歴史の部屋

 然るに建川は、奉天事件に関する検察側事件の全連鎖における主要な一環をなしている。

 検察側は、事件中止のために奉天に出張したときの建川の行動は重要な証拠であり、右は『計画及びその実行に対する共同謀議者の関係について、共同謀議の進行中に彼らによってなされた陳述に関する田中その他の者の証言』を確証するものであると述べている。

 1931年9月15日もしくは16日に、幣眼男(←正誤表によると「幣眼男」は誤りで「幣原男」が正しい)爵は、ある巡察隊の指揮官が一週間以内に大事件が満州に勃発するであろうと述べた旨を報ずる電報報告を受領した。幣原男爵はこれを当時の陸相南大将に通知した。何ぴとが建川をその目的のために選んだかということに関しては、多少の異論がある。しかしわれわれが現在考慮している問題の対象として、建川を選んだのは、検察側の主張するように南大将であったということに推定しておこう。南は、どんな犠牲を払ってもその行動を中止しようと、直ちに建川を特使として奉天に派遣した。建川は旅行中も、また奉天滞在中もこの使命達成に平服を着していた。建川は9月18日午後奉天に到達した。関東軍の板垣は夕方近く建川に会い、同人と会食した。かつその会談中に、建川は旅行で疲れたということ以外には何事も話さなかった。確かに建川は、その夜自分の使命については漏らさなかった。そしてその事変は同夜発生した。建川は自己の使命を果たさずに帰任しなければならなかった。

 検察側はいわく、『板垣が問題に触れるどのような項目の論議をも巧妙に妨げて、板垣と建川が愉快に閑談したことは、肝心な事柄について沈黙するという相互的共同謀議であった。それは双方とも、その沈黙を破れば、全体の計画を未遂に至らしめるということを知っていたからである。』だれでもなぜであろうかと不思議に思うであろう。両名はいずれも共同謀議者であった。両名ともこの計画を知っていた。両名ともこの計画が遂行されることを希望していた。わずか二人の共同謀議者だけが同席していた。第三者がだれかそこに居合わせていたということは、なんら言及されていない。壁に耳がない限り、もし両名の愉快な閑談中に、一語二語建川の使命について挿し挟まれて、そのことについて呵々大笑して楽しんだとして、どうしてその計画を流産に終わらせることができただろうか。

 われわれは、建川がその共同謀議に参加しており、その夜、その計画が断行されることを知っていたのであるという推定から出発しないと、なぜ彼が問題の当夜、板垣に対して何事をも知らさなかったかということは、大して異常な事柄でも何でもないことになる。もし彼の行動が共同謀議者としてのものと両立するとしても、それは彼が共同謀議に参加していなくても、ひとしく説明することができる。従って本官は、この行動がどのようにしてすでに上に討議した田中隆吉の伝聞証拠を確証するものであるか了解し得ない。この行動を、われわれが田中から得たような伝聞証拠の確証として受理するには、それに対する実に非常な強度の欲求を必要とするものである。

 われわれはこの問題に対する弁護側証拠を入手している。それには被告の一人南大将の証言、並びに本庄将軍が自殺前に書き残した同人の陳述書が含まれている。われわれはまた当時の関東軍参謀石原の嘱託訊問調書を持っている。以上はいずれも、この事変が日本人によって計画されたことを否定している。たとい1931年9月18日の奉天事件が関東軍の青年将校によって計画されたという田中及び岡田の証言を受け入れるとしても、本官は、被告の何人をもその一団または一派と関連させるに充分な証拠を発見しない。本官の意見では、その事情は今日もなおリットン委員会の調査の結果と何ら変わるところがないと思う。本事件は、ある名前の知れない陸軍将校の計画の結果であったかもしれない。さらに事件のために行動した人々は、あるいは「善意をもって(「善意をもって」に傍点あり)」行動したかもしれない。

 訴追されている共通の計画の目的というものは、主として田中隆吉の証言によって供給されたものである。それは時折、共同謀議者みずからが、同人に対して自発的にした自白から同証人が入手した智識に基づいているものである。

 前述のいわゆる峯少将の報告書から、この田中証人は、張作霖殺害の目的は以下のものであると言っている。すなわち、

 『当時の田中内閣の満州問題積極的解決の方針に従って、関東軍はその方針に呼応すべく北京、天津地方より退却する奉天軍を――張作霖の軍隊を錦州西方の大遼河で武装解除する計画を持って居りました、その目的は張作霖を下野せしめて張学良を満州の主権者として、あそこに当時の南京政府から分離した新しき王道楽土と申しますか、新しき天地を作って、ここに日本が「コントロール」する所のいわゆる安居楽業の地、言い換えれば、非常に平和な地帯を作ると云う目的であったのであります。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 『満州における軍閥の勢力を除いて、満州を当時いわゆる北伐中でありました南京政府と分離して、あそこに新しき王道楽土を作るのが目的でありました』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 1935年、証人はまた河本大佐から上の趣旨を聞いていた。なかんずく河本は同人に以下のように話した。すなわち『恐らく満州事変は、あの時に警急集合ができて居ったならば起こったであろう。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)同大佐はまた証人に対していわく、『それ(殺害)は全く自分一個の計画であると。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)同大佐はまたいわく、『この機会に満州における軍閥の勢力を駆逐して、張学良を立てて、南京政府と分離した立派な平和地帯とする。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)・・・・『満州は南京政府より分離して、日本の指導し、「コントロール」する所の一つの地帯を作って、あそこ・・・・を開発し、又日本の国防を鞏固にしなければならぬと言いました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 参謀本部員としての資格において得た自分の知識、並びに1930年ないし31年の満州問題調査実施中に得た知識からであるとして、同証人は次のように言った。すなわち、陸軍部内のどの分子にも『なんらの提唱はなかった。』(←このカギ括弧内は片仮名ではなく、ひらがなである)すなわち『満州に独立国を作ると云う提唱はありませぬでしたが、事態かくのごときに至っては、到底外交交渉をもって解決することはできない、武力をもって満州より中国の軍隊を追い払って――駆逐して、あそこに一つの日本人の「コントロール」下の王道楽土を作らなければならぬと云う意見はありました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 大川博士から、同証人は以下のことを得た。すなわち、

 『是非とも満州は南京政府より分離して、日本の「コントロール」下における王道楽土を作らなければならぬ。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 大川博士はさらにいわく、『「アジア」は17世紀の初頭以来白色人種の侵略を受けて、その大部分は今や植民地もしくは半植民地の状態にある、「アジア」民族は今や全く日本を除いてことごとく被圧迫民族の状態にある、満州を独立せしめて、これを日本と不可分の関係に置き、日本の国力が充実して来たならば、日本を盟主として「アジア」における一切の白色人種の勢力を駆逐して、「アジア」の勢力の復興を図らなければならぬ。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 大川博士はさらに証人に告げていわく、『1930年の初めに、彼は満州の張学良の所に行き、張学良にこのことを勧めたけれども、今や張学良にはさらにこの意志がなく、随って・・・・日華関係の険悪な今日の情勢においては、武力をもってやる以外に方法がない。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 従ってこの陳述によれば、『武力』という考えは、1930年のこの会談の後に生まれたものである。

 1934年大川博士は証人に向かって次のように語った。『満州の独立は彼が青年時代より理想とする「アジア」の解放の第一歩である。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 同年《1934年》橋本は証人に向かっていわく『満州事変は関東軍において計画されて居った、自分はこれに呼応して満州事変発生を援助せんがために、日本の国内政治の革新、言い換えれば、当時非常に政治が紊れて居りましたが、この紊れた政治を打解して関東軍の行動を支持するごとく努めたと言いました、十月事件はこれがために自分と長が中心になって計画したのであるが、遂に失敗した、これはできなかった、しかしながら満州国の独立はできたと云うことでありました、初め自分の知って居る所では――自分と云うのは橋本中佐ですが、満州国は関東軍が占領してこれを開発する予定であったが、満州国と云う一つの国家を作って国際法上の摩擦を避けて行くのが宜しいと云うことを関東軍に云ってやった、彼のこの提案はとりあげられた。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 検察官の『彼は最終の目的は何であったかと云うことをあなたに話しましたか』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)という質問に対して、証人は『イエス』と答えている。『満州を「アジア」復興の基地となさんとするのであります、』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 さらに検察官の質問、すなわち『事変当時関東軍が満州に関していかなることを提唱したかと云うことについて、彼はあなたに語りましたか』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)というのに対して、証人は『彼は関東軍は満州を関東軍の下において占領して、経済開発を行なうと云う計画であったと云うことを話しました、』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と言った。

 長大尉は1932年6月、上海において次のように言った。すなわち『十月事件は、当時思想的並びに政治的に行き詰って居った日本の国内政治の徹底的革新を行なわんがために、当時の政府首脳者を暗殺して、新しき政府を作り、これによって日本の国内の政治の革新を行なって、日本国家を救い、同時に、満州事変を日本国民一致して支援するごとくする積りであった、』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 橋本は長大尉が1932年にすでに言った通りのことを、1934年にまた証人に対して話したのである。

 建川将軍は1929年に証人に対して以下のように話した。すなわち『どうしても満州を日本の「コントロール」下に置かなければならない、その目的は石油を除いてそれを自給自足のできる国家にするためである、』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 1934年建川は証人に対して、十月事件の目的は当時の政府を倒し、その代わりに満州事変を支援するような新政府を樹立することであると語り、そして同人はかような新政府を支援するつもりであると付言した。

 大川博士及び橋本中佐の言明であると言われるものを除いて、証人のいわゆる、共同謀議の目的は、検察側が本件において立証したと称するものと、はるかにかけ離れている。われわれがこの証拠から知り得る最大限のものは、兵力によって満州の支配を把握しようとする計画があったということである。大川及び橋本が言ったとされている言葉でさえ、本件において訴追されている共同謀議の目的及び手段に、われわれを到達させるものではない。

 本官は1931年の三月及び十月事件並びにその後発生した同種類の事件を訴追されている共同謀議者等による政権奪取の問題を考慮する際、これを論ずることにする。本官の当面の目的に対しては、これらの事件がいかに悪質なものであったとしても、本件において訴追されている共同謀議には、少しも関係のないものであったというだけで充分である。この諸事件を証拠として提出したことが、弁護側から次のような批評を招いたのも、当然である。すなわち『少なくとも14年間にわたる孤立かつ無連絡な事件の長い叙述が、雑然とした形式で蒐集されていて、しかもこの集積の中から検察側は裁判所に対して、一点の疑う余地のない程度にまで、起訴状に述べられている共通計画または共同謀議が、その目的達成のために存在していたことを見つけてくれと要求している。』

 本裁判において、この論点に関して提出されたすべての証拠を慎重考慮した後においても、なお本官は、われわれはリットン委員会の報告の範囲を越えて考える権利はないものと考える。しかも本官の意見では、リットン報告は、われわれが、満州事変は起訴状に訴追されているような共同謀議の結果であると認めることを、正当化しないであろう。

 もし必要とあれば、本官は、この事変は当時の日本政府及び陸軍の首脳者らの上に、刑事的責任を負わせるために(用いられた)侵略戦争という言葉に与え得る意義においての、侵略戦争ではなかったと述べることに、躊躇しなかったであろう。

 いずれにしても列強は、この事変を犯罪的行為として取り扱うことを拒否したようである。そしてかような列強の行動は、当時存在していた法律の状態を示すために、大きな役割をする。加州大学マックス・ラディン教授は、『ニュールンベルグの裁判』と題する1946年4月出版の論文中において、1928年のケロッグ・ブリアン条約及び1924年のジュネーヴ協定の効力を左のような言葉で述べている。すなわち

 『その条約によってドイツはその他多数の国家とともに、国際政策の具としての戦争を正式に放棄し、そしてすべての侵略戦争を強く弾劾した。しかし個々の政治家及び著述者がどんなことを言ったにもせよ、右条約制定の事情を記憶する者をして、当時の輿論中には、最大限においては経済ボイコット、最小限度においては世界の道徳的非難以外に、なんらかの制裁が目論まれていた、と納得させようとしても、これはなかなか困難である。』

 博識な同教授は次いで次のように指摘している。『1924年のジュネーヴ協定中に、侵略戦争について使用された『国際的犯罪』という用語は、当時の評価以上に現在これを評価することはできない。それは修辞的用語としては――正に一つの立派な修辞ではあるが――的確な法律的内容を含んだ用語ではない。』

 ラディン教授はさらに次のような所見を述べている。これは本裁判の問題に、適切な関連をもつものと思う。すなわち同教授はいわく、

 『もしケロッグ・ブリアン条約またはジュネーヴ協定違反が、その違反する国家もしくはそれを使嗾(←正誤表によると「使」は誤りで「使嗾」が正しい。が、原資料にはちゃんと「使嗾」とある)する人たちについて、犯罪を構成するものであるとすれば、ニュールンベルグ裁判所設立に参加した当時における列国のすべての行為は、現在彼らが犯罪であるとして弾劾するものに、黙諾を与えたという不幸な照明中に、みずからをさらすことになる。この条約違反行為が行なわれたとき、これらの諸国家はなんらの公式抗議も出さなかった。日本が満州を侵略したときの国務長官スチムソン氏のような、高邁な人士の個人的忿懣の念は、記録による限り大統領もまた国会も、これに共鳴しなかったのである。そして、もし国民の大多数がこれに共鳴したとしても、そのために日本に対する戦争を是とするであろうアメリカ人の数は、大したものでなかったと見る理由は充分にある。』

 『合衆国は、また英国、フランス及びロシアは、これらを犯罪として取り扱うことを拒絶し、その犯罪を犯した諸国家並びにこれらを教唆した人々と密接な関係を継続したとき、彼らみずからもこれらの犯罪に対する事後従犯者となったのであろうか。なぜこのような結論にならないか、了解しがたい。』

 もしわれわれが、日本及び現在の被告たちが、今、満州事変に関連して、訴追されている犯罪を犯したとの見解を受け入れれば、前記の結論は確かに出てくる。しかし本官として十分な客観的条件があり、それによって日本は自衛の必要上、この手段を「善意ヲモッテ(←「善意ヲモッテ」に小さい丸で傍点あり)」決定したのであると主張する資格があったとの見解を採る方に傾いている。従って満州事変当時、侵略戦争は国際法上犯罪となったとの見解を、かりに本官が受け入れることができたとしても、本官は断じて満州事変を、このような侵略戦争であるとは考えなかったであろう。

 日本は国際連盟理事会に提出した日本の声明書中に、以下のように述べている。すなわち『満州における日本の特殊地位というものは、はなはだ神秘不可解なものとされているが、実は、きわめて簡単なものである。これは日本がもつ特殊な条約上の権利《それに加えて日本の近接性、地理的地位及び歴史的関係の自然の結果》と、そしてカロリン事件で樹立された基準原則による、肝要かつ正当な自衛手段の総合にすぎない。右の原則とは、すべての自衛行為を正当化するためには、防御すべき利益が重要であるか、またはその危険が切迫しているか、及び、その行為が必要であるのでなければならない、ということである。・・・・後に戦争の不法化を規定したケロッグ・ブリアン条約を締結させた交渉の行なわれていた当時、合衆国の上院でケロッグ氏自身が《1928年6月23日の覚書》、また当時の英国外相が《1928年5月及び6月の覚書》、またフランス及びドイツの政府が、声明を行なったが、これらの声明は明らかに自衛権を留保したのであり、その声明のいずれもケロッグ氏がなした次の見解と矛盾するものはない。すなわち『各国はいずれも・・・・事態が自衛のため戦争に訴えることを必要とするかどうかを、単独に決定する資格がある。』これはさらに英国及びフランスの覚書が明らかに確証しているところである。

 すでに本官が述べたように、上述の声明において言及されているところの、1928年6月23日のケロッグ氏の通牒は、日本を含む各国に宛てられた回章であり、その中で、ケロッグ国務長官は自衛権の問題について次のように述べているのである。

 『不戦条約米国草案中には何ら自衛の権利を制限しもしくは毀損するものなし、該権利は各主権国固有のものにして、一切の条約中に黙示的に包含せらるるものなり、各国民はいかなる時においても、又条約の規定いかんに拘わらず、攻撃又は侵入に対してその領土を防衛するの自由を有し、かつ右国民のみが自衛のため戦争に訴うるを要する情勢にありや否やを決定するの権能を有す、もし右国民にして正当なる理由を有する場合においては、世界はこれを是認し、その行動を非とせざるべし、然れども放棄し得ざるこの権利を、条約により明示的に承認せんとするは、侵略を定義せんとするに当たり恒に遭遇すると同様の困難を惹起するものなり、右は同一の問題を反対の方面より観たるものなり、いかなる条約の規定も自衛の自然の権利に何ら付加すること能わざるにより、条約をもって自衛権の法律的概念を規定するは平和のため利益に非ず、けだし無法なるものにとりては協定せられたる定義に適合する様、事件を捏造すること極めて容易なるをもってなり』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 当時日本外務大臣であった田中男は、1928年7月20日右の通牒に対して回答をなし、「特ニ(←「特ニ」に小さい丸で傍点あり)」この問題について次のように述べたのである。

 『帝国政府は去る4月提出せられたる条約原案に対する、帝国政府の了解は、亜米利加合衆国政府の了解と、実質上同一なるをもって今般提議せられたる修正に対し、衷心賛同し得ることを欣快とする旨、貴下に通報するの光栄を有し』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)云々。

 かような立場に基づいて、日本は、満州国においてとった行動は、どの点においてもケロッグ・ブリアン条約に違反しないと主張したのである。

 国際法の規則のうちで、その交渉当事者(←正誤表によると「うちで、その交渉当事者」は誤りで「うちで、条約はその交渉当事者」が正しい)の意図に照らして解釈すべきであるという規則ほど強固に確立されているものはないように思われる。右の意図はもちろん条約の本文に示されていると認められるが、同時に他の方面からもこれを求めることができる。すなわち署名もしくは認証の時に条約に添付されたところの特定の留保のうちに、または批准前の交渉中提出された解釈、解明、了解、注釈、制限、または現実の条件のうちに、これを求めることができる。日本が他の締約国とともに条約に参加したのは、けだしケロッグ氏のなした解釈のために、特に同氏が無定義でまた無制限な自衛権を無条件に承認したためにほかならないのである。

 すでに本官が指摘したように、現太平洋戦争直前行なわれつつあった日米交渉の際にも、米国は正当な自衛行為とは、『国家の権益に対する攻撃、あるいは国家の安全に対する脅威の有無時期と場所とはその国が自ら決定する』ことを意味するものと了解していた。この自衛は『現代戦争の電撃的速度』を念頭に置いて、軍隊をどのような戦略的拠点にも駐屯させることができることも含むものと了解されていたのである。

 満州における日本のとった行動は、世界はこれを是認しないであろうということは確かである。同時にその行動を犯罪として非難することは困難であろう。もし、ある領土主権国が、領土保全を外国に尊重させるために、その尊重を、東洋のある国に求めるにしてもまた西洋のある国に求めるにしても、同じ代価(←正誤表によると「代価」は誤りで「代償」が正しい)を払うことを要するものとすれば、本官は、当時満州に存在していた事実ならびに情勢にてらして、更に、当時存在していた国際法に鑑みて、日本の行動を犯罪的であると非難しようとは思わない。

 第一次世界大戦以来の日本の国際関係について、本官は他の部門においてすでに述べてきた。パリーの講和会議において、日本は四大連合国の一員に列し、ヴェルサイユ条約によって、ドイツは中国山東省の旧ドイツ権益を正式に日本に譲渡せねばならないことになった。1919年6月28日、ヴェルサイユ条約の調印をもって、日本の繁栄期に到達しようとする努力が全うされたものと、他の連合国は見たのであった。しかしながら国際問題協会の調査委員によって示されたように、この誇りある瞬間は、日本国民をしてかくも労苦の多かった国民的努力の成果を安楽に楽しませる黄金時代の黎明となったのではなく、むしろそれを頂点として、日本は苦難の谷底に落ちることになったのである。1919年から1926年ほかけて(←正誤表によると「1926年ほかけて」は誤りで「1926年にかけて」が正しい)の数年は、日本の国際的地位に劇的逆転をもたらした。ソビエット政府はアメリカの外交の援けによって、極東及び太平洋における強国として、旧ロシヤ帝国の遺産を、自己のために救出することに成功したのである。中国人は半自発的な民衆抵抗の手段によって、日本の経済的帝国主義を速やかに挫折させた。この手段は後に至って英国に対しても同じく効果的に用いられたのである。日本の好景気は、異常な戦争状態によって刺戟された俄か成金的な膨張に止まり経済方面で日本の手に残った永続的な利益があったにしても、結局アメリカ合衆国においてはそれをさらにさらに大規模な獲得(←正誤表によると「大規模な獲得」は誤りで「大規模に獲得」が正しい)したということになったのである。ワシントン会議において、合衆国は英帝国と協力して、慇懃ではあったが、しかし執拗な態度をもって太平洋及び極東における勢力の均衡回復したのである。日本の経済不況に引き続いてきた大震災は致命的な経済的打撃となったのである。ワシントン会議に続いて1924年の米国の移民制限法は、公然の政治的屈辱となった。最後に1926年にはロシヤ共産党の援助を仰ぐところの中国における国民党の勃興を見た。この運動の最初の段階、すなわち国民党が揚子江流域の支配権を握ろうとしつつあった当時は、英国がその攻撃のおもな対象となり、1925年及び1926年においては、英国の不人気のため、日本は中国との貿易を増大させることができた。しかしながら長い目で見れば、これらの中国における出来事は、英国にとってよりも日本にとって不吉な前兆であった。たとい中国における英国の権益がすべて消滅したとしても、英国自身は世界の大商業国として、また大きな政治的強国として生存し続けたであろう。しかしながら日本は、あたかも英国が欧州大陸に結びつけられているように、変更しえない地理的偶然によってまず第一に極東大陸に結びつけられており、もしソ連及びその援助によって再び統一された戦闘的国家主義の中国が、日本に対して共同戦線を張った場合には、苦労して漸くかち得た大国の地位を、なお保ち続けることはほとんど望めなくなったであろう。鉱物に乏しい日本にとって、満州における経済的権益は贅沢品ではなく、国民生活に絶対不可欠の必需品であった。一方関東租借地及び満鉄付属地における日本の政治的地位は、ロシヤにとって目障りであったばかりでなく中国の国家主権に対する地役権であり、新興中国は一旦実力を獲得すれば、必ずやこれに挑戦するであろうということは予想されたのである。

 かようにして日本の国際的地位は、国家主義的中国、ソビエット連邦及び太平洋における民族意識の強い英語を国語とする諸民族によって、四方から囲まれて、突然再び危険状態に陥った。同時に日本の国内均衡は、同様に重大で、同様に急激な政治的、社会的変化によって乱されたのである。本官は、いわゆる共同謀議者による政治権力奪取の問題を考察するときに、この国内的不安のことについて考慮するであろう。もちろん、検察側は、これも起訴状に訴追されている共同謀議の一要素と見なそうとしているのである。

 ここに、これら日本の国内生活における重大な出来事について、詳細に述べる必要はないであろう。ここには、これらがすべて日本政府の当時の外交政策を生み出し、知識階級の思想に影響する結果をもたらしたと言っておくだけでよかろう。

 一国の政策は実に同様な情勢から起こるところの進化的過程であろう。当時の日本の政策が隣国に対する正義と公平に基づく賢明な利己政策であったか、あるいは単に主我的な侵略政策であったかは、われわれの現在の目的のためにはさほど重大事ではない。ここに提出された証拠は、満州に対して日本がある態度を有していたことを示すだけで、それは必ずしも起訴状に主張されたような計画、または共同謀議を示すものではないということを指摘しさえすればよい。

 四囲の情勢が日本の外交関係を形成しつつあったのである。展開されつつあった外交政策が正当化され得るかいなかはとにかくとして、本審理に提出された証拠に基づいては、本官はそれが起訴状に主張されたような全般的共同謀議の結果であり、またどのような点においても、かような共同謀議の存在を示したものであるとは言うことができない。本官の見解では、この点に関する検察側の主張は常軌を逸したものである。(In my opinion the prosecution allegation in this respect is a fantastic one.パル判事はfantasticという言葉を使っている。fantasyと関連があるこの言葉は、「空想的な」という意味であり、そこから「法外な」「奇抜な」という意味も出てくる。翻訳班は「常軌を逸した」と訳した。なかなか適切な訳である)

 満州自身は日本にとって、当時の緊急問題であったし、また証拠も、本官の意見によれば、われわれをして満州以外のいかなる国に対する意図をも認めさせるものではない。

 この点に関して、ワシントンの九国条約がしばしば援用された。

 この九国条約及び当時行なわれたこれに類似した他の諸方策が、日本の国民生活にとってどのような意義を有していたかは、1920年ないし1923年の国際問題協会の調査の文面に最もよく現わされている。英語を国語とする諸国の政策がいかに日本の野心(←正誤表によると「政策がいかに日本の野心」は誤りで「政策が日本の野心」が正しい)を挫折させた一つの要因であり、またそれら諸国の外交が、ちょうど日本の外交の最も弱かった箇所において、最も強かった次第を述べた後に、同調査員は次のように言っている。すなわち、

 『彼ら(英語を国語とする諸国)は、日本を難攻不落と見えた地位から、巧妙な策謀によって一歩一歩押し出してしまった。中国政府がヴェルサイユ条歩に(←正誤表によると「ヴェルサイユ条歩に」は誤りで「ヴェルサイユ条約に」が正しい)調印することを拒否したことは合衆国議会がこれを批准することを拒否したことによって意義を与えられた。またシベリヤにおける日本の政策に対する極東共和国の抵抗は、1918年7月及び8月の同文宣言に関する、米国国務省から、日本外務省に対して発せられたところの、鄭重ではあったが、強力な勧告によって更に力を与えられた。日英同盟は1921年12月13日の四ヶ国条約によって置きかえられ、その当然の結果として、1922年2月11日のヤップ条約が調印された。二十一ヶ条要求は、1920年10月15日の新たな対支借款協定及び1922年2月6日の中国に対する九国条約によって置きかえられた。またヴェルサイユ条約中の山東省に関する条項は、1922年2月4日の日支条約によって置きかえられた。さらに各国の海軍建艦競争は、海軍軍備制限によって置きかえられた。しかしながらこれらの諸行為は、すべて礼節を守り温順さをもってなされたために、日本は憤激したり、または急に友好関係を断絶したりする機会を、まったくもたなかったのである。彼らの丁重で巧妙な態度によって、自分で作りあげた成果を無効にする立派な役割を、日本自身が演ずるように仕向けられたのである。

 これが日本歴史のこの劇的な一幕において、西洋諸国の政治的手腕及び外交が演じた役割なのである。さらにわれわれは、このワシントン会議に続いて通過した1924年の合衆国移民制限法が、日本に対する明白な政治的屈辱となったことを想起すべきであろう。これらの事件が、英語を国語とする諸民族の外交及び政治的手腕の勝利を物語るものであることは疑いようもない。しかしながらこの勝利をもって、直ちに慶祝の機会となすべきであるとは言えないであろう。もっともこれは本論点にとっては無関係なことではあるが、これらの巧妙な策謀は、その後の出来事に大きな影響を及ぼしたものと見て差し支えないであろう。

 現在の目的のためには、日本の内外事情及び中国における無秩序な諸事件を含むところの世界情勢が、日本の行動を正当化し得るかどうかを検討する必要はない。ただこれらの諸事件の発展は、起訴状の訴因第1、あるいはまた訴因第2に主張されているような共同謀議を理由としなくても、確かに日本の満州政策の説明となるものである。もし他の列強のすべてが、その政治家と外交官との間の共同謀議がなくても外交政策を立て得るとすれば、本件において提出された証拠のうちには、われわれをして否応なしに日本にかような共同謀議があったと推論させるようなものは、何も本官には見当たらないのである。

 しかしたとい起訴状に主張されたような共同謀議が実在していて、また、満州事変がその共同謀議の結果であったと仮定しても、現在の被告がこれとどんな関係をもっているかという点はまだ分かっていない問題である。

 われわれの前に裁判を受けている者のうち、この段階までのところで、いわゆる共同謀議に関連しているとして、とにかく名前だけでもあげ得るものは土肥原、橋本、板垣、小磯、南、大川だけである。本官の意見では、提出された証拠では、他のどの被告に対しても、微塵の疑いをも抱かせることのできる暗示は少しもないのである。

 もちろん幾人かの証人は、「関東軍のある若い青年将校」について語ったこともあり、また確かに現在の被告中のある者は、事変勃発当時は比較的若く、関東軍の将校でもあった。しかしながら、まさかこの理由をもって、この点に関して彼らに不利な証拠があると言うものはあるまい、またないと本官は期待する。

 検察側は土肥原に対する訴追の最終論告にあたって、同人を侵略の先駆者と呼び、「彼は共同謀議者の最初の一人であって、共同謀議にはその発端から終わりまで参加した」と述べている。そして検察側は、土肥原が共同謀議に参加したことを立証するために、次の主張及び被告に対する証拠を強調している。すなわち、

  1、満州事変前に土肥原はすでに18年も中国におり、彼が中国の事情に通暁していることは彼の上官の認めるところであった。《法廷証2、190−A、英文記録15、723、英文記録19、995》(←このような部分を、どう表示するか、毎回迷う。英文では「(Exh 2190-A,T.15723 T.19995)」とされている。3ケタ毎に入れる「,」を、翻訳班が補ったのだろう。が、それが「,」でなく、「、」で表現されている。一応、そのまま「15、723」としておくが、まぎらわしいので15,723」とするほうがいいかもしれない)

   (a)彼は満州の事情に特に通じていた。《法廷証2、190−A、英文記録15、722》

  2、土肥原は、満州を日本帝国に合併することを熱心に唱えていた大川周明博士と親交を結ぶに至った。《法廷証2、177−A、英文記録15、565−6》

   (a)大川は満州事変前、二年以上も陸軍と協力して、積極的行動の扇動をしていた。《法廷証2、177−A、英文記録15、573−5、法廷証2、178、英文記録15、595》

   (b)(1)土肥原は陸軍軍人であり、中国通であったため、帷幄に参加した者のうちの最重要人物の一人になった。

     (2)大川と親交のあった他の陸軍軍人中には、被告板垣と小磯がいた。《法廷証2、177−A英文記録15、565》

     (3)土肥原は陸軍を中心とした、満州に対する一層積極的な政策を有する内閣の樹立計画立案に関係した。《法廷証2、177−A、英文記録15、587》

  3、1931年8月、土肥原は奉天の関東軍特務機関長に任ぜられて、1931年8月18日同地に着任した。《法廷証2、190−A、英文記録15、713−4》

   (a)(1)表向きは、彼は中村大尉事件を調査し、同事件について、中国当局と交渉するため同地に赴いたのであった。

     (2)その真の使命は、中国軍の兵力、訓練、交通通信施設及び民衆の状況を調査し、判定することであった。《法廷証2、190−A、英文記録15、724−25》

     (3)その際彼は上海、漢口、北京及び天津に広汎な旅行をした。《英文記録15、725》

   (b)(1)中国側当局が全力をあげて中村事件の平和的解決に努めていた間、土肥原は、中国側の満足な解決に到達しようとする努力の誠意を疑い続けた。《法廷証5、765、英文記録28、642》

     (2)これによって土肥原は、この旅行の後、すでに中国側には抵抗力がないものと見なし、従っていつでも積極的処置をとり得るように待機していたことがわかる。

  4、1931年9月初旬、板垣及び他の関東軍幕僚らが、中村事件を口実として満州で軍事行動の開始を計画しつつあるという報道が東京に達した。《英文記録1、324・33、590》

   (a)(1)土肥原は報告のため東京に召喚された。

     (2)土肥原は満州におけるすべての懸案を、できるだけ早く必要があれば武力によって解決することを主張する者として新聞に報道された。《法廷証5、764−66》(←英文を参照すると、「法廷証57の64−66頁」が正しいようである)

     (3)土肥原の報告によって、満州は日本の支配下に置かれるべきであると常に主張していた参謀本部の建川が奉天に派遣された。《英文記録2、002、法廷証2、190、英文記録15、714・15、725−26》

     (4)土肥原は直ちにあとを追った。《英文記録15、714・15、725−26)

     (5)建川が平服を着て奉天に現われた日に事変が勃発した。《英文記録3、002−3》

   (b)(1)奉天事変の勃発した1931年9月18日夜に、土肥原そのものは奉天にいなかったが、土肥原特務機関の事務所は侵略戦争の中心であった。《英文記録30、353、30、355》

     (2)その後の出来事についての証拠は、明らかに9月18日の事件における土肥原の役割を示している。

  5、東京からの帰還に続いて、1931年9月21日土肥原は奉天市長に任ぜられた。市長は、過半数が日本人員である臨時委員会によって補佐されたのである《法廷証5、788》

   (a)土肥原の市長就任には重大な意義が含まれている。

    (1)日本が九国条約によってその領土及び行政の保全を誓約したところの中国の一都市の行政を、初めて日本軍現役将校が引き受けたのである。

   (b)1931年9月後半、いわゆる独立運動を助長するため自治指導部が奉天に設立されたとき、土肥原は特務機関すなわち諜報部を担当していた《英文記録2、793−4》

    (1)日本軍の後援による地方自治実現のためあらゆる努力がなされていた。《英文記録3、628−9》

   (c)土肥原はまた地方治安維持委員会についても積極的で、そこに残されていた中国人官吏に対しても非常な圧力を加えた。《英文記録3、962−3・33、605−6》

   (d)土肥原は前皇帝溥儀を天津から満州に移す陰謀の頭となり、これを実行した。《英文記録15、726及び33、618》

 検察側によれば、上述の主張は、被告に対する各証拠によって確証されたものであり、それらの証拠は次の二点を確証したと主張している。

  1、土肥原は1931年9月18日の奉天事変の共謀者の一人であったこと。

  2、土肥原が

   (a)訴因第1に訴追されている全般的共同謀議及び

   (b)訴因第2に訴追されている限定された共同謀議

    の共同謀議者の一人であったこと。

 現在のところ訴因第1及び訴因第2に訴追されている全般的共同謀議、及び限定された共同謀議はさておき、今までの証拠によっては、土肥原が奉天事変に関する検察側のいわゆる共謀に関係していたということは言えないと言って差し支えないであろう。同人の不在中、同事変勃発直後、作戦を遂行するために、同人の事務室が使用されたという事実を除いては、証拠中に同被告がどのような点においても、そのいわゆる陰謀に関係していたことを示すものはまったくない。

 土肥原を奉天事変に関係させる目的をもって、検察側がその基礎として主張している事項中、上述の第1項は全然これを考察する必要はない。土肥原は確かに中国に18年滞在したことがあり、同国の事情に通暁しておった。しかしながらそのことは、現在われわれの取り上げようとしていることに、なんら関連性のあることを示唆するものではない。

 第2項の基礎としては、法廷証2、177−Aが挙げられている。これは東京控訴院において、1932年の5月事件に関する裁判中、大川博士がなした証言である。大川博士は数名の陸軍将校と親交を交えるに至ったと述べ、いろいろその名をあげたうち、土肥原少将、板垣少将及び小磯中将の名をあげた。同博士は南満州鉄道の社員になった後、これらの人物を知るようになったようである。同博士が『満州を日本帝国に合併することを熱心に唱えていた。』ことに関しては、その裏づけとして上述の証言中、同博士が法学博士の学位請求論文に言及していた部分があげられている。同博士は、この論文を準備する研究中、『今や大国時代が去って、超大国時代が来ると云う信念』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)を抱くようになったのである。いわく、『今日のような時代に国家が独立国として立って行くためには、少なくとも自給自足の出来る領土がなければなりませぬ。それは現在の世界情勢が明瞭に立証して居ります。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)さらに、『日本で言えば、どう云う領域を打って一丸としなければならぬのか。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)という質問に答えて、大川博士は『可能の範囲は朝鮮及び満州ですが、満州だけで足りると思います。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と述べている。大川博士がこのような見解を抱いていたからといって、非常に有害な人物となったかどうか、単に彼の知り合いであったことそれ自体が、土肥原の有罪であったことを示すものであるかどうかは、私は言うことができない。証拠それ自身は、知り合いという「事実(「事実」に小さい丸で傍点あり)」以外のことは述べてない。土肥原が大川のいわゆる「主張」を知っていたかどうかということについてさえ述べていない。また土肥原が大川のかような見解に同意していたことを示すようなものは何一つもない。

 大川が『満州を日本帝国に合併することを熱心に唱えて居った』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)という主張を裏づけようとして、検察側は大川博士の上述の証言を引用した。検察側はその最終論告で、記録15、566ページにおいて法廷証2177号Aを引用した。同法廷証中において同博士は、同氏の法学博士号の学位請求論文について述べ、それに関して『超大国時代』について述べている。さらに打って一丸とする領域について『可能の範囲内』にあるものとして、朝鮮及び満州をあげている。これにはもちろん武力によって打って一丸とするようなことを示唆するものは一つもない。一方次のページでは、彼は外交によって獲得した『満州ニオケル日本ノ勢力』について述べ、外交政策に関して日本の国論が統一しないことについて歎じ、彼のいわゆる愚かな外交政策について述べ、『こんなことをやっていたのでは、日本の対外発展は出来ませぬ』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と不平を述べた。同博士の証言を全体として読むと、武力による発展ないしは合併を主張したことは見出しがたい。同博士の企図した合併は、政治的合併よりはむしろ経済的合併のように見える。1931年国際問題協会が描いた『英国世界秩序』に似たものである。本官は後ほどこの世界秩序について述べよう。検察側が根拠としている証拠は、少なくとも帝国に合併するなどとは述べていない。

 第2項のAに関しても同じ証言を裏づけとしている。しかしながら同証言は、同項において検察側が要約して述べているほどのことは述べていない。大川博士は、その証言中のこの部分においては、『満蒙問題は資本家や政治家に委せておけない。満蒙問題の解決は国民運動によらなければならぬと云う所から国民運動を始めた。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と述べている。同博士はこれについていわく、『講演ヲヤッタ。』さらにいわく、『私は狭い国では独立できぬと云う建前から、国民に向かって、先ず差し当たって日本は経済的発展を満州に試みなければならぬ。満州と日本を一体とした経済組織の上に国民生活の基礎を置かなければ、国家は立って行かないぞと云うことを急速に知らしめてやろう。そうすれば満州問題の解決も出来ると考えた。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)大川博士は、これら講演を行なったのは1929年4月または5月の下旬からであり、満州事変勃発当時まで続けたと述べた。今までのところでは、いわゆる『積極的行動』または『陸軍ト協力シテノ積極的行動』について、何事も現われていない。ところで証人は言葉を続けて、『問、それぞれに対して反響があったか。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)に答えて、『実に意外の反響がありました。始める当座はどれほどの反響があるか分からなかったのですが、それを始める時に陸軍の当局と一緒にやろうじゃないかと相談しましたところが、陸軍では賛成せず、軍人がやると又軍国主義だ、帝国主義だと悪口を言われ、効き目がないからと云う訳で私だけでやって(後略)』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と述べた。さらに証人は、『国民の方にそう云う不満の声が高くなったので、軍部もその傾向を看取して、段々積極的に乗り出して来た。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)ことを主張し、さらにいわく、『軍部は機を見るに敏ですから、そう云う傾向が盛んになると実に積極的に動き出して来ました。そうして最後には、吾々の方と一緒にやり、参謀本部その他から講演者を寄越すと云うようになりました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)これがこの項に関する一部始終であり、本官が読んだところでは、『大川は陸軍と協力して積極的行動のために扇動をして居りました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)という検察側の最終論告を裏づけるものは、何一つ見出すことができない。

 検察側の最終論告では、『積極的行動』という表現を使い、この積極的行動』(←正誤表によると「この積極的行動』」は誤りで「この『積極的行動』」が正しい)が『陸軍と協力して』の行動と形容することによって、武力の使用を含む邪悪にして公然たる行動を示唆するかのように見える。法廷証2177号Aには、このようなことに関する仄めき(ほのめき。かすかな現われ)さえ見出せない。大川博士のこの証言に関する限り、「積極的行動」という表現は、証人がとりかかった仕事に積極的に協力する以上の何事をも意味しない。また文章の前後関係によって、証人は単に輿論をある方向に傾かせようと努力しておったことについて述べているにすぎないことがわかる。

 日本においては、「陸軍ノ援助ヲ求メルコト」は、必ずしも武力の使用に関する計画を意味したものではない。日本では、陸軍は実はいわば国民の政党であった。日本の陸軍は国民皆兵に基づいて徴集されたものである。下士卒の中堅は農村無産階級の青年層によって形成され、『当時ノ陸軍ハ自ラ農民ノ闘将ヲモッテ任ジ、』この農民層は当時の世界情勢によって『絶望セル農村無産階級ノ状態ニ陥ラシメラレテ居ッタノデアル。』本官は、当時の陸軍が日本の『国民』といかなる関係にあったかという問題を、後に取り上げてみよう。今言おうとすることにとっては、自分の起こした運動のために国民の同情を集めようとすることにとっては(←正誤表によると「自分の起こした運動のために国民の同情を集めようとすることにとっては」は誤りで「(コノ全文削除スル)」とされている)、自分の起こした運動のために国民の同情を集めようとするものが、陸軍に対してその協力を求めることは必ずしも邪悪な意味をもつものではないと言えば充分であろう。

 検察側は第2項(b)(1)に、上述のように土肥原は『極ク内輪ノ者ノ一人ニナッタ』と主張したが、これは検察側の仮定にすぎず、もちろんこれを裏づける証拠は一つもない。

 さらに第2項(b)(3)に主張されるように、土肥原が『内閣樹立ノ計画、立案ニ関係シタ』ことに関しては、その裏づけとなる証拠はまたもや大川と同じ証言(←英文を参照すると「大川の同じ証言」が正しい)である。同人は同証言中十月事件について述べている。問『最高ノ「プラン」ハ誰ガ立テタカ。』に答えて、大川は『ハッキリシマセヌガ、私ニ命ジタノハ橋下欣五郎デス。』と述べている。さらに、『ソウスルト誰ガ一番上ノ計画ヲ立テル人デアッタカ分カラヌカ。』と問われると、大川は答えていわく、『想像ハシテ居リマス。』次の質問は『重藤、橋本、板垣、土肥原ナドガ関係シテ居タカ。』で、これに対して証人は『左様デス。』と答えた。これは大川の推測に過ぎず同人がかような推測またはかような推量をしたため、土肥原が同計画に関係していたとどうして言えるか、本官にはわからない。

 上述の第4項の最終論告の裏づけとして、検察側は法廷記録1、324ページ及び33、590ページの証拠の参照を求めた。この証拠は幣原男爵の証言であり、その証拠の中どこを見ても『板垣及ビ他ノ関東軍幕僚達ガ中村事件ヲ口実トシテ・・・・計画シツツアル。』というような報告はない。法廷記録1、324ページには、法廷証156すなわち幣原男爵の宣誓口供書が載っており、同口供書には次のように記載されている。『満州事変直前、外相として関東軍が軍隊の集結を行ない、ある軍事目的のために弾薬物資を持ち出して居る旨の機密報告及び情報を受け、又ある種の行動が軍閥によって目論まれて居ると云うことも、その様な報告から分かりました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)また同宣誓口供書の中、どこを見ても検察側の最終論告の主張するような『板垣及ビ他ノ関東軍幕僚達』は指名されていない。法廷記録1、333ページにおいて、この点に関して反対訊問をされる際に、証人は自分の宣誓口供書のこの部分における「報告」という言葉は、少し言葉が正しくないと述べた。証人いわく、『私の言うのは「風説」を聞いた。「リポート」でなくて、風説と云う積もりで言ったのです。すなわちあそこに・・・・満州に居りまする居留民の人達が私の所へ来て色々話をする中に、そう云うことを言って居った者があった。これは何も、私がそう云う公けの報告を受けたと言う意味ではありませぬ。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)法廷記録1335ページにおいて、証人は『軍閥』という表現を説明するに、『私がその頃聞いた所では、若い士官達が色々な計画をして居ると云うことを聞いたのでありまして・・・・』と述べている。記録33590ページにおいても、証人は問題をそれ以上には進展させなかった。証人は満州在留邦人中の4、5名が証人の所にやってきて、『ある青年将校が彼らの所にやって来て、ある種の援助を命令した・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と告げたことを述べている。この証拠に基づいて、どのようにして検察側が、板垣及ビ他ノ関東軍幕僚達が計画しつつあり、しかもその計画は中村事件を口実としての計画であるという報道が東京に達したということを主張し得るか、本官は了解に苦しむのである。この点に関して土肥原に対する検察側の最終論告は、まったく証拠の裏づけのない検察側の主張にすぎない。

 上述の第4項(a)(3)における検察側の最終論告は、実に人を誤らせるようなものである。最終論告はあたかも土肥原の報告が建川を使者とすべきことを提案したもののように示唆している。証拠は確かにそうではない。土肥原は、上述の目的のための建川の選任について、全然無関係であった。法廷証第2190号は、1946年1月11日、検察側によって聴取された土肥原の訊問調書である。本官は土肥原の報告が、奉天に使者を送ることについて何かの関係があるという主張を裏づける何ものも、この訊問書中には見出すことができなかった。建川が『満州ハ日本ノ支配下ニ置カルベキデアルト常ニ主張シテ居タ』ことに関しては、その証拠はもちろん田中隆吉の伝聞証拠にすぎない。田中隆吉については、本官はすでに十分述べ尽くしておいた。

 上述のように本官は検察側が基礎としているいわゆる『ソノ後ノ事件』について述べたのであるが、どうしてこれらの事件が検察側によって主張されている陰謀における土肥原の役割を、重要かつ明瞭なものにするか了解に苦しむ。

 土肥原は法廷証2177−A中において、大川博士に親しかった者の一人として挙げられている。大川博士は右の書証の中で、小磯中将、岡村少将、板垣少将、土肥原少将、多田少将、河本大佐、佐々木大佐及び重藤大佐と深く相識るに至った旨を認めている。この書証は極く悪く解釈したところでせいぜい当時の土肥原の交際範囲を示すものにすぎない。しかしながら本官は交際によって有罪になるという理論をわれわれは容認するつもりはないものと信じている。土肥原のこの事件との関係もまた奉天事件直後に『土肥原大佐が奉天市長に任命された』ということ、並びに三日間内に正常な民政を回復することに成功したという事実によって立証しようと試みられたのである。1931年9月18日の事件の結果として、奉天市並びに遼寧省の民政はまったく混乱に陥り、ほかの二省の行政もまた、いくらか軽くはあったが、やはり影響を蒙った。市政府の組織並びに同市の一般生活を通常の状態に回復するということが、即刻必要であった。この仕事は日本人によって着手され、迅速にまた能率よく遂行されたのである。本官は右の目的のために土肥原大佐が任命されたということによって同人がこの事件のいわゆる陰謀、もしくは訴追されている共同謀議と関係があったことが何らかの方法で示されることになるのか、その理由を了解し得ないのである。土肥原は陸軍将校であった。そして陸軍当局が同人に白羽の矢を立てたのも、おそらくはその手腕を買ってのことであったと思われる。少なくともこの点では同人は手腕のある行政官であることが分かった。この証拠に基づいて、本官は同人を陰謀または共同謀議と結び付けることはできない。

 土肥原の市長任命は、ほかの点において意義を持っているのかもしれない。もしこれが日本側の何かの約束を破ったものであるならば、また実際に破った場合においてのみ、この任命は日本側の不法行為を構成することにもなったかもしれない。しかし本官は、その意義が、奉天事件のいわゆる陰謀に土肥原が参加したかどうかの問題に関係するものとは考えない。本官の見解では溥儀を天津から満州へ移したことを含めて、検察側がその根拠とした奉天事件以後の出来事の中には、この問題に関する限り、何か少しでも意味を持っているものは一つもないのである。それらの事件は訴因1及び2において主張されている共同謀議の存否に関連して、なんらか重要性を有するものであるかもしれないし、また土肥原がこれらの共同謀議の参加者であったかどうかという問題と、何か重要な関係を有するものかもしれない。この問題はいずれ適当な場所で触れることにしよう。しかし本官は、このような種類の共同謀議の存在についてはまだ納得していないということを今すぐ言っておきたい。いずれにしても本官は、これらの被告のうちだれ一人でも、かような共同謀議と結び付けることはできなかったのである。

 橋本、板垣及び小磯を奉天事件並びに訴追された共同謀議に結びつけようとする試みの基礎とされている証拠は、主として当法廷でなした田中隆吉の証言、及び1934年に東京控訴院でなした大川の証言から成り立っている。本官はすでに奉天事件に関連してこの証拠を考察しておいた。これについては、政治的権力の奪取に関する問題を考察する際に、さらに論議するつもりである。本官の見解では、この証拠は右の人々といわゆる陰謀並びに共同謀議との関係を立証するものではない。疑いもなく、橋本と小磯は右の証拠中に挙げられた事件の中のあるものには関係していたのである。しかしながらかような事件がいかに悪質なものであったにしても、それは起訴状に主張されているような種類のなんらかの共同謀議を示すものではないのである。

 奉天事件並びに訴追されている共同謀議と南との関係を立証するために、検察側は左の資料を提出し、これをもって同人の関係は充分に立証されるものであると主張した。

  1、奉天事件以前における南の陸相としての活躍。

  2、同事件以後における南の陸相としての活躍。

  3、満州事件に対する同人の見解。

  4、陸相在任期間以後における同人の活躍。

  5、関東軍司令官としての同人の活躍《1934年12月10日より1936年3月6日に至る》

 南は1931年4月14日より同年12月12日に至るまで若槻内閣の陸軍大臣であった。

 当時の日本政府は、検察側の主張によれば共同謀議に参画していなかったものであることを記憶しておかなければならない。検察側によれば、共同謀議は政府部外に存在していた。従って南が閣内に地位を占めていたというそのことだけでは同人は共同謀議者とはならないのである。

 陸軍大臣としての南の政策、行動及び態度については、検察側の証人で、当時、日本の首相であった若槻が証言した。南に不利なことは、この証拠によっては何も挙げることが出来なかった。

 検察側は、次の事柄をこれについて提出された証拠に基づいて強調している。

  1、(a)『南は三月事件を知っていたか、または知っているべきであった。』《1963頁》

    (b)『同人は次のことを知っていたか、または知っているべきであった。』すなわち

     (1)、『桜会には陸軍省を代表する者がいたこと。』《1963頁》

     (2)、『桜会は、国内の革新と満州問題の解決を遂行することを目的としたこと』《1963頁》

    (c)『南は1931年の夏、すでに満州の事態の重大性について、十分な報告を受けていた。』《32308頁》

     (1)、小磯はこれについて南に話をした。《32308頁》

     (2)、このような会談の結果、無責任な行動を阻止するため建川中将が派遣された。《32309頁》

     (3)、南は建川が満州問題に関心を持っていたことを知っていた。《19、822頁》

     (4)、南は建川が三月事件に際して、大川に爆弾を与えた責任者であることを知っていた。《32325頁》

  2、『南は危機が迫っていることについて、充分通告を受けていた。』

   (a)このことは1931年7月に開かれた会合を見ればわかる。

    (1)、同人は、満鉄当局者を官邸に招待して、満蒙問題を論じた。《15753頁》

    (2)、陸軍側は三月事件の謀議者建川を含む各種の将校によって代表されていた。

    (3)、出席者は『満蒙諸問題について、腹蔵のない意見を交換した。』《15753頁》

   (b)その後、同じ月に、南は次のように述べた。すなわち『朝鮮に増師の必要があることは、陸軍が伝統的に認めてきたところである。自分はもとより、三長官は増師の日の近からんことを切望している次第である。』《15753頁》

   (c)1931年8月4日開催された陸軍と師団長との会合の席上において、南は『われわれの生命線、満州を保衛せよ。』と言ったといわれている。《法廷証2207、15784−85頁》

   (d)南は奉天事件との関係において決して消極的ではなかった。

  3、南は自己を平和の使徒であると偽装しようと努めているが、リットン委員会の報告に見られるように、同人は平和の使徒ではなかった。すなわち同報告書中には次のように述べてある。『南京ニオイテ日本陸軍大臣ガ在満州軍ニ直接行動ニ出デンコトヲ勧告シテ激越ナル演説ヲナセル』ことが、9月18日及びその後に生じた諸事件の準備工作の一つである。《法廷証57号の66−7頁。法廷証186号、法廷記録2209−10頁、法廷証2207号法廷記録15783頁》

  4、満州の征服に関しては、満州事変前に陸軍省内で研究が行なわれていた。《法廷証3375号法廷記録32330頁》

   (a)南はこれを知っていた。あるいはそれをよく知っているべきであった。

   (b)(1)、橋本中佐並びに重藤によって指導された陸軍内の一団が、1931年の7月から10月の間にきわめて強力になって、陸軍はこれらのものを制御できなかったことを南は知っていたか、または知っているべきであった。《法廷証179号、法廷記録1926頁》

     (2)、南は『建川中将を含むこの一団の者は、日本が満州を占領しない限り、日本が高度国防国家として世界列強の一つとなることは不可能であるとの意見を固く懐いていた。』ということを知っていたか、または知っているべきであった。

  5、(a)奉天事件の前に幣原は、一週間以内に大事件が勃発するでだろうという旨の電報を、在奉天日本総領事から受け取ったと南に通告した。《法廷記録2006頁》

    (b)このときに当たって、もし南が事件の発生を阻止することを希望したならば、この事態に責任を有する将校たちを適当に処置すべきであった。しかし南は事件を阻止するため何一つとして努力をしなかった。《法廷証3479号、法廷記録33639頁》

 右の資料に基づいて、検察側は裁判所をして、『幣原協調政策は放棄され、南の幇助と教唆と奉天事変によって、陸軍内に醸成された新しい政治力が活躍することになり、かようにして蔽いかくしがたい共同謀議の行為が可能となった。』と考えさせようとした。検察側の言によれば、新しい政治力が南の幇助と教唆を受けたという事実は、リットン調査団によって認められたものである。そして法廷証57号、66−67頁が引用されている。しかしリットン報告は新しい政策の発展についても、またそれが南によって幇助され教唆されたということについてもかような簡単な説明で片付けているのではない。満州における日華の利害関係が次第に緊迫化して来たことを論じて、さらにそれが両国の軍部の態度に及ぼした影響を述べた後、リットン調査団は次のように述べている。すなわち『既ニ相当期間アル種ノ内部的、経済的及ビ政治的要因ガ日本国民ヲシテ満州ニオイテ再ビ「積極政策」ニ出デシムル素地ヲ作リツツアリシコトハ疑イナキ所ナリ』さらに同調査団は『ソノ実績甚ダ貧弱ナリシヤノ観アリタル対中国幣原「協調政策ノ放棄ヘノ道ヲ拓キツツアリタリ』と同調査団の考えるところの各種の要因に言及している。この種の要因として同調査団が掲げているものは次の通りである。(1)、『陸軍ノ不満』(2)、『政府ノ財政政策』(3)、『総テノ政党ニ対シテ不満ノ意ヲ表明シ・・・・又資本家及ビ政治家ノ利己的方式ヲモ非トスル陸軍及ビ農村落並ビニ国家主義青年ノ間ヨリ醸成セラレタル新政治勢力ノ出現』(4)、『物価下落ガ第一次生産者ヲシテソノ境遇ヲ緩和センガタメニ冒険的対外政策ニ望ミヲ嘱スル傾キアラシムルニ至レルコト』(5)、『貿易ノ不振ガ工業及ビ商業界ヲシテ一層強硬ナル対外政策ニヨリ取引ノ改善ヲ招来スベシト信ゼシムルニ至レルコト』

 もしこのようにたくさんの要因が、一つの政策の放棄と別の政策の発展への道を拓きつつあったとすれば、かような諸事件の渦中に巻き込まれた者に対して、この問題についてなんらかの責任を負わしめそしてその幇助及び教唆の罪の烙印を押すことはもとより不可能であるまたここでいう「積極政策」とは、なんら犯罪的侵略政策を意味するものでないことも記憶しておくべきである。それは田中政策に与えられた名前であって、検察側自身の見解によっても、協調政策であり、平和的手段による日本の権利の十分な拡張と発展の政策であったのである。この政策は『満州をもって中国の他の部分と明確に区別すべき必要性を特に強調したものであり、そしてもし擾乱が満蒙に波及して、日本の特殊な地位に脅威を与える場合には、日本は満蒙を防衛するであろうという声明を含むものであった』と言われている。『積極政策』を『再び採用すること』は必ずしもなんらか不法または不当な手段に訴えることを意味するものではないのである。

 この点に関して、報告書は『中国当局ガ中村大尉ノ殺害ニツキ満足ナル調査及ビ救済ヲナスヲ荏苒(じんぜん。何もせずに歳月を過ごすこと)遷延セルコト』に言及しており、また次のように述べている。すなわちこれは、『なかんずく在満州日本軍少壮将校を激昂せしめたるが、彼らは無責任なる言辞及び誹謗を、これまた無責任なる中国将校が街頭、料理店その他相接触する場所において弄するに対して、敏感となれることを明らかに示したり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 南が問題の公々然たる行為に援助を与え、これを教唆したという検察側の主張は、当時の日本陸軍大臣の行なった激越な演説に対して、リットン調査団の下した観察に基づくものである。検察側は次のように言っている。『奉天事件以前における南は、みずから描き出そうとしたような平和の使徒でなかったことはリットン報告書から看取される。・・・・そこには次のように述べられている。すなわち「日本陸軍大臣ガ在満州軍ニ直接行動ニ出デンコトヲ勧告シテ激越ナル演説ヲナセル」ことは9月18日及び同日以後に生じた諸事件の舞台を整える出来事の一つであった。』

 しかしながら委員会報告書の関係ある箇所では、両国の一般新聞紙の果たした役割について言及している。委員会は次のように言っている。『両国ノ新聞ハ輿論ヲ鎮静セシムルヨリハムシロコレヲ扇動スルニ傾キタリ、東京ニオイテ日本陸軍大臣ガ在満州軍ニ直接行動ニ出デンコトヲ勧告シテ激越ナル演説ヲナセル旨報道セラレタリ。』ここで調査団が重点を置いているのは、右の演説ではなくて、むしろその演説が行なわれた旨の新聞報道であった。しかしわれわれは、右のような演説をしたことに何か罪があるとするならば、その罪は演説をした者が負うべきであると決定するように要望されている。

 検察側はこの演説を、1931年8月4日に南陸相が行なったものとして指摘した。この演説の原稿は提出されなかった。これに代えて検察側は、その演説を引用したものであると称する1931年8月6日付のジャパン・タイムズ記載の記事を提出した。これは本裁判の法廷証第186号である。これはその演説全文を記載しているのではなくて、単にその抜粋を示すと称するにすぎない。

 右の演説中、われわれの手許にある部分は次のようである。『近接諸邦の事情を研究せざる他の観察者達は、軽率に軍備縮少を唱え、国家並びに軍にとり不利なる宣伝をなしている。満蒙は我が国防並びに政治、経済的見地から我が国とは密接なる関係にある。支那のこの方面の最近の情勢は、遺憾ながら我が帝国にとり不利なる状況に傾きつつある。最近における国際情勢の変換、日本の威信の失墜並びに支那における新経済力、排外運動の優勢とは、相まって一時的ならざる、否、永続的な現象たるこの傾向に対して責任あるものである。かかる情勢に鑑み、私は諸君に、軍の教育、訓練の義務を陛下の御目的に完全に副い得るごとく、熱心かつ誠実に遂行せられん事を望む。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 右の演説をした際の事情は、被告南自身の供述からうかがわれる。すなわち同人は次のように述べている。『1931年(昭和6年)8月4日自分が陸相となって初めての定例師団長会議を陸軍省で開きました。然るにその席上で行なった自分の訓示が測らずも政界の一部から反対を受くることになりました。然しその内容を一読すれば判る通り、軍縮下の困難なる情況において、皇軍の能率を維持するために極力訓練に努めよと云う陸相として当然の所見を述べたに過ぎませぬ。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 右の記事はまた論評も併せて記載しており、いずれの報道をリットン調査団が見たのかわれわれは知らない。本官の意見では、われわれに示された抜粋は、陸軍大臣『在満州軍ニ直接行動ニ出デンコトヲ勧告』したという見解を支持するものではないと思う。

 本官はさきに奉天事件に考察を加えた際、すでに本証拠を検討した。現在においてもなお本官は、陸軍大臣が定例の会議の席上、師団長に対して行なった右のような演説が、なぜこのような重大な共同謀議的企図を示すことになるのか、了解するのに苦しむのである。

 本官はすでに、奉天事件問題及び共同謀議問題に関する三月事件、桜会の結成、建川の満州派遣及び軍が事を構えつつあることに関する満州からの風聞等の関係に考察を加えた。ここに再びこれを繰り返し論ずる必要を認めない。

 検察側は法廷記録32、302ページにある法廷証3、376号に基づいて、満州事件前に、満州征服に関して陸軍省内で研究が行なわれていたこと並びに南はこれを知っていたか、もしくはこれを知らなかったはずはないと主張している。法廷証3376号は、『満州における憲兵兵力編成に関する研究』に関し、憲兵司令官から陸軍大臣に提出した報告である。その日付は1931年7月25日となっており、その冒頭において次のように述べている。すなわち、『将来戦サニオイテ我ガ帝国ハ戦争能力ノ保持上、又自給自足ノ立場ヨリ、満蒙ヲ徹底的ニ確保スベキハ今ココニ喋々説明ヲ要セザル所ナリ。』さらに『コノ場合帝国ガイカニ満蒙ヲ処理シ、カツイカニコレガ統治ヲ行ナウベキカ』についての『各々ソノ責任機関』による研究に言及し、そして『占領地憲兵ノ研究ヲ要スルコト』を指摘している。われわれとしては、右の研究の開始時期については知るところがなく、またそれはある遠い将来起こるかもしれない偶発事件を顧慮してなされた研究にすぎないものであるかもしれない。右の研究を南に結びつけるものは何物もなく、そもそも南がこれをすこしでも知っていたか、もしくは知っているべきであったかどうかについて、本官には確信がない。

 検察側がわれわれの前に提出し得た証拠を綿密に考究した結果、本官の意見としては、ここに主張されている共同謀議と南との関係は、未だ立証されていないと思う。

 満州事変は南がなお陸軍大臣の地位にあった間に拡大し、しかもそれは、それに反対した閣議の決定があったにもかかわらず、拡大したのである。証拠は南が極力反対の結果をもたらすよう努力したにもかかわらず、事態が右のように進展したことを明瞭に立証している。

 満州事変に対する南の見解の中には、同人が共同謀議者の一員であったという結論にわれわれを必然的に導くようなものは何もない。南は、今なお右の措置は自衛手段として正当化され得るものであったと信じている。本庄は右の事変中自分の関与した事柄のすべてについてその真相を明らかにして、自殺してしまったが、その際においてさえ、あくまで事変は中国側の行為によって発生したのであるという自己の信念を固執したのである。本官はすでに右の証拠の論及し、かつそれに関する疑義は未だ氷解していない旨を指摘しておいた。本官には、南の開陳した見解を同人の「誠意ヨリ出デタルモノ」として受け入れてはいけないという理由は見当たらない。

 陸軍大臣としての地位を失った後の南の諸行動は何物をも示すものではなく、従ってそれを意に介する必要は全然ない。

 関東軍司令官としての南の諸行動は、後に論ずることにしよう。これらの行動中には、どんな形においてでも、南を何かの共同謀議と結びつけるものは全然存在しない。


 (c)第二段階 満州よりその他の中国の全部に及ぶ支配及び統御の拡張(英文では「PART W OVREALL CONSPIRACY Second Stage The Expansion of Control and Domination from MANCHURIA to ALL THE REST OF CHINA」とある。「第4部 全面的共同謀議 第2段階 満州よりその他の中国の全部に及ぶ支配及び統御の拡張」と訳すのが正しいだろう)


 次に1931年9月18日以降の事態の発展の問題を取り上げ、これが、何らかの共同謀議の結果であったとどの程度まで言い得るものであるか、またこれによって起訴状に主張されているような全面的共同謀議が存在したものとの推論を裁判所がどの程度までなし得るかを検討したいと思う。

 満州事変は日本の政治家と軍人の一団による共同謀議の結果であるとの検察側の主張を、本官が承服できない理由はすでに上の述べたところである。種々の起源から生じた要素が(どのように)日本の満州政策の発展に影響を与えたかを示すため、本官はすでにリットン委員会の報告中から引用するところがあった。後に日本の国内的紛議の若干の事件を論じ、それがなんら共同謀議から生じたものでないことを証明しようと思う。日本陸軍の日本国民に対する関係も、上に述べておいた。すなわち、陸軍が政策問題に関与したからといって、それは必ずしも武力の行使を意味するものではないのである。以上の事情を考慮するとき、検察側の主張するように、当時の諸事件をすべて、一つ一つことごとく一個の巨大な共同謀議に帰するような、単純な解決法は、本官にとって承認しがたいことである。

 1931年9月18日以降の満州における軍事的な発展は、確かに非難すべきものであった。軍事行動はただちに中止せよという内閣の一致した意見があったにもかかわらず、拡大が続いた。内閣が資金を抑えることによって、陸軍を抑制すべきであったと検察側は主張している。しかるにこれがされなかったために、検察側は主張していわく『結論は明白であります。何人も、抑制しようと欲しなかったかないしは、あえて抑制しようとしなかったのであります』と。在満日本人の生命と日本の権益の保護とに任じていた陸軍が、行動の継続を必要とした理由について、ある種のもっともらしい説明を行なったことは、証拠の示しているところである。この種の場合には、陸軍の指揮官といような高い地位の責任ある者から来る説明を無視することは、どのような国の政府も、その陸軍大臣を含めて、不可能である。この種の場合に、検察側の言うように、資金を抑えるという極端に方法に訴えて、もって統帥部を抑制することを、何人も欲せず、またはあえてしなかったとしても、それは、現地の責任者の決定を無視することによって、国家の災害を賭するというほど、彼自身の個人的威信や閣議決定の威信という観念にとらわれてはいなかったことを示すに止まると言い得るのである。陸軍は共同謀議を遂行していたに外ならないことを、内閣が知っていたという推定から出発しない限り、この点について、検察側の主張するような閣員のだれかの怠慢ということが、どうしてその閣員がこの共同謀議と関係のあることを示すことができるか、本官の理解に苦しむところである。かような行為は、何人に対しても検察側が言っているような説得力をもつものではなく、むしろ、すでに説得されてしまった人であってはじめて、かような行為に悪意があると見るであろう。

 1933年5月31日までに軍の全満州及び熱河の征服は完了したと検察側は言っている。1933年5月31日には塘沽停戦協定が調印された。この停戦協定の調印によって中日間の友好関係が回復された。検察側自身もこの停戦協定後は、しばらくの間、中日間の関係は良好となり、1935年5月17日には在中国の日本公使館の大使館昇格が決定されたと言っている。もちろん1935年の初期にはある種の紛争があったが、これらはすべて妥協を見、解決された。1935年6月10日には梅津・何応欽協定が締結された。

 従って満州に関して中日間にどのようなことが起こったとしても、戦闘行為は1935年6月10日には、ともかくも完全に終わったと思われる。その後に生じた戦争における戦勝国が、どのような権威とどのような法的根拠に基づいて、日本のこの行動を今日問題にし得るか理解しがたいことである。しかしこの点については後に論ずることにする。

 満州における日本の発展に関する検察側の主張は、これを次の諸項目に要約することができるであろう。

  1、日本政府が1931年9月18日の奉天事変を知るや否や、1931年9月19日臨時閣議が開催され、同事変をただちに終息させる決議がなされた。《法廷証162号、法廷記録第1554−5頁》

  2、作戦行動はただちに停止しなければならないという内閣の一致した意見があったにもかかわらず、事変は拡大を続けた。

  3、(a)事実統帥部によって代表される陸軍は、事変不拡大方針を絶対に欲せず、かつこの方針の遂行を意図したこともなかった。

    (b)1931年9月22日、木戸は次のように報告した。すなわち、軍の満州に対する決意は固く、中央部からの命令が完全に理解されないおそれのあること、また木戸が、天皇の側近に侍することによる勢力によって天皇が政府の方針に賛意を示したため、陸軍はこれに憤慨していた、と。《法廷証第179号I、法廷記録第1938頁》(第179号T(いち)なのかI(アイ)なのか、不明だが、次に「第179号K」が出てくるところからすると、おそらくI(アイ)だろう)

    (c)参謀総長は若槻に次のように語ったとされている。すなわち、陸軍は余儀なく軍隊を揚子江に送るようになるかも知れないこと、及びかようなことになれば、政府が軍の統帥権に関与することを総長は欲しないこと。《法廷証第179号K、法廷記録1939−40頁》

  4、10月、共同謀議者らは、政府の政策が不満で、これを共同謀議遂行上の一障害であると考えて政府の支配権の獲得を再び計画した。この動きは十月事件として知られるに至った。この計画は発見され、被告橋本らは逮捕された。《法廷証第3195号、法廷記録第28795頁、最終論告D第43−44頁》

  5、一方満州における軍事行動は引き続き拡大した。

  6、(a)1931年12月10日、若槻内閣は辞職した。《法廷記録1575−82頁、法廷証第2435号、法廷記録第19790頁、最終論告D−第45頁》

    (b)(1)その結果、犬養内閣が成立し、被告荒木はその陸軍大臣となった。

      (2)荒木が陸相に就任するや否や、ただちに政府の態度、並びに共同謀議促進に関する政府・関東軍間の協力について顕著な変化が生じた。

      (3)一つの策略が発見された。これによれば、一方において政府が前の政府の事変不拡大方針を遂行していると表面上は主張し得るとともに、他方において政府は共同謀議遂行上、関東軍の必要とする援助を与えることができたのである。《最終論告D−第46頁》

      (4)荒木は陸相就任後、ただちに張学良治下の四省を平定し、占領すべきことを決定した。彼は自己の計画を立て、内閣の同意を得た。《法廷証第188号A、B、C、法廷記録第2216−33頁、最終論告D−47頁》

  7、(a)関東軍が満州におけるその軍事行動を引き続き拡大しつつある間に、一連の諸事件が勃発し、これが主要な共同謀議者らの準備が未だ出来ないときに、共同謀議の範囲をただちに最初の段階の領域以上に拡張しようとするおそれがあった。

    (b)この一連の事件はしばしば第一次上海事変と呼ばれている。《最終論告D−第45−50頁》

    (c)表面上は上海事変は筋書の主流から外れたものであり、かつ満州における諸事件とはなんらの関係ももたないように見えるかもしれないが、実は共同謀議のこの部分と明確な関係をもつものである。《最終論告D−第52頁》

    (d)1932年5月5日、上海停戦協定が調印され、これによって主として海軍側の工作であったものに終止符が打たれた。

  8、上海停戦協定によって、日本側の権利が生じ、これが中国本土における侵略開始の焦点となった。《最終論告D−第52頁》

  9、1932年5月15日、犬養首相は海軍将校によって暗殺された。《法廷証第161号、記録第1649頁、最終論告D−第52頁》この結果斎藤が首相となり、荒木は陸相に留任した。《最終論告D−第53頁》

  10、満州における軍事的発展は計画通り進行した。1933年5月31日までに全満州、熱河の軍事的占領が完了した。

   (a)同日塘沽停戦協定が調印された。《最終論告D−第53頁》

  11、軍事行動の開始とほとんど時を同じくして、かつ最初の半年の間継続して、きわめて重要な一連の政治的諸事件が満州に発生し、これが溥儀を臨時総統とする傀儡政府の樹立をもたらした。

   (a)1932年3月、溥儀が就任し、3月12日諸外国に対して満州国建国の通知が発せられた。《最終論告D−第56頁、法廷証第57号、記録第2775頁》

  12、この一連の諸事件は自然の現象ではなかった。事件はすべて満州の支配獲得の共同謀議の不可分な部分をなしていた。

   (a)国際連盟は次の事実を発見した。すなわち、日本の軍官民の一団が満州の事態に対する解決策として、満州独立運動を考察し、組織し、これを遂行したこと、この運動は日本の軍首脳部の援助と指令を受け、かつ日本軍隊の駐屯があって初めて遂行できたこと。《最終論告D−第66頁、法廷証第57号、記録第2882頁》

  13、関東軍が満州政府設立の手筈を進めていた一方、東京は同計画遂行の歩を進めていた。《最終論告D−第66頁》

   (a)最初は東京の当局は独立満州の設立に反対していた。

   (b)1932年1月4日、板垣が東京に派遣された。《法廷証第3316頁、記録第30278頁》

   (c)板垣の東京訪問に続いて、日本政府の方針に顕著な変化が生じ、内閣はみずから満州の企業統制の権力を握った。《最終論告D−第67頁》

  14、(a)5月に犬養内閣にかわって斎藤内閣が成立した。

     (b)この内閣ははっきり満州国の承認をなすことになっていた。《最終論告D−第68頁》

  15、1932年9月15日、正式の承認がなされ、日満議定書が調印された。《最終論告D−第69頁》

  16、(a)同議定書の調印されるや否や、当時の関東軍参謀長被告小磯は、1932年11月3日、満州国指導方策要領を与えられた。《法廷証第230号、記録第2903−4頁》

     (b)外交上は満州国は中国に対して原則的に不干渉の態度を持することとなっていたが、実は反中国の方針をとり、ソヴィエット及び合衆国に対しては日本と同じ態度をとることになっていた。《最終論告D−第70−71頁》

     (c)これらの計画遂行のために支配権が満州及び東京に集中された。

     (d)対満事務局が陸軍大臣を総裁として設立され、これによって陸軍大臣は一般行政と軍事行政とを調整し得ることとなった。《最終論告D−第71頁、法廷証第451、452号、記録第5113−16頁》

  17、(a)これらの政策に従って、日本は満州を完全に政治的に支配した。

     (b)日本の行なった支配は、単に政府自体だけでなく、さらに国民並びにその思想の統制支配にまで及んだ。この部分の仕事を行なったものは協和会であった。《最終論告D−第74頁、法廷証第221号、記録第2795頁》

     (c)本協会は1932年7月25日、板垣を一委員とする委員会によって設立された。《法廷証第2439号、記録第20179頁、法廷証第731号A、記録第7606頁》

  18、(a)日本は政治権力を獲得し、これを行使するとともに、満州に対する経済的支配統制を獲得し、行使した。《法廷証第233(←英文を参照すると「233」は誤りで「223」が正しい)、225、241、230、231、233、236、851、850、842、841、446、453、444A、239、438、840、454号A》

     (b)一番優勢な考えは、日本の統制のもとに、日満の単一経済単位を形成するということであった。《最終論告D−第76頁》

 記録に載っている証拠によって、上に掲げた要約の1、2、5、6(a)、6(b)(1)、9、10(a)、11(a)、15、16(a)、17(a)、及び18項は完全に立証されているとただちに言ってよいであろう。

 3の(a)項は単に検察側の論評にすぎない。本官が軍事的膨張に関して検察側と同じ見解をとり得ない理由はすでに述べた。現地の陸軍当局が、敵対行為の進行に際し、直面するはずであった、もしくは直面しなければならないものと感じた想像上のまたは現実の諸困難を、今日法廷内にあって裁判官がこれを正確に理解することは不可能であろう。本庄大将は自殺前に事件の全貌を明らかにしようとして証言を遺して逝ったのであるが、この証言をも含めて本裁判所に提出せられた証拠からして、奉天事変に続く事件の拡大の原因を関係当局者側の予定の計画に帰することはできないのである。

 検察側は陸軍の態度に対する自己の観察を裏づけるために、1946年7月5日証拠として提出された木戸日記の中の二つの記入事項に依存した。これは法廷証第179号I及び第179号Kである。法廷証第179号のIは1931年9月22日付の木戸日記であるが、これは『各方面からの情報』を討議研究した後、木戸がまとめたものではあるが、単に同人の意見にすぎない。もちろん同日記は、検察側が最終論告において述べたように、『中央部よりの命令完全に理解せられざるおそれあり』と述べてはいない。同日記は『中央部ヨリノ命令徹底シ能ワザルノオソレアリ』と言っているのである。しかしながら前者は冷評的に意見を述べたものであり、後者は単に明確に意見を述べたものにすぎないが、本裁判所の目的にとっては、この相違はさして重要なものではない。

 何が『情報』であり、また同日記の著者の耳にはいった情報の出所である『各方面』が何であるかはわからない。これらの資料なしにつくられた意見の価値を評価することは困難である。

 法廷証第179号のKは、たとえ伝聞の伝聞ではないにしても、いずれにせよ伝聞である。参謀総長は当時の首相若槻に対してある申入れを行なったといわれている。若槻はこれを原田に報告したということである。この日記の著者はそれを原田から聞き、さらに内大臣に報告し、この報告したところを自分の日記に記録した。若槻首相は1946年6月28日、みずから検察側証人として証言を行なった。同氏の証言は法廷外で検察側によってとられた陳述からなるものであって、本件における法廷証162号である。同氏の証言中には、この問題に関することは何も存しない。

 第4項については、十月事件は確かに計画されたことは疑いない。しかしここに述べられている理由は、検察側の見解である。この問題については政府支配力の奪取の問題に関連して論ずることにする。

 6(b)(2)項及び6(b)(3)項も、単に検察側の見解にすぎない。6(b)(4)項は法廷証番号188号をつけた一連の各種法廷証に基づいている。これらの法廷証は、被告荒木が収容された後、巣鴨刑務所で書きとられた同人の訊問調書である。同被告は次のように述べた。すなわち『私ハ陸軍大臣就任後、満州ノ状況ヲ粛正せんがために張将軍支配下ノ四省占領政策ニツイテ討議シマシタ。私ハ総理大臣、外務大臣、大蔵大臣トトモニ、私自ラソノ計画ヲ作成シタ後ニ、皆ガ私ノ意見ニ同意シマシタ。総理大臣ハ枢密院ニソノ承諾ヲ得ルタメニ交渉シマシタ。』このようにして一つの政策が当時の政府によって決定され、後に参謀本部によって遂行されることになっていた。

 政府が一つの政策を採用する場合には、必ずしもこれが共同謀議を形づくるものではない。政府の政策の起源は必ずしも簡単なものではないことは言うまでもない。他の所で言及したように、各種の要素が満州における積極政策の再開の途を開きつつあったのである。かような要素についてリットン調査団は次のように述べている。すなわち、(1)『陸軍ノ不満』(2)『政府ノ財政政策』(3)総テノ政党ニ対シテ不満ノ意ヲ表明シ、西洋文明ノ折衷的方式ヲ蔑視シテ古代日本ノ道徳ニ依存シ、又財政家及ビ政治家ノ利己的方式ヲモ非トスル陸軍及ビ農村村落並ビニ国家主義青年ノ間ヨリ醸成セラレタル新政治勢力ノ出現』(4)『物価下落ガ第一次品ノ生産者ヲシテソノ境遇ヲ緩和センガタメニ冒険的対外政策ニ望ミヲ嘱スルノ傾キアラシムルニ至レルコト』(5)『貿易ノ不振ガ、工業及ビ商業界ヲシテ一層強硬ナル対外政策ニヨリ取引ノ改善ヲ招来スベシト信ゼシムルニ至レルコト』これらはどれ一つとして、共同謀議の産物であるということはできない。これらに加えて、当時の日本の政治家らが満州において直面すべきものと感じていた諸種の不安がある。かような政策を採用した政治家が、その政策採用の目的は同地域の治安の回復であると言ったとしても、なぜこれが冷評的な言葉を招くものであるか了解しがたいのである。それは一国の他国領土内への膨張を正当化しようとするものであって、正当な政策ではないかもしれない。しかしながら国際間の動向を考えると、これを厖大な共同謀議の仮説を用いずにその膨張を説明するのとして受け入れることすら出来ないのか本官はその理由が分からないのである。何人もかような政策を賞賛しないであろう。かような政策を正当化する者もおそらくないであろう。ただしこれによってわれわれが否応なしに共同謀議の理論をとらねばならないということにはならない。われわれは自分が好まない国家の膨張政策であるとして、それに対して『天命』『重大権益の保護』『国家の栄誉』あるいは『白人の重荷』という考えを基礎として新たに鋳造された語句を用いるのを拒み、それに対して、簡単に『侵略的膨張』の名を与えても差し支えないであろう。その場合でも起訴状に主張されているような共同謀議という結論には到達しない。

 満州に関する日本の行動という論題を離れる前に、本官は、いわゆる満州の傀儡政府並びにそれと全面的共同謀議の問題との関係について一言しなければならない。

 満州国は独立国家として建設され、日本はこれに対して1932年9月承認を与えた。

 前満州国皇帝溥儀は本裁判において証言をして、自分が日本人の掌中にある単なる傀儡にすぎなかったこと、また満州につくられた政府は傀儡政府であったことを述べた。本官は、この事実は現在の目的にとっては、それほど関連性のあるものとは思わない。本件においてこの証言を利用し得る唯一の途は、この事実を日本の最初の計画の遡及的証拠として考えることである。

 この手段をとった日本政府の動機を簡単に察知することはできない。日本がこの手の込んだ政治的狂言を敢えて演じようという気になったのはどういう訳であったかという問題に対しては明白な答えはないのである。

 日本人の究極の目的がみずから満州の支配者になろうとすることにあったと仮定しても、それで直ちに「満州国」の建設によってこの目的が達せられたということが明らかになるものではない。それは、満州における実際の権力を日本人の手中に置きつつあったものは、「満州国」という擬制ではなかったからである。これに反して満州の舞台において満州国という狂言を演ずる力も、また満州の支配権を握る力も日本の「武力(「武力」に小さい丸で傍点あり)」によって獲得されていたのである。国際問題の評論中に述べてあるように、日本陸軍による満州の軍事的征服並びに占領こそ、1932年における日本の満州における地位の真の基礎であった。そして全世界はこれが事実であることを知っていた。日本人はその不当に獲得した利得を保持するために、世界の輿論に抵抗し、かつ世界の不承認から生ずる結果の危険を冒す準備を明らかに整えていた。それでは何故に、日本は世界中のだれも真面目に受け入れなかった芝居を執拗に続けたりなどしないで、即座に、満州の日本帝国への併合を率直に宣言しなかったのであろうか。公然と併合したところで、「満州国」の建設と承認に伴う中国の権利の否認よりも一層甚だしく満州における中国の主権を侵害することにはならなかったであろう。原則の点から見れば、いやしくも国際法の違反があったとすれば、それがこれらの二つのいずれの形で実行されたとしても、宥(ゆる)されないことは同様なのである。また事実の点から見れば、もしこれが単なる狂言にすぎないものとすれば、日本がそれをあくまで真剣であると主張することは、自己の行なっていることは、まったくの暴力によって行なっているのであると日本がみずから冷笑的に公言するよりも、かえって一層甚だしく世界の輿論を刺激するものと考えられていたのである。

 これはある点では西洋諸国のやり方を模倣したいという願望にその原因を求め得るということもあろうかと考えられる。この願望とは、明治時代の初期から日本人の心の中に一つの「固定観念(「固定観念」に小さい丸で傍点あり)」となっていたものである。次のようなことも言われている。すなわち、『率直な西洋の歴史家は、日本が西洋の様式を模倣するに際して、どんなにきまじめであり、またどんなに文字通りの真似をし勝ちであったかを想起するとき、また日本の中世史の場合と同様に近代西洋諸国の植民史においても、国家構成上の偽瞞の政策がどんなに顕著であったかと考えるとき、右のようなことがあり得るということを無視することはできないのである。』と。

 『婉曲に「併合」を現わす語法として、「保護国」という言葉をつくったのは、西洋の帝国主義ではなかったか。そしてかような国家構成上の擬制はそれを発明した西方諸国に役立ったのではなかったか。これこそ、フランス共和国政府がモロッコのサルタンの後を踏襲し、イギリスの王室が、東アフリカの広大な領土の所有を、アフリカの原住民から外来のヨーロッパ人の手に移した方法ではなかったか。もし1914−18年の大戦の戦勝国が、大戦後彼らはその罪に対する自責を体験したので、汚れた「保護国」という言葉を、最も新しい「委任統治」という言葉に替えたではないか、と断言するようなことがあったとすれば、日本側は米国や露西亜や独逸の意見を引き合いに出してこの最近の名称の変更は有名無実の区別を設けたものであるという見解を裏付けてもよかったのではあるまいか。』

 『その上、日本人の弁解者は日本が「満州国」を利用したほとんど一切の点について、その先例を西洋の戦前戦後の慣行の中に発見し得るであろう。たとえば「満州国政府」が大連の中国海関を接収した行為に黙諾を与え、その後「本問題は日本に関係するものがなくて(←正誤表によると「関係するものがなくて」は誤りで「関係するものでなくて」が正しい)、まったく一方は『満州国』と他方は中国政府及びその大連海関長との間の問題である」との理由で、この日華協定の侵害についてはなんらの責任がないと主張したことは、日本人の側における偽善であると考えられないこともない。しかしもしこの事件が単に「理想主義的な」善悪の試金石によって判断されるべきでなく、「実際上」の先例という根拠に基づいて判断されるべきものとすれば、日本人としては、彼らはここで1923−4年フランス人がラインランドにおける虚構の「分離運動」を工作して、フランスの手によって行なうことを欲しなかったヴェルサイユ講和条約の侵害を、この手段によって遂行しようとした時の先例に、ほとんど学者的な正確さをもって倣っていたのであると指摘することが出来たのではなかったか。日本人は「満州国」という狂言を演じたことについての弁明として、これらの西洋の先例を充分利用するに至らなかったけれども、日本や西洋の先例がこの線に沿った政策を実際に日本人の心に示唆し、かつ奨励したと推察するのは不当ではないであろう。

 『これらの考察は、「満州国」を説明するために大いに役に立つものである。しかし何といっても、その偽りであることが完全に公衆の目前に暴露されてからずっと後までも、ある作り事をいつわりのないものであると執拗に弁護する心理状態は全然理解しがたいものである。ただこの奇妙な心理状態は、ともかく日本人に特有なものではなかったということを指摘することはできる。同じくこの戦後の時代に、フランス人もこの心理状態を示したのである。それはわれわれが前に想起したように、フランス人が、ラインランドの「分離運動」はライン住民の希望の自然の現われであって、フランスの占領軍はなんらこれに関与しないと主張した際に示されたのである。またロシア人が、ソヴィエト連邦政府は第三インターナショナルになんら関係がないという言明をなした際にも、この心理状態は彼らによって同様に示されたのである。これらの例に示されている心理状態は、国際関係の領域にいつまでも残存し、この国際関係という社会生活部面における文明の進歩に対する越え難い大障害の一つをなすところの「古代の」心理の遺物の一つと見なすべきものである。』

 以上は国際問題調査員が1932年の調査中に述べているところである。』(←英文を参照するとこの最後の「』」はないのが正しい)

 この点について、日本人は、1928年までは張政権の強化を支援し、その政策によって張政権の反対者を抑えていたということが認められるであろう。それで1925年には日本人は南満州鉄道に沿う地帯の中立を宣言することによって、郭松齢の叛乱を挫折させ、《1925年の調査第2巻346頁参照》1928年には『北伐軍』が山海関を越えることを許さないと声明することによって、国民党の満州侵入を拒んだのである。《1928年の調査第377頁》

 この政策は、張一家の能力とはまったく関係なく中国の他の地よりも、はるかに事態を安定させたのであって、張学良が1928年12月国民党に走らず、また国民党の委員会などの満州進出を認めなかったならば、日本はおそらくその政策を続けたであろう。ある意味では『満州国』は1928年前の「原状(「原状」に小さい丸で傍点あり)」回復である。すなわち日本の保護による満州人の自治であり、国民党がはいっていないことである。もちろん『満州国』は1928年前の政権のいつの時代よりも多分に日本の保護国的色彩を帯びていたが、右は見掛けほど新奇なものではなかった。

 リットン調査団が満州国がはたして真に満州人民の総意を表明したものであるかどうかの点について下した認定については、同調査団が主としてその根拠としたところは、名を挙げていない人からの通信であって、公けに提供された証拠は日本人がいることと、証人らが脅迫を受けるおそれがあることとのために価値を認められなかった。否定の根拠となっている種類の証拠は確かに不満な性質のものであるに違いない。

 リットン調査団が、日本軍が満州を征服するまでは満州には独立運動は全然なかったと述べているのは完全に正確ではないかもしれない。張作霖政権は、外国と正式の条約を締結すること、《たとえば張作霖が当時国際的に承認されていた中国政府とロシアとの間に締結せられていた条約の承認を明確に拒否して、みずから締結した1924年の露支協定》またその他主権国家としてのあらゆる権能を果たしたこと、また張学良の華北における諸権力獲得の代償としての南京帰順政策については、張麾下の将軍連の一派、なかんずく学良の父張作霖の参謀長であった楊宇廷が猛烈に反対し、このために楊は張学良に殺されたことを指摘することが出来るであろう。日本側の主張するところは、張を強制的に放逐したことによって、満州は単に1929年以前の状態に復したのであって、ただ「法律上ノ(「法律上ノ」に小さい丸で傍点あり)」主権を主張することによって、今やこれを合法的ならしめたにすぎないというにある。

 われわれの前に提出された証拠は、いずれの側に対しても完全に確信をもたせるようなものであるとは言い得ない。しかしながらこの問題をこれ以上深く追求する必要は認めない。それは本官は当時の日本政府またはいずれの被告であっても、満州における傀儡政府を樹立しようとする予謀を持っていたと立証されていないと考えるからである。満州事変の原因が何であろうと、被告中のだれかが、このことに関与したということはまだ疑いの余地がないまでに立証されていないということは何の躊躇もなく言うことができる。

 検察側自身の主張によれば、当時の日本政府がまだ共同謀議をしていなかったのであるから、その政府のどのような行動であっても、共同謀議と称せられるものを実行に移していたとは言い得ないということを記憶しておかなければならない。

 ここでわれわれは1927年7月田中内閣の瓦解以来就任した数個の内閣に言及しよう。田中内閣は1929年7月2日、濱口内閣に引き継がれた。この内閣では、幣原男爵が外務大臣、宇垣大将、次いで阿部大将が陸軍大臣であった。これらの人々の中には検察側によって共同謀議に参画したと主張されている人は一人もない。濱口内閣は1931年4月14日若槻内閣に引き継がれ、幣原男爵はその外務大臣、被告南は陸軍大臣であった。南を除いてこの内閣の他の閣僚の中には共同謀議に関係があったと主張されている人は一人もない。この内閣は1931年12月13日犬養内閣に引き継がれ、被告荒木はその陸軍大臣であった。荒木を除いてこの内閣の閣僚の中で共同謀議に参画したと主張されている人は一人もない。この内閣に続いて1932年5月26日斎藤内閣が成立し、内田伯爵はその外務大臣、被告荒木は引き続き陸軍大臣として留任した。ここでもまた被告荒木を除いたこの内閣の閣僚の中で共同謀議に関係したと主張されている人は一人もない。もちろん内田伯爵の後任として被告広田が外務大臣に就任したが、これによって今一人の共同謀議者が広田という人物となって入閣したことになったのである。この斎藤内閣は1934年7月8日まで続き、それから岡田内閣によって引き継がれた。次に1936年3月9日広田内閣となった。現在のところこれ以上述べる必要はない。ただわれわれが記憶しなければならないのは、1936年3月9日、広田内閣の成立を見るまで、政府そのものとしては、共同謀議をしたと主張されていないということだけである。右の期間中に政府のなした声明または行動のどれかが共同謀議の問題に対してどのような関係を持っているかは、この検察側の主張を心に留めて決定されるべきものである。

 確定はしていないが、将来ある時期が来れば満州国に承認を与えようとする日本政府の決定は、1932年7月18日当時外務大臣であった内田伯によって発表された。この発表は8月25日東京において行なわれた同伯の議会演説中においても繰り返し述べられ、さらに同大臣は日本政府は満州国の承認をもって、満州問題解決に対する唯一の有効な手段を見なしているということにまで触れた。また同伯はその演説中でこの問題を説明して次のように述べた。

『満州問題の解決に関し帝国政府の最も重きを置きまする所は

 第一にその住民の正当なる要望が充たされかつ帝国の権益が確保さるるとともにいやしくも旧来の排外的施設(←英文では「anti-foreign policy」となっているので「排外的政策」または「排外的施策」が正しいだろう)の再現を防止して同地に内外人安住の楽土を築きもって満州自体の安定はもちろん進んで極東における恒久的平和の招来を期すること及び第二に感情論又は抽象論を排し満州における現実の事実を基礎として問題の解決を期することの二点であります』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 1932年9月13日、東京において日満両国代表によって調印されることになっていた議定書草案は、天皇親臨の下に当時の日本枢密院の諮詢を経、同15日右の文書は正式に調印されたのである。

 検察側の主張によれば、われわれは以上のことを共同謀議者連の行為として、または何らかの共同謀議何らかの遡及的兆候を示すものとして考えることはできない。

 満州を日本帝国に併合しないで、日本が満州に傀儡政府を樹立した理由については、これによって日本がワシントン条約に基づく日本の義務を回避し得ると考えたからではあるまいかと言われていた。

 本官はこれに関係ある時期における右条約の状態とまたその調印国がどの程度にこれを尊重していたかを指摘した。

 しかしながら今問題となっているのは、その法律上の地位が現実にどんなものであったかではなくて、関係者がその法律上の地位をどのように解したかということである。われわれに示された証拠は、当時日本政府の閣僚であった人々は、ワシントン条約に鑑み、満州国を一独立国家として承認することにある困難を感じたことを示している。それで彼らの解釈による同条約に基づく義務に鑑み、儡政府(←正誤表によると「儡政府」は誤りで「傀儡政府」が正しい)を樹立する方がよいと考えたのであったのかも知れない。どちらにしても、当時の日本政府の条約義務について神経質な考慮を示していたし、またその義務の違反を避ける手段を見つけようとしていたのであるから、まだいわゆる共同謀議というものを始めていなかったのであり、従って彼らの熟議、政策、行動は、厳密にいえばわれわれの現在の目的には関連性のないものである。

 検察側の描出した満州における日本の経済的支配は、その最終論告中の言葉で最もよく言いあらわされている。すなわち『早くも1932年4月11日、すなわち新政府設立の直後、日本内閣は財政経済政策を樹立することによって、国家の基礎を鞏固にし、国際的信用を高め、日満両国の単一経済体を実現するために、新国家は経済諸問題に関する権威ある顧問として日本人を任用し、かつ日本人官吏を経済に関する地位に任命すべきである旨を決定したのであります《書証223号記録2826頁》。この決定は日本のために鉄道その他の運輸機関経営の実権を保留したのであります《書証223号記録2826−7頁》。斎藤内閣は日本が満蒙における航空権獲得の基礎を樹立する軍事的必要を口実として大日本航空輸送株式会社に定期航路を開設せしめることに1931年11月決定したことを認めて、本事業が日本航空政策の遂行及び産業の発展並びに支那本土における航空権獲得の準備に資するところあらしめんがために経営される永久的事業体となることが重要であると1932年8月決定したのであります《書証225号記録2831−2頁》。本事業は、日本人がその実質的指導権並びに監督権を保持する一つの日満合弁会社を通じ、日本の指導監督下に置かれることになっていたのであります。《書証225号記録2832頁》その助成金は満州国政府並びに満鉄側より下付されることになっていたのであります《書証225号記録2832頁》。議定書の調印に関連して付属協定中の三つは運輸、航空並びに鉱業における日本の権利に関連していたのであります《書証241号記録2980−1頁》』

 『これら初期の手段は、孤立せる略奪現象ではなくして、満州を完全に制覇せんとする完全な計画の一部であったという事実は、満州国承認に続いて起こった日本の行動を考慮すれば、なお一層強く立証されるに至るのであります。1932年11月3日、内閣より関東軍に与えられた指導計画には、経済的には共存共栄が根本原則であるべきであり、かつその組織は日満両国間のブロック経済たるべしと明記されていたのであります《書証230号記録2907頁》。自給自足を達成し、世界的産業に向かって前進することを目的として、該ブロックの各構成員が自己の諸産業と他方の諸産業とを統一運営し、関税障壁を撤廃するよう「適地適産業」なる概念が採用されることになっていたのであります《書証230号記録2908頁》。本政策の採用に引き続き、内閣は満州の有線、無線電信、電話並びに放送事業に対する政策を決定したのであります《書証231号記録2919頁》この会社は、両国政府及び軍部の共同支配下に置かれる合弁事業であることになっていたのでありますが、満州国軍は、日本軍の事前承諾なくしては、検閲をなし要求をなすことができず、また監督当局間に論議ある場合には、日本当局の見解が勝利を得ることになっていたのであります《書証231号記録2920−口頁》。(←正誤表によると「−口頁》。」は誤りで「−四頁》。」が正しい)1933年8月8日の指導政策には、満州国の経済的目標は、日本経済力の全世界への伸張を確定し、同時に満州を経済的に強化せんがため日満経済の一体化にありと規定されたのであります《書証233号記録2930頁》。本文書に述べられたものより少しでもよく、日本の真の侵略企図を表現することは出来ないのであります。日本が先ず最初に考慮せられ、しかして後満州が考慮せられたのであって、第二次的考慮たる満州国の経済的強化さえも、満州国民の利益のためとしてであったということは、全く明らかではないのであります。本文書はまた、一定の産業は、日本の国防上の要求により制限を受けるけれども、他の産業はすべての者に開放さるべき旨を述べたのであります《書証233号記録2930頁》。本政策の決定に当たり、あらゆる重要項目が日本内閣に保留されたことが想起されるでありましょう。(検察側の最終論告の引用はさらに続く)

 『1934年3月20日、内閣は日満経済統制方策を決定しました。その根本理念は、日本の世界的経済発展の基礎の確保と満州国経済力の強化でありました《書証236号記録2939−40頁》。基礎産業は日本の国防上の要求により、制限を受ける事になり、かかる事業は支配的地位を有する特殊の会社をして経営せしめ、直接又は間接に日本の保護及び監督を受けしむることになりました《書証236号記録2940頁》。奨励さるべき産業は、なかんずく軽金属、石油、液体燃料、自動車の諸工業並びに鉱業でありました《書証236号記録2941−2頁》。

 1935年7月17日、日本と満州国は共同経済委員会を設置し、重要経済問題並びに合弁会社の経営の統制及び監督に関し、両国政府に進言せしめる事となりました《書証851号記録8434−5頁》。右委員会には両国から各4名宛(←この「宛」は省くか、「合」とするのが正しいだろう)計8名の委員が置かれる事になって居りました《書証850号記録8422頁》。この委員会の権限は制限されて居りました。それは両国政府にとって重要な経済問題ではあるが、日本の権限内にあるものは委員会の権限外にあり、しかしてかかる事項は満州国のみを拘束する片務的契約契約にする事になっていたからであります《書証850号記録8424頁》。右取極めは事実上日本のみを拘束するという事が枢密院において秘密事項として指摘されました《書証850号記録8425頁》。然しながら右委員会に留保せられた制限付き権限すら、委員が同数に分かたれているという理由で顧問官の一人を心配させました。この顧問官の懸念は、被告人広田が、満州国側委員の一人、すなわち総務庁長は日本人であって、その主要任務は軋轢の起こらぬ様に注意する事であり、もし満州国側委員が日本に対し陰謀を企てる様な事があれば、同長官は両国の利害を考慮の上適当な手段をとるであろうと指摘したので、鎮まったのであります《書証850号記録8429−30頁》。1935年11月、円ブロックが結成され、満州国の通貨は銀本位制を廃止せられ、日本の円貨と等価に定められました《記録8436頁》。

 『かかる満州国経済の全ての統制の目的は、1937年に到り、次の諸計画が同国の経済は、戦争目的上日本の経済に統合されつつある事を示したので、明らかになりました。1937年5月29日の陸軍省の重要軍需産業五箇年計画においては、必需産業は日満を一体とせる適地適業の原則に則り大陸に進出すべき事が計画されました《書証842号第1部記録8437頁》。戦争準備の完成と主要産業計画《書証841号記録8261頁》の実現を二大目標として1937年6月23日の軍需生産五箇年計画要諦中には、満州国産業五箇年計画においては、軍需産業に対し指導をなすべきことが規定してありました《書証841号記録8439−40頁》。満州国における軍需産業の迅速なる建設を阻止する要素の克服に努力することになって居りました《書証841号記録8441頁》。』

 『1937年1月満州国は産業五箇年計画を公布しましたが《書証446号記録5071頁》、本計画の起案に当たっては被告人星野は大なる役割を演じた(←「演じる」が正しいだろう)事を容認しました《書証453号記録5126頁》。あらゆる種類の産業の新設と拡張に備えていたこの計画には、非常の際に必要なる満州国国家資源の開発に重点を置くべき事並びに満州国の自給自足を図り日本の不足を補うため各種産業の発展を望む旨記してありました《書証446号記録5071頁》。本計画では軍需品として要求せられる農産物の生産が増大せられる事になって居りました《書証446号記録5072頁》。1937年5月、満州国は重要産業統制法を施行し、戦争に不可欠のものを含め、あらゆる重要産業に従事せんとする者は政府の承諾を受くるの要あるものとし、既にこの種の業務に携わる者はこれを変更する場合、すべて事前に政府の許可を受くるを要する事としました《書証444A号記録5045−51頁》。1937年5月までには、戦争を主眼とする計画の下に、全重要産業は、日本もしくは、その支配下の傀儡政府の掌中に事実上帰して居りました。』

 『しかしながら、これほど凄まじきまで支配力を蓄えても未だ日本は満足せず、1937年10月22日第一次近衛内閣は満州国に重工業を建設し発展せしむるため、一重工業会社の設立を決定しました。資本金の半額は満州国が出資し、他の半額は、日本の民間業者すなわち右決定により指定された日産が管理する事になりました。この決定は又日本が管理する事をも定め、管理者として、鮎川義介を指名しました《書証239号記録2963−6頁》。この決定に従い日本と満州国は満州工業開発公社設立のため、経済協定を結びました《書証840号記録8473頁》。この会社は表面上は満州国の会社でありましたが、日本との経済協定から見れば、実質的には日本の「国策会社」でありました《書証840号記録8472頁》。同社は共同管理を受ける事となって居り、その株式は両国政府又は両国民のみが所有できる事になって居りました。総裁と理事は、両国政府が任命することになって居りました《書証438号記録5018−20頁》。』

 満州における経済的侵略という起訴事実について検察側はこれほど詳しく論じているが、本官はこの起訴事実は、本官の現在の目的のためには、大きな意義を持つとは思わない。この証拠にどれほどの価値があろうとも、それはせいぜい満州国建国後、日本側は運輸並びに通信設備の開発に意を用い、そして天然資源と重工業の開拓発展がますます重要視されたことを示すに過ぎない。しかしながら右はいずれも当時の日本政府のしたことで、検察側の主張によれば、その当時の政府はまだいわゆる共同謀議というものを始めていなかったのである。最終論告において検察側は次のように主張している。『陸軍内の当初の共同謀議者連は、彼らが間断なく実行に移したところの一の全般的な計画をそもそもの最初から既に政府に強いてあらゆる個々の行為に黙従せしめ、かつ彼らとともにそれらに参加せしむるほど強力でありました。参加し黙従せざることはその屈従せざる内閣の瓦解及び少なくも計画の当時実行されていた部分の程度には参加するところの新内閣の樹立をもたらしたのであります。結局1936年共同謀議者連は政府が成立する事を許容する代価として政府による共同謀議への完全な参加を獲得するほど強力になり、この共同計画が日本の国策となったのであります』

 このようにしてここでなんらかの重要性があると認められる唯一の事柄は、この段階で日本政府が行なっていたことは、共同謀議者と称せられる者の求めによって行なわれていたことを示す証拠が何か存在するかどうかを調査することである。問題は政府のとった行動が正当と認められるものであるかどうかではなくて、われわれに提出された証拠によって、この行動といわゆる共同謀議者の間になんらかの関係が示され、それでこの行動から最初の共同謀議の遡及的兆候をひき出すことができるということになっているかどうかにある。ところがこの証拠の中には、日本政府の諸行動といわゆる共同謀議者とを右のような関係で結びつけるものは絶対に何ものも存在しないのである。

 この証拠はどんなに高く評価しても、当時の日本政府がとった満州資源開発のある政策を示すだけである。本官はすでにいかに多様な起源の、多くの諸要素が、右政策策定にあたって作用したかも測りしれないということを指摘した。これらの要素の中にはなんらかの共同謀議の所産であると言えるものは一つもない。右のことともに、共同謀議と称せられるものは、たとい検察側の主張に従ったとしても、当時の日本政府と関係がなかったという事実を考慮に入れるならば、右の経済的開発に関する証拠が、どのようにして検察側の共同謀議の主張の裏づけとなることができるかを本官は理解することができない。

 1937年以降の産業開発に関する諸計画及びそれらと侵略戦争のためのなんらかの企図との関係は後にこれを戦争のための全般的準備に関する問題に関連して、詳細に検討することとする。本官の当面の目的のためには、ここではこれらの計画及び産業開発となんらかの侵略目的とを結びつけることはできないと言っておけば充分であろう。とにかく、それらのことは後の出来事であって、起訴状中に主張されているような種類のどのような共同謀議とも何の関係もないことであった。

 次に満州以外に支配を拡大したことについて、検察側はその方法を詳細に述べているが、その方法とは、検察側の所論によれば、日本が盧溝橋事件勃発の日、すなわち1937年7月7日より前に、華北の支配を獲得するに当たってとったものである。この点に関して、検察側は最終論告において次の諸点を強調したのである。

  1、1933年5月31日の塘沽停戦協定の条項に基づいて冀東地区、すなわち重要都市である北平及び天津の北方と東方に非武装地帯が設けられ、中国軍は非武装地帯の西方及び南方に撤退した。

  2、非武装地帯とこれに隣接する地域で華北五省が成り立っているのであるが、これらは戦略上、政治上及び経済上、最も重要であった。

  3、察哈爾(チャハル)省はすでに満州国に編入されていた熱河の西部と完全に境を接し、南部は河北と境を接していた。《法廷証220号記録2751頁》

  4、1935年4月になると、共同謀議の諸目的を首尾よく達成するために絶対に必要な前提条件であるところの中国をさらに一層解体することと、中国国民政府を破壊することを企図する彼らの諸計画を促進するために右の重要な地方を一つの自治地帯とすることがすでに決定されていた。《記録2026頁−田中隆吉》。

  5、右の運動の主謀者は、被告関東軍司令官南と被告北支駐屯軍司令官梅津であった。この仕事は右の両軍が分担した。北支駐屯軍は五省の方を担当し、関東軍は内蒙古の方を担当した。《田中隆吉、記録2033−34頁》。

  6、その目的は二つあった。

   (a)蒙古に自治政権をつくること。

   (b)蒙古地区外の華北に一つの政権をつくること。

  7、(a)蒙古政権を樹立しようとする理由は、ソビエットの支配下にある外蒙古勢力の浸透を防ぎ、また一つの独立国家の建設するためであった。

    (b)華北政権を樹立しようとする理由は、五省を南京政府から分離させ、右五省を日本の指導下にある満州国と緊密な関係を持つ一つの自治区域とし、そして南京政府の権力と影響力とを減らすためであった。《田中隆吉−記録2026−27頁》。

  8、用いられた方法は、要求を出す口実として事件をつくり出すことによるものであった。この点において共同謀議者らは事件を見つけ出すのはきわめて難しいことを悟った。当時は日華間の関係はまず良好であったからである。

   (a)1935年5月半ばに、二名の中国人が天津日本租界において殺害された――梅津はこれを口実として若干の要求を提出した――平和確保の目的から中国は妥協に同意し、1935年6月10日、何応欽将軍は右の要求を容れ、そして梅津、何応欽協定の成立を見た。《法廷証第2491号、記録20787−88頁》

   (b)1935年6月、四名の日本軍将校が張北地区を自動車で通過した際、侮辱を蒙ったと主張された。――南は塘沽停戦協定の適用範囲を拡大しようとして、東京の訓令に基づき、関東軍における南の参謀であった被告土肥原の情報担当地域である同地区で発生したこの事件に関して、土肥原をして交渉を行なわせるため、天津に派遣した。《法廷証第2489号、記録20,755頁》。1935年6月27日、右の事件の解決について土肥原及び秦徳純間に協定の成立を見た。《法廷証第2489号、記録20、755頁》

  9、5月29日頃、梅津は新京に赴き、同地において南及び林陸相と会見した。

  10、1935年9月に、土肥原は南の命によって自治運動を起こさせるために、関東軍から北平に派遣された。《田中隆吉、記録2034、2124頁》

   (a)反共を標語(←「標語」に「スローガン」と振り仮名あり)とすることにした。

   (b)土肥原の最初の計画は、誘発工作の一つであって、それは挫切(←正誤表によると「挫切」は誤りで「挫折」が正しい)に帰した。《田中隆吉−2092頁》

   (c)そこで日本は脅迫及び賄賂行使の手段を用いて自治運動を誘発し、そして11月25日冀東防共自治委員会の創設をみた。

  11、1933年3月において徳王のもとに内蒙自治委員会の設立をみた。南京側が委員会に経済的な支援を与えることに失敗し、かつ徳王が内外両蒙古を包含した統一蒙古政府を設立しようとする願望を持っていたという理由から綏遠省長はその委員会と対立していたので、事態はあたかも日本側が徳王に提案をなす好機に達していた。その結果、田中隆吉及び南の証言によれば、1935年4月もしくは5月に、南は使者として石本大佐と田中を徳王のもとに派遣した、ということであった。南の言葉によれば、これらの密使の派遣は状況調査上の連絡目的に出たものであると述べ、かつ単にこの派遣は連絡機関を設けることはよかろうと彼らに語ったことを認めたにすぎないとしたのに対して、田中は次のように証言した。すなわち彼らが派遣された目的は、徳王のもとに一個の自治政権を樹立するように内蒙自治委員会と日本とを密接に結びつけ、しかもその政権は将来関東軍の反ソビエット政策の線に沿った一個の独立政権となるものであったと証言した。徳王は最初同意しなかったが、1935年8月には南と密接な協力をなすべき旨を約し、関東軍は徳王に財政的援助を与えたのであった。(←原資料ではここに改行があるが、英文を参照すると、改行せずにそのまま次の「1935年11月に、・・・」の文章に続けるのが正しい)

  1935年11月に、土肥原と河北、察哈爾政権との間に、徳王が同政権を統御することを協約して、1936年2月11日に内蒙古自治協議会は西スニト(←「スニト」に傍線があるが、英文にはない。誤って付されたのかもしれない)に移され、同地で日本の民間人が顧問として勤務した。

 検察側の最終論告からの右抜粋中、この期間の出来事に悪質な意味づけをしようとするその観察は、主として田中隆吉の証言に根拠をおくものである。本官の同証人について受けた印象に関しては、すでに述べたところである。

 弁護側は、盧溝橋事件の少し前に北支において始められ、かつ助成されたこの自治運動は、日華事変となんらの関係を有するものでないと主張した。1933年5月の塘沽協定の締結後において、河北、察哈爾、山東、山西及び綏遠の五省並びに北平、天津の二市を統治すべき華北政務委員会を、同年6月17日に確立したのは、実に中国国民政府自体であったのである。同委員会の首席には黄孚が任命された。1935年には農民の自治運動が大いにその勢力を増し、同年11月には殷汝耕を主席とした冀東防共自治委員会が設立された。これはまったく中国自体の地方問題であったにもかかわらず、中国政府はこれを利用して反日宣伝の資となした。

 右に関連して個々の事例について当事者の功罪を取り上げるのは、本官の目的外とするところである。ただ本官は、この期間中に起こりつつあったすべての出来事を、起訴状に主張されているような全面的な共同謀議に帰することが、きわめて困難な旨を指摘すれば足りる。右の出来事の多くは、なるほど策謀に基づくものであったかもしれない。また日本人の多くが、かような出来事を策謀するに際して、関係したものであったかもしれない。しかしながらわれわれがこれらの出来事のすべてを、検察側が主張するような性質の全面的な共同謀議に帰することを正当化するような証拠は、記録上ほとんど見出し得ないのである。

 いろいろな出来事を邪悪な意義を有する継続的な一連鎖として見せかける最も人目を惹(ひ)き易い方法は、次の通りである。

  1、1933年の春、塘沽停戦協定の調印をもって日本の満州及び熱河占領が完了した後、熱河は新しくつくられた満州国という傀儡国家の国境になった。

   (a)もし日本が、すでに占領した領域からさらに中国の内部へ進出しようとするならば、熱河から察哈爾に西進するか、または南進して河北にはいるか、ということになる。

   (b)これによって1935年5月の河北の事件並びに1935年6月の察哈爾の事件の説明がつくわけである。

  2、1934年4月17日に、日本外務省は『天羽声明』を発表して、中国における日本の諸計画に対する干渉は一切日本政府の容認し得ないところである旨九ヶ国条約加盟国に警告した。

   (a)広田はグルー米国大使に対して、右の『天羽声明』は、同人の承諾も得ず、知らせもせず、無断で発表されたものであると説明した。

   (b)しかしながらこの声明が当時の日本の対中国政策を正しく現わしたものであることは、広田がグルー大使に釈明したその翌日、在米国、英国及び中国日本大使館並びに在南京日本総領事館宛、天羽声明においてなされた主張、すなわち中国に関する日本の特殊地位の主張を反復した電文を回覧したことからして明らかになった。

   (c)1934年4月26日付電文の「中ニ(←「中ニ」に小さい丸で傍点あり)」次のような一節がある。すなわち

     『日本は単にその地理的な位置に鑑みても、その最も重大な関心を有する、東亜における法及び秩序の維持に有害な行動に対しては、それが何人が、どのような口実のもとにこれをなすかを問わず、無関心であり得ない。』

  3、(a)続いて1935年、河北省において五月事件、また同年に察哈爾北部において六月事件が起きたのである。

    (b)次に内蒙古自治政権の成立を見た。田中隆吉の証言を基として、この動きは検察側の主張する共同謀議と結びつけられている。

  4、次にわれわれの手もとには、関東軍の宣伝計画と称せられるものが提出され、本計画は華北に対する日本側の意図について最も重大な意義を有するものと言われている。これは1935年12月9日、関東軍参謀次長から陸軍次官宛発せられたものである。

   (a)その中の若干の章句は、重要意義を有するものとして特に引用されている。

  5、次にわれわれは左の事実を告げられた。すなわち中国における日本陸軍が、華北における軍事作戦を予期して諸計画を立案しつつあったとき、一方日本の内閣は、外交手段による中国征服計画を練りつつあったと。

   (a)1935年8月5日に広田内閣は、彼の訓令に基づいて外務省東亜局が作成した計画を、在中国外交官憲並びに領事官憲に発送したが、本計画は同局が陸・海軍当局と協力して日本の対中華政策を再検討した結果、作成されたものである。

   (b)三原則は、右計画において次のように述べられている。

    『(1)支那側ニオイテ排日言動ノ徹底的取締リヲ行ナウトトモニ、日支両国ハ相互独立尊重及ビ提携共助ノ原則ニヨル和親協力関係ノ増進ニ努メ、カツ満支関係ノ進展ヲ計ルコト。

     (2)右関係ノ進展ハ支那側ニオイテ満州国ニ対シ正式承認ヲ与ウルトトモニ、日満支三国ノ新関係ヲ規律スベキ取極メヲナスコトヲモッテ結局ノ目標トスルモ、差シ当タリ支那側ハ少ナクトモ接満地域タル北支及ビ察哈爾地方ニオイテ満州国存在ノ事実ヲ否認スルコトナク、満州国トノ間ニ事実上経済的及ビ文化的ノ融通提携ヲ行ナウコト。

     (3)察哈爾ソノ他外蒙ノ接壌方面ニオイテ、日支間ニ共産主義ノ脅威排除ノ見地ニ基ヅク合作ヲ行ナウコト。』

    (c)1936年1月21日に、右三原則は広田の議会演説を通じて一般に公表せられた。

  6、続いて日本に起こったのは二月事件である。この事件は1936年2月26日に勃発した。これは海軍内閣として知られ、かつ武力による陸軍のアジア大陸における拡張政策に反対であると評されていた岡田を首班とする政府に対する陸軍側の忿懣が爆発したものである。

   (a)本事件の目的は、岡田内閣を、陸軍の大陸における拡張政策と合致するさらに強い政策を持つ内閣をもっておきかえるというにあった。岡田は、右事件は軍部の野望に対する政府の共鳴に反対した一群の少壮将校の忿懣が、自然的に爆発したもの、と考える旨証言した。

   (b)岡田内閣は1936年3月8日に辞職し、広田が後継内閣の首班となった。

   (c)軍紀を粛正し、陸軍の勢力の政治への影響を排除するための措置を講ずるどころか、広田はその若干の閣僚の選択に関しては、陸軍の要求の前に屈したのである。

  7、1936年6月30日に陸海両大臣間に国策の基本に関して意見の一致を見た。基本的な政策は、日本の国防安定の目的のために、東亜の大陸に牢固たる足場を確立するとともに、南方地域への進出、及び開発をはかるということから成っていた。

   (a)その原則としては次のようなものがあった。

    (1)日本は列強の侵略政策の是正に努めるとともに、一貫した海外拡張政策により、皇道精神の具現について努力せねばならない。

    (2)日本は東亜における安定勢力としての地位を確保するため、その国防及び軍備を完成せねばならない。

    (3)日本は満州国の健全な発展を期待するものであって、かくして日満国防の安定をはかり、それによって経済的発展を促進しようとするものである。日本はソビエット連邦の脅威を除き、また英米に対して備え、かつ日満華の緊密な提携を確保しようとするものである。右の大陸政策の遂行にあたっては、日本は、他の列強との友好関係に関して然るべき注意を払わねばならない。日本は南方諸地域において、その国家的経済的発展を促進しようと計画するものであって、他国に対して刺激を与えないように、穏健かつ平和的手段によって、その国力の伸長をはかろうとするものである。かくして満州国の確立をもって、日本はその国家資源を充分に開発することを期待することができ、またその国防を拡充し得るのである。

   (b)これらの諸計画は、1936年8月11日に、五相会議において国策の基本要綱として採用されたものである。

  8、広田内閣が、国防の名をなりてその対外拡張政策を立案していた間に、他方、関東軍は北方の蒙古に対して注意を向けていた。さきに1936年3月28日、当時の関東軍参謀長板垣は次のように述べた。

   (a)『外蒙の関係位置が今日の日満勢力に対し極東ソ領と欧ソとの連絡線たるシベリア鉄道の側面掩護の地帯としては極めて重要性を有す、従ってもし外蒙古にして我が日満側に合体せんか、極東ソ領の安全性はほとんど根底より覆さるべく、又万一の際においては、ほとんど戦わずしてソ連勢力を極東より後退せしむることを得るに至るやも知るべからず、従って軍は所有手段により日満勢力の外蒙古に対する拡充を企図しあり』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

   (b)内蒙古に関して、彼は次のように言っている。

     『西部内蒙古及びその以西の地帯は帝国の大陸政策の遂行上重要なる価値を有す、すなわちもし該地帯を我が日満側の勢力下に包含せんか、積極的には進んで同一民族たる外蒙古懐柔の根拠地たらしむべく、さらに西すれば新疆方面よりするソ連勢力の魔手を封ずるとともに、支那本部をして陸上よりするソ連との連絡を遮断される・・・・如上の見地に立ちて軍は西部内蒙古に対し数年来逐次工作を進めつつあり、皇軍は将来さらに万難を排して工作の歩を進むべく固き決意を有す』(カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

   (c)日本による対蒙積極的政策採用の結果、内蒙における自治運動は着々進捗を示した。いわゆる「国家設立会議」は、1936年4月21日から26日にわたって開催された。

  9、1936年8月11日に、対華北第二次施政方針が広田内閣の関係各省によって決定された。

   (a)この政策の主要目的は以下のようなものとされていた。

    (1)行政上の完全なる自主性獲得のために、華北在住民に対して援助を与えること。

    (2)反共親日満地域を設定すること。

    (3)日本の国防上必要な物質を確得し(←正誤表によると「確得し」は誤りで「確保し」が正しい)、ソ連からの万一の侵入に対して運輸施設の改善をはかり、それによって華北をして日満華協力の基地とせしめること。

   (b)華北五省に対しては、究極においては自治を行なわしめること。

  10、次いで1937年2月20日に、林内閣の関係省によって対華北第三次施政方針の決定を見た。内容に関しては、本質的な変更はなんら見られなかった。

  11、1936年9月18日に豊台において、日本軍一ヶ中隊演習実施の際に一つの事件が起きた。右中隊が同地の中国軍の駐兵線を通過したときに、中国側巡視兵はこれを阻止しようとして、その結果衝突が起こった。本事件は直ちに解決を見たのであるが、日本側はこれをもって兵力増強の口実となし、豊台を占領するに至った。

  12、1937年1月20日に、政友会は広田内閣攻撃の宣言書を発し、「ナカンズク(「ナカンズク」に小さい丸で傍点あり)」その理由としては、同内閣閣僚は官僚並びに軍部の独断的な偏見に、あまりにも影響されること多く、かつあらゆる分野に対して干渉を加えようという軍部の希望は、日本の立憲政治を脅かすものであるというのであった。

   (a)1937年1月22日に寺内陸相は辞職した。彼の言によれば、辞職の理由は、閣僚として入閣していた若干の政党人が属していた政党の時局観が、陸軍の時局観と根本的に食い違っているというにあった。当時の時局下にあっては、政党政治を認めないという陸軍の極端な政策と、ともかく折り合うことができる新しい陸軍大臣を得る望みはまったくなかったので、広田内閣は辞職せざるを得なかった。

   (b)広田内閣の辞職により、1937年1月24日に宇垣が組閣の大命を受けた。宇垣は陸軍から好意の目をもって見られていなかった。宇垣は組閣に成功しなかった。林内閣が1937年2月2日に成立した。政府の一般政策は変更をみなかった。

  13、1937年4月16日に北支指導計画が外務、大蔵、陸、海軍大臣によって決定された。北支指導の要綱は、同地域を事実上一つの鞏固な反共、親日地区とせしめるにありとせられ、かつ交通、通信施設の獲得に資せしめようとするにあり、それによって、一方においては第三国の脅威に備え、他方においては、日満支の相互援助の一体化を実現する基礎を築こうとするにあった。

  14、林内閣の瓦解後、近衛公は1937年6月4日総理に就任し、広田を外相に、また賀屋を蔵相となした。

  15、1937年6月9日、当時の関東軍参謀長であった東条は、現下中国ノ情勢ヲ対ソ作戦準備ノ見地ヨリ観察セバ我ガ武力コレヲ許サバ先ズ中国中央政府ニ対シ一撃ヲ加エ我ガ背後ノ脅威ヲ除去スベキ旨、参謀総長に打電した。

  16、盧溝橋事件は1937年7月7日に起こった。

 天羽声明は本件の法廷証第935号である。もちろんその声明そのものは、『日本政府は中国における日本の計画に干渉することを許さず』とは言わなかったのである。これは単にこの声明書の解釈並びに意義のとり方について、われわれに示されたものにすぎないのである。その声明書の全文は以下の通りである。すなわち

 『中国に関する日本の特殊なる地位により中国問題につきては日本の見解及び態度はあらゆる点において列国のそれと必ずしも一致せざるものあるやも知れず。然れども日本は東亜においてその使命及び特別の責を果たすべく、極力努力を求められつつあることは認めらるるを要す(←この一節、原資料では漢字片仮名交じり文)

 『日本は東亜における平和維持の根本義につき国際連盟と意見一致せざるあるをもって国際連盟を脱退するの余儀なきに至りたり。日本の対華態度は列国のそれとしばしば異なる所あるもこのごとき差異は日本の地位及び使命により免れ得ざるものなり(この一節、原資料では漢字片仮名交じり文)

 『日本の常に列国と友好関係を保持増進すべく努め居るは多言を要せず。然れども同時に我々は東亜の平和及び秩序維持のため我々自身の責任において単独に行動するは当然のことと考えらる。しかしてこれを遂行するは我々の責務なり。同時に東亜における平和の維持につき日本とともに責を分かつ地位にある国は中国をおいては他に非ず。従って中国の統一、領土の保全及び中国における秩序の恢復は日本の最も切望する所なり。これらの達成は中国自身の自覚的並びに自発的努力に待つ他なきは歴史に徴するも明らかなり。故に中国にして他国の勢力を利用し日本を排斥するごとき挙に出ずるは吾人の反対する所なり。又中国にして夷を制す(←正誤表によると「夷を制す」は誤りで「夷を以て夷を制す」が正しい)べく画するごとき措置も反対する所なり。満州事変、上海事変後のこの特殊時期において、列国側においてなされたる共同動作はたとい名目は技術的あるいは財政的援助にあるにせよ政治的意味を帯ぶるに至るは必然なり。このごとき性質の動作の遂行さるれば必ず悶着を招来遂には中国における勢力範囲の設定あるいは国際管理又は分割等の問題の論議を必要ならしめ中国にとりては非常なる不幸をもたらすのみならずまた日本及び東亜に対しても根本問題として重大なる反響をもたらすものなり。されば日本は原則としてかかる見解をなすべきであるが然りといえども各国にして中国に対し個別的に経済貿易問題の交渉をなすごときはこのごとき交渉の中国の利し東亜の平和の維持に支障を及ぼさざる限りこれに干渉する必要を認めず。(←この一節、原資料では漢字片仮名交じり文)

 『然れども中国に軍用飛行機を供し飛行場を建設し軍事教官あるいは軍事顧問を派遣し政治借款を起こすごときは日本、中国その他の関係を離間し東亜の平和及び秩序維持を乱すごとき結果を生ずること明らかなるをもって日本においてはこれに反対するものなり。(←この一節、原資料では漢字片仮名交じり文)

 『前述の日本の態度は従来の方針より演繹せらるべきものなり。然れども諸外国の中国に対し共動動作の名義にて積極進出の形跡あるを報ぜらるるをもってこの際日本の方針を再現するも不適当ならずと信ずるものなり。』(←この一節、原資料では漢字片仮名交じり文

 この声明を出した機会を理解するためには、この言の(←正誤表によると「言の」は誤りで「発言の」が正しい)表面の原因である中国における当時の西洋諸の(←正誤表によると「西洋諸の」は誤りで「西洋諸国の」が正しい)活動の二、三に留意することが適切であろう。これらの活動は中国に対して借款貸与申出、航空機の売り込み、軍事専門家及び顧問の雇用、並びに南京政府に属していた国際連盟専門家による技術的援助等であった。

 経済取引に関しては、それより少し以前に、経済的発展を援助するため、財政団体の仲介による中外協力(←「中外協力」というのは、英文では「sino-foreign cooperation」であり、「中国と外国の協力」という意味である案に関する新聞報道が現われていた。この案は国際連盟創立当初、連盟の事務次長であった一フランス人ジャン・モネ氏の援助によって中国政府がつくり上げたものであった。上海からニューヨーク・タイムス宛の報道は、この団体を目して通商並びに投資界における日本の増大しつつある優越を相殺し、かつ日本に対して、中国に貸与する借款参加の選択権を保証した国際銀行借款団協定を出し抜こうとする企図として、故意に目論まれたものであったと言った。同時にモスコーから出た報道は、国際銀行団からの借款が事実差し迫っていると発表した。

 その前年の米国小麦借款は、日本にとって好ましくないと思われたいま一つの財政的取極めであった。その好ましくないとする理由は、その小麦の販売から得た資金を、中国政府が武器購入のために使用したというのであった。

 中国に対する軍事援助は、日本の抗議に対してさらに鞏固な理由を与えた。南京政府は、空軍の創設をはかるために大量の航空機材を購入したばかりでなく、また相当多数の外国人専門家及び教官を雇用した。米国は中国に対して、70機に及ぶ戦闘機を含む航空機及びその他の観測、爆撃及び訓練用機械を供給した。カーチス・ライト会社はその年の初めに、米国技師の援助によって経営される飛行機工場建設の契約をしていた。さらに漢口に(←正誤表によると「さらに漢口に」は誤りで「さらに杭州に」が正しい)、合衆国航空隊の退役一大佐を校長とする陸軍飛行士養成所が付属している一大航空基地が建設されたのは、米国の援助によるものであった。

 ドイツもまた中国に対して軍事顧問を送った。その中には、幾多の旧帝国陸軍の著明(←英文では「eminent」なので「著名」が正しいだろう)なる上級将校が含まれていた。かつ1934年4月には全ドイツ国防軍総司令官が在南京の首席陸軍顧問の職を継いだ。

 その間1934年4月には、国際連盟の中国に対する技術的協力の仕事は重要段階に達した。その専門家たちの仕事の主要部分は、中国における運輸交通の発達に向けられていた。その件は、その軍事的意義のために、日本人の観点から特に興味あるものと推定し得たかもしれないのであった。また国際連盟理事会の技術代表であるライヒマン博士は、日本においては反日的であり、かつ日本の権益に有害な方法で中国の政治運動に従事したという評判があった。

 これらが1934年4月、日本にその政策発表の機会を与えた中国における外国の活動の少なくも一部であった。

 本官は、この天羽声明を、後ほど東亜の残余の部分に対する共同謀議の拡張という場合に関連して検討するであろう。その声明は、当然日本と中国との関係における日本の特殊地位に関して、何か発表するところがあったのである。しかしこのような主張は、国際生活においては前例のないことではない。一つの国家が、その国家に比較的近接した地域及び諸国に対する他の大陸の列強の行為に関しては、みずからの責任において単独に行動することは妥当かつ賢明と考えてもよいという主張は、合衆国が、モンロー主義を遵奉して行なった行為に明白な前例を見出すのである。

 自衛という理由に基づいて、合衆国は長い間、アメリカ以外の国がどのような手段によるとを問わず、米大陸の土地に対して新たな領土的支配を獲得することに反対する権利を主張して来た。モンロー主義に含まれている主張は自衛に基づいている。合衆国みずからの防衛上の必要に対する考慮が、かような主張は米大陸の(米国以外の)一国家の政治的独立に対して不当な干渉を構成するものであるということを合衆国が容認するのを妨げている。本官は、なぜ日本の類似したその主張に対して、この防衛的性格が否定され、それが侵略的性格を有するものであると呼ばれるのかわからないのである。

 領土的近接は国家間に特殊関係を生ぜしめるということは、日本の中国との関係においてすら、早くも1917年11月石井・ランシング覚書交換がこのことを声明したときに承認された。石井・ランシング協定は、もちろんワシントン条約後、覚書の交換をもって廃棄された。右の協定はこのようにして約定としての効力を失うに至ったかもしれない。しかしながら、領土的近接は国家間に特殊関係を発生せしめるという原則は、依然として残存している。これは国際生活において、行動の基準とされている原則である。

 本官がすでに指摘したように、一国の外交政策は、一つまたは二つの簡単な要因で決定されるものではないかもしれない。本官はすでに日本の対華政策樹立にはいってくる幾多の複雑な要因に言及した。日本の中国における権益、中国内における外国権益を危険に瀕せしめる中国の国内情勢、中国とソビエット《九ヶ国条約締約国でない国家》とのますます強化する相互関係等は、さらに追加される二、三の要因であった。

 日本みずから満州においてとった行動によって持ち出された要因が、さらに数個あった。その行動に対する責任は何であるにしろ、その後の日本の政治家で日本の国務を遂行する責任を負う者は、何人でも、さらに将来の政策を採用するにあたって、これらの要因を無視することは不可能であった。

 1933年春塘沽協定調印後、日本と中国間の一般的関係はますます親善の度を深めた。両国内において、有力政治家の公開の発言中にますます妥協的な口吻が漏らされた。東京からの反日運動の有効な取締り要求に対して、中国政府はそれに応ずる意思を明らかにした。日本政府はまた日本として親善的な態度を表示し、中国に対してその外交団を大使館に昇格させることによって敬意を表した。次の三ヶ月の間において、英国、ドイツ及び合衆国はこの先例に習った。本官が他の個所で示すように、広田の政策は実際に協調的政策であり、かつ順調に遂行されていた。彼の手段は堅実であった忍耐強い説得の手段であり、かつ少なくとも南京政府とは表面上有効的関係を持続していくというのであった。

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