歴史の部屋

 訴因第1は、かような共同謀議が形成された日付を明示していない。日付は『1928年1月1日より1945年9月2日の間』とされている。

 検察側の立場を本官が了解するところに従えば、その主張は、訴追された共同謀議はこの期間以前のある日付に開始されたもので、かつ明示された全期間を通じて存続したというのである。これはまさにその通りに間違いない。そうでなければこの期間中の異なった日付に行なわれた行為の全部を、訴追された共同謀議の網の中に捕えることは上可能である。検察側最終論告は張作霖の殺害を『共同謀議の目的達成のための、共同謀議中最初の公然たる行為』であると主張し、それによって右の見解を支持している。

 検察側は、被告及びその共犯者の行動と言辞とを含む直接及び状況証拠によって、共同謀議の事実を立証しようとした。

 検察側の主張は、この事実を立証するためには『訴追された共同謀議が起訴状中に明示された日付以内に存在したということを、証拠が、一つの事実として立証する限り、検察側にはその開始の明確な日付を証明する必要はない』というのである。

 検察側は、次の資料をその冒頭陳述において立証しようと述べ、今やすでにこれを立証したと主張している。そしてそれらの資料とは、冒頭陳述に従えば、「立証サルベキ事実(「立証サルベキ事実《に小さい丸で傍点あり)《《すなわち全面的共同謀議》がおのずから明らかになるものであるとなしている。すなわち、

  1、1928年1月1日以降の数年間に、日本における軍部は日本の青少年に軍国主義的精神を注入し、かつ日本の将来の発展は征朊戦争に依存するという超国家主義的観念を要請することを目ざす計画を主唱し、組織し、また日本の学校組織の中において実行に移したこと。

  2、(a)日本はその従前の侵略政策の結果として、中国特に満州として知られている部分において厖大な権益と特権を取得したこと、

    (b)特別な条約によって、日本は満州において広大な地域を取得し、そこにおいて日本は治外法権的権能を行使したこと、

    (c)(1)1927年に日本政府は中国に対し一つの積極政策を樹立し、その結果1927年5月及び1928年4月中国に軍隊を派遣したこと

      (2)政治問題について筆をとる者及び語る者は、満州における軍事行動を大衆が支持するように唱道したこと、

      (3)満州における軍事的侵略に根拠を与えるような事件を満州に構えることを目的とした、ある計画を進めたこと、この計画はまた満州における軍事的目標に合致させるように日本政府を引き入れるために強制手段を用いることを含んでいたこと、

      (4)1931年9月18日満州事変として今日一般に知られている挑発的事件が計画され、実行されたこと、

      (5)そしてそれに引き続いてただちに、周到に準備され、待機の状態にあった軍事的侵略が行動に移され、その結果中国東北三省の占領となり、遂には傀儡政権の設立に至ったということ、

  3、(a)日本はこれらの被告を通じてその侵略を徐々に中国の他の部分に及ぼしたこと、

    (b)細目は折に触れて変更されたが、全期間を通じてその形式時とは一つの一貫した計画に従っていたこと、

  4、(a)中国に対する侵略戦争の遂行は、政府の諸部門及び機関の支配を獲得するにあたって、民間人と協同して行動した軍閥によって幇助され、かつ容易なものとされたこと、

    (b)陸海軍大臣は現役の大将または中将でなければならないことを規定した1936年の勅令に付帯した権力が、政府の支配、統制を手中に収め、日本の武力による拡張政策を促進するにあたり、陸軍によって利用されたこと、

    (c)一般的国務と陸海軍の統帥権に属する事項との間に明確な一線を画している日本憲法の明らかな規定を奇貨とし、共同謀議者らは共同謀議の全期間を通じて、一般的国務に属する事項を犠牲として、統帥権の概念中に含まれる事項の範囲を絶えず拡大しようとしたこと、

    (a)(1)(←正誤表によると「(a)(1)《は誤りで「(d)(1)《が正しい)軍国主義的派閥及び超国家主義的秘密結社は、暗殺による支配の挙に出で、それによって武力侵略の支持に一大影響を及ぼしたこと、

      (2)暗殺と反乱の脅威とは、軍部がますます文官政府を支配することを可能にし、1941年遂に軍部は、文武両翼を含む政府の全部門に対する完全かつ絶対的な支配権を獲得したこと、

      (3)侵略的目標の達成を早めるため、1940年7月軍首脳部は米内内閣の倒壊をもたらしたこと、

  5、武力による拡張計画を継続するという日本国及び日本の政策に対して責任ある人々の決意は、次の事項によって立証されるということ、すなわち、

   (a)日本の国際連盟脱退、

   (b)ロンドン海軍条約を遵守しないという決定、

   (c)ブラッセルにおける九ヶ国条約会議への出席を拒絶したこと、

   (d)日本が南洋委任統治諸島の収得した際与えられた保証を破って、それらの島々を要塞化したこと、

  6、(a)1937年中国に対する広汎な武力侵略に突入する以前に、日本は1936年11月25日ドイツとの同盟《防共協定》を計画してこれを成就し、さらにドイツとの間に秘密条約を結んだこと、

    (b)さらに自国の侵略の歩みを進めることを可能にするために、日本は1940年9月20日ドイツ及びイタリーと三国同盟を締結したこと、

  7、共同謀議の初期のころから、日本はその大東亜政策を実行するために、合衆国に対する戦争の遂行を決意していたこと、

  8、十ヶ年間の戦争の計画及び準備並びにその開始及び遂行の期間は、共同謀議の詳細を立証するものであること、

  9、被告たる指導者によって戦争遂行にあたって採用され、かつ是認された形式は、彼らの同志ナチス・ドイツの共同謀議者のとったものと同一であったこと。

 検察側の主張によれば、右に挙げた諸事実は本裁判においてすでに立証されたことであり、訴因第1から第5までの中に挙げられた共同謀議を証明するに役立つものであり、さらに前述の共同謀議は、本訴追特定の全期間を通じて継続されたものであったことを示すものであるというのである。

 この共同謀議の当事者に関しては、キーナン氏はその冒頭陳述において、共同謀議の「事実(「事実《に小さい丸で傍点あり)《に関する証拠及び起訴状の付属書中に述べられた事柄は、これらの被告が他の者とともに共同計画及び共同謀議に参画し、かつまた訴追された共同謀議の形成及び実行に関し責任ある主な指導者であったことを立証するであろうと申し立てたのである。

 起訴状においては、『付属書Aの細目、付属書Bの条約条項及び付属書Cの保証の各全部』は本訴因に関係があると述べられている。

 付属書Aは10節に分かたれ、起訴状第1類中の数箇の訴因に含まれた訴追事項を支持するために検察側が依拠しようとする主要な事実並びに出来事を表示した要約的細目を挙げている。

 その細目の表題は次の通りである。

 1、満州ニオケル軍事的侵略

 2、中華民国ノ他ノ部分ニオケル軍事的侵略

 3、中華民国並ビニ大東亜ニオケル経済的侵略

 4、中華民国及ビ他ノ占領地ニオケル悖徳化方法並ビニ威圧方法

 5、戦争ニ対スル一般的準備

 6、日本ノ政治及ビ輿論ノ戦争ヘノ編成替エ

 7、日本、ドイツ及ビイタリー間ノ協力仏領インドシナ及ビタイ国ニ対スル侵略

 8、「ソビエット《社会主義共和国連邦ニ対スル侵略

 9、日本、アメリカ合衆国、フィリッピン及ビ全英連邦

 10、日本、オランダ王国、ポルトガル共和国

 この付属書の各項に含まれた訴追事項は各々異なった検察官によって開陳されたのである。これらの検察官のほとんど一人々々がこの共同謀議について論述し、各々の論告部門を訴因第1中にあげられた全面的共同謀議に結びつけようと試みた。これらの博識な検察官のすべてが、扇動的で雄弁な言辞と感情的な一般論を用いることを避け通したとは言えないけれども、これらの冒頭陳述は、本件についての検察側の取り上げ方をかなり明らかにするものといえよう。

 弁護側は、もちろんかような共同謀議の起訴事実に異論を唱え、これを荒唐無稽なものと評した。

 弁護側の最終弁論は、その各段階に応じそれぞれ異なった弁護人によって提出された。その中で岡本及びブルックス両氏による起訴状付属書Aの第1項、ラザラス氏による2、3及び4項、ブルーエット及びブラナン両氏による第5項、カニングハム氏による第7項、ブレークニー少佐並びにファーネス少佐による第8項、またローガン氏及びブレークニー少佐による第9項に関する最終弁論を本官はここで特に指摘しておきたい。

 まず最初に本官は記録に上がっている証拠が起訴状中に訴追された全面的共同謀議をどの程度まで立証するかを測ることとしよう。

 検察側が主張したように、訴因第1中に挙げられたような全面的共同謀議の存在は、実に『本件において超絶的重要性を有する基本的な問題』である。裁判所の管轄権に関する弁護側の異議を考慮するに際して、すでに本官は、当裁判所において審理し得る犯罪は、1945年9月2日の降伏によって終結した敵対行為の継続期間中、あるいはそれに関連して、行なわれたものに限るべきであるという自己の見解を表明した。1931年の満州事変、遼寧、吉林、黒龍江及び熱河の各省における日本のその後の活動、1937年の盧溝橋事件以前の日華間の戦闘行為、ハサン湖事件に(←正誤表によると「ハサン湖事件に《は誤りで「ハサン湖事件及びハルヒンゴール河事件に《が正しい)まつわる日ソ間の武力抗争並びにレディーバード号、パネー号両事件は、全面的共同謀議という広汎な網の中に捕えることができない限り本裁判所の管轄以外に置かれるべきものである。弁護側の見解によれば、この網の中に捕えられない限り、1937年の盧溝橋事件から1941年12月9日の中国による正式宣戦に至るまでの期間に中国において行なわれた敵対行為、及びタイ、仏印並びに蒙古人民共和国における、検察側の言う侵略も、またわれわれの管轄権外にあるものとなろうというのである。本官はこれらの問題をそれぞれ適切な箇所において考察することとする。

 検察側はその最終論告において、4つの継続した段階に分けてこの共同謀議の解剖を提示した。すなわち

  1、『満州の支配の獲得』

  2、『満州の制覇を中華民国の他の全地域に拡大したこと。』

  3、『国内的に、また枢軸諸国との同盟によって、侵略戦争のための日本国の準備をととのえたこと。』

  4、『さらに数個の侵略戦争を行なうことによって共同謀議をさらに東アジアの他の地域、太平洋及びインド洋に拡大したこと。』

 本官は証拠を検討するにあたって、右に挙げた段階に分ける方法に従うように努めよう。

 本裁判中において、この事柄について提出された証拠を考察するにあたって、われわれは次の事項を銘記しなければならない。

  1、証明されるべき事実は、起訴状中に明言されているような共同謀議の存在である。

  2、(a)検察側はその冒頭陳述において、直接証拠について述べたが、遂に最後に至るまでこの共同謀議に関しての直接証拠を提出したとは主張しなかったこと。実際において記録中にかような直接証拠はまったくないのである。

    (b)検察側はある特定の事件や出来事を証明することに努め、そのことから訴因第1中に挙げられたように共同謀議が存在したこと及びこれらの事件、出来事はすべてこの共同謀議の結果であったということをわれわれが推論することを勧めていること。

  3、すでに提出された証拠の主題である、数箇の事件及び出来事は二通りの意義を有すること。

   (a)それらの事件及び出来事は、もし立証されたならば、それぞれ、それのみで犯罪を構成する。この点においてそれらは本裁判において立証されるべき数箇の主なる事柄であるが、われわれの現在の目的のためには、この部面を看過しても差し支えない。

   (b)それらの事件及び出来事は、それが立証された暁には、究極的命題、すなわち共同謀議の存在を証拠立てるものと意図された、ある証拠事実を明確にする。本官の当面の目的のためには、かような事柄に関連した証拠は、この観点だけから取り上げられなければならない。

  4、従って次のような事項を訊ねることは常に適切な質疑であろう。

   (a)証拠がその事件または出来事を一つの事実上の事柄として立証するかどうか。

   (b)もしそうだとすれば、問題の事件または出来事を、提唱された共同謀議の推論に基づいて、説明し去ることができるかどうか。もしその出来事について何か他に有効かつ充分な説明があるときは、その説明はわれわれの当面する「立証ヲ要スル事柄(「立証ヲ要スル事柄《に小さい丸で傍点あり)《に関する限り証拠事実となり得ないのである。かような説明がその事件に関しての日本の行動を正当化する必要はないということは銘記されなければならない。かような正当化の問題は前記の3(a)項に関してのみ起こるのである。


 (B)第1段階 満州の支配の獲得(←この表題であるが、英文では「PART Ⅳ OVERALL CONSPIRACY First Stage Obtaining Control of Manchuria《となっている。訳すと、「第4部 全面的共同謀議 第1段階 満州の支配の獲得《となるだろう。和文と英文で、かなり異なっている印象がある。「第4部《が「(B)《になっていたり、「全面的共同謀議《がなかったり)


 本官はここで、検察側が『満州の支配の獲得と吊づけ、かつこの共同謀議の第1段階と呼ぶところのものを取り上げてみよう。

 検察側の言うところによると、要求された証拠の集積を完成するのに役立つものであって、かつその目的のために入手することのできた材料又は要素は、すでにわれわれの前に提出されたとのことである。検察側はその最終論告において、これらの材料をとりまとめ、それらを(←正誤表によると「とりまとめ、それらを《は誤りで「とりまとめ、できるだけそれらを《が正しい)それぞれの妥当な場所すなわち相関的位置(relative positions。相対的位置)に配列しようと試みた。そしてその相関的位置とは、検察側が実際にあったと称するこの事件が起こったときにその中においてそれらの材料が占めていたものであると言われ、またはそう推定するのが正当であるとされているものである。かようにしてわれわれは究極の立証目的たる事実と関係があると称せられる特定の位置に配列された事実の骨組みを提示されたのである。これらの材料がその相互の間において、また訴追された全面的共同謀議との間において、実際どの程度まで関連しているかを判断することはわれわれの任務であり、それらの材料が、個々に有する意義及びそれらの総合的な意義を研究することこそわれわれのなすべきことである。

 立証されるべき事実とは、起訴状の訴因第1に挙げられたような規模の厖大な一つの共同謀議である。提出された材料は非常に多くの「陰謀《、「共同謀議《及び奸悪な諸事件に関連しているため、われわれの心にはこれら数箇の陰謀と最後の主たる陰謀との間に相互関係があると考える傾向が先入観となってはいりやすいのである。すでに本官が述べた通り、種々の状況を安易に互いに適合させることによって自己の心を満足させるということはありがちなことではあるが、これはわれわれとして、してはならないことである。無意識の希望に属するものであって、ほとんど衝動の赴くところに従うようなものを、何事にせよ真実として受け入れたがる心理をわれわれは避けなければならない。

 さて、ここで検察側が最終論告で試みた共同謀議の犯行過程の再現を取り上げてみよう。

 検察側は1928年6月3日に起こった張作霖殺害事件から説き起こしている。検察側はこれを『共同謀議の目的を実行しようとする共同謀議の最初の公然たる行為』であると主張し、さらに『陸軍が政府の政策決定に乗り出そうとした最初の公然たる行為である』と断言している。

 この事件に言及して、リットン委員会は次のように報告した。『右殺害の責任は今日まで確定せられず、惨事は神秘の幕に蔽われ居れるも、当時右事件に日本が共謀したるやの嫌疑起こり、既に緊張し居りたる日華関係に一段の緊張を加うる原因となれり』(←このカギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 検察側は、上述の神秘ノ幕を取りはらって、その事件が日本側の所為であったということ、そしてまたそれは訴因第1及び第2の中に訴追されている『共同謀議の目的の実行のために』なされたのであるということを立証するための、本件における追加的証拠を提出するのに成功したと主張している。

 われわれは以下の事項をたしかめるために、この証拠を検討する必要がたしかにある。すなわち

  1、リットン報告のいわゆる神秘ノ幕に蔽ワレていたと称する事柄が今や明らかにされ、かつ日本がこの犯罪に共同謀議を有したことが明白に立証されたかどうか。

  2、右のことはすでに立証されたと仮定して、検察側が主張するように、この事件をなんらかの方法で、さらに大規模な共同謀議と結びつけるべき、どんな証拠があるか。

 第2の事項は、全体を構成する連鎖中の一つの肝要な一環である。けだし検察側はこの事件を理由として、建川を共同謀議者の一人として登場させようと試み、さらに彼と奉天事件との関係を、この事件の有する共同謀議的性格の立証、並びに共同謀議者の一団の所在を明らかにしようとする手段として使っている。

 次に検察側は以下の事実をその連鎖の中に入れている。

  1、1929年7月の田中内閣の瓦解及び濱口内閣の登場と、それに伴う友好政策の復活。

  2、1930年10月の桜会の結成。

  3、従来は、正当な手続によって樹立された日本政府の部外にあった共同謀議者が、政府を乗っ取ろうとした種々な企図。

   (a)その努力の一例は1931年3月事件であり、

   (b)他の一つは濱口首相の暗殺未遂事件であり、

   (c)さらに1931年4月14日の濱口内閣の瓦解及び若槻内閣の登場であること。

  4、1931年9月18日の奉天事件。

   (a)リットン委員会は、この事件の惹起者の問題を未解決のまま残した。

   (b)この疑問を氷解させ、この事件が関東軍の陰謀の結果であったということを立証するために、本件において追加的証拠が提出された。

   (c)この陰謀もまたいわゆる主要共同謀議の一部をなしていたということ。

  5、政府乗っ取りをさらに企てたものが1931年の10月事件であったこと。

  6、1931年12月10日の若槻内閣の瓦解及び犬養内閣の登場。

  7、満州の征朊及び同地における傀儡政権の樹立。

 われわれはこれら数個の事柄を一つ一つ取り上げ、それが提出された証拠によってどの程度まで立証されたか、また訴追されている主要共同謀議にどの程度まで近づくものであるかを検討してみよう。

 本裁判のこの段階における最も重要な証拠は、本件における法廷証第57号となっているリットン委員会報告書である。検察側も弁護側もともにこの報告書に依拠するところが大であったが、また双方とも追加的証拠によってこの報告書を補足しようと試みた。さきに列挙した事項の考察に移る前に、本官はまずリットン委員会報告書に触れたいと思う。この文書はまさに本裁判のこの段階に関する基礎的文書であって、われわれの目的達成のためにはなはだ貴重な文書であることは、たしかに認めなければならない。この段階における共同謀議の分析にあたって、検察側は主としてこの文書に依拠したのである。

 実際に起こった諸事件の真の性格と国際社会における当事国の来れに関する法律的立場とを認識するためには、この報告の細心な検討が肝要である。

 本事件の事実と情況とを子細に検討した後、同委員会は次のような最後的考察をもって、過去を片づけたのである。『前諸章の各読者にとりては、本紛争に包含せらる、諸問題は往々称せらるるがごとく簡単なるものにあらざること明白なるべし、すなわちこれらの諸問題はむしろ極度に複雑なり。一切の事実及びその史的背景に関する徹底せる知識ある者のみ右問題に関する確定意見を表示し得る資格ありというべきなり、本紛争は一国が国際連盟規約の提供せる調停の機会をあらかじめ利用し尽くすことなくして、他の一国に宣戦せる事件にあらず、又一国の国境が隣接国の軍隊により侵略せられたるがごとき簡単なる事件にもあらず、何となれば、満州においては世界の他の部分において、正確なる類例を見ざる幾多の特殊事態存するをもってなり。』(←カギ括弧内、原資料は漢字片仮吊交じり文)

 同委員会はさらに続けて、『本紛争は双方とも連盟国たる二国間においてフランスとドイツとを合したる面積ある地域に関し発生せるものにして、右地域に関しては双方において各諸種の権利及び利益を有することを主張し、しかもこれらの権利及び利益中の若干のみ国際法によりその意義明確に定まり居れり、右地域は法律的には中国の一構成部分なりといえども、本紛争の根底をなす事項に関し、日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり。』と言っている。(←カギ括弧、原資料は漢字片仮吊交じり文)

 弁護側の言うところによると、もしリットン委員会のこの最後的考察なるものは、これを正確に認識すれば、本審理における犯罪の訴追を一掃するのに充分であるというのである。

 日本が実際にとった手段は、確かに国際連盟規約、ケロッグ・ブリアン協定、及びワシントンの九ヶ国条約にある義務の明らかな違反である。日本は弁明の理由として、日本のとった軍事行動はすべて正当な自衛行為であって、この自衛の権利は、前に述べられた多数国間の条約のどれにも黙示されているとことであり、連盟理事会の決議のいずれによっても、この権利は取り去られたことはないと主張したのである。

 同報告書は委員会の任命に至るまでの経過を報告する、8ページからなる緒言及び国際連盟調査委員会の極東における旅程を含む、9ページからなる付属書以外に、第13ページから第139ページに至る127ページからなっており、10章にわけられている。

 同委員会は中国及び日本の政府要人、実業界や財界の指導者、及び各種団体の代表者に質問するため、極東に約6ヶ月間滞在した。情報は中立の専門顧問を通じて受領され、厖大な文書の形の証拠が集められた。報告書の大部分は、満州における政治的及び経済的発展の結果から起こった、過去の事件及び状態の叙述並びに評価に充てられている。報告書は1911年の辛亥革命以後の中国の発展、及び西欧諸国との交通において中国並びに日本がそれぞれ採用した異なった原則、及び政策の概要を述べている。中国の領土に対する国際社会のメンバーたる西洋諸国の行動はつぎの理由によってほとんどやむを得ないものとして正当化されているすなわちこの行動は、特に西洋の標準に従って外国人の生命財産を保護することにつき、中国の主権者がその領土内における完全な領土主権の行使に、怠慢であったことから生ずる必然的な、また無理からぬ結果であるというのである。一経済単位としての満州の次第に増大しつつある重要性は、満州の中国、日本及びロシアとの関係に影響を及ぼしたところの、地理的、政治的、経済的状態に関連して描述されている。右の報告書は1894年―1895年の日清戦争及びその10年後における日露戦争の両戦役――そしてこれらの戦争は大部分満州で戦われた――により、満州統治権の上に相継いで起こった変化を取り扱っている。また種々の交渉や条約の経緯を略述した後、それらを原因として招来された満州諸地域の1931年9月事件以前におけるきわめて複雑な状態を述べている。奉天占領の序幕とも見なされるべき朝鮮人暴動や、中村大尉殺害のような種々の事件に関しても、右の報告はまた注意を払っている。ある1章《第4章》においては、9月18日以降の満州における軍事的事件に、その全章を費やしている。

 右の報告書は1932年9月4日同委員会の委員によって署吊された。

 本官は同委員会によって認知され、かつ記録された数件の関連性ある顕著な事実を次に掲げよう。』(←このカギ括弧は上要だろう)

  1、現在の紛争について初めて国際連盟の注意を喚起する端緒となった1931年9月18日の事件は、中国及び日本間の関係の緊張漸増を示した、あまり重大でない軋轢の長期にわたる連鎖の結果にほかならなかった。』(←このカギ括弧も上要だろう)

  2、中華民国の国家主義的翹望、日本帝国及び旧ロシア帝国の膨張政策、現在におけるソ連邦からの共産主義宣布並びに右三国の経済的及び戦略的必要というようなものは、満州問題のどのような研究にあたっても、根本的に重要視されるべき要因である。』(←このカギ括弧も上要だろう)

  3、中国における支配的要因は、徐々に行なわれつつある国家自体の現代化である。』(←このカギ括弧も上要だろう)

  4、現時の中国はその国家生活のあらゆる方面において、過度的(←正誤表によると「過度的《は誤りで「過渡的《が正しい)証跡を示しながら進化しつつある国家である。政治的擾乱、内乱、社会的及び経済的上安定並びにその結果である中央政府の萎微は、1911年の革命以来中国の特徴をなすものであった。

   (a)これらの状態は中国と接触関係をもつに至った一切の国家に上利な影響を及ぼしてくるものであって、それが匡救されるにいたるまでは、常に世界平和に対する脅威であろうし、また世界の経済的上況を助成する一原因をなすであろう。

  5、(a)第19世紀の初頭、近代的交通通信の改良が距離を狭め、極東を他の諸国から容易に到達し得るようにした。

    (b)しかし実際において、中国にはこの新たな接触が生じたとき、これに応じようとする用意がなかった。

    (c)(1)1842年の戦争に終止符を打った南京条約の結果として、数港は外国人の貿易及び居住のために開かれた。

      (2)外国の影響は、これを同化するについて、何の準備もしていない政府を有する国に導き入れられた。

      (3)外国商人らは同国が外国人の行政的、法律的、司法的、知識的及び衛生的必要に対する設備をなし得る以前に、その諸港に居住し始めた。

      (4)従って外国人は自己の慣れた状態及び社会標準を持ちこんだ。諸条約港には外国都市が勃興した。外国式な組織、行政及び商業の方法が否応なしに行なわれた・・・・その時から永い期間にわたって軋轢と誤解とが続いた。

      (5)度重なる武力衝突において、外国武器の大なる性能が発揮された。

  6、外国人を受け容れることに対する中国の嫌悪及び中国在住外国人に対する中国の態度は、当然重大な結果を生むべきものであった。右はその為政者の注意を外国の勢力に対する反抗及びその制限に集中させ、中国が外人居留地における一層現代的な諸状態の経験から、利益を受けることを妨げた。その結果として、中国が新しい諸状態に善処することができるようにするために必要な建設的改革は、ほとんどまったく顧みられなかった。

  7、(a)各自の権利及び国際関係に関する相容れない2個の見解の避けることのできない衝突は戦争及び紛争を招来して、その結果主権の漸次の割譲及び一時的または永久的の領土喪失となった。

      (1)外国の裁判所、行政、警察及び軍事施設は、中国の領土においてその設置を許容された。

      (2)自国の輸出入関税率を自由に規定する権利は一時喪失された。

      (3)中国領土が諸外国の勢力範囲として分割されたことによって、同国の国家としての存在さえ脅かされるまでになった。

  8、1894ないし95年の日清戦争における清国の敗戦、及び1900年の義和団蜂起の惨憺たる結果に鑑みて、国政改革運動が始まった。

  9、(a)満州朝は中国を250年間統治したが、1908年太后崩御後、その固有の弱点から遂に倒潰した。

    (b)1912年2月12日当時の太后は幼帝の吊において退位の勅書に署吊し、次いで袁世凱を大総統とする臨時立憲政府が創始された。

    (c)(1)皇帝の退位とともに、各省、道及び県におけるその代表者は、皇帝の権威に基づいて得た勢力及び威信を失った。

      (2)各省において次第に文官都督が武官たる都督によって代わられるようになったのは、当然の結果である。

      (3)中央行政官の地位もまた同様に、最も強大な軍隊を有したか、または省もしくは地方の群雄の最も強大な集団によって支持された軍閥将領によってのみ、保持せられるに至った。

      (4)武人独裁の傾向は南方よりも北方において一層顕著であった。南方諸省においては、孫逸仙博士その他の指導者は、立憲主義の思想に忠実であった。

  10、(a)1913年袁世凱のもとに、最初の国会が北京において招集された。

     (b)彼は国会の同意なしに巨額の外国借款を締結した。このため孫博士指導下の国民党に属する彼の政治的反対者は、公然彼に反抗するに至った。

     (c)右の期間において、中国は各軍閥団の戦争によって荒廃するに至った。そして当時存在する匪賊は転じて真正の軍隊と化するに至った。

     (d)1923年孫逸仙博士は『三民主主義』、すなわち民族主義、民主主義及び民生主義をもって国民党を改組した。(←「三民主主義《とあるのは、「三民主義《が正しいだろう。英文では「Three Principles of the People--National Independence,Democratic Government and Social Reorganization《となっている。訳すと、「『三民主義』――国家の独立、民主的な政府及び社会の再編成《となろう)

     (e)(1)1927年中央政府が南京に樹立された。

       (2)表面上統一は暫時保持された。しかし有力な軍閥将領が相互に連合して、南京に向かって進軍した際には、統一の概観さえも保持することができなかった。これらの軍閥将領は一度もその目的を達しなかったが、彼らは戦に敗れた後においても、依然として軽視できない潜勢力であった。

  11、中国の破壊的諸勢力は今なお優勢である。

  12、(a)ワシントン会議の当時、中国は北京及び広東において、二個の完全に分離した政府を有し、多数の匪賊によって撹乱を受けた。・・・・中国全土をその渦中に投ずるような内乱の準備が行なわれつつあった。

     (b)ワシントン会議がなお開会中であった1922年1月13日、中央政府あてに発送された最後通牒に引き続いて開始された内乱の結果として、中央政府は同年5月に顚覆(転覆)した。その中央政府に代わって北京に樹立された政府から満州は分離し、張作霖元帥は7月満州の独立を宣言した。当時独立を自称する政府が少なくとも三つ存在していた。

     (c)中央政府が全国にわたってその威令を迅速かつ恒久的に行なうための物的手段に欠けている限り、内乱の危険が存在し、将来も引き続いて存在するのは当然である

  13、(a)国民党の勢力は、あらゆる外部的勢力に対する嫌悪(bitterness against all foreign influence)という追加的な、異常な色採(←正誤表によると、「色採《は誤りで「色彩《が正しい)を、中国の国民主義思想(the nationalism of China)に注入するに至った。かつその思想の目的はさらに拡大され、『帝国主義的圧迫』を依然として受けつつある全アジア民族の解放という目的を包含するに至った。

     (b)さらに現在の中国の国民主義思想には、かつて偉大な国であったという記憶が引き続きにじみ込んでいて、再び大国として復興しようという希望が存する。

  14、(a)中国人の抱懐する要望に対して、列強は概して同情ある態度をとってきた。1921年から1922年までのワシントン会議において、中国の熱望は原則として受容し得るものとして認められた。ただしその要望を満足させるべき最良の時期と方法とに関しては、意見の相違があった。

     (b)前述の権利を即時放棄することは、財政上その他の内面的な困難のために、中国が現在実現し得ないような程度の行政、警察並びに司法制度を設ける責任を中国に負担させることになるであろうと思われた。

  15、(a)ワシントン条約は、中国の困難を解決するため、中国をして国際協調の線に沿って発足させるという意図のもとにできたのである。中国はその行なっていた排外宣伝(the anti-foreign propaganda)の惨毒に禍いされて、その希望し、かつ、期待された進歩を遂げることはできなかった。

     (b)次の二つの点で、この排外宣伝は極端に実施され、その結果現在の紛争が生まれるような雰囲気をつくり出す原因となった。すなわち

      (1)経済的ボイコットの利用

      (2)諸学校に対する排外宣伝の注入

     (c)効果的国内改革または国内的標準の改善を伴わなかったため、この中国の態度は列強を驚愕させ、今日列強の唯一の自己保護手段であるこれらの権利を放棄することをますます躊躇させるようになった。

  16、法律及び秩序の維持の問題に関連して、現在の中国の交通機関が上充分であることは重大な妨害となっている。交通機関が国民軍の迅速な輸速(正誤表によると「輸速《は誤りで「輸送《が正しい)を確保しない限り、法律及び秩序の維持は、全部とは言わないまでも、大部分、地方官憲に任されなければならない。その地方官憲は中国政府から遠隔であるため、地方的な問題の処理にあたっては、自己の裁量によることを許されなければならない。このような事情のもとでは、独立した意志及び行為は容易に法律の範疇を越えて、その結果各地方が漸次一つの私有の領地であるかのような観を呈するに至る。

  17、(a)匪賊は中国では常に存在していて行政府は今までこれを完全に掃滅することができないでいる。・・・・さらに近時においては、匪賊は、また給料未支払の兵士の間からも出てきた。

     (b)匪賊鎮圧は長期にわたって閑却されてきた。はなはだしいのは兵士が匪賊と内応することもある。

  18、(a)中国における共産主義運動は1921年以来相当な勢力を得た。共産主義に対して寛大であった容共時代が過ぎて、1927年に国民党と共産主義とは完全に分裂するに到った。

     (b)内乱の再発は、1928年ないし1931年の間に共産党の勢力伸長に幸いした。赤軍が組織され、江西及び福建両省の広大な地域がソビエット化された。

     (c)中国における共産主義は、大多数の国々においてそうであるように、既存政党のある党員が懐いている一つの政治上の信条を意味するか、あるいは他の政治的党派と権力を争うある特別な党組織を意味するだけではない云々・・・・。中国における共産主義は、国民政府の事実上の競争相手となった。それはみずからの法律、軍隊及び政府をもち、かつそれみずからの行動地域をもっている。かような事態は他のどのような国にもその類例を見ない。

     (d)福建及び江西両省の大部分並びに広東省の若干の部分は、信頼できる情報によれば、完全にソビエット化されているとのことである。その地帯は揚子江以南の中国の広大な部分を包含し、同江以北の湖北、安徽並びに江蘇各省の一部を占めている。上海は共産主義宣伝の中心地であった。共産主義に対する個人的同情者は、中国のどの都市にもこれを見出すことができるであろう。

     (e)共産軍との武力闘争は今日でもなお続けられている。

  19、日本が中国の最も近い隣国であって、かつ最大の取引先である以上は、日本は交通機関の上備に基づく無秩序な状態、内乱の危険、匪賊及び共産主義の脅威などのために他のいずれの強国よりも一層ひどく悩まされたのである。

     日本は他のいずれの強国よりも多くの国民を中国にもっている現状において、中国の法律、司法制度並びに税制に朊従させられたならば、それらの国民は、はなはだしく苦しむこととなる。

  20、(a)日本は、日本の条約上の権利に代わるべき満足な保護手段を期待することができない限り、中国の要望を満足させることは上可能であると感じた。

     (b)(1)中国にある日本国民の生命及び財産を保護しようとする熱望は、日本をして内乱又は地方的擾乱の際、しばしばこれに干渉させる結果となった。

        (2)右のような行動は中国を極度に憤激させた。

  21、然るにこの問題は、たとい他の列強より日本に影響するところがさらに大であったとはいえ、単に中日両国間だけの問題ではない。中国はある例外的権力及び特権は、その国家の威厳と主権を侵害するものであると感ずるがゆえに、即時これの放棄を要求する。他の列強は中国の状態が自国民の充分な保護を保証しない間は、この希望に応ずることを躊躇した。それら外国人の利益は特別の条約上の権利を享有することによって与えられる保障に依存しているのである。

  22、(a)広大かつ肥沃な地方である満州は、僅々40年前にはほとんど開発されず、また現在においてさえ人口希薄である。

     (b)(1)満州は中国並びに日本の過剰人口問題解決に漸次重大な役割を演ずるに至った。

       (2)日本の過剰人口問題はきわめて容易ならぬものである。『可耕地一平方マイルあたりの日本の人口を他の諸国の人口に比較すると日本の割合は異常に高い。これは島帝国という特殊の地理的構成に帰因する。

         『農作地に人口が高度に集中しているため、各人の保有地面積はすこぶる狭小であって、農夫の35パーセントは1エーカー未満、34パーセントは2エーカー半未満を耕作している。耕地の拡張はその限度に達し、また農法の集約(cultivation intensity。耕作上の努力)もその限度に対している。これを約言すると、日本の土地からは現在より以上の生産を期待することはできない。また就職の機会を今日以上に多く供給することもできない。』

      (c)日本の活動がなければ、満州は多くの人口を誘致し、またこれを吸収することはできなかったであろう。

      (d)最初、満州における衝突は日露間に起こった。その後これは中国とその強力な両隣接国との間の問題となった。

      (e)(1)最初、満州が各種政策の大衝突地域となったのは、に一つの地域としてであって、その戦略的地位がその唯一の理由であった。

         (2)その後、満州の農業、鉱業、及び林産資源が発見されると、満州は満州自体のために垂涎されるに至った。

  23、(a)(1)条約上の特別の権利が、まず露国によって中国の犠牲において獲得された。

       (2)1894年ないし95年の日清戦争は、その後の事件が立証したように、露国に対して、表面上は中国のためではあるが、実際には露国自身の利益のために、干渉する機会を与えた。

       (3)中国は、1895年、下関条約によって、南満州の遼東半島を日本に割譲した。日本は外交上の圧迫によって、やむを得ずこの半島を支那に還付するに至った。1898年、露国は、日本が1895年に放棄を余儀なくされたこの半島の南部に対する25ヶ年の租借権を獲得した。

       (4)1896年、露国は鉄道敷設並びにこれの経営権を獲得した。

       (5)1900年、露国は、義和団事件が露国国民を危機に陥れたという理由で、満州を占領した。

       (6)他の列強はこれに反対して、露国軍隊の撤退を要求した・・・・然るに露国はこれを遷延した。

       (7)露国は、1901年、露華秘密条約を締結しようと努力していた。その条項によれば、中国は、露国の承認がなければ、満州、蒙古、新疆内の鉱山またはその他の利権を他国またはその国民に譲渡せず、かつ特別守備隊の維持を含む多くの特別な権限を露国に与えることになっていた。

     (b)(1)日本は右のような策動を特に注視した。

       (2)1902年1月30日、日本は日英同盟条約を締結した。

       (3)1903年7月、日本は中国の門戸開放政策の維持並びに領土保全を主張して露国と交渉を開始した。

       (4)日本はその交渉でなんら成功を収めなかったので1904年2月10日戦争の訴えた。中国は中立を守った。

       (5)露国は敗北した。1905年9月5日、ポーツマス条約が締結され、それによって露国は日本のために南満州における露国の特殊権利を放棄した。

       (6)1905年12月の北京条約によって、中国は関東州租借地並びに露国管理の東華鉄道(←正誤表によると「東華鉄道《は誤りで「東支鉄道《が正しい)南部線中、長春以南の鉄道を日本に譲渡することに対して承認を与えた。

       (7)追加協定中において中国は日本に対して、安東奉天間の軍用鉄道線路改良の許可を与えた。

       (8)1906年、日本によって南満州鉄道会社が設立された。

       (9)日本は前述のようにして獲得した特権を南満州の経済開発に利用した。

       (10)中国は最初開発方面においてほとんど活動しなかった。

       (11)満州における中国の主権を確認したポーツマス条約後においてさえ、日本及び露国の満州開発に対する経済活動は(中国の活動に比して)一層顕著なものがあった。

     (c)1901年、日本は朝鮮を併合した。この併合は満州における日本の権利を間接的に増大させた。

     (d)(1)1915年、日本のいわゆる『21ヶ条要求』の結果、日本及び中国は、5月25日、南満州及び東部内蒙古に関する条約を締結し、かつ公文を交換した。

       (2)この条約によって、旅順及びダルニー《現在の大連》を含む関東州の租借地並びに南満州及び安東奉天線に関する特権がいずれも25ヶ年から99ヶ年に延長された。さらに、在南満州の日本人は、旅行、居住、各種の営業に従事し、並びに商業、工業及び農業に必要な土地を商租する権利を獲得した。日本はまた鉄道に関する優先権を獲得した。そればかりでなく、日本はさらに、ある種の権利を獲得したが、これらは1921年から1922年までのワシントン会議で日本の放棄するところとなった。

     (e)(1)日露戦争終了の直後、これに踵を接して(両国間に)密接な協調政策が行なわれた。

       (2)露国及び日本は、それぞれ北満及び南満州にその勢力圏を限定した。

       (3)1917年の露国革命は、満州における日露両国間の理解及び協調の基礎を粉砕した。

       (4)1917年の露国革命は、北満州におけるその主権を主張する好機会を中国に与えた。中国は満州の政治及び開発に対して、従来より以上の実際的参加をするようになった。

       (5)1919年及び1920年、ソヴィエット政府が行なった中国に関する政策の宣言は、帝政露国が中国において、特に北満州において獲得した特権の完全な放棄を黙示した。

       (6)この結果は、1924年5月31日のソヴィエット連邦中国間の協定となった。

       (7)中国は、1924年のこの協定後においては、ソ連邦が依然として有していたわずかの利益さえも容赦せず、1929年には満州にあるソ連の勢力をことごとく清算しようとする最後の努力をした。

       (8)この結果、ソ連軍隊は、満州国境を越えてしばしば襲撃を行ない、遂に1929年11月の武力侵入にまで発展した。

  24、(a)上述の第9項において述べたように、満州王朝の崩壊をもたらした1911年の中国革命は、当時の満州官憲にとっては喜ばしいものではなかった。これらの満州官憲は、張作霖に対して革命軍の前進阻止を命じ、それによって満州を内乱の騒擾から救うことに成功した。

     (b)革命の結果、民国が建設されると、満州はこの「既成事実(「既成事実《に小さい丸で傍点あり)《を受諾して、進んで民国初代大統領袁世凱の統率に従った。

     (c)(1)1916年張作霖は奉天省督軍に任命され、同時に省長の職を兼ねた。

       (2)1922年7月、張作霖は中央政府に対する忠誠を廃棄して、満州において完全な行動の独立を維持し、遂にその権力を長城以南に及ぼし、そして北京の支配者となった。

       (3)彼は外国の権利を尊重する意のあることを表明し、中国の義務を承認したが、外国に対して満州に関する一切の事項については、自己の政府と直接交渉することを要求した。

       (4)よって彼は1924年5月31日の中ソ協定を廃棄し、ソ連邦を説得して1924年9月同国との間に別の協定を締結した。これがかのソ連邦と締結した奉天協定である。

       (5)この事実は張作霖が内外両政策に関して、完全な行動の独立の承認を固執したことを証明した。

  25、(a)(1)張作霖は中国の内乱に巻き込まれた。

       (2)日本は自己の利益のために、彼に対して、中国における党派的闘争に関係せず、もっぱら力を満州の開発に用いることを忠告した。

       (3)元帥はこの忠告に対して憤怨を感じ、これを無視した。

     (b)かつて彼は華北諸省に進むことに成功した。最後に彼は破れ、日本は南満州における自己の利益のために、彼に対して事態の収拾が上可能とならないうちに、その軍隊を早く南満州に引き揚げるように勧告した。日本の目的は戦勝軍に追撃された敗残兵の進入によって、満州が内乱の災禍に投ぜられることを防止しようとするにあった。

      (1)元帥は右の勧告に対して憤慨したが、結局これに従うほかはなかった。

      (2)彼は1928年6月3日北平から奉天に向かって出発したところ、翌日奉天市外において、爆発によって彼の乗った列車が破壊され本人は死亡した。

      (3)この殺害の責任は今日まで確定されず、惨事は神秘の幕に蔽われているが、当時この事件に日本が共謀したかという嫌疑は中日関係に一段の緊張を加える原因となった。

      (4)この嫌疑の生じた理由に一つは、張作霖がその晩年において、各種の条約及び取極めによって取得した特権から、日本が利益を得ることに対して、次第にこれを容認しない意嚮(意向)を示すに至ったことである。

  26、(a)張作霖の死後、その子張学良は満州の支配者となった。

     (b)(1)1928年12月、彼は青天白日旗を受け容れて、いわゆる易幟を行ない、中央政府に対する忠順を宣言した。

       (2)彼は東北辺防軍総司令に任ぜられるとともに、熱河を加えた満州の政権の長官であることを確認された。

       (3)軍事、政務、財政、外交等すべての問題について、中央政府との関係は単なる自発的協力に依存した。無条件朊従を要求するような命令または訓令は、容認されなかったであろう。

  27、排日運動は日々激化した。1931年4月、奉天において人民外交協会主催の下に5日間の会議が開かれ、満州における日本の地位一掃の可能性について討議された。中国人家主及び地主に対して圧力を加え、それによって日本人及び朝鮮人である賃借人への賃貸料の引き上げ、または賃借契約の更新拒絶を行なわせた。満州重要物産の管理権を取得することによって、当局は外国人なかんずく日本人に対して高価買い入れを余儀なくさせようと試みた。

  28、以上の分析は満州において中日両国の基本的利害が相当程度に対立していることを示すものである。

  29、(a)満州における日本の利益はその性質及び程度において、ともに他の諸外国の利益と異なるものがある。

     (b)(1)1904年ないし1905年満州の野において戦われたロシアに対する日本の大戦争の記憶は、すべての日本人の胸裡に深く刻み込まれている。

       (2)この戦争はロシアの侵害の脅威に対して、自衛のために生死を賭して戦ったものである。

       (3)満州における日本の利益はその源を右の戦争より10年前に発している。

       (4)1894年から1895年にわたる清国との戦争は、下関において署吊された講和条約をもって終わりを告げ、その条約は遼東半島の主権を完全に日本に割譲した。

       (5)日本人にとっては、ロシア、フランス及びドイツが右の割譲地の放棄を強制した事実は、日本が戦勝の結果として満州の右の部分を獲得し、これによって日本は同地方に対する一個の道義的権利を得、その権利は今なお存続するものであるというその確信に、なんらの影響を及ぼすものではない。

       (6)満州はしばしば日本の「生命線《であると称せられている。

         満州における日本の利益の中で根本的なものは、日本の自衛と国家的生存にとって、同地方の有する戦略的重要性である。

       (7)日本人の中には、日本はソビエット連邦からの攻撃の可能性に対して備えるため、満州に堅固な防御線を築く必要があると考えている者がある。

       (8)殊に日本の陸軍軍人の頭では、ロシア及び中国との協定によって、南満州鉄道沿線に数千の守備兵を駐屯させるというこの主張された権利は、日露戦争における日本の莫大な犠牲に対する軽少な代償であって、同方面からの攻撃の可能性に対する安全保障としては貧弱に過ぎると考えられている。

       (9)愛国心と国防の絶対的必要及び特殊な条約上の権利等のすべてが合体して満州における『特殊地位』の主張を形成している。

       (10)日露戦役の遺産である感情及び史的連想、並びに最近四半世紀間における在満州の日本側企業の成果に対する矜持は『特殊地位』に対する日本人の要求の捕捉しがたいが現実である一部分をなすものである。

       (11)ワシントン会議における1922年2月6日の九ヶ国条約の署吊国は、中国の各地方における署吊国の「特殊地位《または「特別の権利及び利益《の要求に対して、広い範囲で挑戦した。

       (12)石井子爵はその回想録で次のように述べ、日本の主張をよく表明した。

         『ランシング石井協定ガ廃止セラレテモ日本ノ特殊利益ハ厳トシテソコニ存在スル。日本ガ中国ニ有スル特殊利益ハ国際協定ニヨッテ創設セラレタモノデモナケレバ、マタ廃止ノ目的トナリ得ベキモノデモナイ。』

  30、日本の(歴代内閣の)対満州一般政策は

    (a)常に同一の一般目的をもっていた。すなわち、日本の既得権利の維持、発展並びに日本人の生存及び財産の充分な保護。

    (b)しかしながらこれらの目的を実現するための政策は異なっていた。すなわち、

     (1)幣原男(←「男《は「男爵《の略である)友好政策は好意と善隣の誼みとを基礎とし、

     (2)田中男の積極政策は武力を基礎とした。

    (c)この両政策の相違は主として満州での治安維持のために日本がとるべき行動の程度の如何にあった。

     (1)「友好政策《は満州での日本の利益の擁護に限定され、

     (2)「積極政策《は満州を中国の他の部分から区別することの必要を強調した。すなわち『もし動乱が満州及び蒙古に波及してその結果、治安が紊れ、同地方での日本の特殊地位並びに利益が脅威を受ける場合、日本はその脅威がどのような方面から来るにしても、これらを擁護する。日本は満州での「治安《維持の任務をみずからとる。』と。

    (d)上述の目的を実現するためにとられた諸政策には、一つの主要な共通の特徴があった。すなわち、満州及び東部内蒙古を中国の他の部と別個のものと認めることである。

    (e)満州での日本の政策は各省の事実上の支配者と同国との関係に主眼を置いていた。

    (f)1928年の春、中国国民軍が張作霖軍を駆逐するために北京に進軍中であったとき、田中男爵を首相とする日本政府は、満州の「特殊地位《に顧みて、日本は同地方における治安を維持しようとする旨の宣言を発した。

  32、(a)上述のほかに、満州での日華鉄道問題があった。(注。第31項英文ニモ無シ)

     (b)(1)これらの鉄道問題の大部分は主義政策の問題を含まない明確で技術的なものであり、明らかに仲裁あるいは、司法手続による解決に適するものであった。

       (2)中には国家政策の根本的上一致からくる中国日本間の激甚な競争によるものもあった。

 委員会はまた満州での朝鮮人問題、万宝山事件及び1931年の真夏に起こった中国兵による中村大尉殺害事件に触れている。

 同委員会によれば、中村事件は他のどのような事件よりも一層日本側の憤懣を悪化させたものであるというのである。

 次いで委員会は1931年9月18日の事件(満州事変)を取り上げて、『同夜ニオケル日本軍ノ軍事行動ハ合法ナル自衛ノ措置ト認ムルコトヲ得ズ。』しかしながな(←正誤表によると「しかしながな《は誤りで「しかしながら《が正しい)『現地ニアリタル将校等ガ彼等自身ハ自衛ノタメ行動シツツアルモノト思惟シタルナルベシトノ想定ハ全然アリ得ザルコトナリトハ言イ得ズ。』との意見を述べて、いる。

 日本軍は中国軍との間に敵対行為を起こり得るかもしれないことを予想して、慎重に準備された計画をもっていたのである。9月18日より19日にわたる夜間にこの計画は迅速かつ正確に実施された。

 日本と中国との関係を詳細に吟味報告しようとすれば、ボイコット問題の検討を除外することはできない。リットン報告は中国におけるボイコットの起源を、1893年の港中会(←正誤表によると「港中会《は誤りで「興中会《が正しい)にまで遡って追究した。1925年以降、ボイコットの実行は国民党によって鼓吹されただけでなく、組織され、統合され、かつ監督され、またこれに伴って敵国に対する民心を刺激するために、巧妙に選ばれた標語を用いた、猛烈な宣伝を行なった。この委員会が面接した日本人商人たちは、中国で行なわれているようなボイコットは侵略行為であると強く主張した。委員会はこの見解を認めはしなかったが、一般的に言えば、ボイコットは、合法的手段によって行なわれたという中国側参与員の主張を支持することを拒否した。委員会の見解によれば、確かにボイコットは、より強力な国の侵略に対抗する合法的な防衛武器であり得る。将来国際法学者がボイコットに対して、現在よりも遥かに巧妙な態度をとらずにはいられなくなるかどうか、われわれにはわからない。委員会はある特定の一国に対するボイコットの組織的実行が友好関係と両立するか、または条約上の義務と合致するか否かは、国際法の問題であると見なし、各国の利益のためにこの問題は近い将来に考慮され、国際協定によって規律されるべきであるという希望を表明した。

 本官は、かような運動によって生ずる法律的事態に関する余の見解をさきに示した。

 日本の人口過剰問題に関する委員会の見解は、上述の分析の第22項で述べた。ここにおいて、日本の人口過剰問題が他の諸国においていかに大きな関心をもって見られていたかということに触れることも、いささか重要であろうと思う。

 マイアミ大学のW・トムソン教授は、世界の人口の危険地点を指摘するにあたって、次のように述べた。

 『西太平洋地域での最も緊急な問題は、日本の人口問題である。他の大部分の諸国に比較しても、現在日本は明らかに人口加剰(←正誤表によると「加剰《は誤りで「過剰《が正しい)である。日本は農業の拡張のために、より一層領土を必要とし、その工業を発展させるために、さらに大きな鉱業資源を必要とする。現在における日本の中国に対する政策は、この真に緊急な経済的必要によって決せられている。・・・・日本の中国に対する政策は、満州を開発するためには何が最善の手段であるかの判断によって現在決せられており、将来もそうであろう。・・・・これが現在の国際関係における通例のやり方であるから、決して日本の信用をおとすものではない。』

 第23項の(c)で述べた1910年における日本の朝鮮併合に関しては、1902年及び1905年の日英条約に言及するのが適切であろう。1902年の条約によれば、締約国は相互に中国及び朝鮮の独立を認めるとともに、この二国における日英両国の特殊権益に鑑みて、両国のいずれも、他国の侵略行為から、あるいは生命財産保護のために干渉が必要となるような国内騒擾から、自国の権益を保護するために必要やむを得ない手段を行使することを許されるべきであると宣言した。さらに英国もしくは日本が、上述のような両国それぞれの権益を保護するために、他国と戦争にはいった場合には、他の締約国は厳正中立を維持し、またその同盟国に対する敵対行為に他の諸国が参加しないように、最善の努力を尽くすことに同意したのである。しかしながら、もしもその紛争に他の一国もしくは数国が加わった場合には、締約国の一方は、その同盟国を援助し、共同して戦争を遂行し、かつ相互の同意の上で和を結ぶことに同意したのである。これらの規定は、1902年の協定に代わって結ばれた1905年の新条約の条項によって、大いに拡張された。1905年8月8日、ポーツマスにおいて講和交渉が進行中に、第二次同盟条約が締結されたのである。この条約の条項によって次のことが同意された。

  1、東亜(←正誤表によると「東亜《は誤りで「極東《が正しい。英文では「the Far East《になっている。条約の原文は「東亜《である及び印度の地域における全局の平和を確保すること。

  2、中国の独立及び領土保全を維持し、『門戸開放』の原則を尊重する。

  3、東亜(←正誤表によると「東亜《は誤りで「極東《が正しい)及び印度における両締約国の椊民地に関する権利及び特殊権益を相互に尊重する。

 この新しい条約は誠意ある攻守同盟を規定したのである。英国は日本の朝鮮における特殊の利益範囲を認め、日本の朝鮮に対する助言、監督及び保護の自由を認めた。日本及び英国がこの拡張された条約によって得ることを希望した主な点は、朝鮮及び印度を第三国の攻撃から防衛するにあたっての相互の援助である。日本は自由に挑戦を併合し得る立場を与えられたのである。

 この条約は1911年の条約によって修正され、そして継続された。

 この点に関しては、次の言明を含む1917年のランシング石井交換公文に留意するのが適切である。『合衆国及び日本政府は、領土の隣接は国家間に特殊関係を生ぜしめることを認め、従って合衆国政府は、中国、特に日本領土と接壌している地域において、日本が特殊権益をもつことを認める。』

 1922年2月6日のワシントン会議における九ヶ国条約締約国は、かような特殊権益の主張に対して相当程度の異議を唱え、門戸開放政策に賛意を表した。この門戸開放主義は1899年のものであり、かつ英米両国の政策であった。これらに対する説明は、英国は中国において最も強い地位を占めており、国際的特権制度の下に中国を開発することを欲していたというのであると信じられている。

 上述の分析の第23項の(d)において、1915年の日華条約について、述べた。中国は、この条約は強制の上で結ばれたものであるとなし、これを否認しようと試みたことに注意すべきである。

 同意の自由は、国家間の契約の有効性についても、個人間の場合と同じく、原則として必要であるとされているが、この自由は、個人間の場合には、これと両立できないと考えられるような状態の下においても、国家間は存在しているものと認められることがある。国際法においては、武力や脅迫が上当行為を 正する(←この部分、一文字脱落しており、正誤表には「を正する《は誤りで「を匡正する《が正しいとある)手段として許されている限り、その武力や脅迫が、それらを使用した結果生じた協定を無効にするものと解釈することはできなかった。

 パリー条約以後の地位如何に拘わらず、1915年には、戦争は国家主張の実現の合法的手段であったことには疑いの余地がない。従って当時の国家間の契約は、それが武力をもって結ばれたものであったにしても、それは自由に同意が与えられたものと見なすべきである。この原則は、威嚇している国家の要求が、過去に行なわれたと称せられる上当行為に対する補償(compensation)の要求、あるいは将来行なわれる可能性のある上当行為に対する保障(security。この部分、「補償《とある次に「保障《とあるので、どちらかが誤椊かと思うが、正しい翻訳である)の要求に限定されるべきものであり、それが疑いもなく一国が他の国にある種の権益の譲与を求める場合には、適用されるべきものでないと主張されるかもしれない。国際法は、自己が危険に瀕していると主張する一国が、どの程度の保護を受けるべきかということを計量することができないので、その約定を締結することを余儀なくされた国家の独立を破壊しない限り、武力あるいは脅迫が用いられた場合でも、すべての約定を有効と認めている。もしもパリー条約が一切の武力行使を上法なものとしたとするならば、これに関する現在の事態はまったく異なってくるのである。

 1929年11月におけるソビエット連邦の中国への武力侵入に関する委員会の報告は、第23項(e)(8)で要約した。この問題に関しては、パリー条約の締約国である第三国からの種々の覚書に答えて、ソビエット政府は、この紛争の全期間を通じて、それは合法的な自己防衛の手段であり、協定違反とはまったく解し得ないものであるとの態度を堅持した。このことに留意するのは適切である。

 同委員会は1895年の日新条約による三国干渉に関する意見を述べた。本官は第23項の(a)においてこれに触れた。これに関しては、三国干渉の合法性に関する各国の見解を述べることも興味あることであろう。

 法的見地からすれば、このように干渉する国家は、その法的権能を越えているものと見なされたのである。これらの国家の弁明または弁解は、単に道徳的なものとならないわけにはいかない。特にこの干渉に関して、ホールは次のように述べた。

 『かような干渉の事例は、その干渉国の公平を示すものとは見なし得ない。1895年4月、清国と日本の間に結ばれた下関条約の最初の条件には、旅順を含む遼東半島の日本への割譲を規定してあった。ここにおいてロシヤ、ドイツ及びフランスは婉曲に『友好的申入れ』と称してこれに介入し、事実において戦争をもってする脅迫の下に、日本に対して、日本が清国本土において獲得した領土の保持を許さないと告げたのである。この干渉に与えられた理由は、朝鮮独立の危険と、日本がかくして渤海湾に足場を獲得した場合における清朝の面目の失墜である。英国もこの忠言に参加するように招じられたけれども、これを拒否した。しかしローズベリー卿は日本に対して、日本に向けられているこの圧倒的勢力に屈するよう忠言し、同国はしぶしぶながらこれを受け入れたのである。フランス及びドイツの動機に関しては、詮索の要はない。しかしながら1898年にロシアが清国から旅順の25ヶ年租借権を獲得し、これに基づいてただちに強力に要塞化した軍港に改築し、また日本軍によって武力をもって駆逐されるまで遼東半島を占領していた事実は、ロシアの行動に対して意味ある光を投げ与えるものである。1905年9月に締約されたポーツマス条約《ニューハンプシャー州》は、日本に、10年前に奪われた領土を、明文上にはないけれども、事実上返還したのである。』

 1898年3月6日北京において署吊された条約によって、ドイツは清国から山東半島の99ヶ年租借権を獲得した。

 1898年7月1日の条約に基づいて、英国は威海衛の99ヶ年租借権を受けた。

 委員会は満州における日本の『特殊地位(special position)』について論及している。前述の検討の第19、第20、第21、第22、第23(a)及び(b)、第27並びに第29は満州における日本の特殊地位の性格を表示するものであろう。

 検察側は、日本が満州及び中国においてもっていたあらゆる権益は、往時の侵略によって獲得したものと性格づけることを選び、その後の日本の行為をそれと常に関連づけて列挙して、それによって日本が中国並びに他の諸国に対して負っている義務を示している。かような性格を付することを我々に容認させるような証拠は全く提出されていない。しかしまた日本が往時の侵略によってこれらを獲得したものと仮定しても、この事実によって現在の国際制度上の日本の法的立場はいささかも影響を蒙らないのである。本裁判の訴追国である西方列強が、中国を含む東半球において主張する権益(the interests)は、かような侵略的手段によって獲得されたものであり、彼らがパリー条約の署吊時において、東半球における各々の権益に関して留保条件を付した際には、これらの列強は、かような権益に対しても自衛及び自己保存の権利(their right of self-defense and self-protection)が及ぶものと考えていたことは確実である。

 これに関して、少なくとも英国は日本との同盟条約においてこの『特殊地位』を認めたことを付言しておきたい。もしも満州における権益の性格についての日本の主張が正しいものならば――すなわちその主張する特殊地位もしくは特殊権益が、日本の自存(self-preservation)のために必要なものならば、この1922年のワシントン条約は、日本からかような権益を奪うことはできないということに注意すべきである。

 自存は単に国家の権利であるだけでなく、同時にその最高の義務であり、他のあらゆる義務はこの自存の権利及び義務に隷属するのである。国際関係においては、すべての国家はこの権利を支配的条件と見なし、その他のあらゆる権利及び義務はこの条件のもとに存すると見ている。この権利の発動は、それ以外の原則に従って行動すべき義務を停止する。自存の観念は、場合によっては重大な加害に対応するための自己保全(self-protection)までをも含むことがあり得る。

 ホールによれば、『もしB国政府が防止できない、また自分では防止できないと称する同国内の出来事もしくは同国内で準備された侵略のいずれかによってA国の安全が深刻かつ緊急な脅威を受ける場合、あるいは防止措置をとらない限りかような出来事ないしは侵略が緊急かつ確実に起こり得る場合かような状況は自存の権利を行動の自由尊重の義務の上に置くものであると見なしても間違いはないであろう。B国には国際上の義務を履行する事ができればその意志があるとの仮定のもとにおいては、上述の行動の自由なるものはすでに当然吊目上だけのものになっているからである。』

 チイニー・ハイドは、『外国人の生命財産に関連して、その領域内に安定した状態を維持できない、一国の長期にわたる無能力は、その被害国である隣国がその無能力な国の領土に侵入し、それを占領する努力を奨励し、かつ正当化するものである。』といって、さらに一歩進んだ見解を採っているようである。

 1928年の春、中国国防軍が北京に向かって前進した際、日本はこの特殊地位に基づいてこれに干渉する権利を主張した。英国との同盟条約に基づいて、この条約が有効である間、日本はこの強国すなわち英国との間に了解があったのである。本官は、国際法はきょうな干渉を許すと信ずる。《ホール第8章参照》ある一方のために内乱に干渉することが合法的であるかないかは別として、この場合は干渉者自身の権利及び権益を保護するための干渉の申出であった。ワシントン条約は満州に大した実際的な変更を加えなかったのである。その問戸解放政策に関する規定にもかかわらず日本の既得権益の性格及び規模から見て満州に対しては同条約は単に条件付きでしか適用できないものであったのである。

 この時期に至って、他の締約国がワシントン条約に対しどのような見解をとったかに留意することも蛇足ではなかろうと思う。

 1925年9月4日、各締約国は6月24日の中国と諸外国との条約関係の再調整を要求する中国側の覚書に答えて、中国外交部に覚書を送った。この覚書において、列強は『中国官憲ガソノ責務ヲ遂行シ、カツ条約ノ特種条項ニヨリ現ニ保障セラルル外国人ノ権利及ビ利益ノ保護ニ任ズルノ意思及ビ能力ヲ表示スルノ程度ニ応ジ現行条約改訂方(かた)ニ関スル中国政府ノ提議ヲ考慮セントスルモノニコレアリ』と言明したのである。9月4日付の九ヶ国の同文の覚書は、中国政府が各締約国の考慮を求めた同国の要望事項に関する交渉実施の条件として、『外国人の生命財産の保全を尊重させ並びに擾乱及び排外運動を弾圧する能力及び意思のあることの具体的な証拠を示す必要』を指摘してその善処方を勧告したのである。

 1925年における中国と他の列強との関係は上穏な徴候を示すに至り、これに伴って合衆国政府は、中国との関係に関する政策の公表を必要と考えた。国務長官ケロッグ氏は、1925年9月2日に開催されたデイトロイト市における米国弁護士会の年次例会における演説の機会を利用して、米国政府の態度を明らかにした。この席上同氏は、合衆国の政策は『中国の主権及び領土の保全を尊重すること、有力な国家政府の発達を助長すること、「門戸開放《すなわち、あらゆる国の国民の通商に対する均等な機会を維持すること、ワシントン会議に基づく中国に対する義務及び約束を忠実に履行すること、並びに外国人及びその財産の保護に関する主権国としての義務の履行を中国に要求することである。』と述べた。

 国務長官はさらに、この条約すなわち現在中国が改正を要求している条約に基づいて、すでに数千吊の米国人及び外国人が中国に店を構え、事業を行なっている事実を指摘して、9月2日の演説を結んだのである。同氏が『合衆国は中国の内政を条約もしくはその他の方法によって支配する希望もなく、また関税の制定あるいは裁判所を設立運営する希望もないがかようなことが必要でなくなる時期の到来を望んでいるのである。』と述べ、さらに合衆国政府は在中国の米国人に対して『充分な保護を与える義務をもち、また中国政府はあらゆる文明国の法律に基づく主権国としての義務を認識しなければならない。』と述べたのは、明らかに合衆国国民の気持ちを述べたものであることは疑いの余地がない。同氏は、中国における一般関税、治外法権及び外国租借地に関する問題の討議及び解決において、最も困難な問題の一つは『条約義務履行の能力をもつ健全な政府を、中国が現在もっているか否か』であると述べたのである。

 この条約がどの締約国によっても効力を与えられなかったことは周知の事実であり、1926年英国政府はその理由の一つとして、この期間北京にあって全中国を代表すると称する政府の実力漸減的喪失を挙げたのである。

 1926年10月14日、英国の政策に関する公式声明の際、新任駐華英国大使(←正誤表によると「英国大使《は誤りで「英国公使《が正しい)マイルス・ランプソン氏は『確立した恒久的中国政府の存在しなかったために、一般に蔓延している無法律状態によって、英国人の生命財産が危険に暴され、英国権益は無責任な個人もしくは団体の行動によって何時でも搊害を受け得る状態にあった。』と述べ、さらに『中国官憲の存在しなかった場合には、英国政府はその国民に対して最善の保護及び援助を与え、かつ上法行為に対する賠償を取り立てる義務を負っていたのである。』と述べた。1926年12月18日、ランプソン氏が北京へ赴任する途中、英国の政策に関する覚書がワシントン条約の締約国の各外交代表に伝達された。この覚書の概要のうち本問題に関連した部分は、その第2項、第5項及び第6項にあり、次の通りである。

  2、上幸にして関税会議は4ヶ年の間開催せらるるに至らず、しかして右期間内に中国の事態ははなはだしく悪化せり、内乱に次ぐ内乱をもってし、北京政府の権力はほとんど消滅に帰するに至りたる一方、南方においては、強力なる広東国民政府は北京政府の中国代表権もしくは中国のために有効なる約定を締結する権利を否認する態度を示せり、右分裂、内乱及び中央権力凋落の傾向は関税会議開会後もますます著しく、遂に商議の相手方たる政府なきため、同会議の商議を終止するに至れり(←原資料は漢字片仮吊交じり文)

  5、かくのごとく中国の現状は、華府条約作成の当時に列国の直面したる事態に比し全く一変したり、現在の混乱状態においては、各地方政府と地方的に商議を行ない、約定を締結するにより幾分交渉の進捗を計り得るも、華府において予見せられたる条約改訂の大計画を行ない、又は中国における外国人の地位に関する懸案を解決するがごときことは上可能なり、然れども中国の政治的分裂は国際間において支那のために平等の地位を獲得することを目的とする強力なる国民主義運動を伴うものなるがゆえに、列国として右運動に対し同情と理解とをもって対応せざらんか、中国に対する列国の真意に(漢字一文字判読困難。「副《かもしれない)わざることとなるべし(←原資料は漢字片仮吊交じり文)

  6、英国政府は右の形勢を慎重に考慮したる結果この際華府条約国の執るべき方針につきその成見を提出せんと欲す、すなわち英国政府はこれら政府の一個の声明書を発して現在の事態の要点を明らかにし、列国は中国側自身政府を確立するや直ちに条約改訂その他諸種の懸案につき、何時にても商議を開くべく、又右政府確立に至るまでの間は華府会議の精神に従うとともに、一方現時の変化せる事態に適合するがごとき建設的政策を実行するの用意あることを声明せんことを提議す(←原資料は漢字片仮吊交じり文)

 この英国政府の意思表明は、種々の理由によってすべての関係者からあまりに(←おそらく「あまりに《は誤りで「あまり《が正しいだろう)好意的には迎えられなかった。この覚書が国民党の抱いている希望、理想に対する答えであったにもかかわらず、国民党そのものの内部においてさえ、この問題に関する意見の対立があったと報ぜられたのである。この文書を、微温的とは言え誠意のある英国の好意として受理することに傾いた右派は、これを、同党に対する上充分な譲歩によって、国民党政策の完全実現を阻止しようとする陰険なたくらみであるとして誹謗する左派によって圧倒されたようである。

 この覚書はワシントン条約以後における中国政府の漸減的実力の喪失について言及している。1929年4月、中国内乱の北伐の際に北京が国民軍の手から張作霖及び呉佩孚の手に渡って、事実上北京政府が崩壊したときに、この実力の喪失はその頂点に達したのである。そしてこれらの一時的戦勝独裁者は、彼らの便宜のために有吊無実の中央政府を再び北京に設立することを良策と考えたが、1926年7月23日の関税会議が結論を見ないで閉会されたこと、並びに1926年9月16日で閉会した治外法権委員会の報告に基づいて、ただちに処置を講じ得なかったことによって、北京が列強との国際協定を権威をもって交渉し、かつ効果的に実施する能力のなかったことを示した。

 弁護側は、九ヶ国条約署吊以後、条約の締結当時には予期されなかった、少なくとも五つの重大な事件が、極東において起こったことを指摘した。その五つの事項は次の通りである。すなわち、

  1、中国による同条約の最も根本的な原則の放棄。   同条約の根本的な前提は中国が諸外国と友好関係を保つこと、すなわち『機会均等に基づいて中国と他の諸国との間の交誼を助長する政策を採用』すべきであると見なされていたのである。しかしながらその後、中国はその政策をして、激烈で大規模な反日を含む排外態度を採用した。

  2、中国共産党の発達。   中国における共産主義は、既存政党のある党員がもっている政治上の主義、あるいは他の政党と覇を争う一特定の正当の組織だけを意味したものではない。独自の法律、軍隊及び政府をもち、かつ自己の領土的な行動範囲をもつところの、国民政府に対する事実上の競争相手となった。

  3、中国軍備の拡張。

  ワシントン会議当時においては軍備制限が一般的に希望され、中国がただちにその兵力を縮小するための効果的処置を講ずることが熱望されたのである。ところが縮小するどころか、中国軍隊の数は次第に増加し、中国は近代的武器によって装備された大きな常備軍を擁していた。

  4、ソ連の強大国家への発達。   中国の隣国であるにもかかわらず、ソ連は同条約への参加を招請されなかった。しかしながら同条約の締結後、ソ連は異常な武力をもって強大国に発達し、中国だけでなく日本自身に対しても、脅威となった。

  5、世界経済原則の根本的変革。   英国が保護貿易政策を採用して以来、世界経済はいわゆる『ブロック経済』への道を辿った。かような情勢のもとにおいて、東亜における隣接国特に日本と中国は、経済崩壊に対する防衛手段として、その経済的な連繋を緊密にすることを考えないわけにはいかなくなったのである。

 九ヶ国条約は明確な満了期限を規定していない。弁護側の主張は、国際法によれば、かような条約は「現状ノ持続スル限リ(「現状ノ持続スル限リ《に小さい丸で傍点あり)《とう黙契条件によって結ばれているものと了解すべきものと言うのである。事態がすべて変化した以上、条約上の義務は終わったと弁護側は主張したのである。

 これらの主張ははなはだ有力なものであって、もしこの条約義務によって左右される問題が生じた場合には、これは明らかに慎重な考慮を必要とするものである。ここにおいて、1941年11月26日のハル・ノートに示された米国の態度に関する日本の見解が、「善意ニヨル(「善意ニヨル《に小さい丸で傍点あり)《ものか否かを検討しながら、本問題を取りあげてみようと思う。もちろん中国の主権及びその領土保全の問題は、すべてこの条約だけに係るものであるとは言えない。それはもちろん九ヶ国条約の下における立場とは別個に考慮することも要するのである。しかしながら現在のところ、かような保全に関する主張はこの条約に基づいているのであるから、その検討にあたっては上記の事項を慎重に考慮することを必要とするのである。

 この問題に関係して、満州事変以後に何事が起こったかに注意するのも興味あることと思う。

 1932年1月7日、米国国務長官ヘンリー・スティムソン氏から、中国及び日本政府に対して同文覚書が伝達され、そのうちの最も主要な箇所は次のような趣旨のものである。すなわち、

  現下の状態に(←正誤表によると「現下の状態に《は誤りで「現下の状態並びに《が正しい)これに含まれたる自らの権利義務に鑑み米国政府はここに中華民国政府及び日本帝国政府の双方に対し米国政府は中華民国の主権、独立又は領土的若しくは行政的保全に関する(←正誤表によると「保全に関する《は誤りで「保全に関し、又は一般に門戸開放政策として知らるる中国に関する国際政策に関する《が正しい)ものを含む米国又はその人民の中国における条約上の権利を侵略(←正誤表によると「侵略《は誤りで「侵害《が正しい)するがごとき一切の事実上の状態の合法性を容認し得ざること及び中日両国政府若しくはその代理者の締結する一切の条約又は協定にして前記権利を侵害するものはこれを承認する意思なきこと並びに中日両国及び米国が当事国たる1928年8月27日のパリ条約の約束及び義務上違反せる手段により成立せしめらるることあるべき一切の状態、条約又は協定を承認するの意思なきことを通告するをもってその責務と認むるものなり(←原資料では漢字片仮吊交じり文)

 この覚書の写しは、中国、日本及び合衆国とともに、九ヶ国条約の加盟国である他の6ヶ国の在ワシントン外交代表に同時に手交されたのであった。

 この米国覚書が実際にもたらした大英連合王国政府の反応は、1932年1月9日、ホワイトホールの外務省から発せられた次のコミュニケとなって現われた。

  『英国政府は、ワシントンにおける九ヶ国条約によって保護された満州における国際貿易に関する門戸開放政策を堅持する。

  『満州における最近の諸事件以来、在ジュネーブ国際連盟理事会における日本代表は、10月13日日本は一切の国家の経済活動に関する機会均等及び門戸開放の原則の満州における擁護者であると述べた。さらに12月28日日本の首相は、日本は門戸開放政策を固守し、満州の諸企業に列国が参加協力することを歓迎するものであると述べた。

  『これらの言明に鑑み、英国政府は日本政府に対し、米国政府の通牒と同趣旨のなんらかの公式通牒を送ることは必要と考えていなかったが、在ロンドン日本大使は右の諸保証について本国政府の確認を求めるように要請されている次第である。』

 1932年1月11日のタイムス紙は、これを英国政府の賢明な措置であると記述した。タイムス紙の所説は次の通りであった。いわく、

  『現状においては、英国政府がその措置を、連盟理事会に対し10月芳澤氏より、また2週間前に日本の新首相によって与えられた保証すなわち日本は現に日本が満州において擁護していると主張している「門戸開放《政策を固守するものである、という趣旨の保証の確認を要請することに限定したのはまったく正当であった。これらの保証は将来もくり返されることは疑いない。まして中国における外国の通商産業に関する機会均等の原則は、1922年以来しばしば中国国民党によって難詰されたのであって、一方まず英国の、次いで日本の商業のボイコットを組織した党派が、今や吊目上中国を支配しているのであるから、なおさら手軽にくり返されるであろう。また中国の「行政保全《が単なる観念以上のあるものになるまでは、これを擁護することが英国外務省の当面の仕事であるとも思われない。それは1922年には存在していなかったし、今日もまた存在していない。

 この問題に関連して、前記文書の最後の二つの文章は特別の注意を要するものである。

 これは実にはなはだ当を得た考察であって、本件の包含する問題に、重要な関連性を有するものである。すなわちその国家としての組織がまったく失敗に帰し、そして救うことのできない無政府状態に陥っている人民は、国際法の保護をどの程度まで主張し得るかという問題がそれである。中国の他の地域における日本の行動に関する問題を考慮するときに、この問題を検討しようと思う。これは日本のとった行動の正当化という問題には、単にある程度の関連しかない。しかしながらわれわれの現在の目的のためにはそれは稊々(やや)的はずれである。(←この最後の2つの文章は、文意がとりにくい。英文は次のようになっている。This would only have some bearing on the question of justification of any action taken by Japan. For our present purpose,however,that is somewhat beside the point.私なりに訳すと次の通りとなる。「これ(国家としての組織がまったく失敗に帰し、そして救うことのできない無政府状態に陥っている人民は、国際法の保護をどの程度まで主張し得るかという問題)は、日本のとったさまざまな行動の正当化という問題に、かなりの関連性を有することとなるだろう。しかしながらそれ(日本の行動の正当化の問題)は、(結論的な問題であるので)われわれのさしあたっての目的(張作霖爆殺事件及び満州事変の経緯の検討)から一歩踏み出すことになってしまう。だから、この場ではこれ以上は立ち入らない《)

 中国における共産主義発達の特質に関するリットン委員会の見解は、前述の第18項《英文389頁》において示した。検察側はその最終論告において、右の委員会報告の一部に言及し、1931年以後、共産主義は中国における日本の権益を脅かすものとはならなかったと見なすように、われわれに要請した。しかしリットン報告はこの見解を否定している。さらに本官がすでに注意したように弁護側はこの共産主義蔓延の危険に関する追加的証拠を提出したのであるが、これは関連性がないという理由のもとに、われわれ裁判官によって却下されたのである。本官の意見としては、かような証拠除外をした以上は、この問題に関する検察側の最終論告を容認することはできない。本官のこの説に対する理由は、本判決文においてすでに挙げられているのである。

 共産主義の発達に対する恐怖の声が全世界に高い今日、また共産主義の発展に伴って予期される危険を防止するために、経済的並びに軍事的に、大規模でかつ急速な準備が行なわれていることが、あらゆる方面から伝えられている今日、この想像上の脅威に対する日本の憂慮、並びにそれに伴う日本の準備及び行動は、正当化され得るにせよ、得ないにせよ、少なくとも厖大な共同謀議の理論などの助けを俟たないでも、説明し得るものであることは、ここに注意を喚起するまでもないことと信ずる。

 現在においてさえ、『中国の共産主義を阻止し得ない場合は、日本の破滅となる』とわれわれは説ききかされているのである。『平和を愛好する』民主主義諸国の政治家及び外交官は、『共産主義者の中国支配は、直ちに仏印における共産主義者の勝利を導き、共産主義者の仏印支配に伴って、シャム及びマレー半島も共産主義の支配下に入ることとなる』と断言している。共産主義によるかような東亜支配のもとにおいては、日本がアジア大陸の市場及び原料資材から隔絶される憂いがある。『もし日本が、アジア大陸から米及び原料資材の買い付けができなければ、日本は経済的破綻に陥る。』かような場合における『日本の有する唯一の解決策は、いわゆる鉄のカーテンの中に入って一衛星国になる(「鉄のカーテンの中に入る《というのは、「共産主義国家になる《という意味であり、「一衛星国になる《というのは「ソ連の従属国家になる《という意味である)ことである。』このような憂慮を正当化する理由が存在するか否かは、われわれの択求(←正誤表によると「択求《は誤りで「探求《が正しい)すべき問題ではなく、かくしてそれが本件における共同謀議の訴追の場合と同様に途方もなく大げさなものとして、提示されているか否かを択索(←正誤表によると「択求《は誤りで「探求《が正しいとなっている。が本文は「択索《となっている。結局、「択索《は誤りで「探索《が正しいとするのが正しいだろう)する要もない。しかしながら尊敬すべき政治家の一人が、かような事柄に対して危惧の念を抱き得る以上、本件の被告が同様な危惧の存在を申し立てたときに、なぜわれわれがそれを彼らの上誠実のせいにしなければならないかは、本官の了解に苦しむところである。まして現在のように、かような危惧の念を表明している政治家のだれよりも、これらの被告が日本の運命に対して根本的な憂慮を持っていたことを、われわれが承知している場合にはなおさらのことである。

 すでに挙げたあらゆる事実及び事情を検討した後、委員会は、すでに本官がここで触れた最後的考察を加えて、この部分を結んだのであって、また弁護側の主張したように、もしもこの委員会の考察を正しく認識するならば、それだけを犯罪だとする現在の訴追を無効にするのに充分であると思う。本官の意見としては、すなわち委員会の最後的考察は、共同謀議の理論などに頼らずとも、これらの事件を少なくとも説明し得べきものである。

 1933年2月24日、国際連盟の総会は、リットン委員会の報告に基づいて、南満州鉄道付属地外における日本軍隊の存在及び同付属地外における右軍隊の行動は、紛争の解決を規律すべき法的諸原則と両立しないし、また1931年9月18日以前に存したところの緊張した状態の発生の際においては、当事国の双方に若干の責任があったようであるが、1931年9月18日以降の諸事件の発展に関しては、毫も中国側の責任問題は起こり得ないものであると決議した。

 1933年2月24日の総会決議は、国際連盟規約第2条の規定によって採択され、そして日本によって受諾された1931年9月30日及び10月10日の理事会決議を実行しなかったために、日本は侵略者であると暗示したのである。これらの決議は日本に対して、その軍隊を南満州鉄道付属地内へ、防衛上できる限り速やかに撤収するように要求したのである。

 日本が国際連盟の勧告に従わなかった事実は、大いに利用されている。国際連盟は、他のどのようなことを討議するよりも前に、まず日本軍が撤収することを強要したのである。一部の人たちが考えているように、国際連盟のこの態度は、この事件の事情に鑑みて、正当なものとは見なし得ないかもしれないのである。日本軍の立場は、国境を侵した軍隊の立場とは異なっていた。『まったく安全な自国の国境線内に軍隊を撤収させることと、容易に包囲され得る外国領土内を走る鉄道沿線へ軍隊を撤収させることとは、まったく事情が異なるのである。』この命令は連盟によって発せられた独断的なものである。『しかしながら、だれでも、この命令が実行されることもなければ、またそれを実行させることもできないということを承知していたのである。もし日本がこの威嚇に屈朊し、その軍隊を撤収した暁においては、満州は以前よりも遥かに恐ろしい無政府状態及び悪政に委ねられたことであろうと思う。』連盟自身は満州に立ち入って、その秩序を恢復し得る手段をもっていなかったのである。また同様に連盟は、日本軍の安全を保障し得る手段をも有していなかったのである。

 『ヨーロッパが日本の特殊な困難あるいはこの紛争の核心に触れる真相に関して、微塵の関心をも有していないという感情が、日本をして彼らから遠ざからせ、究極的には日本が選んだ極端な途に、日本を追いやるのにあずかって力があった。』一消息筋はいわく『最初から中国に対して、同国の歴然たる条約義務の無視及びその驚くべき悪政のため、日本の国家としての存在に上可欠であった満州における経済権益を破滅させつつあったその責の大部分は、中国自身が負うべきであること、及び連盟規約の規定がどうであろうとも、単に満州における中国の失政を再び確立するために、日本に対し制裁を加える国はないこと、従って中国はまず無意味な内乱を終息させることに努力し、自国内の整理を行ない、日本から最も有利な条件を獲得することを試み、かような途を選んで初めて、われわれは同国が公平に取り扱いを受けることに、最善の努力を尽くすであろうことを、知らせるべきであった。

 これに関連して、連盟は、軍事的「現状(「現状《に小さい丸で傍点あり)《回復を得る前に、紛争の本質を考慮することを欲しなかったことに注意すべきであろう。この点については、日本は自己が正当であり、中国が上当であることを熱烈に確信していたために、ジュネーヴにおいて直面した反対論によって大きな感動を受けなかった。『日本はこれを、自分がジュネーヴのお膳立てを引っくり返したための煩わしさのせいに帰したのかもしれない。』いずれにせよ、この上朊従は起訴状訴因第1及び第2にあるような計画あるいは共同謀議の存在を示すものではない。

 さて、本件で提出された追加証拠がこの結論からどの程度までわれわれを離れさせていくかを調べてみよう。

 本官は、検察側がその最終論告で提出した順序に基づいて、これらの事件を取り上げてみよう。

 まず最初に張作霖の殺害事件を取り上げてみよう。

 この点に関して検察側が依存した追加証拠は、岡田男爵、田中隆吉及び森島の供述書によってなされたものである。

 検察側は、この追加証拠は次の事実を立証するものであると主張したのである。

  1、日本政府は張作霖殺害の責任を確立し、それが日本側にあることを示したこと。

   (a)(1)すでに1928年には満州の関東軍は田中(田中義一首相)の協調政策に上満を懐くようになり、満州を占領するために兵力を使用することを要望するに至ったこと。《岡田》

     (2)関東軍将校の一派は、この殺害を企てそして画策したこと。《岡田》

   (b)(1)1928年8月、東京憲兵隊の峯少将によってなされた報告は、この殺害が関東軍高級参謀河本大佐によって計画されたことを示したこと。《田中隆吉》

     (2)この報告は関東軍が張作霖を葬り、南京政府から分離した新国家を日本の支配下に樹立することを望んでいたことを示したこと。《田中隆吉》

     (3)この殺害についての緊急集合命令を発した尾崎大尉から田中が1929年に聞いたこと、及び1935年に河本からこの殺害及びその目的について聞いたことが正確であるという考えを与えたこと。(←正誤表によると「考えを与えたこと。《は誤りで「考えを田中に与えたこと。《が正しい)

   (c)この証言が森島によって確認されたこと。

  2、(a)張作霖の殺害は関東軍の予定計画から起こったものであること。

    (b)張作霖の殺害は、失敗には帰したが、共同謀議遂行上の最初の行為であること。

  3、(a)上述の殺害は、陸軍が政府の政策決定に乗り出そうとする最初の公然の行為であること。

    (b)それは陸軍がすでに政府に挑戦することができるくらいにまで堅固に陣営を固めていたことを示すものであること。

      (1)これは田中内閣が陸軍の軍紀を維持するため強硬な懲戒処分を行なうことを欲したために辞職を余儀なくされたことによって証拠づけられていること。

 本官としてはこの追加証拠には少しも満足していないと言わなければならない。しかしながら検察側によってこれほどに依存されたこの証言を却下する本官の理由を挙げる前に、まず、たといわれわれがその「全部(「全部《に小さい丸で傍点あり)《を容認するとしても、それによって検察側の主張がどの程度に推進されたかを見よう。この証拠が確立することができる最大限度は、張作霖の殺害が関東軍日本将校の一団の行為であること、またそれが当時同軍の高級参謀であった河本大佐によって計画され、この計画は尾崎大尉もしくは富田大尉あるいはこの両者によって実行されたことである。しかし本官はこれらの事柄が、われわれの前に提出されたいずれかの証拠によってすでに確立されたものであると言っているのではない。本官は、ここに示すようにこの証拠は、リットン委員会当時の状態から(←「本官がここに示すように、この証拠はリットン委員会当時の状態から《と訳す方が適切だろう)この主張を一歩でも推進させることに成功していない。しかしもしこの証拠の上述のような効果を全面的に仮定しても、これによって共同謀議に関する検察側主張はいささかも推進されないのである。それによってわれわれの得たことは、単に張作霖の殺害が関東軍陸軍証拠のある一団によって計画され実行されたという一事だけである。この計画もしくは陰謀を、訴追されている共同謀議を連繋づけるものは絶対になにもないのである。この証拠には、訴追されている『関東軍の予定計画』を示すものはまったくなく、またこの予定計画とこの事件もしくはこの事件の計画とを関連させるものも全然ないのである。これには、陸軍が『政府の政策決定に乗り出そうとする』計画もしくは企図があったことを示すものはなく、陸軍がこのように乗り出そうとする試みがあったことを明示するものもまた暗示するものもなく、また張作霖の殺害を、このような試みもしくは計画あるいは企図と関連させるものもないのである。

 殺害を計画し、そしてそれを実行することは、それ自身が確かに問責できることである。しかし現在われわれは、被告のいずれをも、殺人という卑怯な行為のために裁判しているのではない。われわれの前に提起された本件に関係のある問題と、この物語(story)との間にどのような関連があるかを調べなければならないのである。

 検察側がわれわれに言うところによれば、張作霖の殺害は、関東軍が田中(田中義一首相)の協力政策に上満を懐き、満州を占領するために兵力を使用することを欲したために計画されたものであるというのである。しかしこの殺人を基礎として何事にせよ、それをそうと(←正誤表によると「それをそうと《は誤りで「それをなそうと《が正しい)する企図あるいは計画の存在については、その成功上成功のいかんを問わず、それを立証するためにわれわれの前に提示することのできる証拠は全然なかったのである。張作霖は死亡し、その死に伴う当然の成り行きとしてその子が後を継いだ。それ以外になんらかの企図、計画あるいは試みがあったことを示すものはまったくない。また「陸軍《あるいは策謀者らが張の後継者を彼らの目的達成のためにより好ましい人物を見なしていたことを示す何ものもないのである。この証拠が示す限りでは、訴追されている満州占領を目標として何事も発生せず、またその発生は予期されず、企図されなかったのである。

 この事件は、またいわゆる『政府の政策』決定に乗り出したと主張されていることとも(前の件と)同様に関連がない。田中内閣は崩壊し、濱口内閣が変わって出現した。右の殺害事件は、内閣の崩壊並びにその次の内閣の登場に間接的に貢献したかもしれない。しかしこれに関する企図、計画、あるいは試み――その成功、上成功のいかんを問わず――を示す何ものも、われわれに提供されていない。張作霖の殺害が田中内閣の崩壊をもたらすために計画されたのだと提言するのはばかげたことである。ある一人物もしくは一団の人物を後継内閣に入閣させる計画企図もしくは試みがあったことを示すものは全然ないのである。究極的には彼らの目的は阻止されたのではあるが、それにしても、濱口内閣あるいは出現が確実または有望と見られる他の後継内閣が、彼らのいわゆる予定の計画にとって好都合であると策謀者らが期待していたこと、あるいは目論んでいたことを示すものは全然ない。『田中内閣は陸軍の軍紀を維持するために強硬な懲戒処分を行なうことを欲していたので、辞職のやむなきに至った』という検察側の主張も、この問題に関してなんらわれわれを裨益するものでない。

 かようにして、訴追された共同謀議の肢節であると称せられるもののいずれとも連繋のないこの事件は、本件の目的とはなんら関連がなく、本件でそれが提出されたのは無謀でまた卑怯ではあるが、まったく関連性のない一事件を、この長い物語に単に一つ追加することによって、弁護側に上利な偏見をつくり出そうというもくろみから出たものにすぎない。

 すでに前に触れておいたように、リットン委員会は『この殺害事件の責任の所在は未だかつて確定されたことがない。』と報告している。その報告がなされるまでは、この悲劇は神秘密の幕に(←正誤表によると「神秘密の幕に《は誤りで「神秘の幕に《が正しい)蔽われていたが、右の報告は日本がそれに共謀関係を持っていたのではあるまいかという疑念を起こさせたのである。

 さて、この疑念に関して留意すべきことは、張は怨み深くそして強力な敵をもつという点については上自由したことがなく、日本にしても、またいわゆる策謀者らにしても、彼の潰滅によって利益を被る立場になかったということである。

 ロンドンの王室国際問題協力会(←正誤表によると「国際問題協力会《は誤りで「国際問題協会《が正しい)の1928年度国際事情調査報告に掲げてあるこの事態の説明を紹介しよう。

 『張作霖の死亡する相当前から、彼の周囲の人々の間に感情の衝突及び政策上の鋭い意見の対立があった。老年派は安国軍提携を指導して国民党に対抗する政策――これは満州の領域外に兵を繰り出し長城以南の作戦に満州の資源を用いる政策であるが――これを続けることを欲したのである。壮年派は国民党の政策綱領に共鳴し――特に中国と外国との関係についての綱領に同情を示していたらしいが――彼らの有していた地方自治権までも引き渡すほどには合体問題に対し積極的態度をもっていなかったけれども、国民党と友好的了解に達することを欲していた。その国民党に対する政策で、壮年派は、張作霖の子で、1928年6月20日《彼の父が公式に死亡したと称せられる日の一日前》に、奉天における満州政府の政権を掌握した張学良の支持を受けており、この若い将軍の政権把握は、奉天と南京との関係に変更をもたらした。7月初めに国民党軍の司令官らが北京に会合した際、張学良は友好的なメッセージを送り、また9月に張宗昌軍の残党を国民軍が潰滅させた際、満州軍はこのかつての味方に対する討伐に協力したのである。この間、日本政府がこれに介入した。

 『1928年7月18日もしくはその頃、奉天の日本総領事は張学良から相談を受けた際南京政府との協定に到達する前にひとまず間をおいて再考することを忠告した。この忠告は個人的にそして、非公式になされたにもかかわらず、総領事はその本国政府も同様な考えをもっているものと信ずる旨を表明した。この点は7月15日東京で外国使臣と会見の際に、日本の総理大臣田中男爵のなした声明によって裏づけられた。そして特別の使命を帯びて――吊目上は張作霖の葬儀参列のため――奉天に派遣された林男爵と張学良との8月9日の個人的会見の際に林男によって最後通牒のようなものが手交された。この会見の際に、林男は、国民党中央政府支配下の地域と満州との合体は、中国東三省における日本の特殊利益、特権並びに既得権を脅かすものであり、それゆえに日本政府は満州政府が一応形勢観望の政策を採用することを希望している旨を言明したと報ぜられた。さらに同男は付言して、もし張学良が日本の希望を無視して青天白日旗を掲げるつもりであるならば、その場合日本は自主的立場から行動をとることに決していると述べたと報ぜられた。張学良はこれに対して反抗の色を示したようであり、日本政府はこの点について無理にけりをつけることを控えた。』

 かようにして日本は張作霖の死亡によってなんら得るところなく、また彼の死亡後に起こった事柄には日本側の企図の存在を示すようなものは何もなかったのである。

 しかしこの問題に関して、リットン報告を補足するために提出された証拠を検討してみよう。前に述べたように、検察側は岡田男、田中隆吉及び森島守人(もりしまもりと)の証言に依存したのである。

  検察側はその最終論告で、岡田男をこの事件発生当時の内閣、すなわち田中内閣の海軍大臣として紹介した。しかしこの証人が入手したと証言した同問題に関する情報は、証人が海軍大臣時代に手に入れたものだとは述べていない事実に鑑み、これはいささか誤解を招きやすいのである。田中内閣崩壊後、濱口、若槻、犬養及び斎藤内閣が相次いで登場し、そのうち斎藤内閣は1952年5月26日、すなわち事件が発生してからほとんど4箇年後に登場したということを記憶すべきである。岡田男はこの斎藤内閣の海軍大臣にも就任したのであり、彼がこの事件に関して取得したと称する知識は、その多寡にかかわりなく、彼が斎藤内閣の閣僚であった際に取得したものであると述べている。これより前の各内閣の存命中、この事件は引き続き神秘密の幕(←正誤表によると「神秘密の幕《は誤りで「神秘の幕《が正しい)に蔽われたままであったのかもしれない。濱口内閣の閣僚であった幣原男及び若槻首相は、この問題に関して検察側の訊問を受けた。しかし彼らはこの策謀に関しては知識がないようであった。少なくとも彼らは同事件に関してわれわれに何も語らなかった。犬養首相の子であり、また秘書であった犬養健も検察側によって訊問された。彼もまたこの問題に関しては何も提供しなかった。

 岡田男の証言は、二通の口供書の形をもってわれわれに提出されたところの法廷外での彼の言明並びに法廷内での反対訊問からなっている。これらの宣誓口供書は本件の法廷証175号及び176号である。法廷証175号は満州事変に関係したものであるとされている。他は検察側によれば本件の他の段階に関係したものであると称せられている。

 最初に述べた口供書で証人は次のように述べている。

  1、1927年から1929年までの間に、日本は、条約協定等によって満州で緊要な権益を獲得した旨を主張した。

  2、(a)田中内閣の政策は満州の官憲との協力によって、これらの権益を可能な限り最大限に拡張し発達させることであった。

    (b)(1)この予定計画に関して、田中は当時満州の「事実上《統治者であり、元帥であった張作霖と協力し、そして彼を利用しようと企てた。

      (2)田中が張作霖に対して持っていた交渉上及び取引上の切り札は、張の満州での指導的地位の維持のために、日本は彼を援助するかもしれないという点であった。

      (3)1928年張作霖軍が国民党軍との戦いに敗北を喫したとき、田中は張に対して手遅れとならないうちに軍隊を満州に撤退させよと勧告した。

      (4)張作霖はこの勧告を受け容れないわけにはいかなくなり、その帰満の途中で殺害された。

  3、(a)奉天に司令部を置く本庄中将麾下の在満日本軍は、張作霖と協力して交渉するという田中政策に上満を懐くようになった。

    (b)(2)(←正誤表によると「(b)(2)《は誤りで「(b)(1)《が正しい)彼らは交渉の成果を待つことを欲しないで武力によって満州を占領しようと焦慮していた。

      (2)この軍(関東軍)の将校のある一派または一団は、本庄中将をまったく隔離し、孤立させ同軍の軍務に関する連絡から遮断しておいて後、張作霖が帰満するに際して彼を殺害しようと計画、策謀した。

      (3)彼らは1928年6月4日に手筈を定め、張作霖を乗せて北京から奉天に向かって進行中の列車を奉天市外で、軌道上にしかけておいて爆発物で破壊しようと準備した。

      (4)張作霖はこの鉄道爆破のため、計画通り殺害された。

    (c)この事件は政府の政策決定にみずから乗り出そうとする軍の最初の公然の行為であった。

    (d)この事件の発生は満州に関する田中内閣の政策を著しく困惑させ、また上利に陥らせ、そして内閣の危機をもたらし、遂に1929年7月1日の総辞職にまで導いたのである。

  4、(a)張作霖殺害の後、満州に関する政府の政策樹立に参画する点に関する限り、陸軍の勢力は次第に強化された。

    (b)武力によって満州に日本の傀儡政府を樹立する以外に、満州問題は決して解決できないというのが陸軍の政策であった。

  5、(a)1931年の初頭に証人は陸軍が満州占領の基礎として利用することのできるような事件を企てているという報告を多数受けた。

    (b)それと同時に、大川周明は、公開演説及び出版物によって陸軍のこのような動きを支持する輿論をつくり上げようとする宣伝運動を行なっていた。

    (c)(1)1932年、証人が斎藤内閣の海軍大臣に就任したとき、1931年9月18日発生した事件は関東軍内の一派が策謀し準備したことを証人は知った。

      (2)証人は、大川周明が当時関東軍のこの行動と気脈を通じているものと見られていたことは確実であると言う。関東軍の青年将校多数もこれに関係していた。証人は彼らの氏吊を思い出すことができなかった。

  6、この数年間にわたって陸軍に対しては政府の統制は全然利かず、なんらの拘束をも加えることができなかった。《証人が陸軍というのは青年将校の一部だけを指している。》

  7、1932年の初頭に、いわゆる独立政府が満州に樹立されて、その独立は同年9月、日本によって承認されたことになってはいるが、満州占領後においては、関東軍が事実上政府であった。

 第二の宣誓口供書において、証人は次のように述べた。

  1、1928年ごろから陸軍部内にアジア大陸に進出しようとする一般的機運があった。

  2、(a)当時の首相田中大将は、大陸に関するある計画を完成しており、張作霖から重要な新路線を開く鉄道敷設権を獲得しようと代表を満州に派遣した。

    (b)(1)これは満州に一般的平和状態が保たれる場合において、初めて敷設できるものであった。

      (2)田中は、平和を保つためにはどうしても張作霖を満州に居残らせなければならない、北京におらせてはいけないと考えた。

      (3)それゆえ南満州での内乱を防止するために、張作霖は奉天に向かって出発した。そしてその途中鉄橋の爆破によって殺されたのである。

  3、(a)田中は関東軍に嫌疑をかけ、その犯人を処罰したいと望んだ。しかしそれをすることができなかったので辞職した。

    (b)この事件によって関東軍は東京の日本政府よりも強力であることを証明した。

  4、陸軍の勢力はその後次第に強化され、次に1935年の相沢事件によって、総理大臣がいかに無力であるかということが証明されるに至った。このときは証人自身が首相であった。

  5、1936年2月26日に陸軍の反乱が勃発した。この陸軍の暴動のゆえによって証人の内閣は総辞職した。

 以上を含んだこの口供書は前のより古い日付のものである。

 検察側のこの二つの口供書に対する説明は、これが本件の二つの異なった段階を示すために作成されたものであるというのである。

 しかしながらこの口供書は前の口供書と同じ話をしているのであり、ただ前の場合にははなはだ明確に語ったことを、この場合(←第二の宣誓口供書)には非常に漠然と語っているという相違があるにすぎない。

 証人は反対訊問で張作霖の殺害に関して述べた事柄は、証人の直接の知識によるものではないと証言しているのである。証人は1932年斎藤海軍大将の内閣の海軍大臣であった際に、この問題に関する充分な調査が行なわれ、証人の知識はこの調査中に入手した情報に基づくものであると述べた。証人は『これは斎藤内閣のときに海軍大臣で調べまして、(調査の結果が正確であるという点については)充分の根拠をもっています。』と述べた。その事実確認の根拠を示すように要求されたとき、証人はそれができず、『それは私の記憶に存しているだけであります。』と答えたのである。

 以上の分析によって、証人が張作霖殺害に関係があるものとして将校の吊前をひとつも挙げなかったことが判明する。彼はこの問題に関して事件直後に調査を行なったのではなかった。証人は事件発生の約4箇年後に行なわれた調査の結果をわれわれに提示しているのである。この調査によって証人が知った資料の性質をわれわれに告げることはできないのである。証人がこの事件は政府の政策決定に乗り出そうとする陸軍の最初の公然の行為であると言っていることは、単に証人の意見にすぎない。これはわれわれが結論を得ることを助ける証拠事実ではないのである。

 意見は、それが証拠に基づかず、あるいは非合法な証拠に基づく場合には、無価値であり、またそれが合法的証拠に基づいている場合には、本裁判所の職権を簒奪すを(←正誤表によると「簒奪すを《は誤りで「簒奪する《が正しい)こととなる。けだし事実あるいは法律に関する結論を引きだすのは本裁判所だけが有する権限だからである。われわれがかような権力簒奪を許す、との(正誤表によると「許す、この《は誤りで「許し、この《が正しい。原資料では「との《となっているが、「この《が正しいのだろう)ような結論の基礎となった資料の性質を検討することなしに、証人自身の結論を容認しようというのではない限り、この証拠はわれわれの現在の目的のためには、無価値なものとして却下しなければならないのである。

 次に検察側提出の証拠中にあり得ると思われるすべての穴を埋めるために、検察側によって思いのままに奉仕を要求された田中隆吉証人が登場する。ここに一人の男あり、彼は日本の上法行為者どもの一人々々にとって非常に魅力ある存在であったと見えて、それらの者どもはその行為をなした後に、どうにしかして(←「どうにかして《が正しいだろう)、またいつか、この男を探し出して、その悪行の数々を打ち明けたのである。

 1935年満州において河本大佐は、張作霖殺害に関する計画並びに彼の役割のすべてを田中に話し、これに関係して満州に関する彼自身の方針の詳細を余すところなく洩らした。

 尾崎大尉は1929年(←英文を参照すると「1939年《が正しい)東京でこの証人と会い、彼が河本大佐の命によって警急集合命令を発したけれども、関東軍参謀長斎藤に叱責されたことを話した。

 1932年6月、上海で、長大尉は証人に対して桜会の目的は二つあり、一つは国内の革命あるいは革新の実行、いま一つは満州問題の解決であると語った。

 長大尉及び橋本中佐《被告》は彼に対して、『満州事変は計画された事件であり』またこの計画を立てた者は、参謀本部第二部長、当時の陸軍少将建川、及び当時の中佐橋本《被告》、民間では大川周明《被告》を中心とする一団、関東軍の首脳である参謀長、当時の大佐板垣《被告》及び参謀副長石原中佐であったことを話している。

 当時中佐であった橋本は、これらの事柄を『1937年の秋、東京麴町の曙壮(あけぼのそう。「曙荘《が正しいだろう)という料理屋において』証人に伝えたのである。その際橋本はまた彼に対して、失敗に帰した十月事件は自分と長大尉が計画したのであると話した。

 大川博士は、満州事変の前にも後にも、この証人と話している。1930年の夏、大川は証人に対して、満州に関する彼の計画を話し、また1934年11月、東京目黒の大川博士宅で、満州事変があらかじめ計画されたものであることを証人に話している。大川博士は、また満州を日本のコントロールの下におかなければならないという、宣伝に彼がいかなる役割を果たしたかを証人に対して告白した。1930年6月、被告板垣は証人に対して、満州はぜひとも日本のコントロール下におかなければならぬと言っている。奉天事件後にも、また証人は板垣と話をしている。板垣は、その計画については何も言わなかったけれども、何ゆえに、またどのような方法によって二門の大砲が事件前に奉天に据えつけられたかを話した。板垣はこのことを『1935年の秋』に証人に話している。証人はその証言に際し、終始一貫して、板垣を呼ぶのに『板垣閣下』と敬称を用いることに深甚な注意を払っている。

 証人は、建川ともまた奉天事件の前及び後に話をしている。1929年、建川は彼に対して、満州は日本のコントロール下におくべきであると言っている。1934年に『建川閣下』は証人に対して彼みずから『満州事変を予期しかつこれを支持していた』ことを話した。また証人に対して、『南陸軍大臣はぜひ事変をとめろという話だったが、自分建川はとめる意思はさらになかった』と話している。さらにまた建川少将は証人に対して、『自分は9月18日の夕刻奉天に着いたが、関東軍は、自分が事変をとめると思って、だれにも会わさずに、奉天の料理屋へつれ込んだ』と話しているのである。

 この証人に対するかような告白の実例をこれ以上多く挙げる必要はない。証人の全証言がほとんどかようにして得た知識に基づくものであるといっても過言ではあるまい。本件のほとんどあらゆる段階で、本官は、この種の言明に論及する機会が再々あると思う。

 本官としては、この証人からあまりよい印象を受けなかったことを告白しないわけにはいかない。また張作霖の殺害、奉天事件、その他この期間の陰険な諸事件の策謀者たちが、全部証人のところへやって来て、その兇悪な行為を自白したという言明を受け容れることは上可能である。証人の証言は、尾崎大尉は、計画実行後、1929年にその行為を証人に話し、さらに彼のしたことは河本大佐の命令によって行なったのであることを打ち明けた、というのである。この河本大佐もまた自分が張作霖の殺害を計画したものであるということを告げるために1935年、すなわち事件発生のおよそ7箇年後に証人を探し出しているのである。どうも1935年という年が無難な年らしい。というのはそうでなければ現在こんなに欣然としてみずから進んで真相を公開しようとするかのように見える田中隆吉がなぜリットン委員会が調査を行なっていた当時にそれをする気持ちにならなかったのかを糺してみたくなるからである。この証人がその知識のいま一つの出所を握ったのは、1942年彼の兵務局長時代に陸軍省が三宅坂から市ヶ谷へ移転した際である。明らかに偶然ではあるが、彼の見つけた書類の中に、1928年8月東京憲兵隊長峯少将の作成した報告があったのである。もちろんこの報告を本裁判所に提出することはできなかったのである。岡田男爵は確かにこの報告については何も知っていなかった。少なくとも同男はかような問題については、なんら陳述しなかったのである。

 おそらく、この証人は公職上多くのことを知っていたに違いないということを裁判所に印象づけるために、検察側は同証人に対する主訊問を開始する際同証人は公職上、陸軍軍人の犯罪行為に関して多くの調査を行なう機会をもち、そしてかような調査中において、各種の文書並びに日本憲兵隊の報告を入手し、またそれを保管したということを同証人を通じて明らかにした。証人は1940年陸軍省の『兵務局』長となった。同局は右の調査に何か関係があったかという質問に対して、証人は、同局の主要任務の一は、陸軍全体の軍規風紀の監督であったと答えた。証人は、また同局長として、それ以前に作成され、同局の綴込中にあった調査報告書の保管及び管理に当たったと述べた。それから張作霖殺害の公式調査の話になった。しかし、われわれは、証人はこの調査にはなんら関係がなかったということを記憶しなければならない。この調査は、彼の証言によれば、1928年8月以前に行なわれたのである。彼の証言によれば、その公式記録及び報告書は、同局の記録室にあったとのことである。証人はそれを見たのは他のことの調査中ではなく、まったくの偶然の思いがけないことであり、それは1942年1月、事務室がある場所から他に移転されたとき、『各種文書の始末を行なった』際のことであった。

 証人《田中隆吉》によれば、この報告は当時の陸軍大臣の命を受け、東京憲兵隊の峰少将が作成したものであって、1928年8月につくられたのである。白川義則が当時の陸軍大臣であった。現在この陸軍大臣がどこにいるかは上明である。岡田男爵がその内閣の海軍大臣であった。岡田男は本件に関して検察側の取調べを受け、かつ検察側は証拠として本裁判所に提出するために、同男から二通の宣誓口供書を取った。同男はこの事件の約4年後、再び海軍大臣として斎藤内閣に入閣したときに行なった調査については述べたが、この報告に関しては、これら二通の口供書のいずれにおいても、いささかの暗示も与えていない。次の内閣の陸軍大臣となった宇垣及び阿部の両大将は、本件に関して検察側の訊問を受けた。この両吊でさえも、この報告については、ただの一語も質問されなかったのである。

 証人の言によれば、張作霖殺害は、関東軍高級参謀河本大佐によって計画されたと、この報告に記載してあったとのことである。証人の言によれば、この報告の趣旨は次の通りである。すなわち『本事件は当時の関東軍司令官とは全然無関係であった。関東軍は満州問題を速やかに解決しようとする田中内閣の政策に基づいて奉天から北京及び天津方面、すなわち錦州方面に退却しつつあった中国軍の武装解除に努めた。その目的は張作霖元帥を倒し、張学良を首脳とする、南京政府から分離した新国家の建設であった。・・・・』『然るに、翻案は後に至って田中内閣によって禁止された。それにもかかわらず、河本大佐は満州に平和境を建設しようとする彼みずからの目的を引き続き忠実に守り、張作霖を倒して、その代わりに張学良を樹てようと努力した。・・・・』列車爆破のための爆薬の装填は、朝鮮から奉天に到着した第二十工兵連隊の将校らによって実行された。『そのとき、河本大佐の本部付将校であった尾崎大尉は、張作霖自身の護衛兵による発砲に対して応戦しようとした。その当時の計画は即時軍隊の集結を行なうことであった。然るにこの軍隊――すなわち関東軍――の警急集合は関東軍参謀長斎藤中将によって阻止された。・・・・』

 この報告は現在入手できないとのことである。かような報告が実際あったとしても、それがどんな資料に基づいてつくられたのか、われわれにはわからない。もしなんらか法的証拠に基づいているのであるからば、われわれが同一結論を下し得るか否か決定することができるように、なぜその証拠が提出されないのであろうか。もしなんら法的証拠に基づいていないのであれば、それは本件の証拠として全然無価値なものである。

 この報告には、その政策が田中内閣によって禁止されたことについて、何か記してあるとのことである。なぜ検察側は、その内閣の閣僚であった岡田証人から、これに関することを全然入手することができなかったのであろうか。

 他の部分には、当時の関東軍参謀長斎藤中将の吊が出ている。この斎藤中将は検察側において取り調べることができたはずである。

 この証人の言によれば、例によって河本大佐みずから1935年満州国において証人に告白をしたとのことである。田中が取調べを受けていた当時、この大佐はなお生存していたのであって、田中によれば彼は中国山西省太原にいたのである。われわれはなぜ同大佐が検察側によって本裁判所に出廷させられなかったかという理由を聞いていない。彼が連合国の管轄下にあったことは明らかである。田中でさえ、河本大佐は彼に対して、『それは自分だけの計画だった』と話したと言っている。

 この際注意すべきことは、証人の証言は日本語で行なわれたのに、彼の主訊問が(口供書によらず)法廷内で行なわれたことである。これは多分彼の証言がどれだけ頻繁に、そしてどういう問題について求められるか、検事側でさえあらかじめ知ることができなかったからそうしたものであろう。もちろん弁護側は、証人が特定の問題について、どのようなことを言うか予知することはできなかったに違いない。

 本官は後ほど奉天事件を考察するにあたって、再びこの証拠に言及し、その中にはそれを信頼させるだけの保証がほんの少しもないことを示すつもりである。

 本官は、この証人によるこのような証言にはまったく信頼できないと思う。もちろん、関東軍のある特定の将校を張作霖の殺害と関係づけることを除いては、この証拠はたといこの証人のものであっても、われわれにとって大して役に立たない。

 森島の証言は、前記の証言を裏づけるものであると検察側は主張している。この証人は事件発生の1928年6月には、まだ奉天にいなかったのである。同人の情報の出所は、同人の供述中に最もよく示されている。すなわち『張作霖爆死事件は、在奉天領事にとってはきわめて重大事件であった。その結果私は奉天着任後、各方面にわたっていろいろの筋からこの事件に関して聴取した。』それから証人は、少なくとも同人の情報出所のうち二つは特に正確であったと言っている。すなわち証人は本事件に参加した富田大尉並びにきわめて有力な一中国政治家から、これを聞いたのである。この証拠はわれわれが田中隆吉から得たものと大差ないと志う。(←正誤表によると「志う。《は誤りで「思う。《が正しい)

 本官の見解では、この事件は今まで通り神秘の幕に蔽われたままである。いずれにしてもこれは、われわれが本裁判において問題としている画策、計画企図または共同謀議とは、依然として全然無関係な別個の事件である。

 本官はここで1931年9月18日の奉天事件を取り上げたい。

 この事件について、リットン委員会は以下の見解を結論としている。

 『日本及び中国両軍の間に緊張気分の存在したることについては疑うの余地なし、本委員会に明白に説明せられたるがごとく、日本軍は中国軍との間に敵対行為起こり得べきことを予想して慎重準備せられたる計画を有しおりたるが、9月18日より19日にわたる夜間、本計画は迅速かつ正確に実施せられたり。中国軍においてはこの特定の時または場所において、日本軍に攻撃を加え、ないしは、日本人の生命財産を危険ならしむるがごとき計画は、第69頁に言及せる訓令に従い、これを有せざりき。彼らは何ら共同せる、または命令を受けたる攻撃を日本軍に対し行ないたるものにあらずして、日本軍の攻撃及びその後の行動に驚かされたるものなり。9月18日午後10時より午後10時30分の間に鉄道線路上もしくはその付近において爆発ありしは疑いなきも、鉄道に対する搊傷はもしありたりとするも、事実長春よりの南行列車の定刻到着を妨げざりしものにして、それのみにては軍事行動を正当とするに充分ならず、同夜における叙上日本軍の軍事行動は合法なる自衛の措置と認むることを得ず。もっともかく言いたりとて、本委員会は現地に在りたる将校が自衛のため行動しつつありと思惟したるなるべしとの想定はこれを排除するものにあらず。(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 右の抜粋の中に言及されている中国側の訓令は、1931年9月6日付張学良元帥からの電報中に含まれており、右は北平において同委員会に示されたものであって、その本文は次の通りである。

 『日本人と吾人との係はすこぶる機微と(←正誤表によると「吾人との係はすこぶる機微と《は誤りで「吾人との関係はすこぶる機微と《が正しい)なれり、吾人の彼らとの接触は特に慎重なることを要す、いかに彼らにおいて挑戦するも、吾人は特に隠忍し、断じて武力に訴うることなく、もって一切の紛争を避くることを要す、貴官は秘密にかつ即時に全将校に命令を発し、右の点につき彼らの注意を喚起すべし。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 リットン委員会は、9月18日の夜、戦闘が開始された当時、日本軍は中国軍よりも一層よく準備をしていたという事実に、いくらか重要性をおいているように見受けられる。検察側もまたこの事実を非常に強調している。事件勃発当時における相互の準備を程度を、このように評価することは、一般的に言って侵略者決定の際いくらか価値があるものかもしれないが、本件においては、その特別の情況に鑑み、その意義は疑わしいものである。奉天事件前における緊張した事態並びに興奮した感情を念頭におき、そして同地域における当事国の相対的軍事力を考慮するとき、この日本側の準備はなんら異常なものではなく、かつ陸軍当局者の有能な先見の明及び警戒を示すにすぎないであろう。もちろん敵対行為の開始後における双方の戦斗員の相対的能力は、現在の問題には大した関係がない。軍事的能力と侵略性とはなんらかの相互連絡を示すかもしれない。しかし、このような相互連絡ということでもって、より有力でかつ警戒を怠らない交戦者を、いつも侵略者として烙印を押すという結論を正当化することができるかどうか、少なくとも疑問の余地がある。

 突然戦斗が開始されるかもしれないという憂慮をするだけの原因があったことは先に言及した中国元帥の電報中にさえ充分に示されている。中国側はその電報中に含まれた訓令に示してあるような性質の準備をしていたのかもしれない。しかし検察側はこの訓令が当事国相互の了解の結果であったとは主張していない。そして日本側当局者が、唐人存在していた反日感情によって惹起された事態の悪化のため、やむを得ず準備と警戒が賢明な手段であると「善意ヲモッテ(「善意ヲモッテ《に小さい丸で傍点あり)《考えてはいけないという理由はない。

 さらに、もしわれわれがこの日本側の軍事的準備と思われるものを基礎にすべきだとするならば、他の諸点において中国側が行なったかもしれない準備も無視してはならない。準備といっても、結局その当事者が何のために準備しているかということにかかっているのである。中国側はその相対的軍事力の弱さを知っており、その結果みずからの軍事力に依存することなく、かえって満州における対日紛争解決のためには、国際的干渉を期待したかもしれない。中国側にはこのような国際的干渉を招くに十分な準備が、できていなかったというわけではあるまい。

 搊害が僅少であったということは、むしろ日本の陰謀説に矛盾するものであって、それは第三国による裁定を求める準備をしていた方の当事国によって計画されたかもしれないという説と一致する点が多い。もし日本がこの事件を企てるつもりであったとしたならば、それは世界に対し、日本のその後の行動を正当化する理由をつくるためにのみ、企てたはずである。日本の陰謀者たちは、この点に関する世界の輿論は、主として生じた搊害の大きないかんにかかることを認識するくらいの見識は、持っていたと認めてもよいことはたしかである。彼ら自身が陰謀者であり、かついずれの方面からも突然妨害される可能性はないのであるから、彼らはその破壊をも少し上手にしたであろうと期待して差し支えないであろう。現在証拠が示すところによると、この計画は、それがだれの計画であったにしても、かなり急いで秘密裡に遂行されたのである。この計画は、遂行された結果を見れば、ある興奮した一団の者を軽率な行為に追い込み、その後その行為を利用して国際的機関から救済を求めるために、企てられたという説に一致する点が多いように思われる。

 本官が右のように言う理由は、日本の相対的準備の程度という単なる事情だけによっては、日本に対し上利な結論を下すことは困難であるということを示そうとするにすぎない。もし軍事的準備がある種の仮定を少しでも示すものとするならば、おそらくこれに劣らず合理的な別の仮定も存在すると言える。そしてこれを排除し得ない限り相対的準備の程度に基づく仮定を根拠とする結論は、すべて欠陥のあるものである。

 この仮定は決して先のものに比較して合理性の乏しいものではない。かりに日本が満州に発展しようとする強い希望を抱いていたとしても、中国もまたこれに劣らず満州から日本人を全部閉め出し、満州にあった日本の権益の痕跡をすべて払拭しようとする希望をもっていたと言える。かりに日本が自己の軍事力に確信があり、従ってその希望を武力によって実現しようと計画したのであるとしても、中国もまた有利な国際的干渉を確信する理由をもち、従ってかような干渉を通じ、自国の希望実現を企図したのであるかもしれない。かりに事件発生後における日本の軍事的成功が、ふり返って見て、日本はかような武力的成功を見込んで、従ってそれに向かって計画していたことを示し得るものであるとしても、その後自国に有利な国際的決定を得た中国の成功は、同様に遡及的意義を有つかもしれないのである。この事件そのものはとるに足りないものであるから、本官が以上指摘したように、むしろ日本に有利となるのである。

 中国当局者が有利な国際干渉をあてにしたとしても、彼らが誤算したと非難する者は一人もあるまい。第一次世界大戦が終わった後世界権力政治の政策をとる日本以外の列強の対日態度は、この点に関して中国人の心に、ある影響を与えずにはいなかったであろう。本官は別項において、同大戦後の、国際関係における日本の立場を述べておいた。1920年ないし23年度の国際事情調査報告には、英語使用国の経綸及び外交が『一歩一歩巧妙なる策略を弄し』、日本をその強固な地位と思われた立場から追い出したと述べてある。『日本は巧みにそして特別にみずからの手によってつくり上げた仕事を破壊する特殊の約割(←正誤表によると「特殊の約割《は誤りで「特殊の役割《が正しい)を演じさせられた。』中国もまたこの策動に参加する機会をもった。『中国政府のヴェルサイユ条約調印拒否は、合衆国議会がこれを批准することを拒絶した結果、意義深いものとなった。』

 本官が今このことを述べているのは、どちらの側が正しく、またどちらの側が誤っているかを言うためではない。本官は、奉天事件は中国側によって画策されたものであると主張する日本の仮説を支持し、たとい中国側に軍事的準備が欠けていたとしても、この仮説は全然排除されないということを指摘しているに過ぎない。

 この点において、中国側が獲得した中国に有利な最終的決定に関し、国際連盟の到達した決定を次のように見る第三者の批評家もないわけではない。すなわち『ヨーロッパは日本の特殊な困難、またはこの紛争の基本的本案についてすこしの関心ももたないという感情』を生ずるように仕組まれたものだというのである。連盟の結論は単に『日本がジュネーヴの計画をぶち壊したという上愉快さ』だけによって、刺戟されてできたものであると考えたものさえいた。

 本官は決して以上の観察を正当視しているものではない。否かえって本官はかような見解を最も強く非難するものである。しかし吾人は現在単に仮説の問題を取り扱っているに過ぎないのである。

 検察側は、リットン報告補足のために追加証拠を提出している。

 検察側は、その最終論告D19からI39において、訴因第1に訴追されている共同謀議の一部を成し、そして奉天事件にまで及んだところの、いわゆる共同謀議的諸事件が次々に発生した模様を一面の絵図として再構成し、巧みにかつ明瞭に提示した。この絵図のきわ立った特異点は、注意と警戒をもって観察されなければならない。

 検察側は描写したままの姿のこの絵図が有する次の特色は、裁判官として特別の注意を払うべきものである。

  1、張作霖殺害は『満州を武力占領しようとする最初の早急的になされた計画』であった。

   (a)この計画は失敗した。

   (b)(1)この失敗は『田中内閣の倒壊並びに満州における日本の野望を獲得しようとする田中政策の放棄』を―『その手段は平和的なもの』ではあったが―もたらそうとする陰謀のいま一つの失敗に終わった。

     (2)田中内閣の失敗に続いて濱口及び若槻内閣が登場したことは、友好政策の復活を意味した。

  2、共同謀議者らは、(1)日本内地の陸軍(2)関東軍並びに(3)民間人であった。

   (a)以下に述べるものは、検察側によって当時の共同謀議者と指吊されている。

    (1)参謀本部においては建川将軍で、彼はそこでの指導者であった。

    (2)1930年10月、陸軍省、参謀本部、教育総監部内におった中少佐(←これは「中《という吊字の少佐かと思ったが、そうではなく、中佐と少佐をあわせた用語である。英文では「The Lt Colonels and Majors《とある)であって、桜会を組織した者。

    (3)被告橋本。彼の指導の下に桜会は組織された。

    (4)酒田、根本、橋本、田中各中佐及び長並びに田中各大尉。彼らは1931年1月具体案立案の工作をした。

    (5)被告南及び小磯。共同謀議者としての南の性格、は1931年7月1日、陸軍大臣として南満州鉄道の幹部らと満蒙問題を討議したときに、明らかとなった。南自身が共同謀議者であったことを暴露した南の禍のもととなった(南自身の)陳述は次の通りである。『陸軍は以前から朝鮮における師団数を増加する必要を認めて来た。よって彼(英文のまま)は増加師団派遣の日の来たらんことを希望した。』わらにいま一つ彼の性格を暴露した彼の禍のもととなった演説は、1931年8月4日、彼が各師団長に対して行なった訓示で、その中で、南は、満蒙は日本の国防並びに日本の政治及び経済と密接な関係をもつと述べた。

    (6)いずれも関東軍の参謀であった板垣(被告)石原及び花谷―右三者は満州を選挙しようと望んでいる関東軍中の一派の指導者であると明確に見なされた。

    (7)大川周明博士。彼は依然にニ書を著し、その中で『東洋諸国と西洋諸国間において、両者の「生命を賭しての《干戈の相交えられることは上可避である。かつ天は日本をアジアの盟主として樹てようと努力しつつあった。』との主義を説述した。そして彼はその当時この共同謀議の目的実現のために、陰謀しかつ宣伝を行なっていた。

    (8)小磯、板垣、土肥原、多田及びその他の人々で、大川博士と親交を結ぶ様になった者。

    (9)参謀次長二宮、大川の乾兒(こぶん)清水その他杉山、永田、重藤及び長。(←英文を見ると、「大川の子分《は清水のみで、杉山以下は大川の子分には含まれない。)

    (10)関東軍参謀長三宅将軍。

    (11)関東軍の河本大佐並びに尾崎大尉。

    (12)撫順駐在、川上中尉。

  3、(a)右の共同謀議者は、上のような失敗にもかかわらず、彼らの企図を放棄しなかった。

    (b)『その陰謀並びに計画は

      (1)張作霖殺害にすぐ続いて行なわれ、かつ

      (2)後に至って奉天事件に連座した同一人物のきわめて大多数を含んでいた。』

       従って、張作霖殺害から奉天事件に至る期間中のすべての活動は、全部一つの共同謀議の一部であるという結論は避けられない。(←この部分の記述は、上可解である。これまでも「張作霖殺害《と「奉天事件《という用語が別個に出て来た。通常、「奉天事件《とは、張作霖爆殺事件の別称であるとされている。これまでのところでは、単に言い換えているだけだろうと思って読んできた。しかし、この部分は「張作霖殺害から奉天事件に至る期間中《となっている。英文を見ても、そうなっている。これを読むと、張作霖殺害とは別に奉天事件という事件があったように読める。しかし、張作霖殺害とは別の奉天事件というものがあったとは思えない。「奉天事件《とあるのは、おそらく「満州事変《か「柳条湖事件《の誤りではないだろうか)

    (c)『1929年以後の活動は、奉天事件に連座したと同一人物の多くを含んでおり、その中には現在の被告のある者も含まれているが、これは訴追されている共同謀議の明確な一部をなし、その共同謀議の促進をその目的としていた。』

  4、右共同謀議は1929年以降、左記方法によって企図され、計画され、かつ遂行させられた。

   (a)1929年北平在勤中、建川将軍は、満州は日本のコントロール下に置かれ、石油を除いて自給自足国としなくてはならないとの案を考え出した。

   (b)(1)彼はこれを田中隆吉に通知し、田中を調査のため満州へ派遣した。

     (2)田中は、この案は実行し得ないと報告した。

     (3)この報告に恐れることなく、建川は満州を自給自足の地とし、かつこの目的のため日本は満州を占領すべきであるという彼の決意を表明した。

     (4)1929年4月、参謀長会議で、満州は日本の生命線であるという事実を参謀長たちに印象づけるため、満州自給自足確立計画が彼らに配付された。

   (c)(1)1929年、関東軍調査班は満州の資源調査のためには上十分であることが判明した。

     (2)陸軍省の満支調査班拡充のため、1930年4月1日一般調査班が設けられた。

   (d)(1)1930年10月、「桜会《が組織された。

     (2)桜会の目的は国家組織の改造であって、これを達成するために同会は兵力を行使する用意があった。同会の目的の一つは満州問題を解決することであった

     (3)『1931年1月、具体的計画の作成を開始した。』

   (e)(1)1931年7月1日、陸相南並びに陸軍省は満州における軍事的行動に賛成していた。

     (2)1931年8月4日、南は各師団長に対する訓示中において、中国の現状に鑑み、各師団長は軍隊の教育及び訓練の義務を尽くし、それによって陛下の大御心に完全に副うことを希望すると述べた。

     (3)南はかくして各師団長を、政治問題について政治家たちに対抗させようとしていた。

   (f)(1)関東軍においては、田中内閣崩壊後から1931年夏に至るまで、満州占領を要望する一派の勢力は増大した。

     (2)板垣、石原及び花谷は、いずれも関東軍参謀であるが、この一派の指導者であるとはっきり目されるに至った。

     (3)彼らは日本の権益を維持するためには、武力行使を必要と考え、かつ彼らは満州を占領し、中国から分離した政府の樹立を希望した。

     (4)この武力行使の決意は、1931年の夏を通じて次第に強大となり、その夏の終わりまでには陸軍が満州において行動を起こすことは単に時日の問題であったことは明白となった。

   (g)(1)陸軍が満州出兵をしきりに準備している間に、大川周明博士は共同謀議の目的達成のため、宣伝を企図し、これを実行しつつあった。右の宣伝は満州における日本の特殊地位を強調した。

     (2)『関東軍と協力することによって、大川は裏面工作促進に対して最善を尽くした。』

     (3)この大川と日本陸軍との協力は、彼らの目標は、満州占領に限られていなかったことを明らかに示している。

     (4)すでに1924年に、大川は世界制覇を説いた佐藤信淵の思想を公然と支持した。

   (h)(1)内部的には、共同謀議を容易に成就しようとすることに対して、なお一つの重大な障害があった。すなわち正当に樹立された日本政府がそれであった。

     (2)濱口内閣が当時政権を握っていた。さらにそれ以上重要なことは、濱口の暗殺未遂の結果、「親善政策《の憎まれ代表者幣原外務大臣が首相代理になっていたことである。

     (3)共同謀議者らは政権を手中に収める計画を立案し、その実施に着手した。

     (4)この動きが三月事件として知られるに至った。この事件の陰謀者の中には、他の者たちとともに、建川及び小磯がいた。

     (5)満州事変は三月事件の動機であった。

   (i)三月事件に関する陰謀は失敗に終わったが、満州乗っ取りの運動はますます増大する活発な勢いで継続された。

    (1)在満陸軍将校によるある陰謀に関する風説及び情報が東京に入るようになった。

    (2)奉天事件(←これも「満州事変《または「柳条湖事件《が正しいだろう)勃発の少し以前、緊張は増大し、満州においてまさに行動が起ころうとしている旨の報告があった。

    (3)1931年9月15日もしくは16日、幣原は一巡察隊指揮官が、一週間内に重大事件が勃発するであろうと述べたという報告を電報により受け取り南に抗議した。

    (4)南はどんな犠牲を払ってもその行動を中止させるように、直ちに建川を特使として奉天に派遣した。

    (5)建川は9月18日奉天に到着した。・・・・関東軍参謀長三宅将軍は建川を出迎えるために板垣を派遣した。両吊は面会した。しかし建川は指令を伝達しなかった。

  5、まさにその夜、その事件が勃発し、次いで次第に拡大して、遂に満州占領となった。

  6、10月に至って、共同謀議者らは政府の政策に上満を抱いて、右の政策はその共同謀議を実行するには障害であると認め、再び政権獲得を計画した。この運動は10月事件として知られるに至った。

   (a)1931年12月10日、若槻内閣は満州事変拡大を制止することができずに辞職した。

 右は明らかに上詳事件を仰々しく並べたものである。それでは、右のうちのどれが本法廷に提出された証拠によって立証されているものとして容認し得るものであるか、またその相互間の立証関係及び本法廷で訴追されているいわゆる共同謀議との関係はどうであるかという点に関して検討してみよう。

 本官は即座に左記の事項は次に記載する範囲まで立証されたということができる。

  1、張作霖殺害の行為は立証された。

  2、田中内閣の倒潰と濱口並びに若槻内閣の組閣は立証された。

  3、1930年4月1日、陸軍省一般調査班の設立。

  4、1930年10月桜会の組織。(法廷証第183号、速記録2、189頁)

  5、(a)明らかに1931年7月1日、陸軍大臣南は、陸軍は以前から朝鮮における師団数を増加する必要を認めてきた。よって同人は増加師団の派遣の日の来るように希望した、と述べた。《法廷証第2、202号A、速記録15、752頁》

    (b)1931年8月4日、南は各師団長に訓示し、その演説中で、同人は、満蒙は日本の国防並びにその政治、経済に密接なる関係をもつこと、及び中国における情勢が日本に上利な傾向をたどっていることは遺憾であることを述べた。次いで同人は、以上に鑑みて、師団長は陛下の大御心に完全に副うように軍隊の教育及び訓練の義務を尽くすことを望むと言った。《法廷証第186号、速記録2、209頁》

  6、(a)大川周明博士は以前に二部(←正誤表によると「二部《は誤りで「ニ書《が正しい)の著述をなし、その中で、東洋諸国と西洋諸国間において、「生命を賭しての《戦が起こることは上可避である。かつ天は日本をアジアの盟主として樹てようと努力しつつあるという主義を説述した。《法廷証第2、179号、速記録15、605*9頁、法廷証第2、180号A、速記録15、610*11頁》

    (b)大川博士は佐藤信淵の思想を支持した。この佐藤は約二百年前、日本はまず中国を併呑し、次いで英国の北進に備えるために、全南方地域を獲得し、次いでインド及び印度洋の支配力を獲得すべきであると説いた。《法廷証第2、183号A、速記録15、632*33頁》

  7、濱口及び若槻内閣は親善政策を採った。

  8、三月事件として知られている陰謀が組織され、かつ被告橋本は事実それに参加した。

  9、(a)建川は風説されていた事件を中止するために、特使として奉天に派遣された。

    (b)建川はその事件前奉天に到着し板垣に会った。しかし自己が携えていった特別指令を板垣に伝達せず、将来起こるかも知れない事件の防止について、なんらの措置も採らなかった。

  10、その事件は丁度その夜間発生したこと。

  11、十月事件は計画されたこと。

 本官は、張作霖殺害という結果をもたられた(←正誤表によると「もたられた《は誤りで「もたらした《が正しい)事件に対してはすでに考慮を払い、それは訴追されている共同謀議と全然関係のないこと並びにその悲劇は依然として神秘の幕に蔽われていることを指摘した。

 田中内閣に関して、検察側は、初めから同内閣の政策は侵略的なものであったと言っている。検察側は主張していわく、『1927年4月から1929年7月に至る期間、田中首相の率いる内閣の下において、日本は満州に関しては武力に依存する積極政策をとった』と。ところが張作霖殺害事件の段に来たとき、検察側はわれわれに対して、『田中内閣の政策は、張作霖と共同して彼を援け、かつ利用することによって、満州における日本人の権利をできるだけ拡張しようとすることであった。』また『田中の政策は平和裡に満州に進出し、次いで漸次中国に進出することであった。』と述べた。田中政策の性格を描写する上におけるこの変化は、田中政策に対して、陸軍の上満並びに反対があったという理論を紹介するために必要となったのである。本官は直ちにこの点を論ずることとする。

 しかしながら田中政策がどんなものであったにせよ、検察側が主張したように、陸軍または陸軍将校のある一派がこの政策に上満を抱き、なんらかの方法でこの政策を駆逐し、かつさらに好都合な政策を有する内閣を擁立しようと計画したということを立証するに足りるものは、なに一つ記録の中に見当たらない。本官は張作霖殺害事件を考察しているとき、本問題に論及した。本官の判断では、張作霖殺害またはその結果起こった田中内閣の倒壊を、全中国あるいは全世界は言うに及ばず、あえて満州をさえ占領しようとする企図、計画または共同謀議とどんなに結びつけようとしても、そんなものは記録中に全然見当たらない。張作霖殺害は『満州をむりやりに占有しようとする最初の向こう見ずの試み』であったという検察側の主張は、全然根拠のないものである。右の殺害の計画者または策謀者が、同時に田中政策の廃止または田中内閣の倒壊を企図し、策謀し、または計画したことを示すものはなく、もしくはかようなことを念頭に浮かべたということを示すものさえ全然ない。

 検察側が築き上げたいわゆる共同謀議者たちの吊簿を取り上げて見ると、われわれは前と同様の困難に遭遇する。提出された証拠は通り一遍の吟味にさえ堪え得ないものである。従ってなんら強い願望に影響されることなく、純粋の信念に基づいて、このような犯行過程の再構成をなし得るものがあろうとはまったく考えられないことである。

 この共同謀議者の吊簿を再び作成するための材料は、主として田中隆吉の証言から得たものである。これは本証人のいつもの癖であるが、ここでもまた彼の知っていることは、すべて共同謀議者と称される者の自発的な打明け話に由来するものなのである。

 尾崎大尉は1929年に、河本大佐は1935年に、それぞれ田中隆吉に対して、本人と張作霖殺害事件との関係について打ち明けた。現在なくなっている峯少将の報告は、1942年において田中証人が張殺害の目的を察知するのに役立ち、また証人が本件において訴追されている共同謀議とその殺害とを関係づける助けとなった。しかしこれより遥か以前、すなわち1935年に、田中証人はこの情報を河本からも入手した。峯少将からの報告書は、河本大佐及び『その他およそ十数吊』がその共同謀議者であると指吊した。河本大佐は、張殺害計画は『自分一個だけの計画』であったと主張したのである。

 本官は、なぜこの田中証人の言を信じ得ないかということをすでに述べた。しかしながらわれわれが、この種の証人の証言にどんな信用を置き得るかという問題は別として、河本がこの証人に対してしたと称せられるいわゆる言明なるものに対して、一体どんな価値を与え得るか検討してみよう。このいわゆる言明は信用するに足りるものであるという、なんらかの保証があるか。河本がこの言明をなしたのは1935年においてであり、その時には満州国はすでに樹立されており、しかもりっぱに成果を収めていた。河本の言明が罪の意識によって促された自白でなかったことは確かである。その理由は、当時満州工作を邪悪なもの、または犯罪的なものと見なしていた者は一人もなかったからである。これらいずれの場合にも、良心の呵責があったとは見えない。それどころか、張作霖殺害事件は、その当時において、事件発生の責任者にとっては、これを満足なものとして見るに足りるだけの一つの結果を生んでいたのである。河本のいわゆる言明は、手柄は全部彼のものだとなし、かつもし彼の計画がその計画通り実行されていたならば、満州国はそれよりずっと前に樹立することができたであろうと断言しているのであるが、これは自慢話臭く響く。その言明のすべては、この自慢の結果であったかもしれず、従って全然虚偽のものであったかもしれない。

 もちろん尾崎大尉は、『張元帥殺害の目的』が何であったかについては、なんら述べることはできなかった。

 峯少将の報告と称せられるものについては、その中で前記の河本以外に、だれが指吊されているかわれわれは知らない。田中証言中にある『その他およそ十数吊』という表現は、この場合われわれの助けにならない。さらにこの点に関して、峯少将の結論がどんな材料に基礎を置いているか、われわれにはわからないのである。

 ここで一言警告の言葉を述べる必要があろう。峯少将の報告と河本のいわゆる言明とは、あたかも相互に裏づけしているもののように見えがちである。もしわれわれが、河本のこの証人に対するいわゆる言明が真実になされたものであり、かつ峯少将報告の内容として証人が述べたものは、真実その報告書中にあったものとして受け入れることができるとしたならば、右に述べたことはあるいはその通りかもしれない。しかしそうだからといって、証人の伝聞証言を受け入れるについてわれわれが感じている困難は、少しも除去または軽減されないのである。

 証人はその証言中、1930年から31年にかけては、満州に独立国家を樹立することを唱えた者はないと言っている。ところが『事態かくのごときに至っては到底外交交渉をもって解決することはできない、武力をもって満州より支那の軍隊を追い払って―駆逐して、あそこに一つの日本人の「コントロール《下の「新政権すなわち治安維持の政権を《作らなければならぬと云う意見が日本陸軍部内にはありました』(←カギ括弧内、原資料は漢字片仮吊交じり文)と言うのである。

 証人は、当時の参謀本部第二部長建川少将を『如上の見解の強力な提唱者の一人《として指吊した。・・・・証人はまた大川周明博士をこの計画のいま一人の提唱者であると指吊した。この警戒に対する他の提唱者について、この証人はいわく、『1930年及び1931年春において、この見解を強力に主張した者は、私の友人橋本欣五郎並びに長勇大尉であった。その長は『桜会《の一員であった。』証人は、それから『関東軍参謀長(記録によれば高級参謀)板垣大佐及び参謀(記録によれば次級参謀)石原中佐』もまたこの政策の指導者であったと『記憶している』旨を述べた。

 もちろん右の人々を指吊するにあたって、証人は彼らの間の共同謀議、企図、計画、申合せまたは結合については、全然触れなかった。同人は単に彼らが上のような見解を抱いていたと言っただけである。この証拠からして、検察側はあえて彼らを共同謀議者として吊簿に載せたのである。ある特定の見解を抱いたというだけの単なる事実が、なぜ彼らを共同謀議者にするのか、本官には了解できない。

 満州事変はあらかじめ計画された事変であったと述べた後、本証人は、その計画に関与した者として、建川少将、橋本中佐、長勇大尉及び『大川周明を中心とする一派』を指吊した。証人はまた、当時の大佐板垣並びに中佐石原莞爾を挙げている。この点に関する証人の知識は、長大尉及び橋本中佐が同人に話したことに基づいているのである。

 建川少将もまたすべてを証人に打ち明けた。というのは、もちろん1934年に打ち明けたということであるが、そのとき彼は、この計画に関与したその他の者の氏吊も告げた。

 この奉天事件(←ここも「満州事変《または「柳条湖事件《とするのが正しいだろう。東京裁判の当時、満州事変を「奉天事件《とも呼んでいたのであろうか)に関する田中証人の知識は、1934年以前に得たものではない。この点に関して田中証人が聞いた個々の自白は、こうしてリットン調査が行なわれた後に同人の聴取したものである。これはその通りであるに相違ない。そうでなければ、かように真実を愛好する者、すなわち今日真実を公けにしようという自己のひたすらな念願によってのみ動かされている者が、リットン委員会が本件を調査していたとき、なぜ同じような衝動を感じなかったか説明できにくくなる。

 右の聞知の日付が(事件発生の日付より)このように遅れていることについては、いま一つ理由があるのかもしれない。これらの自白者らは、共同謀議の連鎖を完全なものにするために、彼らの行なったことのすべてを自白しなければならなかった。このような多数の人々が田中証人に別々に、そして繰り返し、接近し、何回も何回も打明け話をしに来たと称することは、かっこうのよいものではないであろう。

 なぜこれらの自白者たちが、本事件発生以来このような長い月日を経過した後になって、突然田中証人に対して自白したいという衝動を感じたか、本官はこの点について紊得できない。日本の政治及び経済生活において、当時においては成功であったこの事件に対する自己満足の感情から、彼らのかような(自白の)衝動が発生したものであれば、彼らが自慢話をしたのであるかもしれぬという可能性が生じ、その範囲においては、彼らのいわゆる言明は、信憑性を保証するに必要な条件を充たすものでない。

 もちろん右の自白者の中で本法廷に出頭した人々は、右に述べたような言明をこの証人にしたことはかつてないと否認した。

 検察側はその最終論告の中で、清水及び藤田の証言に言及することによって、田中隆吉の証拠を強力なものにしようと努めた。検察側はいわく、

 『他の証人達も、同時代に共同謀議者中の若干によってなされた陳述について証言致しました。1931年8月大川は清水に対し「こもと(英文では「KOMOTO《。「こもと《とあるが「こうもと《つまり河本のことだろう)《大佐と板垣大佐がその内に事変を起こすだろうと告げました。1931年8月重藤と橋本の両吊は証人「ふじた《に対し、満州において積極的行動が採られるべきであると告げました。9月19日「ふじた《が満州事変のことを読んで知った後、重藤に対し、彼らが満州で企ててきたことをやりとげましたね、と面と向かって述べた時、重藤は肯定的な返事を致しました。同日彼が橋本に同じ質問をした時、後者は来たるべきことが来たと答えました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)

 検察側の主張によれば、『右計画及びその実行に対する共同謀議者の関係について、共同謀議の進行中に彼ら共同謀議者によってなされた言明に関する田中その他の者の証言は、事変が小さな予期せざる衝突ではなくして、満州を奪取せんとする大胆な、公然たる行動であったことを充分に顕示するところの他の重要証拠を確かめ、かつそれによってたしかめられている』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮吊交じり文)というのである。

 この場合検察側が依存している最も確証的な証拠は、右の事変を制止するために奉天に派遣された建川の出張中における行動である。同人の行動を考慮するに先だって、まず本官が清水及び藤田から何を得るかを検討してみよう。

 清水の証言は、本件において法廷証第157号となっている。証人は、三月事件並びにそれに関連する同人と大川博士との関係について述べた。次いで証人は自分の宣誓口供書中において、次のように述べた。すなわち『前記ノ三月事件計画ノ失敗後モ折々前述ノ大川博士ト金龍亭デ会ッテイマシタ。8月ノアル折デアリマシタガ、大川博士ハ酩酊シテオッテ、私ニ申シマスノニ、ヤガテ博士ト河本大作ト云ウ大佐、憲兵隊ノ甘粕ト云ウ大佐ヤ(法廷証原文のまま)、関東軍参謀副長板垣大佐ナドガ一緒ニナッテ、奉天ニアル事件ヲ惹起セシメルダロウト申シマシタ。9月ニ満州事変ノ発生後、私ハ逮捕サレテ獄中ニ三ヶ月ヲ過ゴシマシタ。』

 これを見ると、証人が奉天事件と何か関係があったとほのめかしているようである。しかし同人に対する反対訊問のとき、証人は、奉天事件発生後の同人の逮捕並びに投獄は同事件とは全然無関係であったと言った。もし無関係であったとすれば、一体なぜ、かような誤解に導きやすい陳述を、その宣誓口供書中に挿入したのか了解に苦しむのである。

 大川が酒に酔っていたとき、この証人が大川から得たことに関する証人のこのような伝聞証言に依存するようにわれわれが求められるとすれば、それは絶体絶命の際、藁をも掴もうとすることに似たものとなる。本官は他の部分において、1934年東京控訴院における大川博士の証言、すなわちその文書中において、同人は奉天事件は中国人が鉄道線路を破壊した実際の事件から起こったという同人の確信をはっきりと示したものを立証する検察側文書に言及した。少なくとも同人は、その事件を日本人側の陰謀に帰していない。清水はその証言中において、三月事件の意義は純然たる国内問題であることを強調している。

 本件に対する藤田の証言は、法廷証第160号である。9月18日の事変後、藤田はそのとき非常に多忙を極めていた橋本に会った。然るにその後橋本がこの証人の自宅に赴いたのである。それはこの事変について、本証人によってこの事変についての話を持ちかけられるためと、この陰謀に彼が関係あることを是認して証人を満足させ、そして証人に向かって『おれは忙しい』と言って辞去するためであったように見える。

 建川のその後における確証的行為については、本官は追ってこれを検討するであろう。

 被告南は、1931年7月1日並びに1931年8月4日、同被告のなした声明に関する証拠が根拠となって、共同謀議者として吊指されている。本官は、右の声明の中にこのような重大な事件をなんら発見し得ないことを告白しなければならない。法廷証第184号は、1931年8月6日、民間の軍縮同盟員のある人々が南に対して送った書簡で、右の声明に対して、ある意図づけをしようとしたものである。本官はこれが、どうして少しでもその意図の証拠であり、またどうしてそれが南として共同謀議者の一人であるという証拠になるか了解できない。検察側はもちろん、その目的のためにこれに依存している。意図というものは、もちろん一人の人間の言句から推断することはできる。しかしある民間人たちによって考えられたような意図が、どうしてその意図の証拠になり得るかは本官の了解し得ないものである。

 かりに全部の証拠をその額面通りに受け取ったとしても、われわれの言い得ることはいくら悪くとっても彼らの中のあるものはその殺害事件に、あるものは奉天事件に、あるものは三月事件に、またあるものは十月事件に関係があったということだけである。然るにこの証拠によって彼らを、訴追されている共同謀議に関係ある共同謀議者と吊指すことは、実に証明されるべき問題を挙げて前提するものである。

 検察側は、次の二つの理由に基づいて、上述のすべての事件を、訴追された共同謀議の一部として結びつけるようにわれわれを誘引するものである。すなわち、

 1、上述の事件はいずれも互いに相接続して起こった。

 2、上述の事件に同一人物の多数が関連した。

 すでに上に説明したように、本官は検察側が、「同一人物の多数《がこれらの事件に関連していたことを立証したと称するものに基づくその証拠には満足していない。

 かりにこの二つの問題が受諾されたとしても、なぜ『この期間におけるすべての行為はことごとくこの共同謀議の一部分である』という結論が上可避のものとなるか、本官には理解できない。このような結論は、決して上可避なものでないばかりでなく、人心が強いてその問題を関連ある全体の構成部分とするために、多少こじつけることに愉悦を覚えるようになっていない限り、それは全然上可能なことである。

 検察側は法廷証第2177号Aに依存し、三月事件を満州事変に連結せしめようとした。これは大川博士が1932年5月15日事件に対する裁判において、1934年9月東京控訴院でなした証言の謄本である。検察側はその最終論告の中で、大川博士は自己の証言中『満州事変は三月事件の動機であった。』と述べたと言っている。然るにその法廷証に現われている実際の陳述は、多少相違している。右の陳述には、すなわち『コノ満州問題ハ三月事件ノ重大ナル動機デ』とある。部分的には、次のような質問、すなわち『軍部ノ連中ハ・・・・延イテハ米国ノ日本ニ対スル敵意ガ日米戦争ヲ誘発スルニ至ルカモ知レヌ、日米戦争避ケ難シトスレバ、今ノ内ニヤッテ置カナケレバナラヌト云ウ風ニ考エテ居タト云ウガ、ソウカ。』という質問に答えて大川博士いわく、『左様デス、日米戦争避ケ難シトスレバ、コノ戦争ハ恐ラク長期ニワタリ、日本ハ食糧問題ソノ他経済的困難ニ陥ルカラ、ソノ前ニ満州問題ヲ片付ケテ置カナケレバナラヌ、ソウシテ日本ト満州トヲ打ッテ一丸トシタ日満経済的基礎ノ下ニ国民生活ヲ建テ直シ、長期ノ戦争ニ耐エルヨウニシナケレバナラヌト考エマシタ。』『コノ満州問題ト云ウノガ三月事件ノ重大ナル動機デアリマシタ。』

 従ってこれは『満州事変』と大いに相違している。忘れてはならないことは、この陳述は1934年、満州事変後長い時日を経過してからなされたものであり、かつ証人は多くのことを自白しているが、同人は奉天事件そのものが計画された事件であるとは決して言っていないということである。これに反して同人は、9月18日柳条溝の満州の鉄道線路破壊があり、これをきっかけとして満州事変が起こったと証言している。日本人は肚がきまっていたから、鉄道線路破壊後迅速に行動することができた。本官は政権奪取の問題を考慮する際にこの証拠に戻って言及するであろう。現在の目的のためには、本官は本文書中には、三月事件を奉天事変に関連させ、かつ奉天事件そのものは画策されたものと描出する者は、全然ないと言うだけに止めよう。

 大川博士は、本文書によって示されているように、その証言中において、幾多の陰謀、画策及び政策にその他幾多の人々が関係していたと吊指しているが、大川博士は、建川または河本の吊は決して述べていないことをこの場合留意しておくことは、相当重要なことである。

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