歴史の部屋

 この見解を支持するものは、グルック教授がロンドン国際審議会の戦争犯罪人の裁判と処罰に関する委員会の一員として勤務した後、そして1943年のモスコー宣言が行なわれたのち、すなわち1944年9月に出版された同教授の著書『戦争犯罪人 その訴追と処罰』の中で述べていることである。その第3章において、同教授は、『戦争犯罪人』を次のように定義づけている。すなわち、『本人の軍人としての階級または政治上の地位にはかかわりなく、戦争遂行の目的のために、軍事的、政治的、経済的または産業的準備を各自の公的資格において、(a)合法的な戦争の法規及び慣例、もしくは(b)文明諸国において一般に遵守されている刑法の諸原則に違反した行為を犯した者、もしくは、かような行為を犯すについて扇動し、命令し、斡旋し、相談し、または共同謀議をなした者、もしくはかような行為が犯されようとしていた事情を知りながら、かつそれを防止する義務及び権力を持っていたにもかかわらず、その挙に出なかった者。』

 国際法の諸規範に照らしてこの定義が正当であるか否かをここで今吟味するために立ちどまる必要はない。この学識ある著者は、自分の定義を掲げたその後のところで、われわれの当面の目的にとって適当なものと思われる若干の考察をしている。いわく、

  『この定義の若干の特色を見ていただきたい。第一に、この定義は厳粛な条約義務に関する厳然たる違反または侵略戦争遂行の「犯罪」をその中に含ませることを意図していないという点である。第一次世界大戦を惹き起こした責任及びその戦争中に犯された残虐行為に対する責任を審理するために、同大戦の終結にあたり、予備講和会議によって任命された十五人委員会は、元カイゼル・ウィルヘルム2世及び他の高官たちを「国際法及び国際信義に対する著しい侵害」のかどによって「有罪」であると認めはしたが、その侵害は同会議によって公式に不法と宣言することの対象となるべきであるとはいえ、それに対して「刑事上の訴追」をすることはできないという結論を下した。』

 同委員会は、『将来においては、国際法の基本的諸原則に対するかような重大な侵害には、刑罰を規定することが望ましい』ことを強調したのである。しかしながらこれらの二つの世界大戦の間に介在する四半世紀を通じて世界の各国はこの勧告を実現するための事は何事をもなさなかったのである。1928年パリーで調印されたケロッグ・ブリアン条約は、国際紛争の解決のため戦争に訴えることを不法であるとし、国家の政策の手段としての戦争を放棄し、あらゆる紛争の解決は平和的手段だけをもってこれを求めることを調印国の義務となした。しかしながら同条約もまたその条項の違反を、国内裁判所もしくはある国際裁判所によって処罰され得る国際犯罪であるとするには至らなかったのである。従ってパリー条約の違反に対する訴追については、その道徳的根拠は明々白々であるとはいえ、その法律上の根拠には、疑義を挟む余地があるであろう。

  『しかも、不正な戦争を開始し、または「条約の神聖」を侵害した罪のために、枢軸国の指導者たちを訴追することは、単に問題から相手の注意をそらすにすぎないものであり、かつ正当な戦争にせよそうでないにせよ、戦争の遂行中に犯された残虐行為に対する責任というきわめて明白な原則に混乱を生じさせるものである。確かにドイツ国民は、連合諸国が軍備を縮少しなかったことによって先ず第一にヴェルサイユ条約に違反したのであると主張するであろう。そして博識な歴史家たちは、彼らが第一次世界大戦終結の際に主張したように、戦争を「招来した」責任を厳密に定めることは、長期にわたる歴史的、経済的調査を行なって初めてできることであると主張するであろう。』

  『不正な戦争を起こすことを、「戦争犯罪」として裁判に付し得る諸行為の中に含ませることは、そのことに伴う諸原則を法理的に確立することがどんなに望ましいものであるにしても、右に述べた理由にもとづいて、まだ現在の段階では、してはならないことである。・・・・』

 しかしながらグルック博士は『ニュールンベルグ裁判と侵略戦争』と題する1946年出版の近著において、これを反対の意見を述べている。この博学な教授はその新しい著書の中において、いわく、

  『戦争犯罪という問題に関する予の前著を準備していた間、予は侵略戦争を開始し、遂行する行為を「国際犯罪」と見なすことができるという点について、まったく確信を持っていなかった。最後に予はこの見解を採らないという結果に到達するに至った。その根拠は主として、1928年パリーで調印をみた戦争の放棄に関する条約《ケロッグ・ブリアン条約》を厳密に解釈した結果である。また予を動かしたものとしては、政策の問題もあった。・・・・しかしながら、さらに考察を加えた結果、予は次のような結論に到達したのである。それはすなわち侵略戦争を国際犯罪と見なすために、パリー条約は他の諸条約及び諸決議と同じように、国際法として受け入れていいほどに充分に発達した慣習を証明するものとしてこれを見なすことができるということである。』

 同教授はそれでもなお『侵略戦争を開始した「罪」のために、個人及び国家を訴追すべきであるという主張は合法的な戦闘に関する一般に認められた法規、慣例に対する違反についてこれら個人及び国家に責任を負わせるべきであるという主張ほどに有力なものではない。』と言っている。しかしながら同教授は右の(前著の)主張は『ニュールンベルグ起訴状中の関係訴因を支持するには充分有力なものである』と考えている。

 問題の訴因とは次の通りである。

  『全被告は他の幾多の人々とともに1945年5月8日に先だつ数年間にわたり、諸国際条約、協定、保障を侵犯せる戦争たる諸侵略戦争の計画、準備、開始及び遂行に参加せり』

 同教授の修正意見は、さきに本官が、戦争は国際慣習法によって犯罪となったという同教授の所見(「所」の次の字が判読困難。「所見」なのか、「所説」なのか、「所論」なのか。his viewなので、一応、「所見」としておく)に考察を加えた際に挙げた事項のほかに、さらに次の事項に基づくものである。

 1、連合国は、『ニュールンベルグの被告たちが訴追を受ける訴因となった行為が国際刑法の特定の条項によってあらかじめ禁ぜられていたか否かを毫も考慮に入れることなしに』かつまたどんな司法上の手続をも踏むことなしに、『行政的もしくは政治的措置によって即決的に』これらの被告を処刑し得たのである。

  (a)休戦条約もしくは条約の定める法は、究極においては、所詮勝者の意思である。

  (b)法を遵守する国家間に平和的関係が存在していた期間に締結された国際契約を廃棄する理由としては、強迫が有効な理由であり得るとはいえ、強制(「強」の次の漢字が判読困難。compulsionなので強制、強要という意味。文脈から言えば「強迫」かなと思うが、「迫」ではなさそうである。かと言って、「要」でもなさそうである。ひとまず「制」にしておく)は予期されるべきものであり、また、勝利を占めた交戦国が戦敗国に国際協定を押しつける場合に見られる歴史的事実である。

 2、ある条約の締約当事国が侵略戦争を不法であるとすることに同意したという事実は、必ずしもそれらの諸国(←この2文字、判読困難)がその違反を目して国際犯罪であるとすることを決定したという意味にはならない。多数国間の協約でさえもそしてケロッグ・ブリアン条約のように、国家としての存在によって、重大な事項を取り扱っている協約でさえも、刑罰法ではない。また協約の違反に対する匡正は、違反国を訴追し、これを処罰することではなくて、むしろその違反に対する賠償を獲得することにあるのである。

 3、(a)本裁判所(ニュールンベルグ)の構成を定める条例は、次の二つの問題に対して、肯定的な答えを独断的に与えている。

   (1)侵略戦争を国際犯罪と呼び得るか否か。

   (2)侵略国の政府もしくは作戦指揮(←この1文字判読困難。「揮」としておく)機関の構成員である個人を、かような犯罪に対して責任のあるものとして訴追することができるか否か。

   (b)勝者の意思による行為として、連合諸国がかような条例を作成し、これを採択(←この2文字、判読困難。英文はadopt採用する、採択する、承認するという意味)する権能を有していたという点については全然疑問の余地はない。

 4、近代の侵略戦争は犯罪である、すなわち国際団体及びその団体の法である国際法に対する犯罪であると仮定すれば、被告となるべき者は、当然その関係国でなければならない

  (a)しかしながら、一国家を侵略戦争に突入させた内閣の閣僚、作戦指揮(←この1文字判読困難)機関の長官たちに刑事上の制裁が加えられることと対比して、一国家に対してとられる措置は国際犯罪を減(←この1文字判読困難)少させる上において有効的なものではあり得ないのが当然のことである。

   (1)国家行為説を正常な平和な国家間の交通に適用するという一般に知られたやり方は正当な理由のあることであるが、ただしそうだからといって必ずしも、ナチの首魁たちの諸行為によって惹き起こされた事態にもまたそれを適用しなければならないということにはならない。

   (2)この種の問題は盲目的な法律上の概念論に基づいて処理されるべきものではなく、ある解決策がもたらす実際的かつ合理的な結果に照らして、現実的に処理されるべきものである。

   (3)ブラックストーンの指摘したように、主権者は自ら好んで彼を代表する機関の犯罪的行為に与するものではない。

   (4)すなわち国家の機関には責任がないという普遍的な原則を適用することが容易に国際法の全体系を死文と化し得るものであることはまったく明白な事実である。

   (5)これは理性と正義に反する説であり、かような誤謬はできるだけ早く是正されるべきである。法が正義のために理性の法則を具現すべきはずのものである以上、また無条件な国家行為説は理性と正義をともに無力化する以上、これを健全な法と見なすことはできない。

 5、個人は多くの場合において国際法のもとで責任を負うものであり、国際法上の関連のある諸原則は(理論的にも)個人を拘束することができ、かつ実際拘束するのである。

  (a)『個人は国際法の主体にあらず』という伝統的見解は、歴史的に見て、また実際的意味においては、議論の余地のあるものである。《この著者は海賊行為その他の例を挙げている。》

 グルック博士がここで採用している考察方法の二つの根本的要素は次の通りである。

 1 国際法のもとで戦勝国が有する無制限の権力。

 2 国際制度における慣習法の発達。

 同教授の第一の命題が正しいならば、連合諸国がその権力を行使する上においてどのような手続をもとり得ること、そしてきわめて不必要であるとはいえ、連合諸国は被告が犯したとされる諸行為に該当する犯罪についてのある種の定義を下すことができ、かつかようにして明示されたところの犯罪を構成する事実の判定に伴って、彼らを処刑することができるということに疑問の余地はない。本官の解し得た限りにおいては、この命題に対して、グルック博士が依拠している権威は、ジャクソン検察官が米国大統領に提出した報告中でなした言明に存する。本官はこの命題を「支配ノ理法(「支配ノ理法」に小さい丸で傍点あり)」としても、又「理法ノ支配(「理法ノ支配」に小さい丸で傍点あり)」としても受け入れることはできない。この問題に対する本官の見解はすでに示した通りである。本官の意見によれば、グルック教授の見解はジャクソン検察官の見解とともに、現代の国際法体系によって支持されないものである。

 あるいはグルック博士及びジャクソン検察官は、交戦国の有する、交戦中にかような人々を殺害する権利のことを考えているのかもしれない。しかしながら殺害の権利は、それらの人々が俘虜となった瞬間から消滅するものである。彼らが捕獲されたときから、必要以上の暴力を使用してはならないとする規則によって保護される資格を彼らは取得する。

 この著者はナポレオンの例を挙げて、当時の諸列強が、ナポレオンは自己を『市民としての関係及び社会的関係の圏外に置いたこと、そして世界の敵として、また世界の犯罪人として社会による復讐を甘んじて受けなければならないことになった』と宣言した事情を指摘している。もしも連合国がプロシアのブリュッヘル元帥の勧告を容れていたならば、ナポレオンは右の宣言に基づいて、『法的保護喪失者』として則座(←正誤表によると、「則座」は誤りで「即座」が正しい)に射殺されていたであろう。

 本官はここで時間を割いて、この見解を国際法の規定に照らして吟味する必要を認めない。ただこの点に関して、今日の国際法が、当時と同じ状態にはないこと、そして戦勝諸国の有するいろいろの傾向は戦敗国の無力という事実によって、妨げられることはないにしても、それらの傾向が、法律的義務の意識によって影響されない各種の決意を表明するかもしれないが、かような決意を法と混同すべきではないということを述べれば充分であろう。

 グルック博士はその当時でも、ナポレオンに対してとられた措置が合法的であるかどうかについて相当の疑念があり、かつ困難があったという事実を無視してはいないと思う。これについてロー・クォータリー・レヴュー(季刊法律評論)第39巻170−192頁所載の『ナポレオン・ボナパルトの拘禁』に関するヘイル・ベロット博士の論説に言及することができるであろう。

 グルック博士が言及したプロシヤ案は、ウェリントン公の容れるところとならなかった。公は法益剥奪に関するウィーン宣言に対するプロシヤ側の解釈は正しくないと異論を唱え、右の宣言は毫もナポレオンの殺害を扇動するものではなかったと主張した。公によれば、勝者は右の法的保護喪失という行為から、ナポレオンの射殺を命ずるどのような権利をも取得しなかったというのである。

 そこで再びナポレオンの身分に関して相当な困難が感じられた。ナポレオン自身は、彼が俘虜であるという提言を肯定したことはかつてなかったし、かつ俘虜としての権利をなんら要求したことはなかった。降伏に先だってデンマークの船に乗って逃亡する手筈が完全に整った際に、ナポレオンは出発を拒み、次のように語って英国側に降伏する決意を固めたのである。すなわち『敵にわが身を委ねることには常に危険が伴うが、法の定めるところに基づく俘虜として敵の手中に陥るよりは、敵の名誉にあえて信頼するという危険を冒す方がよい』と。降伏後、ナポレオンは、右に述べたような国際法上の俘虜の諸権利を知っているが、なお俘虜ではないと繰り返し否定した。彼は自分をイギリスに亡命の場所を求めている単なる一個人として考えていると公言した。

 ナポレオンが自己の身分に対して下した見解はさておいても、当時のイギリス当局もまたその点について重大な困難を感じたのであった。右の問題について、法律上の意見が鋭く分かれた。最初に出た法律的意見は、ボナパルトは一個の叛逆者と見なされるべきであり、彼の主権者に引き渡されるべきであるというのであった。大審院記録部長は右の見解をとり、リヴァプール卿がこれを採用した。エレンボロウ卿及びW・スコット卿はこれについて考え得ることは、次のうちのいずれか一つであるとした。

 1、彼はフランスの国民であって、イギリスはフランスと戦争をしていた。

 とするか又は

 2、彼はフランスの叛逆者であって、イギリスは同盟国としてのフランスの主権者の援助をしていた。

 この戦争はその時にはまだなんらの条約によっても終結を見ていたのではなかった。

 エレンボロウ卿は、彼は英国と交戦中であるフランスの国民の一人として見なされるべきであり、従って英国の敵であるフランス国民と同一視されるべきであると提案した。同卿の考えではその後において、フランスとの間に結ばれると思われる講和条約の恩典にナポレオンを浴させないようにすることができるというのであった。ウィリアム・スコット卿はこの見解に同意することができなかった。同卿によれば、英国は彼を叛逆者としてフランスに引き渡すことができる。しかしながら英国にとっては彼は俘虜であり、かつ一国の元首との講和はとりもせほさず(←「とりもなおさず」の誤植だろう)その国の臣民全体との和睦を意味するという明確な国際法上の一般規則が存するというのである。エルドン卿はボナパルトが事実上フランス国民として見なされ得るものであるかどうかという疑問を提出した。けだし英国はフランスという一国家としてのフランスと交戦してきたのではなかった。同卿はいわく『われわれは次のような考えに基づいて行動したのである。すなわち・・・・ボナパルトがフランスの支配者となるのを防止するためにわれわれが武力を行使したことは、国際法によって正当化されていることであり、また彼並びにその一派に対して戦争を挑んだのも、フランスの敵としてではなく、又フランスの叛逆者としてでもなく、実にわれわれの敵、またわれわれの連合国の敵としてであり、その場合フランスは、われわれの敵ではなかったのである。かつ、彼に対するこの戦争において、彼は俘虜となったのであって、われわれは彼との間に和を結ぶことは一切できない。何故となれば彼を監禁しない限りは、われわれはとうてい安んじ得ないからである。従って直接かれ自身との間の・ないしは彼を含めての、講和は一切あり得ないのである。』

 英国上院において、ホランド卿はこの事件は左の諸問題を「特に(「特に」に小さい丸で傍点あり)」伴うものであるという考えを述べた。

 1、国家として公認されている国の臣民でない者を俘虜として拘禁し得るものであるかどうか。

 2、われわれの交戦相手国でない国家の国民である者を抑留し得るものかどうか。

 3、われわれと交戦中の相手国の国民でない者を敵国国籍外人と見なし得るかどうか。

 1818年のエイクス・ラ・シャペルにおける会議において、ナポレオン問題が同会議に上程された際の議定書によれば、1815年におけるボナパルトは次のようなものだと性格づけられている。すなわち彼は『一般に認められた政治的性格を有せず、従って文明諸国が、公認された国家に対して当前(←「当然」の誤植だろう)認めるべきである利益並びに払うべきである儀礼を要求する権利を有しない無定型の兵力の統率者にすぎない。・・・・ボナパルトはウォーテルローの戦闘以前は危険な叛逆者であった。敗戦となってのちは、運命によってその計画を挫折させられた一個の冒険家であったにとどまる。・・・・このような状況のもとにおいては、彼の運命はかつて彼が憤激させた政府のなすがままに委ねられたのである。そして当時においては、彼に有利なように《人道と不可分的な諸権利は別として》彼に適用され得る実定法もなければ、健全な法律格言もなかったのである、・・・・』

 ナポレオンに対する処分がなんらかの点で国際法の価値を増加するか又は減少するものであるとしてこれを例示することができないのは、もとよりのことである。

 陸戦の法規慣例に関する1907年の第四ヘーグ条約付属規程、1929年のジュネーヴ《俘虜》条約、若干の国家の戦時法規、なかんずく1940年の米国陸軍省の陸戦法規は、すべてジャクソン検察官、次いでグルック博士が勝者の法律上の地位であると主張するところと背馳するものである。チャールズ・チーニー・ハイドはその著『主として合衆国による解釈、適用を通じて見た国際法』において、次のように述べている。すなわち、1863年の『戦場における合衆国軍隊の統轄に関する諸訓令』並びに1917年の陸戦法規によれば、戦時法はすべての私的復讐行為を認めないのと同じく、すべての残虐行為またはかような行為の黙認及びすべての強奪を認めない。敵国軍隊に属する個人にせよ、敵国政府の市民もしくは国民にせよ、これを目していかなる捕獲者によっても裁判の経ずに生命を奪われ得る法的保護喪失者であると宣言することも認めない。このことは近代の平時法がかような故意に法的保護を喪失させることを認めないのと同様の理である。それ(戦時法)は、かような暴挙を認めないどころか、これを唾棄すべきこととしている。』

 ヘーグ規程は、武器を捨てまたは防御の手段尽きて自ら降伏を申し出た敵を殺傷すること、もしくは助命しないことを宣言することを明示的に禁止している。』(←この最後のカギ括弧はおそらく誤植だろう。英文にはない)

 1907年の第四ヘーグ条約は、疑いもなし(←「疑いもなく」の誤植だろう)締約国間だけに適用されるのであり、しかもその場合でも、交戦国がことごとくこの条約の当事国でない限り、適用されないものである。しかしながら、この条約の付属規程は、ただ文明諸民族の間に確立された慣例の結果として生まれた現存の国際法の諸原則だけをとり入れたものであると言われている。

 法の現状のもとにおいては、戦勝諸国が国際法上の当然の手続によることなしに、これらの俘虜を『処刑する』としたならば、その行為は戦勝諸国による「厳密ナル意味ニオケル(「厳密ナル意味ニオケル」に小さい丸で傍点あり)」『戦争犯罪』となろう。ただし現在においては、その罪を理由として彼らを詰問するものはだれもいないかもしれないということを当然つけ加えておかなければならない。

 グルック博士は、パリー条約自体は、その違反を国際犯罪としないという見解を抱いている。従って右に述べた博士の第三の命題は第一の命題から生まれる推論にすぎない。博士が第三の命題で言及している『独断的に与えられた肯定的解当(←「解答」または「回答」の誤植だろう)』は、第一の命題が崩れたならば、成り立たないであろう。本官の見解によれば、訴追されている諸行為が現存国際法のもとでなんらの犯罪をも構成しないとすれば、勝者の下した新しい犯罪の定義をもって、それらの行為をなした人々を裁判し、処罰することは、勝者自身が『戦争犯罪』を犯すことになるであろう。俘虜は国際法上の諸規則、諸規程に則って処理されるべきであり、勝者がみずから選んで国際法であると称するところに従って処理されるべきものではない。

 ここで条約並びに休戦条約の定める法に関するグルック博士の命題をわざわざ吟味する必要はない。すでに指敵(←正誤表によると「指敵」は誤りで「指摘」が正しい)した通り、本官の当面の目的のためには、グルック博士が明言したような、根拠のない権能を戦勝諸国に付与するものは、ここでの休戦ないし降伏の条項中には何もないということを指摘すれば充分である。国際法自体としては、無制限な権能を勝者に付与してはいない。

 さきに分析考察したように、グルック博士はその第四、第五、第六の命題において、『侵略戦争』は規約、協約又は条約によって国際犯罪とされているから国際犯罪なのではなくて、博士が国際慣習法と称するところのものによって国際犯罪となっているということを立証しようとしている。博士は、第七第八の命題において、個人責任論を展開している。

 グルック博士の推論中のこの部分については、すでに検討を加え、かつ本件に関連のある期間においては、かような国際慣習法は成立しなかったことについて、本官の見解を開陳しておいた。

 いずれにせよ、『慣習』または『慣習法』と称せられるものは、個人には触れるところがない。ここに言及されている育成されつつある慣習の一因といえば、せいぜい諸主権国家を対象とするものに止まり、個人を対象とするものではない。

 グルック博士の所論に対する回当(←正誤表によると「回当」は誤りで「回答」が正しい)としては、フィンチ氏が最近ニュールンベルグ判決に対して加えた論評中に述べた国際法における個人の刑事責任に関する所説を、これに充てることができると信ずる。この点に関するフィンチ氏の所説の概略を掲げれば次のようなものである。

 1、平和に対する罪を訴追することは新しい国際的刑事概念である。

  (a)(1)それは連合国が敵対行為の終了に先だって、あらかじめ発した警告中には構想されていなかった。かつ

    (2)戦争中ロンドンに設置された連合国戦争犯罪委員会に対する本来の付託条項にも含まれていなかった。

    (3)ラックス博士の集録した文書の中には、1942年8月6日付の英国政府の覚書があり、それには『戦争犯罪人の処理にあたっては、どのような裁判所にしても、すでに適用すべきものとされた諸法規を適用すべきであって、特別の「目的ノタメノ(「目的ノタメノ」に小さい丸で傍点あり)」法(を)制定すべきではない。』

   (b)これには1944年に『ヒットラー一派の刑事責任』という著書を刊行した、モスコー科学院法律学会のA・N・トレイニン教授の及ぼした影響を看取し得る。

 2、平和に対する罪に関する個人の責任を確立しようとするこの議論の焦点は、戦争の放棄に関するパリー条約に置かれている。

  (a)(1)同条約それ自体は、侵略戦争自衛戦争または他の種類の戦争の間に区別を設けずにただあらゆる戦争を放棄している。

    (2)ケロッグ氏は、条約の調印に先だって行なわれたフランスとの折衝にあたって、この条約は「侵略戦争」の放棄だけに限定されるべきであるというフランス側の提案に同意することを明確に拒絶した。

    (3)同氏の言葉によれば『人道と文明という大きな観点からして、戦争はことごとく人類社会のために禁遏されなければならないものである。』と。

  (b)同条約は、その前文に『今後戦争ニ訴エテ国家ノ利益ヲ増進セントスル署名国ハ、本条約ノ供与スル利益ヲ拒否セラルベキモノナルコト』と述べている以外には、その実施のための制裁に言及していない。

    (1)この規定は命令的なものではなく、各署名国の自由裁量に委せるという条件的なものであること。

    (2)他の署名国に対して条約草案を交付するに当たっての同文通牒中においてケロッグ氏は、この前文は『一国が本条約に違反して戦争に訴えた場合、他の締約国は本条約によりその国家に対して、負うところの諸義務を免除されるという原則を、明確に確認するものである』と述べている。

    (3)前文の示すところ並びに国務長官《ケロッグ氏》の解釈によれば、この条約の違反の結果としてとられることのあり得る処置は、いずれも違反国政府に向けられるはずのものであった。

    (4)個人的な刑事責任は、明文によって規定されておらず、また黙示的にも示唆されていなかった。

  (c)この条約の締結後の数年間において、この条約の意味は他の諸国において論議の的となった。

    (1)英国政府は1929年常設国際司法裁判所規程の選択条項に調印した際、国際連盟規約及びパリー条約受諾に伴って生じた立場についての同政府の見解を述べた覚書を公表した。

      この英国政府覚書によれば、

      『これらの文書の効力は、これを総合すれば国家の政策の手段としての戦争に訴える権利を諸国から剥奪するもので、かつこれらの文書に署名した諸国が違反国に対して、援助または便宜の供与をなすことを禁止するものである。従って右の諸国間においては、交戦国の権利と中立国の権利との全般にわたる問題について、根本的変更が起こったのである。』

    (2)当時の国務長官スチムソン氏はこの英国の覚書を受領した際、声明を発表し、英国側の所論はこの条約の署名国の一つである合衆国の立場に適用されるということを否認した。同氏は強調していわく『たびたび指摘した通り、同条約には、侵略国に対して各署名国による共同の強制的処置をとることを規定する国際連盟規約と同趣旨の規定がない。同条約の効力は一にかかって世界の輿論とこれに署名した諸国の良心にある』と。

  (d)1934年9月ブダペストに開催された国際法学会の会議は、同条約に対する解釈規定を採択した。これら著名な国際法の専門家の下した解釈は、同条約の違反について個人に対する刑事上の処置を少しでも示唆するようなものを含んでいない。

    (1)右の専門家たちは次の見解をのべている。すなわち条約違反の場合、他の署名国は、同条約に違反して戦争を遂行する国家に対抗して、被侵略国に有利となるようにそれぞれ中立国としての義務を変更する正当な理由があることになろう。

    (2)この解釈は、米国が1941年の初頭、その伝統的中立態度から離れて、その国の防衛が自国の国防にとって必要であると認められる諸国に対して、正式に援助を供与するという態度の変更《1941年3月11日武器貸与法》をなした際、部分的にそれを支持する根拠として、援用された。

    (3)これより前に、パリー条約を実行するために、将来の戦争において、交戦国に対して差別特遇(←正誤表によると「差別特遇」は誤りで「差別待遇」が正しい)を与える権限を立法によって政府に付与しようとする試みがアメリカ合衆国において度々行なわれたが、これらの試みはすべて失敗に帰し、そして合衆国の中立と平和を維持するための、一層厳格な法律が通過するという結果になったのである。

  (e)(1)1933年1月から1939年11月4日の中立法通過までの間における右の条約の解釈に対する合衆国政府の公式態度を示す立法の沿革に徴すれば、この条約に違反する戦争は、1939年9月1日当時においてすでに国際法のもとで、非合法であったとなし、またこの戦争を計画し、これに携わったものは、その行為が行なわれた当時においてすでに、国際的犯罪行為をなしたものとして有罪であったとするニュールンベルグ裁判所の所論は、容認することのできないものである。

    (2)ブダペストでの解釈規定は、武器貸与法の制定を支持するために援用された。

 3、さらに一歩を進めて、国際法において今までに国家の行為を律する諸条約の違反に付帯するものとは考えられたことのないパリー条約の不遵守に対する個人の刑事責任を、文書「ニ依ラズシテ(「ニ依ラズシテ」に小さい丸で傍点あり)」引き出すには、空疎な概念法論を用いなければならない。

 4、(a)国際連盟の創設を端緒として、侵略戦争防止という概念が生長してきたことは否定できない。

   (b)かような努力はことごとく最高度の賞賛、共鳴及び支持を受ける価値のあるものである。

   (c)しかしながら批准されていない議定書を引用して、その諸条項が承認されたことを示すことは出来ないし、また国際会議の決議は、それがその後の国家の、または国際的の、処置によって是認されない限り、なんら拘束力を持たない。更に不侵略条約が、これを無視することが好都合になった場合には、公然と無視されるようなものであれば、それは侵略を非合法化しようとする国際慣習の進化を証明する証拠として、依存することのできないものである。

 しかしながらグルック博士は刑事責任を個人に負わせるにあたって、どのような慣習法にも依存してはいない。同博士は慣習法と称せられているものは、関係ある国家について言えるだけであるということを認めている。同博士が、戦争が犯罪であるならば、刑事責任は関係国にあるとしたことは正当である。しかしながら同博士はあたかもわれわれが、どうしても個人を捉えなければならない立場にあるかのように見える推理方法によって、個人にまで手を伸ばしている。責任を実効的にするためには、個人を捉えなければならない。このことはいずれかの解決がもたらすべき論理的なまた実際的な結果にかんがみて、現実的な見解であると考えられている。

 このグルック博士の見解に同意する用意がなければ、きわめて手ひどい非難を浴びせられるということを念頭に置きつつも、本官は法に関するこの見解をとろうという気にはどうしてもなれないのである。

 国家の主権が依然として国際関係の根本的基礎である限り、国家の憲法を運用するに当たってなされた諸行為は、依然として国際制度上においては、裁判を受けるべきものではなく、かような資格で職権を遂行した個人は、依然として国際法の圏外に置かれるということを、本官は忘れることができない。本官自身としては、この国家主権に恋々たるものでもなく、またそれに対する有力な反対意見もすでに唱えられたことを知っている。しかしながら第二次世界大戦後における各種の戦後機構にあってさえ、国家主権はなおきわめて重要な地意(←正誤表によると「重要な地意」は誤りで、「重要な地位」が正しい)を占めている




 グルック博士がその所論の根拠としている一大権威はライト卿である。卿の見解はロー・クォータリ・レヴュー(季刊法律評論)1946年1月号に発表された『国際法上の戦争犯罪』という論説に述べられている。要するに、日常の経験が示すように、法律の分野を含む人類の活動のあらゆる分野において、ある思想が成果を挙げ得るのは、必ずしもその内的価値だけによるのではなく、さらに若干の外部の諸事情、なかんずく通常、その思想を発表した人の言葉に対して一般に与えられる価値によるものである。失礼ながら本官は、ライト卿の言葉はこれらの二つの根拠の双方に基づいて特別の考慮を加える価値があるものであって、かつこれらの言葉には、われわれがいずれかの決定をするに先立って、慎重に検討を加える必要があると言わなければならない。ライト卿の論説中からやや長文の引用をすることとしよう。

 ライト卿は、その結論の根拠として勝者の有する無制限の権力に依拠してはいない。卿はむしろ、裁判が単なる勝者の権力を表示するだけのものであるとしたら、すべての司法機関はかような単なる権力の表示の手段としての役目を果たすべきであるという見解に反対している。かような行為は、関係個人が犯したものとして、国際法上犯罪を構成するというのが卿の所論である。

 ライト卿いわく、

  『一般に戦争犯罪は、集団的または複合的な性質をもっている。その一端には、多くの場合犯罪的共同謀議を構成する立案者または組織者または創始者がいる。そして末端には、実際の遂行者がいる。この両端の間に犯罪の連鎖をなす幾多の中間的な環(カン)が存在する。』と。

 次いで同卿は『刑法上におけるヒットラー一味の責任』に関するトレイニン教授の所論を引用しているが、そこで同教授は、ヒットラー一味の派閥に属するものはすべて国際的な犯罪人の集団の参加者であるばかりでなく、無数の犯罪行為の組織者である、という観察を下し、さらに『軍隊における伍長から、国家の元首たる地位にある伍長に至るまで、一人残らずヒットラー一味の犯罪人は責任がある』と結論づけている。ライト卿はこのトレイニン教授の見解を承認し、かつヒットラー一味の所為とされている数多の行為に言及して、さらに次のように言っている。すなわち、『ある一つの「政治上の」目的は、殺人を殺人でない何ものかに変えるものではない。それはまた道徳律または正邪の基本原則に反する罪でもあるから、それが戦時法に対する犯罪ではなくなるというわけのものでもない。法と道徳は必ずしも一致するものではない。但し理想的世界においては一致すべきものである。しかしながら一つのクライム(犯罪)は、また道徳律に対するオフェンス(違反)でもあるからそれがクライム(犯罪)でなくなるということはない。』ライト卿は『前述のことを念頭に置いて』、次の問題、すなわち『四ヶ国政府協定によって取り上げられた戦争の開始、すなわち平和に対する罪が、果たして個人たる犯罪人の処罰をもたらすべき犯罪であるか否か』の問題を取り上げている。卿はさらに次のような二つの異なった観点から、この問題に関する考察を進めている。すなわち、

 1、『畏怖の念を起こさせるためにありとあらゆる残虐行為をもって戦争を遂行するという最も野蛮残忍な、そして四方に響きわたる宣言を先触れとして戦争が開始された。』かようにしてそれは犯罪となった。

 2、『この戦争は侵略及び世界制覇を目的とするものであったから、たといあらかじめ計画されたテロ組織のない場合』においても、なおそれは犯罪であった。

 この考察の第二の観点に論及して卿は次のように言っている。すなわち、

 『しかしながら1945年の起訴状中の訴因の一つであって侵略戦争または不正な戦争の計画、準備及び開始を含むところの、平和に対する罪の範疇については更にいささか論究する必要がある。この問題はたしかに国際法上最も論争の的となった諸問題のうちの一つを提起するものである。なぜそれ(平和に対する罪)を国際犯罪であり、実に犯罪の最たるものであると考えるかについては、さきに述べた通りである。それは戦争のすべての害悪の根源である。近代戦は、最近終わりを告げたばかりの戦争中にドイツ側及びその同盟諸国によって示されたところの、あらかじめ計画されたテロ組織を伴わない場合でさえも、人類に最大の災厄をもたらすものである。掠奪及び勢力拡張の目的のために、冷酷な、そして、故意の兇悪性をもって戦争を招来することが最も醜悪な性質をもった道徳的な罪悪であるということについてはだれも疑いを挿むことはできない。』

 さらにライト卿は、法律学者が道徳的な罪悪を法律上の犯罪と区別することをどんなに好んでいるかということについて、次のように指摘している。

 『しかしながら、行為の性質、又はその犯罪性においてはなんら論理上の区別はない。唯一の問題は、そのクライム(犯罪又は罪悪)が法律上の根拠に基づいて処罰され得るか否か。すなわちそのオフェンス(犯罪)が法律によって禁止されるという地位を取得したか否かの問題である。』

 卿はさらに続けて、

 『法に拠らないで処罰することは、法から絶縁された権力行為を行なうことである。すべての処罰行為は権力の行使を伴うが、その行為が法律に基づくものでない場合には、それは道徳的には正当であるとしても、法に基づく正義の表示ではない。もっともある人々はその決定が正義及び道徳に合するものであるという点に論議の余地がないとすれば、その決定は将来における類似の行為に対する先例としての役目を果たすものでありと、従って(←正誤表によると、「ありと、従って」は誤りで「あり、従って」が正しい)国際法の規則を確立するものと言えると考えているように見受けられる。従って連合国の行政処分によるナポレオン一世のセントヘレナへの流刑は、右の考え方によれば、ある意味において、主権者たる地位から退位した人々、又はしりぞけられた人々を処罰するための行政処分に対する先例をつくるものと考えられるかも知れない。しかしながら国際団体の構成員の間における国際法の概念は、このようにして発達するものではない。』

 ライト卿は続いて以下の諸点を指摘している。

 『侵略的な、もしくは不正な戦争の計画及び開始についての共謀関係を理由として、政府の首脳またはその他の構成員、もしくは国家の指導者たちを処罰することは、今までのところ国際法下の(←正誤表によると「国際法下の」は誤りで「国際法上の」が正しい)事項として裁判所によって行なわれたことがない』。

 この点に関して卿はさらに次の事実に言及していわく、

 『1919年の委員会は、戦争をもたらした行為はそれを惹き起こした入々(←正誤表によると「入々」は誤りで「人々」が正しい)の責任に帰せられるべきであるとは、勧告しなかった。』

 しかしながら卿の言葉によれば、

 『その当時と、今次戦争が開始された時との間に、文明諸国は、第一次世界大戦が招来した破壊と災害とを顧みて慄然たるものがあり、さらに二度目の世界大戦がもたらすと思われる測り知れない災厄の数々に思いを馳せては恐怖の念を禁じ得ず、第二次大戦防止の可能性について多大の考慮を払ったのであった。国際連盟規約中には、この目的を果たすためのある機構を包含していた。不正な戦争、または侵略戦争は禁止されるべきものであるということを宣言するために、若干の会議が招集された。そのうちの一つの会議においては、かような戦争は犯罪であるということを実際に宣した。』

 ライト卿はこの点に関するパリー条約の効力について考察を加え、そして次のように述べている。

 『1928年に、パリー条約すなわちケロッグ・ブリアン条約に60を超える諸国家が調印または加盟した。それは厳粛な条約であった。同条約の中心的な拘束力のある条項は国際上の文書としては異例なほど簡単なものであったが、その規定事項は明確かつ断定的のものであった。同条約に署名、または加入した諸国はその時限り国家の政策の手段としての戦争を無条件に放棄したのである。このことのもつ意味については疑義または曖昧たる点は毫もないと見てよかろう。・・・・。同条約が、その規定事項そのものによって明らかなように、戦争を不法なものと宣言する意図をもったものであることには疑いを挿む余地がないように見える。一見充分に明瞭であるこの事柄こそは、世界の最も著名な政治家たちが、事実であると言ってきたものである。』

 ライト卿は、さらに諸国間の紛争解決のための機構並びに制裁に関する規定が同条約中にないということを一応何とか説明してしまおうとして、次のように言っている。

  『パリー条約によって示された諸国間の共同一致の提携はこれを、ひとつの条約として具現することについてこれら諸国の承認を経たものであり、このことこそは条約の持つ拘束力を最も厳密に証拠立てるものである。それら一条約または一協定としては、同条約はその締約国である各国家を拘束するにすぎない。しかしながら異なった角度からそれを眺めることができる。それは戦争は違法なものであるという原則を、文明諸国が承認したことの証左である。かように承認され、かつ証拠立てられたこの原則は、国際法の規則としての地位を占める資格のあるものである。』

 今までのところでは、刑事責任の問題は侵略国家というところまでその責任探求の手が及んでいる。個人に責任を帰することを正当化するためにライト卿は次のような論法を用いている。すなわち

  『右の条約以前にあっては、その原則は単に一つの道徳律であり、実定法に対する自然法の規則であったとも言えよう。明確そのものであるこの条約は、道徳上の規則を、戦争の法規や慣例と比肩し得る、実体法上の規則に変化させるものである。個人は国際法に対する特定の違反行為について刑事上の責任を負うべきものであるという原則が今では一般的に認められているところからこの条約もまたこれらの法規慣例と同じように、個人に対して拘束力を有するのである。従って不正な戦争は違法であるという原則に違反することは、条約違反行為に伴うあらゆる種類の結果を招く、国家としての条約違反であるばかりでなく、また戦時慣習法の違反と同様に、それ(条約違反行為)を積極的に招来した共同謀議者、正犯又は従犯としての罪のある人々の犯した、個人としての犯罪ともなるのである。国家は責任ある諸機関、すなわち人間によってでなければ行為をなすことができない。もし一国が条約に違反して侵略戦争を開始したとしたならば、国家におけるその重要な地位のゆえに、その戦争を惹き起こすことができ、その戦争を招来した、責任ある国家機関としての地位にある人々の罪は、その性質及びそれがもたらす刑事上の結果においては別個の、独立した、そして(国家のそれとは)相異なる責任である。このことは国際犯罪が複合的性質を持ったものであるという命題を説明する一つの例証に過ぎない。戦時法の違反でさえ、それが純粋に個人による不法行為でない限り、一般に複合的な刑事上の責任を伴うのである。ところが、ここでは国家が、条約に違反したのであるが、この戦争を招来したその国家の首脳は彼らのなした行為に基づいて、右の条約が違法であると宣言している、ことを犯したものとして、彼ら自身個人的に罪があるのである。これは戦時法違反の罪と同じように、彼ら自身の犯罪である。国家は条約違反国として責任があり、為政者は、国際法上の規則、すなわち不正な戦争または、侵略戦争は国際犯罪であるとする規則に、違反した者として責任がある。パリー条約は一片の反古ではない。余の意見ではこれがパリー条約に対する違反が行なわれた場合に発生する事態である。ナチ政府の首脳を、平和に対する罪を犯したものとして、個人的に訴追することができるというのは、この原則に基づくものであると思う。』

 すでに本官の指摘したように、ライト卿は最後に国際法の進歩的性質に訴えている。

 本官が右に言及した諸権威にしても、また今後言及する機会があると思う諸権威にしても、単にわれわれを説得しようとする試みとしてしか価値のないものであり、そして何故に卿の見解が特に重要視されるべきものであるかについて本官がすでに述べたことにはかかわりなく、本官はライト卿の支持する見解に敬意を表するものではあるが、以下の理由に基づいて、それに賛成することができないと言わざるを得ない。

 ライト卿がトレイニン教授の所説を引用した上でその結論として『その組織内における地位がどんなに高かった』にせよ、ヒットラー一派に属する者は『依然として単なる一殺人犯、強盗、拷問者、婦人誘拐者、うそつき、等々である』と述べていることには、われわれはここで特に拘泥する必要はない。これは、つい最近、戦争中に行なわれた忌むべき諸行為をまざまざと想い起こした時に感じる憤激の念の表現にすぎない。ナチの残虐行為に関する一伍一什(「一五一十」とも。いちごいちじゅう。「一から十まで」「一部始終」という意味)を調べなければならなかった人にとっては、かような感情を持つまいとしても、持たずにはいられないかもしれない。しかしかような行為の審理に当たっている裁判所としては、そういう感情を持つことを避けなければならない。

 ライト卿は問題を二つの相異なる角度から取り上げている。卿の所論の第一点は、その考察の対象となっている事件の提起された問題の事実の上での特色、すなわち問題の戦争は、侵略戦争であったばかりでなく、特に犯罪的方法を用いて遂行するという明確な意図をもって行なわれたものであるということに依拠している。すなわち畏怖の念を起こさせるためにありとあらゆる残虐行為を用いてこの戦争を遂行するという、最も野蛮残忍な、そして四方に響きわたる宣言を先触れとして、この戦争が開始されたということである。本件の意見では、この事実は、それがもし疑いなく立証された場合には、これらの人々を、「厳密ナル意味ニオケル(「厳密ナル意味ニオケル」に小さい丸で傍点あり)」戦争犯罪に対して責任のあるものとするであろう。合法的なものであれ、違法なものであれ、戦争は国際法の拘束力ある規範に則って規律されるべきものである。かような規定に実際に違反した者も又それに対する違反を指示した者も、等しく「厳密ナル意味ニオケル(「厳密ナル意味ニオケル」に小さい丸で傍点あり)」戦争犯罪人たるものである。従って上述の線に沿う所論は、本件において提起された問題に対して答えを与える場合に何らわれわれの助けとなるものでない。

 ライト卿がその所論の第二点において取り上げているのは、あらかじめ計画されたテロ組織のない戦争の問題である。これこそわれわれが当面の目的のために関心を持っている問題である。

 われわれの前に提起されている問題に関する限り、ライト卿が個人責任を主張する真の理由は、次のようなものであることがわかる。すなわち

 1、国際犯罪が存在し得るためにはそこに一つの国際団体が存在していなければならない。

  (a)たとい不完全かつ未発達であるとはいえ、国際団体は存在する。

  (b)この団体の基礎的な掟は、国家間における平和関係の存続である。

 2、戦争はそれ自体として害悪である。それは国際平和を破壊する。

  (a)戦争はある特定の根拠がある場合においては正当化され得る。

  (b)侵略戦争はその正当化され得るものの範囲内に入らない。

  (c)従って侵略戦争の開始は犯罪を構成する。

 3、前提条件として

  (a)諸国間の平和は望ましいものであること。

  (b)戦争はこの平和を侵害するから、それ自体として害悪であること。

  (c)個人に影響を及ぼす国際刑事法規が存在すること。

   という前提が与えられた場合には、その当然の帰結として、戦争の計画、準備、開始、遂行について責任のある個人は、国際法上の刑事責任を負うこととなる。

 4、国際団体において戦争が占めていた法律上の地位がどうであったにしても、パリー条約または1928年のケロッグ・ブリアン条約は、戦争を違法なものと明確に宣言した。

 右の掲げた理由の、1、2及び4は、そもそも侵略戦争は国際法上の犯罪であるか否かという問題に関するものである。この問題については本官は曩(さき。=先。判読が難しいが「曩」に見える)に考察を加え、かつこれに否定的な解答を与えた。目下われわれの考察の対象となっている問題は、かような戦争が犯罪であると仮定した場合、この戦争状態を招来した責任のある、国家の機関たる個人の地位はどうかという問題である。ライト卿は、本官が右に掲げた卿に理由中の3の(c)項でだけ、この問題に触れている。

 ライト卿自身侵略的な、または不正な戦争の計画及び開始についての共謀関係を理由として政府の首脳、またはその他の構成員、もしくは国家の指導者たちを処罰するということは、まだ国際法上の事項として裁判所によって行なわれたことがないと指摘している。

 ライト卿の言及した個人に関する国際刑事法の諸事件は、マンレー・O・ハドソン判事、グルック教授、及びハンス・ケルゼン教授もまたこれを取り上げ、論述している。これらすべての事件において、問題となっている行為は、公海において、または国際財産に関して、個人が、自己のためになした行為である。これら事件の大部分は、明文をもって規定が設けられているものである。かような国際法の存在が本件における問題の解決に、どれほど寄与するところがあるか、本官は了解に苦しむ。おそらく本件に関しても、若干の国内法体系中に、または国際法上、規定を設けることができたかもしれない。現にこの趣旨で、1927年ボラー上院議員が(合衆国)上院に決議案を提出したのであった。グルック教授が指摘したように、どの国もそれぞれ自分だけが最もよく承知している理由に基づいて、かような規定をかつて設けなかったのである。ここでちょっと付言してもよいと思われることは、両大戦の間に介在する期間において、この点に関する諸種の勧告が各種の非公式の団体から寄せられたけれども、これらはすべてこれらの数国家によって顧慮することなしに放置されたように見受けられるということだけである。

 (1)国家の主権が今日まで既存の国際法の根本的基礎として存続して来たこと、(2)いろいろな戦後の組織においてさえ、この主権が根本的な基礎として考えられていること、及び、(3)国家の主権がこの重要な役割を演じ続ける限り、どの国家もその憲法の運用をどのような機関によっても裁判し得るものとすることを認めるとは思われないということ(この三つの点)を考慮に入れるとき、本官は本件における問題について諸国家の犯した懈怠行為が故意に基づくものではなかったと見なすことはできない。現在においてもなお各国がその機関の地位にある人々のかような行為を、他のものによって裁判することのできるものとすることに同意するかは、本官は疑う。

 本官はすでにクインシィ・ライト教授が1925年に述べた見解を引用した。ここで、同教授がニュールンベルグ判決を支持しようと努めつつ、今日何と言っているかということに言及すべきであると思う、同教授はいわく、

 1、『裁判所は同条例が、個人は平和に対する罪について責任があると規定したとき、同条例はそれ以前から存在していた国際法を宣言したものであるという結論に達したのである。

 2、右の結論に到達するにあたって、裁判所は、侵略戦争の開始を違法なものと見なし、かつ1928年のパリー条約において、実質的にすべての国家によって正式に承認されたところの国際慣習の発展を強調した。

 3、(a)侵略戦争に訴えないという諸国の義務と、この義務の違反に与って力のあった個人の刑事責任との繋ぎ目は、「厳密ナル意味ニオケル(「厳密ナル意味ニオケル」に傍点あり)」戦争犯罪についての一般的に認められた個人の責任に対する類推をもって例証されている。

   (b)個人の行為が犯罪的性質を有する場合、すなわち「ソレ自体ニオイテ悪(「ソレ自体ニオイテ悪」に傍点あり)」であって、しかも諸国家の国際的義務に違反するものである場合には、それは国際法に対する犯罪である。』

 ライト教授はこの見解を支持しており、そしてこれを支持するために、ライト卿の権威に依存している。同氏にすれば(←正誤表によると「同氏にすれば」は誤りで「同氏によれば」が正しい)、ライト卿は、パリー条約は『侵略戦争は違法である』という原則を『自然法』の規則から戦争法規と同様に、国家と等しく個人をも拘束する『実定法』の規則に変更させたという点を指摘している。パリー条約の効力に関するこの見解を、本官が承認し得ない理由はさきに述べた通りである。』(←ここにカギ括弧の「』」があるように見えるが、誤植である。英文にはない)

 ライト卿はその結論に入るにあたって、ソビエット連邦のトレイニン氏の見解に多大に依拠している。トレイニン氏は、I・T・ニキチェンコ氏とともに、ソビエット連邦政府を代表して、ヨーロッパ枢軸国の重大な戦争犯罪人を裁判する国際裁判所を設立するためのロンドン協定に調印した人である。



 トレイニン氏は、これらの裁判の遂行を要求する動機となった真の衝動をいとも率直に指摘して次のように述べている。

  『従って、ヒットラー一味の犯した犯罪に対する彼らの刑事責任の問題は、最も重要な問題である。ヒットラー一味の殺戮者どもが、その極悪非道の諸犯罪によって、世界のすべての公明誠実な人々並びにあらゆる自由を愛する人々の胸の中に、最も熾烈な、そして抑えることのできない憎悪並びに仮借することのない応報に対する渇望を湧き立たせた今日、この問題はきわめて切実なものとなってきたのである。』と。

 トレイニン氏の論説は『ヒットラー一味の刑事責任』と題するものである。同氏はまず次の諸命題からその論旨を進めている。

 1、国際刑法の諸問題は現在まで明確に取り扱われたことがなかった。

  (a)国際刑法もしくは国際犯罪の基本的意義に関する明確な定義は存しない。

  (b)国際刑法の制度の秩序的体系は未だ認められていない。

 2、現存の文献に現われているところでは、すべての国際刑法上の問題は、普通の場合煎じつめればただ一つ、すなわち裁判権の問題に帰着する。

  (a)平和に対して不断の脅威となる侵略的帝国主義的制覇政策、すなわち国際関係の分野において武力行使を認める充分な余地を故意に与えるような政策は、当然諸国家の自由、独立及び主権を擁護する法規体系としての国際法の発展ならびに強化に寄与し得なかった。

   (1)しかしながら右の事実からして、国際刑法の問題を導入することがその時宜を得ないもの、もしくは無益なことであったと一般的に結論するならば、それは重大な過誤を犯すものである。

   (2)第二次世界大戦前においてすら、史的発展過程の上で二つの相反する傾向が見うけられた。それらは次の通りである。すなわち

    (a)帝国主義的利害の衝突、国際関係の分野における日々の闘争並びに国際法の無益なことであって―これは帝国主義時代における侵略的諸国家の政策を反映した傾向。

    (b)諸国家の平和、自由及び独立のための闘争、すなわち新しくかつ有力な国際的要素の政策を反映した(←正誤表によると「反映した」は誤りで「反映する」が正しい)傾向。

 3、今次大戦は右二傾向中の後者に著しく広汎な範囲と強大な勢力を与えた。

  (a)自由を愛好する諸国は、各国民がそれぞれその好むところの政治形態を選択するというすべての国の有する権利を尊重し、かつ、より高い生活水準、経済的発展並びに社会的保障を確保するために、経済の分野において、すべての国家間の全幅的協力を達成するように努力する旨を約定した。

  (b)1943年10月30日に、一般安全保障に関しモスコーにおいて宣せられた四ヶ国宣言は、『帝国主義的掠奪横行の時期、換言すれば国際法の原則の衰微期』に代うるに、国際関係の基礎をなす法を強化する時期、従ってすべての邪悪な分子に対する闘争の強化に導くところの時期をもってした。

  (c)それゆえに、法的国際関係の新体系を創設する発端と、ヒットラー一味の犯罪及び侵略者の国際的犯行に対する闘争との間には、切り離すことの出来ない有機的紐帯が存在するのである。

 4、この発展過程を促進するため、またこれらのような新しい概念を強化するため、法律思想は次のことをなす義務を負わされている。

  (a)これらの新しい関係のための正しい形態をつくり出すこと。

  (b)国際法の体系を案出すること。

  (c)この体系の不可分な一部として、国際関係の基礎を脅かすものの刑事責任の問題を諸国民の良心に訴えること。

 第1章の終わりに近いところで、トレイニン氏は次のように考えると述べている。すなわち『ヒットラー一味の犯した犯罪に対する応報の要求に法的表現を与えることは、ソ連の法学者の取り扱うべき最も重要な問題であり、彼らの名誉ある義務でもある。』と。同氏はさらに第2章において、『ヴェルサイユ条約ならびに第一次世界大戦においてドイツが犯した犯罪』を列記している。

 第3章において同氏は、『国際犯罪の概念』について論述している。この博識な著者は、1914年ないし1918年の戦争によって侵略者の責任問題の重要性が明らかとなったにもかかわらず、法的思想は未だに形式的、非実現的抽象論に終始していたと指摘している。

 同氏は、この点に関する問題は、国際法の分野と国内法体系とではまったく違っていると指摘している。国際的分野においては、『犯罪又は刑罰に関する経験も、伝統も、起草された定式も全然存しない。右分野においては、刑法は普及の緒についたばかりであり、そして犯罪の概念も正に形成されつつあるにすぎない。

 同氏はさらに、ある種の犯罪に関する現存の定義並びに国際協約を検討して、この種の定義を排斥し、次のように述べている。すなわち、これらの定義においては、『国際関係の領域に対する特殊の侵犯としての国際犯罪の概念は完全に見あたらず、それは、犯してはならないものとして国内法において規定され、異なる国家の領土内で犯された、あまたの犯罪の中に吸収されてしまっている。』

 国際協約に関しては、同教授は次のように指摘している。『国際協約の規定の対象としての一個又は他の若干の犯罪の選択は、国際犯罪の本質に関する理論的考察によって必要とされるものではなくて、実に多種多様の政治的な動機、すなわちある一定の犯罪に対する抗争において一国のまたは一群の国家の有する利害、かような抗争の組織化のための具体的便宜、その他同様の性質の理由に基づいて必要とされるものである。』と。このことは現在提起されている問題の解決にはなんら寄与するところはない。(なぜならば)『一定の共通な犯罪に対する協約は、その犯罪の法的性質ならびに事実の上での意義のゆえに、犯罪に対する現実的闘争を目論む各政府が刑法に対して与える相互的支持の種々な形式のひとつを考えられる。政府間のこの相互的措置は、国際犯罪の問題には直接関係がない。』

 トレイニン氏はこの種の国際協約が、かような犯罪を国際犯罪と定めるものではないことを指摘している。重ねて言うが、あることに関する国際協約がないからという理由だけで、それが国際犯罪を構成しないかもしれないということにはならない。

 この著者はさらに連盟規約を取り上げ、規約中には単に『いくつかの特定行為を犯罪性のあるものとして分類』しようと試みているにすぎないことを見定め、そしてこれも、『国際犯罪の概念を確立』することに成功しなかったとの結論を下している。

 ついで同氏は氏自身の見解を次のように述べている。

 1、国際犯罪の概念及び国際犯罪に対する抗争は今後次の基礎の上にこれを築きあげるべきである。

  (a)『祖国防衛戦』の経験。

  (b)各国間の平和的協力の強化を希求する熱望に徹した原理。

 2、国際犯罪は独特な、そして複雑な現象である。それは各国の国内刑事法規において規定されている数多の犯罪とは性質を異にする。国内制度中の諸犯罪はひとつの共通な基本的特徴を持っている。それは、ある特定国内に現存する社会関係を侵犯するという特徴である。

 3、各国の政府及び国民が、他国より互いに孤立し、もしくはほとんど孤立して生活していた時代は、すでに遥か過去のことに属する。

  (a)資本主義制度は特に国家間に複雑な関係を育成し発達させた。

   (1)堅実な国際的結合が発達して来た。

   (2)国家間の利害の抵触にかかわらず、また、諸国の政治的制度の様式の差異にもかかわらず、右の国際的結合は諸国民及び諸国家を結びつける無数の紐帯を形成するものであり、実際に偉大な経済的、政治的並びに文化的価値を表示するものである。

 4、国際犯罪とは、人間社会のなしとげたこの偉業を侵犯しようとする試み、すなわち、右の紐帯を弱化し、阻止し、決裂させようとするものにほかならない。

  (a)国際犯罪は国際的結合関係の基礎に対する侵犯としてと(←この「と」はおそらく誤植で、除くのが正しいだろう)定義されるべきである。

 5、国際関係の法制度は、その固有の基本的法源、すなわち唯一の法創設行為たる条約に基づいている。

  (a)『各国家が、各自の自発的同意によってその行為を律する諸規則を認めたのであるから、これを長期にわたって承認することができるか、それとも、情勢が変更したために、国家の重要な権利を新たに規制するか、という点を最終的に判定するのは、実に各国自身なのである』と断ずるのは誤りである。

 6、刑法は遡及的効力を有しないという規則に対しては、これに反対する規定を条約の条項において設けることができる。条約自体がかような法の規則の遡及的効力を承認する根拠を付与し得るのである。

 第4章において、この著者は国際犯罪を分類している。劈頭(へきとう)において同氏は国際犯罪を定義して、『国際的結合関係の根底に対する侵害であって、罰することのできるもの』であるとし、これを二類に分け、第1類をもって『国家間の平和的関係に対する妨害、』(←英文を参照すると、「、』」とあるのは「』、」とするのが正しい)第二類を『戦争自体に関連せる犯罪』としている。第1類中には左の7項目を挙げている。

 1、侵略行為

 2、侵略のプロパガンダ

 3、侵略目的をもってする協定の締結

 4、平和の目的に寄与する条約に対する違反

 5、国家間の平和的関係の決裂を企図する挑発行為

 6、テロリズム

 7、武装集団《第五列》に対する支援

 同氏によれば、テロリズムを除いて、その他はいずれも国際協約において、まだ取り扱われていないというのである。

 第5章においては、同氏はもっぱら『ヒットラー一味の平和に対する罪』を取り上げ、それらの罪を列挙した後、『ヒットラー一味は犯罪的に世界を爆発させ(すなわち恐るべき犯罪行為をもって世界を震撼させ)、戦争の形態を一変して、綿密に考案され、計画通りに実行される制度、すなわち軍事化された匪賊行為の制度とした。』との結論を下している。

 次の章において、同氏は再び『ヒットラー一味の戦争犯罪』を列挙し、今次大戦中に行なわれた「厳密ナル意味ニオケル(「厳密ナル意味ニオケル」に小さい丸で傍点あり)」戦争犯罪を挙げている。

 第7章において、トレイニン氏は『国際犯罪の犯人』を探し出そうとしている。ここで同氏が提示している命題は次のようなものと見られる。』(←正誤表によると「見られる。』」は誤りで「見られる。」が正しい)

 1、刑事裁判の分野における中心問題は罪責の問題である。罪なくして刑事責任は存在しない。罪の表現形式は二通りある。すなわち一は意思の形式においてであり、他は懈怠の形式においてである。

 2、国家の行為がなされるとき国家そのものの意思ないしは懈怠(の念)はそこにあり得ない。ここに国家の刑事的免責というものが生じて来ることになる。

 3、国家の名において、又はその権威のもとになされた犯罪行為に対しては、政府を代表してその名において行為をなした自然人そのものが責を負わなければならない。

  (a)国家の名において行為する人々の刑事責任は、どのような政治形態のもとにおいても理論上当然なものであるが、宣誓政治下のドイツにあっては、特に妥当なものである。

  (b)法人に代わって行為をなす自然人の刑事責任は現行の刑事立法において認められている。《例、1937年のスイス刑法中、172条は会社の取締役に対し、会社の行為について刑事責任を負わせている》

  (c)国際法に基づいた諸関係を侵犯するのは自然人そのものであるから、彼らが刑事責任を有するのであって、かような個人が国際関係の当事者でなくても、それは問題にならないのである。

 以上がトレイニン氏の論説の全貌である。残余の4章は、われわれの当面の目的には関連性をもたない。

 さきに挙げた他の著者と異なって、トレイニン氏はその結論の基礎を協約(←正誤表によると「結論の基礎を協約」は誤りで「結論の基礎をどのような規約協約」が正しい)もしくは慣習法にもおいていない。同氏は第一次世界大戦前に存在していた国際法が、かような諸行為を犯罪的なものであると考えていたとは言っていない。氏は、パリー条約をも含めて、ある特定の規約が、かような行為を犯罪となしたとは主張していないのである。氏はまた犯罪性が慣習法として発展したものであるとさえも主張していない。これに反して同氏は、国際関係において今日まで認められてきた犯罪の事例を基にして、その認識から出発して、現在のわれわれが取り扱っている犯罪を導き出そうとするのは誤った類推であると指摘しているように見受けられる。

 ある法律上の命題の法学的概念をその命題中の犯罪性の構想の範囲外の諸現象に適用することは、場合によっては正当であるかも知れない。しかしながらかような命題に全然新しい内容、すなわちその本来の内容と大体類似しているというところまでも行かない内容を注入することが正当であるかどうか、本官は疑わしいと思う。

 トレイニン氏の論旨は1943年のモスコー宣言以来、また同宣言の結果として、新国際社会なるものが存在するに至った、というにあるようである。この発展過程を促進するため、またこれらの新しい概念を強化するため、法律思想は、これらの新しい関係のための正しい形態をつくり出し、国際法の体系を案出し、この体系の不可分的な一部として、国際関係の基礎を脅かすものの刑事責任の問題を、諸国民の良心に訴える義務を負わされている。

 トレイニン氏はヒットラー一味の犯した犯罪に対する応報の要求に法的表現を与えるというソビエット法学者たちの「名誉ある義務」なるものに言及している。本官は応報の要求を満足させようとするこの義務の概念が同氏にあまり重圧を加えなかったことを念ずるものである。かような気持ちの重圧のもとでは、裁判官及び法律的思策家(←「思索家」の誤植だろう)は、正当にその機能を果たし得るものではない。しかしながら、トレイニン氏の論説が、深遠な法学的思想にきわめて貴重な貢献をなすものであることは否定できない。

 法の諸規則が大部分それらによって適用を受ける種々の事実に由来するものであることには疑問の余地がない。しかしながらかような考慮のみによって直接にこれらの規則を発見しようとするときには、ややもすれば一種の迷路におのれの路を見失う結果となりがちである。かような方法の伴う理論的な法の原則は、現実の生活の試練に堪えられそうには思われない。

 モスコー宣言は国際生活上の新紀元がこれから始まるという宣言に過ぎない。

 この新紀元が開始されたと仮定しても、それは先に提議された方のための『理由』が存在するに至ったというにすぎない。しかし法のための理由はそれみずから法ではない。

 ここで問題とされている法の規則は、トレイニン氏が述べた事実の状態のうちに必然的に含まれ、従ってこれらの事実と同時に生ずるというようなものではない。国際関係はモスコー宣言によって約束されたような形においてさえ、依然としてきわめて特殊的な意味での社会を構成するのである。これもまた同様に特殊的な意味において法の支配下におかれるものであり、右のような(国際)生活において刑法を持つことがどんなに望ましいとしても、そのうちにかような法が必然的に含まれているのではない。

 最もよく評価したところでトレイニン氏は変わりつつある国際生活上の要求を確立したにすぎない。しかしながら本官はこれが果たしてその生活上の真正な要求であり得るものか否か疑わしいし、また現在の組織のもとにおいては、単に敗北に終わった戦争の当事国に帰属させることしかできないような刑事責任を導入することによって右の要求を満たすことができるか疑問である。

 現在においてもなお、国家の主権は依然として国際生活の基本的要素をなすものであり、かつ問題の諸行為はこの主権の本質自体に対して影響を及ぼすものであることをこの著者は無視している。国際生活のどんな方式にせよ、それに対する服従が、従前通り各国家の意志に依存している限り、ひとつの規約又は協定に含まれている単に暗示的なものについてかような主権の基礎そのものにかくも根本的な影響を与えるようなものを、受けいれることは困難である。

 いずれにせよ、この種の刑法が単なる理由のみから自然に生まれるものであると仮定しても、それがどういう工合に過去まで及ぼされるのか理解しがたいことである。

 トレイニン氏がこの遡及効に関する困難を除去する条約を考えているのであったならば、本官が既に述べた通り、本件に関しては、そのような条約は全然ないと言えば充分であろう。




 この点についてトレニン氏のなした最も貴重な貢献は、国際生活における刑事責任の地位に関する同氏の見解である。同氏は国際法の管轄に属する犯罪として、従来国際法体系中に包含されてきた海賊行為、奴隷使役などは、実は正しい意味での国際犯罪でないと指摘しているがこれは正しい。同氏は又次のことを指摘している。すなわち『実際には国際協約の規定の対象として一個又は他の若干の犯罪を選択するのは、国際犯罪の性質に関する理論的考察によって必要とされるものではなく、諸種の政治的な動機すなわち一定の犯罪に対する抗争に際しての一国ないしは一群の国家の利害、右抗争の組織化のための具体的便宜、その他同様の性質の諸理由によって必要とされるのである。・・・・一定の共通な犯罪に対する協約は、その犯罪の法的性質並びに事実的意義のゆえに、犯罪に対する現実的斗争を目論む諸国政府が、刑法に対して与える相互的支持の種々な形式の一つと考えられる。政府間のこの相互的措置は実際的特質でないわけではないのであるが、国際犯罪の問題には直接関係がない。』

 トレイニン氏は国際生活における刑事責任の概念は、この生活自体がある程度の発達段階に達して、初めて生まれるものであることを指摘している。右の概念をそこに導入し得る前に、われわれはまず国際生活自体がなんらか平和的基礎の上に確立されていると断言し得る立場になければならない。国際犯罪は実にこの基礎の侵犯、すなわち国際団体の静謐もしくは「平和(「平和」に小さい丸で傍点あり)」に対する侵害ないしは違反なのである。

 トレイニン氏の、この見解に対しては本官は全面的に同意を表するものである。本官の容易に受けいれることのできない点はトレイニン氏が右の文脈において『平和』という語に与えた意味である。同時に又第二次世界大戦前に存した国際団体の性質に関する氏の見解もまた承服しがたい。さらに本官は、かような刑事責任を国際生活に導入することが、果たして少しでも得策であるかどうかに疑問をもつものである。

 犯罪の概念を国際生活に導入するという問題は、刑罰の社会的効用の見地からこれを検討する必要がある。過去において幾度か刑罰を正当化する種々の異なった理論が国内法上で認められた。これらの理論はそれぞれ(1)改善刑罰論(教育刑論)(2)威嚇刑罰論(3)応報刑罰論並びに(4)予防刑罰論と呼ぶことができよう。すなわち『刑罰は犯罪者を矯正して遵法者となし、前人の罰せられる原因となった犯罪を後人が再び犯さないようにこれを制止し、また刑罰のもたらす応報は私的復讐の性質を有するよりも、公平かつ公正に行なわれるべきことを保証し、また違法者に対する否認の意を集団的に表示することによって、団体の連帯を強化するなどの効果をもたらすものとされてきた。』右の議論に対して、現代の犯罪学者は取るに足らない愚論であるとしている。しかし本官は、刑罰によって上に述べた所期の結果のいずれかを達成することができるという立場から論を進めて見よう。

 犯罪に対して裁判を行ない、刑罰を課するという手段は、戦争に敗れたものに対してのみ適用され得るという段階に国際機構がとどまる限り、刑事責任の観念を導入しても、到底制止的と予防的の効果を期し得るものではない。

 一つの侵略戦争を計画することによって生ずる、刑事責任に問われる危険率は、その計画された戦争に万一敗れた場合に問われることのあり得る刑事責任の危険率に比して、より重大となることは決してないのである。

 かような刑事責任の概念を国際生活に導入することによって、右の点に関する矯正を期し得ると真面目に考えるものはいないであろう。人間の道義的態度及び行為の規範は、きわめて微妙な過程を経て生まれて来るものであって、そのため、厳罰を受ける恐れが直ちに善行へと人を導くよすがになるとは限らない。このことはその行為が当人の個人的利害にかかる場合でさえもその通りである。人間の人格陶冶の過程を少しでも知っている者ならば、新しい衣をまとって仮装している「原罪」に関する古い教義を見破り、これに対して警戒するであろう。果たしてそうだとすれば、ある人が自己の個人的な目的のために行動する場合でさえ、問題の行為が、少なくともその個人自身の意見において、彼の国家のためになるのだと考えた場合、戦勝国によって加えられる刑罰または負わされる刑事責任は、たいした効果をもたらし得るものではない。将来の戦勝者によって勝利の暁に勝手に制定されるかも知れない規則に違反したために処罰されるという恐怖から、この規範の背後にある価値が認識され尊重されるようになることは、まずあるまい。

 いずれにせよ、この改善(矯正)論は国際生活においては刑事責任を関係国家自体以上に(個人にまで)及ぼす必要はない。この理論は次の根拠に基づいて展開される。もし一個人が他の一人に対して不法行為をしたとすれば、その不法行為は、彼の個性の誇張によってなされるもの、彼のかような攻勢的態度は当然抑制されるべきものであって、彼自身に対しては、彼の欲望が世界を支配するものでなく、むしろ社会の利害が決定力を有するものであるということを悟らせなければならない。それゆえ処罰は、その個人のこの世における存在が一定の条件ないし制約のもとにおける存在であり、かつ常にその制約内におかれるべきものであることを意識させるために、同人に対して及ぼされる影響として意図されたものである。これは不法行使者の度を過ごした利己的行為を矯正することができる程度の苦痛を与えることによって行なわれる。この目的のためには、不法行為をした国家自体を効果的に処罰することができる。まことに、不法行為をなした国家が不法行為国家として処罰されて初めて、処罰は効果的であることができるのである。

 本官は応報の目的のために、国家の国権行使者たちの刑事責任を国際生活に導入するのは妥当でないとの見解を持つものである。応報という語の正しい意味は、犯人に対して、倫理的見地からして、彼の行為が当然もたらすところの結果が何であるかを彼に自覚させるということである。これには当然右犯人の道徳的責任の程度の決定ということが付随してくるのであるが、かような仕事は国内社会においてさえ、どんな司法裁判所でさえも、できることではない。右の根拠のもとに国内社会において刑事責任を正当化する上でさえ、知識の程度、訓練の有無、道徳的発達のための機会の多寡、一般の社会的環境、並びに動機等の諸条件を究明しなければならない。国際生活においては、この応報論に基づいて刑事責任を正当化するには、その前に、右に挙げた条件とは別の多くの要素を考慮しなければ、それはできないのである。

 かような刑事責任の概念を国際生活に導入することを正当化し得る理由として残っている唯一のものは、復讐であるが、これは本裁判の遂行を要求するすべての人々が否認している理由である。

 行なわれた不法行為に対する憤激の情は正当なものであり、かような感情こそ刑法を正当化するものであるとの主張がなされるかもしれない。

 国際的不法行為をなしたものが苦痛を与えられることに、われわれがある種の満足感を覚え、かつそこにある妥当性を認めることは、おそらくは正しいことであろう。行なわれた不法行為に対して、憤激の感を抱くことは、われわれの道徳的義務であるとさえ言うことができるかもしれない。

 しかしながらこのような復讐の感情の満足を要求すること、それだけで刑法を正当化することができると主張するのは行き過ぎの譏り(誹り。そしり)を免れない。国内法においては、刑法は、一方においてかような復讐の感情を満足させるとともに、他方においては真の倫理的価値をより多く有する何ものかをするように意図されたものであり、これこそは真にその法を正当化するものである。なるほど刑法発展の起源はこれを復讐に求めることができるかもしれないが、その刑法の至高の目的は、法の威嚇によって犯罪を予防することにある。

 復讐という感情は、それだけではなんら倫理的価値のあるものではない。われわれが犯罪者に禍いあれと望むのは、そう望むことによってなんらかの福利を生む可能性があるのでない限り、正しいことではない。この点に関しては全然別個の二つの感情が考慮されなければならない。一は道徳的反発の感情であって、これは犯罪に対して向けられる。いま一つは、復讐の欲望であり、これは犯罪人に対して向けられる。復讐を遂げることはその実、すでに行なわれた悪に対し、さらにいま一つの悪を加えることにほかならず、しかもこれをひとつの権利として容認することは、事実上、公民的社会的秩序をすべて否定することである。けだし、こうすることによって、公益によって調節されることなく、あるいは公益のために行使されるのでない暴力行為を、正当化する結果となるからである。復讐に対する欲望は理論上は正当であると主張するものは、近代においてはほとんどいない。

 復讐は正当なるものであると主張するフィッツジェームス・ステフェンの見解を本官は無視するものではない。ステフェンは次のように述べている。すなわち

  『法によって刑罰を課することは、犯罪の遂行によって喚起された憎悪の念、すなわち道徳律のうちで刑法によってもまた認められている部分の、道義的又は一般の世論による――個人の良心に命ずるところとは区別された意味での――是認を構成する憎悪の念、に対して明確な表現を与え、これを厳粛に是認するものである。かようにして刑法は犯罪人を憎悪することは道徳的に正当であるという原則に基づいて論を進め、犯罪に対して、この憎悪の感情を表示する処罰を加えることによって、この感情を確認し、かつ正当化するのである。』彼は続けて次のように言う。『余は犯罪人らが憎悪されること、犯罪人らに対して加えられる刑罰が、その憎悪の念を表示するように工夫されること、また健全で自然な感情を表示し、かつ満足させる手段を規定する公の掟がこれを正当化することができ、そしてそれを奨励する限り、その憎悪の念を正当化することは、非常に望ましいと思う。』

メールを送る


Copyright (C)masaki nakamura All Rights Reserved.