歴史の部屋

 諸地域における日本の権力下にあった一般人に対する残虐行為に関する検察側の説明は次の通りである。

 1、アンボン諸島

 先に示された第1及び第3ないし第7期中においては、かような残虐行為の事実はなかったのである。第2期中単に一件だけあったのである。ヴァンノーテンという証人は、この期間において妊娠していた原住民の婦人が、一人の日本警備兵に、他の警備兵の面前でげんこう(←「げんこつ」が正しいだろう)で殴られ、倒され、腹を蹴られたと述べている。これが検察側によって説明されたこの諸島における一般人に対する残虐行為の唯一の事例である。

 2、アンダマン及びニコバール諸島

 最初の2期及び第5期に関しては、一つの事例も挙げられていない。第3期においては二つの事件が挙げられており、その一つは1943年1月、他の一つは1943年3月に起こったものである。

 1月の事件に関する証拠は、法廷外において作成された4人の別々の者の供述書である。それはすべてスパイの嫌疑によって拷問された事件に関するものである。

 3月の事件に関する証拠は、ムラッドアリーという者の同種類の供述であり、これも間諜行為の嫌疑のあった者の拷問に関するものである。

 第3期においては、1943年8月、殴打されたため死亡した苦力に関する一件がある。

 第6期においてはまた1944年10月、ある者が信号灯を盗んだ嫌疑で拷問を受けたという一事件が挙げられている。

 第7期に関しては4件挙げられており、その三つは1945年7月、他の一つは1945年8月に起こった事件である。その第一の事件は、窃盗犯と称せられた苦力二名が死に至るまで殴打されたということであり、第二の事件は、ロケットを発射したことを告白させるために二名の印度人を殴り殺したということである。1945年8月の事件は、700名の印度人が海路によって他の島に向かって連れられていったということである。海岸から400ヤール(←「ヤール」とあるが、英文では「yards」とあるように見える。「ヤード」が正しいだろう)のところで、彼らは海中に突き落とされ、203名を除いて全部溺死した。生存者はその島に日本人が戻ってくるまで50日間食糧なしに放置されていた。この事件を裏づける証拠もまた法廷外で作成されたモハメッド・ハッセンという男の供述書である。同供述書において、彼は700名の一員であり、その唯一の生存者であると称している。

 3、ボルネオ

 第一の事件は、1941年12月27日のものである。213名の印度人が昼夜をわかたず一ヶ月間一つの官房に収容されていたと言われている。その後彼らは飛行場で長時間の労働を強制されたのである。これに関する証拠もまた法廷外で作成された2−15プンジャブ連帯のナイック・チャンドギ・ラムという男の供述書であり、この集団から逃亡したのは彼だけのようである。彼は藪の中に隠れて逃亡したと称している。

 第3期においては、三つの事件が挙げられている。その最初の二つは、二名の戦時俘虜に関するようである。第一はヒンチクリップ(←最後の一文字は「プ」とあるように見えるが、英文ではHinchcliffe」とあり「フ」の方がよいと思う)という兵士の虐待に関するものであり、第二は1943年3月に起こったことで、豪州人が作業隊の一員であったとき、腕首を木に縛りつけられ、頭部を殴られたということを説明したものである。

 第三の事件は、1943年の初期以後、西部ボルネオ全体にわたって、印度及び中国の婦人が検挙され、強制的に慰安所(←英文ではbrothel。「売春宿」という意味である)に入れられたということである。

 第4期に関しては、二つの事件が挙げられている。その一つは1943年8月に起こり、他の一つは1943年10月に起こったのである。8月の事件は、他の6名の者と檻の中に入れられたと称せられているスティックペウィッチという者に関するものである。10月の事件に関しての証拠は、フッド婦人の宣誓口述書に含まれている。その供述書は1943年10月バンドジェルマシンにおいて、蘭領ボルネオの総督であるハガ博士ほか10名の官吏及び他の4名男がいわゆる裁判の後処刑されたと述べている。その中にはスイス公使であり、国際赤十字社の公式代表であるフィッシャー博士があった。

 かような事件に関しては、より有力な証拠を期待するのは当然である。いずれにしてもわれわれは、その裁判がなんのためであったのかわからないのである。

 第5期においては、1944年2月13日から始まり、1944年6月までに関する12の事件が挙げげとして(←正誤表によると「挙げげとして」は誤りで「挙げられているこれらの諸事件の裏づけとして。」が正しい。もっと言うと「挙げられている。これらの諸事件の裏づけとして、」が正しいだろう)。英国陸軍のM・J・ディックソン大尉という者の報告書と称せられているものと、法廷外で作成されたハッサン・イナナンム(←「イナナンム」とあるが英文では「Inanam」であり、「イナナム」の方がよいかもしれない)という者の供述書が提出されている。

 ディックソン大尉の報告書は、1943年10月に、ボルネオのジェッセルトンで暴動が起こったと述べている。約40名の日本人が殺害された。その後に起こったことは、この事件に対する報復であった。

 4、ビルマ及びシャム

 この戦闘地域に関しては、7つの期間全部のものとして、事例がわれわれに対し14提出されている。その第一は、1941年12月13日のものであり、第二は、1942年7月、第三は、1942年7月ないし11月、第四は、1942年9月及びその次は1943年9月のものである。さらに1944年2月ないし8月のものとして、4つの事例が挙げられており、残りの四つは1945年のものである。これらのほとんどすべてのものは、法廷外で作成された供述書によって証拠立てられている。最も甚だしいものとして(←「At the worst」「最悪の場合でも「最も悪くとっても」 )、これらのすべては5年の期間を通じての個人に対する虐待の偶然な事例である。

 5、セレベス及びその近接諸島

 ここにおいてわれわれには九つの事例が与えられており、そのうち二つは1942年3月に起こった事件であり、次の二つは1943年9月及び10月、残部は1944年及び1945年に起こったものである。第2期及び第3期においては、事件はなかったのである。

 1942年3月の事件は、厳格に言ってなんら一般民衆に対するものではない。その最初のものは、メナドで起こった事件であり、ゲリラ活動に参加し、捕獲された5名のオランダの下士官が処刑されたのである。第二の事件は、飛行場を守り、捕獲された二名のオランダ下士官の虐待及び処刑に関するものである。

 1943年9月においては、フリックで一名の原住民が斬首され、他の一名が銃剣で刺し殺されたとわれわれは聞かされている。

 1943年10月の事件は、ポマラで重傷を負っていた飛行士が麻酔剤なしで手術をされ、数時間内で死亡したことである。

 1944年1月、パレパレ抑留所で天主教の司教が死に至るまで殴打されたのである。

 1944年3月、ロロバタで一名の原住民が無裁判で斬首されたのである。

 1944年9月、スギタで三名の原住民が無裁判で斬首され、さらに四人目の者が斬首されようとしたが、彼はなんとかして逃亡し、この証拠を提出したのである。

 1945年1月、トンダネでは二人の被抑留者が投獄され、後になって外部の人々と連絡したかどによて死刑に処せられた。そして1945年2月、メナドでは、オランダ人被抑留者一名が虐待のために死亡した。

 6、香港以外の中国

 第1、第2、第3、(英文を参照すると、この「第3、」は省くのが正しい。)第4、第5及び第6期間を通じて、なんら事件が起こらなかった。

 第3期の間、1943年の8月には、海防路収容所で一人の民間人被抑留者が意識を失うまで拷問に付され、その後数日を経て死亡した。

 1945年4月2日、中国の馬当では右脚を負傷した一アメリカ俘虜飛行士が、その脚を、ある日本民間人によって、粗雑なナイフで、麻酔薬を用いずに切断された。

 7、台湾

 それぞれの期間を通じて一件も事件を挙げることはできなかった。これは言うまでもなく、台湾人が日本の敵ではなかったためである。

 8、仏印

 最初の5期間中には一つも事件を挙げることはできない。第6期間中には、1944年6月に一つの事件があった。収容所へ水を運搬する苦力の中にいくつかの裏切事件が起こって、日本側は仕事をやめたばかりに19歳の青年を捕え、木に縛りつけて激しい殴打を加えた。翌朝になって、彼が扼殺によって死亡しているのが発見された。

 第7期間中には、この地で起こった9件の残虐行為の例がわれわれに提供されている。これらの残虐行為に関する証拠は、ガブリヤーグなる一人物の証言である。同人の知識は、同証人が仏印における戦争犯罪に関して作成していた『戦争犯罪の徴証の研究』に基づいている。証人は『仏印戦犯局代表』であった。証人は言う。『戦犯容疑者調査事務所の委任を受け、私の職務実行により総合的徴証を調べ、この徴証により、日本軍によって仏印において犯された戦犯の知識を得ることが出来ました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)証人はさらに続けて、『これら犯罪は非常な数であり、これらに関する徴証は大部なものでありますから、これにつき完全な一陳述をすることは問題となし難いでありましょう。さらにあるものは証人のないこと及び連合国軍上陸を予見し、日本人により行われた彼らの文書の組織的破毀により今日もまた将来も知られないまま残るでしょう。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と述べている。この証人の結論の基礎となっている材料は、もちろんわれわれには不明のままとなっている。われわれが得るものは、証人が己れの結論のために充分だと考える材料の上に打ち樹てた、証人の結論だけである。他の諸証拠は、もちろん法廷外において、聴取された人々の証言である。

 9、海南島

 第4期を除いては、他のどの期間にも残虐行為の例はまったく挙げ得ない。

 1943年7月17日に、ある苦力部屋の中国人120名が、裁判に付されないで銃剣で刺殺された。証拠は法廷外で聴取されたA・F・ウィンザーという人物の証言である。

 10、香港

 第2期より第7期に至る間については、われわれに与えられた事件はまったくない。五つの事件が挙げられているが、それはみな1941年12月に起こったものである。

 11、日本

 なし

 12、ジャワ

 1942年3月12日から始まり、1945年8月に終わる全7期間を通じて起こった14の事件が挙げられている。

 13、ニュー・ブリテン

 第1期中に二件、第2期中はなし、第3期には三件、第4期には二件、第6期には一件、そして第7期には一件が挙げられている。これらはみな散発的な事件であって証拠の多くは法廷外で聴取された人々の証言である。

 最終論告において、検察側は豪州人及び中国人が捕虜となって、殺害されたと述べたが、これらは大部分豪州及び中国兵が俘虜となって、殺害された事件である。

 14、ニュー・ギニア

 第1期に一件、第2期に五件、第3期、第4期、第5期になし、第6期に一件、第7期になしである。散発的な意見(←「意見」とあるが、英文を参照すると「事件」が正しい)もいくつかあるが、それに対する証拠は多く法廷外で聴取された人々の証言である。事件の大部分は俘虜兵士に関するものである。

 15、シンガポール及び馬来

 第1期に六件、第2及び第3期になし、第4期に四件及び第5、第6、第7期を通じて一件が挙げられている。

 16、ソロモン群島、ギルバート島及びエリス島、ナルン島及びオーシャン島

 この地区においては、最初の2期にはなし、第3期には四件、第4、第5及び第6期にはなし、さらに第7期には一件が挙げられている。

 第7期中における事件は、戦争終結当時に何が起こったかを物語っている。オーシャン島には100名の原住民が残っているにすぎなかった。日本側は彼らを二つの集団に分けて連行し、彼らは銃殺され、死体は海上に引き出された。それ以前に起こった諸事件はみな散発的事件であって、証拠も同じような性質のものである。

 17、スマトラ

 第1期中に四件、第2期に一件、第3期になし、第4期に一件、第5期になし、そして第6及び第7期に一件ずつが挙げられている。

 18、ティモール島及び小スンダ列島

 第1期に一件、第2期に六件、第3期に一件、第4期に一件、第5期になし、第6期に一件、第7期にはなしである。これらはみな散発的事件であって、証拠も従前のものと同じく、法廷外で聴取された人々の証言である。

 19、ウェーキ島、クェゼリン及び父島

 第2期から第7期までの間においては、事例はまったく挙げられていない。ただ第1期に一件あるだけである。

 1942年5月、倉庫破り未遂のかどで一名のアメリカ民間人がサキバラ提督の面前で烈しく殴打された後、斬首された。

 20、ヒリッピン群島

 第1期間中三つの事件が挙げられている。法廷証1417号の宣誓口述書中で、レオノラ・パラシオは1942年の2月中旬に、彼女、その男の兄弟二名及び他の者がパラオ町役場へ連行された。彼らの自宅には遊撃隊員(guerrillas。ゲリラ)と家族の友人が数名いた。遊撃隊員の一名が発見され、日本側は他にも同類がいると考えて、これらの人々を牢に投じた。彼らはそこで種々な方法で拷問された。

 1942年5月、イロイロ市において、ギルバート・イシャム・カレン博士と呼ばれる一アメリカ人が数時間にわたって訊問され、その間棒をもって胴体をたたかれ、床の上に横たわっている間には足蹴にされ、訊問者によって繰り返し平手打ちにされた。彼はその他いろいろの方法で拷問された。

 1942年6月中旬ごろ、一名の若い婦人が傀儡司政官によってタグビラランにあったミニ大佐の家に行くことを命ぜられた。彼女が拒絶したとき、殺すぞと脅かされた。ミニ大佐は彼女を強姦した。翌朝彼女は窓から飛び出し、首尾よく近くの島へ逃げのびた。

 これらは第1期の三つの事件である。第2期を通じては、1942年7月に起こった一件と1942年8月の他の一件が挙げられている。7月の事件の裏づけとしては、本間中将の裁判に出廷した一看護婦ネナ・アルバンの証言が挙げられている。この証人は多くの事件を目撃した。彼女は四人のヒリッピン人が斬首されるのを目撃した。後に至って彼女はさらに二件、その後なお七名の者が地中に掘られた穴の上にまたがってひざまずかされ、斬首されるのを見た。後に彼女はさらに十名が斬首されるのを見、他の残虐行為を目撃した。彼女はヒリッピン人が平手打ちにされ、拳固を食い、足蹴にされ、殴打されるのを見た。その後彼女は、サンベダ大学付近で四名のヒリッピン人が銃剣で刺殺されるのを見た。彼女は少なくも7名のヒリッピン人がやっとこで舌を引き抜かれるのを見た。このような多くの事件を目撃した証人が本裁判所に出廷させられないで、現在の被告のだれも代表されていなかった他の裁判所の前で彼女が述べたことを、われわれが聞いただけであったということは不幸なことであった。目下のところ、本官はこの証拠を容認する所存はない。

 1942年8月の事件は、ある日の夜明け方、四名の将校の指揮下にあるダンサランから来た若干の日本兵が、人口約2500の証人の部落を襲った。彼らはたちまち住民を銃剣で刺し始め、全部落を焼き払った。この事件についても、また法廷外で聴取された証言によって、証明しようとする試みがなされたが、われわれには証人出廷不能の理由が明らかにされなかった。

 第3期中の事件は、1943年3月13日にタヤムボング・チャグサと呼ばれる年老いた一ヒリッピン人が、日本側にアメリカ人の住所を知らせなかったために拷問されたときのことである。

 第4期には、五つの事例が挙げられている。

 1943年8月、一時間にわたる取調べの後、24名の男と三名の女が後ろ手に縛られて、一本の綱で数珠つなぎにされ、雑木林に引かれて行って、そこで斬首された。証拠は法廷外でなされたあるジョーゼ・ジー・トーパーツという人物の証言である。この男は裁判所には出廷しなかった。

 1943年10月17日、他の膺懲作戦部隊がバターンに到着した。民間人はすべて取調べを受けて、棍棒で殴られ、そして火の上を歩かされた。翌朝日本軍は前進の命を受け、二名の僧侶を含む140名の民間人が日本兵によって斬首された。この件については、われわれは日本軍のパナイ島における膺懲作戦に関する米軍法務部報告第140号の証拠概要から教えられたのである。この報告は、裁判所条例に基づいて、証拠として容認し得るものであるかもしれない。しかし現に問題となっているような重大な事例に関して、これが多大な証明力を有するとして受け入れることは、本官にはできない。この報告の結論に依拠することを余儀なくさせられる代わりに、われわれ自身がどんな結論に到達し得るかをみずから測り得るように、この報告の基礎となったかもしれない材料が、なぜわれわれに対して明らかにされなかったか、本官の理解し得ないところである。

 1943年12月8日、日本将校と兵隊がイロイロ市に向かってリバカオを出発した。翌朝彼らはホープヴェール収容所を包囲して、これに闖入した。16名のアメリカ人及びその他三名が監視をつけられ、食物も水を与えられなかった。12月20日の午後アメリカ婦人一名が手を縛られ、慈悲を乞うているのが見受けられた。これは拒絶された。一時間経った後、ある者は銃剣で刺殺され、他の者は斬首された。12名の人間の死体がはいっている一軒の家屋が燃えあがるのが見えた。これもまた同じ米軍法務部報告の一部である。本官はこれ以上この証拠を評する必要はない。

 第5期については、35名のヒリッピン人が訊問され、殴打され、玉蜀黍畑に連れて行かれ、銃剣で刺し殺された1944年2月に起こった一出来事が挙げられている。この話もまた米軍法務部報告第142号に基づいて述べられている。

 1944年3月、一名の若い婦人が草の中に隠れているところを捕えられた。係りの将校は彼女の着物をはぎ取って、一軒の小屋に連れて行き、その乳房と子宮を切り取った。これはあるロレンツォ・ポリトという人物から法廷外で聴取した証言である。

 1944年4月10日、六名の日本人が一人の婦人を銃剣で刺した。1944年8月27日には、サンタ・カタリナの闘鶏場で兵隊が民衆に向かって発砲した。1944年10月20日、30名が逮捕され、拷問された。1944年11月15日には、三名の俘虜が斬首された。1944年12月27日、数人の人々が拷問され、1945年7月7日には九名の俘虜が斬首された。これはみな米軍法務部報告第302号の中から、われわれに示されたのである。

 1944年6月6日、約300名の日本人がヒリッピン警察隊とモロ族部隊とともにラナオ・ピリヤンの部落に入って、民間人を集合させた。6月7日、二十名の俘虜が一軒の家の中に入れられて、銃剣で突かれ、家は焼き払われた。この話もまた米軍法務部報告第302号に基づいてわれわれに示された。

 第6期の前半中については、二つの事例が挙げられている。その一つは1944年8月19日に起こり、他の一つは1944年10月1日に起こったものである。

 1944年8月19日の夜9時ごろに、証人とその他の人々はセブを出発し、コルドヴァに連れて行かれた。一行が行先に着いたとき、日本人は中央の学校の建物に民間人を全部集合させた。女は着衣を全部脱がされ、男の中の多くの者は棍棒で打たれ、金や貴重品は根こそぎ奪われた。翌朝三人の男が斬首された。証人はこの証言を法廷外でなして、本裁判所には出廷しなかった。

 1944年10月1日に、約50名の日本兵がウマゴス部落にある病院地帯にはいって、二名のヒリッピン人衛兵と一名の民間人を銃剣で刺した。二人の病床にあった患者が銃剣で突き殺された。三日後、日本人はそれらの建物と約32軒の家屋を焼いて立ち去った。これもまた米軍法務部報告第282号であって、これを裏づけるものはまったくないのである。

 本官は1944年11月以後に起こった諸事件を詳細に説明するを要しない。この期間に起こったいくつかの事件がわれわれの前に挙げられているが、確かにそれらは残虐な非行であった。

 それらは戦争の全期間を通じて、異なった地域において日本軍により非戦闘員に対して行なわれた残虐行為の事例である。主張された残虐行為の鬼畜のような性格は否定し得ない。

 本官は事件の裏づけとして提出された証拠の性質を各件毎に列挙した。この証拠がいかに不満足なものであろうとも、これらの鬼畜行為の多くのものは、実際行なわれたのであるということは否定できない。

 しかしながらこれらの恐るべき残虐行為を犯したかもしれない人物は法廷に現われていない。その中で生きて逮捕され得たものの多くは、己れの非行に対して、すでにみずから命をその代価として支払わされている。かような罪人の、各所の裁判所で裁かれ、断罪された者の長い表が、いくつか検察側によってわれわれに示されている。かような表が長文にわたっているということ自体が、すべてのかような暴行の容疑者に対して、どこにおいても決して誤った酌量がなされなかったということについて、充分な保証を与えてくれるものである。しかしながら現在われわれが考慮しているのは、これらの残虐行為の遂行に、なんら明らかな参加を示していない人々に関する事件である。

 本件の当面の部分に関する限り、訴因第54において訴追されているような命令、授権または許可が与えられたという証拠は絶無である。訴因第53に挙げられ、訴因第54に訴追されているような犯行を命じ、授権し、また許可したという主張を裏づける材料は、記録にはまったく載っていない。この点において、本裁判の対象である事件は、ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によって立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っているのである。

 本官がすでに指摘したように、ニュールンベルグ裁判では、あのように無謀にして無残な方法で戦争を遂行することが彼らの政策であったということを示すような重大な戦争犯罪人から発せられた多くの命令、通牒及び指令が証拠として提出されたのである。われわれは第一次世界大戦中にも、またドイツ皇帝がかような指令を発したとの罪に問われていることを知っている。

 ドイツ皇帝ウィリアム2世は、かの戦争の初期に、オースタリー皇帝フランツ・ジョゼフにあてて、次のような旨を述べた書簡を送ったと称せられている。すなわち、

 『予は断腸の思いである。しかしすべては火と剣の生贄とされなければならない。老若男女を問わず殺戮し、一本の木でも、一軒の家でも立っていることを許してはならない。フランス人のような堕落した国民に影響を及ぼし得るただ一つのかような暴虐をもってすれば、戦争は二ヶ月で終焉するであろう。ところが、もし予が人道を考慮することを容認すれば、戦争は幾年間も長びくであろう。従って予は、みずからの嫌悪の念をも押し切って、前者の方法を選ぶことを余儀なくされたのである。』

 これは彼の残虐な政策を示したものであり、戦争を短期に終わらせるためのこの無差別殺人の政策は、一つの犯罪であると考えられたのである。

 われわれの考察の下にある太平洋戦争においては、もし前述のドイツ皇帝の書簡に示されていることに近いものがあるとするならば、それは連合国によってなされた原子爆弾使用の決定である。この悲惨な決定に対する判決は後世が下すであろう。かような新兵器使用に対する世人の感情の激発というものが不合理であり、単に感傷的であるかどうか、または国民全体の戦争遂行の意思を粉砕することをもって勝利を得るというかような無差別塵殺が、法に適ったものとなったかどうかを歴史が示すであろう。『原子爆弾は戦争の性質及び軍事目的遂行のための合法的手段に対するさらに根本的な究明を強要するもの』となったか否かを、今のところ、ここにおいて考慮する必要はない。もし非戦闘員生命財産の無差別破壊というものが未だに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の指令及び第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで、本官の現在の目的のためには充分である。このようなものを現在の被告の所為には見出し得ない。

 関係被告の有していたと主張される知識と、なしたと主張される不作為とをもって、検察側はこの点に関する主張を推論的に立証しようと試みている。検察側は、戦争犯罪が行なわれ、かつ行なわれつつあることの知識を日本政府が有していたことを、本件において提出された証拠が立証するものであると断定しているのである。この知識を有していたという事実と、併せてその継続を防止する有効的な努力を試みなかったという事実に基づいて、われわれはかような犯罪が政府の政策の一部として行なわれていたものであると見なすように要求されたのである。

 検察側は、その最終論告においては、『日本政府』という表現は単に閣僚だけでなく、陸海軍の高級将校、大使及び高級官吏をも包含する非常に広範いな意味で用いられているとわれわれに述べたのである。従ってわれわれは、ここにおいて用いられているこの表現は、かように広範囲な意味で用いられているものと見なさなければならない。

 検察側は、南京暴行事件に関する限り、次に挙げる人物がそれに関する知識をもっていたことを立証したと主張しているのである。すなわち、

 1、当時中支派遣軍を指揮していた松井被告。《法廷証第25号及び第255号》

 2、中国における日本外交官。

 3、東京の外務省。

 4、外務大臣、広田被告。

 5、当時朝鮮総督であった南被告。

 6、中支派遣の日本無任所公使、伊藤述史。

 7、貴族院。

 8、木戸被告。

である。

 松井被告が知っていたという点に関しては、本人の陳述、すなわち1937年12月17日には南京におり、上海帰還まで一週間そこに留まったと述べたことに頼っているのである。そして南京入城と同時に、日本の外交官から、当地において軍隊が多くの暴虐行為を犯したことを聞いたというのである。

 当時参謀長の副官であった武藤被告は、松井大将とともに入城式のために南京に行ったものであり、当地に10日間留まったと述べた。

 松井大将は1938年2月まで司令官の位置に留まったが、事態を改善するための有効的な手段は、この期間中なんらとられなかったと検察側は指摘したのである。

 日本外交官が知っていたという点に関する証拠は、南京陥落当時同地にいたドイツ、英国、アメリカ及びデンマーク人の一団をもって組織した南京難民地区の国際委員会秘書ルイス・スマイス博士の証言である。スマイス博士は、1937年12月14日から1938年2月10日までこの委員会の秘書であった。彼の証言というのは、同委員会が南京の日本大使館に対して、毎日個人的報告をなしたというのである。スマイス博士は、大使館はなんらかの処置を講ずることをそのたびごとに約束したが、1938年2月に至るまで事態を改善するための有効的な手段がとられなかったと述べているのである。

 難民地区国際委員会の創設委員であった南京大学の歴史学教授ベイツ博士は、最初の三週間ほとんど毎日、前の日のことに関するタイプした報告または書簡を持って大使館に行き、またしばしば館員とその件に関する会談をなしたと証言している。これらの館員というのは、領事であった福井氏、田中氏と称する人物及び副領事福田篤泰氏である。福田氏は現在総理大臣吉田の秘書である。

 ベイツ博士によれば、これらの日本人外交官は、悪条件のもとに、わずかながら彼らのでき得ることを誠意をもってなそうと努めていたのであるが、彼ら自身軍をすこぶる怖れ、上海を通じて東京にこれらの通信を伝達する以外には何もできなかったとのことである。これらの大使館員は、また南京の秩序を回復させるべき強い命令が東京から数回発されたことを証人に確言しているのである。またこの証人は、外国の外交官及びこの代表団に同行した一日本人の友人から、ある高級陸軍将校が多数の下級将校及び下士官を集めて、陸軍の名誉のために、その振る舞いを改善しなければいけないということをすこぶる厳重に申し渡したことを聞いたのである。

 さらに証人は、1938年2月5日及び6日までは状態が実質的には改善されず、また南京の日本領事館が作成した報告は、領事館によって東京の日本外務省に送られたことを知っていたと証言したのである。『2月6日、7日ごろから状態は明らかによくなりまして、それ以後夏までいろいろ重大な事件はありましたが、それまでのように非常に大仕掛けの(←正誤表によると「大仕掛けの」は誤りで「大仕掛けの堪え難」が正しい。「大仕掛けの堪え難い」が正しいだろう)ものはありませんでした。』

 証人はまた『私は日本(←正誤表によると「日本」は誤りで「東京」が正しい)駐在大使グルー氏から南京駐在米国大使(←正誤表によると「南京駐在米国大使」は誤りで「南京米国大使館」が正しい)に送られた電報を幾つか見ました。そしてこの電報で、南京から送られた報告について、グルー氏及び外務省の官吏の間になされた会談について相当詳細にわたって言及していたのであります。この外務省の官吏の中には、広田氏が含まれています。』と述べている。もちろん証人には、これらの報告が実際に東京に送られたかどうか、あるいはまた誰に宛てて送られたかは、この方法以外には知る由もなかったのである。

 検察側によれば、『これらの残虐行為に関する報告はすべて、外国新聞の非難報道とともに、広田に送達せられたが、報告が続々入りつつあった時でさえも、彼は同問題を陸相に迫らず、又内閣に計りませんでした。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と。

 証拠によれば、広田はこれを当時の陸軍大臣杉山大将に伝えたのである。陸軍大臣は直ちに処置をとることを約し、かつまた実際に厳重な警告を送った。従って広田はグルーに対して、『最も厳重な訓練が大本営から発せられ、在支のすべての司令官に渡されるはずである。その主意は、これらの掠奪は中止せらるべきこと、及び本間少将が南京に派遣せられ、調査をなし、命令の遵奉を確かめること』を確言したのである。《法廷証第328号》

 1月19日にグルー氏が、同氏の抗議に対して処置を広田氏がとり、かつまた『東京よりの訓令をもって前線の部隊にこれを厳守せしめるため峻烈な手段が考慮されつつある』と東京から報告していることが証拠になっている。

 南被告は、その当時朝鮮総督であった。彼は新聞の残虐行為の報道を読んだのである。この事実が検察側の主張をどのように助けるものであるかは、本官としては了解できない。これは単にこれら残虐行為に関する新聞報道があったことを示すだけである。何ぴとも、これを否定していない。

 1937年9月から1938年2月まで、中国派遣の日本無任所公使であった伊藤述史は、南京にあった日本陸軍が当時種々の残虐行為を犯した旨の報告を当地の外交団及び新聞記者から受けたことを証言した。さらに彼は、これらの報告の真実性は究明はしなかったが、東京の外務省に送った報告の一般的要約は、すべて外務大臣あてであったことを証言した。

 残虐行為に関する外国新聞報道に関しては、事態がすでに収拾された後の1938年2月16日の貴族院予算委員会において言及されたのである。そこには木戸被告が出席していた。しかしながら本官としては、何故にこの事実が検察側の国策であるという議論(←漢字2文字不鮮明。英文ではtheory)を少しでも支持するものであるか了解しがたい。このような批判及び論評は、むしろかような仮説に反するものとなるのである。

 さきに挙げた証拠は、南京残虐行為の報告は東京政府に達したことを明らかに示すものである。この証拠はまた、政府がこの問題に関する処置をとって、遂には軍司令官松井大将が畑大将と更迭されたことを明らかにしておる。残虐行為もまた2月の初旬までに終息した。この証拠をもって、かような残虐行為が日本政府の政策の結果であるという結論にわれわれが追い込まれなければならない理由を、本官としては解しがたいのである。

 検察側はこの南京事件後においてさえも、同様な残虐がその後他の数ヶ所の戦域において犯されたことをもって、日本政府が日本陸軍の兇暴な振る舞いの継続を防止するのを欲しなかったとの推断を、合法的に下すことができると主張しているのである。検察側は、提出証拠が次の諸事実を立証するものであると主張している。すなわち、

  1、日本政府は南京残虐事件に関する情報を入手したのであり、その後は中国における戦闘の継続期間中、及び太平洋戦争において日本軍隊による戦争犯罪の反復に対して、警戒する理由が生じた。

  2、日本政府は、太平洋戦争勃発前における他の戦争犯罪が行なわれたことの情報を入手した。

  3、日本政府は、太平洋戦争のほとんどあらゆる戦域において、戦争犯罪が行なわれたことの情報を入手した。

  4、しかるに日本政府は、その継続を真に防止しようと企てなかった。

 検察側の主張は、前記事実はかような犯罪が政府の政策の一部として行なわれた事実、あるいはそれが行なわれたか否かに関して、政府がまったく無関心であったという事実の非常に有力な証拠であるというのである。

 本官は検察側によって述べられた前記の事実を、法廷記録にある証拠がどの程度立証するかを検討してみよう。

 本官としては、まず第一に南京において行なわれたと主張されている残虐事件を取り上げてみる。検察側証拠によれば、1937年12月13日南京陥落の際、城内における中国軍隊の抵抗はすべて終息したのである。日本の兵隊は城内に侵入して、街上の非戦闘員を無差別に射撃した。そして日本の兵隊が同市を完全に掌握してしまうと強姦、殺害、拷問及び劫掠の狂宴が始まり、6週間続いたというのである。

 最初の数日間、二万名以上の者が日本人によって処刑された。最初の6週間以内に、南京城内及びその周辺において殺害された者の数の見積りは26万ないし30万人の間を上下し、これらの者はすべて実際には裁判に付されることなく、殺戮されたのである。紅卍字会(←「紅卍字会」は誤りで「第三紅卍字会」が正しい)及び崇善堂の記録によって、この二団体の埋葬した死体が十五万五千以上であった事実が、これらの見積りの正確性を示している。この同じ6週間の間に、二万人を下らない婦女子が日本の兵隊によって強姦された。

 以上が検察側の南京残虐事件の顛末である。すでに本官が指摘したように、この物語の全部を受け容れることにはいささか困難がある。それにはある程度の誇張と多分ある程度の歪曲があったのである。本官はすでに若干のかような例を挙げた。その証言には、慎重な検討を要するところのあまりに熱心過ぎた証人が、明らかに若干いたのである。

 ここに陳福寶と名乗る一人の証人について触れてみよう。この証人の陳述は法廷証208号である。この陳述において、彼は、12月14日39人の民間人が避難民地域から連行され、小さな池の岸に連れて行かれて機関銃で射殺されたのを目撃したとあえて言っている。証人によれば、これは米国大使館の付近で、朝、白日の下に行なわれたのである。16日に彼は日本軍に捕らわれ、幾多の壮健な若者が銃剣で殺されていたのを再び目撃した。その同じ日の午後彼は大平路に連れて行かれ、三人の日本兵が二軒の建物に放火するのを見た。彼はこの日本兵の名前をも挙げることができたのである。

 この証人は、本官の目にはいささか変わった証人に見える。日本人は彼を各所に連れて行ってその種々の悪業を見せながらも、彼を傷つけずに赦すほど彼を特別に好んでいたようである。この証人は、本官がすでに述べたように、日本軍が南京にはいったその二日目に難民地区から39名の者を連れ出したと言っている。証人は、これが起こった日付は確かに12月14日であるとしている。この一団の人のうち、その日に37名の者が殺された。許伝音博士でさえ、かようなことが12月14日に起こったとは言えなかったのである。彼は難民収容所に関する12月14日の日本兵の行動に関して述べているのであるが、その日に収容所から何者も連れ出されたとは言っていない。

 いずれにしても、本官がすでに考察したように、証拠に対して悪く言うことのできる事柄をすべて考慮に入れても、南京における日本兵の行動は兇暴であり、かつベイツ博士が証言したように、残虐はほとんど三週間にわたって峻烈なものであり、合計六週間にわたって、続いて深刻であったことには疑いない。事態に顕著な改善が見えたのは、ようやく2月6日あるいは7日過ぎてからである。

 弁護側は、南京において残虐行為が行なわれた事実を否定しなかった。彼らは単に誇張されているを(←正誤表によると「されているを」は誤りで「されていることを」が正しい)(←漢字一文字不鮮明。「慇」か「懃」のような、下に「心」がある字のように見えるが、分からない。文脈から言えば「訴」が入ると思うので、一応「訴」にしておく)えてているのであり、かつ退却中の中国兵が相当数の残虐を犯したことを暗示したのである。

 1938年の広東市内における残虐についてはまったくなんらの証拠もない。検察側は同地における残虐に関する若干の証拠を提出したけれども、それは1942年及び1944年に関するものぎる(←正誤表によると「ものぎる」は誤りで「ものである」が正しい)。1941年に関する証拠は法廷証351号であり、これは法廷外において作成された劉自然と称する者の口述書である。この証人は出廷しなかった。この口述書は、ある一日だけの出来事に関して述べたものと称されている。この供述の全体は次の通りである。

 『西暦1941年12月21日《陰暦》、日本軍の広東省惠陽入城に際して、男女老幼の区別なくみだりに虐殺し、皆刺殺した。私は当時親しく西湖岸、五眼橋、沙下、頌(←漢字一文字不鮮明)布場、河辺、府城、学宮、縣城、朝西茨(←漢字一文字不鮮明)、北門外、西門口、排沙等において六百余名が殺されたのを見た。その他各所においても殺され、このたびの被害者は総計約二千余名に達するが、すべてが平民(←正誤表によると「平民」は誤りで「非戦斗員」が正しい)であった。当時全域の住民を(漢字一文字不鮮明)殺すると聞いたので、直ちに(←正誤表によると「当時・・・直ちに」は誤りで「(削除)」と指示がある)五眼橋まで逃げたが、日本軍人十名に遭遇して、銃剣で臍の左を突き刺された。当時20日間の医療をして初めて全治したが、今なお痕跡があり、証拠となる。』

 今一つの証拠は、1944年に関するものである。これもまた法廷外において作成された供述書で、法廷証350号である。この男の名前は黄嶺(←漢字一文字不鮮明)祥である。この供述書の全文は次のようである。

 『1944年7月4日の朝、日本軍Kojo部隊の全軍(原文には小屋迫(コヤセコ)部隊とある)が、当時私の一管轄下の西潤(←漢字一文字不鮮明)郷内の台山村に到着しました。彼らは恣まに(←「ほしいままに」)放火、強奪、殺戮その他数々の残虐行為をしました。その結果559軒の店舗は焼かれ、700名以上の支那人民衆が殺されました。財産が破壊されて蒙った被害は、1944年につくられた見積高によれば、二億支那弗以上の金額になりました。その他日本軍に負傷せしめられた支那人民衆が百名以上ありました。彼ら負傷者たちの所在は、彼らがこの村落から逃走して以来判明しておりませんから、上記の数に含まれておりません。』

 以上が広東省において起こったと称せられる残虐に関する証拠の全部である。われわれがどのように制限的な証拠法に束縛されていないものであると考えるにしても、どんな種類のいわゆる証拠であるにしても、われわれがその証明力を判定するにあたっては、これと同様な緩さをもってすることはできないと本官はおそれるのである。本官は、これほど重要な裁判において、かような証拠に価値を与えることを拒絶するものである。もしも同省に残虐行為が実際に行なわれたのであれば、本官は、それに関するもっとよい証拠を検察側が提出できないということは信じがたいのである。

 漢口における同様な残虐に関する証拠にも、本官は満足していない。この件に関して、多少考慮の価値ある証言をした唯一の証人はアルバート・ドーランスである。証人はスタンダード石油会社の支配人で、1938年10月の下旬、漢口にいたのである。当時漢口には4、5隻のアメリカ砲艦がいた。証人はこれらの砲艦上から若干の残虐的事件を目撃したのであって、それは彼の主訊問の際に述べた。占領がなされたのは午後であった。その次の朝、証人は税関の波止場において、日本人によって集められた数百の中国兵を見た。その当時揚子江の水が非常に低く、河岸から河中に向かって突出した4分の1マイルか(←正誤表によると「4分の1マイルカ」は誤りで「(削除)」と指示がある。「4分の1マイルか」が誤りとするのが正しいだろう)半マイルぐらいの長さの桟橋が用いられていた。三名ないし四名ずつの中国兵がこの長い桟橋の上を連行され、水の中に放り込まれていた。彼らは頭を水の上に出すと射撃されたのであった。証人はほかの人たちとともに、米国砲艦上でこれを見ていたのである。日本兵は、証人たちが見ていることに気がつくとやめた。その後、今度は同じ場所において、この一団を汽艇に乗せて河中に至り、ここにおいて舷外に突き落として、浮き上がった際には射撃したのである。

 この物語はこの証人一人によって提供されたのであり、残念ながらほかの目撃者のだれも訊問されなかったのである。

 多分誤謬と矛盾の可能性を最小限度に止めるために、およそ一つの物語に対して一人の証人しか出されていないことをここに注意し得るのである。この証人によれば、中国人は桟橋を連れ出され、そして河中に蹴落とされるその場所において、身体を検査されたというのである。何故に水際まで来て、かような用のない検査手続に従わなければならないと日本人が感じたか、了解するに困難である。

 いずれにしても、本官はこの証人の証言だけで被告に不作為の罪を着せる準備はない。

 これに関しては二名の弁護側証人の証言に特に言及し得ると思う。すなわち、この両証人は検察側の反対訊問を受けるために出廷したのであるが、検察側はこのいずれにも反対訊問を行なわなかったのである。吉川証人は漢口作戦中、第六師団の後方主任参謀であった。終戦時において、彼は中佐の階級を有していた。いま一人の証人吉橋戒三(よしばしかいぞう。「戒」の字は不鮮明)は、漢口攻撃の際大尉であって、第二軍の参謀部付であった。これらの証人は、ドーランス氏とはまったく異なった陳述をわれわれに提供したのである。特に検察側がその信憑性を衝くかのような暗示すらしなかったことに鑑みて、本官としては、われわれがこの証拠を受容してはいけない理由を見出し得ないのである。

 検察側は、漢口において行なわれたと称する残虐行為が、南京の場合のように日本政府に報告された事実があるという証拠は、まったくないことを認めているのである。宣伝跋扈の今日において、この点は決して閑却し得る事実ではない。

 長沙における残虐行為に再び戻るが、検察側は、法廷外において作成された(漢字一文字判読困難)金華と称する者の口供書に依存しているのである。この口供書は法廷証342号であって、次の通りである。

 『敵方は我が長沙を陥落せしめて後、敵の軍隊を分割派遣して、四方八方掠奪、焼棄、殺人、姦淫を欲しいままにし、その暴挙は極点に達し、去年西暦(英文を参照すると、ここに「1944年」と補うのがよいと思う)6月17日、敵兵十余名、突然西郷沱市に至り、物資を掠奪した。正誼部隊(←中国側の部隊)はその一人を射殺せしところ、その怒りが全市民の方に移り、この日の夕方、獣のごとき兵卒百余名を率いて機関銃を携帯し、再び至り、まず機関銃を用い機銃掃射を行ない、次いで街の西端(←正誤表によると「西端」は誤りで「両端」が正しい)より全市に放火し、全市の商店の百余戸の建物と商品は灰燼に帰し、

 『私金華も災害を受けて逃げ出し、途々食を乞い、帰るべき家もなくなった次第である。』(←正誤表によると「『私金華も・・・・・・なくなった次第である。』は誤りで「『私もようやく同市から逃げ出した被害者の一人であります。火災のため一切の所持品を失い、家はなくなり、食を乞うようになったのである。』」が正しい。また、この「金華」の口供書の引用はすべて原資料では漢字片仮名交じり文である)

 本官は、証人は同市に何事も起こらない前に、実際は逃げ出したのではないかと考えるのである。いずれにせよ、裁判所条例によれば、かような陳述が受理し得るのであるが、しかし本官としては、これになんらの信頼を置くことはできない。弁護側証人横山は、長沙を攻撃し、同市を占領した第十一軍の司令官であった。彼は同所においては、なんら残虐行為が行なわれなかったことを証言した。

 検察側は、長沙においていま一つの残虐事件を示すために、他の同種の口供書を提出した。この口供書は日本陸軍独立山砲第二連隊第一大隊第一中隊の兵長田村信忠のものである。これは本件における法廷証341号で1941年9月に起こったと称せられる一事件に関するものである。ゆえにこれは1944年に行なわれたと主張しておる訴因48の起訴事実とは、なんら関係がないのである。それだけでなくこの口供書はある大隊がとった一般民間人に対してなされた残虐とは、なんら関係のないところのある小さな行為だけを示すものである。

 訴因第49によって訴追されている衡陽においてなしたと主張される残虐行為に関しては、記録上なんらの証拠がないのである。同市は湖南省にある。(←正誤表によると「にある。」は誤りで「にある。長沙も同じ湖南省内にある。」が正しい)検察側は、あるいは上述の長沙に関する証拠が、この場合をも包含すると考えたのかもしれない。それはさておき、この一都市に関する限り、この主張を支持する証拠は皆無である。

 桂林及び柳州における残虐行為は、訴因第50において挙げられている。この主張を支持する法廷証352及び353号がわれわれの手許にある。

 法廷証352号は、桂林市参議会議長及び副議長、桂林市商会理事長及び同常務理事二名、並びに桂林総工会主任委員及び副主任委員二名によって署名されている。これは1946年5月21日付であり、1945年のある日に、同市において日本兵の行なった残虐行為に関するものである。

 訴因第50は1945(←英文によると「1944」が正しい)年11月に起こったある事件に関するものである。この供述は、1945年7月28日桂林市から撤退数日前、前進中の中国軍によって広西・湖南間の連絡が遮断されるのをおそれ、日本軍隊が同市においてどのようなことを行なったかを述べているのである。日本軍は過去一年近く同市を占領していた。ここにおいて言及されているこの事件は、彼らが同市からの撤退を余儀なくされた際において、初めて起こったと言われている。

 次の法廷証353号は、1946年5月27日付で桂林の9名の市民の陳述とされておる。この口供書は、『敵軍ノワガ桂林デ侵略セシハ一ヶ年間ニシテ、ソノ間姦淫、捕虜、掠奪等ナサザルトコロナク』等々と述べている。これは非常に一般的である。あるいは、ときたま事件があったかもしれない。かような散発的な出来事は、村民たちにこれと同じような陳述をさせるものとなるのである。

 桂林の攻略に参加した弁護側証人益田は、支那派遣軍司令官の指揮下にあった第十一軍の参謀であったので、法廷においてこの問題に関する証言を行ない、検察側によって反対訊問を受けなかった。彼は同市において残虐行為が行なわれたこと、あるいは日本兵が濫りな行動をとったことを否定した。

 長沙、衡陽、桂林及び柳州を攻略占領した第十一軍の司令官であった横山勇も、また本裁判所において証言を行ない、彼もまた検察側によって反対訊問をされなかった。彼も日本軍隊の無秩序な行動を否定したのである。

 検察側の証拠は、その内容をして正しいものであると本官を納得させるものではない。

 本件における証拠の中に挙げられた残虐行為の散発的個々の他の事例に関する証拠を、詳細に検討を続ける必要はない。ほとんどすべての事例に関する証拠は、同様のものである。

 いずれにせよ、われわれの現在の目的のためには、かような個々の散髪事件は、まったく何ものをも証明しないのである。

 フィリッピンにおける事件もまたいま一つの組織的で大規模な残虐とされており、マニラ残虐事件は南京残虐事件と並び称されているのである。

 最初の期間中、単に三つの事件しかわれわれに示されていない。すなわち一つは1942年2月の中旬に起こったもの、他は1942年5月と1942年6月3日に起こったものである。これはすべて個々に起こった散発的事件であり、本官としては、これら悪行の実際の遂行者はすでに適当な処分を受けているものと信ずる。われわれの現在の目的のためには、かような散発的な事例は何ものをも証明しない。勝者を含むどのような列強のどのような軍隊でも、同じような散発的事例が起こらなかったことはほとんどないのである。

 真の『マニラ残虐事件』というのは、戦争が日本に対して不利となったときに始まるのである。

 フィリッピンにおける残虐事件を考察するにおいては、1944年10月9日以後に起こった事柄に対しては、われわれはそれほど重大性を置くことはできないのである。それは日本軍司令官たちが、その軍隊を有効に統御することが不可能となった時期である。すべての兵站線は破壊されたかもしくは混乱し、勝に乗じた米国陸軍は、あらゆる補給線を有効的に遮断していた。彼らがこの期間においてその軍隊を統御し得なかったことを、任務の無視――特に故意の任務無視には帰し得ないのである。裁判所条例においては、『任務の無視』それ自体は、故意であり、無謀であるとはいえ、犯罪として挙げられてはおらず、従ってその審理処罰は、本裁判所の権限内にないことをわれわれは記憶すべきである。任務の無視は、実際の犯罪行為が、その任務を無視したと言われる者の行為であることを立証するための単なる関連性をもつ証拠事実にすぎないのである。

 われわれが証拠を分析すれば、前述の最初の五つの期間中には、虐殺事件と主張される出来事は非常に稀であったことがわかる。あるいは若干の散発的な事件があったかもしれないが、かような事件は決して例外的なものではない。かような種類の犯罪を犯したことのない陸軍あるいは海軍は、世界にないのである。かような行為を犯した者はすでに処罰を受けたと本官は信ずるのである。本官としてはこのような個々の散発事件をもって政府の政策に関する結論を下すことはできないと考えるのであって、われわれが現在問題としているのは、このような政策なのである。さきになした分析は、大規模な真の残虐事件は戦争が日本に対して不利となり、日本軍が収拾し得ないほど混乱した1944年の後期に行なわれたことを示すのである。

 当時起こった諸事件の責任を、各軍の司令官に負わせることさえ困難である。本官の意見によると、かような行為は戦地における司令官の怠慢または故意的不作為さえ示さないのである。当時の戦争段階において、かような兵士の行動が、戦地から遠く離れた所で運用されており、充分な通信機関さえもっていなかった政府の政策を、どうにかして反映すると提言することは道理に合わない。

 かような観点から、全証拠を再調して、本官は次のような結論に至った。すなわち閣僚が、どのような方法によってか、かような犯行を命令、認可または許可したと推断する権利をわれわれに与えない。さらにかような犯罪は、政府の政策に準じて行なわれたという検察側の仮説を本官は容認することができない。政府がなんらかの方法によって、かような犯罪行為を許可したとの推論を、どうにかして導くべき証明的あるいは情況的、併在的、予期的、回顧的証拠はないのである。

 従って荒木、平沼、広田、星野、賀屋、木戸、小磯、南、岡、大島、佐藤、重光、島田、鈴木、東郷及び東条に関しては、彼らがどういうようにしてかような犯行を命令、認可または許可を与え、またかような犯罪が政府の政策に準じて行なわれたことを示す怠慢あるいは不作為が彼らの方にあったと推断する権利を与えるような証拠を、本官は見出さないのである。本官の見解によると、彼らは閣僚として、戦地における軍隊を管理する義務をもたず、かような管理を行なう権限をもたなかった。司令官は高位の責任ある人物であり、この点に関して、閣僚がかような高管(←「高管」とあるように見えるが「高官」とするのが正しいかもしれない)の機能に頼ることは当然であった。

 すべての政府は、適当な機構の援けによって役目を果たすのである。政府の高官が、この機構の妥当な運用に頼ったことは当然であった。この機構を、いかにも故意に歪めたようなことを示す証拠は、本件にないのである。戦争は地獄である。もし閣僚をかような諸事件のために裁判し、処罰するとしたら、平和を地獄とせしめると言ったのはおそらく真実であったかもしれない。

 現在の証拠では、本官は、前述の人物のいずれをも、この点に関して犯罪行為を犯したかど、もしくは犯罪的な不作為のかどで有罪とは断じ得ないのである。

 しかしながら事件に関係した軍隊を指揮した人々の場合は、他の政府要員の場合とは違った立場にある。従って本官は彼らに対する訴追を別個に考慮してみる。

 本件の被告中、関係各軍隊を指揮していた人々は土肥原、橋本、畑、板垣、木村、松井、武藤、佐藤及び梅津である。

 これらの人々に関する関連性ある諸事実は、その名前の下に次のように掲げてある。

  1、土肥原 1943年ないし44年、日本における東部軍司令官。

         1944年ないし1945年4月、シンガポール第七方面軍司令官。

  2、橋本 1937年、レディーバード号を砲撃した砲兵連隊長。

  3、畑 中支那派遣軍司令官、1940年7月ないし44年。

  4、板垣 朝鮮軍司令官、1941年7月ないし1945年3月、シンガポール第七軍司令官、1945年4月ないし1945年8月。

  5、木村 ビルマ日本軍司令官、1944年3月ないし終戦。

  6、松井 支那派遣軍司令官、1937年10月ないし1938年2月。《南京暴行事件、1937年12月》

  7、武藤 スマトラ近衛第二師団司令官、1943年、山下大将指揮比島第十四方面軍参謀長、1944年。

  8、佐藤 支那派遣軍参謀副官、1945年1月、次いで終戦まで印度支那及び泰国第三十七師団長。

  9、梅津 関東軍司令官、1939年11月7日ないし1944年7月(正誤表によると「7月」は誤りで「7月18日」が正しい。「7月18日。」が正しいだろう)

 記録に記された証拠によると、これらの司令官は、その指揮下の軍隊の軍人による残虐行為の実行を命令し、あるいは許可したとわれわれが断定することは決して妥当としない。その証拠は、これらの司令官がなんらかの方法において、将兵にその残虐行為を行なうことを教唆したものとわれわれが断定することを許すようなものでは決してない。従って本官は、まず最初にこの点に関する訴因第54をとりあげ、そのうちに含まれた一般市民に関する起訴事実はこれらの被告のいずれに対しても立証されていないと述べることによって、これを処分するであろう。

 ただし起訴状の訴因第55が残っている。責任は不作為と同様、作為(←正誤表によると「不作為と同様作為」は誤りで「作為と同様不作為」が正しい。「不作為と同様、作為」は誤りで「作為と同様、不作為」が正しいとするのがいいだろう)からも生ずるということは、刑法では充分確立された法則である。ただしどのような事情が不作為に対するかような責任を生ぜしめるかは、しばしば問題となる。不作為を作為と同一視することは、その行為をなすべき義務のあるときにのみ生ずるものである。さらに不作為によることが犯罪となるには、その事件が不活動と因果的に関係していたことが確実でなくてはならない。

 本官の意見では、これらの司令官は軍隊内の軍規を維持し、その指揮下にある将兵にかような残虐行為を敢行することを抑制させる法律的責任があった。

 司令官は部下の行為に対し、単に彼が部下の上官であるという理由によるだけでは責任はないということは事実である。ただし彼が部下に対してもっている非常な支配力によって、彼が当然防止できるような部下の行為に対しては、責任をもつべきである。彼は自己の指揮下にある軍隊を統制するために、自己の権限内にある適当な措置をとる義務があった。

 これはもちろん、司令官または司令長官は自己の指揮下にある軍隊の将兵に関して、教師が教室において受持ちの生徒に対すると同一の地位に立つものという意味ではない。われわれは軍隊の実際の作戦地域と、司令官または司令長官がこの統制を行なうことを期待されている普通一般の制度、並びにこれに関係して彼が当然依存できる適当な機能ということを忘れてはならない。

 被告松井大将は、南京陥落をもたらした中支方面軍の司令官であった。彼は1938年2月東京に帰還し、畑大将が1938年2月17日同人と交代した。

 1937年8月15日、松井大将は上海派遣軍司令官に任命された。同年11月5日、大本営は当時の上海派遣軍と第十軍とを合併し、中支方面軍を組織し、松井大将をその司令長官に任命した。

 派遣軍と第十軍の司令部の上にあって、両軍の指揮を統一することが中支方面軍に課せられた任務であった。その任務は、両司令部の共同作戦の統一にあった。軍隊の実際の操作及び指揮は、各軍の司令官によって行なわれた。各司令部には、参謀及び副官のほかに兵器部、軍医部及び法務部等があった。しかるに中支方面軍のうちには、かような係官はなかった。《法廷証第2577号、法廷記録第38900頁》

 大本営は、12月1日中支方面軍に対し、海軍と協力して南京を攻略せよとの命令を出した。

 12月5日、中支方面軍司令部は南京から140哩離れた蘇州へ移った。松井大将は当時病気であったが、彼は、重要問題については参謀と協議の上、病床で決裁した。《法廷証第341号》

 12月7日、上海派遣軍に対して別の司令部が任命された。従ってその日以後、松井大将は中支方面軍司令官であって、それは一司令官の指揮下にある第十軍と、いま一人の司令官の指揮下にある上海派遣軍から組織されていた。

 南京を攻略せよという大本営の命令を実施する以前に、松井大将は日本軍に対し、以下の要旨の命令を出した。すなわち、

 『南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であるがゆえに、慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ。上海周辺の戦闘は支那軍を屈服せしむるをその目的とするものなり。でき得る限り一般官民はこれを宣撫愛護せよ。かつ軍は外国居留民並びに軍隊を紛争に巻き込ましめざるよう常に留意し、誤解を避くるため外国出先当局と密接なる連絡を保持すべし。』

 ここにおいて飯沼派遣軍参謀長等は、松井大将麾下の将兵に対し、直ちに前述の命令を伝えた。塚田中支那方面軍参謀長は、部下六名の参謀とともに左記要領の命令を準備した。すなわち、

  1、中支那方面軍は南京城を攻略せんとす。

  2、上海派遣軍並びに第十軍は南京攻略要領に準拠し、南京を攻略すべし。

 右に言及した南京攻略に関する命令に含まれた要点は左の通りである。

  1、両軍(上海派遣軍及び第十軍)は、南京城外3、4キロの線に進出したときは停止し、南京城攻略を準備する。

  2、12月9日飛行機で南京城内の中国軍に降伏勧告文を散布する。

  3、中国軍が降伏した場合には、各師団から選抜した2、3個大隊と憲兵隊だけを城内に入れ、地図に示した担任区域内の警備をする。特に図示された外国権益または文化施設の保護を完うすること。

  4、中国軍が降伏勧告に応じない場合には、12月10日午後から攻撃を開始する。この場合にも城内に入る部隊の行動は前記と同様に処置し、特に軍紀、風紀を厳粛にし、速やかに城内の治安を回復する。

 上記の命令を作ると同時に、『南京城の攻略及び入城に関する注意事項』と題する訓令が作成された。

 その要旨は次の通りである。すなわち、

  (ここから、原資料では漢字片仮名交じり文)1、皇軍が外国の首都に入城するは有史以来の盛事にして、永く竹帛に垂るべき事績たると世界のひとしく注目したる大事件たるに鑑み、正々堂々将来の模範たるべき心組をもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為等絶対になからしむべし

  2、部隊の軍紀風紀を特に厳重にし、中国軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめいやしくも名誉を毀損するが如き行為の絶無を期す。

  3、別に示す要図に基づき、外国権益、殊に外交機関には絶対に接近せざるはもちろん特に外交団の設定したる中立地帯には、必要の外立ち入りを禁じ、所要の地点に歩哨を配置すべし。又城外における中山陵その他革命志士の墓及び明考陵には立ち入ることを禁ず。

  4、入城部隊は師団長が特に選抜したるものにして、あらかじめ注意事項、特に城内の外国権益の位置を徹底せしめ絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置すべし。

  5、掠奪行為をなす(←正誤表によると「なす」は誤りで「なし」が正しい)又不注意といえども火を失するものは厳罰に処すべし。軍隊と同時に多数の憲兵及び補助憲兵を入城せしめ、不法行為を防止せしむべし。(原資料で、漢字片仮名交じり文はここまで)

 12月17日松井大将は南京に入城して、初めてあれほど厳戒したのにかかわらず、軍紀風紀違反のあった旨を報告によって知った。彼はさきに発した命令の厳重な実施を命じ、城内にある軍隊を城外に出すことを命じた。塚田参謀長及び部下参謀は、南京城外の宿営力を調査したところ、関係場所は軍隊の宿営に不適当なことを知った。《法廷証第2577号》

 よって12月19日、第十軍は上海派遣軍のいた蕪湖方面に引き返した。第十六師団だけが南京警備のために残され、他の部隊は逐次揚子江の北岸及び上海方面へ撤退するように命令された。《法廷証第3454号》

 松井大将は部下の参謀とともに上海に帰還した後、大将は南京において日本軍の不法行為がある旨の噂を再び聞いた。これを聞いて同大将は、部下の一参謀に12月26日または27日次のような訓令を上海派遣軍参謀長に伝達させた。すなわち、

 『南京で日本軍の不法行為があるとの噂だが、入城式のときも注意した如く、日本軍の面目のために断じて左様なことがあってはならぬ。殊に朝香宮が司令官であられるから一層軍紀風紀を厳重にしもし不心得者があったなら厳重に処断し又被害者に対しては賠償又は現物返還の措置を講ぜよ』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《法廷証第2577号》

 かように措置された松井大将の手段は効力がなかった。しかしいずれにしてもこれらの手段は不誠意であったという示唆はない。この証拠によれば、本官は松井大将としては、本件に関連し法的責任を故意かつ不法に無視したとみなすことはできない。

 検察側は本件に関して処罰の数が不充分であったとの事実に重点を置いている。本官がすでに述べたように司令官は軍の軍紀風紀の実施のために与えられている機関の有効な活動に当然依存し得るのである。軍には違反者を処罰することを任務とした係官が配置されていたことは確実である。

 本官はかような違反者を処罰する手続をとることは、司令官の任務または義務であるとは思わない。司令官の耳には残虐行為の噂もはいり報告も来た。彼は充分にそれは不承認であることを表現した。従ってその後は彼としては当然両軍の司令官並びに軍紀風紀を維持し処罰を加える任務をおびている他の高級将校に依存し得るのであった。われわれはまた松井大将は当時病気であり、これらの出来事があって数週間内にその任務より交代させられたことを記憶せねばならない。

 どんな軍の司令官の立場というものも、かような短期間さえもその機関が適当に活動しているか否かを見る余裕を与えられないとするならば、実に堪え難いものであろう。本官の判断では、市民に関して南京で発生したことに対し、同人を刑事上責任あるものとするような不作為が同人にあったことを証拠は示していない。

 本件のこの部分に関する限り、土肥原、橋本、板垣及び梅津に不利な証拠はない。本官がすでに前に示したように彼らが司令官としての任期中、普通市民に対する彼らの麾下の軍隊の残虐行為について、その行為が彼らの犯罪的不作為に帰せしめることを正当とするような満足すべき証拠はどのようなものも提出され得なかった。

 畑に関しては、証拠によれば、南京事件後松井が1938年2月、日本に帰還し、畑大将が1938年2月17日同人に代わったというのである。それ以後、たとえたまたま例外的事例はあったが、残虐的行為は目立って取り締まられた。本官の意見では、この証拠は畑大将として不作為があったと判定を下すことを正当とせず、まつまた右の例外的事件と司令官の不活動または不作為との間に因果的関係があるとの推測を支持するものでもない。

 本官はその後の戦闘中に犯されたと称する残虐行為に関する証拠に対し、以上に本官の見解を述べた。検察官は、本官の見解では、本件のこの部分の立証に失敗したと思う。

 従って、本官の判定としては、畑被告はこの訴追については無罪とすべきである。

 木村は1944年3月から終戦までビルマの日本軍の司令官であった。この期間中ビルマの市民に対して犯された残虐行為で、かような行為が本被告のなんらかの犯罪的不作為であるとしてわれわれが当然見なし得べき満足な証拠はなんら記録に出ていない。

 佐藤は1945年1月から終戦まで印度支那及びタイ国の第三十七師団長であった。この期間中同地の市民に対する虐待に関し、検察側提出の証拠は無価値であり、本官としてはかような証拠に基づいて行動することは安全とは思わない。

 武藤は1943年夏スマトラの近衛第二師団長であり、1944年山下大将の下に比島第十四方面軍参謀長であった。スマトラ及び比島の市民に対する残虐行為の証拠は出ている。スマトラにおけるかような残虐行為に関して記録に出ている証拠は武藤の指揮期間前に関するものである。比島に関し法廷証第1355号から1489号が、これらの残虐行為の立証のため証拠として提出された。証人ワンダ・オー・ワーフ、エス・ビー・ムーディ、ドナルド・エフ・イングルがこれらの行為に関し法廷で証言した。山下大将は同軍の司令官であり、すでに裁判され、これらの行為に対し処刑されている。

 武藤は同軍の参謀長であった。本官は当時比島において発生しつつあったことに対し、何故当局の何人をも責任あるものとなし得ないかの理由をすでに述べた。

 本官は「レディーバード号」の砲撃は本裁判所としてこれを審理すべき権限内にあるとは思わない。本件はこの戦争を開始するずっと前にすでに解決している。訴追を行なっている諸国はかような解決済みの事件を、このようにして再び問題にすることを求めない方がよいであろう。かりに右諸国がその征服した敵国に対して、他に不平を言うことがまったくなかったとしても、彼らみずからその他の点では完全に満足とする解決を得ている問題をかき出さない方が、明らかに彼らとしてより堂々としており、かつ上品であったであろう。


俘虜に対する、厳密ナル意味ニオケル(←「厳密ナル意味ニオケル」に小さい丸で傍点あり)戦争犯罪


 本官はこれから俘虜に関する起訴状訴因第54及び第55の起訴事実を取り上げよう。

 すでに論及したように、これらの犯罪は起訴状付属書Dに挙げられている。付属書Dの第1ないし第8節は、右犯罪を列挙している。

 右犯罪は、付属書Dに引用された条約、保証及び慣行中に存するものを含む戦争法規並びに慣習に違反するものであるとされている。

 付属書Dに挙げられている戦争法規並びに慣習及び条約、保証、慣行は次の通りである。

  1、文明諸国民の慣行によって確立された戦争法規並びに慣習。

  2、1907年10月18日、ヘーグにおいて締結された陸戦の法規慣習に関する条約第四。

    (a)右条約の一部をなす付属書中に記載された規定。

  3、1907年10月18日ヘーグにおいて締結された海戦に関する条約第十。

  4、1929年7月27日、ジュネーヴにおいて締結された俘虜の待遇に関する国際条約《以下においてはジュネーヴ条約と称す》

    (a)日本は右条約を批准しなかったが、日本を拘束するに至った。

  5、1929年7月27日、ジュネーヴにおいて締結された戦地軍隊の傷病兵の状態改善に関する国際条約《赤十字条約として知られているもの》

  6、東郷外務大臣の署名した通牒による保証。

    (a)(1)1942年1月29日付東郷の署名した東京駐在スイス公使宛アメリカ人俘虜に対し、ジュネーヴ条約を「準用(←「準用」に小さい丸で傍点あり)」する旨保証した通牒。

    (b)1942年1月30日付東京駐在アルゼンチン公使宛、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド人俘虜に対し、ジュネーヴ条約を「準用(←「準用」に小さい丸で傍点あり)」する旨保証した通牒。

    (c)1942年2月13日付東郷の署名した東京駐在スイス公使宛、帝国政府が相互条件の下に現戦争中、1929年7月27日の条約の俘虜の待遇に関する諸規定を、敵国の抑留非戦闘員に適用する旨保証した通牒。

    (d)上記の諸保証は、日本外務大臣により数次繰り返され、近くは1943年5月26日にもなされた。

 右諸条約並びに保証の違反行為の細目については、検察側はこれを8節にわけて述べている。

 付属書Dの第1節は、1907年のヘーグ条約第四の付属書第4条、並びに1929年のジュネーヴ条約の全部及び上述の諸保証に反する、非人道的待遇を訴追している。

 第2節は、上記ヘーグ条約付属書第6条並びにジュネーヴ条約第3編及び上述の諸保証に反する俘虜労働の違法な使用を訴追している。

 第3節は、上記ヘーグ条約付属書第7条並びにジュネーヴ条約第4条及び第3編の第9ないし第12条に反する、俘虜に対する給養の拒絶及び不履行について述べている。

 第4節は、上記ヘーグ条約付属書第8条及びジュネーヴ条約第3編第5款第3章に反する、俘虜に対する過度にして違法な処罰を非難している。

 第5節は、上記ジュネーヴ条約第3、14、15、25条並びに赤十字条約第1、9、10、12各条に反する傷病者、衛生関係員及び看護婦の虐待について論じている。

 第6節は、上記ヘーグ条約付属書第8条並びにジュネーヴ条約第2、3、18、21、22、27各条に反する、俘虜殊に将校に与えた屈辱的行為を訴追している。

 第7節は、上記ヘーグ条約付属書第14条並びにジュネーヴ条約第8、第77各条に反する俘虜に関する情報及び同件の照会に対する回答の蒐集及び伝達の拒絶及び不履行を訴追している。

 第8節は、上記ヘーグ条約付属書第15条、並びにジュネーヴ条約第31、42、44、78、86各条に反する利益保護国、赤十字社、俘虜及びその代表者の権利の妨害行為を論じている。

 検察側は、その最終論告において、次の諸点を立証したものと主張した。すなわち

  1、証拠が挙げられているところの戦争犯罪は事実上行なわれたこと。

  2、右犯罪はある場合には、日本政府の政策の一部として行なわれたこと。

  3、その残りの場合においては、右犯罪が行なわれたもしくは行なわれなかったことに対して政府は無関心であったこと。

 検察側は、この場合『日本政府』という表現を、非常に広い意味で使い、単に内閣閣員ばかりでなく、陸海軍高級将校、大使及び高級官公吏をも含めている。

 俘虜の虐待が各種の方法で行なわれたことを立証する証拠は圧倒的である。この証拠を詳細に論ずることは、なんの役にも立たないであろう。これらの残虐行為の実行者は今ここにはいない。彼らのうち存命中で逮捕できた者は、連合軍によって適当に処分されている。

 現在われわれの目前には、これと異なった一組の人々がいる。彼らは戦争中、日本の国務を司っていた者であり戦争を通じて行なわれたあの残にんな残虐行為は、そのような残酷な方法で戦争を行なうに際し、彼らの発意で日本が採用したところの政策の結果にほかならないという理由で、右残虐行為の責任をとわれんとしている者なのである。

 俘虜に関して行なわれたと称せられているところの諸犯罪行為は、全部同じ種類のものではない。それらは全部が「ソレ自体(←「ソレ自体」に小さい丸で傍点あり)」犯罪ではない。そのうちの一部は、条約と保証に違反するという理由で犯罪であるとされている。他のものは「ソレ自体(←「ソレ自体」に小さい丸で傍点あり)」犯罪であるとされている。われわれは現在の目的のためにこれらを区別しておかなければならない。そしてこのような行為に対して現在の被告達にどの程度の犯罪的責任があったとなし得るかを見きわめねばならない。

 検察側のカー氏は、次の諸点に基づいて、われわれに被告に犯罪的責任があると見なすよう求めている。すなわち

  1、(a)日本政府は事実上1929年のジュネーヴ条約によって拘束されていた。

   または

    (b)右拘束がなかったとすれば

     (1)彼らは疑いもなく1907年のヘーグ条約第四及び第十の拘束を受けている。

     (2)これら一切の条約は、単に国際法の説明的宣言である。

  2、(a)俘虜は捕獲した政府の権力内におかれるものであって、彼らを捕えた個人または部隊の権力内にあるものではない。

    (b)(1)政府もしくは、その一員は、責任をある一省に転嫁せんとすることによってこれを回避することはできない。

      (2)主要責任は、個々の政府員全部にある。

  3、(a)戦争法規に違反する者の行動を支配する力をもつ者であって

     (1)このような違反が犯されたことを知りながら、それが繰り返し行われることを防止するような処置をとらない者、または

     (2)その支配下にある者が、戦争法規を犯すことを予想できる理由をもちながら、その発生を防止するような適宜の措置を怠る者または

     (3)彼らの同僚に戦争法規を守らせる義務をもちながら、その義務の遂行を怠る者は、彼ら自身に戦争法規違反の罪がある。

    (b)右のような者に戦争法規違反の責任を負わすのには、彼らが次の事柄を承知していたのでなければならないということが必要であろう。すなわち

     (1)残虐行為が行なわれるであろうということ。 または

     (2)行なわれたこと。

    (c)ある者が

     (1)右のことを知っていること  または

     (2)残虐行為が他の者によっておそらく行なわれるであろうこと、または行なわれたことを当然知っているはずであることが判明すると同時に、そこに右の残虐行為を取りしまるという権限行使の義務ということが生じて来る。

     (3)彼らの義務は、事態を閣議にかけ、もし満足を得ることができなければ辞職することである。

    (d)(1)故意に事態を調査することをしなかった場合には、何人も責任を免れることはできない。

      (2)ある事態が広く蔓延し、それが知れわたっているときには、被告が知っていたということを「一見明白ナ(←「一見明白ナ」に小さい丸で傍点あり)」推定が成立するのであり、それに対しての被告の弁明が必要となって来る。

 この件について適用し得る法律については、検察側は、われわれに起訴状付属書Dを参照するように述べ、この問題に関する法律論は、そこに充分に記載してあると申し立てたのである。

 この点について検察側の依拠した条約の関係規則と規定は、付属書D中1、2、3、と番号をつけた節に述べられている。その中に挙げられている条約と保証はすでに述べておいた。

 1929年のジュネーヴ条約の適用性についての検察側の立場は、同付属書中に次のように述べられている。

 (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『日本は右条約を批准せざりしといえども右条約は下記理由の一又は数個のため日本を拘束するに至れり

 (イ)本条約は日本及び本起訴状において起訴を提起したる各国を含む47箇国により又はこれら諸国を代表して上記日付をもって調印せられ40箇国以上により批准せられかくして戦争法規慣例の一部となり又はその証拠となるに至れり

 (ロ)被告の一人なる東郷茂徳が日本を代表する外務大臣として署名したる1942年(昭和17年)1月29日付東京駐箚スイス公使に宛てたる通牒は左の陳述を包含せり

  「俘虜の待遇に関する条約に拘束しおらざるも日本はアメリカの俘虜に対し該条約の諸規定を「準用(←「準用」に小さい丸で傍点あり)」せんとするものなり」』

 『日本を代表する外務大臣として被告の一人なる東郷茂徳より東京駐箚「アルゼンチン」公使に宛てたる1942年(昭和17年)1月30日又はその頃の日付の通牒中には左の如き記述あり

  「帝国政府は俘虜の待遇に関する1929年7月27日の条約を未だ批准し居らざるをもって帝国政府は該条約に拘束せらるることなし然れども帝国政府はその権力下にあるイギリス、カナダ、豪州及びニュージーランドの俘虜に対し該条約を「準用(←「準用」に小さい丸で傍点あり)」すべし、俘虜に対する食糧及び、衣料の供給に関しては帝国政府は相互主義により俘虜の国民的及び、民族的慣習を考慮せんとするものなり」

 右二つの通牒又はその一により日本は該条約第95条に従い該条約を承諾したるものにしてその当時における戦争の状況はかかる承諾に直ちに効果を与えたり

 (ハ)右二つの通牒はその各受領者を通じ右通牒が移牒さるる事を意図せられかつ実際に移牒せられたるアメリカ合衆国、大ブリテン北アイルランド連合王国、カナダ、豪州及びニュージーランドに対する保証を構成するとともにその各場合において日本と戦争中なりしすべての国家に対する保証を構成せしものなり』

 『上記の事項を除外すれば上記ジュネーヴ条約中には「準用」なる字句が適当に当てはまるべき規定なし』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

 傷病者の状態改善に関する国際条約に関しては、同付属書は次のように主張している。

 (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『日本は他の40箇国以上の諸国とともにかくして戦争の法規慣例の一部となり又はその証憑となりたる該条約に締約国の一員として参加せり、1942年(昭和17年)1月29日又はその頃の日付の上述通牒において日本は左の如く述べたり

  「日本は1929年(昭和4年)7月27日の赤十字に関するジュネーヴ条約を該条約の調印国として厳格に遵守するものなり」』

 『東京駐箚スイス公使に宛てたる被告の一人東郷茂徳が外務大臣として日本国を代表して署名せる1942年(昭和17年)2月13日付の通牒に次の記述ありたり

  「帝国政府は相互主義の下に現戦争中1929年(昭和4年)7月27日の俘虜の待遇に関する諸規定を敵国の一般人収容者に準用すべくかつその自由意思に反して彼らに労役を課せざる事に定めたり(←正誤表によると『「帝国政府は・・・る事に定めたり」の代わりに次の文を入れる。」』という指示があり、その「次の文」として、「帝国政府は本戦争中敵国人たる抑留非戦斗員に対し1929年(昭和4年)7月27日の俘虜条約に基づき相互条件の下において諸規定を能う限り準用すべしただし交戦国は本人の自由意思に反して労役に服せしめざることを条件とす」とある)

 該通牒は中華民国以外の日本と戦争中のすべての国家《これら諸国家は実際該条約の条項を日本の一般人収容者に適用し得るものとして適用せり》に対する保証を構成せり

 上述諸保証は日本外務省により数次にわたり繰り返しなされ近く1943年(昭和18年)5月26日にもなされたり』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

 最終論告において検察側は日本がジュネーヴ条約を批准しなかった「事実(←「事実」に小さい丸で傍点あり)」に悪質な意味をもたしている。これは実にわれわれの目前にある問題に重大な関係をもつものである。検察側によると、同条約批准の問題が起きた時には既に侵略戦争のための全面的共同謀議が存在していたのであり、この批准が反対され遂に否決されたのは批准反対派は当時すでにその企図していた戦争においては俘虜を虐待するという政策をつくり上げていたためであるというのである。

 検察側は真剣にこの申立を主張し、その裏付けとして証拠を提出した。

 日本は1929年のジュネーヴ俘虜条約に調印したが1934年に天皇がこれを批准すべきか否かの問題が生じた。陸海軍は批准反対を主張、進言し、その理由は海軍によって提示された。《法廷証第3、043号及び第3、044号、記録第27、177−81頁》

 右の理由を記述している文書は、検察側が次のように要約している。

  1、日本人はだれも俘虜にはならないからその義務は片務的である。

  2、利益保護国は立会なしに俘虜と会談できるとする第86条は、軍機上危険である。

  3、同条約を批准すると、敵の航空機搭乗員は優遇を受けるという知識のもとに、目的達成後、日本領土内に安心して着陸することができるから、敵の航空機の行動半径を倍大することになる。

  4、俘虜に対して日本軍人に対するほど厳重な刑罰を課することができなくなり、日本軍人を彼らと同等の地位におくためには、日本陸海軍の懲罰令の改正を要することになり、右は軍紀維持上好ましくない。

 次いで検察側は、ジュネーヴ条約は、実際には日本が批准している1907年のヘーグ条約とほとんど同じ見地に立つものであるから、右の批准反対論には根拠がないと主張している。

 検察側は言う『ヘーグ条約中われわれの現在の目的に関連あるただ一つの懲罰規定は第8条である。この規定は用語においてほとんど1929年のジュネーヴ俘虜条約の第45条及び第50条に一致するものであり、その意味では二つの条約は互いに相殺するものということができる。ジュネーヴ条約中の懲罰を制限するただ一つの他の重要な規定は、第46条中に記されているもの、すなわち「一切ノ体刑、日光ニヨリ照明セラレザル場所ニオケル一切ノ監禁及ビ一般ニ一切ノ残酷ナル罪ヲ禁ズ。個人的行為ニツキ、集団的ノ罰ヲ課スルコトヲ禁ズ。」という部分である。』

 『日本政府が避けようと望んだのはこれらの制限であった。日本政府は懲罰に仮託して俘虜を虐待する権利を留保したいと欲し、そうすることによって飛行士の同国侵入を阻止しようとしたのである。俘虜虐待は政府の政策上の問題とされたのであった。』

 しかしながらこれらの理由は政府が挙げたものではなくて、海軍がもちだしたものであって、しかも今次戦争開始の遥か以前の1934年になされたものであることを記憶すべきである。

 陸軍もまたこの批准に反対したが、なんら明確な理由を挙げていない。《法廷証第3、044号》

 東条はその宣誓口供書の第132節で、ジュネーヴ条約を次のように論じている。

 『次にジュネーヴ条約に関して一言致します。日本はジュネーヴ条約を批准致しませんでした。なお又、事実において日本人の俘虜に対する観念は欧米人のそれと異なっております。なお衣食住その他風俗習慣を著しく異にする関係と今次戦役においては、各種民族を含む広大なる地域に多数の俘虜を得たることと、各種の物資不足と相俟ちまして、ジュネーヴ条約をそのまま適用することは我が国としては不可能でありました。

 日本における俘虜に関する観念と欧米のそれとが異なるというのは次のようなことであります。日本においては古来俘虜となるということを大なる恥辱と考え戦闘員は俘虜となるよりは、むしろ死を選べと教えられてきたのであります。これがためジュネーヴ条約を批准することは俘虜となることを奨励する如き誤解を生じ、上記の伝統と矛盾するおそれがあると考えられました。そしてこの理由は今次戦争の開始に当たっても解消致しておりません。ジュネーヴ条約に関する件は外務省よりの照会に対し陸軍省は該条約の遵守を声明し得ざるも俘虜待遇上これに準じ措置することに異存なき旨回答しました。外務大臣は1942年1月スイス及びアルゼンチン公使を通じ我が国はこれを準用する旨を声明したのであります。《法廷証第1、469・1、957号》この「準用」という言葉の意味は帝国政府においては自国の国内法規及び現実の事態に即応するようにジュネーヴ条約に定むるところに必要なる修正を加えて適用するという趣旨でありました。』

 1934年には、岡田内閣が国務を担当していたことを記憶しなければならない。この内閣に対しては、なんらの犯罪申し立てもない。この内閣の閣僚で、被告となっている者は、広田だけである。彼は同内閣の外務大臣であった。この批准が行なわれなかったということにこの外務大臣が関係していたというようなことは、検察側は示唆さえしていない。当時の陸軍大臣及び海軍大臣も、共同謀議の仲間にはいっていたとはされていない。当時の総理大臣岡田は、本件において、検察側証人として証言をしたのであるがこの批准拒否について彼は、ただの一言も質問されていない。

 すでに指摘したように、1934年には、日本政府も、陸軍も、海軍も、太平洋戦争を予想していなかったのである。ともあれ、彼らに、今次戦争中に生じた異常な諸現象に対して先見の明があったとすることはできない。

 今次大戦中には、意想外の大多数の軍隊が降伏した。あるときには降伏した軍隊の数が降伏を受けた現地の日本軍よりはるかに多かったこともあった。昨年、イギリス議会の秘密会議の内容がアメリカで発表されたが、その中でチャーチル氏は、マレーにおいては十万のイギリス軍が、三万四千の日本軍に降伏したと述べている。この異常な事実のために、俘虜の管理は、真に困難なものとなり、これらの俘虜に対して起こった事柄の大きな原因をなしたのである。このことについては後ほど論及するつもりである。1934年に、日本がこのことを予想していたのでありそれ故に、条約の批准を拒否していたのであると主張することは全然議論にならない。

 同条約の批准拒否を進言するに当たって、陸海軍が挙げた理由を理解するためにはわれわれは、日本の無投降主義を忘れてはならない。『西洋諸国の軍隊は、すべて、最善を尽くした後、まったく勝算の見込みがないとわかると、敵軍に降伏する。それでも、みずからは名誉の軍人と考え、国際協定に従って彼らの名前は、その存命を家族に知らせるため、本国に通告される。これは軍人として、また市民として、あるいはまたその家族に対して、恥辱にはならない。』しかし日本人はこのことに関して違った解釈を下す。日本人にとっては、『名誉は死ぬまで戦うということに結びつけられているのである。』『日本軍人は絶望的な状態におちいった場合は最後の手榴弾で自殺するか、敵に対し武器なしといえども一斉に自殺的攻撃を敢行しなければならない。決して降伏してはならないのである。たとえ負傷して意識を失っているうちに俘虜になったとしても、彼は日本では再び頭があがらないのである。彼は名誉を失ったのであり、彼のかつての生涯は終わったのである。・・・・』これについては、前線で特別な公けの訓示をする必要はなかった。『北ビルマ作戦では、俘虜の数と戦死者の数との割合が142対17、166であったほどに軍はこの規範を忠実に実行したのである。これは1対120の割合である。しかも、俘虜収容所に入れられた142名のうち、ごく少数の者を除けば、全部が、捕らわれたときには、負傷していたか、または意識を失っていた。一人または2、3人一緒に降伏したものの数は極めて少なかった。西洋諸国の軍隊においては、兵力の4分の1から3分の1の戦死にも屈しないで、降伏しないでいることはできないということは、ほとんど明白な真理といっても差し支えないほどであって、降伏者の比率は1対4である。』以上はルース・ベネディクト女史の言葉である。同女史は、1944年合衆国戦時情報局にあって日本研究の任務についた人である。

 右の言葉は日本陸海軍の本当の気持ちを示すものであり、かつ彼らが(批准に)反対した理由を説明するものである。正当となし得るものかどうかは別として、これが日本人の心情であったのであって、無批准の決定は、彼らにとって考慮の価値あるものと考えられるものをすべて慎重に考察した上で、到達を見たものなのである。是非はともあれ、日本は、これらの規則は軍事作戦の能率的遂行を阻害する恐れのあるものと考えたのである。戦争法規の真の認定は、その遵守が関係国のすべての利益であるという事実にあると考えられている。1934年に、陸海軍が将来の戦争における俘虜の虐待を企図していたということは、まったく理に合わない議論である。

 付属書Dに引用されている通牒によって、日本は、ジュネーヴ条約第95条に基づき、同条約を受諾したという検察側の主張は本官としては承認することができない。

 ジュネーヴ条約は、第91条において、同条約が、なるべく速やかに批准されることを要求している。

 第93条は、本条約ハソノ実施ノ日ヨリ一切ノ国ニシテソノ名ニオイテ本条約ガ署名セラレザリシモノノ名ニオイテナサルル加入ノタメ開カルベシと規定している。

 第94条は、どのようにして書面をもってスイス連邦政府に対して、加入を通告すべきかを規定している。

 第95条は、戦争状態ハ戦争開始前又ハ開始後交戦国ニヨリ寄託セラレタル批准及ビ通告セラレタル加入ニ対シ直チニ効力ヲ生ずるものと述べている。

 条約が今のままでは、日本は最初からの署名国の一員であるから、同国の場合には加入の問題は起こらないのである。加入は一国であって、その名において本条約が署名せられなかったその国のためにだけ開かれてあるものである。さらに、第94条の要求する形式は、この場合において遵守せられなかった。

 条約は日本によって批准せられなければならなかった。言うまでもなく日本はそれを批准しなかった。従って第95条は、日本に関する限り適用されない。日本は批准を寄託したものでもなく、また加入を通告したものでもない。もちろん、本官の見解では、加入は日本に対して全然開かれていなかったのである。

 条約は日本のために署名されたのであるから、それが同国に対して法的拘束力を有するかどうかの問題は、実際は同条約第92条をわれわれがどう解釈するかにかかっている。

 第92条は次のように言っている。すなわち、『本条約ハ少ナクトモ二箇ノ批准書ガ寄託セラレタル後六月ニシテ実施セラルベシ、爾後本条約ハ各締約国ニツキソノ批准書ノ寄託後六月ニシテ実施セラルベシ』と。

 本条項の有する批准文書の最低数は寄託せられ、その結果条約は効力を発したのである。条約がもともと日本のために署名されたという意味において、日本は締約国の一員であった。しかし日本のための批准文書の寄託がなかった。同国に対しては条約は効力を有し得ない。

 第92条を本官が読んだところでは、本条約は批准文書がなくては、日本に関する限り、どんな場合においても効力を持たなかったのである。本官は、条約の全文を読んでみて、第92条の意味として、締約国の無批准の効果は、その締約国が条約の利益を得ることを阻止することにあるだけだと解釈することはできない。しかし、第92条の要求する最低数の批准文書が寄託されている場合においては、自国の批准がなくても、その締約国を拘束するものである。(←おそらく英文に「not」が抜けているのだろう。和文も「・・・寄託されている場合においても、自国の批准がなければ、その締約国を拘束するものではない。」とするのがいいと思う。それか、「また、それ以上に進んで、第92条の要求する最低数の批准文書が寄託されている場合においては、自国の批准がなくても、その締約国を拘束するものであると解釈することもできない」とするのもいいかもしれない。もっとも翻訳班は、英文の通りに訳すほかなかったのも事実である)

 従って本官は、日本はジュネーヴ条約の署名国であり、かつまたジュネーヴ条約は、第92条の意味の範囲内においてもまた効力を有するから、日本の無批准によって日本の利益のためには効力をもたなかったけれども、日本を拘束するものであるというこの検察側の主張を是認することはできない。本官の意見では、本条約はその形のままにおいては、日本に対して有利にもまた不利にも、いずれも効力を有するに至らなかった。

 検察側は、次に本条約は戦争に関する新たな法規、あるいは規定を定めたものではなく、単にすでに認められたところの戦争法規を制定したにすぎないと主張している。本官は、この見解を認めるに困難を感ずるのである。

 第91条ないし第96条は、この主張に反するものである。第96条は、個々の締約国のために本条約を破棄する権利を留保しているのである。締約国は条約の内容に関して協定しているのであるということ、及びそれによって条約の取り扱っている事項に関して、相互的に新たな法的関係をつくっているのであると了解していたようである。

 本官の意見では、検察側が依拠している往復文書は、ジュネーヴ条約を本件に適用させるものではない。

 太平洋戦争の劈頭において、連合国は日本がジュネーヴ条約を適用するか否かについて問い合わせたのである。1941年12月18日付の法廷証第1、468号は、この件に関する米国の通牒であり、1942年1月3日付の法廷証第1、494号は、同問題に関する英国の通牒である。

 日本外務省は陸軍省の意見を求めて、次の回答を得たのである。

 (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『ジュネーヴ俘虜条約は御批准あらせられざりしものなるに鑑み右条約の遵守を声明し得ざるも俘虜待遇上これに準じて措置することには異存なき旨通告するに止むるを適当とすべし』

 『1929年のジュネーヴ俘虜条約は日本に対し何ら拘束力を有せざるも同条約の原則を準用し得る範囲において抑留非戦闘員にも準用することに異存なしただし本人の自由意志に反し労役に服せしめざるを条件とす』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)《法廷証第1、958号》

 これらの討議の後、1942年1月29日、英国に対して次の回答がなされたのである。

 (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『日本帝国政府は俘虜の待遇に関する1929年の国際条約を批准しおらず従って何ら同条約の拘束を受けざる次第なるも日本の権内にある「イギリス」人、「カナダ」人、「オーストラリヤ」人、及び「ニュージーランド」人たる俘虜に対しては同条約の規定を「準用(←「準用」に傍点あり)」すべし』

 『俘虜の被服及び食糧の補給に関しては相互条約の下に俘虜の国民的人種的風習を考慮すべし』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)《法廷証第1、956号》

 1942年2月4日、米国に対しても同様の回答がなされた。その回答は次の通りである。

 (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『第一、日本は厳格に署名国としてジュネーヴ赤十字会議の条約を遵守しおること。第二、俘虜の取り扱いに関しては当該会議の取り定めに義務を帯びざるとはいえども、日本はその支配下に有る米国俘虜に対しては、該会議の取り定め条項を「必要の変更を加えて適用すること(←「必要の変更を加えて適用すること」に傍点あり)」』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

 外務省と陸軍省との間の討議を担任した松本証人は、法廷に対して「準用(←「準用」に傍点あり)」という表現は何を意味していたかを説明した。俘虜待遇に関する日本の意図は、ジュネーヴ条約の規定を事情の許す限り適用するにあった。証人は二種の難問題について述べていたのである。

  1、ジュネーヴ条約とある点に関して矛盾する国内法、治安維持法、陸海軍刑法及び軍法会議法。

  2、東亜地域が広大であるため、日本の直面するだろう困無(←正誤表によると「困無」は誤りで「困難」が正しい)

 検察側はヘーグ条約は、日本によって批准されたと正しく主張している。しかし同条約はその第2条において『規則・・・・の規定は交戦国がことごとく本条約の当事者なるときに限り締約国間にのみこれを適用す』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)という規定が含まれている。

 イタリー、ブルガリアのいずれも1907年の条約を批准していない。

 従って本官の意見では、1907年のヘーグ条約の規定も、1929年のジュネーヴ条約のそれも、本件に適用するものでない。

 もちろんこれは俘虜の運命が絶対的に日本人の思うがままに置かれていたと意味するものではない。本官がここにおいて見出すすべてのことは、これらの条約は、条約として本件に適用しないということである。

 本官はこの問題についてさらに述べる前に、起こった事件に対して大きな影響を及ぼした二個の最も適切な要素に注意を払ってみたい。その一つは降伏に関する日本と西洋との間における見方の根本的相違、すなわち降伏の「恥辱」あるいは「名誉」に関してである。他の一つは、日本が太平洋戦争中直面せねばならなかった投降者の圧倒的な数であった。後者はほとんど原子爆弾のように予期されなかったものである。もし原子爆弾が『軍事的目的の追及の合法的手段に関して、さらに根本的な討究を強要する』に至ったならば、これらの圧倒的な投降者の数も、また同様投降軍に宿舎を与えるべき勝者の義務の程度に関して、さらに根本的な討究を強要することになるのである。十万の軍隊が三万四千の軍隊に降伏することは、小数の戦勝軍にとってきわめて重大な問題を生ずるのである。かような突然の降伏の可能性を含むかような戦争技術を有する総力戦の今日、現存する条約の多くの規定は、根本的な修正を要するであろう。戦争法規のどのようなものも、戦争目的の達成に対して確かな永久的な障害と認められた場合、共通の利益の是認及び規定の存続の理由がなくなり、その規定は遵守されなかったことをわれわれは忘れてはならない。

 戦争を防止し得ると見られる一層完全な世界的団体及び結合が実現するまでは、もし戦争法規が戦争の目的確保に有効などのような手段も排除し得ないならば、これら法規はまたその目的達成に対して、大きな障害となり得るものに関しても、同様規定し得ないものである。もし原子爆弾を有する国が、その製造技術の漏洩を阻止できることを期待できるならば、彼らにこの有利な立場を放棄するのを期待することは、他の軍事的防御の計画及び優秀な研究、あるいは行政機構から得た軍事的優位を発表することを期待すると同様に、きわめて無理なことであると言わなければならぬ。原子爆弾の恐ろしい威力は、その使用の結果もたらされる一般市民の生命財産の無差別的破壊にもかかわらず、単なるセンチメンタルな人道的異議の下に簡単に片づけられない有利な点を持つものであると聞かされている。この爆弾の使用に伴って生ずる民衆の損害及び苦難は、これまた敵の志気を弱めることにおいて、軍事的に有利であるとわれわれは言い聞かされている。もしそうであるならば、われわれは圧倒的多人数の降伏によって生ずる事態、殊に一方の方針が最後まで戦うにあり、他方のそれが絶望的な不利益を避けるにあるときに生ずるものについても、考えなければならない。

 本官はすでに降伏の際の日本人の措置について述べた。それは、共同謀議者団の措置ではない。それは、日本人の国民生活と終始一貫したものである。この伝統的措置は、日本の軍人の心境を形づくるに大きな影響を与え、われわれが今関係している多くの事件の原因となるものであった。もちろんこれは彼らの非行を少しも正当ならしめるものではなく、また確かにかような非行を裁く裁判において、戦勝国はそれによって彼らの行動を正当ならしめようとすることを許していないと本官は信ずる。しかしわれわれはここで、これらの行動が犯罪性を有するものであるか否かを考慮しているのではない。われわれは単にここにおける被告のいずれによっても『命令、授権または許可』がなされたという証拠がないのに、すべての戦闘地域においてかような非行が、一般的に行なわれていただけのことによって、かような命令、授権または許可があったという推論に導き得るかということだけを考慮しているのである。

 右に述べたような心構えを有する日本人が、俘虜になった西洋人は降伏というその事実だけによって、恥辱を受けたと見なすのは何も不思議なことではない。『日本人の眼から見れば、彼らは不名誉を蒙り、米国人がそれを認識しなかったことが、彼らによってにがにがしかった。米国人俘虜が従わねばならなかった多くの命令はまた彼らの日本人監視員が彼らの上官に従うことを要求されていたものであった。強行軍とか、すし詰めになっての輸送は、彼らにとっては通例なことであった。』・・・・『権限に対し公然と異議を唱えることは、たといそれが単に「口答え」であろうとも、苛酷に罰せられた。一般人民の生活にでさえ人が口答えをすることには非常に厳格であり、彼ら自身の軍の習慣では重罰に処せられた。このことと、教養上の習癖の結果として生じた行為とを区別することによって、俘虜収容所内で起こった虐待行為並びに放縦な残虐性を赦すことにはならない。』

 『・・・・降伏の恥辱は日本人の意識に深く焼きつけられていた。彼らはわれわれの戦争の慣習に異なった行動を、当然のものとして認めていた。そしてわれわれのそれは同様に彼らにとっては異なったものであった。米国人俘虜は彼らが生きていることを彼らの家族に知らせるため、彼らの氏名を自分の政府に通報するように要請したとき、日本人はまったく驚きかつ非難した。少なくとも下士官兵は、バタアンにおける米国人の降伏ということは予想外であったし、彼らは日本式に戦い抜くであろうと想定していた。また米国人は俘虜になることをなんら不名誉と考えていないという事実を認めることができなかったのである。』

 日本人の考え方の一つであり、特に日本の陸軍に関するものは、彼らの戦闘部隊の「消耗性」に関することであった。『米国人はすべての救援、窮乏に陥っている者の援助に対してスリルを感じたのである。傷ついた者を救うことになればその勇敢な行為はそれだけ英雄的行為になるのである。日本式の武勇はかような救助を否定する。わがB29または戦闘機に備えつけられていた搭乗員の安全装置に対してさえも、彼らは卑怯だと叫んだのである。・・・・日本式の考え方では生死の危険を受諾することだけに美徳があったのである。彼らにとって用心することは恥ずべきことであった。この態度は負傷者及びマラリヤ患者の場合において示されたのである。このような兵隊は一種の損傷品であり、医療設備は戦闘部隊の効果をあげるためにも、まったく不充分であった。時が進むにつれて種々な補給の困難は、この医療手当の不足を悪化させたが、これは全貌ではない。それには、日本人の唯物主義に対する軽蔑が一つの貢献をなした。日本兵は死そのものが精神の勝利であり、傷病者に対するわれわれのような手当は、爆撃機の安全装置と同様に、英雄の行為に対する妨害であると教えられた。また、日本人は民間生活においても、米国人ほど医師に依存することに慣れていない。米国における不具者に対する仁愛の念は他の厚生的措置に対する関心より特に高く、これは平時における欧州の一部の国からの訪問者によっても、しばしば批評されるのである。この観念は日本人から見れば確かに異なっている。いずれにしても、日本の陸軍は戦争中砲火の下で負傷者を後送し、応急手当をするのに訓練された救助隊を有していなかった。第一線、後方及び遠く離れた療養のための病院の医務組織を有していなかった。医療品の補給に対する用意は悲惨なものであった・・・・』

 『もし日本人の不具者に対するこの態度が彼らの自国民に対する待遇において根本的なものであったならば、それは彼らの米国人俘虜に対する待遇においても同様に重要であった。われわれの基準から見れば、日本人は俘虜に対すると同様に、自国兵に対しても残虐行為の罪を犯したのである。元フィリッピンにおける軍医部長であったハロルド・W・グラットリー大佐は、台湾で三年間俘虜として抑留された後、米国人俘虜は日本兵よりよりよい医療手当を受けたと述べた・・・・』

 これは人類学者が日本人の見た軍隊生活について書いていることである。これは彼らの俘虜に対する非人道的行為を正当ならしめるものではなく、確かに連合国が彼らの残忍な行動を赦免させるものとして認めたものではない。しかしこれは政府の政策に帰することなく、彼らの行動を説明するものである。日本兵の心構えがどのようなものであろうと、また彼らの俘虜に対する行動が彼らの眼から見てどんなに正当であったにしても、彼らは彼らの犯した残忍な行為に対して応えなければならないのである。かつまた本官がすでに指摘したように、その大部分のものはその命をもってすでに応えたのである。われわれは今まったく異なった部類の人間に関するものを取り扱っている。われわれが彼らをこれらの行為に関して責任あるものと見なす前に、われわれはここに提出された証拠によって充分確証せられた、かような行為と彼らとの関係を見出さなければならない。

 この目的のために、われわれは次の問題を念頭におかなければならない。

  1、証拠がどの程度まで被告たちと、右行為との関係を立証しているか。

  2、(a)問題の行為が国家の行為と言い得るかどうか。また

    (b)それが個人の資格での被告の誰かの行為と見なし得るかどうか。

  3、もし国家の行為であるならば、被告がそれに関して刑事的責任を有するものと見なし得るかどうか。

 本裁判所を制定する裁判所条例の第6条は次のように規定している。

 『何時たるとを問わず被告人が保有せる公務上の地位、もしくは被告人が自己の政府または上司の命令に従い行動せる事実は何れもそれ自体当該被告人をしてその門擬せられたる犯罪に対する責任を免れしむるに足らざるものとす、ただしかかる事情は本裁判所において正義の要求上必要ありと認むる場合においては刑の軽減のため考慮することを得』

 裁判所条例が規定しているすべては、被告の公務上の地位そのものによって被告を犯罪に対する責任から免れさせるに充分でないということである。

 裁判所条例は、被告はその公務上の地位だけによって犯罪的責任があると見なさなければならないとは言っていない。また確かにそれが法律ではない。犯罪的責任はまず彼に認識させねばならぬ。そしてもし被告が弁護のためだけに彼の公務上の地位を申し立てるならば、裁判所条例はかような申し立てを排除する趣旨である。

 ニュールンベルグ裁判所条例は、その第7条及び第8条において、これに相当する規定を設けた。その条項は次の通りである。

 『第7条、国家の元首または政府各省の責任ある官吏のいずれとを問わず、被告人の公務上の地位は、責任を免れしむるもの、または刑を軽減するものとして考慮されぬ。

  第8条、被告人が自己の政府または上司の命令に従い行動せる事実は、当該被告人をして責任を免れしむるにあらず、ただし、本裁判所において正義の要求上必要ありと認むる場合においては、刑の軽減のため考慮することを得。』

 われわれの現在の目的のためいささかの関連もないが、上司の命令であるという申し立てに関連のあるものとして次の二個の規定に注意を払ってみよう。

 英国軍法提要第443条《陸戦》は次のように規定している。

 『しかし、軍隊に属するものにして、自国政府または指揮官の命令に基づいて、一般に認められた陸戦法規に対する違反を犯したものは、戦争犯罪人にあらず、従って敵側に処罰され得るものにあらざることを注意すること肝要なり。』

 米国の規定も1944年までは同様であった。その陸戦法規第366条は次の通りである。

 『軍隊に属する個人は、これらの違反行為が自国政府または指揮官の命令または許可の下に犯されたとき、処罰を受けず。指揮官にしてかかる行為を犯すことを命令し、またはその権限下にある部隊によってそれが犯されたる場合においては、右指揮官は、彼を捕えた交戦国により処罰されることを得。』

 以上、本官は、検察側がどのように本件の被告に対して、目下考慮中の起訴事実によって、犯罪的責任を決定しようとしているかを述べた。

 現在の目的のため、被告を次の四種類に区別することが便利であろう。

  1、政府の幹部として俘虜に関する任務を与えられていた被告。

  2、犯罪を実際に犯した者の属していた軍隊を指揮していた被告。

  3、政府のその他の幹部。

  4、政府、軍隊のいずれにおいても地位を有していなかった被告。

 ここで注意し得ることは、検察側の証拠によれば、俘虜に関して直接責任のある当該官庁は、(1)陸軍省(2)外務省及び(3)大本営であった。

 陸軍省における責任のある幹部の主なものは次のものであった。

  (1)陸軍大臣。

  (2)陸軍次官。

  (3)軍務局長。

  (4)軍務課長及び

  (5)俘虜情報局長官。

 外務省における責任のある幹部は次のものであった。

  (1)外務大臣及び

  (2)外務次官。

 大本営においては、責任は次のものにあった。

  (1)陸軍大臣。

  (2)参謀総長。

  (3)海軍大臣及び

  (4)軍令部総長。

 この範疇において責任を有する者は、被告木村、小磯、武藤、岡、佐藤、重光、島田、東郷及び東条になるのである。

 木村は1941年4月10日から1944年2月まで陸軍次官であった。

 武藤は1939年10月から1942年4月まで軍務局長であった。

 岡は1940年10月15日から1944年7月18日まで軍務局長であった。

 佐藤は1941年2月から1942年4月まで軍務課長、1942年4月から1944年12月まで軍務局長であった。

 重光は1943年4月から1945年4月6日まで外務大臣であった。

 島田は1941年10月から1044年7月まで海軍大臣、1944年7月から同年8月まで軍令部総長であった。

 東郷は1941年10月から1942年9月まで外務大臣であった。

 東条は1940年7月から1944年7月まで陸軍大臣の地位を占めていた。

 小磯は1944年7月22日総理大臣となり、彼の内閣は1945年4月6日まで続いたのである。

 被告土肥原、橋本、畑、板垣、木村、松井、武藤、佐藤及び梅津は第二の範疇に属するのである。

 第三の範疇だけに属する被告は、荒木、平沼、広田、星野、賀屋、木戸、南、大島、白鳥及び鈴木である。

 右に述べた第一の範疇の被告の占めていた官職に含まれている責任に関しては、検察側の証拠は、証人田中隆吉の陳述にあるのである。

 同証人は陸軍省兵務局長であり、1940年から1945年の間存在していた陸軍省の各部局の機構及び責任に関して熟知していたのである。証人の証言は次のように要約することができる。

  1、陸軍省の最も重要な部局は軍務局である。その理由は、軍務局は陸軍予算、陸軍の軍隊の編成、装備、内外の施策、宣伝、調査の最も重要な業務を掌握していたからである。《法廷速記録第14、285−86頁》

  2、陸軍に関する国際協定、規定は、軍務局軍務課において事務を取り扱っていた。《法廷記録第14、286頁》

  3、俘虜収容所の位置及び建設に関する責任は陸軍大臣にあるが、収容所の位置並びに建設に関する事務は軍務局軍事課の掌握するところであった。《法廷速記録第14、286頁》

  4、(a)俘虜の待遇に関する抗議に関しては、その書類は外務省から陸軍省、内務省及び海軍省に送られた。

    (b)かような外交文書はまず陸軍省の副官部に送られ、そこから軍務課に送られた。俘虜に関するものは軍務課から俘虜情報局に送られた。《法廷速記録第14、287頁》

    (c)陸軍省の外部に対する回答は、軍務局軍務課においてつくられた。《法廷速記録第14、287頁》

    (d)回答案は次に陸軍省の副官部を経て外務省に送られることになっていた。これらの回答案は大臣及び次官の決裁を経た後外務省に回ったのである。

  5、(a)陸軍省の局長会議は一週間に二回行なわれた。

    (b)(1)1942年の下旬バターンの戦闘が済んだ直後、会談が行なわれ、そこで俘虜取り扱いの問題が取り上げられた。

      (2)この会談で南方の各地の戦闘地帯で捕えられた多数の俘虜をいかに取り扱うべきかという問題について決定を見た。

      (3)この会談に出席したものは、東条陸相、木村陸軍次官、富永人事局長、佐藤軍務局長、証人自身及び菅兵器局長、吉住整備局長、栗橋経理局長、三木医務局長、大山法務局長、中村憲兵司令官、本田機甲本部長、松村報道部長、このほかに大臣、次官の秘書官。以上である。

      (4)この会談で植村俘虜情報局長官の申出によって東条陸軍大臣から裁決が下された。

      (5)国内の労働能率の高揚を目的とした当時の日本の国内情勢に鑑み、また当時流布されていた『働かざれば食うべからず』という標語に照らして、この会合で決定された第一の点は、俘虜の全部を強制労働に服させることであった。

        この決定に対して、植村俘虜情報局長官は准士官以上を強制労働に服させることはジュネーヴ条約に違反していると言った。しかしながら植村がかような見解を表明したにもかかわらず、東条陸相は、日本政府の建前はジュネーヴ条約の精神を尊重するにあるが、日本は同条約を批准していないという事実に鑑み、これらの将校を労働用に利用するという裁決を与えた。

        南方各地ばかりでなく、日本内地、台湾、朝鮮、中国、満州等に俘虜収容所を設け、東亜各種の民族に日本に対する信頼感を起こさせる一手段としてこれらの地域に俘虜を送ることが決定された。《英文記録第14、290−01頁》

  6、大本営は勅令によって設立された。《法廷証第80号》それは陸軍、海軍両部に分かれていた。陸軍部は参謀本部、海軍部は軍令部によって構成された。その上陸軍大臣及び海軍大臣は正規の構成員として大本営に参加した。このほか陸軍次官、陸軍軍務局長、及び他の諸局長が必要に応じ陸軍大臣の随員として出席した。大本営内の最も重要な地位にある者は参謀総長及び軍令部長であった。その他の重要な職員は参謀次長、陸軍大臣、参謀本部第一部長の順になっていた。証人が第一部長というのは作戦部長の意味であった。《英文記録14、293頁》

  7、(a)日本においては俘虜の取り扱い方は他国とまったく異なっており、俘虜情報局及び俘虜に関する事項の管理は陸軍大臣自身の監督のもとにあった。従って俘虜に関する事項の実際的取り扱いは陸軍大臣自身の責任であった。そして外務省は通信を取り扱う単なる郵便局の役を勤めたにすぎない。《英文記録第14、365−66頁》

    (b)証人の記憶によれば、俘虜の管理の仕事は俘虜収容所をどこに設けるか、俘虜をいかに取り扱うか、俘虜の健康をいかにして増進するか、病気の俘虜をどうするか、赤十字の通信給与物品をいかに分配するか、また中立国を通じての俘虜の手紙の交換に関する問題というような職務を含んでいた。

    (c)俘虜に関する政策事項は、日本では陸軍省なかんずく軍務局によって実施された。日本国外については参謀総長が陸軍大臣と協議の後これを取り扱った。参謀本部では第二部がそれを取り扱った。

    (d)俘虜に支給すべき食糧の徴発に関する事項は俘虜収容所を監督していた各司令官がこれを取り扱った。言い換えれば、陸軍大臣の命令指示に基づいて各現地司令官が実行した。

    (e)(1)捕獲された俘虜に関する現地司令官の必要物件に関する事項は、各地の俘虜収容所長がこれを取り扱い、直接陸軍省の俘虜情報局長に報告し、その手もとにおいて処理せられた。《英文記録第14、369》

      (2)俘虜に関する問題は作戦行動にはまったく関係なく、政策事項であったから、俘虜情報局を通じて直接陸軍省と折衝することもあり得、またそうしてもなんら違法ではなかった。《英文記録第14、369》

      (3)このように現地から陸軍省に直接報告するということは早く処理する必要のある事項に関しても便法であった。規則に従えば、現地から中央当局に対する報告は参謀本部を通じてなされるべきであった。厳密に規則を適用するとすれば、直接報告はこれらの規則に違反したということになる。しかし俘虜問題は純然たる政策事項であるから、直接報告をなし得るということに暗黙の了解があった。そこでこの件に関し参謀本部からはなんら抗議がなされなかった。

 この点についてさらに次のような証拠が挙げられている。

  1、法廷証、第68号、帝国憲法。

  2、法廷証、第73号、各省官制通則。

  3、法廷証、第74号、陸軍省官制。

  4、法廷証、第75号、海軍省官制。

  5、法廷証、第3、350号、憲兵令。

  6、法廷証、第78号、参謀本部条例。

  7、法廷証、第79号、軍令部令。

  8、法廷証、第2、983号、艦隊令抜粋。

  9、法廷証、第3、462号、戦時高等司令部勤務令抜粋。

  10、法廷証、第1、965号、昭和17年3月31日付の俘虜に関する(←正誤表によると「俘虜に関する」は誤りで「俘虜取り扱いに関する」が正しい)規定。

                    昭和16年12月23日付の俘虜収容所に関する勅令。

  11、東条の証言。

  12、島田の証言。

 本官は右にあげた証拠を詳細にわたって調べる必要はない。本官の当面の目的のためには、田中隆吉の証言が国家機構の運営についてかなり正確な説明を与えている。

 さてここで本官は俘虜に対する犯罪の諸項目を取り上げてみよう。行なわれたと称される数種の犯罪として次のようなものがある。

  1、1907年のヘーグ条約第4条及び1929年のジュネーヴ条約第2条に違反した俘虜の非人道的取り扱い。

   (a)憲兵隊による俘虜の取り扱い。

   (b)俘虜は飢餓に瀕せしめられ体刑に処せられ、またその病人は顧みられなかった。

  2、1929年のジュネーヴの俘虜の待遇に関する条約第2条に違反して侮辱を加え、公衆ノ好奇心ニ曝シタこと。

  3、(a)逃亡しない旨の誓約または約束をさせたこと。

    (b)逃亡の廉によって俘虜を1907年のヘーグ条約及び1929年のジュネーヴ条約の規定を越えて処罰したこと。

  4、俘虜の輸送。

    (a)海上。

    (b)バターン死の行進。

  5、(a)作戦に関係ある仕事に対する俘虜の使用。

    (b)1907年のヘーグ陸戦法規第6条及び1929年のジュネーヴ条約第29条に違反した俘虜将校の強制労役。

  6、俘虜を不当にも間諜行為の廉で処罰したこと。

  7、連合国飛行士の処刑。

    (a)「事後法(←「事後法」に小さい丸で傍点あり)」の設定。

    (b)裁判ヲ受ケタル上の処刑。

    (c)裁判ヲ受クルコトナシの処刑。

 諸作戦地において俘虜に与えられた待遇が非人道的であったということは否定できない。これらの残虐行為を実際に行なった者はすでに他の場所で処分されたのであり、また彼らの事件が厳正な裁判によって適切に処断されなかったなどと想像すべき理由はまったくない。これらの実際の犯行者は本裁判の対象ではない。本裁判の対象である被告に対する起訴事項は、

  1、彼らがこれらの残虐行為ノ遂行ヲ命令シ、授権シ、許可セルこと。

  2、彼ラハソレゾレノ官庁ニヨリ、戦争ノ法規ノ遵守ヲ確保スル責任ヲ有スルトコロ、故意ニ又不注意ニソノ遵守ヲ確保シ、ソノ違背ヲ防止スル適当ナル手段ヲ執ルベキ法律上ノ義務ヲ無視シモッテ戦争法規ニ違反セルコト。

 もし右の主張の第1項が立証されたとするならば、行なわれた残虐行為は彼ら自身の行為だということになり、彼らはこれらの行為中国際法上犯罪行為であるものに対し、刑事上の責任があるということになるのであろう。

 第2項に関する限り、本裁判所を構成する現条例によれば、単なる故意かつ不注意な義務怠慢だけでは現被告に対し刑事上の責任を課するには充分でないという理由はすでに述べておいた。単なる不作為ということそれ自体はどんなに故意かつ不注意なものであろうとも、本裁判所において裁判に付せられるべき行為として裁判所条例中に挙げられていない。究極の立証事実は、問題の行為を、被告自身の行為たらしめるような、被告から発せられた「命令、授権、または許可」なのであるから、不作為ということは、単に一つの証拠事実を提供するものであるにすぎないのである。

 本裁判の対象たる被告に対し、目下考慮せられつつある起訴事実に対する刑事上の責任を課するために、検察側は次の諸点を強調している。

  1、俘虜は政府の権限内にある。

   (a)従っていかなる政府もまたその閣員も責任を、ある特定の部局に転嫁することによって回避することはできない。

   (b)責任は政府の個々の閣員すべてが負うべきである。

  2、(a)残虐行為は世にあまねく知れ渡っていたのであるから、これによって各被告は残虐行為を知っていたに相違ない。

    (b)各暴虐行為の間に一般的相似性のあったことは、全般的な計画または型が存在したことを立証し、また右が公認の恐怖政策であったことを示すものである。

 ヘーグ条約第4条は『俘虜は敵国の政府の権内に属しこれを捕えたる個人又は部隊の権内に属することなし。俘虜は人道をもって取り扱わるべし・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 ジュネーヴ条約第2条もまたやや異なった辞句をもってではあるが、同じことを言っている。本条項によれば『俘虜は国の権内に属しこれを捕えたる個人又は部隊の権内に属することなし。俘虜は常に博愛の心をもって取り扱わるべくかつ暴行、侮辱及び公衆の好奇心に対して特に保護せらるべし。俘虜に対する報復手段は禁止す』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 検察側によればこの『敵国』または『敵国ノ政府』は政府の各閣員を意味し、またこれを指すものであり、その閣員は何人といえども、ある特定の部局に責任を転嫁しようと試みることによってこれを回避することはできないということである。検察側によれば最高責任は政府の閣員の個人に存するというのである。本官はこれらの規定をこのように解釈することは容認することができないと思う。

 本官の意見では、政府の閣員は政府各機関が正当に職分をはたしているものとしてこれに信頼する権利があると思う。一国の政府はその国の憲法に基づいてその各閣員の間に各種の職分を分配することによって活動する。これらの職分の妥当な遂行の責任は、その職分の遂行を委任された特定の閣員の負うところとなる。他の閣員はこれらの分担された責任を引き受けた特定の機関が正当に職分を遂行しているものとして、これに信頼する権利がある。自分自身の責任の範囲内においてさえ、各閣員はその職分の遂行のために憲法によって規定された機構が正当に運営されているものと信頼する権利を有するのである。

 検察側によれば、政府の各閣員はかような事項を内閣にはかり、それによって自己が満足を得られない場合は辞職する義務を負うているというのである。

 本官の意見では、少なくともわれわれ当面の目的に関する限り、ある特定の閣員のなんらかの不作為という理由をもってわれわれが彼らに刑事上の責任を課するように要求された場合に、本官は検察側が定めた行動標準を遵守することを主張しはしない。かような標準は国際団体の黄金時代の理想となるかもしれない。しかし現在では世界中のいずれの政府もこのような働き方をするものではなく、本官は本件の被告に対していかなる格別の行動標準をも期待するものではない。またわれわれは今ある閣員の戦時の行動を審理しているということを忘れてはならない。いかなる平時の行動の規範も戦争遂行中に発展を見た事態の欲求に応ずるには程度の差はあっても、不適切であり勝ちである。すべてかような戦争は新しい社会的、経済的交戦上の条件を産み出すものである。またここでわれわれは現代国際社会の列強が特にかような戦時中において宣伝に演じさせる役割については、これを無視しなければならない。

 日本政府が太平洋戦争中に自国民が犯した戦争犯罪について知識を入手した三つの主要経路として検察側が主張するものは次の通りである。すなわち

  1、交戦国を代表する利益保護国の抗議。

  2、太平洋戦争中アメリカ及びイギリスからなされた放送の録音記録。

  3、戦争犯罪の事実の証拠、または戦争犯罪遂行の指示を構成するような日本の公文書。

である。

 多くの抗議は陸軍所管の俘虜に関するものであった。これらの抗議の写しは訳文添付の上、同問題に関係のある陸軍省各課に送付され、また時には、抗議の性質いかんによって内務、司法等の諸省にも送付された。

 陸軍省では受理した抗議文はすべて大臣、次官および局長の会議で審議された。この後で抗議文は俘虜情報局によって抗議の原因である事実が起こった地域の軍司令官と同地域の俘虜収容所長に送付された。前節の最後に述べられた機関から情報を入手した上で軍務局軍務課が回答を作成しこれを外務省に回付した。

 提出された各種の証拠文書によれば、利益保護国から発せられた抗議文その他の文書は陸軍省内に相当広く回覧されるのが慣例であったようである。さらにまた外務省はしばしば抗議文の写しを陸軍省と同じく俘虜情報局にも送っていた。《法廷記録第27、158頁、法廷証第473号、法廷証第3、529・3367A号》

 検察側は単に機構の問題として考えるならば、右の制度については、少しも瑕疵を認め得ないことを承認した。しかし検察側は日本政府が国際法上の義務に対し『口頭禅(英文ではlip service)』を唱えるだけでは不充分であると主張した。日本政府は、日本軍が常習的に行動した野蛮な態度をすでに熟知していたことを想起することを裁判所は促されたのである。

 抗議の性質自体並びに抗議に伴った裏付けの証拠及び現地司令官が俘虜情報局に対してなした回答によって、かような情報に関する限り、戦争犯罪が現に行なわれており、また過去にも行なわれたことは、陸軍省、外務省にとって完全に明らかであった。しかもなおこれを防止する有効な措置がなんらとられなかったと検察側は主張したのである。従ってかような犯罪は政府の政策事項または日本政府として無関心な事項として存続を許されていたと検察側は申し立てたのである。

 検察側が戦争犯罪の事実の証拠または戦争犯罪遂行の指令を構成するものとなした日本側公文書は、本審理における俘虜の非人道的待遇とは関係のない違う事柄に関するものである。そのあるものは禁止労務に対する俘虜の使用に関するものであり、他のものは検察側が俘虜に対する侮辱と呼んでいることに関するものである。本官はかような犯罪は別に列挙しておいた。この部分の証拠は、右に関連して考察することにする。第三のものは戦時中に発せられた検閲の指令に関するものである。かような指令は『残酷な取り扱いの印象を与える報道、たとえば俘虜の処罰または衣服をまとわないで労役に服せしめるというような報告』を禁止した。本官は、かような措置から、当局はこのような俘虜取り扱いを知っていたという推論が必然的に導き出されることはないと思う。もちろん、関係当局は、敵側からの抗議文や放送があるという意味においてこれを承知していたのであって、それは予防措置をとるに充分な理由であった。このような検閲上の措置は敵側交戦国にも共通なものであった。交戦国が悪宣伝を恐れるのは異例でなかった。

 英米側放送の録音記録に関しては、本官がすでに考察を加えた宣伝の過去の歴史に再び言及しなければならない。第一次世界大戦後敵を刺激し、味方の非戦闘員を興奮させ、中立国を嫌悪と恐怖の念で満たすため、知恵を絞って一種の卑劣な競争が行なわれたことは周知の事実である。一般国民は最も奇異な作り話さえもうのみにさせられた。本官は被告たちが問題の放送や抗議文を額面通りに受け入れなくてよい権利があったと信ずるのである。彼らは疑いもなく調査をなす義務があったのであり、事実調査をしたのである。被告には当然自国側の責任ある将校の報告に頼る権利があった。どの政府にしても、その政府がもし味方の責任ある将校からの報告を受け入れるとしても、その義務に対し単に「口頭禅」を唱えることにはならないと、本官は信ずる。特に戦時中はそうである。どの政府もそうしたのである。

 本官には、いずれの政府の陸軍大臣または外務大臣にしても、自身犯罪の行なわれたといわれる場所に赴き、みずから抗議に根拠があるかどうかを確かめるべきものと期待されているとは考えられない。われわれは戦場が広範囲にわたることを忘れてはならない。陸軍大臣または外務大臣と太平洋戦線の諸地域所在の俘虜収容所との関係は、警察部長と一つの都市の内にある諸警察署との関係ほどのものでさえなかったのである。

 抗議の性質または添付された裏づけの証拠と称せられるものに、本官はなんら特に信頼し得るものを認めない。抗議は中立国を通じて交付されたものであるが、これらの中立国は単に抗議提出の交戦国から受領したものを伝達したにすぎない。

 日本軍の常習的行動に関する証拠はなんら提出されていない。中国における虐待事件に関する報告が当時どうであったか、また現在どうであるかを、本官はすでに検討した。

 検察側はすべての収容所において、この点について行なわれた犯罪の型の類似性を大いに強調した。本官は別の問題との関連において、このいわゆる型の類似性を検討した。本官の意見によれば、これらすべての非人道的取り扱いが政府の政策または指令の結果であると断ずることを正当とするような型の類似性は、立証されなかったのである。

 陸軍省から出た明確な指令及び訓令は、かような取り扱いを禁止していることが証拠として提出されている。残虐行為の報告と比較して、いくら不充分であるにしろ、俘虜虐待のかどで守衛及び将校が処罰された事件も証拠として提出されている。明らかに取り扱いが不当でなかった収容所の例もあるのである。中立国の視察報告で、少なくとも戦争中の相当期間は、少なくとも若干の収容所では、俘虜を好遇した場合を立証するものがある。これらの事柄の一つ一つは、すべて、現在証拠中に暴露された残虐行為を使嗾するような中央の政策、指令または許可があったとする仮定を覆すに足りるものである。

 本官はすでに、本件においていかなる目的のために、いかなる種類の不作為が立証されなければならないかを指摘した。本官の意見によれば、俘虜に対して行なわれた非人道的取り扱いが、被告の中のだれかによって、命令、授権、または許可されたと推定する権利を裁判所に与えるような被告の不作為は、なんら本件において立証されなかった。ここで問題になっている戦争はあるいは侵略的であったかもしれない。あるいは多くの残虐行為があったかもしれない。しかし被告に対して公平であるためには、被告が残忍な方法をもってこの戦争を行なおうと企てたということは、本裁判においてまったく立証されていない一事であると言わなければならない。

 ジュネーヴ俘虜条約第2条に反して、侮辱し、公衆の好奇心にさらしたことは、法廷証第1969号、第1973号及び第1975号によって立証されている。

 法廷証第1969号は、1942年10月の日付の、神奈川県知事から厚生、内務両大臣に宛てた報告であって、同報告は、東部軍司令官及び陸軍大臣に転送された。同報告は次のように述べている。すなわち『俘虜の就労に関し一般に知らしめたるものにあらざるも、就労場所、収容所間の往復途中等において俘虜の就労をそれとなく察知したる一般人は眼前に英米人の俘虜の就労の姿を見、御稜威の有り難きことを痛感せるものの如く、従来動もすれば英米依存の風比較的強き者多き状態にありたる本県民に及ぼせる影響相当甚大なるものあることを認めらる。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 法廷証第1973号は、1942年3月4日、朝鮮軍参謀長が当時陸軍次官であった木村被告に出した通信であって、その中で彼は次のように述べている。すなわち、『半島人の英米崇拝観念を一掃して必勝の信念を確立せしむるためすこぶる有効にして総督府及び軍ともに熱望しあるにつき、英米俘虜各一千名を朝鮮に収容せられたく、特に配慮を乞う。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 1942年3月23日、被告板垣が朝鮮軍司令官として、被告東条に、俘虜収容に関する計画を送った。同計画中で彼はその目的を次のように述べている。すなわち、

 『英米人俘虜を鮮内に収容し、朝鮮人に対し帝国の実力を現実に認識せしむるとともに、依然朝鮮人の大部の内心抱懐せる欧米崇拝観念を払拭するための思想宣伝工作の資に供せんとするにあり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《法廷証第1973号、第3頁》

 検察側は最終論告において、法廷証第1975号を次のように叙述している。すなわち、『1942年10月13日朝鮮軍参謀長は朝鮮の釜山、京城及び仁川の観衆が群がって居る道路における俘虜998名の行進に関する報告を被告人木村に送りました。彼は「一般に米英崇拝思想の一掃と時局認識の透徹を期する上において多大の効果を収めたるが如し」と述べました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 しかし法廷証第1975号は、かような俘虜の行進については何事をも述べていない。この報告は『英軍俘虜の収容に伴う一般民衆の反響』を示し、次のように述べている。すなわち『馬来半島における俘虜998名の到着は、一般民衆に及ぼせる影響極めて大にして、俘虜輸送の道中における釜山、平壌(←正誤表によると「平壌」は誤りで「京城」が正しい)、仁川地方の観衆人員も鮮人約12万、内地人約5万7千名の多数を算したり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)これは確かに『公衆の好奇心にさらすために俘虜を行進させること』ではなかった。もちろん検察側は、すべての他の国においては俘虜は公衆の注視から保護された道路を通って輸送されるとは言えないであろう。本官はジュネーヴ条約第2条がかような輸送を禁じているとは信じていない。言うまでもなく、俘虜となったこれらの兵士は公道を歩くことに慣れており、また同じ程度に公衆の注視にも慣れている。彼らが俘虜になっていた事実が、公衆の眼から見れば、彼らの名誉を汚したとしても、彼らは公衆の注視から保護される権利をもっていたわけではなかった。彼らに対する公衆の妨害、または侮辱に関する申立はないのである。

 本官は、まずジュネーヴ条約の第2条は本件に適用されないことを指摘しなければならないのである。なぜこう述べるかは、すでに説明したのである。

 しかし、本問題は別として、本官は、今述べたことは、俘虜に対する侮辱を意図した何事をも実際においては示していないと思うのである。これらの俘虜が実際に侮辱的方法によって取り扱われたことを示す証拠はないのである。彼らは常軌を逸した待遇は受けなかったのである。彼らは公衆の観覧に供するために人前に出されたことさえなかった。人民をして単に、白人兵であっても負けることもあり、俘虜になることもあることを確信させるために、かようなところに連れて行かれたのである。白人の優越性に対する人民の確信は、日本の関係当局者からは単なる迷信であると見なされ、そしてこれらの当局者は白人兵も俘虜になることがあるという事実そのものによって、この迷信を打破することができると考えた、にすぎないのである。本官はなぜこのことが侮辱、あるいは公衆の好奇心にさらすものと見なすべきであるか理解することができないのである。

 検察側は、俘虜が、1907年のヘーグ条約第2条の精神に反して、約束に署名し、逃走をしないという宣誓を行なうことを強制されたと訴追しているのである。

 太平洋戦争中日本は、逃走しないという宣誓を俘虜に強制的に行なわせることを許すところの規則及び法律をつくったのであって、この種の宣誓の違反に対する重い罰則を規定したのである。

 法廷証第1965号は、俘虜の取り扱いに関する詳細な規定である。第5条は、逃走しないという宣誓に関するものである。俘虜の懲戒法規の第10条には『逃走せざる旨の宣誓をなし、これに背きたる者は一年以上の有期の懲役又は禁錮に処し・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と規定している。

 前記の第5条及び第10条は、それぞれ1943年3月及び4月に、日本の法律として施行されたものである。第10条は、1905年の法律第38号の第5条とある程度似通った条文を含んでいる。

 日本の公式発表の数字によれば、1942年6月2日から1945年3月3日までの間に、逃走しないという宣誓に背いた罪のために64名の俘虜が軍法会議によって有罪とされ、禁錮一年から死刑に至るまでの刑に処せられたことを検察側は指摘している。《法廷証第1998号》

 すべての軍法会議による処罰及びその他のあらゆる懲罰については毎月の報告が必要とされていたので、日本政府はこれらの不法な刑罰が課されていたことを知っていた。《法廷証第1999号》この報告は俘虜情報局に送られたのである。

 本官は、逃走しないという宣誓あるいは約束をさせることが、これを許した政府の官吏の罪であるとは考えない。本官は1929年のジュネーヴ条約によって批准されたことなく、またジュネーヴ条約も、あるいはヘーグ条約も、本件においては適用し得ないものであることを再びここに指摘したい。

 あるいはこれが、本件における膨大な投降者の数が特に事態に影響を及ぼすこともあろうという一例であるかもしれない。この点に関して日本当局者のとった処置は、単なる国家の行為となるのである。本官は、どの被告にしてもこれらの行為に対して罪があると判定しようとは思わない。

 これらの規定による逃走俘虜の処罰もまた単なる国家の行為である。この点について、右のような規則に違反し、あるいは裁判なしに何事かが行なわれたとは、検察側は主張していないのである。

 俘虜の海上輸送に関する検察側の主張の要旨は、このような輸送のたびごとに、条約違反があったというのである。検察側は、このような違反に共通した特徴を強調している。これによると、これらの共通の特徴というのは、俘虜の超過収容、過少給養、不充分な衛生通風施設、医療品及び水の不足、及び不当取り扱いである。

 検察側は、このような犯罪の態様が似ていることが、それが政府の政策として、あるいは政府の無関心によってなされたものであるという事実を示すものであると主張している。検察側は、被告のうちの誰も、このような犯罪を防ぐための真の努力のどのような証拠をも、自らあるいは証人によって提出しなかったことが、重要な点であると指摘している。

 閣僚に関しては、検察側は、この種の犯罪が行なわれたことを知ったら、内閣の同僚にこの事実を告げ、そしてそれを防止する有効な手段がとられない限り、辞任することが明らかにその義務であったことを主張している。閣僚のうちの誰かが内閣において戦争犯罪の問題を採り上げたという証拠はない。これをしなかったことは、彼らの罪をさらに重くするのである、と。

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