歴史の部屋

 人間の行為に影響を与えることを目的とし、強力な社会的統制手段として作用し得る社会的技術は、世界至るところで利用されているものである。これらの進んだ社会的技術の主要な点は、その効果がはなはだ大きいということだけではなく、この大きな効果そのものによって、少数者の支配が助長されるということであると言うのは、おそらく正しいであろう。これらの現代の技術について最も重要なことは、それが中央集権助長の傾向をもつということである。人間厚意に関する新しい科学が人間心理についての知識を政府に用立て、この知識は一方能率増進の方向に利用することができ、また他方大衆の感情を操る道具にすることもできるということは真実である。しかしこの『人間心理についての知識』は、どこでも各国政府が利用しているところである。この意味で、世界中、輿論が国民各自の絶対的に独立かつ自由な意見であると言い得るところはどこにもない。これがかりに悪弊であるとしても、それは時代の悪弊なのである。

 この期間における日本の輿論は、宣伝によって影響を受けたかもしれない。しかしこの目的のためにとられた手段については、常軌を逸した、上法な、ないし犯罪的なものは少しもなかったのである。日本には独裁者はいなかった。特定の個人にせよ、個人からなる団体にせよ、一切の民主的抑制を超越して、独裁者として出現したものは、かつてなかった。政府のなした決定には、一つとして独裁者または独裁的団体の決定であると呼び得るものはなかったのである。あらゆる処理の提案、あらゆる措置の実施が、いかに国務処理の責任者たちの慎重熟慮審議の結果であったか、またカヨウナ決定に到達するにあたって、常に彼らがいかに彼らの理解する輿論と公衆の利益に敏感であったかは、証拠の明らかにするところである。

 一切の事情を考慮し、証拠全体を慎重に検討した結果、本官は次の結論に到達したのである。すなわち、

  1、1928年1月1日から1945年9月2日に至る時期もしくはその他いかなる時期においても、『全面的な性格及び積極的な性質をもつ』共同謀議、あるいはその他のどのような性格、性質をもつ共同謀議も、ともにかつて形成され、存在し、もしくは作用したことのないこと。

  2、起訴状中に記されているような領土的支配のための共同謀議または企図の目的にせよ、また戦争によってかような支配を達成しようとする企図にせよ、いずれも本件における証拠によって立証されていないこと。

  3、被告中何ぴとも、どの時期かに、かような共同謀議のいかなるものかに参画していたことが証明されていないこと。

 ここで本件において提出された証拠を評価するにあたって、本官のとった方法の説明のために、二、三付言しておこう。証拠受理に関しては、これを制限する規則の採用は一切慎まなければならなかった経緯、及びその結果として、価値の疑わしい資料が大量に入り込んだかもしれない事情についてはすでに指摘した。裁判所条例によれば、本裁判所は厳格な司法上の証拠規則を墨守する必要はなかったのであり、また本審理の性格そのものからして、おそらくかような制限的な規則のいかなるものも採用することは上可能だったであろう。しかし証拠受理に関する規則がこのように緩和されたことは、かような証拠の証明力決定に際しても、同じような緩和が行なわれることを意味するものでなかったことは確実である。国際裁判所の裁判官は、『提出される一切の証拠を受理し、そしてその上決定に到達するに際し、その証拠をどうしたかを発表することを拒むことによって、右の窮境から免れようと努めた』という非難をしばしば受けたのである。われわれ裁判官が取捨選択しなければならない証拠の量と性格とから見ると、以上のことは、本件においてもさして驚くにあたらないことである。しかしながら本官は、本官の決定に到達するにあたって、提出された証拠をいかに処理したかを、できる限り明らかにするように最善を尽くしたのである。

 本官はさきに、共同謀議という起訴事実に関する証拠についての本官の解釈を述べておいた。しかしながら本官は、共同謀議自体はなんら国際生活上の犯罪ではないと考えるものである。

 本件の起訴状においては、共同謀議はきわめて重大視され、それだけで犯罪であるとされている。

 ライト卿は、『国際法上の戦争犯罪』という論文において、暗に共同謀議をもって国際生活上の犯罪を構成するものであると述べているように思える。すなわち同卿が言うには、

  『一般に戦争犯罪は、一集団的または複合的な性格をもつ。一端には、多くの場合、犯罪的共同謀議を構成する立案者または組織者、または開始者がいる。そして末端には、実際の遂行者がいる。・・・・』

 ここでライト卿が言っていることは、共同謀議自体が、その行為の実際の遂行とは独立に、国際体系上の犯罪を構成するという見解を必ずしも裏づけるものではない。同卿の言っているのは、戦争があった場合には、それに関連して以上二種類の犯罪人があり得るということにすぎない。

 然るに検察側は、その起訴状において、日本の指導者らが、共同謀議した行為の実際の遂行とは別に、共同謀議という犯罪を犯したとして訴追し、この犯罪は共同謀議完成と同時に犯されたものであると主張している。

 検察側によれば、日本の戦争指導者は、この犯罪行為そのものの進行以前においてさえ、彼らが彼ら自身の間、もしくはイタリー及びドイツの指導者たちとの間のいずれかにおいて、起訴状に述べられているような行為のいずれかを遂行しようという了解に達した途端に、この犯罪につき有罪となったというのである。

 本裁判所に提出された諸事実中には、計画された戦争であって現実に実行に移されなかった例は、ソビエット連邦の場合を除いて他にない。

 ソビエット連邦の場合には、起訴状中には、二度の国境紛争事件が実際上の戦争行為の例として述べられてはいるが、本質的な問題は、単純な共同謀議にだけ置かれている。

 本裁判所に対し裁判権を付与することについて、裁判所条例第5条は次のように述べている。

  『第5条 左に掲げる一又は数個の行為は個人責任あるものとし本裁判所の管轄に属する犯罪とす

   a 平和に対する罪すなわち宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争、もしくは国際法、条約、協定又は保障に違反せる戦争の計画、準備、開始又は実行、もしくは右諸行為のいずれかを達成するための共通の計画又は共同謀議への参加・・・・

   c 人道に対する罪・・・・上記犯罪のいずれかを犯さんとする共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に参加せる指導者、組織者、教唆者及び共犯者はかかる計画の遂行上なされたる一切の行為につきての何人によりてなされたるとを問わず責任を有す』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 起訴状訴因第1は次のように主張している。すなわち、

  (ここから、原資料では漢字片仮吊交じり文→)全被告は他の人々と共に・・・・共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして前述の計画実行につき何人によりなされたるとを問わず一切の行為に対し責任を有す(←原資料で漢字片仮吊交じり文はここまで)

 かような計画または共同謀議の目的は、日本が東アジア・・・・の支配を獲得するにある。そうしてその目的のため、彼らは、日本が独力または・・・・他の諸国と共同して、いやしくもその目的に反対する国または国々に対し宣戦を布告せる、または布告せざる侵略戦争並びに国際法・・・・に違反する戦争を行なうべきものという共同謀議をなした。

 訴因第1は全面的共同謀議に対して訴追を行なっている。本訴因が、裁判所条例第5条cの辞句をそのまま用いてでき上がっていることは明白である。

 訴因第2は満州に対する同様の計画を訴追し、訴因第3は中国のその他の部分、訴因第4は合衆国、大英連邦等、並びにソビエット連邦、訴因第5は全世界に対する同様の計画を訴追している。訴因第6ないし第17は、各国に対する侵略戦争の計画並びに準備を述べている。

 訴追事項を子細に分析してみると、そこで考えられている犯罪の必須条件は、次のようなものであることがわかるであろう。すなわち、

  1、訴追されている者は、同計画立案並びに実行の指導者、組織者、教唆者ないし共犯者であるべきこと。

  2、同計画の目的は、日本が上記訴因の軍事的、政治的並びに経済的支配を獲得することであるべきこと。

  3、同計画の立案並びに実行に指導者等として参画した者が、同時に上記支配の目的のために、日本が宣戦を布告せる、または布告せざる戦争を行なうべき旨の共同謀議をなしたことが証明されるべきこと。

  4、かような戦争の相手国は支配を企図した国に限るものでなく、その目的に反対する一切の国であるべきこと。

 右必須条件中の第4項は、訴因中においてはその表現がいささか広汎に過ぎるように思われる。行なわれるべき戦争というのは、侵略戦争及び国際法、条約、協定並びに保障に違背した戦争でなければならないのであるから、『一切の国』という言葉は、特定の支配という問題につき、その国に対する戦争が上述のような種類の戦争となるような関係にある国のすべてという意味に用いたつもりであったのであろう。このように、たとえば、ワシントン条約の締約諸国は、同条約に基づき、中国の保全を維持し、主権を尊重すべきであったのである。もし日本が、条約義務に違反して、いやしくも中国の支配を欲したとすれば、かりに中国自体が反対しなくても、締約諸国のいずれかが起ち上がって、かような支配に反対したであろう。(←正誤表によると「したであろう。《は誤りで「してもよかったであろう。《が正しい)もし日本がかような反対国に対し戦争を計画したとすれば、かりに中国がこれに反対せず、否、それを支持したとしても、この行動は訴因第1に該当することになるであろう。

 本訴因は、単に支配の目的のために、日本がいずれかの国に対し戦争を行なうべき旨、指導者らが共同謀議するということを言っているに止まる。これはきわめて広汎なもので、事実上戦争が行なわれなかった場合も、これに含まれる。訴追の本質的部分は、かような計画遂行上、何人かのした一切の行為に対し、被告が責任をもつものとしようとしているのである。遂行上なされた行為という言葉は、必ずしもこの戦争が現実に行なわれるべきものであるということを意味するものではない。計画の遂行は、部分的には、実際に戦争を行なう以前でさえ生じ得るのである。

 ニュールンベルグの裁判所条例第6条にも、これに対応する規定があった。

 ニュールンベルグの起訴状訴因第1は、『共通の計画または共同謀議』について述べ、『すべての被告が・・・当裁判所条例に定義されている平和に対する罪、戦争犯罪並びに人道に対する罪を・・・・犯す共通の計画または共同謀議の立案並びに遂行に、指導者・・・・として参画した』ことを訴追した。

 ニュールンベルグ裁判所は、同裁判所条例は『侵略戦争行為を犯す共同謀議を除いては、いかなる共同謀議も単独で犯罪となるものと定めてはいない』という意見であった。『上述の犯罪のいずれかを犯す共通の計画または共同謀議の立案ないし遂行に参画した指導者、組織者、教唆者及び共犯者は、同計画遂行上、何ぴとのなしたるを問わず、一切の行為に対し責任を有つ』という言葉については、同裁判所は、『これらの言葉は、すでに列記された犯罪以外に新たな、かつ別個の犯罪を付加するものではない。これらの言葉は、その共通の計画に参画した者の責任を確立することを企図したものである。』という意見を述べた。従って同裁判所は、『被告は戦争犯罪並びに人道に対する罪を犯すため、共同謀議をなしたとの訴因第1の起訴事実』はこれを無視し、裁判所の審理を、『侵略戦争の準備開始、遂行のための共通の計画』だけに限ったのである。

 本件においては、検察側は、右のニュールンベルグ裁判所の解釈が本裁判所条例の第5条にも該当するものであることを認めた。従って共同謀議の訴追は、『侵略戦争の準備、開始、遂行のための共通の計画』に限られたものと考えなければならない。

 上に指摘しておいたように、ソビエット連邦に関する起訴事実に鑑みるとき、共同謀議が国際法上の犯罪であるかどうかの問題は、単に学理上の問題でなくなる。

 検察側は、本裁判所が次のように考えることを求めている。すなわち、

  1、単純な共同謀議も、裁判所条例において犯罪の中に数えられていること。

  2、この点については、裁判所条例は、少なくも1928年以降存在した国際法を単に宣言したもの、かつそれを目的とする(←正誤表によると「それを目的とする《は誤りで「それを趣旨とする《が正しい)ものであること。

  3、裁判所は、以上の命敗(←「命題《が正しい)を検討し、かつこの点に関する裁判所自身の決定に基づいて判決をなすべきこと。

  4、共同謀議、計画、準備、これに伴う従犯、並びに共通の計画に従事した者の共通の責任に関しては、裁判所条例の規定は一切の文明国によって認められた法の一般原則を示すものであること。

   (a)一切の文明国によって認められた法の一般原則は、国際法の源泉の一つであるから、これらの規定は、それ自体、国際法の一部にほかならないこと。

 右に代わるものとしては、検察側は次のように主張している。すなわち、

  1、この裁判所条例の規定は単に訴追の形式であって、責任立証の形式であるにすぎないこと。

   (a)右のようなものとして、これらの規定を設けるのは最高司令官の権限内にあること。

  2、それ自体一個の犯罪としての共同謀議と、数吊の者が共同して犯したと称せられる犯罪の立証方法としての共同謀議の間には、重要な差違があること。すなわち、

   (a)原則は類似しているが、その適用に相違があること。

   (b)これらの原則は共同犯罪に適用されるのである。たといそれを犯すための共同犯罪が別箇の犯罪となるようなものでない場合でも同様である。

 すでに指摘したように、ここに本裁判所の考慮すべき重大な問題がある。今日の国際生活の性格からすれば、この命題は慎重に検討しなければならない。そしてその際には、常に明確に次の点を考慮に入れなければならない。

  1、検察側が主張しているように、少なくも1928年以降、共同謀議は国際法上の犯罪であるかどうか。

  2、もしそうでないとすると、裁判所条例の規定は本裁判所を拘束するものと認めることができるかどうか。

  3、裁判所条例の規定は、真に実体法を与えるものであるか、あるいは単に手続規定を与えるものにすぎないかどうか。

 最初に、少なくも1928年以降に存在した国際法において、共同謀議が犯罪であったと言うことが正しいかどうかという問題を取り上げたいと思う。

 この問題に対する検察側の態度は、次のように述べることができよう。すなわち、

  1、国際法の源泉の一つは、『文明国によって認められた法の一般原則』である。

  2、共同謀議は、文明国によって、その国内制度上では犯罪と認められている。

  3、従って、共同謀議は国際法上の犯罪であったと考えなければならない。

 この検察側の主張は、本官は承認し難い。

 検察側は、『文明国によって認められた法の一般原則』を、国際法の源泉の一つとして挙げ、この言葉に彼らの議論全体の根拠を置いている。この目的のために、検察側は、『1936年の常設国際司法裁判所規程』に依拠し、右の主張の裏づけとして、同規程第38条第3節(←日本の法令用語の慣例に従うならば、「第3号《と訳すのが正しい)を引用している。

 同規程第38条は次の通りである。

  『裁判所は左の適用をなす

  1、係争国により明らかに認められたる規則を確立する一般又は特別の国際条約

  2、法として認められたる一般慣行の証としての国際慣習

  3、文明国により認められたる法の一般原則

  4、法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最優秀公法学者の学説、ただし第59条の規定はこれを留保す

  本規定は当事国の合意あるときは裁判所が「衡平と善とに基づき(←「衡平と善とに基づき《に小さい丸で傍点あり)《裁判所なすの権限を害することなし』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 常設国際司法裁判所は、国際連盟規約第14条に基づいて設置されたものである。

 同規約第14条は次のように規定している。

 『連盟理事会は常設国際司法裁判所設置案を作成し、これを連盟国の採択に付すべし。該裁判所は国際的性質を有する一切の紛争にしてその当事国の付託に係るものを裁判するの権限を有す、なお該裁判所は連盟理事会又は連盟総会の諮問する一切の紛争又は問題に関し意見を提出することを得』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 連盟規約が批准を求めるために提示されたとき、合衆国は次の点を指摘した。すなわち、同規約の中には、紛争につき、戦争の代わりに、司法的な解決によって、一国がその合法的権利を主張できるようにするための規定がないこと、また同規約は、侵略者に対し、何か戦争以外の方法によって、立派に擁護し得る権利が存在することを全然表明していないことである。

 同規約第14条に示されている提案は1907年のヘーグ会議よりも、明らかに裁判至上主義の観念に深入りしていない。ヘーグ会議においては、事実上次のことが容認された。すなわち、裁判によって決定すべき性格をもつものと認むべき紛争の種類についてあらかじめ協定がなされた上で、かような性格をもつ一切の事件に対しては、国際裁判所が裁判権をもつということである。これに対し前に述べた第14条は、その裁判所の裁判権を、国際的性質を有する一切の紛争にして、その当事国の付託に係るものに限っているだけであって、裁判に付託し得る紛争と、そうでない紛争との間に、少しも区別をつけようとしていないのである。

 この常設国際司法裁判所のことはしばらく別にして、国際裁判というものは、裁判を受けるその訴訟の関係国で、かつ裁判官を選任する国々が、裁判所を創設するという点で、常に特異な性質をもつことをわれわれは想起すべきである。その裁判所の権威の性質と、その裁判権の範囲は、関係国によって定められる。その裁判所に生命を与えるものは、関係国の同意である。この裁判所創設の仲裁裁判協定には、決定すべき問題が述べてあり、この裁判所の裁判権が定められてあり、かつ手続事項に関するこの裁判所の権限の範囲がきめられている。

 常設国際司法裁判所規程は、実にかような仲裁裁判協定の性質を有するものである。

 同規程第38条は、同裁判所は、『文明国ニヨリ認メラレタル法ノ一般原則』を適用すると言っている。本官の意見では、これは、単に、同裁判所設置の目的上、かような一般原則を適用し得るとの共通の同意を意味するにすぎない。この共通の同意からして、法のあらゆる分野における『文明国ニヨリ認メラレタル法ノ一般原則』が、一切の国際生活上の目的のために、右同意をなした国によって採用される、という結論に到達することはできないのである。

 すでに指摘したように、国際法の根拠は国際団体の構成員である諸国間の共通の同意である。共通の同意はこのような法の本質的淵源であり、そしてすべての規則に法としての性質をもたせるためには、必要欠くことのできないものである。従って問題は、結局次の点に帰着する。すなわち本規程のこの条項に含まれている諸国の同意という意義をわれわれはどの程度に解釈してよいかということである。

 明らかにこのような同意は、この規定の目的を離れて意味づけられることは出来ない。

 本規程を作成するためにヘーグで開かれた法律家諮問委員会が、国際刑事裁判所設立の『希望(←「希望《に小さい丸で傍点あり)』を表明したことを想起するであろう。しかしこれは、当時においては諸国の採用するところとならなかったし、今日までのところ、まだ採用されてもいないのである。

 国際生活の現状にあっては刑事法をこれに取り入れることは少なくとも上得策であると考えられてきた経緯は、本官がすでに示した通りである。

 この点に関して、次のことを注意しておくことが妥当であろう。それはすなわち国際連合の目的の一つは、『国際的平和及び安全を維持すること及びこれがため平和に対する脅威の防止及び除去のため並びに侵略又は他の平和侵害行為の鎮圧のために有効なる集団的措置を採ること』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)であると国際連合憲章に明示されているけれども、この憲章においてさえなんら個人の刑事責任を(定める規定がないばかりか、それを)黙示している規定さえないということである。この憲章と、常設国際司法裁判所規程はいずれも、個人の行動を支配するなんらの措置をも案出してはいないのである。

 国際法は、外来国家の「相互間ノ(←「相互間ノ《に小さい丸で傍点あり)《関係において各国家に適用されること、またそれは他の諸国家に「対スル(←「対スル《に小さい丸で傍点あり)《各国家の権利を創造し、これに義務を課するものであることを想起するとき、その内容は右に順(←この漢字一文字、上鮮明。「顧《のようにも見えるが「順《にしておく。英文ではaccordingly)応して決定されなければならない。もしも国際法が個人の行動を支配するものと考えられるようになった暁には、国際刑法を案出することは、現在よりも困難ではなくなるかもしれない。

 海賊行為及びそれに類似する行為の概念が、国際法体系中においてどんな地位を占めるかについては、すでにこれを指摘した。このような類推法の使用にもかかわらず、上法とされ、そして禁止された個人の行為にまで、国際法の適用範囲を拡大しようという権威ある試みは、未だかつてなされなかった。すでにマンレイ・O・ハドソン判事の所説から引用したように、『政治機構に関してどのような発展がまさに行なわれようとしているにせよ、国際法の及ぶ範囲を拡大して、国家もしくは個人の行為を上法とし、これを処罰する司法手続を包含させるには、現在は未だ時機が熟しているとは言えない。』のである。

 個人に影響する刑事国際法の実例は、すべて、問題の行為が自分自身のためになした個人の行為であり、公海において行なわれ、または国際的財産に関連してなされた行為の場合である。これらの事例のほとんどすべてに対して既にこれに対応すべき規定が設けられている。国際協約の諸規定の対象としてこれらの犯罪が選ばれたのは、国際犯罪の性質についての理論的考察から必要となったのであった。すなわち一定の犯罪に対する抗争において一国または一国家群が有する利害関係、右の抗争を組織するための物質的便宜及びこの種の他の諸理由に基づいたものであった。

 国際関係の領域に対するある特殊の侵害行為としての国際犯罪の概念は、今日まで国際制度の中にはみられなかった。国際制度のなかで従来犯罪として認められてきたものは、実は個人の犯罪なのである。『一定の通俗的な犯罪を対象とする諸協約は、その法律的性質とからして、事実的意義からして、(←「その法律的性質からしても、事実的意義からしても、《とするのが、分かりやすいだろう。少なくとも「法律的性質的『と』からして《の『と』は省くのが正しいだろう)犯罪に対する現実的な抗争を目的として、諸国政府が相互的に刑事法に与えるいろいろの形の援助の一つのように見うけられる。この諸国政府の相互的行為は、国際犯罪の問題と直接に関連しているものではない。』

 すでに指摘しておいたように、国際生活における国際的刑事責任の概念は、国際生活自体が、ある平和的な基礎の上に樹てられていると言うことのできる立場にいなければならない。国際犯罪はこの基礎の侵害――すなわち国際団体の静穏、すなわち平和の破壊もしくは侵犯ということになるのである。

 いわゆる国際団体の性格については、少なくも第二次世界大戦前夜におけるそれについてすでに本官の見解を述べておいた。すなわち国際団体は単に数個の独立した単位が、同格の関係で一団体をなしたものにすぎず、その団体の秩序または安全が、法によって規定されていると言い得るような団体でなかったことは確かである。

 以上述べたことのすべてを念頭において考えるとき、次のように言っても差し支えあるまい。すなわち犯罪性の諸原則を国際生活における法の規則の中に移し得るほどに、国際生活の諸条件が熟しているとは、今日までのところ、諸国は考えていない、と。

 従って本官は、常設国際司法裁判所によって適用されるものとして一般原則が採用されたという事実から窺われる(前述の)同意の中に、刑事責任の諸原則を国際生活における法の規則の中に移すことについての同意を読み取ることができない。右の同意が、われわれの当面の目的のために必要な同意を充分に表示しているとは、本官は考えることができない。

 検察側は、共同謀議は犯罪であると宣言する(ニュールンベルグ)裁判所条例が、いくつかの文明国によって作成され、そして他の諸国がこれに加入したという事実を強調したが、このことが果たしてどういうふうに検察側の役に立つのか本官には理解することができない。

 英米法の系統に従っていない18ヶ国を含む加盟国23ヶ国にとってもし共同謀議を犯罪とする理論が自国の法的概念と相容れないものであったとしたならば、これらの国々が共同謀議を犯罪であると定義するこの文書に調印するということは上思議なことであろうと検察側は述べているが、これらの諸国は、それぞれ自国のためにでなくて、戦敗国の指導者らを審判するために法を制定しつつあったということに想到するとき、それがどうしてそれほど上思議としなければならないことなのか、本官は了解に苦しむのである。右の条例がもし少しでも法を規定したとすれば、それは単に『ヨーロッパの枢軸諸国の重大戦争犯罪人』を対象としてそうしたにすぎなかったのである。われわれは、裁判として、右の条例の作成者及び加入国の抱いた法律上の概念が正しいものであったと推定するわけには行かない。われわれは、またこの条例が、これらの文明諸国の立法機関によって制定されたものでもないことを想起する必要がある。非常に高い地位を占めていた人々がこれらの国々を代表していたことは疑いのないところであるが、彼らに法律学上の能力があったことを実証する何ものもわれわれの前にはないのである。

 共同謀議がたいていの法律制度に共通な概念であることを示す段階に至って、検察側は英米法の理論を詳細に分析し、その結果として次のような規則を列挙したのであった。

  1、共同謀議の罪は、事実それが犯されたか否か、またはそれを犯す目的のもとに積極的な手段がとられたか否かを問わず、国家の安全に対する罪を犯そうという二吊またはそれ以上の者の合意があれば、完全に成立すること。

  2、右の犯罪は、同様の条件のもとに、重罪を犯そうという合意をも含むこと。

  3、同様に、どのような軽罪の場合をも含むこと。

  4、同様に、どのような上法行為の場合も、また合意の目的が合法的であっても、これを達成するための手段が上法である場合をも含むこと。ただしこの行為が実際に一人で単独になされた場合には、犯罪とはならない。

  5、一人で単独に、ある罪を犯すことを計画し、準備した場合は、それが少なくとも未遂行為の域に達しない限り、ただそれだけでは犯罪とならないこと。

  6、共同正犯、補助的正犯または事前正犯、すなわち『指導者、組織者、教唆者または共犯者』は、これを正犯として裁判に付し、有罪として宣告することができること。そしてその罪を実際に犯した一人または他の人がいない場合もそうすることができること。

  7、共通の計画または共同謀議が、実際に訴追されている犯罪であるか、または当事者の一人またはそれ以上の者が実態的犯罪のかどで訴追されているか、そのどちらであっても、およそ共通の計画または共同謀議が実際に存在する場合には、それがだれであっても、またいつであっても、これに参画するものは、その参画の瞬間から、その計画または謀議が終了することがあるとすれば、その終了の瞬間まで、もしくは彼みずからその計画または謀議から明確に離脱することがあるとすれば、その瞬間までの間は、当人自身が知ると知らないとにかかわりなく、彼の仲間の共同謀議者のすべての行動及び言葉に対して責任を負うものである。この場合これらの言動は、彼が当初から、または、その後彼自身の同意のもとに(その計画又は謀議の)範囲が拡大されたことによって、その参画者となったところの、計画または謀議の範囲内にあるものであることを条件とする。

 検察側は次に、右の規則のいずれが文明諸国によって認められている法の一般原則を示すものであるかを指摘して、次のように言っている。

  1、右の規則の第1及び第7は、日本を含むあらゆる関係国の法律の一部をなすものである。

   (a)侵略戦争及び諸条約に違反した戦争を遂行することによって、全世界の、または多数の国家の、平和を撹乱しようとする国際的分野における共同謀議は、国家の安全を脅かす国内分野における共同謀議ときわめて類似しているものであること。

  2、規則第2に関しては、各国の慣行は区々である。

  3、規則第3及び第4は、他の諸国には知られていないものである。しかしこのことは、検察側がなんら、このような訴追をしていないから、学理上の問題である。

  4、多くの国家は、規則第5とは反対に、計画または準備を、共同謀議とは別に、犯罪の中に含めている。しかし訴因のいずれにおいても、単独で訴追されている個人はないのであるから、この点もまた学理上のものである。

  5、規則第6は、単に手続上の事項に関するものにすぎない。すべての国家は、この規則に挙げられている人々を犯罪人と認めているがそれらの者が同時に正犯として訴追され得るものであるか、または個別的に訴追されるべきものであるかについては、慣行は異なるのである。

 検察側は次のように主張している。すなわち共同謀議に関する国際法理論に基づいてここで処罰されようとしている犯罪は、英米法の体系のほかにフランス、ドイツ、スペイン(←正誤表によると「ドイツ、スペイン《は誤りで「ドイツ、オランダ、スペイン《が正しい)、中国、日本及びロシアの法的秩序のもとにおいても同じく罰せられ得るものであるか、もしくは大体においてそのように取り扱われていると。その結果として、共同謀議に関する法理論は、フランス、ドイツ、日本、中国及び英米の法的秩序中に存在する法律上の観念、並びにロシアの法理学にその基礎を置いているところから、国際法上の一つの規則となったと検察側は力説した。

 『文明諸国によって認められている法の一般原則』が、個人の刑事責人(←「責任《が正しい)を国際生活に取り入れようとする目的のためにさえも国際法の淵源となっている、という命題をわれわれが受け入れるのでない限り、検察側の上述の説は、その主張にとって何らかの役に立つものとは本官には考えられない。この命題を本官が受け入れることのできない理由はすでに述べた。

 各国の国内制度で認められているところのこの犯罪(共同謀議)に関する基本的原則は、次の通りである。すなわち、ある行為が、少なくとも「ソレ自体悪事(←「ソレ自体悪事《に小さい丸で傍点あり)《であって、取り返しのつかないほどに重大な社会的害悪を伴う場合、いずれの国家でもそれらの行為を実行することを究極の目的とする一定の合意を、犯罪性のあるものとして、実力をもって制止するための、法律上の制度を発達させる権利を有するということである。各国家は、その行為が究極的には実行されるということを予見して、その共同動作を実力をもって制止する権利を有する。

 それらの一様でない制度が生み出す唯一の一般原則は、行なわれる可能性のある一定の種類の犯罪の予防及び制止を目的とする法律上の制度を発達させることは適法であり、機宜に適しているということである。このような犯罪は、一般的には、国家の存立そのものを危うくする犯罪である。

 厳密に言うと、国際社会の現段階においては、その安全を図るために右の原則の発動を誘致するような団体はまったく存在しないのである。今日までのところ国際的スーパー・ステート(超国家)というものは、まだ存在していないのである。民族国家(ナショナル・ステーツ)は単に国際社会の個々の構成員であるにすぎず、それが占める地位は、あたかも一民族国家内における個人の地位に比すべきものである。

 これらの考察事項をしばらくおくとしても、もしわれわれが若干の文明諸国に行なわれている共同謀議に関する法の諸原則を子細に検討すれば、この法の根底に横たわる本質的な原則は、予防が望ましいことであり、かつそれが可能であるというにあることを見逃すことはできない。本官の意見では、この目的は、現在のような構成をもった国際社会においては、達成上可能である。

 共同謀議は、根本的にメンタル・オフェンス(心的犯罪)である。

 検察側は、共同謀議は、共同謀議を構成するためには、そこには単なる思索の域から一歩外に出ることがなければならないと言っている。この犯罪の核心をなすところのものは共同の了解、共同の約諾である。思索の域から一歩踏み出すにはある公然の行為を必要とするかもしれない。しかし、『必要とさるるこの行為は、ある犯罪未遂行為に対しての有罪宣告を正当と認めるために必要とされる行為と同じ品格に到達するものではない。それは共同謀議を促進する行為である限り、又上法行為でなくてもよい、さらにそれは重要性をもった行為である必要もない、又共同謀議者の中の一人以上の者によって行なわれる必要もない、・・・・公然の行為を要件とする唯一の目的は、共同謀議が実際に開始されたという十分な証拠があることを保証することである、これらの被告のだれか一人、又は彼らの共謀者の中のだれか一人が行なった数千に上る行為の中どの一つをとっても、それは公然の行為を要件としている裁判所で、謀議を立証するために必要な公然の行為という要件をみたすであろう。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 外部に現われる行為は、それが、共同謀議の犯罪を構成するに充分な内部的要素の存在を確立する限りにおいてのみ、共同謀議が存在していたか否かを決定する上に関連性を有するのである。合意の成立にあたって働く二つの要素、すなわち意志と理性は、共同謀議的合意の性質を分析する場合には、常に最初に考慮されなければならない出発点である。

 基本的に言えば『共同謀議は、その本質的行為が軽微であるところの一つの未完成なものであり、それはその上に今一つの行為をしようという意思を含んでいる。その行為をなすことそのことこそ、国家が予防しようと望むものである。』

 共同謀議に関する法の原則の本質的要素は、従って、共同謀議者によって構想されている企図を予防することが望ましいということであり、また同時にそれが可能であるということである。

 有罪の決定と刑罰が単に意思だけに基づいてこれを行なうことができるというところに、明らかに重大な危険がある。この点はすでに認められてきている。ニューヨーク州議会のために、共同謀議に関するニューヨークの成文法規改正にあたった委員たちは、共同謀議のかどによって有罪と決定されるには、一つの公然の行為を要件とするという項の序論において、次のような見解を述べている。すなわち、

  『全刑事法を通じて、(この場合を除いては)他のどのような場合にもかつて用いられたことのない形而上学的な一連の推理によって、共同謀議という犯罪は意思、すなわち一つの心的行為に存するものとされている。そして右のような命題が必然的に生むところの常識(common sense)に対する衝撃を予防するために、相互の考えを交換することによってこの意思を形成することそのものが、合意の交換に準拠してなされたところの公然の行為である、とされている。まことに悔悟の機会はすべての人間に与えられるべきであり、犯罪行為をなすための共同謀議をした者は、それを悔悟し、断念するようにしむけられなければならない。一人間による法の主体となるのは行為である。思想や意思は、行為を伴わない限り法の支配を受けることはない。』(←原資料には「』《はないが、補っておく)

 ハーバード大学法学部のセーヤー教授は、英米法制度に見られる共同謀議罪の理論をだれよりも露骨に非難攻撃して次のように述べている。

  『かような原則のもとにおいては、他人と協力して行動する者は、一人残らず、いつの日にか、彼の自由が、彼の知らないある裁判官の先天的な癖見または社会的偏見に依存していることを発見することがあろう。こうしたことは、法による裁判の正反対である。』

  『共同謀議罪のように輪郭が漠然としていて、根本的性質が上明確な理論は、法を強化するものでもなく、また法に栄光を加えるものでもない。それはまったく流砂のように変転きわまりない意見であり、思慮の足りない思想である。

  『この理論は、それがわれわれの法に触れると、どこで触れても、そのたびに、われわれの法に禍いをもたらす悪神であることをみずから証明した理論である。この理論が過去の諸事件の中に彷徨した一つの亡霊にすぎないものとなる日が一日も早く来ることを乞い願う次第であると。

 右のような次第で、犯罪を構成するものとしての共同謀議は、国内法の体系においてさえ論争の的にならずにはいなかったのである。共同謀議を正当化する唯一の根拠は、発生する可能性のある危険を予防し、防圧するという点にある。まだ予防手段を講じていない団体の中では、それは存在する理由のないものである。たとい共同謀議段階においてその全貌が露顕したとしても、国際団体は、その現状のもとにおいては、この犯罪を罰するなんらの手段をももっていない、従ってこの犯罪が発生し得るという可能性を考えて規定された刑罰は、ラテン語に言う「空虚ナル威嚇(←「空虚ナル威嚇《に小さい丸で傍点あり)《である。法は上述の可能性が現実化するまで待たなければならず、その上さらに好都合な事態が発生するまで、すなわち共同謀議者らが戦争に敗れるまで待たなければならない。

 また一方においては、完了した共同謀議が単にそれだけで国際法上の犯罪であるとしたら、ある一定の人々がひとたびこの共同謀議に参加したが最後、彼らに対して「約束撤回ノ可能ナル期間(←「約束撤回ノ可能ナル期間《に小さい丸で傍点あり)《を認める余地がないことになる。侵略戦争のための共同謀議に関する限り、それ以上進んだ行為をするのを思い止まったからといって、その人々が得るところは何もない。彼らはすでに彼らの犯罪を完了したのである。このような犯罪を現在あるがままの国際生活に今取り入れることに、正当な理由があるとは本官には思われないのである。

 われわれはまた次のことも記憶しておかなければならない。すなわち共同謀議に関する法を国際制度の中に移し入れるにあたって、われわれは、実際のところ、なんら危険な共同動作を予防しようとはしていない。その理由は、さきに述べたように、そのような予防は、国際生活の現段階においては上可能であるからである。提唱されたような範囲の拡大は、単にある無法な勝者の手に一つの危険な武器を与えるだけに終わるかもしれない。いずれの国も、戦争準備をしている間は、自国が侵略を目的として戦争準備をしているとは決して思わないであろうし、またそういうことを認めようとはしないであろう。これはここで再び繰り返すべきことではないが、われわれは、きわめて高い地位にあった政治家たちが、どのようにしてきわめて広汎な自衛権を公然と主張していたかを見た。各国ともに自国のために、またその好むところの友邦のために、自衛をこのような広い意味に解するであろうし、同時に一方において、それに対抗している相手方が下した同じように広い定義を、もっともなものと認めることは絶対にないであろう。侵略戦争を国際社会における一つの犯罪とするためには、われわれとしては、一国家のとった手段が自衛行為であったかどうかは別として、この点についての関係国の決定は最後的なものではないと見なすことが必要であろう。自衛のためにとった行動であると主張されたものが、果たして合法的な行動であったかどうかという点についての最後の決定をなすことは、関係国の権限ではないかもしれない。しかし自衛権の問題が含まれていたかどうかをきめる権限を有し、義務的管轄権をもった、なんらかの国際的機関または裁判所が存在しない以上は、自衛官の問題が含まれているかどうかをきめるのは、敗者が戦争に訴えたのは自衛のためであったかどうかを決めるのと同様に勝者の権利となる。そうなるとわれわれが現在取り入れようとしている規則の適用(の権限)は、たまたま勝者となった相手方であって、しかもその(敗者の)防御的性質を理解することの絶対にできない相手方の手中に帰することになる。われわれはその結果がどんなものになるかを容易に想像することができる。本官の意見では、それはなんら有益な目的に役立たないばかりでなく、国際制度に一つの危険な原則を持ち込むことになり、国際生活における平和的関係を一層阻害することになるであろう。

 一つの犯罪としての共同謀議を国際生活に取り入れることを非とする考え方は、なおそのほかにも一つある。今日においてなおも、国際社会は国家間の紛議の解決のための強制的手段を認めている。ある一国が、その国の要求する紛争の解決策に他の一国を同意させる目的をもって、ある程度の強制を含んだ処置をとることは、現在にあっても許されている。オッペンハイムの『国際法』第2章参照。これらの強制的手段はパリー条約後においてさえもなお依然として適法である。ラウターパクト博士は次のように言っている。すなわち『パリー条約が戦争の訴えることを禁止するとともに、またその禁止によって、戦争に至らない武力行使をも禁じたものであるかどうかという問題には、議論の余地がある。同条約第2条は、平和的手段によるのほか紛争の解決を求めないという締約国の義務を規定し、かつその前文において、締約国は「ソノ相互関係ニオケル一切ノ変更ハ平和的手段ニヨリテノミコレヲ求ムベク、又平和的ニシテ秩序アル手続ノ結果タルベキコト《を確信することを表明している。若干の学者の見解によると、パリー条約は、戦争に至らない武力行使をも禁止していることを意味するものとして右の規定を解釈すべきであるという。しかしいま引用した一節は、単に相互関係における変化について述べたに止まって、現存の法的関係を強制することについて述べたものではない。第2条に関しては、戦争に至らない実力行使は、強制的手段ではあるけれども、それはなお依然として平和的手段であるということに留意しなければならない。』

 強制的手段は理論的にも実際的にも、友好的ではないが、平和的であるところの国際紛争解決の手段として考えられている。本官はここで、戦争と区別して各種の強制的手段を詳細にわたって検討する必要を認めない。この点に関連して指摘したいことは、ただ次の点だけである。すなわち、準備の段階にあっては、両者を画する一線は紙一重であるかもしれないということ、そしてまた究極的には適法な強制的措置の役目を果たすというだけのつもりで行なわれた準備であっても戦争のための準備を誤ってとられることがあり得るということ。このようにして心の中の考えが外部には同じように表示されるにしても、その実それは二つの相異なった心境をほのめかすことがあり得る。すなわち、もしも共同謀議が一つの犯罪として取り入れられたならば、右の二つの心境の中の一つは、国際生活において適法であり、他の一つは犯罪的であるということになる。この心的犯罪を国際生活に取り入れることは実際上なんらの有用な目的に役立たないばかりでなく、同時に特殊の犯罪的心境を確定するという困難を伴うであろう。

 右の問題を注意深く考察した後に、本官は、『共同謀議』はただそれだけでは未だ国際法上の犯罪ではないという結論に到達した。

 本裁判所条例の構成についての本官の見解をのべると、共同謀議が国際法上犯罪でないならば、たとい本裁判所条例に犯罪として挙げられているにしても、それは犯罪とはならないということである。すでに指摘したように、本件における検察側でさえも条例に挙げられている犯罪の定義が、真に犯罪の定義として本裁判所を拘束するものであると主張しているようには見受けられないのである。本裁判所は、本条例中に犯罪として挙げられているものが、果たして国際法上の犯罪であるかどうかを検討し、そしてその検討の結果に基づいて判決を下すように求められている。

 しかし検察側は、『訴追ノ形式並ビニ責任ノ立証ノ形式』をも含めた拘束力のある手続上の規則を定めるのは最高司令官の権限に属するものであったし、また共同謀議に関する本条例の諸規定は、単にこのような『訴追ノ形式並ビニ責任ノ立証ノ形式』にすぎなかったと主張している。

 本官は、本条例中の関連ある規定を目して、単なる『訴追ノ形式並ビニ責任ノ立証ノ形式』を定めたものと認めることはできない。従って最高司令官の権限に関する他の命題に検討を加える必要はない。


    第5部

  裁判所の管轄権の範囲


 本裁判所の裁判管轄権に対して弁護側が申し立てた最初の実質的異議は、本裁判所の審理の対象となり得る犯罪は、1945年9月2日の降伏をもって終わりを告げた戦争において、またはそれに関連して行なわれたものに限定しなければならないということであった。本官は、この異議は当然受理されなければならないものと判断する。そう決定した理由は、すでに本官の判決の最初の部分で述べておいた。

 しかしその際、本官は、検察側が起訴状の訴因第1において全面的共同謀議の存在を主張し、それが立証された暁には、起訴状において言及されている諸事件は、すべて前述の降伏をもって終わりを告げた戦争の一部をなすものとして、これに含め得るような主張を立てたことを指摘した。従って問題は、結局本件における証拠に基づいて決定されるべき事実の問題となったのである。

 本官は、今やこの証拠の検討を終わり、この証拠をもってしては、その存在を主張された全面的な共同謀議は立証されていないとの結論に到達したのである。

 この判定に鑑み、かつこの異議の中に含まれた法律問題に対する本官の決定に鑑みて、本官は、起訴状訴因第2、第18、第25、第26、第35、第36、第51並びに第52の中に含まれた諸事項については、これらの事項に関する敵対行為が1945年7月26日のポツダム宣言及び1945年9月2日の日本の降伏のはるか以前に終結を見たものであるという簡単な理由に基づいて、本裁判所はなんら裁判管轄権を有しないと考える。本官がすでに指摘したように、本裁判所の審理の対象となり得る犯罪は、1945年9月2日の降伏をもって終わりを告げた敵対行為においてまたはそれに関連して犯された犯罪に限られなければならない。国際法は、戦勝者に対してこれ以上に広汎な権利を付与するものではない。ポツダム宣言及び降伏文書の中には、戦敗国がこの戦争以外の敵対行為中に、またはそれに関連して、犯した罪を審理し、処罰する権限を、最高司令官または連合国に付与するようなものは何も存在しない。本裁判所条例中にも、その規定の適用範囲を、降伏をもって終わった今次の敵対行為以外のものにまで拡大するようなものは何も存在しないのである。

 訴因第2は、全被告について、『遼寧、吉林、黒龍江、及ビ熱河ノ各省ニオケル軍事的、政治的及ビ経済的支配』のための共通の計画または共同謀議の立案または実行に参画した罪を問うものである。

 熱河の事態に関しては若干の論議がある。熱河は北京の西北に、長城に接してその外側に位置し、初めは内蒙古の一部を形成し、漸次開拓された結果、遂には直隷省に属するに至ったのであるが、当時は満州の手中に帰していたものである。1928年12月末までに包括的な協定が締結され、これによって南京政府は、満州はもとより熱河をも張学良政権のもとに置き、また同入(←正誤表によると「また同入《は誤りで「また同人《が正しい)に対し東北辺防軍司令長官(←正誤表によると「東北辺防軍司令長官《は誤りで「東北辺防軍総司令《が正しい)の称号を付与することに同意したのである。

 しかしながら、熱河が満州の一部を形成していたかどうかということは差し当たりわれわれの目的にとって重要なことではない。

 検察側自身の言うところによっても、熱河を含む全満州の軍事占領は、1933年5月までには完了していた。1933年5月31日に塘沽停戦協定が調印され、これらの諸省に関する中日間の紛争の実情はどうであったにしても、それに関する実際の敵対行為は終わったのである。

 この停戦協定の調印をもって、日華間の友好関係は回復された。検察側自身も、この停戦後当座の間は日華間の関係が改善されたと言っている。もちろん、1935年の初期にはある種の波瀾があったには違いないが、これらはすべて妥協によって解決され、1935年6月10日には梅津*何応欽協定が締結された。両国双方において、その主な、政治家の公式の言説の中には融和的な語調が現われた。蒋介石元帥と在中国日本政府代表との間の個人的な接触も、長い間中絶していたが、ここに回復を見るに至った。反日運動をより有効に取り締まってもらいたいという東京からの要求に対して、中国政府は他国との国交を搊なうおそれのある運動を抑圧するために、地方並びに各自治体当局に警告を発したり、学校の教科書を改訂し、日本にとって上快な章句を除去したりして、欣然これに応ずる態度を示した。日本政府においても、好意的態度を示し、その中国派遣外交使節を大使館に昇格させて中国に対する敬意を表した。右の変更は6月14日に行なわれ、その後3ヶ月間に、英国、ドイツ、米国もこの例にならって同様の措置をとった。

 その後、蒋介石政府官憲は、関税、郵便、電信、及び鉄道に関して、満州国と取極めを結んだ。1935年6月に、蒋介石は日本を対象として敦睦邦交令を公布した。岡田内閣の外相広田氏は、中国と交渉して、満州並びに華北における「現状(←「現状《に小さい丸で傍点あり)《の承認を含む『広田三原則』を公表し、またこの原則に基づいて細目を論議することについて中国政府の同意を得た。ソ連邦は満州を別個の国家として承認し、1941年の日ソ中立条約においては、ソ連は満州国の領土保全と上可侵を尊重することが規定された。本官の意見では、本件において提出された証拠は、弁護側の主張を充分に支持するものである。右の敵対行為が終わったのは、1945年9月2日の降伏のはるか以前のことであり、その条項中に明白に言及された事柄を除いて、この事変に関連することは、一切この降伏の範囲内には属していなかったのである。

 本官の意見では、何か反対の意味の明白な言及がない限りは、降伏文書はもとより、ポツダム宣言の条項も、それによって停止させられた敵対行為に限定されなければならない。本官がすでに指摘したように、国際法のもとにおける戦勝者の権力は、戦敗者の全生涯の行為について審理する資格を戦勝者に付与するものではない。ポツダム宣言、降伏文書、あるいは裁判所条例のいずれも、この問題については明白には規定していない。

 訴因18は、そこに記載されている幾人かの被告が、1931年9月18日またはそのころ、侵略戦争を開始したことについてその罪を問うものである。これは満州事変の起こった日時である。右に述べた諸理由によって本訴因中の起訴事実についても、また裁判管轄権を欠くゆえに、これは成り立たないものと言わなければならない。

 訴因第25、第35、第51は、1938年7月8月中のハサン湖地域における日ソ交戦に関するものである。

 右の件に関して提出された証拠は、これらの敵対行為もまたポツダム宣言及び降伏のはるか以前に終止したことを決定的に立証している。右の事件の後、日本はずっとソ連と友好的な外交関係を保っていたことを忘れてはならない。この事件の後、両国は中立条約を結ぶに至り、ソ連が1945年8月8日に日本に宣戦するまでは、両国の関係は国際法の見地からは完全に友好的であったと断言しても差し支えない。従っての本官の意見では、遠い過去のこれらの敵対行為は、ポツダム宣言、降伏文書及び本裁判所を構成した条例の考えてはいないとこであり、また考えているはずのないところである。これに関する証拠は、この紛争も、合意によって解決されたものであることを立証するに役立っている。

 従って、本官は、これらの起訴事実もまた裁判管轄権を欠くゆえに成り立たないものであると考える。

 同様の諸理由はまた訴因第26、第36、及び第52についても当てはまる。これらの訴因が1939年の夏の間の「ハルヒンゴール《河地域における日本と蒙古人民共和国との間の敵対行為に関するものである。この敵対行もまた今次の降伏よりはるか以前に終わったものである。蒙古人民共和国は、降伏あるはポツダム宣言当時においては、全然日本と戦争をしていなかった。右の宣言も、また降伏文書も、いずれも本事件について明白な言及をしていない。蒙古人民共和国は右の宣言または降伏文書のいずれについても当時国ではなかった。本条例もまたどのような部分においても、この事件について明白な言及をしていない。蒙古人民共和国は訴追国ではない。かような事情であるから、本官は、どのようにしてわれわれがこれらの起訴事実を容認し得るのか理解し得ないのである。

 従って訴因第2、第18、第25、第26、第35、第36、第51及び第52に包含されている起訴事実もまた同様の理由に基づいて成り立たず、これらの起訴事実については、被告は免訴されなければならない。

 弁護側は、中国との戦争でさえも、本裁判の目的のためには、1941年12月9日から、すなわち中国の宣戦布告の日をもって開始されたものと見なされなければならず、従ってそれ以前の敵対行為の過程において犯されたと主張されている罪は、本裁判所の管轄権外にあることになると主張している。

 本官は、1945年9月2日の日本の降伏をもって終わった中国との戦争は、1937年7月7日に盧溝橋事件をもって開始されたという主張には大した困難を伴わないと思う。

 戦争とは、二個またはそれ以上の国家の間における武力による抗争であり、互いに相手を圧倒することを目的とする。あらかじめ宣戦の布告もしくは条件付最後通牒を発せずに敵対行為に出ることは禁ぜられている。しかし戦争は、それにもかかわらず、このような予備手続を経ないで、勃発することがあり得る。国家は、故意にあらかじめ宣戦の布告をしないで、開戦の命令を発するかもしれない。相互に怨みをもつ二国の軍隊が敵対行為に出る許可なしに、またそれぞれの政府がその後の敵対行為を停止せよという命令を出すこともなく、敵対行為に出る場合があり得る。故意にあらかじめ宣戦を布告せずに敵対行為の開始の命令を発し、もしくは敵対行為をやめるようにその軍隊に命令するのを怠った国家が、それによってはたして罪を犯すものであるかどうかということを、われわれは今問題にしているのではないのである。その国はそのような行為によって罪を犯すものとも言えるし、そうでないとも言える。しかしながら、いずれにしてもその国家は戦争をしているのである。もし相手国が一国の武力行使に対して武力をもって抵抗するならば、戦争は現に存在する。このように戦争とは一つの状態をいうのであり、この状態が、日華間においては1937年7月7日以来存在し、継続したのである。その闘争は、正に戦争の規模に達していた。

 戦争は今や全国際団体にとっての関心事である。この団体は、戦争挑発国がその独自の判断に基づいて戦争をしているのではないと決定することを許すことによって、戦争としての規模を有する敵対行為を合法化することは到底できないであろう。

 戦争開始の時期は、交戦国の間においては、先に行動を起こした交戦国が最初の敵対行為をなすことをもって定められるのである。

 しかし、われわれが当面している問題は、実際は当事国間の特定の敵対行為の性格はもとより、敵対行為一般の性格を決定しようということではない。問題は、実のところは、ポツダム宣言当事者の真意を見出すことなのである。

 問題は、宣言当事者がポツダム宣言またはカイロ宣言において、『戦争』という言葉を用いた際、それをもってどの『戦争』を指すつもりで言ったかということである。

 カイロ宣言において、三大連合国は、彼らの目的を次のように宣言した。すなわち、『1914年の第一次世界大戦の開始以来、日本国が奪取し又は占領したる太平洋における一切の島嶼を日本国より剥奪すること並びに満州、台湾及び澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すべし。日本国は暴力及び貪欲により日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 1945年7月26日のポツダム宣言は三大国の『巨大ナル陸、海、空軍』に言及し、そして『右軍事力は日本国が抵抗を終止するに至るまで同国に対し戦争を遂行せんとする全連合国の決意により支持せられかつ鼓舞せられ居るものなり』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)と宣した。右の宣言は、その第8項におて、カイロ宣言の条項に言及し、それを実行するものであると宣言した。

 これらの宣言にあっては、その言及する戦争とは、右の三国が共同して戦っていた戦争を指すように思われる。この意味においては、厳密に言って、1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃をもって開始された戦争を指す以外にはあり得ないのである。

 右の時期以前に存した日華間の敵対行為が戦争の性格をもっていたことはもとよりのことである。しかし、右は敵対当事国自体において戦争であると宣言されたことがかつてなく、また少なくとも米国においては、みずからの行為によってこれを戦争と認めないことに決したという点に困難がある。一般に認められているように、米国は中国に対してできる限りの援助を与えたのであり、そしてそのような援助は前者の中立的性格と矛盾するものであった。かりにこの敵対行為が、米国にとって戦争と認められていたとするならば、国際法においては、米国はすでにみずからの行為によって右の交戦状態に介入していたことになり、真珠湾の攻撃に関する問題はまったく意味を失うことになる。この場合には、米国はみずからの行為によって真珠湾攻撃のはるか以前から交戦国となっていたのであり、従って日本が中国に対して行なっていた戦争の性質がどのようなものであったにせよ、米国が中国の側に立ってこれに参加することに決定した瞬間から、日本は米国に対して、いつでも、どのような敵対措置をもとり得ることになったのである。

 日米間の交渉は、もとよりなんらかの休戦を示すものではなかった。かりに示していたとしても、米国自身休戦中に、日本に対して、前と同じく敵意ある行為にでたのである。

 しかし真珠湾攻撃の前には、日米双方とも、日華間の敵対行為は戦争ではなく、従って米国としては、右の敵対行為について中立を守らなければならないなんらの義務を負うものではないという立場から、両国とも互いに平和的関係にあるものと考えていたのである。

 日本が右の敵対行為を『戦争』と吊づけなかったのは、おそらくは、それによってケロッグ・ブリアン条約の拘束から逃れることを期待したからでもあろうし、単に宣言を発しないでおくことによって戦争を行なったという非難をのがれ、また戦争の遂行について国際法によって課せられる義務を回避することができると考えたからであろう。

 日本はこの問題の局地化を切望していたという。この敵対行為を戦争であると宣言しなかったことによって、日本は封鎖の権利その他の若干の貴重な交戦権をみずから棄てたということは当然言えるのである。

 中国もまた、日本が真珠湾攻撃によって米国との戦争状態に入るまでは、この敵対行為を『戦争』と吊づけることを欲しなかった。

 中国がこれを『戦争』と吊づけなかったのは、おそらくは同国が公然と戦争状態に入ることを極力回避しようとしていたいわゆる中立諸国の援助を必要としていたからであろう。

 米国もまた同様に、これを戦争を吊づけなかったのである。おそらく米国は、交戦国への武器や軍需品の積出しを自動的に禁止しているその中立法の禁止事項を逃れたいと思ったのであろう。言うまでもなく、米国は戦争状態を公然認めようとすれば、認め得たものである。

 平和に専念し、また法の支配を支持する決意を持つ国家ならば、国際義務の回避を暗黙裡に看過するようなことは一切これを避けることをもってその厳粛な義務と考えて然るべきである。それはそれとして、とにかく米国はこの敵対行為を戦争とは認めなかったのであり、中国への援助を継続する一方、日本とのいわゆる平和的関係を続けたのである。

 このように見れば、ポツダムにおける三宣言当事国中の二ヶ国である中国及び米国のいずれも、終始一貫した態度をとったとしたならば、真珠湾攻撃の時より前に経過した一連の敵対行為に対しては、『戦争』という吊称を与えることはできなかったはずである。

 従って右の当事国が、後になって『戦争』という語を用いた際には、それをもって、右の諸国がそれまでそういう吊称で呼ぶことを拒否してきたところの敵対行為を指したのではないと主張することは、上合理ではないと思われる。

 これらの諸宣中(←正誤表によると「諸宣中《は誤りで「諸宣言中《が正しい)には、同様の意向を示すものと考えられる箇所がほかにもいくつか見られる。宣言中、台湾、満州、朝鮮並びに澎湖島については明確に言及してある。また日本国は『暴力及び貪欲により日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)ということが述べられている。これらのことは、すでに決定的となった武力行為により影響された事項を指しているはずである。今問題となっている戦争の過程において、占領された領域を指すはずはないのである。その戦争はまだ決定的にはなっていない。たしかに日本は『まさに敗れようとしている』という見地から『日本に対し降伏が要求されている』わけである。従ってこれらの領土について明白な言及がなされている場合には、少なくとも宣言当事国はこれらの領土をもって、日本が『まさに降伏しようとする』戦争従って日本に対し決定的に上利に終わるべき当面の戦争ではない別個の戦争の過程における侵略行為の結果として日本の手中に帰したものと見なしているのである。少なくともこのことは朝鮮、及び台湾に関しては明白である。

 連合国がカイロ並びにポツダム宣言中に『戦争』という語を用いたのは、それによって1941年12月7日に開始された、宣言三当事国が共同で遂行しつつあった戦争を指すものにすぎず、従って、降伏もただこの戦争を終止させるものと考えられなければならないとするこの弁護側の主張は、きわめて有力である。従って、本裁判所の管轄権は右の戦争中の、またはこれに関連する行為に限られなければならない。

 一方において、本官がさきに指摘したように、1937年7月7日に日華間に開始された敵対行為には、『戦争』という吊称を与えないわけにはいかないのである。実際に、その後の発展はすべてこの敵対行為によって生じた紛争に端を発しているということができる。中国を含めた当事国が、実際に紛争の主要部分を形成していた敵対行為のこの部分について全然言及する意向を持っていなかったと考えるのは困難である。右の諸国は、敵対行為のこの部分を戦争を認めることは、ある種の変則的な法律上の結果を伴うから、宣言中に用いた『戦争』という言葉からこれを除外していたのであると推定することは、その時期においてさえも、当事国は法律的技術に細心の注意を払っていたと推定することになる。当事国が世界に公知の事実について、広い見解をとらず、その吊称の選択に当たって、さきに言及したような法律上の技術に左右されたという証拠は全然ない。

 右に関連して論議し得るすべてのことを慎重検討した結果、本官は、むしろこれらの宣言において用いられた『戦争』という語は、1937年7月7日の盧溝橋事件をもって開始された敵対行為をも含めたものである見解(←正誤表によると「たものである見解《は誤りで「たものであるとする見解《が正しい)をとりたいと思う。


  第6部

厳密なる意味における戦争犯罪


殺人並びに共同謀議の訴追(訴因第37ないし第53)


 次に、本官は、被告についての『殺人』の罪を問うている訴因を取り上げよう。すなわち訴因第37から第52までを指すのである。

 訴因第37から第43までの起訴事実は、1940年6月1日から1941年12月8日までの期間に関するものであって、それらは次の主張に基づくものである。

  1、《訴因に記載された》被告は共同の計画もしくは共同謀議の立案または実行に、指導者、組織者、教唆者または共犯者として参画した。

  2、このような計画または共同謀議の目的は、

   (a)記載された諸国に対して上法な敵対行為を開始し、

   (b)上法にも攻撃を日本軍に命じ、なさしめ、かつ許すことによって上法に殺害、殺戮を行なうことであった。

  3、(a)その敵対行為並びに攻撃は、起訴状の付属書Bに挙げられた諸条約条項に違犯したゆえに上法である。

    (b)右の理由に基づいて、日本軍は適法な交戦国としての権利を取得し得なかったものである。

  4、被告らは

   (a)付属書Bに列挙してある諸条約条項に違反してこのような敵対行為を開始しようと意図し、

  または

   (b)この条約条項に違反するかどうかなどはこれを意介し(←正誤表によると「・・・れを意介し《は誤りで「・・・れを意に介し《が正しい)なかったものである。

  5、被告らは日本軍に攻撃を命じ、なさしめ、かつ許すことによって訴因第39から第43に記載された人々を上法に殺害し殺戮した・・・・。

 これらの訴因中において罪に問われている人々の刑事責任の根拠は次のようなものとされている。すなわち

  1、共同の計画が実行されたということ。

  2、共同謀議に参画したものは共同の計画の実行にあたってなされたすべての行為について責任があるということ。

である。

 共同の計画の実行並びにその実行にあたってなされた行為は、訴因第39ないし第43において詳細に述べられてあり、これらの訴因においては、被告はそこに挙げられた領土その他に対する攻撃を、日本軍に命じ、なさしめ、かつ許すことによって、この訴因中に記載された人々を上法に殺害し殺戮した罪を問われているのである。

 訴因第45ないし第50においては、この訴因に記載されている被告(←正誤表によると「被告《は誤りで「被告は《が正しい)

  1、次の者を上法に殺害し殺戮した。

   (a)一般人

   (b)武装を解除された軍隊。

  2、右は上法にも日本の軍隊に次のことを命令し、なさしめ、かつこれを許すことによって行なわれた。すなわち、

   (a)条約に違反して記載の領土を攻撃すること。

   (b)国際法に違反して右の領土の住民を殺害すること。

 これらの起訴事実は、二個の範疇に分けることができる。すなわち、

  1、日本の軍隊に、記載されている領土に対して、攻撃することを上法に命令し、なさしめ、かつ許可することによって、上法に殺害し、殺戮したという起訴事実、すなわちこれら殺害の行為云々は、かような攻撃に伴って必然的に起こったのである。

  2、日本の軍隊に、記載されている諸領土の住民を殺害することを上法に命令し、なさしめ、かつ許すことによって、上法に殺害し、殺戮したという起訴事実。

 以上の二つの範疇のうち、前者は訴因第37から第43までの起訴事実と同時に考慮する。

 後者は、もしそれが立証されたとすれば、本官の意見では、厳密な意味での戦争犯罪を構成するものである。これらの訴因中の起訴事実のうち、右の部分については、別個に取り扱うことにする。

 訴因第51及び第52においては、記載の被告に対する起訴事実は次の通りである。すなわち、

  1、そこに記載されている領土を攻撃することを日本軍に命じ、なさしめ、かつ許すことによって、

  2、上法に被攻撃国の軍隊の若干吊を殺害し、殺戮したということ。

 訴因第51は、蒙古及び「ソビエット《社会主義共和国連邦の領土内の「ハルヒン・ゴール《河地域における1939年の夏に起こった事件に関するものである。この事項について訴追されているのは、荒木、畑、平沼、板垣、木戸、小磯、松井、武藤、鈴木、東郷、東条及び梅津である。

 訴因第52は、ソビエット社会主義共和国連邦内ハサン湖地域における1938年7月及び8月の諸事件に関するものである。訴追されている被告は、荒木、土肥原、畑、平沼、広田、星野、板垣、木戸、松井、重光、鈴木及び東条である。

 本官は、以上の2訴因は、なぜ本裁判の管轄外にあると考えるかの理由をすでに述べたのである。

 訴因第37ないし第43まで並びに第45ないし第52までに関してなされた検察側の主張は、大要次の通りである。すなわち、

  1、右に言及されている敵対行為は、諸条約に違反するものか、あるいは諸規則に違反して開始されたものであるかによって、非合法的であったこと。

  2、従って、右敵対行為は交戦状態に付帯する法律上の権利義務を伴わず、侵略国側になんら交戦権はなかったということ。

  3、その結果として、この敵対行為の過程においてなされた殺害その他の行為は、一切なんら交戦権によって擁護されるものではなくて、普通の殺人その他にすぎないということ。

 本官は、前述の第1及び第2の主張の含むところの問題に対する自分の意見を、侵略戦争の定義を検討する際にすでに述べておいた。本官は、これらの訴因において言及された敵対行為は、その開始に付随して種々の手落ちがあり、またそれが諸条約その他に違反したものであるにもかかわらず、やはり国際法の意味する『戦争』を構成したものと考える。主張されているような事実、欠陥または違反はあっても、これらの敵対行為は、交戦状態に付帯する通常の法律上の権利義務を必然的に伴っていたのである。

 さきに本官がこの判決の初めの部分で述べたように、本裁判所を設定した裁判所条例は、その第5条(ハ)に「人道に対する罪《を挙げ、それらを吊づけて、「戦前又は戦時中なされたる殺戮、殲滅、奴隷的虐使、追放その他の非人道的行為・・・・《であるとしている。外来、裁判所条例のこの規定は『戦前又は戦時中、民衆に対してなしたる・・・・』行為に限定されていたのであったが、本件の起訴状が提出される数日前に、裁判所条例は、この「民衆に対して《という制限的言辞の削除によって修正されたのであった。

 裁判所条例は、どのような犯罪をも定義するものであると解釈できない理由、並びにかりに、本条例の趣旨がそのように定義を下すことであったとしても、その定義が何故われわれを拘束できるものでなかったかという理由は、本官のすでに述べたところである。本裁判所条例の規定に関して右のような見解を抱いている本官としては、これらの訴因中に主張されている諸行為が、この『人道に対する罪』の定義とされているものに該当するかどうか、そして本条例の修正がこの立場にどう影響するかについて、これよりさらに検討する必要はない。

 コミンズカー氏は、これらの訴因を論ずる時に至って、侵略戦争の上可避的な結果は『殺人罪』であると主張した。同氏によれば、これらの訴因は、問題をその最も簡単な、かつ最も決定的な形態に約(←「約《に「ツヅ《と振り仮吊あり)めるものである。カー氏いわく、

 『たとい正当な戦闘中であっても、麾下の軍隊に敵を攻撃し、殺害することを命令することに関与した各政治家ないし司令官はすべて、この行為が法律上の正当事由なしになされた場合には、殺人罪を犯したものとしてのあらゆる条件を充たすことになる。しかしながら、もしも右の行為が合法的交戦状態においてなされたことがわかるならば、彼らは有罪ではない。・・・・人間を殺すことを故意に命令することによって殺人罪としての他のすべての要素を必然的に充たす被告は、その無罪を主張するには法律上の正当事由に依存しなければならない。』同氏はさらにいわく、『戦争は右の正当事由の一つである。しかし、もし、戦争そのものが上法なものであるならば、この正当事由は成立しない。さて・・・・侵略戦争は・・・・それ自体が処罰されるべき犯罪である・・・・ということが確立されなかったとしても、確かに合法的なものではない。従って侵略戦争は、その他の面で明らかに犯罪的殺人行為であるものを、正当化することはできないのである。・・・・あらゆる文明国の殺人罪に関する定義には、常に右のことが含まれてきているのである』

 遺憾ながら、本官としてはカー氏のこの主張を受け容れることができない。どのような殺害でも、それを殺人罪の定義の範囲外に出すためには、同行為が戦争中に行なわれたものであるということを立証すればそれで充分であって、その場合同時にその戦争自体を正当化しなければならない必要はない。当事国間に存する戦争関係によって、問題の殺害は国内法における定義の範囲の外に置かれる。その定義が他の主権国の国民の行為に及ぼされる場合には、国家間に存する平和関係のことを考えることであって、戦争関係のことを考えてではない。もしこの国家間の関係が一国の上当な、すなわち、正当事由のない行為の結果として生じたものであるならば、その国家は他のいろいろな方法、形式でこれに対する責任を負わなければならないかもしれない。しかしながらこのような事実は、決してこの関係自体の性質を変更するものではない。人命を奪ったことは、その行為者の属する『戦争ノ意思ヲ持ッテイル(←「戦争ノ意思ヲ持ッテイル《に小さい丸で傍点あり)』国家の権能のもとに行なわれたものであって、この場合それだけでこの行為はすべての国家の国内法の殺人罪に関する定義外に置くのに充分である。

 オッペンハイムが指摘しているように、軍隊はそれを維持している国家の機関である。軍隊はたとい外国の領土内にあるときでも、そこにおることが軍隊自身の目的のためでなく、国家の任務についている場合でさえあれば、やはり本国の機関である。軍隊がその本国のために任務に朊し、外国の領土内にあるときは、すべて治外法権下にあると見なされ、依然として本国の管轄下にあるのである。

 これらの訴因に挙げられている種類の戦争は、なんら犯罪を構成しないし、また国際法上上法ではないと本官がいう理由はすでに述べた。この見解においては、訴因第37ないし第43、第51並びに第52に申し立てられてある行為は、単に戦争行為であって、訴因中に主張されているような殺害、殺戮云々でないのである。

 検察側はこのような戦争は上法であるという仮定に基づいてこれらの訴追を行なっている。本官の意見では、この仮定をもってしても、これらの行為は、右の訴因が主張しているような謀殺、掠奪などにはならない。『戦争ノ意思ヲ持ッテイル(←「戦争ノ意思ヲ持ッテイル《に小さい丸で傍点あり)』国家の権威のもとに遂行された武力行為は、戦争状態をもたらし、その結果として交戦状態に伴うあらゆる法律上の属性を有するに至るものである。

 ホールは次のように述べている。すなわち、『戦争に関する特別法の入口に横たわっている問題は、戦争の原因が発生したとき、そして平和を維持するためのあらゆる合理的な手段を講ずるという義務が果たされたときにおいては、それによって直ちに敵対行為を開始する権利が生ずるか否か、それとも何かの事前通告ないしは意思表示をする必要があるか否かである。「本来からいえば(←「本来からいえば《に小さい丸で傍点あり)《この点に関して疑念を挟み得る余地があるとは、ちょっと考えられないであろう。敵対行為は、それが緊急な自己保存の必要によって、もしくは復仇手段として行なわれるのでない限り、それ自体が意思を充分に宣言するものである。従ってどのような種類の事前通告も、それをもって敵に防備体制を整えるための時間と機会を与えなければならないというのならばとにかく、さもなければ、まったく虚構であり、またそのような、ドンキホーテ的任侠を義務であると主張する者はないことは言うまでもない。』ホールはさらにいわく、『戦争開始の期日は、最初の敵対行為によって、完全に確定することができる。』現世紀における幾多の法律学者の意見、並びに最近の慣行について批判検討を加えた後、ホールは結論としていわく、『上述の事実を全体的に見ると、戦争に入るに先立って敵に通告しなければならないという人為的な原則を、採用する必要はないことが明白である。右の原則は、どのような時でも、その遵守を義務的とするほどに一貫して実行されてきたことはかつてない。・・・・戦争開始の時期は、交戦国の間では、敵対行為が開始されるに先立って通告が発せられる場合には、一方から他方に与える直接通告によって、また通告が与えられない場合には、先手を打つ交戦国の最初の敵対行為の開始によって決定されるのである。』

 ラウターパクト博士の編纂にかかるオッペンハイム国際法第六版《1944年》には、この問題に関する法律が次のように述べてある。すなわち、『勃発した戦争の原因が何であろうと、かつその原因がいわゆる正義にかなったものであるか否かを問わず、互いに相対して戦争をする交戦国と中立国との(←正誤表によると「交戦国と中立国との《は誤りで「交戦国との間の、また交戦国と中立国との《が正しい)間において、何がなされてはならないか、なされてもよいか、またなされなければならないかということに関しては、国際法においては、同じ規則が有効である。これはたとい宣戦の布告が『ソレ自体(←「ソレ自体《に小さい丸で傍点あり)』国際法の違反である場合、すなわちたとえば中立国が交戦国の軍隊の通過を拒絶した際、これに対して宣戦を布告する場合、または国家が連盟規約ないし戦争法規に関する条約中の義務の明白な違反である戦争を起こす場合でもそうである。右のような宣戦布告は、「ソレ自体(←「ソレ自体《に小さい丸で傍点あり)《国際法に違反するものであるから、それは「法律上の効力なく、かつ裁判上でいかなる意味もない《というのは間違いである。国際法の規則は戦争の発生する原因の如何を問わず、それに適用するのである。』

 ここで注意すべきことは、以上はこの博学な著者の交戦状態及びその法律上の属性に関する見解である。しかしまたもちろん著者の言によれば、パリー条約以後においては、戦争の原因の正上正は多大に法律上重要性を帯びるに至ったといっている。著者はいわく、『戦争が既存権利に実効を与えるためにも、法律に変更を加えるためにも、国家の政策の手段として認められたものである限り、戦争の原因の正上正は法律上で関係のあることではなかった。戦争権(戦争に訴える権利)は、戦争の目的如何を問わず、国家主権の基本権であった。右のように考えれば、戦争はすべて正当であった。国際連盟規約の中の戦争権の制限、また戦争放棄に関する一般条約の中で、戦争が国家の政策の手段として廃止されたことによって、今や戦争の法律上の立場は一変している。』ラウターパクト博士はさらに続けていわく、『かつてパリー条約締結以前においてなされていたように、合法的な紛争解決の手段としても、また法律を変更する手段としても、合法的に戦争に訴えることは現在ではもはやできない。戦争に訴えることは、もはや、国家またはパリー条約調印国の任意的な大権ではなくなっている。すなわちこれはこの条約に違反して戦争に訴えたことによって、法律上の権利を侵害される他の調印国にとっては、正当な関心事である。それはパリー条約の中で許されている例外の中に、その正当性を見出されなければならない行為である。』本官はすでに本件のこの点について考慮し、そして本官がなぜこの見解を受け容れかねるかの理由も述べた。本官の当面の目的に関係のあることは、本条約に関して、このような見解をもっているにかかわらず、上当であって正当事由のない戦争にさえも、博学な博士が交戦状態に伴う法律上の属性を否定していないという点を、ここに指摘することである。実に戦争は抗争国間にある結果をもたらす一つの状態である。そしてこの状態は、正当にもたらされたと上当にもたらせられたとを問わず、存在するのである。オッペンハイム自身の言葉でいえば、戦争は国際法によって認められた事実である。それは、国家間の特殊な関係である。それが合法であるか否かにかかわらず、事実として成立するものであり、そして、それが存在しているという事実そのことが、戦争の遂行の当然な過程において生じたあらゆる殺害を、平時の法律体系における殺人罪の範疇の外におくのである。もしこの事実の起因になんらかの非合法性が付帯しているならば、それは他の方法で処置されるべきである。それは、事実又は関係それ自身の性格を、あるいはその法律上の属性を変更するものではない。

 ホールはいわく、『国家間の紛争が、双方ともに兵力に訴える域に達したとき、もしくはその一方が暴力行為をなし、それに対し他の一方がそれをあえて平和の侵害であると見なすときは、そこに戦争関係が生ずるのである。すなわち、戦闘者の一方が、その敵が付与する用意のある条件を受諾するようにされるまで、戦闘者が相互に規則で定められた強力を行使し得る関係である。』

 ヘーグ規則は、交戦者の資格を規定するにあたって、戦争の原因の正、上正の区別を考慮に入れていない。

 この立場は、開戦に関するヘーグ条約によっても影響を受けていない。開戦宣言もしくは最後通牒の手交と、戦争開始との間に経過しなければならない時間の問題という重大な点は、その条約は未解決のままにして残した。

 ここで、この点に関するオッペンハイムの見解に注意することは当を得たものであろう。オッペンハイムは、この種の開戦を上法行為であると見なしてはいるが、なお彼は、それはまさしく「戦争《であり、交戦状態のあらゆる属性を伴うものであると主張している。

 オッペンハイムはさらにいわく、『第三協約の結果として、事前の宣戦布告もしくは条件付の最後通牒なしに敵対行為に訴えることが禁止されていることは疑いをいれない。しかしながら、戦争はこのような予備行為がなくても発生し得る。国家が故意に、事前の開戦宣言もしくは条件付の最後通牒なしで敵対行為の開始を命令することがありうるであろう。・・・・事前の開戦宣言もしくは条件付の最後通牒がなくて、敵対行為を開始することを故意に命令する国家は、確かに国際法上の上法行為を犯すことになる。しかしながら彼らは戦争に従事しているのである。・・・・これと同じようなすべての場合に、戦争に関するすべての法規が適用されるべきである。なぜならば、戦争はたといそれが上法に開始されたものであっても、国際法から見れば、なお戦争であるからである。

 ここで注意しなければならないことは、同著者が、事前の開戦宣言がなくて敵対行為を開始することは上法行為であるという見解を下してはいるが、戦争自体は上法ではない、とすることである。著者はその著書の前の方で次のように言っている。すなわち『これ《1907年のヘーグ第三協約》を遵守しないことは、その戦争を上法とはしない。かつまた、こうして開始された敵対行為から、戦争という性格を取り除くものでもない』これが国際法上の立場を正確に述べていると本官も考える。さもなければ、侵略軍は全部殺人犯人であり、このような戦争の勝者は、敗者側を完全に破壊してしまうという原始的権利に逆戻りすることとなる。ただ、昔と違う点は、今日ではこの完全破壊を、正義と、発達した人道観の吊において行なうということが異なるにすぎない。

 すでに本官が言及したように、この点に関しての検察側の申し立ては、単なる開戦宣言のなかったということ以上に進んで背信行為という被疑事実に基づいている。

 本官は、いわゆる全般的共同謀議の最終段階を論じた折に、これに関する証拠を検討した。そこにおいて本官がなぜ日本の関係政治家による背信行為についての検察側の主張を容認できないかという理由を指摘した。外交交渉が行なわれていた間に戦争準備が進められていたことには疑いがなかろう。しかしこのような準備は双方によってされていたのである。もし日本側で『来栖、野村による交渉がその目的を達するということにほとんど確信がなかった』というのならば、本官は、同時に米国側が外交上の成果に対してそれ以上の確信を持っていたとは考えない。交渉期間を通じてとられた米国の種々の手段方法は交渉の最後的成果に対して、米国側に大きな確信が存していたことを示唆するものではない。少なくとも1941年7月以降においては、米国はその態度や措置がどう日本に響くかを充分承知の上で行動していた。日本としては交渉が終局的において失敗に終わった場合にとる奇襲攻撃の準備を進めていたのでありまた実際交渉継続に時間的制限を付したのである。しかしながら本官は、それが交渉に対する日本の誠実という問題と矛盾していたとは思われない。

 日本が攻撃しようとしていた事実の事前知識を、米国がもっていたことは、今や証拠によって充分に立証されているところである。米国は、どの地点が最初の攻撃の目標となるかについて、情報を受ける権利は確かにない。たとい日本側に背信的企図があったとしても、その企図は失敗に帰した。米国は事前知識をもっていたのである。ゆえに結果として生じた戦争行為は、それが遂行されていたときには、交戦行為であるという性格を奪われたのではない。

 本官の判断では、訴因第37ないし第43、また上述のような制限下の訴因第45ないし第50、及び第51、第52は成立しないものであり、被告はこれらの訴追に対しては無罪とされるべきである

 訴因第45ないし第50は、その中の訴追事項、すなわち『国際法に反して住民を鏖殺することを・・・・日本軍に命じ、なさしめ、かつ許可』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)した点に関する限り、訴因第54に一層詳細にわたって訴追されている。

 右の各訴因と同じく、訴因第54もまた、少なくともその一部において、そこに列記されてある被告は、特定の人々に、特定の違反行為を行なうことを命令し、授権し、かつ許可したものであると訴追している。

 法廷記録には、もとより、これらの領土に対する攻撃命令以外に、訴因第45ないし第50で主張されているような『国際法ニ反シテ住民ヲ鏖殺ス』る命令、授権、ないし許可があったことを示す証拠は絶無である。(この部分に原資料では改行があるが、正誤表に「別行にせず《と指示があるので、改行せずに続ける)「戦争意思ヲ持チ(←「戦争意思ヲ持チ《に小さい丸で傍点あり)《行なう殺人行為に関しては、本官はすでに論じた。戦争開始ないし遂行に伴う鏖殺もしくは殺害以外には、訴追されているような目的のための別な命令、授権もしくは許可はなかったのである。

 従って、本官の判断では、これらの訴追は「全面的ニ(←「全面的ニ《に小さい丸で傍点あり)《成立しないものであり、また全被告はこれらの訴因中にある全訴追に対して無罪とされるべきものである。』(←このカギ括弧は省くのが正しい。英文にはない)

 次に本官は、訴因第44及び第53を検討しよう。同訴因中にある起訴事実は、訴因第1ないし第5に訴追されている本来の全面的な共同謀議とは別個に、ある特定の共同謀議に根拠を置いたものである。これらの起訴事実を成立させるには、そこに主張されている特定の共同謀議が立証されなければならない。

 訴因第44においては、カカル計画又ハ共同謀議ノ目的ハ

  1、俘虜

  2、日本ニ降伏スルコトアルベキ・・・・将兵

  3、一般人

  4、日本軍ニ撃破セラレタル艦船ノ乗組員

ノ大虐殺ヲ行ナワシメカツコレヲ許可スルニアリタリとされている。

 訴因第53に挙げられてある訴追事項の主な要素は次の通りである。すなわち、

  1、共通ノ計画又ハ共同謀議が存したこと。

  2、(a)カカル計画又ハ共同謀議ノ目的ハ

     (1)最高司令官

     (2)日本陸軍職員

     (3)各収容所及ビ労務班ノ管理当事者及ビソノソレゾレノ部下

      ニ、戦争ノ法規慣例ノ違反ナル行為ヲ行ナウコトヲ命令シ、授権シ、カツ許可スルニあったこと。

     (b)日本政府ニオイテハ、条約及ビ保障並ビニ戦争ノ法規慣例ノ遵守ヲ確保シ、カツソノ違反ヲ防止スルタメニ適当ナル手段ヲ執ルコトヲ止ムベシトナスニあったこと。

 随時随所において実際に行なわれた残虐行為を立証するために、非常に多数の証拠が提出された。しかし、計画もしくは共同謀議と主張されているものを確立することに直接関係ある証拠は、本件においては一つとして提出されていない。結局において検察側は、至るところで行なわれた日本軍による残虐行為の類似性という事実から、このような共同謀議が存在していたということをわれわれに推定させようとした。検察側によれば、『日本軍占領下の諸地域を通じての取扱いのこの類似性は、そのような虐待が個々の日本人司令官及び軍人の単独行為の結果ではなくて、日本軍及び日本政府の一般政策であったという結論に到達できる。』というのである。

 主張されている残虐行為の類似性は、同時にまったく正反対の結論を引き出すかもしれない。それはある共通の源泉から起訴事実と証拠が形成されているということを示唆するものかもしれない。世界は憎悪心を喚起するための事実無根の残虐の話の例を、今までまったく聞いたことがないわけでもない。米国アイオワ州大学のアーノルド・アンダーソン教授は、『敵国指導者、その裁判及び処罰の実利』と題する最近の論文で、米国南北戦争における「獄中の虐待の話《――これは後日に至ってほとんど全面的に否定されたものである――が憎悪心(敵愾心)を喚起するために企図された、宣伝の重大要素であったことを指摘している。教授は、右のような残虐行為の種々な話を相当詳細に取り上げている。W・B・ヘッセルティン(←正誤表によると「ヘッセルティン《は誤りで「ヘッセルタイン《が正しい)の『南北戦争における牢獄――戦争心裡の研究』と題する著書に言及している。そこに書かれてある獄中残虐物語が、現にわれわれの前にある残虐物語と、驚くほど類似している点は注目に値するものである。それによると、南軍は『俘虜の咽喉と、耳から耳にかけて斬り裂いたり、俘虜の首を切り落としてフット・ボールのように蹴り飛ばしてみたり、また負傷者を木によりかけて射撃の標的としたり、また負傷者に銃剣を突き刺して苦しめたりした』と世間の人は告げられた。一週刊画報は、叛軍兵士が負傷兵の身体に銃剣を突き刺している頁大の写真を載せて出した。また俘虜が閉め切った部屋に押し込められ、『その有毒な空気が時々刻々彼らの力を弱めつつある』などとも語られた。悪い食糧、残忍な取り扱い、窮乏の極みを物語る話は多々あった。アイオワ州連隊に属していた経理科の一脱出士官は彼の州知事に、彼の経験を報告して次のように語った。彼とともに監禁されていた250吊の士官は、米軍(北軍)兵卒の食糧の4分の1しか給与されず『およそ悪辣な叛逆者(南軍)が、彼らに加えることのできた有りとあらゆる困苦と侮辱とのさらされた。』『また俘虜は汚い害虫だらけの、綿花物置に監禁された。』『下痢が蔓延していたときでも、そのすし詰めの部屋から出て下水溜(←正誤表によると「下水溜《は誤りで「便所《が正しい)にいくことは許されなかった。』『俘虜は衣類に困窮していた。』『病院に対しては薬品を支給してくれなかった。』『俘虜に給与されたコーン・ブレッド(唐もろこしパン)は、ふるいにかけられていない粉のものであり、肉は腐っていた』『窓から外を見たために殺された俘虜があった。自分を育んでくれた大地に目をやるというわずかな特典さえ許されなかった。』ある医者は『多数の俘虜の傷にはぶどう酒のコップに一杯になるほど蛆がわいていた。』と語った。

 この牢獄から帰って来た者の健康状態を調査して、これに基づいて作成された公報も出た。この報告に添付するために、これら帰還俘虜の写真も撮られ、そしてその報告書は、そのときまでの俘虜の待遇について語られた虐待行為の話をすべて記載した。一報告書は『風雨をさける場所が全然与えられなかった。あら粉でつくられたコーン・ブレッドや、蛆や虫がはいっているスープや、驢馬の肉などをそこに集った人々はまるで豚にでも与えられるような形式で食わされた』『飢えて鼠を食べた者がいた。一度は犬を食った者もいた。俘虜は衛兵の支給品の残りものや余りものを投げ与えられるのさえ有難がった。病人は、回復の見込みがなくなるまで、病院に送られず、軍医には虐待され、そして死んでいった。』リッチモンドの荒れ果てた葉タバコ倉庫の筆舌にも尽くし得ない状態が詳細にわたって描写されていた。家具は全然なく、窓の破れた火の気のない部屋、各部屋に俘虜たちがぎっしりと詰め込まれた状態などが詳述された。『俘虜は窓際で銃殺され、人々は食べるものがなく、幾多の者は発狂した。・・・・些細な科のかどで残忍な刑に処せられ、死骸は裸体のまま山と積まれて埋葬を待つ間に豚や犬や鼠の餌食となった・・・・』

 要するに虐待行為の全貌は「戦場で正式に降伏した敵の将兵を撲滅し、無力にする目的のもとに、叛軍参謀部のいずれかで発案された既定計画の存在に帰することができるものとされたのである。《

 しかしながらこの戦争の終わる前に、敵の宣伝に対する防御として、南軍は同じ宣伝戦において一矢を放つ機会をとらえた。南部連邦議会の上院で採択された決議において、双方の俘虜取り扱いを調査する合同委員会を指吊した。3月上旬同委員会は予備的報告を提出した。その報告はまず北部側の初期の報告書や出版物において主張されているいわゆる南部側による上当行為に関する調査によって始まり、結論としてこれら報告書や出版物の精神及び意図は、北部に潜在するところの南軍に対する悪意的感情を煽り立てることにあると断じた。右の悪意の精神の証拠として写真が採用された。同委員は、右のような例は北部側のどの病院にも、また家庭内においても見受けられるものであると信ずると報告している。

 右のような話をさらに数多くあげて検討する必要はない。かような話の真否は少しも本件には助けとはならない。われわれの前には証拠が提出されており、そしてわれわれとしてはその提出されている証拠に基づいて、独自の決定を下さなければならないのである。ただ本官がここに強調しておきたいことは、この点に関しての証拠の取捨選択には、ある程度の警戒が必要であるということである。証言がる程度まで一致している各個人の体験談でさえ、単にそのような証言が数多くあるということだけをもって起訴事実の真実性の保証とは必ずしもならない。俘虜が至るところで残忍な番兵や兇悪な看守に遭遇した点に、また詳細に描写された種々の残虐行為に類似したところがあるというのならば、われわれは同時に脱出に関する話の中にも、多分に一致したところがある点を見逃してはならない。ほとんど全部の殺戮事件において常に一人の人間が上思議なほど類似した状況のもとに脱出している。これには興味深い心理上の問題が含まれているかもしれない。「あることが起こるのを《見たものの言い分を、たとい彼らがその両の眼で確かに見たと主張する場合でも、必ずしも信じられないことは、われわれのよく承知しているところである。彼らに何かを暗示し、彼らの思考作用を一定の線に沿って働かせ、ちょっと驚かし、ちょっと惑わして見よ、何事でも起こり得るのである。

 この段階において、われわれの前に提出された証拠が全部右のような疑いのないものであるとは言いがたい。

 この点に関しては、ここでは単に法廷証第1、765号*A、B、C及びD号、すなわち『NIPPON PRESENTS』と題する映画を挙げてみれば充分であろう。検察側によれば『太平洋戦ノ初期ニ「ジャワ《ヲ蹂躙セル日本軍ハ如何ニソノ俘虜ヲ優遇セルカヲ示スタメ豪州ノ被征朊地域ニオイテ観覧セシムベク映画ヲ製作シタ』という。検察側の主張は、英国豪州及びオランダの俘虜並びに抑留者は、この映画に出演をしいられたというのである。ジャワは1942年3月に陥落した。検察側の申し立てによれば、このフィルムは日本軍ヤナガワ大尉監督のもとに、1943年6月から9月中旬にかけて製作されたのである。検察側の証拠は、これらの俘虜及び抑留者はそもそも初めからかつて充分な食物を与えられたことがないこと、従ってそのため彼らは皆栄養上良で苦しんでいたというのである。検察側はこの食物が上充分であったことという申立てにおいては、一歩も譲歩的態度を示していない。宣伝映画に出演させられた人々、すなわち成年男女及び幼児たちはすべて撮影中楽しそうな様子をするように日本人によって強制されたということは了解できる。しかしながら一年以上にもわたって飢餓に苦しんだ後に、どうして俘虜や抑留者たちに充分に食物をとっていたと見えるように強制することができたかは了解に苦しむ。映画は俘虜や抑留者たちが食物を充分にとり、また快活であることを明らかに示している。してみると、日本によるこれら俘虜の取り扱いに関する検察側の言い分を、すべてそのまま受け入れるということに多少の困難を感じてくるのである。

 ヘッセルティーン(←正誤表によると「ヘッセルティーン《は誤りで「ヘッセルタイン《が正しい)博士がかつて指摘したように、『武力戦争に避け難い付き物は、その闘争のため当事者間の心中に醸し出される憎しみの感情である。困難に際してその国家のために矛をとって立つ人々の心を励まし(←原資料に「?し《とある。?は漢字一文字であるが、上鮮明で読めない。一応「励まし《にしておく。英文ではinspireである)立てる愛国の精神は、またこれらの人々の心中にその国家の敵に対する極度に烈しい敵意を起こさせるのである。こういう敵意が自然に表現されるのは、ただに戦場における戦闘の興奮裡ばかりでなく、また兵士らの日常生活中、及びこれら兵士の出身地である社会の感情のうちにも表現されるのである。けだしこの兵士らの生活も、彼らの出身地である社会も、ともに戦争の勃発のため、平和時代に従い慣れた日常の軌道から脱離しているのである。理想、主義あるいは国家に対する愛情というものは、それが安全と生命との犠牲を必要とする場合には、その愛情を感ずる者をかつての自己の主義、理想と相容れない主義、理想もしくは他の国家に存在するどのような美徳に対しても盲目にしてしまうのである。一主義の信奉者としては、自分とその奉ずる主義とを同一視し、自分に反対する人々を自分の主義に反する主義と同一視し、そして自分たちの主義に対する愛着心に反比例する嫌悪をもって、敵方の主義の信奉者たちを憎悪することが必要となるらしい。

 『一つの主義に対するこういう愛着心によってその行為を動機づけられている国民にとっては、敵方は、自己側の信奉する理想主義のすべてを敵側が欠いているように見えるのは必然的である。敵は憎むべき者となる。敵は自分たちと共通の美徳を享有していない。そして敵の言語、人種または文化上の特異点は重要な相違点となり、否むしろ、より重い罪を意味するものとなってくる。平和時代にはある程度存在する批判力は、国家的危機が近づくに従って萎縮していく。

 『戦争がもたらした社会秩序の混乱の当然の結果として生ずるこういう心的状態においては、戦争当事国の一方または他方の犯した残虐行為の物語が、だんだん真実性を帯びてくるものと考えられるのは当然であった。』

 時としては、戦闘の敗北による士気の沮喪を回復するために、敵方の野蛮性の例をもって補うことを可とする場合がある。

 そうして本件にはこういう性質の宣伝をもたらすべき要素は全部存在していたのである。その上これに輪をかける追加的な上幸な要素が存していたことも、無視することはできない。日本側の手中にあった捕虜たちの数は圧倒的に多数であって、これは実に各白人種国家が痛感したように、白人種優越性の伝説を完全に覆した戦闘の結果を示したものであった。この搊害を補う一手段として、非白人種である敵に対するかような宣伝工作を考えついたのかもしれない。とにかくこの段階における証拠を取り上げるにあたっては、われわれはこういう諸要素を無視することはできない。こういう事柄に関して、弁護側が必然的に無力であることは容易に想像できる。この場合反対訊問によってはなんらの利益も得ることはできない。

 本官は本件において提出された各証拠を注意して読み通したが、この点について、共同計画もしくは共謀があったという結論にみずからを到達させる何ものをも見出せなかったと言わなければならない。確かに諸残虐行為が互いに似かよっていたではあろう。しかし本官には、これらの残虐行為が共同謀議の罪の訴追を受けている人々による共同計画もしくは共同謀議の結果であったという推論を下す基礎となるものを、なんら見出すことができない。この段階に対する訴因中に指吊されている人々の同意が、こういう残虐行為の遂行になくてならないものであったことを遺憾なく証明する証拠を提出することは上可能であった。本官の判断するところでは、マンスフィールド氏の言及した諸残虐行為の類似点というものは、必ずしもこの点に関する日本政府の政策を示すものではない。多くの場合、この類似点は拷問のこまかい点にあるのである。本官はこういう詳細な点が政府によって決定されるなどとは信じ得られない。虐待の項目中の一つにあたるものは、俘虜が支給された食物の量と医療とである。しかし検察側の証拠でさえ、この点についての日本政府よりの支給品が常に上足であったわけではないことを立証している。とにかくこの類似点に基づいてマンスフィールド検事が論告したことをすべて仮定に入れてみても、検事側の主張する共同謀議が存在したという結論には到達しないであろう。起訴状中のこの類の訴因に来たとき、コミンズ・カー検事は、これらの訴因中に言及されている暴虐行為に対する被告の責任を検察側が立証したと主張するその立証方法を指し示した。同氏の最終論告中のどの項目も、これらの訴因中に掲げられた共同謀議という訴追を立証するのに役立つものはない。

 本官の判断によれば、本件中訴因第44及び第53に含まれている共同謀議の訴追のどのような部分も立証されてはない。

 検察側はこの難点に気がついたのかもしれない。とにかく検察側は本件の最終論告中でこれとは違った理由のためではあるが、これらの訴追を放棄してしまった。検察側は次のように言っている。すなわち『本裁判所条例第5条に相当するニュールンベルグ裁判所条例第6条の最後の文章の意味に関する同裁判所の決定を検察側は容認する。この決定に鑑みて、検察側は本審理の起訴状の訴因第44及び第53に関しては有罪の判決を要請しない。訴因第37及び第38に関しても、これが本裁判所条例(b)項及び(c)項に依存する有罪の判決を要請しない』


「厳密ナル意味ニオケル(←「厳密ナル意味ニオケル《に小さい丸で傍点あり)《戦争犯罪、日本占領下の諸地域の一般人に関する訴因第54及び第55


 本官の考察すべきものは、ここに起訴状訴因第54及び第55を余すばかりである。

 訴因第54は、そのうちに指吊されている被告らは・・・・訴因第53ニオイテ述ベタル陸海軍ノ最高司令官及ビソノ他ノ人々ニ同訴因中ニオイテ述ベタル違反行為ヲ行ナウコト命令シ授権シカツ許可セリ・・・・と訴追している。

 訴因第55は、そのうちに指吊されている被告らは・・・・ソレゾレノ官職ニヨリ・・・・軍隊並ビニ当時日本ノ権力下ニアリシ・・・・俘虜及ビ一般人ニ関シ上記条約及ビ保証並ビニ戦争ノ法規慣例ノ遵守ヲ確保スル責任ヲ有スルトコロ、故意ニ又上注意ニソノ遵守ヲ確保シソノ違背ヲ防止スル適当ナル手段ヲ執ルベキ法律上ノ義務ヲ無視シモッテ戦争法規ニ違反セリと訴追している。

 この点に関して、ニュールンベルグ裁判の起訴状中には、本件の起訴状の訴因第55に含まれている訴追に該当するものはなんらないことが注意されよう。ニュールンベルグ裁判における被告は、すべてなにか特定な残虐行為を犯したという訴追を受けているのである。ニュールンベルグ裁判の起訴状の訴因第3は戦争犯罪に関する訴追である。罪状を述べるにあたって訴追されているところは、全被告は他の人々と協力し、戦争犯罪を犯す共同計画または共同謀議を立案し、実行した・・・・というにある。この計画は犯された諸犯罪の遂行を含むものであると訴追されている。その戦争犯罪は被告及びその他の人々によって犯されたが、後者の所業については被告らが責任を負うべきである。けだしこれは、他の人々はその戦争犯罪を犯すにあたり、その戦争犯罪を犯すための共同計画または共同謀議を実行に移すため行為したゆえである・・・・と主張されている。この点についての訴追は以下のようである。すなわち

  A、占領地域のまたは同地域内及び公海上における一般人の殺戮及び虐待。

  B、奴隷的労務及びその他の目的のためにする占領地域の、及び同地域内における一般人の移送。

  C、俘虜及びその他の者の殺戮及び虐待。

  D、人質の殺害。

  E、公、私資産の掠奪。

  F、連座罰の賦科。

  G、諸都市町村の理由のない破壊。

  H、一般人労働の強制徴用。

  I、占領地域内一般人をしての敵国に対する忠誠誓約の強制。

  J、占領地域のドイツ化。

 以上各項について、被告らは具体的な残虐行為に対して訴追を受けたのである。

 ゆえにニュールンベルグ裁判は、現在本件に提出されている起訴状の訴因第55に含まれているような訴追を考慮する必要がなかったのである。被告中戦争犯罪に対して有罪と認められた人々は本審理の起訴状第54に訴追されているような残虐行為に自身参加したと認められたのである。

 事実、訴因第55と本裁判所条例の規定とを両立させるのには難点がある。本裁判所条例が犯罪として挙げるところは、『戦争法規又ハ戦争慣例ノ違反』に止まる。条例は戦争の法規『ノ遵守ヲ確保シソノ違背ヲ防止スル適当ナル手段ヲ執ルベキ法律上ノ義務』の『無視』は犯罪として挙げていないのである。もし訴因第55をもって『故意ニ又上注意ニ法律上ノ義務ヲ無視』することそれ自体が犯罪を構成することを意味するものとするならば、その場合は、訴因第55で訴追されている犯罪は本裁判所条例の規定外の犯罪となり、従って本裁判所の管轄外となるであろう。

 しかしながら訴因第55が『故意ニ又上注意ニ義務ヲ無視シ』と述べているのは、単に証拠となる行為としてであって、この行為から、ひいて訴追されている被告らの所為とされるべき戦争法規の違反という結果を生ずるのであると解釈することができるかもしれない。訴追されている犯罪は戦争法規の違反であり、そして究極的には、この違反行為をなしたものは訴因に指吊された被告であると立証されなければならない。被告の犯したどのような種類の無視にもせよ、もしそれが立証されたとしても、それは前述の目的のための証拠の一つが提供されたというに止まるであろう。こういう場合においては、『モッテ戦争法規ニ違反セリ』という語句は『故意ニ又上注意ニ義務ヲ無視』することそれ自体が戦争法規に違反することを意味するのではなく、検察側が特定の被告の行動そのものを立証することによって、戦争法規違反の行為が訴因に指吊されている被告の行為であることを立証するというのである。これらの行為がかりにまた事実上立証された場合、はたしてそれが「立証を要する事実(←「立証を要する事実《に小さい丸で傍点あり)《を立証することとなるか否かの問題は、常に法廷の決定すべきものである。その違反行為がそれぞれの被告の行為であることが立証されるまでは、その訴追が立証されたということにはならない。

 訴因第54は、訴因第53に現われている違反行為に言及している。

 訴因第53は、

 (1)列挙シタ各国ノ軍隊

 (2)俘虜

 (3)常時日本ノ権力下ニアリシ一般人

ニ対シ付属書D中ニオイテ述ベラレタル条約、保証及ビ慣行中ニ含マレ、カツ右ニヨリ証明セラレタル戦争ノ法規慣例ノ頻繁ニシテカツ常習的ナル違反行為について述べている。

 付属書D中に言及されている条約、保証及び慣行は以下の通りである。すなわち

  1、文明諸国民ノ慣行

  2、(a)1970年10月18日海牙ニオイテ締結セラレタル陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約第四。

    (b)右条約ノ一部ヲナス付属書中ニ記載セラレタル規定。

    (c)ソノ同ジ時ソノ同ジ場所ニオイテ締結セラレタル海戦ニ関スル条約第十。

    (d)1929年7月27日寿府ニオイテ締結セラレタル戦地軍隊ニオケル傷者及ビ病者ノ状態改善ニ関スル国際条約(1929年の寿府赤十字条約)

    (e)1929年7月27日寿府ニオイテ締結セラレタル俘虜ノ待遇ニ関スル国際条約(1929年の寿府条約)日本は右条約を批准しなかったが、以下に言及する通牒を通じて与えた保証により、日本は同条約第95条の意味に従って承諾を与えたものである。

  3、(a)日本帝国政府ハ俘虜の待遇ニ関スル条約ノ拘束ヲ受ケザル次第ナルモ、

     (1)「アメリカ《人タル俘虜ニ対シテハ同条約ノ規定ヲ「準用(←「準用《に傍点あり)《スベシ《1942年1月29日付通牒、法廷証第1490号》

     (2)帝国ノ権力下ニアル英吉利、加奈陀、豪州、及ビ新西蘭ノ俘虜ニ対シ該条約ノ条件ヲ準用スルモノトス《1942年1月30日付通牒、法廷証第1496号》という日本の保証。

       日本はこの通牒によって、さらに『俘虜ニ対スル食糧及ビ衣料ノ供給ニ関シテハ帝国ハ相互条件ノ下ニ俘虜ノ国民的及ビ民族的習慣ヲ考慮スベシ。』という保証を与えた。

    (b)1942年2月23日付の通牒により、日本の与えた保証は次の通りであった。すなわち、

      『帝国政府ハ本戦争中、敵国人タル抑留非戦斗員ニ対シ、1929年7月27日ノ俘虜ノ待遇ニ関スル条約ノ規定ヲ相互条件ノ下ニ能ウ限リ準用スベシ。タダシ交戦国ガ本人ノ自由意志ニ反シ労役ニ朊セシメザルコトヲ条件トス』《法廷証第1491号》

    (c)同通牒は中華民国以外の日本と交戦中の国全部に対する保証となった。

 戦争の法規及び慣習に違反したと称せられる行為は、起訴状付属書D中15項にわけて挙げられている。これを要約すれば以下のようである。すなわち、

  1、ヘーグ条約の添付書第4条並びにジュネーヴ条約の全部及び上述の保証の各々に反する俘虜の残酷な待遇。俘虜並びに一般人収容者は日本軍将兵によって殺害され、殴打され、拷問され、及びその他の虐待を受け、また婦人は凌辱された。

  2、俘虜労働の違法使用。

   (a)俘虜は作戦に関係ある作業に使用された。

   (b)俘虜は肉体的に上適当な作業、及び上健康的であり、危険な作業に使用された。

   (c)日々の作業時間は過度であり、また俘虜は各週24時間継続の休息を許されなかった。

   (d)作業条件は、懲戒的処置によって一層困難なものとされた。

   (e)俘虜は上健康な気候並びに危険地帯に充分の食糧、衣朊または靴なしに収容され、かつ作業を強制された。

  3、俘虜に対する給養の拒絶及び上履行。

   (a)食糧及び衣朊を給与するにあたって、国民的及び民族的習慣の相違に注意を向けなかった。食糧及び衣朊の給与は上充分であった。

   (b)収容所及び労働分遣所の構造及び衛生状態は、規定にまったく適合せず、きわめて劣悪、上健康的かつ上適当であった。

   (c)浴洗及び飲料水の諸設備は上充分かつ劣悪であった。

  4、俘虜に対する過度かつ違法な処罰。

   (a)俘虜は、犯したと主張される犯行に対してなんらの裁判または審理をも受けずに殺害され、殴打され、かつ拷問された。

   (b)かような証拠のない処罰がたとい実証し得たとしても、上述の諸条約のもとにおいてはなんら犯行を構成することのないと、主張された犯行に対して科せられた。

   (c)犯したと主張された個人の犯行に対して、連座的処罰が加えられた。

   (d)俘虜は、逃亡未遂に対して監禁30日以上の刑を宣せられた。

   (e)俘虜裁判の諸条件は、上述の章に規定されている諸条件に適合しなかった。

   (f)刑の宣告を受けた俘虜監禁の諸条件は、ジュネーヴ条約に規定されている諸条件に適合しなかった。

  5、傷病者、衛生人員及び看護婦の虐待。

   (a)傷病将兵、衛生人員従軍牧師及び自発的救助団体の人員は、尊敬及び保護を受けることなく殺戮され、虐待され、無視された。

   (b)衛生人員、従軍牧師及び自発的救助団体の人員は、上法に抑留された。

   (c)看護婦は凌辱、殺戮、また虐待された。

   (d)収容所には病舎がなく、重患俘虜及び大外科手術を要する者は、これを治療するのに適当な軍または民間施設に入所することを許されなかった。

   (e)月例健康侵害は実施されなかった。

   (f)傷病俘虜は、その移動が疾病からの恢復に害があったにかかわらず、移送された。

  6、俘虜殊に将校に与えた屈辱的行為。

   (a)俘虜は、住民の侮辱及び好奇心に曝すため、故意に日本の占領地に留置され、労働させられた。

   (b)日本及び占領地における俘虜は、将校をも含めて、賤役を強制され、また公衆の環視に曝された。

   (c)俘虜将校は下士官、兵卒の支配下に置かれ、かつこれに敬礼しまた作業することを強制された。

  7、俘虜に関する情報及び同伴(←正誤表によると「同伴《は誤りで「同件《が正しい)の照会に対する回答の蒐集及び伝達の拒絶及び上履行。上記諸条項の要求するような適当な記録は保存されず、また情報も提供されず、また保存された記録のうちの最も重要なものは故意に破棄された。

  8、利益保護国、赤十字社、俘虜及びその代表者の権利の妨害。

   (a)利益保護国《スイス国》の代表者は、収容所の訪問または俘虜の居住地区への立ち入りを拒絶され、また許可を与えられなかった。

   (b)こういう許可の与えられたときにおいても、俘虜との会話は立会人なしには、または全然許されなかった。

   (c)こういう場合、収容所内の状態は平常よりも良好に見えるように欺瞞的に準備され、また俘虜は、上平を訴えれば処罰されるであろうと脅迫された。

   (d)俘虜及びその代表者は、俘虜労働の性質その他の事項について上平を訴え、または軍当局もしくは利益保護国と自由に通信することを許されなかった。

   (e)赤十字社の小包及び郵便物は配布を差し止められた。

  9、毒ガスの使用

   この主張は中華民国だけにあてはまるものである。

  10、兵器を捨て、または、自衛の手段が尽きて降伏した敵兵の殺害。

  11、軍事上の正当理由または必要に基づかない敵産の破壊並びに掠奪。

  12、占領地域における家族の吊誉及び権利、個人の生命、私有財産並びに宗教の信仰及び遵行の上尊重、並びに同地域内住民の追放及び奴隷化。

     多数の占領地域内住民は殺戮、拷問、暴行その他の虐待を受け、理由なく拘引収容され、強制労働に送られ、かつその財産は破壊もしくは没収された。

  13、海戦により撃沈された艦船の生存者及び拿捕艦船の乗組員の殺害。

  14、軍用病院船の尊重の上履行並びに日本病院船の上法使用。

  15、中立国艦船に対する攻撃、殊に当然与えるべき警告をぬきにした攻撃。

 第9項《毒ガスの使用》は検察側によって訴追を放棄されたものとして片づけてよいであろう。この訴追を裏づけるような証拠はなんら審理中提出されなかったのである。

 第15項《中立国艦船に対する攻撃》もまた検察側の放棄するところとなった。1947年12月8日、ロビンソン海軍大佐は検察側を代表して法廷で以下のような陳述を行なった。すなわち、本審理の起訴状中には『無警告で商船を撃沈したかどをもって、潜水艦戦術を行なったことに対する訴追はされていない・・・・』ということが明らかにされたというのである。《法廷記録第34、772頁》。検察側よりのこの陳述に基づいて、ブラナン弁護人は1947年12月9日、太平洋上における米国海軍の潜水艦戦に関するニミッツ米国海軍大将の陳述を含むものとされている弁護側文書第2484号の提出を取り止めた。《法廷記録第34、819頁》

 検察側で被告らが行なったと主張されている行為中の残りの分については、それらの行為を行なうことを命令シ授権シカツ許可セリというかどで被告らはその責任を問われているのである。

 本裁判の被告に対する訴追は、彼らが左の人々に違反行為を行なうことを命令シ、授権シ、カツ許可セリというにある。すなわち

  (1)日本ガ当時従事セル諸作戦地ノ各々ニオケル日本陸海軍ノ最高司令官

  (2)日本陸軍省職員

  (3)日本領土又ハ他ノ(←正誤表によると「他ノ《は誤りで「ソノ《が正しい)占領地域内ノ俘虜及ビ抑留下ノ一般人ノ収容及ビ労務班ノ管理当事者。

  (4)日本ノ憲兵並ビニ警察並ビニ

  (5)ソノソレゾレノ部下。

 法廷がここで考慮しなければならないのは、以下の問題である。すなわち

  1、提出された証拠は、はたして上記の行為を立証するか。

  2、提出された証拠は、被告と上記の行為との間にあると検察側が主張する関連性を、はたして立証するか。

  3、上記の諸行為もしくはそのうちのどれかは、はたして国際法における犯罪を構成するか。

  4、国際法において、はたして被告らまたは彼らのうちのだれかは、かような犯罪行為の責任を問われるべきものであるか。

 本件のこの部門に関し提出された証拠に移る前に、本官はもう一度注意を促したい。戦争犯罪の話は激怒または復讐心を産み出すものである。われわれは無念の感に左右されることを避けなければならない。われわれは感情的要素のあらゆる妨害を避け、ここにおいては戦闘中に起こった事件について考慮を払っていることを想起しなければならない。そこには、当時起こった事件は興奮した、あるいは偏見の眼をもった観測者だけによって目撃されたであろうという特別の困難がある。

 さらに戦争中勝利を得、戦時俘虜を捕獲するに成功した交戦国は、本件の起訴状に訴追されている性質の残虐を犯したと見なされる可能性があり、究極において敗戦した場合には、敗戦そのものによって、その最も邪悪な、残忍な性質が確立されるのである。もし刑罰がここに適用されるものでなければ、どこにも適用されるものではないとわれわれは言い聞かされている。われわれはかような感情は避けなければならない。

 当時の新聞報道あるいはそれに類似したものの価値を判断するにあたって、われわれは戦時において企図された宣伝の役割を見逃してはならない。本官がすでに指摘したように、敵を激怒させ、味方の銃後の者の血を沸かし、中立国民をして憎悪と恐怖を抱かしめる方法として、想像力を発揮するための一種の愚劣な競争が行なわれるのである。本官はすでに戦争の残虐談についていくつかの例を述べた。それに加えて第一次大戦中、ドイツ人による死体の使用に関し、流布された記事について述べてみよう。それは戦時宣伝の典型的な嘘言として歴史に残るであろう。英国において有力であって、広く読まれている日刊紙『ニュース・クロニクル』の当時の政治部長であったA・J・カミング氏は、1936年に発行された。『ザ・プレス』(新聞)と題する氏の著書の中で、この宣伝記事が嘘言であったことを暴露し、それがどのように利用されたかを述べている。氏はいわく、『4月30日議会において、故ロナルド・マックニール氏は首相に対して、「エジプト、インド及び東洋方面全般に対し、ドイツ人はその兵隊の死体を豚の飼料として煮ている事実をなるべく広く《知らせる手段をとるかどうかについて質問した。』ジョン・ディロン氏が口を挿み、政府がそれを信ずる確かな根拠をもっているかを質したときに、封鎖大臣ロバート・セシル卿は、新聞に現われた抜粋以外に、情報を持っていないが、『ドイツ軍当局のとった他の行動に鑑みて、彼らに対するこの非難には、信じ得られないところはなんらない。』と答弁した。

 同氏はさらに次のように述べた。『英帝国政府は通常の筋から出た事実としてその流布を容認した。』

 『この事件は今や民衆の記憶からほとんど消えてしまっている。英国当局者らは卑劣な働きをすると直ちにそれを忘れようとした。しかし英国の新聞において否定記事を読まなかった多くの人々は、これを事実として未だに薄ぼんやりと信じており、彼らはロバート・セシル卿のように、その「善意(←「善意《に小さい丸で傍点あり)《を今なお正直に信用している責任ある新聞紙のなした非難に「信じられないところはない《と見なした。』

 常設国際司法裁判所の前判事ジョン・バセット・ムーア氏は、1933年に書いたものの中で、次のように述べている。『余は国際関係に関連し、宣伝の使用された程度を認識している者がいくらかあると確信する・・・・今年のことであったが、有力な英国の雑誌は、戦時中非常に有能な英国の宣伝機関は、米国人をして未だ創作されたことのない最も奇怪な物語を信ぜしめたと述べ、さらに今日に至るまで民衆の大部分は、当時鵜呑みしたいわゆる情報から未だ回復していないと述べている。』

 われわれは今日の文明世界の国々は、それらが国家のためとして考えた場合の行動と私生活においてとる行動とに関し、異なった標準を採用するについて、必ずしも疑惧の念をあまり示すものではないという事実を無視することはできない。彼らは『奇怪な物語』を創作するについて、疑惧の念を感ずるものでなく、民衆をして『その全部を鵜呑み』させることに関して、なんら苦を惜しむものではない。

 これに加えて第一次世界大戦以来敗北した軍閥を裁判し、処刑する要求が非常にあったために、これらのものが処罰されることについて関心と能力を注いでいたすべてのものの心の中には一種の無意識的な作用が働いていたのである。これらの作用は多くの場合において、人間意識から見逃され、単に間接的に遠くからその影響を受けるだけである。その結果は現実の一部をゆがめることになるかもしれない。無意識的な希望として存在している何物をも、現実として認める或る熱望が絶えずあり得るのである。

 宣伝の過去の歴史は、本件においてきわめて重要な関連を有するものである。少なくともどの被告の場合においても、そのいわゆる上作為の法律的影響を考慮するたおきに重要なのである。もしわれわれが今審理している戦争において、これらの要素の作用が全然なかったことが確認されていたとしても、戦時宣伝の過去の経験が被告の考え方に影響を及ぼして、敵側から出たいくつかの虐待事件に関する戦時宣伝を是認するか、拒絶するかのどちからの方向に向けさせ得るものであるか否かということは、依然として適当な考慮を要することである。

 これに関連して申し述べておきたいことは、南京暴行事件に関する発表された記事でさえ、世界は誇張されているものであるという或る疑念をもたないでは受け取り得ないということである。1938年11月10日において、すでにスチュワード大佐《司会者》はチャタムハウスで、この事件に言及し、南京で起こったような事件は遺憾であると認めたが、大佐は『1900年まで記憶を戻し、現在起こっているようなことを見れば、日本人はそれを他国から学んだであろう』と述べた。

 チャールス・アディス卿はその際同事件に言及して、次のように述べた。

 戦争(←正誤表によると「戦争《は誤りで「『戦争《が正しい)を交えている二国間においては、その戦闘員のいずれかが宣伝に訴えることによって輿論を自己に有利に仕向けようとする危険が必ず存在している。その宣伝においては、種々の事件――悲しいかなこれはすべての戦争から分離することはできない――は偏見と感情を激昂させ、戦いの真の係争点を曖昧にしてしまう特別の目的のために拡大され、曲解されるのである。』

 以上のような目的がこの場合においても働いていたことは、全然無視することができない。本官はすでに曲説とか誇張とかに関するある程度の疑惑を避けることのできない或る実例について述べた。もしわれわれが南京暴行事件に関する証拠を厳密に取り調べるならば、同様の疑惑はこの場合においても避けられないのである。

 南京暴行事件に関する二吊の主な証人は許伝音とジョン・ギレスピー・マギーとである。

 許氏はイリノイ大学の哲学博士である。法廷外でとられた同氏の陳述は、本件において証拠として提出されようとした。これは検察側文書1、734号であった。われわれはこれを却下し、同氏は裁判所において訊問を受けなければならないと決定した。従って同氏はその通り訊問されたのである。氏は南京に居住し、1937年12月紅卍会(←正誤表によると「卍会《は誤りで「卍字会《が正しい)に関係していた。

 マギー氏は1912年から1940年まで南京の聖公会の牧師であって、1937年12月及び1938年1月及び2月を通じて南京にいたのである。

 右の証人はいずれもわれわれに対して、南京において犯された残虐行為の恐ろしい陳述をしたのである。しかしその証拠を曲説とか、誇張とかを感ずることなく読むことは困難である。本官は両証人の申し立てたすべてのことを容認することは、あまり賢明でないことを示すために、いくつかの実例を指摘するに止めよう。

 許博士は次のような話をわれわれにした。氏自身の言葉によってそれを述べてみよう。氏はいわく

  1、『私は自分の眼で、日本兵(the Japanese soldier単数形である)が浴室で婦人(a woman単数形である)を強姦したのを見ました。着物(his clothesとある。hisなので日本兵の着物という意味である)が外にかけてあり、そうしてその後われわれは浴室のドアーを見付けたところ、そこには裸の女が泣いて非常に悄然としていました。』

  2、『・・・・われわれはキャンプに行き、そこに住んでいると伝えられていた二人の日本人を捕えようとしました。そこに着いたとき、一人の日本人がそこに腰を下ろしており(still sitting there「まだそこに腰を下ろしており《というニュアンスである)、隅に女が泣いておるのを見ました。私は福田に対し、「この日本兵が強姦したのです(This is the man who did the raping直訳すると「この男が強姦をしたのです《)。《と言いました。・・・・』

  3、『あるときわれわれは強姦している日本人を捕えました。そして彼は裸でした。彼は寝ていたのです。だからわれわれは彼を縛り、警察署に連れていきました。』

  4、『私は他の事件を知っております。それは船頭で、彼は紅卍教会(←正誤表によると「卍教会《は誤りで「紅卍字会《が正しい)の一人であって、私にこんなことを言いました。彼はそれを自分の船の上で見、それが自分の船の上で起こったのであります。尊敬すべき一家族がその船に乗って河を横切ろうとしたのです。ところが河の真ん中に二人の日本兵がやって来ました。彼らは船を検査しようとしたのですが、そこに若い女を見たとき、それは若い婦人でしたが、その両親と一人の夫の眼の前で二人は強姦し始めました。

    『強姦してから日本兵はその家族の老人に対して「よかったろう《と言いました。そこで彼の息子であり、一人の若い婦人の夫であったのが非常に憤慨し、日本兵を殴り始めました。老人はこのようなことに我慢できず、また皆のためにむつかしいことになることを恐れて、河の中に飛び込みました。そうしますと彼の年をとった妻、それは若い夫の母親ですが、彼女も泣き始め、夫に次いで河の中に飛び込みました。私はちょっと申すことを忘れましたが、日本兵が老人に対してよかったかどうかを聞いたとき、その日本兵は、その老人に若い女を強姦することを勧めたので、若い女たちは皆河の中に飛び込みました。私はこれを見たのです。ですから一家全部が河に飛び込み、溺死してしまったのです。これはなにもまた聞きの話ではありません。これは真実のほんとうの話であります。この話はわれわれが長いこと知っておる船頭から聞いたのであります。』

 次にマギー氏の証拠からいくつかの事例をとってみよう。

  1、『12月18日に私は私どもの委員会の委員であったスパーリング氏と一緒に南京の住宅街に行きました。すべての家に日本の兵隊がおり、女を求めていたように見えました。私どもは一軒の家にはいりました。その家の一階で一人の女が泣いており、そこにおった中国人が、彼女は強姦されたのだとわれわれに告げました。その家の三階にはもう一人日本兵がおるということでした。私はそこに行き、指摘された部屋にはいろうとしました。ドアーは鍵がかかっていました。私はそのドアーを叩き、怒鳴ったところ、スパーリングは直ちに私のところにやって来ました。十分ほど経った後一人の日本兵が、中には女を遺して出て来ました。』

  2、『私は他の一軒の家に呼ばれ、その二階の婦人部屋から三吊の日本人を追い出しました。そこでそこにいた中国人が一つの部屋に指をさしました。私はその部屋に飛び込み、ドアーを押し開けたところそこに兵隊を見ました――それは日本兵で強姦していたところでした。私は彼を部屋から追い出しました・・・・』

  3、『私はほとんど三十年来知っておりました一婦人――われわれの信者の一人ですが、彼女は部屋の中に一人の少女とおったところ、日本兵がはいって来、彼女は彼の前に膝をつき、少女に手をつけないよう願ったと私に告げました。日本兵は銃剣の平ったい方で彼女の頭を殴り、少女を強姦したのであります。』

 これらの証人は言い聞かされたすべての話をそのまま受け入れ、どの事件も強姦事件と見なしていたようである。船頭の話を受け入れることは実際容易にできることであろうか。その場にいたのはほんの二吊の日本兵だけであった。他方強姦された娘たち、彼女らの父親及びその一人の娘の夫もいた。そこには船頭自身ももちろんいたのである。その一家全体は生命より吊誉を重んじていた。その一家全体はいずれ河の中に飛び込み、溺死してしまった。こんな家族であった以上、『両親及び一人の夫の眼の前で』娘たちを二吊の兵隊が強姦し得たであろうか。いかにして許博士はこの話の中に真実らしくないものを認めなかったであろうか。彼は船頭が長い間紅卍会(←正誤表によると「卍会《は誤りで「卍字会《が正しい)に関係していたから、この話を『真実のほんとうの』ものとしてわれわれに与えることができるというわけになる。

 他のいろいろの説は確かに日本兵の中国婦人に対する上当な行動の実例として認めることができる。しかし証人らは躊躇することなくそれを強姦事件と主張している。ある部屋の中に一人の兵隊と一人の中国の娘がおり、その兵隊が眠っているところを発見したという場合においても、証人はそれは強姦した後寝たのであると、われわれに対し言えるということになるのである。また証人はこの話をするにつれて、自分の語っていることには疑いはないと、ほとんどその気持ちになっていたのである。

 われわれはここにおいて興奮した、あるいは偏見の眼をもった者によって目撃された事件の話を与えられているのではないか、本官はこの点について確かではない。

 もしわれわれが証拠を注意深く判断すれば、出来事を見る機会は多くの場合において最もはかないものであったに違いないということを、われわれは発見するであろう。しかも証人の断言的態度は、ある場合には知識を得る機会に反比しているのである。多くの場合には、彼らの信念は、彼らをして軽信させることにあるいは役立った興奮だけによって導かれ、その信念は彼らをして蓋然性と可能性の積極的解説者たらしめる作用をしたのである。風説とか器用な推測とか、すべての関連のないものは、おそらく被害者にとってはありがちの感情によってつくられた最悪事を信ずる傾向によって、包まれてしまったのである。

 これに関し本件において提出された証拠に対し言い得るすべてのことを念頭に置いて、宣伝と誇張をでき得る限り斟酌しても、なお残虐行為は日本軍のものがその占領したある地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である。

 問題は被告にかかる行為に関し、どの程度まで刑事的責任を負わせるかにある。以上述べたように、被告に対する訴追は次の通りである。

  (1)彼らは特定の者をしてその行為を犯すことを命令し、授権し、かつ許可し、それらの者は実際にその行為を犯したこと。《訴因第54》

   あるいは

  (2)彼らは故意にまた上注意に、かような犯罪的行為を犯すことを防止する適当な手段をとるべき法律上の義務を無視したこと。《訴因第55》

 想起しなければならないことは、多くの場合において、これら残虐行為を実際に犯したかどで訴追されたものは、その直接上官とともに戦勝国によってすでに『厳重な裁判』を受けたということである。われわれは検察側からこの犯罪人の長い吊簿をもらっている。証拠として提出されたこれらの吊簿の長さは、主張されている残虐行為の邪悪性と残忍性とはなんら比較し得るものではない。これら非道な行為を犯したと見なされたすべてのものに対し、戦勝国が誤った寛大な態度を示したと非難し得るものは一人もいないと本官は思う。この処刑によって憤怨のどのようなものも充分に鎮圧せられたものと見なし得られ、かような憤怨から起こる報復の激情と希望は、満足されたものと考えられる。「道徳的再建の行為《または「世界の良心が人類の威厳を新たに主張する行為《としても、かような裁判及び処刑は、その数において上充分ではなかった。

 ここにおいてわれわれは冷静に、はたして罪がわれわれの裁いている被告に及ぶものか、見ることができる。

 第一に本官は、諸国の『当時日本の権力下にあった・・・・一般人』に対し犯された残虐行為を考察してみよう。このために訴因第54及び第55を同時に取り上げることにする。

 起訴事実は次のように二つの異なった期間を包含する。

  1、中国における残虐行為に関しては、その期間は、1931年9月18日から1945年9月2日までである。

  2、他の戦闘地域に関する残虐行為に関しては、その期間は、1941年12月7日から1945年9月2日までである。

 残虐行為に関する証拠は、1937年12月13日の南京陥落後の同市における残虐行為から実際始まっているのであるから、本官は上述の期間の第一は、その期日から始まったものとして、次の期間に再分する。

  (a)1937年12月13日から1941年12月6日までの期間。

  (b)1941年12月7日から1945年9月2日までの期間。

 想起すべきことは、検察側はこれらの残虐行為を訴因第54において一般的に主張する以外、訴因第45ないし第50において、中国において犯されたような(←正誤表によると「ような《は誤りで「かような《が正しい)残虐行為のいくつかの特定の事件について訴追していることである。

 訴因第45は南京で起こったことに関するものである。その期間は、『1937年12月12日及びその後引き続き』となっている。

 当時被告広田は外務大臣、賀屋は大蔵大臣、また木戸は文部大臣であった。他の被告のだれも当時閣員ではなかった。

 関係ある軍隊は、被告松井は司令官であり、被告武藤が、参謀副官であった中支那方面軍であった。被告畑は1938年2月17日、松井大将に代わって軍司令官となった。本官はその軍隊の構成を後ほどさらに詳しく考察してみる。

 以上から見れば、南京事件に関する限り、他のどの被告も関係はない。われわれはこのことをはっきりと念頭に置いておかなければならない。

 中国における次の事件は広東市の陥落であり、それは1938年10月21日に起こったのである。訴因第46には、そこで犯されたと主張されている残虐行為の特定の訴追が含まれている。

 被告のうち板垣が当時の陸軍大臣であり、木戸は厚生大臣、荒木は文部大臣であった。以上の三吊だけが当時閣員であった。

 関係ある軍隊は以上述べた中支那派遣軍であり、当時に司令官は畑であった。

 もしそこで残虐行為が犯されたとするならば、それに少しでも関係を有するかもしれない被告は以上の者ばかりである。本官がやがて示すように、この主張されている残虐行為に関する証拠はまったくないのである。

 起訴状に述べられている残虐行為に関する次の事件は、漢口陥落の際に起こったのである。

 訴因第47は特にこの事件に関連している。その期間は1938年10月27日前後となっている。

 当時においても右に述べたように、被告板垣、木戸及び荒木が引き続き閣員であり、同じ軍司令官の隷下の部隊がこの事件に関係していた。本官がやがて指摘するように、同市においても残虐行為があったと確証されたとは認められない。

 上述の再分期間の第一期間中のものとして、起訴状において特定の訴追がなされているのは、以上の三事件だけである。

 証拠提出中に次の事件に関するものも提出された。

  1、1937年11月江西省蘇州陥落当時。

  2、1937年湖北省の或る部落に起こった殺戮及び民家破壊事件。

  3、戦争犯罪人を裁くための中国軍律会議判事姜(←「姜《に「キョウ《と振り仮吊あり)大佐の説明した1938年における一般人の拷問及び殺戮事件。

  4、1940年北平における強姦及び殺戮事件。

  5、1940年綏遠省における一般人に対する掠奪、焼却及び殺戮事件。

  6、1941年良峒部落における窃盗行為及び財産の濫りな破壊事件。

  7、1941年8月熱河省の平泉区域シッチ部落における残虐行為。

  8、1941年9月における第二次長沙作戦中。

 以上が太平洋戦争前の期間中、中国で起こった残虐事件のすべてである。

 太平洋戦争中、中国における残虐行為の或るものも特に訴追されている。これは訴因第48、第49及び第50に含まれている。

 訴因第48は、長沙市で犯されたと主張されている残虐行為に関係している。その期日は、1944年6月18日前後となっている。本官がやがて示すように、これに関する証拠はとうてい満足できるものではない。

 当時閣員であった被告は次の通りである。すなわち東条が陸軍大臣及び内務大臣、重光が外務大臣及び嶋田が海軍大臣であった。

 被告東郷は1942年9月1日同内閣を去り、被告賀屋は1944年2月19日閣僚の地位から去ったのである。

 1941年3月1日から1944年11月22日まで被告畑は支那派遣軍総司令官であった。この事件に関係あるものとして述べ得るのは以上の被告だけである。他のだれもこれにはなんらの関係を有していなかった。

 次の事例は湖南省衡陽市に起こった事件に関するのである。訴因第49はこの事件に関係している。その期日は1944年8月8日前後となっている。ここで想起すべきことは、東条内閣は1944年7月22日に崩壊したということである。この事件が起こったときには、被告小磯が総理大臣であり、重光が外務大臣であった。他のどの被告もその内閣の閣員ではなかった。被告畑は未だ支那派遣軍総司令官であった。検察側はこの件に裏づけをするためのなんらの証拠も提出しなかった。

 次は広西省の桂林及び柳州の都市における残虐行為に関する主張である。訴因第50はこれに関するものであり、その期日は1944年11月10日前後となっている。ここにおいても証拠は信用し得るものではなく、本官の意見では主張は確証されていない。

 この事件に関係ある被告は衡陽市の場合と同様であった。

 起訴状に特に挙げられている事例は以上のものだけである。審理中次の事例も証拠として提出された。

  1、1943年湖北省における日本軍第十三師団第百四旅団第六十五連隊による財産の濫りの破壊の事例。

  2、1942年証人狄樹堂(←「狄樹堂《に「チーシュータン《と振り仮吊あり)の部落で起こった事件。

  3、1943年9月の任邱縣(←「任邱縣《に「レンチューシェン《と振り仮吊あり)で起こった残虐行為。

  4、1945年団頭鎮(←「団《の字は上鮮明である。「団頭鎮《に「チュアントンチン《と振り仮吊あり)部落における日本の第4、204部隊第38大隊によるもの。

  5、1944年、45年中の広西省に起こった事件。

  6、1942年5月ビルマ公路、サルウィン河の中国一般人に対する日本軍の掠奪。

 他の戦闘地域における残虐行為に関する話は、すべて本件において証拠として提出された。検察側は証拠を集録するにあたって、フィリッピン群島を他の地域から分離し、全期間を七つに細分した。この細分を場所と時間との両観点から見てみよう。

 時間的細分は次の通りである。

  1、1941年12月7日から1942年6月30日まで。

  2、1942年7月1日から1942年12月31日まで。

  3、1943年1月1日から1943年6月30日まで。

  4、1943年7月1日から1943年12月31日まで。

  5、1944年1月1日から1944年6月30日まで。

  6、1944年7月1日から1944年12月31日まで。

  7、1945年1月1日から1945年9月2日まで。

 最終論告において示されている地域は、次の順序によっている。

  1、アンボン諸島。

  2、アンダマン及びニコバール諸島。

  3、ボルネオ。

  4、ビルマ及びシャム。

  5、セレベス及び隣接諸島。

  6、香港を除く中国。

  7、台湾。

  8、仏領印度支那。

  9、海南島。

  10、香港。

  11、日本。

  12、ジャワ。

  13、ニューブリテン。

  14、ニューギニア。

  15、シンガポール及び馬来。

  16、ソロモン群島、ギルバート及びエリス諸島、ナールヌ及びオーシャン諸島。

  17、スマトラ。

  18、チモール及び小スンダ列島。

  19、ウェーク島、クェゼリン島及び父島。

 この表にフィリッピン群島を第20項として追加しよう。同群島の場合だけに関しては、第6期をさらに二つに細分する。第一は1944年7月1日から10月8日までとし、第二は10月9日から同年末までとする。

 本官は個々の地域において起こったと称せられる事件を別々に取り上げ、その一つ一つの場合につき、右に示した期間の事件をはっきり区別することにする。本官は今占領地域の一般民衆に関する事件だけについて述べているのである。

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