歴史の部屋

 以前に起こった出来事とその後生じた日華関係の悪化の間には、時を前後して起こった諸事件を一連鎖の一部として互いに結びつけることをわれわれに許すような関連はまったく存在しなかった。この年の終わりまでに日本は前例のない財政上の危機に直面しなければならなかったのであって、他の諸国と比較して、日本の財政は最も憂慮すべき状態にあった。日本の財政上の苦境は、その輸出貿易を増加させないにしても、すくなくとも維持することの重要であることを大いに強調したのである。世界を通じて貿易上の障壁を築く傾向がますます強くなったこと、及び英国の植民地並びに蘭領東印度の場合のように、特に日本製品の輸入を制限する傾向が日本を憂慮させる重大な原因となった。

 経済の分野においては、日本は中国の友好的な協力を頼りにしていた(←正誤表によると「頼りにしていた」は誤りで「頼りにしていた。」が正しい)世界の情勢に鑑み、日本は中国こそ日華経済ブロックの形成を容易ならしめるべきであると望んでいたのかもしれない。この間に、ある重大な通貨上の難問題が中国に生じた。英国政府は中国の通貨上の困難を是正するため中国に国際的な援助を与える計画を取りまとめる意図をもってワシントン、パリー及び東京の諸政府と会談を開いた。新聞記者会談において米国国務次官は、もし中国が外国による経済的援助が必要かまたはこれを希望するならば、関係各国の共同動作によって中国にかような援助を与えることについての可能性を好意的に考慮することを是とする点で、米国政府は英国政府と態度を同じくするものであると言明した。日本はこれに対してある程度の疑念を抱いた。これは日華「協商(←「協商」に小さい丸で傍点あり)」を阻止するために、外国が中国問題に関して行なった活動の一形態であると日本は疑ったのである。日本政府はこの国際借款は不必要であり、また望ましくないものと考えると取り急いで声明した。そこでフレデリック・リース・ロス卿が、当時の情況が引き起こした諸問題を、中国政府及び他の関係諸国と討議できるように、中国の経済状態を調査し報告するという使命をもって中国を訪れた。その直後中国政府は日本と協議することなく、ある通貨政策を採用した。この中国の通貨政策を建てるにあたってこの英国の財政専門家の進言が重大な役割を演じたものだという推断が下されたのは不自然なことではない。この考えに加えて英国の援助による借款があるという噂話によって、さらに疑いが引き起こされた。南京政府の指導者らは自身の勢力増大のため国を外国人に売ったと日本では見なしていた。日本は半植民地的の中国を英国資本の支配下に置こうとする英国の企図を見逃すことはできないと感じた。

 法廷証第3241号第5項に以下の記述がある。すなわち、

 『有吉、汪両氏間の日華国交改善に関する商議が漸く緒に着いた時期、すなわち1934年4月17日に天羽情報部長の非公式談話問題なるものが起こりました。』

 『当時国際連盟事務局の財政専門家モネー氏が1933年末以来中国に来て居りましたが、外務省では、同氏が国民政府の汪氏反対派と協力して日本を除外した対華国際協力案なるものを立案中であると云う情報を在華日本公使館その他から頻々として受け取りました。それ故外務省はモネー氏の行動を消極化せしむるため、在華公使その他に対し、モネー氏に接近して彼をディスカレッジ(discourage。思いとどまらせるすべく努力する様に命じました。この命令の内容はモネー氏に強くインプレス(impress。印象付ける)するため、多くエキザゼレート(exaggerate。大げさに言う)された辞句を用いたものでありました。』

 『(4月17日)天羽情報部長の新聞記者に対する非公式談話なるものは、外務省の一部局がかかる特殊の目的をもって作成した訓令(複数)の内容を、さらに情報部が独自の裁量でツギハギしたものであります。』

 広田が天羽声明を否認したということは、彼が同声明に包含されたすべての特定の政策をも排除したことを意味しないことは確かである。広田が日本の大使たちに発した電報の内容は悪質なものではなかった。日本の意味したところは、列強が日本の特殊地位に付した意味とは大いに違ったものではあったが、日本は公けにこの特殊地位を主張していたのである。

 国務長官コーデル・ハルによる1934年5月19日付の手記《法廷証第937号》に現われているように、日本大使はハル氏を訪(おと)ない、同大使が広田外相から受けたこの特殊地位を主張する電報の内容を、直ちにハル氏に伝達した。

 手記の記すところは以下の通りである。すなわち、

 『余は当地又は何れの場所においても誤解を招かざらんがため、尊敬及び友好の精神をもって先ず吾国に関係を有し、かつ九ヶ国条約、ケロッグ条約の調印国の総てに関係する、しかして東洋に適用さるる場合国際法に関連を有する諸権利、権益、及び義務に関し、簡潔にしてしかも包括的なる再声明を発すべきなりと思う旨語れり。次に余は、日本政府は、1934年4月28日?(←この「?」は英文にもある。ハル氏が日付について自信がなかったので、「?」を付したのだろうか)余が日本外務大臣に送りし声明中の若干基本的局面のあるものに関し、意見を異にするやを尋ねたり。大使はこれについて、日本政府は見解を異にするものにあらず、又日本政府は余の覚書あるいは声明中の基本事項に関しては見解を同じうするものにして、しかも政府は支那における平和と秩序の維持に特別の関心を有することを感じ居る旨答えたり。次に彼は平和維持上の日本政府の優越的任務あるいは使命につきさらに――彼の言を援用すれば――「東亜」における平和状態に対する日本政府の特別の関心につき、数週間に亙(わた)り日本政府が声明し来れる所と同様の公式を反復せり。・・・・次に余は、「東亜」における平和状態において、優越にして特殊なる権利を日本が要求する事について、何故日本政府はかかる条項あるいは公式を引き出せしや、この点につき、即今(そっこん。目下)至るところ深酷なる質問が投げられ居る事を全く率直に申し述べたき所存なりと語れり。・・・・大使はこれは企図せられたるあるいは希求せられたる意味にはあらずと反駁し始めたり。・・・・同大使は重ねて平和維持上の日本の優越的権利その他についてのこのいわゆる公式なるものは、余が言及せしごとき干渉、支配あるいは至上支配権を企図するものに非ずと言明せり・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 本文書は、日本の自国の政策に対する解釈と併せてハル国務長官の日本の政策に対する見解をも示すものである。

 この天羽声明に言及し、サイモン外相は議会における質問に答えて以下の言明をした。すなわち、

 『本件声明ハ、列国ノ中国ニオケルアル種ノ行動ガ、東洋平和若シクハ日華国交ナイシ中国ノ保全ニ有害ナルベシトノ不安ニ基ヅキ発表セラレタルモノノゴトキトコロ、英国ノ政策ヨリカカル不安ノ生ズベキハズナク、英国トシテハ実際右ノゴトキ有害ナル措置ヲ避ケツツアリ。』《法廷証第3、244号》

 グルー氏の了解していたように広田は同氏に次のように告げた。すなわち、『日本ガ中国ニ特殊ノ権益ヲ求メ、中国ノ領土並ビニ行政的保全ヲ侵害シ、若シクハ中国ト他国トノ「善意ノ(←「善意ノ」に小さい丸で傍点あり)」貿易ニ対シ困難ヲ醸スガゴトキ意志ハ全然ナイ』というのである。

 法廷証第936号において、グルー氏は次の通り述べている。すなわち、『各国の活動は中国における平和状態を乱す傾向があった。しかも日本は中国に近接している関係上、その平和状態には当然多大の関心を持っている。乍然(←「さりながら」と読む。「しかしながら」という意味)それは、九ヶ国条約調印国が付与されている権利義務の毀損をなす特権的地位を主張することを日本が意図し、又は希望しているという意味にはならぬ、』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)というのである。これがグルー氏がその当時中国に関する日本の直接差し当たっての態度の説明になると考えたところのものであった。

 前文に言及されている宣伝計画は、本件の法廷証第195号である。本計画は満州に関する日常報告の一部をなすものであり、1935年12月19日の日付となっている。全計画は以下のようなものである。すなわち、

   『対北支工作に伴う関東軍宣伝計画書(←この文書の引用は、原資料ではすべて漢字片仮名交じり文である。引用の終わる部分に「※」を表示する)

  『1、方針

 『関東軍の関内進出に際してはその正当性を中外(←少し前にも「中外」という言葉が出てきて、そのときは「中国と外国」という意味だった。ここの「中外」は英文では「the whole world」であり、「なかとそと」つまり「全世界」という意味である)に徹底せしむるとともに、北支民衆に対し反国民党、反共産意識を昂揚し、北支一帯に中央分離の気運を醸成し、又爾余(←じよ。「残り」という意味)の地帯の支那軍及び支那民衆の非戦熱を激成す

  『2、宣伝要項

 『1、北支は従来国民政府の植民地視する所にして事毎にその搾取の犠牲に供せられあるの事実並びに北支民衆はその桎より(←正誤表によると「桎より」は誤りで「桎梏より」が正しい)脱せんがため国民政府より分離し自ら自治政権を樹立せんことを熱望しあり、又北支当事者もまた内心独立の希望に燃え真摯なる覚悟を有することを明らかにす

 『2、偶々(たまたま)国民政府の銀国有制の実施は北支民衆の該政府に対する怨嗟反感を激成しここに急速なる自治政府の樹立運動を展開せることを明らかにす

 『3、北支自治政権が帝国と相提携して赤化防衛に当たらんとするは東洋永遠の平和確立のため日満支合作の曙光として帝国の最も希望する所なり、故に自治政権出現及びその発達に対しては挙国一致、確乎不抜の態度をもってこれを声援するの決意を有することを闡明(せんめい。「明らか」という意味)にす

 『4、国民政府の北支停戦協力その他軍事諸協定の蹂(←正誤表によると「蹂」は誤りで「蹂躙」が正しい)、陰険なる排日排貨の使嗾、満州国擾乱等は北支にある我が権益及び居留民の生活、並びに満州国の安寧及び存立に対する脅威なるをもって依然裏面的策動を続行するにおいては帝国としても威力(←正誤表によると「威力」は誤りで「武力」が正しい)に訴うるのやむなき場合あるべきを中外に諒知せしむ

 『5、派兵に至れば我が武力行使は我に敵対する軍閥的勢力を膺懲するを目的とし決して支那一般民衆を対象とせざる点を明らかにす

 『6、国民政府その他支那軍閥の武力行使は人民を塗炭の苦境に陥らしめ国家を破滅に導く所以を宣伝し一般民衆の非戦熱を昂揚す

 『7、支那軍に対しては特に各軍相互の反目猜疑を助長するとともに日本軍偉大視観を増大しその戦意を喪失せしむ

 『8、満州国の施政に対する(←正誤表によると「満州国の施政に対する」は誤りで「満州国に対しては北支自治政権の満州国の施政に対する」が正しい。ただ、正誤表のかなり後ろの部分に混入していた。それに、「満州国に対しては北支政権の樹立は満州国の施政に対する」とするのが正しいだろう)北支民衆憧憬の具体的表現にして満州国の前途に光明をもたらす所以を明らかにす。

  『3、実施要領

 『1、本計画は軍参謀部において企画実施するとともに対支、対内蒙各特務機関及び出動兵団においてその実施を担任す

 『2、軍の関内進出以前においては主として支那駐屯軍及び中央部の行なう宣伝を側面的に援助するの主義において実施し出動後においては軍の行動を容易ならしむるの主旨において行なう

 『3、出動部隊は本計画に基づき作戦地境内における宣伝を実施するものとす宣伝要員は現地充足を本則とするも、充足困難なる場合は軍参謀部において斡旋す必要に応じては軍より直接宣伝班を派遣することあり

 『4、本計画の実施に関しては支那駐屯軍及び在支各機関と密接に連絡す

 『5、本計画に示す以外は「関東軍平時宣伝計画」によるものとす』(※引用はここまで)

 これは単に計画である。かつ単なる宣伝計画である。この線に副ったいかなる宣伝も実際に行なわれたことを示す証拠は全然ない。宣伝計画としては、悪く言っても、それは単に臨時の軍事行動のためのある準備を示しているにすぎない。

 本官が他の箇所において指摘したように、宣伝は国際生活においては重要な機能となった。宣伝が諸国によっていかに多く濫用されても、それが国際社会において重要性を得るということは、実はきわめて健全な意義を有することである。宣伝の重要性は世界の輿論に対し尊敬の念が増しつつあること及びその結果として生ずる世界の民衆に対し、報道を与えることについて示される熱意を意味するものである。われわれは宣伝とは必ず虚偽の報道を意味するものであるという推定のもとに事を進めるわけにはいかない。

 この計画は反響戦線の構成について言及している。裁判所に提出された証拠を一読しただけで、日本の中国に対する政策形成上の一つの重大要因となったものは、日本が共産主義の脅威と呼んだものであることがうなずけるであろう。これは過去においてもまた現在でも引き続き脅威であり、それは列国の外交政策上きわめて重大な影響を及ぼしているということを再度ここに指摘することは単に反復にすぎないのである。

 被告は、これは日本が直面しなければならなかった真の脅威であって、その結果、将来起こり得るあらゆる事件に対し自国を準備しなければならなかったことを立証しようとして証拠を提出したのである。われわれはこの点に関する証拠を受理しなかった。本官はかような証拠を受理しなかったことによっていかなる困難が生じたかを直ちに検討しよう。

 もしわれわれが本計画の若干の項目を慎重に検討すれば、そのいずれにしても虚偽であるとわれわれを推定せしめ得るものは何ものもないことがわかるであろう。本計画が世界に対して公表しようとしたいかなる事項にしても、それが虚偽であることを立証するためにまったく証拠は提出されていない。

 広田政策並びにその関係閣議決定は法廷証第977号《1936年6月30日》第216号及び第704号《1936年8月7日》に出ている。

 本官は戦争に対する一般準備の事件に関連し、広田政策の詳細な検討をしてみよう。検察側はそれに関連してこの準備を侵略的な目的をもつものであると性格づけるために本政策を特に強調した。

 1936年、日本の国政を司る責任を負うに至った政治家は、満州事変によって日本がかような困難な破目に陥らなければならなかったかどうかという問題とは無関係に、それによって発生した困難に直面しなければならなかった。(←この一文は「1936年に日本の国政を司る責任を負うに至った政治家は、満州事変によって引き起された困難に、そのような困難が日本に降りかかるのが正当であるか不当であるかの問題とは無関係に、直面しなければならなかった」と訳す方が分かりやすいだろう)一度かような手段がとられた以上、日本政府としては1931年の地位に目立たないように後退することはもはや容易なことではなかった。この事変は、日本の国内問題を巧みに処理する上に障害となっていた世界的経済不況から生じた困難をさらに悪化せしめた。世界的反響は実際には奉天における日本の行動に続いて起こった。そしてその後公務に就いた政治家は、だれがその事態に対して責任があったにしても、これらの困難のすべてを無視することはできなかった。実際に起こったことは、満州事変以後発生した幾多のかような新しい要因によって決定された事後の発展であることを証拠は充分明瞭にしている。

 この政策はなんら侵略的手段を含んでいなかった。広田の方針は着実に忍耐強く説得し、南京の政府と友好的関係を持続するというのであった。広田の政策こそはまことに協調的(co-operative協力的)なものであった。

 日本はこの協力(←一つ前の文章の最後の「協力的」を受けて、「this co-oerationこの協力」と言っている)が、政治、経済両分野において行なわれることを要求した。政治分野における協力とは、第一に、中国における一切の反日運動を公けに鎮圧すること、第二に、日本の反共産主義運動に協同することを意味した。この二点が強調されたことが本裁判所に提出された一連の諸事件において言及された三綱目の主要点であった。経済分野においては、中日経済ブロックの建設が根本的観念であった。ブロック経済が世界到る所に発展しつつあることを考えるとき、右を日本側の侵略ないし犯罪として非難することは、ほとんど不可能である。自国の支配圏内においての供給源を開発することは、実に日本にとってこの上なく重要だったのである。日本政府の政策が中日親善を阻止しようと意図された国際的計画を承認しないことになっていたとしても少しも驚くにあたらない。

 この点に関して言及された1936年二月事件は政権獲得の問題と関連して論ずることにする。

 この事件は、日本陸軍内の過激分子が、その覆そうとした社会的政治的秩序の代表者たちに対し直接行動をとることによって、自己の軍の首脳部の者を無理に動かそうと試みたものであった。

 この際この問題をここに持ち出すと、このよう件(←英文は「the incident」とあるので「この事件」が正しいだろう。「このような事件」かもしれないが)が、広田の総理大臣就任という「事実(←「事実」に小さい丸で傍点あり)」に、邪悪様相を与え得ることは、疑いない。しかし本事件によって岡田内閣が倒れ、続いて広田内閣がこれに代わったということ以外には、この事件と、広田内閣の成立の間にはなんら関係のあることを示すものは、記録中に絶対に存しないのである。

 これらの国内事件が、日本の政策の形勢に寄与するところあったことは確かである。しかし本官が繰り返し指摘したように、それらは、単に、この点について、共同して同時に作用していた各種の複雑な要因中の、ほんの一部にすぎなかったのである。

 1937年6月9日の東条の電報は、法廷証第672号である。この電報は大いに利用されたものであるが、それは、あるいは、それに東条の名が出ているためであり、また、おそらくは東条が第二次近衛内閣の陸軍大臣となった1940年7月22日以前の立証段階については、東条の名を挙げ得たのは、これが始めて(←「初めて」が正しい)であったからであろう。本文書は、東条が関東軍参謀長だった1937年6月9日付である。これには極秘の印が押してある。これは、関東軍参謀長から陸軍次官及び参謀次長宛のものである。文面は次の通りである。『現下中国の情勢を対ソ作戦準備の見地より観察せば、我が武力これを許さば、先ず南京政権に対し一撃を加え、我が背後の脅威を除去するをもって最も策を得たるものと信ず。もし我が武力これを許さずとせば、既成事業を厳存せしめ、中国側をして一指をも染めしめざるの厳乎たる決意の下に、我が国防充実完了の時機まで、不気味なる静観的態度をもってこれに臨み、おもむろに、中国側の反省を待つを適当とせん。・・・・』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 本文書とともに、本電報から一月経たないうちに生じた盧溝橋事件の証拠が提出された。

 次の事実を重ねて強調したい。すなわち、本官の現在の目的にとっては、ある国の採用したある特定の政策の是非をきめることは、本官にとって必要でないということである。本官の目的は、それが、検察側の主張するような共同謀議の理論に訴えることなくして、満足に説明し得られるかどうかを見ることだけである。

 法廷証第672号中に述べられた政策ないし提案の意義を理解するためには、1937年の初期に生じた、日本にとって極めて重大な意義をもつ、一つの要因を、留意しなければならない。本官の言おうとするのは、国共統一戦線の結成である。中国共産党員を、中央政府と協調せしめたものは、日本自身の中国における政策であったかもしれない。しかし、それは、本裁判の目的にとっては、重要ではない。

 国民党と中国共産党は、ほとんど10年間、分離と不断の闘争を続けた後、1937年の初め、両者の間に和解が成立した。東亜における共産主義の蔓延に対する戦いに、中国の協力を得ることが日本の三綱目の基礎であったからには、南京政府と中国共産党との間の友好関係の回復は、日本の政策に対し重大な影響を与えるために目論まれたものであった。さらにこの和解はモスコーによって大いに影響されたように思われる。

 南京に対し闘争を行なう中国共産党に対して与えられる支援は、内戦を長引かせ、かつ中国首都の親日派を強化することによって、直接日本側の思う壺にはまることになることをモスコーは知っていたのである。

 中国共産党はロシヤの支持がないため、南京と和解を求める以外に、他の方法はなかったと思われる。それが何であったにせよ、日本の共産主義に対する態度を忘れず、どんなに日本が共産主義及び共産党の発展に対して戦うため常に中国の協力を求めていたかを念頭において考えれば、その結合は、この問題をそれ以前の周囲の邪悪計画(←正誤表によると「邪計画」は誤りで「邪悪な計画」が正しい。ただし、原資料では「邪悪計画」とあるので、正誤表の「誤」の欄に「悪」の一文字が脱落していることになる)にまでなんら遡らせることなく、法廷証第672号にある提案を充分に説明するものである。われわれはさらにソビエット社会主義共和国連邦と蒙古人民共和国との相互援助議定書の日付は、1936年3月12日となっていることを忘れないであろう。《法廷証第214号》

 蒙古人民共和国の領土は、1921年赤軍の支援によって解放されたものであり、それ以来同国はソ連と緊密な友好関係を保っていたのである。この文書において、軍事的攻撃の脅威を回避し、阻止するためのあらゆる手段による相互的支持並びに相互に援助及び支持を与えることを規定した「紳士協定」が1934年11月27日以来、二国間に存在していたということがわかるのである。同協定が今やこの議定書の形式をもって確認されたわけである。

 議定書はその第1条において次のように規定した。『第三国の側に於(←正誤表によると「第三国の側」は誤りで「第三国の側に於て」が正しい。が、原資料には「第三国の側に於」とあるので、「第三国の側に於」は誤りで「第三国の側に於て」が正しいとするのが正しい)、ソビエット社会共和国連邦はあるいは蒙古人民共和国の領土に攻撃を加え来たる恐れがある時には、ソビエット社会共和国並びに蒙古人民共和国は、発生せる情勢につき直接に協議し、かつ両国の領土保全のため必要なるあらゆる手段を取る義務を有す。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)これはロシヤ当局者に対して、事実上蒙古における自由裁量の権限を与えることになるのである。ロシア(←「ロシヤ」とある直後に「ロシア」とあり、表記が一定しないが、原文のままとしておく)当局者と蒙古政府は安全保障の手段を講ずべき時機が到来したと同意さえすればよかったのである。

 ソビエット政府がその軍隊をしてトランス・バイカル地方に鞏固に布陣せしめたころまでには、新バイカル・黒龍江鉄道の建設はすでに大いに進捗していたことにもまた注意すべきであろう。外蒙において戦争のおそれのある場合、ソビエット共和国に自由裁量の権限を与える取極めが、これによって完成したのである。

 『外部の世界がこのソ連外蒙間の軍事同盟の存在を知った同月、「満州国」の蒙古地区である興安省において、ある事件が起こった。ロシアの援助を得て、興安省を外蒙に併合することを目的とした叛乱を惹起するという計画に参加したことが判明したと称せられる省庁の高官数名――蒙古人省長自身を含む――陰謀が発覚したと言われたのである。』

 本官がこれらすべてを述べるのは、この情勢の複雑性を示すためにすぎない。かような事件の二、三をつなぎ合わせることによって、共同謀議として人目を惹きやすい様相を整えることは容易なことかもしれない。しかしこれらの事件の真の相互関係を明るみに出すことは困難である。この困難さは、われわれが戦敗国の人々に対して、このような出来事についての刑事的責任を決定することを要請されたときに、毫も減少するものではない。

 これに関して、われわれは板垣の言明の全体に注意を払うことが至当であろう。その一部は、右の事件の連鎖に関連してわれわれに提出されている。法廷証第761−A号は、『1936年3月28日の板垣征四郎と有田大使との会諾の抜粋(正誤表によると「会諾ノ抜粋」は誤りで「会談の抜粋」が正しい。ただし、この部分は、平仮名なので、「会諾の抜粋」は誤りで「会談の抜粋」が正しい」とするのが正しい)』であり、本問題に関連をもつ材料を供している。板垣は次のように述べたとされている。

   『外蒙問題

 外蒙古は完全なる秘密地帯なり、しかしてこの秘密地帯は、「ツアール」政権時代において既にその魔手を延べて保護国となし、革命後「ソヴィエト」政権またその政策を踏襲してこれが懐柔に成功して今日に及べり、東亜大陸の地図をひらけば一見して明らかなるがごとく、外蒙の関係位置が今日の日満勢力に対し、極東ソ領と欧ソとの連絡線たるシベリア鉄道の側面掩護の地帯としては極めて重要性を有す、

 従ってもし外蒙古にして我が日満側に合体せんか、極東ソ領の安全性はほとんど根底より覆さるべく、又万一の際においては、ほとんど戦わずしてソ連勢力を極東より後退せしむることを得るに至るやも知るべからず、従って軍は所有手段により、日満勢力の外蒙古に対する拡充を企図しあり、その第一歩としてソ連の意志のいかんに拘わらず、外蒙古を一箇の独立国と見なし、これと満州国間に正常円満なる国交関係を樹立すべく鋭意工作中にして、又一方次に述べんとする西部内蒙古に対する工作を進めて、外蒙古民族の懐柔に努めつつあり、

 然れども軍は日満議定書の精神に鑑み、もし外蒙古側にして如上の穏健なる我が意図を無視し、ソ連と勾結して我が満州国を侵すがごときことあらば、尺寸の地といえども断じて譲らざる決意の下に、断乎これを排撃するの用意を有す

   第三 内蒙問題

 西部内蒙古《すなわち察哈爾、綏遠》及びその以西の地帯は、帝国の大陸政策の遂行上重要なる価値を有す、

 すなわちもし該地帯を我が日満側の勢力下に包含せんか、積極的には進んで同一民族たる外蒙古懐柔の根拠地たらしむべく、さらに西すれば新疆方面よりするソ連勢力の魔手を封ずるとともに、中国本部をして陸上よりするソ連との連絡を遮断して、中華大陸に対する第三「インター」(the Third International movement)の企図を根底より挫折せしめ得べし、又消極的には該地帯をして満州国治安確立のための赤化防止の掩体たらしめ得べし、もしそれこれを日満側の勢力下に置かずして自然の大勢に委せんか、外蒙古及び新疆を通じて行なわるる赤化工作は極めて迅速なる速度をもって満州西方国境に迫り来ること火を睹るより明らかなり、

 如上の見地に立ちて、軍は西部内蒙古に対し数年来逐次工作を進めつつあり、その過去及び現在の情況別冊のごとく、軍は将来さらに万難を排して工作の歩を進むべく固き決意を有す、 (←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 内蒙古独立運動(←正誤表によると「内蒙古独立運動」は誤りで「内蒙古自治運動」が正しい)は、1933年に至って自治委員会の設立をもたらした。蒙古族の牧草地に対する中国側の侵害を防止するという、中国当局者によって当時与えられた約束の遵守は、非常に不完全であるように見え、そして蒙古族の不満は解消されることなく残った。華北にあった日本国策の遂行者は、まんまとこの間隙に乗じたにすぎなかった。独立運動(←正誤表によると「独立運動」は誤りで「自治運動」が正しい)それ自体は純粋なものであった。もちろん日本は常に満州に境を接する地域の事態を関心をもって眺めていた。関東軍は、当時中国と外蒙との間にみずから建設しつつあった新しい『万里の長城』を、さらに西方に一段と延長するための便利な道具として、この叛乱を支援したように見受けられた。関東軍は、綏遠における紛争を共産主義に対する戦いであると称した。この点について、1936年の春、実際問題として綏遠は中国共産党の侵入によって脅かされていたことに留意してよかろう。赤軍2万名以上が、3月までには陝西から山西へ入り、そして綏遠の省境に近づきつつあったと伝えられていた。およそこのころに、また中国共産党の指導者は、中国政府、陸軍及び人民に宛てて、対日共同戦線を提唱し、共産軍の協力を提言した通電を発した。

 われわれの前に提出された出来事の連鎖の中で示された華北における自治運動の叙述は、田中隆吉の証言よりとられたものである。この証言は、同証人によって1946年7月6日になされた。弁護側はこの証言に異議を申し立て、『本証人ハ自分自身ノ個人ノ知識カラコノ(7月6日邦文速記録2510下段参照)証言ヲナシテ居ルノカ、ソレトモ何カ歴史ノ本ヲ読ンデ居ルノカ、聴キ』たいと申し立てた。裁判長は『ソレハ明ラカニ伝聞デアル』と指摘し、『彼ハ歴史ヲ物語ッテ居ル、シカシソレデモ受理シ得ルモノダ』と述べた。

 これらの運動の叙述は、1933、1934、1935及び1936年の国際問題調査報告の中にも見出し得る。本官は、その中で述べられた歴史の方が、この証人の「伝聞」よりも信頼し得ると考える。もちろんこの証人は、弁護側によってさえも法廷に喚問されている。おそらくこの事態は、この種の訊問を、主訊問の中で引き出された事項にだけ限った厳格な反対訊問規定をわれわれが採用したことによって、惹き起こされたものであったかもしれない。本官としては、この証人の伝聞に、何故まったく依拠することができないかということについての理由を、満州事変に関連してすでに述べているのである。

 右に分析したような問題の考察について、論をそれ以上進める必要はない。本官は、いわゆる全面的な共同謀議の問題を差し当たり取り扱っているにすぎない旨を、ここに繰り返して明らかにしておかなければならない。この目的のためには、日本の中国における諸行為が、はたして正当となし得るものであったかどうかを検討することは、本官にとって全然必要ではないのである。本官がここで問題としているのは、はたしてかような行為が、いわゆる全面的な共同謀議によらないで、説明され得るものであるかどうかを見究めようとすることにある。従って以下に述べる見解は、すべてただこの目的の範囲内において解釈されるべきである。

 まず最初に、本官は一国が他国の領域内に利権を保有することを、是と信ずるものではないと言わなければならない。私見によれば、このことは一国が『自国が必要とし、かつその隣国からどうしても獲得しなければならないものは、自国の生活そのもののために必要なものである。それがなくては生存し得ないのである。』というように感ずる際の単なる幻想を示すものである。一国が何物でも、国家が強く要望するものに対しては、その国はそれに極めて誇張された重要性を与えるように思われる。もしその国家がどうしてもこれを獲得することができなければ、あたかも死と破壊とに直面するであろうという想像をたくましうするものである。国家というものは、その占有しようと望むところのものがなくては、とうてい生存し得ないと、容易に思い込むようになるものらしい。

 しかしながらわれわれの当面の問題は、ある国家がこのような緊急死活の妄想を有し、それに従って振る舞うことが許されるべきかどうかということではない。真に問題とするところは、はたして国際生活において、このような振る舞いが異常なものとして非難され得るものであるかどうかということである。国際社会並びに国際法の性格を思い出してみると、われわれが現在、事としている問題は、かような妄想が国家において正当化され得るものであるかどうかというのではなくて、実に実際問題として、はたしてかような妄想が国際生活において存在するかどうか。しかしてそれが右の構成国家中の若干のものの振る舞いに対して、どのような影響を及ぼすものであるかどうかということである。

 日本は、その生存にとって死活問題を考えた若干の「権益」を、中国において獲得したのである。ほとんどすべての列強が同様の利害関係を西半球の領域内において獲得したのであって、かような列強のすべては右の利権がその死活問題であると考えていたもののようである。本官は今さらここでこれらの権益の獲得に関する史的検討を試みる必要はない。その取得の方法を根源に遡って考えてみると、正しい方法によったものはきわめて稀であると言っても過言ではないと思う。その方法がどのようなものであろうと、これらの利害関係は厳として存在したのであって、そして諸列強においても、パリー条約に署名しながらも同時にその自衛権の保留をかような権益に保護にまで拡張することは、充分に正当化されるものであると感じたのである。中国における日本の権益に関する権利も、少なくともわれわれの当面の目的から言えば、右に述べたような標準によって評価されなければならない。

 本問題のこの局面に関しては、われわれは三個のきわめて重要な問題を、もっぱら考慮しなければならない。本官の意とするところは、

  1、中国における内乱並びにその結果として全国を蔽った無政府状態。

  2、中国の国家的ボイコット。

  3、中国における共産主義の発展。

 国際社会においては、国家がその構成員とされている。今までのところは、国際機構というものは、未だに一国家の内部にまでは及んでいないようである。国際機構を人類の基礎の上に確立することが、どのように望ましいものであっても、そこには、実際問題として、国家以外のものは何ものも構成員としては認められなかったのである。現在の世界諸列強のなるところを見ても、右以上に広汎な基礎は全然否定されている。人類の基礎の上に確立された国際機構においては、どういう国であっても、一国における国民の一派が他の一派に対して戦うことを支援するのは、共産主義の拡大防止の名においてさえ、とうてい正当化され得ないのである。従って一国が国家としての機構に破綻を来たして、絶望的に無政府状態に巻き込まれるときに、その国民がどの程度にまで国際法の保護を主張し得るものであるかということは、国際法上きわめて当を得た問題となってくるのである。

 国家としての権利を有する国家となるためには、その国民は、外部に対して彼らを代表し、かつそれを通じて責任を容認し履行し得るところの政府を有しなければならない。

 ある単一政府が完全に一国を統治し得る限りにおいては、問題はきわめて簡単である。しかしながら相抗争する政府が二つもしくはそれ以上存する場合においては、いずれをもってその旧国家を継承する資格のあるものと承認するかは、決定しがたいであろう。諸外国はかような相抗争する政府のすべてを、その国の合法的統治者として承認する義務を有しないかもしれない。

 時によると、二つの武装した団体の存在することがあり、その結果、国際目的からいって、かりにどちらかが国家であるとしても、どちらを国家とすべきかを見わけるのが困難となってくる。

 相抗争する団体が依然として一国家として存続しようと欲することは、さして重要な問題ではなく、またそれぞれが実際に依然として一国家であると考えるとしても、それは重要事ではないのである。彼らに一国家として存続する資格をもたせるところのただ一つの要件は、彼らが自国の外に対して、自国を代表し得るところの一つの政府をもつということである。

 ここにむずかしい問題が生ずるのは、争う余地のない支配権を有し、そしてその結果、有効であって論議の余地のない法律上の権限を付与されているある当事者が、叛乱に直面して、全面的とまで行かなくても、相当程度にまで微弱なものに減殺された場合である。

 列強が有する利権からすれば、実際上権力をふるうものが政府の責任を負うべきことを要求する。本官がすでに注意を払ったように、右に述べたことこそ、ワシントン条約のいくつかの締約国が反覆して中国政府に対して指摘していた点なのである。諸外国は、彼らの権益をよく保護し得る政府、ないしはそれを保護する意思のある政府が存しない場合、単に傍観してその権益が覆滅される(←正誤表によると「覆滅される」は誤りで「覆滅される」が正しい・・・とあるように見える。判読が困難だが、ひょっとすると、原文で「覆減される」とあり、正誤表で「覆減される」は誤りで「覆滅される」が正しいと書いてあるのかもしれない)ままに放置するものとは、期待し得ないところである。

 「無政府」とは、考えようによっては、政府が全然存在しないことを意味するが、同時にまたそれはいくつかの相抗争する政府の存在することを意味することもある。その場合の権威者は、実際には未発育の新興国家の統治者なのである。その隣りの権威者を併呑しようという彼らの欲望は、第三者のなんら関係を有しない事柄である。権力には必ず責任が伴わなければならないのであり、こうしてこれらの相争う権威者が、実際に統御するところのその領土の外部においては、彼らは前の正当の統治権によって与えられた法律上の権力も、また現実的な力の存在によって得た物質上の権力も、有することができない。この領土について、彼らは一国家を形成したものであると考えられることも、そう考えられないこともあり得る。二つの全然独立した政府があって、しかもその両者がともに権限を有しないような地域を、単一の国家として外国によって取り扱われるものとは期待することはできない。この考え方は、国際法の基礎そのものと矛盾するものである。

 本官は機能停止国家もしくは活動停止国家に関する理論を、ここで検討してみる必要はない。本官のさしあたり目的とするところにとっては、中国における国内事情が、ワシントン条約以来ほとんどすべての列強によって憂慮され、また列強は常にその国家に手を触れないで、単に外交もしくは危険及び責任の伴う明白な戦争にその救済を求めることはできなかったことを想起さえすればよい。この問題に関しての詳細にわたる論議は、本判決文中の初めの部分においてなされている。

 本官は、すでに右に記述したところから推して充分明白であるように、盧溝橋事件以前の中国の情勢が、本件に重要な関係を有するものであると信ずる。『中国の内乱並びにその結果として同国に拡がった無政府状態』は、もしこれが立証されるならば、検察側によって主張されたような華北における日本側の行動を正当化するに役立つか、そうでなければ少なくともそれを説明するのに大いに役立つものと思われる。右に関連して弁護側によって主張されたように、華北における日本軍が平和並びに静謐を回復したかどうかということを調べるのは、適切であろうと信ずる。本官がすでに注意を喚起することろがあったように、不幸にもわれわれは1946年7月9日並びに25日に、華北における日本軍が同地の治安を回復したことを示す証拠を却下したと同様に日本軍隊の作戦開始以前における中国の国情に関する証拠も却下することに裁定したのである。私見によれば、右のように証拠を却下した結果、われわれが、これらの日本側の行動がはたして起訴状に主張されたように、なんらか事前に全面的な共同謀議があったことを示しているものであるか、またはそれを侵略的であると性格づけ得るものであるかどうかという、そのどちらの決定にも到達することを困難にするのである。

 本官がすでに指摘したように、本件の右段階に応えて弁護側は、中国における共産主義の性格並びに同国におけるその急速な発展を立証しようとしたのである。本裁判所は、1947年4月29日の決定で、多数決をもって、かような証拠は関連性がないと裁定した。

 この点に関して、弁護側から提出された証拠が却下されたということは、真に不幸なことである。この裁定に関する本官の見解はすでに述べたところである。右の証拠を考慮しないで、中国共産主義の性格及びそのソ連邦における共産主義との関係、もしくは敵対行為の拡大にそれが演じた役割等に関し、なんらかの決定に到達するならば、それは不公平と言うべきである。この中国における共産主義の発展について、リットン委員会がどういう見解を表明したかということは、われわれのすでに検討したところである。

 中国共産主義の脅威について、中国居住の外国人に関する限りは、英国王立国際問題協会の調査報告書によっても、またその事情を看取することが出来る。同調査報告書は左のように述べている。

 『共産主義と匪賊行為は《両者間に明確な一線を画し得る限りにおいては》1932年の中国を背景として登場した力強い双子的役割を演じた存在である。そうしてこの二つの苦悩の種こそは、またその性格になんら本質的の変更を加えられることなく、ますますその勢力を増大した。この両者はひとえに無政府状態、内乱及び飢饉の結果であったから、これらの有力な原因が頑強に存続する限りは、その勢力を増大するのは必至であった。匪賊の跳梁を最もよく示すには、外国人に対する暴行中、典型的な2、3の例を挙げるだけでよい。さらにこれらは、多くのもののうちから手あたり次第に抜粋した2、3の事例にすぎない旨をここに注を付しておく。』・・・・。

 『1932年までには、中国における共産主義は厖大な領域に対して、排他的な行政権を行使していたところの組織化された、かつ効果的な政治力となるに至ったこと、並びに中国共産党はある程度ソ連共産党と提携していたということが判明するであろう。1932年12月12日モスコーのソビエット共産主義政府、及び南京の中華民国の国民党の中央政府との間に、外交関係が再開されたのに鑑みれば、中国並びにソビエット共産党の両者間の関係がどの程度緊密であったか、また共産主義が中国におけるものとソビエットにおけるものとの間において、どの程度に同一主義性を有していたかということを調査するのは、けだし当を得たものである。もし中国における共産主義が正にソビエットにおける同義語のものと寸分ちがいのないものであったとすれば、1931年から1932年にかけて、世界は次のような可能性に直面していた。すなわち、モスコーと南京との関係の更新の結果、ソビエット連邦と、それと同一色の新たな中国ソビエット連邦との間の同盟を促進するために、挫折した南京政府並びに信用を失墜した国民党を、一掃するに至るかもしれないということであった。ソビエットと、揚子江流域の中国共産党地域との地理的廻廊は、モスコーの保護のもとにあった外蒙ソビエット共和国と、中国隴西省(←正誤表によると「中国隴西省」は誤りで「中国陝西省」が正しい。ただし、原文と正誤表の「誤」の欄も、一見すると「中国陝西省」に見える。不鮮明であり、「隴」なのか別の字なのか、判然としない)とによって提供されていた。後者は親露的傾向が濃厚な馮玉祥の国民軍本拠であった。中国並びにソビエットの共産党があるいは提携するかもしれないという可能性は、もし中国共産主義がソビエット的意味における共産主義であったとすれば、右の事情によって肯定されるべきである。これに反して、ソビエットにおける運動と中国における運動との間の共通の地盤が、単にその名前が共通であること以上の何ものでもなかったならば、それは単に理論だけのものにすぎなかったわけである。そうしてここに引用されたリットン報告書の一節から見ても、それはまた筋道の通った見解であったということがわかる。いわゆる共産主義とは、1932年に外部に知られていた限りの性格からすれび(←正誤表によると「すれび」は誤りで「すれば」が正しい)、堪えられない失政に対する単なる農民の謀叛であると、体裁よく解釈され得るかもしれない。すなわちこの謀叛を威信づけるために不当に採用された恐るべき名称であると・・・・。1932年から1933年にかけて現存したかような情報に照らしてみれば、中国共産主義の性格に関する右の二者択一的評価のうち、いずれがより核心に触れていたかということを判断するのは、ほとんど不可能であった。』

 同調査報告書によれば、共産党は中国において国民政府と相並ぶ政府を樹立したというのである。

 湖北に(←正誤表によると「湖北に」は誤りで「『湖北に」が正しい)おけるこの特定の共産党政府《いわゆるKing Li政府》の境界線は、漢口上流の揚子江北岸のある目立つ地点に立てられた広告板によって明示されていた。そうしてこの政府は、その首都において自国の貨幣及び切手を発行した。』これに関連して、リットン報告書中に描写された1932年における中国共産主義に関する一片の文章を、ここに再び検討しよう。同報告書は次のように述べている。

 『福建、江西両省の大部分並びに広東省の一部は完全にソビエット化されていると信ずべき筋から報告されている。共産党の勢力範囲は遥かに広大である。その勢力範囲は揚子江南部の広大な地域並びに同江北岸の湖北、安徽、江西三省の一部分にわたっている。上海は共産党の宣伝の中心地であった。共産主義への個人的共鳴者は、ほとんど中国のあらゆる都市に見出されるであろう。今までのところは、共産党省政府として設立されたものは、わずかに江西及び福建両省における二つにすぎなかったのであるが、小さなソビエット団体に至れば、その数は数百に及ぶのである。共産党政府それ自体は、その土地の労働者並びに農民から成る評議会によって選挙された委員会をもって形成されている。それは事実上は中国共産党の代表者の統制下にある。同党はその目的のために、訓練された党人を送り出すのであるが、これらの者の多くは、以前に中国共産党中央委員会の統制下に、ソビエット連邦地区委員会において訓練を受けたものであり、それらが今度は省委員会を統御するわけであって、そうしてこの省委員会が地方委員会その他から、下は工場、学校、兵営内等において組織された党細胞に至るまでを、順次統制するのである。一地区が赤軍の占領下に置かれるときは、もしその占領が多少とも恒久的な性質を帯びる場合には、同地区をソビエット化するためにあらゆる努力が払われる。その地区の住民の反対があっても、それはテロ行為によって抑圧されてしまう。その行動の綱領は、債務の抹殺及び個人大地主もしくは寺院、修道院、教会といったような宗教的な団体から、強力をもって没収した土地を、土地のないプロレタリア及び小農の間に配分することであった。課税は単純化され、農民はその有する土地の生産物の一部を納めなければならない。農業改善の目的のために、灌漑、地方信用制度及び共同消費組合等を発達させるような措置がとられる。公立学校、病院、施療施設等もまた場合によっては設立される。(←正誤表によると「設立される。」は誤りで「設立される。』」が正しい)

 『こうして共産主義によって大きな利益を受ける者は、最も貧しい農民どもであって、これに反して富有な土地所有者、中産階級の土地所有者、商人並びに田紳は即時に土地を収用されるか、もしくは賦課あるいは罰金のいずれかによって、完全に破産させられ、かつ共産党はその農地計画を実施することによって、大衆の支持を得ようとするのである。この点においては、共産主義理論は中国の社会制度と両立しないものであるというにもかかわらず、その宣伝並びに措置は非常に成功したのである。暴圧的な課税、苛斂誅求、暴利並びに軍隊もしくは匪賊による略奪などに基因して存在した多くの不平不満は、最大限にこれを利用した。農民、労働者、兵隊並びに知識階級によって独特のスローガンが用いられ、婦人のためにはこれに変更を加えた、婦人に適応するものが用いられた。』

 『中国における共産主義は、ソビエット連邦以外のほとんどすべての国々にあるように、決して現存の党派のあるメンバーによって主張された政治上の教義でもなければ、または他の政党と政権を争う特別の団体でもない。それは今や国民政府の現実の競争相手となった。それはそれ自身の法律、軍隊、政府並びにその領土的行動範囲を有している。これに匹敵するような事態は他のどの国にも存しないのである。』

 ホールは次のように言っている。すなわち『もしB国の政府が防止できない、または自分では防止できないと称する国内の出来事、もしくは国内で準備された侵略のいずれかによって、A国の安全が深刻かつ緊急な脅威を受ける場合、あるいは防止措置をとらない限り、かような出来事ないしは侵略が急速かつ確実に起こるべき場合、かような情況は、自己保存の権利を行動の自由尊重の義務の上位に置くものであると見なしても間違いはないであろう。B国ができればその国際上の義務を履行する意思はあるとの仮定のもとにおいても、上記の行動の自由は名目のもののみになってしまうに違いないからである。』

 この自己保存の権利が、日本が中国において有すると主張される性質の権益の保護に、どの程度適用され得るものであるか、また国際社会がこのような権益に関連して、共産主義の脅威をいかに見たものであるかということを、われわれは検討してみる必要がある。事の当否は別として1917年以来国際心理は共産主義に対する恐怖に捉えられとかくロシアは世界の他の国々にとっては、真に安全な隣邦とは見なされなかった。現在においてさえ『ロシアが正しいイデオロギーをもち、それによって世界の他の国々にとって、まったく安全な隣邦となるためには、まずそのマルクス哲学のうちの不当な若干の部分が捨てられなければならない。』ということが各方面において信ぜられている。かような欠点の一つは、その弁証法的史観という決定論であって、この弁証法を単に自然の理論に適用させるというよりも、自然そのものに適用させていることだと言われている。右の誤謬の根本的な点は、『すべての理論もしくはテーゼの否定は、一つの、しかもただ一つのアンティ・テーゼを生むものであり、そしてまたそれに基づいて、一つのしかもただ一つのジン・テーゼを生むという仮定である』と言われている。しかし伝統的な共産主義的理論のような、ある一定のユートピア的な社会的仮説を選択して、それを直ちに史的決定論の名のもとに、人類にむりに押しつけて、それで歴史的過程の性質とか、もしくはますます大なる善の弁証法的(←正誤表によると「善弁証法的」は誤りで「善の弁証法的」が正しい。ただし、原文にも、ほとんどつぶれているが「の」の字が見える)達成とかを表現しているのであると、独断的に断定する権利はだれにもないのである。』(←この最後のカギ括弧は不可解である。英文にもここに「”」があるが、恐らく、これは省くのが正しいのではないだろうか。それとも、ここまでが「ホール」の言葉なのであろうか。しかし、ホールの言葉は以前にも登場したが、その際に引用されたのは、『もしB国の・・・・違いないからである。』の部分のみである。とすると、ホールの言葉はそこで終わっていると推定できる。ならばやはり、この最後のカギ括弧は省くのが正しいと思える)

 右のような共産主義に対する非難、もしくは同主義に関するロシアの理論並びに実践が妥当なものであるかどうかを調べてみることは、われわれにとって必要ではないかもしれない。しかし同時にわれわれは、右の諸要素に対する世界の恐怖、中国における共産主義の成長、そのソビエット・ロシアとの関係、並びにそれが日本の中国における利権に及ぼすことのできる影響などを、考慮しなければならないかもしれない。われわれは、右のような事態の発展に伴う危険がもしあるとすれば、それを防止するために、日本が採った種々の措置が「善意ニ基ヅクモノ(「善意ニ基ヅクモノ」に小さい丸で傍点あり)」であったことをはたして諸般の状況が示すものであるかどうかを考慮しなければならないかもしれない。いわゆる共産主義の脅威は国際生活並びに国家生活上、新たにその展開を見たものであるから、この問題を考慮するにあたっては、きわめて真剣、慎重でなければならないのである。

 たとい自己保存権(←正誤表によると「自己保存権」は誤りで「自己保存権は、」が正しい。が正確には「自己保存権は」が正しいとするのが正しいだろう)、日本が中国において有していたような利権には及ばないものであると仮定し、また、たとえそのような利権が同国における共産主義の発展によって危険にさらされても、日本の中国における行動は正当化され得ないものである仮定した(←正誤表によると「ある仮定した」は誤りで「あると仮定した」が正しい)としても、共産主義の成長という事実は、ともかくも日本がとった行動を説明し、もって、右の行動が全面的な共同謀議中の数階程にすぎないとする理論を反駁し得るかもしれない。

 従って私見によれば、右の点に関する証拠を却下した結果、われわれとしては、中国における敵対行為の拡大をもって、共産党の態度並びにその騒乱に基因したのであるとする弁護側の主張を棄却することは、正当化され得ないこととなったのである。正当化する、しないという問題は別としても、このような事態の発展は実際の出来事を説明するのに充分であって、それだけ、われわれをしていかなる全面的なる共同謀議をも、推論させるに至らない。

 しかしながら敵対行為の拡大に関する説明としてはいま一つであって、これもまたその蔓延をいわゆる共同謀議に関係なくして充分に説明できるのである。

 1905年から1931年にわたる期間において、中国人は当時中国政府が友好関係にあった列強を目して、少なくとも11件の大ボイコット運動を展開した。アメリカ合衆国に対するものが1件、英国に対するものが1件そして日本に対するものが9件であった。弁護側の論旨によれば、1931年以来この種の日本に対するボイコットは、強化されたというのである。

 リットン委員会はその満州事情に関する調査中において、このようにしばしば中国人によって宣言された全国的ボイコットの起源、方法並びに結果等について、慎重に検討する機会があった。追補要録と題する一冊の付録文書をも含めた同委員会の報告は書(←正誤表によると「報告は書」は誤りで「報告書は、」が正しい。が、「報告書は」が正しいとするのが正しいだろう)、日華両国の参与員から国際連盟へ提出された資料とともに、右の点に関する豊富な、そして権威のある情報の典拠となるものである。

 その付録文書中には、諸種の日本側の権益に対するボイコットの成果に関する情報は、『他にそのような証拠書類の所持者がいないという事実に基づき』必然的にほとんどすべてが日本側から出たものであると述べてある。同委員会は、『日本側参与員によって連盟へ提出された文書「A」の付属書7に述べられていることは、これを正確であると考えて差し支えないであろう』と述べる機会があった。

 同委員会付属書中の数字によれば、1931年のボイコットの結果として、日本の貿易はその前年度の成績に比較して、既に一億五百万の損失を蒙っていたのである。日本居留民に及ぼした1931年のボイコットの影響に関して、同付属書の中には左のような趣旨の陳述が挿入されている。

  『天津、上海、杭州、蘇州、蕪湖、南京、九江、漢口、宜昌、重慶、沙市、成都、福州、温州及び雲南のようにそれぞれの間の距離遠隔の地においては、反日感情はきわめて熾烈であったように思われるし、そして現に依然として熾烈である。多くの場合、日本人に雇われていた中国の使用人がその雇主のもとを去り、あるいは日本人が食糧その他の日用品の補給を絶たれ、また日本人がいろいろな形の暴行及び脅迫を受けた。そして多くの場合において、日本人は安全を求めて避難し、あるいは全然日本に引き揚げてしまうことなどを余儀なくされた。多くの日本人はその職を失ったのである。』

 右の一片の抜粋は、在中国日本居留民に対する中国の全国家的ボイコットのもたらした影響の程度を現わすものでないとしても、その影響がどんな種類のものであったかを示す代表的なものであると断ずることが出来よう。

 同調査委員会は、今論じているこの運動のある場合においては、中国政府が実際にボイコット運動の組織化、並びにその奨励に携わったということを見出したのである。

 政府自体がボイコットに参加する場合には、国内法の見地からするその実施方法の合法性、非合法性の問題は、国家の責任を確定する上に、第一次的重要性を有しない。その方法が地方法の立場から違法であったならば、その事実はおそらく一層悪化させる事態と認められるであろう。なぜなら、国家の参加はそれ自身でただちに国際法違反並びに条約規定の違背を構成し得るからである。一つの権利を付与した締約当事者が、契約によって許可し、維持すべき義務のあるものを破壊するだけでなく、国際法によって保護すべき義務のある権利を、まったく覆滅してしまうことに従事することになるであろう。

 政府のボイコット参加問題に関連して、興味深い新事態がリットン委員会に提示された。この運動を推進するのに、中国政府が積極的な役割を演じたと日本側で主張されたのである。中国側の参与員は右の主張を否定した。同調査委員会が中国政府の一代表と会談した際に、政府の官吏もしくは部局が、ボイコット運動のあるものに直接参加したかという質問に答えて、後者は左のように答えた。『・・・・政府はこのような命令を出したことはない。国民党のだれかがおそらくは出したかもしれない。』国民党とは中国の国家主義政党である。1925年、あるいはおそらく1928年までは『全国的』ボイコットは種々の民間団体によって組織され、かつ指導されたこと、並びに『まず第一に1925年のボイコット以来ことに1927−8年のボイコット以来は極めて明白にこれらの運動の指導権は漸次集権的に中国国家主義の指導団体である国民党の手中に帰していった。』ということなどを、同委員会が明らかにした点に注目することを要する。リットン報告書付属書及びその中に引用されている諸権威の言に徴すれば、次のように言うことができよう。すなわち、国民党は最初から国民政府及びその前身である南京政府に対して、これを指導し、かつ統御する地位にあった。いわゆる『訓政時期基本原則』は、1929年3月、国民党の三中全会によって確認された。本原則のもとにあっては、行政、立法、司法その他の権力の行使は国民政府に委託され、また『国民党中央執行委員会の中央政治会議』は重要な政務の執行にあたって、国民政府を指導し、かつ統御すべきこととなっていた。『政府の権力の実際の本源が政府自体にはなくて、党にあった』ことに気付いた以上、リットン委員会が次のような質問を発したのは驚くにあたらない。すなわち、『事実上政府がその国の支配的政党の一機関にすぎない場合、一体その政府はどのような責任を有するものであるか』というのである。』(←この最後のカギ括弧は省くのが正しい。英文にはない)

 報告書の本文において委員は、ボイコットに起因した損害に対する国家的責任の問題に言及して、次のように述べている。』(←このカギ括弧は省くのが正しい)

  『この点に関し政府と国民党との関係の問題を考慮することを要す。後者の責任に関しては何らの疑点なし。国民党は全「ボイコット」運動の背後に存する支配的かつ調整的機関なり。国民党は政府の製作者にして又その主人なるやも知れざるもいかなる点までが党の責任にして、いかなる点より政府の責任が開始するかを決定することは憲法上の一の複雑なる問題にして本委員会は右に関し意見を述ぶることを適当なりとは感ぜず。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 国家は、国内憲法上の問題として、事実において政策を決定する無制限の権力を付与されていないので、他の団体の直接支配下にある機関をその「政府」であると称し、それによって責任を回避しようとすることはできないと考えられている。もし「国民政府」が国民党に対して「責任」を有し、かつ同党の「指導下」にあるならば、その場合には、事実において、国民党こそ政府すなわち公権の実際上の保有者であると見られるであろう。そして表面上の政府は、独立の発議権のない傀儡であるわけである。・・・・(←この「・・・・」は英文を参照すると、次の文章の冒頭につけるのが正しい。もっとも英文では「・・・・」ではなく、「・・・」であるが)

  言うまでもなく、国家のボイコット運動は、ある事情のもとにおいては、防御的手段としての性質を帯び得るのであり、また事実帯びるものである。しかしながら実際にとられた行動は果たして防御的であるかどうかは、必然的に各々の場合の実情によらなければならないのである。(←この段落は、英文では「・・・」から始まるが、一段下げにはなっていない。ところが、和文では一段下げになっている。この段落の英文が「・・・」から始まっているので、何かからの引用だと翻訳班が思って、一段下げたのだと推測される。ところで、英文は一段下げではないし、「“”」もない。この段落も、パル判事自身の言葉だと思われる。なぜ「・・・」を付したのかはよく分からないが、おそらく、具体的な出来事を一旦離れて、一般論としてボイコットの性質を述べるので、あたかも「注」を付すような感覚で、「・・・」から始めたのかもしれない)

 調査委員会の報告書を検討し、かつそれに関して報告するために、国際連盟に指名された19ヶ国委員会《総会の特別委員会》は、『1931年9月18日事件以後、中国のとったボイコット手段は、復仇の範疇に属するものである。』という決定に達した。調査委員会の述べた見解、すなわち『自国よりも強大な国から軍事的侵略を受けた場合、これに対する防御的武器としてボイコットは合法的なものであるということを論駁するのは至難のように見受けられる・・・・』という見解は、かようにして19ヶ国委員会の採用するところとなった。

  ・・・・「国家的ボイコット行為は果たして国家的責任を招来するものであろうか」という問題を考えるにあたっては、かような運動遂行の特徴である手段を考察することが緊要である。中国ボイコットのかような方法の記録に徴すれば、明らかに次のことが立証されよう。すなわち国家的ボイコットとして知られるようになったこの制度は、決して個人の選択の自由の表現ではなくて、脅迫及び暴力を濫りにそして無法に使用した結果、効果があがった方便であり、一般論としてこれは防御的行動の一例とは言い難いかもしれない。(←この一段落は、英文も和文も「・・・・」から始まり、和文は一段下げになっているのに対して英文はなっていない。ここもおそらくパル判事自身の言葉だろう。この部分も、最初の一文が、一般論を述べており、その部分を「注」のような感覚で挿入するために、「・・・・」を付したのかもしれない)

 ここで検討している事例によって例証されているような国家的ボイコットは、正に国際的不法行為を構成するものであり、一般に承認された国際法の原則に照らして責任問題が起こり得るものであると主張することができよう。

 アメリカ公使は1905年6月3日に初めてこの問題に関し、慶親王の注意を喚起し、中国政府は運動を中止させるような方途を講ずるという確約を同日受けた。同年7月1日、慶親王はアメリカ公使に対しての通告「中、特ニ(←「中」と「特ニ」に小さい丸で傍点あり)(←正誤表によると『「中、特ニ」』は誤りで、『中、「特ニ」』が正しい。もちろん、「特ニ」に小さい丸で傍点を付するのが正しい。正誤表には付いていないが)『この運動は何らの理由もなくて開始されたものではない。何となれば、アメリカに入国しようとする中国人に対する制限があまりにも苛酷にすぎ、アメリカの移民排斥法が中国にとって著しく不便であるからである』と告げた。この言葉からアメリカ公使は『この運動は』中国政府から『ある程度の賛同を得ていたものである』という結論に達した。そこで同公使は慶親王に宛てた8月7日付の通信の中に、この見解を表明し、続いて『アメリカ合衆国はボイコットの結果生ずる損害に対して、中国政府に責任があるものとする』と発表した。8月26日、慶親王は政府の責任を否認し、付け加えていわく、『両国の深い友誼に鑑みて、同運動を鎮圧すべき命令がその発端において発せられている。』同公使は慶親王に宛てた8月27日付通信においてこの運動を中止するのは中国政府の義務であると再び声明した。8月31日政府は勅書を発し、これによってアメリカ製品のボイコットを非とし、かつ諸総督に対して、この運動を中止する効果的方策を施すべき義務を課した。9月4日慶親王は同公使に対し、中国政府は『中国国民に対しても、あるいはまたアメリカ市民に対しても、なんら金銭上の損害を蒙らせないように、この点に関して充分な方策を講じた』と通告した。勅書中に示された条件は履行されなかった。そこでアメリカ公使は9月26日付の通信において、この事情に関して慶親王の注意をさらに喚起した。この通信は、『皇帝の意志が則時(←正誤表によると「則時」は誤りで「即時」が正しい)遵奉され、そしてアメリカ、中国両国間の条約に対して正当な尊重が払われることを確保するに必要な追加的手段』の施されなければならないことを『主張した』ものであった。同通信を『受理するや否や』、中国当局は必要な方策を施すように指令を受けた。しかしながら講ぜられた手段は不充分であった。そこで10月3日アメリカ公使は再び慶親王に宛てて、効果的な処置の必要を告げ、次のように言明した。すなわち本日まで勅書の条件を履行しなかった当局者が、これ以上その履行に遅延を来たす場合には、『本官の政府は、必然的にこれをもって貴政府の機関による歴然たる敵意の表明であると解するものである。そして貴政府の失策に対する責任は、清国帝国政府がこれを負うべきものである』と。遅延状態は依然として続き、慶親王に宛てられたアメリカ公使の10月30日付の急信は再びこれを抗議の主題とした。11月4日アメリカ公使は慶親王に宛てて、さらに通信を送り、『両広(注、広東、広西両省)総督に対し、その管轄区域内におけるボイコットを完全に終結すべき方策を講ぜしめるような命令を発することが火急に必要である旨を促した。』総督の発した布告の語気は、同公使がルート国務長官に宛てた通信においてこれを形容した言葉を借りれば、『語勢強く、かつ断固たる』ものであった。同布告は当時アメリカが起こした行動の基となったところの事態を終結に導くに効果があったものらしかった。

 ボイコットを中止すべき中国の義務に関する問題はアメリカによって単に真剣に取り上げられたばかりでなく、断固たる執拗さと強行とによって満足すべき終局にまで押し進められたのであった。慶親王が最初に行なった責任拒否は、アメリカ合衆国によって受け入れられなかった。それどころか、アメリカ公使がそれに接すると、中国は国家的責任の問題に関しては、アメリカの主張と一致した方針をとるべきであるとするアメリカ政府の要求は直ちに繰り返され、執拗に続行され、そして遂に中国もこれを尊重するに至ったのであった。『二十一ヶ条要求』に関連して、1915年中国において開始されたボイコット運動の鎮圧を日本が要求した際にも、同政府は同様の方策を講じた。1925年ないし1926年の英国のボイコットに際しては、広東政府は再三これに対する責任を拒否したが、両国政府によって解決の途が講ぜられ、ボイコットの損害に対する賠償はなかったようではあったが、同運動は少なくとも公式には1926年10月終結した。

 しかし、かような考察は、中国における日本の行動を正当化する所以がもしあるとすればそれはこの行動を正当と決定することにのみ関連性をもつものである。しかしながらかような正当化の問題は別としても、このようなボイコット運動は敵対行為の拡大を充分説明するものであり、その範囲においてこの敵対行為の拡大が何か以前の共同謀議の結果であったかどうかの問題と関連性を有するものであろう。

 この点に関して、検察側はその提出した法廷証第3262号『支那事変対処要綱』に大いに依存している。これは1939年10月1日付文書で、次の規定を包含するものとされている。すなわち(1)一般方針、(2)軍事行動、(3)外交措置等々である。同文書の内容は法廷記録第29772頁ないし19785頁に入っている。同文書の規定が、中日事変に関する日本のその後の方針を大いに明らかにするものであることは疑いを容れない。しかしながら本官は同文書から、起訴状が主張するような種類の共同謀議を示唆する何物をも読み取ることができない。

 本官は後で、1936年の広田方針を論じよう。同方針はどのような共同謀議をも示唆するものではない。


(D)第三段階 日本の国内的並びに枢軸国との同盟による侵略戦争準備(←このあたりの章立てについては、英文とやや相違がある)


  (a)諸国民の心理的戦争準備


   (1)人種的感情


英文では原資料8枚目に次のようにある。


PART W

OVERALL COMSPIRACY

Third Stage

The Preparation of Japan

for

Aggressive War

Internally and by Alliance

with

The Axis Powers


訳すと、


第4部

全面的共同謀議

第三段階

国内的なそして枢軸諸国との同盟による日本の侵略的戦争への準備


そして、英文では原資料9枚目に次のようにある。


PART W

OVERALL CONSPIRACY

Third Stage

Psychological Preparation of

The Nation for War

---

Race Feeling


訳すと、


第4部

全面的共同謀議

第三段階

国家の戦争への心理的準備

---

人種的感情


となる。

 共同謀議の訴追を立証するにあたって、検察側は、『日本ノ政治及ビ輿論ノ戦争ヘノ編成替エ』に関する起訴状付属書第6節から始めた。

 付属書の本節の段階を担当したハマック検察官は次のように申し立てた。すなわち同検察官が提出しようとした証拠は、『嫌疑ヲ掛ケラレタル被告側ノ日本国民ヲシテ他国ノ平和愛好国民ニ対シ不法侵略戦争へと準備セシメルタメ、1928年又ハソレ以上ニ始メラレタル罪悪的陰謀ヲ証明セント』するものであるというのである。

 第6節自体は二つのはっきりした(←正誤表によると「はっきりした」は誤りで「別個の」が正しい)範疇に属する問題を包含していることは明らかであろう。すなわち(1)日本の政治の戦争への編成替え、(2)日本の輿論の戦争への編成替えである。

 輿論の戦争への編成替えに関しては、その詳細を挙げていわく、『民間ナルト陸海軍ナルトヲ問ワズ総テ教育制度ハ、全体主義、侵略戦争ニ対スル熱望、可能ノ敵ニ対スル残忍ト憎悪ノ精神ヲ注入スルニ用イラレタノデアル』と。さらにこの期間を通じて、膨張へと扇動する活発な運動が続けられ、その方針に反対する者の言論、著述の自由は抹殺されたと述べられた。

 同段階のこの面を立証するにあたって、ハマック検察官は、起訴状の主張する共同謀議を説明した後次のように、すなわち『カカル目的ヲ達セントスルコノ陰謀ノ実行ニ当タリ、彼ラ(被告)ハ故意ニ、整然ト、シカモ聡明ニ、日本国政府ヲ掌中に納メンガタメ、日本ノ教育制度検閲宣伝警察力ニヨル圧制政治的団体暗殺脅迫アルイハ政治的計画ヲ用イタノデアル。彼ラハソノ目的ヲ達センガタメ、政府、法律、宗教及ビ古来ノ習慣ノ力ヲ最大限ニ使用シタノデアル、』ことを、証拠は証明しようとするものである、と述べた。

 検察側はその最終論告において、これを称して、『国民ノ精神的戦争準備』と言い、証拠を、(a)教育ノ軍国主義化、(b)宣伝ノ統制及ビ弘布(c)戦争ニ対スル国民動員の三項目に分類した。そしてその最終論告の結論の中で、『経済上及び陸海軍軍事上の準備計画を満足かつ充分に実行しかつ共同謀議者の計画に副って効果的にこれを運用する事を得せしむるためには、日本国民に戦争に対し心理的準備をなさしめよって戦争を必要なりと感ぜしめさらにこれを希望するに至らしむる事が必要であったのであります。この使命はあるいは学校教育によりあるいは宣伝のあらゆる機関を利用統制することにより、あるいは又宣伝及び統制目的のために国民を単一組織団体に動員することにより、達成されました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)と述べているのである。

 日本の教育方針の変革と形容したものに重大価値を与えようとすることが試みられた。そしてその変化の目的としたところは、あらゆる青少年の心に民族的優越感を起こさせることにあったというのである。

 本官は、これはすべての国民に共通な欠陥であると信ずる。あらゆる国民が自分の人種こそ他のいかなる人種よりも優秀であるという謬見のもとにあるのである。そして国際生活において人種的差別が持続される限り、この診見(←正誤表によると「診見」は誤りで「謬見」が正しい)は実に防御武器なのである。どの一国をとってみても、その指導者たちは、「衷心ヨリ(←「衷心ヨリ」に小さい丸で傍点あり)」この謬見(←正誤表によると「この見」は誤りで「謬見」が正しい。ただし原資料にも「謬」の字は、つぶれてはいるが見える。「謬見」が正しいとあるが、「この謬見」が正しいとする方が適切かもしれない)こそ国民を劣等感の有害な影響から護るものであり、また西洋諸国の行動が人種的差別に基づいてくる事実に徴し、かような感情は自己防衛の方便として必要なるものであると考えることができるであろう。こうすることは、単に自己表現を奨励してそして次の世代の国民を、世界の競争場裡においてその国家の国家本位の利益を助長し、かつ擁護するように準備することを意味するにすぎないのかもしれない。禁欲主義や自我抑制の理想は未だ現代文明諸国のいずれによっても採用されるに至っていない。

 トーインビー教授は、著書『歴史の研究』の中で、次のこと、すなわち、今日西洋諸国間においては、社会的諸現象を説明するにあたって、それが人種的問題に起因するものであるとする方法が非常に流行していること、及び人間の体格に現われた人種的相違は、それ自体変更し得ないものであり、かつ人間(←正誤表によると「かつ人間」は誤りで「かつ人間の」が正しい)精神にも同じく変更することのできない人種的相違が存することの証左であると見なされているが、西洋諸国は、この体格上の人種的相違こそ、異なった人間社会の運命や業績の間にわれわれが実際の体験上認める相違の起因するところであるとしていることを指摘している。同教授はさらに次のように言っている。

 『18世紀において、海外諸地域の支配を目指す西欧諸国民間の競争は、英語を話す新教徒の勝利に終わった。すなわち彼らは原始的諸民族が居住し、かつ欧州人の植民に適した諸国の最大部分を獲得したばかりでなく、かような海外諸国のうち現存の非欧州文明に属しており、当時西洋諸国の征服、支配に抵抗する力のなかった者の在住する諸国の最大部分を獲得したのであった。7年戦争の結果の決定したところは、北は北極圏から南はリオ・グランデに至る全北米は、英国新教の流れを汲む西洋文明をその文化的背景とする欧州系の新国民の定住するところでなければならないしまた英国の新教徒等が組織し、その理想を承けた政府が、全インド大陸の主権を掌握すべしというにあった。こうして英国新教派の西洋文明によって培われた人種的感情は、全西洋社会を通じての人種的感情を発達させる決定的要素となったのである。』

 これは確かに人類の不幸であった。

 トーインビー教授の言によれば、

 『海外の欧州人種でない諸民族間に植民した欧州系統であり、欧州人種に属する「聖典」キリスト教徒は自己を必然的にエホバの意思を奉じ、かつ神約の地を占領するという神のための仕事を行なうイスラエルの民になぞらえ、同時に彼らの仕事を妨げるこれら非欧州民族等を、神がその選民たちの手に委ねて滅ぼさせるか、征服させるかしたカナンの住民たちと同一視したのである』

 人類史の発端から『人種的感情』というものは、たくらみある人々の手に持たせるときは確かに危険な武器であったのである。正しい判断力のある人々は常にこの感情を非とし、人間の行為及び功績に存する相違にいわゆる人種的説明を付することは、愚行でなければ欺瞞であると明言している。しかしかような人々の忠言は、まだ世界によって受け入れられたことはない。プラトーンはその著「国家」の有名な節において、『崇高な虚偽』を持ち出すとともに、『人間の能力及び功績の相違を、人種的見地から説明することは、故意にかつ冷酷に偽ろうとする場合以外、国家人のできることではない。すなわちこの偽りは、養育及び教育から生ずるそれぞれ異なった効果を枉げて、先天的な人種的の相違に帰するものとして、それによって社会的及び政治的行動の実際的な分野において、ある結果を挙げようとするたくらまれた目的のためにする場合である』という真理を如実に示した。

 しかしこの真理は、この人種的感情の悪用を企てる何人をも阻止していない。トーインビー教授は、どれほどこの悪用が行なわれたかを指摘している。いわく、

 『われわれ西洋人が人を「土人」と称するときに、われわれは彼ら「土人」に対する感知(←正誤表によると「感知」は誤りで「知覚」が正しい)の中から、暗に文化的色彩を除去しているのである。われわれがある土地で偶然に見受ける歩む樹木または野生の動物としか彼らはわれわれの眼に映らないのである。要するに彼らは現地の動植物の一部としか見えず、われわれ同様感情を有する人間とは見えない。かように彼らを人間の圏外のものと見ることによって、われわれは彼らを通常の人権を有しないものとして取り扱って差し支えないと考える。彼らは諸々の土地に住む土着人にすぎなく、どんなに長期にわたる居住も取得時効による権利を賦与しない。現在英語で使用している「土人」という言語には、暗に以上のことが含まれているのである。明らかにこの言語は科学的用語ではなく、行動の具である。すなわち行動計画の「先行的(←「先行的」に小さい丸で傍点あり)」正当化である。それは西洋の実践の領域に属し、西洋の理論の領域には属しない。』

 この西洋の人種的感情が未だ歴史学上の問題となっていないことは、第一次世界大戦後、国際連盟規約起草の際起こったと報道されていることから察知し得る。

 ここに連盟創立に関する決議案起草委員会の会議で起こった事件の記述から数行引用すれば足りる。その記述は次の通りである。すなわち

 『日本の経済的懸念は深刻ではあったが、他のある一層深刻な事情が日本の心中になった。日本は人種関係の問題に悩まされていた。四世紀にわたり白色人種はその権力の技術の体得をもって、有色人種の理性と精神に対し、彼らは白色人種に比し、生来劣等人種であると叩き込んできた。日露戦争は、実にこの優越感は戦場において挑み得ることを示した。しかしこの烙印はなお残存した。習慣や態度は容易に変わらなかった。今や世界史の次の一頁が開かれようとしている。そしてこの問題をより高い水準に移し、終局的に人種関係を平等の立場で解決する好機が到来したように思われた。このことが連盟規約に対する日本の貢献となるのであった。

 『しかし、もしこれを公けに持ち出し取り上げようとするものが、前述の烙印の汚辱を雪ごうとするものであっては、この挙の美点は半ば失われることになってしまうのである。それゆえに日本の全権委員牧野男爵と珍田子爵の任務は微妙なものであった。彼らは国民の要望を荷っていたが、その要望を他の人々の口から言い出されることを期待していた。2月4日にハウス大佐に面会を求めた際の彼らの心境は以上のようなものであった。彼らはハウス大佐に対して言った。「7月8日に、貴官は石井子爵に対して、日本政府が好意をもって迎えた言辞を使われた。それゆえわれわれは貴官を友人と見て、意見を求めにまいった」と言った。それから決議案の起草、再起草が行なわれた・・・・・』

 『このときにおいて、ハウス大佐及び日本側は、英帝国全権団が彼らの道を阻んでいることを知った。もっともそれは英本国ではなく、主として豪州であり、否むしろ豪州首相(←正誤表によると「むしろ豪州首相」は誤りで「むしろ豪州だけすなわち当時の豪州首相」が正しい)であって、自己を白色人種優越性のチャンピオンとして任じたウィリアム・モリス・ヒューズ氏であった。2月9日にハウス大佐は次のように記している。「日本側と余とが提起した一切の解決案に英国全権団のヒューズ氏は異議を申し立て、」かつ英国全権団は彼の意義を排除することには明らかに躊躇した。2月12日に至って、珍田子爵は憤激して、自分で決議案を提出する決心をした・・・・。』

 日本の珍田子爵が起草した決議案は、新しい項を挿入することであって、その辞句は次の通りであった。すなわち

 『各国民均等ノ主義ハ国際連盟ノ基本的綱領ナルニヨリ締盟国ハナルベク速ヤカニ連盟員タル国家ニオケル一切ノ外国人ニ対シイカナル点ニツキテモ均等公正ノ待遇ヲ与エ人種アルイハ国籍ノイカンニヨリ法律上アルイハ事実上何ラ差別ヲ設ケザルコトヲ約ス』

 この辞句は宗教的平等の条項の追加項として日本の牧野男爵が動議として提出した・・・・。朗読された牧野男爵の演説の全文は、国際連盟委員会会議録に載せられている。それは彼の立場の真摯で、尊厳で、礼儀正しく、かつ穏当な開陳である。彼は連盟規約は『各種人種を包有』する国家間の相互的義務制度を創造するものであることを指摘し、『少ナクトモ国民間ニ均等ノ主義ヲ認メコレヲモッテ将来国際交通ノ基礎トナスコト』を要請した。同時に彼は根強い偏見の存することを認め、それゆえ提案された原則が則時(←「即時」が正しいだろう)実現されることを期待していないことを述べた。『ソノ実際運用ハ輿論ノ趨勢ヲ注意シテ怠ルコトナキ連盟員タル国家ノ責任者ノ手ニ一任スルコト』で満足すると述べた。

 『彼が終わったときに、ロバート・セシル卿は、本件は「激烈ナル論争ノ目的物タル問題」であり、「英帝国内にきわめて由々しき問題を起こすもの」と言い、さらに『牧野男爵にインスピレーションを与えた動機は崇高なものではあるが、しばらく討議を延期した方が賢明ではないかと思われると言った。・・・・』

 『延期された人種平等に関する討議は、委員会の最終会議である第15回会議で討議されるに至った。・・・・日本側は特別条項をもはや要請せずに、規約前文に一文(センテンス)挿入を求めただけであったが、その前文中の該当辞句は次の通りであった。

 『各国民間ニ公然、正当カツ名誉アル関係ヲ定メ

 『各国民ノ平等及ビソノ所属各人ニ対スル公正待遇ノ主義ヲ是認シ、

 『国際法ノ原則ヲ確立シ、云々・・・・』

 『牧野男爵は提案をなすにあたって、再び努めて温和な態度を持した。男(←「だん」。「男爵」の略である)の修正案の目ざすところは一つの一般原則を規定しようとするだけのことであると男は主張した。このことは、その一般原則を前文の中に採り入れるというのであって、それを裏づけするなんらの条項をもその主文に、入れるというのでないという事実からして、実際明瞭であった・・・・ロバート・セシル卿は本国政府の訓令に基づいて行動しているのだといって、この修正を受諾することを拒み、その拒否態度を固持して譲らなかった。・・・・発言を終えたのち、セシル卿はその眼をテーブルの上に据えたままで、その席に釘づけにされたように座り、引き続いて行なわれた討論には加わらなかった・・・・

 日本代表は賛否を票決に問うことを強く主張した。19名の委員のうち、11名は提案された修正に賛成の票を投じた。委員2人は欠席していた。反対投票はなかった。そこでウィルソン大統領は委員の一部が抱懐する重大な異議に鑑みて、修正は可決されないものと認める旨の裁決を下した・・・・』

 さきにその主張をなすに当たって努めて温和であった牧野男爵は、この時、穏やかならぬ警告を発した。すなわち、『自負心ハ最モ強キ時トシテ抑制スベカラザル人類行動ノ原因ノ一ナリ、余ハ真面目ニ述ベント欲ス、政治関係ノ特別ナル時期ニオイテコノ問題ノカクノゴトキ危険ナル発展ノ現実的意義ヲ了解スルハアルイハ不可能ナルベキモ、実ニ余ハ独リコノ問題ノ将来ノ結果イカンニツキ多大ノ危惧ヲ抱クモノナリ』

 牧野男爵は4月28日、講和会議の総会議の席上、再び同じ事項を提起した。その折の同男爵の演説は次の言葉をもって終わっている。すなわち、

 『終ワリニ臨ミ余ハ日本政府及ビ人民ハ永年不断ノ不満ヲ解決センコトヲ目的トシ深甚ナル国民的確信ニ基ヅケル公平ナル主義ノ主張ガ委員会ニオイテ採納セラレザリシコトニ対シテハスコブル遺憾トスル処ニシテ、将来連盟ニオイテ同主義ノ採用セラルルニ至ル様ソノ努力ヲ継続スベシ』

 国際連盟も、また他のどのような国際機構も、未だかつてこの人種的感情を駆逐することができなかったのである。

 この事実に加えて、右に述べたような感情が実地に適用されて、太平洋周縁の白人諸国が経済的人種的理由に基づいてアジア民族を排斥する運動を行なっている事実を考え合わせて見るがよかろう。この排斥運動が表示するものがいくらかでもあったとすればそれは民族的、人種的意識の高揚の度合いを示すものであった。太平洋の周辺に在る白人諸国による東洋人排斥運動は、その初期においては単に地方的性質を持ったものであった。しかし漸次これは国家的運動の形態をとるようになり、国家による立法、国家による法律励行の制度がその運動の帯びる特色となった。この東洋人排斥の感情は、第一次世界大戦後その力が殺がれることなしに存続し、制限及び排斥を支持する議論の重点は、次第に、経済論から文化的生物学的議論に移っていった。1917年及び1924年の米国の法律に言及すれば充分であろう。白人国家はその排斥運動において日本人を含む被排斥国民の国民的感受性に対してなんらの考慮をも払わなかったのであって、これらの排斥法律が人道に基づいて組み立てられた理想的な人間相互間の関係を助長しなかったことは否定できないであろう。

 シュワルゼンバーガー博士は、その著『権力政治』において以下のように述べている。すなわち『形式的平等及び戦利品の処分という表面的問題の底にあって、白色人種のいわゆる独断的な優越性及び他の地域に比して欧州に重きを置きすぎるという一層根本的な争点が多年にわたって国際連盟に付随して来た問題である。日本が主要な連合国の一として、また国際連盟加盟国の一として、連盟理事会に永久的な議席を与えられ、委任統治領の分配にあずかったことは事実である。しかしながら連盟がなんら匡正手段を講じたとは思われない問題がもう一つあった。すなわち、日本の人口過剰である。ハウス大佐がパルフォア氏に対して指摘したように――この意見に対しパルフォア氏は「強い共鳴」を示したが――「世界は彼らに対して、アフリカに行ってはならない、いずれの白人国家にも行ってはいけない。中国もだめ、シベリアにもはいってはいけないと言った。しかも彼らの国は、土地はすべて耕しつくされておりしかも日々に人口の増加しつつある国家である。しかし、彼らはどこかに行かなければならなかった。」のである。連盟規約起草委員会の日本代表がその最初の提議事項を弱めて、単に連盟規約の前文中に、各国民ノ平等及ビソノ所属各人ニ対スル公正待遇ノ主義ヲ是認するという一項の挿入を要請する提案をした時でさえも、委員会の少数代表たちは同提案の受諾を防止したのであった。』シュワルゼンバーガー博士によれば、講和会議のこの動きこそ『日本に劣等感を植えつけた責任の一斑(←この一文字判読困難。文脈から言えば「端」であろうが)を負うべきものであった。』

 この人種的感情が実際にどう作用するかについて本官が右に指摘したことに鑑みて、日本の指導者のうちで青年の心裡に人種的優越感を植えつけることによって彼らの民族を保護しようと考えたかもしれないものを非難することはできない。西洋人と同じように、日本人もまた多くは『選民の神』の崇拝者であったのだということにここでついでに触れておこう。

 本官としては、白人の世界がこの東洋において高まりつつある人種的感情に対して抱いている恐怖は、トインビー教授が『現代における西洋人の人種的感情の強度及び悪性を説明する上に与かって力のある事情』の第三の要素と呼んでいるものにその原因があるのではないかと思われる点がないこともない。

 原子爆弾はすべての利己的な人種的感情を破壊し、われわれの内心に、人類の和合の念を目ざめさせたとわれわれは言いきかされている。第二次世界大戦の終末期の原子弾の爆発は、本当に、戦前のたわごとをすべて吹き飛ばすのに成功したのかもしれない。あるいはわれわれは単に夢を見ているのかもしれない。『分離か、雑種化か・・・・どちらか一つ選べ、』という言葉に含まれているような見解を述べることのできる人が今なおある。しかし、それにもかかわらず、本官は、他の人々とともに、第二次世界大戦はこの人種的感情を一掃し、すべての人の心を謙譲にさせ、人種平等の尺度に基づいて物事を考えることができるようにしたいものと望み、またそう信じたいと思う。今となっては、人種平等の主張を押し進めることが、世界中至る処に人種問題をひき起こすとか、ある特定の領土内に重大問題を発生させるという恐れがあるからという理由でそうすることを思いとどまるものはだれもいないと、本官は考えたいのである。しかし日本の指導者らがここで問題となっている方策を案出したときは、事情はまったく異なっていたのである。日本の指導者らがこれが日本民族保護のために必要な手段であると考えたのであったならば、本官は彼らの「善意(←「善意」に小さい丸で傍点あり)」を疑う理由を何一つ見出すことができない。


(2)教育の軍国主義化(英文ではPART W OVERALL CONSPIRACY Third Stage Psychological Preparation of the Nation for War --- Militarization of Education 第4部 全面的共同謀議 第三段階 国家の戦争への心理的準備 −−−教育の軍国主義化)


 『教育の軍国主義化』の段階に至って、検察側は口頭及び文書による証拠を提出した。この証拠をその最高度に評価すると、次のような話になる。すなわち、

 軍事教練は最初『体操』という名称をもって日本の諸学校に取り入れられた。教授科目は1890年明治天皇の渙発した教育勅語に基づいたものである。《法廷証第139号、法廷記録第1022頁》。軍事教練の本来の目的は、社会生活の規律と適当な程度の軍備とを奨励するのであった。《大内証人、法廷記録第968頁。海後(かいご)証人、法廷記録第905ないし913頁》。第一次世界大戦後、一時軍事教育に対する関心が弛緩したが、その後不況と一般の不安状態との重圧のもとに、1922年から1925年までの間に教練は再び開始された。《大内証人、法廷記録第955頁、968頁》。陸軍省及び文部省はこの時期において軍事教練の再開に注意を集中したのであった。1925年、教練は強化された。諸学校に正規の陸軍教官を任命したことが、この強化の事実を示すものである。《瀧川証人、法廷記録第990頁》。

 軍事教練を実施するため、1925年4月13日発布の勅令第135号は現役陸軍将校を官、公立学校及びその他の諸学校に配属することを規定した。この勅令の規定するところによれば、配属将校は『教練ニ関シテハ当該諸学校長ノ指揮監督ヲ承ク』というのであった。私立諸学校もまた申請によって陸軍現役将校の配属を受けることができたのである。教練実施の状況を査問することに関しての規定もあった。《法廷証第132号、法廷記録第1007頁》。

 この時期以後、軍事教官は次第に学内に勢力を得るようになり、軍部は次第に大学及び学校制度の大部分を支配するようになった。《大内証人、法廷記録第940頁、瀧川証人、法廷記録第990頁》。

 1926年4月20日、文部省が発布した『青年訓練所規程』は『青年訓練所ノ訓練時数ハ・・・・修身及ビ公民科百時、教練四百時、普通学科二百時、職業科百時ヲ下ラザルモノトス』と規定している。

 1926年9月27日付、陸軍省令第19号は『教練査問官』の任命、査問及び査問報告書に関する規則の梗概を規定したのである。

 大学の科目中に軍事講義を加えることは義務制となった。しかしこの講義に出席するしないは未だ学生の随意であった。1931年中、当時陸軍大臣であった被告荒木は、学生の軍事講義出席を義務制とするように要求した。荒木はまた執銃教練を科目に加えようとしたが、それは拒絶された。《海後証人、瀧川証人、法廷記録第994頁ないし1021頁、大内証人、法廷記録第936頁ないし944頁》。

 1935年8月、勅令によって陸軍大臣は『現役陸軍士官に青年学校における教練科の査問を命ずる』ことができるようになった。』(←英文を参照すると、この最後のカギ括弧は省くのが正しい)

 その後、1935年8月13日に至って陸軍大臣が出した規則は、査問は『当該青年学校ノ課程ヲ修ムル者ガ兵役ニ関スル特別ノ資格ヲ具備スルヤ否ヤヲ考察スルトトモニ教練科ノ進歩発達ニ資スルヲモッテ目的』としたのである。《法廷証第136号、法廷記録第1019頁》

 1937年、中日事変後においては、教練をさらに強化することが必要と考えられ、そしてこの期間中、被告木戸が文部大臣であった時に、学校制度は改正され、さらに多くの学業時間が軍事教練並びに教科に費やされた。《池島証人、法廷記録第1101頁ないし1102頁

 1938年5月、被告荒木が文部大臣に就任したとき、同人はその理想を実行に移すことを得た。《瀧川証人、法廷証第994頁ないし1021頁、大内証人、法廷証第936頁ないし944頁》軍事教練課目を修了することが卒業の必須条件となり、これを終了した学生には通例の二年または三年の服役期間の代わりに一年の服役だけでよいとする特典が与えられたのである。

 1938年6月29日までに、欧州戦争、未完遂の中日事変及び急速度の変化を見つつある世界情勢の刺激を受け、文部省は官公吏並びに学校当事者を促して、教育方針において愛国心、共同一致の精神及び奉公に重点をおかせ、1935年8月21日発布《1939年及び1941年改正》の青年学校教授及び訓練科目要旨は、教官に一般的教育を施すにあたってある道徳的概念を支持するように指令した。軍事教練に関しては『国体ノ本義ニ透徹シ国民皆兵ノ真義ニ則リ・・・・皇国民トシテ分ニ応ジ必要ナル軍事ノ基礎的能力ヲ体得セシムベシ』と指示されている《法廷証第138号、法廷記録第1020頁》。

 1935年8月発布の勅令《法廷証第134号》は、荒木文部大臣及び板垣陸軍大臣の連署した1938年11月30日付の勅令をもって改正され、青年学校教練科『相当科目』の査問を命ずる権限を陸軍大臣に与えた《法廷証第135号、法廷記録第1018頁》。

 1939年までに、教育審議会は、教科書に人心を鼓舞するような変更を加えようとしてこれを検討しつつあった。執銃訓練が開始された《海後証人、法廷記録第893頁、889頁》。青年学校における教練科査問に関する規定は1940年4月、畑の署名するところによって改正を見た。《法廷証第137号、法廷記録第1021頁》教授らは日本人に対して、極東を支配し、遂には世界を支配するのは日本人の義務であるということを吹き込むため、軍事思想を学生に教え込むことに全面的に協力することを要求されるに至った《大内証人、法廷記録第940頁》。教職に在る身で世界事情について平和主義的な思想を表現した者は、ある場合には免職され、またある場合には治安維持法によって刑罰を課せられた、《大内証人、法廷記録第945頁。瀧川証人、法廷記録第990頁ないし994頁》。

 かりにわれわれがこの話を全部そのまま受け容れるとしても、法廷がこの組織を、侵略的計画またはその準備を表示するものとなぜ解釈しなければならないか本官には明らかでない。描写されたところは確かに広範囲にわたり、そして効果的な軍事教育である。しかし本官は遺憾ながらこれを教育の軍国主義化であると描写する検察側の説には承服できない。

 この段階において左の証人が取調べを受けた。

 1、ドナルド・ロス・ニュージェント中佐《法廷記録第821頁》

 2、海後時臣(かいごときおみ)《法廷記録第879頁》

 3、大内兵衛《法廷証第130号宣誓口供書によって取調べを受けた。法廷記録第939頁》

 4、瀧川幸辰(たきかわゆきとき)《法廷証第131号宣誓口供書により取調べ。法廷記録第988頁》

 5、前田多聞(まえだたもん)《法廷証第140号宣誓口供書により取調べ。法廷記録第1024頁》

 6、伊藤述史(いとうのぶふみ)《法廷証第142号宣誓口供書により取調べ。法廷証(←「法廷記録」が正しい)第1077頁》

 7、池島重信《法廷証第143号宣誓口供書により取調べ。法廷記録第1099頁》

 8、佐木秋夫(さきあきお)《法廷証第144号宣誓口供書により取調べ。法廷記録第1116頁》

 9、緒方竹虎《法廷証第146号宣誓口供書により取調べ。法廷記録第1148頁》

 10、中井金兵衛(なかいきんべい)《法廷証第147号宣誓口供書により取調べ。法廷記録第1156頁》

 11、鈴木東民(すずきとうみん)《法廷証第150号宣誓口供書により取調べ。法廷記録第1217頁》

 12、小泉梧郎(こいずみごろう)《法廷証第152号宣誓口供書により取調べ。法廷記録第1260頁》

 提出された書証は左の通りである。

 法廷証第132号、勅令第135号《法廷記録第1007頁》

 法廷証第133号、1926年4月20日文部省令により発布の青年訓練所規程《法廷記録第1017頁》

 法廷証第134号、1935年8月10日公布勅令第249号、青年学校教練科等査問令《法廷記録第1018頁》

 法廷証第135号、1938年11月30日公布勅令第739号、青年学校教練科等査問令中改正ノ件《法廷記録第1018頁》

 法廷証第136号、1935年8月13日発布、陸軍省令第8号、青年学校教練科等査問規程《法廷記録第1019頁》

 法廷証第137号、1940年4月12日付陸軍省令第10号、青年学校教練科等査問規程中改正ノ件《法廷記録第1019頁》

 法廷証第138号、1938年6月29日付文部省訓令『時局ニ鑑ミ学校当事者ノ学生生徒薫化啓導方』516頁ないし517頁よりの抜粋《法廷記録第1020頁》

 法廷証第139号、明治23年(1890年)10月30日公布『教育勅語』《法廷記録第1020頁》

 法廷証第98号、1925年発布の治安維持法の改正法である1941年公布の新治安維持法《法廷記録第1023頁》

 法廷証第68号、日本国憲法《法廷記録第1237頁》

 法廷証第151号、1936年5月20日付情報宣伝ニ関スル実施計画綱領《法廷記録第1246頁》

 法廷証第167号、日本政府綴り込みからの抜粋《法廷記録第1674頁》

 映画フィルム《法廷記録第1677頁》

 法廷証第132号は1925年公布の勅令であって、現役将校を各学校に配属する件に関するものである。この勅令の規定するところは、師範学校、中学校、実業学校及ビ大学ニオケル男子ノ学生又ハ生徒ノ教練ヲ掌ラシムルタメ陸軍現役将校ヲ当該学校ニ配属スというにある。かような将校ノ配属ハ陸軍大臣ト文部大臣ト協議シテコレヲ行ナイ、配属将校は当該学校長ノ指揮監督ヲ承クるものである。私立学校に関しては、当該学校ノ申請ニヨリ現役将校ヲ配属スル事ヲ得るのである。本令に関する1926年9月27日公布の追加規定によって、諸学校の査問の制度並びに査問報告の方法等が制定された。1935年11月30日公布の陸軍省令によって、学校軍事教練教官は教練の結果を査問し、検定合格証明書を下付し得る制度が設立された。

 法廷証第139号は、1890年10月30日公布の教育勅語である。この文書は日本臣民に期待された主なる徳を述べたものである。日本臣民たるものは、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、恭謙己ヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、学ヲ修メ、業ヲ習イ、モッテ知能ヲ啓発シ、徳器ヲ成就しなければならない。本勅語はまた日本臣民を促して、公益ヲ広メ、世務ヲ開キ、国法ニ遵イかつ一旦緩急アラバ義勇公ニ奉ゼヨと言っている。

 本官はこの点に関して取調べを受けた証人の証言の要約を以下に掲げる。

 ドナルド・ロス・ニュージェント中佐《法廷記録第801頁》

 この証人は1937年3月から1941年3月まで、日本において商科大学、高等商業学校及び商業学校で英語及び商業諸科目を教授していた。その証言によれば、同中佐が日本のこれらの学校で教鞭をとっていた期間、軍事訓練はその学校の正科の一部であった。軍事訓練は教練、行軍、演習、兵器部品名、軽機関銃に至るまでの武器の取扱い法及び軍事講義から成っていた。

 軍事訓練については、一週一時間半から五時間をそれぞれの科目に充ててあった。それ以外の時間に演習、行軍または査問を行なったのである。以上の科目の教授は日本陸軍の将校が担当した。大学に配属された陸軍将校は学校職員の一部となっていた。証人は、連合軍最高司令部民間情報教育部長であるから、専門家として証言するとの意向を表明した。証人は軍事訓練の結果に関してその意見を述べた。すなわち『私ノ意見ト致シテ述ベレバ、カヨウナ訓練並ビニ教育ハ、日本ノ学生ニ超国家主義又ハ侵略的軍事主義、又ハ国ニ対スル狂信的ナ忠義、権力ニ対スル盲目的服従、又ハ「大東亜共栄圏」ニ関スル日本ノ使命ニ対スル信仰ヲ深メルコトニナルト思ウノデアリマス。』《法廷記録第832頁ないし833頁》

 かような教育が日本の学生の心に日本人は他のどんな民族よりも優秀であるという観念を与えるかどうかという質問に対して、証人はこれを肯定した。』(←このカギ括弧は省くのが正しい)

 証人の意見としては、日本の学生に対する教練講義及び野外演習の結果は、かような教育が実際上学生に対して日本帝国のいわゆる天与の使命についての信念、日本の文化が他国の文化に優っているという信念、を吹き込み、また大東亜の指導者としての日本の天与の使命及びもし必要ならば、いわゆる『八紘一宇』の目的を完遂するために必要であれば軍事侵略もまた必要であるという信念を与えた。《法廷記録第835頁ないし836頁》

 反対訊問にあたって、証人の意見の根拠を述べるように求められた際、証人は以下のように答えた。すなわち『コノ意見ハ多数ノ教授及ビ学生トノ面会ノミナラズ、自分個人ノ立場カラ致シマシテモ、太平洋戦争各地域ニオケル日本軍多数ノ俘虜トノ面会ニヨッテモ得ラレタモノデアリマス。』《法廷記録第842頁》

 証人は、この目的のため、俘虜を含めて300人ないし350人の人々と面会したと法廷に申し立てた。証人はこの事項に関して専門家であるとたしかに主張してはいる。しかし本官はこの点に関する証人の意見になんらの重要性をも認め得ないのである。本官は証人がその証言事項に関して専門家であるとは認めず、また本官自身としては、これらの効果が証人の証言対象である訓練を原因とするものだというその理由によっては納得が行かない。検察側としては、証人を専門家として出廷させることを必要としたのではあるが、証人自身はワーレン弁護人による反対訊問に際しては、専門的知識を欠くことを自認しなければならなかったのである。《法廷記録第872頁における証人の証言参照》

 海後(カイゴ)時臣証人 《法廷記録第879頁》

 証人は東京帝国大学の助教授である。証人は十年間同大学に職を奉じていた。証人は教育史、特に近代日本教育史を講義している。その言うところによれば、日本における軍事教育は1886年以来、初等、中等、及び師範の各学校において開始された。この教育は第一次世界大戦まで継続された。第一次世界大戦後、1925年に至って、諸学校に教官として現役陸軍将校を配属する法律が発布され、次いで1926年青年訓練所の設立を見るに及んで、この制度は強化された。軍事訓練の教官は、その学校配属の現役将校であった。1925年以来、初等、中等及び高等学校において軍事教育は義務制となった。大学においては、1925年以来軍事科目講義に出席することは義務制となった。1939年に至って執銃教練を開始することの決定を見たが、当時学生らの命ぜられたところは、野外演習の際にだけ執銃することであって、他の場合においては、学生は軍事に関する講義に出席するだけであった。1941年11月に教練教授の新要目が公布され、それ以後執銃教練は校内においても実施された。1941年以前日本における教育制度全般に関する改革が行なわれた。1937年教育審議会が設立され、その任務とするところは、日本の教育の制度、内容、方法全般を検討することにあった。この研究の結果、日本の教育制度において軍事教練及び講義は一層重要になったか否かと検察側によって訊問された際、証人は『教育審議会ニオイテ議セラレマシタコトノ中ニ、教練ヲ強化シナケレバナラヌト云ウヨウナ方針ガアッタトハ認メラレマセヌ、タダシ昭和12年以後支那事変ガ既ニ起コッテ居リマスカラ、国全体トシマシテハ、戦争ニ備エタ教育ヲシナケレバナラヌト云ウコトニナッテ居タコトヲ認メマス』と答えた。《英速記録891頁》

 証人はさらに、1937年の教育審議会において議せられた問題は、教育を皇国の道に則って、全般として組織替えをしようということであったと証言した。1937年の教育改革以後において、種々の科目に関する教科書に変化があったかという訊問に対して、証人は『1941年カラノ教科目ノ上ニオイテ、ソノ編成ノ方針ガ変ワリ、教科書モ改マッタト見ラレマスノハ修身、歴史、地理、国語ナドデアッタ訳デアリマス』と答えた。《英速記録893頁》

 検察側に、1937年から始まる教育上の影響はどのようなものであったかと訊問をされたとき、証人は『1937年以後ニオイテハ、教育審議会ニオイテ皇国ノ道ニ則ル教育ヲ方針トシテ新タニ示シマシタカラ、国全体トシテノ教育ハ、国家ヲ本トスル(英訳では愛国心になっている)ト云ウ考エニオイテ、変化ヲシツツアッタ訳デアリマス』と答えた。《英速記録894頁》

 証人に向けられた次の質問は、『ソレデハタダ今ノ愛国心ト云ウモノノ中ニハ、超国家主義的、軍国主義的精神ヲ涵養スルト云ウコトガ含マレテ居タカ』であった。《英速記録894頁》これは明らかに示唆的な質問であり、弁護側から異議が申し立てられたので、検察側はそれを撤回し、証人に対して新たに、学徒に対する教育の結果は、彼らに、日本人は優秀民族であるという考えを植えつけるのにあったのではないかと訊問した。これに答えて証人はいわく、『私ノ見テ居リマス所デハ、コノヨウナ教育ガ生徒ニ対シテ、日本ノ国ヲ偉大ナルモノトスルト云ウ考エガ教エラレタト思イマス。』《英速記録897頁》

 証人は反対訊問において、第一次世界大戦以後の日本の状況は、さまざまな社会不安が伴ったために、国民の間に軽佻浮薄の傾向を巻き起こしたと述べた。1925年、26年の軍事教練の実施は、この傾向を抑制するのに非常に役立った。この証人の証言の中には、教育改革に何か非とすべき点を示す何物もない

 検察側は右の証人の訊問終了後、法廷外でとった証人の陳述を証拠として提出して弁護側の反対訊問のために出廷させる用意のあることを申し出、裁判所をこれを検察側に許可した。

 こうして調べられた次の証人は大内兵衛であった。《英速記録936頁》

 検察側が法廷外でとった同証人の陳述は、彼の主な証言として提出された。その陳述は本裁判における法廷証第130号である。

 証人は東京帝国大学の経済学及び財政学の教授であり、これらの科目について過去27年間教鞭をとっているのである。証人は次のように証言した。『軍事教練及ビ講義ハ、尋常小学校ヲ初メトシテ、日本ニオケル総テノ学校ノ学課ノ一単位ヲナシテ居リマシタ。カクノゴトキ訓練ハ明治19年スナワチ1886年、最初ハ尋常小学校、中等学校及ビ師範学校ニオイテ開始サレテ、爾後継続サレマシタ。

 明治31年頃日清戦役後、軍事訓練ガ学校ニオイテ現役将校ニヨッテ指導サレマシタ、コノ制度ハ第一回世界大戦頃マデ行ナワレマシタ、第一回世界大戦以後学校制度ニ自由主義的傾向ガアリマシタ、ソノ後2、3年間ハ軍事訓練及ビ教育ニハ余リ重要性ヲ置カナクナリマシタ、軍事訓練及ビ教育ハ大正11年スナワチ1922年頃カラ始マッテ、再ビ学校ニオイテ開始サレマシタ、コノ学課ハイヨイヨ学校内ニオイテサラニ増シテ考慮ガ払ワレテ、昭和2年スナワチ1927年ニ至ッテ、カクノゴトキ訓練及ビ教育ガ中等学校、師範学校及ビ専門程度ノ学校ニオイテ必修トナリマシタ。シカシナガラカクノゴトキ訓練ハ、当時ノ大学ニオイテハ強制的デハアリマセンデシタ。

 昭和2年スナワチ1927年ニ、陸軍省ハ東京帝国大学ニオイテ軍事教育ノ特別講義ヲ与エルヨウニ要求シマシタ、コノ要求ガ拒絶サレルト後ニ再ビ要求シマシタ、第二ノ場合ニオイテ軍事講義及ビ軍事訓練ヲ授ケルヨウニ要求ガアリマシタ、ソノ結果大学デハ軍事講義ヲ授ケルコトニ同意シテ譲歩シマシタ、コノ講義ハ陸軍省ヨリ任命サレタ陸軍将校ニヨッテ授ケラレ、コノ将校達ハ教授団ニ加エラレタノデアリマス、最初ハ軍事講義ハ強制デハアリマセヌデシタ、大部分ノ学生ハ講義ニ出席シマセヌデシタ、コノ理由ニヨッテ、軍事教官ニヨッテ出席ヲ取ル規則ガ施行サレマシタ、サラニモシ学生ガコノ講義ニ出席シナカッタラ、卒業ニ続イテ軍務ニ服スル場合ニ、在学中ノ軍事訓練ニ対スル恩恵ヲ受ケルコトガ出来ナイト言ウ規則ニヨッテ、学生ニ対シ圧迫ガ加エラレマシタ、コノコトハ大学ニ在学中、軍事訓練及ビ講義ニ参加シタ学生達ハ、タダノ一箇年ノ勤務ダケデ軍隊ニオケル彼等ノ教育ノ修了ガ出来タガ、軍事訓練及ビ講義ヲ受ケナカッタ者ハ、二年ナイシ三年ノ全期ノ軍事勤務ヲナサネバナラナカッタト言ウ理由デ重要ナコトデアリマシタ。

 陸軍大臣ノ主張ニヨッテ軍事訓練ハ私立大学ヲ含ム総テノ大学校ノ課目トナッタ、コノ訓練ハ昭和13年スナワチ1938年、荒木大将ガ文部大臣トナッタ時ニ強制的トナリマシタ、コノ時ヨリ以前昭和6年スナワチ1931年荒木大将ガ陸軍大臣デアッタ時ニ、東京帝国大学ハ学課ノ一部トシテ軍事訓練及ビ講義ヲ設ケルヨウニ要求シタガ、大学当局ニヨリ拒絶サレマシタ、コウシテ大学ニオケルコノ訓練ハ数年遷延サレマシタ、ソノ後荒木大将ハ文部大臣トシテ、各大学ニ軍事訓練及ビ講義ヲ強制的ニ命令シマシタ。』《英速記録940−43頁》

 続いて証人は次の陳述をしている。『軍事訓練及び講義は各段階の学校において、現役陸軍将校によって行なわれました、将校達は講義、訓練、宣伝によって軍国主義的及び超国家主義的精神を学生に鼓吹せんと、全力を尽くして学課を指導しました、軍事教官によって、日本人は優秀民族であり、戦争は生産的であり、極東、後には世界を支配するのは日本に与えられた天命である、我が国の発展は、学生達はこの目的遂行のために、将来侵略戦争をする準備がなければならぬことを要請して居ると教えられました。

 学生に軍国主義的、超国家主義的精神鼓吹の努力をする基礎は、明治23年すなわち1890年渙発された明治天皇の教育勅語によりました、この勅語は、臣民の最も重要なる義務は国家及び天皇に対するものであることを規定しました、なお同天皇は同様にして陸海軍将校、兵卒、水兵に対する義務に付いても勅語を出しました、これらの勅語及び教科書、講義、軍事訓練及び教育は、日本の偉大なる栄光の信念、日本人の共助の義務、さらに極東、進んでは世界支配及び統治を達成する神聖なる使命及びこの神聖なる使命達成のための日本人の最大なる栄誉は、天皇に任えて死す特権であると、軍事指導官によって学生達を教育し、感銘させるために使用されました。

 昭和6年すなわち1931年の初め、軍部による大学及び学校の支配はいよいよ顕著となりました、この支配は支那事変に次いで昭和12年すなわち1937年には、教授及び教師は、狂信的な軍事主義的及び超国家主義的精神を学生に教え込む筋書に、全面的に満腔の熱心をもって協力することを要求されるに至ったほどの段階に至りました、この筋書を全面的協力の怠慢は、その学校より被免又は投獄によって罰せられました、平和の理想に傾く思想や侵略戦争のための準備政策に反対する思想を表現することは、総て学校においては厳に抑圧されて、この抑圧は学生及び教師、教授にも行なわれて居ました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《英速記録943−44頁》

 陳述は次の言葉で結んでいる。『過去27箇年大学の教授として、日本における各段階の学校の学生としての個人的経験により、軍事訓練講義及び教育を各段階の学校及び大学の生徒に与えることは、学生達に軍国主義的、超国家主義的精神や、日本人は総ての他民族よりも優秀なる民族である、戦争の讃美、戦争は生産的でありかつ日本の将来の福祉のためには必要であるという信仰を創造する効果がありました、又学生に将来の侵略戦争のための準備をさせることに効果があったと思います。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《英速記録946頁》

 証人は、この計画に充分に協力することを怠ることによって、被免あるいは投獄の処罰を受けることになったという陳述の実例として、矢内原教授、また証人自身及び東京帝国大学の三教授の例を挙げた。証人は矢内原教授は1936年に『平和及び国家の理想』と題する論文を書いたと述べている。木戸侯爵は、1937年文部大臣になると、同教授を被免すべきであると要求した。しかし教授は大学当局者から辞表を提出するように要請されて、彼は辞表を提出した。

 証人自身は治安維持法違反の廉で警察に検挙され、18箇月間無裁判のまま拘留されたが遂に裁判の結果無罪となったのである。

 東京の地の(←正誤表によると「東京の地の」は誤りで「東京の他の」が正しい)三教授も、1937年に同じく治安維持法によって警察に検挙された。反対訊問において、これらのすべての者は好ましくないと見なされた論文を執筆したということが明らかになった。証人は、軍事教育に関する証人自身の意見について、反対訊問において、証人の陳述は学生が証人の注意を喚起した事実に基づくものであると述べている。証人自身は講義を聴いたことはないのであって、その内容は生徒から聴いたのである。生徒は証人に対し、彼は(←正誤表によると「彼は」は誤りで「彼らは、」が正しい。「彼らは」が正しいだろう)最初に極東、その後においては世界の支配を獲得しようとする欲望を教え込まれたと伝えた。しかし証人は、その生徒の名前を一つも挙げることはできなかった。

 本官は、この証人がその陳述の中で意見を申し述べる資格をもっているという点について、納得することができない。証人の証拠は、かような意見の根拠となり得るような材料を一つも示していない。

 瀧川幸辰(ユキトキ)《英速記録988頁》

 この証人の陳述は検察側によって法廷外でとられたものであって、本裁判において法廷証第131号であり、同証人の直接訊問の証拠として提出されている。京都大学法学部長である証人は、次のように述べている。『軍事教練は小学校に始まり、日本における総ての学校の学課の一部でありました、1925年(大正14年)頃より、京都帝国大学においては軍事講義及び教練により多くの注意が払われました、軍事課目を教授する職員に大佐一名、大尉三名がおりまして、これらの将校は陸軍省から来たものでありました、これら将校の学内における勢力は漸次優勢となりました、彼らは大学の経営の方法についても漸次容喙の度を増して行きました、彼らが最初大学に来た時は大きな勢力はありませぬでしたが、1931年(昭和6年)の満州事変及び1937年(昭和12年)の支那事変に伴い段々と勢力を得、結局大学は全く軍部の支配下にある結果となりました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《英速記録990−91頁》

 証人はさらに続けていわく、『私は今日まで日本の学校制度において最も普遍的なる教育形式を熟知しおりますが、それは誠に宜しからざる形式であります、それは全く自由なる思考、自由なる思想を欠き、中国及び満州における日本の侵略的戦闘行為に理由付けんとするこのみに(←正誤表によると「するこのみに」は誤りで「することのみに」が正しい)没頭せるもので、戦争は光栄あるもの、必要あるもの、成算的のもの、又日本の将来の偉大と運命とは、一にかかって侵略的戦闘行為にあることを学生に教うるごとく企てられ、学生の心に他の民族国民に対する蔑視、仮想敵国に対する憎悪を吹き込むの効果を挙げて、学生等を将来の侵略戦争に備えしめました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《英速記録992−93頁》

 この証人は1933年大学から免職させられた。証人によれば、これは満州事変に反対する論文及びナチに類似する政府する(←正誤表によると「政府する」は誤りで「政府に対する」が正しい)論文のためであった。証人はその反対訊問において、教育学そのものは自分の専門ではないと認めている。さらに証人がその著書『刑法読本』の中で裁判を批判したことが、証人と当時の文部大臣鳩山一郎との間に経緯を生じたので、遂にその著書のために免職となったことが明らかにされた。証人は証人自身の意見を除いては、その意見によって証人が与えた効果について、われわれが何らかの推論を引き出すことができ得るなんらの材料も提供していない。

 前田多聞《英速記録1024頁及び3122頁》

 この証人の陳述は検察側によって法廷外でとられた本裁判の法廷証第140号であり、彼の主な証言として提出されている。証人は1928年ないし38年の間『東京朝日新聞』の論説員であり、1945年8月18日文部大臣となった。

 証人は彼の準備された陳述の中において、証人が文部大臣になった後、教科書の破棄を命じたと述べ、その理由として次を挙げている。これらの教科書は、まず第一に日本は他のすべての国に比して優れた国であるということを生徒に教えるために用いられ、それが証人の最も感心しないことであったと述べた。他の理由は、神秘的事項は古伝と事実の港同(←正誤表によると「事実の港」は誤りで「事実の混同」が正しい。誤りの欄は「事実の港同」とするのが正しい)、軍事行動とか戦争をあまりにも称讃したこと、軍人に対する極端な讃美と尊敬、及び国家のための個人の絶対服従の観念である。証人はさらにいわく、『既に述べました理由から破棄を命じました教科書の外に、教師や学生や一般人に広く読ませるために文部省から発行された「国体の本義」これは1937年(昭和12年)5月発行、それから1941年(昭和16年)3月に発行された「臣民の道」がありました、1945年(昭和20年)文部大臣となりますと同時にしました従前のあるがままの日本の学校組織の考察によりまして、支那事変以前に軍部は軍事教育及び訓練を監督する陸軍将校を学校に配属し、あらゆる学校を抑制し、この抑制は支那事変後非常に専断になって、このような将校が学校組織の課程や管理の運営法までも学校長に指示するようになったという確証を得ました。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《英速記録1037−38頁》

 証人が気に入らないものとして挙げた書物の表題は「臣民の道」であり、これは1941年3月31日に出版されたようである。《英速記録1047頁》この書物は本裁判の法廷証141号である。証人は、これは文部省によって発行されたものであると述べた。なおその発行の目的は教師、学生ばかりでなく、一般人に読ませるためであった。気に入らない部分は、速記録1047ないし1065頁及び3124ないし3126頁に読み込まれた。これらの箇所の内容は次の諸点を強調している。

  1、皇国臣民の道は団体に淵源して(←正誤表によると「団体に淵源して」は誤りで「国体に淵源して」が正しい)、天壌無窮の皇運を扶翼するところにある。

  2、それは抽象的規範ではなく、歴史的な日常実践の道であり、国民のあらゆる生活、活動はすべてひとえに皇基を振起するところに帰する。

  3、(a)欧米文化の流入に伴って、日本人は個人主義、自由主義、功利主義、唯物主義等の影響を受け、ややもすれば古来の国風に悖るの弊を免れることができなかった。

   (b)自我功利の思想を排して、皇民臣道(←正誤表によると「皇民臣道」は誤りで「皇国臣民」が正しい)の道を高揚実践することが当面の急務である。

  4、(a)欧州諸国民の世界進出は、主として飽くことのない物質的欲望に導かれたものである。

   (b)彼らは先住民を殺戮したり、あるいはこれを奴隷として、その地を奪って植民地となした。

   (c)天与の資源は挙げて本国に持ち帰ったり、あるいは交易によって巨利を博した。

   (d)彼らの侵略は、世界の到るところで天も人もともに許さないような慕挙(←正誤表によると「慕挙」は誤りで「暴挙」が正しい)をあえてした。

   (e)アメリカ・インディアン、アフリカの黒人及び大東亜共栄圏内の諸民族はすべて同等に取り扱われ、白人の奴隷として狩り集められた。

  5、(a)世界大戦は独仏間の歴史的仇敵関係も与かってはいるが、主として英独の制海権の争奪、経済制覇の闘争がその原因となっている。

   (b)これらの欧米文化の基本的要素が因となり果となって、世界を修羅道に陥れ、世界大戦という自壊作用となって現われた。

  6、大戦の結果、すべての者の頭は西洋文明没落の心配でいっぱいであった。

  (a)英仏米等は、あらゆる手段、方法を講じて「現状」維持に狂奔した。

  (b)共産主義において、徹底的な唯物主義に立脚して、階級闘争による社会革命を企図する運動が熾烈となった。

  (c)ナチス主義、ファッショ主義の勃興を見るに至った。この独伊における新しい民主主義、全体主義の原理は、個人主義、自由主義等の弊を打開し、匡救しようとしたものである。

  7、(a)満州事変は久しく抑圧されていた日本の国家的生命の激発である。

   (b)この事変を契機として、日本は列強環視の中に道義的世界の創造、新秩序建設の第一歩を踏み出したのである。

  8、(a)日本の国運の隆々とした発展伸張は、東亜の天地を併呑しようとする欧米諸国を深く嫉ませた。そして、その対策として彼らは日本に対して経済的圧迫を加えたり、または思想的撹乱を企てたり、あるいは外交的孤立を策して、それによって日本の国力の伸張を挫こうとしたのである。

   (b)太平洋をめぐる諸情勢の逼迫につれて、東亜における日本の立場も急迫した事態に直面している。

  9、日本は政治的に、欧米の東洋侵略によって植民地化された大東亜共栄圏内の諸地方を助けなければならない。

  10、(a)「現状(←「現状」に小さい丸で傍点あり)」維持の自由主義的民主主義的国家の一群は、日本の努力に対して、相結んで必死に妨害を試みており、植民地は未だその生存のために欧米人に依存しなければならないという錯覚に陥っている。

    (b)大業の前途はなお遼遠であって、その行路は決して坦々たるものではない。

  11、今次のドイツの目覚ましい活躍は、決して高度性能の機械化軍備の威力だけによるものではなく、旺盛な、国民精神と国民の熱烈な国防への協力の賜である。

  12、(a)日本の総力戦体制の目的は、皇運を扶翼するところにある。

    (b)皇国臣民は皇室を宗家と仰いで、一国一家の生活を営んでいる。

    (c)万民愛撫の皇化のもとに、億兆心を一にして天皇にまつろうことが臣民の本質である。

    (d)日本においては忠あっての孝であり、忠が大本である。忠孝は不二、一本である。

    (e)新時代の皇国臣民は、皇国臣民としての修練を積まなければならない。すなわち国体の本義に徹して、皇国臣民であるという確固として信念に生き、気節を尚び、識見を長じ、鞏固な意志と旺盛な体力とを練磨して、よく実践力を養い、それによって皇国の歴史的使命の達成に邁進しなければならない。

    (f)皇国臣民としての修練はまた果敢断行、勇往邁進する実践力の養成に向けられなければならない。

  13、(a)修練を重んじなければならない。これが日本の教学の特色の一つである。

    (b)皇国臣民は、悠久な鞏固の古えから永遠に皇運扶翼の大任を負うものである。

    (c)日常私の生活と呼ぶものは、畢竟するに、この臣民の道の実践である。私の生活をもって国家に関係ないものとして、私意をほしいままにするようなことは許されない。

  14、家は皇国臣民の修練の道場である。そこで剛健であって情操の豊かな国民精神が錬成されて、よく皇運を扶翼する皇国民が育成される。

  15、日本においては、『元来職業は、国家諸般のことを分担して天皇に奉仕するつとめである。・・・・』『職業の根本義は、営利を主眼としないで、生産そのものを重んじ、勤労そのものを尚ぶ風習の中に保持されて来たのである。

 続いてハマック検察官は、この書物の84頁及び89頁の次の箇所を朗読した。

 『自己の利益となるならば法律を潜り他を犠牲に供することをも敢えてし、利益なくば他人の窮乏を他所に見て、ただただ儲けのみを目指すというがごときは、決して職分奉公とは言い得ない、今日ことに中小の商工業者は非常な困苦の中にあるが、当面せる我が国内外の事情によく思いを致し、積極的に商業を通じて真の務めに尽瘁し、国家奉仕を全うせねばならない。

 およそ皇国臣民の道はいかなる職にあるを論ぜず国民各々国家活動のいかなる部面を担当するかを明確に自覚し、自我功利の念を棄て、国家奉仕を務めとした祖先の遺風を今の世に再現し、それぞれの分を尽くすことをもってこれが実践の要諦とする。

 まこと支那事変こそは、我が肇国の理想を東亜に布き、進んでこれを四海に普くせんとする聖業であり、一億国民の責務は実に尋常一様のものではない、すなわちよく皇国の使命を達成し、新秩序を確立するは前途なお遼遠と言うべく、今後さらに幾多の障碍に遭遇することあるべきは、もとより覚悟せねばならぬ。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《英速記録3126頁》

 本官は、非常に重要であって気に入らない用語、文章もしくは意味を一つでも知らず識らずのうちに落とすことを恐れて、検察側によって朗読された部分を残らずここに引用したのである。

 1941年3月、あたかも日本が重大な敵対行為の渦中にあった時に出版されたかような書籍が、当時この出版に関係していた個人あるいは団体の刑事上の責任を立証するになんらか役立つものであるとは本官としては考えられないことである。前田氏は終戦後、この書は日本国内にその存在を許容するにはあまりにも有害であると考え、その破棄を命じたことについて、みずからの理由を述べたが、その理由は証人自身の証言に徴してみるのが適当であろう。反対訊問において、証人はこの書の破棄について次のような理由を述べた。

  1、その一般的傾向ないしは根柢をなす哲学がはなはだ不埒なものであった。

   (a)その書物は、日本が他のどのような国家よりも偉大であることを指摘または示唆して、伝説、神話及び事実を混同することによって、日本が神の摂理によって特に選ばれ、祝福された国家であったということを示そうと試みた。

   (b)それは皇道を大いに強調し、国家を真理と正義の上に位せしめた。

  2、それは人民の道または国民の道ないしは臣民の道を主として強調して、人間の道は完全に閑却された。ゆえにかような思想は文化国家の建設という理念をまったく否定し去っている。

 前田氏は戦後他にも多くの書籍を破棄させたが、それらのものは昔から存在していたものであることを認めたのである。証人がそれらの書籍を破棄した理由は、現今において、かような書籍の存在は許されるべきではないというのであった。

 右の点についての証人の慎重さを本官が疑う必要はない。しかしながら、証人がかように非難したからといって、この書物が必然的に非難すべきものになるわけではない。どのように本書の内容がわれわれの眼に不快なものと映じようとも、その内容には真実がまったく欠けていたとは限らない。この不当なものという烙印を押された書物について、前述した内容解剖の第4、6、7及び8項は実質上において高度に権威のある著者の意見と相通ずるものがある。本官はすべに国際生活上においては人種的感情が一般的に抱懐されていることに触れた西洋文明の崩壊の可能性に関する恐怖については、吾人はロンドン王立国際問題事情(←正誤表によると「事情」は誤りで「(削除)」と指示されている)協会発行の1931年度、国際事情調査報告を参照すれば事足りるのである。本官は後に至ってその内容に言及してみようと思う。1920−23年、1925年及び1926年度の同権威の調査報告は第7及び8項に述べられた意見を裏づけるのに大なる力があると言えよう。第3項はもちろん意見の問題であり、この書物の著者が東洋及び西洋文明の間にある根本的な差異を強調し、盲目的な模倣に対して一言の警告を発したことによって重大な過誤を犯したとは本官は考えない。東西の交流は必然でかつ不可避であった。同時にこの交流は、われわれが円満で実行可能な解決を発見できる前に、明らかに理解して心底から把握しなければならないいくつかの基本的問題を提起するものである。世には、一方が他方を採用、吸収することを主張するもの、適応を唱えるもの、また排除を説くものなどがあって、それぞれに多数の人々を数えることができよう。かような多様な意見に対する最も健全な態度は、思想及び意見の自由という原則すなわち、『われわれに同意する人々に対して思想の自由を与えることではなくして、われわれの忌み嫌う思想に対する自由』という原則に従うことであろう。

 いずれにしても、この証人の証言によって明らかにされた事実は、検察側論告段階の本部門を一歩も前進させるものではない。当時言われたことあるいははなされたことは、日本が世界的戦争の真っただ中にあったころに行なわれたことであり、また単に戦略の一部として行なわれたにすぎないのである。これが、われわれをして起訴状中に挙げられたような種類の計画を推定させる手引きとなることはまったくあり得ないのである。

伊藤述史《1077頁》

 検察側が法廷外においてこの証人から得た陳述が、本人の主訊問に代えて証拠として提出された。この陳述は本件書証第147号である。

 この証人は、1936年以降の政府による宣伝の組織について述べている。1940年に証人は内閣情報部長となったが、同情報部は情報局設立の結果解散となり、証人は情報局の初代の総裁となった。検閲の権限が同局に与えられた。1941年1月、日本の全出版業者を一括して「日本出版協会」が組織され、全書籍配給業者を統合して「日本図書配給株式会社」、全新聞社を集めて「日本新聞連盟」がつくられた。これらの組織が設立された結果、各団体内に含まれたすべての報道機関の完全な政府統制がもたらされた。《1081頁》

 この証人は、1941年5月もしくは6月から陸軍省は、合衆国及び大英帝国のような、敵となる可能性のある諸国に対して、日本国民に悪意を抱かせるような宣伝を流布したと述べている。


池島重信《1099頁》

 この証人の場合も、その陳述は検察側によって法廷外で取られ、本人の主訊問に代えて証拠として受理されたものである。証人は法政大学の教授であり、文化政治学を教えている。証人は日本の教育機関内における軍事教練のことについても述べている。証人は1925年まではこの軍事教練は『学生ノ学業時間ヲ多ク要シマセンデシタ。』1925年以来この教練は、『満州事変ニ至ル、マタソレマデノ期間ニサラニ多ク学業時間ヲトリ始メマシタ』。さらに満州事変の後にいたって『学生ニヨッテ本軍事教練及ビ教課ニ費ヤサレタ時間ハ、1936年マデ稍々減少シマシタガ、ソレ以来本課目ガ再ビ重要トナリ、サラニ多クノ学生ノ時間ガ費ヤサレルヨウニナリマシタ』と述べている。

 この証人の言によれば『支那事変ハ、陸軍省ノ強圧ニヨッテ、超国家主義軍国主義精神ガ学校内ニオイテ軍監督ノ下ニ学生ニ吹キ込マレマシタ、・・・・1941年ノ初期カラ学生ハ、日本陸軍ガ支那制圧ガデキナイノハ、「アメリカ」合衆国ト「グレート・ブリテン」ガ支那ヲ援助シテイルカラデアルト教エラレマシタ故ニ、学生ハ、日本ノ大敵ハ支那ニ非ズ、合衆国ト「グレート・ブリテン」デアルト印象ヅケラレマシタ』というのである。《1012−13頁》

 証人はまた、日本放送協会の政府による管理及び放送の検閲について述べている。

 われわれは証人のいわゆる「超国家主義思想」が何であるかを知らない。国家主義は、どのようにその表現形式が堕落し歪曲されたものであるにしても、人間の政治生活の一つの有機的発展であって、必ずしも悪質な発展ではないのである。

 シュワルツェンベルゲン博士の指摘しているように、『たといこの危険な盃を傾け過ぎた欧米人が現在この意見に反対の傾向をもっていたとしても、西洋人が過去数世紀にわたって通ってきたこれらの段階を今やまさに経過しつつある諸国は、この欠くことのできない成育の段階を素通りすることはできないことを感ずるであろう』。孫逸仙の言葉を借りれば「われら虐げられた民族は、世界主義を論ずる資格をもつ前に、まず国内におけるわれわれの自由と平等の立場を回復しなければならない。われらは世界主義とは国家主義から成長してくるものであることを知らなければならない。もしわれらが世界主義を普及しようと欲するならば、われらはまずみずからの国家主義を力強く打ち樹てなければならない。」と言っている。そしてまた「もし国家主義が国際共同体を一丸としての立場から観て、真に積極的な機能を果たすべきものであるとすれば、それはかなり広範囲の自己制限の過程を経なければなるまい」ということも可能であろう。シュワルツェンベルゲン博士の言葉によれば、この目的のために『まず第一に、国家主義者は、国家というものは一つの現実であり、大きな価値を持つものであるとはいえ、単に一つの相対的価値を代表するものにすぎないということを認識しなければなるまい。第二に、国家間の差異を認知することは容易であるかもしれないが、今までのところ国家間に正当な階級制度を樹立することに成功したものはだれもない』『当然のこととして、われわれみずからの文明に立脚した諸判断は、西洋が特に極東に関して罪をおかした多くの偽善の中の一つにすぎない』とシュワルツェンベルゲン博士は言っているのである。

佐木秋夫《1116頁》

 証人の陳述は本件法廷証第144号である。証人は宣伝を立証するために出廷したもので、日本紙芝居協会の会長である。その会社は証人みずから『紙芝居作品』と名づけるものを製作しており、この証人は支那事変勃発の期間におけるかような宣伝について述べている。

緒方竹虎《1184頁》

 この証人の陳述は本件法廷証第146号である。証人は「朝日新聞」社の前副社長であった。証人は言う。『私は新聞事業に35年間従事しました。私がこの新聞事業に関係せる間、終始新聞の自由は政府の検閲により制約されました。検閲は満州事変直前より特に顕著となりました。満州事変後、新聞紙は内務省警保局検閲課によりその資料が適当に許可されるのでなければ、軍事関係の事項を書くことを許されませんでした。満州事変直前には総ての新聞は、これが街頭に売り出される前に、その一部を検閲のため内務省に納本することを要求されました。1939年検閲は厳重になり、本社内に検閲課を設けることが必要なほどになりました。すなわちその理由は、内務省から頻繁に記事差し止めが来たからであります。1941年12月より先、何回も私の新聞社は、日本軍が作戦中の各戦線から電報を受け取りました。この電報は特定の軍事報道の取扱い方を私どもに指示したものであります』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《1153−54頁》

中井金兵衛《1156頁》

 この証人の陳述は、本件法廷証第147号である。証人はその映画事業との関係について陳述しており、その証言もまた戦争の正当化のための宣伝に向けられている。証人は1929年以降のかような宣伝について述べている。

鈴木東民《1217頁》

 この証人の陳述は、本件法廷証第150号である。証人は論説記者であり、1935年以来「読売新聞」社に雇用されていたもので、検閲について述べている。証人はいわく、『1935年以来の日本における新聞及び出版物は、政府によって命令された厳重なる検閲のもとに置かれました。諸官省によって発行された記事以外、新聞社は政治的事項に関しては何も発行することが許されませんでした。その結果、日本の軍事的及び侵略的戦争目標を正義化せんとする傾向のある宣伝以外、新聞はわずかばかり発表したのみでありました。現在施行されている種々なる検閲法以外に、政府の役人が決定した日本の公衆から抑止されるべき新聞記事に対し、出版禁止令を発する事が、内務省を通じて政府がなした慣例でありました。諸官省は新聞記事が取り扱われる方法に関して新聞を指導した、そうしてさらに、個々の著述者及び新聞記者を定期的に官省に呼び付け、発行され得べき資料及びいかなる方法でそれらの資料が発行さるべきであるかを彼らに指示することが、特に海軍新聞班、陸軍新聞班及び外務省新聞班の慣例でありました。

 1935年から太平洋戦争の終結まで、日本における新聞及び刊行物は完全に日本政府の統制及び支配のもとに置かれ、又同期間中の日本国内において自由なる新聞の外観等はありませんでした。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

小泉梧郎《1259頁》

 この証人の陳述は本件法廷証第152号である。証人は1935年より1940年の間、諸県の警察部長であった。証人は新聞、出版物、著作、図書、映画、演劇及び他の娯楽物、公開演説、公けの集会等々に対して実施された検閲について述べている。証人はいわく、『1928年、国内全般的基礎の上に警察部の中に特高課が設定されました。その任務はもっぱら極左及び極右の活動及び1931年より1941年12月7日の間に存在しありし日本政府の政策に反対する人々の活動を監視することでありました。例えば1937年の日支事変に続いて、日本において何人も日支事変に反対することを許されなかった。もしかかる行為をなした者のあった場合は治安維持法により検挙され拘置された。・・・・昔より日本全国には家族組運動がありました。昔はこれらの組は相互援助のため、又犯罪を防止し又報告する目的をもって団結しておりました。1940年末期において日本国民に政府の政策について教育し、国民をして戦争を意識させ、さらに相互援助と政府に対し協力せしむることを目的に政府の指令によってこの隣組運動は復活させられた。隣組は地方行政の監督下にあります。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)《1265−66ページ》

 1930年3月より1935年12月まで学校教練担当将校であり、さらに1937年8月より1941年3月まで陸軍省人事局課員、次いで兵務局課員として勤務した弁護側証人吉田氏は、学校教練及び青年訓練が日本において採用された理由を述べている。その証言は本件法廷証第2377号である。証人はいわく、『第一次世界大戦後欧米列国の実施した国民指導、特に青少年に対する訓練は、国情により各々その特色と発達の道程とを異にしているが、ひとしく大戦の教訓に基づいてこれが進展に努力していたのに、独り我が国においてのみかような制度施設なく、特に青年の教育機関がなかったのみならず、依然として大戦当時及びその直後における社会の悪風潮に浸潤せらるるがままであって、国家安泰の前途に多大の支障を生じはしまいかと識者の深く憂慮して措かないところであった。特に列国の実施していた青少年訓練の状況を調査した結果、このまま放置せば、独り我が国のみ列国の進運に取り残されるに至るべきを虞れたのであって、畢竟かかる世界の情勢特に我が国と対比し列国の真摯溌剌たる国民訓練の実施は深く朝野を刺激するようになり、遂に大震災時現われた市民訓練の欠陥を直接の動機として、1925年に至り始めて学校教練制度を、次いで1926年青年訓練制度を採用するに至ったのである。・・・・本制度の創設に対し、当時の国民の大部はこれに賛同し、貴衆両院においても一名の反対なく満場一致をもって可決された。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)証人続けていわく、『青年の心身を鍛錬して、剛健の気象を養い、秩序を重んじ、礼儀を尚び、かつ勤労を喜ぶ習性を養い、同時に体育の向上を図り、よってもって国民資質を向上するためには、教練材料を学校教練、青年訓練中に取り入れることが最も簡易にしてかつ有効であるということから出発したもので、軍部の威圧をもって軍事教練を強要した等の動機は毫末もないのであります。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 次に吉田氏は、何故に現役将校が各学校へ配属されるようになったかを説明していわく、『明治19年(1886年)森文相当時より学校にとり入れてありました兵式教練が、明治の末年以来漸次有名無実となって、学生生徒の修練上に効果をもたらさなかった主因が、この教練に当たっております。予後備将校に対する生徒の信頼の滅却にあると見られましたので、この教練を振作するためには、ぜひ現役将校を煩わさなければならぬという結論からこれは生まれたものであります。右のようの次第でありますから、軍部といたしましては、学校教練ないし青年訓練による学生生徒の心身鍛錬の結果が国防能力に好ましき影響を来たらすことを胸算しました云々。』

 1937年支那事変勃発後においては、この教練に対して一層の重点が置かれた。証人は教練の教育内容をわれわれに示し、毎週の教練時間並びに毎年の野外演習日数を挙げた。これに関する彼の証言は、英文記録18、454頁ないし18、460頁にある。本官自身としては、この教練になんらの異常を認めず、また何故に、これが侵略行為の準備であるとの推断にわれわれを導くものであるか了解しがたいものである。

 軍事教練は必ずしも侵略的企図の準備を意味するものではない。世の中が平和であっても、このような訓練は適当と認められ得るのである。少なくとも権力政治に依然として支配されている世界においては、かような訓練はあらゆる強国によって不可欠なものとされているのである。何ゆえに列強が軍備縮小計画に失敗したかは、本稿中の他の箇所で述べたところである。それと同じ理由をもって、列強はその青年の軍事教練を提唱するのである。シュワルゼンバーガー博士は、その著権力政治において、軍縮問題に係わる本質的問題を取り扱うにあたって、次のように述べた。すなわち『欠如していたものは各政府間における政治的合意であって、これなくして軍縮は行ない得なかったのである。各国政府が競争心と権力政治の観念をもってこの問題に臨んでいた以上、彼らの軍事専門家たちは、その職責上からして、みずからを平和の鳩に変身させることができなかった。自国の特殊権益を擁護することと、競争相手の勢力に対する自国の相対的地位、並びに国力の均衡が自国に有害な影響を受けないように図ることが、これら軍事専門家の仕事であった。世界機構中にこの権力政治が存する以上、また国家間の等級差別がある以上、すべての国家は、この階級制度において尊敬を受ける地位に就こうと努力し、従ってまた世界が尊敬すべきものと定めたことに彼らは重点を置くようになるのである。』

 第一次世界大戦後の講和会議が、『新団体体制の根本原則として、人種平等主義を認めよという日本の要求をしりぞけることによって、日本に劣等感を持たせる』ように最善を尽くしたことを思い起こせば、また国際社会においては『より強大な国というのは、普通以上の力《軍事、政治、経済及び財政》を掌中に有する国であって、かつまた国際社会における自国の地位を維持あるいは改善するためには、この力を用いることをあえて辞さない国を言う』ことを思い起こせば、何ゆえに日本における教育政策の変更が、同国の為政者並びに政治家たちの頭にあった合法的な野心以外の何ものかを示すのであるか、本官としては了解し得ない。彼らは、その後自国がその一員としての生活をなし、かつ役目を果たすべき国際社会においては、実力が非常にものを言うのであって、かような『実力というものは、過去の試練に徴して計られるだけではなく、将来起こり得る軋轢に際して、いかに精力を発揮し得るかを予測することによっても計られる』ということを知っていたのである。

 若干の証人の表明した意見を除いては、青年の軍事教育の改革のためにとられた当時の日本官憲の処置に、侵略的準備を示すものはなんら証拠に存していないのである。検察側が全面的共同謀議の立証を試みるために、かような性質の証拠を提出しなければならなかった事実そのものが、その試みの絶望的性格を示すのである。検察側が共同謀議を訴追するにあたって、1931年の満州事変以前に存在した日本政府をも、その網の中に入れるところまで行かなかったことにも注意すべきであろう。満州事変前の政府の閣僚の一、ニ名は、その共同謀議に入っていたと主張されそうなものである。しかし共同謀議が主張されたのは、大体においてその政府の中にいなかった人たちに対してである。しかしながら本件において証拠となっている教育政策は、その当時の政府の政策である。その政府の政策、行為及び発言が、かように詮索されるのであったならば、本官としては、世界のどのような国のどのような政府の一員も、安全であり得ないと思う。検察側の主張する犯罪事実をこの証拠から読みとるためには、この点に関してすでにその理論で固められた頭――行き過ぎてみずからを欺き、ありもしない繋ぎ目を強いてとりつけ、かつ先入的となった理論を裏づけるような事実を当然なこととして取り上げるほどに器用な頭を実に必要とするのである。本件のような裁判には、憶測と疑惑が合法的証拠にとって代わる危険が常にあるのである。本件こそは実に先入的偏見と故意の依怙贔屓をもって、これを取り上げることがないように戒心しなければならないものである。

 若干の証人によって言及された検閲手段は、現在ここでわれわれが考究している問題とはなんら関係がない。

 この証拠は、『この期間において、自由な議会制度は次第に踏み潰され、ファシストもしくはナチスの方式に類する制度が導入された』という主張を立証する目的をもって提出されたものである。

 しかしこの証拠が、われわれをこの方向に導くものとは、本官は思わない。この証拠は、実質的には中国における敵対行為の勃発した後の時期に関連しているのである。このような敵対行為の勃発に際しては、ほとんどすべての文明国は、新法律の制定または既存法規の自動的発動によって政府に広汎な権力を与え、それによって政府が戦争の遂行並びに国民生活の調整の目的に適った法規の適用をなし得るように施策するのである。かような施策はどこでも現代戦争に不可避の随伴条件であると認められており、迅速で弾力性のある行政上の施策の必要は法治主義放棄の政策を伴うのである。戦争の遂行に非常に重要であるところの民間人及び軍人の士気を沮喪させるための近代戦の、科学的武器として敵側がプロパガンダを活用することは、必然的に次の対策を必要とする。すなわち士気沮喪の因となりやすく、かつあるいはかかる意図のもとになされるかもしれないような発言を、処罰及び検閲制度をもって弾圧する対抗手段の必要を生ずるのである。かような戦時においては、この点に関して、だれも彼もが無差別に告発されることも起こり得る。その場合の当然の結果として、官憲が不満及び批判の表明をことごとく罰しているとの感じを起こさせるのである。また人民の根本的自由を不必要に侵害するものと見られるかもしれず、またこのような侵害は、かような手段を適用する理由として挙げられたもの、すなわち団結を破りもしくは士気を低下させようとする組織的あるいは故意の企てを防止するため、という理由とは縁遠いものと思われるかもしれない。しかしこれは近代戦に巻き込まれたほとんどすべての国に起こることであって、何故、日本がこのような手段を採用したことをもって、これらすべてが、将来の侵略戦争のための手段として工夫されていたものであるとの推論にわれわれを導くものとするのか、その理由が本官には見出せないのである。

 日本はこの期間中、書くにせよ、話すにせよ、すべて言論の自由に制限を加えたが、その理由はまた明瞭である。近代戦においては、すべての政府は、敵の役に立つ情報の公開防止、並びに国民の団結を崩すような意図をもった批評及び意見の発表を制限する必要を感ずるのである。近代戦の範囲が非戦闘員及び家庭の面を包含するほどに拡張されるに至った今日、敵側に直接あるいは間接に役立つかもしれない事柄が、日々のあらゆる新聞に含まれていると考えてよかろう。従って出版物の検閲及び弾圧は、非常に広範囲にわたって行なわれ得るし、すべての文書、絵画、写真もしくは映画の出版または公開に関して、防策(←正誤表によると「防策」は誤りで「予防策」が正しい)が合法的にとられ得るのである。これらの制限的規定の実際の適用にあたって、行政者たちはその活用を国家の平和及び安全に対する危険が切迫し、かつ確実である場合だけには、制限せず、かような危険が単に憶測的であって遠く離れている場合にも、その適用を広めたということもあり得るのである。現在ここでは、われわれとして、このような手段の正当不当には関係がない。この制限を目的とした法律は濫用されたかもしれないし、害悪の急迫性が戦時中の被告の言葉によって、いくらかでも増進されたという主張が、しばしば荒唐無稽なものであったということを今日示すことは可能であるかもしれない。これらの事柄は適用された手段の性格を変えるものでなく、最も悪くいったところで、それが時折濫用されたことを示すだけである。本件のこの段階に提出された証拠の詳細に論及する必要はない。本官の述べるべきことは、単にこの証拠は必ずしも日本が侵略戦争を準備していた、あるいは日本政府の各部門の長官連が、侵略戦争を遂行するために共同謀議を行なっていたとの推論に導くものではないということである。

 平時の民主主義国家においては、報道の自由と国際社会に作用する他の類似の勢力に対して加えられる政治的統制は『彼らに自己の影響力を発揮して、相当量の妨害価値を獲得し得るような行動圏を許さないほど強いものではない』けれども、今右に挙げた「妨害価値獲得」の可能性そのもののゆえに、ある特定の国がその生涯の特定の時期に、仮借のない厳格さをもって統制手段をとるようになることは起こり得ることである。しかしそのような手段がとられたからといって、必ずしもその国が国際的な侵略的企図をもっているという推論に導くものではない。

 共産党員に対する抑圧手段に関するいくつかの証拠が提出された。これもまた現在われわれのためには何をも示さないのである。これは各国家の間に共通である恐怖感の結果であった、と言えよう。今日においてさえほとんどあらゆる国は、自国の共産党員が国内暴動をもって政府を倒壊させるのではないかという危惧を抱いている。またすべての国家は、その輿論が影響され、それによってその伝統的生活様式が覆されることを懸念しているようである。責任ある地位に立つ者の多数は、激烈な革命の明白かつ目前に迫った危険はないけれども、士気道徳の悪化の脅威は眼前にあると信じている。このような信念は正当化し得る場合もあれば、し得ない場合もあるが、ほとんどすべての場合はなし得ないのである。しかしながらその国の機構運営の責に当たる人物が、かような信念を有し、それに基づいて行動したとすれば、その事実に対して、本官は、これら為政者がかような危惧の念を抱いておったという事実以上の推断をわれわれがどのようにしてなし得るかということの了解に苦しむものである。

 政権の獲得並びに支配の問題に関連して、『宣伝の統制及び普及』並びに『戦争のための国民動員』の二件を扱って見ようと思う。


 次に起訴状において『政治の組織』と名づけられまた検察側の主張において『政府の統御及び支配獲得』と称せられた問題を取り扱うべきである。起訴状の詳細を挙げた際に次のように述べている。

  1、日本憲法の規定は軍国主義者に対し政府を支配する力を獲得する機会を与えた。

   (a)このような規定の中の第一は、

    (1)参謀総長、軍令部総長及びその他の陸海軍の首脳に随時天皇に帷幄上奏することを可能にした。

    (2)軍国主義者に陸海両大臣の任免を可能にした。

    (3)この権力は1936年5月において、陸海軍両大臣には現役高級将官を任じなければならないという規定の制定によって、さらに強化された。

    (4)これらの権力が彼らをして政府の成立を阻止し、または成立後その崩壊をもたらすことを可能ならしめた。

   (b)その第二の規定は、議会は、予算否決権を有したが、この権利は議会になんら予算の制御力を与えなかったのである。何となればこの場合においては、前年度予算が引き続き効力を有したからである。

   (c)この時期において自由な議会的諸制度は漸次撲滅され、ファシストあるいはナチ型類似の組織が導入された。

 この記述そのものは本官の意見としては、あまり人を納得させるほどのものではない。

 キーナン氏はその冒頭陳述において、この政治の組織あるいは権力の獲得について述べている。これに関しては本官が同氏の冒頭陳述を吟味したところの本論説の第4項を参照し得るのである。ここにおいてこれを再び繰り返すこともまた都合がよいと思う。キーナン氏は次のように述べている。

  『4、(a)中国に対する侵略戦争の遂行は、政府の諸部門及び機関の支配を獲得するにあたり、民間人と協力して行動した軍閥によって幇助され、かつ容易にされたこと。

     (b)陸軍大臣は現役の陸軍大将または中将であるべきこと、及び海軍大臣は現役の海軍大将または中将であるべきことを規定した1936年の勅令に付帯した権力が、政府の支配統轄を手中に収め、日本の武力による拡張政策を促進するにあたり、陸軍によって利用されたこと。

     (c)一般的国務と陸海軍の統帥権に属する事項との間に、明確な一線を画している日本憲法の明らかに規定を利用して、共同謀議者らは共同謀議の全期間を通じて、一般的国務に属する事項を犠牲にして、統帥権の概念中に含まれる事項の範囲を絶えず拡大しようとしたこと。

     (d)(1)軍閥及び超国家主義的秘密結社は暗殺による支配の挙に出で、こうして武力侵略を是とする大きな勢力を揮った。

       (2)暗殺と叛乱の脅威とは、軍部にますます文官政府を支配することを可能にし、1914年10月遂に軍部は文武両部門を含む政府の全部門に対する完全かつ絶対的な支配権を獲得したこと。

       (3)侵略的目的の達成を早めるため、1940年7月軍部は米内内閣の倒壊をもたらしたこと。』

 この問題に対してさらに研究を進める前に、これに関する検察側の主張を明確に理解することがよいと思う。検察側は最後にその主張を次のような明確な段階をもって提示した。

  1、第一段階においては、共同謀議者らは、それが何者であるにせよ、政治首脳部外にあり、かつそれに対してはなんらの勢力がない。

  2、第二の段階においては、共同謀議者らは未だ前述の政治首脳部の外にあったけれども、それに対する勢力は次第に強くなる。

  3、第三の段階においては、共同謀議者らは逐次政治首脳部に加わる。

  4、第四にして最後の段階においては、共同謀議者たちによる政治の完全な獲得が行なわれるに至る。

 検察側の田中内閣に対する態度は、はっきりしていないものがあるようである。それ以前の内閣並びにそれら内閣の中国に対する政策に関しては、なんら異存がないことはまったく明白である。実際は、少なくとも田中内閣以前においては、日本政府は真摯かつ不断に『慎重な世界的平和秩序の精神と相和する真実な平和政策』をとっていたのである。『日本はその歴史のこの段階において数々の実例をもって、平和への意思を極めて印象的に示した。すなわち日英同盟の失効の甘受、ウラジオストク及び青島からの軍隊撤収の決定、1924年の挑発的な米国移民《排斥》法に対する日本の威厳ある自制、また特に銘記すべき際、たとえば1927年の南京不法事件の時日本側はその自衛については米英いずれよりも遥かに非闘争的であって、中国の挑発に対してことさらに報復手段をとらなかったことである。』

 田中内閣は1927年4月20日に成立した。検察側によれば、この内閣は前幣原内閣の『友好政策』とは、根本的に異なる政策を中国に対してとったとのことである。田中政策は「積極政策」と名づけられた。ある場所では、検察側は、その侵略の主張を、この政策採用のときから始まるとしていたようにわれわれに思われたのである。検察側は『1927年4月から1929年7月までの間、日本は田中首相の下に満州に関しては兵力に依存した「積極政策」に従ったのである。この「積極政策」は満州を、その他の中国の地域とは区別して見る必要を非常に強調し、またもし満州及び蒙古に擾乱が拡がり、それによって日本の特殊地位に脅威が及んだ場合は、日本はそれを防衛するという宣言も含んでいたのである。田中内閣は、日本の権益の擁護にその目的を限定していた友好政策と対照して、満州における治安維持の任務を日本みずから担当する旨を明言した。』というのである。しかし他の箇所において、田中の政策は『満州における日本の希望を平和的手段をもって達成する』ものであると評している場合もある。

 この政策の示すところは、田中を首班とする日本政府は、満州に対する中国の主権を尊重し、かつ『門戸開放及び機会均等政策』の維持のために、あらゆる努力をしながら、一面現地の安寧を乱し、日本の重要な権益を危険におとしいれるような事態が、満州に発生しないように監視する充分な決意を有していたことである。田中は、日本政府は満州における治安維持に最も重点をおき、その治安を乱すような事態の発生を防止するためには、万全を尽くす用意があるとたびたび声明した。田中はさらに、もしも満州の治安を脅かすような擾乱が発生した場合には治安維持のために、日本は適当な措置を講ずるのやむなきに至るかもしれないとも声明しているのである。

 政策上のこの明らかな変化を説明しようとして、弁護側は当時の中国の国内状態を示すために証拠を提出した。不幸にしてわれわれはこの証拠を関連性がないという理由で却下した。本官はこの決定に対する見解を法廷が遵奉する証拠手続法を取り扱った本官の判断の部分において、すでに述べた。法廷は、検察側が田中政策に関する証拠を提出することを許可した。この政策が関連性ある事実であるとすれば、本官はこの政策の発展を説明し、従ってその真の性格を示す事実は、どのようなものであっても、等しく関連性をもつものであったと思う。

 田中政策を評価するために、当時中国において起こりつつあった諸事件に関する王立国際問題協会の論評を参照することは、われわれにとって有益であろう。すなわち

 『1925年ないし1926年の間、中国革命の嵐の中心が南部沿海地並びに揚子江流域に漂い、またロシア共産党の勢力が中国国民党内部において優越であったとき、外国による中国主権侵害に対する反対運動の対象は、まず第一に大英国並びに英国民であった。しかし1927年には情勢は急激に変化した。と言うのはロシア共産党の勢力が1月に絶頂に達した後低下を来たし、同年12月には遂に没落を見るに至ったからである。また同時に革命の嵐の中心は、外国権益中英国が最も優位を占めていた揚子江流域から、日本が主な外国権益を有していた東北諸省へ再び前進したのである。(移ったのである。)このような情勢における二重の変化に応じて、中国の外国「帝国主義」に対する反対運動は、新しい方向に移り、その主力が日本人に向けられるようになったのである。一方中国における英国人に対する圧力が幾分か緩和された。

 『1927年国民党安国軍間の開戦中、蒋介石軍が山東省の南部境界線を越えると同時に、青島、済南府鉄道における日本の権益が危険の地位におかれたとき、日本政府も過般英国政府が上海におけるやや類似した事情によって警備隊を現地に派遣したように、同様な措置をとった。1928年の春、山東省が中国内戦の最後的かつ決定的戦場と化すに至って、この措置は再度繰り返されたのである。しかしてその時日本軍と中国国民軍との間に激しい衝突があった。

 『かような衝突の危険は政策に内在しており、たとい前年山東省に送られ、また引き揚げさせられた日本警備隊と、上海駐屯の英国警備隊とが、この危険を無難に通り抜けることができたけれども、山東省は、列強中殊に日本が警備隊を送るには、各別危険な地域であったことを記憶すべきである。1915年から1922年までに、山東省におけるドイツ政府のあとを踏襲するための日本の試みは、中国の対外関係上囂々(ごうごう)たる論議の的となっていた問題である。そしてこの外国の侵略が、孔子の母国である中国(←正誤表によると「この外国の侵略が孔子の母国である中国」は誤りで、「孔子の母国に対するこの外国の侵略が中国に引き起こした感情は中国人」が正しいの国民的自覚を喚起することに、何より重大な役割を演じた。従って山東省における日本の政策が中日関係の「厳密な鑑定」となった。1922年2月4日のワシントンにおける山東省二ヶ国条約、及び同年の12月17日における日本軍の山東省よりの最後の撤兵後、中日「和解(←「和解」に小さい丸で傍点あり)」が行なわれた。1922年の解決の結果、中国人の念頭から忘却されつつあったその悲惨な憶い出は、1927年及び1928年の青島、済南府における日本軍の再出現によって、またもや熾烈に再燃し、ひいては1915年ないし22年の日本の政策の結果生じた「敵愾心(←「敵愾心」に小さい丸で傍点あり)」をも再現するに至った。』・・・・

 『青島は1898年、中国が列強(←正誤表によると「列強」は誤りで「外国」が正しい)に租借を許さないわけにいかなかった領土内における「条約港」であって、この領土は1914年ないし18年の世界大戦並びに1921年ないし22年のワシントン会議の、中国が予期し得なかったある結果として、中国の統治下に復帰したばかりのものであった。』済南府は1904年に対外貿易のために、清国政府の一方的命令によって開放された。内国都市であって、済南府所在地並びに鉄道分岐点である。済南府で合した二つの鉄道線は、青島・済南府線並びに天津・浦口線であった。青島・済南府線は日本の所有であった。『1922年2月4日署名された日華条約に従い、中国側が鉄道の買収完了まで、日本側運輸課長並びに日本側共同計理官の解任を保留することだけを条件として、1923年1月1日日本は青島・済南府鉄道を中国に正式に移管したのである。1906年鉄道分岐点の付近及び済南府城壁外に中国政府がみずから進んで通商中心地を設置した。かようにしてすでに1904年済南府によって入市を許されていた外国居留民並びに外国商社は、この新地区に蝟集させられるに至ったのである。』・・・・

 『1927年の初頭、東京における外務大臣の地位は幣原男が占めていた。同男爵は1921年ないし22年のワシントン会議において日本を代表し、1924年6月に就任以来、孜々として穏健かつ協調的な政策を遂行した。外国特殊権益に対する闘争的運動、すなわち当時揚子江における英国人を主たる対象としたかような運動が、さらに北上して日本に向けられた場合、《たまたまそういうことになったが》中国に予防的措置をとらせるように、内地においては幣原男に1927年1月以降圧力が加えられたのである。』・・・・

 『1927年4月16日、幣原男爵が閣僚の一員であった政府が辞職し、同19日新政府がこれを引き継いだ。この新政府内で、男爵田中大将は首相兼外相であった。1927年5月28日、田中男爵政府は、国民党軍の進出によってつくり出された事態と、山東における日本権益に対する付帯的の脅威に鑑み、政府は二個大隊を、必要な補助部隊とともに同省における日本人権益保護のため、青島へ派遣することに決定したと発表した。政府はさらに付言して、この行動を不可欠の防衛手段と認めたのではあるが、長期間にわたって中国の領土に軍隊を止める意図はなく、日本人居留民に対する危険の恐れのなくなり次第、右の部隊を撤退させるつもりであると言った。右の部隊は5月31日青島に上陸し、7月8日鉄道線路に沿って進軍し、済南府を含む同鉄道沿線の諸地点を占領した。その間海兵隊500名は局地防衛のため青島に上陸し、さらに200名からなる部隊は砲兵とともに7月12日大連から同地に到着した。』・・・・

 ただし日華両軍の間にはなんらの衝突もなかった。1927年7月末以前、中国軍隊は浦口に向かって南方へ退却を開始した。

 『8月29日、田中男爵は日本の全部隊を近い将来山東から撤退させることに決定した旨を声明し、かつ撤兵は9月18日までにまさしく完了した。』

 『1927年5月末の最初の青島上陸、並びに7月中の済南府への進軍は、中国における民衆の反対を買った。そして7月中には日貨排斥が、南京国民党政府の試験的援助のもとに、揚子江下流地方並びに広東において局部的に実施された。然るに山東省においては、日本警備隊は上陸から撤退に至るまで中国軍隊または中国民衆のいずれともなんら激しい衝突を見ることなく行動した。かようにして最初の試験においては田中男爵の政策はその結果から見て正当化されたと思われ得るようであった。従って8月29日の田中男爵声明中に次のような暗示があった。すなわち、

 『将来、山東だけでなく多数日本人の居住する地の中国諸地方においても、平和及び治安が乱され、かつ日本人の安全が影響を受けるおそれのある場合には、日本政府は余儀なく事態の要求する自衛措置をとらなくてはならないであろう。わが政府は、重大な擾乱にもかかわらず、わが居留民を満足に保護し得、かつさらに不慮の事件の発生を防止し得たのは、実に機を逸せず軍隊を派遣したことによるものであると固く確信するものである。』

 ここにおいて田中政策の発展に対する説明が窺われるのである。

 この発展の説明をとって見ても、採用された政策が正当でなかったと言うことは困難であろう。いずれにしても、その発展は検察側の主張するような種類の共同謀議に俟たなくても充分にそして満足に説明し得るであろう

 それはさておき、検察側はその最終論告において、田中内閣が、訴追されている共同謀議となんらか関係があったとか、同情的であったとはとがめていない。事実、田中内閣の倒壊は『政府の政策決定に介入しようとする軍の最初の公然たる行動』の結果であると言われている。それまでは政府及び政府の政策は共同謀議者の目的には不利であった。ただし『軍はすでに充分強力に勢力を張っていたので、政府を無視することができたのである。』軍はあるいは政府を無視することはできたが、未だ政府を左右する地位は占めていなかった。

 従って検察側の申立によれば、1929年7月2日、田中内閣倒壊まで、訴追された共同謀議は、政府外にあり、また軍の内にあったこととなる。証拠はそれを『関東軍内の「一部青年将校」』に制限している。

 検察側の主張は、張作霖の殺害が、軍を政府政策の決定に介入させようとする共同謀議者らの最初の公然たる行動であったというのである。この『政策決定に介入』ということは多少了解しにくいところがある。しかし一点判然としていることは、この『介入』ということが、これら共同謀議者みずからによる政権獲得を意味していなかったことである。少なくとも何ぴともこのような試みをしたという証拠は全然ない。本官は張作霖の殺害事件に検討を加えた際、すでにこのことを論じておいた。

 田中内閣は1929年9月7日倒れ、続いて濱口内閣が幣原男爵を外務大臣とし、井上を大蔵大臣として登場した。友好政策はこの内閣によって再び採り上げられ、そしてこの政策は後継若槻内閣によって少なくとも1931年9月まで持続された。以上は検察側の主張である。しかしてそのときまで、あるいは陸軍は『政府を無視する』地位にあったかもしれないが、軍はなんらこの政策を左右できなかったのである。幣原及び井上はおのおの外務大臣及び大蔵大臣として引き続きこの内閣に加わっており、また被告南はその陸軍大臣であった。本官は、南大将が、訴追されている共同謀議に参加し、または同情的であったという検察側の主張になぜ承服できないかという理由をすでに述べておいた。

 幣原及び井上のような人物の政治手腕は、『およそ人間としてできる聡明な処理』の模範と考えられていた。日本の歴史上この段階において、日本は真実の平和政策を遂行していただけでなく、また隣接諸国家によっても、これを遂行しているものと認められていた。

 この点に関する共同謀議の第二段階は、1931年12月13日、犬養内閣が荒木を陸相として組閣されたときに到達されたと主張されている。検察側の主張によれば、『荒木が職を引き継ぐとすぐ、政府の態度及び共同謀議促進上の政府と関東軍との間の協力に明らかな変化が生じたのであります。政府をして、政府が前政府の事変不拡大方針を実行しつつあると殊勝にも断言せしめる一方、共同謀議を実行するにあたり、関東軍の必要とする援助を与えることを可能ならしめた一つの計略を考え出したのであります。』というのである。

 しかし以上は単に検察側の主張にすぎない。この『共同謀議を促進するにあたり政府と関東軍との間の協力』ということを支持する証拠はなんら提出されなかった。

 この内閣の他の閣僚に対して不利な暗示はされておらず、また彼らに対して不利な証拠は全然ない。もし政府の政策が当時真に変化しつつあったのであるならば、このような変化は、荒木がその内閣に加わったため生じたものであると言うのはまことに途方もないことである。本官がリットン報告そのものからすでに引用指摘したように、幣原の協調政策放棄の道を拓くため、幾多の要素が作用していたのである。リットン報告によれば、すなわち、

 『既に相当期間ある種の内部的、経済的及び政治的要因が、日本国民をして、満州において再び「積極政策」に出でしむる素地を作りつつありしことは疑いなき所なり、陸軍の不満、政府の財政政策、総ての政党に対して不満の意を表明し、西洋文明の折衷的方式を蔑視して古代日本の道徳に依存し、又資本家及び政治家の利己的方式をも非とする陸軍及び農村村落並びに国家主義青年の間より醸成せられたる新政治勢力の出現、物価下落が第一次生産者をして、その境遇を緩和せんがために、冒険的対外政策に望みを嘱するの傾きあらしむるに至れること、通商の不振が工業及び商業界をして一層強硬なる対外政策により取引の改善を招来すべしと信ぜしむるに至れること等の諸要因は、何れもその実績甚だ貧弱なりしやの観ありたる対中国幣原「協調政策」の放棄への道を拓きつつありたり。』(←カギ括弧内、原資料では漢字片仮名交じり文)

 以上のこと並びにおそらくその他幾多の要素が、ワシントン会議以来10年間、日本政府が採用していた進路から、日本の外交政策の方向を変更させる原因となったのである。『幣原及び井上のような人物の政治的手腕中に示されているような、およそ人間としてできる聡明な処理は全世界にわたって大規模に作用していた集団的社会勢力の働きによって水泡に帰した。この勢力はきわめて大規模に作用したため、盲目的な超個人的な運動となる結果をもたらし、これに対しては一国の政治家の最善の努力もなんら役に立たないように見えた。』『多年にわたる世界不況の過程における経済的圧迫の仮借なき強化に悩まされて』日本人は遂に彼らの一貫した工業的並びに商業的発展を行なおうとするにあたって、従来採用してきた政策に幻滅を感じた。彼らが従来行なってきた政策は、日本の力の及びがたい人間的な力だけでなく、さらに同じように『人間の力も及び難い非人間的な力によって、破滅の運命にある、と見られ』たのであって、よかれあしかれ日本人は、この政策を持続することによって『経済分野で彼らの国家的生活手段を得ようとする試みを続けることに絶望した。』おそらくこの時期に至って、彼らは、英米の世界経済秩序がすでに存立する以上、『日本がますます増加する国際通商の取引高総額中において、より多くの部分を占めることにより、日本の甚だしく増加する人口』に備えようとする希望実現の余地は残されていないと感ずるようになったのであろう。この点における日本人の幻滅が、おそらく日本人をして、彼らの『浅はかな無思慮』を示すにすぎなかった進路へ押し進ませたものであろう。しかしながらそれはなんら共同謀議を遂行しようとする試みを示すものでなかったことは確実である。

 前述の抜粋中に言及してある『計略』とは、1931年12月10日の国際連盟理事会の決議を受諾するにあたっての日本の留保を検察側が描写したものである。その決議を受諾するにあたって、ジュネーヴにあった日本代表は、その受諾は『本項(第二)ハ、満州各地ニオイテ跳梁シ居レル匪賊及ビ不逞ノ徒ノ活動ニ対シテ、日本臣民ノ生命及ビ財産ヲ直接保護スルニ必要ナルベキ行動ヲ日本軍ガ執ルコトヲ妨グル意図ニ出デタルニ非ラズトノ了解ニ基ヅク』と言明した。この脅威が現実のものであったことは、本官のなしたリットン報告書の分析の第17項を見れば判明することは確かである。リットン報告には『日本側ガ「ジュネーヴ」ニオイテ留保ヲナシタル上、引キ続キソノ計画ニヨリ満州ノ事態ヲ処理シタリ。』と所見を述べている。これは関東軍または同軍の一部将校の計画に従ったものであったかもしれない。しかしこれまでのところ、政府がその計画に加担していたという証拠はない。この留保は確かに真実の脅威に鑑みてなされたのである。

 若槻及び、犬養内閣の陸軍大臣であった南及び荒木は、ともにまた共同謀議者中に含まれてはいるが、共同謀議の真の第三段階は1936年3月9日組閣した広田内閣をもって開始されたと主張されている。

 広田は、1933年9月14日、斎藤内閣の外務大臣として入閣した。この内閣は、1932年、五月事件の結果として、犬養内閣が倒壊した後1932年5月26日組閣された。広田に対する最も不利な証拠は、同人の対中国政策の記録である。これは本件における法廷証第216号及び第935号である。本官はこれからこの政策を検討し、どの程度までそれが、共同謀議並びにそれに対する広田の参加に関する検察側の主張と一致するかを考察してみよう。

 共同謀議の第四段階は1941年10月18日東条内閣をもって開始されたと言われている。

 政権獲得に対する最初の確然とした試みは、1931年の三月事件に遡っている。それから1931年の十月事件、1932年の五月事件、並びに1936年の二月事件にわれわれの注意が喚起された。

 さらに進んで、以上の事柄を検討するに先だって、本官は目下考慮中の問題の正しい扱い方を明らかにしておきたいと思う。われわれは前記の事件の邪悪な特性だけによって左右されないように注意しなければならない。われわれは左記の明白な問題を念頭におき、そしてそのいずれが証拠によって立証されたと言えるかを識別しなければならない。

  1、この事件は政府倒壊のために計画されたものであるか、それともその倒壊は単にこの事件の結果として生じたものであるか否か。

  2、この事件は

   (a)単に特定の政府、政党または個々の大臣を排除しようとしたものか、それとも

   (b)特定の政府、政党または個々の大臣を排除し、そして他の特定の政府または個々の大臣を樹てようとして、

    計画されたものであるか否かである。

  3、その排除は共同謀議的目的促進のためか、または他の理由のために計画されたか。

  4、この事件または計画と共同謀議の一派との間にはどういう関係があるか。

 共同謀議者によって段々に政権が獲得されたという主張をいくらか説明するために次の証人が訊問された。

  1、幣原喜重郎《宣誓口供書法廷証第156号に基づいて訊問された。速記録第1、318頁》

  2、清水行之助《宣誓口供書法廷証第157号に基づいて訊問された。速記録第1399頁》

  3、徳川義親《宣誓口供書法廷証第158号に基づいて訊問された。速記録第1440頁》

  4、犬養健《宣誓口供書法廷証第161号に基づいて訊問された。速記録第1478頁》

  5、宇垣一成《宣誓口供書法廷証第163号に基づいて訊問された。速記録第1604頁》

  6、若槻礼次郎《宣誓口供書法廷証第162号に基づいて訊問された。速記録第1553頁》

  7、後藤文夫《宣誓口供書法廷証第166号に基づいて訊問された。速記録第1638頁》

  8、藤田勇《宣誓口供書法廷証第160号に基づいて訊問された。速記録第1462頁》

  9、ティ・エフ・ドノヒュー《速記録第1211頁》

 以上のうち、藤田及びドノヒューは、この点についてはなんらの証言もしなかった。本官は左にその他の証人の証言の概略を述べる。

幣原喜重郎。宣誓口供書、法廷証第156号。

 幣原男爵は国務大臣である。彼は現在無任所大臣である。それ以前は総理大臣であった。1932年には彼は外務大臣であった。彼は1925年以降外務大臣であった。

 彼の証言は次の通りである。すなわち

 濱口首相は陸海軍の予算削減を承認しそしてこれを勧告した。彼はロンドン海軍条約批准を押し通し、その結果軍部の強力な反対を醸成した。濱口は佐郷屋(さごや)という愚かな青年に射たれた。この暗殺の動機は海軍軍縮、軍閥または政府内の人々に対する不満であることがわかった。

 濱口内閣は1929年に組閣された。1930年、若槻内閣がこれに代わった。

 この内閣の外交政策は、国際問題に関する限り、明確に協調的でかつ協力的であった。この政策は幣原外交の友好政策と呼ばれるに至った。1931年9月満州事変勃発の結果、この外交政策に非常な重荷が課せられた。

 幣原証人いわく、『満州事変直前、外相として、関東軍が軍隊の集結を行ない、ある軍事目的のために弾薬物資を持ち出している旨の機密報告――風説――及び情報を受け、またある種の行動が軍閥によって目論まれているということも、そのような報告からわかりました。』反対訊問にあたり、証人は、以上は単なる風説に基づくものであると言った。証人は公式または非公式を問わず、報告は受け取らなかった。幣原は本件について若槻首相及び当時の陸相南大将と打ち合わせをいた。南大将は本件については充分幣原と協力した。

 証人は、その宣誓口供書提出に先だって、この軍閥関東軍ではないことを明らかにした。陸軍大臣南大将はもちろんその閥の中には入っていなかった。反対訊問にあたって、同証人は、陸軍のある青年将校たちがこの閥をつくっていたと言っているが、その名前を挙げることはできなかった。

 証人は、満州事変勃発後、同内閣及び外務大臣としての彼は、あらゆる手段を尽くして軍を抑え、さらに領土的拡張の行なわれることを防止しようと努力したが、それができなかったと言った。超国家主義者らや軍国主義者らは、満州において『積極政策』に出ることをやかましく叫んでいた。

 この内閣は軍を抑え軍の勢力拡大を制止することができなかった結果、遂にやむなく辞職しなければならなかった。反対訊問にあたって、幣原証人は、なにが実際に発生したかについて説明した。不況を乗り切る手段を採るために、連立内閣が好ましいと考えられた。この内閣の倒壊は内部的意見の衝突に基づくものである。

 同内閣倒壊の諸原因は次の通りである。

  1、井上大蔵大臣の採用した財政政策。

  2、日本において金本位維持に関する困難。

  3、政府職員の俸給削減措置を含むある種のデフレーション政策の採用。

 満州事変は以上の事態をさらに悪化させた。

 同内閣が倒れたのは、南大将の採ったどのような行動によるものではない。

 濱口内閣では宇垣大将が陸軍大臣であった。同大将は軍備縮少について政府と充分協力した。

 南大将は若槻内閣の陸軍大臣となった。同一政党が濱口、若槻両内閣を支配した。

 陸軍は内閣の管轄下になかったので内閣はその行動を直接支配することはできなかった。内閣は陸軍関係の事項に対してはなんらの直接の発言権をも有していなかった。また内閣は直接陸軍に干渉することはできなかったが、陸軍大臣を通じて陸軍が行なおうと欲する行動に対して政府がどう考えるかということを伝達することはできた。従ってこの方法によって、ある程度まで、政府は陸軍の方針を制御する発言権があった。憲法によれば、政府は陸軍に対して直接干渉するなんらの権限も力も有していなかった。日本政府の枢密院の陸軍に対する制御力は政府よりもさらに少ないものであった。

 満州事変は自衛のためであるというのは、内閣の全員一致の決定であった。

 9月26日、内閣は、日本はなんら領土的野心を有していないという決議を採択し、その翌日、これは出淵大使を通じて合衆国へ内報された。前記のことはすべて誠実で偽りのないものであった。その間終始政府はなんら領土的拡張の意図もまたは考えも抱懐していなかった。

 中国における排日運動は頻繁に行なわれた。

 張学良元帥の政権は、日本居留民の反対にもかかわらず、満州における日本の工業及び経済的企業を弾圧し搾取した。幣原証人は、数百名の朝鮮人が虐殺された万宝山事件並びに中村震太郎大尉殺害を含む幾多の事件に言及した。

清水行之助。宣誓口供書、法廷証第157号。

 この証人は、1919年上海において知り合いとなった北某による紹介で、大川周明博士の提携者であったと称している。

 証人は1931年3月、大川博士が計画した陰謀について語り、陸軍参謀本部の橋下欣五郎大佐をその陰謀に引き込んでいる。

 この陰謀は『日本政府を革新する目的で革命を計画すること』であった。この陰謀における証人の役割は、『大川一味が示威運動中議事堂の外へ爆弾を投げつけること』に打ち合わせができていた。そしてそこで大川博士が群集の先頭に立って議会内に入り、政府を乗っ取ることに打ち合わせ済みであった。橋本大佐は陸軍からこの目的のための爆弾を入手することになっていた。300個の爆弾が証人に届けられた。ただし証人はだれがこの爆弾を届けたかということは述べなかった。この計画は失敗に帰し、この事件は全然起こらなかった。証人はこれに関連して、当時の陸相宇垣大将、当時の軍務局長小磯少将及びその副官根本中佐を引き込んでいる。

 この証人の証言中、最も奇異に感ぜられる部分は次の陳述である。すなわち、

 『前記の三月事件計画の失敗後も、折々前述の大川博士と金龍亭で会っていました。8月のある折でありましたが、大川博士は酩酊しておって、私に申しますのに、やがて博士と河本大作という大佐、憲兵隊の甘粕という大佐や、関東軍参謀次長板垣大佐などが一緒になって奉天にある事件を惹起せしめるだろうと申しました。』

 『9月に満州事変の発生後、私は逮捕されて獄中に3ヶ月を過ごしました。1932年12月に獄を出てから、数回にわたり前述の大川博士と会見しました。この期間彼は神武会の組織に多忙でした。神武会は極端な国家主義の右翼団体でありまして、その目的は究極すると、亜細亜から白人を放逐し、日本指導のもとに亜細亜人の解放をし、もって日本政府の革新を招来するというのであります。1932年3月のある日の会合で前記大川博士が申しますところによれば、博士は橘幸三郎という人と一緒にやる陰謀に関係している。橘は、当時の日本政府の弱腰に不満をもっている海軍の青年士官連や農民党の指導者だということでした。私は前述大川博士にかような挙は輿論に反するし、成功もすまい。また今後彼とともにかような計画には参加できない旨を申しました。』

 この訴追された陰謀と今回の戦争の関係はなんら立証されていない。この証人はこのような関係の存在したことは否定した。爆弾は擬砲弾にすぎなかった。

 反対訊問中、証人は奉天事変後の同人の逮捕、並びに投獄は奉天事変とはなんら関係がないと言った。もし関係がないとすれば、一体なぜこのような誤解を生ずるような陳述がこの宣誓口供書に挿入されたか了解に苦しむ。

 三月事件の意義はまったく国内的のものであると証人は、述べた。

徳川義親。宣誓口供書、法廷証第158号。

 証人は、1931年3月の陰謀未遂に関する前記証人の話を補足するために出廷した。証人は、清水が小磯少将に対するその爆弾の返還を遅延させたため、この事件に入ってくるのである。しかし清水は、同人が遅延させたこと、それによって小磯少将に与えた困難については、ただの一言も質問されなかった。

 証人はまた、小磯少将からこの計画の放棄を大川博士に彼が説得するように依頼された。しかしわれわれはこの証人が大川博士に対してどんな力を有していたか、どんな経緯で証人は大川と関係を生じたか、またどうして小磯少将がこれを知っていたかということは聞かなかった。彼は、小磯少将にはそれ以前に知られていなかった。また証人はこの陰謀について知らなかったのである。

犬養健。宣誓口供書、法廷証第161号。

 本証人は現在国会議員の一員である。同人は犬養総理の息子で、1931年及び1932年には同総理の秘書官であった。1932年5月15日、本証人の父は官邸において、ある海軍士官たちのため射撃された。

 本証人の知識は、父の秘書として、閣議で取り交わされた討論の記録を読んで得たものである。本証人はまた内閣の当面した問題すべてについて、同人の父である総理と話し合ったと称している。本証人はまた同人の父の書類及び記録を保存しそして父の通信文を取り扱った。

 本証人は同人の父が総理大臣として在任中、満州事変の拡大することに反対し、かつ日本軍が満州から撤退することに賛成していたと述べた。満州事変勃発の数ヶ月後、証人の父は天皇に対して、軍隊の撤退を進言しようと決意した。同総理は天皇に拝謁を仰せつかったが、その目的を達しなかった。証人の父の他の政策は傀儡国家である満州国の承認に反対することであった。なぜならば、かような承認は中国の主権の侵害であると思考したからである。

 満州問題解決の努力の一つとして、証人の父は密使を南京に派して、蒋介石将軍と交渉をせしめた。この努力は、軍部がその使者と総理との間に使用された暗号電報を傍受したので失敗に終わった。

 荒木大将はその内閣の陸軍大臣であった。彼もまた最善を尽くしてこの不幸な事件の進展を防止しようとした。しかし満州において事件を拡大しようとする原動力であった陸軍の青年将校たちを制することは、彼の力の及ばないところであった。

宇垣一成。宣誓口供書、法廷証第163号。

 本証人は濱口内閣の陸軍大臣であった。

 本証人は、1931年の1月あるいは2月、大川博士が議事堂付近においてある種の示威行動を計画していたこと、並びにもしその陰謀が成功した場合に樹立されるはずになっていた政府の首班には彼がなるように予定されていたことを知ったことについて述べている。本証人はその陰謀の中止を命令した。証人は1931年4月13日、濱口内閣とともに辞職し、自発的に陸軍より退いた。

 1937年広田内閣桂冠(←英文では「fall」であり「fall」は他の箇所では「倒壊」と訳されている。「桂冠」とは「最高の栄誉」という意味である。この時代、この言葉は、内閣が終わることを指して使われたようである。総辞職の婉曲表現と言ってもよいだろう。「柱冠」のように見えるが、「柱冠」という言葉はないので、「桂冠」だろう後、彼は組閣の大命を受けたが、軍の反対のため失敗した。

 法廷証第163号の2、すなわち大川博士が本証人に送った手紙は、大川の陰謀に関する本証人の陳述を裏書きするものとして、本証人によって確証された。

 本証人もまた、この陰謀は日本の国外におけるいかなる事件とも関係がなかったと主張している。

 反対訊問中において、本証人は、1937年の軍の反対とはなんの意味であるかを説明した。本証人は政治に干与(=関与)した現役陸軍軍人だけに原及(←「言及」が正しいだろう)した。

若槻礼次郎。《法廷証第162号、速記録第1、553頁》

 本証人は1931年4月から12月まで日本の総理大臣であった。この内閣の政策は、濱口内閣のつくった予算を実行することであった。この予算の及ぼす結果は軍に割り当てられた費用を削減することであった。1931年9月18日奉天事変が起きたとき、内閣が初めてそれを知ったのは19日であった。

 本証人はこの事態を抑制しようとして、考え及ぶ限りのあらゆることを試みたが成功しなかったと述べた。彼の最後の処置は、政友会との連立内閣をつくろうと試みたことで、この両党の結合した力によって、満州における陸軍を抑制し得ることに望みをかけた。しかし多くの閣僚がこのような連立を喜ばなかったので、この方法も失敗に帰した。当時の情勢は次の通りであった。すなわちこの問題に関しては内閣の方針は全然変わらなかった。彼らは一致して陸軍によるどんな膨張にも反対し続け、また日々満州における侵略的行動を停止するように不断の努力を払っていた。南は満州の陸軍を抑制し得ず、内閣の一致した方針を実施しなかった。ゆえに本証人は総理大臣を辞任した。

 本証人はその反対訊問中において、10月中旬、南が憲兵隊に青年将校連の逮捕を命令したことを聞いたと陳述した。これは証人が閣議ではなく、10月17日、宮中における儀式の際聞いたことであった。本証人はこの事項は的確には記憶していなかったが、青年将校逮捕の理由は、彼らが本証人を暗殺しようと試み、憲兵隊がこれを防止したというのであった。本証人は何故これらの青年将校が彼に危害を加えようと企図したかについては聞いていなかったと述べた。

 本証人はまた次のように述べた。すなわち内閣の政策にもかかわらず、満州事変は拡大、拡張した。これは悲しい事実ではあったが、それが事実であり、かつできるだけ速やかに満州事変を終結に導くことが彼の希望であったので、彼はあらゆる努力をした。種々の手段が尽くされた。――その一つは連立内閣であって、本証人はそれによって陸軍の行動を抑制し得ることを期待した。しかしそれは実現せず、そして内閣は辞職した。

 連立内閣という考えが、本証人の唯一の希望であった。しかし本証人はもしかような内閣が実現したならば、望んでいた考えを完うすることができたかどうかということは言い得なかった。本証人は種々の手段を尽くしたが、実を結ばなかった。その結果、彼はもし連立内閣が組織されたならば、国民は全体として満州事変の拡大に反対していることを示すこととなり、従って陸軍は自然に抑制されるという結論に達した。これが本証人の考えではあったが、これが正しいか、あるいは誤っているか、それは知らなかった。

 最後に、当時構成されていた政府――すなわち民政党のみによるもの――はあまりに弱体であった。それで満州事変を中止せねばならないというのが国民の希望であることを示すためには、政友会を加えることが必要であった。これによって陸軍をして自省させようとする結論に達したので、本証人は、政局に非常に通じていた安達内務大臣に、政友会が喜んで民政党に参加するかどうかを確かめ、もし参加するとすれば、どのようにしてこれを成就すべきかということを尋ねた。もしかような内閣が組閣されるものとすれば、閣員の若干を変える必要があった。そこで安達に対して、政友会の意向取調べ方を依頼すると同時に、本証人は閣僚のニ、三と連絡して、彼らに彼の考えを話した。

 その話を聞いた閣僚たちは、かような連立内閣は慎重考慮の結果初めて組織しなければならない。なぜならば内閣構成員が変更されると、外交並びに財政政策が必然的に変更されなければならず、そしてこれは日本のためにならないからであると答えた。

 この反対意見のため、本証人はこの問題に対して、彼自身の判断を下さなければならなかった。本証人は利益と不利益とを検討し、遂にその連立内閣は日本のためにならないという結論に達し、そこにおいて安達に対して、その交渉の中止を求めた。それにもかかわらず安達は交渉を継続し、その結果内閣は一致していないという意味の風説が飛ばされた。本証人は安達に対して交渉中止を求めた。しかし、それでも安達はなお引き続き交渉を行なった。このため種々の世評が起こったので、本証人は、全閣僚が一緒になって内務大臣に対し、その交渉継続に反対である旨を伝え、内相に閣議出席を求めることに決定した。内相は閣議出席を拒否した。彼はそこで辞任を求められた。内相の答えは、内閣が全体として辞職するのでなければ、自分は辞職しないというのであった。事ここに至り、内閣は完全な不統一を示し、政府は継続することが不可能となった。そこで全内閣の辞表を奉呈した。本証人は南陸相の辞任を求めたことはないと述べた。

 本内閣倒壊の直接の原因は安達内相の行動であった。

 南は常に閣議に出席し、そして閣議の方針にはかつて反対したことがなかったから、本証人は、南は内閣の政策に反対するようなことは何事もしなかったと思っていると言った。

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