歴史の部屋

 共同謀議者らがこの点についてなした企てを、検察側は次のように分類しようとした。すなわち、

  1、第一期においては、共同謀議者らはその義務に忠実であると殊勝らしく主張した。彼らは、外見上は条約体系の範囲内にあって、しかも一たび西洋諸国の承認を得ると、完全にこれらの条約を骨抜きにするような新方式の案出に全力を傾注した。

  2、次の時期においては、共同謀議者らは、日本の行動を正当化するような条約体系の特殊な解釈によろうとした。すなわち、

   (a)1934年4月17日、この新方式に対する条約加盟国の反響をためすために、天羽声明の形式をもって『観測風船』を上げた。

  3、第三期においては、共同謀議者らは、その条約体系の彼らの解釈にいくつかの新たな要素を加えた。

   (a)この新たな要素の一つは、同条約体系の原理の目的は、極東では、この地域の現実の特殊事情を充分に認識し、実際的に考慮して初めて達成し得るという、面白いただし書きをつけたことであった。

   (b)もう一つの新たな要素は、日本の行動は自衛の問題であって、これは中国の反日政策、反日行動に鑑みて、とらないわけにはいかなった(←「いかなった」とあるが「いかなくなった」又は「いかなかった」が正しいだろう)ものであり、従って九ヶ国条約の範囲外にあるというのであった。

  4、第四期すなわち最終段階においては、新しい行き方が採用された。すなわち、

   (a)同条約の原則を確認するような言葉づかいは一切避けること。

   (b)第三国の既存の権益を尊重することを合衆国に理解させること。ただし、

    (1)それは同条約の必然の結果としてではないこと、

    が決定された。

   (c)次いで、中国において将来第三国の政府がなす行為を規律すべき基本的法律は、右の新事態に即して設けられるべきことが決定された。

 1934年4月、天羽英二という者が声明を発表した。これは当時の日本の対中国政策を述べようとしたものであった。この声明は、本件において法廷証第935号となっている。この声明は次のように要約し得る。

  1、日本は、中国との関係におけるその特殊的地位によって、中国に関する問題については日本の意見及び態度が、諸外国と一致しないものがあるかもしれない。

  2、日本は東亜において特別の使命と責任を有する。

  3、日本の地位と使命に鑑みて、日本の中国に対する態度は、時に諸外国の態度と異なるものがあるかもしれない。

  4、東亜における平和と秩序を維持するためには、日本は自己の責任において常に単独に行動しないわけにはいかないし、またそうするのが日本の義務である。

  5、東亜における平和の維持について、日本とともに責を分かつ地位にある国は、中国の外にはない。

  6、従って中国の統一、領土の保全及び中国における秩序の回復は、日本の最も切望するところである。

  7、中国が、他国の勢力を利用して、日本を排斥するような挙に出るのは、日本の反対するところである。

  8、また中国の夷をもって夷を征しようとするような措置も、日本の反対するところである。

  9、満州事変、上海事変後のこの特殊な時期において、列国間においてなされた共同動作は、たとい名目は技術的あるいは財政的援助にあるにしろ、政治的意味を帯びるに至るのは必然である。

  10、このような性質の企てにして、もし究極まで遂行されるならば、必ず悶着を招来して、遂には中国の分割等の問題の論議が必要になり、中国にとっては非常な不幸をもたらすだけでなく、同時に日本及び東亜に対しても、重大な反響を与えるものである。

  11、であるから日本は、原則としてかような企てには反対しないわけにはいかない。しかし各国が中国に対して、個別的に経済、貿易問題の交渉をするようなことは、こういう交渉が中国を利し、東亜の平和の維持に支障を及ぼさない限り、これに干渉する必要は認めない。

  12、しかしながら中国に飛行機を供給し、飛行場を建設し、軍事教官あるいは軍事顧問を派遣して、政治的用途のための借款を起こすようなことは、日本、中国その他の友好関係を離間し、東亜の平和及び秩序を乱すような結果を生ずることは明らかであるから、日本はこれに反対するものである。

 次いで同声明は、以上はなんら日本の新しい政策ではないと述べている。諸外国が中国において、各種の名目のもとに、共同行為のための積極的活動を進めていると報ぜられている事実に鑑みて、この際日本の方針を再言するのも不適当でないと信ぜられる次第である。

 天羽氏がどういう人物であったかということについて、若干の論議がある。検察側の裁判所に申し述べたところによると、同氏は日本外務省の公式スポークスマンであった。この立場において話を進めよう。

 こうして日本の声明が、どういう字句をもってその企図された政策を説明したにしても、その字句にかかわらず、日本は中国側のある行動を阻止する権利があると主張した。同声明は西洋諸国、特にワシントン条約の署名国にとって最大の関心事であった。われわれの現在の目的からすれば、同声明が含蓄する事柄の法的方面は、さして関心事ではない。

 チェニー・ハイド氏は、同声明の法的性格を検討するにあたって、きわめて画切(←「画切」とあるように見える。「画」は旧字体である。「適切」の誤りであろうか)な考察を行なった。これはこの点について、本裁判所を大いに助けると思う。同氏はまず次のように指摘している。

 『日本の対中国関係上の特殊地位は、中国関係の事項について一つの見解と態度を生ぜしめるものである、と同声明は表明している。』この立場からして、列国の対中国行動に関しては、日本は自己の責任において単独の行動をとることが賢明でもあり、正当ともなるのである。次いでチェニー・ハイド氏は次のように述べた。『比較的自国に近い地域及び国に対する、他の大陸の諸国の行動に関しては、国家が自己の責任において単独に行動することが賢明でもあり、正当でもあると考え得るという主張は、モンロー主義遂行の合衆国の行為の中に明白な先例を有するものである。合衆国は自衛の根拠に基づいて、どういう手段によっても、米州以外の国がアメリカの土地に対して、なんらか新たな領土的支配権を獲得することに対して反対する権利があると長期にわたって主張してきた。そればかりでなく、合衆国は自己の責任において事実これをなし、どういうラテン・アメリカまたはその他の国との協定によっても、この権利の主張の行使が修正または毀損されるのを許すような義務は一切拒否したのである。アメリカ州の一国がもし領土を米州以外の国に委譲しようと希望した場合、かような主張はその国の政治的独立に対して不当な干渉になるということを、合衆国は自国の防衛のための必要という観念のために、まったく認めることができなかったのである。』・・・・『北アメリカの主張の価値いかんはさておいて、これがある点で、少なくとも理論上、日本の主張と興味深くも酷似しているということを考察すれば足りるのである。』・・・・

 かように、この政策それ自体には、なんら本質的に邪悪なものはなかったかもしれないのである。少なくともかような政策は、国際生活上先例のないものではなかったのであって、先例がないことから何かの共同謀議に基づくように推論する必要はないものである。

 1917年11月石井・ランシング交換覚書が、『地域的近接は国家間に特殊の関係を生む』と声明したことが想い起こされるであろう。これによって合衆国政府は、日本が中国特に日本の領土と隣接する部分において、特殊の権益を有することを承認したのである。本件の満州段階を論ずる際に指摘したように、大英帝国も日本との同盟条約において、この特殊の立場を認めたのである。

 石井・ランシング協定は1923年4月14日の覚書交換によって消滅した。以後は、それは契約としては効力をもたなくなったかもしれない。しかしながら地域的近接は、国家間に特殊の関係を生むという原則は依然として存在する。それは国際生活上の行動の基準としての原則である。従ってその重要性を、それを表明した協定の終了によって計量したり、制限したりすることはできない。

 チェニー・ハイド氏の指摘したように『特殊権益は地域的近接から生ずるという原則に訴えることを、不合理であると称することはできない。またかような権益は、それが主張されている国の独立と両立し得ないものでもない。』

 中国における日本の権益、在中国の外国権益を脅かす中国の国内状態、及び九ヶ国条約の締約国でないソビエット連邦と中国との間に増大しつつある相互関係については、すでに注意した。また国家がその国外に対する義務を遵守するについて、普通に負う責任は、その国の独立の地位に必然的に付随するものであるということについてもすでに述べた。協定ないし条約は別として、国際社会において、国家は、一定の事情のもとで、他国の政治的独立を毀損することによって、その国の地位を低下させる権利をもつものと思われる。

 自国内に住む他国の国民の生命財産に関して、国家が安定した状態を維持することが長い間できず、また維持する意思がない場合には、被害を受けた隣国が、右のような手段に訴えることは当然な、かつ正当化されるものとして国際生活上認められているようである。

 この点に関して、もう一度次のことを指摘しよう。もし他国内の諸事件または諸準備に関して、一国が自国の安全に即時重大な脅威を与えるものと考えることが公正であり、そしてかような諸事件または諸準備の生ずる領域の国家の政府が、これを阻止し得ないか、右の一国の自己保存の権利は、他の国の行動の自由を尊重すべき義務に優先するという主張を、国際法は黙認していると思われるのである。また、前もって阻止する方策が講ぜられないならば、上述のような事件または準備が、緊急かつ必然的に生ずるであろうと、右の一国が『善意(←「善意」に小さい丸で傍点あり)」で信ずる場合においても、やはりそうであると言えよう。

 従っていやしくも天羽声明を非難する場合には、少なくも次の二つのことが問題となってくるのである。すなわち、

  1、当時中国内に一般に存した諸事実や諸事情に照らして、天羽声明中に表明された政策は、条約もしくは協定とは関係なく、国際法上正当化し得るかどうか。

  2、日本は協定もしくは条約によって、この点についての自己の権利を少しでも減じたかどうか。

 九ヶ国条約は第1条において、各締約国は中国の主権並びに領土及び行政保全ばかりでなく、その独立をも尊重する旨の約定があった。また各締約国は、『友好国の臣民又は市民の権利を減殺すべき特殊の権利又は特権を求むるため、中国における情勢を利用することを、及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控うること』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)に同意したのである。また同条約は、中国において差し控えることについても規定した。

 中国は、機会均等の基礎に基づいて、他の列国との国交を促進する政策を採用することになっていたというのが、基本的な条件であった。中国はその領土または沿海地のどの部分も、どんな国に対してもこれを譲渡したり租借させたりしない旨を約定した公式の声明をおこなった。また第5条において、中国は、その各鉄道の使用またはその料金について不公平な差別を許したり、それを行なったりしない旨の明確な約束をしたのである。

 強烈で広汎な反日態度をも含めて、中国の排外的態度は、同条約の基本的条件そのものに明らかに相反するものであった。

 すでに指摘したように、イギリス及び合衆国を含む締約諸国は、繰り返して次の点を指摘した。すなわち、

  1、『ワシントン条約以降、中国政府の実力は次第に低下したこと。』

  2、『北京政府は列国と権威をもって交渉し得ないし、また列国とのどういう国際協定(取極め)も有効に履行する力がないこと。』

  3、『北京政府の権威が低下し、ほとんど消滅するに至ったこと。』

  4、『中国の崩壊、内乱、中央政府の権威の失墜がいよいよ加速度的に続いたこと。』

 上記の諸列国は、また中国が外国人の生命財産に対する尊重を徹底させ、無秩序状態と排外運動を抑圧する能力があり、そして進んでこれをする旨の具体的な証明をすることが必要であると、中国に対して警告を発したのである。そして列国は、果たして中国にこれらの条約上の義務を遂行し得る安定した政府があるかを疑問としたのである。中国の『行政保全』擁護の問題については、『行政の完全性が単純な観念的なもの以上のものになる時までは、』かような問題は生じないと考える筋もあったのである。

 ワシントン条約以降、共産主義の発展が中国の一般情勢にどれほど根本的な変化をもたらしたかについては、すでに触れた。

 また1925年以後、中国のボイコット工作がどれほど国民党によって、単に奨励されただけでなく、組織され、統合され、監督されたかということも想い起こすことができよう。

 こうして弁護側は次のように主張した。すなわち、九ヶ国条約締結以降、少なくとも五つの重要な事件が極東において発生した。これらの事件は、同条約締結の当時には、予期されなかったものであった。弁護側によれば、この事情の変化に伴って、日本は同条約に基づく義務を無視し得る権利を得たのである。

 弁護側の述べた五つの重要事件とは次のものである。

  1、中国による同条約の根本原則の放棄。すなわち中国は同条約以後、政府の政策の一として、強烈広汎な反日態度を含めて、排外的態度を採用した。

  2、中国共産党の発展。すなわち同党は独自の法律と軍隊と政府とをもち、自己の活動範囲を有し、国民政府に対して実際上の対立者となった。

  3、中国軍備の増大。

  4、ソ連が発展した強国となったこと。同国は中国の隣国であるにかかわらず、同条約に参加を求められなかった。

  5、世界経済原理の根本的変化。

 以上に基づいて、弁護側はこの「事情変更ノ原則(←「事情変更ノ原則」に小さい丸で傍点あり)」を適用したのである。

 多数国間で結ばれた条約の一加盟国が、その条約の規定のいずれにも、もはや拘束されない権利を正当に主張し得る状況は、確かに複雑であって、独善的な規則の設定を企てるという危険に対して、有益な警告となるに足りるほど多種多様である。いくつかの約定をなした場合には、各締約国に義務が生ずる。『どういうものの行為にしろ、もしそれが公正に考えて実質的の協定違反であるとすれば、それは特殊の場合においては他の締約国に対し、その協定を無視したと考えられる一締約国の行為と密接に関連している特定の約束を、守らなくてもよいという口実を与えることになるかもしれない。またこの諸締約国の意図は、そのいずれかの一国がその約束と相容れない行為に終始したならば、その約束のある一部を無効にするということにあったかもしれない。』

 「事情変更ノ原則(←「事情変更ノ原則」に小さい丸で傍点あり)」というものがある。1941年8月9日、ルーズヴェルト大統領は、1930年の国際吃水線協定は『現在の非常事態の継続中は、』もはや合衆国を拘束しないと声明した。同大統領は、この条約の一方的停止の根拠を『変化した事情』において、この事情によって合衆国は、条約の運用を宣言する『国際法上是認された原則に基づいて論議の余地のない権利と特権と』を付与されたと述べたのである。同大統領の声明はフランシス・ビドル検事総長代理の進言に基づいて行なわれたのであるが、ビドル氏は同大統領に対して、次のように述べたのである。すなわち、『ある条約成立の根拠となった根本的事情が本質的に変化した場合には、その条約は拘束力をもたなくなるということは、「事情変更ノ原則(←「事情変更ノ原則」に小さい丸で傍点あり)」という国際法上充分確立された原則である。かような場合に条約を停止するのは、こういう本質的変化によって不利な影響を受ける国家のもつ論議の余地のない権利にほかならない。』

 「事情変更ノ原則(←「事情変更ノ原則」に小さい丸で傍点あり)」に対する以上のような同検事総長の解釈、またその進言に基づく合衆国大統領の解釈は、正しい解釈ではなかったかもしれない。

 しかしながら『好都合にも二つの国際法・・・・・・・一つは自国自身と自己が好む諸国のためのもの、いま一つは自己が好まない国に対するもの』があると考えない限り、アメリカ合衆国大統領が右の原則を利解(←正誤表によると「利解」は誤りで「理解」が正しい)し、そして適用することができと同様に、これを理解し、適用したかもしれない。(←英文を参照すると、この「。」は削除するのが正しい)為政者並びに政治家の「善意」を疑うことは困難である。

 一締約国がある条約の条項に不満をいだき、そしてその国自体の判断によってその条項中の約束によって拘束を受けずまたその拘束から免れるべき確実な理由を有しながらも、同時の他の当事国とその問題を論議したり、あるいは自己の立場を通告すること以上のことをするのは好ましくないと考えることがあり得るということは、相当な理由をもって主張することができよう。

 検察側は、条約の一当事国に「事情変更ニヨル条約不履行(←「事情変更ニヨル条約不履行」に小さい丸で傍点あり)」の原理が適用され得るかと(←正誤表によると「得るかと」は誤りで「得ると」が正しい)信じたという理由だけで、その国の条約上の義務を一方的に放棄する権利を有するものではない、という原則は、充分確立されていると主張している。この原理に関する右の見解は、多分正しいであろう。事情変更に基づいて条約の拘束から免れようとする当事国は、一方的にその条約を破棄する権利を有つべきでなく、かつ右の原理を適用できるという承認は条約当事諸国が(←「が」とあるように見えるが「か」が正しい)、あるいは権限ある国際権威者かに、これを求めなければならないと期待するのはまったく妥当なことであろう。もしも一当事国がその一方的判断に基づいて、共通の福祉のために、かつて当事国全部で周到に考慮して決定した約束を軽視するとすれば、非常に重要な、多国家間の協議による条約締結の方法は、ほんとうに何の役にも立たないであろう。一当事者に対してかような権利を確保することは、国際社会の福祉を増進するめえん(←「めえん」とあるが「ゆえん」が正しい)ではない。もちろん、それは条約はどんなことがあっても堅持されるべきであるということを意味するものではなく、まして、条約不遵守に対する口実が必然的に重みを欠きまたは無視されるべきだということにはならない。ある多国家間協定の当事国である一国もしくはそれ以上の国は、変化した事情に対して公平な判断を求め、かつこれを獲得すべきであるということは、かような諸国間の友好関係維持ということを(←「を」とあるが「と」が正しいだろう)完全に両立し得るものである。しかしわれわれの当面の目的にとっては、右の原則の適用にあたってなされる説明もしくは手続の正当さについては、あまり関心はない。われわれが関心をもっているのはこれに関係する政治家の「善意」の問題であって本官は、われわれが何ゆえにかような「善意」を疑わねばならないのかわからないのである。

 ここで検察側は九国条約に関連して考慮されるべき日本の一つの特定の行為に触れている。検察側は次のように言っている。1937年10月20日に広田はベルギー大使からの九国条約締約国会議への招請状を受け取ったが、右招請は中国における日本の軍事行動は九国条約違反であるという国際連盟の宣言に基づくものであったという理由によって同10月27日、これを拒絶した。

 右の事実は支那事変の勃発後に起こった出来事であったことを記憶すべきである。明らかに一部の有力な締約国は公然と中国に与し、そしてできる限りの方法で、中国の援助を与えていた。日本がどんなことを憂慮していたか、何ゆえに日本は右の招請に応じないことに決めたかについての証拠は、本裁判所に提出されている。その是非はともかく、これは広田一人の決定ではなく、当時の日本内閣の決定であった。われわれは右の態度の是非を問題としているのではない。今唯一の問題としてわれわれの前に横たわっているものは、それか(←「それが」が正しい)何らか邪悪な意味をもつものとすべきかどうかである。本官は右の拒否のどこが邪悪なのか理解できないのである。

 外の場合において、国際社会の他の諸国が同様な行動をとった例もある。本官はこの種の拒絶の例証をここにあげてみよう。すなわちソビエット連邦は1939年にフィンランドとの紛争に関して、連盟理事会がソ連に対して二回にわたって発した招請を拒絶している。

 もし、われわれが天羽声明を非とすべきであるとすれば、終局において次の疑問に対する答えを回避することはゆるされないであろう。

  1、中国が条約によってその独立的地位を強化したからといって、普通に同国の負っている世界各国に対する義務の遵守の責任がいくらかでも免除されたか、

  2、条約締約後の中国のなんらかの行動によって、同条約の目的とする外部からの掣肘を受けない自由を要求する権利が中国から奪われることになったか。

  3、同条約の条項は日本もしくは他の当事国が中国の政治的独立を傷つけ、それによって中国の地位を引き下ろす権利をどの程度まで限定または制限したか。

  4、たとい法律上正当の理由があったとしても、諸締約国が右のようなことをする特権にどの程度まで同条約が影響を及ぼしたか。

   (a)その特権の行使はある一国が自国の個人的な判断に従って行使すべき所有物ではなくなったか、あるいは条約の結果によってその行使はすべての締約国に共通の関心事となったか。

   (b)日本もしくは他の締約国は、中国の独立について、同条約が課したような拘束から合法的に免れることのできる地位にあったか。

 ただし、当面の目的のためには、天羽声明中に宣明された政策を非難することも、または、これを賞揚することも、いずれも必要でない。その問題は、日本の中国における行動は侵略的であったか否か、また、正当化されるものであったか否かの検討に進む場合に初めて起こってくるのである。本官の当面の目的のためには、本官が知る必要のあることは、起訴状の中に述べられた大規模な共同謀議という理論に訴えずに採用された政策が充分に説明されるかどうかということだけである。

 リットン調査団が1932年においてさえ、日本の対外政策、なかんずく対中国政策に影響を及ぼした種々の要素に言及した模様については、本官はすでにこれを指摘した。その以後に他の諸要素が発生した。天羽声明自体は中国内での脅威的準備に対する日本側の信念と憂慮を現わしたものである。本官の意見では、もし天羽声明が事実なんらか公式の関係があり、公式の政策を声明したのであるとしたならば、右の日本の信念と憂慮は同声明中に発表された政策の発展を充分に説明するものである。

 日本が相手として戦う可能性のある国としてのイギリスとアメリカに関して述べている限りにおける1936年の広田政策及びその意義については、本官はすでに論じた。本官はまた右の政策がソビエット連邦に言及した限りにおいてこれに検討を加えた。本官の意見によれば、この政策は必ずしもわれわれに共同謀議を推論させるものではない。本官はさらに、それをもって日本の侵略的準備を示す政策と認めることができない理由を指摘した。

 いずれにしても、検察側の主張によるとしても、中国本土に進入するだけでも、二個の障害を生ずる。すなわち西洋列強とソビエット連邦とである。それならば、これらの政策及び計画の中で、これらの諸列強の名をあげたからといって、その計画は中国以外の領土をも征服するためのものであったとわれわれに推論させるようなものが一体あるであろうか。

 われわれとしては、検察側がわれわれに提供したような、共同謀議の犯行過程の再現図をもつには至らないかもしれない。検察側によれば、日本は膨大な目的を実現するために次のような処置をとったのであった。

  1、日本が第一に企図したのは、二個の強大な障害を除くことであった。

   (a)中国本土及び中国の南方の地帯への発展に関しては、その障害は西洋列強特に英国、米国、フランス、オランダであった。

   (b)中国本土及び中国より北方の地帯への発展に関しては、その障害はソビエット連邦であった。

  2、第一の障害の除去は西洋列強を駆逐しようとする努力を意味した。

   (a)これらの西洋列強、なかんずく英国、米国は障害をなしていた。

    (1)その理由は、英米それ自体が日本の侵略目的国であったからであり

    (2)また日本の共同謀議計画が成功するためには、英米及び英米国民が中国並びにその他のアジア及び太平洋に有する広汎な財政的経済的権益を駆逐した。これを制限して日本の権益に屈従させなければならなかったからである。

    (3)厳粛な条約及び協定によって日本は共同謀議の企図及び目的を放棄し、かつそれを遂行するに要する一切の行動を控えなければならないという強い拘束を受けていたからである。

   (b)共同謀議の目的は、西洋列強という強大な障害を除き得た場合にだけ、その達成に成功することができたものであり、かつこの障害の除去ということは、これらの条約の規定及びこれに伴う義務及び拘束を回避し得た場合等に初めて成就し得たものであった。

    (1)共同謀議者は諸条約の回避変更等のために考え及ぶ限りのあらゆる方法に訴えた。

  3、1931年ないし1941年に至る間において、共同謀議者は西洋列強及びその国民から、アジア及び太平洋における彼らの正当な権益を奪い、その地域から手を引くか、ものくは(←正誤表によると「ものしは」は誤りで「もしくは」が正しい。原資料には「ものくは」とあるが)日本より劣弱な地位を承認することを余儀なくさせようとして、あらゆる努力を払った。

   (a)中国における戦闘の進展に伴って、自発的にまたは強制的に中国の版図から英米及びその他の諸国を駆逐しようとして条約の規定に反して遂行され、目論まれた多くの敵性行為が存在していた。

   (b)敵対行為存続中、西洋の商業上の権益は妨害され、閉鎖、撤退を余儀なくされた。

  4、西洋列強特に米国及び英国は、言辞もしくは行動をもって、両国はともに条約の諸原則を支持する旨及び日本の諸種の行動は、条約上の諸権利を侵害するものであり、かつ両国は、日本が条約上の義務に従って行動することを期待する旨を日本に充分明らかにした。

   (a)1931年9月22日にチムソン(←正誤表によると「チムソン」は誤りで「スチムソン」が正しい)国務長官は日本大使に対して、満州の状勢を「従来ノ状態(←「従来ノ状態」に小さい丸で傍点あり)」に復帰しない場合には満州事変が米国内においていかに重大な印象を与えるかを指摘した。《法廷証第920号、記録第9340−43頁》

   (b)同日、国務長官は、日本大使に覚書を手交し、この情勢は中日両国以外の国家にとって軍事的法律的政治的な関心事であることを明らかにした。《法廷証第921、記録第9344−47頁》

   (c)同日、米国は中日両国に対して覚書を発し、その中でスチムソン長官は、敵対行動を止め、事態を友好裡に解決することを希望した。《法廷証第922号、記録第9348−49頁》

   (d)1931年9月30日に国際連盟がその決議の採択した際、スチムソンは連盟に対して、米国は、独自の立場において行動し、連盟を補強しようとする旨を連盟に通告した。その理由は米国がその事項に多大の関心があるからであり、かつ当事国がパリー条約及び九国条約の締約国に対し負っている義務を米国が承知していたからであった。《法廷証第925号、記録第9352−3頁》

   (e)1932年1月7日スチムソンは中日両国に対し次の警告を発した。すなわち米国はすべての「事実上ノ(←「事実上ノ」に小さい丸で傍点あり)」事態の合法性を容認出来難く、かつ中国における合衆国の条約上の諸権利を損なうおそれのある条約もしくは協定の効力を承認する意思なきこと《法廷証第930号、記録第9366−67頁》

   (f)右に引き続きスチムソンからボラー上院議員あての書簡の形式による新聞発表があり、そこでスチムソンは次のことを指摘している。すなわち、それは日本の参加した相互の関係しかつ相互に依存したワシントン条約体系にとって不可分の部分であること、並びにこの条約の基礎である諸前提条件を考慮することなしにはこれに修生(←「修正」が正しい)を加え、もしくはこれを廃棄することはできないこと。《法廷証第932号、記録第9370−72頁》

   (g)1933年2月に、合衆国は満州事変に関する国際連盟の裁決と同調し、かつ連盟の勧告した解決の原則を支持した。《法廷証第933号、記録第9383−4頁》

   (h)1935年9月25日にハル国務長官は華北における自治運動に関する合衆国の態度を明らかにし、かつ右運動は合衆国の条約上の権利及び義務に鑑みて同国が厳重に注目するところである旨を強調した。《法廷証第938号、記録第9、403−5頁》

   (i)1937年7月21日にハルは諸条約並びに紛争の平和的処理を堅持する合衆国の政策を明らかにした。《法廷証第947号、記録第9、424−26頁》

   (j)合衆国は数次にわたり中日間の紛争の平和的手段による解決を容易にする援助を与える提案をした。

  5、共同謀議者は、常にその義務に忠実であると、終始いかにも真面目に主張していた。

   (a)彼らは、表面上は同条約体系の範囲内にあるように見えながら、しかも西洋列強がもし受諾した場合には、九ヶ国条約及びパリー条約の双方とも完全に無力化するような新しい方式の案出に努力を傾注した。

   (b)1931年9月24日に、日本は満州において領土的意図を有しない旨声明された《法廷証第923号、記録第9、349−50頁》

   (c)現実にとられた政策は、同条約体系を堅持するという声明と明瞭に相背馳したため、同条約体系の範囲内またはその特別な解釈に基づいて日本の行動を正当化する一つの方式を立てることが必要であると考えられた。

   (d)1934年4月17日に、新方式に対する締約諸国側の反響を打診するために天羽声明という形で試験気球があげられた。

    (1)この声明において、天羽は次のことを主張した。すなわち、中国における日本の特殊地位に基づき、日本の見解はあらゆる点で列国と必ずしも一致しないものがあるかもしれない。しかし日本はアジアにおいてその使命及び特別の責任果たすべく、極力努力しなければならないことは、認められることを要する。日本の立場と使命よりして、対中国態度に難しい点があるのは避け得られないことであった。日本は列国との友好関係の維持増進に努力を続けると同時に、他方日本は東亜における平和及び秩序維持のため自己の責任において単独に行動しなければならない。この責任をともにわかち得る国は、中国をおいて他になかった。従って中国が他国の援助を利用し、日本を排斥するような挙に出ることは、日本の反対するところであって、かつ満州事変及び上海事変後においては、列国との共同動作は、技術的または財政的援助の性質のものでも、重大な意味をもつものと感じたのであった。従って日本は、原則として各国が中国に対して財政及び貿易問題の交渉をするようなことは、かような交渉が中国を利して、東亜(←正誤表によると「東亜」は誤りで「極東」が正しい)の平和を危うくしない限り、なんらこれに干渉しないとはいえ、原則問題としてはこのような行動には反対しなければならなかった。日本は、中国に飛行機、飛行場、軍事顧問、または政治的目的のための借款を供与することに反対したのであった。《法廷証第935号、記録第9、389−92頁》

    (2)他の諸締約国は大した熱意を示すことなく、同声明を受け取ったため、広田外務大臣は最も早い機会をとらえて、天羽は広田の関知するところなく、またはその承認なしに、同声明を発表したということを確言した。《法廷証第936号、記録第9、393−94頁》

   (e)広田が天羽声明を撤回しようとしたにもかかわらず、この日本の特殊地位及び権益に関する新方式のこの部分は、極東の諸問題を処理するにあたって新たな支配的な問題となった。

   (f)盧溝橋事件勃発直後、共同謀議者は右の条約体系の彼らの解釈にいくらかの新たな要素を付加した。

    (1)1937年8月13日に、7月16日にハルが述べた世界平和維持の諸原則に対して、次の興味ある条件付きで賛意が表明された。その条件とはこれらの諸原則の目的は、極東においては、同地域の現実の特殊事情を充分に認識し、実際的見地から考慮してはじめて達成し得るというのであった。《法廷証第937号、記録第9、398、9、401−2頁》

    (2)1937年10月20日、広田はベルギー大使からの九ヶ国条約締約国会議への招請状を受け取ったが、右の招請は中国における日本の軍事行動は九ヶ国条約の違反であるという国際連盟の宣言に基づくものであったという理由によって、同月27日これを拒絶した。《法廷証第954号−A、記録第9、444−5頁、法廷証第954号−B、記録第9、446−50頁》

    (3)採択されたこの新方式は、日本の行動は中国の反日政策及びその実施に鑑みて、日本が余儀なくとった自衛上の措置であって、従って九ヶ国条約の圏外のものであった。

  6、1938年1月16日に、日本政府は次のような公式声明をした。すなわちその後中国政府を相手にせず、真に提携せることのできる新興中国政権の成立発展を期待し、これを協力しようとするというのであった。

   (a)しかもこのように真っ向から条約に違反したにもかかわらず、右の声明はさらに続けて、右の行動は中国の領土保全及び主権並びに列国の諸権益を尊重する方針には毫も変化を及ぼさないと述べたのである。《法廷証第972号−A、記録第9、506−7頁》

   (b)右の発表の直後、1938年1月22日に近衛首相は次のように声明した。すなわち日本、満州国及び中国との間の緊密な協力に基づき、東亜永遠の平和を確立することが日本必至の国家目標であり、かつ右の三国を通ずる産業上の全体計画が企図されていると。《法廷証第972号−F、記録第9、516−20頁》

   (c)1938年を通じて広田及び宇垣両外相は、終始合衆国に対し、中国におけるアメリカの権益を尊重すること及び門戸開放、機会均等の原則を堅持することを保証した。《法廷証第973号、記録第9534−5頁》

  7、1938年の末、有田外相就任とともに、新しいやり方が取り入れられた。

   (a)次の事柄が決定された。

    (1)同条約の原則を確認するような措辞はすべてこれを避けること。

    (2)既存の第三国権益はこれを尊重するが、それは同条約のコロラリーとしてこれをなすものでないことを合衆国に了解せしめること。

    (3)将来中国における第三国の経済活動を律する規範は、みずから新たな情勢に即応して樹立されるべきものである。《法廷証第989号、記録第9573−8頁》

   (b)1938年11月18日の日本側回答は、九国条約にはなんら触れなかったが、次の点を指摘した。すなわち恒久平和は、事変以前の状態に適用された元の形の観念または原則を基礎としては得られないこと。《法廷証第989号、記録第9576頁》

   (c)日本は右条約の基礎的原則に対しては、忠実な態度をとっていると主張しつづけたとはいえ、この時から日本は右の条約体系に対する表面上の忠実を明言しなくなった。

  8、11月21日に、有田はグルーに対して、中国における事態が変化しているときに、日本が機会均等、門戸開放の無条件適用を承認することは不可能であると通告した。

  9、1938年末までに、共同謀議者は中国の国境を越えて進出するための第一歩を踏み出す用意があった。

   (a)第一の動きはフランス領土へであった。

    (1)地理的−戦略的理由によってこの方面に進出するということは、勢力拡張及び侵略の共同謀議計画を成功させるために必要であった。

    (2)仏印は最高度の重要性をもった戦略的地位を占めていた。その北部国境は中国の南部国境と境を接し、かつシャム及びビルマと仏印とを結びつけ、かようにして北京、漢口、広東、ハノイ・バンコックとの交通線を設定している。

    (3)仏印は戦争遂行上肝要な天然資源が豊富である。

   (b)早くも1938年1月に、フランス領への進入が共同謀議者によって考えられていた。

   (c)1938年11月3日に、近衛は日本の究極の目標は永遠の平和を確保すべきで(←正誤表によると「確保すべきで」は誤りで「確保すべき」が正しい)新秩序の建設にあり、かつこれが完成は日本の光栄ある使命であるという声明を発した。《法廷証第1291号、記録第9、11695−97頁》

   (d)右の使命達成に向かう手初めとして、1938年11月25日に五相会議で海南島は必要ある場合には軍事行動によって占領すると決定した。《法廷証第612号、記録第6731頁》

   (e)1939年2月10日、海南島は日本の海空連合軍の急襲によって占領された。《法廷証第613号−A、記録第6733頁》

   (f)右の占領直後、スプラットレイ諸島の占領があった。《法廷証第512号、記録第6145−46頁》

   (g)仏印を経由するいわゆる戦争資材の蒋介石への輸送が、1938、1939、1940にわたって、しばしば日本政府側からの抗議を招いた。

  10、米国は、米国国民に対する商業上の差別待遇に対して、数次にわたって日本に抗議をなした後、1937年7月26日、1911年の日本との通商条約廃棄の意図ある旨を通告した。

 かりに、以上検察側が描き出しているところを全面的に認めるとして、それは予期しなかった諸事件が次第に発展してきたものであることを充分に示しているのである。

 以上が事態の全貌である。本官の意見では、これは起訴状に主張されたような種類のどのような共同謀議を描いているものでもない。これは予期されなかった出来事が発展してきたのであることを明らかに示しているのである。

 本官は天羽声明、広田政策、戦争の一般的準備、ソビエット連邦に対する侵略に関連して、以上の分析中の数項目について考察を加えたと信ずる。本官の当面の目的のためには、これらの諸項目をこれ以上論ずることは蛇足であると思う。

 満州事変に関する国際連盟の諸決定と、右決定に対する日本の態度に対して検察側は再びいくらかの重要性を与えた。本官はそのことを本件の満州段階に関連して充分に論じた。

 証拠は、諸種の出来事が、いくつかの新要素によって決定されて事後に発展したものにほかならなかったことを充分に明らかにしている。『日本の軍国主義者が奉天でその一撃を加えた際、彼らの行動が、満州の境界線、中国の国境を越えてさらに極東からはるかに遠く離れた地域にまで、このように甚大な影響を及ぼすものとは予期しなかったし、また立ち止まって考えなかった。しかし、世界的な反響が現実にこれに伴って生じたのである。』上述の検察側主張の分析の4(e)及び(f)に言及されている二通の重要な公文書は、日本の行動の終局の政治的結果と、それがどの程度まで重大なものとなり得るかを、あらかじめ暗示していたのである。

 検察側は、1938年末までに共同謀議者は彼らの政策に従って中国の国境を越えて進出する第一歩を踏み出そうとしており、かつその最初の行動はフランス領土内へであったと述べた。

 共同謀議のこの段階に関する検察側の見解についてさらに考察を進めるに先だち、本官は、中国国境を越えての進出の第一歩を称せられるものに関する証拠をまず検討したい。

 日本の仏印及びタイ国への侵入に関する証拠は、1937年7月の盧溝橋事件後における中日間の紛争の拡大につれ、日本軍が仏印国境に至るまでの中国沿岸地域を占領したことを明らかにしている。検察側の証拠全部を容認すれば、次の説明に到達できるだろう。すなわち

 フランスは国際連盟の一員として、1937年10月に中国における日本の軍事行動を非とする側にくみし、かつ個々の国が中国に事実上の援助を与えるという提案に同意した。《法廷証第617号A、記録第6817頁》

 1938年10月25日に、日本は仏印経由、中国向け戦争資材輸送に抗議した。フランスはかような輸送を否定し、かつ『日本ガ要求スル措置ヲ採ルコトヲ拒否シタ。』《法廷証第616号−A、記録第6802頁》

 1938年11月25日に、五相会議で『海南島ハ作戦上ノ必要アル場合、コレヲ攻略ス。』という決定を見た。《法廷証第612号、記録第6731頁》

 雲南鉄道は敵に対する軍需品輸送に使用されているのであるから、中国向け資材輸送に関する日本の抗議に対するフランスの拒否に対応する途は、同鉄道の爆撃以外にない旨、1938年12月に関係各省全部の間に同意を見た。駐仏日本大使には、実際に爆撃が行なわれた場合は然るべく説明をする旨命令を発したのであった。《法廷証第616号−A、記録第6803−4頁》

 1939年3月31日に、日本政府は東京駐在フランス大使に対して左の通り通告した。すなわち永年所有者のないものとして知られ、1917年という早いころから、日本人が移住した仏印沿岸沖の新南群島(スプラトリー諸島のこと)は、同島に居住する日本国民の保護並びに利益のために台湾総督府の行政管轄下におかれていた。《法廷証第512号、記録第6、145−46頁》

 1939年8月26日に、在ハノイ仏国代表《ド・タスト》は日本総領事《浦部》に対して、同日午前11時に中国国境方面から飛来した日本水上機二機が仏印領内に爆弾二個を投下して、約三十名の死傷者を出した旨を通告した。日本側は局地解決を要望して、11月17日に賠償金六万二千五百五十ピヤストルを支払った。11月29日に右賠償金の領収が確認されて、本事件はこれで解決したものと見なされた。《法廷証第616号A、記録第6、814−5頁》

 日本が欧州戦争に介入しないならば、フランスは日本に対して妥協政策をとるであろうとの了解に到達するように外交交渉が企てられた。1939年11月30日に、日本外務大臣はフランス大使に対して、フランスが仏印経由物資、資材の補給を許可し、故意に蒋政権に対する援助を継続する限りは、日本との国境調整に対するフランスの要求は不可能であろうと説明した。フランスがかような輸送をやめない限りは、軍事上の必要性はフランス領内の輸送路爆撃をやむを得ないものとした。日本は日本総領事と仏印当局間の交渉のため軍事連絡使節団を派遣することを希望した。《法廷証第616号A、記録第6、801−10頁》

 1939年12月12日に、フランスは蒋への軍需品輸送非難事実を否定した。しかしながらフランス政府は、『海南島占領、新南群諸島の併合、揚子江航行の妨害、占領地域における通商の自由に対する侵害、その他中国におけるフランス権益の蒙った損害のすべて』に関し、会談を開くことについてはなんら反対ではなかった。国境付近における日本の軍事作戦が仏印の政治的均衡を覆すおそれがあったので、フランス政府は右作戦の性質目的並びに期間などにつき説明を要望したのである。

 日本外務大臣は、軍需品の輸送に対する日本側の主張を繰り返し、国境地帯における軍事作戦は日本の対支封鎖の一部として行なわれるもので、それがどのくらい継続されるかは言い得ないと述べた。

 当時の交渉の主眼は、仏印経由の中国への補給物資の輸送ということであった。最初当事者間には著しい意見の相違があった。《法廷証第616号A、記録第6、810−3頁》

 1940年2月5日にフランス大使は、最近の雲南鉄道に対する爆撃について講義をして、フランスの財産に対する損害並びにフランス人殺害の責を問うたのである。これに対して日本は、同鉄道爆撃の軍事上の必要性について、依然その主張を持したのである。日本は、対蒋援助を実際に中止すればそれで満足であり、この意味のことを公表することを迫らないであろうとのことであった。右の爆撃については、調査すると言われたのである。《法廷証第618号A、記録第6、857−64頁》

 1940年2月10日に中国南方海岸沖のフランス領海南島が、日本上陸部隊の占領するところとなった。英、米、仏各国大使は、右の行動に関して日本政府に抗議をした。《東京ガセット、法廷証第613号、記録第6、733頁》

 2月20日に日本側は、同月初旬の雲南の列車爆撃は飛行の悪条件並びに視界が充分にきかなかったために起こった偶然の出来事であると説明した。日本はフランス(←正誤表によると「フランス」は誤りで「『フランス」が正しい)国民に対し相当額の弔意金』を支払う用意があった。《法廷証第618号A、記録第6、864頁》

 1940年中旬(←正誤表によると「1940年中旬」は誤りで「1940年3月中旬」が正しい)に日本は、交渉進行中は、フランスは蒋への武器、ガソリン、トラックの輸送を停止し、その間日本もまた武力行使を差し控えることを提案した。フランスは一ヶ月の期間を限って賛意を表したのであるが、日本はこの態度にあきたらず、それによってそれ以上の交渉は不可能であると感じたのである。《法廷証第618号A、記録第6、848−9頁》

 欧州ではドイツの対仏進撃は急であって、フランス政府は本邦商社に対して、航空機並びに多量の軍需品の供給を求めてきたのである。日本は『フランスが日仏間諸懸案、殊に仏印経由蒋向け物資輸送停止方に関する日本側要求を容れるならば、』喜んでフランスのこれらの要求に副う意思があることを表明した。《法廷証第618号A、記録第6、853頁》1940年6月4日に日本は右の問題についていま一度強硬な抗議をした。6月12日に日本の中国派遣軍当局は、このフランスの対蒋介石援助は看過し得ないものである旨発表した。《法廷証第615号A》

 1940年6月17日に、フランスはドイツから休戦条件を求めた。

 1940年6月19日に、日本はフランスに対して、もはやこれ以上蒋向け物資輸送の継続を看過し得ない旨通告した。《法廷証第618号A》

 木戸はその1940年6月19日の日記に、仏印問題に関する《6月18日》四相会議で当方の要求をなし、それに対する回答をまって、その上で武力行使の問題を決定することに決した旨を述べている。イタリアとドイツに対しては、日本が仏印に対して経済上、政治上の開心(←正誤表によると「開心」は誤りで「関心」が正しい)をもっておること、また『英国と米国には独伊の回答をまった処置する』ことを通知してあった。《法廷証第619号、記録第6、824−5頁》

 仏印の地方当局は、6月19日に物資の輸送につき再び警告されて、問題を現地で調査するための監査官派遣の許可をまた要請された。《法廷証第615号A》

 1940年6月19日、在東京ドイツ大使は、在ベルリン日本大使がフランス休戦について日本の祝意を表し、そしてその機会に日本の仏印での行動の自由を認める旨のドイツの宣言を迫るように訓令を受けたことを電報した。『・・・・もしも日本の要求について考慮しようとするつもりならば、日本を決定的にドイツの線に沿わせるような方式が見出されなければならない。この件について、戦略的に重要な雲南鉄道占領の意図が拡められていることを軍部側から秘かに聞かされたとオットは言っている。』《法廷証第520号、記録第6、162−5頁》

 1940年6月20日に、フランス大使はガソリン、トラックといったような品目の輸送は6月17日以来禁止されていたが、日本側からの強硬な抗議に鑑みて右の禁止品目は拡大され、さらに広範囲の物資、資材をも含めることとなったと述べた。日本調査員の派遣については、なんら反対はないと言った。《法廷証第615号A、記録第618号A》西原少将を団長とする軍事使節団が、右の了解事項が遵守されるために派遣された。《法廷証第615号A、同右》

 仏印国境閉鎖を強制するため、6月22日に日本は軍事専門委員会に関して、左の三条件を申し入れた。30名からなる委員団並びにその他後ほど内地あるいは中国から派遣されるであろうすべての人員に対して、簡易入国並びに必要な一切の便宜供与方、(2)右の一行の先発隊として中国から派遣される7名に対して、同様待遇の供与方、(3)輸送を禁止すべき物資の日本側品目決定まで全面的閉鎖をなすこと、フランスは以上を承認した。《法廷証第618号A》

 6月29日に西原少将以下40名の監視団がハノイに到着した。《法廷証第618号A、記録第6、853頁》

 1940年7月7日に、仏印当局は向こう一ヶ月間、中国からの物資輸入を禁止することを容認した。《法廷証第618号A、記録第6、852頁》

 1940年7月10日に、蘭印並びに仏印に関して、未だドイツから何も確かな態度が示されていないと、ベルリンから有田に対して報告があった。《法廷証第1、020号、記録第9、695頁》

 1940年7月12日に、三国協定草案検討のため、外務、陸軍、海軍の三省間に会議が開かれた。外務省のスポークスマンは左の通り述べた。『本案の目的は、日本はこれらの地域について領土的野心を有しない。しかしこれらの地方においての経済的の自由は、もちろん政治的指導権を確立しようとするのが目的である。』諸島嶼に対するドイツの優位を阻止するために、『日本の対仏印、蘭印政策は急速であることを要す。・・・・かつ日本としては、仏印、蘭印を欧州勢力から速やかに切り離すことに努力するを要する。』《法廷証第527号、記録第6、191−6211頁》

 『仏印各地へ派遣された西原団の監視員からの報告によるも、輸送禁止は事実励行されていた』『わが監視員用無線電信機の設置及び海防、海口間海底電線敷設』などによって、フランス当局からの協力的態度は示されている。日本政府は仏印と政治、軍事、経済協定を締結することに決した。交渉は左のような目的を念頭において行なわれるというのであった。『フランスは東亜新秩序建設について帝国と協力すべく、特に差し当たり対支作戦のため派遣されるべき日本軍隊の仏印通過及び仏印内で飛行場の使用《これに伴う地上警備兵力の駐屯を含む》を認め、右の日本軍隊用武器弾薬その他の物資輸送に必要な各種便宜を供与する』これに対して『日本は、仏印の領土保全を尊重する。』《法廷証第620号、記録第6、875−95頁》

 8月1日に、これらの日本側要望事項に関して通告を受けた仏国大使は、フランスがこれを許容することは対支宣戦の布告をなすに等しいであろうと回答した。日本側の対仏印要求はだんだん大きくなるので、フランスが現在の要求に応ずればどのような新たな要求が出てくるか、それを予見することは不可能であった。フランス大使は遂に覚書を交換し、かつ日本側要求を本国政府に伝えることに同意したのである。《法廷証第620号、記録第6、875−95頁》

 ドイツ大使は、8月15日にフランス大使は日本側条件の基礎的受諾から離れて、フランスがその要求を考慮し得る前に、一切の領土権の放棄に関する日本の保障を求めたとベルリンに報告した。日本外務大臣はドイツに、日本を支持するためにフランス政府を動かすように希望した。《法廷証第647号、記録第6295頁》

 8月15日に、松岡《日本外務大臣》とアンリー《フランス大使》との会談において、日本は『その要求が仏印の領土を侵略しようとするような意図に基づくものではない』次第を述べた。その要求は、『「対中国作戦のため」と明記してあり、それ以上にフランス領土尊重の保証は、日本にとって必要ないと思われた。松岡はさらに、日本側の軍事的要求は急を要するものであるから、交渉を打ち切って、そして必要な軍事行動をとるのほかないようになるかもはかられない旨ほのめかした。』《法廷証第620号、記録第6、910−3頁》

 8月20日に、第二次公文交換が行なわれた。

 8月20日の夜、第三次公文交換がフランス大使と大橋次官との会合において行なわれた。日本は、フランスが軍隊の通過その他に関する一般原則の容認を拒否したことに対して、再度の抗議をなした。フランスは地帯を東京州の国境線に限定した。双方互いに解決を遷延したことを非難し合ったが、日本は、『フランスがこの上「本件の」解決を遷延するならば、もし不測の事件が仏印で起こっても、その責任はフランス側にある』と開陳した。《法廷証第620号、記録第6、919−9頁》(←「6、919−9」というのはおかしいと思うが、英文もこうなっている)

 8月21日夜、欧亜局長は大使に対して、日本はその軍事計画を明かすことを強いられてはいないけれども、解決を促進するために、特定の要求事項を非公式に概説することに決定したと述べた。日本はハノイ、フランチョン及びフトウ付辺の三ヶ所の飛行場を欲した。警備兵、補給隊員、空軍要員は五千から六千名に達するであろう。対中国作戦の必要に応じて、通過経路はハイフォン、ハノイ、ラオカイの線並びにハノイ、ランゾンの線に沿う地帯であろう。ここでの日本兵力は、右に述べた空軍人員に追加されるものであろう。帝国海軍艦船はハイフォンに入港する。通信設備は右の日本軍に伴うであろう。彼は遅滞または修正なき承認を要求した。《法廷証第620号、記録第6、920−1頁》

 8月25日の公文案交換に際して、フランス大使は日本の軍事的要求に関して、公翰をもって特定の協約をなすことについては乗り気せず、本国政府からの訓令を待つ時間を求めた。《法廷証第620号、記録第6、921−2頁》

 8月30日付日本の公式覚書に、『仏国政府は極東の経済的及び政治的分野における日本国の優越的利益を認める。

 『よってフランス政府は、日本政府は日本国が極東におけるフランスの権利及び利益、特に仏印の領土保全並びに仏印連邦全部に対するフランスの主権を尊重する意志を有する旨の保障をフランス政府に与えられることを期待するものである』という8月30日付のフランスからの書簡を引用している。

 仏国は、経済的には仏印での日本の商業上の地位を第三国のものより優位に置くように商議するであろう。

 日本が要求する軍事上の特殊の使節については、フランスは、右は単に中国における紛争の期間だけのことで、また中国に隣接する仏印の州に局限されるものであると了解する。このような条件の下に、フランスは日本の訓令がフランス官憲の権限を制限しないかぎり在仏印同国軍司令官に対し日本軍司令官と軍事的諸問題処理を命ずる用意があった。その施設は戦略上の必要なものに限られ、占領の性質のものでないであろう。仏印領土での日本軍もしくは日華間の交戦から蒙る損害に対しては、賠償されることが期待されていた。

 日本はフランスの申出を受諾し、交渉が遅滞なく開始され、かつ『フランス政府は自今本目的に副うように仏印官憲に対して所要の訓令を発すること』を希望した。《法廷証第620号、記録第6939頁》

 8月30日に松岡はフランス大使に対して、二ヶ月の交渉の結果に基づいてとられた措置に関して伝達した。監視委員長としてすでに仏印にある西原少将は、最高指揮官代表に指名され、両職を兼任することとなった。彼は、8月21日にフランス大使に提示され、かつ日本の了解するところでは同大使によって8月21日に受諾された日本の軍事的要望を実現するために、現地において交渉を行なうように指令された。この任務は二週間以内に達しなければならない。同大使は仏印総督に対して、『フランスは、日本の軍事的要望は実質的に受諾済みのものであること』を通報するように要請された。《法廷証第620号、記録第6923−5頁》

 8月31日に、西原は総督と交渉を始めようとしたが同人はまだ本国政府から訓令がないのを理由にして、これを拒否した。9月2日に、日本大使はフランスに対して、総督に至急現地交渉を開始するように訓令を発することを慫慂するように指令された。総督はフランスから長文の通報を受けて、9月3日まで交渉を延期したいと要請してきた。『よって同少将は、かねて用意してあった邦人引揚げ及び9月以降兵の駐屯の通告文を総督に手交した。』よって同総督は一時間以内に回答することを約束した。西原は一時右の通告文を撤回した。間もなく総督は、フランスからの訓令は日本がしようと提案したものとは相当相違していると西原に通報して来た。西原はもしその交渉がすでに解決済みと見なされている点の修正をもって始められるものとすれば、短時日の間に結論に達し得ないだとうときめて、『即座に総督に対して、南支派遣日本軍最高指揮官は、彼は9月5日以降仏印内に進軍することに決定したことを申し入れた。』日本総領事はこの事情の通報に接していたので、ハイフォン及びバンコックにある日本船舶二隻を待機させて引揚げ準備をなした。《法廷証第620号、記録第6925−7頁》

 その間東京とフランスでは、フランスの代表者達は、仏印総督に対して日本の要求を受諾方の訓令を発するように慫慂された。東京駐在フランス大使は承諾した。《法廷証第620号、記録第6927−8頁》

 遂に9月4日に、仏印軍司令官と西原少将との間に現地協定の調印ができた。《法廷証第620号、記録第6928頁》

 木戸はその9月9日付日記中に『武官長から、仏印にわが部隊の約一大隊が侵入したため、順調に進行中であった総督との軍事協定の交渉が逆転した旨の報を受く』と記している。

 9月14日付をもって木戸は、松岡が仏印に対して最後通牒を発する意向であると記入している。天皇は木戸に対し、外務大臣の説明と参謀本部の説明とは完全に一致しているとは見えないと述べた。木戸は、天皇が、慎重であるよう注意を与えた上、政府の計画を承認されるよう、進言した。《法廷証第627号、記録第6972−3頁》

 日本もフランスの違った見解を保持して、9月16日には東京駐在フランス大使は、『現地の実情は険悪である。』と知らされた。

 9月19日に、東京においてフランス大使は、『日本軍は9月23日零時を期して、細目協定の成否を問わず、随時東京州進軍を実行するだろう』と通告を受けた。《法廷証第620号、記録第6933頁》

 9月22日になってフランスの態度は急転し、細目協定の調印を見た。《法廷証第620号、記録第6933頁》

 9月22日に西原とマルタンとの間に締結を見たこの協定は、9月4日の協定に基づいて実際の上陸《9月26日の》輸送、駐屯並びに飛行場設備などについて一層細目に扱ったものである。

 1940年6月15日に、日泰両国は友好関係の存続を自認し、相互の領土尊重の条約を締結した。《法廷証第41号、記録第512及び6147頁》

 『タイ国は、9月13日付覚書中に要求されてある国際情勢の急激かつ深刻な動揺並びに変遷に刺激されて、不侵略条約批准交換の条件として、仏印の情勢はもはや常態でないと主張してメコン河国境の修正・・・・を要求した。この要求はルアンプラバン及びバクセ対岸のメコン右岸地域《注、1904年条約によってシャム国からフランスに引き渡す》のタイ国への割譲を意味するものである。その上タイ国は、フランスが仏印に対してその主権を放棄する場合には、カンボヂア並びにラオス領土はこれをタイ国に返還することのフランスの保障を得たい希望を表明した。』《法廷証第618号A、記録第6869頁》

 フランスは、9月19日に仏印の立場にはなんら変化がないし、『仏印の領土保全を変更しようとするどんな要求にも応ずることができない』と回答した。フランスは懸案解決のため、委員会を設置することについては異議がなかった。《法廷証第618号A、記録第6869頁》

 9月28日に、タイ国はメコン河国境の要求を繰り返したが、さしあたり左岸のラオスとカンボチヤに関しては、その要求を『仏印の立場が変更されるべき場合』あるまでこれを留保することとした。《法廷証第618号A、記録第6870頁》

 1940年9月28日付秘密日本外交方針要綱によると、日本は『「仏印において」独立運動蜂起を工作し、フランスの主権を放棄せしむ・・・・』となしていたことが示されている。

 同秘密文書は左の通り述べている。『日泰間に軍事同盟を締結し、泰国を後方基地に用う。ただし実力行動開始までは、先方の準備を遅滞せしむるため、日泰間国交に不安あるがごとく装うを可とす。(もし軍事同盟が泰国国内事情等により厳秘に付し得ずと認めらるる場合は、日泰間不侵略条約に基づき秘密委員会を設け、実力行動開始と同時に軍事同盟関係に入り得るがごとく工作する方法も考慮の余地あり)』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《法廷証第628号、記録第6975−80頁》

 1940年10月4日には、『対南方試案』もまた作成された。《法廷証第628号、記録第11722頁、またGEA参照》

 10月11日にフランス官憲は再度タイ国の要求を拒絶し、フランス、タイ両国間の直接交渉は杜絶したのである。情勢はとみに緊迫して、両国とも国境線に兵力を集結した。『然れども、皇軍により行なわれたる仏印進駐は、その北部地方にとどまり、残余の仏印領土は帝国においてこれが保全を約し、タイ側の予想せし混乱起こらず、その結果タイ国は窮地に立ち、タイ国としては結局日本にすがりその目的達成を図るやむなきに至りたり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 『最初、日本としては、タイがかかる態度に出ずるを好まず』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 『11月5日四相会議において、タイに対し失地恢復斡旋方・・・・並びにタイをして東亜新秩序建設のため政治的、経済的に帝国と協力せしむる・・・・ことに決し、これをタイ側に伝えたり』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《法廷証第618号A、記録第6873頁》

 『10月(←英文を参照すると、「11月」が正しい)21日、第二次四相会議において、タイをして日本側要求を容るるにおいては、直ちにルアンプラバン、バクセ両地域の恢復方、斡旋にのり出すことに決せり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)タイ国は日本側要求を容認した。《法廷証第618号A、記録第6873頁》

 国境線でのいやます緊張は、タイ、仏印両国軍隊の間にしばしば衝突を見る結果となった。日本国外相はフランス大使に対して、日本は本問題に関して仲裁の労をとる意向ある旨を申し入れた。《法廷証第618号、記録第6874頁》

 11月21日に在東京ドイツ大使オットは、本国政府へ、日本はタイ国政府に同国の仏印に対する要求を制限するように慫慂したと打電した。『外務次官は、日本政府がサイゴンへ日本軍艦を派遣する意向なる旨ごく内証に予に告げたり。フランス政府には、この派遣は友好訪問なりと通告するであろう。しかし事実は、泰国に対する示威運動がその目的なり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)アングロサクソン・米国のタイ国に対する外交上の成功は、それに対する『サイゴン占領をもって報いることができ、かつそれによりて償いができる』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)とされた。《法廷証第563号、記録第6444−5頁》

 1940年6月に協定された日本とタイ国間の条約は、1940年12月23日にバンコクで批准を見た。同条約は友好関係、共通の利益問題に関する接触、並びに攻撃者である第三国には無援助であることを規定している。《法廷証第41号、記録第513頁》

 1941年2月1日、木戸は、1月30日の連絡会議は仏印、タイに対する日本の政策の大体の方針が決定されたと記している。『仏印、泰が我が国の居中調停を応諾したるこの機会に、帝国の同方面における指導的地位を確立し、南方施策の準備に資するが本案(←「本案」に傍点あり)の目的にして、海軍はカムラン湾の使用、西貢(サイゴン)付近航空基地の使用等を目標とす。しかし露骨にこれを表わす能わざるゆえ、通商交通の擁護、仏印、泰国紛争防止の保障等の表現をとれるなり。目的達成のため武力行使をなす場合にはさらに御允裁を仰ぐこととなり居れり』《法廷証第1303号、記録第1、1744(←「11、744」が正しい。随分前にも解説したが、この数字の間の「、」は数字に3ケタごとに付する「,」である。つまり「11,744」=「11744」である。「11」と「744」ではない。その結果、別の数字の間の「、」と数字の中の「、」が混在し、なかなか読みづらくなっているところがある)−5頁》

 2月5日に、松岡外相は仏、タイ間の紛争の日本側調停者に任命された。

 フランスとタイ国との平和条約は1941年5月9日に調印されて、タイ国に有利に、メコン河沿線の国境調整、移譲地域での公私財産並びにフランス国民の市民権の調整、非武装地帯の設定、並びに同地帯における警察力の行使などを規定したものである。種々の委員会及び交渉などで、細目手続を完結することになっていた。外交的手段によって解決し得ない紛議の場合、その紛争は『日本国政府の調停に付託されるべきものである』となされた。国境委員会については、『委員長の職責はこれを日本側代表員の一人に委嘱する』とされた。もし必要ならば、非武装地帯に対しては混合委員会集合の規定が設けられ、そして『この委員会の委員長の職能は、日本側代表員の一人にこれを委嘱する』とされた。《法廷証第47号》

 「保証並びに政治的了解」に関する日仏間の議定書は、1941年5月9日に調印された。

 これが実際に起こった事柄である。しかしそれはなんら共同謀議者の政策に基づいて起こったものではない。

 仏印は、確かに中国本土との関係からしてでも、最も重要な戦略的地位を占めている。その北方国境は中国の南方国境に堺し、中国とシャム及びビルマを接合しており、従って、北平、漢口、広東、ハノイ、バンコックとの交通線をつくっている。今われわれの前に提出されている証拠は、仏印経由で中国に対する援助があったという日本の主張を明白に立証している。

 また、確かに合衆国が、『非交戦国間において前例のない程度の経済上、また戦争資材の形式における中国に対する援助をなし、かつその国民中、中国に与して対日戦に加わったものがあった。』

 (英文を参照するとこのカギ括弧は削除するのが正しい→)『合衆国が1939年7月26日、日本に1911年の対日通商条約を破棄する意向があることを通告したと検察側では言っているが、これは正しい。しかしながら対日禁輸は、それより早くからでないとしても、実際には1938年には始まっていたのであり、かつ合衆国はそれより以前でさえ、中国を援助していたのである。

 ハル国務長官によれば、1939年7月26日に米国によってとられた措置は、『同条約の最恵国条款の実施は、日本の通商に対する報復手段の採択に対する障碍となるものである』から、用いられたというのである。《法廷証第2840号》証拠は、日本及び日本の産業に影響を及ぼした西洋列強の諸種の国家主義的経済政策を表わしており、日本をして日本の通商貿易が蒙った影響を打破する処置を講ずるに至らしめたのである。日本と合衆国との条約が、1939年7月26日に廃棄されたので失効になったとき、日本に苛酷な経済的重圧が加えられた。禁輸が有効になったときの品目表並びにその日付を一瞥しただけでも、この措置が日本の民間人の生活にも、どれほどまでの影響を及ぼしたかが明らかになるであろう。疑いもなく、これらの品目の多くは日本の民間人の生活にとって絶対に必要であった。1940年6月28日に、合衆国国務長官は英国大使及び豪州公使と極東情勢に関して会議した。その際ハル長官は、『合衆国は一年間日本に対して経済的圧迫を加えてきた。合衆国艦隊を太平洋に配備し、そして日本問題を安定させるために、実際の軍事的敵対行為の非常な危険を冒さない範囲で、できるだけあらゆる措置を講じている』旨言明したのである。彼はさらに、この方策は将来における合衆国の意図を最もよく表わしていると言った。《法廷証第2809号A》1940年7月2日、1940年7月26日、1940年9月12日、1940年9月25日、1940年9月30日、1940年10月15日、1940年12月10日、1940年12月20日、及び1941年1月10日に、それぞれ輸出禁止を一層苛酷なものとする宣言が発された。

 経済圧迫に困憊(こんぱい)の余り、日本は蘭印に対して、殊に石油に関し、新規の交渉を開始するために、一層の努力を傾けた。蘭印において協議が開始されたのは、小林がバタヴィアに到着した1940年9月12日であった。蘭印との交渉は1941年6月17日まで継続された。その間、アメリカ合衆国はさらに輸出禁止令を発表し、それによって経済圧迫を一段と強化するに至った。

 輸出禁止の結果として日本が採っても無理ではないことと思われた措置がどのようなものであったかは、1941年7月21日、日本大使との会談の際におけるローズヴェルト大統領自身の言葉がこれを充分に示唆していると言えよう。大統領いわく、米国がこれまで日本に対する石油の輸出を許可していたのは、そうしなければ日本政府は蘭印にまで手を延ばすと思われたからである、と。1941年7月25日、ホワイトハウス発行のラジオ公報において、大統領は次のように述べた。すなわち日本に対し石油を送っている目的は、米国の利益、及び英国の防衛、さらにまた海上の自由をり、南太平洋水域における戦争の勃発を避けようとするにある、と。

 かような対日経済制裁こそ、日本をして、後に事実採用するに至ったような措置に出ることを余儀なくさせるであろう、とは米国の政治家、政治学者、並びに陸海軍当局、すべてが意見を等しくしていたところであった。それでは、かような措置の中に、そもそも検察側が主張しているような種類の企図ないし共同謀議を読み取るべきであるという理由がどこに存するのか、本官には見出せない。

 蘭印における日本の行動に関する証拠を検討してみよう。

 検察側は次のように主張している。すなわち日本が仏印進駐を計画しつつあった時とほとんど時を同じくして、南洋諸地方における日本の企図が、蘭印及びニューギニヤに関して明らかになりつつあった。蘭印において、日本は間諜団及び全般的地下活動団の手広い組織をすでに確立しており、なおさらに拡張しつつあった。検察側はいわく、同期間における共同謀議者らの諸言明に徴すれば、1934年ないし1940年初期の南洋諸地方におけるこれらの出来事が、中国との紛争に起因する単独の事件ではなく、より広範な意義を有するもので、日本の拡張という遠大な筋書中の計画的措置であったことは明白であると。まず手初めに、検察側がこの点に関して立証したと主張するところを検討してみよう。検察側は次の諸点を主張している。

  1、1940年5月ないし6月欧州における戦争の熾烈化に伴い、共同謀議者らは、中国以南の地域に対するその計画を推し進めようとして、当時の事態を最高度に利用した。

   (a)1940年2月、日本はオランダに対して経済上の要求一覧を提出したが、もしオランダがこれを受諾したならば、日本は、蘭印の経済生活全般にわたって優先的地位を確保することができた。《法廷証第3109−A号、法廷記録第11、780頁》

   (b)未だ欧州戦乱がオランダに波及していなかった1940年4月、有田外務大臣は次のように公表した。すなわち、日本は南洋諸島方、なかんずく蘭印と経済的に緊密な関係にあり、欧州戦乱がオランダに波及して、蘭印がその影響を受けるに至るならば、共栄共存の維持増進に支障を来たすであろう、と。《法廷証第1284号、法廷記録第11、672−73頁》

   (c)日本は他の関係諸国に対しては、蘭印の「現状(←「現状」に小さい丸で傍点あり)」になんらの変更を来たさない、旨確言していたにもかかわらず、《法廷証第1、285号、法廷記録第11、675頁》、一方、ベルリン駐箚日本大使は、この問題に関して、ドイツの発言を求めていた。そして1940年5月22日、ドイツは蘭印には無関心である旨、日本に対し通知して来た。《法廷証第517号、法廷記録第6、157−58頁、法廷証第518号、法廷記録第6、159号、法廷証第159号、法廷記録第6、161頁》

   (d)かように確かめ終わると、共同謀議者らは、まずその注意を仏印に向けた。

    (1)1940年6月18日、四相会議において次のような決定がなされた。すなわち仏印に対して、援蒋行為の中止を要請し、フランスにおいて不承諾の場合には武力を行使する、と。《法廷証第619号、法廷記録第6、824頁》

    (2)その翌日、日本はドイツに対して、日本が仏印において自由行動を許されるような声明の発表を依頼した。《法廷証第520号、法廷記録第6、162頁》

   (e)日本が蘭印、仏印、双方に対して大きな利害関係をもち、かつなんらか計画するところがあった事実が1940年6月24日、ドイツに対して明示された。

    (1)小磯いわく、仏印並びに蘭印における日本の植民地(獲得)の希望の実現は、日本を経済的にアメリカから独立させ、かつ来たるべき近衛内閣に中国事変の解決に対して成功すべき出発を与える(←正誤表によると「出発を与える」は誤りで「出発点を与える」が正しい)ものであろう、と。《法廷証第523号、法廷記録第6、175−76頁》

   (f)1940年7月1日、日本は、太平洋における「現状(←「「現状」に小さい丸で傍点あり)」維持、及び武力行使による変更の防止を目的とする協定を日米間に締結することを拒絶した。かようにして日本の目前の計画をめぐる半信半疑はすべて消散するに至った。《法廷証第1、092号、法廷記録第11、702頁、法廷証第1、293号、法廷記録第11、706−7頁、法廷証第1、296号、法廷記録第11、712頁》

  2、第二次近衛内閣出現とともに、日本はドイツとの直接提携をその枢軸政策とすることに態度を決定しただけでなく、南進政策を押し通そうとするはっきりした決意を示した。

   (a)1940年7月26日の閣議決定中において、

    (1)皇国の国是の根本を次のように定義した。すなわち八紘一宇の精神に則り、その第一歩として、大東亜に、日本、満州及び中国を根幹とする新秩序を建設することによって世界平和を確立することであると。

    (2)日本、満州、及び中国という三ヶ国を一環として、大東亜を包容する皇国の自給自足経済政策の確立が唱道された。

    (3)完全に軍国主義化された全体主義国家の確立を目指す完全な計画が立てられた。《法廷証第541号、法廷記録第6、271頁》

   (b)1940年7月27日の連絡会議においては、ドイツ、イタリー、ソヴィエット連邦及び米国に対する政策が採用されたほか、次の諸点の決定を見た。すなわち、第三国と開戦に至らない限度において南方問題を解決し、かつ重要物資の取得のために、対蘭印外交を強化する、と。《法廷証第1、310号、法廷記録第11、794−95頁》

   (c)当時における日本の外交方針は、日満華をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図るにあった。 《法廷証第1、297号、法廷記録第11、716頁》

   (d)この政策は、対南洋計画の遂行のために、結局のところ、武力行使を伴うものであった。

    (1)このことは、1940年8月10日における伏見宮の言明に徴しても明らかである。《法廷証第1、298号、法廷記録第11、718頁》

    (2)右は日本が戦争準備完了の暁には、その目的を貫遂するために、戦争に訴えるであろうということを明らかに示唆するものであった。

  3、(a)新国策は、日本が蘭印に対して提出しようとする経済的要求の決定に、直ちに反映するところとなった。

     (1)1940年7月16日日本は外交及び陸海軍専門家から成る代表団を、経済交渉のため蘭印に派遣する予定である旨をオランダに通告した。最初小磯が首席代表として指名されていたが、後、小林がこれに代わることとなった。《法廷証第1309−A号、法廷記録第11、796−97頁》

    (b)新政策は、フランス及び仏印に対する要求にもまた直ちに反映した。

     (1)1940年8月1日、松岡はフランス大使に対して次のような日本側の提案を伝えた。すなわち、仏印は帝国の東亜新秩序建設及び中国事変処理促進のために政治的、軍事的並びに経済的に協力されたい、と。

     (2)政治的並びに軍事的な協力の要請とは、日本軍隊の仏印通過の権利、日本軍隊の飛行場の使用、在仏印日本軍隊用武器、弾薬その他の物資輸送に必要な各種施設の使用、であった。《法廷証第620号、法廷記録第6、886−87頁》

     (3)フランスが孤立状態にあると悟った日本は、この機を捉えようと決心した。交渉が未だ継続中であったにもかかわらず、日本軍隊は1940年9月22日仏印国境を越えた。その翌日、フランスは日本の威圧に屈し、最終的取極めが署名された。《法廷証第620号、法廷記録第6、830頁。法廷証第3、865号、法廷記録第38、584−85頁。法廷証第3、851号。法廷記録第38、581−82頁》

     (4)9月23日、軍隊が移動を開始する以前において、共同謀議者らはすでにその真の目的を正式に決定していた。すでに9月4日の閣議決定及び9月19日の連絡会議決定がなされた後であった。《法廷証第541号、法廷記録第5、314−5頁》

  4、軍隊移動の直後、1940年9月28日、帝国外交方針として、次のように決定された。すなわち、日本、満州及び中国を中心としフィリッピンを含めた一定の地域は、政治、経済、文化の結合地帯を構成するものとする、と。

   (a)1940年10月4日には、南方に関するかなり詳細な案ができ上がったが、これは日本の侵略計画の全貌を明示したものであった。《法廷証第628号、法廷記録第6、976頁》

   (b)以上は法廷証第628号の立証するところである。

    (1)弁護側証人佐藤はこの文書の確実性を攻撃した。

    (2)検察側は次のように申し立てた。すなわち政府の一省内で発見され明らかに公文書である計画書が存在し、かつその後の諸事件が同計画の筋書通りの道をたどったことがすでに立証されている場合においては、これはその計画が実際に採用され、それに準じて行動が起こされたのであるという、ほとんど決定的な推断に導くものである、と。

  5、そうするうちに、日本は明らかに南方における軍事行動の準備の強化に着手していた。日本がまず最初に打とうとした手は、泰国を英国から切り離し、日本の勢力圏内に引き入れようと試みるにあった。

   (a)1940年11月5日の四相会議において次のような決定がなされた。すなわち泰国の失地回復を援助し、かつ泰国をして、政治的及び経済的に、新秩序確立に協力させる、と。

   (b)かような軍事上の動機が真の刺激となって、行動が起こされたのであった。これは、1941年1月30日の連絡会議決定中において明らかにされた。

   (c)同会議は次のような決定に達した。すなわちこの案の目的とするところは、仏印及び泰において日本の指導的地位を確立するにある、と。 《法廷証第1、303号、法廷記録第11、744−45頁》

  6、日本が仏印に対して圧迫を加え、かつ南洋方面に対して最初の軍事行動を起こしつつあったとき、他の西洋列強は、愕然として警戒の念をもって事態を観察していた。

   (a)中国並びに東亜及び南方の諸地域に対する侵略をもってする日本のやり口に対して、たびたび機を得た警告を与えたにもかかわらず、日本がその侵略行為を継続したばかりか、さらにその度を増すに及んで、米国はある種の予防手段を採った。すなわち、

    (1)1911年に締結された日米通商航海条約に関して、米国は1939年7月26日付の通牒をもって、その廃棄を告げ、1940年1月26日、同条約が無効となるに任せた。その理由は、その条約が、日本においても、はたまた中国の被占領地域においても、米国の通商を保護するだけの力がなく、あまつさえ、日本の通商に対して、報復手段を採用しようとする際に障碍となるものである、というのにあった。《法廷証第944号、法廷記録第9、602頁》

    (2)これに加えて米国は、戦争遂行の必要上欠くことのできない重要物資である航空用ガソリン、石油精製機械及びある種の金属の輸出を禁止した。《法廷証第1、007号、法廷記録第9、635頁、法廷記録第10、736頁》

  7、1941年当初に至って、事態は次のような段階にまで発展した。すなわち共同謀議者らは、その目的であるアジア側太平洋海域の覇権の掌握という事業をいよいよ成就し、かつ本計画に対して英国及び米国のもたらす支障を一掃しようと意を決したのであった。

   (a)この達成のために、共同謀議者らは二面政策を用いた。すなわち、

    (1)一方において彼らは、ある特定の懸案に関して、ある種の提案に準拠して、英国及び米国と交渉しようとした。そしてこの提案とは、それが受諾された暁には、日本がアジア側太平洋海域を支配して、英国及び米国は日本の割り当てる地位に雌伏すべき種類のものであった。

    (2)他方において、彼らは、この両国に対して、同様の目的でかつ同様の結果をもたらすように、積極的に戦争準備を進めようとした。

   (b)以上の二つの政策は、同時に、並行して遂行されつつあった。

   (c)交渉は最初から不可能視されていたのであって、実際に行なわれつつあった積極的な戦争準備をうまく擬装し、それによって英米に安全感を(←正誤表によると「英米に安全感を」は誤りで「英米に誤った安全感を」が正しい)与えようとするものと見なされていたにすぎなかった。

    (1)交渉は戦争準備の不可欠な一部であった。

   (d)共同謀議の諸目的を達成するために、英国及び米国と干戈を交えようとする料簡は、満更1941年所期に始まったことではなかった。

    (1)すでに1936年6月30日、広田首相の時代において、外務、海軍、陸軍、及び大蔵の諸大臣は、外交と国防が相まって、アジア大陸での帝国の地歩を確保すべき国策を立案したが、同案は、侵略計画の全貌及びそれを達成する方法を概括的に述べたものであった。

    (2)同案にいわく、日本は英米に備えなければならない、かつ海軍軍備は米国に対して西太平洋の制海権を確保することができる程度にまでこれを充実すべきである、と。《法廷証第977号、法廷記録第9、542−6頁、法廷証第979号、法廷記録第9、550−3頁》

    (3)三国同盟条約の批准を審議した1940年9月26日の枢密院会議の席上において、対米戦の起こり得る可能性の問題、及びそれに対する日本の覚悟についての問題がとりげられた(←正誤表によると「とりげられた」は誤りで「とり上げられた」が正しい)

  8、1941年2月上旬、日本は英米両国に対して同時に会談を開始した。その表面上の目的は、東亜問題をめぐる日本の立場を明らかにするにあった。

   (a)対英会談は、単に問題の範囲を限定する用を果たしたにすぎなかった。

   (b)わずか一ヶ月足らずのこれらの会談によって、日、英、米三国間の主要な懸案がきわめて明らかになった。

   (c)外交的措辞でぼかされてはいたが、問題は次のようなものであった。(1)はたして英国及び米国は、中国、仏印、及び泰における日本のすべての行動の基準となっているところの方針を是とするものであろうか。そして(2)はたして日本は、三国同盟条約に対する義務であると称するものにかこつけて、東亜における英米諸領域にまでその手を延ばすであろうか。

   (d)対英交渉は、単に諸問題を持ち出して、係争点を明らかにするに役立ったにすぎなかった。

   (e)解決点がもしあったとしても、その解決は対米交渉において議するように持ち越されることとなった。

  9、1941年における日米交渉は、まず野村提督を駐米日本大使として任命することによって開始された。

  10、(a)1941年7月以降においては、これ以上南進を続けようという決意を実現するためには、実際に武力を行使する以外に途がないことは明らかであった。

     (b)1941年9月6日の御前会議は次のような決定に達した。すなわち、急迫した情勢に鑑み、南方における地歩を強化しないという英米の保証に対する日本の要求が万一容れられない場合においては、日本はその南方に対する施策を遂行するために、十月半ばまでに米、英、蘭に対する開戦を決意する必要がある。

     (c)蘭印で使用されるべき軍票の印刷は、すでに1941年1月において発令され、同年3月には第一回目の納付が行なわれた。

     (d)1941年10月、東条内閣が第三次近衛内閣に代わると戦備は一段と強化された。

     (e)(1)1941年11月5日の御前会議においては、11月25日以後のある時期に戦端を開くことに決定されたほか、蘭印に対しては新規の交渉を開始して、それによって日本の企図する同地攻撃を秘匿し欺瞞する資としようという計画が樹てられた。《法廷証第878号、第1、169号、第1、176号、第877号、第1、313号》

       (2)1941年12月1日の御前会議においては、米、英、蘭に対する宣戦布告に関する最後的決定がなされた。《法廷証第588号、第1、214号》

       (3)1941年12月8日、日本は米国及び英国に対して攻撃を加えて、その後、両国に対する宣戦を布告した。オランダに対しては日本は正式に宣戦を布告しなかったし、また敢えて布告しようとも考えていなかった。何となれば、かような措置は作戦上不利と見られたからである。《法廷証第1、241号、第1、332号、第1、338−B号》

     (f)オランダ政府は、真珠湾及びシンガポールに対する攻撃が、蘭印軍事占領の序幕にすぎなかったことを信じて疑わなかった。ゆえに、オランダ政府は戦闘状態の存在を認め、日本に対し、正式に宣戦を布告した。

 程なく、日米交渉の問題をとり上げ、その交渉に際しての日本の態度がはたしてどの程度まで日本側の不誠実ないし欺瞞を示しているか、そして、これを示すものとして、どの程度まで本件において訴追中の共同謀議を示すものであるか、検討するであろう。

 しかしその前に、蘭印に対する日本の行動に関して提出された証拠が示すところは何であるかを調べてみよう。

 本件のこの部分について立証するために、膨大な量の証拠書類が提出された。この特定の方面において主張されたいくつかの事項を支持するために提出された証拠を各項別に本官はすでに以上に示した。

 この浩瀚な証拠はあるいは蘭印に対する日本のその後の企図を示すものであるかもしれないが、全般的な共同謀議と称せられるもの、もしくは熟慮の上なされた画策の裏づけとなるものでは少しもない。

 右の立証段階における証拠は、実際において1938年5月以降の時期に関するものである。それに先立つ時期に関する証拠は、ただ法廷証1326号−C及び1307号−Aの中に見出されるものだけである。右の二通の文書は1935年にまで遡っての事情を述べたものである。

 法廷証第1326号−Cは、いわゆる『蘭領印度における日本の破壊的活動についての蘭領印度政府広報』というものの抜粋である。この公報は法廷識別番号第1326号となっている。

 問題の右の抜粋は、1935年3月15日付の『南洋興発株式会社』という会社の社長からモミ事務所の小杉方也(←「方也」に「ミチナリ」と振り仮名あり)氏にあてた手紙であると称せられるものである。件名は「蘭領ニューギニヤ石油会社設立ニ関スル件」となっている。この手紙はいずれも2月14日付で、軍令部及びバタビヤ総領事から蘭領における企業開始についての情報を手交する趣旨のものであり、そこには次のように述べられている。『当社ニオイテモ』若干の地方に『試掘ノ請願ヲ試ミタシ』と。右の手紙にはなお蘭領鉱業法の充分な深い研究を要するとなし、この受信人に対して将来に対する用意をなすことを要請している。その際には次のことが予想されていた。すなわち、オランダ側は右の請願を喜ばない事情のあること、従って右の受信人においてその旨を含んで置くこと、並びに特定地方に関し『隠密に』研究を進めることを要することがこれであった。《法廷証第1、326号−C、記録11、905号》

 第二の書証《法廷証第1307−A号》は、法廷証第1307号の抜粋であり、『昭和十年外務省公表集第14輯』であると言われている。それは日蘭間常設調停委員会の成立に関するものである。日蘭司法的解決、仲裁裁判及び調停条約第12条に従い、その成立は昭和10年10月31日に発表された。

 この第二の書証には暗々裡の邪悪性さえ含んでいない。第一の書証は「極秘」裡に行なうべき調査に言及していることは疑うまでもない。

 本官には、これらの書証の開示する事項に謀議の片鱗さえ認められない。暗示された「極秘」という語さえ、各別、邪悪を示唆するものではない。いわゆる国際社会のいずれの強国も、自国の行動が外国の資源に対して、同様の関心を示していないと主張することは、おそらくできないであろう。日本は自己の物的資源の皆無な国家であった。日本が発展の途上に立ったのは、あたかも『西洋の社会が、地球上の住むことのできる諸地域及び航行のできる諸海洋、現に生存する人類のすべての世代を包括し尽くした』時代であった。

 日本はこの点で西洋諸国を見習ったが、不幸にして日本が手を染めた時代には、彼らの能力に対する『自由行動』と全世界的分野という二つの不可欠な資産がもはや日本には手に入らない時代であった。われわれの考慮している時期を通じての日本の思考と行動とに対する責任は、実は日本を西洋化の流れに投じ、しかもその流れの向かう目標が、西洋諸国民自身さえ皆目不明であった時代に、その挙に出た初代の日本の元老に帰すべきである。

 なるほど日本はオランダの未開発資源を虎視眈々として狙っていたのかもしれないのではあるが、いずれにせよ、先に引用された証拠は、日本の侵略的企図を示すものではないのである。しかし、たといそうであったとしても、われわれはそれが、日本がある政治的勢力に対して故意に攻撃を加えようとする意図を含んでいると解釈する必要はないのである。西洋諸国が逐次その産業及び商業の拡張を企図しつつあったとき、その実行に際しては、各国は『口にこそ出しては言わなかったが、他国からのある最小限度の政治的な分別や好意のある温和な態度を期待することができた。』現在これらの分野に西洋諸国が確固とした地盤を築き上げているにしても、新たに進出を企図する国が、これらの先進国と同様の期待を抱く可能性がないとすることはできない。西洋諸国の場合においては、その期待は裏切られなかったのである。

 1938年5月以降に起こった出来事に関する証拠は、情勢の推移を示し、逐次起こった事柄を説明するものにすぎないのである。本官自身の立場をもってしても、これらの出来事をあらかじめ企図されもしくは共同謀議されたものとはなし得ないのである。

 ローズヴェルト自身を初めとして、米国の為政者、政治家及び軍当局において、米国の対日措置がもたらすであろう結果について、どのように観察していたかという点は、本官のすでに言及したところである。日本の蘭印における行動を正しく評価するためには、われわれは右の期間における米国の対日措置を見逃してはならないのである。これらの措置はあるいは日本の行動を正当化するものではないかもしれない。しかしながらわれわれの当面の目的のためには、いわゆる共同謀議的な企図を除いて、どのように出来事を説明するかということだけが肝心である。

 本官はこの証拠から全面的な共同謀議を推論することができるとはどうしても得心し得ないのである。

 右の証拠はむしろ情勢の推移を示すものである。終局的に起こった太平洋戦争については、日本は初めから何んらこれを企図していなかったことが明瞭に示されている。その政策を定め、準備を整えるにあたって、日本はもとよりかような戦争が万一にも起こる可能性のあるべきことを無視し得なかったのである。しかしながら、日本がこの終局における衝突を常に回避しようとしていたことについては明白な証拠が存する。

 検察側によって主張されたような共同謀議については、今やその最終的な段階だけが残っている。

 右に関連して検討されるべき主要事項は、真珠湾攻撃に先だって、日本が日米交渉に関してどのような態度をとったかという点である。

 検察側の主張は左の通りである。―――

  1、米国との会談の期間中に、かつて一歩でも譲歩をしようという意思が共同謀議者側に見られなかったこと。

   (a)侵略行為の諸計画のもとにおける適当な時期の到来まで会談は延引され、かつその時期が来ると、会談を打ち切ったこと。

    (1)この問題は外交官の手から取り去られ、即時行動に入るため軍の手に委ねられた。

   (b)全体の事柄が熟慮した計画であり、また冷静な打算であったこと、

    (1)1937年、陸軍省は1941年末までにとるべき軍事行動の完璧な準備を目指して、その基本的計画を設定したこと、

    (2)米国との交渉が打ち切られ、そして真の最後通牒が決定されたのは1941年末であったこと、

    (3)かような状況をもたらしたのは、なんら米国当局者らのとった態度によるものでなく、戦端開始の計画を実行に移す期日が到来したからであること、

   (c)事実の真相は、日本の政策は終始一貫不動であったこと、

    (1)この間の事情は日本海軍の前提督であり、前外務大臣である野村大使が、日米交渉は、同人をして、同人を信頼し尊敬する国民中にあって偽善者の生活を送らせていると、公文中に苦情を述べたことによって充分に証明されていること、

    (2)ただの一項目についてでも基本的な変更または譲歩がかつてされなかったこと、

    (3)日本はかつて三国同盟条約を修正しようと意図したこともなく、また日本の目的完遂まで中国から撤兵しようと意図したこともなく、またどのような時期においても、米国または米国以外の国をして、極東において商業上の機会均等を獲得させようとかつて意図したこともないこと、

  2、その後の事件に鑑み、過去に遡って考えるとき、事実日本はその出来心に任せて占領または征服する権利の承認を米国より得ようと志したか、または米国並びに英国をして安全感をもつように持ちかけ、その間に時刻は秘密裡に準備をし、さらに侵略的行動をとるに最も有利な時期を決定しようとしたものであると結論しても不当でないこと、

  3、(a)米国並びに英連邦は、重要な問題は単に現存条約の諸規定全部を遵守することによって解決され得るとの立場をとったこと、

    (b)米国並びに英国は、条約上の諸権利に対する日本の主張は、同時に同条約の要求する義務を遂行する同程度の責任を日本に課するものであると主張したこと、

    (c)一方において日本は、条約に基づく権利を遥かに超えた権利を主張し、そして条約の課する義務を認めることをまったく拒否したこと、

    (d)日米交渉中、米国または英国が条約上のその義務を果たしていないという主張はかつてされなかったこと。

 検察側による日米交渉の全経緯に関する最終論告の要約は以下のようである。すなわち、

  1、日米間の交渉は、日本の駐米新大使野村海軍大将の任命をもって始まった。

   (a)当時松岡を外相とし、東条を陸相とし、及川を海相とした第二次近衛内閣が政務を執っていた。

  2、(a)1941年1月22日、野村大使に訓令するにあたって、松岡は、日本が米国の欧州戦争参加を防止するという重大な決意を固めた旨を強調した。松岡は野村に訓令し、日本のこの態度を米大統領並びに国務長官に対して明らかにし、これによって米国の参戦を予防することを期するように命じた。《法廷証第1、008号、法廷記録第9、643頁ないし第9、650頁》松岡はさらに進んで、交渉を行なうにあたっては、以下の諸点を銘記するように大使に訓令した。すなわち、

     (1)日本の国策を相当思い切って変更するのでなければ、米国との了解をつけ、それによって太平洋上の平和を確保することは所詮不可能である。

     (2)このままに推移すれば、あるいは遂に米国の欧州参戦もしくは対日開戦を見るようにならないとも限らない。

     (3)日米間に了解の途がないとしたならば、日本は英米以外の国と連繋協力して米国の対日開戦または欧州参戦を予防しなければならず、また従って日本は独伊と同盟を締結しなければならなかった。

    (b)野村大使は、日本のこの態度をローズヴェルト大統領並びにハル国務長官に徹底させ、かつ、以下の諸点を大統領、国務長官に明らかにするように訓令を受けた。すなわち、

     (1)日本は三国同盟に忠実である。しかしながら日本が重大な決意をするにあたっては、きわめて慎重な閣議が開かれるであろう。

     (2)現在日本の中国における行動は、不当、不正もしくは侵略と見えるであろうが、これは一時の現象であって、日本は終局において必ず日華平等互恵の条約を締結するであろう。

     (3)大東亜共栄圏は八紘一宇の理念に基づいて樹立されるであろうし、そして日本の欲するところは国際的隣保互助の天地を造り出すにある。

     (4)かような理想はしばらくおき、現実卑近の問題としても、日本は大東亜に自給自足の道を講ずるの必要に迫られており、これは不正、不当と称し得ないものである。

     (5)この政策を執るに当たり、日本は外国人排斥の意図はない。

    (c)野村大使に対する訓令中、松岡外相は、日本は大東亜共栄圏樹立の計画を促進する意図があり、日米相互間の了解も一にこの基礎に基づいて初めて到達し得るものであると強調している。

    (d)1941年2月7日、松岡は重ねて野村に訓電を送り、米国に対し進んで戦争しようと考える者は日本に一人もなく、かりに米国から働きかけ、日本に対し開戦し、日本を敗北させても、日本は屈服したままではいないであろうという点を表明せよと要請した。かような戦争は日米両国を破滅させるであろうし、またアジアを赤化するであろう。ゆえに日本は何ゆえ米国が日本を目標として対立的態度を執るか了解に苦しむところである。米国は他の列強の『生活圏』には濫りに干渉すべきでない。

    (e)1941年2月14日、野村は初めてローズヴェルト大統領並びにハル国務長官と会談した。

     (1)大統領は日本の仏印における行動、並びに三国同盟が困難を引き起したものであると明白に述べた後、いつ、いかにして日米間の意見の分岐点が進展したかを確かめ、またその結果を確かめ、両国の国交関係が改善できるかを見るため、野村大使とハル国務長官とが日米外交関係に関する重要局面を批評再検討するように示唆した。

    (f)1941年2月14日、松岡はさらに野村に野村に(←原資料で「野村に」が重複している)訓令し、米国大統領初め、米国政府当局者らをして日本の真意の徹底にこの上とも努力せよと命じた。米国大統領並びに政府当局者らをして、日本は国運を賭しても既定の政策を遂行する決意のあることを知らせなければならないとしたのである。

    (g)これによってこの問題の取り上げ方に対する両国間の態度の懸隔は、当初において充分明瞭となったのである。すなわち、

     (1)一方において米国は両国国交を改善しようと試みた。

     (2)他方日本は最後までその国策に副って行動すると通告した。

  3、1941年2月3日、連絡会議は、松岡がその渡欧中、独、伊及びソビエット連邦との交渉にあたり訓令または参考として用いるべき事項を決定した。すなわち

   (a)日本は大東亜共栄圏内諸地域の政治上の指導者たるべく、かつ同地域内の治安維持の責任を担うべきこと、

   (b)同地域内の諸民族は独立を維持するかまたは独立せしめられるべきこと、

   (c)英、仏、葡(葡萄牙、ポルトガル)、和(和蘭、オランダ)その他諸国の領土たる地域の諸民族であって独立能力のないものは日本の指導下に各自の能力に従って可能な限りの自治制を許されるべきこと、

   (d)同地域内において日本は国防資源に対し優先権を有すべきこと、

   (e)それ以外の商業的諸企業に関しては、日本は、門戸開放主義並びに共栄圏以外のブロックと相互に機会均等の原則を執るべきこと、

   (f)世界をわかって大東亜ブロック、欧州ブロック《アフリカを含む》、米大陸ブロック、ソビエト・ブロック《インド及びイランを含む》の四大ブロックとすべきこと。

  4、日米交渉の開始後間もなく、共同謀議者らは、交渉の成功を、全然不可能にはしないまでも、一層困難にするようないくらかの行動を執った。すなわち、

   (a)1941年2月25日、大島は独に対し、日本は三国条約に絶対忠実であって、同条約をその外交の基調として国策の実現に邁進している旨の保障を与えた。松岡もこの事実は承知であった。

   (b)松岡自身が、米国がドイツを攻撃した際には日本は参戦するとの質問に対して肯定的に答弁している事実に鑑み、1941年3月4日松岡は野村に対し同人も類似の質問に(←正誤表によると「類似の質問に」は誤りで「ある種の質問に」が正しい)対しては、松岡と歩調を合わせて応答するように要請した。

   (c)1941年3月7日、内閣は改正国家総動員法の適用細則は3月20日施行されるべき旨決定した。

  5、(a)1941年3月8日、ハル国務長官と野村とは懸案を探求するため会見した。

    (b)1941年3月14日、ハル国務長官並びに野村は重ねてルーズヴェルト大統領と会談した。

    (c)野村とローズヴェルト大統領及びハル国務長官が、日米両国間に懸案となっていた基礎的事項を探求し、これを明らかにしている一方、日本においては戦争準備計画を実行に移す準備が行なわれつつあった。

    (d)1941年4月9日、ワシントンの国務省に、日米両国間の協商を目的とする私的提案が差し出された。《法廷証第1、059号》

    (e)1941年4月14日、ハル国務長官は、この私的提案を野村がどの程度承知しているか、また野村はこれを日米両国政府間の交渉の第一歩として正式に提出しようと欲するものであるかを確かめるため野村大使の来訪を求めた。

    (f)1941年4月16日、ハル国務長官は、米国が同提案に基づいて交渉を開始するために必要とする左の二個の条件を提示した。《法廷証第1、061号》

     (1)第一に、同提案は米国政府が喜んで同意できる提案を多く含んでいるが、他面、修正拡張または全面的削除を要する提案もあり、さらに合衆国自身提議するかもしれない新しい別個の提案もあることを要すること、

     (2)第二の、かつ重大な条件は、日本政府が前述の提案中、並びに日米会談中言及された計画を喜んで実施し、かつ実施する能力のあること、日本が現在の武力による征服主義と、政策の手段としての武力行使を放棄し、国家間の関係すべてを支配すべきものとして合衆国が宣言し、実行し、信じてきた主義を日本が採用すること等を前もって明白に保証すること、

     (3)米国政府が信奉してきた主義は左の通りである。すなわちすべての国家の領土保全と主権の尊重、他国の国内紛争に対する不干渉主義の支持、通商上の機会均等を含む均等主義の支持、平和的手段以外の方法によって太平洋における「現状(←「現状」に小さい丸で傍点あり)」維持の打破を試みないこと。

    (g)野村は右の提案を日本政府に伝達し、日本の南進は武力によっては遂行されないことが、日米間の了解全般にわたっての基礎をなすものであることを指摘した。

  6、1941年4月18日付の野村の請訓を入手すると、近衛は同夜、政府、統帥部連楽(←正誤表によると「連楽」は誤りで「連絡」が正しい)会議を召集した。

   (a)大体の意見は、この米国案を受諾することは支那事変処理の最捷経(捷径、しょうけい。近道のこと)であって、日米戦争を回避し、欧州戦争の世界戦争にまで拡大することを防止する絶好手段であるということであった。

   (b)列席者は以下の条件によって右の米案を受諾すべきものとした。すなわち

    (1)第一に三国同盟と抵触しないということを明確にする。これはドイツに対する信義から当然である。

    (2)日米協同の趣旨が(←正誤表によると「協同の趣旨が」は誤りで「交渉の趣旨が」が正しい)世界平和に貢献するものであることをはっきりさせること。

    (3)もし日米了解の結果、米国が太平洋から手が抜けるので、そのため対英援助が一層強化されるということになっては、日本としてはドイツに対する信義に反すること、

    (4)協約文は新秩序建設の理想を明白に表現すること、

    (5)日本は独、伊両国に対する信義を保ち、日本の確定した国策である共栄圏内に新秩序を建設することに支障を来たさないように全力を傾注すること、《法廷証第2、866号》

  7、野村は訓令を受けた後、1941年5月12日、日本政府の第一提案草案を手交した。《法廷証第1、070号》

   (a)右の提案はその梗概並びに構成においては最初の提案と同様であったが、重要な相違点をいくらか含んでいた。

    (1)欧州大戦(←正誤表によると「欧州大戦」は誤りで「欧州戦争」が正しい)に関しては、日本政府は、日独伊三国条約に基づく軍事的援助の義務は、同条約第3条に規定する場合において発動されることを述べ、三国条約に直接言及することを提議した。この日本による提議の基礎は、この修正をなすことによって、日米協約と三国条約との関係を明確にするであろうというにあった。

    (2)支那事変に関しては、全然新規の項をもって旧に代えたのであるが、新項の規定するところは、米国政府は近衛声明に示された三原則、及びこれに基づき南京政府と締結を見た条約、及び日満華共同宣言に明示する原則を了承すべきであるというにあった。

    (3)同項は、米国は日本政府の中国との善隣友好政策に信頼し、蒋政権に対し、日本と和平の交渉をなすように勧告すべき旨をも規定した。

    (4)善隣友好、反共共同防衛、及び経済協力を掲げる近衛三原則は、原文に現われた全部を包含するものであると日本側は主張した。

   (b)1941年5月16日、ハル国務長官は修正案中若干の変更を加えることを提議した。《法廷証第1、071号》すなわち、

    (1)欧州戦争に対しハル国務長官の示唆した点は、日本は日独伊三国同盟に基づき日本の負う軍事的援助の諸義務に解釈を与えること及び日本政府は日米両国政府間に同意を見た政策宣言の条項と相容れないようないかなる誓約をも、枢軸同盟またはそれ以外のものにより、行なっていない旨を宣言することにあった。

    (2)中国問題の解決については、ハル国務長官は、最初の私的草案と同様な一条項をもってこれに代えることを提案したが、これによれば日米交渉の妥結とともに、米国大統領は日華双方に対して以下の示唆をなすというにあった。すなわち、日華両国は善隣友好関係、主権、領土の相互的尊重、協定期日に従っての日本軍の撤退、不併合、不賠償、関係国すべてに対し公平な通商上の機会均等、外部からする破壊的策動に対する同等の防御手段、満州の将来に関する問題の親和的交渉による処理、等の項目を基準として戦争終結の交渉に入る。

    (3)西南太平洋地域における経済的活動の事項に関しては、ハル国務長官は、日米両国による活動及び協力という表現をもって述べた。

   (c)ハル国務長官が野村を対手に懸案を満足に解決しようと努力していた間、松岡は、日本のために誠意もなく、又、長びかせることを唯一の目的として交渉を指導していたことの証拠は何度もくりかえし見られた。

   (d)松岡以外の共同謀議者は、共同謀議の目的を危うくすることを恐れて、頑として反対した。

   (e)その間、日米交渉は継続した。ローズヴェルト大統領が国家的超非常時を宣言した次の日、1941年5月28日、ハル国務長官と野村は再び会見した。

   (f)この会談中、協定に到達するのを妨げる大きな障害物の二つは、三国同盟条約下の日本の義務の程度、及び中国問題の解決に関する見解の相違であることがますます明白となってきた。

   (g)日本が三国同盟条約下のその義務に対する態度を明らかにしないならば、もし米国が自己防衛の線に沿ってとった行動のため欧州戦に巻き込まれた場合、日本の立場に関するなんらの保障もないことになると、ハル国務長官は強調した。

  8、1941年5月31日、米国はその協商提案の一修正案を提議した。《法廷証第1、078号》すなわち、

   (a)新提案は日米両国の欧州戦に対する態度に関する項の全面的修正を提議した。日本政府は三国協定の目的が欧州戦の拡大を防止するための防衛的なものであったこと、及び協定の条項は自己防衛行為による欧州戦介入には適用されないことを声明する。そして米国はその欧州戦に対する態度をもっぱら防御、自衛、及び国家の安全を考慮して決定する旨を声明する。口頭宣言に対する付属書中、米国政府はヒットラーによる征服的軍事行動に対するその態度を敷衍し、米国の対ヒットラー戦はすべて自己防衛を目標とするものとなるだろうと指摘した。中国に関する項は、その項の底意を残しておくように、これまた書き直されたのである。この項は、日本が近衛原則と調和する対中国条件を米国政府に通報するとともに、米国政府は戦争を終結し、平和的関係を恢復する目的をもって日本と交渉を開始するように中国政府に示唆するという一条項を提案した。別個の付属書中に中国に提議すべき条件が示されていたが、これはハル国務長官によって1941年5月16日に示唆されたものと同一であった。反共協力及び駐兵に関してはさらに討論されることとなっていた。

  9、(a)1941年6月4日、岩畔陸軍大佐は、もし米国政府にして三国協定の条項は自己防衛の行為による介入にはこれを適用しないという規定を米国の提議草案から削除すれば、日本政府もまたその草案から米国はある一国に対し他の一国を援助する目的をもってどのような侵略行為にも訴えないという提案を取り消す用意があると声明した。

    (b)1941年6月6日、ハル国務長官は、日本側の相つぐ修正は自由主義政策の方向への進展範囲を次第に局限し、かつ米国政府が提案中に含まれていると信ずる基本的要点から引き離した感があると野村に語った。日本側の諸修正及び最近の日本政府の態度表示は左の三つの傾向を明らかにするものである。すなわち、

     (1)日本と枢軸との連繋を強調していること。

     (2)日本と中国との関係を極東における平和と安定に貢献するような基礎におくどのような意図をも明示することを避けていること。

     (3)平和並びに無差別待遇の諸政策に関する明確な公約からそれていること。

  10、ハル国務長官と野村との間に外交上の会談が取り行なわれているうちに、日本国内並びに他国内に数多の事件が発生し、これが平和的解決への道をさらに複雑化しかつ阻害し、交渉の決裂を招くに至らしめた新問題を持ち込み、そして会談を成功裡に終結させたかもしれない機会をすべて喪失させたのであった。

   (a)日本における総理大臣と、外務大臣との間の疎隔は内閣の倒壊を表わす(正誤表によると「倒壊を表わす」は誤りで「倒壊を来たす」が正しい)おそれがあるとされた。

   (b)独ソが1941年6月22日開戦したとき、オットの発見したのは近衛並びにその一派は中国における日本の軍事的地位を危うくするようなことは何一つしてはいけない、かつ日本は仏印掌握の手を一層強めるべきであるという結論に達したということであった。

   (c)日本による仏印の武力占領は、日米協商妥結に対する二つの障害、すなわち支那事変及び三国同盟条約を取り除く望みはあり得ないということを示した。

  11、1941年6月16日、近衛内閣は辞職し、第三次近衛内閣は松岡を除いて組織された。

   (a)新内閣は仏印に関しては前内閣の政策を踏襲した。

   (b)新内閣はまた三国協定は今後も日本の外交政策の基礎として残り、また日本の対独伊態度には変更がないであろうとドイツに通告した。

  12、(a)1941年6月1日までにドイツによるフランスの征服並びに占領は完遂された。

     (b)1941年6月22日、ドイツはソ連邦を攻撃した。

     (c)かような諸事実を背景として連絡会議は6月23日から6月30日まで連日開催された。

     (d)(1)1941年7月2日、東条陸軍大臣の奏請によって御前会議が開催された。《法廷証第1、107号》

       (2)日本の国策は、『情勢の推移』に鑑み、以下の三主要点を基礎とするということがその午前会議の席上決定された。すなわち、

        (1)帝国は依然日華事変処理に邁進する。

        (2)帝国は世界情勢がどのように変転するかにはかかわりなく、大東亜共栄圏を建設する。

        (3)帝国は南方進出の歩を進める。

     (e)(1)かような目的達成のために、日本は対英米蘭戦を辞さないということが決定された。

       (2)対英米蘭戦に対する一般的準備が行なわれた。

       (3)この軍事上の準備は大規模に行なわれ、かつ百万人以上の予後備兵、並びに徴募兵を召集することを含んでいた。

  13、(a)少なくとも6月18日に遡ることのできるある日付以来、ドイツとの交渉が継続され、この交渉によって、日本軍の南部仏印進出を許すことを強要するためのドイツ政府の援助が求められ、又、その援助が得られたのである。

     (b)日本軍は数ヶ月にわたって北部仏印に駐屯していた。日本の意図したところは、もしヴィシー政府にして不同意ならば、武力によって仏印を占領するにあった。

  14、(a)7月中米国政府は多数の軍隊の南部仏印進入が差し迫っているという報告を受け取った

     (b)最初かような報告は真っ向から否認された。しかしながら7月23日、駐米日本大使は追加的答弁として、日本は軍需品並びに原料の途絶えることのない供給源を確保することを必要とし、かつ日本が軍事上の包囲に陥ることを防ぐ必要がある旨を述べた。

     (c)日本の意図したところは、シンガポール及び泰国に対し、さらに進んで軍事行動をとる基地を獲得することにあった。

  15、(a)7月27日ローズヴェルト大統領は、仏領印度支那を『中立化』された国として見なすよう提案した。

     (b)日本政府は大統領の提案を受諾を拒絶した。日本軍の大部隊が南部仏印に移動した。

     (c)この軍事行動は奉天において開始された計画の続行にすぎなかった。

  16、(a)合衆国の支配下にあった資源が、日本によって侵略の目的に使用されないために、大統領は7月26日中国及び日本資産凍結令を発布した。

     (b)英国及びオランダは直ちに同一の手段をとった。

     (c)その後間もなく石油の輸出禁止になった。

     (d)検察側は合衆国、英連邦及びオランダのこれらの措置は、仏印における日本の侵略的行動に先だったものではなく、その結果として起こったものであると強調している。

  17、(a)8月8日、日本は意見の調整に到達するための方法を協議する目的をもって新提案を始めた。

     (b)ハルは前諸会談が中止するに至った経緯を回顧した後、日本は見解の調整を可能にする線に沿って、その政策を変更する方法を見出すことができるか否かを決定しなければならないと答えた。

     (c)1941年8月16日、野村は豊田外相に対し、対米関係は危機一髪であると忠告した。《法廷証第1、131号》

     (d)8月17日、ローズヴェルトは野村の問い合わせに対して回答し、もし日本が膨張論者的活動を中止し、その地位を調整し、合衆国の原則に準じて平和的プログラムに乗り出すことを欲するならば、合衆国は、中断された非公式探究的会談の続行を考慮すると述べた。《法廷証第2、889号》

     (e)8月27日近衛公は、日米両国間に存在する重要問題のすべてを討議するための両政府首脳者の会見を促すメッセージをローズヴェルト大統領に送った。《法廷証第1、245−B号》

     (f)8月28日、野村はこの親書を手交した。同時に同人は日本の行動は自衛のためにとられたものであると主張する政府の声明書も手交した。さらに右の声明書は、仏印においてとられた措置は、日華事変解決促進のため、また同時に必需物資の正当なる獲得のため日華事変が解決するか、または東亜における全面的平和が確立するならば、直ちに兵を撤収する用意があると述べ、かつ右の行動は隣接地域に対する武力的進出の予備的行動ではないという保障を与えている。なお声明書は、日本はソ連において、日ソ中立条約を遵守し、かつ日満に対し脅威を与えるものでない限り、同国に対し軍事行動に出ることはjないと述べた。さらに声明書は、日本の根本的国是は、合衆国が言質を与えている基本的原則と同様であると述べている。《法廷証第1、245−B、英文速記録第10、764−71頁》

     (g)9月3日ローズヴェルト大統領は近衛の招請書に答え、その中で他のことは差し置いて、過去の出来事に鑑み、かような会見が平和のための具体的なはっきりとした誓約を生むものでなければ、日本は中国人を落胆させるため、その意義を枉げ、その失敗の責任を合衆国に負わせるであろうと考えると述べた。《法廷証第1、245−C号》

     (h)9月6日、日本大使は提案の新草案を手交した。《法廷証第1、245−D号》

     (i)(1)同日、すなわち9月6日、東条陸軍大臣及び米、英、蘭に対して、直ちに戦争を(←「戦争の」の方がよいだろう)開始を望んでいた軍部の一部は、またも御前会議を召集させた。《法廷証第1、107号》

       (2)この御前会議において、軍部は戦争準備を進めること、及び、もし、継続中の会談が10月中旬まで日本にとって満足に終結しないならば、日本は攻撃を開始することが決定された。右の御前会議に出席した被告は、東条、永野、武藤、岡及び鈴木であった。

     (j)9月25日、日本政府はグルー大使に対して、まったく新しい提案の草案を提出し、これに対する速やかな回答を促した。合衆国が要求された種々の保障のうち次のものがあった。すなわち『合衆国の欧州戦争参入の場合における日本国、ドイツ国及びイタリー国間、三国条約に対する日本国の解釈及び及びこれに伴う義務履行は、もっぱら自主的に行なわれなければならない。《法廷証第1、245−E号》

  19、(a)10月中旬が近づくと、6月6日の御前会議の決定に参加したある者《近衛を含む》は驚いて、激しい口論の後、第三次近衛内閣は辞職した。《その詳細及び各個人の演じた役割は証拠によって示される。》

     (b)東条は木戸によって明記された次の二つの条件により総理とした就任した。

      (1)9月6日の決定に定められた10月中旬の期限を延期し、会談を続行すべきこと。

      (2)陸海軍間の相克を解決すべきこと。

  20、(a)11月5日御前会議が開かれた。11月25日以後準備が整い次第、直ちに戦闘を開始することが決せられた。

     (b)右の決定に参加した被告は東郷、東条、賀屋、鈴木、嶋田、武藤及び(←正誤表によると「嶋田、武藤及び」は誤りで「嶋田、永野、武藤及び」が正しい)岡であった。

  21、『山本計画』と知られている真珠湾攻撃計画は、1941年の春に立案された。

  22、11月10日、日本のすべての艦船は11月20日までに戦闘準備を完了し、日本の強力な機動部隊は千島の単冠湾に待機集結するように命令が下された。

  23、(a)11月26日未明『真珠湾を攻撃すべし』との命令が下された。

     (b)同朝6時機動部隊はその命令を実行するため、最初東へ向け出発爾後針路を南に向けた。

  24、(a)これら種々の計画にもかかわらず・・・・1941年の春以来、日米間において行なわれていた会談は続行された。

     (b)11月26日、国務長官は日本の代表者に対し、二個の文書をもって回答した。右の文書において、もし日本が太平洋地域のすべての問題の解決に真の関心を有するならば、4月16日ハル氏が挙げた四原則を受諾することによって実現し得ると提案された。

  25、(a)11月28日ないし12月1日の間会合が開かれ、対米、英、蘭の戦争の最終計画が再び検討された。

     (b)12月1日、最後の御前会議及び閣議が開かれた。

     (c)いずれの会合においても、戦争の決定に対する反対意見はなかったように見受けられる。

  26、(a)表を見ればわかるように、12月6日の夕刻、新聞通信班は、ワシントンにおいて午後7時40分、合衆国大統領から日本国天皇に宛てられるべき電報に関して知らされ、午後8時ハル氏が在東京米国大使グルー氏に対し、右メッセージが送られている旨を打電した。

     (b)1時間後電報は東京に到着し、そのときは東京時間で12月7日正午12時であった。

     (c)しかし、これがグルー氏の手に渡る前には、すでに10時間半あるいはそれ以上の貴重な時間が経過していた。

     (d)真珠湾に対する攻撃は午前7時55分に開始された。

 検察側によってなされた、この交渉に関する説明から見ても、日本の意図がどのようなものであったにせよ、その意図は当初においてまったく明白にされていたように見える。東京における当局者は、ワシントン駐在大使に対し、日本の態度を米国当局者に明確にするように繰り返し訓令していた。この交渉に関する検察側に説明によっても、大使がこの訓令に慎重に従ったことが明らかである。本官は交渉の全過程にわたって、提出された提案中に不誠実に帰し得べきただの一つの例をも見出すことはできない。提案は利己的であったであろう。また示された態度は譲歩的でなかったであろう。しかし日本が米国になした諸提案には発(←漢字一文字判読困難。「発見回避的なもの」とある部分は、英文では「hide and seek」、つまり「かくれんぼ」である。文脈からして「発」かなと考え、一応「発」としておく)見回避的なものはなかった。本官は『野村大使の公けの嘆き』からどんな推測が可能であるかわからないが、次のことだけは明白であるようだ。すなわち日本は三国同盟の変更あるいは、また中国からの撤兵に関する意図についてなんら欺瞞的であるとか、あるいは偽善的なことを言ったことは一度もない。もし日本の提案が、自己の気まぐれに、占領し、征服する権利の承認を合衆国に求めるにすぎなかったことになるのであるならば、その提案は合衆国に対し明白な言葉で明瞭にされていた。少なくともこれから(←「これから」とあるが「これら」が正しい)の提案には曖昧な点が一つもなかった。検察側が今与えようとする意味をこれらの提案がほんとうに帯びることができるならば、本官は、それがどうして合衆国及び英国をだまして安全感を抱かせることに成功したのであろうかわからない。

 たとえば外務大臣から野村大使にあてた最初の訓令を示すために検察側が依存している法廷証第1、008号を見ればよい、野村に対して頑固な態度をとれと訓令することができたであろう。しかし訓令にはなんら曖昧なところはなく、またローズヴェルト大統領及びハル長官に対して何かを隠せというような訓令はなかった。訓令の目的は、日本の立場及び態度をこれらの米国当局者に対して明瞭にするにあった。それが大使によって、そのように明瞭にされなかったということは、検察側の主張すべきことでない。

 もし日本が大東亜共栄圏建設の計画を進める考えであったならば、野村大使はそれを強調し、またその基礎の上にだけ了解に到達できるということを徹底させるようにはっきりと訓令された。その態度は無理であり、攻勢的であり、あるいは傍若無人的なものであったかもしれないが、この点について米国当局者を安全感に陥れるように何ものをも隠蔽するような試みはなされなかった。

 もし交渉すべき問題の取扱い方に、二国の『対立』があったならば、それは双方ともに十二分に明らかになっていた。ここにおいても、隠蔽されていたものは何もない。

 交渉全体の過程において起こったすべてのことに対し、慎重な考慮を払ってみたとしても、本官は、そのうちのどのようなものにも欺瞞の疑いさえかけるように自分を誘導することができなかった。交渉は決裂した。このように決裂したことは最も遺憾である。しかし少なくとも日本側において、すべてこのことは誠意をもってなされたようであり、本官はそのいずれのところにおいても欺瞞の形跡を発見することができない。交渉の過程において戦争準備はあった。かような準備は双方ともに進めていた。交渉が行なわれていた際、大西洋会議が開かれた。当時世界に対して発表された、それの外見がどのようなものであったにしても、その実情は今充分現わされた。われわれは現在その会議において、ローズヴェルト大統領とチャーチル首相の到達した四つの基本的協定の一つは、日本に対する並行的、終局的行動に関する協定であったことを知っている。当事者間の関係の状態が、日本と合衆国が交渉を開始したときの状態に達する場合、その交渉は終局においては成功するであろうという楽観的期待のもとに進まないであろうということはまったく当然である。それと異なる可能性があったし、いずれの当事者もその不幸な可能性の起こりうることを無視することができなかった。

 もし交渉が、当事者のだれでも、準備の時間を稼ぐ目的だけに図(←漢字一文字判読困難。文脈及び字の形から、一応「図」としておく。英文ではcontrive。「企む」とか「目論む」という意味であるられたと見なし得るならば、時間を稼いだのは日本ではなく、米国であったと言わざるを得ない。両国のそれぞれの資源を思い出して見れば、日本は時間の経過によって得るものは何ものもなかった。

 日本が準備のための時間を稼ぐ目的のために交渉という手段に頼ったという理論の全体は、法廷証第841号に示されている日本の侵略的準備に関する検察側の仮定に基づくものである。本官は、その証拠についてはすでに述べ、どういう理由でその仮定を容認し得ないか説明した。

 本件における証拠は、むしろ交渉のために必要となった時間は、米国を有利にしたか(←正誤表によると「有利にたか」は誤りで「有利にしたか」が正しい。ただし、原資料はちゃんと「有利にしたか」になっている)、日本の戦争資源に対し有害的に影響を与えていたことを示している。実際を言えば、交渉における日本の焦燥的態度は主としてこの事実によるものである。

 交渉の性質に関する本官の見解からすれば、本官の現在の目的のために、日本が会談中において全然どんな譲歩もしなかったか否かを考察することは不必要になる。しかし、交渉の当事者の誠意あるいは不誠意の問題についていくらか述べてみたい。本官は、提案が公正であったか否かを検討する必要もなく、またしようとも思わない。

 検察側の主張は、交渉開始からその最後まで、日本はその本来の立場から一歩も譲らず、変更されたものでも、それはその提案を狭める方向に向けられたというのである。

 このために原案的提案に含まれている日本のとった最初の立場を見てみよう。

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