歴史の部屋

 国際法に違反する戦争については、問題は次のことに関連して考えられなければならない。

 1、戦争を放棄する法律。

 2、侵略戦争を犯罪とする法律。

 3、敵対行為の開始に関する法律。

 第1及び第2の場合は、本審理中にもち出された緊要な法律の問題を処理するにあたって、すでに検討されたところである。

 第3の場合は、二つの異なった項目のもとに検討されることになる。すなわち(1)1907年の敵対行為の開始に関するヘーグ条約第三号以外に何か法律があれば、それに関連して、及び(2)1907年のヘーグ条約第三号に関連してである。

 『ウィートンの国際法』第7版において、B・キース博士は宣戦布告の歴史及び原則を論じ、宣戦布告をしないことは、その戦争を非合法なものとしない、と結論している。キース博士が指摘するところは次の通りである。すなわちかつては、敵方に対する正式の宣戦布告が国家間の敵対行為を合法化するに必要なものと考えられていた。この考えは、古代ローマ人によって、さらにまた近代欧州諸国によって17世紀の半ばごろまで一様に実行された。17世紀においては、正式の宣戦布告は絶対不可欠なものとは見なされなかった。18世紀以降事前の通告は例外的なものとなった。西暦1700年より1872年にかけて起こった約120の戦争のうち、正式の宣戦布告が敵対行為開始に先だってなされたのは、わずかに10にも満たないほどであった。しかしながら19世紀後期においては、交戦状態の存在及び敵対行為開始の動機を公表する布告を、戦を宣する側の国家の領土内において発表するのが慣習となった。おそらくかような発表は、交戦国の国民と敵との交通につき、また国際法が正式な戦争に付与する一定の効果に関して交戦国の国民を指示指導するために必要と見なされたのであろう。キース博士はさらに次のように指摘している。すなわち、実際の慣行から引き出される結論を除いては、法律学者や、国際法学者の間の意見は決して一致したものではないと。概して欧州大陸側の著作家は事前宣告の必要を主張した。英国人の見解はこれに反していた。ストーウェル卿によれば、事前告知がなくても戦争は正当に存在し得るのであり、告知は事実の形式的証左にすぎないと。

 次いでキース博士は、1870年から1904年にわたる期間から実例を挙げ、正式の宣戦布告は、ある場合は行なわれ他の場合は行なわれなかったことを示している。行なわれなかった場合としては、1884年ないし1885年のフランス清国間における敵対行為、1885年におけるセルビアのブルガリア侵入、1894年の日清戦争、1897年におけるギリシヤのトルコ侵入及び1900年6月17日における列国の対清国共同作戦行動があった。1904年、日露戦争に際して、日本は正式に宣戦する二日前に、ロシア艦隊を攻撃した。そこでロシアは背信行為のかどをもって日本を咎め立てた。キース博士は、奇襲攻撃がなかった事実に鑑みて、ロシアの非難は支持し難いものであると言っている。両国間の外交関係は前年6月以降、芳しくない状態にあったが、2月6日には、次のように宣言した日本側の通牒によって断絶するに至った。すなわち『日本帝国政府ハ自ラソノ侵迫ヲ受ケタル地位ヲ鞏固ニシカツコレヲ防衛スルタメ並ビニ帝国ノ既得権及ビ正当利益ヲ擁護スルタメ、最良ト思惟スル独立ノ行動ヲ採ルコトノ権利ヲ保留ス』と。しかしながら、2月4日ロシア艦隊が大連港と日本の海岸との中間に現われるに及び、日本側はロシア巡洋艦一隻を拿捕した。右の通牒の伝達に先だつこと数時間であった。

 右に指摘したように、一般的布告を公表する慣行ができたとはいえ、この慣行は確定したものではなく、法律上の義務というよりは、むしろ礼譲の問題にすぎなかった。キース博士いわく、本問題がかように不満足な状態にあったことに鑑みて、1907年のヘーグ会議はこの問題を取り上げ、ヘーグ条約第三号中に明確な規則を規定した。しかして本条約第三号は現在交戦諸国を拘束するものである、と。

 この条約は題して『敵対行為ノ開始ニ関スル条約』といい、8箇条から成っている。そのうち、われわれの現在の目的と関連性のあるものは、第1条、第2条、第3条及び第7条である。

 第1条は次のように規定している。『締約国ハ理由ヲ付シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件付開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭カツ事前ノ通告ナクシテソノ相互間ニ戦争ヲ開始スベカラザルコトヲ承認ス』

 第2条は、戦争状態の存在は遅滞なく中立国に通告されるべきことを要求し、

 第3条は、本条約第1条は締約国中の二国または数国間の戦争の場合に効力を有するものとすると述べ、

 第7条は、いずれの締約国も本条約を廃棄し得るものとし、かつその廃棄の方法を定めている。

 これらの条文を注意して読んでみれば、同条約は単に契約上の義務を設定するに止まり、国際制度になんら新しい法の規則を導入したものでないことがわかるであろう。ウェストレークは、本条約によって本問題に関する既往の法律が重大な影響を被ったことはないと考えている。ピットコベットによれば『締約国は、事前に宣戦を布告することなしに敵対行為にはいることはないと絶対的に誓約をなしたものではなく、単に交戦国間における場合と同様、敵対行為は明白な警告を事前に与えることなしに始めるべきでない旨を認めているに止まる。』ベロットは、敵対行為の開始には、慣習並びに条約によって制限が付されているにかかわらず、それは主に戦略の問題と思われる、と考えている。

 キース博士も、同条約によって設定された規則は、宣戦布告のない戦争を非合法であると指弾しているのでは全然ないと結論している。同規則から見ると、宣戦布告と実際の敵対作戦の開始との間に、一定の時間の経過を認めることは必要でないように見える。同会議の席上では、戦闘の開始は24時間後に行なわれるべきことが提唱されたが、これは可決されず、所要の予告期間は、遂に規定されなかったのである。法廷証第2315号すなわち敵対行為開始に関する第二回委員会から会議への報告を参照されたい。今次大戦の場合には、最後通牒は英国からドイツにあてて9月2日午前9時に手交され、同日午前11時に期限が切れるものとなっていた。フランスも同様の最後通牒を手交し、これは同日午後5時に期限が切れた。ロシアは1939年正式の通告なしにフィンランドを攻撃した。この条約「以外に(「以外に」に小さい丸で傍点あり)」、宣戦布告のない戦争を非合法とする法律は存しなかったのである。

 さらに進んで起訴状の殺人という訴追事項に関連して、この問題を考察しよう。

 本官の判断によれば、条約、協定、保障に違反する戦争ないしは敵対行為開始に関する条約に違反する戦争はそれ以上のことをなしたのでない限り、国際法上の犯罪となることはなかったのであり、従ってかような戦争を計画し、開始し、遂行した人間がもしあったとしても、彼らはそのためになんら犯罪を犯したことにはならなかったのである。



 しかしながら検察側の主張は、条約、協定、保障及び敵対行為開始に関する条約の単なる違反という問題に止まってはいない。検察側はこの点に関して被告に背信があったとして、訴追しているのである。訴追は単にこれらの戦争が、かような条約協定等に反して計画され、開始されたというだけではなく、この計画された戦争の全体的構想が、かような条約等に違反して行なわれる戦争として予定され、またかような条約等に違反して開始されるべきものと予定され、さらに他の関係国をして、戦争が上述のような性格のものでないと誤り信じさせるように予定されていたというのである。検察側に従えば、相手国に対して、同国に対する戦争遂行の企図の存在を秘匿して、かような秘匿によって、かような戦争の開始遂行を容易なるものにしようと意図していたことは、上述の計画ないしは企図の不可欠の部分を占めていた、というのである。

 この問題には、事実の問題、すなわち、はたしてかような背信が存在したか否かの問題が含まれている。この問題は真珠湾奇襲攻撃に関連して、もっと詳細に論じたいと思う。検察側は、この攻撃をもって背信的攻撃の特徴をもつものとし、かつこれは詐欺と欺瞞と不誠実にみちみちた全計画の象徴であると主張している。この点に関する証拠については、後にこの攻撃を論ずる際に検討したいと思う。ここでは次のことを言えば足りるであろう。すなわち、戦争の背信的開始ということは、告知ないし宣戦布告のない戦争の開始ということとまったく異なるものであり、かつ本官の意見に従えば、かような背信がかりにあったとすれば、これによってその戦争開始が不法行為となることについては疑いのありようがない。しかしながら次の点を指摘しなければならない。すなわち『背信という性質はこの攻撃をなした者の心の中に存するのであって、背信が見破られたという事実によってこれを消滅させることはできない。』となす検察側の主張は、本官はこれを承認しないものである。裁判所が関心を有するのは、背信という心理的な不法行為ではなく、戦争の開始が背信的だということであって、従ってこの目的のもとにおいては、背信的企図を相手国に対して秘匿することができたか否か、そして相手国がこの企図によって真に欺瞞されたか否かがきわめて重大な問題なのである。もちろん単に、背信的な意図をもつに至ったことが犯罪だとすれば、相手国がこれを知っていたということは本問題に対してなんら重要な関係を有するものでないかもしれない。後に論ずるように、本官の意見ではかような性格をもった単なる企図は国際生活上の犯罪ではない。

 この「知っていた」という弁護について、検察側はその最終論告の別の場所でこれを「奇妙なこと」だとし、次のように述べている。『弁護人の論ずるところは、犯行の犠牲者として擬せられた人々がかような知識を持っていたことが、侵略戦争、殺人及びかかる犯行を目指す共同謀議の訴追に対する有効な弁護となるというのではまさかあるまい。古来どのような文明国の裁判においても、殺人罪の犠牲者が自己の殺害されることを前もって知っていたということが、殺人罪の訴追に対する弁護となった例はない。どのような場所においても、暴行、殴打、四肢の毀損、強姦、強盗または夜盗の事件において犯行の犠牲者が犯罪の犯されることを前もって知っていたか、いなかったかということが犯罪訴追に対する弁護となったことは、かつてない。ゆえに犯行の犠牲者に擬せられた者が犯行を前もって知っていたか否かは侵略戦争という犯罪の弁護とはなり得ない・・・・。』

 弁護人に対して公平を期するならば、次の点を述べなければならない。すなわち『目途された犠牲者側が知っていた』という弁護は、なんら検察側が言及した諸事項のいずれに対しても向けられたものではなかったということである。この弁護は、訴追されている行為の性格を決定する上での背信という限度内において、背信の起訴事実に対してのみなされたのである。もしこの訴追されている行為が、背信的であるばかりでなく、犯罪的であるとすれば、弁護人は、目途された犠牲者がこれを知っていたということによってなんらかこの行為の性格が変わると言おうとは決して欲しなかったのである。

 起訴状中に主張されているような一定地域の支配を確保しようとする戦争について言えば、もしかような手段を採用した当事国が上に示した根拠によってこの手段を正当化することができないとすれば、かような戦争はおそらくはパリー条約の違反となるであろう。しかし同条約に関する本件の意見はすでに述べた。国家あるいは国家の機関の地位にある人々の刑事上の責任の問題に関するかぎり本官はすでに否定的な結論を与えているのである。

 ただもう一度次の点を述べておきたい。すなわち東半球におけるいわゆる西洋諸国の権益は、概ねこれらの西洋人たちが過去において『軍事的暴力を変じて商業的利潤となす』に成功したことの上に築かれたものである、と。もちろんかような不公正は彼らの責任ではなく、この目的のために剣に訴えた彼らの父祖たちのしたことである。しかし『暴力を用いる者が、その暴力を真心から後悔しつつそれと同時にこの暴力によって永久に利益を得るということはできない。』と述べることはおそらく正しいものと思う。


 第3章 証拠及び手続に関する規則


 本官の法律に対する見地からすれば、本官が「厳格ナル意味ニオケル(「厳格ナル意味ニオケル」に小さい丸で傍点あり)」戦争犯罪に関するもの以外の訴因について、本件の証拠に論を進めることは幾分不必要である。しかしながら、本官は本審理全部を聴取し、法廷記録に載せられた証拠と同様に、事実について本官自身の結論に達したのであるから、これらの一部に関する本官の結論を簡単に述べたいと思う。

 証拠の価値を判断するにあたって、証拠の大部分にまつわる明白な不確実さについて一言したい。

 本裁判に対する証拠規定を定める際に、裁判所条例は、すべて裁判所が間違った説得にひっかからないように、訴訟上の計画及び伝統に基づいて、いろいろな国内法体系によって考案された手続規定の全部を事実上棄てて用いなかったのであって、そのためわれわれ裁判官は、証拠に関してはすべて人為的の手続規定に拘束されることなく行動することができるようになっているのである。

 裁判所条例中の関係規定は第13条(a)、(b)、(c)及び第15条(d)であるが、その規定は以下に掲げる通りである。すなわち

 第13条、証拠

 (a)証拠能力 本裁判所ハ証拠ニ関スル技術的法則ニ拘束セラルルコトナシ。本裁判所ハ迅速カツ機宜ノ手続ヲ最大限度ニ採用カツ適用スベク、本裁判所ニオイテ証明力アリト認ムル限リ、イカナル証拠ヲモ採用スルモノトス。被告人ノ表示シタル承認マタハ陳述ハ、スベテ証拠トシテ採用スルコトヲ得。

 (b)証拠ノ関連性 本裁判所ハ証拠ノ関連性ノ有無ヲ判定スルタメ証拠ノ提出前証拠ノ性質ニツキ説明ヲ徴スルコトヲ得ルモノトス。

 (c)採用シ得ベキ具体的証拠ノ例示 左ニ掲グルモノハイズレモ証拠トシテ採用シ得ルモノトス

   (1)機密上ノ種別イカンニ拘ワラズ、カツ発行マタハ署名ニ関スル証明ノ有無ヲ問ワズ、アル政府ノ軍隊ニ属スル将校、官庁、機関ナイシ構成員ノ発行マタハ署名ニ係ルモノト本裁判所ニオイテ認メラルル文書。

   (2)国際赤十字社マタハソノ社員、医師マタハ医務従事者、調査員マタハ情報官、ソノ他当該報告書ニ記載セラレタル事項ヲ直接知得セリト本裁判所ニ認メラルル者ノ署名マタハ発行ニ係ルモノト本裁判所ニオイテ認メラルル報告書。

   (3)宣誓始末書、聴取書、ソノ他署名アル陳述書。

   (4)本裁判所ニオイテ起訴事実ニ関係アル資料ヲ包含スト認メラルル日記、書状モシクハ宣誓マタハ非宣誓陳述ヲ含ムソノ他ノ文書。

   (5)原本ヲ即時提出シ得ザル場合ニオイテハ、文書ノ写シソノ他原本ノ内容ヲ第二次的ニ証明スル証拠物。

 (d)裁判所ニ顕著ナル事項 本裁判所ハ公知ノ事実ナイシハアル国家ノ公式ノ文書及ビ報告書ノ真実性ナイシハアル「国際連合」加盟国ノ軍事機関マタハソノ他ノ機関ノ作成ニ係ル調書、記録及ビ決定書ノ真実性ニツキテハ、ソノ立証ヲ要セザルモノトス。

 第15条 裁判所手続ノ進行 本裁判ニオケル手続ハ左記ノ過程ヲ経ベキモノトス。・・・・

 (d)検察官及ビ被告人側ハ証拠ノ提出ヲナスコトヲ得ベク、裁判所ハ該証拠ノ採否ニツキ決定スベシ。

 裁判所条例のかような規定に従って、法廷は通例ならば伝聞証拠として却下され得るような材料をも受理したのである。

 伝聞に関する規則に言及するにあたって、法廷外の者を証人として召喚することを命ずる規定と、すでに証人台にある者に対して、同人自身の知識だけについて申し立てるように命ずる規定との区別を心に留めていなければならない。証人の特性はその知識である。すなわち係争の事実に通じていること、及び自身の観察に基づく知識である。証人の特殊の職分は、「自己ノ見聞ニツイテ(「自己ノ見聞ニツイテ」に小さい丸で傍点あり)」語ることである。

 本官が差し当たり考慮しつつあるところは、証拠規定の次の部分である。すなわちまだ出廷しないある特定の者が、ある事実に関して言明したと言われる場合、同人は証人台に召喚されなければならず、そうでなければ同人の言明は証拠として受理されないとする部分である。かような言明は、言明者の知識がどれほど広かろうとも、同人が法廷に召喚されて、証人台から証言しない以上、信をおかれ、または証拠として受理されるべきでない。法廷はこの規則を守らなかった

 この種の伝聞証拠を除外することの基礎は、それが本質的に証明力を欠くことにあるのではない。伝聞証拠の除外される理由は、証言をなす者の観察、記憶、叙述、及び真実性に関して生じ得る不確実性は、証言者が反対訊問に付せられない場合、試験されぬままとなるということにある。かような不確実性は担当判事に証人の証言の価値を公正に判断させることができる程度に、反対訊問によってあばくことができるかもしれない。

 本審理中に提出された証拠の大部分はこの種の伝聞からなるものである。これらの証拠は反対訊問するために法廷に現われなかった人々からとった陳述である。この種の証拠の価値を判断するにあたっては深甚の注意を払わなければならない。

 法廷記録にある一証拠で、厳格に言えば、この種類に属し、しかも正当と認められた除外例に該当するとされるものがある。本官は木戸日記の抜粋を指しているのである。

 証拠除外の規則及び同規則施行の手続は、信をおき得ない証言を自動的に排除するようには必ずしも常につくられていない。むしろかような規則は、主としてこの種の証言によって不利を蒙る当事者が、かような証言に対して自己を守る特権を与えるものである。他の人の法廷外における言明が、右の当事者の利益に反して提出された場合、彼はなにか代位上の責任の原則といったものが妨げをしない以上、伝聞に対する通例の保護を受ける資格があるのである。

 かような陳述が受理される場合、その受理を正当化するものは、代位ということを理由とするよりは、むしろ信頼性に関するなにか独立の保障に基づくものである。なにか信頼性の保障といったものを身につけない以上、どんな魔術的作用をなす覆いでも、かような伝聞の弱点をかくすことは出来ない。

 ほとんど絶望的な混乱が、共同謀議者の言明を取り扱う規則を曇らせている。伝統的な規則によれば、一共同謀議者は、その共犯者らが共同謀議の存在する間、共同謀議の遂行のために行なった諸行為に対して責任がある。

 右に述べた範囲内において、各共同謀議者は、他のすべての共同謀議者の代理人である。そしてこれは言語による行為、言語によらない行為の双方に、明言的と非明言的の陳述の双方に適用されるのである。共同謀議の終了後に明言的陳述をした場合には、これらを共同謀議の共犯者に対して不利となる陳述から除外することに困難を覚える制度は非常に少ないのである。共同謀議が終了したという事実は、その陳述がなんら共同謀議を発展させ、またはその目的を成就するような傾向をもたらし得ないということを明らかにするのである。謀議計画の条件及び状況を明らかにするため、常に証拠として受理し得る共同謀議者相互の間の通信は、通例無制限に受理されるのである。理論上、ある者から他の一人に対する話というものは、共同計画を成就するため後者を激励するとか、あるいは行動を起こすように扇動する目的であることが明らかであっても、後者がこれを採用しない以上、それを真実のものとして後者の利益に反して受理すべきではない。

 証拠としての能力を具えるためには、その言明は、共同計画の遂行を進展させるために行なわれたものであるか、もしくは共同謀議者の目的を成就するために行なわれた行為によって生じたすべての緊要ナル事情の一部を成すものでなければならない。そうでなければ、かような陳述は、共同謀議の共犯者を不利に陥れる能力のある証拠となるべき性質のものでない。その言明が行なわれた時期及び内容とその影響並びに目的とを混同することは避けなければならない。あまたの場合において、ある言葉が共同計画を進展させるために吐かれたのではないということは、おそらく明らかであろう。多分その共同謀議者は、共同謀議の目的達成にこれ以上不利であるとは思われないような不注意かつ不賢明な会話にふけっていたのであろう。

 規則は次のようである。すなわち一共同謀議者による事実の容認は、もしそれが共同謀議の期間中になされ、共同謀議に関連性があり、かつ共同謀議を促進させるものならば、それは他の共同謀議の参画者たちに不利な証拠として受理され得るということこれである。ある場合においては、『共同謀議の促進』という表現を解釈するにあたって、その指すとろは自認そのものではなく、自認の対象となったところの行為であると言われている。しかしかようなことは、古い公式に新しい内容を盛るように見え、共同謀議に一つの新しい刑罰を加える結果となるかも知れない。

 ある共同謀議の参画者が言い、または行なった事柄を証拠として受理する上での最善の規則は以下の条件を具備しなければならないようである。すなわち、

 (1)はたして共同謀議なるものが存在したか否かに関しては、共同謀議の参画者と称せられる人々の一人の行為または宣言が、他の参画者の不利となるように用いられる前に、共同謀議の存在が「一見シテ充分ナル(「一見シテ充分ナル」に小さい丸で傍点あり)」証拠によって立証されなければならない。

 (2)共同謀議の参画者と称せられる人々とその共同謀議との関連が「一見シテ充分ナヨウニ(「一見シテ充分ナヨウニ」に小さい丸で傍点あり)」立証されなければならない。

 (3)証拠として提出されるものは、なにかその参画者の一人が次の、

   (a)参画者一同の共同目的に関連して、

   (b)その参画者中の何ぴとかが最初かような目的を懐いた時期以後において、

   言明したものか、行なったことか、もしくは書いたことでなければならない。

 (4)前に言及した事項は次の目的のために証拠とすることができる。すなわち

   (a)共同謀議自体の存在を証明する目的のため

   (b)かような者のうちのだれかがそれに参画したことを示す目的のため

 すべて、かような規則の基礎となる終局的の根本原則は、その言明について、ある程度の信憑性の保障を得るということである。木戸日記からの数個の抜粋を取り扱うにあたって、この保障原則を見逃してはならない。

 ある日記がその筆者の観察にかかる個々別々の日常の出来事を記録するだけのつもりで書かれた場合には、その記事にはなんら本質的に信憑性を欠くようなものはないであろう。しかしながらその筆者がある生活、もしくはなんらかの事件の委曲全部を記録するに至る場合には、その記事に筆者自身の生み出したものが、無意識的な影響ではいってきて、これがその記録に当初の信憑性を滅するほどに強く影響を及ぼすこととなるかもしれない。人世の行路は不可解事で包まれているのが常である。それには常に数多くの自己矛盾があり、自家撞着がある。調和し得ない過去の事柄と現在の事柄とが常に存在する。しかし人間たる創造者の筆は、すべての衝突と矛盾とを解決し調和して、定められた経路をたどろうとするのが常である。そうなると日記が事件の経過をたどるのではなく、事件が無意識のうちに日記に従って進展させられることになるのである。その日記の筆者が利害関係をもたない一編集者ではなく、自身が全事件のおもだった参画者である場合、事実をゆがめる影響の生ずる可能性は一段と強くなるのである。

 もし普通の出来事または生活についてそうであるとすれば、その記録の主題をなす政治事件または政治生活に関する場合、こういう可能性は特に一層重大となるものである。

 しかしこの場合においても日記を全然信憑性のないものとして、棄ててはならない。ある程度は周囲の状況によって、信憑性が保障されているかもしれない。ウィグモアの指摘したように、その周囲の状況によって、当然真摯なまた正確な言葉が述べられ、虚構の事実を伝えるような計画は立てられないということもあるかもしれない。あるいは偽りたいという気持ちが出て来たとしてもたやすく発見されるおそれがあるというような考慮からしてその気持ちはおそらく打ち消されることもあろう。あるいはその日記の記事が公然と知れわたる状況の下に書かれるので、もし誤りが一つでもあったら人の目につき訂正されるという場合もあろう。

 木戸日記の立場がどのようなものであったにもせよ、こういう保障のどれ一つとして本審理の最終期に検察側で提出したもう一つの同様な書類を支持するものとはならない。検察側はこの書類を『西園寺、原田回顧録』と称したのである。

 本審理の終わりに近いころ、右の文書からの数多くの抜粋が証拠として提出された。これは本審理に、右に明示した範疇の双方に属する伝聞証拠、あるいは、おそらくそれにも劣る種類のものが、証拠として提出されたということを意味したのである。

 同文書は大部のものである。その全内容を吟味してもなんの役にも立たない。この文書は、全部が証拠として提出されたのではない。しかしその内容にざっと眼を通しただけでもわれわれがこの文書に所要の周囲の状況による信憑性の保障があるものと認めて、その結果われわれが伝聞証拠を非とする規則に対する除外例を、この文書のために設けることが出来るようにすることは困難となるのである。

 本官はなんのあてもなく同「回顧録」の第13部を取り上げて見た。この部は2巻からなり、1巻は1837頁から1907頁に至り、他は1908頁から1979頁にわたっている。前者は146章ないし252章を含み、1937年7月27日から1937年10月30日までの記事がある。後者は第253章ないし第258章で、1937年10月25日から1937年12月18日までの記事がある。右の章のうちの最初の分は、1937年7月27日に書き込み、同月19日から26日までの間に起こった事件を記録したことになっている。次の章は一見1937年8月4日に書き込まれ、7月25日から8月3日までに起こった事柄を記したとされている。次の章は1937年8月12日の日付があり、同月4日の朝に起こり、日記の筆者が直接知っていた事件の記録である。第250章A及び第250章Bの日付は、ともに1937年10月9日であり、その一つ前の第249章は1937年8月20日の日付である。この第249章は同月13日から20日までの事件を記してあるように思われる。この章の最初の記事は、日記の筆者が内大臣と内大臣の官邸で会見したことを述べているが、その会見の日時は記されていない。この章の最後の記事は8月20日に属するものと思われる。この書き込みは8月20日の話を書き終わっておらず、第250章Aの1937年10月9日に続いている。第250章Bは、それより1ヶ月前、すなわち9月10日に行なわれた会談の記録で始まり、同月20日にあったことの記事で終わっている。1937年10月13日に書いた次の章は、9月27日以前に起こったと思われる日付のない事柄で始まり10月4日で終わっている。次の時期は第252章であり、1937年10月30日の日付である。この章は10月5日の記事で始まり、筆者が同月14日に知ったことの記述で終わっている。1937年10月25日の日付となっている第253章も、また日付のない事件の記事で始まり、同月24日の夜の記事で終わっている。これらの例をこれ以上記す必要はない。以上の例は同日記の記事に、一定の方法の見るべきものがないことを充分に示している。これらの記事の大部分は、ある会談の経過中に、筆者以外の人々のなした陳述を記録したことになっている。これらの陳述は引用符で囲んで、記事の中に出てくるのであって、引用の大部分はきわめて長文である。原田男爵はこれらの会談のある場合には自身参加したと記している。しかしそれ以外の会談では、同男爵はそこに出席していたとさえも言っておらず、その記事は、同男爵がその会談の記事を書き込む時間を得た時から相当前に、会談の参加者の一人または第三者かが、その会談後しばらくしてから、同男爵に対して報告したものとされている。

 本官としては、個人の生命と自由とにかかわる裁判において、この種の証拠を受理し、それに基づいて裁判することに甚だしい困難を覚える。これらの陳述のあるものは、すでに検察側証人として出廷した人々のなしたものとされている。彼らの出廷当時においては、弁護側はこれら証人たちの以前になした陳述の記録が証拠として提出されるなどということは、通告もされなかったのである。

 本文書ができるようになった顛末は、本法廷記録第37,462頁ないし37,534頁における証人近衛夫人の証言にあらわれている。証人は原田男爵の速記者であった。もっと正確に言えば、証人は故近衛公爵の弟の夫人で、近衛子爵夫人である。速記の知識があったところから、原田男は特に同夫人の助力を要請し、これを得たのであった。夫人の言うところによれば、1930年から1940年までの期間、夫人は同男爵の口授した覚書を速記したということである。夫人の証言は次のようなものである。すなわち

  『これら私が速記した文書は、私が日本文に清書し、承認のため原田男爵に差し出したものであります。

  『原田男爵はその記録を訂正し、意見を求めるために、西園寺公望公爵へ持参されました。

  『西園寺公の訂正及びまたは意見は仕上げの際に書き込まれてあります。それは私自身が手書きしたもので、上記のとおり認証したものであります。

 証人は国際検察局の調査官T・G・ラムバード(←正誤表によると「ラムバード」は誤りで「ラムバート」が正しい)氏によって完成した記録の写真複写一通を示された(この部分、一見ラムバート氏が記録を「完成した」と読めるが、英文は、The witness says that she had been shown by Mr.J.G.Lambart,IPS investigator,a photostatic copy on this finished transcriptionとなっており、「ランバート氏によって」は直接には「示された」にかかっており、transcriptionつまり筆写・写本を完成したのが誰かには触れていない。西園寺公の協力を得て近衛夫人によって仕上げられた筆写の写真コピーと読むのが自然だろう。ラムバート氏の名についても英文ではJ.G.だが和文ではT・G・となっており、どちらが正しいのか不明である)こと、及びそれが彼女自身の手になった原田男爵の回顧録であることを認めると申し立てている。証人の証言によれば、毎週一回ないし二回原田男飾(←正誤表によると「原田男飾」は誤りで「原田男爵」が正しい)は証人に草稿または記憶により、記録の初稿を書き取らせた。反対訊問中に、証人は、多くの場合に二週間に一ぺんとか、あるいはまた三週間に一ぺんとかだけしか筆記しなかったということがあったかもしれないと証言した。多少の混乱ののち証人は、この回顧録を書き上げるために取った方法は、以下のようなものであったことを明らかにすることができた。すなわち

 (1)原田男爵は草稿または記憶により証人に口授したこと、

 (2)証人は速記したこと、

 (3)証人は速記した文書を日本文に書き改め、これを原田男に差し出した、

 (4)男爵はときどきこれに訂正を加え、これを西園寺公に示した、

 (5)西園寺公もまたときどき訂正を行なった、

 (6)訂正を加えた日本文は証人に渡され、証人は訂正に従って全文をさらに清書した、

 (7)訂正を経た日本文を再度証人が清書した、

 証人の証言中に、写真複写は第6項にある日本文翻訳の清書の複写であるという申し立てがあった。言い換えれば最初の草稿を西園寺公が訂正した後、その訂正を含めて証人が清書したものを指す。(法廷記録第37,529頁参照)しかしその後検察側は、この複写は第5項に至るまでの訂正を経た翻訳日本文の写しであるというように、証人の陳述を訂正したのである。検察側は写真複写の原本と比較した後、こう言わなければならなくなったのである。

 口授に基づいて書き取った記人事項は(←正誤表によると「記人事項は」は誤りで「記入事項は」が正しい)『原田男爵が言及しているところが現在のことであるか、過去のことであるか分からなくなる』ような状態にあり、また『事実ある文章の主語と述語を定めることも、さらにだれが何を言っておるかということを見分けることも、困難であった』のである。速記文を翻訳する場合、証人は『主格がどこにあるかということなどについては、かなり苦労』した。そして証人としては『一番正しいと思うような方法をとって、最善を尽くした』のである。

 この文書は弁護側がその段階を終了してから、初めて証拠として提出されたという事実を注意すべきである。これは反駁段階における証拠という仮装の下に、提出を試みられたのである。

 裁判長は、反駁に関する英国の法律は次のように述べられ得ると指摘した。すなわち

 『弁護側によって証拠が提出されて、そのことが新しい問題であり、そしてそれについて検察側としてこれを予知することができなかった場合には、検察側はそれに対して返答することができます。そしてこれは一にかかって法廷の採択、許可いかんによるものであります。』(法廷記録第37,188頁参照)

 裁判長はさらに『この点に関しては、アメリカの軍法会議とイギリスの法律との間に、そう大して違いはないようである』と指摘した。

 検察側を代表してコミンズ・カー検察官は、通常の場合、英国または米国の法廷において、弁護段階の終了後検察側が提出し得る追加的証拠には、以下の三形式があると主張した。すなわち

 (1)厳密な意味における反駁、

 (2)被告または被告以外の弁護側証人に差しつけ、同人がこれを全般的に、または部分的に否定した彼自身の陳述に関する証拠、

 (3)検察側段階の終結後、初めて検察側の知るところとなった全然新しい事柄。

 コミンズ・カー検察官はこの場合は一つの特別な分類に属することを主張した。すなわち

 (4)検察側の証拠提出の一部として、ある事柄が申し立てられた。しかしその証拠が入手できないという理由によって、裁判所に対し後日その証拠を入手したときに提出する許可を申請し、その許可を得た場合である。

 カー検察官は本問題に関する特別なものとして、さらにもう一つこの分類に属するものがあることを主張した。すなわちある被告の意見及び政策に関する証言を得るために、ある証人が被告のために喚問された場合、同被告が以前なしたものと称せられる陳述で、この証人の証言と矛盾するものは反駁段階において証拠として受理されるべきものとするのである。

 法廷は『反駁証拠』は受理すべきであるとの決定を下した。ある特定の証拠が受理されるかどうかは、その関連する周囲の事情によるのである。《法廷記録第37,205頁》

 この決定があってから、証拠が提出され始めた。けれども間もなくこれらの証拠が厳密な意味における反駁の証拠として提出されることに関して、種々の難点を生ずるに至った法廷は(←正誤表によると「難点を生ずるに至った法廷は」は誤りで「難点を生ずるに至った。法廷は」が正しい)、結局次のような言葉で裁決を下した。すなわち

 『法廷はいかなる証拠にもせよ、検察側によって提出され、証明力あり、重要性ありと判断せられる限りは、これを受理する。ただし弁護側は検察側の追加証拠に答えるため、証拠を提出する申請をなすことを得、しかしてその申請はその都度法廷によって考慮される。』《法廷記録第37,330頁》

 この点は次の言葉によってさらに明らかにされた。すなわち『提出された証拠を検討するにあたっては、ただ二つの考査標準があるのみである。すなわちこの証拠に証明力ありや。重要性ありやである。』この決定は1948年1月14日になされたものであり、多数決であった。この追加の証拠に対しては、『反駁』という言葉は正しく当てはまらないということが明らかにされた。《法廷記録第37,333頁》

 原田、西園寺回顧録からの抜粋は、この決定に基づいて、1948年1月16日に提出された。

 ローガン弁護人は右の書類を証拠として受理することに対して次の異議を申し立てた。すなわち

  1、同回顧録の証明力は、近衛夫人が自分の速記を普通の文字に書き直す際に際に経験した種々の難点を証言したときに明らかとなった。

  2、同回顧録は、まったく伝聞、偏見、噂話、意見、想像、評判及び臆説に基づくものである。

  3、原田がだれとにもせよ、交わした会話が本件に関し証拠として受理される前に、検察側は、西園寺がこの特定の会話に校訂を加えなかったという証拠を提出すべきである。《法廷記録第37,339頁》

  4、検察側は、同文書を終戦後間もなく入手しながら、何ゆえこの抜粋の提出をこのように長く差し控えたかということを説明すべきである。

  5、原田が、それをもととしてこの回顧録を口授したと言われているもともとの小型懐中日記が最良の証拠であって、したがってそれが証拠として提出されるべきであったこと。

  6、内閣にも、枢密院にも、また軍部にも属しなかった原田が、以上の団体の会合に際して起こった事柄を、二重、三重の伝聞に基づいて記録しているような例が本回顧録中にあまた見えること。

 われわれはこの異議を却下し、検察側に同回顧録の抜粋を提出することを許可した。先ず第一に提出された抜粋からしてすでに、翻訳者の注が括弧入りで沢山つけてあった。本官はかような注が同抜粋のほとんど半ばを占めていたと言っても誇張ではないと信ずる。この抜粋は、この回顧録がどういうわけで書かれたかという理由を説明するものとされている。抜粋は次の通りである。すなわち『この記録は昭和4年から始めたのでございますが、始めた趣意は、ロンドン条約の当時、ほとんど虚偽な放送ばかりが残って、真相が少しもわかりません。殊に陛下のお執りになった態度については、多くの場合嘘報されていました。かつ至上に対する元老、側近、輔弼者、大臣等の言上も、大体において嘘が多く、そのために政界に非常な波紋を起こし、延いて結果として陸海軍内にもいろいろな問題を起こす直接の原因になったので、いかにも陛下の御徳と言い、聡明な、きわめて高い御見識なんかについても、ほとんど想像以外に悪しざまに宣伝されていました。余は、これはまことに遺憾なことであると感じました。自分は職務上事の真相を知っていたために、これを後世に書き残すことが必要だと思いました。ゆえに近衛と相談をして、近衛公の弟の秀麿君《近衛子爵》の夫人《近衛子爵夫人泰子(やすこ)》を頼んで、結局速記をとってもらって《自分が口授したとおりに》後世に保存することにいたしました。そうして今までにすでに一万頁となったのでございます。』

 この記入は1940年10月20日付の第378章にあり、2,974頁から2,977頁にわたっている。

 すなわちこの著者は、政治上の諸事件の経過のある特別な叙述を、後世のために書き残そうという一定に目的に従って、その仕事を始めている。著者によれば、この日記こそ真相を伝えるものであり、彼の気に入りの一団の人々のとった公正な行動を正しく記述し、これまでに知られている話は真実でないことを、後代において暴露するものであるというのである。それは現代の人々の生存中は秘密としておく計画であった。そして著者自身の知識に基づいて記入するものであるとはされていない。多くの場合、記録してある事実の発生と時を同じうして記入したのではない。観察、追憶及び叙事上に生じがちな誤りがいろいろな可能性をもってこの日記のうちに含まれているのである。現に陳述している証人が有力な証人がなした言明であると考えられて言葉を引用する場合にも、その有力な証人自身が前記の諸点について誤りを犯しているかもしれない。次に来るのは中間の陳述者の一人々々が、同じような誤りを犯す可能性である。最後に、著者自身にもまた誤りや偏見や先入観や意図するところがあるかも知れないのである。きわめて多くの人間の、真実を吐露する能力と意志の有無がともに、依然として未検討のままである。われわれはこれらの人々のだれにもせよ、その人の陳述の関係している事実を確かめるために、どんな機会を持っていたかを判定するなんらの手段もない。その人が所要の知識を得るための能力も、また試験されていない。その人の記憶力、彼の各関係者に対する立場、彼の動機などは、ことごとく吟味もせずまた試験もせずにそのままにしておかなければならない。たとい真実性に対するすべての疑いを考慮から除外した場合でも、陳述者が重要と考えず、従って陳述しなかった諸事実が、今初めて反対訊問によって事件に重要な関係を持つことが明らかになったということがあるかもしれないということもできよう。またわれわれはこの回顧録に記入されているような見解は誤り解釈され、誤り記憶され、そして誤り報告された可能性もあることをも、無視することはできない。これらのことはまたそれを聞いた人々の無知または不注意、あるいはその先入観から誤った解釈をされるおそれもある。こういうすべての弱点に併せて、この日記の記事自らが明らかにした次の事実を考えてもらいたい。すなわちこれらの記事がその人々について不利な証拠として今提出されているところの人々の大部分に対し著者はある程度の嫌悪の念を持っていたこと、また彼は計画的ではないにしても無意識的にこれらの人々を悪い人間のように書きあらわそうとしたこともあり得ないことではないということである。

 著者にはこの日記を直ちに公けにしようという意志はなかった。従ってどんな方面からも反駁をうけるというおそれはもっていなかったし、またどのように事実を枉げ、誤った叙述をしようと思ったとしても、それを看破される危険については、頭を悩ます必要がなかったのである。

 回顧録の第378章、第2,977頁において著者は、彼の回顧録の安全な保管に心を悩ましたこと、またこの回顧録を西園寺公の死後まで、またおそらくは現代人の記憶が消滅して相当年数が経過した後に至るまで、出版を許さない計画であった次第を明らかにしているのである。西園寺公自身が遺言書中に『公けの伝記の編纂によってその伝記の内容が明らかにされることが、後代に不祥な、そして予見し得ない結果を生ずることになりはしまいかとおそれて、それを厳禁する旨を明記している。』のである。しかし原田男爵は、西園寺公の『死後百年またはそれ以後』になるかもしれないがとにかく、将来この回顧録を公けに出版するつもりであったといわれる。(日記第一部、緒論参照)

 日記をつける仕事は、あらかじめはっきりした目的を考えて始められたのではあったが、虚偽の記入をしたといういかなる可能性をも示すような、または、出来事の記入が真率さ、正確さを欠くと疑わせるような、事情は、何ら暴露されなかったと仮定をしたところで、検察側がそれによって証明しようとした事実の証拠として、この抜粋を受理するには、なお多くの難点があるのである。検察側のこの日記抜粋利用の目的は、日記記録の当時の何らかの事件の発生を証明するというよりは、むしろその事件に対して数人の被告がなしたと称せられる底意のある言明を証拠として提出し、そしてかような言明から該事件に関してその被告のとったある特定の態度を推定しようとするにあったのである。本官の意見では、本日記の書込みは、この目的のためには特に無価値である。かような言明の大部分は著者に対して直接なされたものでもなかったし、また著者が自身で耳にしたものでもなかったし、著者の情報は、時として何度も人の耳を経たものに過ぎない。大抵の場合、著者に情報を供給した人々は、彼ら自身が言明を聞くか、またその言明に関する情報を入手してから、数日経過して、初めて著者にこれを報告したということになっている。情報の供給者が著者にそれを話したというときでさえ、著者自身がそれを記録したという証拠はなんらないのである。著者自身その情報を入手してから数日を経過して、初めて日記の口授をしている。本日 記入(←この部分、「本日」と「記入」の間に一文字分、字がほぼ完全に消えた空欄がある。文脈と英文を参照すると、おそらく「本日記記入」ではないかと思われる。「本日録記入」の可能性もないではないが。英文は、to dictate his note for these memoirsとなっている。「本」が「these」で、「日 」が「memoirs」である。memoirsとは回想録、回顧録、自叙伝、手記という意味である)のために、著者が自己のノートからの口授を試みた際には、しばしば数人の者が異なった機会においてなした言葉を同時に書き取らせたといわれる。被告の言明と見なされているかようなものの記録はいささか重要視し兼ねるのである。一例として法廷証第3788号のAとなっている一抜粋を挙げる。これは、著者が16人の人たちとなした、16のそれぞれ異なった会談を記録したものとされている一日分の記入からの抜粋である。かような記録に基づいて、法廷はその会談に際して用いられた底意のある言葉づかいを被告の所為として、そしてこれから被告の犯罪的心理状態を推論しなければならないのである。率直に言って、本官としてはかような目的のためにこの種の証拠を利用することは困難であると言わなければならない。

 法廷が検察側に対して、法廷内での直接訊問のため証人を出廷させる代わりに、その証人の宣誓口供書または法廷外で取った同人の陳述書を提出し、反対訊問のためにのみ証人を召喚することを許可するに至って、誘導訊問を禁ずる規則は、その実際上の価値を全部失ってしまった。法廷は1946年6月18日、ほとんど本審理の開始当時に、この決定をなしたのである。この決定をなすにあたって、法廷としてはある程度の懸念を抱いたのであった。この点に関する法廷の決定を申し渡すにあたって、裁判長から以下の発言があった。すなわち『法廷が非常な譲歩をしているということは、マンスフィールド検察官お気づきでしょう。この譲歩をなすにあたり懸念なしとは言えないが・・・・。この件は相当の時間を費やして各裁判官の間で検討されたのである。あなたは証人に対し、大抵の場合は供述者として、法廷内の訊問では許されないようないくつかの誘導訊問が向けられた結果、同人がかかることを言ったということはおわかりでしょう。それでこの特異の事情に鑑み、もしこの宣誓口供書を受理するとすれば、本官は同僚判事に代わり、標準の高い反対訊問が行なわれることを強いて求める次第である。御承知のごとく、その欠陥は、供述者が、誘導訊問に応じて証言することを許されるというにあります。』《1946年6月19日、第935頁》

 もちろん弁護側はこの手続に対して異議を申し立てた。しかし法廷は、法廷が『証拠に関する規則によっても、または手続法によっても拘束されていない』と言明して、この異議を却下したのである。しかしながら誘導訊問というものは、たびたび証人の実際の記憶を誤って伝えるような答えを引き出し、かつ正確で自発的な証言から脱線させるような結果を来たすかもしれないという点を否定はできない。アップルトン裁判長の言によれば『実際の危険は被訊問者である証人と訊問担当者との馴れ合いである。すなわちその危険は、訊問者が被訊問者に対して、故意に虚偽の事実を言外に含め、あるいは暗示し、これに対して証人がその虚偽の事実を是認するということを期待する点、並びに証人の場合は、事前の了解に基づいて、かような虚偽の事実を真実であると是認するというところにあるのである。』われわれは本審理においてはかような危険があったとは考えなかった。また現在もなかったと感じている。こうした方法で取られた証言に存すべき欠陥というものは、事実を述べる証言の過程が、一般に示唆により、特に訊問によって左右されることもあり得るという範囲以上に出るものではない。質問の形式を使用することは、叙述の範囲は拡げるが、その正確さを減ずるということを、現代の実験心理学は確認している。

 法廷は折々弁護側によって、証拠価値がないという理由で数通の検察側の証拠を却下するように求められた。

 すでに1946年7月22日、検察側の証人森島氏の宣誓口供書に対して、弁護側は、『同口供書は、同証人の奉ずる理論(←「理」の次の字がほとんど消えているが、英文はtheoriesなので「理論」でいいだろう)及び懐く意見を述べ、事実の陳述に範囲を限定していない』との理由で異議を申し立てた。

 この異議を却下するにあたって裁判長は次の発言をした。すなわち『供述書はそういう形であるべきではないのですが、法廷は供述書に証明力ありとすれば、その範囲内でこれを受理しなければならないと思います。』《法廷記録第2,324頁》

 1946年7月30日、ある文書が、最初に書かれたのはいつであったか明らかでないから、証明力はないという理由で弁護側は同文書の提出に異議を唱えた。この異議を却下するに際して、裁判長は以下の発言を行なった。すなわち『いかなる文書、あるいはいかなる証拠にもせよ、これにどの程度でもあれ、証明力があるか否かの問題は、裁判官が提出証拠の全部を審査するときにこれを検討しなければならないので、稀に特例はあるかもしれませんが、この文書がこの特例にあてはまるとは言えません。』《1946年7月30日、法廷記録第2,700頁》

 提出された証拠が受理されるべきものであるか否かを決定する一要素として『証拠価値』を考察することは、この場合には裁判所条例第13条の規定に関して生じたものである。この条約を(←正誤表によると「この条約を」は誤りで「この条例を」が正しい)読んでみると、本官の解釈によれば、この証拠価値に関する考察に立脚して、本審理の係争点に他の意味で関連性があり、従って受理することができるはずの証拠を、どのようなものにもせよ、却下することができるとは本裁判所条例には規定されていない。思うに本条例の真意は、本裁判所は証拠に関する技術的法則に拘束されないのであるから、提出された証拠を法廷が目して、ある程度の証拠価値があるとする以上は、すべての技術的法則に従えば受理されるべきでない証拠をも受理し得るというふうに、本官は了解する。

 換言すれば、裁判所条例は、どのような国内諸制度においても行なわれている証拠除外に関する技術的な規則をさらに厳重なものにする代わりに、さもなければわれわれは全然制限のない分野におかれるところを、この点だけに限ってわずかな制限を加えようという意図のもとに書かれたのである。条例は、この新しい証拠除外の規定があるからといって、さもなければ関連性があり、受理され得るすべての証拠を除外するような権限を、法廷に与えてはいないのである。

 森島証人の宣誓口供書に関しては、それが証人の意見または信念からより成っている限りでは、全然証拠となることができないものであった。

 一般に第三者の意見または信念は全然証拠とはなり得ないものであって、従って受理され得ないものである。証人等は事実だけすなわち、彼ら自身が見聞したことだけを陳述すべきこととなっている。陳べられた事実に基づいて自己の結論または意見に達することは判事及び陪審員の職務である。フィプソンの書によれば、『証拠に基づかずまたは非合法的な証拠に基づく限り、個人の意見は無価値である。かつ、合法的な証拠に基づく限り、法律または事実について結論を導き出すという裁判所に限られた職務を僭取することになりがちなのである。』

 しかしながら法廷が正確な判断を下す立場にないという種々の場合がある。すなわち審理に関係のある問題が、普通の経験または普通の知識の範囲外である場合、あるいはある科目の特別の研究、またはこれに関する特別な経験を必要とする場合がこれである。このような場合には、特別な研究、訓練、または経験を必要とする事項について、専門家の助力が必要となってくるのである。こういう場合には、法廷をして適当な決定に達せしめるため、専門家の証拠を受理するのである。専門家の証言を受理する規則は、必要に基づいて制定されたものである。

 個人の意見からなる証言に関する原則を次のように要約することができよう。すなわち第一、自身の観察による資料に基づいて証言しようと、他人の供給した資料を基として証言しようと証人はその資料を解釈し、またはこれから推論を引き出すための、ある特殊の技能を場合に限って(←正誤表によると「技能を場合に限って」は誤りで「技能をもつ場合に限って」が正しい)、自身の推論を述べることができるのである。第二は特殊の技能は待たないけれども問題となっている事項を自身で観察した証人は、その観察に基づいて、推論または解釈を加えたかもしれないが、この推論、解釈は、もしこのような資料が法廷に提出されたならば、法廷にしても同じ結果に達することができるものであるならば、そしてこの資料を漏らすところなく裁判所に述べることができるならば、証人ら自身の推論は蛇足となるのである。

 前に述べた原則に準拠して、法廷は本件の審理中に提出を試みられた数多くの証拠を却下したのであるが、これらの証拠というものは、裁判官の意見では、単に、その作者たちの抱いていた意見を証言しようとしたものであった。たとえばこの理由のもとに、本法廷は前駐日アメリカ大使グルー氏が、関係ある時期中に、中華民国または日本に起こっていた諸事件の同氏自身の判断を示している陳述を却下したのである。法廷は同様にロバート・クレーギー卿、レヂナルド・ジョンストン卿、ジョーン・パウエル氏及びその他の人々の意見をも却下したのである。法廷はまた当時の日本の政治家たちの意見、太平洋問題調査会による当時の事情、事件の評論、その他これに類似したものを証拠として受理することを拒絶した。

 本官の意見としては、本件の状況に鑑みて、この原則を前に述べた諸件に無差別に適用したことは不正当であったと信ずる。本官は、日本によるある特定の行動が侵略的であったかどうかを決定する上において、法廷が必ず当面することとなる難点をすでに指摘しておいた。もしこの目的のため裁判官の求められているところが、ある特定の状況が実在していたか、またはある特定の事件が実際に起こったかというのではなく、自身の仮定に基づいて行動していた人々が、「善意ヲモッテ(「善意ヲモッテ」に小さい丸で傍点あり)」その状況の存在、または事件の惹起を信じ、その所信に基づいて妥当に行動したかという点を調べることであるとしたならば、日本を含む各国の政治家、外交官、記者、及び類似の人々のその当時における見解、意見、及び信念のもつ証明力は大であると本官は判断する。このような見解、信念、及び意見は、ある状況の実在または係争中のある事件の発生を証明するというのではなく、当時一般に抱かれていた意見を確証し、ひいて本件に関係のある人々の見解並びに信念の「善意(「善意」に小さい丸で傍点あり)」を確証する目的に対しては、本件に関してきわめて価値があり、また肯綮(こうけい)に当たった証拠的事実であるというのが本官の意見である。

 裁判所条例は法廷をしてすべて技術的な手続規定の拘束から免かれしめようと試みたのではあるが、法廷としては、このような規定を全部排除するわけにはいかなかった。本裁判の実際の事情はある制限を必要とした。そしてこれは常に必ずしも好結果をもたらすというわけにはいかなかったかもしれない。

 本件の検察、弁護双方の提出にかかる証拠を決定するにあたって、法廷が決定した制限規則は以下の通りである。すなわち

  (1)すべて反対訊問は主訊問中に持ち出された事柄に限られるべきこと。《1946年7月25日、法廷記録第2,515頁》。

  (2)ある文書の内容に関するどのような証拠も、同文書を提出するか、その不存在を証明しない限り受理しないこと。

  (3)すべて自己の利益のためだけにする一方的な陳述、声明を証拠として受理しないこと。

  (4)一般段階では、中華民国またはそれ以外の地での共産主義、あるいはそれ以外のどのようなイデオロギーの存在または伝播も関連性のないこと。日本臣民または財産に対して、中国共産党または共産党以外の中国人によって行なわれた実際上の攻撃の証拠は、日本の行為を正当化するため提出することを許可する。被告個人の証言にあたっては、そのとった行為の説明として、共産主義に対する恐怖を申し立てることができる。《1947年4月29日、法廷記録第21,081頁》。

 その後法廷は、ある特定の性質を帯びた攻撃の脅威に関する証拠を受理することに決定した。すなわちこの脅威がゆゆしい性質を帯び、急迫したものであり、そして、その脅威者が、これを実行に移す実力をもっている場合である。《法廷記録第21,115頁》。

 主訊問と反対訊問とは、ともに関連性のある諸事実に関して行なわれなければならないが、反対訊問は証人がその受けた主訊問中に証言した事実に限定される必要はないというのが、多くの法体系における証人の訊問の主要規則の一つである。

 あらゆる種類の反対訊問の中で、最も効果的であり、そしてその有用の範囲の広いものは、反対側の証人に、独立した事実を自己に有利となるように証明させる場合である。その著『訴訟法』の中において、ジョン・C・リードは、反対訊問の本質的な機能を論じている中で、以下のように述べている。いわく『反対訊問は三種(の証人)に対して行なわれる。(1)訊問者が証人の証言を、その証言の範囲内においてそのままに受け容れる場合。(2)訊問者が証人の誤っていることを明らかにするか、または、証人の真実性は攻撃せず、それ以外の方法で証言を失格させようとする場合。(3)訊問者がその証人の証言に信をおく価値がないことを明らかにする場合。この三種である。ここに付言しておくことは、実際は正直、不正直の二種の証人があるに過ぎないことであって、従って結局反対訊問は二種あるにすぎない。すなわ その一は有利な証言を引き出す意図をもったもの、他は証人の非信頼性を明らかにするためのもの・・・・前者はあらゆる場合一般に使われるものであり、後者は時折重要であるにすぎない。・・・・訊問者が証人《第一種》に対してもっている目的は二つ以上に出ない。(a)第一に、直接訊問を行なった者が・・・・部分的の質問・・・・によって不完全な事実の提示をしたところを、証人に言い尽くさせること及び(b)第二に、できれば証人に訊問者の証拠の裏づけをさせることである。』この二つの目的のうちの前者を説明した後、著者はさらに進んで言う。『ここにあらゆる種類の反対訊問のうち、実際上最も効果的であり、また使用範囲の最も広いものを論じよう。この場合訊問者は反対側の証人、独立した諸事実を自己に有利なように証明させようとするのである。・・・・練達した検事、弁護士の行なう普通の反対訊問を注意して見ると、こういう人々は大抵われわれが、今論題として取り上げているもの以外の質問は、ほとんどしないということがわかる。大抵の場合、こういう検事、弁護士は、訂正しなければならないような甚だしく事実をまげた陳述もしなければ(←正誤表によると「陳述もしなければ」は誤りで「陳述もなければ」が正しい)、また修正を必要とする甚だしい誤謬もないことを直覚的に見取ってしまうそして単に証人をしてある細かい点について訊問者の側の立場を強めるようにさせるのである・・・・この種類の反対訊問は他のどれよりも重要であると同時に、また最も容易なものである・・・・』

 これが英国の規則であることには疑いないが、これは同時に堅実な原則でもある。この原則は米国においても、一部の裁判所によって採用されている。1840年ストーリー判事の提出にかかる連邦規則、すなわち、『検事側も弁護側も証人の直接訊問中に述べられた事柄に関連ある事実、及び事情についてだけ、証人を反対訊問する権利をもつ』は、大部分の州で採用されている。この規則によれば、反対訊問を行なう側が、証人を右以外の事項について訊問しようと思う場合は、同証人を自己の側の証人として、訴訟後の段階で、召喚して、訊問を行なわなければならないのである。

 本法廷は多数決によってこの英国の規則を採らず、米国の規則を採択した。

 前駐日英大使ローバート・クレーギー卿、前駐日米大使グルー氏、レヂナルド・F・ジョンストン卿、及びジャーナリストであるウッドヘッド氏のような著名な著者の公刊書の内容を、証拠として本法廷が受理することができなかったことについては、あるいはしっかりした理由があったかもしれない。ジョン・パウエルは同じくこのような著者中の一人であったが、同人は検察側の証人として証人台に立った。検察側は同人に対する主訊問を狭い範囲に留めた。一方弁護側は同人を反対訊問するにあたって、同証人の著書に現われている同人のもっている情報及び知識を利用しようと欲した。しかし本法廷の採用した右の規則が、その邪魔をしたのである。その後弁護側は同証人の著書を証拠として提出しようと試みたが、成功しなかった。《法廷記録第17,277頁、同17,298頁ないし17,302頁参照》この間ジョン・パウエルは死去し、同人が持っていたかもしれない弁護側に有利な情報は弁護側は使うことができなくなってしまったのである。

 前に述べたように裁判所条例によって法廷はすべて証拠に関する技術的規則に拘束されないこととなり、裁判所が証明力があると認めるような証拠は、すべて受理する権利をわれわれは与えられたのである。殊に法廷は、ある文書の原本を直ちに入手することができなかった場合、同文書の写しまたは同文書の内容を示す他の第二次的証拠を受理する権利を賦与されたのである。

 それにも拘わらず、法廷はある文書の内容に関して細心の厳密さで、最良の証拠要求の規則を適用したのである。《1947年3月24日、法廷記録第18,975頁》

 時として法廷は、今次の敵対行為の終了のはるか前、すなわち審理に関連のある諸事件が発生した時とほとんど同じころになされた言明声明の類については、それがある文書の内容にたまたま言及しており、しかもその文書が法廷に提出されなかった場合、これを却下したのである。法廷は文書証明の任にある当局が、現在のところ関係文書を入手できない旨を証明した場合でさえもこのような言明声明の類を証拠として受理しなかったのである。法廷は同文書が滅失した旨の証明書を提出せよとあくまでも固執した。

 本官としては伝聞証拠を量に制限なく受理しなければならなかった裁判において、証拠除外の規則は修理にかなったものであるとは考えられない。

 証拠除外の規則の基礎は、どのような場合にも最良の証拠の提出を要するという法律格言にある。この規則を厳守することの重要さを最もよく現わしたものは、おそらくヴィンセント対コール事件に際してのテンタードン(←正誤表によると「テンタードン」は誤りで「テンターデン」が正しい)卿の言葉及びストラザー対バー事件に際してのワインフォード(←正誤表によると「ワインフォード」は誤りで「ウィンフォード」が正しい)卿の言葉であろう。テンタードン卿の言うところは次の通りであった。いわく、『本官は書面になっているものを証明する唯一のものは、その書面自体でなければならないというこの規則に、常に厳密に従って行動してきた。本官が経験から学んだことは、証人らがどんなに正直であるにしてもある文書の内容に関してその記憶に依存するのは、きわめて危険であるということである。証人たちというものは、容易に誤りに陥るものであるから、本官は正義の目的はこの規則が厳重に励行されることを要求すると思う。』ワインフォード卿も同様にいわく、『本官は「陪審(「陪審」に小さい丸で傍点あり)」裁判所にあって、係争中の事件について、なにか証拠となる文書があったならばと欲しないことはほとんど一日としてない。交渉の当時注意と観察が欠けていたこと、人間の記憶が不完全なこと及び証人が無知に過ぎ、過度の偏見に支配されていたためにその交渉の経緯を正確に伝えることができないことなどの理由によって、これまでに起こった訴訟の数は、それ以外のどの理由に基づくものよりも多数である。口頭証言によって真相をつかむことは、ときにきわめて困難である。すべての場合、入手することができる限りの最良の証拠が提出されるべきであるということを吾人の祖先が規則としたのは賢明であった。そして証拠法の諸権威は次のように言っている。すなわち、ある側が最良の証拠を提出を差し控えた場合、もし後になってそれが提出されると、これは右の提出を差し控えた側が申立ての基礎として二次的な証拠を、虚構なものとするのではないかという疑念を起こすこととなる。この規則が適用されるものとして証拠法の諸権威が言及する第一の場合は、書面になった契約がある場合、その文書が失われたということが証明されない以上、契約書の内容に関してはどのような口頭証言も受理できない、というのである。』

 この規則を採用する主なる理由の一つは、法廷は文書の内容の全部を知ることを必要とするかもしれないということ、しかもこのような全部は文書の一部についての陳述とは、はなはだしく異なった意義を生ぜしめるかもしれないということになる。

 より以上に信をおくことのできる種類の証拠が提出されないと、それはすでに提出された証拠の価値を減ずることとなるのは確かであるが、しかしこのことは本官の意見では、この後者に属する証拠の受理性に影響を及ぼすものではない。

 ある特定の事情、及びある特別の場合を除いては、文書はすべて第一次的証拠によって証明するを要するとする規則は、同じ範疇に属するものと見られるもう一つの証拠除外の規則とは区別されなければならない。本官の指すところは、すでに文書となっているか、または文書の形式をとることを法律によって要求されている、ある契約の条件、贈与の条件またはその他の財産処理の条件に関する、他の証拠を除外する証拠規則である。かような契約などの場合には、契約または贈与の条件を証明するためには、その書類それ自体、または、第二次的証拠が受理され得る場合には、その書類の内容に関する第二次的証拠以外は提出し得ないのである。この場合、成文となった契約がその契約の本質をなすものである。しかしながら、ある文書が係争点をなす事実でなくて、単にある行為を証する証拠にすぎない場合には、文書以外の独立した証拠が受理され得るのである。かような場合に、文書を提出しないことは、他の証拠に比べて信をおき得る証拠を提出しない場合と同様なるかも知れず、従ってすでに提出を見た証拠の価値にかかわってくるかもしれない。しかしこれは証拠の受理性には影響しない。とにかく、検察側が何通でも伝聞証拠を提出するのを、われわれが許さなければならなかったような審理にあたって、この最良証拠の規則を持ち込むことは少し見当違いの用心であったし、この規則がほとんど弁護側だけ不利となるように施行された点を考えれば殊にそうであった。

 ここで問題となった文書のどれにしても、陳述中これらの言及した被告または証人が所有し、または左右し得たものはなかった。弁護側は、かような文書を所有し、または左右し、これを法廷に提出し得る方面に通知し、それによって同文書の内容について二次的証拠を提出することもできたであろう。弁護側は正確にこの手続を踏まなかったかもしれない。しかし弁護人等はかような文書を所有し、または左右し得たその者による、文書不存在の証明書を提出したのである。それにもかかわらず、何ゆえその陳述を証拠として受理することができなかったかという理由を、本官は知るに苦しむものである。

 さらに、本法廷が刑事裁判所であったことを思えば、法廷は妥当と考えた場合には、文書提出に関する通告を作成することは、われわれの肩にかかっていたのかもしれない。

 ある場合においては、問題の文書は相手方の所有にかかり、あるいはその手中にあったのである。少なくともかような場合においては、法廷は右に述べた陳述を受理し、検察側をしてその文書を提出して陳述の正確性を争わせることもできたであろう。

 もちろん、本裁判所条例の規定するところによっても、法廷は係争中の一事実または諸事実に関係のある証拠だけを受理することとなっていた。

 「係争事実」という言葉の指すところは、独立にしても、他の諸事実と関連するにしても、これより、ある訴訟、または審理の過程で肯定され、または否定された権利、義務、あるいは無能力の存在、不存在、性質または範囲といったものが必然的に生じてくるその事実である。

 刑事事件に関しては、訴追そのものが係争事実を構成し、かつ、これを含むものである。

 すべての証拠に関する規則のうち、最も普遍的であって、またその意義の最も明白なものは、提出される証拠は論争中の、または審理の目的となっている事柄に向けられると同時に、かような事柄に限られたものでなければならないとするものである。このような事柄に直接にも間接にも関連性のない事柄はすべてただちに放棄されるべきである。

 すべて証拠は以下の諸理由に基づいて、関連性がないとして却下され得るものである。すなわち、

  (1)主たる事実とその証拠たる事実との関係が余りに縁遠く、かつ、推測に過ぎる場合、

  (2)(a)証拠が訴状もしくは訴状に等しい文書の表(オモテ)から見て除外されている場合、または

    (b)その不利な証拠として提出されている側の自認によって、余計なものとなった場合

 われわれは弁護側が提出しようと試みた、以下の範疇に属する証拠を却下した。すなわち、

  (1)日本軍が行動を開始して時期以前における中国本土の状態に関する証拠《1946年7月23日、法廷記録第2,505頁》

  (2)在中国の日本軍が中国に平和を恢復し、静謐をもたらしたことを示す証拠《1946年7月9日、法廷記録第2,154頁》

    この点に関して次のような観察があった。すなわち、『単に在中国日本軍が中国に平和を恢復し、静謐をもたらしたということが、仮に示されたとしても、示されたということだけでは被告の何ぴとも免罪とはならない。弁護側の証明しなければならないことは・・・・日本軍が・・・・その行動をする権限、名分のたつ口実、または正当な理由をもっていたという点である。』

  (3)1927年における中国の対英紛争に関する証拠《法廷証第21,106頁》

  (4)満州が日本の生命線であるという日本国民の輿論を示す証拠《1946年8月2日、法廷記録第3,134頁》

    この点に関して『かような形式の行論は役に立たない。もし日本国民が中国の一部を必要とすると考えていたとしたところで・・・・それがどうなるのか。

    中国の一部を必要とするということに関する日本国民の偽りのない信念というものは、それが正直な信念であったとしても、侵略戦争を正当化するものではない。』という観察があった。

  (5)(a)ソビエット連邦とフィンランド、ラトヴィア、エストニア、ポーランド、及びルーマニアとの関係に関する証拠

     (b)米国及びデンマーク「対(「対」に小さい丸で傍点あり)」グリーンランド並びにアイスランドの関係に関する証拠《1947年3月3日、法廷記録第17,635頁》

     (c)ロシヤ及び大英国並びにイランの関係に関する証拠

  (6)原子爆弾決定に関する証拠《法廷記録第17,662頁》

  (7)パリー条約の調印に際して、数ヶ国のなした留保に関する証拠《法廷記録第17,665頁》

  (8)(a)国際連盟規約(←正誤表によると「国際連盟規約」は誤りで「国際連合規約」が正しい)《法廷記録第17,682頁》

     (b)ランシング・スコット報告書(←正誤表の誤の欄に「(8)(a)国際連盟規約ーーーの次に新行として下記を挿入す」正の欄に「(b)ランシング・スコット報告書」とあるので、その通りに修正した)

  (9)(a)新聞のための当時の日本政府の声明、すなわち、新聞発表《法廷記録第20,508頁、20,511頁、20,549頁、20,606頁、20,608頁、20,801頁、20,807頁、20,809頁、20,815頁、20,825頁、20,860頁、20,866頁、20,882頁、20,939頁》

      法廷は以上の声明はプロパガンダ用として起草されたものであって、その結果、なんら証明力がないという理由によってこれを却下した。

     (b)当時の日本外務省の発した声明《法廷証第21,134頁ないし21,139頁》―――これは自己の利益のためだけの一方的な声明であるという理由で却下されたのであった。

  (10)中国における共産主義に関する証拠。法廷の意見は、中国または中国以外の土地における共産主義、あるいはその他のいかなるイデオロギーの存在または伝播の証拠は、どんなものにしても、すべて、一般立証段階に関連がないとするにあった。日本の国民または財産に対する中国共産党または、共産党以外の中国人による実際行なわれた攻撃の証拠は、日本の行動を正当化するものとして提出し得るとされた。

      被告が証人台で証言をするに至ったときに、彼らは共産主義に対する恐怖を彼らの行動を説明するものとして申し立ててもよいとされた。この点は1947年4月29日、多数決によって定められたのであった。《法廷記録第21,081頁》その後、「攻撃」とは、ゆゆしい脅威であり、緊迫したものであり、かつ、その脅威者がこれを実行に移す実力を有する場合においては、その脅威をも含む《記録第21,113頁》ものであるという採決があった。《法廷記録第21,115頁》

  (11)以上に挙げたもの以外の理由によって証明力がないと考えられた証拠《法廷記録第18,805頁、18,809頁、18,826頁、19,178頁、19,476頁、19,614頁、19,715頁、20,930頁、20,960頁》

 当時の日本政府の新聞発表に関しては、法廷がこれを却下した理由は大要次のようなものであった。すなわち

  1、かような声明は情報局または外務省の代弁者と称せられるもののどれかを出所としている。この声明は国内及び外国向けとして事件を日本の筆で描いたものである。何が中国で起こっていたかということに関する声明は、中国に起こったことの事実の真否のどれも証明するものではない。かような声明には証明力がない。《法廷記録第20,508頁》

  2、かような声明はプロパガンダ以外の何物でもない。それらは日本の立場から述べられた議論であって、一言で言えば、プロパガンダである。《法廷記録第20,806頁、20,801頁》

  3、かような声明は、本裁判所において係争中である事柄を、日本の見地から描写した文書であって、このような事柄は日本外務省からの英文の声明で決定することはできない。

  4、交戦中の軍隊の行動に関する証拠の『証明力の順位』は以下の通りである。すなわち、

    (1)現場にいて、信をおくに足りる証言をする者

    (2)現地指揮官からの通信

   (1)及び(2)に属するもので、一般あるいは敵を目してしたものは証明力がない。《法廷証第20,809頁》

  5、かような声明は自己の利益のためばかりにするものであって、従って受理することはできない。《法廷記録第20,810頁ないし20,815頁》

  6、新聞その他の報道機関を通じて、日本政府が他国に向かって、あるいは敵国に向かってさえも流布されるべきものとして発表した、事実と称するものについての、公式声明は、これをもって証明力があるとするほど率直なもの、全貌を伝えるものとして受け取ることはできない。《法廷記録第20,810頁ないし20,815頁》

 しかしながら法廷は、検察側が提出したときには本件の訴追諸国の新聞発表を証拠として受理したのである。法廷証第952、959、960、963、982、1013、1102、1289号参照《法廷記録第9438頁、9463頁、9464頁、9476頁、9556頁、9667頁、10047頁、11679頁等》

 本官は本文書中で、国際社会生活上におけるプロパガンダの占める位置に触れた。有効な宣伝が、時としては『かつて組み立てられた夢物語のうち最も奇異なるもの』を信ぜしめるように、世界の輿論を説き伏せることを目的とすることに疑いはない。(英文はNo doubt efficient propaganda sometimes aims at convincing the world piblic of "the most bizarre fairy tales that have ever been devised."「夢物語」は英文ではfairy talesつまり「おとぎ話」「妖精物語」である。)

 『交戦国のいずれかが僻見と激情を煽り、戦争の真の原因をぼかしてしまおうという明白な目的をもって事件を誇大に伝え、事実を曲げるような宣伝の手段に訴え、輿論を自国に有利にしようと試みる危険は交戦中の二国間には常に存するのである。』南京暴行事件の報告でさえ、1938年11月10日G・R・Vスチュアート大佐の主宰したチェーサム(←正誤表によると「チェーサム」は誤りで「チャタム」が正しい)・ハウスにおける一演説中において、上述のそれと同じ観点から解釈されたのである。(英文はEven the story of Nanking rape was looked upon in the above light at an address at Chatham House held on 10th November 1938 with Colonel G.R.V. Steward C.B.,C.B.E.,D.S.O. in the Chair.となっており、「報告」と訳されているのは英文ではstoryであり、「物語」という訳語でもいいかもしれない。)

 しかも列強がそのそれぞれの政府組織中においてこのプロパガンダというものに与える地位から見てこれを虚妄と同義であると指弾すること、もしくは進んで嘘であるとの決定を下すことは、正当であるとはなし得ないのである。法廷が、この声明はプロパガンダのために起草されたものであるから証明力がないという証拠規則を定める場合には、プロパガンダというものは「一応ハ(「一応ハ」に小さい丸で傍点あり)」偽りであるという仮定をしているのである。本官の見るところでは、法廷によるかような無差別な仮定を正当化するような材料は、なんら存在せず、また世界のいかなる国家でもプロパガンダにかような意味を含めた性格づけをすることを是とするものはないであろう。この点に関連して、本官は、日本の手になったプロパガンダを法廷が特性づけ得るような証拠はなんら提出されていないということを言い添えておいた。

 プロパガンダはしばしば悪用される。しかしプロパガンダの本来の目的は、世界大衆の意見を目指してこれに情報を供給し、これに影響を及ぼし、これを説き落とすことにあって、この目的を達するのに必ずしも偽りの情報をもってするのではない。

 かりにこの新聞発表を『国内及び国外を目的として、日本側の筆で描き出す』ものと見なすとしても、この新聞発表は事件の一面を法廷に提示するものであって、検察側はすでに別の面を提出したのである。どちらの言い分を受け入れるべきかということは、法廷の決定すべき事柄である。検察側の言い分もまた一当事者の立場からする言い分である。もちろんある程度の不確実性がこの双方の言い分に存するであろう。

 『当時その場に居合わせた者、または現地指揮官が一般人または敵を目指して行なった事件の経緯の説明』を除外する規則は、極度な用心の規則であると思われる。かような規則は少しでも疑問または嫌疑のある証拠を除外する助けとはなるであろう。しかし緩和された規則に基づいて一方が提出することを許された疑わしい諸資料で法廷記録が埋め尽くされていることが明らかであるとき、単に検察側の疑わしい資料に対応するため、弁護側が提出した同様に疑わしい資料を除外しようと、法廷がいまさら右のような証拠除外の健全な規則を援用することは、すでに手遅れではないかという疑いを本官は強く感ずるものである。

 本官はまた、法廷がかような陳述に「自己の利益のためのみの一方的なもの」と形容することは、果たして当を得たものであるかを疑うものである。かような新聞発表の中、本件の被告のだれが書いたとされ得るものは一つもない。

 当裁判所条例は、本審理の対象となっている犯罪を定義するものであり、その定義は本裁判所を拘束するものであると主張するものは、その主張の理由の一つとして、敗戦国の主権は占領の権利によって戦勝国に移転したものであると言い、検察側は現在本件においてこの主権を行使しつつあるものであると称している。もしそれが事実であるならば、検察側は前に主権をもっていた国によってなされたかような陳述に拘束されることになるかもしれない。

 もし提出されたある証拠が、係争事件に関連性ある事実に関係するものであるならば、この場合は証明力がないという理由によってその証拠を却下することは、その証拠価値を部分的に評価することを意味する。本官の意見としては、こういうふうにそれぞれの証拠を個別的に取り扱い、証拠価値がないという理由でこれを却下することは危険であると思う。法廷が1946年7月22日、検察側証拠に対する弁護側異議についてとった見解は、その後弁護側証拠に対し検察側の申し立てた異議に関する法廷の見解より、優れていると本官は信ずる

 証拠価値を判断し、これから推論を行なうことに関しては、ほとんどどのような法典もあり得ない。それぞれの訴訟事件はおのおのその特質を有するのであって、常識と鋭敏な心の働き(←この「鋭敏な心の働き」は英文ではshrewdnessであり「洞察力」という意味もある。「鋭く本質・真実を見抜く力」というような意味だろう)とが、それぞれの事件から生ずる諸事実に向けられなければならない。

 証拠の効力については、当然これは各判事の自由裁量に委ねられるべきものである。

 第4項については、日本国民の見解は本審理の問題には何ら関係がないとするのが正しいと言うことは、本官の疑問とするところである。外交政策の領域においては、国家の利益の保存が常に主要な考慮事項とされてきたことは否定し得ないことである。パルマーストン卿の言葉をかりれば、一国の対外問題処理の原則は、その国の利益と名誉と威厳との正当な顧慮と矛盾せずに、可能な限りにおいて、すべての国家との間に平和並びに友好的理解を維持するという原則である。パルマーストン卿はさらに、『もし余がイギリスの大臣に対する指導原則であると考えるところを一言にして示すことを許されるならばキャンニングの述べたところを用いたいと思う。すなわちすべてイギリスの大臣にとっては、イギリスの利益ということが自己の政策の標語でなければならない。』と言っている。この原則を遵守することは政治家の義務であると見なされて来ているのであって、かつこれは政府がその人民のために遂行する政治的信託という概念によって正当なものとされてきているのである。

 もちろん単なる人民の声によってその利益が確立されるということはない。かような利益の存在は、他の証拠によって立証されなければならない。事実このような立証の努力がなされてきているのである。ひとたびこれが立証されたものと認める場合には、人民の声はこの利益に対して彼らがどんなに関心をもっているかを示し、かつ共同謀議の理論に訴えることなくしてはこの種の対外政策の採用を、正当化しえないとしても、少なくともそれに説明を与えることができるであろう。

 上述の第5項において引用された証拠を斥けたことが正しかったという点は、本官は確かではない。

 いわゆる国際団体の本質を想い起こすならば、それについて本条約の締約諸国の与えた意味こそ、その解釈についての他の何ものよりも一層重要なものである。この意味は、かような意味だけと両立する行動を伴う場合に、より強力な指針となるのである。

 却下された証拠の第1ないし第3項に関する決定についても、本官はこれに同意するには同様の困難を感じたのである。

 弁護側は次の事実を立証しようとした。すなわち中国における事態は、1922年以来ワシントン条約の調印諸国のうち数ヶ国のものが、それをもって同条約が効力を保ち得ないものであると理由づけ、かつ1925年アメリカの辛辣な非難を招き、また1927年には大英帝国の敵意ある行動を招いたものである。かような中国の事態は、田中内閣がそのいわゆる対華政策を採用した際に、すなわち日本が中国に対して行動を起こした際に、さらに悪化したのである。このように弁護側の証拠提出は、田中内閣のなしたと同様な政策の声明ないしは同様な行動を惹起させるものと常にあらゆる国によって考えられて来た事態が当時存在したことを証明しようとしたものであった。弁護側はさらに次のことを立証するために証拠を提出したのである。すなわち弁護側の見解によれば、日本のとった行動の結果を遡って考えて見ると、日本側の初めの行動は必要でもあり、かつ正当でもあったと言うのである。

 はるか以前の他の諸列強の政策を引用して、日本の中国における政策を現在正当化することは確かに間違っているであろう。もし今日の諸国の行為が過去の諸国の行為に基づくべきものであるとすれば、将来の世界の展望はきわめて暗澹たるものとなるであろう。普通過去との比較によって現在を説明しようとしても、ほとんど益がない、過去数十年においては、国際道義の基準は停滞していたものではなく、過去の国際慣行によって正当化された行為も今日ではもはや正当であるとなし得なくなっている点まで進歩を遂げたと考えたい。

 しかしここで問題になっている過去というものは現在ときわめて強い関係をもっていたのである。検察側の証拠提出はワシントンの九ヶ国条約を特に強調しており、問題の諸事件は同条約が成立した後の期間にかかるものであって、かつ諸列強はすべてその締約国であったのである。弁護側のこの証拠提出の理由を無視することは、本官にとってなお困難であることを感ずるのである。これに関してただ次の点を付言しておこう。すなわち、かような諸事項はかりに日本のとった行動を正当化し得ないものであるとしても、少なくとも諸事件の発生に対して一つの説明を与えるものであって、その限りにおいて、検察側の共同謀議に関する立証を弱めるものであるということである。

 後に見るように、検察側の訴追の最重要点は、共同謀議すなわち起訴状の訴因第1に主張されているような種類の計画ないし企図の存在ということである。

 この共同謀議を立証するため、検察側は主として状況証拠に依存している。本官が検察側の証拠を読んだところ、その中には直接この共同謀議を立証するような事項はいささかも存在しない。それはともかくとして、少なくとも検察側は引き続き発生した諸事件の証拠に強度に依存して、それによって本裁判所が、これらの諸事件はすべて検察側の言う共同謀議の結果であって、それゆえに過去を考えることによってこの共同謀議は立証されたという結論を引き出すことを求めているのである。

 検察側の立証段階終了後、弁護側は、検察側提出の証拠はいずれの被告に対しても「一見明白ナル(「一見明白ナル」に小さい丸で傍点あり)」有罪立証であるということをなんら示していないと主張して、それによって本審理の公訴棄却の動議を裁判所に提出した。この動議に(←正誤表の誤の欄に「この動議に・・・・・」、正の欄に「(別行)」とある。改行するのが正しいということだろう)答えて、検察側はその共同謀議立証方法を特色づけるところのものを強調した。すなわち、1931年9月18日の奉天事変から真珠湾に対する侵入までの間に生じた事件は、すべて訴因第1に主張されているような全面的共同謀議の存在を推論させるものであると言うのである。

 弁護側の動議は遂に裁判所によって却下された。

 この結果弁護側は

  1、上述の諸事件を反証する

  2、これを説明する

  3、これを正当化する

証拠提出を要求されたものと見なければならない。

 前述の第2項の重要性は、訴因第1の中の訴追事項に鑑み、弁護側はこれを軽視することはできない。弁護側が事件の説明に成攻(←正誤表によると「成攻」は誤りで「成功」が正しい)する程度まで全面的共同謀議に対する検察側の立証は反駁し去られるのである。(←この一文は、「弁護側が一定の程度まで事件の説明に成功すれば、その程度の分だけ全面的共同謀議に対する検察側の立証は崩される」という意味である)従って事件の説明という方法によって提出された付随事件が、果たして日本のとった行動を正当化するか否かの考慮を離れて、弁護側の説明は一箇の説明として関連性を有するものであり、従って弁護側にはこれを証拠として提出する権利があるべきであったのである。不幸にして裁判所は正当化という点を強調して、単なる説明のもつこの意義を無視したのである。

 われわれは中国における共産主義の発展に関する証拠を却下した。

 右共産主義が本件に対して有する関係の一端は、次の検察側最終論告のうちにこれを見出すことができる。すなわち検察側はいわく、『日本側は中国が共産主義を支持しており、かつ中国では法律と秩序が保たれていないので、そのために日本の国防が脅威されていると中国を非難しました。共産主義について言えば、1927年まで短期間共産党員が政府に参加を許されたのは事実であります。しかし1927年国民党要人は共産主義は危険であると決定し、これに対する抗戦を開始し、その結果1931年7月までには共産党の根拠地は占拠せられており、共産党員は蒋介石大元帥により山岳地帯に追い込まれ、退却状態にありました。しかしながら9月18日の事変勃発により、中国は共産党員に対する攻撃を中止し、大部分の軍隊を引き揚ぐるのやむなきに至ったので、共産党員はここに再び攻撃を開始しました。そのゆえに日本が中国における共産党の危険を訴えていたときには、中国は共産党を充分に支配していたのであって、ただ日本の行為により、共産党に対する優勢を失ったにすぎぬのであります。』われわれ裁判官が弁護側証拠を却下したことに鑑みて、この検察側の最終論告を容認することはできない。この最終論告において、検察側はわれわれに対して、本件に関するリットン委員会の報告を全部容認するように要請している。本官の意見では、弁護側は証拠を提出し、それに包含された事実の問題について、裁判所みずから判断するように要請する権利を有していた。

 リットン報告書は第20ページないし第23ページにおいて、中国における共産主義について記述し、これはいわゆる中国中央政府の権力に対する脅威であると論評している。本官は別項において、本件に関連のある期間中における中国の共産主義発展に論及している。ここでは、この件に関してリットン委員会がどのようなことを発見したかを単に指摘するだけで充分である。報告書は次のように述べている。すなわち、

  1、共産主義は中国中央政府の権力に対する脅威である。

  2、「中国共産党」は1921年5月正式に組織された。

  3、1922年秋、ソビエット政府は中国に使節を派遣した。重要会見の結果、1923年1月26日の共同宣言となり、同宣言によって中国の国家的統一及び独立のためのソビエット側の同情と支持とに関する保障が中国に対して与えられた。他方共産党の組織及びソビエット式統治組織は、当時の中国における状態に鑑みて、これを導入することができない旨明瞭に声明された。

   (a)右協定に次いで、1923年末までに若干の軍事及び民政顧問がモスコーから派遣され・・・・中国国民党と広東軍との内部組織の改革に従事した。

   (b)1924年3月召集された国民党の第一回国民会議において、中国共産党主義者の国民党加入が正式に承認された。

  4、(a)1924年から1927年までの期間、共産主義に対して寛容な態度がとられた。1927年、国民革命は、あたかも共産革命であるかのような観を呈しようとしていた。

    (b)1927年4月10日、国民政府が南京において組織された。同政府は、直ちに軍隊及び行政部から共産主義を駆逐すべきことを命ずる旨布告した。

    (c)(1)1927年7月30日、江西省首府南昌の駐屯軍は他部隊とともに叛乱を起こし、人民に対して幾多の暴虐行為を行なった。

      (2)同年12月11日、広東に共産党の暴動があって、同市は2日間その手中に帰した。

      (3)南京政府は、これらの叛乱にはソビエット政府の手先の積極的な参加があったものと思惟した。

      (5)(←正誤表の誤の欄に「(五)」とある。判読困難で(三)の可能性もあるが。正の欄に「(四)」とある)1927年12月24日(←正誤表によると「12月24日」は誤りで、「12月14日」が正しい)の命令をもって、一切の中国駐在ソビエット連邦領事の「認可状(「認可状」に小さい丸で傍点あり)」を撤回した。

  5、(a)内乱の再発は、1928年ないし1931年の期間を通じて、共産党勢力の増大に資するところがあった。赤軍は編成され、江西、福建両省における広大な地域はソビエット化された。

    (b)福建及び江西両省の大部分及び広東の若干部分は、信頼し得る報道によれば、完全にソビエット化された。

    (c)共産党の勢力範囲は、さらに広大であって、揚子江以南の中国の大部分並びに揚子江以北の湖北、安徽及び江蘇各省の一部に跨っており、上海は共産主義の宣伝中心地となっていた。

    (d)一地方が赤軍によって占領された場合、その地方をソビエット化するために努力がなされている。どのような民衆の反対も、テロ行為によって弾圧されている。

  6、中国における共産主義は、既成政党のある党員の抱懐する政治上の主義とか、あるいはまた他の政党と権力を争う特別の党組織とかを意味するだけではない。かつまた国民政府の事実上の競争相手となったのであり、別個の法律、軍隊、政府並びに自己の行動地域を保有している

  7、(a)中国の渾沌たる無秩序状態は、地理的に中国に最も近接した国家であって、かつ最大の顧客である日本を、他のいずれの国よりも一層多く苦しめた。

    (b)中国における居留外国人の3分の2以上は日本人である。

 中国における共産党運動の性格及び発展を示すために提出された弁護側の証拠を却下するにあたって、裁判所は、この件に関して関連性のある証拠は、日本の権益が実際に攻撃されたか、あるいは攻撃されようとする危険にさらされていたかを示すものでなくてはならないと判定した。

 以上がこの件に関するわれわれの判定の言葉そのものである。

 国際社会は、一国家が『武装した少数派あるいは外部的圧迫による征服に対して反抗している他国家の自由な国民を援助する』政策を有することを合法的であると考えているようである。

 リットン委員会の報告書に述べられている中国における共産党運動の性質そのものから考えて、弁護側によって提出された証拠は争点外ではなかったかもしれない。いずれにせよ、弁護側によって提出された証拠を排除した以上、前述の検察側の最終論告において申し立てたことを、今になって容認することはできない。もしこの問題をわれわれが考慮するならば、われわれ裁判官はそれを弁護側が主張したようにかならず解釈するようになると思う。

 それが正当化の理由であるという問題は別として、弁護側は、この証拠は全般的共同謀議の訴追に関連性のあるものと主張している。ローガン弁護人は、『中国におけるこれらの共産主義的活動は(現在)存在するばかりでなく――また事変前にも存在していたばかりでなく――その全期間中においても行なわれていた。これらの事件がその全期間を通じて起こった以上、これらは被告が侵略戦争の遂行のため共同謀議に参加したか否か、また実際にその戦争を遂行したか否かに関する起訴状中の訴追事項に重要な関連性を有している。もしこの証拠が、種々の事件が共産主義的活動によって誘発されたことを立証するならば、われわれはまさにその通りであると信ずるが、共産党の活動は起訴状中のこの点に関する訴追事項に重要なる関連性を有するものである。さらに指摘したいことは、日本の政策がこれらの事件を局地的に解決するにあったこと、そして後に証明する通り、共産党の活動によって事件の解決が妨げられ、新たな事件が惹起されたことである。』

 事件の発生を説明するには、これは確かに適切な証拠であろう。(弁護側が)立証しようと試みたところの事態の進展が日本のとった行動を正当づけたか否かは別として、この証拠は、これらの事件が何ゆえに起こったかに関して確かによい説明を与えるであろうし、またそれによって、このような事件からかような全面的共同謀議を推論する試みを覆すか薄弱化するかしたであろう。

 なお本官の見解では、以上述べた裁定の条件に叶うようにするため、弁護側に対して、すべての条件を直ちに満足し得る証拠だけを提出するように要求しなくてもよかったであろう。本官の見解では、この裁定において弁護側はまず脅威の存在という事実を確立する証拠を提出して、然る後に他の証拠によってその脅威はある特定の性質のものであり、必要とする資格を有する人々によってもたらされたものであるという事実を確立し得たであろう。弁護側の提出する個々の証拠の一つ一つがこれらすべての要素を示す必要はない。しかしこの裁定の適用に際して、われわれは、提出された個々の証拠はすべての条件を満たさなければならないと固執した。

 これに関連して、われわれは次の適切な考慮を見逃してはならない。

  1、日本は中国内に権益を有し、従って共産主義が中国において単なるイデオロギーにすぎなかったにせよ、無関心ではなかったであろう。

  2、リットン委員会が認めたように、中国における共産主義は単なるイデオロギーだけではなかったであろう。

  3、共産運動の発展史そのものが、日本をしてその背後にソ連がいるという見解をとらせることは当然であるかもしれない。

  4、弁護側は共産運動を本件に関連のある期間中の抗日運動に結びつけようと試みた。

 この部類に属する証拠を却下するにあたって、われわれは不幸にして、この問題に関連する状態は容易に認め得るものであり、誤解のおそれのない、単なる事実的のものであると見なした。しかしながらその実、この事態の存在を究明する方法として、困難な法律問題の結論を求める複雑な上部構造物とも称すべきものがこの事態に含まれている。

 この場合においての自己防護の程度を決定するにあたって、いわゆる国際社会というものの性格を再び検討することが肝要であろう。シュワルゼンバーガー教授は現代国際法の発展を巧みに分析して、『その元来の価値基準はキリスト教の国際法に始まり、文明諸国間の法「ヲ経テ、」(←「ヲ経テ」に小さい丸で傍点あり)実証主義と主意主義との勝利になった漸進的過程において、完全に除去されたということを説明している。共同社会と社会との相互関係またその各々の法律制度から見て明らかであるが、国際法の初期において、どのような共同社会が存在していたとしても、それは次第に社会に変化していった。』

 『戦前の欧州においては、平和維持の手段としての勢力均衡をもたらした、同盟及び対向同盟の政治的制度が、すべてに優越する力であった。その制度の範囲内において、国際法は「相互と互恵に基づく」社会法の機能を発揮することができたが、それも単にこの制度の要求するところに従うという条件のもとにおいてのみそれは可能であったのである。国際法は勢力均衡制度の目的に対して直接に役立ったか、あるいはまたそれとは相反しない目的を追及した。世界大戦前においても、国家主義及び帝国主義の勢力は、国際法の活動が依存していたところの勢力均衡制度を、無秩序状態に陥れる危険を有していた。戦後においては講和条約の二大目的とは、一方においては前の中欧列強に対する制覇であって、他方においては広汎な法の支配に基づく世界の「完全なる自治」国家の組織立った共同体であった。』

 現存国家機構と私有財産権の根本そのものに関連して共産主義が包含する変化の性格を想うと、共産主義の発展がどのような程度までに一国の干渉権を拡大するかの問題は、すでに指摘した通り最も慎重な考慮を要する。

 われわれは弁護側によって提出された中国ボイコット運動に関する幾つかの証拠を却下した。しかしそれは、検察側がボイコットの存在及びその目的と影響を、積極的に質さなかったからである。

 中国におけるこの運動の存在に関しては、リットン委員会の報告書そのものが充分な証拠である。

 同報告書は次のように述べている。

  『幾世紀ニワタリ中国人ハ商人、銀行家及ビ職人等ノ同業組合ノ組織内ニオイテ「ボイコット」手段ヲ信用シタリ。コレラ同業組合ハ現代ノ情勢ニ合致スルヨウ変更セラレタルモ、ナオ多数ニ存在シ、ソノ共通タル職業的利益ノ擁護ノタメ、組合員ニ対シ絶大ナル勢力ヲ振ルイツツアリ。右幾世紀ノ歴史ヲ有スル同業組合生活ニオイテ得タル訓練及ビ態度ハ近代ノ「ボイコット」運動ニオイテ近年ノ熾烈ナル国民主義ト結合セリ。シカシテ国民党ハ右国民主義ノ組織的代表現ナリ。(←正誤表によると「的代表現ナリ。」は誤りで「的表現ナリ。」が正しい)

 国民的基礎ニオイテ外国ニ対スル政治的武器《中国人商人相互間ニ行ナワレタル職業的方便ト異ナル》トシテ使用セラルル近代ノ排外「ボイコット」ノ時代ハ、1905年「アメリカ」合衆国ニ対シテ行ナワレタル「ボイコット」ニヨリ始マリタリトイウヲ得ベシ。右「ボイコット」ハ同年改訂セラレタル米支通商条約ノ規定ガ、従前ヨリモ一層厳重ニ中国人ノ「アメリカ」ヘノ入国ヲ制限セルニヨリ起コリタリ。爾来今日ニ到ルマデ、規模ニオイテ国民的ト称セラルベキ別個ノ「ボイコット」10回行ナワレタリ。《コノ外ニ地方的性質ノ排外運動アリタリ》右ノ内9回ハ対日本ニシテ唯一回ハ対「イギリス」ナリ。』

 同報告書は1925年以前におけるこれらの運動の原因及び性質について説明を加えた後、同年以後におけるボイコット組織の性格を検討して、次のように述べている。『国民党ハその創設以来同運動ヲ支持シ、相次イデ起コレル「ボイコット」毎ニソノ支配ヲ増加シ、遂ニ今日ニオイテハコレラ示威運動ノ真ノ組織的、原始的、調整的及ビ監督的要素タルニ至レリ』

 同委員会はボイコットの政策及び手段に関して、3個の論争点があることを認めた。すなわち

  1、その運動は純粋に自発的なものであったか、または時としてテロ手段同然とも称すべき方法によって、国民党によって人民に強制され組織的運動であったかの問題。(←赤い文字の部分は、英文を参照して補った。英文にby the Kuomintang「国民党によって」とあるが和文にないため)

  2、ボイコット運動の実行に際して用いられた方法は、常に合法的であったか否かの問題。

 委員会はその結論として次のように述べている。

  1、中国のボイコットは民衆運動であり、かつ組織されたもので、主な支配的権力者は国民党である。

  2、不法行為は常に行なわれ、しかもこれらは官憲及び法廷によって、充分に禁圧されていないというほかには、なんらの結論を下すことは困難である。

  3、証拠は、中国政府が問題のボイコットにおいて果たした役割は一層直接的なものであったことを示している。

 右結論の第2に関して、委員会は次のように批判を加えている。『右ニ関連シ、不法行為ニシテ直接ニ外国人居住者、スナワチ「コノ場合(「コノ場合」に小さい丸で傍点あり)」日本人ニ対シテ行ナワレタルモノト中国人ニ対シテ行ナワレタルモソノ実日本人ノ利益ニ損害ヲ与ウルノ意図ヲ標榜シタルモノヲ区別セザルベカラズ。前者ニ関スル限リ、コレラノ行為ハ中国ノ法律ニヨリ明ラカニ不法ナルノミナラズ、生命及ビ財産ヲ保護シ並ビニ商業居住、往来及ビ行動ノ自由ヲ維持スルノ条約上ノ義務ニ違反ス。』

 中国人に対して行なわれた不法行為に関しては、中国参与員は、ボイコットに関するその覚書第17頁において次のように論じている。

  『吾人ハ先ズ外国ハ国内法上ノ問題ヲ提起スル権限ヲ有セザルコトヲ述ベントス。事実吾人ハ不法ナリト摘発サルル行為ニ直面スルモ、右ハ中国国民ガ他ノ中国国民ニ損害ヲ加エタルモノナリ。コレラノ行為ノ抑圧ハ中国官憲ノ関係事項ニシテ、中国ノ刑法ガ加害者及ビ被害者双方共吾人自身ノ国籍ヲ有スル事件ニイカニ適用セラルルカニ対シ、何人モ問責スル権利ナキヤニ認メラル。イカナル国家トイエドモ、他ノ国家ノ純然タル国内問題ノ処理ニ干渉スルノ権利ナシ。各自ノ主権及ビ独立ノ相互尊重ナル原則ノ意味スルトコロスナワチコレナリ。』

 右のように陳述されれば、この議論には反駁の余地がないとはいっても、右は、日本側の苦情の根拠は一中国国民が他の中国国民によって不法に損害を蒙ったという点に根拠を有するのではなくて、中国の法律によれば不法と認められる方法の使用によって、日本人の利益が侵害された点及び右のような事情のもとにおいて、中国政府が法律を履行しないことが、日本に対してなされた加害に対する中国政府の責任を意味するものである点に、あるという事実を見逃しているものである。

 次にこれらのボイコット運動によって生じた法的立場の問題に関して、委員会は次のように述べている。『「ボイコット」ハ強国ノ軍事的侵略ニ対抗スル合法ナル防衛武器ニシテ、特ニ仲裁ノ方法ガアラカジメ利用セラレザリシ場合ニオイテ然リトナストノ中国政府ノ主張ハ、一層広汎ナル性質ノ問題ヲ提起ス。中国人個人ガ日貨ヲ買ウコト、日本人ノ銀行モシクハ船舶ヲ利用スルコト、日本人タル雇主ノタメニ働クコト、日本人ニ物品ヲ売ルコト、マタハ日本人ト交際スルコトヲ拒絶スルノ権利アルハ何人モ否定スルコトヲ得ザルベシ。マタ中国人ガ個人トシテマタハ組織セラレタル団体トシテモ、上述ノゴトキ思想ノタメニ宣伝ヲナスノ権利アルコトヲ否定スルヲ得ズ。モットモコノ場合、常ニソノ方法ガ国法ニ違反セザルコトヲ要スルコト勿論ナリ。然レドモ一ノ特定ノ国家ノ貿易ニ対シ「ボイコット」ヲ組織的ニ行ナウコトガ友好関係ト両立スルヤ、マタハ条約上ノ義務ト合致スルヤ否ヤハ、吾人ノ調査ノ題目ナリトイワンヨリハ、ムシロ国際法上ノ問題ナリ。然レドモ吾人ハ、各国ノ利益ノタメニ本問題ハ近キ将来ニオイテ考慮セラレ、国際約定ニヨリ規律セラルルコトアルベシトノ希望ヲ表示セントス。』

 中国の参与員は、リットン委員会に提出した覚書の中で、1905年の米国商品に対するボイコットに言及して、同年8月7日米国公使から慶親王に宛てた通牒を引用した。同通牒をもって米政府は、清国政府はボイコット運動を阻止し得ないことによって生ずる米国権益の損害に対して、直接責任を有すると述べたのである。右の覚書の作成者は、『清国政府は米国公使の主張に反対して、それを容認することを拒絶した』と述べている。同公使に対する慶親王の回答が引用され、次のことが述べられている。米国商品に対するボイコットの考案は、直接商人から起こったものである。清国政府から起こったものではないから、政府は断じてその責任を負うことはできない。』同覚書に主張されていることは『ボイコットに関係していると思われている国家の責任の問題は、いまだかつて重大視されたことはない。』さらに続けていわく、『どのような場合においても、代償が支払われるような結果をもたらしたことはない。』この場合において、合衆国は代償を要求しなかった。また1925年のボイコットに際して、英国もかような代償の要求をしなかったが、この場合においても、権利を侵害された政府の代表が、国家としての責任があると主張したと述べられている。そして同覚書はさらに『それゆえに、国際慣習は、圧迫を加えるための非合法的手段であるといって、ボイコットを非難していないと言ってよい』と述べている。

 国際社会の二つの国が、第三の国がとった行動は金銭的補償を要する国際的不法行為であると公式に声明したという事実「ソレ自体(「ソレ自体」に小さい丸で傍点あり)」によって不法行為が作り出されるものではないが、それだからといって賠償を要求しなかったということは不法行為が犯されなかったという証拠には決してならないのである。またかような抑制も、問題となっている行動が、国際法あるいは国際慣習に照らして非合法的であると非難されていないという証拠にはならない。しかし他方において、責任ある国家が、その主張を支持する法的根拠の存在しない場合、他の国家の側に国家的責任が存在すると声明することはないであろうと仮定することができる。覚書に述べられている国家を挙げてのボイコットに関する国家的責任の問題は、『いまだかつて重大視されたことはない』という言葉は、1905年の米国と中国との間のボイコット紛争の際取り交わされた外交文書の趣旨によって論駁されているように思われる。

 以上述べた問題に関しては、中国における日本の行動に関する訴追事項を考察する際、さらに詳しく取り扱うことにする。

 ボイコットに関連しての国家的責任の問題を考慮するにあたって、その起源、方法並びにその影響を注意深く検討する必要がある。

 国際法は、一国の政府に対し、その国の諸団体がこれを利用していずれかの他の国民との取引を中止することに決めた場合にこれらの諸団体を抑止することを要求していない。

 どの国も、独立国個有(←「固有」が正しいだろう)の通常の権利を行使することを阻止する義務を負わされていない。取引を中止することは、通常、かような権利であると考えられている。

 国際法それ自体は、ある一国の国民が、ある特定の外国との取引を中止することを申し合わせる自由に対して、干渉するものでないということは正しいであろう。

 しかしこの問題は、いつまでもこのように単純であるとは限らない。これに関連して次の問題が考慮される。

  1、通商断交をもたらす共同動作が

   (a)(1)対象国の権益あるいは

     (2)その国民あるいは

     (3)その国自体

    に対して向けられた暴力行為を伴っているか否か、または

   (b)このような暴力行為の前兆であるか否か。

  2、そして問題の行為が真に政府によって内面指導されボイコットを政府の行動の手段とするものであるか否か。

  3、問題のボイコット運動は、政府によって正式にとられた政策であって、その政府自身の行動であるか否か。もしそうであるならば、文明国は大体において『市民的法治国家』の自由主義的伝統に従って、外国人の生命、自由及び財産を保護せねばならないという国際法の承認された標準に右の行動はどの程度まで違反するものであるか。《これに関連しては、米国国際法雑誌第24巻517頁『国家の責任』と題するM・ボーチャード氏の論文参照》

  4、二国が、ある条約によって、ある特別の関係にあるか否か。

  5、どのような事情のもとに、またどのような程度において対象となっている国が、それに与えられた損害の賠償を求めるために、あるいは予期する損害を防止するために、自助の手段に訴えることができるか。

 この問題については、中国における日本の行動に言及したときに、さらに触れることとする。

 以上に見られたように、中国の最初のボイコットは1905年に行なわれ、それは合衆国を相手としたものであった。その際、合衆国は清国政府に対して、1858年の条約の第15条の規定によって、中国が『現在の合衆国に対する組織的運動』を中止し得ないために蒙ったアメリカ貿易の損害に対して責任を有すると通告した。米国公使は、アメリカ商品に対するいわゆるボイコットを包含するその運動及び中国の新聞に掲載された米国に対する激越な記事は、米国との貿易を『当局の指導及び同情の下に抑制しようとする陰謀』であると評した。

 日本も中国において条約上の特殊の権利を獲得して、多数の日本人は、その条約上の権利に基づいて中国に居住していたのである。

 かような状況のもとにおいて、その権益を保護する日本の権利はどんな程度のものであったか、また問題のボイコットは、日本にその権利を行使する権限を与える状態を発生させたかという問題が当然起こるのであって、われわれはそれを考慮しなければならない。

 ホールは次のように述べている。『もしB国政府が防止できない、または自分では防止できないと称する国内の出来事、もしくは国内で準備された侵略のいずれかによって、A国の安全が深刻かつ緊急な脅威を受ける場合、あるいは防止措置をとらない限り、かような出来事ないしは侵略が急速かつ確実に起こるかもしれない場合、かような情況は自己保存の権利を行動の自由尊重の義務の上に置くものであると見なしても誤りはないであろう。けだしB国が、できればその国際上の義務を履行する意思はあるという仮定のもとにおいては、前述の行動の自由というものは、すでに当然名目上だけのものになっているからである。・・・・一国がきわめて重大な事柄に関して、国際法上はなはだしい、かつ明白な違反をした場合、いずれの国家または国家群も、その違反行為が完成されるのを防止し得るし、また違反国を処罰し得るのである。その場合々々において、その適切な行動がどのようなものであろうと、どの国家もその行動をとる自由をもっている。国際法は組織された権力によって支持されているのではないから、警察の役割は、それを果たし得る国際共同社会の構成員によって果たされるべきである。しかしそれを果たすか果たさないかは、それらの構成員自身の自由である。』

 国家がその在外国民を保護する権利を有することは、今や充分確定されている。この権利の程度をここで考察する必要はない。特定の事件に対する行動の合法性及び行動の権利の限界は、実質的にはその事件の特定の事実にかかっていることは明瞭である。

 しかしその正当化の問題は別として、証拠によって事件は訴追されている共同謀議の産物であるということではなく、別個の立場から、その事件に関して納得し得る説明を確立することができる。

 これまで現在の現実的国際的関係に関連して、この問題を考察して来た。しかし本件に関連して次の追加的考慮を払う必要がある。

 国際関係に犯罪的責任を導入するにあたって、われわれは国際社会は法の規則の下におかれた共同社会に発展したという仮定の下に、行動していることを忘れてはならない。シュワルゼンバーガー教授が指摘したように、「社会」と「共同社会」との間には根本的な相違がある。同教授は「共同社会」を一つの社会的集団であり、そこでは行為は構成員の連帯性を基礎としており、そしてその連帯はその共同社会の存立上無くてはならないものであるところの社会的集団である』と定義している。教授はさらに次のように述べている。

 連帯性という基準は社会的集団を分類するのに決定的な判断の標準である。もしこの紐帯がなかったり、または必要な結合力をつくり出すだけの力を持っていないならば、その集合体は異なった私害(「異なった私害」の英文はdiversing interestsである。「私害」とあるのは、「私益」か何かの誤植かもしれない)の調整という他の機能を発揮する。これが社会の本質的な特徴である。一方共同社会の構成員は、彼らの個別的存在にも拘わらず結合しているが、他方、社会の構成員は彼らの連繋にも拘わらず、孤立している。いずれの集団も結合力と構成員の間の相互依存とがなくては存在し得ない。しかし共同社会によってつくり出される紐帯と社会によってつくり出されるそれとの間には決定的な相違がある。その相違は、それらの集団における法律の性質に影響する。それは、その各々において、法律はまったく異なった機能を果たすからである。

 共同社会、たとえば家族あるいはカトリック教会のような団体の生活を規定する法は、一般に慣習的行為だけを形式化したものであり、これらの行為はその法が存在しなくとも遵守されるものである。そしてその法は多数のものが実質的に、正しくかつ充分であると見なす構成員間の関係を明確にするものであり、それを正当化する主なものは、変則的な事態にそれが適用されるというところに見出されるのである。その法律は共通の価値及び相互関係の明示したものであって、これらはそれ自体構成員の大部分にとって有効であり拘束力のある実在である。

 『他方、社会、たとえば株式会社のような団体の構成員相互間の関係を規定する法は、異なった任務を果たさなければならない。その法の目的は「万人ニ対スル万人ノ戦争(「万人ニ対スル万人ノ戦争」に小さい丸で傍点あり)」を防ぎ、あるいは、個人間の限られた協力、すなわち、自分自身の立場を維持したりよくしたりすることを熱望し、また自分自身の利益を第一に追求するので他人との関係において相互主義をせいぜい自分の実力に比例して適用するくらいの気持ちしかない個人相互間の限られた協力を可能にすることである。』

 本官は、すでに国際関係の性格に関する本官の見解を述べた。私見によれば、それは最善の場合においても、上述のシュワルゼンバーガー教授が定義を下した意味の社会にすぎないものであるから刑事上の責任は認められない。これは実質的にはチメルン(←正誤表によると「チメルン」は誤りで「ジンメルン」が正しい)教授の見解でもある。シュワルゼンバーガー教授は、国際関係の著名な権威ドン・サンバドール・デ・マダリアガ氏が、世界共同社会の存在に関して次のように述べているところを引用し次のように述べている。すなわち、『われわれは予備的な討議をしないでその真理をわれわれの精神的思考の庫の中に密かにとり入れた。われわれは世界の共同社会が存在しているという先入観あるいはわれわれの本能による推理から発足している。「彼は彼の主たる特徴である智的な正直さをもって、次の意義深い言葉をつけ加えている。われわれ現代人は、まだ世界共同社会がどのようなものが、その法がどのようなものか、その原理がどのようなものか、またそれがわれわれの心の中でどのようにつくり上げられようとしているのか知らないけれども、われわれはすでにこの世界共同社会を直接的に推測したり感得したりしているばかりでなく、これを現実に主張し、創造し、明示しはじめているのである。」』(←この最後のカギ括弧は英文を参照して補った。なお、このシュワルゼンバーガー教授の著述の中にマダリアガ氏の言葉が引用されているのをパル判事が引用している部分であるが、和文ではマダリアガ氏の言葉が「彼は彼の・・・」からであるようになっているが、英文を参照すると「われわれ現代人は・・・」からである)

 それはそれとして、国際関係における刑事責任の全体の基礎が、それはそれとして、国際関係における刑事責任の全体の基礎が、以上述べた意味の国際共同社会の存在を仮定しているのであるから、現在問題としているボイコットが合法的であるか否か、及びその対象となっている国の権利及び解決の問題は、国際関係のこの仮定した性格に基づいて取り上げなければならない。

 いずれにしても領土発見時代において、列強はその新しく発見した領土を、自然法から由来し、また「無人領土権(「無人領土権」に小さい丸で傍点あり)」、すなわち一国家と見なすことの出来ない社会をなしている土人の住んでいる領土という擬制によって正当と認められる権利としてこれを併合出来るものであると主張した。この原則を適用することが出来なかった場合には、いつでも非欧州諸国との通商の権利を主張して、この権利は不完全なものから次第に基本的権利にまで発達したと主張された。

 時代と世界の状態が、当時から非常に変化していることは疑いはない。しかし、これらの先例を棄てるには、かような変化に単に言及するだけでは充分でない。われわれは当時存在していた国際社会の性格を考察して、それを現在のわれわれの仮定している共同社会と対照しなければならない。シュワルゼンバーガー教授が指摘したように、現在の実際の国際団体が、当時から根本的に変化したには相違ないが、それはむしろ一層悪い方向に変化している。しかしながら、われわれは異なった仮定の下に推論しているのであって、われわれはボイコットによって生じた法律上の事態を国際関係のこの仮定された立場に基づいて考慮しなければならない。

 1947年2月27日、検察側は本件において、ワシントン軍縮会議議事録からの抜粋を受理することに異議を申し立てた。カー検察官はその異議を申し立てた際、究極において調印された協定を解釈するにつき、どの程度までその予備的討議が助けとなると見なすかについて、ある程度の制限がなくてはならないと述べた。われわれはこの異議を却下し、抜粋を証拠として受理した。

 問題が協定の解釈にかかっている場合、あるいは当事者の意図を確かめるにある場合、その問題は通常、文書そのものの内容、さらに文書の用語が現存事実とどのような関連を有しているかを示すに足る、四国の状況に関する外的証拠を考慮した上で決定しなければならない使用されている用語によって明瞭にあらわれている意味と相矛盾するような意図に関する証拠は一切受理するわけには行かないのである。それはその目的は用語を変えることにあるのではなく、単に当事者の用いた言葉の意味を説明することにあるからである。

 文書に書かれている言葉そのものには、一見して曖昧なところはない場合があるかもしれない。しかし外部の状況によって用語の妥当な適用についてのある疑念あるいは困難が生ずるかもしれない。このような場合には字義の解釈の問題のために外的証拠が受理されても差し支えないであろう。

 「筆者の意図」であろうと、「言葉の意味」であろうと、真の目的は取引の真の性質を確かめるにある。「意図」にしても言葉の意味にしてもそれが唯一の対象ではない。主たる目的は実際に何が意図されていたかを決定するにあって、かような意図を決定する主たる基礎は証書の用語である。

 私法上の契約の解釈における準備的行為の役割は、以上指摘した線に従って決定し得る。しかし条約の解釈におけるその役割は、非常に異なっているかもしれない。

 ラウターパクト教授は彼の「準備的行為」中に、この場合において常設国際司法裁判所の法理論は、三つの段階を経てきたと指摘している。すなわち、(1)かような準備的研究をまったく考慮しないか、あるいはそれを積極的に否認した時代(2)証拠は調べたが、それを使用することを不必要と見なした時代及び(3)かような証拠の効用を認める態度を示した比較的近代の時代である。総体的に言って、右の裁判所の法理論は、この問題を明瞭にするのには少しも役立っていない。

 「準備的行為」という字句には二通りの内容が含まれている。すなわち、第一は、条約締結に先だつ外交文書を含めて、条約締結の商議に当たる者の見解を表わしている文書及び第二は、立法府において表明された政府見解である。

 ブラウン氏が指摘したように、『国際法のどのような規定であっても、交渉に払った者の意図に照らして条約を解釈せよというこの規則ほど、確立されたものはないであろう。その意図はもちろん条約そのものの条文の中に示されていると推測されるが、他にもこれを求め得る。すなわち、調印あるいは批准の際、条約に添付された特定の留保条件、あるいはまた批准前の交渉中に提示された注釈、説明、了解、解釈、制限または実際条件である。従って不戦条約において負担された義務の性質に関して、将来意見の相違がある場合には、交渉に関する公式通信文だけでなく、オースティン・チェンバレン卿、ブリアン氏、ケロッグ長官及びボラー上院議員のような政府代弁者の種々の公式声明をも、必ず参照しなければならないのは当然である。この条約に関する彼らの解釈には、厳密な注意と尊敬を払わなければならない。合衆国の与えた公約に関する限り、司法裁判所であろうと、国際輿論であろうと、米国の批准の際にその条件となった、同条約の「真の解釈」に関する上院外交委員会の了解を披歴している報告書をも考慮しなければならない。・・・・条約のすべての調印国の意図を確かめるため、また同条約においてすべての調印国をして、その約束を厳重に履行させるために、批准前各調印国がこの重大な宣言に与えたそれぞれの解釈に対し、然るべき重要さと信用をおくことは、良識であり、よい道徳であり、かつまたよい法であると言えよう。』

 弁護側はしばしば本件における証拠の受理性の問題に関する裁決の矛盾について、われわれを非難した。前に言及した裁決の少なくともあるものは、かような非難を正当化するもののように見えるであろう。他にも次のようなニ三の例があった。すなわち

 1946年6月26日、検察側の証人の反対訊(ここまでが原資料40枚目、原資料に付された頁数では335頁目である。そして原資料41枚目、原資料に付された頁数では336枚目には、次の「エルドン卿は・・・不可能である』」という文章があり、そのあとは余白で、その次の原資料42枚目、原資料に付された頁数では337枚目に続いている。ところで、原資料40枚目の最後の文はそのまま原資料42枚目に続いている。英文を参照しても、このあたりに原資料41枚目に対応する文章はない。原資料41枚目は、どこかほかの部分が混入したのであろう。原資料に付された頁数は連続しており、この判決書作成の段階で、混入したのだと思われる)

 エルドン卿は次のように述べたことがある。『この不便は正義の実施に属するものである。すなわち異なった人の考えは、証拠がもたらす結果によって異なった決定に導くことがある。』この一層の不便も、正義の実施に属している。すなわち『人間の肉体を同一の寸法にすることができないと同様に、人の心を同一の標準に一致させることもまた不可能である。』

問中、同証人に対して、弁護側は未だ証拠として提出されていない検察側文書に基づいて質問した。同文書は証人の陳述ではなかった。検察側は証拠として提出されていない文書の使用に対して異議を申し立てた。この異議は容認され、弁護側は訊問のためにこの文書を使用することを許されなかった。《速記録1429頁》

 1946年6月29日、弁護側は検察側証人の反対訊問において、とある一つの文書について質問した。検察側は文書が24時間前に作成され、検察側に配付されたものでなければ使用することができないと異議を申し立てた。われわれはこの異議をも容認し、弁護側にその使用を許さなかった。《1,368―1,371頁、1946年6月29日》

 しかしその後、1947年3月5日、検察側が弁護側証人の反対訊問において同様なことをしようとした際、われわれはこの裁決から離れ、反対訊問の本質そのものは意表に出るということにあるから、文書の写しを作成し、それを事前に配布することに関する規則は、かような場合には、適用しないと発表した。《17,808−12頁》かようにして、われわれはこの点に関するわれわれの矛盾を否認することはできなかった。しかし法廷としては裁判長が述べられたように、きわめて適切な説明ができた。

 裁判長は次のように述べた。『・・・・私はここで裁判所のために何も弁解するのではない。しかし諸君が承知されるように、裁判所条例によれば、われわれは証拠に関するどのような技術的規定にも拘束されているものではない。裁判所条例の証拠に関する技術的規定は、単にわれわれが、われわれ自身の技術的規定を適用することを阻止するばかりでなく、他の一連の技術的規定をもって、それを置き換えることをも、阻止する効力を有しているのである。ここに11ヶ国が代表されており、証拠に関する技術的規定のある細目に対して、その各代表者の見解が区々である以上、われわれがわれわれ自身だけの技術的規定を適用するということは、ほとんど不可能である。個々の証拠が提出される度ごとにわれわれがなし得る最大限度のことは、それが証明力を有しているかいなかということであって、そしてその問題に関する決定は裁判所の構成いかんにかかっているであろう。あるときにはわれわれは11名の判事である。あるときには7名の少数になったことがある。ある特定の証拠が証明力を有しているか否かの問題について、7名の判事から得る決定が、11名の判事のそれと常に同じであるということは、諸君も言えないし、本官も言えない。諸君はある特定の証拠物件に対する決定が、どのようなものであるかについては確かでないであろうし、また確かであり得ない・・・・絶対的には確かでないということを本官は知っている。なぜなら、判事の構成がその日その日によって異なることがあるからである。もし、私が決定はそのときどきの判事の構成に左右されないと言ったならば、私は諸君を欺くことになる。実際に左右されるのである。先日もここにおられない判事が法廷に出席しておられたならば、私はある重要な点に関する決定が異なっていたと信ずる。われわれはそれをどうして克服することができるであろうか。われわれは技術的規定を定めることはできない。われわれはそれに関し意見の一致を見るために努力して、何ヶ月も費やし、そして結局意見の一致に到達するのに失敗するであろう。いずれにしても裁判所条例は、われわれがそれを採択することを許さない。それは裁判所条例の精神に反する。裁判所の決定はその日その日の構成によって異なる。それを克服する途はない。』(和文ではこの次は第4部に続くが、英文を参照すると、前回の記事でどこからか混入しているとした文章がこれに続くことが分かる。よって、補っておく)

 エルドン卿は次のように述べたことがある。『この不便は正義の実施に属するものである。すなわち異なった人の考えは、証拠がもたらす結果によって異なった決定に導くことがある。』この一層の不便も、正義の実施に属している。すなわち『人間の肉体を同一の寸法にすることができないと同様に、人の心を同一の標準に一致させることもまた不可能である。』


    第4部 全面的共同謀議


     (A)緒言


 これから本件に関する事実に移るについて、個々の被告との関連をはなれ、全体として見て、本件全般の構造であると検察側が記述したところのものがわれわれに提示された次第を記憶しなければならない。この構造の大体の観念はすでに述べた。

 検察側自身、弁護側の公訴棄却の申立てに対する回答においてその概要を述べた。本官の意見では、その概要は問題の構造を比較的正確に示している。

 訴因第1ないし第5には共同謀議の訴追が含まれている。訴因第1において、検察側は『全期間を包括するのみならず、また、その詳細は当初においては予測されなかったと思われるにしても、その後発展した種々の面をもことごとく包括しているところの』一般的な全面的共同謀議が存在したと主張している。この訴因によれば、『被告は・・・・共通の計画または共同謀議の立案または指導者、組織者、教唆者または共犯者として参画した・・・・。』そしてかかる計画または共同謀議の目的は、宣戦布告の行なわれた、または行なわれなかったところの、一個または数個の侵略戦争その他を行なうことによって『東亜並びに太平洋及び印度洋並びに右に隣接せるすべての国家及び島嶼における軍事的、政治的及び経済的支配を獲得する』にあったというのである。

 訴因第2ないし第5は、被告が同様の不法な侵略的手段によって

 (1)一般に満州と称せられている中華民国の一部《訴因第2》

 (2)中華民国の残部《訴因第3》

 (3)合衆国、全英連邦、フランス、オランダ、中国、ポルトガル、タイ国、フィリッピン及びソ連邦に対して東亜並びに太平洋及び印度洋等々《訴因第4》及び

 (4)全世界《訴因第5》

に対する、前述の点と同様な、支配を目的として、同様に不法な共同謀議に参画したと訴追している。

 訴因第6ないし第17は、全被告が各訴因に個々に指名された諸国――本訴訟を起こしている諸国に加えてタイ王国を含む――に対し、侵略戦争及び国際法、条約その他に違反する戦争を計画し、準備したと訴追している。

 全被告は以上列挙した17の個々の訴因に指名されている。

 訴因第18ないし第26は、被告のあるものが中国、合衆国、フィリッピン、全英連邦、フランス、タイ国、ソ連邦及び蒙古人民共和国に対して、侵略戦争、並びに国際法、条約その他に違反する戦争を開始したと訴追している。

 訴因第27ないし第36は、これら被告が侵略戦争、並びに国際法、条約その他に違反する戦争を行なったと訴追している。

 訴因第33、第35及び第36を除きこれらすべての訴因は、全被告を指名している。フランスに対して戦争を行なったと訴追している訴因第33、ソ連に対して戦争を行なったと訴追している訴因第35及び蒙古人民共和国及びソ連に対して戦争を行なったと訴追している訴因第36は、ある被告を含んでいない。

 訴因第37及び第38は、そこに指名されている被告は合衆国、フィリッピン、全英連邦、オランダ及びタイ国に対する不法な敵対行為を開始するにあたって、攻撃されるかもしれない地点にいるすべての人、すなわち、軍人並びに一般民を殺害するために共同謀議をなしたと訴追している。

 訴因第39ないし第43は、数多くのものが殺害された真珠湾、コタバル、香港、上海における英艦ペトレル号に対する攻撃及びフィリッピンのダヴァオの特定の地点における特定の殺害に関し訴追している。

 訴因第44は、陸上及び海上において、俘虜及び一般人の殺害を目的とした共同謀議に参画したと訴追している。

 訴因第45ないし第50は、そこに指名されている被告が、中華民国の種々の地点において、特定の殺害行為をなしたと訴追している。

 訴因第51及び第52は、そこに指名されている被告は、蒙古及びソビエット共和国の軍隊の若干名を殺害したと訴追している。

 訴因第53は、指名されたある特定の被告は、俘虜及び一般抑留者の取扱いに関して、戦争法規並びに慣例を犯そうとする共同謀議をなしたと訴追している。

 訴因第54は、指名されたある特定の被告は、かような犯行を命令、授権及び許可したと訴追している。

 訴因第55は、指名されたある特定の被告は、かような違背を防止する適当な手段をとるべき法律上の義務を故意にまた無謀に無視し、これによって戦争法規に違反したと訴追している。

 以上の訴追を確立するために検察側は『周知の共同謀議式立証法』と表現された方法に依拠し、検察側は次の諸点を立証しようと試みた。

  1、1928年1月1日より1945年9月2日までの期間中、包括的性格及び継続的性格を有する全面的共同謀議が形成され、存在し、かつ実施されていたこと。

  2、その共同謀議の意図及び目的は、大東亜として一般的に知られており、起訴状に示されている領土の全部に対する日本の完全な支配力であったこと。

  3、かような支配は侵略並びに国際法及び条約に違反する戦争によってこれを確保することにその企図があったこと。

  4、被告はいずれの訴因においても、そこに述べられている特定の犯罪が犯された時期において、共同謀議の参画者であったこと。

 検察側によれば、『共同謀議立証法』の採用に鑑み、彼らは次の二問題を考察し、決定するということ以外は不必要となった。

  『1、起訴状の訴因第1に述べられた性質と範囲の一般的継続的共同謀議が立証されたか。

  2、個々の被告に関しては、彼が訴因のいずれか《共同謀議訴因以外》に挙げられた特定の犯罪が行なわれたとき、共同謀議の一員であったか。』

 この共同謀議に関連する証拠を検討するにあたって、検察側はわれわれに対して次の四点を記憶するように要請している。

  1、かような性質の広範な共同謀議の発展過程においては、時に応じてある特定の時期においてどこに鉾先を向けるべきか、もしくは全然向けないことにするかの選択の自由が必ずやあったに違いない。ゆえにこの選択には攻撃する国がどの国であり、何ヶ国であるべきかも含まれていたであろう。この選択はどの国に対する攻撃が望ましいものであるか、あるいはむしろ多くの場合それが賢明であるか否かの意見によったであろう。

  2、この共同謀議の分析に関する一つの困難は、その範囲が非常に広範であったために、これが人間の一団によって行なわれたことを想像することは困難であるということである。

  3、14年にわたる期間において発生した事件はすべて偶発的ではなかったという事実の意義を把握することが本件においてはきわめて重要である。

   (a)いずれの事件も冷静に企図され計画されそして実行に移された。

  4、被告の間にはときによって互いに意見が対立したが、共同謀議の全期間中いかなる時期においても、共同謀議の根本的目的については被告の間に意見の不一致をみたことはないこと。

   (a)すべての被告の間の対立はある特定の時期に企図されていた特定の行動が時宜を得ていたか否かに関する意見の相違のみに基因していた。

 山岡弁護人は訴追されている共同謀議の広範な事に言及して次のような適切な見解を述べた。

 『検察側が訴追しかつ描写しようとした共同謀議なるものはかつて司法裁判において論述せんと試みられた最も奇異にしてかつ信ずべからざるものの一つである。少なくとも最近14年間にわたる相互に孤立した関係のない諸事件が寄せ集められ、ならべたてられているに過ぎないのである。検察側はこの集積中から起訴状に述べられた目的を達成するため「共同計画又は共同謀議」が存在したことを一切の合理的疑惑を捨てて承認せよと法廷に求めて居るのである。しかも彼らの議論の示すごとくかかる共同計画又は共同謀議の概貌を指摘することにさえ困難しているのである。・・・・土肥原、橋本、畑、星野、板垣、木村、梅津及びその他の人々は広田が外相あるいは首相の職にあった時期には広田に接触するの機会を持たなかったのである。しかしてもちろん広田はこれらの人々により抱かれたいかなる見解をもあるいは又本件において彼と共に起訴された人々の大部分により抱かれたいかなる見解をも知る機会を持たなかったのである。』(←この括弧内、原資料は漢字片仮名交じり文である)

 山岡弁護人は続けていわく、『けだし世界のあらゆる列強は自国民の繁栄を維持又は増進するために外国貿易を拡張せんと必然的に希望するものであり、又同時にこれを併行して自己防衛の手段を確保するために適切な措置を講ずるものであるが、もしここに検察側のとったごとく無数の孤立せる関係のない諸事実を寄せ集めるという方法をもって他の強国の同時代における活動を律せんとしたならば、世界のあらゆる主要国は彼ら自身の国家的見地及び意思中に意図された事のないに拘わらず「侵略戦」を準備しかつ挑発せるものと断罪されることが出来る。』(この括弧内、原資料は漢字片仮名交じり文である)

 訴追事項の厖大さだけでわれわれは納得させられるものではない。もし『訴追されている事柄が人間の一団によって行なわれたことを想像することが』困難であるならば、われわれはなおさらわれわれの面前にあるこの被告の一団によってそれが行なわれたと容易に納得させられることを許すことが出来ない理由になる。信念というものは疑いもなく純粋に精神的なものであり、成算ということも全く精神に属することである。しかしわれわれが記憶しなければならないことは、われわれの信念が現実の事実の正確な表象に近似するのはその事実に対する資料が十分に意識された上でその信念が形成された場合に限られている。種々の事情を簡単に相互にあてはめまた必要があれば少し無理をしても、それらを一つの関連した全体の各部分に作りあげるということを、われわれは好んでやり勝ちであるが、少なくとも現在の我々はそれをしてはならないのである。これは立証されるべき事実に関する直接証拠がわれわれに提出され得ない場合において、特にそうであり、まして推論によってわれわれを厖大な共同謀議があったという結論に到達させようとして既に提出されている事実の大部分が、原因が一つ以上あることを認めている場合またそうである。われわれは不明の事前の状態についての可能性を無視することを許されないであろう。

 訴因第1に訴追されている共同謀議の最も全面的な性質に鑑みて、検察側は、もしその共同謀議が立証され、かつ個々の被告のだれが当初からの参画者であり、誰がその後それに参加したことが判明したならば、訴因第2ないし第5を個々別々に考慮することは不必要になるであろうと主張している。

 訴因第1が『全体として立証されない』場合には、全被告に対して別々に他の個々の訴因を考慮しなければならない。

 もし訴因第1が『全体として立証され、』しかし『一名あるいはそれ以上の被告が訴因第1全部に該当する程度まで参画したと立証されなかったならば』『訴因第2もしくは第5に訴追されている共同謀議の一あるいはそれ以上に・・・・参画したか否かを考慮しなければならなくなってくる。』

 検察側の主張では『共同謀議に遅れて参加した者は、彼が発見したところの共同謀議の結果そのままを受け入れることができ、それによって当時支持しなかった政策を事後承認するかもしれない』と言っている。

 同時に検察側はわれわれに次の保証を与えた。

  (a)個々のまたはすべての被告は日本の侵略政策の全体あるいはその一部の立案に貢献したということで負っている責任によってのみ罪を問われていること。

  (b)(1)、どの被告も、かような罪を生ぜしめた日本の遂行した侵略政策に関して、何らかの責任を持っていない限り平和に対する罪、あるいは通例の戦争犯罪及び人道に対する罪のいずれについても訴追されていないこと。

    (2)、本審理においてはどの被告も既存方針に従って公務遂行上行なったところのいかなる行為あるいはいかなる声明であろうと、その点においてのみ侵略政策に関係するものである場合にはそれだけでは訴追されていない。

    (3)たとえば、現地軍人は、だれも単に軍事作戦を行なったということでは訴追されていない。彼らが訴追されているのは、侵略計画の教唆、並びにそれを実現させるにあたっての活動のためである。

 検察側はさらに法律の命題として次の点を主張した。

  (1)、侵略または国際法、条約等々に違背する戦争は非合法的であり、正当化することはできないものであるから、かような戦争の開始及びそれを行なうに際して行なわれた人命殺奪は殺人罪にならないこと。(←この最後の「ならないこと。」という部分は、英文を参照すると、「なること。」が正しい)

  (2)、以上述べたところの全面的共同謀議において、参画者であった個々のまたすべての者は個人的にそれぞれ犯罪の責任を負うことになり、かつ共同謀議の期間中なされた個々またすべての行為に関して責任を負うことになる。それは

   (a)その行為が戦争の不法な計画、開始あるいは遂行のいずれであろうとも。

   (b)右に述べたように、殺人であろうとも。

   (c)共同謀議の実施過程においての違法ないかなる残虐行為であろうとも。

   やはりそうである。

  (3)、どの被告も各訴因において訴追されている特定の行為が行なわれた時期において共同謀議の参画者であったものは、彼が個人的に参画したか否かを問わず、その行為が構成する犯罪について有罪であること。

   (a)『もし一個人が訴因第1に主張されている種類の共同謀議に参加した場合彼は必然的にある特定の時期においてある特定の進出を決定したりあるいは指導したりするようなことに関する事柄について共同謀議者の中の彼の一味中で時折権勢の地位につく者に決定を任せることになる。「一度その共同謀議に参加した者は、もし行動が共同謀議の範囲内であり、また彼自身が明白にその謀議から脱退したのでない限り、特に彼の反対が単に慎重を期すというような根拠だけに基づくものであれば、共同謀議に与かる彼の協力者のなしたある特定の行動に自分は賛意を示さなかったということを単に表明するだけでは、彼らがその後とった行動に対する責任から免れることはできないのである。』

   (b)二名あるいはそれ以上の者が一たび犯罪を犯すことに同意すれば、その各々の者は他の者がその申合せの範囲内及びその目的のためにその後なした行為及び声明について責任がある。そしてもし犯罪がそのいずれかの者によって実際犯された場合、そのすべての者は有罪であると決定され得る。

    (1)、それ自体が犯罪であると否とを問わず、もしある目的追求の過程で、ある事情が生じたならば一つの犯罪もしくはそれに続く犯罪を犯すという申合せであり、かつその一名の者の同意通りに右の犯罪が犯された場合にはその犯罪あるいはそれに続いてさらに犯された犯罪につきすべての者が有罪であると決定し得る。かつ各々の者はその犯罪を実際に犯すべきであるか否かに関する他の者の決定に拘束されている。

    (2)、同様に、もし彼らが犯罪を構成しないある目的を企図し、あるいはそれを構成しようとし、そしてもしその目的のため必要があれば、ある犯罪を犯すということに同意し、そしてその一名がそれを犯したならば、すべての者がそれにつき有罪であると決定し得る。

   (c)(1)、共同謀議に参画し、訴追されている犯罪行為を実行するための準備に参加した者が、その犯罪が実際に犯されたとき、公職についていなかったにしても、彼はその責任から免れない。彼がその地位を失ったため、その犯罪を犯す最終決定に参加し得なかったという単なる事実は、――もし彼がその犯罪を犯すことについて賛意を表した種類にはいるものであるからば、それは彼を免罪するものではない。それは彼が共同謀議の遂行への行動の選択を彼が後継者に委託したものと解さなければならない。

     (2)、もし彼がまだ公職にあり、問題の行為に反対し、あるいはそれを阻止し、あるいは停止しようとまで努力したが究極的にはその信念を曲げて、その職にそのまま残ったならば、上述の行為についてその責任がある。

 検察側がかく言明した法律命題はいわゆる国際団体の中の国家社会にとって確かにきわめて重大な問題を提起するのである。これは自国の政府の運営を委任されるものにとって前例のない危険と責任を課すものである。この危険がいかに大であるかということは、行なったとされる行動に対して、彼らは権威ある国際機関――それがだれであろうとも――に責任を問われることになるということを銘記するときにはじめて、十分に認識することができる。現在の国際社会の性質を念頭におき、これらの命題はきわめて慎重に考察されなければならない。かつかような考察をなすにあたって、われわれは次の二つの考慮事項を明確に区別しておかなければならない。(1)国際生活の法律規定の中にこれを織り込むのに期が熟しているか否か(2)これを実施するにあたってとるべき方法。

 本官は共同謀議の訴追に関する事実を考慮した後、検察側が「共同謀議に関する法律及び同種の原理としてわれわれに提出したものを考察してみよう。しかしてこれに関連して、検察側の言明した右の法律の命題を詳細に考慮してみよう。それにはいる前にこれらの共同謀議の訴追の法的部面は次の観点から検察側によって提出されたということだけをここで指摘する必要がある。

  1、本裁判所の管轄権は、本裁判所を構成する裁判所条例に列挙されている犯罪に限定されているから、本件における起訴事実は同条例の第5条(イ)項及び第5条(ハ)項に規定されている事実だけに限定されなければならない。

   (a)起訴事実は右の理由によって、次のように限定されている。

    (1)『宣戦ヲ布告セル、マタハ布告セザル侵略戦争ノ計画、準備、開始マタハ実行ソノ他』を達成するための共通ノ計画マタハ共同謀議《第5条(イ)項》

    (2)本裁判所条例において、人道ニ対スル罪と称せられていることを犯すための共通ノ計画マタハ共同謀議《第5条(ハ)項》

   (b)「通例ノ戦争犯罪」を犯スための共通ノ計画、マタハ共同謀議が存在するという主張は放棄された。

  2、検察側の主張は次の通りである。

   (a)本裁判所条例は、裁判所の構成並びに管轄権について、また証拠及び手続に関するあらゆる事項については決定的である。しかし、

   (b)第5条に列挙されている犯罪については、

    (1)本裁判所条例は、少なくとも1928年以降存在してきた国際法を単に宣言したものであり、かつそうすることを目的と(←正誤表によると、「目的と」は誤りで「趣旨と」が正しい)したものである・・・・

    (2)裁判所はこの命題を検討し、この点に関する自己の決定にその判決の基礎を置くべである。(←正誤表によると「置くべである。」は誤りで「置くべきである。」が正しい)

  3、『本裁判所条例の共同謀議、計画、準備、従犯及び共通の計画に参加した者の共同責任に関する規定は、すべての文明国によって承認された法の一般原則を示すものである。

   (a)『文明諸国によって承認された法の一般原則』は、国際法の源泉の一つであるから、これらの規定そのものは国際法の一部をなすものである。

  4、本裁判所条例の規定は、単に起訴の形式であり、責任立証の形式である。

   (a)このような理由から、『これらの規定を定めることは最高司令官の権力内にある。』

  5、それ自体一箇の犯罪としての共同謀議と、数名の者が共同して犯したと称せられる犯罪の立証方法としての共同謀議との間には、重要な差異がある。

   (a)原則は類似しているが、その適用に相異がある。

   (b)これらの原則は、共同犯罪に適用されるのである。たとい、それを犯すための共同謀議が別個の犯罪となるようなものでない場合でも同様である。

 検察側は、この点に関する法律は、ニュールンベルグ判決において明らかにされた通りであるとしてこれをそのまま受諾すると申し立てた。すなわち

  (1)共同謀議は、その犯罪的目的について明確に示されなければならない。

  (2)共同謀議は、その決定及び実施の時期からあまり時間的に遠くかけ離れていてはならない。

  (3)計画を犯罪的であるとするには、単に党の綱領の宣言だけに基づいてはならない。

  (4)侵略的なものと性格づけられるような種類の戦争を行なうための具体的計画がなければならない。

 ブラナン氏は弁護側に代わって、右のような法律に関する命題を攻撃し、この点に関してニュールンベルグの場合と本件との事実的相違を強調した。彼の批判は、前に列挙した検察側の立論方法の一つ一つに向けられたものである。それは確かに綿密な検討を必要とする。しかし本官はまず第一に事実を調べるべきであると思う。

 検察側は、起訴状において主張している共同謀議の存在を確立するために、共通ノ計画を立証しようと申し立て、この共通ノ計画が一たび確立された暁には、すべての証拠はどんなに無関係のように見えようと、あるいは被告それぞれの行動がどんなに無連絡のように見えようと、それはそれぞれ適当な、そして論理的な順序に容易にあてはまるであろうと主張した。

 訴因第1に挙げられている共同謀議の共通ノ企図あるいは目的は、次の通りである。すなわち

  1、日本は

   (a)東アジア

   (b)太平洋及ビ印度洋並ビニ

   (c)右区域ニ隣接スルすべての国家及ビ右区域内ノ島嶼

   における軍事的、政治的及び経済的支配を確保するにある。

  2、その目的のため、日本は

   (a)宣戦ヲ布告セル、マタハ布告セザル戦争

   (b)侵略戦争

   (c)(1)国際法、(2)条約並びに

     (3)協定及び保障

     に違反する戦争

     を行なうにある。

 すでに述べたように、訴因第2より第5までは各々特定の地域に関する共同謀議の起訴事項に係わるものである。それらの訴因中において、共同謀議の目的は(1)その中に挙げられた地域の・・・・支配を獲得すること、及び(2)その目的のため訴因第1に関して前述のような性格の戦争を行なうことにあるとされているのである。かような支配の方法は『直接に、または日本の支配下に別箇の一国家を設立すること』であると称せられている。

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