歴史の部屋

 検察側は、さらに、このような戦争犯罪の行なわれたことを知った官吏は、誰でも自分の持っていた権限を用いて、その問題を直ちに矯正するか、少なくともこれらの非行を直ちに停止させる程度の処置を講ずることが、その義務であったと述べている。

 ここにおいて再び、膨大な投降者の数によって生じた特別な困難を考慮に入れなければならない。本官はこの問題に関する証拠を額面通りには受け容れないが、誇張及び歪曲に対するできるだけの酌量をしても、超過収容、過少給養及び不充分な衛生並びに通風の事実は否定できない。また明らかに輸送中における不慮の不当取り扱いの実例もあったのであるが、しかし本官はこれをもって、政府の政策あるいは政府の無関心を示すものであると認めることはできない。

 この問題に関して、閣僚は辞職すべきであったという検察側の主張は、実際には理想的な状態を考えての言い分であるが、本官としては、現在の目的のためには、このような理想的な標準をもって、俘虜の取り扱いを計ることはできないと思う。

 証拠によってここに明らかにされた事実がその発生したときにおいて閣僚に知られていたという証拠はない。

 『バターン死の行軍』は、実に極悪な残虐である。輸送機関もなく、また食糧も入手し得なかったために止むを得なかったという理由でこれを弁護しようと試みられたのである。《英文速記録第27、764頁》

 それが事実であったと仮定しても、それは行軍中の俘虜に与えた取り扱いを正当化するものではない。灼熱の太陽の下、120キロメートルにわたる9日間の行軍の全期間中、約65000名の米国人及びフィリッピン人俘虜は、その警備員によって蹴られ、殴打された。与えられた唯一の飲料水は水牛の水呑場の水であり、唯一の食物はフィリッピン人が彼らに投げ与えたものであった。病気あるいは疲労のため行進から落伍した者は、射殺されあるいは銃剣で刺されたのであった。《英文記録第12、579−91頁》

 輸送手段の欠乏に関する主張に対して、検察側は、バターンの米国軍軍(←不鮮明だが「軍軍」とあるように見える。「米国軍の軍司令官」という意味なら、「軍軍」とあるのもおかしくないかもしれないが、「米国軍司令官」でようさそうに思う)司令官キング少将が作成した宣誓口供書という形式による証拠をもって、対応しようと試みた。同少将は『降伏に備えて武器や装備を破壊するにあたり、私は私の軍隊を全部バターンから輸送するに充分な自動車輸送の便とガソリンを残しておいた。降伏後私はこの目的のために日本軍から要求される人員を供給することを申し出て、このことが行なわれんことを願った。日本人は俘虜移動の処理は彼らの好きなようにすると言い、また私はそのことには関係がないこと、そしてそれに関する私の希望は考慮されぬと言い聞かされた。』《法廷証第1448号》

 いずれにしても、本官は、この出来事が少しでも正当化し得るものであるとは考えない。同時に、本官は、これに対して、どのようにして現在の被告のうちの誰かに責任を負わすことができるか、理解することができない。これは残虐行為の孤立した一事例である。その責任者は、その生命をもって、償いをさせられたのである。本官は現在の被告のうちの誰もこの事件に関係を持たせることはできない。

 作戦行動に関係のある仕事に俘虜を用いたことに関する検察側の主張は、1907年のヘーグ条約第6条、並びに1929年のジュネーヴ条約の第31条に違反して、日本政府が俘虜をかように用いたというのである。

 1907年のヘーグ条約の第6条の条文中に、俘虜を用いるところの仕事は『一切作戦行動に関係を有すべからず』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と規定している。

 1929年のジュネーヴ俘虜条約の第31条には、『俘虜によりなさるる労働は作戦行動になんら直接関係なきものたるべし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)とある。

 証拠となった一連の日本政府公文書は、日本政府が、故意に、かつまた政策として、俘虜を、このような労働に就かせたことを示している。次に挙げるのは、これらの文書の一部である。

  1、法廷証第2010号――これは1942年5月6日付台湾軍参謀長宛の通牒である。ここに被告木村は『白人俘虜はこれを我が生産拡充並びに軍事上の労務に利用する如く逐次朝鮮、台湾、満州、支那等(←正誤表によると「支那等」は誤りで「(削除)」と指示がある)に収容し・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と述べている。

  2、1942年8月の特高警察の月報に、労力不足の結果、俘虜を使用しようとする計画がある。《法廷証第1972号A、法廷記録第14、509頁》

    この計画には、『さきに軍関係作業虜(←この漢字一文字不鮮明)及び港湾施設労務者不足の緩和策として、善通寺俘虜収容所に収容中の米兵俘虜150名を大阪に分遣労役に服せしめたるところ、その成績良好なつものありしにより、かつてより労力不足に悩みつつありし、東京・・・・における事業主方面にありては、軍に対し俘虜の使用方懇請するところありたり。』

  3、法廷証第1970号A――これは1942年8月23日付、陸軍次官としての被告木村から関東軍参謀長に宛てたものであって『航空緊急整備実現のため、別紙利用方針に基づき、満州工作機械株式会社の現在能力を増強し、その大部を挙げて、国内における航空武器、弾薬、並びに航空機の緊急整備に必要なる工作機械の生産に充当致したく・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)とある。ここに掲げたこの計画においては、1500名の俘虜の使用を考えている。

  4、法廷証第1971号A――これは内務省警保局外事課発行の1942年9月の外事月報である。これは日本における労働力不足の問題並びに内閣企画院の会議において到達した決定について述べている。これによれば『俘虜はこれを国民動員計画産業中、鉱業、荷役業、及び国防土木建築業の所要労務に使役すること』と決定したのである。

  5、法廷証第1967号――これは1942年10月2日付、東部軍参謀長から被告東条に宛てた文書であり、東京俘虜収容所に収容中の俘虜を、『生産力拡充軍需産業労務工場』における『生産力拡充産業労務』その他に使用する許可の申請である。これは陸軍大臣によって許可されたのである。

  6、法廷証第1969号――これは1942年10月6日付、神奈川県知事から厚生大臣及び内務大臣に宛てた報告であって、次の通り述べてある。

    『今回俘虜使役により、初めて計画的に物資の輸送業務の円滑化の進捗を図ること可能となりたることは、各事業主の等しく陳述するところにして、業界に多大の好影響を与え、ひいては軍需品の外、生産力拡充産業の遂行上に及ぼす影響も大なるものと思料せらる』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

  7、法廷証第1967号――これは1942年9月4日付、朝鮮軍司令官としての被告板垣から被告東条宛の報告である。この報告には、朝鮮俘虜収容所において用いる諸規則を示している。それには次の条文が含まれている。『第2条 俘虜は一人といえども無為徒食せしむべからず、その技能、年齢、体力等に応じ、適当なる労務を課し、もって我が生産拡充並びに軍事上の労務に使用するものとす。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 将校である俘虜の使用に関しては、検察側は次の文書を基礎としている。

  1、法廷証第1961号――これは1942年6月3日付、俘虜である将校及び准士官に課す労務に関して俘虜管理部長から各陸軍関係部隊に宛てた通牒である。これには『俘虜たる将校及び准士官の労務に関しては、俘虜労役規則第1条に禁ぜられあるところなるも、一人といえども無為徒食を許さざる我が国現下の実情と、俘虜の健康保持等とに鑑み、これらに対しても、その身分、職能、体力等に応じ、自発的に労務に就かしめたき中央の方針なるにつき、しかるべく指導相なりたし』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)とある。

     1942年6月5日に、台湾軍参謀長宛に同様な通牒が送られた。《法廷証第2003号》

  2、1942年9月4日に、朝鮮軍司令官としての被告板垣から被告東条宛に、朝鮮俘虜収容所で施行された諸規則に関する報告が送られた。《法廷証第1976号》本規則の第3条は次の通りである。

   『俘虜は将校以下全員を労務に就かしむるものとす。ただし准士官以上の者にありてはその身分、職務及び体力等に応じ自発的に左の如き労役に服せしむる如く指導するものとす。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 本件において、ヘーグ条約、あるいはジュネーヴ俘虜条約が適用され得るかどうかは別問題として、これらの条約の規定は、ある種の禁止労務について言及しているのである。

 現在の総力戦の時代において、『作戦行動に直接関係』という表現の意味がどのようなものであるにしても、俘虜が戦闘部隊に宛てられた物資を輸送するために使用された若干の証拠があることは否定できない。

 しかしながら、本官はこの違反を単なる国家の義務違反と考えたい。これらの単なる国家の行為である。本官はこのような違反に対して、被告のうちの誰にも刑事上の責任を負わそうとは思わない。俘虜将校の強制使用の問題にも同じ見解が適用される。

 泰緬鉄道に関しては、検察側の主張は次の通り要約して差し支えないであろう。

 1942年8月以降、インド侵略の準備をしていたビルマにおける日本軍隊補給のための、泰国カンチャンブリからビルマのタンブイザヤットに至る鉄道線建設のために、シンガポール及び蘭領東印度からビルマ及びシャムに俘虜が送られた。この鉄道の全距離は約400キロメートルで、その大部分は人跡未踏の山岳ジャングル地帯を貫通するものであって、両端から同時に建設が始められた。合計約46000名の俘虜が使用され、18ヶ月間にこのうち16000名が飢餓、疾病及び不当待遇によって死亡した。《法廷記録5415、5434−41頁》日本側の記録は、使用された俘虜の数を最大限49776名とし、死亡者数を7746名としている。《法廷証第473号、法廷記録第5492頁》その上に、12万ないし15万名のインドネシヤ人、ビルマ人、中国人及びマレー人が使用され、前記と同様な原因による死亡者数は6万ないし10万と見積もられた。《法廷記録5415及び5434−41頁》

 この鉄道線が作戦上の理由によって建設されたものであったという検察側の証拠は、1944年に作られた日本側の文書によって証明されている。こうして1944年10月6日付、南方軍参謀長から俘虜情報局長に宛てられた報告の中に次のように述べてある。

 『・・・・本作業は作戦上の最も急を要ししかも該鉄道建設予定線に沿う地域は人跡なき密林地帯にして宿営給養及び衛生施設俘虜の平常状態と著しく異なり・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 同局がシャム俘虜収容所長から1944年10月4日に受領した通牒の一部に次のように述べてある。すなわち、

 『当時給養不良、宿営施設不備、衛生施設不完全なりに上に、作戦上の要求に基づき昭和18年8月開通を目途に、いわゆる突貫(←この漢字一文字不鮮明。文脈から「貫」にしておく)作業を敢行せるため、多数の患者死亡者を生ずるに至れり』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《法廷証第473号、法廷記録第5492頁》

 検察側は充分な証拠をもって、俘虜の死亡が虐待、過労、飢餓、疾病及び医療不備によるものであったことを示している。《法廷記録第11,411−41頁、13,000−11頁、13,020−35頁、法廷証第1,561−70号、第1,574−5号、第1,580号》

 「F」部隊及び「H」部隊は、それぞれ1943年4月及び5月に、シンガポールから泰国に到着した。「H」部隊は3000名中、7ヶ月間に900名が死亡した。

 鉄道建設の決定は、南方軍総司令部の要請に基づいて大本営によってなされた。《法廷記録第14,633頁》次いで1943年2月に、大本営は作戦上の理由から建設期間を4ヶ月短縮することに決定したが、後にその新期間を2ヶ月延長した。《法廷証第475号、法廷記録第5,513頁》その結果として、路線は、最初の計画より2ヶ月早く、1943年10月に完成した。《法廷記録第5,437頁》

 弁護側は、事実を一般的に否認はしていないが、死亡率の原因は、雨期が早く来たために給与の輸送が妨げられたことであると主張している。《法廷証第475号、法廷記録27412−24頁、27746頁》弁護側の言うには、南方軍総司令官は建設の成否が衛生状態にかかっていることを認識し、衛生状況を研究改善し、防遏の目的をもってマラリヤを研究し、また用水を浄化するために、現地に衛生隊を派遣した。南方軍司令部は医務官から、俘虜の罹病の重大な危険性と、また1940年(←正誤表によると「1940年」は誤りで「1942年」が正しい)末以降は俘虜の死亡率の増加について報告を受けていた。《法廷記録第27,746頁》

 右の通りであったと仮定しても、すなわち、日本側があらゆる注意を払ったのであり、また死亡の原因はまったく雨期が予想外に早く来たことに帰し得るものと仮定しても、この状況の下では日本側は戦争犯罪を犯したことになる。南方軍司令官は俘虜を作業のために、著しく不健康地であることを承知の上で、ある地域に派遣する権利はなく、また軍事上の目的のために使用される鉄道線路の建設に俘虜を使役する権利もなかった。当時日本側は、この鉄道を、もっぱら軍事上の目的のために、すなわち、ビルマ駐屯部隊の補給と増援のために、使用する意図を持っていたことは疑いの余地がない。

 しかしながら、雨期は、死亡を増したかもしれないが、死亡の原因は雨期ではなかったことは明瞭である。日本側の数字によっても、3月4月という早い時期において、1ヶ月の死亡数はすでに200名を超えていた。もし雨期が当時すでに始まっていたとしたならば、何故そこに「F」部隊と「H」部隊とを4月末と5月に送る理由があったか。《法廷記録5439頁》

 さらに、死亡は、ほとんどすべて俘虜に限られていた。

 とすれば、俘虜の死亡は、日本人の服しなかった条件に俘虜が服したという事実によるものである。俘虜たちは、虐待、過度の労働、医療の不行届と飢餓によって死んだのである。

 以上が検察側の主張である。本官は、本件を次の2部に分ける。すなわち

  1、作戦行動と直接関係のある作業に俘虜を使役したこと。

  2、俘虜の非人道的な取り扱い。

 使役に関しては、被告東条が全面的に責任があると、本官は躊躇なく言明する。しかしながら、俘虜の使役に関する規則の右の違反は、単なる国家の行為である。それはそれ自体としては犯罪ではなく、本官は東条に刑事責任を負わすものではない。

 この使役中の俘虜の非人道的な取り扱いが、東条を含む被告のうちの誰かの不作為に原因し、または被告のうちの誰かがなんらかの方法によって予見し得たかということについては、本官を満足させる証拠は提出されていない。

 本件に関して取調べを受けた最も重要な証人はダルリンプル・ワイルド大佐であった。同人の証言の中で重要な部分は法廷速記録第543頁から始まっている。この証言を分析すると以下のことが明瞭となる。すなわち

  1、俘虜は1942年9月から俘虜管理部によって引き継がれた。

  2、1942年9月までは俘虜は第二十五軍司令部の管理下にあり、そして労役キャンプは各種の日本部隊の管理下にあった。

   (a)1942年俘虜は東京を中心とした俘虜管理機関によって接収された。

   (b)馬来及びスマトラは一つに併合され、福栄少将麾下の俘虜収容区の中に編入され、俘虜管理部の管轄となった。

   (c)俘虜の保護ないしは管理については、福栄少将は東京からの命令に従った。同人は俘虜の管理以外には全然義務はなかった。

  3、行政の制度は泰緬鉄道の地帯におけるものと同じであった。シャムにおける俘虜管理に当たっていた将校は陸軍少将であった。

  4、(a)1942年8月以来、泰緬鉄道建設のためにシンガポールから俘虜が送られた。

    (b)彼らの中には蘭領東インドからチャンギー収容所に送られて来た多数の者が含まれていた。

    (c)海路台湾に、また海路ビルマに送られた者もあった。

  5、(a)俘虜は1942年8月ごろから泰緬鉄道建設のために働くようシンガポールを出発し始めた。

    (b)最初ビルマに行ったのは、A部隊と称せられたヴァーレイ代将指揮下の豪州人の一隊であった。

    (c)本証人はF部隊と一緒に行った。彼らは1943年4月下旬出発した。彼らは総数7000名であり、そのうち3600名は豪州人で3400名は英国人であった。

    (d)この7000名中3100名は死亡した。生存者は1944年8月(←正誤表によると「8月」は誤りで「4月」が正しい)シンガポールに帰還した。

    (e)本鉄道建設時期を通じての死亡者(←正誤表によると「死亡者」は誤りで「死傷者」が正しい)総数は46000名中16000名に達した。

    (f)この事業は1943年10月末完了した。

  6、(a)これら死亡者の全部はいちいちはっきりとレコードに残された。

    (b)本証人の属していた部隊は馬来俘虜管理所の監督下にあった。数字は常に在チャンギー俘虜本部に送付され、そこからさらに東京に移牒された。シャムにおける他の部隊に関しては、彼らはシャム俘虜収容機関の下にあった。数字は同様にシャムのタルソーにある陸軍少将の本部にその都度報告された。写し一部は佐々少佐によって東京俘虜管理本部へ送付された。

  7、本証人は1943年4月に始まって以来の、俘虜によってなされた仕事並びに受けた虐待の詳細を述べている。

 本証人の証言からして、惹起された不幸な出来事は大部分現地係将校の職務上の行き過ぎの結果であったことが明らかとなる。法廷速記録5、445頁にチャンギーにおける有村少将のとった行き過ぎの一例が出ている。本証人は右少将に対し、チャンギーには仕事に適する者は7000名はなく、本証人が集め得る最高は5000名であると説明した。証人は次いで以下のように述べている。すなわち『有村少将の本部はこの点については心配しないで安心しろということであった。われわれは日本側が歩行不能な病人として分類することを同意した労働に不適当な者2000名を同行するよう公けに告げられた。この移行される理由は、シンガポール島においては食糧事情が困難になりつつあったこと。われわれは労働キャンプに行くのではなくて、保健キャンプに行くのであること、そこは山の中にある好い場所であること、だれもここで働かされることを要求されないということ。われわれに要求される一番大きいことは、ただ自分たちの養生もし、そのキャンプ内で必要なことだけをすればよいこと。病人はチャンギーに居残っていると食糧が不足であるから、病人を連行した方が一番よろしい。病人のためには保健キャンプで回復するよい機会であろうということが理由であると告げられた。』

 これは有村少将の行き過ぎと彼の悪質な性格を示すのにすぎない。確かにこれを東京においてとられた措置に関連さすことはどうしてもできない。それからさらにワイルド大佐が法廷速記録第5457頁において述べていることは、単に一伍長の残忍性を示すにすぎない。50人の俘虜が病気していた。その伍長は、それにもかかわらず彼らを夜間行軍させた。本証人はこれらの50名を日本軍医のもとに連れていった。この日本軍伍長もまた一行と同行した。軍医は彼らに治療を加え、かつそのうち36名はその夜行軍さすべきではないことに同意した。本証人の提案に従って、その軍医は日本の伍長に対しこれを命令した。しかるにこの50名がキャンプに連れ帰られたとき、この日本の伍長は36名にあらず、14名だけがその夜留まるのだと命令を下した。再びこのことを日本軍医に報告してから、本証人はその軍医が文書によって部下の先任軍曹に対して36名が居残るべきであるという命令を出さすことに成功した。これはその伍長に渡された。それにもかかわらず右伍長はその者たちを行軍させた。

 F部隊の日本部隊長伴野中佐が示した職務上の行き過ぎの話もまた同様である。この事件は法廷速記録第5、459−60頁において本証人が述べている。

 豪州の行進隊は多数のアジア人労働者がコレラによって死亡している小屋から数ヤードの距離に収容されていた。ハリス中佐はコンコイタの集結(スタジング)キャンプで伴野中佐に対し事情を説明し、『この行進を全然中止させるか、あるいはコンコイタに寄らないで迂回させて行かなければならない。もしそうしないと一週間以内にわれわれの全キャンプ内に猛烈なコレラの発生を見るであろう。』と警告した。伴野中佐は頑として聞かなかった。彼のこの強情の結果は、豪州行進部隊にコレラの発生となった。伴野中佐は馬来及びスマトラの俘虜管理部の将校であった。

 本証人ぎ(←正誤表によると「本証人ぎ」は誤りで「本証人が」が正しい)法廷速記録第5477頁に述べている日本軍工兵の数名による不必要な残忍行為の話もまた同様である。これらの残虐行為の実際の犯行者は法廷に出ておらない。本官は彼らのうちで生存していて逮捕し得る者はすでにその残虐行為に対して受くべき責は受けていると信ずる。ワイルド大佐みずから本法廷に対して法廷速記録第5、684−85頁に記録されている証言の中で、同人が『東南アジア司令部において東南アジア戦争犯罪調査に従事して以来、およそ400件が裁判に付せられた。そのうち300件以上はすでに裁判が終了し、『100以上の死刑宣告と約150の投獄刑』の結果となったと申し立てた。この中には豪州、オランダ及び米国の手によって裁判された事件は含まれていない。従ってこれらすべての不法行為の犯行者と称せられる者の何人に対しても、なんらか誤った寛容が示されたと憂慮する余地はない。われわれがここにおいて関心をもっているのは、右とは全然別個の人間たちなのである。これらの者たちがこの不法行為または職務上の行き過ぎを予知すべきであったとわれわれに言わせるようなものはなんらわれわれに提出されておらない。

 ワイルド大佐の証言は、むしろこれらの現地将校たちは、かような余りの行き過ぎを示した自分たちの罪を自覚し、従ってこれらの行き過ぎの結果を東京の当局から隠そうとする手段をとったことを示すものである。F部隊の日本軍医の通訳は、本証人の部隊をして強いて死因を下痢と変更させた。現地における現状を同様隠蔽しようとしたことは、本証人によって法廷速記録第5、485−5486頁において、カンチャンブリの憲兵隊にもあったと称せられている。

 本証人の証言は、また問題となっている鉄道建設は東京の関係当局によって俘虜労働を利用することを期待して計画されたものではなかったことを明瞭にしている。この目的のためには一般労働者がほとんど大部分徴募されたのである。俘虜は最後の手段として使用されただけであった。

 検察側はその法廷証第475号を奇妙なふうに使用している。本法廷証は泰緬連接鉄道建設に伴う俘虜使用状況調書であるとされている。検察側はこれを証拠として提出し、そして右は泰緬鉄道に対する日本政府の報告書であると説明した。

 検察側は法廷に対して『この文書は日本の降伏直後日本陸軍省によって作成され、1945年12月19日、日本陸軍省から連合国最高司令官へ送付されたものである。しかしこれは彼らが自発的に作成したものであって、請求によって作成されたものではない。』と述べた。法廷はこれを1946年9月11日証拠として受理し、法廷証第475号とした。明らかにこれは検察側が依存しようとした文書であった。しかるにその後に至って、あたかもこれは弁護側が依存しているものであるかのように、証人ワイルド大佐からその内容の矛盾を探し出そうとした。弁護側は確かに本文書に依存しなかった。またたといその内容が何らかの証拠価値のあるものとしても、それは弁護側に不利な単に一つの証拠として、当法廷によって他の証拠とともに考慮されるべきものとなったであろう。本官の見解では、それが日本の陸海軍省によって作成されたということは、現在の被告たちに不利となるなんらの重大証明力をそれに与えるものではない。殊にわれわれはそれが日本の降伏作成されたものであることを知っており、その上どのような資料に基づいて、また何の目的のために、その文書の作者がこのように作成したかということを知らないからである。もし本調書がなんらか関連ある資料に基づいているものとすれば、かような資料は降伏後といえども、入手できたに違いない。そしてそれらの資料からわれわれみずからどのような結論を引き出し得るかを調べるために、当然それらの資料は法廷に提出されるべきであった。もし本調書作成者がかような資料をもっていなかったとするならば、本調書は証拠としては全然無価値であり、単に現在の被告に対する不利となる偏見を生じさせることを目論んだものにすぎない。

 本報告は三編に分かれている。第一編は連合国側の抗議内容に関し、第二編は調査内容を述べると称し、第三編は結論である。

 本調書の最後の結論には以下の通り記してある。すなわち

 (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『1、これを要するに建設実施に伴い多数の犠牲者を出したる事情前述の如くその主要原因は時期に制限ありしと周到なる準備の至難なりしとさらにかかる大建設作業に未経験かつ貧弱なる科学装備の日本軍がその所命必遂の特性に基づき建設を強行せること等に存するものにして絶対に故意に犠牲者を生ぜしめたるものにあらざることを明言す

 しかして本作業に俘虜を使用せることに関しては当時陸軍全般としてかくの如き直接作戦に非ざる作業に使用するは(←正誤表によると「使用するは」は誤りで「使用するはジュネーヴ」が正しい)条約の違反に非ざるの見解を保持しありたるものにしていわゆる一般の俘虜虐待事件とはその本質を全く異にするものなり

 『2、本件は以上の如く当時の状況上やむを得ず発生したるものにして強いてその責を追究するとせば多数の死亡者を出したる責任は建設を命じたる当時の参謀総長《杉山大将》及び俘虜の使用を許可したる陸軍大臣《東条大将》並びに現地において建設の責任に任じたる南方軍総司令官《寺内大将》において負うべきものなり

 『3、なお個々の俘虜虐待の事件に関してはさらに連合国側より詳細特に犯行者の官氏名等の提示を受け調査致したくもし調査の結果これらの罪状判明せば犯罪者を厳重に処分するの用意あり。』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

 本調書の作成者は、この悲劇の原因は、建設時期ニ制限アリシコトニ存スルモノであるとしている。証人ワイルド大佐は法廷にまったく別の解釈を述べている。

 ワイルド大佐は次のように証言した。すなわち『私どもは日本側に対し、彼らがアジア人及び軍人労働者を取り扱っているやり方は、軍人の見地から見ると罪悪よりも悪く、大過失であると言った。われわれは日本側に言ったし、かつ私は現在そう考えているが、もし日本側がその労働者を妥当に取り扱い、かつもっと食糧を与え、十分な宿舎を与え、適当な労働時間を課したならば、彼らはその希望した時期までにその鉄道を完成したであろう。われわれは当時彼らに言ったし、かつ私は現在そう考えているが、日本側がその労働者を取り扱った取り扱いぶりの結果、日本側はその鉄道完成に予定より数箇月も遅れ、その結果、この鉄道が補給を企図していたビルマの一作戦は失敗した。』

 この鉄道を急いで完成させるということは、そこで生じた不祥事の原因ではなかった。もし俘虜と労働者たちがよい待遇を与えられていたならば、予定時間以内にその完成を見ることになんら困難はなかったであろうということは、ワイルド大佐の証言中にある。虐待がその完成遅延の原因であった。時間の不足がその不祥事の原因ではなかった。従って時間制限を定めた責任者であったかもしれない人々は、なんら誤算をしたのではない。そして確かに彼らの計算は俘虜に対して発生したことについて責任あるものではなかった。

 本調書が他の点ではどのような価値を有するものであっても、その調書によってなされている罪の重さの程度を考慮するに当たって、なんら証明価値を有しないものである。本官の意見では、この調書の基礎となったかもしれない資料が提出されていないという点から見て、本調書は最初から全然提出されるべきものではなかったと思う。

 参謀本部員並びに陸軍大臣はこの建設事業に俘虜を使用したことに対して確かに責任があった。しかしその行為は「ソレ自体悪(←「ソレ自体悪」に小さい丸で傍点あり)」ではなかった。従って本官としてはこれら被告の何人をも、それに対して刑事上の責任があるものとすることはできない。

 これらの俘虜の上に発生した不祥事に関しては、当局者(俘虜使用を許可した)がこれらの結果を予知し得る資料を有していたという証拠はなんら法廷には提出されていない。これらの結果の大部分は現地将校の職務遂行上の行き過ぎのために生じたものである。刑事上の責任を課そうとして、この不祥事の責任を陸軍大臣もしくは他の閣僚にまで及ぼすことは困難である。

 諜報行為は国際法上特異の立場を占めるものである。必要な情報の入手のため交戦国が間諜を利用するということは、従来から合法的なことと認められて来ているのである。

 ヘーグ規定第24条によると、奇計並ビニ敵情及ビ地形探知ノタメ必要ナル手段ノ行使ハ適法ト認メルと定めてある。しかしながら交戦者にとってかような手段の行使が適法であるという事実は、右交戦者によって使用されるかような情報収集に従事する個人を処罰から免れさせるように保護するものではない。交戦者は間諜及び反逆者を使用しても、これは適法であるが、相手交戦者がこれらの間諜及び反逆者を処罰しても、同様に適法な行為である。間諜行為を行なう者は戦争犯罪人と認められ、従って合法的にこれを処罰することができる。間諜行為に対する普通の処罰は絞首刑または銃殺である。しかし、間諜は軍法会議による裁判を経るのでなければ、これを罰することを得ない。

 検察側の申立は、俘虜のある者が間諜行為について有罪の判決を受け、死刑を宣告された、また一人は間諜行為未遂で有罪と判決され、懲役14年の宣告を受けたというのである。検察側は俘虜の何人もこの点について裁判なくして処刑されたと申し立てているのではない。

 間諜行為の起訴事実について有罪の判決をしたのは不当であったと本裁判所が断ずる根拠となるような証拠は、少しも提出されていないと思う。いずれにしてもこれらの俘虜は、間諜行為について起訴され、正当な機関による裁判を受け、この機関によって有罪の判決を与えられたのである。本官としてはどうして本裁判所が、これに対し被告の中の何ぴとかが刑事上の責任ありとすることができるか、理解できないのである。

 連合軍航空機搭乗員に対する取り扱いは、日本に対する非難のうち、最も重大なものの一つである。

 この点についての検察側の証拠提出は、1942年4月18日に日本を襲ったドゥリトル大佐指揮のアメリカ飛行機搭乗員に対する取り扱いで始まっている。この搭乗員たちは中国で俘虜となった。検察側の主張は、彼らの捕獲に続いて、1942年8月13日、被告畑により、中国において、『敵航空機搭乗員処罰ニ関スル軍律』が定められたというのである。右の飛行機の搭乗員たちは、この規則に基づき、軍律会議によって裁判を受け、死刑を宣告された。後に彼らのうち5名について右の刑は終身懲役に減刑された。残りの3名は処刑された。この規則は、一般市民または非軍事的の目標に対する爆撃、射撃その他の攻撃については、死刑を規定したものであった。右の主張の裏付けとして、検察側は次の証拠に依存している。法廷証第3、129号ないし3、131号、記録第27、907頁ないし27、908頁及び法廷証第1、991号ないし1、993号、記録第14、662頁ないし14、670頁。

 次いで検察側は以下の場所においては、捕えられた航空機搭乗員らが裁判を受けずに処刑されたという主張をしている。すなわち、

  1、ブーゲンビル――1943年12月に2件、1943年5月に1件。

  2、ニューブリテン――1944年7月に1件、1944年11月に1件。

  3、ニューギニア――1943年3月29日に1件、1944年にも1件。

  4、アンボン――1944年8月29日に1件、1943年9月21日に1件。

  5、セレベス――1944年9月13日に2件、1944年9月半ば以後に8件、1944年10月に9件、1945年1月に1件、1945年2月に2件、1945年7月に1件、1945年3月23日に4件、1945年6、7月ごろに1件。

  6、バタビア――1945年6月に7件。

  7、ボルネオ――1945年2月に3件。

  8、ビルマ――1945年2月または3月の事件。

  9、漢口――1945年11月4日の事件。

  10、ヒリッピン――1945年3月26日の事件。

  11、シンガポール――1944年12月または1945年1月に1件、1945年6月に1件、1945年5月から7月までの間に数件。

  12、内地――1945年5月11日より1945年8月15日までの間に数件。

 法廷証第1、992号は、1942年7月28日付の『陸軍次官木村兵太郎発』『内地各軍参謀長宛』『敵航空機搭乗員取り扱い』に関する通牒である。それは次の通りである。

 『帝国領土満州又は我が作戦地域を空襲し我が権内入りたる敵航空機搭乗員は左記の如く取り扱うことに定められたるにつき承知相なりたく依命通牒す。

   左記

  1、戦時国際法規に違反せざる者は俘虜として取り扱いこれに違反の所為ありたる者は戦時重罪犯として処断す。

  2、防衛総司令官《内地、外地各軍と香港占領地総督を含む、以下同じ》は当該権内に入りたる敵航空機搭乗員にして戦時重罪犯として処断すべき疑いある者は軍律会議に送致す前項の軍律会議に関しては陸軍軍法会議法中特設軍法会議に関する規定を準用す。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 法廷証第1、993号は、同日付『大本営陸軍部』発『支那派遣軍総参謀長後宮淳』あて『空襲ノ敵航空機搭乗員取リ扱イニ関スル件通牒』である。この通牒は次の通りである。

    『○○軍軍律《案》

 第1条 本軍律は帝国領土満州国又は我が作戦地域を空襲し○○軍の内に入りたる敵航空機搭乗員にこれを適用す

 第2条 左に記載したる行為をなしたる者は軍罰に処す

  1、普通人民を威嚇又は殺傷することを目的として爆撃、射撃その他の攻撃を加うること

  2、軍事的性質を有せざる私有財産を破壊又は毀損することを目的として爆撃、射撃その他の攻撃を加うること

  3、やむを得ざる場合の外軍事的目標以外の目標に対して爆撃、射撃その他の攻撃を加うること

  4、前3号の外、特に人道を無視したる暴虐非道なる行為をなすこと

   前号(←「前号」とあるが「前項」または「前項各号」とした方がよいと思う。法律の条文の表記の慣例で、項には数字を付さない。つまり、この文は頭に数字がないけれど、第2項なのだ)の行為をなす目的をもって帝国領土満州国又は我が作戦地域に来襲しその未だこれを遂げざる前○○軍の権内に入りたる者また同じ

 第3条 軍罰は死とすただし情状により無期又は十年以上監禁をもってこれに代うることを得

 第4条 死は銃殺す

    監禁は別に定むる場所に拘置し定役に服す

 第5条 特別の事由あるときは軍罰の執行を免除す

 第6条 監禁につきては本軍律に定むるものの外刑法の懲役に関する規定を準用す

   付則

 本軍律は昭和○○年○月○○日よりこれを施行す本軍律は施行前の行為に対してこれを適用す』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 法廷証第1、991号は、1942年8月13日付『敵航空機搭乗員処罰ニ関スル軍律』で、明らかに上述の案を採択したものである。本軍律は次のように定めている。

 (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『第1条

  本軍律は帝国領土満州国又は我が作戦地域を空襲し支那派遣軍の権内に入りたる敵航空機搭乗員にこれを適用す。

  第2条

  左に記載したる行為をなしたる者は軍罰に処す。

  『(1)普通人民を威嚇又は殺傷することを目的として爆撃、射撃その他攻撃を加うること。

  (2)軍事的性質を有せざる私有財産を破壊又は毀損することを目的として爆撃、射撃その他の攻撃を加うること。

  (3)やむを得ざるの外軍事的目標以外の目標に対して爆撃、射撃その他攻撃を加うること。

  (4)前3項(←「前3号」とするのが正しい)の外戦時国際法規に違反すること。

  前項の行為をなす目的をもって帝国領土満州国又は我が作戦区域に来襲しその未だこれを遂げざる前支那派遣軍の権内に入りたる者また同じ』

  第3条

  軍罰は死とす。ただし情状により無期又は十年以上の監禁をもってこれに代うることを得。

  第4条

  死は銃殺す。

  監禁場において(正誤表によると「監禁場において」は誤りで「監禁は監禁場において」が正しい)定役に服す。

  第5条

  特別の事由あるときは軍罰の執行を免除す。

  第6条

  監禁においては本軍律に定むるものの外、刑法の懲役に関する規定を準用す。

  付則

  本軍律は昭和17年《1942年》8月13日よりこれを施行す。本軍律は施行前の行為に対してもこれを適用す。

  布告、  別紙

  帝国領土、満州国又は我が作戦地域を空襲し、我が権内に入れる敵航空機搭乗員にして、戦時国際法規に違反せる者は軍律会議に付し戦時重罰犯として死又は重罰に処す。』(←原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

 法廷証第3、129号及び第3、130号は弁護側の文書であって、それはこれらの搭乗員の裁判並びに有罪の宣告は、軍法会議で行なわれたことを示している。

 連合軍飛行士の処刑事件の起訴事実は、次の二つの項目に分類される。すなわち(1)裁判に基づく処刑、(2)裁判を経ない処刑である。

 裁判に基づく処刑という項目においては、この裁判は「事後法(←「事後法」に小さい丸で傍点あり)」に基づいて行なわれたものであり、かような「事後法(←「事後法」に小さい丸で傍点あり)」をつくること自体が、犯罪であったと主張されている。

 本官はすでに、戦争犯罪を犯したものとして俘虜を裁判し、処罰することに関して、交戦国がどのような範囲まで立法をなす権能を有するかという問題を考察し、そしてこの権利は戦勝国を含むいかなる交戦国にもないとしたのである。

 その際本官は、ニュールンベルグ裁判所がその裁判所を創設した条例を、戦争犯罪を定義し、それによって右の点に関して拘束力のある法を、その裁判所に与えたものと解釈した次第を指摘した。戦勝諸国は右の点に関して法をつくる権能が国際法上与えられていると考えているように見える。本官の見解はさておき、もしも戦勝諸国が、また戦争犯罪人を裁判する目的で設けられた各種の裁判所のきわめて多くの裁判官も同様に、俘虜の裁判のために「事後法(←「事後法」に小さい丸で傍点あり)」をつくることは、戦勝諸国の自由であると主張し得るものとすれば、本官は連合国飛行士の裁判のために「事後法(←「事後法」に小さい丸で傍点あり)」をつくった人々に、なんらかの刑事責任を負わせることは不本意である。本官は彼らのかような行動を「悪意(←「悪意」に小さい丸で傍点あり)」あるものとみなすわけにはいかない。

 われわれの記憶すべきことは、この条例は事後法を定めたものであると同時に、その「事後法(←「事後法」に小さい丸で傍点あり)」を定めたのは一般的な目的のためではなく、特定の俘虜(←「俘虜」とあるが、「被告人たち」と訳すのが適切ではないかと思う)の裁判のためであったということである。それはあらゆる者を対象とした「事後法(←「事後法」に小さい丸で傍点あり)」ではなく、特殊の個人または集団を対象としたものであった。

 これらの軍律をつくった人々の「善意(←「善意」に小さい丸で傍点あり)」を判断するにあたっては、空戦に関する規則は全然期定(←「規定」または「制定」が正しいだろう)されていないということを想起する必要がある。軍備制限に関する1922年のワシントン会議に代表を派遣した諸国は、空戦法規の法典を起案する任務を有する法律家の委員会を任命する件につき、決定をなしたのである。この会議には英帝国、アメリカ合衆国、フランス、イタリー及び日本の諸国が代表を派遣した。その頃(←正誤表によると「その頃」は誤りで「その後」が正しい)オランダは右の委員会の仕事に参加するため招請された。

 1923年に、同委員会は法典草案を提出した。しかしながら、これは列強のいずれからも批准されなかった。同法典は戦争における航空機の使用を規律する法の規則を明らかにし、これを明文化しようとした権威ある筋の一つの試みとしてだけ重要性を有するものである。それはおそらく将来において、この方向に向かってなんらかの処置がとられる場合に、好都合な出発点となるであろう。しかしいずれにしても、それは未だなし遂げられておらず、かつ連合諸国を含んだどの交戦国も、これらの規則になんら注意を払っていないように思われるのである。

 同委員会は爆撃に関して若干の規則を定めた。いわく『航空機による爆撃の問題は、空戦に関する法典を作成する上に、最も解決困難な問題である。今次の戦争の経験は、都市の非戦闘員である住民に対する爆弾及び投射物の無差別投下に基づく荒廃について、広く世界の人心に生々しい恐怖の印象を残した。人類の良心は、実際に軍事作戦行動の行なわれる戦場以外の場所で行なわれるこういう形の戦争遂行に反抗するものであり、そして制限を加えなければならないという感情は普遍的なものである』と。

 同委員会はその草案の第22条において、次のように提案している。すなわち『普通人民を威嚇し軍事的性質を有せざる私有財産を破壊もしくは毀損しまたは非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃はこれを禁止す』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と。

 第24条においては次のように提案している。

 『(1)空中爆撃は軍事的目標すなわちその破壊又は毀損が明瞭なる軍事的利益を交戦者に与うるが如き目標に対して行なわれたる場合に限り適法なりとす。

  (2)右爆撃は専ら下記の目標に対して行なわれたる場合に限り適法なりとす。(イ)軍隊(ロ)軍事工作(ハ)軍事建設物または軍事貯蔵所(ニ)兵器弾薬または明瞭なる軍需品の製造に従事する工場にして重要かつ公知の中枢を構成するもの(ホ)軍事上の目的に使用せらるる交通線または運輸線。

  (3)陸上軍隊の作戦行動の直近地域にあらざる都市、町村住宅または建物の爆撃はこれを禁止す。第2号に掲げたる目標が普通人民に対し無差別爆撃をなすに非ざれば爆撃すること能わざる位置にある場合には航空機は爆撃を避止することを要す。

  (4)陸上軍隊の作戦行動の直近地域においては、都市、町村住宅または建物の爆撃は兵力の集中重大にして爆撃により普通人民に与うべき危険を考慮するもなお爆撃を正当ならしむるに充分なりと推定すべき理由ある場合に限り適法なりとす・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 右の委員会は四つの主要な観点からその任務に当たったといわれている。

  1、人道的観点

  2、委員会におけるそれぞれの代表国の国家的観点

  3、戦争法規に関する法律的観点

  4、戦闘部隊がそれぞれ自国を目して中立国ともまた交戦国ともみなしている戦争の遂行に関する戦闘員の立場からの観点

 さらに次のようなことがいわれている。すなわち『人道的観点からする戦争法規の改正に関して、すべての国家及び各代表団の全員は、戦争法規は戦争目的達成のためやむを得ないものは別として、人々の苦痛または私有財産の破壊を防止するに役立つものであることが望ましいということは同意した。論議中、人道的観点を新たに問題にする者が出るたびごとに、他の各国委員団代表は忽ちに口をそろえて、戦争の惨禍を制限したいと望む点では自分の国は他のどの国に比べても劣るものではないといってこれに答えるのであった。しかしながら、一般大衆は平和の時代、感情の鎮静している状態にあっては、戦争のもたらす擾乱という一面を見るにすぎないに反し、政府は彼らに比して、将来の見透しも鋭く、従って戦争勃発の必然性をよく知っているものである。ゆえに戦時の激情の影響下にあっては、民衆が自己の政府に向かって、真っ先に破棄を迫るような取極めに対して、平時には同じ民衆の世論に強いられて、国際協約によって同意することを、どの国の政府も好まないのである。このようにして協定される規則は、最も極端な平和主義者や人道主義者を満足させることはまずない。』

 『・・・・他の三つの観点からは、同委員会には意見の分裂があった。これらの新しい(戦争)手段のための戦争法規の作成において、各国は中立国または交戦国の立場のいずれをも無視しないで、主として自己の国策及び世界における自己の地位を高揚するという原則によって、導かれていたように見受けられる。各国代表団は、それぞれ自国の情勢に有利な規則を支持する個々の単位であった・・・・しかしまたそこには委員会を構成する法律家の一団と、技術顧問の一団との間を貫く、多少とも表面には現われたもう一つの分裂があった。委員の大多数は戦争技術と慣行について、ほとんど専門的知識を持っていなかった。あるものは戦争の推移は、たとい国民的感情が大きな興奮状態にあるときでさえ、すでに協定された規則の法典の字句によって導かれるであろうと考える傾向をもっていた。彼らは次のことを常に認識していたとは見受けられない。すなわち、どういう時期においても、一般的に認められている戦争の諸法規というものは、ほとんど全部過去の経験にその基礎をもっているものである。従って新たな戦争が起こってきた場合、それに伴う新しい社会的、経済的及び交戦上の条件は、現存の規則をして、この戦争の途上において発展してきた事態の要請に対応するには、むしろ不適切なものとしてしまうということである・・・・』

 委員会は爆撃の諸規定を提案するにあたって、このことを考慮に入れたのであって、次のように述べている。『地方航空機は戦争の有力な手段であって、いずれの国もみずからが航空機によって攻撃を受ける可能性と、敵側がその空軍をどのように用い得るかを認識するものは、いずれも、敵を合法的に効果的に攻撃し得る場合にその敵を攻撃することを制限される程度にまで、自己の自由を束縛する危険を敢えて冒すことはできないということも、同様に明瞭である。』

 従って委員会は何が攻撃の合法的目標を構成するかに関し、同様に明らかな了解がない限り、禁則を制定することは無益であると考えた。協定に達するのが困難であったのは、正にこの点についてであった。

 言うまでもなく今次の戦争においては、戦勝者である連合国側でさえ、これらの爆撃の諸規則に従わなかった。原子爆弾による爆撃の場合はさておいて、普通の爆弾の使用においてさえ、提案された爆撃の諸規則はまったく遵守されなかったのである。原子爆弾の使用を正当として弁護するために言われていることは、ここでは繰り返さないことにしよう。

 原子爆弾は『戦争の性質及び軍事上の目的達成のための合法的手段に関するさらに根本的な究明を、ぜひとも必要とする』に至ったと、米国国際法雑誌の編集委員のエレリー・C・ストウェル氏は的確に指摘した。同氏はさらにいわく、『この爆弾の恐るべき効力と、その結果起こる一般民衆の生命財産の無差別的破壊のため、民衆の間にこれに対する相当な反対を巻き起こした。同時にわが軍部及び政府当局者は、これは敵の敗北を促進し、その結果多数の連合国兵士の生命を救うものであるという理由に基づいて、それに支持を与えている・・・・原子爆弾に関する是非の論がとりまとめられ、すべての論議が尽くされた後に判明してくることは、戦争を防止し得る力があると認められる一層完全な世界的機構及び結合が実現するまでは、戦争の諸規則は、戦争の目的を確保するどのような効果的手段も否定し得ないということである・・・・もし英国、カナダ及び合衆国が原子爆弾の技術の秘密を保つことができると考えるならば、彼らに対して、その利益の放棄を期待することが合理的にできないのは、優秀な研究または行政機構から得た他の軍事的防衛計画や、軍事的利益を公表することを期待することが合理的にできないのと同様である。』

 かような空戦に関する状態において、航空機搭乗員の裁判のため日本当局者が軍律を設けたという行為を、その軍律の制定が「事後(←「事後」に小さい丸で傍点あり)」法をつくったものであるという理由に基づいて、犯罪的であると考えることは困難である。本官の意見では、彼らはこれらの軍律を制定することによって、なんら罪を犯したものではないのである。

 われわれが忘れてならないことは、空戦の真の惨禍は、幾人かの航空機搭乗員が捕えられ、惨殺される可能性にあるのではなく、無差別的な爆弾の投下や投射物の発射によって起こる大きな破壊にあるのである。人類の良心が反感、憤怒の情を抱くのは、無残な爆撃手に与えられた処罰に対してではなく、むしろその爆撃の残忍な方式に対してである。

 これらの軍律に基づいて行なわれた裁判に関しては、本官は被告のいずれの者も有罪とする確たるものがあると思わない。たといわれわれが委員会によって提案された諸規則を基準として判断しても、それをまったく無視した爆撃が行なわれたのである。いずれにしても、もし軍律会議がそれを事実として立証し、それに従って航空機搭乗員を戦争犯罪の廉で有罪と宣告したのであったならば、本官は司令官あるいは内閣の閣員あるいはまた参謀本部の首脳の何ぴとも、その判決に反対しなかったことによって、犯罪を犯したと言うことはできない。

 裁判なしに行なった処刑に関しては、われわれは再び関係当局が、軍律会議による裁判を特に明瞭に強制したことを示している法廷証第1、991号ないし第1、993号を参照することが至当である。確かに彼らはこれらの不法行為を命令し、授権し、または許可したとは言い得ないのである。

 裁判なしに行なわれた航空機搭乗員の処刑と主張されている事件は、その基礎となっている証拠とともに左に注記してある。本官はまず最初に、本件のこの部分を支持する検察側の証拠は、ほとんど(←正誤表によると「ほとんど」は誤りで「概して」が正しい)無価値であると述べたい。われわれにはJAG報告書というものの抜粋が提出され、同報告書は、米軍「法務部長」によって作成されたものであると聞いている。法務部長というものは、高級な地位にある、責任ある人物であることには疑いはないであろう。しかし同報告書の基礎をなしたであろうところの資料が、本法廷に提出されていない限り、本官は彼の権威だけによってそれを受諾する用意はない。もし彼の結論がほんとうに関連性のある資料に基づくものであるならば、われわれはその資料を入手して、そしてわれわれ自身も同一結論に到達し得るかどうかを質する(←「質す」が正しいだろう)権利を有するものである。異なった人々の考えは、証拠の結果に関して異なることもあり、従って同じ事由に関してでさえ異なった決定に導かれるものである。しかしわれわれは、前記の法務部長が取り扱ったのとは異なった事由のために、ここに集まっているのである。彼の結論がまったく証拠に基づくものでなく、または関連性のない証拠に基づいたものであるかもしれない限りにおいて、これらの証拠は無価値であり、却下されなければならない。

 この問題に関して検察側が依存した他の一団の証拠は、『日本の戦争法規違反に関する調査報告』と言われているものである。本官は同報告書の作成者がどういう人物であろうとも、その結論に対して、より以上の敬意を表するものではない。報告書は調査としてはきわめて貴重なものであるかもしれない。しかし本官は多数の者の生命と自由がかかっている事件においては、研究や調査の結果に対する尊敬の念はもつが、これに従って事を決する意思はない。

 証拠の大多数は信ずべきいかなる保証もなく、法廷外において作成された信頼性の不明な人々の供述書である。これらの人々の真実を述べる能力、及び彼らがそれを進んで行なったかどうかは、いずれも未だ考査されていない。

  1、ブーゲンヴィル――法廷証第1、875号、法廷速記録第14、131頁及び法廷証第1、877号、法廷速記録第14、133頁

    法廷証第1、875号は、第十七軍憲兵隊付のワタナベカオル陸軍大尉及びイトウタイチ陸軍少佐の訊問調書である。同調書は明らかに以上の二名の裁判に使用するために、法廷外で作成されたものである。

    訊問中において、タイオフ島とブーゲンヴィルのポートン間の海中に墜落した二名の米国飛行士が、第十七軍憲兵司令部の命令によって斬首されたことが自認された。これは1943年12月に起こった事件である。

    法廷証第1、877号は法廷外で書きとられた一中国人チャーチーの陳述で、同人は1941年12月、香港において日本軍によって捕えられたと称している。彼の陳述は次の通りである。すなわち、『1943年5月私は、ブインの近くで、飛行士が着るような外衣を着た一人の白人を見かけた。彼は青年であった。日本人は彼の両手を後ろで縛り地上に座らせた。彼らは熱湯を入れたドラム缶を彼の側に置いた。そして約9人の日本人が順々に彼の前を通り過ぎ、彼に熱湯をブリキ缶に一杯ずつ灌ぎかけた。彼は苦しさに泣き叫んだ。私は彼がぐたりと地上に倒れ、静かに臥すのを見たが、彼は泣き叫ぶのを止めた。私には彼は死んだものと思われた。この日本人たちは兵士で将校ではなかった。その白人は、背が高くて中肉で綺麗に鬚を剃っており、好男子であった。外衣はカーキ色であった。私はこれを目撃した唯一の中国人である、』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)というのである。右陳述は下級戦争犯罪人の裁判において使用するためにも書きとられたものである。

  2、ニューブリテン 法廷証第1、866号、法廷記録第14、123頁及び法廷証第1、873号、法廷記録第14、129頁。

    法廷証第1、866号は、法廷外で書きとられた連合軍情報局ジョン・ジー・マーフィー大尉の陳述である。同人の陳述は次の通りである。すなわち、『ニュージーランド空軍に属する、ノーマン・ヴィカスは俘虜として我々とともにラバウル、トネル・ヒル・ロード近傍にいました。彼はブーゲンビル・ショートランド地区で撃墜されたと申したと私は記憶しております。彼はラバウルの俘虜収容所に到着したとき、彼は惨酷に虐待されていました。彼は縄で縛られていて、その縄には魚釣り用鈎が着けてあり、彼が頭を動かそうとするたびに、その釣り鈎が彼の顔に刺さるようになっていました。ヴィカースの健康は悪化し1944年7月、彼は私の面前で、栄養不良並びに赤痢の結果、死亡致しました、』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)というのである。

    法廷証第1、873号は法廷外で書きとられた印度軍のハヴィルダー・チャンギラムというものの陳述である。その陳述は次の通りである。すなわち、『1944年11月12日、私は日本の貨車のために、トタビル地区において塹壕を掘っていた。午後4時頃単発の米戦闘機が私の働いている所から百ヤードほど離れた所に不時着陸した。剛(←この漢字一文字判読困難。英文では「Go」とあり、「剛」に見えないこともないので、一応「剛」にしておく)部隊ケンデボ・キャンプに属している日本人は急いでその地点に往き、19才位の操縦者を捕えた。彼は日本人が到着する前に自分で飛行機から下りた。イナモラ(←「イナモラ」とあり英文も「INAMORA」となっている)将軍もそこの日本軍司令部に住んでいた。不時着陸の後、半時間ほどして、日本憲兵隊が連合軍操縦士を斬首した。私はこれを樹木の後ろから見て、日本人が操縦士の肉を腕、脚、胸、臀から切り取って、それを自分たちの宿舎に運んで行くのを認めた。私はその光景に驚いて、日本人がその肉をどうするか一寸見ようと思って後をつけて行った。彼らはその肉を小さく刻んで、油で揚げた。午後6時頃ある日本軍高級将校《少尉(←正誤表によると「少尉」は誤りで「少将」が正しい)》が150名ほどの大部分将校の日本人に演説した。演説が済んだ時、揚げ肉が一切れ宛全出席者(←「一切れ(が)全出席者宛」と読むのだろうか)に与えられ、彼らはその場でそれを食べた。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)というのである。

  3、ニューギニア 法廷証第1、836−B号、法廷記録第14、075頁、法廷証第1、846号、法廷記録第14、096頁。

    法廷証第1、836−B号は鹵獲された日記帳からの抜粋で、一日本兵俘虜が述べたことを記録したものである。1943年3月18日高射砲に射ち落されたダグラス機の乗組員二人のうち一人を、同月29日駒井部隊長が斬首したときの様子を述べたものである。鹵獲された日記帳は裁判所に提出されなかった。その日記の所有主並びに著者の所属部隊は不明である。日本語で書いてあればよいと思う。

    法廷証第1、846号は日本の第二軍第三十六師団第五十三野戦高射砲大隊に属する大尉オノ・サルトの訊問調書を記録したものである。オノ・サルト(←「オノ・サルト」と2回出て来るが、英文はいずれも「ONO,Satoru」となっており「オノ・サトル」とするのが正しい)は自分が吉野部隊長に対して殺害用に供すべき捕虜を、一名手に入れたい旨申し出たと述べている。二人の俘虜の引渡しを受けた彼は、その俘虜をシャベルで刺突すべく命じた。これは1944年のことであった。同人がかような行動に出たのは、米軍が彼の放列を爆撃したため、激しい敵意に駆られていたゆえであった。

  4、アンボン 法廷証第1、830号、法廷記録第14、063頁、法廷証第1、831号、法廷記録第14、071頁。

    法廷証第1、831号は日本海軍兵曹長吉崎の訊問調書の記録である。ここに陳述しているところによれば、同人は1944年8月29日、ガララ俘虜収容所の米軍飛行士三名の斬首に参加した。これは上官の命令による行動であった。同地方はその前日、米軍航空機によって爆撃を受けていた。

    法廷証第1、830号は法廷外で書きとられた米陸軍航空隊の中尉ポール・アルフレッド・スタンズベリーの陳述である。この供述者は、『1943年9月21日カイ島に墜落せるB−24に搭乗していた爆撃手』であったということである。その陳述は次の通りである。すなわち、

    『墜落の際、乗組員は重傷を負い、航空士は飛行甲板に釘付けにされた。日本軍の小艇が一隻出て来た。航空士以外の飛行士は俘虜となった。日本人たちはその航空士に対し何をしてやることも拒絶し、棄て殺しにした。その他の飛行士はアンボンに連れて行かれた。彼らは蚊で充満した監房に入れられた。毛布も、夜具も、蚊帳もなかった。監房の中では日の目も見えず、通風装置もなかった。米象のついた小量の米飯をあてがわれ、飢餓に苦しんでいた。何ら医薬の手当ては受けなかった。68日間ほとんど毎日殴打交じりの取調べを受けた。その後、本供述者並びに仲間の一飛行士は船で日本に送られた。たびたび番兵に殴打された。両人とも脚気で不随になったが、60日間の航海中、何の治療も受けなかった。この供述者の麻痺は9ヶ月、同僚飛行士のは20ヶ月続いた。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文。また、最後のカギ括弧はないが、補っておく)

  5、セレベス 法廷証第1、798ないし1、803号、法廷記録第13、846ないし13、865頁、法廷証第1、810号、法廷記録第13、920頁。

    法廷証第1、798号は1944年9月3日に俘虜となった飛行士二名に関するものである。

    法廷証第1、799号は、1944年9月下旬一航空機が墜落した時に生き残った飛行士8名に関するものである。

    法廷証第1、800号は1944年10月中の飛行士9名、1945年1月中の同一名、及び1945年2月中の同二名に関するものである。

    法廷証第1、801号は1945年7月の事件に関するものである。

    法廷証第1、802号及び第1、803号は、1945年3月23日の飛行士4名の死刑に関するものである。

    これらはすべてセレベスの俘虜収容所において、下級の戦争犯罪人に対して行なわれた訊問の調書である。

    法廷証第1、810号は『1945年11月5日ブリスベンにおいて、マンスフィールド裁判官の面前にて取りたる証言』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)である。ここで関連性のある陳述は次の部分である。すなわち、『捕縛された連合軍航空機搭乗者は殺害されたのであった。メナドで射落とされたりあるいは不時着した連合軍航空機搭乗者は全部殺害されたということを私は聞いた。トッキ隊が彼らを殺害したのだということであった。私がトッキ隊建物で働いていた時に私は三名の航空機搭乗員――米人であったと信ずる――を見かけた。1945年6月あるいは7月頃我々は彼らが監獄にいたのを見かけた。彼らはトンダノ(←「トンダノ」というのは地名のようだ)で処刑されたものと私は思っている。ステルマ氏は監獄に入れられ竹片を爪の下に押し込まれた。トッキ隊がこれをなしたのであった。――山口は彼らの長であった。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

  6、バタヴィア 法廷記録第13、601頁。

    ここで根拠となっている証拠はリンガーの証言である。同証人は次のように述べている。すなわち、(ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『ジャワの苦力の頭が報告しましたのに、1月25日に空襲がありまして、そのうちの二人の飛行士が滑走路近くに落下傘で降りて来たということでありました。彼らの一人は、滑走路上に降りたときに、早速彼の首は斬られてしまった。そうしてもう一人の方は木に吊るされて銃剣で刺殺されておりました。もう一遍ありましたが、1945年1月29日朝、燃えている飛行機が滑走路の上に不時着陸をしようとしました。飛行機から出て来ました二人の飛行士は、日本軍によって焔の中に再び投げ込まれました。降伏直後に・・・・私たちはまだバレンバンにおいて、この二回の空襲によって降りて来たところの7人の飛行士が衆人の前に曝されておったのを見ました・・・・我々はこの7人の飛行士の運命はどうなったかということを聞きました。

    『彼らは全然知らないと言いました。われわれは憲兵隊の建物を捜索いたしまして、彼らの名前が監房の壁に書いてあるのを発見いたしました。そして遂に彼らは、これらの人間はシンガポールに送られたのだということを容認いたしました。1945年6月にこれらの人間はシンガポールで死刑に処せられたのでありまして、日本側の責任者は(←正誤表によると「責任者は」は誤りで「責任者は一切を」が正しい)告白した後に自殺をしてしまったのであります。この事件は「メリディアン作戦」として知られております。』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

  7、ボルネオ、法廷証第1690号、法廷記録第13、500頁

    法廷証第1690号は日本海軍津田兵曹長の陳述となっている。これによると1945年2月、東部ボルネオのサマリンダにおいて、米国飛行士三名が首をはねられた。

  8、ビルマ、法廷証第1574号、法廷記録12、976頁。

    法廷証第1547号は、法廷外でとられた英緬混血のロバート・アンドルー・ニコルの陳述である。この事件の日付を彼は『1945年の2月もしくは3月、どちらか想起することが出来ませぬが、その7日』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と述べている。彼によればその航空兵の姓名は『英国エセックス州チングフォード出身のスタン・ウッドリジ(←正誤表によると「ウッドリジ」は誤りで「ウッドブリッジ」が正しい)』であった。裁判官側には英国空軍に果たしてそういう航空兵がいたか。また果たしてこの航空兵が事実死んでいるのかどうかさえも、わからないのである。証人自身の証言によれば、証人は偶然にこの事件を目撃したのにすぎない。『日本軍のラングーン占領前は私は常にラングーンに居住していましたが、日本軍の来市が次第に近づきますと同時に1941年2月20日ラングーンから撤退し、19445年5月25日までミャウンムヤに滞在していました。1945年2月もしくは3月、どちらか想起することが出来ませんが、その7日水曜日、10時頃、ミャウンムヤの私の家の前に一台の貨物自動車が停り、バー・フライングという若い、ビルマ人が一人の日本兵《三ツ星》に伴われて私の家へ来て、私に英語及びビルマ語を流暢に話せるかと尋ねました。私が出来ると答えますと、随行するように、と言われました』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と証人は述べている。何故一行がその林の中で事を運ぶ手筈を整えたのかという理由については何も陳述がない。明らかなのは、そのとき以前役に立つ通訳がいなかったため、この英国の航空兵の訊問を行なうことができなかったのだということである。

  9、漢口、法廷証第1891号、法廷記録第14、162頁

    法廷証第1891号は、1945年11月4日付の俘虜に関する中央諮問委員会の報告書第12部である。本報告は1944年12月、中国漢口における米国航空兵三名の殺害を記している。同報告は以下のようである。すなわち、

  (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『1945年11月4日、鏑木(かぶらぎ)少将

  『1、事件の内容

  『1、昨年秋頃以来漢口市街に対する無差別銃爆撃により市民住宅に相当の被害ありしのみならず市民なかんずく中国軍の死傷者、多数を出し市民の憤激次第に激化せり

  『漢口市青年団《?》は右無差別銃爆撃の報復手段として漢口市街の攻撃に参加せる米軍飛行士を市中行進せしめこれに対し市民は殴打暴行を加えたり。

  『その実施の方法手段程度等に関しては詳知しあらず。

  『3、右事件は実効前漢口市青年団《?》より第三十四軍司令部に対し実施許可方申出ありたるも軍司令官《佐野中将》は当初俘虜の虐待は国際法違反なるのみならず米国に抑留せられある日本人の取り扱いに悪影響あるべきをもって許容せられざりしも青年団は右は無差別銃爆撃に対する報復手段にしてかつ中国民衆の責任において実行し日本軍には絶対迷惑を掛けざるにつき是非実施を許可せられたき旨再三懇願し来たりしをもって右実施を許可せられたり。』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

  10 フィリッピン・セブ市、法廷証第1461号、法廷記録第12778頁

     検察側は法廷証第1461号を、『法務部報告書第72号の証拠要約で、1945年3月セブ市における二人の米国飛行士俘虜の殺害に関するものであります』と述べている。

     処刑は1945年3月26日に行なわれたと言われている。

  11、シンガポール、法廷証第1514号、法廷記録第12927頁

     法廷証第1514号はオーストラリアのアレキサンダー・ゴードン・ウェイントン中尉の法廷外でとられた陳述書である。本陳述中の関連性ある部分は以下のようなものである。すなわち、

     (原資料ではここから漢字片仮名交じり文)『1944年3月8日私は、1944年2月25日日本裁判所が私に課した懲役10年の刑に服するためクッチンからシンガポールへ護送された。同じ裁判所で懲役を宣告された19名の他の捕虜が私と同行した。

     『1944年3月11日、我々は「アウトラム・ロード」監獄へ連れて行かれた・・・・

     『1944年12月、もしくは1945年1月シンガポール空襲中B29一機が撃墜され、火を発した。搭乗員の二人は非道く火傷した。この二人はアウトラム・ロード監獄に連れて来られた。二人はまさに火傷だらけの一つの塊であった。そして頭から足まで黒くなっていた。二人は一つの監房に収容されたが何一つ医療を受けることを許されなかった。

     『1945年6月、ある土曜日の午後私は9名の連合軍航空隊員の一隊が監房から引き出されるのを見た。彼らは厳重に武装した一名の監視と日本人の埋葬班に引率された。この一隊の幾人かは日本人の模範囚であった。数日後その数人が9人の航空隊員は首を切られ、自分たちがその埋葬を手伝った旨を私に語った。

     『すべて1945年5月から7月にかけて私は17人の連合軍航空隊員と15名の中国国籍の一般人が処刑のため同様な状態で連れ出されるのを見た。埋葬班は帰ってきたが、俘虜たちは帰ってこなかった。埋葬班は帰ってきたときあたかも彼らが土を掘っていたかのように汚れていた。私は便壺を取りに行く仕事で航空隊員たちの監房を往復したので彼らと多少接触する機会があった。彼らは公判に付されなかったと私に話した。

     『私は1945年8月日本軍が降伏した時釈放された。』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

     一体どうして公判が云々されるに至ったのか推測しがたいところである。

 12、日本本土、法廷証第1921号ないし1924号、法廷記録第14204頁ないし14218頁。

    これらの法廷証は1946年1月9日付の俘虜に関する日本中央諮問会報告からのものである。

    法廷証第1921号は同報告書の第23部(ここから※印までは、正誤表により、挿入するように指示されている文章である)である。右報告には次のようにのべてある。すなわち、

    『東部地区内において捕獲せられたる連合軍搭乗員は軍律違反の疑いあるときは軍律会議により処分せらるるか又は不起訴となれば俘虜収容所に収容し一般俘虜としての取り扱いを受くるかの二途に区分せらるるものなるところそれ以前においては先ず軍律違反容疑者として東部憲兵隊司令部の留置場に留置しありたり。・・・・留置間において死亡者17名を出だせり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

    同報告書に以下の事件の記録がある。すなわち、

    (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『1、東京陸軍刑務所内の監禁場において、1945年5月25日夜の空襲により、収容中の軍律違反容疑者62名が焼死した。(※)

    『2、千葉県日吉村に墜落せる重傷したB29の搭乗員一名を介錯したる件(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)、すなわち同搭乗員は、1945年5月26日、挺進隊の日本人大尉(←「挺進隊の日本人大尉」とあるところは、英文では「the Japanese captain of the patrol」)の命令によって斬首されたのである。報告書はさらに、死後において銃剣によって刺突した形跡があるようであると付け加えている。

    (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)3、昭和20年2月11日東海軍管区開設以来終戦に至るまでに管区内に降下せる連合軍で飛行機搭乗員生存者は44名にして内初期の6名は軍事目標を攻撃せること明白なるをもって俘虜として収容しもって5月14日降下せる11名は無差別爆撃をなし戦時重罪犯人たるの疑い濃厚なりしをもって軍律会議に付す5月下旬以降さらに降下せる27名は非人道的無差別爆撃の事実明瞭なりとして当時の状況下軍律会議の正式手続を省略し軍律によりこれを処断せり。

  4、第十三方面軍司令部《東海軍管区司令部と二位一体の作戦軍にして職員も大部軍管区司令部と兼任なり》は本年5月頃にありては連合軍の本土上陸を8月頃と判断しありて当時全軍作戦準備に専念し司令部業務また繁忙を極めありたまたま5月14日名古屋市の無差別爆撃に参加せる搭乗員11名を受領しこれを軍律会議に付すべく審議中なりしもなお引き続き空撃の激化に伴い搭乗員もさらに増加するの状況にありしかして5月下旬以降にありては敵の爆撃は市民の殺傷と民家の焼夷爆撃に転移しあるものの如くこれら搭乗員の調査によるも明瞭に察知せられたり。

     しかして時日の経過とともに作戦業務はますます繁忙となり諸般の状況は迅速に処置するを要する状態にありかつ無差別爆撃による被害は官民の徹底せる努力にもかかわらず絶大なる数に上りその敵愾心は最高潮に達しあり又一方連日の相継ぐ猛烈なる空襲下これら搭乗員の管理は困難を極めありすなわち方面軍においてはかかる状況下これら搭乗員を手続繁雑なる軍律会議に付し時日を遅延せしむるは全く当時の状況に合せざるものありとなし、11名は6月28日瀬戸市赤津町宮地山中において、16名は7月14日司令部第二庁舎裏においてそれぞれ刑を執行す。』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

     法廷証第1922号は、同報告書の第24部であり、その日付は1945年12月26日となっている。報告書は次のように述べている。

     『中部軍管区内において日本軍の捕獲せし連合軍飛行機搭乗員は総数約49名にして、内3名は東京に送致、約6名は傷病死、2名は軍律会議において審判の上処断、残余の約38名はこれを軍律会議に付議することなく処断せり。

     昭和20年6月以降空襲の激化に伴い捕獲せし搭乗員の数も漸次増加し、これらは前記通牒に基づき、すべて中部憲兵隊において十分調査を行ない、軍律違反の証拠を挙げたるも、第十五方面軍司令部《中部軍管区司令部と二位一体の作戦軍にして職員も大部軍管区司令部と兼任なり》は激化する空襲と米軍の本土上陸に対する防衛作戦の準備に忙殺せられ、法務部又軍秩違反の事件の処理に忙殺せられありたるため、遂にこれら搭乗員を軍律会議に付することを得ざりき。

     当時中部軍においては昨年秋以来の空襲の激化特に本年3月以降東京、名古屋、大阪、神戸等に対する無差別焼夷弾爆撃のため多数の人命と私有財産を焼毀せられ、国民の憤怒特に搭乗員に対する反感ますます盛んなりと観しありたり。

     右の状況において中部憲兵隊は搭乗員の処置に関し中部軍管区司令部より指示なきため、東京憲兵司令部に連絡し、かつ7月上旬の第一回の処断にあたりては、軍管区司令部とも連絡の上これを実行せり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

     法廷証第1、923号は、報告書の第27部であり、その日付は1946年3月27日となっている。報告書は次のように述べている。

     (ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『B 捕獲飛行機搭乗員に対する当時国民一般の感情について

     連合軍飛行機の本土空襲開始せられ、重要施設の爆撃引き続き行われ、各所に非戦闘員の生命財産等の損害続出するに伴い国民の敵愾心は漸次募りつつありしが、3月に入り東京、名古屋、大阪、神戸等の大都市相次いで焼夷弾による無差別爆撃を蒙り、莫大なる損害を生ずるや国民の感情は俄然激化し、敵愾心はますます昂揚せられ、捕獲飛行機搭乗員に対する一般の輿論は著しく硬化せられたり、その後連合軍飛行機による無差別爆撃ますます激化してやむことを知らず、国民の復讐心はその極みに達し、落下傘降下せる日本軍飛行機搭乗員に対してすらその識別の余裕を失い、動もすればこれに危害を加えんとするの事例の発生を見るに至れり

     C、処断発動に関する中部憲兵隊司令部と憲兵司令部との関係について

     1、昭和20年春夏の交においては、本土空襲の激化に伴い捕獲飛行機搭乗員の数もまた相当の数に上りたるも、各軍においては各種の事由によりこれらを速やかに軍律会議に付し得ざりしため、これらを収容しありたる各地の憲兵隊はその収容施設の狭隘と相俟ってこれが収容に困難を感じありたるをもって、憲兵司令官陸軍中将大城戸三治は諸般の情勢を考察の上、昭和20年6月頃憲兵司令部外事課長陸軍憲兵大佐山村義雄の名をもって捕獲せし飛行機搭乗員の取り扱いに関する私信を北部、東北、東部、東海、中部、中国、四国及び西部各憲兵隊司令官宛発送せしめたり。

     2、この私信の趣旨は、憲兵司令部関係者の記憶によればおおむね次の如し。

     捕獲飛行機搭乗員に対する軍律会議は一般に停頓しあるため各憲兵隊はその収容人員逐次増加しこれが取り扱いに困難を極めあるが如し、この際憲兵としては軍律会議の促進を切望するものなり、しかして彼らの内には非人道的無差別爆撃を行ないしものもあるべく、これらは速やかに軍律に照らし厳重処分するを至当とすべし。

     もし速やかに軍律会議に付し処置すること不可能なりとせば他に便法を考え、然るべき方法により処置することもまたやむを得ざるべし。然れどもこの二方法の何れを採るべきやは軍管区司令部の管掌事項にして、憲兵の専行すべきものにあらざるをもって所要に応じ関係軍管区参謀長に連絡するを可とすべし。なお本件は各軍管区参謀長の自主的判断に俟つべきものなりと付言せるものの如し。

     3、前項の私信を受領せし中部憲兵隊司令官陸軍少将長友次男の言によれば、同少将は当時増加せる捕獲飛行機搭乗員の収容に困難を感じ何らか打開の要を痛感しつつありたる時なりしをもって、この私信の精神はこれら搭乗員の急速なる処断にありと判断し、部下将校に命じこれが処断の準備をなさしめたるものの如し。

     D、処断発動に関する中部憲兵隊司令部と中部軍管区司令部との関係について

     1、前述の私信を受領せし中部憲兵隊司令官長友少将は6月末頃《あるいは7月始め頃》中部軍管区参謀長陸軍中将国武三千雄を訪問し「捕獲飛行機搭乗員の調査は、実施の結果に徴するにその陳述するところ何れも同様のもの多きをもって、今後はいちいち情報を呈出せざることあるべく、又これら搭乗員は適当に処置したき」旨申し出たるをもって、国武中将はこの提言が搭乗員処断の如き重大なる交渉なりとは思惟せず、単なる情報通告なりと判断し「承知せる」旨を答え、もっぱら当時繁忙を極めたる作戦準備及び空襲対策に専念せり

     なお国武中将の言によれば、長友少将の来訪の目的が憲兵司令部よりの私信に基づく重大事項の連絡なりとは夢想だにせざりしものの如し。

     2、7月上旬頃《月日不正確》中部憲兵隊司令部陸軍憲兵少佐志内猪虎麿(←「シナイイコマロ」と振り仮名あり)は中部軍管区参謀陸軍大佐大庭小二郎を訪問し「憲兵司令部より連絡もありたるをもって目下中部憲兵隊に収容中の捕獲飛行機搭乗員を処刑する」旨申し出たるにより、大庭(←「オーバ」と振り仮名あり)大佐は「処刑すべき搭乗員は確実に無差別爆撃を行ないたりとの証拠あるもののみなりや」と質ねたるに、志内少佐は「然る」旨答えたるものの如し。

     ここにおいて同大佐は、この処拠が(←正誤表によると「処拠が」は誤りで「処断が」が正しい)中部憲兵隊において管理しある捕獲飛行機搭乗員に関する事項にして又憲兵の隷属系統の上級官衙(かんが)たる憲兵司令部よりの意図に基づくものありと判断したるため、軍律の精神に照らし処刑するものなるにおいてはやむを得ざるべしと考え「憲兵隊において処刑するならばやむを得ざるべし」と答えたるものの如し(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

     法廷証第1、924号は報告書の第25部であり、その日付は1946年1月23日となっている。報告書は次のように述べている。

     『西部軍管区内において日本軍に捕獲せられたる連合軍飛行機搭乗員の内約8名は昭和20年6月20日《第一次》又別の約8名は同年8月12日《第二次》又別の約15名は同年同月15日《第三次》それぞれ同軍管区司令部職員等により殺害せられたり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

     報告書はさらに第1頁より始まる第3、第4及び第5節において、次のように述べている。

     『3、第一次の処断について

     昭和19年末以来連合軍により内地の各都市相次いで焼爆撃を蒙るに至るや、軍官民全般の敵愾心は漸次強化せられ、なかんずく軍管区司令部所在地たる福岡市が昭和20年6月19日空襲を受け市街の要部焼土と化し、一般民衆の多数罹災するの惨状を呈するや、敵愾心はさらに著しく激化せられたものの如し。

     前項の如き状況において、約8名の捕獲飛行機搭乗員は6月20日軍管区司令部構内において軍管区司令部職員等により処断せられたり。

     4、第二次の処断について

     8月に入るや米軍の広島市及び長崎市に対する原子爆弾攻撃相次いで実行せられ両都市民衆の大部罹災し、しかも惨状まことに言語に尽くし難きものあるに至るや、一般の敵愾心は再び極度に激化せられたるものの如し。

     前項の如き、状況において、約8名の捕獲飛行機搭乗員は8月12日福岡市西南方油山火葬場付近の山中において軍管区司令部職員等により処断せられたり。

     5、第三次の処断について

     8月15日終戦となるや、九州地方においては各種の流言飛語乱れ飛び、特に連合軍の一部既に上陸せし等の造言生じ、婦女子の非難等福岡地方は名状すべからざる混乱に陥り軍管区司令部内、一部将校等においては激烈なる敵愾心を生ずるに至りたるものの如し。

     前項の如き状況において、約15名の捕獲飛行機搭乗員は8月15日福岡市西南方油山火葬場付近の山中において軍管区司令部職員により処断せられたり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 本官はすでにこの報告を全体として容認することの困難であることを示した。しかしそれが容認できるとしても、それは本件の被告中のだれについてもなんら有罪であることを立証するものではない。

 裁判を行なわずに処刑した事件は、実際は日本から遠く離れた諸戦闘地域で起こった偶発事件であった。

 日本内地においては数件あるが、これはいずれも情勢が極度に混乱していた1945年に起こったものである。

 日本国内のこれらの事件に当時関係があったと考えられる被告は、小磯、重光及び東郷だけである。われわれは1944年7月22日すでに東条内閣が倒壊したことを記憶しなければならない。1944年7月22日から1945年4月7日まで小磯内閣が政務処理に当たっており、被告のうち小磯及び重光だけがその閣員であった。1945年4月7日から同年8月17日までは鈴木内閣が存在したのであり、被告のうち東郷だけがその閣員であった。

 いずれにしても、当時の日本における情勢に鑑みて、本官は、これらの遺憾な処刑を阻止することを怠ったことについて、被告が、刑事的責任を有するものとは認めないのである。失敗は常に過失を意味するものではない。


   第7部


 勧告


 以上述べてきた理由に基づいて、本官は、各被告はすべて起訴状中の各起訴事実全部につき無罪と決定されなければならず、またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張しようとするものである。

 本官は起訴状に列記されたどの国に対するどの戦争にしても、それが侵略的であったかどうかということは考察しなかった。戦争というものが犯罪的性質を有するか否かについて本官のとっている法律観は、本官がこの問題に触れることを不必要にしている。さらに本官は国際社会における諸国家の一般に広く行なわれている行為を念頭においた際「侵略戦争」を定義づけるにあたって、本官の感ずる困難をすでに述べておいた。

 本件の取り上げ方として可能なる道が確かに一つあるのであるが、本官は未だそれには触れていない。戦勝国は、日本の軍事的占領者として「公共の秩序及び安全を確保する」ために1907年のヘーグ条約第四の第43条に基づいて行動することができ、またこの権力は戦勝国に対して、かような行動をとるに至るべき情況とその目的のために戦勝国が必須と考える行動とを定める権利を与えていると言われている。

 まずナポレオン・ボナパルトの事例が挙げられ、それから1907年のヘーグ条約第43条が挙げられた上、世界の公共の秩序及び安全を確保するために、戦勝国は、いかなる被告にしても、将来彼がなんらか害をする可能性が少しでもあるいかなる生活の分野からも、これを除去するあらゆる権利を有するものであると主張されている。

 本官は、これは事実上法律的正義を口実として戦勝国の政治的権力に訴えるものであると信ずるのである。これは単に『便宜の問題をもって合法性の欠如を補う』にすぎないものである。

 本官はすでにナポレオン・ボナパルトの事例をあげ、いかにこの時代においてさえ彼の事件で生ずる正確な法律的立場に関して、相当な困難が感ぜられ疑念が抱かれたかを指摘したのである。ナポレオンの拘禁という最後の措置をとった者は、この目的のために彼らの属する国家の立法府から得たある権限を具備することが必要なことを知ったのである。ジョージ3世治世第56年度法律第22及び23号はこの権限を賦与するために制定されたものである。

 1818年エックス・ラ・シャペルの会議において連合国はナポレオンに対する措置をとるにあたり、その事件は国際法の適用範囲外であるという仮定のもとに行動を進め、かような仮定をする理由を述べたのである。本官は国際法の目的のためにわれわれが彼の事件から、利用価値のあるどのような原則を引き出すことができるか了解できない。この事件はきわめて狭い内包範囲しかもたない特定の原則を生み出すにすぎず、また本官の意見では、その外延範囲も極度に限定されたものである。もとより、かような法則でさえも、時としてはその元来の論理的内容によって包括される分野を越えて適用し得るということについて、われわれは疑いをさしはさまない。しかし、かような外延的適用は、その外来の分野と実質的、根本的に異なった分野にまで延長してはならない。本官はヒットラー一派の立場を知らない。あるいは彼らの事件(←正誤表によると「事件」は誤りで「場合」が正しい)をナポレオンのそれと同一視することができたかもしれない。

 連合国は、ボナパルトがフランス統治権を簒奪するのを阻止するために武力を行使することは、国際法によって正当化されているものと考え、この正当化事由によって、フランスそのものが連合国の敵でないときに、ボナパルトと彼の追従者に対して連合国の敵として戦争を行なったのである。ボナパルトは単に『一般に認められた政治的性格のない無形の力の長』にすぎないものと名づけられ、従って文明国によって公的権力に当然与えられる利益及び礼儀を要求する権利がないとされた。もしヒットラー一派がドイツの立憲政治を完全に窒息させ、彼ら一派の裁判において証拠として提出されたような方法と程度において権力を簒奪したとしたならば、右のボナパルトの立場がまたヒットラー一派の立場であったであろう。おそらく両者いずれの場合においても、そのいわゆる国家は、――もしそれを国家と呼び得るとすれば――社会の趨勢の影響から離脱し、意識的にその社会と相対立する立場に立つことに成功したものである。

 本件の被告の場合はナポレオンやヒットラーのいずれの場合ともいかなる点でも同一視することはできない。日本の憲法は完全に機能を発揮していた。元首、陸軍及び文官はすべて社会といつもと変わらずまた常態を逸しないで相互関係を維持していたのである。国家の憲法は社会の意思との関係においては従来と同様の形のまま存続した。輿論は非常に活発であった。社会はその意思を効果的にするための手段を少しも奪われていなかった。これらの被告は憲法に従い、また憲法によって規定された機構を運営するためにだけ、権力ある位置についたのであった。彼らは終始輿論に服し、戦時中においてさえも輿論は真実にかつ活発に役割を果たしたのである。今次行なわれた戦争は正に日本という国との戦いであった。これらの人々はなんら権力を簒奪したものではなく、確かに彼らは連合国と戦っていた日本軍の一部として国際的に承認された日本国の機構を運営していたにすぎなかったのである。

 1907年の第四ヘーグ条約第43条に訴えることは、なるほどこれらの人々を裁判するための口実を求めようとするように見えるかもしれない。戦争犯罪人の処罰に関する審議の出発点は、1907年10月18日の第四ヘーグ条約でなければならないと、われわれは言われている。この条約は本質的に近代ヨーロッパ学識の産物であり、それゆえに本質的に近代ローマ法(←「ローマ法」とは、古代のローマ時代の法のことであるが、その古代のローマ法の影響を強く受けた近代のヨーロッパ大陸の法を意味する場合もある。一般に「大陸法」と言われ、成文法主義をとるのが一般である。そして、判例法主義の英米法と対比される)及び近代ローマ法典編纂の伝統を反映していると唱えられている。さらにまたこの条約の解釈にあたって、法律的または法学的方法に関する英米の概念だけに従うとか、あるいは法における目的の役割に関する近代法律理論を看過するとかすれば、それは同条約の趣旨を歪曲または誤解することになると、われわれに対して言われている。もしこの条約の解釈及び執行が、法律的方法に関するローマ法学者的概念並びに条約それ自体の本文そのものに述べられている目的または目標に従ってなされなければ、条約そのものは無効果となって歪曲されるであろう。

 『条約それ自体の本文そのものの中に述べられている』と言われる『目的または目標』に言及されたのは、侵略戦争は犯罪であり、かつ個人的犯罪であるという法律を、勝利者がつくる権利及び権力を第43条の範囲内に持ち込むためである。本官は、この条約は戦争の性質それ自身を決定するところまで、われわれを連れていかないと信ずるのである。その全目的は戦争状態がすでに存在することを仮定して、戦争の法規及び慣例を規定することであった。

 条約参加国は、(ここから原資料では漢字片仮名交じり文)『平和を維持しかつ諸国間の戦争を防止するの方法を講ずると同時にその所期に反し避くること能わざる事件のため兵力に訴うることあるべき場合につき攻究をなすの必要なることを考慮し

 『かくの如き非常の場合においてもなおよく人類の福利と文明の駸々として止むことなき要求とに副わんことを希望し、

 『れがため戦争に関する一般の法規慣例は一層これを正確ならしむるを目的とし又はなるべく戦争の惨害を減殺すべき制限を設くるを目的としてこれを修正するの必要を認め、

 『1874年のブリュッセル会議の後において聡明仁慈なる先見の明より出でたる前記の思想を体して陸戦の慣習を制定するをもって目的とする諸条規を採用したる第一回平和会議の事業をある点において補充しかつ正確にするを必要と判定せり。』(原資料で漢字片仮名交じり文はここまで)

 そうすると同時に、『敵国における軍の権力』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)に関するある規則を、条約付属書第3款中に制定し、第43条はその中におかれたのである。同条は次の通りである。すなわち『国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は占領者は絶対的の支障なき限り占領地の現行法律を尊重してなるべく公共の秩序及び生活を回復確保するため施し得べき一切の手段を尽くすべし』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)。この規定は、交戦中領土が敵軍によって占領された場合適用するものである。第43条に与えようとされる解釈が正しいとすれば、戦争中に領土を占領している軍は被占領地政府によって行なわれた戦争を侵略的及び犯罪的であると宣言する権利を有するものであって、もし同政府要員のだれかを捕えることに成功したら、同要員の裁判のための法規を明定する条例を制定して、彼を裁判に付し、有罪と宣告する権利を賦与されるものである。本官はかりそめにもこれが1907年のヘーグ条約に参加した諸国の『目的及び目標』であったとは考えないのである。

 本官には、かような目的を選り出すために、ヘーグ条約の第43条を牽強付会し、歪曲する用意はない。またナポレオン事件を本件に持ち出す用意もない。国際連合憲章は、連合国各人民によって、明白に、『戦争の惨禍より次代を救う』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)ために、発布されたものであって、『国際連合の目的』は、『国際的平和及び安全を維持すること、及びこれがため、左の措置を執ること、すなわち、平和に対する脅威の防止及び除去のため、並びに侵略または他の平和破壊行為の鎮圧のための集団的措置を執ること・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)である、と明確に声明したものであるが、このように、今次大戦の後でさえ、国際連合憲章が、違反国の個々の国民に対してかような措置をとることを定めなかった事情は、すでに本官の指摘したところである。

 右の憲章の第7章は、『平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)を規定している。この章の規定は、個人に対する措置は少しも考えていない。第7章が規定している強制的行動は、違反者たる集団全体の運用に責任ある者に対し、個人的に発動されることはない、と断定しても間違いはないであろう。

 法律的外観をまとってはいるが、本質的には政治的である目的を達成するために、本裁判所は設置されたにすぎない、という感情を正当化し得るような行動は、司法裁判所として、本裁判所のなし得ないところである。

 戦勝国は、戦敗国に対して、憐憫から復讐まで、どんなものでも施し得る。しかし、戦勝国が戦敗国に与えることのできない一つのものは、正義である、ということが言われてきている。少なくとも、もし裁判所が法に反する政治に根差すものであるならば、その形や体裁をどう繕っても、上に述べた懸念は実際上その通りになるであろう。『正義とは実は強者の利益にほかならない』というのでない限り、そうである。

 万一、本裁判所がかような政治問題を決定することを求められているのだったとすれば、審理全体は、全然異なった様相をとったであろうし、また本裁判所の取調べの範囲も、今まで裁判所の許したものより、はるかに広汎なものとなったであろう。かような場合裁判を受ける者の過去の行動は、単に、ある証拠事実を提供するに止まったであろう。真の究極の「証明スベキ事実(←「証明スベキ事実」に小さい丸で傍点あり)」は、世界の「公けの秩序と安全」に対する将来の脅威であろう。かような将来の脅威を判断する資料は、本裁判所には絶対にない。検察側も弁護側も、この点に関する証拠提出は、絶対に要求されなかったのである。この問題は、おそらく今日まで世界に暴露されなかった諸事実の、広汎な調査を確かに必要とするであろう。ナチの侵略者らが葬り去られ、日本の共同謀議者らが獄屋につながれているとき、なお、権威ある筋から、『世界の状態が、われわれの理想と利益を、今日ほど脅かしていることは、史上かつてない』という声を、われわれは聞いている。『憂鬱な事態の姿は、ナチ体制の、高圧的な、計画的行動の再版である』という声を、世界は聞かされている。確かにそうであるかもしれない。または、心中の虚偽によってすなわち、意思と叡智の初期の涸渇によって、欺かれているにすぎないのかもしれない。

 現在、国際世界が過ごしつつあるような、艱難辛苦の時代においては、あらゆる弊害の源泉として虚偽の原因を指摘し、それによって、その弊害がすべてこれらの原因に帰すると説得することによって、人心を誤らせることのきわめて容易であることは、実にだれしも経験しているところである。このようにして人心を支配しようと欲する者にとっては、今こそは、絶好の時期である。復讐の手段に、弊害の本質から見て、それ以外に解決はないという外貌を与えて、この復讐の手段を大衆の耳にささやくには、現在ほど適当な時は他にない。いずれにしても、司法裁判所たるものは、かような妄想に手をかすべきではないのである。

 単に、執念深い報復の追跡を長引かせるために、正義の名に訴えることは、許されるべきでない。世界は真に、寛大な雅量と、理解ある慈悲心とを必要としている。純粋な憂慮に満ちた心に生ずる真の問題は、『人類が急速に生長して、文明と悲惨との競争に勝つことができるであろうか』ということである。

 『われわれは、今まで慣れてきた考え方を急速に変えなければならない。かつてその必要のあった場合より、もっとはるかに急速に変えなければならない。われわれは、組織的に、一切の戦争の主要原因を縮小し、排除することを始めなければならない。』この言葉はまったく正しい。かような原因は、一国産業の潜在的戦争力に存するのではない。問題をこのように見ることは、単に、われわれの現在の問題を、古い問題の単なる再現と観ずることに過ぎない。われわれは、次のことの理解を忘れてはならない。すなわち『現在の問題は、原則的に、新しい種類の問題である。それは単に、一国の問題が、世界的関連をもつというのではない。それは、世界の問題であり、人道の問題であること、議論の余地もないのである。』

 われわれは、『これらの大問題は、1914年以降われわれを悩ました問題が、もっと複雑になって再現したものにすぎない、という考えで、この問題と取り組む』ことをやめなければならない。

 『原子爆弾の意味するもの』をして、『地上の各人民が平和と正義の中に生き得る方法を思慮ある人々に探求させることを怠らせてはならない。がしかし、敗戦国の指導者らの裁判とその処罰の中に示された一連の行動には、上の原子爆弾の意味するものをよく認識している、というしるしは見られないのである。『憎むべき敵の指導者の裁判を注視することによって起こされた、熱狂した感情は、世界連合の根本条件を考慮する余地を、ほとんど残さないものである。・・・・』『一つの些細なこと、すなわち裁判があまりに強調されることによって、平和の真の条件、に対する民衆の理解は増進することなく、むしろかえって混乱させられるであろう。』このように言われたのも、おそらく正しいであろう。

 『この恐怖をもたらした疑惑と恐れ、無知と貪欲を克服』する道を発見するために、平和を望む大衆が、費やそうとする尊い、わずかな思いを、裁判が使い果たしてしまうことは許されるべきではない。『感情的な一般論の言葉を用いた、検察側の、報復的な演説口調の主張は、教育的というよりは、むしろ興行的なものであった』おそらく敗戦国の指導者だけが、責任があったのではないという可能性を、本裁判所は全然無視してはならない。指導者の罪は、単に、おそらく妄想に基づいた、彼らの誤解にすぎなかったかもしれない。かような妄想は、自己中心のものにすぎなかったかもしれない。しかし、そのような自己中心の妄想であるとしても、かような妄想は、到るところの人心に深く染み込んだものであるという事実を、看過することはできない。正に次の言葉の通りである。

 『時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。』


(パル判事意見の本文は以上である。これに続いて原資料では「パル判事判決書 正誤表」と題して正誤表が続いている。が、これはすべて本文に織り込んだので、割愛する)

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