意香港作戦ヲ準備』していると述べている。

      (b)法廷証875――南方軍総参謀長塚田攻(←「攻」に「オサム」と振り仮名あり)発陸軍次官木村兵太郎あて機密電報。

        法廷証876――1941年11月12日付、「帝国の参戦ニ当タリ執るべき軍政措置」(←片仮名と平仮名が混じっているが、原資料のままとしておく)と題する文書

        法廷証876−A――法廷証876からの抜粋。

        法廷証877――南方占領地行政実施要領。

        法廷証878――11月5日御前会議決定帝国国策遂行要領ニ関スル対外措置。『1941年11月13日の連絡会議決定』

  (12)法廷証809――マッカーサー元帥の命によって連合国翻訳部の作製した、1945年12月1日付「日本の戦争決意」と題する調査報告書。検察側は、この書証は日本政府が1941年10月末にすでに対米、英、蘭開戦遂行に決定していたことを立証するものであると主張している。右は本裁判所条例の下においては、証拠として受理され得べきものではあるが、本官はこれに対し大して証拠価値を認めない。

  (13)法廷証879――東条被告の1941年12月16日の第78帝国議会における演説。この演説中において、同人は陸海軍将兵の示した武勇を称揚した。

  (14)法廷証880――第一復員局作製図表にして、1930年1月1日から1940年1月1日までの日本陸軍の総兵力を示すもの。同図表は1938年並びに1943年に大きな変化があったことを示している。

 右項目中第2から14までは、われわれが現在審理中の問題に関する限りでは、検察側の主張を補強していない。これらはみな日本がその前途に事在りと懸命する(←正誤表によると「懸命する」は誤りで「懸念する」が正しい)充分な理由を有していた時期に関係するものであり、もしその政治家または政策の衝に当たるものが、これを予見し得なかったのであるならば、それこそ犯罪的というべきであろう。全世界は挙げてその恐れていた来たるべき事態に対し、小心翼々として備えていたのである。

 検察側は右の証拠中、(1)に引用された新聞記事の内容に相当重点を置いてこれを強調した。

 そのパンフレットは左の通り述べている。

  (ここから相当長い部分、原資料では漢字片仮名交じり文である。終わるところで再度指摘する)『日本は北方においては世界をソビエット化せんとする野心をもって巨大なる軍隊を編成し、その国境線に沿って国防を完成したソ連邦に面して居る。日本は西方においては、日本に対して猛烈なる反抗政策を執る蒋介石政権を有している。これに加うるに、日本は米国及び英国の強力なる海軍によって包囲されている。日本は島国帝国なるが故にその国土は狭小にして悲しむべきことは天然資源が不足している。かかる状況の下に、日本がその国防を効果的ならしむる計画を編成するに当たって、大なる困難に直面せねばならぬことは、誠に不可避である。

  『満州事変は国防の状勢に大変化を招来した。事変は現在の事変により促進された。新しい状況の下においては国防線は国境から数百哩(マイル)も遠く移動され、北満及び北支を経て一千哩以上の距離にある中支まで拡張された。この事実に直面して満州国及び北支、中支と協力し、東洋永遠の平和確立に向かってこの国防線を有効的に保持するため日本のあらゆる方面の国力を拡張しかつ強化すると云う事が日本にとり最も重要な事柄となって来たのである。国家総動員法によれば日本は緊急の場合、その国力を国防目的に最も有効的に発揮せしむる様最大限にその全人的及び物的資源を統制運用することを目的とする。換言すれば日本はその国家的活力を最大限に動員して戦時に際して要する巨大なる軍用物資をその陸海軍に供給せしめること及び国民生活の安定のため円滑なる経済作用を確保すると同時に戦場並びに経済及び宣伝戦線において敵の士気を沮喪せしめることを目的としている。将来における軍事的成功は主として戦争の継続する限りその総合国力の組織的かつ有効的動員能力の敵に対する能力の優越性に依存する。総合国力と云うのは有形無形の人的物的資源のあらゆる要素から成る国力を意味するのである。国家総動員には戦争の究極の勝利を得るために効果的な表現として、これらの要素を最も組織的に一つの一貫した国家総力に集中する事が必要である。戦力の源泉は国民とその精神力である。これに鑑み精神力の動員は国力の他のいかなる要素よりも重要な事は明らかである。故になし得る限りの努力をして国民の闘争心を強化するための統一戦線に教育施設や宣伝機関を動員しなければならない。これによって国民はいかなる艱難辛苦にも耐える事が出来る。

  『総動員企画中さらに重要なる事項は陸海軍に補給する莫大量の必要な資材を獲得することである。戦時においては科学の進歩と並行して戦闘装備がおびただしく拡大されるために、あらゆる種類の資材が大量に消耗される。この要求を満たすために政府はなし得る最短期間にそれらを集めかつ速やかに使用する様に準備しなければならない。戦争資材の欠乏は適時海外より獲得して補充しなければならない。他方において政府は国内のこの種資材の生産を増加する努力を払い、かつそれらをいかなる予想される不慮の事件にも供給する様に貯えて置かなければならない。国家はある種の戦争資材を普通目的に消費することを制限もしくは禁止し又は国民にそれら代用品の使用を奨励する事が必要であるかも知れない。

 『かかる活動を促進するためにあらゆる生産企業及び輸出入機関を組織的な生産と配給に統一する事が必要である。この目的で政府は勅令によって種々の規則を出さなければならない。政府は又物資の価格騰貴を防止する必要な手段を採り又必要とあればかかる物資には公定価格を設けるまでに至るであろう****(←このあたりのこのコメジルシには、深い意味はないようである。単に「中略」と言った意味だろう)

 『戦時においては前線への人員武器弾薬糧秣資材等の迅速な輸送が勝利獲得上不可欠である。これは可能な最大限の陸海輸送機関の統一的運用を要請する。****

 『国力の中の科学的要素の動員は総動員計画中のもう一つの重要な事項である。****この目的のために政府は科学者並びに科学施設をして最高度にその効率を増進せしめるよう特別の考慮を払う。

 『国家総動員を円滑ならしめるため、政府は情報、宣伝及び警備業務の動員の一部として、あらゆる内外の各種情報を適確に収集する。政府は併せて国民精神動員のため、並びに国内輿論を戦争遂行に結集するために宣伝運動を起こす。この宣伝の一部として外国における対日輿論を有利に導くよう努力する。****

 『政府は、平時において総動員を不可避ならしむるごときいかなる起こり得べき不慮の事態に対処する準備が絶対に必要である。故に政府は必要な物資の生産、その輸送及びその他総動員を円滑ならしめる諸活動において効率を即時に高めるような遠大な計画を用意しなければならない。

 『内閣は先ず総動員に対する概略の草案を作成し、これに基づき各省はそれぞれ計画及び準備をする。外国貿易及び商品生産ないし配給の企業に従事する団体は政府各省の準備した計画に従わねばならない。当該団体の行為は勅令によって公布され現行法改正により成立される規定により取り締まられる。****』(←漢字片仮名交じり文はここまでである)(法廷記録第8、792――8、800ページ)

 本官はその中の悪い部分を不用意にぬかすかもしれないことを恐れて、内容を「詳細ニ(←「詳細ニ」に傍点あり)」引用した。本官の判断では、この記事は当時の情勢の「善意アル(←「善意アル」に傍点あり)」叙述であって、正に責任ある政治家に期待すべき情勢認識の度合いを示すものである。それは確かに将来戦とその恐るべき性格に対する危惧の念を現わしている。「総力戦(←「総力戦」に傍点あり)」に関する著者の見解を明確に示している。しかしながら本官は、なぜこれが本件において主張されているような侵略戦の準備を推測させるものであるかを了解することができない。

 検察側は、1936年8月7日の内閣決定《法廷証第216号》すなわち国策の基準として採用された『日満国防ノ安固ヲ期シ、北方蘇国ノ脅威ヲ除去スルト共ニ英米ニ備エ日満支三国ノ緊密ナル提携ヲ具現シテ経済的発展ヲ策スル』という閣議決定事項に法廷の注意を喚起している。検察側の主張するところによると、これが共同謀議の究極の目的なのである。

 1936年における対英米準備を申し立てることは、必ずしも侵略的準備を示唆するものではない。一国の外交政策を左右する者に対して、かれらが何か特殊な動機を持っているかのように見るのはたやすいことである。しかしながら右のような責任ある政治家は必ずしも邪悪な企図のみによって動かされるものではない。彼らの職能は、自国民に対するある種の責任を伴うものであり、従って彼ら政治家がその政策を決定するに当たっては、彼らの了解するところの国民の要求及び困難がその際の決定的要素として作用することを勘定に入れているものと推定してよいのである。本官がすでに前に述べたように、日本は解決しなければならない、一つの緊急なかつ永久的な国家的問題を持っていた。すなわち人口の急激な増加に対し、年逐うて向上する生活水準に基づくさらにいろいろの生活手段を供与することであった。この問題は日本の為政者の断えざる関心事であったがその解決は日本の国策の異なった段階においてそれぞれ異なった線に沿って求められて来た。ワシントン会議後の約十年の間においてはその解決は貿易の振興及び政治的善隣主義の線に求められた。不幸にして、奉天事件に端を発した日華紛争は、日本にとって極めて不利な世界的反響を呼び起こすに至った。1936年に日本の国政を処理すべき責任を双肩に担うことになった政治家達は、この困難な事態の発生に関係があったかもしれないし、あるいは無関係であったかもしれない。しかしながら、いずれにもせよ、一旦このような事態が発生した以上、彼らはこれに対処しなければならなかった。(ここから始める引用が、何からの引用であるか、引用の後に記されている。すなわち「1931年における国際問題協会の調査員の言である」と)『一度このような行動が起こされた以上、たとい軍閥やテロ主義者が暗に賛意を表示したにしても、日本政府としてはもはや目立たぬようにして幣原政策に戻るということは、容易でなくなった。何となれば世界的経済不況はすでに日本の国政を賢明に処理して行く上に幾多の困難を投げかけていたが、日本軍国主義の「無智なる浅慮」は、かような困難をなお非常に悪化してしまっていたのである。日本軍閥が、奉天に一撃を加えたとき、彼らはその行動が満州の境界、中国の国境を越えて、極東からかけ離れた遠隔の諸地域に深甚な影響を及ぼすであろうとは予知していなかった。否、考えてゑようとも(←正誤表によると「ゑようとも」は誤りで「みようとも、」が正しい。「みようとも」が正しいと思う)しなかった。事実、世界的反響が続いて起こり、また当然に起こるはずであった。』『満州における日本の作戦があれほどの甚大な打撃を与えた国際安全感とは、国際金融上の取引に際して信用という形をとった心境の政治的表現であった。信用と安全との間に存するこの基礎的な、しかし緊密な関係によって、満州における日本の武力行動は、世界的経済不況促進に強烈な刺激を与え、こうして間接的ではあるが効果的に単に満州ないし中国国内、を相手とするものばかりでなく、世界全般に対する日本の外国貿易の衰退を、促進した。』

 『日本の暴挙がもたらした政治的結果に関しては、その重大性の程度はアメリカ国務長官スティムソン氏が中国及び日本政府にあてた1932年1月7日付通告、並びに同氏がアメリカ上院議員ポーラ氏にあてた12月24日付書簡の中に暗示されている。』

 これら二通の重要な公文書は、その当時でさえも、次のような可能性を誘致するものと見なされた。すなわち『太平洋における国際感情の深い静けさは破られ日本帝国及び太平洋に臨む四つの英語国が、再び建艦競争と政治的敵意の渦中に投ぜられ、』その結果、『かねてから政治家たちがその手腕を傾けて退散させようと努めていた恐るべき幽鬼』が再び横行することになった。すなわち『結局、太平洋は今までになかったほど強大な国々の兵力が相対峙し、相手にとどめの一撃を加えてこれを打倒したものの受ける褒美は世界君臨であるというので、それを目がけて必死の決闘を行なう戦場となる運命にあったのかも知れない。』

 以上は1931年における国際問題協会の調査員の言である。もしこのことが1931年において彼が予知出来たことであるならばどうして日本の政治家が1936年においてこのような可能性を看破しそれに応じてその政策を決定する立場にいてはいけないといえるかは了解出来ない。本官は、日本の政治家が単に当然に予想されるかような衝突の可能性に対して準備していたのでなくて、これらの諸国に対する将来の侵略戦のために日本の準備態勢をととのえていたのであるとなぜ推定しなければならないのか了解に苦しむものである。

 日本の絶えざる頭痛の種であった国内問題は、少なくともその当時の日本の為政家にとっては、日本の政府と国民が増加の一途をたどる人口をまかなうために、増加しつつある国際貿易の総取引高のより多い分け前の獲得に努力するということを不可避なものとした。しかしながらこの点についての彼らの平和的な追求が蹉跌に終わることを余儀なくされたという事実を彼らは全く無視することが出来なかったのであり、あるいは、それは『人力の及ばない非人間的な力』によったものかも知れないが、しかし、彼らは、この希望の実現出来なかった原因を、その是非はともかく、自分らの力の及ばない人間の力のせいにもしたのである。彼らには彼らのこの平和的な希求に対して太平洋に臨む四つの英語国が同情的であったとは思われなかった。日本が登場したときには、そこには英米の経済的世界秩序がすでに存在していて、新しい国の発展の余地がなかったのである。この秩序はその本来の性質からして、他国と分け合うことを認めるものではなかった。しかも『英国式経済組織を世界に強制する英国の行為が晩かれ早かれ破壊的傾向をもった強力な反動を巻き起こすということはほとんど不可避的であった。すなわち部分的には英国のもたらす圧迫に対して消極的に反抗することであり、また他方には英国の業績に対して積極的その向こうを張ることであった。』実際、英国人の大英帝国式覇権の直接の原因でもあり結果でもあった自由と富と権力に対するある程度の分け前にあずかるために、この組織における支配的な国に対して、自己の立場を主張しようとする他のいずれの者の努力も、かような努力をすることそれ自体が当然その目的を失敗に終わらせるように運命づけられていたのであった。『なぜならばかの典型的な英国産業革命家の有するものであって、渇望の的であるところの自由と富と権力とは、彼らがその権力を縦横に揮うに足る行動の自由を有すること、並びに全世界にわたる行動範囲を持つということに懸っており、しかもこれらは、全体を破壊することなしには分譲し得ない二つの資産であったからである。』これらの資産を享有していたものは生易しいことではその分譲に同意しようとはしなかったのである。かくて新しい志願者の平和的努力でさえも、これらの特権的立場にあるものから反対される懸念を伴うのである。これは特に『彼らが遠い過去から遠い未来にわたる人事の進化に関して抱く概念のすべて』は『未来は彼らだけのものである』ということであり、彼ら以外の者は『神意に基づく彼らの発展に寄与することによって歴史におけるその宿命的な役割を果たした』ということであったからである。日本の為政者はこの可能性に留意していたのであり、われわれが法廷法216号に見出すことのできるものは、単にこの先見の明を表示しているに過ぎない。本官はそこになんら侵略的準備を読みとることができない。

 これは彼らが『英国の業績の向こうを張って』『永続性ある産業上、商業上の勢力拡張の事業を企図』に備えたという事実以外の何ものかを示すものとする必要はない。ただ彼らはすでに他人が座り込んでいる領域内で行動しなければならないという事実には、はっきり気づいていたようである。とはいえわれわれはどの政治的陣地にもせよ、それに故意に正面攻撃を加えようとする計画などをここに描き出された政策の中に読み取る必要はない。英国の経綸の才幹と同じように、彼らもまた一潟千里の経済前進に伴う自動的な躍進によって政治的陣地を覆滅しようという無理からぬ期待を抱いていたのかもしれない。ただ彼らは政治的側面を暴露するほどに大胆ではあり得なかったのである。それにもかかわらず、採用されたこの政策は、『少なくとも最少限度における、全世界の政治的良識と好意及び節制は今なお当然あるべきこととして彼らの側で暗に推定したという』ことの可能性を除外するものではない。

 しかしながら日本が戦争準備を整えていたという事実を、証拠が充分に立証していることは否定できない。検察側は、右の事実と、日本が結局においては侵略戦争を始めたという事実とを考え合わせると、その準備そのものが、かような侵略行為のためのものであったとの推定に導くべきであると主張した。計画された侵略の厖大性を強調するために、検察側は準備の広汎性に重点を置き、かつこれを全体主義的侵略戦争のための悪質な企図として非難している。

 本官としては、遺憾ながら検察側のこの主張を承認出来ない。戦争を根絶するための第一次世界大戦は、戦争を根絶する代わりに、世界至るところの国民の胸裡に将来の消耗戦に対する危惧の念を起こさせることに成功したようである。産業主義と民主主義の新しい推進力の導入によってもたらされた戦争の性格の戦慄に値する変化を目撃して、われわれ現代人は1914年に脅異の眼を見張ったものである。もっとも、戦争の歴史に一新紀元を画したものは、たしかに1861年から65年にわたって米国の南北戦争であった。というのは二つの――民主主義と産業主義という――新しい推進力がこの戦争において初めて古来の国際悪に適用されたのであった。

 民主主義と産業主義がもたらした恐るべき新兵器の出現の結果は、1861年すなわち南北戦争開始の時よりも、1865年同戦争の終結時に至って戦争をさらに苛烈なものとしたのであった。トインビー教授によって論ぜられているように、『その時以来、戦争はもはや「王者の遊戯」ではなくなり、各国民が全智全能を傾倒しなければならない大仕事となってきている。・・・・もし、1861年ないし71年の戦争の経験が、あの18世紀が終わる前に行なわれていた奴隷制度に対する反対運動に見られたような熾烈性と執拗性をいくらかでも持った反戦運動をひき起こしていたならば、われわれの現在の立場は、恐らく実際よりも一層有利なものとなっていたであろう。』

 戦争という古来の制度は民主主義といい、産業主義という新しい社会的な作用に奨励接触することによって、新鮮なそして前例を見ないほどに強力な刺激を今日受けた以上は、その精神においても、社会的結果においても、ともに18世紀の「王者の遊戯」と正反対なものである「全体主義的」な戦争こそは今後われわれが行ない得る唯一の様式の戦争である。

 従って戦争の全体主義的性格は、ある特定の一個人、もしくは個人の集団による企図から生ずるものではない。それは戦争そのものの近代的性格である。

 これが民主主義と産業主義との合同衝撃によって、決定的に巨大なものに変形された戦争の悪である。民主主義は「王者の遊戯」を熱情的に行なわれる国民の戦争に変化させたのである。産業主義は交戦団体の物質的富のすべてを「戦争資材(←「戦争資材」に傍点あり)」に変形させ、同時に、交戦国政府が、国家の勤労階級のすべてを動員することを可能にし、かつこれを余儀ないものにしたのである。銃後にあって補給物資及び軍需品を生産する男女は、前線における兵士と同様に、戦争の遂行にとって、不可欠であり、かつまた同様に戦意に燃え立っているのである。

 恐らく極く近い将来に起こると思われる将来戦のすがた、及びかような戦争が目前に迫っているというおそれがすべての人に絶えざる不安を与えた。各国はこのような戦争のために多かれ少なかれ準備をしていた。

 1927年3月7日、フランスにおいて、富力、知力及び人力の強制的動員を規定する徹底的な法案が共産党議員を除く全員一致をもって下院を通過した。この法案は1928年2月17日に上院を通過した。これを基礎づけた仮定事項は、上院でこの法案の「説明者(←「説明者」に傍点あり)」クロック氏によって次のように明瞭にされ、裏づけられた。すなわち『「総力戦(←「総力戦」に傍点あり)」の概念は、われわれが将来考察しなければならない方式であり、またわれわれが構想している組織が対応しなければならない方式である。《この点について、陸軍委員会はこの法案の起案者にまったく同意している》この概念は、明日にも、予期していなかった新たな紛争に自分自身がまきこまれていることを発見するかも知れない人々を、彼らの(戦勝のための)努力は、爾後においては武装兵力による行動だけにこれを限定したのでは到底不充分であり、かつ、勝利を獲得するためには、武装兵力だけに頼るのでなくて、そのありとあらゆる力とありとあらゆる資源を挙げて戦闘に投ずる用意がなければならないという破目におとし入れるのである。彼らの任務は、最大限度にまで戦闘手段の優勢を確保することであり、この目的を押しすすめるために、彼らは決して気を弛めることができない。なぜならば、だれでも、すでにもっている強さよりもなお強くなる可能性がある限りは、自分が充分に強力であると確信することはできないからである。』

 われわれはこの問題に関して、1920年以来米国における大掛かりな経済動員にも言及することができる。それ以来『戦争が起こった場合効果的に活動する米国の政治と産業の制度に適応するところの充分であり、調整され、統合された戦時物資調達計画』を目的として、緻密な企画が行なわれた。これに必然的に伴う困難やそれに対処するための方法が明瞭に概述された。

 戦時物資の調達は通常軍人のなすべき役目であるが、戦争は主に産業社会と産業社会の間の戦闘であるとする近代における戦争の概念は、充分な戦時物資の調達を国民全体の責務とする。どのような物資調達組織でも、国家経済に及ぼす狂いを最小限度にとどめて、能率的に物資を生産し、生産品を工場から戦線へ輸送する問題とその組織との関係を無視することができない。思慮ある組織者ならば、当面の緊急状態が既定の手段の変更を必要とする場合には、通常の物資調達手段は実行の上で蹉跌を来たすかもしれないということを忘れないであろうしまたあらかじめそのような頓挫に対応する手段を講ずるであろう。

 現在多くの国が採用している計画は、第一次世界大戦の末期にようやく形をなした集中的統制手段の早期採用を可能にすることをその目的としており、鰻のぼりの物価騰貴、一部の製造業者に対する注文の殺到及びある機関には物資が不足しているのに他の機関では物資が過剰であるといった需給の跛行状態などの原因と当時なった、各機関の間での致命的な競争を除去するために企図されたのであった。第一次世界大戦中においては、軍備の充実等ということに思い及んだ少数の人々でさえ、軍備と言えば兵力のみを重視して、物資に重点を置かなかった。資源の目録は作られておらず、軍は軍自身の必需品が何であるかを知らず、またそれに必要な生産に着手する計画もなかった。このような欠陥に目を注いで各国はその資源を挙げて、日本が採用したと同様の経済動員にあてていたのであった。

 戦争物資の調達は、経済界に戦争遂行のための機械器具に対する急激な需要を生じさせるものである。近代戦の準備は、そのほとんどすべてが、各団体の活動に食い違いが生じないように経済を統合調整することを意味する。充分な経済動員を達成するには、統合された経営が先決条件であって、さらに、その緊要な部分として、(1)物資の調達、(2)優先権の統制、(3)投機、退蔵(たいぞう。hoarding秘蔵すること)並びに商取引行為の統制を含む価格統制、及び、(4)産業施設の徴発及び徴用に留意しなければならない。以上はすべて経済動員の緊要な部分をなすものである。

 本件において提唱された証拠は、日本が右に述べたような経済動員を行なったという以上の何らの知識をわれわれに与えるものではない。この場合日本は、第一次世界大戦当時に他の交戦諸国と共に日本にも影響を及ぼしまた、日本その他の諸国がそれから教訓を得たところの、あらゆる複雑な局面を具えた近代戦の必要事項に鑑みて、経済動員を行なったのである。これは疑いもなく戦争準備を示すものではあるが、前述の事情を念頭におき、かつ、多かれ少なかれ世界至るところで同様な準備が行なわれていたことを考えれば、日本が侵略戦争の準備をととのえつつあったなどという判定を、どうしてわれわれが右の事実から、下さねばならないのか、その理由がわからない。この証拠について言えることは、せいぜい、日本が同じ恐怖に捉われていたこと、そして日本独特の明敏な洞察力をもって将来戦の性格を予測し、それに対する準備をととのえるために、できるだけの措置をとったというだけのことである。彼らは今ひとたび戦争が起こった場合は、誰も彼も、また何もかも、その渦中にまき込まれるであろうということを認識していたし、他の多くの国々と同様に、かような不慮の事態に対して用意をととのえていたのである。この準備について本件で提出された証拠は少なくとも、右に述べたこと以上の考察を必要としないものである。

 国際生活の性格そのものからかような結果が生ずるに至ったのである。

 国家の努力をあげて最大限の勢力の獲得に集中することは、必然的に政治的にも、経済的にも個人に対する国家の支配を強化することになった。このような事情はまた国際関係に重大な影響を及ぼさないではいない。その直接の結果は古今未曾有の軍備競争であって、これは国際間の疑惑を深め、かつ大規模の戦争の勃発の危険を増したのである。

 検察側は、1942年をもって戦争の第一年目とした法廷証第841号の付属書第3を大いに強調している。検察側の論ずるところは、本案の起草者らはその計画にかかる一定の戦争の準備を行なっていたものであり、彼らの計画はその戦争を1941年の終わりまでに開始しようとしたものである、と言うにある。この付属書の示すところと、実際上戦争が案の起草者らによって1941年12月に開始されたということとを併せて考えるとき、本案こそ1941年12月彼らの開始したその戦争に対する準備の第一歩であったことを正に証明するものであるというのである。本官はこの議論を受け容れ得ないことを感ずる。五ヶ年計画中に、1942年をもって戦争の第一年目と特性づけることは、本官の考えでは、仮定的な戦争を指すものであり、この事実は弁護側岡田証人の陳述によって明らかであって、本官は同証人の証言に疑いを挿むなんらの理由をももたない。日本が米国との衝突を避けようと試み、かつドイツの請に応じて英国並びに米国と戦うことを常に躊躇していた事実を証する充分な証拠が法廷記録に載っている。

 本官は起訴状付属書Aの第9項の件に関して詳細にこの証拠を論じた。ここでは、実際上日本はこれらの国々の作り上げた情勢によって、これらの国々に対し行動をとるように駆り立てられたものであると言えば充分であろう。日本はこれらの国々の作り上げた事態から脱け出すためには、これ以外の途を見出し得なかったのである。日本が英国及び米国を仮想敵国として準備を進め、両国を結局戦端を開くような事態の到来することに対して完全な備えをしておこうと努力していたことは疑いもない。しかしながら本官は、これがどのような形のものにせよ侵略的戦争に対する備えであったという見解を受け容れることはできない。


 (d)枢軸国との同盟

(英文のタイトルはPARTW OVERALL CONSPIRACY Third Stage The Preparation of Japan for Aggressive War Internally and by Allience with The Axis Powers---Allience with the Axis Powersである。訳すと「第4部 全面的共同謀議 第三段階 国内的な及び枢軸諸国との同盟による日本の侵略戦争への準備―――枢軸諸国との同盟」となる)


 タヴナー氏は日本、ドイツ及びイタリー間の提携を取り扱う起訴状付属書第7項の段階を担当した。タヴナー氏の陳述したところは以下の通りである。すなわち、『被告が起訴せられたる共同の計画あるいは共同謀議の立案及び実行に参画せし事を立証せんがため、又この共同謀議の目的達成のために独伊の指導者により効果的かつ必須の貢献がなされたる事を論証せんがため、諸条約締結のための秘密交渉ないしはこれら条約下における参加国間の協力に関する証拠を提示致します。なおその多くは従来秘密とされていたものであります。この証拠により枢軸各国が互いに相手国に対し抱きし疑惑及び直接相衝突する利害関係より生ずる時折の不和不合にも拘わらず、一方において日本はその枢軸相手国との同盟により非常なる軍事力及び政治的掛け引きの力を求めかつこれを獲得し、又他方、独逸及び伊太利も同様にこれにより実質的に利益を得た事が分かる事と思うのであります。この軍事力及び政治的掛け引きがどのようにしてこの共同謀議の目的の促進に使用せられたかはこの証拠の進むに従い鮮明せられることでありましょう。この証拠は共同謀議の事実を証明すると同時に被告がこれに参画した事とも証明する事と思います。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 タヴナー検察官は以下各項に関する事実を論ずると述べた。すなわち

  1、1936年11月26日の防共協定《法廷証第36号》及び秘密協定《法廷証第480号》

  2、三国同盟

   (a)三国軍事同盟の交渉

  3、三国同盟規約下における日、独、伊の協同

 防共協定及び秘密協定に関してタヴナー検察官は、「他ノ諸点トトモニ(←「他ノ諸点トトモニ」に小さい丸で傍点あり)」以下のように述べた。すなわち

  1、(a)1936年初期の関東軍は、ソ連との戦争の危険のため、満州から蒙古への西進を制約されていた。

    (b)日本ノ中華民国の他の領域に進出することは華北将領による中華民国国民政府に叛旗を翻すことを拒否したために同様に阻止された。

    (c)かような情勢に直面して、日本はドイツとの軍事同盟の交渉を開始した。

  2、(a)交渉は1935年6月、すなわちいわゆる梅津・何応欽協定の締結と日を同じくして開始された。《法廷証第477号、478号、479号》。

    (b)交渉の主題が全然軍事同盟であったために、この交渉は軍部を通じて行なわれた。

    (c)1936年4月、蒙古――ソビエット社会主義共和国連邦相互援助条約の締結後間もなくこの交渉の処理は当時ドイツ大使館付陸軍武官であった被告大島から外務省に移された。

  3、(a)協定は1936年11月25日に締結され、その内容は共産インターナショナルの活動に対するものであった。《法廷証第36号》。

    (b)同時に日本及びドイツ両国間に秘密協定が結ばれた。《法廷証第480号》。

  4、防共協定は中華民国における日本の勢力を強化すること、締結国は統一戦線を構成していたという印象をすべての国家に与えること、ならびに軍事的侵出続行の口実を得ることを、画策し意図したものである。

  5、この協定は枢密院会議において承認され、本会議には被告広田、永野、東郷及び平沼が列席した。《法廷証第85号》。

  6、1938年2月4日ヒットラーはドイツ陸海軍の最高統帥権を掌握し、その後間もなく在華ドイツ軍事顧問を帰国させ、対華軍需品の供給を停止し、また満州国を承認したのである。《法廷証第591号、592号、593号、5954号(←正誤表によると「5954号」は誤りで「594号」が正しい)、595号》。

  7、ドイツ軍及び日本軍は1938年9月あるいは10月にロシア軍に関する情報を互いに供給することに一致した。《法廷証第487号、488号、489号及び492号》。

  8、次いでイタリー、満州国、ハンガリー、スペインが防共協定の参加国となることを許され、1941年11月25日には協定期間の5年追加するために書き換えられた。《法廷証第491号、492号、493号、495号》。

  9、1939年2月22日協定の範囲は拡大され、経済的、財政的関係方面の協同の手段に関して一般政策が樹立された。

 三国同盟の段階に至って、タヴナー氏は以下の陳述を殊った。(←正誤表によると「殊った。」は誤りで「行なった。」が正しい)すなわち

  1、(a)日華事変に関するドイツの政策再決定後、時のドイツ外相フォン・リッベントロップは全世界を対象とする日独軍事同盟を提案した。《法廷証第497号》

    (b)被告大島及び白鳥はムッソリニをこの提案された同盟に加入させる目的でローマに派遣された。《法廷証第497号及び498号》

    (c)1939年1月ムッソリニは賛意を表明した。

  2、(a)大島及び白鳥は無条件の軍事同盟を望んだ。

    (b)これに対して、日本の陸軍は賛成の肚であったが、海軍は賛成でなかった。

    (c)平沼内閣は、その条約の発動を要する事態が発生したかどうかの決定権は、これを各締盟国において留保するということを企図する妥協案に意見が一致した。

    (d)伊藤使節団がこの修正提案を携えてベルリン及びローマに派遣された。

    (e)大島及び白鳥は伊藤使節のもたらした訓令に従うことを拒んだ。

    (f)大島及び白鳥に(←正誤表によると「白鳥に」は誤りで「白鳥は」が正しい)日本外相に無条件で同盟の条約を受け入れるように打電し、これができなければ彼らは駐独大使及び駐伊大使の職をなげうつと脅迫した。《法廷証第502号》

    (g)(1)外務省は電信で大島にもし問題の国家がロシア以外の国であるならば、日本は非軍事的援助以上の援助を与えることを欲しない旨を単に宣言する程度にその立場を変更してきた。《法廷証第502号》

      (2)1935年5月4日平沼総理大臣はヒットラーに宛てた宣言書の中で独、伊両国が露国以外の国に攻撃された場合においても、日本は両国に対して軍事的援助を供することを堅く断固決意しているのではあるがこのような援助は、日本の現状から見て周囲の状況に変化のあるまでは不可能であると述べている。《法廷証第503号、504号》。

    (h)(1)交渉がまだ行なわれているうちに、1939年8月23日独ソは不可侵条約を結んだ。

      (2)これは日本では防共協定付属秘密協定に違背する行為であると見られた。《法廷証第486号L、506号》。

      (3)日本における反響は非常に大きく、平沼内閣は立ちどころに倒壊した。

      (4)大島、白鳥両大使は三国軍事同盟締結に失敗したという理由で直ちに辞職した。

 この三国同盟に関連してタヴナー検事は以下の事実を強調した。すなわち

  1、1939年大島大使はヒットラーに対して、日本、特に海軍は東南アジアへ進出する準備があり、この行動は先にヒットラーの提案したものであるという見解を述べた。

  2、1940年3月には中国における汪精衛政府の樹立に対する異議から英米の政治的態度が明らかに硬化した。《法廷証第5859頁》

  3、米内、有田協力内閣の米英との妥結を期する努力に対抗して、ドイツはあるいは新聞に力を及ぼし、あるいは政界の人物を誘導し、またあるいは日米紛争は結局避けられない旨を説きなどして、日本の対米感情を刺激するに努めた。《法廷証第515号、516号》。

  4、(a)ドイツのオランダ侵略後、日本はオランダ領東印度に関するドイツの意図について関心を表明した。《法廷証第517号、518号、519号、525号》。

    (b)1940年6月19日、フランス降伏後2日目に、日本は仏印に関して同様な関心を示し、かつこれらの地域における日本の自由行動を許すことをドイツに要求した。《法廷証第520号》。

    (c)駐日独大使は、本国政府に、日本による仏印の併合を進言したが、その理由は以下のようなものであった。すなわち

     (1)これによって中国事変の終結を早める可能性を増すこと。《法廷証第523号》

     (2)日本とアングロサクソン国家との間の紛糾を悪化すること。

     (3)これが米内内閣へ痛撃を与え、あるいは一層親独的な内閣との交代をもたらすだろうということ。

  5、(a)同じ日に《1940年6月19日》日独同盟の交渉は来栖駐独日本大使により再び開始された。

    (b)来栖は、日独が重工業の発達に緊密な協力をすることによって、日本は合衆国に対する行動の自由を獲得するだろうと述べた。

    (c)来栖はさらに、日本の将来は南方にかかっていることが次第に鮮明となってきたので、此方の(←正誤表によると「此方の」は誤りで「北方の」が正しい)敵はこれを友としなければならず、来栖自身及び当時駐露大使であった被告東郷は日露関係を好転させるため、熱心に働いていると説いた。

    (d)ドイツ大使は、ドイツは日本が太平洋地域に米国を釘づけにする責任を負うという条件のもとに《たとえば米国が対独戦に参加した場合には、ヒリッピン諸島あるいはハワイを攻撃するという約束によって》日本の仏印における行動には何も反対しないと通告した。

  6、(a)1940年7月12日、日本、ドイツ及びイタリー間の軍事同盟を達成するための努力を強化する目的で、日本陸海軍及び外務省官吏の合同会議が開催された。《法廷証第527号》。

    (b)同会議は陸海軍の意向を聴取し、提出された協定草案について統一した政策採用の目的をもって1940年7月16日再開された。《法廷証第528号》

  7、(a)数回にわたる米内内閣打倒計画が失敗に帰すると、軍部は陸軍大臣を辞職させるという挙に出た。陸軍大臣畑大将は1940年7月16日辞職した。陸軍三長官は後継者の推薦を承知しなかった。それゆえ米内首相総辞職をするよりほかにとるべき道がなかった。《法廷証第532号、533号》

    (b)『陸軍ハ、独伊トノ交渉ヲ遅延スレバ日本ニトッテ取リ返シノツカヌコトニナリ、又米内内閣ハ「外交政策ヲ満足ニ実行スル力ガナク」カツ又コノ重大ナル国際情勢ニ対処スルタメニ内閣ノ更迭ヲ必要トスルト考エタ』《法廷証第532号》。

    (c)『松岡ガ外務大臣ニ任命サレマシタ。辞任シタ陸軍大臣畑大将ハ秘密裡ニ被告東条英機ヲ陸軍大臣ニ任命スルコトヲ天皇ニ奏薦シタノデシタ』《法廷証第535号、537号、538号、539号》。

  8、1940年7月26日の閣議において新内閣は日本の基本国策の概要を決定した。《法廷証第537号、538号、539号》。

   (a)『国策ノ根本目的ハ、八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基ヅキ世界平和ノ確立ヲ招来スルニ在リト決定セラル』《法廷証第529号、541号》

   (b)『国策は日満華の強固な結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する』をもって目的とする。《法廷証第544号》

   (c)国家の総力を挙げて右の国是の実現に邁進するを要する。

   (d)国家総力発揮の国防国家体制を基底とし、国是遂行に遺憾のない軍備を充実する。

   (e)東条陸軍大臣は日本国民間に反英感情をたきつける計画を始めた。

   (f)1940年8月23日松岡外務大臣は多数の大使、公使、参事官及び領事の召還を発表し、自分の新外交政策を確実なものとするにはこの措置が必要となった旨を発表した。1946年(←ここに「1946年」とある。1946年だと戦争が終わっているはずなので、何かの間違いだろう。英文を見ても「1946」とある。アジア歴史資料センターの「開戦二直接関係アル重要国策決定文書 第一から第十一」という資料の2枚目を見ると、昭和15年9月4日付の四相会議決定として「日独伊枢軸強化ニ関スル件」というのがある。おそらくこれで間違いないだろう。ということは、「1940年」が正しいことになる。リンクは一番下に貼っておく9月四相会議が開催され、その際根本原則は、欧州及びアジアに新秩序を確立するについて出来る限りの手段によって相互に協力するために三国間の基本的諒解妥結にある旨発表された。将来起こるかも知れない英国並びに米国に対する武力行使については、日本は独自に決定すべきものとされた。《法廷証第541号》

  9、三国同盟は1940年9月27日に決定された。《法廷証第43号、550号、551号、553号、555号、557号、558号、559号》。

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