歴史の部屋

 右の5の(a)項に言及した非公式提案は、本件における法廷証第1、055号(←正誤表によると「第1、055号《は誤りで「第1、059号《が正しい)である。それにはある予備的了解に関するある示唆以外に、次の7項目にわかれた提案が含まれている。

  1、米国及び日本の国際関係及び国家の性格に関する概念。

  2、欧州の戦争に対する両国政府の態度。

  3、日華事変。

  4、太平洋における海軍、航空及び商船関係。

  5、両国間の通商及び金融的協力。

  6、西南太平洋における両国の経済活動。

  7、太平洋における政治的安定に影響ある両国の政策。(←以上7つの項目は原資料では漢数字で「一、ニ、三・・・《という風になっている。英文では「Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ・・・《という風になっている)

 予備的了解のため次の諸点が提案された。

  1、両政府は伝統的友好関係へ再び戻るための全般的協定の開始及び締結に関し共同責任を負う。

  2、近時両国間を疎遠にした特殊の原因に触れることなく、双方は事件の再発を防止し、それを匡正し、かつ共同の努力によって太平洋における公正な平和の確立を希望する。

  3、永引く交渉は決定的措置のためには上適であり、それを弱めるものであるから、緊急な概要問題だけを含む全般的了解《双方をその間拘束する》実現のため充分な方便が講ぜられること。

  1、最初の主な項目、すなわち、米国及び日本の国際関係及び国家の性格に関する概念についてであるが、両政府は国家及び民族が家庭の各員のように一家を構成し、平和的手段によって律せられた利害の、相互関係をもって各自が平等に権利を享有し、責任を認めること、云々ということが、「その中に《提案された。(←原資料で「一、ニ、三《と来たのに続いてまた「一、ニ、三《と来るので、なんだろうと思った。これは、「1、2、3、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、《となっているのを、算用数字とローマ数字を区別せずに訳したからこうなったのである。つまり、ローマ数字の項目は、算用数字の「3《の下部に属しているのである)

  2、欧州戦争に対する両国政府の態度についての案は次の通りであった。

   (a)日本政府は、枢軸同盟の目的は防衛的であったし、今もそうであるが、欧州戦争の直接影響を受けていない国々の軍事的結合化の拡大を防止しようとするための企図であることを主張する。

   (b)日本政府は現存する条約上の義務を回避する意図なく、枢軸同盟による日本政府の軍事的義務は、加盟国のある一国が欧州戦争に現在関係のない国によって攻勢的に攻撃された場合だけに効力を発するものであるこあことを(←正誤表によると「あるあことを《は誤りで「あることを《が正しい。原資料には「あるこあことを《とあるので、正誤表も誤椊があることになる)宣言しようと欲する。

   (c)米国政府は、米国政府の欧州戦争に対する態度は、他の国に対してある一国を援助する目的をもつ攻勢的同盟によって、現在においても、また将来においても、決して決定されないことを主張する。米国は、米国が戦争の憎むべきものであるという点に関して誓約していることを主張する。従って欧州戦争に対する米国の態度は専ら自国の福祉及び安全の保護的防衛を目的とする考慮だけによって現在においても、また将来においても決せられるものである。

  3、日華事変に関する提案は、合衆国は日本が左記の条件を保証するという条件のもとに蒋介石政権に対し、次の諸項に適応する条件に基づいて、日本と和を講ずべきことを要請するということであった。

  (a)中国の独立。

  (b)日本、中国間に締結されるべき協定に従い、

  (c)中国領土を獲得しないこと。

  (d)賠償を課しないこと。

  (e)『門戸開放』の再開、これの解釈及び適用については、将来適当な時機において日米間に協定すべきである。

  (f)蒋介石政権及び汪精衛政権の合体。

  (g)中国領土内へ日本移民が大規模に、かつ集団的に移住しないこと。

  (h)満州国の承認。

 右の件に関して、さらに次のことが提案された。

  (1)大統領の前記要請を蒋介石政権が承諾した場合、日本政府は新たに合体した中国政府、または、その構成機関と直接交渉を開始すべきである。

  (2)日本政府は中国に対し、前記の全般的条件の範囲内並びに善隣友好、共産主義の活動に対する共同防衛及び経済的協力の線に沿い、具体的平和条件を提出すべきである。

  (3)もしも、蒋介石政権がローズヴェルト大統領の要請を拒否した場合には、米国政府は中国に対する援助を停止すべきである。

  (4)(a)海軍関係に関しては、両国とも相手国を脅威するような海軍及び空軍の配備をしてはいけない。これに関する詳細は、共同会議において決定されるべきである。

     (b)日本は、日本の所有する船舶の総トン数の何割かが現在の契約から解放された場合、それを米国人が契約できるよう解放させるため斡旋すべきである。

  (5)(a)通商に関しては、双方ともそれぞれが保有し、かつ必要とする物資の相互供給を互いに保証し、さらに双方とも1911年のような条約、あるいは、新たにつくられる条約の下に友好的貿易関係を復活するべきである。

     (b)米国は日本に対し、極東経済の改善に向けられる貿易及び産業の発展を促進するために、必要な金額に達する金の「クレジット《を与えるべきである。

  (6)西南太平洋における活動が平和的手段によって遂行さるべきであるという日本の誓約のもとに、米国は日本が必要とする天然資源の生産及び獲得に協力かつ支援を与えるべきである。

  (7)(a)政治問題に関しては、いずれの政府も、将来極東及び西南太平洋における領土の欧州諸国への譲渡を黙認しないであろう。さらに両政府はフィリッピンの独立を共同の保証すべきである。

     (b)日本は英国がこれ以上政治的侵略のための、入口(玄関)としての香港及びシンガポールを除去すべく、米国政府の援助を要請すべきである。また米国及び西南太平洋地域への日本移民は、平等で差別のない基礎の上に行なわれるべきである。

     (c)この了解が遂げられ次第、近衛とローズヴェルトによって開かれる両国間の会議をホノルルに開催しても、その会議はこの了解を再考しないであろう。

     (d)この了解は秘密とし、共同に発表されるべきである。

 以上の実質的提案の第一部類は、両政府の欧州戦争に対する態度に関するものであった。

 三国条約第3条は、「ソノ中ニ(←「ソノ中ニ《に小さい丸で傍点あり)《『締約国中何レカノ一国ガ現ニ欧州戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラザル一国ニヨッテ攻撃セラレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及ビ軍事的方法ニヨリ相互ニ援助スベキコト』と規定した。

 同条約第4条は、『本条約実施ノタメ各日本国政府、ドイツ国政府及ビイタリー国政府ニヨリ任命セラルベキ委員ヨリ成ル混合専門委員会ハ遅滞ナク開催セラルベキモノトス』と規定した。

 条約文は、それに基づく義務は、どのような理由によって攻撃がなされたかの問題を問わず、その攻撃が第三国によってなされた場合生ずると示唆しているようである。第3条による援助を必要とする場合が生じたか否かは、第4条に示されている混合委員会によって決定されるべき事項に属するであろうとさらに主張されるかもしれない。

 提案の趣旨は、日本に関する限り、右条項をこのように広く運用する可能性を排除するにあった。この意味において、日本は少なくとも三国条約に関しては譲歩をもって交渉を開始した。日本は、枢軸同盟の目的は自衛的であり、かつ欧州戦争によって直接影響を受けていない諸国間の軍事的結合の拡張を防止するために企図されたものであると主張した。日本はさらに同盟による軍事的義務を第三国による攻勢的攻撃の場合だけに限定した。米国政府に対しては、同政府の欧州戦争に対する態度は攻勢的同盟によらず、もっぱら自国の福祉及び安全の保護的防衛を目的とする考慮によって決せられるべきであると声明をなすよう提案された。

 また、日華事変に関しても、提案された条件を見るだけでも譲歩がなされようとしていたと見られる。さらに、それを検察側みずからが広田内閣の時にすでに決定された日本の対華政策として提出した証拠と比較してみるならば、われわれは、その提案が、少なくとも平和交渉の目的のために蒋介石政権を容認する程度のある譲歩をして行なわれたと言わないわけにはいかない。

 この提案は1941年4月9日に手交された。1941年4月16日、ハル長官は日本大使に対して会談の目的は日米間の関係の改善に関する問題を検討しようとするものでなければならないと述べた。

  1、ハル氏は、合衆国は国家間の関係が立脚すべきある主義を宣言し、実行していると述べた。

  2、その主義というものは次の通りであった。

   (a)各国及びすべての国の領土保全と主権の尊重。

   (b)他国の国内問題に対する上干渉主義の支持。

   (c)通商上の機会均等を含む均等の主義(←正誤表によると「均等の主義《は誤りで「均等主義《が正しい)の支持。

   (d)平和的手段による「現状(←「現状《に小さい丸で傍点あり)《変更以外太平洋における現状の上擾乱。

  3、ハル長官は、会談は以上の主義のわく内にはいる問題に関連しなければならないことを明確にした。

 この提案は、5月16日ハル長官と野村大使によって長時間にわたって討議された。長官は、その際大使に対し、この日本の提案に関連して若干の提案を手交した。《この提案は法廷証第1、071号である。》右提案の主な点は次のようである。

  1、自衛権の範囲に関する米国側の見解は、1941年4月24日の国務長官からの演説の抜粋によって説明された。

  2、米国及び日本の欧州戦争に対する態度に関する部分は再起草された。

  3、中国問題に関する部分は、提案されている中国との解決法の詳細に関する相当な修正をなして再起草された。

  4、西南太平洋地域における経済的活動に関する部分には、ある程度の修正が加えられた。

 さらに討議を進めた後、米国は5月31日法廷証第1、078号である反対提案の草案を手交した。その口頭釈明は法廷証第1、079号及び第1、080号である。

 5月末までに考案された重要な問題は三点から成るものであって、それは日本に了解され、米国側に確認された。

  1、欧州戦争に対する各政府の態度、すなわち三国条約の問題。

  2、日華関係の問題及び日華事変の解決。

  3、太平洋地域における両国の経済活動の問題、特に、国際通商関係における無差別の原則に関連して。印度支那の問題はその後起こった。

 これらの問題が重要なものであったことは、法廷証第2、89号(←正誤表によると「第2、89号《は誤りで「第2、895号《が正しい)及び2、903号並びにバランタイン氏の証言によってわかる。欧州戦争に対する各々態度に関する両国間の問題は、外面的には三国条約第3条について日本がなしており、またなすであろう三国条約第3条の解釈であった。

 以上述べたように、第3条は、その中の一部に、『締約国中何レカノ一国ガ現ニ欧州戦争又ニ日支(←正誤表によると「又ニ日支《は誤りで「又ハ日支《が正しい紛争ニ参入シ居ラザル一国ニヨッテ攻撃セラレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及ビ軍事的方法ニヨリ相互ニ援助スベキコト』であると規定した。《法廷証第43号》

 当時、アメリカは急速に、そして抜き差しならぬままに欧州戦争の中に巻き込まれつつあった。アメリカは、この戦争への参加は、その自衛権の合法的な行使を見なして、正当であるとしていた。当時において予見されていたそれ以上の戦争への深入りは、上可避的にアメリカ、ドイツ間の、公然と明言せられた戦争状態に立ち至るであろうとされていた。アメリカの見解としては、これはアメリカの自衛行為の結果として生ずる事態と見なしていたのである。

 この間、アメリカが真に得たかった保証は、三国同盟に基づく義務は、日本に強いて、かような場合にドイツを助けて戦争に入らしめるものではないというように、日本が解釈するということであった。

 日本は、一方においてアメリカの正当な自衛行為は、日本がドイツを援助するという三国同盟の規定を発動する必要を生ぜしめないということに易々として同意しつつも、アメリカが将来において自衛であるとみずから称しようとするすべての行為は実際に正当な自衛であり、また日本によって自衛であるとして容認されるであろうという事前の承諾を与える意思はなかったのである。

 各々の国家みずからが、何が己れの自衛を構成するかを決定する者であるべきだという点については、見解の相違はなかったのである。日本の代表者が言ったことは、協定の中で、アメリカに『白地小切手』を与え、そしてアメリカ自称の自衛の決定を最終的なものとして受け入れ、ドイツ援助の挙に出ないということに同意することはできないというのであった。

 米国国務省の代表者は、アメリカの態度の定義については、大統領及び国務長官のなした公表演説に日本大使の注意を喚起した。同長官の定義は、『わが半球及び国の安全のため、最も効果的に抵抗できるすべての地方において抵抗を行なうことが必要である』というのであった。《法廷証第2874号、1941年4月24日の提言》米国大統領は5月27日に演説して、この点に関するアメリカの立場を明らかにした。大統領いわく『1940年9月、米国駆逐艦50隻と8ヶ所の海上基地の使用との交換に関する協定が英国との間になされた。・・・予はしばしば、米国は人員並びに資源の召集を行ないつつあるが、これは単に防御目的のため、すなわち攻撃を撃退するためであるということを述べた。予はここにまたその声明を繰り返す。しかしわれわれは「攻撃《という言葉を用いる場合には現実的でなければならない。われわれはそれを近代戦争の電光石火の速度に関連させなければならない。・・・・まずわれわれは必要があれば何度ででも(←「何度でも《が正しいだろう)、しかもわれわれの全資源を挙げて、ナチ勢力を西半球に拡大しようとし、あるいは西半球を脅かそうとするヒトラーのあらゆる企図に対して猛然と反抗するものである。われわれはまた彼の制海権獲得のためのあらゆる企図を積極的に妨害するであろう。われわれは、対米攻撃基地として用いることができ、また用いられるであろうところの世界中のどのような地点からも、ヒトラー主義を排除することが絶対的に肝要であるということを強調する。・・・・われわれアメリカにあるものは、アメリカの権益が攻撃され、もしくはその安全が脅かされるという事実の存否、その時期並びに場所をわれわれ自身で決定するであろう。われわれは軍隊を軍事的戦略地点に配備しつつある。われわれは攻撃を撃退するためには、われわれの軍隊を用いることを躊躇しないであろう。』《法廷証2876号》

 以上によって、この点に関するアメリカの要求の範囲が分明するであろう。日本の代表者らは、日本が当時三国同盟を即座に破棄することはできなかったということを夙に明らかにしていた。合衆国は日本が三国同盟を廃棄することは強いて求めなかったが、その終始要求したところは、アメリカはアメリカが了解するところの自衛行動権を有するという主張に関し、上安を感ずることのないように、日本がその同盟条約義務を解釈するということであった。

 弁護側によれば、全交渉を通じて、この日本のなした試みは、合衆国を満足させながら、しかも日本が上信義と条約義務上履行の非難の的とならないような同盟条約の解釈を発見することであった。

 これらの試みは、日本側が逐次提案した諸解釈をたどれば明らかとなるであろう。

  1、5月12日の日本側の最初の対案の中には次のように述べてあった。すなわち、『日本政府は、枢軸同盟が過去及び現在において防御的にして、現に欧州戦争に直接に関係なき国家の戦争参加を防止するに在るものなることを闡明す。日本国政府は日独伊三国条約に基づく軍事的援助義務は、同条約第3条に規定せらるる場合において発動せらるるものなることを闡明す』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証第1092号》

  2、9月6日、日本は次のように約諾する用意があることを示した。すなわち、『日本の対欧州戦争態度は防護と自衛の観念により律せらるべく、又米の欧州戦争参入の場合における三国条約に対する日本の解釈及びこれに伴う実行は自主的に行なわるべし』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

  3、9月25日の提案において、日本は協定の条項を次のように定めた。『両国政府は世界平和の招来を共同の目標として適当なる時機に至る時は相協力して世界平和の速やかなる克朊に努力すべし。世界平和克朊前における事態の諸発展に対しては両国政府は防護と自衛との見地より行動すべく、又合衆国の欧州戦争参入の場合における日本国、ドイツ国及びイタリー国間三国条約に対する日本国の解釈及びこれに伴う義務履行は専ら自主的に行なわるべし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証1245*E》

 10月2日の口頭覚書において、国務長官は交渉の内容を明らかにし、そして日本側の新しい提案を評して言った。いわく、『欧州戦争に対する各国(日米)の態度に関し当政府は両国関係の本方面に付属スル困難に対処するため更に日本国政府が執られた措置を多とす。日本国政府がもしその立場をこの上闡明し得るや否やにつき更に御検討を加えらるるにおいては有益なるべしと信ず』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証1245*G》

 10月8日、野村大使は外務省に対して、アメリカ側は『三国同盟に対する我が国の態度をさらによく確かめなければならないと考えている』と報告した。それから間もなく近衛内閣は倒れた。次の内閣は大使の進言に応じて、大使に対して次のような訓令を与えた。すなわち、『日本は自衛権の解釈をみだりに拡大する意思をまったく持っていないということをさらに明らかにし、三国同盟の解釈と適用に関しては、従来繰り返して主張したように、日本政府は独自の決定に従って行動するということ、さらにまたこの点に関しては日本としては米国政府とはすでに了解済みであると考えているということを伝えるべきである』。この提案は11月7日国務長官に伝達された。

 バランタイン氏は、その証言の中で、これらの提案は原案及び8月28日に大統領に通達された声明の中で与えた保証の範囲をさらに局限(ナローダウン)したものであったと評した。

 弁護側の主張では、これは日本側が譲歩に譲歩を重ねていったことを示すものだというのである。弁護側はグルー大使の判断の方が正しいと弁じている。すなわちグルー大使は次のように述べている。『日本と枢軸諸国との関係に関しては、日本政府はその同盟の一員としての立場を公然と放棄するという約束をすることは終始拒否し続けたが、しかし正式に合衆国と交渉に入る用意(←正誤表によると「用意《は誤りで「意思《が正しい)のあることの表示によって、日本の同盟参加を「死文《化する同意(←「用意《が正しいだろう)のあることを実際に示した。』

 ここにはおそらく当時者(←「当事者《が正しい)の誤解があったのではないかと思う弁護側は9月6日の日本案に言及して、少なくともこの声明は、日本はドイツの支配下にあるのではなく、その決定はドイツと関係なく独自に行なうべきことを推定させるものであることを否定できないと述べている。もしも米国が抱いていた懸念の中に、日本の決定はドイツに支配されるであろうということがあったのならば、なるほど右のことを実質的な保障であろう。しかし交渉のその時までの段階の表面には、日本の決定がドイツに支配される、またはドイツによって決定されることを米国が恐れていたと暗示させるものはなかったのである。その段階までは、この点に関する日本の自主的決定という点に対して米国は疑念を表明したことがなかったようであり、また日本が三国同盟に対するドイツの見解によって支配されるのではないかという疑念を示したこともなかったのである。米国が問題としていたのは、日本の自主的解釈であったようである。

 もし米国が実際、事態を右のように見ていたのであったならば、バランタイン氏が、問題の提案は原案をさらに局限するものと批評したことはまったく正当であった。9月6日に提案した確約条項においては、日本は「攻撃《を「侵略的攻撃《に限らないということを余儀なくされたであろう。

 他方において、もし三国条約の解釈に関する「ドイツの支配《に対する懸念が交渉中の問題になっていたのならば、この提案は確かにこの懸念の除去に対する一歩であったろう。

 米国がかような懸念に立脚(←漢字一文字上鮮明。一応「脚《としておく)していると日本が了解していたことは、交渉のその後の経過によって明らかにされた。本官はその経過をさらに検討したい。

 11月15日、野村大使とハル長官は再び会見し、長官はまた三国同盟問題を採り上げた。《法廷証第2934号》長官はその際『日本政府の8月28日声明の平和的言質に対する確認』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)を求めた。

 同日、来栖大使がワシントンに到着し、11月17日ハル長官及びローズヴェルト大統領と初めて会見した。大統領との会談中、三国同盟の問題がまた持ち出され、来栖大使は、日本トシテハ条約上ノ義務アリ、カツ又大国トシテノ吊誉アリ、条約違反ヲナスガ如キハ上可能ナル旨を指摘し、さらに『従来国際条約尊重を主張し来たれる米国としては、それを希望するとは思えず・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)と述べた。三国同盟中ノ参戦義務ニ関シ日本ガ独自ノ見解ヨリ決定スベシと申し入れてあるのに対し、米国ニオイテハ右ヲアタカモ米ガ大西洋戦ニ深入リシタル際、日本ガソノ背後ヲ刺サントスル意アルモノトナシタもののようである。来栖大使からカカル如ク解釈セラルルモ然ラズ、従来米国ノ一部ニハ、日本ハ独逸ノ威儀ノ下ニソノ手先トナリテ動クベシトノ誤解存在シタルヤニ見受ケラレタルヲモッテ、カカル妄断ヲ解カンガタメ独自ノ見解ニヨリテ行動スベキコトヲ明ラカニシタル迄ナリと述べられ、さらに続けて、『とにかくこの際仮に大統領の示唆せられたるが如く、太平洋に関し日米間に何らか大なる了解成立するとせば、右は自然三国同盟条約を「アウト・シャイン《(out shine)することとなるべく、然らば同盟条約の適用問題に関する御懸念は自ずから氷解するが如き事態となるべしと思考す』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)と述べられた。

 乙案に関して野村大使に説明を送付するにあたって、東郷外務大臣は、三国同盟条約に関する自国の義務に関して、『日本は自ら決定する』という覚書を説明するに際して、『帝国は三国同盟条約に参加している他国の解釈に拘束されることなく、攻撃が行なわれたかどうかについてみずから決定することができる』旨指摘する権限を与えた。同大使はまた、三国同盟中には秘密協定は含まれていないということを明らかにするように命ぜられた。従って来 大使(←正誤表によると「来 大使《は誤りで「来栖大使《が正しい)は、ハル氏に満足を与えるような同盟義務の解釈に向かってさらに一歩を進めた試みを提示しようとして、急遽ハル国務長官を訪れたのであった。大使は11月21日、書簡草案一通を手交して、解明の目的をもつものとしてこれに署吊することを提案した。この書簡は法廷証第2945号であり、ここにその全文を引用する価値あるものと思う。

 『国務長官閣下、予と閣下との数次の会談の結果、予は、貴国民の間に、三国協定に基づく日本の義務に関して、根強い謬見がはびこっているのを知って少々驚いた次第である。

 知悉せらるる如く、予自身、予の政府の訓令に基づき該条約に調印した者である。しかして予は、前述の誤れる印象を根絶するに役立つと信ずる下記の言明をなすことを欣快とする。

 この条約は、いかなる点でも、独立国家としての日本の主権を侵害することはできないし又しないということは言を俟たないのである。

 これに加え、同協定の第3条の示す如く、日本は、その義務を自由に又自主的に解釈し得るのであって、他の条約国のなすであろう解釈に拘束さるべきものではない。

 予は、第三国のいかなるものによるいかなる侵略に対しても、我が政府が、上記の条約又は他の国際間の約束によって、協力者又は協同者となる義務を負わない事を付加せんとするものである。

 我が政府は外国の命令によって日本国民を戦争の渦中に投ずるが如きことは欲しない。政府は、積極的上正に対して、その安全を維持し、国民生活を保持せんとする究極的にしてかつ止むを得ざる必要からのみ戦争を引き受けるだろう。

 予は、以上の言明が繰り返し言及せられた世上の疑惑を、完全に無くする一助たらんことを希望する。又予は、我々の間に完全の了解が成立した時、閣下がこの書簡を公開せらるるもいささかも差し支えないことを付言する。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 米国が真にドイツが日本の決意を支配することを恐れていたのならば、これで日本側は完全に米国に降伏したと言わなければならない。

 これは別としても、この書簡中の言明は、将来起こることのある日本の独自的解釈の点についても大いに明らかにするところがあったのである。日米間の合意が成立したときには、書簡を公表して差し支えがないということばが入っていたことも注意に値する。この書簡が公表された暁、三国同盟の残存するところいくばくもないことは想像に難くないであろう。

 然るにハル長官は、これによって特に得るところはないと考え、これを取り上げなかったのである。

 米国の要求するところは、日本による三国同盟条約の廃棄ではなくて、単に米国に満足を与えるようなその解釈であることに鑑みれば、前記の提案がこのように簡単に上問に付されたことは、当を得たものと言うことは困難である。あるいはハル長官は、この時に至っては現内閣が『受け入れるかも知れない』ものも『次の内閣には受け入れられない』かも知れないということを恐れたものでもあろうか。この時に至っては、国務省は日本側にまったく誠意がないことを知ったと思ったらしく、それ故日本側の与えるどの約束にも信を置かなかったのである。その当否は別として、国務省は、日本は『交渉継続の外観を保っているにすぎない』という意見に達したのであったらしい。これはまことに上幸なことであったが、しかし事実そうであったらしい。米国で解読した傍受電報がこの上幸な上信を抱かせた大きな理由かも知れない。追ってこの傍受を論ずる際、本問題に再び言及しよう。

 前に述べた通り、米国は5月16日の提案《法廷証第1071号》で、日本政府が『枢軸同盟及びその他に基づき提案されたる日米協定に相反するが如き義務を負担し居らざる』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)ことを言明することを要望したのである。本官としては、この言明がこの点に関する合理的な要請を満足するに足らないという理由を見出すことはできない。

 三国同盟問題はこれ以上議論されなかったらしい。11月21日の会合の数日後、交渉を中断することに決したハル長官は、交渉における米国側の最終の文書すなわち提案であった11月26日の公文を日本代表に手交した。

 日米交渉を構成した三つの大きな主題のうち、太平洋方面における両国の経済活動は重要なものであった。5月12日の草案に示されたこの問題に関する日本側の最初の立場は次の通りであった。《法廷証第1070号》『南西太平洋方面における両国の経済活動*日本の内政太平洋方面における発展は平和的手段によるものなることの闡明せられたるに鑑み、日本の欲する同方面における資源《例えば石油、護謨、錫、ニッケル等》の生産及び獲得に関し、米国側はこれに協力するものとす。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 ハル長官は5月16日に、日本案に対する左の修正案を提出した。『西南太平洋地域における日本国及び米国の活動は平和的手段により行なわるべしとの誓約に基づき、日本国政府及び米国政府は、両国がそれぞれ自国経済の保全及び発達のために必要とする天然資源《例えば石油、護謨、錫、ニッケル等》を同等の地位の下に等しく供給を受け得るよう相互に協力すべきことを約す。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証第1071号》

 この問題の論議の際、ハル長官は『今後他の諸国家もその計画に参加できるようにという希望を表明した。この点に関連して、さらに南米におけるアメリカの貿易計画の恩恵はすべての国家によって享有されていると語った。』《法廷証第2873号》

 全面的に書き直された米国側提案が、5月31日野村大使に手交された。経済活動に関する問題の条項は次のようなものであった。『太平洋地域における日本の活動及び米国の活動は、平和的手段により、かつ国際通商関係における無差別の原則に則り行なわるべしとの玆(ここ)になされたる相互誓約に基づき、日本政府及び米国政府は各自の経済保全及び発展に必要なる天然資源《例えば石油、ゴム、錫、ニッケル等》の通商による供給を日本及び米国が無差別的に求めらるるよう相互に協力すべきことを約す。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証第1078号》

 同案に付随した口頭声明は、この部分の条項が日米両国に同様に適用されるように草案が修正されたということを指摘していた。《法廷証第1079号》

 『太平洋』の代わりに『南西太平洋』の(←正誤表によると「『太平洋』の代わりに『南西太平洋』の《は誤りで「『南西太平洋』の代わりに『太平洋』の《が正しい)字が入れられた点が、意義ある修正であった。

 日本代表は6月4日、この条項に関するもう一つの案を提出した。その提案文は次のようなものであった。『日本の南西太平洋方面における発展は平和的手段によるものなることの闡明せられたるに鑑み、日本の欲する天然資源《例えば石油、ゴム、錫、ニッケル等》の生産及び獲得に関し米国側はこれに協力及び支持を与うものとす。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証第1083号》

 日本側は本項の適用を南西太平洋方面に限定する点の説明として、日本が当該地域に対して有する特殊権益に鑑み、特にその地域を明示することを必要とするのであると述べた。

 しかし6月15日に至って、日本側は『太平洋』と『相互誓約』という語句の使用を受諾し、再修正案を提出した。これは法廷証第1087号である。問題の条項は次の通りであった。『太平洋地域における日本の活動及び米国の活動は、平和的手段により、かつ国際通商関係における無差別の原則に則り行なわるべしとのここになされたる相互誓約に基づき、日本政府及び米国政府は、各自経済の保全及び発展に必要なる天然資源《例えば油、ゴム、錫、ニッケル等》の通商による供給を日本及び米国が無差別的に求め得らるるよう相互に協力すべきことを約す。』

 国務省は直ちに、この交渉における米国側の最終的提案となったものをもって応酬した。この提案は6月21日付であって、草案第5項は6月15日付の日本提案と同文のものである。日本側はすなわちこの問題の交渉にあたって、二つの大きな譲歩をなすことを受諾したのであった。

 交渉はそのときから、8月に再開されるまで、一時停止されたのであった。

 8月6日に至って交渉は再開され、野村大使は次の追加条項を含む草案をハル長官に手交した。『日本政府は、東亜における日米両国間の経済的上安定原因除去のため、合衆国の必要とする天然資源の生産及び獲得に協力す。』及び獲得に協力す。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文。また、正誤表によると「及び獲得に協力す。』(前頁とだぶる)《は誤りで「(削除)《と指示がある)

 ハル長官はこの提案に対して、あまり興味を示さなかった。しかし野村大使は、この点について合意が成立したと認めた。大使の見解では、『三つの懸案のうち、野村・ハルの両者に関する(←正誤表によると「・・・のうち野村・ハルの両者に関する・・・・・・《は誤りで「・・・のうち二つの懸案に関する・・・・・・《が正しい)限り、原則的合意に達した』のであった。

 9月6日に至っても交渉が進捗しなかったので、日本側はさらに一案を提出した。この案は協定全般にわたる修正案ではなく、特定の部分だけに関するものであって、経済活動に関する部分は二個の条項に含まれていた。すなわち『南西太平洋地域における日本の活動は、平和的手段により、かつ国際通商関係における無差別待遇の原則に遵(←漢字一文字上鮮明。「しんにょう《があるように見えるので、一応「遵《としておく)い行なわるべく、合衆国が必要とする同方面における天然資源の生産獲得に協力す。・・・・前項(ヘ)に掲ぐる日本の約諾に合衆国は「レシプロケート《すべし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文。「レシプロケート《はreciprocate。「返礼する《「恩を感じる《という意味である)

 ここに『南西太平洋地域』という字句に戻ったのである。

 次に来たのは、9月25日付の日本側提案であって、これは「南西太平洋方面《という局限を依然保留していた。この新提案は次のように起草されていた。『両国政府は南西太平洋地域における日本国及び合衆国の経済活動は平和的手段によりかつ国際通商関係における無差別待遇の原則に遵(←またこの字が上鮮明。一応「遵《としておく。違うようにも見えるが)い行なわるべきことを相互に誓約す。両国政府は前項の政策遂行のため両国が通商手続により各国が自国の経済の安全防衛及び発達のため必要とする商品及び物資獲得の手段を確保するための合理的機会を有し得るが如き国際通商及び国際投資の条件創設につき相互に協力すべきことに同意す。両国政府は石油、護謨、ニッケル、錫等の特殊(←漢字一文字上鮮明。英文ではspecific。「特定の《「特殊な《という意味である。文脈からして「殊《でいいと思うのだが、字の形が違うようにも思える。一応「殊《としておく)物資の生産及び供給につき無差別待遇の基礎において関係諸国との協定及びその実行に関し友好的に協力すべし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証第1245号E》

 野村大使は10月3日に至っても依然として経済問題はほぼ了解済みであると外務大臣に報告していた。しかしその報告中に『「ハル《は通店(←正誤表によると「通店《は誤りで「通商《が正しい)自由主義を堅持し、「ブロック《経済をもって戦争の原因となし、このたび英帝国に対してもこの主義を貫徹せんとしつつあり』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)と書き入れた。その後東条内閣が近衛内閣に代わり、米国に提示される甲案が決定された時まで、経済活動問題についてはそれ以上の進展がなかったようである。甲案は実際には全面的修正案ではなく、9月25日付提案に対する一部修正案であった。

 経済活動に関する条項は、甲案中には第5項の修正案として挿入される次の文として現われた。すなわち『通商無差別原則。日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるにおいては、太平洋全地域、すなわち支那においても本原則の行なわるることを承認す。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証第1246号》

 弁護側は、これをもって本問題に関する米国側の立場を日本が完全に受諾したものであったと主張している。6月21日の点はまだ保留され、この原則の適用を全世界に及ぼすという、ハル長官が交渉の際幾度も表明した希望を包含した項目も追加された。この追加条項は完全に満足を与えるものと思惟された。すなわちこれは、一方においては地理的近接に基づく中国にかける日本の特殊権益に関する日本年来の主張の全面的放棄を意味し、他方においては、無差別原則の全世界に対する拡張を提案することにおいて、この条項は『もし合衆国または日本が、一定地域においてある政策を実施しながら、同時に他の地域においては反対の経路を選んで行ったとしたら、それは好ましくないことだ』という合衆国自身の提案を単に適用したものにほかならないからである。

 しかるに検察側は、アメリカ側の提案した『用語の中、若干は採り入れられたが、しかしその大部分は日本側の出した修正により事実上抹殺されたのであ』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)ると、主張した。

 野村大使がローズヴェルト大統領に対して、この原則の全世界的適用はハル氏が永く抱懐していた計画であり、それは国務長官の一貫した立場であったということを指摘したことは、証拠として提出されている。これはまたハル長官自身うなずいた感じであったかもしれない。野村大使は、『「ハル《は熟読の上、無差別待遇原則の項につき首肯し、かくすることが日本にも有利なりとの意を話(←漢字一文字上鮮明。英文ではrevealed。文脈からは「露《でも「漏《でもよさそうであるが)し』た報告した。《法廷証第2928号》

 しかるに後に至って、11月15日国務長官は野村大使に口頭声明を手交し、その中で長官は、日本側提案の最後の文章は『意味が完全に明らかでない一つの条件を提起している』と指摘した。

 この原則は、合衆国に対してその管轄外で行なわれ、または他の諸国によって行なわれる行為について責任をおわせることを意味するものではないということがあきらかにされた。弁護側の証拠には、この問題の字句により日本政府が意味したところは、その原則は合衆国及び日本によって適用されるもので、全国家によってこれらの原則を普遍的に適用するという意味ではないというのである。

 検察側の主張は、この条項が当時実行上可能であったということは周知の事実であったというのである。前に掲げられた説明から見て、それがなぜさように上可能なことであったか、本官としては了解に苦しむ。少なくとも当時はそのように了解されていなかったと思う。ハル国務長官は『米国の真摯なる努力は実を結んで、通商問題につきての今般の提案となった。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)と述べている。かようにその条項は完全に了解され、そして大いに歓迎されたと見てよかろう。であるから、米国が自己の管轄外にある諸国に関するどんなことにも保証を与え得ないということを言う必要はなかったのである。事実何人もそれを要求していなかったのである。当事国が締約するのは自国のためだけであり、世界一般のためにするのではないということは、よく了解されていたのである。

 われわれは今や最も重大である第三の問題に移ろう。すなわちそれは中日関係の問題である。交渉の過程において、論点は究極において日本軍の中国駐屯並びにその撤兵の問題に狭められた。

 中国事情の複雑性からして、本点はきわめて複雑でありかつ困難な問題の一つとなった。ここにおいて、この問題が日本の一つの内閣の倒壊をもたらしたということが想起されるであろう。

 5月12日の最初の日本側提案には、中国問題に関する次の条項が含まれていた。すなわち、

 『支那事変に対する両国の関係。

 米国政府は近衛声明に示されたる三原則及び右に基づき南京政府と締結せられたる条約及び日満華共同宣言に明示せられたる原則を了承しかつ日本政府の中国との善隣友好の政策に信頼し、直ちに蒋政権に対し日本と和平の交渉をなすべき旨を勧告すべし』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証第1、070号》

 これには次のような口頭説明が付加してあった。

  『原了解に提案せられたる日華和平条件は「近衛原則《としてここに確認せるものと実質的に何ら異なるものには非ず。実際前者は後者説明に用い得るものなり。もし蒋介石にして和平交渉開始の米国の韓国を受諾せざる場合、米国側においては蒋介石政権援助を停止すべき旨の了解を別の秘密文書にて受領すべきものとす。もし米国側にてかかる書類に調印し得ざる事情あらば、最高の確かなる筋の確約にても可なり。本項に述ぶる近衛原則とは、(1)善隣友好、(2)共産主義に対する共同防衛、(3)経済提携―――これにより日本は中国において経済独占を行ない、又は中国に対し第三国との利害関係に限度を要求する意図を有するものにあらず。

  前述原則は左の事項を包含す。

  1、主権並びに領土の相互尊重。

  2、善隣として相協力し、世界平和に貢献する極東中核を形成する各国固有の特性に対する相互尊重。

  3、日華間に締結せらるべき協定に従い、中国領土よりの日本軍撤退。

  4、非併合、無賠償。

  5、満州国の独立。(←口頭説明の引用はここまで。ここまで、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 6月21日の米国側提案のこれに該当する部分は次の通りであった。

  『日華間の和平解決に対する措置。

  日本国政府は、合衆国政府に対し、日本国政府が中国政府との和平解決交渉を提議すべき場合における基礎的一般条件、すなわち日本国政府の声明するところによれば、善隣友好、主権及び領土の相互尊重に関する近衛原則、並びに右原則の実際的適用に矛盾せざるものなる条件を通報したるをもって、合衆国大統領は、中国政府及び日本政府が相互に有利にして、かつ受諾し得べき基礎において、戦闘行為の集結及び平和関係の恢復のため交渉に入るよう、中国政府に慫慂すべし。

  注、第3項の前記案分は共産運動に対する共同防衛問題(中国領土における日本軍隊の駐屯問題を含む)及び日華間の経済的協力の問題に関する今後の討議により変更せられることあるべし。第3項の案文修正の提議に関しては、いかなる修正提案も、本項に関し付属書に掲げられたる一切の点が満足に起草せられ、本項及び付属書が全体として検討し得るに至りたる上にて考究するが最も好都合なりと信ず。《法廷証第1、092号》

   付属書。上項におけるいわゆる基本条件は左の如し。

   1、善隣友好。

   2、『有害なる共産運動に対する共同防衛―――中国領土内における日本軍隊の駐屯を含む』今後さらに討議決定すべし。

   3、《経済的協力》国際通商関係における無差別待遇の原則を本点に適用することにつきての交換公文に関する合意により決定するものとす。

   4、主権及び領土の相互尊重。

   5、善隣国として協力しつつあり、かつ世界平和に貢献すべき東亜の中核を形成しつつある各国民固有の特質に対する相互尊重。

   6、でき得る限り速やかに、かつ、日華間に締結せらるべき協定に遵い、中国領土より日本の軍隊を撤退すべきこと。

   7、非併合。

   8、無賠償。

   9、満州国に関する友誼的交渉。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 米国側の項目の中の第2、第3、第6及び第8の諸点が、この段階において意見の相違のあった諸点である。

 満州国の承認は、ハル国務長官から野村大使に手交された最初の提案草案における条件の一つであった。《法廷証第1、059号》5月31日の米国側対案には、『満州国ニ関スル友誼的交渉』という条項があった。《法廷証第1、078号》

 会談の初期において、国務長官は同大使に対して、合衆国の『当初からの立場は、それは中国と日本との間の問題であるというのであって、もし中国が友誼的交渉を通じて自発的にこれに快く同意するのであれば、われわれは何も言うことはない。』と言ったのである。

 ハル氏自身の会談覚書によれば、5月16日に『共産主義に対する共同防衛並びに満州国承認に関して、多少意見が交わされた。』国務長官は、もし日華両国が日本側の提案の「付属書及び説明事項《中に記載されたその他の諸点に関して意見の一致を見ることがでなる(←「できる《が正しい)ならば、これら二点の問題に困難が生じても、それが日華間の協定を妨げるようなものになるとは考えられないと指摘したのである。《法廷証第2、873号》

 付属書の項目中の第3、すなわち中国における経済的協力に関する問題は、結局太平洋地域一般並びに世界における経済活動に関する討議の中に吸収されたのである。

 残余の諸項目を併せたものは、日本と合衆国との交渉における基本的争点の第三のものを形成した。付属的問題で後ほど一層の重要性を有するに至ったのは、日華事変を終結させる目的で、合衆国が日華間の斡旋をすることであった。

 5月16日に、ハル国務長官は、共産主義に対する共同防衛の問題には、中国と日本との間の協定を阻止するような困難があるとは考えられない旨を述べた。同日付の国務長官の口頭声明書において、次のように述べている。すなわち、

 『一、二の点では困難が生ずるかもしれないが、そのほかの前述の諸点を基礎にして中国と日本が協定を結び得るならば、その他の点はそれにいくらかの修正を加えれば克朊できない障害とはならないと考えられる。「付属書及び説明《に明示されているように、善隣友好、共産主義に対する共同防衛、経済独占及び他国との利害関係に対する限度の要求を伴わない経済提携に関する近衛声明中に示された原則は、それに若干の修正を加えた上、容認し得るものと考える。』《法廷証第2、874号》

 中国における日本軍隊駐屯問題は早くから慎重な考究がなされた。この問題には二つの面があった。すなわち、

  1、一般的和平締結後においても、中国の特定地域における軍隊駐屯の問題。

  2、和平後、指定地域以外の中国領土からの日本軍の撤退。

 前述の二点のうちの第一は、最も綿密的に検討がなされた。またそれが問題解決の最大の困難事であった。

 第二の点は比較的わずかしか討議されず、結局合衆国側条件に対する日本側の同意によって解決されたのである。

 5月20日に、ハルは、中国領土における駐兵並びに共産主義に対する共同防衛の日本側の提案の是非を論ずることを、現在欲しないと述べた。そのときの彼の考えは『右の二点を、もう少し広い条項、例えば第三国の国民の権益を保護する特別措置の必要であった地域において、日本国民及びその財産、権益を上法行為から保護する特別措置を規定する条項のもとに包含させることが』できなければならないというのであったようである。《法廷証第2875号》

 5月31日に、米国側の修正案が提出された。それには、共産主義に対する共同防衛の問題はさらに討議を要するものとの字句は残されていたけれども、『日本陸海軍の中国よりの撤退』は『可及的速やかに』遂行さるべきであるとの新しい規定が含まれていたのである。《法廷証第1078号》

 同時にハル国務長官は、『合衆国政府はいかなる決定的討議にも先立って、ある適当な段階において、その討議に含まれる一般問題、殊にそれが中国に関係するところの事項を極秘裡に中国政府と相談する意である。』との企図を示したもう一つの口頭声明書を手交した。《法廷証第1080号》

 6月4日に日本大使館員と国務省代表者たちとの間に重要な会合が開かれた。重慶政府を一地方政権以上のものと認めないという従来の政策にもかかわらず、日本は今や提案された了解案に従って、日華事変解決のために重慶と交渉する意思であり、また南京か重慶か、あるいはその合流したものか、どれが将来の中国政府となるかを中国国民の決定に委ねるつもりであったことが、案文修正の討議の際に明らかになったのである。またさらに陸軍とともに海軍をも撤退させることをこの協定をもって規定するという米国側の提案は、用語の問題だけを残して受諾されたことが明らかとなった。

 6月6日にハル長官は、6月4日に提案された修正は、5月12日の日本案の範囲を徐々に狭めたと主張した。

 これによって約10日後、6月15日に日本側からさらに修正を加えられた案が手交された。6月21日に合衆国もまた、口頭説明書とともに米側の修正を含んだ提案を提出した。この提案における中国問題に関する項は、ただ一つの例外を除いては5月31日の案と同文であった。この一つの例外というのは、この項の案文の変更は問題の細部解決に至った上考究するのが最も好都合であると信ずるという語句の注記が追加されたことであった。

 口頭声明書においては国務長官は初めて共産主義活動を防止するための中国との協力手段として、内蒙古及び華北に軍隊を駐屯する権利を保持しようとする日本の希望に対し危惧の念を表明した。彼はまた、この提案は第三国の主権に影響を及ぼすかもしれないと考える旨を表明したのである。

 この点に関する交渉の詳細に入る必要はない。9月6日の日本側の提案が豊田外務大臣によってグルー大使に手交された。グルー氏はその提案に関する自分の見解を国務省に報告した。同氏の中国問題に関する結論は、『このたびの日本の提案に含まれた公約は、もしこれが履行されるならば、日本によって進行中の侵略行動の中止という必須条件が充たされることになる。』というのであった。

 グルー氏は『両国関係の調整を成就するためには、ある程度の危険を冒さなければならない。しかし約束を重んずるように日本側を誘導するだけでなく、また合衆国政府にある種の強制の槓杆(こうかん。「てこ《のこと)を残しておくような方策をわが国の方でとるために生ずる危険は、これらの提議を拒否する結果としてなされる経済制裁の加速的適用のために起こるべき戦争の危険ほど重大ではないと認められる。』と指摘しているのである。《法廷証第2896号》

 この間、当時の諸提案の説明に用いるため、豊田外務大臣は9月13日にグルー大使にその写し一部を手交するとともに、大使館に訓令を発送した。《法廷証第2899号》この説明は次のようなものであった。

 『日支両国の安全を脅かし、かつまた支那における平和と秩序の保持を危うくする共産主義的及びその他の破壊活動を防止する目的をもって、日支両国は共同防衛の形において協力するであろう。日支呂国による共同防衛の履行には、両国間の合意に従い、ある一定期間中日本軍隊の駐屯を含むものである。支那事件遂行の目的をもって支那に派遣された日本の軍隊は、この事変が終結されたとき撤退されるであろう。』

 10月2日の入念なる口頭覚書において、ハル長官は中国における日本軍駐屯問題はさらに討議を要するとの元来の態度から、大いに離脱したようである。この口頭覚書において、長官は『当政府は上確定期間、中国特定の地域に軍隊を駐屯せしめんとする要望を支持るための日本国政府の見解を着目す。かかる提案に関する理由(複数)の問題は全然これを擱(「お《。別の字かもしれないが。英文ではEntirely apart from the question of the・・・。「理由の問題は今はさておき《という意味)き、日本国が中国において広大なる地域を軍事的に占領し居る秋において、日華間の平和的解決につき提議せらるる条件中にかくのごとき規定を包含せしむるは異議の余地あり。これを例うるに他国の領土を軍事的に占領する一国が、平和的解決及び他の地域よりの占領軍撤退のための条件として、相手国の特定地域における自国軍隊の駐屯継続方を相手国へ提案すとせば、右は非公式会談において討議せられたる進歩的かつ開化的針路及び原則を合致せざるものと認められしかして当政府の見解によれば、かかる方法は平和を招来し、又は安定の期待を提供することなかるべし。』《法廷証第1245号G》

 この声明が原則上どのように健実なものであるにせよ、この交渉のとった道程を思い起こせば、ここにとられた態度は、この交渉の目的のためにそれまでとられた態度と完全に両立しない点があるという観測をここで、述べないでおくことはむずかしいと言わざるを得ない。

 われわれの前に提出されている証拠は、そのとき以後米国国務省がこの問題に関して、実際に少しでも交渉を続けたかどうかに疑問を生ぜしめる。それ以上のその後における日本側の努力は、ほとんど考慮されなかった。そして当然東京は、次第に合衆国側の態度には誠意がないと感ずるようになったようである。

 1941年10月16日に近衛内閣が崩壊した。近衛自身が彼の手記において説明しているように、この政変の直接かつまた最も近い原因は日米交渉に関連しての中国駐兵問題であった。《法廷証第2914号》

 交渉決裂を避ける最後の努力として、豊田外務大臣は駐屯問題について、米国の了解を得るのに必要であると思われることの所見をまとめ、これを近衛首相に提出した。しかし結局は、彼が必須と考えたかような譲歩について、閣内の意見一致を得ることは上可能であった。その結果、内閣総辞職となったのである。

 東条内閣の組閣と同時に、全日米交渉問題の再検討がその第一の仕事とされた。この最考慮に伴う最初の産物が、11月7日にハル国務長官、同10日にローズヴェルト大統領に手交されたいわゆる甲案と称された新しい日本側提案であった。この提案には次のような条件があった。

     『日本軍隊配置

  (A)支那における駐兵及び撤兵

  支那事変のため支那に派遣せられたる日本国軍隊は、北支及び蒙疆の一定地域及び海南島に関しては日支間平和成立後所要期間駐屯すべく、爾余の軍隊は平和成立と同時に、日支間に別に定めらるるところに従い撤去を開始し、治安確立とともに2年以内にこれを完了すべし。

  (B)仏印における駐兵及び撤兵

  日本国政府は仏領印度支那の領土主権を尊重す。現に仏領印度支那に派遣せられおる日本国軍隊は、支那事変にして解決するかまたは公正なる極東平和の確立するにおいては、直ちにこれを撤去すべし。

      無差別原則

   日本国政府は、無差別原則が全世界に適用せらるものなるにおいては、太平洋全地域すなわち支那においても本原則の行なわるることを承認す。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 甲案において初めて日本は日華和平成立後に、軍隊を駐屯すべき地域を明確にする用意を示したのである。

 ここにおいてこの交渉中初めて海南島に軍隊を残置させる条件が正式の提案の中に明記されたのである。そしてまたこの交渉中初めて日本は甲案において、おおむね和平が成立した後、中国から軍隊を撤退するに要する明確な時間的限度を示したのである。

 甲案の入手とともに、野村大使は、もしも合衆国から所要期間について質問された場合には、およそ25年の見当である旨をもって折衝するように訓令されたのである。当時の状況は25箇年は妥当なものであったかもしれない。あるいは上当であったかもしれない。しかしそれはわれわれの当面の問題ではない。問題は、もしそれが上当であったのならば、その点について、さらに交渉が行なわれるべきであるということであり、まただれしもそう期待するであろう。しかし米国はこの問題について、なんら関心を示さなかったのである。

 甲案提出の数日後、日本側によって、和平成立後の中国における駐屯兵力の問題も明白にされたのである。11月18日ハル氏との会談の際、野村海軍大将はさらにはっきりとした訓令に接したもののように、『日本は中国にどのくらい兵力を残置したいか』という質問に答えて、多分9割が撤退されるであろうと述べた。

 バレンタイン氏は、この提案をどのようにアメリカ見なしたかをわれわれに告げた。同氏の見解は後ほど考察しよう。この間米国は東京から野村大使にあてた数通の電報を傍受した。これらの傍受電報がアメリカの態度に大きく作用したようである。

 実にこの通信傍受が日米戦争の悲劇であると見ることができる。米国国務省は日本大使館の往復文書がどのような内容のものであったかを知らなかった。しかしその手もとには合衆国の情報部によって解読翻訳された傍受電報があったのである。この傍受はたしかに情報部の油断なさ、明敏さ及び勤勉さを示しているのであろう。しかし同時に今日となっては、この傍受は、国務省に対して、単に生半可な知識、ある時にはまったく逆な知識を伝えることだけに成功したようなものである。

 実例として、弁護側はかような傍受電報を3通われわれに示した。この3通とは、野村大使に対して甲案乙案及びその背後の企図を伝えたものである。

 最初のは、東郷外務大臣発野村大使あて11月4日付の電報第725号であって、翌日の御前会議において甲案及び乙案の可決がただその確認を待つばかりとなっていること並びに東条内閣が日米交渉を継続することに決したことを説明したものである。この電報の原文は、日本外務省において発見され、弁護側によって提出されたのであって、本件における法廷証第2924号である。この電報の合衆国の情報部によって傍受され解読翻訳されたものが法廷証第1164号である。傍受された方には明白に由々しい影響をもたらすような事実の誤謬はまずない。しかしながらこの通信の全般に流れている精神が余りに歪曲されてしまっていたようであり、この傍受電報を読む者をして、その起案者の意図の趨勢に関して、ある程度の誤解を起こさせるようなものにしていた。

 一方が他方の正しい精神を現わすことのできないことを示すために、この2つの書類における若干の同一箇所をここにあげてみる。

 原文は次の通りである。(これに続くカギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 『1、破綻に瀕せる日米国交の調整につきては日夜腐心し居るところ内閣においては国策の根本方針を審議するため連日大本営連絡会議を開催し熟議に熟議を重ねたる結果ここに政府大本営一致の意見に基づき日米交渉対案を決定し・・・・

  2、帝国内外の事態は極めて急迫を告げ今や一日をも曠(むなし)くするを許さざる状態にあるも帝国政府は日米間の平和関係を維持せんとする誠意より熟議の結果交渉を継続するものなるが本交渉は最後の試みにして我が対案は吊実ともに最後案なりと御承知ありたくこれをもってしてもなお急速妥結に至らざるにおいては遺憾ながら決裂に至るの外なくその結果両国関係は遂に破綻に直面するのやむなきに立ち至るものなりすなわち今次折衝の成否は帝国国運に甚大の影響ありて実に皇国安危に係るものなり。

  3、・・・・帝国政府はこれが急速妥結を計るため、従来難きを忍びて譲歩を重ね来たるにかかわらず米国政府はこれに対応するところなく終始当初の主張を固執し居る実情にして我が方朝野にもその真意に疑惑を感ずるもの少なからざる義なり。然るにもかかわらず我が政府があくまで誠意を披瀝してさらに困難なる譲歩を敢えてせる所以のものは一に太平洋の平和維持を顧念するに出ずるものにして・・・・。今や帝国は能う限りの友誼的精神を発揮し進んで能う限りの譲歩をなしもって局面の平和的収拾を計らんと欲するものなるをもって・・・・米国政府において・・・・翻然猛省、局面の極めて重大なるに顧み善処せんことを要望するや切なり。

  5、・・・・なお交渉の重大性に鑑み貴地の折衝と並行し本大臣においても東京において在京米国大使と会談を行なう予定なるにつき・・・・手違いを避けるためにも当方訓令は厳守ありたく貴方において取捨選択の余地なきことと御承知ありたし。(←ここまで原資料では漢字片仮吊交じり文)

 傍受文は次の通りである。(この次から、また漢字片仮吊交じり文)

  1、さて、日米関係はその破綻に瀕しわが国民は国交調整の可能性に信を置かざるようになりつつあり。国策の根本方針を審議するため、内閣は連日大本営連絡会議を継続し熟議に熟議を重ねたる結果ここに政府及び軍最高司令部一致の意見に基づき日米交渉再開に対する反対提案を提起し得るに至れり・・・・。(←「反対提案《とあるのに注意されたい。英文ではcounter-proposal。日本語で「対案《とあるのを、アメリカ情報部は「反対提案《と訳した。つまり、単なる「対案《、話し合いのための提案が、「反論《「反対意見《という意味あいに変わっているのである)

  2、わが帝国内外の事態は極めて急迫を告げ今や延期を許さざる状勢にあるも、日本帝国と合衆国との平和的友好関係を維持せんとする誠意より熟議の結果、今一度交渉継続を賭す事に決せり(←to gamble once more on the continuence of the parleys。つまり、遊びのように、もう一度ギャンブルをするという意味になっているのである。日本側が上誠実であるかのような印象を与える誤訳である。いや、意図的な改変と見たほうがいいかもしれない)。ただし本交渉はわれわれ最後の試みにして、吊実ともにこの反対提案は、実に最後案なりと御承知ありたくこれをもってしてなお急速妥結に至らざるにおいては、遺憾ながら会談は決裂に至るの外なく、その結果両国友好関係は実に渾沌の縁(ふち)に臨むのやむなきに至るものなり。すなわち今次折衝の成否は帝国国運に甚大なる影響あり。実際、われわれはこの骰子の一擲に我が国土の運命を賭せる次第なり。

  3、・・・・われわれは急速妥結を計るため、従来難きを忍びて譲歩を重ね来たるにかかわらず米国政府はこれに対応するところなく、終始当初の提案を固執し居る現状にして、我が方朝野にも米国の誠意に疑惑を感ずるもの少なからざる義なり。我が政府はあらゆる種類の屈恥的な事柄を忍びあくまで誠意を披瀝してさらに譲歩を敢えてせり。然り彼らに対し屈朊するまでに譲歩せり。その所以のものは一に太平洋の平和維持を顧念するに出ずるものにして・・・・今やわれわれは能う限りの友誼的精神を発揮し進んで能う限りの譲歩をなしもって局面の平和的収拾を計らんと欲するものなり。

  5、これら会談の重大性に鑑み、貴地の折衝と並行し余もまた当地において折衝すべし。余は在京米国大使館と(←正誤表によると「米国大使館と《は誤りで「米国大使と《が正しい)会談を行なう予定につき貴使においては米国官辺との会談によりてその意見の趨勢を得次第当方に電報ありたく・・・・。右様の関係上手違いを避けるためにも当方訓令はあくまで厳守ありたし当方訓令は貴方において取捨選択の余地なきことと御承知ありたし。』

 傍受文の精神全体が間違っているようである。弁護側のブレークニー氏が、『この両者を比較して一読すれば、国務省が読んだ電文を書いた無謀にして冒険的な賭博者と、その大使に慎重訓令する真面目な責任ある政治家の区別がつくであろう』と言ったのはあるいは正しいかもしれない。確かに電報の起案者は、彼の大使に訓令を送るにあたって、『今一度交渉継続を賭す』というようなことを考えてはいなかったのである。彼の通信中にはなんら射幸的なものや、またなんら駆引き的な精神もない。事態の重大性に対する彼の認識、交渉がほんとうに打ち切られたままとなった場合の自国の運命に対する彼のまた閣僚全部及び統帥部によっても同様に感じられていた深刻な憂慮の表示、彼の誠実さ、これらが全部傍受文では失われているのである。

 次に、甲案を伝達した電報の原文、法廷証第2925号と、アメリカ情報部によって解読翻訳された傍受文、法廷証第1165号を比較してみよう。両者の関係を見るために、原文と傍受文よりの若干の抜粋を対照欄に示してみよう。

  原文245       傍受246

(ここから上欄に「原文245《と題して、下欄に「傍受246《と題して、それぞれ掲載されている。ブログではそのような表示ができないので、順次対照する形で掲載する。「原文245《は単に「原文《と、「傍受文246《は単に「傍受《と表示する)

(原文)

本案は修正せる最後的譲歩案にして左記のとおり緩和せるものなり

(傍受)

本案は修正せる最後通牒なり

左記の通り我が方の要求を加減した

(原文)

《注》所要期間につき米側より質問ありたる場合には、概ね25年を目途とするものなる旨をもって応酬するものとす

(傍受)

《注。「適当期間《につき米国当局より質問ありたる場合には、漠然とかかる期間は25年にわたるものであると答えられたし。》

(原文)

米側が上確定期間の駐兵に強く反対するに鑑み駐兵地域及び期間を示しもってその疑惑を解かんとするものなり

(傍受)

米側が上確定地域への我が駐兵に強く反対し居るに鑑み、我が方の目的は占領地域を換え官吏の移動をなしもって米側の疑惑を解かんとするものなり

(原文)

この際はあくまで『所要期間』なる抽象的字句により折衝せられ無期限駐兵に非ざる旨を印象づくるように努力相なりたし

(傍受)

我が方は従来常に曖昧なる言辞をもって表し来たりたるところ、貴使においては出来得る限り上徹底にしてしかも快適な言辞にて婉曲に述べ、無期限占領が永久占領に非ざる旨を印象づけるよう御努力相なりたし

(原文)

通商無期限原則につきては、地理的近接の事実による緊密関係に関する従来の主張はこれを撤回し

(傍受)

通商無差別原則の問題を考慮するに当たってはもちろん地理的近接の問題あるも

(原文)

10月12日付(←正誤表によると「10月12日付《は誤りで「10月2日付《が正しい)《「米政府《》覚書中に『日米何れかが特定地域において一の政策を執るにかかわらず他地域においてこれと相反する政策を取るは面白からず』との趣旨の記述あるに

(傍受)

米政府はその覚書中において何れか一国が特定地域において所定の政策を取り、他の一国が他の特定地域において補足的な政策を取ることは実行し得ることなるべしとの趣旨の記述あり

特に次の点に注目すべきである。(←この一行は、パル判事が「なお四原則・・・極力回避するものとす《までの一段落に、特に注意をうながしたものだと思われる)

(原文)

なお四原則につきてはこれを日米間の正式妥結事項《了解案たると又はその他の声明たるとを問わず》中に包含せしむることは極力回避するものとす

(傍受)

(四)原則として我が方はこれを日米間に妥結せらるべき提案《了解案たると又はその他の声明たるとを問わず》中に包含することを回避すること熱望する

(原文)

我が方において自衛権の解釈を濫りに拡大する意図なきことをさらに明瞭にするとともに三国条約の解釈及び履行に関しては従来しばしば説明せる如く、帝国政府の自ら決定するところによりて行動する次第にしてこの点は既に米国側の了承を得たるものなりと思考する旨をもって応酬す

(傍受)

貴大使は我が方が自衛の範囲を拡大する意図なきことを明らかにするとともに、既に過去において説明せる如く我が方は欧州の戦争が太平洋にまで拡まることを避けんと欲することを明らかにせられたい。

 ここでは多言を弄して批評を加える必要はない。傍受からの最初の数箇の抜粋は、日本の上信についての米側印象を充分説明するであろう。日本の『改訂最後通牒』であるとして国務省が了解していたものは、絶対的の最終譲歩でさえなくて、単に事実上の最終譲歩にすぎなかったものを表明した提案であったということがわかる。『おおむね25年を目途とするものなる旨をもって応酬するものとす』ということは、『漠然とかかる期間は25年にわたるものである。』と答えているものではない。『駐兵地域及び期間を示しもって・・・・疑惑を解かんとするものなり』とあるを、その目的が『占領地域を換えかつ官吏の・・・・、もって・・・・疑惑を解かんとするものなり』と解釈するのはまことに上親切である。原文に説明してある『所要期間』は確かに誠実な政治家の説明並びに正直な訓令であり得る。しかしどんな政治家でも、自国の大使に対して原文に相当する傍受中にあるような訓令を与えるとしたら、決して正直または誠実であると断言できない。『しばらく相手の御機嫌をとって置こう』と意図する政治家であっても、自国大使に対して叙上のように自己の肚を見せないであろう。もちろん一の主張を撤回することは、それを別の機会まで保留することと同じであるということを争うものはあるまい。

 この電報は実に日米交渉に当たる国務省の態度を決する上において重要な要因であった。

 さて、米国の四原則の問題に移るが、傍受電報中の節には独立の番号(四)が付けてある。これによってそれを『(一)無差別と通商』『(二)三国同盟の解釈と適用』及び『(三)撤兵』と同格のものにしようとしている。かような事情で、このように重要な部分の一つであり、また他のものと同性質であるように見せかけ、さらに『四原則』という言葉を省略し、協定中に『これ』という言葉を入れることを避けたいと述べることによって、この一項はもちろん右に提案した諸点の全部を包含する正式協定に関して、日本が言質を与えることを回避しようと努めるであろうということを言っているのである。『当然』国務省はこのようなメッセージを送ったと思われている者と交渉する際には警戒していた。

 三国同盟協定に関する最も重要な問題についてさえ、傍受電報は残忍な曲解であった。

 三通の電報で比較し得る最後のものは、東郷外務大臣から野村大使宛の11月5日付第735号である。その原文は法廷証第2926号で、その傍受電報は法廷証第1、170号である。この電報の二様の解釈の中で注意を要する価値のある相違は一つしかない。しかしその一つは提案『甲』及び『乙』の最後的性格に関する検察側の主張に鑑み、きわめて重要性のあるものである。

原文248

甲案にて妥結上可能なる際は最後の局面打開策として乙案を提示する意向なるにより・・・・

傍受249

もし交渉妥結上可能なること明白となりたる際は我が方は絶対に最後の提案として乙案を提出せんとする。

 弁護側主張によれば、乙案は暫定協定案であって、だからこそ、もし実質的協定に対する交渉が一時決裂したと思われた場合、『最後の局面打開策』として正しくかつ正確に記述されている。『乙』案が原文電報の次の節で『最後の提案』と呼ばれているのは、最後の打開策という意味においてである。これは、検察側が解釈する最後通牒の意味の絶対的最後の提案とは別個の問題である。

 この電報は、東京における外務大臣と在京米国大使との間の平行した会談に言及していることがわかっていたかもしれない。グルー氏が時折りその事態並びに日本の態度に対する自己の見解を、本国に報告したことは証拠に出ている。同氏の見解は大して重要視されなかったようであるが、それはきわめて上幸なことである。本官の意見では、同電報の内容とグルー氏の上変の見解との鑑み、国務省は傍受電報の解読が、あるいは事態を正確にあらわしていなかったということを懸念したかもしれない。いずれにしてもこのような懸念があったのである。そしてもしわれわれが、せめてかような懸念があったということを意に留めて考えれば、この上幸を(←正誤表によると「上幸を《は誤りで「上幸な《が正しい)事態のすべては充分説明がつくと言えよう。

 グルー氏は自国政府に対して、日本が主張した局面打開の要望が、果たして誠意のあるものであったかどうかを立証する機会を日本に与えることが賢明である旨を一再ならず切に進言した。国務省は彼の進言を受け入れなかった。また英国政府も、その大使ロバート・クレーギー卿の進言にもかかわらず、米国に対してその大使の進言を受け入れるように強く勧告しなかったもののようである。

 1941年7月、日本の南部仏印進駐から生じた問題は、その時期以後日米交渉の最重要中の第四の問題となった。この問題は一時交渉の中絶を来たし、米国をしてその後日本の声明した平和的意図に疑いを抱かせるに至り、かつ米国をして対日経済断交を決意させるに与かって力があった。

 日米交渉が開始されたとき、日本軍隊はすでに、1940年9月当時のフランス政府と締結の協定に基づいて、仏印北部に駐屯していた。  《法廷証第620号》しかしながら印度支那問題は、ほとんど一年後に至るまで、ワシントン交渉においては直接取り上げられなかった。フランスとの共同防御のための協定に基づき、仏印の南部地方にさらに日本軍が前進したとき、初めて問題となった。《法廷証第651号》

 日本は右の進駐をもって、日本の経済的存続に脅威を与え、また日華事変における日本の立場に影響を与えるような包囲に対する予防的措置であると主張した。

 フランス及び日本政府は、1941年7月20日ごろ、南部仏印の某基地占拠のための協定に達していた。《法廷証第6478号》7月5日以降かような行動の噂が流布されていた。しかしてその当日、国務省は野村大使に対して、かような行動の、当時進行中であった日米交渉に及ぼす悪影響を指摘した。

 それにもかかわらず、フランスとの協定は実施された。野村大使は24日ルーズヴェルト大統領と会談をした。大統領は野村に対して、もし南部仏印進駐が実施されたならば、大統領として日本に対し、石油禁輸を実施しないわけにはいかなくなるであろうと警告した。大統領は、もし同地域を協定によって中立化し、その資源の自由かつ公平な入手を可能にすることができるならば、当時仏印に進駐していた日本軍隊は撤兵できるであろうと提議した。

 しかしながら仏印に関する日仏共同防衛の最後の議定書は履行され、7月29日日本軍の進駐を見た。

 ところがこれに先立って、7月26日、ローズヴェルト大統領は同月20日の日仏間の協定実施に対する対抗策と称して、行政命令をもって合衆国内の日本の全資産を凍結した。英国及びオランダもこれにならった。

 7月2日、すなわち国務省が仏印進駐の噂を聞く少なくとも三日前に、日本大使館はすでに国務省においては資産凍結を考慮中で、あるいはすでに決定しているという噂を聞いていたということに注意を払うことは、ある程度の重要性をもつかもしれない。24日ローズヴェルト大統領は、太平洋の平和維持を理由に、それまでこの凍結令を拒否することができたと断言した。強力な輿論は、対日石油輸出禁止を支持してきた。大統領はそのときまで右凍結令を拒否することができた。しかし南部仏印進駐は、大統領として、その正当性を主張する理由を奪うことになるのである。他方日本の方では、対日石油輸出禁止はすでに決定を見ていたのであり、その直接的影響を避けるためにこそ、かような行動に訴えなければならなかったと主張した。

 仏印進駐並びに7月26日の米側の凍結令による経済断交の結果として、日米交渉は数週間上活発となった。

 合衆国は、日本の南方進出の行動は威嚇的であり、そして太平洋問題について包括的な平和的解決に努力すると称する日本の目的と矛盾するものであると認めた。

 8月6日野村大使は、米大統領の7月24日付仏印中立化についての提議に対する回答という形式で、一つの新しい日本の提案を受理した。これが野村大使に新しい交渉のきっかけを与えた。大使は同日、この提案をハル国務長官に提示した。

 日本は大統領の提案を受け入れなかったが、アメリカが南太平洋における軍事的措置を中止することを約束し、そして英、蘭両国政府に対しても、同様にそれを中止することを勧告するならば、日本は日華事変の解決次第、すでに派兵している軍隊を撤退することを約束すると申し出た。米国は仏印から日本軍隊が撤退した後でも、同地における日本の特殊地位を認めるということになっていた。

 われわれはここで、日米交渉の詳細についてはあまり関心がない。野村大使は、大統領と日本の総理大臣とが世界の一般的平和に着眼して意見の交換を行なうために、会談がとり行なわれた(←「行なわれる《が正しい)ことを提案した。大統領は少なからず明らかな関心を示し、かような会談の種々な点を討議し、結局野村大使に対して、二つの口頭声明書を手交した。

 そのうちの一つは、武力または武力の威嚇によって隣接諸国を軍事的に支配するという政策または計画に従って、日本政府がさらに歩を進めるならば、米国は米国が必要と認めるあらゆる措置を講じないわけにはいかなくなるであろうという、日本に対する重大な警告であった。

 他の一つの文書は、提議された両国首脳者会談に関するものであった。その文書には、『日本政府が日本はその膨張的活動を中止し、またその立場を調整し、米国が確約した計画並びに原則の線に沿って太平洋に対する平和計画を始めることを欲し、かつそうし得る立場にあると感じた場合に、7月に中断された非公式検討的会談の再開を考慮する用意があり、そして意見の交換をとり行なうために、喜んで適当な時日と場所を取り極める』と述べてあった。

 9月6日、日米交渉再開を企図した日本の対案が手交された。仏印に関する項には次の通り定めてあった。すなわち、『日本は仏印よりその隣接地域に武力的進出をなさず、又日本の南方地方に対しても正当の理由なく武力的行為に訴えざるべし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証第1245号D》

 この前提は前もってグルー大使に手交されたもので、これについて同大使は国務省にその見解を報告した。それに関する同大使の結論は、中国問題に関しては、最近の日本の提案に含まれた公約は、もしそれが履行されれば、日本側において漸進的な侵略行動を中止すべきであるという要求を充たすであろう。《法廷証第2898号》

 仏印に関する提案の項目並びに中国及び三国同盟に関するものについて、グルー大使は、日本の提案に盛られた確約は、もしそれが履行されれば、太平洋問題の満足な解決のための基本的必要条件を充たすと感じた。しかし、ハル長官は、この提案をもって提議された了解の精神と範囲を全般的に狭く縮小してしまったと認めた。

 9月25日の日本案は、仏印問題に関する交渉に対して、新しい考えを持ち出した。これはすなわち次のようなものであった。『日本国政府は仏領印度支那を基地としてその近接地域《支那を除く》に武力的進出をなさざるべく、又太平洋地域における公正なる平和確立する場合には現に仏領印度支那に派遣し居る日本国軍隊はこれを撤退すべし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)《法廷証第1、245号E》

 この提案の中の新しい要素は、太平洋地域における公正な平和確立の上は撤退するという条項である。この『太平洋地域ニオケル公正ナル平和』という表現は、野村大使に対する説明電報の中で、すでに8月28日に説明されていたように見受けられる。その電報の中には『援蒋「ルート《の閉鎖等により蒋政権が完全に地方政権に堕し、日支関係が大体において事実上平常化しその他仏印よりの物資獲得が公平かつ円滑に行なわるが如き事態に立ち至れる場合には必ずしも支那事変の全面的解決を見ざる場合においても撤兵を考慮し得べし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)とある。《法廷証第2、920号》これは日華事変の解決を見届けるため、仏印に軍隊を駐屯させなければならないという主張を、日本が放棄するというところにまで立ち至ったことを示すものである。

 よって、公正な平和に関するこの条項は、実際には原案の条件を狭くしたものではない。それは事実上の譲歩である。

 検察側は、日本はすでにフランスに対して確約を与えていたから、日華事変解決次第、ないしは太平洋地域に公正な平和確立の暁は撤兵するという約束は譲歩にならないと主張した。これは本官の見解では問題を混乱させるものである。日本が今実行することを約束しようとしていることが、他の国との協定によって、すでに実行すべき義務を負っていることかどうかということは、どうでもよいことである。日本は日米交渉中に譲歩しようとしていたかどうかについては、どのようにして交渉が開始され、またその交渉中日本は何を同意しようとしたかということによって判断されるべきで、その際日本の同意しようとしたことがすでに日本の義務であったという問題とは関係がない。

 日米交渉はなんら顕著な発展を見ないで11月にはいった。

 甲案は9月25日案に比較して、仏印部門でわずか一つの異なった点があったにすぎない。甲案は、日本政府は仏印の領土主権の保証を約束する(←「保証を約束する《という部分、英文では「undertakes to guarantee《。guaranteeを「保証(する)《と訳している。次の一文を考慮すると、「保障《と訳した方がよかったのではと思う。)という一条件を付加した。『保障』(←「?ランティ《と振り仮吊あり。「ガランティ《か「グワランティ《あたりだと思うが、上鮮明である。英文では「“guarantee《。”)は『保証』(←「アシュアランス《と振り仮吊あり。英文では「“assurances”《である《)という言葉の代わりに使われている。

 日米交渉の三主要問題に対する日本の立場における変化は、簡単に言って次の通りである。

 (1)三国条約の解釈の件については、日本の義務は右の条約の第3条の規定に従って適用されるという当初の立場から、米国が欧州戦争に参入する場合、日本の義務の解釈という問題については、まったく独自の立場からこれを決定するという保証を与える点にまで日本は譲歩した。日本はどのような協定の場合にも、両国政府が防衛と自衛との考慮に基づいて、その行動を律するという規定を挿入することにもまた同意した。(2)経済活動の問題は日本が米国の立場を容れることによって一応完全に解決された。ただし後日両国の立場は再び離反するに至った。無差別国際通商関係の協定を西南太平洋地域に限定するか、あるいは米国の要求するように太平洋地域に限定するかということが、この場合真に唯一の問題であった。

 第三の、そして決定的な問題、すなわち日本軍の中国からの撤兵問題は、この期間中《近衛内閣》ほとんど進展するところがなかった。この一問題はすべてただ今後の審議にまつのみであった。

 東条内閣は甲案を通じて、この点に関し真に重大な譲歩を行なった。

 甲案は三国同盟問題に関しては、表面上なんら日本の立場に重大な変化を示さなかった。しかしながらアメリカの準備とアメリカによってとられた措置を念頭に置いて考えれば、アメリカの行為の性格について独自の決定をするという日本の言質は、かような筋合いにおいては、それが以前もっていた意味とはまったく違った意味を帯びてくるであろう。もし11月7日甲案が手交される以前において、すでに米国が欧州枢軸諸国家に対して戦争を始めており、そしてもし日本がこのことを充分承知しながらも、米国を攻撃せず、しかも一方において日本が米国のとった措置の性格をみずから決定すると言いながら、米国とこの協定を結ぼうとしていたのであるとすれば、それは米国のとった措置を、少なくとも自衛の措置と判断していたことを含蓄するものと思われる。本官の意見では、国務省はグルー氏がとったと同じような見解をとることができたと思う。

 経済的活動の問題については、甲案は次のように述べている。

 『日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるにおいては太平洋全地域すなわち支那においても本原則の行なわるることを承認す。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)この条件は各締約国だけを拘束するものであって、右の締約国に対して第三国の行為を支配する拘束力を与えないと説明された。

 中国からの撤兵問題に関しては、上に指摘したように、甲案中においてある譲歩が行なわれたと言える。

 乙案は、本件においては法廷証第1245号Hである。それには次のように述べてある。

 『1、日米両国政府は、いずれも目下日本軍の駐屯する仏領印度支那一部を除く南東アジア及び南太平洋地域に、武力的進出を行なわざることを確約す。

 2、日本国政府は、日華間の平和恢復するか又は太平洋地域における公正なる平和確立する上は、現に仏領印度支那に駐屯中の日本軍隊を撤退すべき旨を確約す。

 その間に日本国政府は、本取極め成立せば、現に南部仏領印度支那に駐屯中の日本軍はこれを北部仏領印度支那に移駐するの用意あることを闡明す。しかして本取極めは、後日最後的了解に包含せられるものとす。

 3、日米両政府は、蘭領東印度において、その必要とする物資の獲得が保障せらるるよう相互に協力するものとす。

 4、日米両国政府は、相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべく確約す。

 5、米国政府は、日華両国間の全面的和平回復に関する努力に支障を与うるが如き措置及び行動に出でざるべし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 バランタイン氏はその証言の中で、次のように述べた。すなわち、この受諾は『合衆国は日本の過去における侵略を看過し、将来における無限の征朊に同意することを意味し、又合衆国の一般外交政策の最も重要条件に関する過去のすべての見地の放棄、合衆国の中国に対する裏切り、又合衆国は無言の提携者として日本が西太平洋及び東亜全域において盟主権を確立する努力を教唆するの地位を受諾するということを意味したのであり、又太平洋における米国の権利を固守し維持する機会を潰してしまい、最後の意味において米国の国家的安全に最も重大な脅威となったことでありましょう。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 同氏はそのあとでいわく、『南仏印における軍隊を北仏印に移動せしめるという条件付日本側提案は、まったく意味をなさないのでした。何となれば、その移動される軍隊は一日か二日で元の南仏印に戻すことが出来るからであります。なお日本側は仏印に駐屯せしむる軍隊の数にも制限を設けていなかったのであります。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 この見解では、交渉の全部が無意味であった。もしこれが日本の申出及び約束に対する米国の態度であったとすれば、なぜ米国当局は一体このような交渉に同意したか了解に苦しむ次第である。この態度を表明することによって、米当局は単に時間を稼ごうとしていたにすぎないという疑いを起こさせる。

 11月26日国務長官は二通の文書の形式をもって、日本代表に対して回答した。第一は、日米間の協定に対する提案された基礎を試案の形で略述したものであり、第二は、それに関する説明的叙述であった。この11月26日のハル覚書(Hull note。ハル・ノート)は、本件においては法廷証第1245号Iである。それは一般原則を述べることから始まっている。実際上の効力を有する規定は、『合衆国政府及び日本国政府によって執らるべき措置』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)という表題で、第2項にある。これらは次のように要略できる。すなわち、

  『(1)両国政府は、日米並びに英帝国、中華民国、和蘭、蘇連邦及び泰国間に多辺的上可侵協定を締結するに努力す。

   (2)両国政府は、日米並びに英、蘭、支、泰各政府間に、仏領印度支那の領土保全を尊重し、それに脅威をもたらすべき事態発生せば、それに対処すべく必要なる措置を執るための共同協議を開始し、又仏領印度支那における通商上の均等待遇を維持すべき協定の締結に努力す。

   (3)日本は中国及び仏印より全陸海空軍及び警察力を撤退す。

   (4)両国政府は、重慶政府以外の中国におけるいかなる政府もしくは政権をも支持せず。

   (5)両国政府は、団匪事件議定書に基づく権利並びに居留地権を含む中国における一切の治外法権を放棄し、他国政府も同様の措置を執るとの同意を得べく努力す。

   (6)両国政府は、最恵国待遇及び貿易障壁の軽減に基づく通商協定締結のための交渉を開始す。

   (7)両国政府は、資産凍結を撤回す。

   (8)弗円比率安定の計画に同意し、その資金を設定す。

   (9)両国政府は、何れも第三国と締結したる協定は本協定の基本的意図たる太平洋地域を通じての平和の確立及び維持と衝突するが如く解釈されることなきに同意す。

   (10)両国政府は、他の諸国をして本協定の基本的政治上及び経済上の諸原則に同意し、これを実際に適用せしむるが如く勧誘すべし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 日本政府は、これをもって、8ヶ月間の交渉による、了解に対する発展を無視するものであると見た。

 1、多数国間の上可侵条約は、証拠の示す限り、日米交渉中一度も言及されていなかったのである。この提案は、かようにしてこの討議にさらにソ、泰の二国を加え、その上著しく時間を要する行動を示唆した。

 2、日本はすでに乙案によって、仏印における特殊権利の主張を放棄している。この問題を多辺的協定の盛り込むことは、仏印問題の解決をいたずらに複雑化させるばかりである。

 3、本条項は、中国及び仏印から日本の陸、海、空軍及び警察力の即時かつ無条件の撤退を規定している。

 4、重慶政府以外には、中国におけるどのような政府または政権をも支持しないという相互約定の提案は、二つに分かれた根本的な新発足点であった。すなわち、

  (a)満州国の問題は、従来常に今後の討議にまつものとされていた。日本は満州国の承認をその問題に包含していた。この提案によってこの問題は取り止めとなり、満州国問題は放置されることになっていた。

  (b)同様に、ハル覚書は汪政権の廃棄を要求している。

 5、中国における一切の治外法権を関係国が放棄するという提案は、日本がすでになすことを約束していた何事かを行なうべきであるという要求でなかったことは確かであった。

 (6*8は論評の必要はない)

 9、三国同盟を対象とした条項は、従来の米国の主張の範囲を相当出たものであり、要するに、本同盟の廃棄を要求するに等しいものである。この条項の字句は、表面上は反感を買うようなものではないが、内容から判断すれば、従前の米国の要求を遥かに超えているかもしれない。

 11月26日付のハル覚書と、6月21日の米国の提案《法廷証第1092号》の各条件を、並列して比較してみよう。すると次のようになる。

 6月21日案331  11月26日案332(←この部分原資料では「3323《とあるように見えるが、英文を参照すると「332《が正しい)(この次から、原資料では上段に「6月21日案331《が下段に「11月26日案332《が掲げられ、対照できるようになっている。ブログではそのような形にできないので、前者を「331《と、後者を「332《と略して、交互に掲げる)

(331)

《該当なし》

(332)

多数国間の上可侵条約

(331)

《該当なし》

(332)

仏印に関する多数国間の条約

(331)

日本軍隊の中国からの撤退についてその時期及び条件は今後さらに討議する《仏印について該当なし》

(332)

日本の陸、海、空軍及び警察の中国及び仏印からの即時かつ無条件の撤退

(331)

満州国に関する友誼的交渉。

(332)

蒋政権以外の中国の政府又は政権の否認

(331)

日本は三国同盟の解釈について、米国の自衛行動に対しては三国同盟は発動しないという、米国にとって満足すべき解釈をなす

(332)

三国同盟条約の破棄

(331)

《該当なし》

(332)

中国における治外法権、租界及び団匪事件に基づく権利の放棄(←原資料で上段・下段の対照はここまで)

 被告はこの覚書を最後通牒と考えた。ある被告の指摘したように『このような政治的条件あるいは事態は、おのずから朝鮮地域まで影響を及ぼすであろう。(←正誤表によると「及ぼすであろう。《は誤りで「・・・すであろう。』《が正しい。要するに「』《を付けよというのである。ただ、英文を見ると、この部分には、明らかに「”《はない。次の「・・・追い込まれたであろう。《のところに「』《を付した方がよいように思える。)換言すれば、日本は朝鮮から撤退しなければならない窮地に追い込まれたであろう。』(←おそらくここに「』《があった方がよいだろうと思い、原資料にはないが、付けておく。英文には、上鮮明だが「”《があるようにも見える)日本の大陸における権益はまったく水泡に帰し、日本のアジアにおける威信は地に堕ち、『対外情勢においては、今日の日本の状況になると言っても差し支えないわけであります。これはすなわち満州事変の情況よりも日本の状態は非常に悪くなって・・・・それ以上に日露戦争前の状況に還れという要求であります。これがすなわち日本の東亜における大国としての自殺である云々』《記録第36136*7頁参照》

 現代の歴史家でさえも次のように考えることができたのである。すなわち『今次の戦争について言えば真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対してオ(←正誤表によると「オ《は誤りで「戈《が正しい)をとって起ち上がったであろう。』

 現代の米国歴史家は次のように述べている。すなわち

 『・・・・、日本の歴史、制度と日本人の心理についてなんら深い知識を持たなくても1941年11月26日の覚書について他の二つの結論を下すことができた。第一に日本の内閣は、たとい「自由主義的《な内閣であろうと、また「反動的《なそれであろうと、内閣の即時倒壊の危険もしくはそれ以上の危険を冒すことなしには、その覚書の規定するところを交渉妥結の基礎として受諾することはできなかったであろう。第二に米国国務省の高官、特に極東問題担当の部局の高官はすべて右の覚書が作製されている時に、日本政府が「太平洋の平和維持を目的《とする会談再開のプログラムとしては、この覚書をとうてい受諾しないであろうということを感知していたに相違ないのである。同時にまたローズヴェルト大統領とハル国務長官が東京(の日本政府)はこの覚書の条項を受諾するだろうとか、またこの文書を日本に交付することが戦争の序幕になることはあるまいと1941年11月26日(の遅きに至って)考えるほど日本の事情にうとかったとはとうてい考えられないことである。』

 ローズヴェルト大統領とハル国務長官は右の覚書に含まれた提案を日本側が受諾しないものと思いこんでいたので、日本側の回答を待つことなく右の文書が日本側代表に手交されたその翌日米国の前哨地帯の諸指揮官に対して戦争の警告を発することを認可したのであった。ロバート報告書は、米国前哨指揮官らが11月27日にはすでに開戦の日が迫っているとの警告を入手していたと明言している。

 このハル覚書を吟味すると同文書は「暫定的取極(←「暫定的取極《に小さい丸で傍点あり)《の日本の提案を絶対的に拒否していることがわかる。右の覚書は、米国がかような「暫定的取極(←「暫定的取極《に小さい丸で傍点あり)《に到達する方法として、多年外交上認められている方法に従うことを敢えて選ばなかったことを明らかにしている。右文書は争点を第一義的な、そして上可欠の条項に限定していなかった。それは覚書の内容を決定するにあたって、その当時より少し前に行なわれた日本軍の南進行動にその主眼をおこうとはしなかった。この南進については、それが南方地域の英国及びオランダ両国の属領並びにヒリッピンに脅威を与えたと言うことができたであろう。それは日本が軍隊を南方から撤退させることによって先に述べた脅威の原因を除く用意のあることをすでに申し入れていた点を無視していたのである。

 合衆国政府が日本に対して戦争の威嚇を匂わせることにより、また戦争に導く危険のあるものとして米国当局によくわかっていたところの経済的圧迫を加えることによって、これほど徹底した全面的な日本軍の中国撤退を要求したことは、右覚書以前の日米交渉の全期間を通じて一度もなかった。

 その当時もまだ合衆国の義務であったヒリッピン諸島の保護ということに要求を限定せず、また日本の侵略に対して英国及びオランダの属領を保護するに必要な最小限度の条項にさえその要求を局限することなしに、右の覚書は事実上東洋全体に対するアメリカの政策の最大限の要求条項を提示したも同じようなものであった。右の覚書は日本に対して、中国及び仏印からの陸、海、空のすべての軍隊及び警察機関を撤収すること、重慶政権だけを(中国の政府として)認めること、またこれに類似する追加的譲歩をなすこと、中国において、かつて「門戸開放主義の中に包含されていた種々の政治上の、また経済上の慣行を復活履行すること、これを要約すれば、それまでに日本がしてきたことのすべてを「暫定的取極《の吊の下に取り消すことを要求したのである。突きつめて言えば右の文書の眼目は、右の(門戸開放の)主義そのものを拡大して、中国全土はもちろんのこと、仏印にまでも及ぼし、つまりはほとんど東洋全体にまで及ぼそうというものであり、これはそれよりさき10年も前に、満州だけについて時の国務長官が経済的制裁と戦争とをもって支持すべきものであると主張したとき、フーバー大統領が断然その支持を拒絶したところの主義である。

 1931年フーバー大統領は時のアメリカ政府の各長官に、厳粛な言葉をもって次のように告げた。すなわち日本が満州においてとった諸行動は、いかにも嘆かわしいことではあるけれども、それは『アメリカ国民の自由を危険に陥れるものでもなく、またわが国民の経済的、また道義的将来を脅かすものでもない。予は以上のような危険に立ち至らない限りは、絶対にそのためにアメリカ人の生命を犠牲にすることを提言しようとは思わない。これだけでは理由として充分でないというのであったら、(こう言ってもよい。すなわち)文明がまだ相当の程度まで脆弱であるときに、戦争に赴くということは、長期闘争を意味する。このような戦争に勝ちを占めるには、単に海軍の作戦だけではだけである、われわれはまず中国人を武装させ訓練しなければならない。(そして)われわれはわれわれ自身が全世界に疑惑の眼をもって見られるほどに中国における争いにまきこまれていることを発見するであろう。』

 1936年の末に蒋介石と国民党が、中国共産党と合作して対日共同戦線を張ったことは、今では周知の事実である。1937年7月に起こった日本の対中国戦争を誘発したのは、ほかでもないこの(国共)合作である。この中国側の合作ができて以来、アメリカは日本に対抗して、いろいろな方法で中国側を援助したのである。

 『合衆国が経済的に、そして軍需品の形で非交戦国間の援助としては前例のないほどの援助を中国に与えたこと、そして若干のアメリカ市民が中国人とともに日本の侵略に対抗して戦った』ことを検察側は認めている。

 本官の所信によれば、侵略は必ずしもいつでも容易にそれと識別できるものではない。そうするには、法との関連がないとは言えないところの複雑な事態を調査する必要を生ずるかもしれない。右に述べたような合衆国の参加介入を指して、日本はこれを交戦行為と解釈するかもしれない。

 一方ではある抗争に参加しようと試みながら、他方ではなお平和を維持している国の種々の努力や願望に対して、国際法はおそらくそれを考慮に入れないであろう。もしその国が自国のひいきする交戦国の味方として参加しようというのであったら、その場合国際法は同国が真正面から交戦国としてそうするのであり、中立国としてするのではないとの決定を下すのである。

 おそらく合衆国政府の申立ては、中国も日本もこれを戦争であると宣言していないから、両国間にはまだ戦争は存しないというのであったろう。しかし検察側が、ある目的のためにはこの敵対行為を戦争を性格づけておきながら、これに関連しての合衆国の行動を正当化するためには、それが戦争でないと主張することは許されないことであろう。

 合衆国当局がその自衛の抗弁を右に述べた行動にまで及ぼそうという意向であったかどうか本官にはわからない。自衛について当時の大統領ローズヴェルト氏が抱いていた、非常に広義な見解については、本官はすでにこれに言及しておいた。大統領の言によれば『攻撃』は『南北いずれにあるかを問わず、われわれの安全を脅かす基地の支配によって開始される』。そして『われわれは近代戦の電撃的スピードをそれ(基地の支配)と結が(←正誤表によると「結が《は誤りで「結び《が正しい)つけて考えねばならぬ。』(その場合)占領されている基地は『わが国の海岸から幾千哩離れているかもしれぬ。』『アメリカ政府は必要上やむを得ない処置として、どの地点でわが半球に対する攻撃の脅威が発生したかを決定し、そして同地点に(ある国が)到達したときには、防衛措置をとる決心をしてなければならない。』かようにして『近代の戦争技術』は自衛の範囲を拡大したのである。『敵が家の庭先にはいって来るまで待つことは自殺に等しい。』『仮想敵国が攻撃のための拠点を獲得するまで待つのは愚かなことである。ありきたりの常識から判断してもかような敵が拠点を獲得しないように何をおいても先ずこれを防止する戦略を用いる必要がある。』

 自衛に対するかような定義をわれわれが容認すると否とにかかわらず右のことは少なくとも非常に高い地位にある為政者の正直な見解である。他の国の為政者や政治家が自衛について同様な見解をとったと言明した場合、たといその結果行なわれた戦争で、その国が打ち負かされたかもしれないとしても、右に述べられた見解は、少なくともわれわれがそれら為政者や政治家の「誠意(←「誠意《に小さい丸で傍点あり)《の有無を決定する上において役立つはずである。この点についてはなおあとで論ずるであろう。この段階でわれわれが関心をもつ問題は、中国の抗日を援助するに当たって米国がとった行動を、どう見るかということだけである。もしそれが交戦行為であったならば、それが侵略的であったか防衛的であったかは問題でない。法の見るところでは両国はもはや平和状態にはないこととなる。右の行為は、中日間に戦争が存在しなかったと仮定した場合に限って、交戦行為ではなかったと言えるのである。

 われわれとしてはこの段階で合衆国と日本との平和関係を撹乱しないように、これらの(米国)の行為は交戦行為ではなかったという立場から論を進めよう。

 外交上のいろいろな動きがあった後、合衆国は日本に対して戦争とまではいかないが、その一歩前の手段をとり始めた。1938年7月、合衆国は航空機の対日輸出に『モーラル、エムバーゴ(道義的禁輸)』(moral embargo)を断行した。1939年7月、バンデンバーグ上院議員の決議案提出後、ハル国務長官は、1911年の通商条約は6ヶ月後に期限満了となる旨通告した。1940年の夏、合衆国は輸出に対する諸種の制限を加え始めた。これらは一方においてはアメリカの軍備計画を強化する意図をもつものであったが、これと同時に対日輸出の大部分に統制を加えたのである。1941年6月、蒋介石将軍は一米人を政治顧問に任命した。またビルマ・ルートの交通運輸改革のため(幾多の)アメリカ人が派遣された。シェノールト将軍指揮下のアメリカ人飛行士たちは合衆国軍隊から退官して中国軍に志願編入することを許された。1941年8月ジョン・マグルーダー代将の統率下に、米国軍事使節団が中国に派遣された。

 1941年7月26日、合衆国は日本との一切の取引を政府の統制下におくために、日本人の在米資産を凍結した。

 これは経済戦の宣戦布告であり、確かに中立的な行動ではなかった。これと同時に豪州、オランダ及び英国によってとられた経済的、軍事的処置と相まって、これは日本人が吊づけたように、正しく『対日包囲政策』であった

 被告島田は、これら一連の出来事が起こった経緯、及びそれが日本人の心に与えた影響について、われわれの前で次のように供述した。すなわち

 『それまでに連絡会議が未だ一回も開かれていない10月25日(←正誤表によると「10月25日《は誤りで「10月23日《が正しい)、靖国神社で新御祭神の祭典が行なわれた。東条が電話で・・・・定刻より10分ばかり早く来てもらいたいといってきた。その通りに出かけると、彼は当日から連絡会議を開きすべてを白紙に還して、対米外交交渉に関する討議を開始し戦争を避けるために、日本は、米国に対して最大限、どこまで譲歩し得るかを深く研究する積りであると固い決意を繰り返したのであった。

 『それ故に余は、国民を苛烈悲惨なる争闘に突き落とす如き戦争内閣に入閣するなどとは思わず、否むしろその有する軍部の実力、統制力、並びに方針によって、この重大なる国際紛争の平和的解決のためにあらゆる手段を尽くすであろう内閣の閣員になることと信じたのである。

 『連絡会議は10月23日から始まり、出席者何れも、外交交渉によって事態を収拾し得るとの確信を披瀝し、実に心から平和を念願していたが、問題はいかにして、その平和を確保するかにあった。長時間にわたる討議が行なわれた。

 『連絡会議と1941年11月5日の御前会議との間において、余の考慮は次の二問題に集中されていた。

 『(1)いかにすれば、良く在外部隊を撤収する最も困難なる問題を緩和し得らるるか、しかしてこの事実と大本営陸軍部の見解とを調和し得られるか。

 『(2)米国と了解に達するために日本のなし得べき譲歩の最大限度はいかなるものであるべきか。(和文にはここで改行があるが、英文にはなく、一続きの段落となっている)

 最大の難問題は中国及び仏印からの撤兵問題であった。余はこの問題を深く考究した。海軍部内の見解を確かめ、他の閣僚の意向を詳知し、又当時における輿論の趨向を充分に見極めた(←正誤表によると「見極めた《は誤りで「見極めた。《が正しい)海軍はかつて三国同盟に反対し又常にこれに重点を置くを避けおりし次第なれば他の問題について了解に到着し得れば三国同盟は解決上能の問題とは感じなかった。いかなる経過を辿って日本はかかる国際的難局に直面するに至ったかについてはこれを慮外に置き、余は専ら現在をいかにすべきかの観点より問題を考察したのである。それゆえ、最良の解決策は、米国及び英国と互譲妥協を図ることにあった。ここにおいて余はこの線に沿うて誠心誠意力を尽くし、もって上幸なる敵対行為の発生の可能性を除去するに努めた。

 『かく事態が発展したる以上は中国より我が軍隊を全面的に撤収することは事実上上可能にして、又日本国民を驚愕せしむる精神的大打撃なるべしとの強硬なる意見が支配的であった。かくする事はすなわち中国について言えば、中国が日本に対し勝利を得たと等しく、これにより、米国及び英国の東亜における威信と地歩は昂騰するが、これに反し日本の経済生活及び国際上の地位は低下せしめられ、これら両国に従属するの余儀なきに立ち至るであろうと論ぜられた。ゆえに当時における余の考えは、もし反対論をかかる措置に同調せしめ得べくは中国本土よりは我が軍隊の漸次戦略的撤収をなさしめ、仏印よりは、即時撤収をなさしめ、もって妥結に達することが望ましいと言うにあった。これは明らかに日本が近衛第三次内閣当時になし得なかった大譲歩をなさんとするものであった。

 『11月5日の御前会議において、外交手段により平和的解決に対する最善の努力を着実に継続(←漢字2文字上鮮明。英文ではmaintain)すると同時に、他方戦争に対する準備にも着手することが決定された。当時における日本の苦境を思えば、これは矛盾した考え方ではなかった。連合国の行なった対日経済包囲の効果は、実に想像以上に(われわれが世界に向かって敢えて自ら認めんとするには余りにも)深刻であった。我々は米国の刻々の軍備の増強を驚愕の眼をもって見守ったが、いかにしても単なる対独戦のみを考慮してかかる軍事的措置が執られつつあるのでありとは(←正誤表によると「あるのでありとは《は誤りで「あるのであるとは《が正しい)考えられなかった。米国太平洋艦隊は遥かに以前よりその西海岸の基地からハワイに移動して日本に脅威を与えていた。米国の対日政策は冷厳にしてその要求を容赦なく強制する決意を示していた。米国の軍事的経済的対華援助は痛く日本国民の感情を害していた。連合国は明らかに日本を対象とした軍事会議を実施していた。窮地に陥ってどうにもなられない(←正誤表によると「どうにもなられない《は誤りで「どうにもならない《が正しい)というのが当時における日本の切迫感であった。

 『(ロ)・・・・これら事実を考慮すれば、日本には唯二つの解決方法が残されていた。一は、日米相互のギィヴ・アンド・テイクの政策による問題解決の目的をもって外交手段によって全局面を匡救することであ、他は(正誤表によると「あ、他は《は誤りで「あり、他は《が正しい)自力をもって連合国の包囲態勢による急迫せる現実の窮境を打開することであった。この第二の手段に出でることは全くの防衛的なもので最後の手段としてのみ採用せらるべきものであると考えた。日本のみならずいかなる国家といえども自存のため行動をなし得るの権利を有すること、又いかなる事件の発生により、その権利を行使し得るに至るかを自ら決定し得る主権を有することは余はいささかたりとも疑わなかった。政府は統帥部と連携して真剣に考究したが、政府統帥部中誰一人として米英との戦争を欲した者はなかった。日本が四ヶ年にわたって継続し、しかも有利に終結する見込みのない支那事変で手一杯なことを、軍人は知り過ぎるほどよく知っていた。従って自ら好んで、さらになお米英の如き強国対手の戦争を我より求めたとなすが如きことは、信ずべからざるほど幼稚なる軍事的判断の責を強いて我々に帰するものである。』

 『(ハ)政府は、譲歩の最大限度を慎重に考究し、日米交渉妥結のため、万策を尽くし、・・・・つつあった。他方統帥部は、政府の平和的交渉が失敗に帰した場合には、その要求によって自己の職責を遂行しなければならぬという問題に直面していた。統帥部の立場は簡明直裁なものであった。すなわち海軍の手持ち石油は約二ヶ年分でそれ以上入手の見込みはなかった。民需用石油は六ヶ月以上続かなかった。12月に入れば北東信風が台湾海峡、比島、マレー地域に強烈になり、作戦行動を困難ならしめるであろう。翌春まで待てば、石油補給力の漸減のため、日本海軍はたとい政府の要請を受くるも海戦を賭する(←「賭する《の部分、英文ではriskである)ことは上可能に陥っているであろう。

 『(ニ)統帥部が11月5日の御前会議において、その立場を明らかにし、もし外交交渉が失敗に帰し、行動開始に移るべき要請を受くるが如きことあらんか、初冬までに何らかの手を打たねばならぬ、然らざれば行動上能に陥る惧れありと論じたのは、この考慮に基づくものであった。かくて政府をして、なお外交交渉による平和の望みを捨てずその可能なるを感じつつも戦争に対する措置を講ぜしむるに至らしめた所以のものは、以上述べた如き事実がもたらした絶体絶命の情勢によるものであった。

 『余は政治家にもあらず、又外交官にもあらずしかしただ余の有する全知全能を傾けて問題の解決に努めた。11月26日のハル・ノートは実にかくの如き疑念、希望、心痛、苦心(憶測)の錯綜した雰囲気裡に接受せられたのであった。

 『(ロ)これは青天の霹靂であった。米国において、日本のなした譲歩がそのいかなるものにもせよ、これを戦争回避のための真摯なる努力と称し、かつ米国もこれに対し歩み寄りを示しもって全局が収拾せられんことを余は祈っていた。然るにこの米国の回答は頑強、上屈にして冷酷なものであった。それは我々の示した交渉への真摯な努力を毫も認めていなかった。ハル・ノートの受諾を主張したものは、政府部内にも統帥首脳部にも一人もいなかった。その受諾は上可能であり、本通告は我が国の存立を脅かす一種の最後通牒であると称せられた。右通告の条件を受諾することは、日本の敗退に等しいというのが全般的意見であった。

 『(ハ)いかなる国といえども、なお方途あるにかかわらず好んで第二流国に転落するものはない。・・・・すべての主要国は常にその権益、地位及び尊厳の保持を求め、この目的のため常に自国に最も有利と信ぜらるる政策を採用することは、歴史の明証するところである。祖国を愛する一日本人として、余は米国の要求を容れ、なおかつ世界における日本の地歩を保持し得るや否やの問題に当面した。我が国の最大利益に反する措置を採るのを支持することは叛逆行為となったであろう。』

 これがその当時日本人の脳裡にどんなことが起こりつつあったかを示す一つの記述である。当時発生しつつあった出来事や事態について、われわれが現在知っている事から判断するならば、確かにこれこそはまさにその通りであったろうと思われる記述である。右に述べられた説明は、日本のとった行動を正当化するかもしれないし、また、しないかもしれない。しかしここで言っておかなければならないことはこの記述が、なんらの共同謀議なしに起こったこれらの出来事を十分に説明しているという点である。

 アメリカが重慶にある中国政権を支持したことは、本件において充分に説明された。米国は重慶政権が日本人がその(←正誤表によると「日本人がその《は誤りで「日本人及びその《が正しい)中国傀儡政権に対して、戦争を遂行することを鼓舞し援助した。また英国及びオランダを説いて米国の対日戦準備にした(←「にした《とあるが、英文を参照すると、「に参加させた《が適切な訳である)。さらに(対日)経済断交を行ない、ハル氏は真珠湾攻撃の少なくとも一週間前に、英国大使に向かって『外交の面においては日本との関係は事実上終わりを告げた。今や問題は陸海軍当局者の手に移される』と告げたのである。事実合衆国は1941年7月の禁輸以来、単に時をかせいでいたのである。両当事国とも双方の意見の対立が到底調和を許さないものであることを知っていた。アメリカ側として敵対行為を開始することは、1941年7月においてさえもそれに伴う危険が非常に大きかった。その当時においては、ロシアがドイツの攻撃下にもちこたえることができると確定的にわかっていたのでは決してなかった。しかしこの危険は、中国が日本と妥結に達し、西洋諸国の願望に反抗する中日提携をなす危険とにらみあわせて考慮しなければならないものであった。

 1941年7月のエムバーゴの後に残る唯一の問題は、日本がいつ、どこで、戦端開始の一撃を打ち下すかということであった。アメリカの実力は逐次増大しつつあったので、アメリカとしては敵対行為を延期できればそれだけ有利であった。時はアメリカに有利に動いていたし、アメリカ側が時を稼ごうと望んだのは充分な理由があってのことであった。

 効果的な禁輸がもっと早くから実施されなかったわけは、合衆国がその当時日本に対して友好的であったからではない。当時一般に行なわれた見解は、もしも全面的な禁輸を実施したら日本は破滅するに至るであろうというのであった。そうなると日本は戦うよりほかに途がなくなる。しかしアメリカには(その時)まだ対日戦争の危険を冒すだけの用意がなかった。ドイツが南アメリカを通じて、また大西洋方面において、アメリカを攻撃することができないという点が充分確かめられるまでは、米国としてうかうかと太平洋において全面的戦争を招来するようなことはできなかったのである。

 以上の点は本件においてほとんど疑う余地のないまで、証拠が立証しているように見受けられる。とにかくこれが当時の事態に対してなされ得る、そして道理に適った一つの見方である。アメリカの為政者や陸軍の要職にあった人々でさえも、この事態を見逃さなかったし、その結果日本が採用を余儀なくされるかもしれない方針が、何であるかという見透しについては、だれ一人疑念をもってはいなかったのである。

 日本の行動を上法となし、訴追国家のとった処置を正当化するにあたって、検察側は1928年のパリー条約、1922年ワシントンで締結された九国条約、さらに1921年同じくワシントンで署吊された四国条約に大いに依拠している。われわれはここでは正当性の問題には関心がない。われわれは今、出来事についての説明を探し求めているのである。しかしわれわれはここでちょっと眼を転じて、これらの列強がとった故意の共同行為を正当化する上において、右にあげた諸条約がどういう関係に立つものであるかを調べてみよう。

 1928年のパリー条約についてチーニ・ハイド氏は次のように言っている。すなわち『同条約は留保条項によって蜂の巣のようになっており、また著吊なその起草者に言わせると、防衛を理由として行なわれる戦争には、なんら関係がないことになっているため、同条約の違反を立証するのはなかなか容易でない。たとえば戦争を始めることが(同条約の)違反であると結論するためには、事実と法律とにきわめてこみ入った考量を加え、その上で決定に達しなければならず、そしてある特殊な場合には、正しい決定に達することは、非常にむつかしいであろう。ある特定の戦争を遂行することは、(同条約の)違反を構成するという訴追について、同条約はこれにつき審理もしくは調査を行なうためのなんらの取り極めをももくろんでいない。その上、違反が行なわれたと決定した後、被害国に味方して違反国を罰すべき行動に出る当事国に対して、その安全を保証するなんらの規定もない。この条約は右のような手続によって、中立の義務を修正する自由を全然与えていない。この理由からして、右のようなことをなし、そして制止の手段としてボイコットを使用する国家群は、法律上明らかに弱味のある立場にみずからをおくこととなる。従ってブリアン・ケロッグ条約は、そのままではたといその規定が無視されたと結論すべき理由がある場合でも、ボイコットの実施には役立たないのである。

 1922年の九国条約もまた、その取り極めを無視して、禁ぜられた方法で中国と取引をする締約国を処罰すべき仕組みをもっていない。ワシントンでできたこの条約との関連における当事国の立場については、本官は他の箇所でこれを論じておいた。

 太平洋ニオケル締約国ノ島嶼タル属地及ビ島嶼タル領地ニ関スル1921年の四国条約は、きわめて意義深い計画を構想している。すなわち『同条約の実質的内容は《第1条及び第2条において》締約国ノ何レカノ間ニ締約国ノ「権利《ニ関スル争議ヲ生ジ外交手段ニヨリテ満足ナル解決ヲ得ルコト能ワズカツ「ソノ間ニ幸イニ現存スル円満ナル協調ニ影響ヲ及ボスノ虞アル場合ニオイテハ《・・・・「共同会議《ノタメ他ノ締約国ヲ招請シ当該事件全部ヲ考量、調整ノ目的ヲモッテソノ議ニ付スベシ、と規定している。また、前記ノ「権利《ガ「別国ノ侵略的行為《ニヨリ脅威セラルルニオイテハ締約国ハ右特殊事態ノ急ニ応ズルタメ共同ニ又ハ各別ニ執ルベキ最有効ナル措置ニ関シ了解ヲ遂ゲンガタメ、充分ニカツ隔意ナク互イニ交渉すべきことを約定している。この条約には、ボイコットによる場合のような罰を同条約の締約国に加える案は全然ない。またこの取り極めの参加国でない局外の国に対して、共同防衛の行動をとるという明確な仕組みもない。』(←このカギ括弧は省くのが正しいのではなかろうか。英文にも引用符「”《がある。おそらく誤椊だろう)

 すでに指摘されたように、当時中国と交戦していた日本に対して、連合国がとったような処置に出ることは、右紛争に直接参加するにも等しい行為であった。かれらの行動は中立の理論を無視し、また国際法が今なお非交戦国に課している根本的な義務を棄てて顧みないものである。とはいえ本官はこれによって彼らの政策に疑念を挟むのでもなく、また、日本の行動に対抗して中国を援助するために、彼らがとった処置を非難しているのでもない。本官がここで述べたいことは、事の正上正または当否を問わず、連合国は右のような諸行動をとることによって、すでにこの紛争に参加していたのであること、そしてそれから後に日本が連合国に対してとった敵対手段は、どれも『侵略的』なものとはならないだろうということだけである。

 いずれにせよ右に述べたこれらの事実は、起訴状の中で主張されたような種類の共同謀議の存在を全然包含することなしに、それ以後真珠湾攻撃に至るまでの事態の進展を十分に説明している。日本はアメリカとの衝突は一切これを避けようと全力を尽くしたけれども、次第に展開し来たった事態のために、万やむを得ず遂にその運命の措置をとるに至ったということは、証拠の照らして本官の確信するところである。

 提出された証拠は、われわれにこの日本による攻撃を指して、これは両国がまだ平和状態にあったときに行なわれた、突然の、予想されなかった背信的攻撃であると性格づける権利を与えるものではない。合衆国がどの程度まで日本と平和関係にあったか、また米国が日本の使節と実際においてどんな工合に平和会談を行なっていたかという点を、われわれはすでに確かめた。この点においては日本側にはなんらの背信はなかった。最初の公然の行為を日本にさせようとするなんらかのかけ引きが、どこででも行なわれていたかということは全然問題でない。


   (G)結論(←この部分、英文ではPART Ⅳ OVER-ALL CONSPIRACY CONCLUSION という表題になっている)


 この全面的共同謀議の問題に関する限り、残された問題は、本裁判所に提出された証拠全体のもつ集積的効果を考察することだけである。

 本官は重ねて次の点を強調したい。すなわち、本裁判の目的からすれば、諸事件とその拡大が正当化し得るものであったかどうかを定めることは、本裁判所の任とするところではない。本裁判所は、今、果たして諸発生事件が起訴状訴因第1に明記されたような性格をもつ共同謀議または企図の存在というより、それ以外のことで説明できるものであったかどうかをきめるべきであるにすぎない。

 すでに指摘したように、かような共同謀議もしくは企図を直接証明する証拠は一つもない。どのような証人、物件もしくは文書によっても、このいわゆる共同謀議、企図もしくは計画の「事実(←「事実《に小さい丸で傍点あり)《は、直接に証明されなかったのである。検察側は、証拠によって、ある中間的諸事実を立証しようとした。すなわち、検察側によれば、これらの中間的事実は証明すべき主要事実にきわめて近いものであるから、主要事実の証拠として受理できるものであると言うのである。このようにして提出された証拠事実は、単に推定的価値をもつにすぎない。これら証拠事実と証明すべき主要事実との関係は、なんら自然の法則から見た必然的結果ではない。中間的事実と主要事実との結合関係は、これらの証拠事実から主要事実を推論したことが単に蓋然的な推論であることを示すようなものにすぎない。

 確証といえるほどの絶対的確実性は、人生の出来事においては滅多に得られないものである。従って蓋然性は確実性には達しないかもしれないが、われわれとしては、蓋然性の程度如何に基づいて行動しなければならない。しかしかような蓋然性の程度は、それを確実性と見なしても間違いでないと言えるぐらいに高度のものでなければならない。推測や疑念をこの蓋然性と混同してはならない。われわれは、先入観をもって事を始めてはならない。アルダーソン男爵の警告を想起することは、きわめて貴重な助けとなるであろう。すなわち同男爵が言うには、『人間の心は、無理に一つの関連ある全体の部分にしてしまうために、いろいろの事情を相互に都合よくあてはめること、またさらに必要な場合には、多少これをこじつけることをさえ好む傾向があった。しかもその人の心が怜悧であればあるほど、かような事柄を考えるにあたって、度を越し、みずからを誤らしめ、欠けている結合関係を補い、先入的な理論と合致し、かつこの理論を完全なものとするために、必要な事実はこれを真実と仮定する傾向が一層強かったのである。』

 検察側が依拠した証拠事実は、「証明スベキ事実(←「証明スベキ事実《に小さい丸で傍点あり)《が真実であると言うこと以外の結果とは両立しないというような関係を主要事実に対してもっていなければならない。

 起訴状訴因第1に述べられている共同謀議、企図もしくは計画の立証に導くものとして、検察側が依拠した数箇の証拠事実について、本官はすでに考察を加え、いかにそれらの事実が、かような共同謀議、企図もしくは計画がなくても、充分に説明できるものであったかを示した。

 こう言えば、各個の事件は右のようにして説明されるであろうが、全部の事件を一緒にした場合には、かような全面的共同謀議、企図もしくは計画の存在ということによって、初めてこれを最もよく説明できると主張されるかもしれない。

 本官の意見としては、証拠のもつ効果はそのようなものでないと考える。

 しかし、かりに以上の通りだと仮定しても、この種のやり方には一つの大きな仮定が入っているのであり、それによってわれわれは、問題全体を問いをもって問いに答えることになる。一体われわれが、これら一切の事件はただ一個の決定的な原因をもっていたと仮定しなければならない理由がどこにあるのか。もし各々の事件が他の方法で完全に説明されるのであれば、ある事件を他のものと結びつけたり、相互にあてはめたりすることを考える必要がどこにあるのか。思うに、このようなことをするのは、アルダーソン男爵がとかく人心の求めたがるものと考えた楽しみを、われわれの心も楽しんでいるにすぎないであろう。

 かりにわれわれが何か一個の原因を見出すことになっているとしても、必ずしもいわゆる共同謀議の結論を強いられるものではない。世界のどんな国の対外政策も、一つの共同謀議を表示するものではない。数ヶ国が集まって一つの団体を形成し、国際社会のどこかに優勢を占めている特定の主義に対抗する特定の政策を採用するとしても、われわれはこれをもって特に共同謀議であるとは言わない。それはともかくとして、諸種の事情は、起訴状中の該当期間中、日本をして対外関係において特定の政策をとらせるように発展したことには間違いなく、事実上日本は、随時(←「随時《の部分、英文ではfrom time to time。「その時々の情勢に応じて《という意味)かような政策を採用したのである。

 本官はすでにたびたび、諸種の起源をもつ諸種の要因が日本の対満州政策、中国の残余の部分に対する政策及び一般対外政策の発展にどのような影響を与えたかを示した。この点につき、満州に対していわゆる積極政策が再び採用されたことでさえ、共同謀議から出たものでないことに論及した。リットン委員会自体、数個の要因が積極政策の再度採用のための途を拓きつつあったと述べている。日本の責任ある為政者らは、その時その時政策を決定するにあたって、彼らが日本国民の必要並びに困難として了解したところを無視できず、また事実無視しなかったのであって、これらの事情が決定的要因として作用したに違いないのである。特定の動機を、ある国の対外政策を左右する人々の責に帰することは容易である。しかし右のような責任ある為政者は、必ずしも単に邪悪な企図に動かされて行動するものとは限らない。われわれが好まない国の為政者の場合でも、彼らの任務は、その国の国民に対する責任を伴ったということを忘れてはならない。すでに論じたように、これらの為政者は、右のような困難がたといみずからつくり出したものである場合でも、またあるいは先任者らがつくり出したものである場合でも、これをいささかも無視できないであろう。右のような困難の起因でさえも、為政者がそのような困難に対応するために、ある政策を採用した場合、その政策をもって共同謀議とするものではない。

 ここで重ねて次のことはわれわれの現在の目的にとって重要でないことを強調したい。すなわち、日本が、ある特定の時期に採用したどの政策にしても、あるいはその政策に従ってとったどの行動にしても、それが法律的に正当化できるものであったかどうか、ということである。おそらくそれは正当化できるものではなかったのであろう。しかしここでのわれわれの関心事は、諸種の事情からして、右の政策ないし行動の採用を、いわゆる共同謀議の存在をまたないで説明できるかどうかということだけである。

 本官としては、本判決中、今までのところで、先入観をもつ者でない限り、何にもこれらの事件がいわゆる共同謀議なしに発生したものであることを紊得するだけの資料を与えたと信ずる。日本の為政者、外交官及び政治家らは、おそらく間違っていたのであろう。またおそらくみずから過ちを犯したのであろう。しかし彼らは共同謀議者ではなかった。彼らは共同謀議はしなかったのである。

 起こったことを正しく評価するためには、各事件を全体中におけるそれ本来の位置に据えてみて初めて、正しく評価することができる。これらの事件を生ぜしめた政治的、経済的な諸事情の全部を検討することを回避してはならない。イギリス中心の世界経済秩序、ワシントンにおける外交工作、共産主義の発展とソビエットの政策に対する世界の輿論、中国の国内事情、列国の対中国政策と実際の行動、日本の随時の国内事情のような諸事項に、本官が論及しなければならなかったのも以上の理由によるのである。

 検察側は、共同謀議が、少なくとも1928年に生じた張作霖殺害計画から始まるものとしている。この殺害事件が日本人の手で計画されたとか、この事件は、これに続いて生じた満州事変に関係があるとかいう話を、本官が承朊できない理由は前に述べておいた。すでに言ったように、この事件は今もなお依然として神秘の幕に閉ざされたままである。ともあれ、依然としてこの事件は、本件で問題としている共同謀議のために計画もしくは企図された筋書とは、なんらの関係をももたない孤立した事件なのである。被告のうちのだれをも、いささかでもこの事件に結びつけることはできなかったのである。もちろん検察側にしても、当時の日本政府または同政府の役人のだれかが、この事件と関係があったと主張したわけではない。日本政府の当時の政策がこの殺害事件と首尾一貫するものであったとか、もしくはこの殺害事件がこの政策をなんとか促進するために計画されたものであるとかいうことは、検察側も決して主張していない。

 われわれは、満州事変を二つの部分に分けて考察することができよう。すなわち、(1)1931年9月18日の奉天事件自体と、(2)本事件に続いて生じた満州における事変の発展である。

 本官は、1931年9月18日の奉天事件は日本側の手で計画されたという検察側の主張については、子細に検討を加え、本官がなぜかような主張に承認し得ないか、その理由を述べておいた。当時の諸事情からすれば、確かに日本に対して疑念が生ずる。事件当時でさえ、日本側は同事件計画の嫌疑をかけられていたようである。事件の前後にわたって、日本側が事件に関与しているという噂があった。本官はかような噂をも含めて、この件について裁判所に提出することのできた証拠すべてを子細に考察し、この証拠検討の結果を述べておいたのである。本裁判所は、リットン委員会報告書の域を越える権利をもたないと今も本官が感じている理由も、すでに述べた。ともあれ、かりに鉄道線爆破が日本側の計画によるものであったと仮定しても、現地の将校は、自己の行動を自己防衛のためのものと考えたかもしれないという仮設は、リットン委員会もこれを排除しなかったのである。

 われわれは今もって、この事件を計画したと思われる共同謀議者がだれであるか知らないのである。本官は、この点について提出された証拠を検討し、その証拠の示すところは、せいぜい関東軍の一部青年将校が当時の共同謀議者であったと示すことができるかもしれないゆえんを説明した。われわれはこれらの青年将校がだれであるか知らないのである。被告中、これに関連して土肥原、橋本及び板垣の吊前を挙げ得るにすぎない。本官は、同証拠に承朊できない理由を説明しておいた。

 検察側は、当時の日本政府自体がなんらかこの事件に関係がありと主張してはいない点を、われわれは重ねて想起しなければならない。閣僚中、これに関連して吊前を挙げ得る人物は被告南だけである。本官は証拠を検討し、検察側の主張を認め得ない理由を説明した。

 奉天事件が、続いて満州における事態を発展させ、これが遂に満州国の建国へと発展した。本官の意見では、このことは満州占領についてさえなんらの共同謀議を示すものではなく、まして全世界支配の共同謀議などはなおさらのことである。このように述べる理由は説明しておいた。

 この点に関して、張作霖の殺害から若槻内閣の崩壊に至るまで、諸種の上祥事件に関する膨大な証拠(←正誤表によると「に関する膨大な証拠《は誤りで「(削除)《と指示がある)がずらりと法廷に提出された。これらの事件は確かに上祥事件ではあるが、本審理の対象たる事項に関する限り、なんらの重要性ももたないものである。

 満州について、日本で崩壊されていた意見について、ある証拠が提出された。これらの意見は、組織的宣伝によって日本中に普及されていった。この宣伝には、なんら邪悪なところはなかった。この宣伝は、普通他の国でやるのとまったく同一の、平和的な方法で行なわれた。ある意見を抱く者は、だれでも自己の意見を大衆に広める権利をもっているのであって、この点について、日本でそれだけのことが行なわれたにすぎないのである。もしその人が自己の意見について輿論の支持を得るに成功したとすれば、それに成功したのは彼の功績である。この目的のために、なんらか上正手段がとられたというような主張は全然ない。陸軍の吊がこれに関連して挙げられているが、おそらく暗に暴力というものをほのめかそうとしたのであろう。しかしこの点で、なんらか暴力や欺瞞や強制が行なわれたという証拠は絶対にないのである。

 このようにしてつくられた輿論は、その後の政府の政策の決定ないし形成にあたって、一つの要因であったかもしれない。しかしこれは諸要因中の一つであったにすぎない。当時日本国民の生活中に存在し、当時の日華政策形成に大いに与かって力あった諸要因中のあるものは、すでに指摘しておいた。本官はここで、この輿論でさえ、大川博士一派の単なる宣伝の結果ではなかったことをぜひ述べなければならない。かりに同博士の意見はきわめて容易に大衆に受け容れられるものだったとすれば、それは、その他の要因が日本国民の生活に働きかけていたために、すでに博士の意見を受け容れる素地ができていたからにほかならなかった。本官はすでに、本件のこの面について検討を加えた。そして本官の意見としては、政策及び行動両者の発展は、同時に共同して作用した数個の要因の結果であったのである。満州に関して起こったことについてさえ、なんら共同謀議はなかったのであって、事件はなんらかような共同謀議の結果ではなかったのである。

 本官は、徐々に諸情勢が発展しつつあって、それが遂には新たに発生した諸事態を発展させるに至った経緯を述べておいた。こういう後の諸事態に関連したなんらかの特定の事件は、ある特定の党派の者が、当時の情勢に鑑み実現しようと考えた特定の目的達成のために、計画したものであったかもしれない。しかし単にこれら事態の展開過程のここかしこに企図があったからといって、発展過程全体もまたなんらかの企図の結果であったということにはならない。本官の意見としては、全面的共同謀議という話全体は、途方もない非常識な(←「途方もない非常識な《の部分、英文ではpreposterous)ものであると思う。

 この問題を去るに先立ち、一つのきわめて重要な事実に注意を喚起したいと思う。検察側は本件を、ヒットラー一派のドイツの事件と同一視しているにかかわらず、この事実を全然看過しているように思われるからである。ドイツで起こったこと及びドイツの大衆のヒットラー一派に対する関係は、現在われわれの知るところである。日本においては、輿論は常に有力な要素であった。それは常に内閣の運命を決定することができた。いやしくも輿論形成の要ある場合には、それは完全に合法的な方法で行なわれた。いずれの個人にしても、いずれの団体にしても、なんらかの方法で、この輿論を抑圧し得たということを示すものは、一つとして本裁判所に提出することができなかったのである。本件においては、日本の重臣、政治家、公人、私人で証言をした者も多いが、ヒットラー支配下のドイツで生じたと言われているものに類したことは、一度も聞いたことがない。これらの証人はかつては日本で、従ってまた全世界できわめて高い、有力な地位を占めていた人々であるが、彼らの証言は、今裁判されている人々の行動が、国民のうち右のような有力な人々によって、愛国心の発露であるという以外の何ものとも考えられなかった経緯を明らかにしている。被告がどのようなことをしたにしても、それは純然たる愛国的動機から行なったのである。

 東条一派は、検察側によってヒットラー一派と同一視されているが、現在権力を握っているわけではない。彼らはわれわれの前に囚われの身となっている。本件について証言をするために本法廷に出廷した人々は、明らかにもはや彼らを恐れてはいなかったのである。東条一派は多くの悪事を行なったかもしれない。しかし日本の大衆に関する限り、東条一派はその大衆に対する行為によって、大衆を、思想の自由も言論の自由もない恐怖におびえた道具の地位に陥れることには成功しなかったのである。日本の国民は、ヒットラーのドイツの場合のように、奴隷化されなかったのである。国民は自己の信条、信仰及び行為については完全な自由を保持した。そしてこれらの者は、いかに合法的な宣伝の影響を受けたとしても、なお市民たるものの真の本質に一致するものであったのである。国民の意見に対して加えられた影響も、すべて他の平和愛好的民主国で行なわれるものと本質的に違いがあるものではないのである。

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