歴史の部屋

 タヴナー検察官は次いで三国同盟規約下における日、独、伊の協同の諸実例を強調した。同検事は以下の事実を示す目的をもって証拠を引用すると述べた。すなわち、

  被告らは、彼らの指導者を通じ、また枢軸国と全面的に協力して、政府及び国民を三国同盟一色(正誤表によるとこの部分に次の文章を挿入するのが正しい。「に塗り潰し、彼らの宣言及び行為によって、起訴状において起訴された陰謀の目的を達成するために準備されていた武力を行使した。」)

 この目的のために同検察官は次の事実を確立しようとした。

  1、(a)日本における行動派はすでに1941年1月において、西太平洋の重要地点としてのシンガポールに対する攻撃を要求した。《法廷証562、569》

    (b)1940年11月来栖大使はシャムを含む中国の南方に対する日本の進出の前提条件として、日華及び日ソ協定が必要であり、同地域を使用しない限りシンガポール攻撃の成功は期待し得ないと述べた。

    (c)このような攻撃は、中国、太平洋及び印度洋における大東亜政策を確立する上に、日本に対し行動の自由を与えるため企図された。《法廷証588》

    (d)日本によるシンガポールの占領は、ドイツの対英戦争を速やかに終結させるため、同国を援助せんとする日本の希望の達成でもあった。《法廷証573、572、574》

    (e)1941年2月、大島大使は外務大臣との会談において、シンガポールを占領するためには香港の攻略が必要であるとの意見を表明した。《法廷証570》

  2、(a)1941年6月22日、ドイツはロシヤに侵入した。

    (b)1941年7月2日の御前会議は、ソ連に対する極東方面からの攻撃を求めるドイツの依頼に関して、決定的行動をとることを延期するような決議が採択された。

  3、文化及び通商協定は、枢軸国間の政治的協調に伴って締結された。文化協定は、日独間においては1938年11月25日、また日伊間においては1939年3月23日に締結された。《法廷証37、39、598》

  4、1942年1月18日、日独伊軍部は三国条約の精神に基づいて軍事協定を締結し、相互間の作戦の調整を規定した。

 検察側はこの段階に関する立証の大要について、次のように所見を述べた。

 『日本の軍隊、経済、国民を侵略戦争のために準備したことは、日本の侵略的領土拡張政策促進のための戦争に対する日本の計画の一面にすぎなかったのであります。国民を国内的に戦争に直結せしめると同時に、日本はまたその発展計画に従い、情勢に応じて直接または間接に外交上あるいは軍事上日本を援助する同盟国を得んがために画策して、枢軸諸国、主としてドイツと同盟を結ぶことによって戦争の準備をしたのであります。1936年8月7日の決定により、共同謀議者たちは彼らの共同謀議を日本の国策となす使命を遂に達成しましたので、もはやなんら重大な国内的の妨害は存在せず、日本の拡張に対する唯一の掣肘は諸外国より来るものでありました。すでに指摘しましたごとく、かかる妨害は二個の出所、すなわち中国及び南方進出に関連せる地域において利害関係を有するソ連、及び西欧諸国より来る可能性がありました。』

 『拡張に対するこの二つの障害のうちで、より多く直接的なのはソ連でありました。ソ連は共同謀議者たち及び彼らの計画を真に窮地に陥れました。一方においてソ連そのものが侵略的共同謀議の目的でありました。・・・・他方においてソ連そのものが日本の侵略の目的でなかったとしても、それは日本の南方進出にとって重大な障害でありました。・・・・以上の二つの理由により、すでに1932年において、対ソ戦は避け難いと考えられておりました。・・・・』

 『もしも日本が第三国と同盟を結んで、ソ連を他面において他の強力な敵との戦争に直面させ、中国援助の戦争を始めないようにソ連を牽制することができるとすれば、より良い解決法は、最初の機会に中国に対して侵略戦争を開始することでありました。これが遂に採用された解決法でありました。1936年8月7日の計画においては、南方進出を企図しておりながら、欧州政局が東部アジアに及ぼす影響の大なるを認め、日本はあらゆる努力を払って、特にソ連を牽制する上において、欧州諸国が日本を支持するように仕向けなければならないということをも認めたのであります。この目的を達成せんがためその政治力及び術策の力を見込んで日本が軍事同盟国として選んだ欧州国家は、当時欧州において侵略行為のため軍事計画をしておった国ドイツでありました。』

 右の検察側最終論告の抜粋において言及されている1936年8月7日の計画は、本件における法廷証第704号である。検察側はこれを『1936年8月7日総理、外務、陸軍、海軍四大臣の「帝国外交方針」と題する極秘決定』と呼んでいる。検察側は単に次のように、『方針の最も重要なる傾向』と題し、この文書の一部だけに言及したのである。すなわち、『しかして現下の施策にあたりては、日ソ関係の現状に鑑み、まず速やかに華北をして防共親日満の特殊地域たらしめ、かつ国防資源を獲得し、交通施設を拡充するとともに、中国全般をして反ソ依日たらしむることをもって対華実行策の重点とす。《差し当たり実行すべき方策は別にこれを定む。》』

 法廷証第704号は6頁からなっている。本官はこの全文書を注意深く検討し、すでに侵略戦争のための一般的準備の問題に関連して、法廷証第216号を検討したときに述べた見解を確認し得た。

 本官は、検察側が特に言及した箇所に関して、共産主義に対する日本の態度の変化に注意しつつ、ここにその無害な性質を指摘することにする。

 拡張政策、たとい侵略的拡張政策であるにせよ、それは共同謀議と同一のものではない。「たとい侵略的拡張政策の促進のためであったとしても」行なわれたいかなることも、採用されたいかなる手段も必ずしも共同謀議、いわんや起訴状に主張されている膨大な共同謀議を指すものではない。

 問題の防共協定、すなわち締約国が『共産インターナショナルに対する協定』と名づけたものは、次の通りであった。

  (ここから原資料は漢字片仮名交じり文である)『大日本帝国政府及び独逸国政府は

   共産「インターナショナル」(いわゆる「コミンテルン」)の目的がその執り得るあらゆる手段による現存国家の破壊及び暴圧にあることを認め、共産「インターナショナル」の諸国の国内関係に対する干渉を看過することはその国内の安寧及び社会の福祉を危殆ならしむるのみならず世界平和全般を脅かすものなることを確信し、共産主義的破壊に対する防衛のため協力せんことを欲し左の通り協定せり

  第1条

 締約国は共産「インターナショナル」の活動につき相互に通報し、必要なる措置につき協議しかつ緊密なる協力により右の措置を達成することを約す

  第2条

 締約国は共産「インターナショナル」の破壊工作によりて国内の安寧を脅かさるる第三国に対し本協定の趣旨による防衛措置を執り又は本協定に参加せんことを共同に勧誘すべし

  第3条

 本協定は日本語及び独逸語の本文をもって正文とす本協定は署名の日より実施せらるべくかつ五年間効力を有す締約国は右期間満了前適当の時期において爾後における両国協力の態様につき了解を遂ぐべし』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまでである)

 本協定に対する付属議定書は次の通りであった。

 (原資料ではここから漢字片仮名交じり文である)『本日共産「インターナショナル」に対する協定に署名するに当たり下名の全権委員は左の通り協定せり

  (a)両締約国の当該官憲は共産「インターナショナル」の活動に関する情報の交換並びに共産「インターナショナル」に対する啓発及び防衛の措置につき緊密に協力すべし

  (b)両締約国の当該官憲は国内又は国外において直接又は間接に共産「インターナショナル」の勤務に服し又はその破壊工作を助長する者に対し現行法の範囲内において厳格なる措置を執るべし

  (c)前記(a)に定められたる両締約国の当該官憲の協力を容易ならしむるため常設委員会設置せらるべし共産「インターナショナル」の破壊工作防圧のため必要なる爾余の防衛措置は右委員会において考究かつ協議せらるべし』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

 この協定及びその議定書には、検察側の主張を裏づけるものはまったく無い。検察側はこれを認めないわけには行かなかった。しかし彼らの主張は、この協定には同時期に締結された秘密協定が添付されており、実際には問題となるのはこの秘密協定であるというのであった。

 検察側によれば、『調印され、世界に発表された協定は、防共協定に付属した日独間に締結された協定の目隠しにすぎなかったのであります。』検察側の主張は、『防共協定はこの秘密協定及び付属議定書により、及び1922年のラパロ条約及び1926年の中立条約のごときドイツとソ連との政治的条約は、該秘密協定及びその義務条項に抵触せずとのドイツ側の確言により一軍事同盟条約に改変されたのであります。』であった。

 11月28日の演説において、リトヴィノフ氏も、協定に対してよりもむしろこの秘密協定に邪悪なる意義を与えた。いわく、

 『消息通は、公表された日独協定のきわめて短い二つの条項を作成するため、15ヶ月を通じて交渉を行なわなければならなかったこと、これらの交渉は必ず日本の陸軍の将官及びドイツの超外交官(super-diplomat)に委任しなければならなかったこと、及びこの交渉が最も秘密裡に行なわれ、ドイツ及び日本の公式外交関係からも秘密にしなければならなかったことを信じようとはしない。日独協定は防共ということが字引に書いてあることとまったく異なった意味をもつ特別の暗号によって書かれ、また人々はこの暗号をさまざまの意味に解読するかもしれないと推測されることは何も驚くべきことではない。・・・・公表された日独協定については、これは実際なんらの意味も持っていない。その理由は簡単である。すなわちこの協定は同時に交渉され、仮調印され、また調印もされたであろうが、公表はされず、また公表するためのものでもなかった他の協定を隠す単なる覆いにすぎないということである。余は完全な責任感をもって言う。共産主義という言葉が一度となく使われてもいないこの秘密文書をつくり上げるために、日本の陸軍武官とドイツの超外交官との15ヶ月間の交渉が委ねられたのである。』

 この秘密協定は本件の法廷証第480号であり、その内容は次の通りである。

  (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『共産「インターナショナル」に対する協定の秘密付属協定

  大日本帝国政府及び

  独逸国政府は

  「ソヴィエト」社会主義共和国連邦政府が共産「インターナショナル」の目的の実現に努力しかつこれがためその軍を用いんとすることを認め

  右事実は締約国の存立のみならず世界平和全般を最深刻に脅かすものなることを確信し

  共通の利益を擁護するため左の通り協定せり

   第1条

  締約国の一方が「ソヴィエト」社会主義共和国連邦より挑発によらざる攻撃を受け又は挑発によらざる攻撃の脅威を受ける場合には他の締約国は「ソヴィエト」社会主義共和国連邦の地位につき負担を軽からしむるがごとき効果を生ずる一切の措置を講ぜざることを約す

  前項に掲ぐる場合の生じたるときは締約国は共通の利益擁護のため執るべき措置につき直ちに協議すべし

   第2条

  締約国は本協定の存続中相互の同意なくして「ソヴィエト」社会主義共和国連邦との間に本協定の精神と両立せざる一切の政治的条約を締結することなかるべし

   第3条

  本協定は日本語及び独逸語の本文をもって正文とす本協定は本日署名せられたる共産「インターナショナル」に対する協定と同時に実施せらるべくかつこれを同一の有効期間を有す』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

 以上のように秘密協定において、日本及びドイツは、その一方がソ連から、挑発によらない攻撃あるいは脅威を受けた場合、他の締約国はソ連の地位について負担を軽くするような効果を生ずる一切の措置を講じないこと、及び締約国の共通の利益を擁護するためにとるべき措置について直ちに協議することを協定したのである。かつこの協定は、その存続する五年の期間において、締約国は相互の同意なしに、ソ連との間にこの協定の精神と両立しない一切の政治的条約を締結しないことを規定している。

 この秘密協定がソ連に関することはもちろんであるが、本官は、その中に何か侵略的なものが含まれていたとは言うことができない。

 この協定は1941年11月更新された。弁護側はこの更新において、この秘密協定は廃棄されたと言っている。《法廷証第2694号》しかしこの廃棄云々は、それ以前の1941年6月22日にドイツはすでにソ連へ侵入していたことを記憶すると、もちろんなんらの意味をもなさない。さらに三国同盟はすでに1940年9月27日成立している。

 リトビノフ氏の演説中に言及された『15ヶ月を通じての交渉』は、目下われわれの前に提出されている。

 この膨大な証拠そのものの中に、検察側主張を支持する何物かを見出そうとすることは困難である。

 弁護側は、この証拠を要略して次のように言っている。すなわち、

 『検察側の理論とは反対に、本協定及び議定書は共産主義の脅威の増大、同主義の拡大及びソ連が加えつつあった武力的圧迫の増大に対する純防御的のものであったことを、あらゆる証拠がはっきりと示しております。これらの事件はすべての国家、特に日本及びドイツの重大な利害に影響を与えたのであります。1935年モスコーで開かれた第7回コミンターン会議は、日本及びドイツをその第一の敵に指定する決議を採択したのであります。《法廷証第484、速記録22486頁》』

 『ソビエット・ロシヤとコミンターンとの間に不可分の関係があったことは、もちろん否定できません。ソビエット・ロシヤはその侵略的目的のために、コミンターンを動員し、利用していたのであります。日本政府がかかる事実を見逃してはおりませんでした。それは枢密院会議における広田の言葉によって明らかであります。《法廷証第484号、速記録22480頁》日本政府がコミンターンの破壊的活動の脅威と戦うためには、コミンターンに対するある種の国際的協定が必要であると考えたのは、前記二つの組織の間にかくのごとき不気味な関係が存するのを考慮したからであります。』

 『防共協定に付属する秘密議定書については、その内容も防御的であって、加入国の一方が挑発によらずしてソビエット・ロシヤから攻撃されたり、または脅威を受けた万一の場合を考慮しているにすぎません。しかも本議定書はかかる事件に対する当事者の相互援助を規定せず、ただソビエット・ロシヤの負担を軽減するような措置をとらぬ義務があることを規定したにすぎません。広田と有田は枢密院において、ソビエット・ロシヤが5ヶ年計画で軍備を強化していること、極東に増強されたソビエット軍の重圧を日本が痛感していることを説明したのであります。《法廷証第484号、速記録第22480及び22483頁》』

 『本協定の目的は、ソ連及びボルシェヴィズム的活動の武力的圧迫を防止せんとする一手段にすぎないと広田は説明したのであります。《法廷証第484号、速記録第22482頁》防共協定はこの秘密協定によって軍事同盟化したと称する検察側の主張は、実に牽強付会も甚だしいものであります。軍事同盟の性質を帯びたものは、何一つとしてこれらの協定に含まれていないとわれわれは主張します。』

 『枢密院において広田と有田がさらに述べたところによって、本協定の防御的、平和的性格は立証されており、この点に関して疑問の余地は全然ありません。』

 『日本はソ連との関係を悪化させるがごとき積極的措置を控えるのはもちろんのこと、英国との友好関係を維持促進するよう常に最善を尽くす旨を両人とも宣言したのであります。《法廷証第484号、速記録第22482頁》』

 日本は、ロシヤ革命後最初の10年間、『ロシヤの革命宣伝並びに海外における破壊工作』の危険に対して、民主主義国家中の諸国にして、日本に比して感染のおそれのある源から遥かに遠く離れている国々よりも、関心を示すことが少なかった。『宜なるかな、1925年共産主義の危険が欧州人の眼に大きく見えてきつつあった際、またソ連が一般には未だ排斥された国家としての伍列にあったとき、さらに共産主義の勢力が中国において全盛を極めていたとき、かつまた日本とロシヤとの間に緩衝国の役目をする「満州国」が未だ存在していなかったとき、日本政府はすでにモスコーと友好関係再開の条約を締結していた。しかして駐日初代ソ連代表は、日本到着のとき熱心に歓迎された。』

 日本においてその後に生じた態度の変化には幾多の要因があった。1936年の「国際問題協会の調査」には右の要因を以下のように述べている。

 『まず第一に日本の支配権は、1925年には比較的自由主義的な政治家の掌中にあったが、その間に、主として極端に国家主義的の人々で組織されていた軍閥階級の支配に移った。しかして彼らにとっては、共産主義理論は禁物であった。彼らの勢力並びに指導のもとに、日本はみずから極東の「指導者」としての役目を引き受けた。これは世界のこの方面において、「唯一の安定勢力」として取り扱われる要求を暗示したのみでなく、さらにそれは日本がみずから特殊の政治的な、また文化的な思想の『弘布者』として、天から命ぜられたものと思ったことを意味した。この役目を履行するにあたって、日本は中国及び蒙古人の間に拡がっていた共産主義という恐るべき競争相手を発見した。その中国及び蒙古人こそは日本が自分の勢力下に入れようと希望していたものである。ついに共産主義の権化であるロシヤみずからが無害な弱体隣接国から強力な軍事的競争者に成長したのである。このロシヤの勢力は、日本軍閥にとって堪えがたい制限を日本の拡張主義者に加えたのであった。

 『従って日本の為政者は、外観だけについて言えば、断固たる圧迫により、かつ農民の不満を他の政治的方面に転換することによって、国内問題として共産主義を処理することに成功したが――極東大陸における共産主義の拡張を日本の主要な外部的危険と見るに至った。従って1932年以後満州及び華北における日本の行動の大部分には、この危険を除去しようという動機が底流をなしていたことには、なんら疑う余地はない。反共産主義のための協力ということが、最初から中国政府に最も強力に押しつけられた要求の一つであった。しかして1935年江西省において中国共産党が解散し、また「赤化」勢力が四散した後、日本の予定進出線にきわめて接近した中国の北西部に共産党中心地の強力な増強があった。これは日本の憂慮を増す役を勤めた。』

 もしこれが日本側の主張する日独防共協定に対する全貌であるとしたならば、本官は検察側のこの共同謀議的性格論を、いかにしてわれわれとして受け入れることができるか了解し得ない。右の調査者はいわく、『ドイツにおける国家社会主義政権ができて未だ間もないころ、すでにドイツ及び日本間に「相互了解(←「相互了解」に小さい丸で傍点あり)」のきざしがあった。かれらは結合の自然な連繋をもっていた』が、それは共同の侵略的意図においてではなく、『共通の政治的孤立感とボルシェヴィズムに対する共通の恐怖と憎悪においてであった。』われわれはここでそれが欧州にどのような反響を起こし、または極東にどのような反響を起こしたかについては関心を持たない。これらの反響は、主としてこの秘密協定に関する狂想的な憶測に基づくものであった。『パリー及びロンドンで入手した流言によると、公表された協定は、秘密了解事項を隠しており、それは軍事同盟ばかりでなく、太平洋赤道付近の諸島をドイツ及び日本の勢力範囲に分割するという詳細な取極めを含んでいた。』

 『在ロンドン・ニューヨーク・タイムス特派員が、「確実な情報」として本社へ宛てたこの報告に対する一つの解釈によれば、この評判となった分割の結果は、日本が委任統治権を有していた旧ドイツ領土を完全保有することとなり、スマトラ及びジャバをドイツの勢力圏に置くのであった。ただし日本がこの両島内で有していた織物に対する市場保護を条件とすることになっていた。ルーヴル紙に引用された別の報道は、ボルネオが日本の圏内にはいることを承認されたと主張した。』・・・・

 しかし今やわれわれは、この秘密協定を入手し、かつ今やそれは単にソ連に対する防御同盟にすぎなかったことを知った。これは検察側によって列挙された目的の、どの一つにも役立たなかったであろう。

 共産主義を恐れ、またかような恐怖をソビエット社会主義共和連邦と結びつけたのは、あえて日本の軍国主義者だけではなかった。われわれは合衆国でさえその恐怖から逃れることができず、そのため1933年11月16日まで、ソビエット連邦に承認を与えなかったほどであったことを知っている。1919年ウィルソン大統領は宣言していわく『わが国の諸制度に反対し、これに対して結束して謀略をめぐらす政府、また危険な反乱の扇動者となるような外交官をもって代表されている政府を承認したり、これを外交関係を結んだり、あるいはその代表者に友好的な待遇を与えることはできない・・・・。』ヒューズ国務長官もまたソビエット連邦を『わが国の諸制度を転覆させようとする継続的宣言』を行なうものと非難した。1923年に彼は言った。『最も重大なことは、モスコーにおいて支配権を握っている人々は、世界中至るところで、できるならば現存する諸政府を破壊しようとする彼らの最初の目的を捨てていないという、決定的な証拠があることである。』1928年ケロッグ長官はソビエット連邦を『全世界の現存する政治経済及び社会秩序を転覆させようとし、かつまたその目的に従って他の諸国に対するみずからの行動を規正することが、自己の使命であると考えている一集団である』と評した声明書を発表した。彼の言葉によれば、『このソビエット政権の承認は承認国の国内問題に対してボルシェヴィーキの指導者が介入することを中止させることには全然ならなかった・・・・』のである。『承認を与えること及び協議を行なうことは、単にロシヤの現在の指導者たちを、その破棄と没収の政策において力づけ、また他国に現存する政治的、社会的秩序に対する彼らの戦いの継続を可能にするような有用な基礎を設定して、それを他国に容認されることができるという彼らの希望において力づけたに過ぎないと考えるべき理由は正に充分にある』とケロッグ長官は言っている。

 本官がすでにこの判決の初めの部分で指摘したように、ソビエット連邦共和国政府は、第三インターナショナルとはまったく無関係であったというロシヤの抗議は、その当時の世界によって受け入れられなかった。1932年の調査において、国際問題協会の調査者はこの抗議を評して、国際関係の分野になお残存し、社会生活のこの特定範囲内で文明の進歩の最も恐るべき障害となっている前世紀の心理の遺物の一つと見なされなければならない不思議な心理状態の表現であるとなした。

 これに関連して忘れてはならないことは、1932年には共産主義は中国において、広大な地域に排他的行政権を行使し、組織あり実力ある政治勢力になっていたこと、そして中国共産主義者らは、ある程度までロシヤの共産党に従属していたことである。本官が前にも指摘した通り、中国共産主義はロシヤの同音異義語の真の骨髄をなすものであるということ、を広い世間に思わしめる事情があってまた、1931年末から1932年初めにかけて、1932年12月12日におけるモスコーのロシヤ共産政府と、南京の国民党中国共和国の中央政府との外交関係再開の結果として、モスコーと南京との関係の復活は、威信の失墜した南京政府と人望を失った国民党の排除を招来し、同色彩のロシヤ・ソビエット連邦と中国ソビエット連邦との同盟が、これに代わるかも知れないという可能性に世界が直面していたということを世界に信じさせるような事情が存在していた。モスコーの配下にあった外蒙ソビエット共和国と中国の陝西省は、ロシヤと揚子江の中国共産地域との間の地理的廻廊を提供していた。かようにして、ロシヤと中国の共産党が手を握り合うことができることを計算に入れなければならなかった。世間一般がこれを恐れていたとするならば、日本の政治家も同じくこれを恐れ、これに対処する有効な方法だと思った手段を講じたことを、非難すべき理由は見出すことができない。いずれにしても今日でさえ反共同盟の話が全世界に響きわたっていることを思えば、われわれは何ゆえに日本の防共協定に侵略的意義を求めなければならないのであろうか。

 検察側が最後にかように述べている。『防共協定の真の意義は、共同謀議の遂行に対してそれらが重要であったに拘わらず、協定の直接及び実際的効果の中に存したものではない。その意義は当時世界中のとまでは言えなくても、欧州随一の侵略国であったドイツとその協定を結ぶことによって、ドイツとの同盟に向かって日本が最初の第一歩を踏み出したという事実の中に存したのである。共同謀議者の日本はヒットラー・ドイツに同種の精神を発見したのである。』

 かような関連自体が被告人に罪を結びつけるに足りるものであるかどうかは、本官はこれを知らない。しかしこれはこの問題には影響がないのである。

 次に法廷証第43号である三国同盟に移ろう。その条文は次の通りである。

  (ここから原資料は漢字片仮名交じり文)『日本国独逸国及び伊太利国間三国条約

   大日本帝国政府、独逸国政府及び伊太利国政府は万邦をして各その所を得しむるをもって恒久平和の先決要件なりと認めたるにより、大東亜及び欧州の地域において各その地域における当該民族の共存共栄の実を挙ぐるに足るべき新秩序を建設しかつこれを維持せんことを根本義となし右地域においてこの趣旨に拠れる努力につき相互に提携しかつ協力することに決意せり、しかして三国政府はさらに世界至る所において同様の努力をなさんとする諸国に対し協力を吝しまざるものにして、かくして世界平和に対する三国終局の抱負を実現せんことを欲す、よって日本国政府、独逸国政府及び伊太利国政府は左の通り協定せり。

   第1条 日本国は独逸国及び伊太利の欧州における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重す。

   第2条 独逸国及び伊太利国は日本国の大東亜における新秩序検察に指導的地位を認めかつこれを尊重す。

   第3条 日本国、独逸国及び伊太利国は前記の方針に基づく努力につき相互に協力すべきことを約す。さらに三締約国中何れかの一国が現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国によって攻撃せられたるときは三国はあらゆる政治的、経済的及び軍事的方法により相互に援助すべきことを約す。

   第4条 本条約実施のため各日本国政府、独逸国政府及び伊太利国政府により任命せらるべき委員より成る混合専門委員会は遅滞なく開催せらるべきものとす。

   第5条 日本国、独逸国及び伊太利国は前記諸条項が三締約国の各と「ソヴィエト」連邦との間に現存する政治的状態に何らの影響をも及ぼさざるものなることを確認す。

   第6条 本条約は署名と同時に実施せらるべく、実施の日より10年間有効とす。

        右期間満了前適当なる時期において締約国中の一国の要求に基づき締約国は本条約の更新に関し協議すべし。

    右証拠として下名は各本国政府より正当の委任を受け本条約に署名調印せり。昭和15年9月27日すなわち1940年、「ファシスト」歴18年9月27日「ベルリン」において本書三通を作成す。』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

 この同盟は1940年9月27日、すなわち日華事変勃発のよほど後、かつ国際生活における日本の地位が幾多の事情に影響されてから、締結されたものである。

 タヴナー氏の冒頭陳述中に言及されている各事項に対する提出証拠は、主として文書によるものであった。本件関係文書は法廷証第36、第37、第39、第43、第45、第49、第477ないし第609の各号である。

 書証の数量は多い。しかしわれわれはここに検討しつつある問題を究めなければならない。日本がドイツ及びイタリーとこの協定を結び、この両国と協力することによって、なんらかの罪を犯したか否かの問題は、この多量の資料によって確立しようとする事実が現に『立証されるべき事実(←「立証されるべき事実」に小さい丸で傍点あり)』、すなわち起訴状が示す全般的共同謀議をどの程度まで立証するかの問題とは、別個のものでありかつ甚だ異なったものである。

 われわれの現在の目的に関する限り、日本がドイツ及びイタリーと結んだ同盟の「事柄(←「事柄」に小さい丸で傍点あり)」は、大して重要な意義をもたない。検察側が示したこの同盟の目的が重要であって、これが確立されれば重大な意義をもつべきものである。

 もちろん証拠自体の中に、この目的に言及したものはどこにもない。証拠書類中に明示された理由はまったく別なもので、検察側の主張を裏書きしないことは明らかである。

 結局のところ問題は「提出証拠の全般と周囲の事情からして、指示された目的を推定することができるかどうか」ということになる。検察側はこれを推測せよと言うのである。本官はわれわれに提示された資料に基づいてかような推定をなすことは、単に推測に動かされることになると信ずる。われわれは証拠書類が示す各種の事情を互いに符合させ、一つの結合された全体の各部を形成するため、幾分かこれを枉げて、足りない部分を単に想像もしくは憶測で埋める用意がない限り、この示された推測をすることはできない。防共協定については、すでに合理的で権威のある他の説明が提出された。

 国際関係においては、同盟及びこれに対抗する同盟は、必ずしもイデオロギーの相違や一致に立脚していないことを指摘する必要はない。シュワルツェンベルゲル博士がたくみに説明したように『強権政治の制度においては、善隣政策に反する「悪隣政策」とでも名づけられる抽象的な原則によって、敵と味方との関係を明確にする必要がどれほど圧倒的な力をもっているかは、強権政治の利益を思想的な戦線とが衝突するように思われた事例から、判断することができる。』イデオロギー共同戦線主義の最も立派な否定は、民主主義諸国とソ連の同盟、ソ連とドイツの同盟にこれを見出すことができる。これらの事例は、国際関係におけるイデオロギー的相違の重要さを、過大に評価することに対する警告となるであろう。

 国際生活においてかような同盟を締結するのは、一定の重要な作用をさせるためである。『一定の対手国に対する相像上(←「想像上」が正しい)の、または実在する国力の劣勢を償うものである。』検察側が述べているように、署名国が共同戦線を張っている印象を各国に与えるように規約が考案され、意図されているならば、何も悪いことはない。

 同盟というものは公然または秘密の侵略的結合であり得る。その目的は現状維持(←「現状維持」に小さい丸で傍点あり)を目的とすることもある。また一国の孤立恐怖または不安の念を償うためのものでもあり得る。同盟によって一定の「状態(←「状態」に小さい丸で傍点あり)」を維持することができることがあり、現状の打破を利益とする国は自分に対する同盟を恐れることもあろう。とするならば一定の同盟に一定の目的があるという断を下すに先立って、他の可能な目的と諸国間の他の結合をもすべて考察しなければならない。同盟及びこれに対抗する同盟の制度は、権力政治制度と必然的に相伴うものであることを忘れてはならない。

 検察側は大島、白鳥両被告が前述の同盟に関連して重大な役割を演じたと述べている。両被告は証言台に上って、検察側の詳細にわたる反対訊問を受けた。

 検察側は両被告がそれぞれベルリンとローマ駐箚大使であったときの幾多の陳述を提出した。その多数は外交辞令と裁量に属するものであり、これを検討することはなんら実益がない。検察側がドイツ側の文書を提出した際、大島被告はこれに関連していくつかの言明をした。その文書は大島とヒットラー、リッベントロップその他のドイツ人との会談記録を含むものとされていた。大島いわく『これらの会談は常にドイツ語で行なわれたもので、その際に通訳が居たことはなかった。私とヒットラーとの会談の時は常にリッベントロップが立ち会い又リッベントロップとの会談の時はスターマー又はその後任者が時としては立ち会ったが、速記者又は記録者が居ったことはなかった。従ってこれらの会談記録は後に記憶に基づいて作成されたものに相違なく、又会見後数日を経て書かれたものもあり、その内容は必ずしも正確を期し得ないと思う。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)『なおリッベントロップとの会談に関する文書については、大体が彼に都合よく書かれ、又話題に上っただけのことを私が同意した様に記されている所すらある。これはリッベントロップがドイツ政府及び軍部内に多くの政敵を有した居たから、これらの要人にかかる書類を配分するにあたり、彼が発案した対日接近策の成功を示さんとする対内的顧慮が影響したものであろう』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)。・・・・

 『当法廷に提出せられたワイゼッカー、エルドマンスドルフ等のごとき人々の署名した私との会談記録には私の記憶せざる多くの事項が記載せられている。私は彼らが私の話を修飾して重要な会談をなしたかのごとく作り上げて、リッベントロップに提出したのではないかと思う。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)本官は被告人の陳述を受け入れない理由を見出し得ないのである。

 大島被告は、日本政府が防共協定と、ドイツとの秘密協定を締結した日本政府の目的に関する見解を述べた。彼によれば協定は三つの目的に役立つはずであった。すなわち『第一に満州事変以来日本は国際的に孤立してしまったから一国でも与国を作って不安感を除くこと、第二に当時国際共産党はスペインの内乱支那共産軍に見る様に各国の国内組織に侵透して欧亜両大陸にわたり破壊作用をたくましうしていたから、出来るだけ多くの国家が結集して、これが防衛策を講じなければならぬこと、殊に日独両国を敵視した1935年のモスコーにおける第7回コミンテルン大会の決議に鑑み日本としてはこの必要があること。第三に、当時ソ連は五ヶ年計画の結果として重工業は盛んに興り、その軍備は充実し、殊に極東におけるソ連軍の増強によって、日本はその重圧を感じていたから、ソ連に対して利害を共通にしていたドイツと協定を作って、少しでも日本の地位を安全にすることに在るものと理解して居た。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 被告は三国同盟締結交渉とその目的について詳細な説明をした。われわれがこの説明をすべて受け入れるか否かに拘わらず、日本は当時外交的孤立の危険に対処しなければならなかった状態にあったことを、否定することはできない。検察側の提出証拠中には、この説明をしりぞけるべき理由となるものはないと信ずる。白鳥も証言中実質において同じ説明をしている。これに関連してフランシス・スチュアート・ジルデレー・ビゴット(←「ビゴット」とあるが英文では「Figot」とあり、「フィゴット」とするのがよいと思う)少将が陳述中に《法廷証3548号》『三国同盟ノ真ノ起コリハ政治的ヨリモムシロ日本ノ孤立感ニヨル心理的ノモノデアッタ。』との意見を述べているところを参照されたい。

 各員の利益が相反する社会においては、その各員の主要な関心は、まず必然的に自己の防衛に向けられる。今日まで発展してきた国際社会を構成する諸国の力と自覚はあまりに強いので、公平な普遍性によって各自の自己防衛の問題を解決することができないのである。であるから権力政府の段階においては、地理的もしくは政治的に特別に安全な地位を占めていなかった国にとっては、同盟及び対抗同盟によって分割されている世界における唯一の比較的安定の要素である勢力均衡の原則以外には、他にとり得る実際的措置はなかったのである。この政治態勢は、いずれかの国家結合が優勢になるという、常に存在している危険を避けるためには、常に均衡を保つことに努力を傾注することを、本質的に含んでいるものである。

 かような協定に関連して秘密が守られることは、協定の目的が邪悪であるということを必ずしも意味するものではない。秘密は普通に強権外交と結びつけられる。それは権力政治の本来の要素である。連合国間にも秘密条約、協定もしくは約定は乏しくなかった。日本とソ連とが外面的には友好関係を維持していたその時に、スターリンが対日戦争に参加を企てた時のスターリンと連合国との間の秘密約定に関する証拠が提出されている。

ソビエット連邦に対する侵略(起訴状付属書A第8項)

(英文の見出しは、PART W OVERALL CONSPIRACY AGGRESSION AGAINST THE SOVIET UNION (Indictment - Appendix A -Sec.8)となっている。「第4部 全面的共同謀議 ソビエット連邦に対する侵略(起訴状付属書A第8項)」となる)


 ソビエット連邦に対する検察側の共同謀議の主張(事実)は、実際には、前述のように区分した諸段階の中には入らないのである。さきに挙げられた共同謀議の第四――あるいは最後――の段階を取り上げる前に、ここにおいて検察側主張事実のこの部分を検討することも便宜である。

 検察側主張のこの部分は、起訴状付属書Aの第8項においてなされている。起訴状の訴因第一、四、五、十七、二十五、二十六、三十五、三十六、四十四、五十一及び五十二は、特にこの段階と関係がある。これに関する検察側の主張は、ゴルンスキー検察官によってなされた。

 その冒頭において、ゴルンスキー検事は、同検事の取り上げる侵略の発展を示す歴史的背景を提供するためにと称して、『起訴状の包含する期間以前の周知の歴史的諸事件』と同検事の名づけるものの短い説明を行なった。同検事によれば、現在の被告が行動した当時の状態というものは、これらの歴史的事件によってすでに決定されていたのである。同検事の説明はまず1904年の日露戦争で始まり、日本がその戦争における軍事的勝利のためにはいかに高価な代償を払わなければならなかったか、またその人的資源と軍事的資源が消耗されてしまった結果、いかにその成功の成果を充分に利用できなかったかについて述べたのである。その次の日本の侵略的行動は1918年における極東ソ連に対する干渉であったと言われ、当時の日本による沿海州における傀儡政権樹立の企てに関する相当に長々しい説明があった。

 次に検事は、1922年における極東ソビエット共和国に対する日本の政策を確定しようと、試み、その後の1931年における日本の満州政策と右の政策との比較をわれわれに要請し、かつ1931年における侵略的意図及びその実現のために用いられた手段は、1922年におけるものと同じであったと見なすように要請したのである。日本のソビエット極東領土を獲得しようとする企図は失敗に終わった。しかし日本の軍閥は極東ソ領の資源を忘れることができなかった。日本は、そのソ領からの撤兵は当時の事情がそうされた一時的撤退と見なしたのである。日本の軍閥及び政治家は、ロシヤに向けられたこの侵略的計画を旨とする『確固不抜の伝統』を抱懐したまま、第二次世界大戦の時期にはいったのである。

 しかして検事はその冒頭陳述において、以下のことを強調した。

  1、日本の宣伝活動。

   (a)日露戦争及び日清戦争は、第一次世界大戦に先んじて起こったものであること。

   (b)満州事変は、

    (1)ドイツのナチス政権獲得。

    (2)アビシニヤの併合。

    (3)スペインの内乱。

    (4)ライン地区の再武装。

    に先んじて起こったものであること。

   (c)日華事変はチェッコスロヴァキヤ及びアルバニヤ並びに(←正誤表によると「アルバニヤ並びに」は誤りで「アルバニヤの併合並びに」が正しい)独墺の併合に先んじて起こったものであること。

   (d)そして彼らが世界ファシスト主義並びに世界侵略の創始者であった。

   と日本は宣伝していたのである。

  2、現代の三大侵略者に共通な特徴は、

   (a)兇悪な国家主義の唱道――他国民を支配する彼らの権利だと主張する観念を自国民に対し印象づけようとする企て。

   (b)国家機構それ自体を犯罪の武器として利用することである。

  3、起訴状に包含した期間におけるソビエット連邦に対する日本の侵略の発展。

   (a)日本の侵略は、公然の、しかし宣戦布告のない戦争状態を惹き起こしたのはわずかに二回にすぎなかったとはいえ、これ以外の時期におけるその対ソ行動は、何としても日ソ関係を『平和状態』という観念に適合させることはできないようなやり方で進められた。

   (b)起訴状に包含されているソビエット連邦に対する日本の侵略全期間は、四期に区分されているのである。すなわち、

    (1)1928年から満州占領までの期間。

    (2)1931年から1936年までの期間。

    (3)1936年から1939年の欧州における戦争勃発までの期間。

    (4)日本降伏に至るまでの最後の期間。

 さらに検事は次の諸点を説明しようとした。

  1、日本は次のすべての約束に著しく違背した。すなわち、

   (a)1905年のポーツマス条約による

    (1)満州及び朝鮮において、なんら対露軍事的準備をしない約束、及び

    (2)軍事上の目的のために満州鉄道を使用しない約束、また

   (b)1925年の北京条約による

    (1)どのような団体もしくは集団にせよ、その活動がソビエット政府に対して敵意のあるものは、これを直接にも間接にも支持しないという約束。

    などである。

  2、(a)日本は満州にいわゆる『協和会』と称する会を創設し、その会員は後には四百五十万に達した。

    (b)日本政府が1925年の北京条約によって負担した義務にもかかわらず、関東軍司令部は、特にその目的のために割り当てられた資金を用いて、在満白系鮮人のうちソ連に敵意を有する分子の組織化を行なった。

    (c)日本はその機構の点で『協和会』と連絡があり、かつまたいわゆるハルビン日本軍特務機関の直接の指導下に活動した『白系鮮人事務局』という特殊機関を創設した。

    (d)この機関は、白系鮮人に妨害工作を教え、また彼らをもって特別妨害工作隊を組織するため、白系鮮人間に反ソ的親日宣伝を行なうことを目的とした。

    (e)最近においては、日本軍諜報機関指導のもとに、特別訓練を受けた白系鮮人部隊から特別部隊を募集する計画がなされた。

    (f)右の部隊は赤軍の後方において活動することになっていた。

  3、1928年から、日本の軍閥、参謀本部及び政府は対ソ侵略戦争を計画していた。

   (a)(1)日本の注意はまず第一に満州に向けられ、その目的とするところは、満州を中国に対してもソ連に対しても、爾後の日本の侵略を拡大するための軍事基地に変えるということであった。

     (2)1931年の夏、すでにソ連に対する攻撃の問題が議題として掲げられた。

   (b)(1)その第一歩を準備する一方、日本の軍部は1928年ないし1931年の全期間、そしてその後もなお、ソ連に対する地下謀略工作を計画し、またこれを遂行した。

     (2)日本の軍ないし外交要員が、この謀略行動のすべてに積極的に参加した。

   (c)このような侵略的企図からして、日本は1932年に(←正誤表によると「日本は1932年に」は誤りで「日本は1931年ないし1932年に」が正しい)ソ連との不可侵条約の締結を拒否したのである。

   (d)日本軍部は、蒙古人民共和国領域を、ソ連の重要な(兵站線)を攻撃する軍事的基地にしようとして、その占領を計画した。

   (e)1936年11月25日、ドイツとのいわゆる防共協定が日本によって署名された。この協定には、直接ソ連に向けられた秘密協約が付属していた。《法廷証36号》

  4、日本の実際に行なった侵略行為。

   (a)ソビエット政府は、1935年に東支鉄道を(低い価格で)売り渡すことに同意するように強制されたのである。

   (b)1937年夏に、日本は中国における新しい一連の侵略を開始した。

   (c)次いで1939年彼らはその侵略を再開し、今度はノモンハン地域において蒙古人民共和国の領土に対して行なったのである。

  5、日本の侵略的同盟。

   (a)1936年の防共協定並びにその秘密協定。

   (b)1940年9月27日に三国同盟が締結された。

  6、(a)1941年4月13日に、日ソ間の中立条約が署名された。

    (b)ドイツは1941年6月22日に、背信的にも不可侵条約を犯し、ソ連を攻撃した。

    (c)日本はソ連に対する軍事的攻撃の準備に熱中していた。

     (1)日本は単に当分の間ソ連と戦争をしないことに決意したのであったが、もし独ソ戦が日本にとって有利に展開すれば、武力に訴えることに決心していた。

     (2)その時が来るまで、日本が外交交渉の蔭に隠れて、秘密裡にソ連に対する軍事的準備を行なうことにした。

     (3)この決定に従って、日本の参謀本部及び関東軍司令部は秘密動員の計画を立てた。

     (4)1942年には、全日本軍隊の約35%が満州に集結されていた。

 本段階に関する証拠もまた著しく膨大なものであった。この証拠が、ほかの何かを立証するかは別問題として、現在われわれが検討を加えている全面的共同謀議を示すものではないのである。本官がすでに指摘した通り、少なくともソビエット連邦に関する限り、日本はその戦争期間を通じて、ソ連に対してはどのような侵略的手段をもとらなかったのであり、ドイツでさえ、日本にかような手段をとらせることはできなかったのである。

 この段階において提出された証拠は、日露関係の歴史をことごとく包含するのである。1904年ないし1905年、または1918年あるいは1922年の出来事が、いかに本件の目的のために関連性を有するかは本官としては了解しがたいのである。

 われわれは、本件の初めに、検察側が挙げた証拠提出の理由について、すでに注意を払った。ワシリエフ検事は本段階の証拠に関する最終論告において次のように強調したのである。すなわち『1928年ないし45年間に起こった事件の多くは、この時代以前に日本帝国主義によって遂行された侵略行為に照らしてみれば、もっとはっきり了解できるのである。この観点からすれば、日本の重大な戦争犯罪人が訴追されている侵略行為は、1904年ないし、5年の日露戦争及び1918年ないし22年の日本のシベリヤ干渉と密接な関係がある。』と。

 われわれは、現在の被告がソビエット社会主義共和国連邦に対してとったと主張されている特定の行為についての彼らに対する起訴事実を検討することになっているのである。この「事実上ノ(←「事実上ノ」に小さい丸で傍点あり)」ソビエット社会主義共和国連邦は、1917年において初めて成立したのである。国際社会におけるその「法律上ノ(←「法律上ノ」に小さい丸で傍点あり)」存在は、1924年若干の文明国によって承認される以前にはなかった。アメリカ合衆国は1933年までその承認を見合わせたのである。日本は1925年にその「法律上ノ(←「法律上ノ」に小さい丸で傍点あり)」承認を与え、少なくともその時から日ソ関係は新しい局面にはいったのである。本件の起訴事実は日本政府それ自体に対するものではないことを念頭に置かなければならない。検察側によれば、その主張している共同謀議の最初の二段階においては、共同謀議者らは為政者の一団の外にあったのである。この証拠はせいぜい共同謀議の所在を、少なくともその発端においては、ある一派の軍人中に求めようとするものにすぎない。帝政ロシアあるいは未だ承認されていなかったソビエット連邦に対してなされたと主張されている行為の責任者等は、われわれの前において裁かれてはいないのである。

 われわれに親の罪を子にきせる用意があるとしても、1904年ないし、5年あるいは1918年ないし22年のロシアに対してとった日本政府の行動または態度、あるいは当時のロシアに対して何か特定なやり方で振る舞ったかもしれないところの、当時の『少数一派の軍人』を引き合いに出すことによって、現在の被告に手を伸ばし、あるいはその罪を判断することはできないと思う。

 検察側は、本件においてこれから取り上げるところの侵略が進展しつつあった歴史的背景を明らかにするものとして、これらの行為を挙げようとしたのであって、また検察側が『一般に知られている歴史的諸事件』と名づけたものをわれわれに示そうとしたのである。

 歴史的背景に言及することがもし少しでも合法的であるとするならば、本官としては、何故に1904年ないし5年、あるいは1918年ないし22年から始めなければならないか、理解し難いのである。歴史的調査は、極東における現在の状態の原因を理解するために、われわれの助けとなり、それによってこれらを正しい背景の中におく場合にだけ関連性があるのである。

 われわれは二世紀余にわたる厳重な鎖国の後、日本帝国が再び外界との関係を結んだというよりは、むしろ正確に言えば結ばされたときから説き起こしてよかろう。そのときの日本は西欧諸国が日本からかち得た条約の諸条件に従わなければならなかったのであって、その方法たるや後日に至って、日本がその隣接諸国との関係において模倣したとき、これらの条約を日本に結ばせた当の締約諸国は、それを呼んで侵略的であると評したものである。後には日本を国際社会の一員に加えて、そして遂には第一次世界大戦における五大同盟提携国の一つに入れる結果となった、この新しい関係の起源及び発展を理解するには、われわれの考察を、少なくともこれらの条約から始めるべきである。

 本官は、1853年から1894年までの間に、何が起こったかを詳細に挙げる必要はない。これらはすべて歴史の問題であって、そしてその性格が何であるにしろ、それは少なくとも日本の侵略的な精神状態を示さない。われわれが、もしこの期間中西欧列強のなしたすべての事柄が『純真な心から生じた崇高な目的』をもってなされ、そして単に西欧との交際の恩恵に与からしめるためになされたものと仮定しても、これをなすにあたって採用された手段は、明らかに日本にとっては首肯できないものであった。しかしながら国際法上においては、それは単なる日本の『平和的開国』であった。

 1854年及び1855年の合衆国、大英帝国及びロシアとの諸条約が、この経緯の発端である。日本は条約を結ぶためにあらゆる正式の『要請』を許容しなければならなかった。しかしこれらは単なる序の口であった。新しい要求と一層の譲歩がこれに続いたのである。

 1857年の7月には、『6月に清国は、大英帝国及びフランスの艦船及び軍隊の圧迫下に、両国と、新しい条約に署名することを強いられたという報らせをもたらした合衆国の船が、下田に到着した。そしてこれらの勝ち誇った連合国は、その艦船を引き具して日本に向かおうとしていると報ぜられたのである。』この報は首都を驚倒させた。7月29日の早朝、日本は新しい条約に署名することに同意した。『清国において欧州諸国の干渉が成功を収めたことは、おそらく日本から同じような条件をかち得るための強硬な努力の動機となるであろう。もしも皇室がさらに譲歩することを禁じ続けたならば、敵対行為が起こる可能性は大いにあった。・・・・・・・・』『数週間以内にロシア及び大英帝国の代表者が清国に到着し、しばらくしてフランスの使節も続いて到着した。長崎からはオランダの使節もまた新しい条約を求めて到着した。』

 日本はこれらの四つの条約に加盟しなければならなかった。『もしも威嚇的な武力を楯にとって、この譲歩が獲得せられたのであれば、この新しい国交は、あらゆる勤王派の胸に悲憤の念を起こさせる条件のもとに開始されたのであろう。』ということが、われわれには告げられているのである。実際に採用された手段が、どのようにしてこの悲憤の念の発生を防いだかを理解することは困難である。われわれは、西欧列強にこれらの行動をとる資格を与えている。彼らが『直面した事態』は何であったか正確には知らない。しかしながら国際社会は、これを単に人間の行動を規定し、そしてまたそれを否定する事態の推移としか見ないのである。

 一体このようにして獲得されたこれらすべての条約が、日本に益するところがあったとして考えれば、次に挙げる将軍から各藩主に宛てられた皇室の権力回復を提唱した書簡に、最もよく現わされているある感情をもまた醸成したものである。すなわち『わが国と外国との交通は日に日に繁忙をきわめつつあり、わが国の全力を挙げてこれに当たるにあらざれば、わが対外政策を遂行すること能わず。』と。

 しかしてこの後、これらの条約の改正のための日本の闘争が始まるのである。この闘争は1894年まで続いた。この期間日本は西洋思想及び科学の偉大な成果をわがものにしようと、あらゆる努力を払った。また日本は、かようにして参加を強いられた世界においては、正当正義とは戦艦と軍団の数によって測られるものであることをも、おそらく自覚したものであろう。

 これらの条約の改正を得ようとする日本の努力は、確かに非難すべきものではなかった。日本及び条約国との間の主要な係争点は、ともに日本の主権を阻害するところの関税自主権並びに治外法権に関していたものであった。

 日本は当然、自分の関税法を自分で制定する権利に対して加えられた制限から脱することを希望した。一部の大商業国は、協定関税によって生じたところの利益を保留することを望んだのである。彼らは、日本に関税自主権を回復させるようなどんな条約改正にも、同意することを好まなかった。合衆国だけが、常に日本の希望に対して好意を示した。

 主権の原則は協定関税(という問題)の中にも含まれていたが、さらに重大な(主権の)阻害は、外国人の治外法権から生じた。

 かような条約改正のための長い闘争が、日本に与えたであろうところの影響を、われわれは無視することはできない。『この影響の一つは、政府及び特に司法行政を西洋のそれと同一化するために、西洋の方法を採用する刺激となったことである。しかしながらごく小数の外国人居留民の権利が保護され得るように、その全司法制度を外国式に組織するのを一国民に強制することは、ひとえに益だけをもたらすものとは言い難い。』

 『いま一つの影響は、締約諸国の不法並びに利己主義に関する強い感情を植えつけた』ことであった。『列強による治外法権の保留は、日本人の名誉心を傷つけたが、古い関税の維持はまったく不法であると感ぜられていたのである。従って改正交渉のたび重なる失敗に伴って、全国にわたって攘夷思想が(漢字一文字判読不能)満した。これとともに、国力の弱かったときに失われた権利の回復を要求するために、必要があれば、武力において日本に(←「日本を」が正しいだろう)充分強力にするために、進んで犠牲を払う精神が勃興したのである。』

 『もし一部の日本人が、この当時の対外関係に対して冷酷な態度を示したとしても、それにはある程度の理由があった。西欧列強のあるものは、日本人に対して、その獲得方法のいかんにかかわらず、すべての有利な地位からどのようにして最も大きな利益を収めるかを示したのである。この苦難の時代を経た1880年代の末期あるいは90年代の初期の若者たちは、後年、そして今日も、彼らの国策上多大の勢力を有する人々となったのである。列強の一部が、自国の商人及び居留民の特権よりも、一国民全体の感情をいま少し考慮していたならばよかったであろう。』

 この期間を通じて日本に対する合衆国の態度は常に友好的であり、かつ同情的であった。日本の政治家は米国政府の立派な意図と真正な好意を、毫も疑わなかったのである。

 さて、日本とその隣国との関係に移るが、われわれはまず第一に、1894年の日清戦争の原因となった両国間の衝突をとり上げるとしよう。このためには、まず朝鮮人が合衆国の感情を害する原因となった事件から始めなければならない。

 1866年の8月、アメリカ商船ジェネラル・シャーマン号は、朝鮮西岸に向かって通商のため航海中破壊され、その乗組員は殺害されたのであるが、その顛末というものは、未だに神秘の幕に包まれているのである。二箇月後7隻の艦船及び四百名の兵員から成るフランスの派遣隊が、フランス宣教師処刑の賠償を得るために、京城に武力をもって乗り込もうと試みたが、撃退されたのである。

 1867年1月、ジェネラル・シャーマン号乗組員の運命を確かめるために、米軍艦が朝鮮を訪れたが、成功しなかった。

 これらの出来事を知った将軍の最高会議は、1867年5月10日に、アメリカのヴァルケンバーグ将軍に対して、日本の友好的仲介を申し入れ、このために朝鮮に使節団を送ることを提案した。

 日本によって使節団が送られたが、朝鮮の迎え入れるところとならなかった。

 しかし合衆国はなんらか朝鮮側の釈明を得ようとする考えを捨てなかった。1871年に条約を結ぶ目的で、米国公使F・F・ロウ氏を乗せた強力な一戦隊の艦船が清国に派遣された。同年日本もまた条約交渉のために使節団を清国に送った。

 1871年7月29日北京において日本と清国との間の条約が署名された。この条約は、その後の進展に鑑みて、その条件が完全に互恵的であったがゆえに興味あるものである。この条約が署名されると、すぐ二つの紛争の誘因が生じた。すなわち、一つは朝鮮の宗主権に関する清国側の主張にかかわるものであって、他は琉球諸島の領有に関するものであった。

 日本と台湾との間に横たわる琉球諸島は、日本及び清国両国に対する政治的義務を認めていたのである。1871年12月に66名の琉球人が台湾の南海岸で難航した。このうちの54名が台湾人によって殺害された。日本はこの問題について処置をとることを決意し、台湾人の行動に対して清国がどのような責任をとるかを確かめにかかった。清国政府は、台湾の蕃人(ばんじん。台湾の先住民)は清国政府及び文化の手の届かないところにいるからと称して、ほとんどすべての責任を否認した。しかし彼らは、琉球人は清国臣民であると主張した。これはただちに日本側によって否定されたのである。

 日本政府は、台湾に派遣隊を送ることを決意し、1874年4月17日の布告をもって、政府の意図を公表した。この布告は、1871年における54名の琉球人の殺害と、1873年3月における4名の日本人の財産の掠奪とを挙げた。また台湾人に関する清国の大臣の口頭声明をそのまま挙げて、次のように発表した。すなわち、

 『この台湾島は、日本に近接しておって、かつすでに説明したような難船が再び起こり得ることに鑑み、わが通商保護のために、台湾の同地方に住む人々が、かような行為を将来犯さないよう、制止する必要があるように見受けられる。そしてこの決意を遂行するために、前記の問題を調査し、かつ将来日本人の行動の安全を保障するような方途を講ずるよう指令を受けて、西郷(西郷従道つぐみち。西郷隆盛の弟)を長とする数名の者がかの地に派遣された。これらの島民がこの使節団に対して、適当な敬意を払わないでなお騒擾を起こす可能性があるかもしれないので、同人とともに充分な護衛隊が派遣された。』

 この派遣隊は日本に送られたペリー提督のそれと類似していないこともなかったということは、すでに認められたところであると思う。しかしながら台湾の場合には、ただちに清国の主権の問題が、ここに入ってきたのである。

 西郷将軍は、最後には3600名となった主力とともに、5月22日台湾に上陸した。生蕃との戦闘が数回行なわれたが、土地が未開の蛮地であるから、作戦の遂行は困難をきわめた。非公式交渉が厦門から派遣された清国の代表と行なわれたが、右代表が日本側の撤収を要求し、かつ充分な保証を与えなかったため、協定に到達し得なかった。ここで注意すべきことは、日本のこの遠征に参加させるため、3名の米国市民が雇用されていたことである。その一人はル・ジャンドル将軍であった。

 7月にル・ジャンドル将軍は、この問題について総督と協議する使命をもって厦門に派遣された。彼はそこで米国領事によって逮捕され上海に送られ、上海で釈放されたのである。彼は直ちに北に向かい、その間清国と交渉するために日本から派遣された大久保氏と一緒になった。

 交渉は9月14日から10月30日まで続いた。英国公使ウェード氏は、二度、協定をもたらすために斡旋の労をとった。右交渉は決裂すれば戦争になるところまで至ったとき、清国側は、結局日本が膺懲の師を派遣したことは正当であると認めることに同意した。1874年10月31日条約が調印され、清国は爾後台湾の生蕃を取り締まることに合意したのである。

 この協定は、琉球人の地位を日本臣民として認めた。しかし清国政府は、その含んでいる意味のすべては容認しなかった。日本側は1875年駐屯軍を派遣したり、琉球王をして清国に対して貢納をすることを中止せしめる命令を出したりして、琉球諸島を日本の領土に一層完全に併合することに着手した。われわれはこの点に関して、あとに続いた詳細に対して留意する必要はない。

 朝鮮に関する紛争は、1875年に起こったことから取り上げることができる。

 1875年、沿岸の測量に従事していた日本人水夫の一団は発砲され、その報復として要塞は砲撃され、その装備は破壊された。日本はその後、可能ならば朝鮮と和平親善条約を交渉せしめるため、交渉使節を派遣することを決した。

 この点に関して、日本は二つの外国の先例に倣ったようである。その一つは、ペリーの対日使節団であり、他の一つは、1874年のフランスと安南との条約である。安南は朝鮮と同様に、清国の属国であった。1874年の条約によって、フランスは安南の完全な独立を承認し、かつまた外国の侵略及び国内の擾乱に対して、その王に保護を与えた。安南は、その条約を受諾するにあたって、清国との従来の関係を清算する意思はなかったが、結果においてはそうしたようである。日本はこの前例に倣って、朝鮮との条約に次の一項を挿入した。すなわち『朝鮮国は独立国にして、日本国と同様の主権を享有す』しかし朝鮮はこの一項の含んでいる意味のすべてを受諾する意思はなかったので、同国は結局、いずれの条約もこの隣接した二国(安南と清国。朝鮮と清国)の相互依存のきずなを切断したものとして、考慮することを拒絶した。

 1876年の朝鮮条約は、その範を日本が西洋諸国と交渉した通商条約からとったのである。右の条約の結果、朝鮮における日本人は、刑事問題に関して治外法権をもつこととなった。本条約は従って条約締結に遡ること24年、ちょうど合衆国が日本を開いたように、朝鮮の『平和的開国』という結果をもたらしたのである。

 しかし清国は朝鮮に対する宗主権を主張し、従って清国と日本との関係はほとんど干戈を交えようとするところまで行ったのである。

 両当事国は相互の了解によって、問題を元米国陸軍最高司令官であり、最近まで合衆国大統領であったグラント将軍に提出することに同意した。この提出はまったく非公式なものであった。グラント将軍は北平において恭親王と偉大な総督の李鴻章と数回にわたって会見し、清国側の主張に関する正式な申立てが彼に提出されたのである。

 1879年6月20日、グラント将軍は長崎に到着した。日清間の係争点となっている種々の問題は、彼によって慎重に考慮され、彼の見解は東京における天皇と、北京における恭親王に送られた通牒において述べられた。

 琉球の紛争に関しては、グラント将軍は清国政府に対して、その主張を撤回するように勧告した。

 朝鮮の場合に関しては、同将軍は、同王国の政務の共同的国際管理を提唱した。彼いわく、『この取極めは双方のいずれにとっても完全に満足なものではないであろう。しかしこれは世界の道徳的信念を満足せしめ、かつそれによって東洋問題に関する非友好的なヨーロッパの干渉に対して門戸を閉鎖することになるのであって、これが何より清国及び日本国双方の政策でなければならない。両国間の諸問題の友好的な調整は、戦争より望ましい。貴国の紛争はヨーロッパ諸国に対して非友好的な干渉の機会を与えるものであり、もし問題のいずれに関してでも両国間に戦争が起こったならば、ヨーロッパの列強はそれを、自己の方法をもって、自己の利益のために、かつまた両国にとって永久的な、膨大な損害をもって終息せしめるのである。』

 グラント将軍の日本と清国との関係に関する平和的勧告は受諾された。琉球に関する紛争の平和的解決に到達したばかりでなく、日本側は清国と防御同盟条約をも交渉しようと試みた。しかしこれは李鴻章の根深い敵意のため失敗に終わった。しかし平和は15年間維持され、そして戦争が実際に起こったとき、欧州列強のうちの三国は、グラントが予言したように終息せしめようとした。――すなわち『自己の方法をもって、自己の利益のために、かつまた両国にとって永久的な、膨大な損害をもって』であった。しかしこれは別な話であって、後ほど取り上げることにしよう。

 しかし正式な解決は遅延された。結局1881年に清国はこの問題を討議せしめるため日本に公使を派遣し、その翌年両政府はともに合衆国の斡旋を希望した。しかし成果は全然なく、他の外国との複雑した事情の圧力は、清国をして「現状(←「現状」に小さい丸で傍点あり)」を暗黙に承認せしめたのである。

 日本による通商条約の交渉は、米国の朝鮮に対する関心を復活せしめた。米国と朝鮮との友好通商条約は、1882年5月22日締結された。

 この米国の条約が調印されてから2、3ヶ月内、すなわち1882年7月23日、朝鮮における日本人に対する最初の攻撃がなされ、その結果日本公使館は撤退を余儀なくされ、数名の日本人の生命が失われた。再び平和か、戦争かの問題を決する必要が起こり、再び日本の天皇は平和の道を選んだ。

 『1883年5月、ルシアス・フット将軍は、批准された米国の条約を交換し、公使として京城にその住居を構えた。』・・・・『その翌年日本公使館に対して第2回目の攻撃がなされ、このたびは清国の軍隊が関係していた。これによって、清国の朝鮮に対して干渉する権利が問題視されるに至った。このとき清国はフランスと安南の紛争に巻き込まれており、清国にとってはフランス及び日本と戦争になる可能性があり、かような場合には日本は軍隊を供給し、フランスは艦船を供給し得るのであった。しかし日本政府にはそのような意思はなかった。』・・・・井上伯爵は清国に対して、日本は清国とのすべての問題を有効的精神をもって解決するように努力するであろうという保証を与えた。問題は究極には友好的に解決されたのである。清国は京城における自国の軍隊の行動に関して遺憾の意を表し、両国はその軍隊を撤収することに一致し、かつまた将来において、治安維持のために必要があっても、相互に通告なくして出兵しないと協定した。清国は朝鮮の独立を承認しなかったが、日本は朝鮮においては、同国すなわち清国と同等の立場にあることを認めざるを得なかった。

 『1885年から1894年の間、清国は袁世凱が清国弁務官として居住していた京城において、引き続いてその優位な地位を主張していた。』

 『1894年3月「東学党員」による反乱が起こった。この一派は反政府的であり、かつまたある程度まで排外的であった。無力な朝鮮政府はこの反乱を鎮圧し得なかったようである。』清国はその軍隊を派遣することを決し、日本に対してこの決意を通告した。日本政府においても出兵する準備をした。清国側はその通告文において、朝鮮は清国の属領であると主張した。これは日本にとって承服しかねる主張であった。

 日清両国の軍隊の到着前、反乱は朝鮮の軍隊によって鎮圧された。朝鮮王は清国側に退去することを要求したが、日本側が、退去するまでそれに応じないと拒絶した。

 『6月下旬に至って事態は最も緊迫していた。日本は、この反乱は政府の腐敗及び圧政によるものであるという立場をとり、そして清国に対しての将来の平和を保証し得る根本的な改革を開始するため、日本と同一行動をするように要請することに決した。』清国は朝鮮の内政に干渉するものではないといってそれを拒絶した。『日本は、そこで清国の協力なしに必要な改革を行なうことにその意を決した。』

 日本のこの行動が、米国の各代表の間において、どのように異なった見方をされていたかに注意を払うことは興味あることであろう。北京における米国代表は、6月26日『日本の行動は、ここでは軽率かつ過度に好戦的であると非難されている』と報告した。在京城の米国代表シル氏は次のように記述した。すなわち『日本は朝鮮に対してきわめて有効的な態度を示しているようであるということを付け加えておく。日本はこの際一挙に朝鮮の宗主権による束縛から解放し、そしてその国民に平和、繁栄及び教化をもたらすような改革を助けることによって、その薄弱な隣国の独立国としての地位を強化することに援助を与えることだけを希望しているようである。この動機は、知能ある朝鮮官憲の多数の者を喜ばすものであって、本使の考えでは、この日本の意図は米国において反対されるものではないであろう。』実際それは米国において前難(←正誤表によると「前難」は誤りで「非難」が正しい)されなかったのである。しかし清国はそれに賛成し得なかったのである。

 結局において、日清間に戦争が起こった。清国は1894年7月31日、日本は8月1日それぞれ宣戦を布告した。『日本軍の成功は極東における多くのヨーロッパ人のまったく予期しなかったことであった。彼らは清国の力を過大評価し、日本の遂げた進歩に対する認識を欠いていたのである。9月中旬までには、清国軍は朝鮮から駆逐され、その艦隊は黄海で敗北した。』

 下関条約は1895年4月17日調印された。しかし『その前に、ロシヤは日本の戦勝の利得を奪うため、三国干渉をもたらすために種々の手段をとっていた。ドイツ及びフランスはロシヤと共同し、4月23日在東京の各々の公使をして、遼東半島を日本で領有することは、清国首府及び朝鮮の独立を危うくするばかりでなく、これと同時に極東の平和に対して障害を与えるものとして、右の領土を返還するように日本に勧告を与える同文通牒を提出せしめた。本官は本判決の他の箇所において、右の干渉に対する世界の見方について述べた。

 『三国干渉による悲痛にもかかわらず、日本は戦争によって高められた威信と多大な賠償を獲得したのである。1894年以来成功裡に行なわれていた条約改正は、1899年において、日本が、1858年に放棄した司法自治権を回復することを意味したのである。』『日本は国際社会に参加することを許されたのであるが、過去の経験は、日本をして「永遠の警戒は平和の代償なり」ということを確信せしめたのである。日本の知っていた世界においては、正当と正義は軍艦及び軍団によって計られるもののようであった。』

 『日清間の戦争は、一つの問題を解決したが、他に一層深刻なものを生んだのである。清国は朝鮮の独立を承認せざるを得なかったが、清国に代わる朝鮮半島における日本の勢力に対して挑戦するさらに一層侵略的強国が現われた。』

 『1895年から1904年の間、ロシヤの朝鮮における勢力は、日本がこの戦略上重要な領土が敵性ある支配のもとに置かれることを阻止するため、第二の戦争を戦わねばならぬほど増大したのである。朝鮮は1869年以来そうであったように、日本の外交上の嵐の中心点であった。』

 清国は『欧州の三連合国に対して、事実上額の特に示されていない署名入りの手形を与えた』ように見えた。そのときまで北京において優勢を振るっていたのは米国であったが、今になっては、同盟国のフランスとドイツの支持によってロシヤが優位を占めるに至った。これはロシヤとフランスが、清国に対して、第一回の賠償支払いのための金を英国の銀行ではなく、両国から借りることを強要したとき明らかとなった。

 『ロシヤは、満州を横断し、ウラヂオストックに至るシベリヤ鉄道を建設する権利を獲得することにも関心を有していた。この利権は明らかに1895年11月までに獲得されたようであった。』ロシアの勢力は絶大であり、そして同国の計画はもちろん単なる『平和的侵出』ということではあったが、とにかく『満州に対する進出』であった。しかしこれは日本人に安心を与え得るものではなかった。

 『ドイツもまた、手ぶらで傍観している意思はなかった。』本官は、清国に対するその連合国であるロシアとドイツが悪質な要求をどれほど繰り返し続けていたかということを、ここにおいて並べ立てる必要を認めない。『ロシアの艦隊は、1898年ドイツが膠州を占拠した後直ちに旅順に入港し、そして3月2日旅順港、大連及び遼東半島の南端の租借の要求がなされた。しこうして3月27日、25年間の租借が調印された。これの日本に及ぼした影響は容易に想像し得るところである。日本は、それを領有することは北京と朝鮮の独立に対して脅威を与えるものであるという理由によって、ロシアは日本軍が戦争によって占拠した要塞を日本に放棄せしめることに率先の労をとって、3年以内にみずからそれを占拠した。日本政府はなんら幻想を抱いていなかった。』『常に夷をもって夷を征することを金科玉条としていた』清国は、『英国に対して威海衛の租借権を与えた。』ロシアが旅順港を租借した後、英国は在北京公使に対して、ロシアが旅順港を領有していると同様の条件によって、その租借を得るように訓令した。

 本官はすでに本判決の他の箇所において、どのように西洋列強による清国の分割が巧みに行なわれていたかということについて述べた。軍事的成功によって清国の抵抗を崩壊に導いた日本は、清国自身に次いで、この最も隣接している国に対するヨーロッパの支配に対して、他の列強のいずれよりも遥かに大きな利害を有していたが、これらの侵略的行動にほとんど参加しなかったのである。『しかし台湾の対岸に位置する福建省が、ヨーロッパの支配に置かれることから自己を守ること以外、日本は租借権の争奪には全然参加しなかったのである。』

 合衆国もまた今までは遠ざかっていた。しかし中国に対するヨーロッパの侵略と、清帝国の解体の危険を見た年は、合衆国が米西戦争の結果、アジアに利害を有する強国になりつつあることをも見たのである。

 フィリッピン併合によって、合衆国はアジア問題に利害を有するようになった。

 ここで1900年の義和団事件について詳細に述べることは、本官の目的の範囲を越えることになる。本作戦行動中、イギリス、合衆国、ロシア、フランス、ドイツ、日本の六大国は、全般的一致裡に共同の活動をした。しかし北京占領後、ロシアの行動は恐慌を引き起こした。すなわち、さきにロシアは即時同市から撤兵することを主張したのであったが、連合国はこれに同意しなかった。すると『ロシアは、清国内に領土獲得の意図はまったくないと明言しながら、突如翻って満州を蹂躙し、10月2日首都奉天を占拠した。これによって清国の門戸開放と領土保全の原則を宣明した10月の英独協定の締結を見るに至った。合衆国、フランス、イタリア、オーストリア及び日本は、右協定に記された原則を承認した。』

 当時ロシアの外交は1858年、1860年に設けられた好結果の先例を忠実に踏襲していた。

 1900年に『アレクシエク(←「Alexieff」なので「アレクシエフ」が正しいと思う)提督は、旅順港において、曾淇と条約の交渉を行なった。この条約によれば、満州はロシアの保護国にされることになっていた。』『本条約に第一報は、1901年1月3日ロンドンで公表され、ロシア及び清国はその真実性を否定したけれども、日本、合衆国、イギリス及びドイツは、清国がすべての国との友好関係の回復に努力している一方で一国と交渉することの危険につき、清国に対して警告を与えたのである。ロシアは右条約の批准を督促した。2月28日清国政府は、合衆国、日本イギリス及びドイツが協力して清国、ロシア間の調停をするように要請した。そこでロシアは、多少その要求を緩和し、同条約が3月26日までに調印されることを要求した。清国は列国に対して、ロシアを動かして交渉の時間を延長させるように再び訴え、合衆国は重ねて清国及びロシアに対して、単独交渉を行なわないように警告をした。ドイツ、イギリス、及び日本は、右条約を北京の外交会議にかけるように提唱したが、ロシアはこれを拒否した。』

 『1898年から1901年に至る清国の危機の期間中、合衆国、イギリス、日本は協調して活動した。これらの国は、それぞれ清国の門戸開放と領土保全の賢明なことを信じていた。かつ日本ほど大きな危険に瀕していた国が他になかったことは確実である。しかし清国は見えすいたロシアの侵略から自己を守ることができなかったのであり、しかもロシアは、フランスの援助、また多くの場合ドイツの援助にも頼ることができなかったのである。日本は最大危険に瀕していた。なぜならば、ロシアが不凍港を求めて南進することは、究極には韓国及び南満州を占領することを意味するものであり、これは忍ぶことができないことであったからである。しかし日本は、単独ではさきに、1895年に自己に屈辱を与えた旧三国協商に対して立ち向かうことは、ほとんど不可能であった。日本はなんらかの援助を受けなければならないのである。』

 合衆国は、どのような目的のためのものでも、同盟関係を結ぶことは、一律に拒絶していた。他方イギリスは、最初はインド方面へ、次いで今度は韓国及び清国へのロシアの進出を長い間恐れていた。けだしイギリスの通商上の利益が脅かされるからであった。従ってイギリスは、極東でロシアに対して同国の立場を強化することができるような同盟を歓迎していた。『おそらくは、ロシアとの衝突に導くと思われるイギリスとの同盟を結ぶべきか、またはロシアとの相反する利害関係の解決を試みるべきかについて、日本の最上層部に意見の相違が生じた。』

 しかしながらロシアは、日本が自己の国家的企図に干渉することを許そうとはしなかった。かようにして1902年1月30日、ロンドンで日英同盟協約が調印された。同協約中に『両締約国は清国及び韓国の独立を承認し、その二国のいずれも、全然侵略的趨向をもっていないことを声明した。大英帝国の特別な利益は清国にあり、また日本はその清国にもっている利益に加えるに韓国で政治上、商業上及び工業上の利益をもつものとされた。』

 『日本及び大英帝国の断乎とした行動によって、ロシアは満州での冒険から手を引くかに見えた。4月8日ロシアは清国との間に条約を調印し、これによって3ヶ月ごとに特定の一地域を開け渡して、18ヶ月以内に満州から撤兵することを約束した。しかしロシアは、この誓約遵守の意思を少しももっていなかった。』

 1895年以降、韓国ではロシアの勢力が着々増大していった。『日本は、ロシアの支配の強化を、大いに警戒の念をもって注目していた。ゆえに、ロシアが清国に対する約束の実行を怠り、最初の一年間の終わりにも、2番目の地域から兵を移動させなかったばかりでなく、さらに特権を得ようと努めたとき・・・・1903年6月26日、次のことが決定された。すなわち、日本はロシアと直接交渉にはいり、ロシアから、清国及び韓国の独立と領土保全を尊重する意思ありとの明確な保証を得るように努力するというのであった。』

 ロシアは、清国の領土保全の尊重を拒絶した。『ロシアは韓国国境に軍を集結し、極東におけるその海軍力を増強しつつあったため、日本は交渉打ち切りを決定した。これは1904年2月8日に行なわれ、敵対行動は9日夜、旅順港において開始された。』

 『合衆国は直ちに日本及びロシア双方に、清国の中立を尊重し、交戦地域をできるだけ制限するように勧告した。両国はこれに同意した。しかしながらロシアは、満州全土は戦争地帯に含まれるべきであると主張した。』

 『この戦争は、おそらくはロシアによる韓国及び満州の獲得を防止するため、清国領土内で行なわれたのであった。しかし日本は、もし自国の国家的利害が危険に瀕していなかったならば、このような犠牲を払わなかったに相違ない。従って日本は、自己のため自衛の目的で戦っていたのである。しかし韓国及び清国の脆弱性が日本をして戦争にはいることを余儀なくさせたのである。こういう理由から、清国が自己の防衛のためなんら手を打とうとしなかったので、当然日本には多大の忿懣の念が存在した。清国の脆弱性と怠慢が、日本をこの危険な仕事に引きずりこんだのである。この事実は、その後多数の日本人の対中国態度に影響を与えた。』

 『戦争の期間中、合衆国の輿論、日本にとってきわめて有利であった。日本は自衛の戦争に従事していると信じられていた。』『百戦百勝の陸海軍、優秀な病院及び衛生設備、人道的な俘虜の取扱い等は、すべて日本の声価を高めた。』

 この戦争を終結するための日本とロシアの条約においてさえ、日本は多大の寛容さを示した。『日本は自己の韓国における卓越した政治的、軍事的、経済的権益の容認を獲得し、またロシアを南満州から駆逐し、ロシアがそこで保有していた租借権と鉄道権益を自己のものとした。』

 日露戦争の後、日本は同国と清国との国交において、欧州諸国が立てた先例を忠実に守っているようであった。

 本官は、戦後の平和の形成について責任を担うものが、おそらく戦争の甚大な犠牲と努力によってかち得たと思われる結果をまず確保し、次いでこれを発展させようと考えるのは正に当然であると信ずるのである。勝利の結果を無益に消耗することは不自然なことである。このように勝利の結果を無益に消耗し、それによっていやしくも戦争目的ある場合、その戦争目的そのものを水泡に帰することは犯罪でる。戦争によってなし遂げ得たことを保存することは、公人の基本的任務であると考えられる。

 日本はロシアとの戦争が終わったとき、10億ドル以上の債務を負担してしまっていたのである。その代わりに、南満州鉄道、樺太の半分及び日本にあったロシア人俘虜経費の支払いとして、些少の金額を得たのであった。

 『1905年10月に、当時の首相桂伯爵は、米国の鉄道経営家E・H・ハリマン氏によって組織され、日本の法律に従って運営されることになっていたシンジケートに南満州鉄道を移譲するための覚書に、ハリマン氏とともに署名した。ハリマン氏は東支鉄道《満州におけるロシアの鉄道》を買収し、またシベリア横断鉄道の運輸権を手に入れて、こうして米国資本の融資による世界一周の運輸組織をつくり上げることを提案した。』しかし小村男爵はこの企図に反対した。『小村男爵はその計画に原則上反対した。なぜならば彼は、鉄道は日本が戦いによって得た唯一の価値ある資産であるから、国民はこの有利な企業を外国人に移譲することを痛く憤慨するであろうと信じたからである。この点において、小村男爵は疑いもなく正しかったのである。けだし戦争は完全に成功したように思われるのに、それから得たものは僅少であるため、激しい忿懣がすでに表面化していたからであった。』

 従って満州開発の決定は、その後に発展してきたものであったと思われる。

 『清国人は、日本が満州をロシアの脅威から解放し、清国の保全を護るために、雄々しくも戦争に突入したのだという見解をとった。日本のなしたことすべてに対して、彼らは大いに感謝の意を表明した。しかしさらに彼らは、日本も撤兵し、それによってその行為の利己的でないことを証明するであろうと期待したのである。』

 『同戦争中に、日本人ははなはだ異なった結論に到達していた。彼らは清国の脆弱性のために、ロシアと戦わざるを得なかった。彼らは多くの血と富を犠牲に供した。ゆえにこれに対する償いを受ける権利があった。日本人が要求したものは、清国が進んでロシアに与えたものを、いささかも越えるものでなかった。』その上、ロシアが再び進出してくるおそれがあったのである。

 両国間のこの鋭い意見の相違こそ、その後の事件をよく説明するものである。

 満州の事態は、鉄道租借権獲得闘争によって、複雑化された。清国は、日本がその鉄道を経済的目的とともに、政治的目的のためにも使用しないかというおそれを抱き、イギリス及びアメリカの資本を競争事業に参与せしめようと努力した。満州の租借権を充分利用しようと決意していた日本は、当然一切の競争に反対した。

 『1907年11月、清国は英国の資本家に対して新民屯から法庫門に至る短距離の鉄道線を建設する利権を与え、同線をシベリア横断鉄道上北方400マイルに位する斉々哈爾(チチハル)まで延長する究極的な権利を付した。この利権譲渡は、南満州鉄道に近接するか、あるいはそれと並行する幹線またはその利益に反する可能性ある支線を建設しないと清国が同意した1905年の北京条約の秘密議定書中の一つに違反するものであるとして、日本は直ちに反対した。大英帝国は日本を支持し、こうしてこの譲渡は実現しなかった。』

 『この譲渡が協議中であった正にそのとき、清国の満州督弁は・・・・鉱山、製材及び農業開発並びに鉄道建設にあたって、政府の財政機関となるような一銀行を満州に設立する権利を付した二千万ドルの米国借款協定の要綱を・・・・交渉を行なった。』この交渉は、清国光緒帝及び西太后の逝去によって結局失敗に帰した。

 『当時満州は、世界の危険をはらんだ地点の一つと見なされていた。清国は北方にロシア、南満州に日本を控えて、怯えていた。両国とも、それぞれの商業及び政治的利権の開発の有力な機関として、鉄道を用いていた。ロシアは、失った勢力圏を回復するため、やがて日本に反撃を加えるであろうという予言にもかかわらず、両国は速やかに争闘よりも協力が有利であるという決定に到達した。・・・・。』

 この機に際して、満州における競争を排除して、中国の門戸開放と領土保全が危殆に瀕しているという所説をもみ消そうという試みが、合衆国によってなされた。

 当時の国務長官ノックス氏は、英国、ロシア、フランス、ドイツ、日本及び中国に対して、『六ヶ国は、1937年以前にロシア及び日本が保有していた諸鉄道を、中国が再買収することができるように資金を供与するために協力する』ことを提案した。ロシアも日本も、ともにこの計画に不賛成であり、英国とフランスが両国を支持した。日本はその意見として、提案されたような鉄道の国際管理は、政治的必要の前に経済と能率とを犠牲にするものであり、さらに他面においては、分割された責任は重大な不利を招くものであると主張した。そればかりでなく、多くの日本の産業、商業上の企業がこの鉄道の沿線に発達していた。そしてそれらは、この交通線があって初めて掠奪と襲撃から保護できるものであった。従って政府は、このような保護と防衛を可能にしていた機関を手放すことはできなかった。日本がこの利益を得るために支払った血と財貨の代償を念頭に置いて考えれば、他のどのような国であっても、同様の立場に置かれたならば同じようなやり方で答えたであろうことは疑うことのできないところである。門戸開放(の原則)も、中国の領土保全のいずれをも侵すことなく、日本の産業及び商業上の利権を開発するために、この鉄道を用いることはまったく可能であった。しかも日本は、その犠牲においてかち得たあらゆる合法的な利点を、享有する権利があると信じていたのである。

 この事件の結果として速やかに現われたものは、満州における「現状(←「現状」に小さい丸で傍点あり)」維持のため、1910年7月4日の日露条約が調印されたことである。

 『ロシアとの戦争は、主として朝鮮においてロシアが脅威的な地歩を占めたことに基因したものである。日本は、朝鮮半島の外国による支配を防止するために、清国と戦った。そしてその戦争の後、ロシアが清国の退いたあとをおそったのであった。日本はかようなことを再び起こさしめる意思はなかった。宣戦布告後二週間を出でないで、日本は韓国と、その王国の独立と領土保全及び王室の安全を保障する条約を結んだ。』

 『1904年8月、韓国は日本の財政及び外交顧問を受け入れることに同意した。前者はハーヴァード大学出身の目方氏であり、後者はアメリカ市民ダーハム・ホワイト・スティヴンス氏であった。翌年11月、日本の一保護国が設立された。』

 『合衆国及び他の締約国は、事の推移が道理に適っていたことを認め、各公使館を京城から引き揚げた。』ルーズヴェルト氏は、韓国が『まったく自治または自衛の能力に欠けていることを示した。』ことを認識し、これに介入することを拒絶した。

 『その後三年間、伊藤侯を統監としていただき、往時の状態を知っていた外国人の賞賛をかち得たところの、多くのめざましい改善がなされた。』しかしながら、不幸にしてかの偉大な政治家は、1909年10月26日、満州において一朝鮮人兇漢の手に倒れた。1910年8月22日韓国王が日本天皇に宗主権を譲る条約が調印された。

 『その領土保全が繰り返し約束されたにもかかわらず、韓国が併合されたことは日本の外交政策の間接性について最も実証的な批評を生んだ。その過程中においてとられた措置はおのおの外交的には正規なものであった。・・・・しかしその結果自体を切り離して眺めれば、それは約束とは正反対であった。』

 しかしながら前例が大いに物を言う世界においては、日本人は多くの例をあげて自己の行為を弁護することができるのである。『英国のエジプト占領は手を引くという約束の違反であった。オーストリアのボスニア及びヘルツェゴヴィナの併合は厳粛な条約を一片の反古とした。韓国だけが外国の支配下におかれたアジアの弱国ではなかった。国家的利害という尺度で計れば、印度の属領に対する英国人、印度支那に対するフランス人、東印度に対するオランダ人、及びフィリッピンに対するアメリカ人よりも、日本人の韓国に対する言い分はもっともであった。韓国において日本人は一名の米政治家とともに、彼らの直面するところは「理論ではなく実情」であったと言えたのである。言い換えれば、マッキンレイ大統領がフィリッピンの併合を正当化するにあたって言ったように、「事の推移が人間の行動を律しまた無効にする」のである。』

 この出来事があって後、合衆国及び英帝国両政府は、ともに条約を結ぶことによって日本と伝統的な友誼を維持する希望を表明した。

 満州の戦場及び東方海域において日本が勝利を博した1905年という年は、また日本に対する国際社会の輿論中に変化の最初のきざしを見たのである。合衆国においては日本人移民の問題が台頭し、同時にまた日本の外交政策に関する疑惑の声があげられ始めた。本官はその後急速に表面に現われた移民問題を詳細にわたって論ずる必要はない。日本は常に各種の方法でその伝統的な友誼を示そうと努め、また無実あるいは真実のあらゆる反対の根拠を排除するため、『紳士協定』に基づいて忠実にそして慎重に移民を制限していたのにかかわらず、容赦なく一撃を加之(←「加え」が正しいだろう)られたのであった。同時にここで指摘してよいことは『人間対人間として、日本人移民は当時の欧州人移民と比べてなんら劣るところがなかったことである。日本人移民は一般に読み書きができ、ほとんど大部分法律を遵守し、勤勉であり、そして、立身出世したと(←正誤表によると「出世したと」は誤りで「出世したいと」が正しい)いう熱望を抱いていた。』しかしこの点は本件とは関係のないことである。

 戦争中、日本とロシアは双方とも、中立諸国に向かってそれぞれ自国の名分を闡明(せんめい)するために、宣伝を効果的に利用した。アメリカの新聞は戦争中日本に対して、ほとんど一様に友好的であったが、戦争の終わりには著しい変化が認められたようである。このときから、まったく途方もない数々の記事が掲載され、事実と憶測とを判別するには余りにも見聞の少ない大衆に、それがそのまま受け入れられたのである。『アメリカ人は、日本が彼らの手からまずフィリッピンを、次いでハワイを、そして最後には全太平洋沿岸を容易に奪いとることができるのであると警告された。カナダ人は、英領コロンビヤこそほんとうに日本の目標であると告げられた。オーストラリヤ人は人口希薄な北部の領域が侵入を招来するかもしれないという惧れから驚愕狼狽した。けだし、その侵入は1911年に日英同盟の期限満了とともに必ず起こると断言されたからである。』『フランス人は遠からず日本が仏領印度支那を征服するであろうと考え、オランダ人は、その豊沃な熱帯帝国が東洋の新しい軍国主義者たちの垂涎のまととなるかもしれないという惧れから周章狼狽した。』『英領インドでさえも、遠過ぎて彼らの陰謀の対象とならないというこはなく、メキシコ及び南米の西海岸もまた日本の侵略の舞台になりそうであると言われたのである。』

 この新聞の態度の変化は、大体ロシヤ代表ウィッテ伯の成功した宣伝手段に基づくものであるとされている。

 『これらの言説は、1905年の直後公けにされた数多のまじめな記事の中に見出される。これらの言説は一つの文章にまとめてみると、もちろん不条理に見えるものであった。これらの評論家達によれば、日本は今にもあらゆる方面に向かって攻撃を開始しようとしており、また合衆国、英帝国、フランス、オランダ及び南米諸国と紛争を巻き起こそうとしていたということになる。もちろん中国は、まず南満州を手初めとして、直ちに蹂躙されることになっていた。』このような話は、当時欧米各地に流布されており、そしてそれがそのとき以来日本の政策について抱かれた大部分の疑惑の底に横たわっていたのである。

 『恐怖ノ年(←「恐怖ノ年」に小さい丸で傍点あり)1931年』の『心理状態』について書いているある著名な歴史家は、どのように、非英語国民が占めた世界における支配的地位が英語国民に対して理性上及び道徳上の障害であったか、またどのように、かような支配の可能性が『イギリス人及びアメリカ人の心にあらゆる既定の価値と均衡と期待・・・・の革命的逆転という混乱状態の最大の象徴として映じた。』かということを観察している。遠い過去から遠い将来にわたる人事の進化について、英語国民の抱く概念のすべては、未来は彼らに属するものであり、またそれ以外の者は、英語国民の神意に基づく発展に寄与することによって、彼らの歴史上の宿命的役割を果たすことになるというのである。

 おそらく同様の考え方だけが、この種の巧妙な宣伝の花を咲かせる温床を提供することができるのであろう。この宣伝は事実花を咲かせ、実を結んだのであった。

 右に述べたように、1905年の日本の勝利の後には、よく不用意な言説が行なわれ、戦争の可能性が軽率に論ぜられた。折も折、セオドア・ローズヴェルト大統領は艦隊に対して、世界周航の途次太平洋に進航するように命令を発した。この計画が発表されたとき、多くの人々はその巡航の目的を即座に誤解し、また他の者は不祥な結果を生むことを予言した。一部の者は、それが日本に対する威嚇であると考え、他方、一部欧州諸国の海軍上層部の人を含む他の人々は、必ず日本艦隊が攻勢に出るに相違ないと確信したのであった。

 艦隊の世界周航は、ローズヴェルト大統領の計画通り実施された。ローズヴェルト大統領の意見では、巡航中の最も特筆すべき事件は、日本において同艦隊に与えられた歓迎であった。同大統領いわく、

 『礼節と教養において、日本人は確かに西洋諸国の師となり得るところが多々ある。予は日本国民がこの巡航が何を意味するか、正しく理解するに相違なく、かつわが艦隊の訪問をもって、その本来の目的である大なる敬意の発露、すなわち予が感じ、かつアメリカ国民が感じていると確信するこの偉大な島帝国に対する尊敬と友誼の証拠として受け入れるに相違ないことを固く信じていたのである。実際は、予の予期以上のものであった。わが艦隊の乗組み将兵に対する日本側の示した厚誼に対して、予は感謝の念に堪えない。さらに付け加えたいことは、わが将兵の一人々々が日本人の友となり、また讃美者となって帰国したことである。』

 日本は、信義に厚い連合国の一員として、第一次世界大戦中、連合諸国が重大かつ緊急の必要を感じていたときに、貴重な援助を与えたのであった。

 以上のことが正にここで問題になっている日本の政策の発展過程における歴史的背景である。右の掲げた説明の骨子はペイソン・トリート(Payson Treat)教授著の『日本と合衆国(Japan and the United States)』からとったものであるが、これは確かに1853年以降の出来事の一つの忠実な説明である。

 本官は別のところで第一次世界大戦直後に起こったことについて考察を加えておいた。事ソビエット連邦に対する日本の態度に関する限り、歴史家として非常に権威ある人が1936年度国際問題調査報告中に次のように記している。

 『1918年ないし22年のシベリア共同出兵の際、重要な役割を演じたにもかかわらず、日本はロシア革命に続く10年の間、ロシアの革命派の海外における宣伝、及び謀略行為の危険に対して、その感染のおそれある源泉からずっと遠く離れていた若干の民主主義諸国よりも、かえってこれに関心を払うところが少なかったのである。事実1925年に共産主義の危険がヨーロッパ人の眼に大きく映じた際、またソビエット連邦が未だ一般に排斥されていた際、そして共産主義の勢力が中国においてその極に達した際、さらに日本とロシアの間の緩衝国の役をつとめる満州国が未だ存在しなかった際、日本政府はモスコーと友好関係を回復する条約を結んだのであり日本に派遣された最初の外交使節は、着任の際に歓迎されたのである。』

 実にこの権威者は、少なくとも1932年までの日本政府に対しては多大の賞賛の辞を呈している。1931年度の調査報告において、この大権威者は、『1914年から1921年までの間にとられた占領及び植民の戦術は、1922年から1931年までのまったく異なった通商拡張及び政治的善隣の戦術によって代えられた。後者の数ヶ年の間は、日本政府及び日本国民は逐次増加する国際貿易額総計中において、ますます大きな部分を占めることによって日本の急速に増加しつつある人口を賄うようにしたのである。そして彼らは、この経済政策のもたらす必然の政治的結果を甘受したのである。』と述べている。この調査報告者はさらに続けていわく、すなわち『このたゆみなき産業及び通商上の拡張計画の企ては、政治の面において徹底的に平和的な世界秩序の精神と調和する真実の平和政策を遂行する日本――そして、それを遂行していると隣接諸国が認めている日本によってなされて、初めて成功の機会があることを彼らは認めたのである。そして日本は、その歴史中この段階においては、数々の実際的な方法をもって、その平和への意思を証拠立て、強い印象を与えた。すなわち日英同盟の失効の甘受、ウラジオストック及び青島よりの撤兵の決定、1924年の挑発的な米国移民(排斥)条項に対する日本の品位ある自制、そしてさらにある注目に値する機会において、中国の挑発に対してことさらに報復手段をとらなかった政策などである。たとえば1927年の南京不法事件の際、日本側はその自衛にあたって、米国あるいは英国のいずれよりも明確に非戦闘的であった。日本はその期間中、機会のある限り、国際連盟の模範的加盟国としての態度で行動した。これは一大国際社会の国際生活におけるよき市民であったことの顕著な記録であったのである。』

 しかして後に、日本の「甚ダシキ激変(←「甚ダシキ激変」に小さい丸で傍点あり)」が起こったのである。本官は、これが何ゆえに起こり得るかの理由についてすでに言及した。これに関してはさらに触れることにしよう。

 本官は、これらの以前に起こった出来事についての証拠に関して、詳細に論ずるつもりはない。ただこれらの出来事の詳細にわたる考察は、日本の立場を不利にすることを示すものではないであろうということだけを言っておきたいと思う。

 1904年ないし1905年の日露戦争の場合を取り上げてみよう。歴史家たちは、必ずしも本法廷において検察側がなしたと同じようにこれを評することはできないのである。この1904年ないし1905年の日露戦争は、満州を席巻して武力占領を行なった後、厳粛な国際協定に明白に違反して、その軍隊の撤兵並びに日本及びアジヤに対して与えた脅威を撤回することを拒否したときの、妥協を肯んじない帝国主義帝政ロシヤによってもたらされたものであると言う歴史家たちもあるのである。本官のすでに指摘した通り、当時英国は日英同盟を更新かつ強化したのであって、また当時の列強は日本の行動を侵略であるとして非難しなかったのである。

 さて次に、ゴルンスキー検事の冒頭陳述において言及された1918年の極東ソビエットに対する日本の干渉の問題を取り上げてみよう。本官は王室協会の国際事情調査報告に掲載されたこの出来事の顛末を読むことをむしろ選ぶのである。国際問題協会の1920年から23年度の調査報告の中に次のことが指摘されている。すなわち1917年の革命の時から、極東のロシヤ人は互いに内部において相反目し、かつ『トランス・バイカル、アムール、及びウスリーのコサック人自治体は極端な反革命的見解を採り、彼らの主張セミヨノフ及びカルミコフはそれぞれチタ及びハバロフスクの本部から独立した軍隊として行動を開始した。その間、国内の他の地方は最初穏健な革命派によって、そしてその後《完全とは行かなかったが》ボルシェビキ運動によって占領された。これが1918年夏連合国が東部シベリアへの出兵を決定したときの状態であった。』この博学な調査者は次のことを指摘している。すなわち、(1)この発議は日本がしたものではない。日本においては最初から強力な干渉反対派があった。また(2)本来の動機は遠い欧州戦争の戦場における事件に関連する軍事的考慮であった。この調査書は次のように述べている。『ブレスト・リトウスクの講和条約の調印以後、東部欧州戦線のロシヤ軍に従軍していたチェッコスロバキア軍は、シベリヤ横断鉄道によってウラジオストックに到着するために出発した。その理由はそこから船に乗ってフランスへ向かい、西部の連合軍に再び合流しようというのであった。この冒険的なチェッコスロバキア軍の企図が西欧連合国の知るところとなり、同時にチェッコスロバキア軍の退却は、前に捕虜であったドイツ人、オーストリー人及びマジャール人の武装団体ばかりでなく、さらに同盟国側と共謀していたソヴィエット当局によってさえ危険にさらされているとの風説が連合国側に伝わってきた。欧州の連合国は、ドイツの勢力《さらにまたすでにウクライナを席巻していたドイツ軍の勢力》が、シベリヤを横断して東方へ進出することを真に恐れていた。連合国側はこの危険に対して、シベリヤ戦線を設けようと欲したまた彼らは日本に対してこの戦争でさらに一段と明確な役割を与えたいと思った。ドイツ−ボルシェヴィキ協力の脅威に対する連合国戦線の第一の中核はセミヨノフの軍隊であった。そしてこの軍隊は、すでに日本から援助を受けていた。しかし日本政府は、シベリヤ出兵のような責任の不明確な挙に突入することを長い間躊躇したここにいたって欧州の連合国は、日本はアメリカからの合図がなくては決して行動を起こすことはないことを覚った。そこでウィルソン大統領は、最初は躊躇したが、遂に譲歩した。これはおそらくある程度まで米国鉄道専門家たちの圧力によったものであろう。この専門家たちは、シベリヤを横断してロシアにはいる道を再開するという、かなり漠然としてはいたが、野心的な計画を心に描いていたのである。かような事情のもとにおいては、チェッコスロバキヤ軍の退却は干渉を行なうに都合のいい口実を与えた。そこで彼らの撤退を掩護するために、連合軍をウラジオストックに派遣することが、西欧連合国によって主張された。しかしその兵力の大部分は合衆国及び日本によって提供されなければならないということは明らかであった。また日本は、ほとんどあらゆる党派のロシヤ人にとって殊に左翼党派にとっては、日本がその前年中にコサックの首長たちに与えていた援助のためすでに疑惑の対象となっていたので、外交的発議はワシントンから始められるべきであるとの決定を見た。

 『従って、1918年7月、合衆国政府は、ロシヤ人に対して声明を発し、合衆国の提案に基づいて、かつ大英帝国、フランス及びイタリーの事前承認によって、米国並びに日本政府は、チェッコスロバキヤ軍を援助するため、兵力をウラジオストックに派遣することに決定した旨を公表した。』連合国間においては、合衆国並びに日本は各々兵七千名ずつ派遣することに合意されていた。

 『これらの軍隊のウラジオストック上陸は1918年8月11日に行なわれた。』

 本件においては、右の出来事の後、ロシア国内でどんなことがこれに続いて起こったかに付いては、われわれは関心を有していない。ただ1918年末までにバイカル湖以西のシベリヤ全部がモスコーのソヴィエト政府の直接権限のもとにはいり、そしてチェッコスロバキヤ軍は同湖の東方へ移動したというだけで充分である。

 『在ウラジオストック米国派遣軍軍司令官は、1920年1月8日、同僚の日本軍軍司令官に対して、米国政府は出兵の挙が「不明確な性格」を持つに至ったため、彼に撤収を命じたと通告した。』・・・・『日本においては、シベリヤ出兵は財政的また政治的に無益であると見る者と、その出兵によって生ずると思われる機会を大いに利用しようと決意していた者との間に、鋭い意見の対立が直ちに現われた。後者の一派は日本のために利権を漁り、東部シベリヤにおける日本の商業的地位を固め、できれば東支鉄道の支配権を獲得したいと希望した。またごく少数の「軍国主義者」の間だけではあったが、領土的征服の夢もあった。さらに強い動機は、ウラジオストックを非武装化または中立化し《ウ港はロシヤ及びドイツをそれぞれ旅順及び青島から駆逐した後においては、日本を直接に脅威する極東海面における最後の外国海軍根拠地であった。》かつ日本の支配階級が極度に恐れていたボルシェヴィキ思想が、極東地方――第一に朝鮮にある日本臣民の不平分子の間に――拡がることを防ぐことであった。最後に、日本人は米国に依存するものではないことを示したいと切望していた。この雑多な動機の結合したものが勢力を占めたのである。』

 右に述べたいろいろの動機の最後のものさえ、権力政治の世界においては単なる感情の問題ではなかった。

 日本の行動は、現在では連合国によって「侵略的」と見られている。しかし当時においては、ソヴィエト軍が東進を続け、遂には帝政ロシアの旧国境までその権限を主張するようになる可能性があった関係上、日本人はボルシェヴィキに対し「ブルジョア文明」の闘士の役目を引き受けたと言ってもよいのである。

 1920年8月、日本軍隊は――東部トランスバイカリヤにおけるセミヨノフの領域ばかりでなく、ハルビンまでの東支鉄道幹線からも実際に撤収された。

 本官はこの話をこれ以上続ける必要はない。これは本官が先に述べたように、1918年の日本の干渉は、全然日本の計画ではなく、また確かに本起訴状に訴追されているような種類のどんな共同謀議の結果でもなかったことを示す以外には、われわれの現在の目的になんらの関連性をも持っていない。

 いずれにしても、これらの出来事は本件に役立つなんらの背景をも提供し得るものではない。もしこの出兵について『領土的征服の夢もあった』としても、これらの夢は『ごく少数の軍国主義者』に限られていた。われわれの手許にある記録中には、被告または被告席に座らされていない彼らの同僚と称せられる者のいずれをも、多少なりと前述の軍閥と関連させるものは全然ない。その軍閥の罪悪に対し現在の被告を罰し得るようにする方法というものは、本官はまったく聞いたこともない。

 日ソ関係は、1925年1月21日、北京における日ソ条約の調印後に新しい段階に入った。《法廷証第31号》この条約は協約及び各種の通牒並びに宣言からできている。同協約の最初の3ヶ条によって、「法律上ノ(←「法律上ノ」に小さい丸で傍点あり)」相互承認、及び外交並びに領事代表相(←この「相」は省くか、「相互」とするのが正しいと思う)の交換が行なわれることになっていた。1917年以前の日露間の旧条約は、1905年のポーツマス条約を除いて、将来の会議において改正または廃棄されることになっていた。1907年の漁業条約は改正されることになっていた。そしてその間、1924年設定された漁場に関する暫定手続はこれを継続することになっていた。第4条によって、最恵国原則に基づく通商条約が締結された。これに関連して、張作霖がそれ以前ロシヤと当時国際的に認められていた中国政府との間に締結された条約の承認を明白に拒絶した後、ソ連は1924年張作霖と協定を結び、これによって満州を別個の国家として事実上承認したことに注意するのは適当なことであろう。

 ゴルンスキー検察官はその冒頭陳述中、日本の軍閥の首脳者は、1928年からソ連邦に対して侵略戦争を計画していたことを示そうと企てた。本官は右の主張を支持するどのような証拠も、同検察官はおそらく提出し得なかったことと思う。

 ワシリエフ少将は、本件の最終論告に当たって、その証拠を以下の項目に分けた。すなわち、

  1、1928年から1941年ドイツの対ソ攻撃開始までの間における対ソ戦の計画と準備。

   (a)満州の奪取及び満州並びに朝鮮を対ソ戦の攻撃拠点とすること。

    (1)1928年ないし31年における対ソ戦計画。対ソ攻撃拠点とするための満州の奪取。

    (2)1932年から1941年に至る間における対ソ戦計画。

    (3)対ソ戦のための日本兵力の準備。

    (4)満州及び朝鮮における軍事基地の設定。

    (5)満州住民を対ソ戦に備えさせること。

    (6)関東軍司令官及び関東軍参謀(注、ソ連検察官が提出した日本文には「司令部」とあるが、上のように訂正する必要があろう)の役割。

    (7)日本の1905年ポーツマス条約及び1925年北京条約違反。

  2、日本の帝国主義者らがソ連邦に対してなした謀略工作。(注。ソ連検察側の提出した日本文には「破壊的」とあるが、上のように訂正する必要があろう。)

   (a)ソ連国境に対してなした組織的な侵犯。

    (1)第一期の謀略工作。

    (2)東支鉄道で行なわれた謀略工作。

    (3)ソ連国境に対する組織的な侵犯。

    (4)最近の期間に行なわれた謀略工作。

  3、ハサン湖地区における日本のソ連に対する宣戦を布告しない侵略戦争《1938年》。(注。原日本文は「無宣戦」とあるが訂正を要しよう。)(←このあたりに3つの「注」が出現する。これらは原資料にあるものである。私の注ではない。これらの「注」は、英文にはない。翻訳班が、翻訳の際、ソ連の検察官の提出した日本文を見て、不正確だと思い、訂正し、注を付したのだろう)

  4、ノモンハン地区における日本側の宣戦を布告しない対ソ侵略戦争《1939年》。

  5、ソ連に対する侵略のため、日本がヒットラードイツ及びファシストイタリーとなした同盟。

   (a)防共協定――ソ連に対する侵略主義者のブロック。

   (b)三国同盟――民主主義諸国、特にソヴィエト連邦に対する侵略国家群の陰謀の最後的形成。

  6、ドイツの対ソ攻撃開始後の期間における日本の中立条約違反とソヴィエット連邦に対する侵略行為。

   (a)中立条約の締結以後における日本側の対ソ攻撃準備。

   (b)ソ連の経済、政治及び軍事上の状態についての資料をドイツ側に供給したこと。

   (c)極東におけるソ連船舶航行に対する妨害、ソ連船舶に対する不法な抑留と海賊的襲撃。

 このように検察側は満州事変を大々的に取り扱い、日本陸軍は満州をさらにソ連に拡大するための基地と化そうとする終局の目的をもってその関心を満州に向けていたと主張した。本官は、他の部分において日本の評価において満州が日本にとって重要であることを示したが、なぜ満州における日本の行動から推して、われわれが検察側が提言するような推論を引き出さなければならないか、本官にはわからない。もちろん、この検察側の主張を支持する直接証拠は全然ない。

 検察側は、この期間日本がソ連に対して作ったと言われている各種の陸軍作戦計画に依拠するところが大きかった。ところが証拠によれば、これらの計画は、参謀本部が毎年万一に備えて作成する慣例となっていた年次計画であることが判明した。この計画のほかに、瀬島龍三中佐、松村友一少将、村上啓作中将、笠原行雄中将及び矢野正男中将の証言がある。本官はこれらの証拠を詳細にわたって討議する必要はない。本官はこれらの証人の証言を通じて、右の諸計画は、かような戦争に対するなんらかの決定が行なわれたとか、意図が抱懐されたとか、あるいは計画が作られたとかいう意味における戦争計画でなかったということを聞き、これで充分であると考えている。これらは万一の場合を熟慮しての単なる仮定的措置の計画であった。これらは毎年作られ、次の新年度が近づくと、前年度のための計画は破棄された。これらの計画中には作戦開始の特定日時はなんら記載されていない。これらは参謀本部において、参謀本部の戦略と政府の政策との関係を全然知らない将校によって準備された。日本が対ソ作戦計画をもっていたということは、日本がその国と戦争をする意図を有していたということとは全然別個の問題である。さらに、このような計画はソ連との万一の敵対行為に対してばかりでなく、また万一の可能性がある他の諸国に対してもつくられたのである。この点についてこの証拠を注意して調べてみたところ、本官はこれらの計画は憂慮された万一の場合だけを基礎として、事務的措置として準備された仮定的のものであるとの結論に到達した。これらは侵略的意図があったかあるいはなかったかを示すものではない。日本に対する同様な米国の計画も証拠として提出されている。これらはわれわれの当面している問題に関する限り何事をも示すものではない。

 検察側は1931年−32年に、日本がソ連との不可侵条約締結を拒然した(←正誤表によると「拒然した」は誤りで「拒絶した」が正しい)という事実を多少とも強調している。検察側は日本が不可侵条約締結を好まなかったということをもって、日本は当時ロシヤに対し侵略的意図を抱いていたに相違ないとの推論を引き出すことは正当であると主張した。本官は、この日本の行動といわれているものが、問題となっている意図を推論することを裏付け得るとは思わない。

 検察側はみずからの主張によると、日本は協定または条約を尊重する国ではなかった。もしこれがそうであるとすれば、日本がたといソ連に対し侵略的な意図をもっていたとしても、なぜかような協定を結ぶことを躊躇したであろうか、本官は理解できない。これに反し、もし検察側の日本に対する描写が正しいとすれば、日本はソ連を油断させることに成功するかどうか、少なくとも試してみるために、直ちにかような協定を結ぶであろうと何人も予期するであろう。何事もドイツがソ連との不可侵条約に違反することを防ぎ得なかった。日本は最後にはソ連と中立条約を締結した。しかしその条約は日本が他の三連合国との戦争ですでに敗北してしまったとき、ソ連が日本に対して宣戦布告するのを防止しなかったのである。

 ゴルンスキー検察官は、その冒頭陳述において、検察側の主張を以下のように述べた。

  『1931年末、ソ連政府は日本政府に対し不可侵条約の締結を提案し、同提案は1932年にも繰り返されましたが、日本政府はこの提案を拒否したのであります。・・・・』

  『日本政府は、ソ連及び日本間に末だ(←「未だ」が正しいだろう)係争問題が存在し、故に不可侵条約締結の機が未だ熟しおらずとの根拠のもとに、ソ連との不可侵条約の締結を拒絶したのであります。

  不可侵条約の締結は、かかつ係争問題解決に好都合なる基礎を作るであろうというソ連政府の立論は、日本政府の顧みるところとならなかったのであります。

  日本政府のかような態度が意味したのは唯一のことで、すなわち日本政府はこれらの係争問題の解決交渉に際し、議論として軍事攻撃の威嚇を利用し、またそれで不十分なる場合は軍事攻撃を行なわんとさえ思っていたのであります。

  ソ連より提案されたこの条約調印拒否は、疑いもなく、日本軍統帥部が満州占領直後開始した軍備は、すべて防御の性質を有するものではなく、またその軍備の目的が満州及び朝鮮を対ソ侵略戦争実施の基地とするためにあったことを立証するものであります。』

 これとともに、ゴルンスキー検察官はおよそ1931年より1936年の間、満州における日本の軍事力は強化され、かつ『北満の荒蕪地域に兵舎、軍用倉庫が建設せられ、ソ連邦国境に通ずる戦略的鉄道及び砂利道が敷設され、またソ連国境に設堡地区が構築されたのである。』

 この不可侵条約が日本に提案されたとき、それは日本政府によって処理されたのであって、「軍閥」または共同謀議者群――それがだれであるかは別として――によって処理されたのではない。

 日本政府の回答は法廷証第745号、すなわち1932年12月13日内田からトロヤノフスキーに手交された口上書に含まれている。この回答は、「外ノ事ト共ニ(←「外ノ事ト共ニ」に小さい丸で傍点あり)」次の言明を含んでいた。

 『日本並びにソ連邦は相互の主権を確実に尊重する用意を有し、相互の国境侵犯を厳に慎んでおります。しかしながら、この満足すべき関係を正式の不可侵条約締結に至らしむる時機はいつが適当であるか、またその方法いかんに関しては意見の相違がありましょう。一部の人々の意見では、両国間に係争を生ぜしむるがごとき各種の問題の存在する事実に鑑みて、かかる雰囲気を一掃し、右のごとき不可侵条約の予備的締結をもってこれらの諸問題の解決に資する方が望ましいとしております。他方右に対する反対の意見が、不可侵条約締結のごとき比較的一般的性質の問題を考慮する前に、まずかかる係戦(←「係争」が正しいだろう)の原因を取り除くために努力すべきであると信ずる人々によって固持されております。』

 この口上書は、『この場合両国政府間において本件に関し正式交渉、を開始することは時機にあらずと思われます。』と要説し、かつ両国が直面する諸問題の解決を試み、またなし遂げることの方がむしろ取るべきことであると提言している。

 この回答に対するソ連の覚書は1933年1月4日付のもので、法廷証第746号である。その覚書に対する日本側回答は1933年2月13日付で法廷証第747号である。

 われわれはこの点に関し両者が述べた理由の是非を検討する必要はない。本官は日本政府の与えた理由はそれほど(←正誤表によると「それほど」は誤りで「(削除)」が正しいとあり、「それほど」は削除するのが正しい)無理なものとは見えないということを指摘すれば充分である。いずれにしても、日本政府は当時の事態をこのように解釈したのである。本官としては日本政府の採ったこの見解は、条理を弁えた当時の政治家が採用し得なかったようなものであったと言うことはできない。

 因みに、少なくとも当時において、世界列強は、ソ連を友好関係相手国としてさほど快く考えていなかったと言って差し支えないであろう。ここにおいてソヴィエット政府は1933年までアメリカ合衆国の承認を受けなかったことをわれわれは想起してもよかろう。アメリカのクーリッジ大統領はすでに1923年12月の当時において、米国政府がソ連と国交関係を結ばない理由の一つは、同氏が、ソ連は『国際義務の神聖を認めることを拒否する政権』であるという見解をとったからであると言っている。ウィルソン大統領は1919年、ソ連は『初めから守る意思なくして協定を結んだ』といって同国の性格を描写した。チロッグ(←英文では「Kellogg」とあり、「ケロッグ」が正しいだろう)国務長官は1928年声明書を出し、その中で他のこととともに、『このソヴィエット政権の承認ということによって、承認国の国内問題に対してボルシェビキ指導者たちが干渉することを中止するようにもならなかったし、またそれによって、彼らが国際関係の基本的義務を認めるようになることもなかった』と言っている。

 弁護側は、検察側のこの部分に対して次のような批評を加えた。『不可侵条約がソ連によって、リスアニア及びその他の諸国と締結され、またソ連は当時「ポーランドと交渉を行なっており、フィンランド、エストニア及びラトビアとの交渉」を開始していたという事実によって、リドビノフ人民委員が不可侵条約の価値を説明したことは、歴史に照らしてみて一種悲愴の興味あることである。』この批評には幾分の真理のあることは否定できない。いずれにしても、世界の見解はこの傾向を示したのであるが、本官はそれによって全世界がソ連に対して侵略的傾向を示していたと言うことはできない。

 この点に関連して検察側が言及したいわゆる軍事的準備は、最終論告から見ると、1936年の広田政策の始まった時以後の時期に言及しているものと見受けられる。本官はすでにこの政策に対する本官の見解を述べておいた。かつ後ほどさらにこれについて述べる機会を有すると思う。本官はこのいわゆる準備と、不可侵条約締結拒否との間にたいした関係があるとは思わない。本官には日本のこの行動になんら侵略的意図または計画があるようには見えない。

 満州における鉄道の拡張は、必ずしもソ連邦に対する侵略的意図を意味するものではない。

 1925年までの満州における鉄道の状況に関して王立研究所はその年度の国際問題調査において次のように論評している。少なくともそのときまでの日ソ関係において支配的要素となっていたものは、満州に対する経済侵略と互いに競争していた両鉄道の発展の問題であった。この問題にかかっていた結末は、第一次的にはウラジオストックと大連のいずれが商業的優位を獲得するかということであり、究極的には満州においてロシアと日本のいずれが優位を獲得するかということであった。

 満州における鉄道建設は1896年ロシアによって開始された。その広大な土地は農産上将来非常に有望ではあったが、当時はその大部分の地域《面積三十五万平方マイル》は未開墾地であって、単に狩人や牧畜業者がまばらに住居していたにすぎなかった。これは主として生産物を妥当な値段で市場に出すことができるような交通機関がなかったからであった。

 最初の鉄道建設に引き続き直ちにその手近な範囲内の土地が開墾され、そして満州の拓植は本式に着手された。

 さらに満州の経済的重要性を増すことに大いに寄与したことは「満州大豆が」世界通商上に特別な重要性をもつ農産物となってきたことであった。

 満州の農業の将来性について朝鮮銀行発刊による満州経済史は次のように述べている。すなわち

 『満州は依然として極東における農業上最も恵まれた土地である。そしてその前途は正に「洋々たるもの」と言って差し支えない。その広大な平地は中央満州の全域にわたり、遼河、松花江、嫩江、呼蘭江の盆地をなしており、その沃度は日本あるいは朝鮮のいずれの部分に比較しても劣らないものであり、この平地だけでも中国半島《朝鮮》あるいは日本本土と同じ大きさを有しているのである。そして右両国において真に耕作に適し、または実際に耕作されている平地がどんなに狭小なものであるかを知っているものにとっては、右の両国民がこの見たところ無限に拡がっている沃野に驚嘆したことは想像にかたくない。』

 王立国際問題研究所の博識な研究員は、次のように述べている。すなわち『かようにして満州は鉄道による開発に対して理想的分野を提供した。広漠たる沃土は切に開拓を待っていた。中国の人口過剰の各省においてはこの有望な麦畑を開墾すべき頑健で勤勉な開拓者が容易に得られたのである。ただ必要なものはこれらの人々をこの土地に運びまた生産物の処分を容易にする鉄道網だけであった。それゆえにこれらの肥沃な平原に建設される鉄道は、どれでもそれ自体に有利な運輸業を築き上げるとともにこの土地の資源を開発し、人口過剰の日本諸島に対し、有望な食糧源を供給することは事実上確定的であった。』(←英文ではここに引用終わりの「”」があるように見える。和文でもカギ括弧を補っておく)

 さらにこの開発は日本の製品に対して新しい販路を提供することによって、必然的に日本自身の経済生活に有利な影響をもたらすべきものであった。日本の進出の当初、大阪紡績会社社長山辺氏は将来の見込みについて概括的に次のように述べている。

  (原資料にはカギ括弧はないが、あった方がいいと思うので補う。原資料は引用部分を一段下げにしており、カギ括弧はなくていいと思ったのかもしれない。もっとも、引用終わりの部分にはカギ括弧が付されているので、一応引用開始の部分にも付けておく→)「われわれの見るところでは満州人の購買力はほとんど無限に近い。満州の住民は朝鮮人よりも遥かによい生活をしており、さらにこの利点に加えて、毎年約二万人余の者が山東及びその付近から入り込んでいる。これらの新しい移民によって需要はさらに増すので、満州における綿製品の消費がいかに増大するかは想像しがたい。

  満州それ自体は綿織物の世界最良の市場の一つである。機織の技術は未だ原始的状態にあり、近い将来においては、とうてい改善されそうもないので、住民はその衣料にする綿製品の供給を海外に仰がなければならない。人口の大部分は農民と労働者であり、自然彼らは粗い長持ちする日本の綿製品を上等なキャラコよりは好む傾向がある。」(←原資料及び英文で一段下げはここまで)

 従って、もし一国が前に獲得した土地に満足している場合を闘争と名づけ得るならば、日本は満州における鉄道の制覇を目指す闘争に本気になって参加したのである。二十世紀の最初の二十五年間において、東支鉄道はなんら新しい支線を設けなかった。そしてハルビンから長春に至る《148哩》唯一の既設支線は、南都向運輸に関する限りにおいては、4フィート8、5インチ軌道の鉄道に直接積載するため農産物を長春に運ぶ四輪馬車業者の競争に対処しなければならなかった。(←この段落は、パル判事の文章なのか、王立国際問題研究所の研究員の文章の引用が続いているのか、判然としない。英文では冒頭に「“」があるようにも見えるが、ないようにも見える。和文冒頭にはカギ括弧はない。和文・英文ともに末尾には引用符はない。おそらくこれはパル判事自身の文章だろう)

 (この部分に、英文には引用符「“」があるように見える。ただ、かすれていて、判然としない。和文にはカギ括弧はないが、一応補っておく。→)『四ヶ国借款団の成立に先だつ交換公文において日本が南満及び内蒙の東部について述べたようにただ単にその特殊権益を有する地域を組織的に開発していたばかりでなく、日本はさらにロシアの勢力範囲へも進出しつつあったのである。』(←この部分は、和文・英文ともに引用符がある)

 次に来るものはロシアの勢力範囲に対する日本の進出の経緯及び北満におけるロシアの地位に対する脅威というロシアの懸念である。

 『ソビエット政府は、自国の権益を守るある程度の努力もせずに日本の勢力の拡張を見守っていたわけではなかった。1926年5月ソビエット政府は、日本との了解に達しようと試み、その目的をもって元逓信大臣ソレブリヤコフ氏を東京に派遣した。しかし彼はシベリア鉄道、東支鉄道及び南満州鉄道の直通輸送に関する提案に対しての日本側の「原則上」の受諾を得ただけで、そのほかに、なんらの成果をあげないで東京を去った。またソレブリヤコフ氏は日本と帝政ロシア間の旧秘密協定に見られたような鉄道開発の目的のために満州を二つの勢力圏に分割するという日本との了解に達しようと努力したと伝えられている。この点については彼は完全に失敗した。日本は、彼に対し、ワシントン条約は日本が中国の主権を無視するどのような取極めをも結ぶことを許さない絶対的の障害となっていると指摘したからである。』

 本官は1935年のソビエット政府による東支鉄道の売却に関する取極めと現在の問題との間に何の関係も見出せない。本件においてこのような事柄をもったいぶってもち出すことは、かって検察側の主張が見込みのない性質のものであることを証明することになる。

 検察側は、協和会を相当目立つように取り扱い、同会は、満州をソビエット連邦に対する戦争準備のために軍事基地化する目的のために存在したと主張した。しかし本官はこの証拠にはさほど感銘しなかった。関東軍はソビエット領域への侵入あるいはその占領を目的とする任務のものではなかったのである。

 証拠は関東軍の満州駐屯は防衛を目的としていたことを示している。とにかく同軍の満州駐屯はなんら共同謀議の一部をなすものではなかった。

 関特演、すなわち関東軍特別演習もまた、現在検討している問題に関する限り検察側の主張を認めるものではない。われわれはこの点に関して、日本はロシアが欧州戦争に巻き込まれていた好機をも利用しなかったことを再び想起し得るであろう。もし行為が意思を示すものであるならば、これこそソ連邦に対する陰謀または共同謀議の存在とは、まったく反対の確証である。

 日本が時に応じてどんなことを言ったにしても、また日本の準備がどんなものであったにしても、証拠は日本がソ連邦と衝突することを避けようと念じていたことを充分に示している。日本は常にかような衝突を恐れていたようである。ドイツの要請さえも日本に対ソ行動を起こさせることはできなかった。本官の意見では、本件における諸証拠の累積的効果、は単に日本がロシアの国力、準備、及び満州への進出の可能性に対して感じた脅威とロシアが満州に進出する場合に対する日本のとった事前の警戒及び細心の準備を示すことになるにすぎない。

 本官はすでに日本と欧州枢軸国との同盟の意義を検討するに当たって、防共協定及びそれに付随する秘密協定と現在取り扱っている問題との関係について述べた。その際本官は当時いわゆる共産主義の危険と称せられるものがどんなに世界を脅かしたか、また世界はロシアと第三インターナショナルとの関係についてどんな意見をもっていたかを指摘した。

 本官はこの点に関し、ロシアの関心事及びその意図について、当時の世界列強の間に深刻な見解の相違があったことを指摘したい。リップマン氏は右の見解の相違を次のように指摘している。すなわち『ロシアは今後長い間、その広大な領土の発展に専心し、そしてソ連邦は19世紀における合衆国とほとんど違わないくらいに自己本位で通すであろうという意見を持っている人々がある。これは一の仮説である。それが正確であることを立証する方法はない。』

 『もう一つの見解は、もちろん、ソビエット・ロシアは侵略的国家であり、いろいろな組み合わせ方で帝政ロシア時代の野望と第三インターナショナルの計画とを結合させているというのである。この仮説が不正確であることを立証する方法はない。』

 しかしながらリップマン氏の見解のように外交政策の基礎は二個の立証できない仮説のいずれかを盲目的に選択したものであってはならない。慎重な考慮があれば国家は合理的に予想し得る将来のあらゆる事柄に対し準備を整えていなければならない。これらのことは国家経綸において慎重を期するための基本的な規則であって、ソ連邦に関する日本の準備は単にこの基本的な考慮を示しているにすぎない。

 証拠は、日本がソ連邦に対してなんらかの侵略的企図を有していたとは確証していない。疑いもなく、世界の共産主義に対する嫌悪を日本も同様に感じていたに違いない。あるいはこの嫌悪はまったく理由のないものであったかもしれない。どういうわけかロシアは共産主義のイデオロギーを採用して以来、世界の他の国々にとっては、真に安全な隣邦と考えられなかった。現在においてさえ『ロシアが正しいイデオロギーをもち、それによって、世界の他の国々にとってまったく安全な隣邦となるためには、まずそのマルクス哲学のうちの不当な若干の部分が捨てられなければならない』ということが信ぜられている。その一つは『その弁証法的史観という決定論であって、この弁証法を単に自然の理論に適用させるというよりも、自然そのものに適用させていることだ』と言われている。『右の誤謬の根本的な点は、すべての理論もしくはテーゼの否定は、それに基づいて一つの、しかもただ一つのジン・テーゼを生むという仮定である』・・・・しかし『伝統的な共産主義的理論のようなある一定のユートピア的な社会的仮説を選択して、それを直ちに史的決定論の名のもとに人類にむりに押しつけて、それで歴史的過程の性質とか、もしくはますます大なる善の弁証法的達成とかを表現しているのっであると独断的に断定する権利はだれにもないのである。』

 ともあれ全世界は共産主義及びその勢力の発展に対する恐怖に脅かされていた。日本もまた単にその感をともにしたにすぎないのである。今日でさえも、世界はこの実際上あるいは想像上の脅怖心(←「恐怖心」が正しいだろう)から逃れることができないでいる。全世界は、共産主義及び共産主義国家によってもたらされるおそれのある侵略に対し、過去においても準備をなしつつあったし、なお現在においてもその準備をしているのである。本官は特に選び出して日本の準備だけが侵略的なものであったと言わなければならない理由は見出すことができない。

 検察側主張の論拠とされている国境事件は単なる国境事件にすぎない、本官はこれらの事件からなんら共同謀議の実在を発見することはできない。


(F)最終段階 侵略戦争の拡大による東亜の他の地域、太平洋、印度洋への共同謀議の一層の拡張

(英文での見出しは、PART W OVER-ALL CONSPIRACY Final Stage The Further Expansion of the Conspiracy into The Rest of East Asia and Pacific and Indian Ocean by Further Aggressive Wars)


 これからいわゆる共同謀議第四段階を取り上げよう。検察側の本段階の最終論告は、1936年の広田計画から始まる。もし1936年の本計画が、東亜の他の地域及び太平洋へのいわゆる共同謀議の一層の拡張の出発点であるというのが、検察側の主張であるとすれば、本官の見解では、この拡張の説明は、起訴状の言うような種類の全面的共同謀議が、それ以前のいずれかの時期において存在したかどうかの問題を決定する上に、なんら関連のある考慮とはならない。本官が検察側の主張を読んだところ、検察側の企図の出発点を定めようとするためではなくて、すでに抱懐されていた計画が、この段階において、まったく明々白々なものとなるに至ったことを立証するためにすぎない。

 検察側は次のように言う。『大東亜に日本の新秩序を建設する目的のために、「アジア」大陸において強固なる足場を獲得し、かつ南洋に進出するという1936年の計画、並びに中国における戦闘により生じた需要を超えた全面的戦争準備は、日本の侵略計画が中国国境にて止まらなかったことを明らかにするものであります。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)すなわち検察側によれば、『共同謀議の計画は、中国の広大な領土の支配のみならず、東亜の他の部分および西南太平洋の支配をも企てていたのであります。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 検察側に従えば、いやしくもこの「遠大ナ目的」を実現するにあたっては、二つの大きな障害が存在した。すなわち、

  1、支那本部及び中国以南の地域への侵略に関しては、欧米列強、特にイギリス、合衆国、フランス及びオランダがその障害であった。

  2、支那本部及び中国以北の地域への侵略についての障害は、ソ連であった。

 検察側によれば、上記の欧米列強、特にイギリスと合衆国は次の三重の理由によって障害となっていた。すなわち、

  1、右の諸国自体が、日本の侵略の目標であったから。

  2、これらの国々またはその国民が、中国とアジアの他の部分及び太平洋において巨額の金融的、経済的権益を占めているので、日本の共同謀議計画の成功のためには、これら権益を排除もしくは制限し、日本の権益に従属させなければならなかったから。

  3、厳粛な条約協定によって、日本は共同謀議の企図、目的そのものの実行をみずから放棄し、かつ共同謀議実現に必要な行動を一切控えるよう、強固な拘束を受けていたから。

 検察側の主張するように(←accordind to the Prosecution case。検察側の主張に従えば)、中国本部への侵略(expansion。拡張)は、すべて以上二つの障害をもたらすことは明白であるかに思われる。もしそうであるとすれば、これらの障害除去のための準備は、単に中国本部だけへの膨張以上のことを推論させるものではないのである。

 検察側は、関係ある条約協定を次の三種類に分けている。すなわち、

  1、敵対行為の発生阻止を企図した協定。

  2、日本とその他の国との関係を定義した協定。

  3、特に中国に関する協定。

 検察側は、『1899年7月29日ヘーグで調印された国際紛争平和的処理条約』から始めた。この条約は、敵対行為の発生を初めて条約によって阻止しようとした世界的の試みである。《この条約は本件の法廷証第12号である。》

 右の条約とともに、次のものが上記第一種の中に入れられた。

  1、1919年6月29日付の国際連盟規約。《法廷証第23号》

  2、1928年8月27日のケロッグ・ブリアン条約。《法廷証第33号》

 合衆国は一度も国際連盟に加盟しなかったということに注意したい。日本は1935年に連盟から脱退した。その後ソビエット連邦は連盟加盟を許されたが、1939年12月14日連盟理事会は、同年12月3日のフィンランドの提訴について、ソビエット連邦がもはや連盟加盟国でない旨を宣言する決議を採択した。

 第二類として検察側が挙げているのは、次のようである。

  1、合衆国と日本の間に締結された1908年11月30日の協定。《法廷証第22号》

  2、1921年12月13日付の条約、これは初め英連邦、日本及び合衆国間に締結されて、後にオランダ及びポルトガルがそれぞれ1922年2月4日及び6日にこれに参加したもの。《法廷証第24号》

    この条約によって、締約諸国は相互間におけるように、太平洋方面におけるその島嶼である属地、及び島嶼である自治領に関するその権利を、おのおの尊重する旨を約したのである。

  3、(1)日本は国際連盟からの委任統治に基づいて、右委任統治に包含される島嶼に要塞を建設してはならないということに同意した。《法廷証第23号》

    (2)土着民の軍事教育は、地域内警察及びこの地域の地方的防衛のためにする場合を除いては、これを禁止すること。《第4条》

    (3)合衆国は連盟加盟国でないので、1922年2月11日日本と条約を締結し、第4条の利益を獲得した。《法廷証第29号》

 検察側を代表してヒギンス検察官は、第三類として1922年2月6日付の九ヶ国条約を強調した。この条約はアメリカ合衆国、全英連邦、ベルギー、中国、フランス、イタリー、日本、オランダ、ポルトガルを締約国とするもので、日本及び他の締約諸国の中国に関する主要な義務を定めたものである。《法廷証第28号》

 ヒギンス検察官によれば、九ヶ国条約は合衆国の対中国だけでなく、対世界各国の政策を宣言したものにほかならなかった。

 この条約は無期限のものであって、条約締結の日から、他の各国は、これらの条項は日本の対中国政策を定めているものであると推定さる(←「推定する」が正しい)権利をもっていたのである。約言すれば、日本は

  (a)中国の主権を尊重し、

  (b)中国がその国内問題を、干渉を受けないで解決することを許容し、

  (c)中国における商業上の機会均等を促進し、

  (d)中国内の事情に乗じて、特殊権益を求めることを慎むこと、

の言質を与えたのである。

 続いてヒギンス検察官は次のように述べた。

  1、証拠は、条約締結の日から1931年9月に至るまで、日本の誓約は相当に遵守された。

  2、(a)1931年9月以後の日本の対外政策の声明は、次第に九ヶ国条約の公約と相容れない点が多くなってきた。

    (b)これから以後は、日本の政策は主義の政策ではなく、便宜の政策となった。すなわち、力と征服の政策となったのである。

  3、(a)満州侵略の当初から、日本は合衆国及び全英連邦に対する通牒中に、日本は満州に領土的野心がない旨を述べていた。《法廷証第293、924、931号》

    (b)奉天事変が満州全土にわたる侵略的な軍事支配を拡大するに至って、合衆国と全英連邦は、平和と条約上の義務遵守の、すでに声明された政策に従った。

    (c)満州国傀儡政府が樹立された。合衆国と大英帝国はこの傀儡政府を承認することを拒絶した。

  4、(a)日本、合衆国間の国交は、中国における侵略行為によって阻害された。

    (b)1934年2月、日本外務大臣、被告広田はハル長官に対して、『根本的に解決不可能』問題は両国間に存在しないと言い、平和的外交関係に対する希望を表明した。ハル長官はこれに対し、懇篤鄭重に応答した。

    (c)しかしながら一ヶ月を出でないで日本外務省情報部長天羽は、日本を中国の政治上の保護者及び経済上の企業家に仕立て、いわゆる『支那から手を引け』との政策を声明した。他の列国は日本の権益に有害な一切の企てに対して、警告を受けた。

    (d)全英連邦及び合衆国は激烈ではないが、真剣な抗議を発した。

 検察側に従えば、もし上述の大障害を除去することができさえすれば、共同謀議の目的達成に成功し得たのである。ソビエット連邦もかような障害の一つであったとの論拠に基づいてなされた検察側の主張の中で、その点に関しては本官はすでに検討を加えた。ここでは西洋諸国だけを論ずることにする。

 検察側に従えば、西洋諸国による障害に関する限り、これらの条約規定とそれに伴う各種の義務及び責務を、何とかしてくぐり抜けることができれば、これを除去し得るものであった。従って共同謀議者らは、これらの条約を回避し、変更し、無視するために、ありとあらゆる手段に訴えた。検察側は、日本がかような企てをなしたことを立証しようとした。またもしこれが立証されたならば、訴追されている共同謀議の援助のために、日本が準備を行なっていることを証明するものであると主張したのである。

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