歴史の部屋

《起訴状目次》 (原資料118枚目)


《主要項目主題》     (判決付属書A英文頁)

起訴状《序言》          29

第1類 平和に対する罪・・・・・32

訴因  第 1 (全被告)   33

〃    〃2   〃      33

〃    〃3   〃      34

〃    〃4   〃      35

〃    〃5   〃      36

〃    〃6   〃      37

〃    〃7   〃      37

〃    〃8   〃      38

〃    〃9   〃      38

〃    〃10  〃      39

〃    〃11  〃      39

〃    〃12  〃      39

〃    〃13  〃      40

〃    〃14  〃      40

〃    〃15  〃      40

〃    〃16  〃      41

〃    〃17  〃      41

〃    〃18 (一部被告) 42

〃    〃19  〃      42

〃    〃20  〃      42

〃    〃21  〃      43

〃    〃22  〃      43

〃    〃23  〃      43

訴因   〃24 (一部被告) 44

〃    〃25  〃      44

〃    〃26  〃      45

〃    〃27 (全被告)   45

〃    〃28  〃      45

〃    〃29  〃      46

〃    〃30  〃      46

〃    〃31  〃      46

〃    〃32  〃      47

〃    〃33 (一部被告) 47

〃    〃34  〃      47

〃    〃35  〃      47

〃    〃36  〃      48

第2類 殺人・・・・・・・・・・・・・・48

訴因   第37 (一部被告) 48

〃    〃38  〃      50

〃    〃39  〃      51

〃    〃40  〃      51

〃    〃41  〃      52

〃    〃42  〃      52

〃    〃43  〃      53

〃    〃44 (全被告)   53

〃    〃45 (一部被告) 54

〃    〃46  〃      54

〃    〃47  〃      54

〃    〃48  〃      55

〃    〃49  〃      55

〃    〃50  〃      56

訴因   〃51 (一部被告) 56

〃    〃52  〃      56

第3類 通例の戦争犯罪

及び人道に対する罪・・・・・・・57

訴因   〃53 (一部被告) 57  

〃    〃54  〃      59

〃    〃55  〃      59


《関係検察官氏名》       60

付属書A・・・・・・・・・・・・・・・・・・62

第1節 満州における軍事的侵略・・62

〃2〃 中華民国の他の部分における軍事的侵略・・64

〃4〃 中華民国及び他の占領地における腐敗化及び強制の方法・・66

〃5〃 戦争に対する一般的準備・・68

〃6〃 日本の政治及び世論の戦争への編成替・・70
〃7〃 日本、「ドイツ」及び「イタリア」間の協力、仏印及び「タイ」国に対する侵略・・71

〃8〃 「ソビエット」連邦に対する侵略・・76
〃9〃 日本、「アメリカ」合衆国、「フィリッピン」国及び全「イギリス」連邦・・79

第10節 日本、「オランダ」王国、「ポルトガル」共和国・・83

付属書B・・・・・・・・・・・・・・・・・・85

国際紛争 平和的処理条約(1899年)・・85

同右(1907年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・85

敵対行為の開始に関する第三「ヘーグ」条約・・・86

「アメリカ」合衆及び日本国間において極東における双方の政策を表明せる公文の交換により成立せる合意・・・・・・86

阿片及びその他の麻薬濫用防止に関する条約及び最終議定書・・87

「ヴェルサイユ」条約・・・・・・・・・・87

「ヴェルサイユ」条約に基づく国際連盟よりの委任統治条項・・・92

英仏日米間の太平洋方面におけるその島嶼たる属地及び島嶼たる領地に関する条約・・・93

太平洋条約諸国より「オランダ」国政府に発したる同文通牒(1922年2月4日)・・93

同右「ポルトガル」政府に対する通牒(1922年2月6日)・・・94

中国に関する九国条約・・・・・・・・・・・94

ワシントン条約・・・・・・・・・・・・・・・97

パリー《不戦》条約・・・・・・・・・・・・98

パリー《不戦》条約第1条に関する日本帝国政府宣言・・・・98

麻薬に関する条約《1931年於「ジュネーヴ」》・・・99

友好関係及び相互の領土尊重に関する日「タイ」条約・・・99

陸戦の場合における中立国及び中立国人の権利義務に関する条約・・・99

ポーツマス条約・・・・・・・・・100

日本、「ソビエット」連邦間の基本条約・・・101

日本、「ソビエット」連邦間の中立条約・・・102

付属書C 日本の違反せる公式誓約一覧表・・・103

付属書D ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105

戦争の法規及び慣例・・・・・・・・・・・・・・105

違反行為の細目・・・・・・・・・・・・・・・・・・110

付属書E(個人責任に関する記述)・・・118

荒木、土肥原・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・119

橋本・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・120

畑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・121

平沼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・121

広田、星野、板垣・・・・・・・・・・・・・・・・・・122

賀屋、木戸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・123

木村、小磯、松井・・・・・・・・・・・・・・・・・・124

松岡、南・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・125

武藤、永野、岡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・126

大川、大島、佐藤・・・・・・・・・・・・・・・・・・127

重光、島田・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・128

白鳥、鈴木、東郷・・・・・・・・・・・・・・・・・・129

東条、梅津・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・130

極東国際軍事裁判所判決


付属書A−6


起訴状 (原資料123枚目)


「アメリカ」合衆国、中華民国、「グレート・ブリテン」・北「アイルランド」連合王国、「ソビエット」社会主義共和国連邦、「オーストラリア」連邦、「カナダ」、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「ニュージーランド」、「インド」及び「フィリッピン」国


      対


被告―荒木貞夫、土肥原賢二、橋下欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、板垣征四郎、賀屋興宣、木戸幸一、木村兵太郎、小磯国昭、松井石根、松岡洋右、南次郎、武藤章、永野修身、岡敬純、大川周明、大島浩、佐藤賢了、重光葵、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、東郷茂徳、東条英機、梅津美治郎


起訴状


以下本起訴状の言及せる期間において日本の対内対外政策は犯罪的軍閥により支配せられかつ指導せられたりかかる政策は重大なる世界的紛議及び侵略戦争の原因たるとともに平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益の大なる毀損の原因をなせり

日本国民の精神は「アジア」否全世界の他の諸民族に対する日本の民族的優越性を主張する有害なる思想により組織的に毒せられたり日本に存したる議会制度は広範なる侵略の道具として使用せられかつ当時「ドイツ」において「ヒットラー」及び「ナチ」党により「イタリア」において「ファシスト」党により確立せられたると同様の組織が導入せられたり日本の経済的及び財政的資源は大部分戦争目的に動員せられ、ために日本国民の福祉は阻害せらるるに至れり


被告間における共同謀議は他の侵略国すなわち「ナチ・ドイツ」並びに「ファシスト・イタリア」の統治者の参加を得て約定せられたり本共同謀議の主たる目的は侵略国家により世界の他の部分の支配と搾取との獲得及び本目的のため本裁判所条例中に定義せられたるがごとき平和に対する罪、戦争犯罪並びに人道に対する罪を犯し又は犯すことを奨励するにありたりかくて自由の基本原則と人格に対する尊敬を脅威し毀損したり


該企図の促進並びに達成に対しこれら被告はその権力、公職及び個人的声望及び勢力を利用して「アメリカ」合衆国、中華民国、「グレート・ブリテン」・北「アイルランド」連合王国、「ソビエット」社会主義共和国連邦、「オーストラリア」連邦、「カナダ」、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「ニュージーランド」、「インド」、「フィリッピン」国及び他の平和的諸国家に対し国際法並びに神聖なる条約上の誓約、義務及び保証に違反して侵略戦争の計画、準備、開始又は遂行を意図しかつ実行せり該計画は俘虜、一般収容者及び公海にある人を殺害、毀傷及び虐待しこれらに対し適当なる食糧、収容所、衣服、医療手当又はその他の適当なる処置を与えずこれらを非人道的条件下の強制労役に服せしめ、かつ恥辱を与えもって広く承認せられたる戦争の法規慣例の侵犯を企図しかつこれを実行せり又日本の利益のために被征服国民の人的及び経済的資源を搾取し公私の財産を掠奪し、都市村落に対し軍事上の必要以上濫りに破壊を加え、蹂躙せられたる諸国の無力の一般民衆に対し大量殺害、凌辱、掠奪、劫掠、拷問その他の野蛮なる残虐行為を加え日本国政府の官吏及び諸機関に対する陸海軍派閥の勢力及び制圧を強めいわゆる翼賛議会等を創設し国家主義的膨張政策を教え戦争宣伝物を散布し新聞及び「ラジオ」に厳格なる統制を加えもって日本国民の輿論を動かしもって侵略戦争に対する心理的準備を整えしめ被征服諸国に「傀儡」政権を樹立し武力により日本の膨張計画を推進するため「ドイツ」及び「イタリア」と軍事同盟を締結せり


ゆえに上記諸国家は1945年《昭和20年》7月26日の「ポツダム」宣言、1945年《昭和20年》9月2日の降伏文書及び本裁判所条例に従い、重大なる戦争犯罪人に対する被疑事実の調査及びこれが訴追につき各自の政府を代表すべく正当に任命せられたる下記署名の代表者によりて上記のすべての者を以下列挙の諸点につき本裁判所条例中にすべて定義せるがごとき平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪及び以上の罪の共通計画又は共同謀議の罪ありとしてここに告訴しこのゆえに本訴訟における被告としかつその氏名がそれぞれ記載せられたる後述の訴因により起訴せられたるものとして指名す

第1類 平和に対する罪 (原資料126枚目)


下記諸訴因につきては平和に対する罪を問う

該罪はここに記載せられたる者及びそのそれぞれが極東国際軍事裁判所条例第5条特に第5条(イ)及び(ロ)並びに国際法又はそのいずれかの一により個々に責任ありと主張せられ居る行為なり


訴因 第1


全被告は他の諸多(しょた)の人々とともに1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、教唆者又は共犯者として参画したるものにしてかかる計画の実行につき本人自身によりなされたると他の何人によりなされたるとを問わず一切の行為に対し責任を有す


かかる計画又は共同謀議の目的は日本が東「アジア」並びに太平洋及び「インド」洋並びに右地域内及びこれに隣接せるすべての国家及び島嶼における軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するにあり而して(「しかして」「しこうして」)その目的のため独力をもって、又は同様の目的を有する他の諸国と共同して、若しくは右計画ないし共同謀議に誘致又は強制的に加入せしめ得る他の諸国と共同して、その目的に反対する国又は国々に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なうにあり


付属書Aの細目、付属書Bの条約条項及び付属書Cの誓約の各全部は本訴因に関係あり

訴因 第2 (原資料127枚目)


全被告は他の諸多の人々とともに1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにしてかかる計画実行につき本人自身によりなされたると他の何人によりなされたるとを問わず一切の行為に対し責任を有す


かかる計画又は共同謀議の目的は日本の支配下に別個の一国家を建設することにより日本が中華民国の一部たる遼寧、吉林、黒龍江、及び熱河の各省における軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するにあり、しかしてその目的のため中華民国に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なうにあり


付属書Aの細目全部、付属書Bの下記条約条項すなわち第1ないし第6、第8ないし第14、第22ないし第30及び第32ないし第35並びに付属書Cの下記誓約すなわち第1ないし第8は本訴因に関係あり

訴因 第3 (原資料128枚目)


全被告は他の諸多の人々とともに1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにしてかかる計画実行につき本人自身によりなされたると他の何人によりなされたるとを問わず一切の行為に対し責任を有す


かかる計画又は共同謀議の目的は直接に又は日本の支配下に一又は数個の別個の国家を建設することにより日本が中華民国における軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するにありしかしてその目的のため中華民国に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並びに国際法、条約協定及び誓約に違反する戦争を行なうにあり


付属書Aの細目全部並びに訴因第2におけると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり

訴因 第4 (原資料129枚目)


全被告は他の諸多の人々とともに1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにしてかかる計画実行につき本人自身によりなされたると他の何人によりなされたるとを問わず一切の行為に対し責任を有す


かかる計画又は共同謀議の目的は日本が東「アジア」並びに太平洋及びインド洋並びに右地域内またはこれに隣接せるすべての国家及び島嶼における軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するにありしかしてその目的のため独力をもって、又は同一の目的を有する他の諸国と共同して、若しくは右計画ないし共同謀議に誘致又は強制的に加入せしめ得る他の諸国と共同して、「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦(本起訴状において使用せる場合この語は常に「グレート・ブリテン」及び北「アイルランド」連合王国、「オーストラリア」連邦、「カナダ」、「ニュージーランド」、南「アフリカ」連邦、「インド」、「ビルマ」、「マレー」連邦及び国際連盟において個々に代表せられざる「イギリス」帝国の他のすべての部分を含むものとす)、「フランス」共和国、「オランダ」王国、中華民国、「ポルトガル」共和国、「タイ」国、「フィリッピン」国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦又はこれらの内その目的に反対する諸国に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なうにあり


付属書Aの細目、付属書Bの条約条項及び付属書Cの誓約の各全部は本訴因に関係あり


訴因 第5


全被告は他の諸多の人々とともに1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにしてかかる計画実行につき本人自身によりなされたると他の何人によりなされたるとを問わず一切の行為に対し責任を有す


かかる計画又は共同謀議の目的は「ドイツ」、「イタリア」及び日本が自己特有の圏内に―日本は東「アジア」、太平洋及び「インド」洋並びに右地域内の又はこれに隣接せるすべての国家及び島嶼に―それぞれ特別支配を有することにより全世界にわたる軍事的、政治的及び経済的支配を獲得すべきこと、しかして右三国はその目的のため相倚り相扶けもってその目的に反対する諸国、特に「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「フランス」共和国、「オランダ」王国、中華民国、「ポルトガル」共和国、「タイ」王国、「フィリッピン」国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なうにあり


付属書Aの細目、付属書Bの条約条項及び付属書Cの誓約の各全部は本訴因に関係あり

訴因 第6 (原資料131枚目)


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において中華民国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


付属書Aの細目中下記節すなわち第1ないし第6並びに訴因第2におけると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第7


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「アメリカ」合衆国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


付属書Aの細目中下記節すなわち第3、第4、第5、第6、第7、第9及び第10、並びに付属書Bの下記条約条項すなわち第1ないし第10、第17ないし第19、第22ないし第35及び第37並びに付属書Cの誓約全部は本訴因に関係あり


訴因 第8


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「グレート・ブリテン」及び北「アイルランド」連合王国、及び全「イギリス」連邦中本起訴状における個々の訴因の主体たらざるすべての部分に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


付属書Aの細目中下記節すなわち第3、第4、第5、第6、第7、第9、及び第10並びに付属書Bの下記条約条項すなわち第1、第2、第5、第10ないし第19、第22ないし第30、第32ないし第35、第37及び第38並びに付属書Cの誓約の全部は本訴因に関係あり


訴因 第9


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「オーストラリア」連邦に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


訴因第8におけると同一の付属書Aの細目各節並びに右訴因におけると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第10


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「ニュージーランド」に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


訴因第8におけると同一の付属書Aの細目各節並びに右訴因におけると同一の条約条項及び保証は本訴因に関係あり


訴因 第11


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「カナダ」に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


訴因第8におけると同一の付属書Aの細目各節並びに右訴因におけると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第12


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「インド」に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


訴因第8におけると同一の付属書Aの細目各節並びに右訴因におけると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり

訴因 第13 (原資料134枚目)


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「フィリッピン」国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


訴因第7におけると同一の付属書Aの細目各節並びに右訴因におけると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第14


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「オランダ」王国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


付属書Aの細目中下記節すなわち第3、第4、第5、第6、第7、第9及び第10並びに付属書Bの下記条約条項すなわち第1ないし第5、第10ないし第18、第20、第22ないし第30、第32ないし第35、第37及び第38並びに付属書Cの下記誓約すなわち第10ないし第15は本訴因に関係あり


訴因 第15


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「フランス」共和国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


付属書Aの細目中下記節すなわち第2、第3、第4、第5、第6、第7、第9及び第10並びに付属書Bの下記条約条項すなわち第1ないし第5、第10ないし第19、第22ないし第30及び第32ないし第38並びに付属書Cの下記誓約すなわち第14及び第15は本訴因に関係あり


訴因 第16


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「タイ」王国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


付属書Aの細目中下記節すなわち第2、第3、第4、第5、第6、第7、第9及び第10並びに付属書Bの下記条約条項すなわち第3、第4、第5、第10及び第32ないし第38は本訴因に関係あり


訴因 第17


全被告は1928年《昭和3年》1月1日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり


付属書Aの細目中下記節すなわち第1ないし第8並びに付属書Bの下記条約条項すなわち第1ないし第5、第10ないし第18、第32ないし第35及び第39ないし第47並びに付属書Cの誓約第13は本訴因に関係あり

訴因 第18 (原資料136枚目)



被告荒木、土肥原、橋本、平沼、板垣、小磯、南、大川、重光、東条、梅津は1931年《昭和6年》9月18日又はその頃中華民国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり


付属書Aの細目中第1節並びに付属書Bの下記条約条項すなわち第1ないし第5、第11ないし第14、第22、第23、第25、第30及び第40ないし第43は本訴因に関係あり


訴因 第19



被告荒木、土肥原、橋本、畑、平沼、広田、星野、板垣、賀屋、木戸、松井、武藤、鈴木、東条、梅津は1937年《昭和12年》7月7日又はその頃中華民国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり


付属書Aの細目中第2節並びに訴因第18におけると同一の条約条項並びに付属書Cの下記誓約すなわち第3、第4及び第5は本訴因に関係あり


訴因 第20



被告土肥原、平沼、広田、星野、賀屋、木戸、木村、武藤、永野、岡、大島、佐藤、嶋田、鈴木、東郷、東条は1941年《昭和16年》12月7日又はその頃「アメリカ」合衆国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり


付属書Aの細目中第9節並びに付属書Bの下記条約条項すなわち第1ないし第9、第19、第22ないし第30、第33、第34及び第37並びに付属書Cの誓約全部は本訴因に関係あり


訴因 第21



訴因第20におけると同一の被告は1941年《昭和16年》12月7日又はその頃「フィリッピン」国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり


訴因第20におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第22



訴因第20におけると同一の被告は1941年《昭和16年》12月7日又はその頃全「イギリス」連邦に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反せる戦争を開始せり


付属書Aの細目中第9節並びに付属書Bの各条約条項第1ないし第5、第19、第22ないし第30、第33及び第37並びに付属書Cの誓約全部は本訴因に関係あり


訴因 第23 (原資料138枚目)



被告荒木、土肥原、平沼、広田、星野、板垣、木戸、松岡、武藤、永野、重光、及び東条は1940年《昭和15年》9月22日又はその頃「フランス」共和国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり


訴因第15におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第24



訴因第20におけると同一の被告は1941年《昭和16年》12月7日又はその頃「タイ」王国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり


付属書Aの細目中第7節並びに付属書Bの下記条約条項すなわち第1ないし第5、第33、第34、第36、第37及び第38は本訴因に関係あり



訴因 第25



被告荒木、土肥原、畑、平沼、広田、星野、板垣、木戸、松岡、松井、重光、及び鈴木は1938年《昭和13年》7、8月中において「ハーサン」湖区域において「ソビエット」社会主義共和国連邦を攻撃することにより侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり


訴因第17におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり

訴因 第26 (原資料140枚目)



被告荒木、土肥原、畑、平沼、板垣、木戸、小磯、松井、松岡、武藤、鈴木、東郷、東条及び梅津は1939年《昭和14年》の夏期中「ハルヒン・ゴール」河区域において蒙古人民共和国の領土を攻撃することにより侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり


訴因第17におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第27



全被告は1931年《昭和6年》9月18日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において中華民国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なえり


訴因第2におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり



訴因 第28



全被告は1937年《昭和12年》7月7日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において中華民国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なえり


訴因第2におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第29


全被告は1941年《昭和16年》12月7日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「アメリカ」合衆国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なえり


付属書Aの細目中下記節すなわち第4ないし第10並びに訴因第20におけると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第30



全被告は1941年《昭和16年》12月7日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「フィリッピン」国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なえり


訴因第29におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第31



全被告は1941年《昭和16年》12月7日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において全「イギリス」連邦に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なえり


付属書Aの細目中下記節すなわち第4ないし第10並びに訴因第22におけると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり

訴因 第32 (原資料142枚目)


全被告は1941年《昭和16年》12月7日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「オランダ」王国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なえり


訴因第14におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり

訴因 第33



被告荒木、土肥原、平沼、広田、星野、板垣、木戸、松岡、武藤、永野、重光及び東条は1940年《昭和15年》9月22日及びその後「フランス」共和国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なえり


訴因第15におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり



訴因 第34


全被告は1941年《昭和16年》12月7日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において「タイ」王国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なえり


訴因第24におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり



訴因 第35



訴因第25におけると同一の被告は1938年《昭和13年》の夏期中「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なえり


訴因第17におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり


訴因 第36



訴因第26におけると同一の被告は1939年《昭和14年》の夏蒙古人民共和国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行なえり


訴因第17におけると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり

第2類 殺人 (原資料145枚目)


下記の諸訴因につきては殺人罪及び殺人の共同謀議の罪に問う 該罪はここに記載せられたる者及びその各自が個々に責任ありと主張せられ居る行為なるとともに既述の裁判所条例第5条の全項、国際法及び日本を含む犯罪の行なわれたる個々の国内法又はそれらの一若しくは二以上に違反したる平和に対する罪、通例の戦争犯罪及び人道に対する罪なり


訴因 第37


被告土肥原、平沼、広田、星野、賀屋、木戸、木村、武藤、永野、岡、大島、佐藤、嶋田、鈴木、東郷及び東条は他の諸多の人々とともに1940年《昭和15年》6月1日より1941年《昭和16年》12月8日に至るまでの期間において一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにしてかかる計画の実行につき本人自身によりなされたると他の何人によりなされたるとを問わず一切の行為に対し責任を有す


かかる計画又は共同謀議の目的は「アメリカ」合衆国、「フィリッピン」国、全「イギリス」連邦、「オランダ」王国及び「タイ」王国に対し不法なる敵対行為を開始しかつ日本が上述国家と平和状態にある時において不法にこれら諸国家又はそのあるものの領土、艦船並びに航空機の攻撃を日本軍に命じなさしめかつ許すことにより下記の人々を不法に殺害し殺戮せんとするにありたり


殺害あるいは殺戮の目的とせられたる者はすべて上述諸国家の軍隊及び一般人中かかる攻撃の際たまたまその地点に居合わせたらん者なり


該敵対行為及び攻撃は付属書Bの条約条項第5に違反せるがゆえに不法なり従って被告及び該日本軍は適法なる交戦者としての権利を獲得し得ざりしものなり


これら被告及びその各自は右条約条項に違反してかかる敵対行為を開始せんと意図し又は該条約条項に違反するや否やのごときはこれを介意せざりしものなり

訴因 第38 (原資料146枚目)

被告土肥原、平沼、広田、星野、賀屋、木戸、木村、松岡、武藤、永野、岡、大島、佐藤、嶋田、鈴木、東郷及び東条は他の諸多の人々とともに1940年《昭和15年》6月1日より1941年《昭和16年》12月8日に至るまでの期間において一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにしてかかる計画の実行につき本人自身によりなされたると他の何人によりなされたるとを問わず一切の行為に対し責任を有す


かかる計画又は共同謀議の目的は「アメリカ」合衆国、「フィリッピン」国、全「イギリス」連邦、「オランダ」王国及び「タイ」王国に対し不法なる敵対行為を開始しかつ不法にこれら諸国家又はそのあるものの領土、艦船並びに航空機の攻撃を日本軍に命じなさしめかつ許すことにより下記の人々を不法に殺害し殺戮せんとするにありたり


殺害あるいは殺戮の目的とせられたる者はすべて上述諸国家の軍隊及び一般人中かかる攻撃の際たまたまその地点に居合わせたらん者なり


該敵対行為及び攻撃は付属書Bの条約条項第6、第7、第19、第33、第34及び第36に違反せるがゆえに不法なり従って被告及び該日本軍は適法なる交戦者としての権利を獲得し得ざりしものなり


これら被告及びその各自は右条約条項に違反してかかる敵対行為を開始せんと意図し又は該条約条項の全部又は一部に違反するや否やのごときはこれを介意せざりしものなり

訴因 第39 (原資料147枚目)


訴因第38におけると同一の被告は本件訴因第37及び第38において主張したる情況の下に1941年《昭和16年》12月7日0755時頃(真珠湾時間)「ハワイ」準州真珠湾において日本が当時平和状態にありし「アメリカ」合衆国の領土、艦船及び航空機に対する攻撃を日本軍に命じなさしめかつ許すことによりて不法に「キッド」海軍少将の外目下その氏名及び員数不詳なる「アメリカ」合衆国陸海軍将兵約四千名及び一般人を殺害し殺戮したり


訴因 第40


訴因第38におけると同一の被告は本件訴因第37及び第38において主張したる情況の下に1941年《昭和16年》12月8日0025時頃「シンガポール」時間「ケランタン」州「コタバル」において日本が当時平和状態にありし全「イギリス」連邦の領土及び航空機に対する攻撃を日本軍に命じなさしめかつ許すことによりて不法に目下その氏名及び員数不詳なる全「イギリス」連邦軍将兵を殺害し殺戮したり


訴因 第41


訴因第38におけると同一の被告は本件訴因第37及び第38において主張したる情況の下に1941年《昭和16年》12月8日0800時頃(香港時間)香港において日本が当時平和状態にありし全「イギリス」連邦の領土、艦船及び航空機に対する攻撃を日本軍に命じなさしめかつ許すことによりて不法に目下その氏名及び員数不詳なる全「イギリス」連邦軍将兵を殺害し殺戮したり

訴因 第42 (原資料149枚目)


訴因第38におけると同一の被告は本件訴因第37及び第38において主張したる情況の下に1941年《昭和16年》12月8日0300時頃(上海時間)上海において日本が当時平和状態にありし全「イギリス」連邦の軍艦「ペトレル」号に対する攻撃を日本軍に命じなさしめかつ許すことによりて不法に目下その氏名不詳なる全「イギリス」連邦海軍軍人三名を殺害し殺戮したり


訴因 第43


訴因第38におけると同一の被告は本件訴因第37及び第38において主張したる情況の下に1941年《昭和16年》12月8日1000時頃(「マニラ」時間)「ダバオ」において日本が当時平和状態にありし「フィリッピン」国の領土に対する攻撃を日本軍に命じなさしめかつ許すことによりて不法に目下その氏名及び員数不詳な「アメリカ」合衆国軍将兵並びに「フィリッピン」国軍将兵及び一般人を殺害し殺戮したり


訴因 第44


全被告は他の諸多の人々とともに1931年《昭和6年》9月18日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において一個の共通の計画又は共同謀議の立案及び実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにしてかかる計画の実行につき本人自身によりなされたると他の何人によりなされたるとを問わず一切の行為に対し責任を有す


かかる計画又は共同謀議の目的は上記期間中日本が行ない又は行なわんとしたる不法なる数回の戦争に勝利を容赦なく獲得せんとし日本の占領したる領土内において、陸上又は海上において、俘虜、日本に降伏することあるべき敵対せし諸国の将兵、日本の権力下に置かるることあるべき一般人及び日本軍に撃破せられたる艦船の乗組員の大量殺戮を行なわしめかつこれを許可するにありたり

訴因 第45 (原資料150枚目)


被告荒木、橋本、畑、平沼、広田、板垣、賀屋、木戸、松井、武藤、鈴木及び梅津は1937年《昭和12年》12月12日及びその後引き続き本件訴因第2記載の条約条項に違反して南京市を攻撃しかつ国際法に違反して住民を鏖殺(おうさつ。皆殺しにすること)することを日本軍に不法に命じなさしめかつ許すことにより不法に目下その氏名及び員数不詳なる数万の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり


訴因 第46


訴因第45におけると同一の被告は1938年《昭和13年》10月21日及びその後引き続き本件訴因第2記載の条約条項に違反して広東市を攻撃しかつ国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じなさしめかつ許すことにより不法に目下その氏名及び員数不詳なる多数の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり


訴因 第47


訴因第45におけると同一の被告は1938年《昭和13年》10月27日の前後にわたり本件訴因第2記載の条約条項に違反して漢口市を攻撃しかつ国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じなさしめかつ許すことにより不法に目下その氏名及び員数不詳なる多数の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり

訴因 第48 (原資料151枚目)


被告畑、木戸、小磯、佐藤、重光、東条及び梅津は1944年《昭和19年》6月18日前後にわたり本件訴因第2記載の条約条項に違反して長沙市を攻撃しかつ国際法に違反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じなさしめかつ許すことにより不法に目下その氏名及び員数不詳なる数千の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり


訴因 第49


訴因第48におけると同一の被告は1944年《昭和19年》8月8日の前後にわたり本件訴因第2記載の条約条項に違反して湖南省衛陽市を攻撃しかつ国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じかさしめかつ許すことにより不法に目下その氏名及び員数不詳なる多数の中華民国一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり


訴因 第50


訴因第48におけると同一の被告は1944年《昭和19年》11月10日の前後にわたり本件訴因第2記載の条約条項に違反して広西省の桂林、柳州両都市を攻撃しかつ国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じかさしめかつ許すことにより不法に目下その氏名及び員数不詳なる多数の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり



訴因 第51


被告荒木、土肥原、畑、平沼、板垣、木戸、小磯、松井、松岡、武藤、鈴木、東郷、東条及び梅津は1939年《昭和14年》夏「ハルヒン・ゴール」河地域において当時日本と平和状態にありたる蒙古及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の領土を攻撃することを日本軍に命じなさしめかつ許すことにより不法に目下その氏名及び員数不詳なる蒙古及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の軍隊の若干名を殺害し殺戮せり


訴因 第52


被告荒木、土肥原、畑、平沼、広田、星野、板垣、木戸、松岡、松井、重光、鈴木及び東条は当時日本と平和状態にありたる「ソビエット」社会主義共和国連邦領を(1938年《昭和13年》7月及び8月「ハーサン」湖区域において)日本軍に攻撃することを命じなさしめかつ許すことにより不法に目下その氏名及び員数不詳なる「ソビエット」社会主義共和国連邦の若干名を不法に殺害し殺戮せり

第3類 (原資料154枚目)


下記訴因につきては通例の戦争犯罪及び人道に対する罪を問う該罪はここに記載せられたる者及びその各自が極東国際軍事裁判所条例第5条特に第5条(ロ)及び(ハ)並びに国際法又はそのいずれかの一により個々に責任ありと主張せられ居る行為なり


訴因 第53



被告土肥原、畑、星野、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、永野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東条及び梅津は他の諸多の人々とともに1941年《昭和16年》12月7日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにしてかかる計画の実行につき本人自身によりなされたると他の何人によりなされたるとを問わず一切の行為に対して責任を有す


かかる計画又は共同謀議の目的は当時日本が従事せる諸作戦地の各々における日本陸海軍の最高司令官、日本陸軍省職員、日本領土又はその占領地の俘虜及び一般収容者の収容所及び労務班の管理当事者、並びに日本の憲兵及び警察とそのそれぞれの部下とに「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「フィリッピン」国、中華民国、「ポルトガル」共和国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の軍隊に対し並びに当時日本の権力下にありしこれら諸国の数千の俘虜及び一般人に対し付属書Dにおいて述べられたる条約、誓約及び慣行中に含まれかつこれにより証明せられたる戦争の法規慣例の頻繁にしてかつ常習的なる違反行為を行なうことを命令し授権しかつ許可すること、しかもまた日本国政府において上記条約及び誓約並びに戦争の法規慣例の遵守を確保しかつその違反を防止するためこれに準拠して適当なる手段を執ることを差し控うべきことにありたり


中華民国の場合においては該計画又は共同謀議は1931年《昭和6年》9月18日に始まり上記指名の者の外下記被告もまたこれに参画せり


荒木、橋本、平沼、広田、松井、松岡、南


訴因 第54



被告土肥原、畑、星野、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、永野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東条、及び梅津は1941年《昭和16年》12月7日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間において訴因第53において述べたる者と同一の人々に同訴因中において述べたる違反行為を行なうことを命じ授権しまた許可しもって戦争法規に違反せり


中華民国の場合においては該命令、授権及び許可は1931年《昭和6年》9月18日に始まる期間に発せられたるものにして上記指名の者の外下記の被告もまたこれに責任を有す


荒木、橋本、平沼、広田、松井、松岡、南

訴因 第55 (原資料156枚目)



被告土肥原、畑、星野、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、永野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東条及び梅津は他の諸多の人々とともに1941年《昭和16年》12月7日より1945年《昭和20年》9月2日に至るまでの期間においてそれぞれの官職により「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「フィリッピン」国、中華民国、「ポルトガル」共和国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の軍隊並びに当時日本の権力下にありしこれら諸国の数万の俘虜及び一般人に関し上記条約及び誓約並びに戦争の法規慣例の遵守を確保する責任を有したるも、その遵守を確保しその違反を防止するに適当なる手段を執るべき法律上の義務を故意又は不注意に無視しもって戦争法規に違反せり


中華民国の場合においては該違反行為は1931年《昭和6年》9月18日に始まる期間に発せられたるものにして上記指名の者の外下記の被告もこれに責任を有す


荒木、橋本、平沼、広田、松井、松岡、南



以上の理由により裁判所に対し本起訴状を提出しここに前記指名の被告人らに対する起訴事実を裁判所に提出するものなり


「アメリカ」合衆国代表・主席検察官

 ジョゼフ・B・キーナン


中華民国代表・副検察官

 向哲濬


「グレート・ブリテン」及び北「アイルランド」連合王国代表・副検察官

 A・S・コミンズ・カー


「ソビエット」社会主義共和国連邦代表・副検察官

 S・A・ゴルンスキー


「オーストラリア」連邦代表・副検察官

 A・J・マンスフィルド


「オランダ」王国代表・副検察官

 W・G・F・ボルゲルホフ・マルダー


「ニュージーランド」代表・副検察官

 R・H・クイリアム


「インド」代表・副検察官

 ゴビンダ・メノン

  代理A・S・コミンズ・カー


「フィリッピン」国代表・副検察官

 ペドロ・ロペス

付属書A (原資料159枚目)


 検察当局が本起訴状第1類中に含まれたる数個の訴因の支持のため依拠せんとする主要なる事実及び出来事を表示せる要約的細目


第1節


満州における軍事的侵略


 1928年《昭和3年》1月1日以来一部民間人の支援の下に満州において事件を惹き起こさんとする策謀が日本国陸軍殊に関東軍に存したり右事件は後に中華民国の他の部分に、「ソビエット」社会主義共和国連邦の領土に、しかして遂には一層広汎なる地域に拡大せられ、日本を世界における支配的強国たらしむることを目的とせる制覇企図の第一歩として日本のため該地を征服し占領し開発利用する口実をなすべきものたりしなり


 右策謀の実行過程における主要なる出来事左のごとし

 1931年《昭和6年》9月18日頃、長期にわたる勢力浸透並びにその結果たる衝突の後日本国軍隊は南満州鉄道の一部を爆破し中華民国軍隊において右爆破を行ないしもののごとく誣いこれを武力攻撃し次いで逐次かつ急速に遼寧、吉林、黒龍江及び熱河の中華民国諸省(東北諸省)の軍事占領を遂行せり


 1932年《昭和7年》1月3日頃日本国軍隊は、1931年《昭和6年》11月24日日本国外務省が「アメリカ」合衆国に対して占領せざる旨の誓約を与えたるに拘わらず、錦州を占領せり


 1932年《昭和7年》1月18日頃より日本国海軍は、後には陸軍も加わりて、上海における中華民国人に武力攻撃を加えたり


 1932年《昭和7年》1月28、9日頃日本は午前12時15分閘北を爆撃せり


 1932年《昭和7年》2月1日頃日本国軍艦数隻は南京を砲撃せり


 1932年《昭和7年》中において日本は前記東北諸省に別個の傀儡政権を樹立し1932年《昭和7年》9月15日に至り正式にこれを承認せり


 1931年《昭和6年》12月13日に政権を掌握したる日本国政府及びその後のすべての日本国政府は本侵略及び中華民国の他の部分に対するその漸進的拡大を採用し支持しかつ継続したり


 日本は中華民国に対し何ら宣戦の布告をなすことなく、平和的手段又は仲介若しくは仲裁裁判によりその主張する紛争なるものを解決せんとするいかなる努力もなすことなく、1932年《昭和7年》2月5日「アメリカ」合衆国、「グレート・ブリテン」国及び「フランス」国のなしたる調停の申出を拒絶し、日本及び中華民国がその一員たる国際連盟の任命したる「リットン」委員会の報告及び勧告又は連盟の決議を採用することを拒否し、遂に1933年《昭和8年》3月27日連盟を脱退したり


 1934年《昭和9年》4月18日日本は日本以外のいかなる国による中華民国への干渉にも絶対反対なる旨声明せり


 1934年《昭和9年》3月1日日本は「ヘンリー」溥儀をいわゆる満州国の名目上の主権者の地位に就かしめたりしかれども1945年《昭和20年》9月2日に至るまで日本の数多強大なる軍は依然としてこれらの地域に駐在してこれをその後の侵略の根拠地として用いかつ日本の文官とともに満州国の政府、産業及び財政を全面的に支配し続けたり

第2節 (原資料161枚目)


中華民国の他の部分における軍事的侵略


 中華民国に対する日本の侵略は1937年《昭和12年》7月7日新たなる段階に入りたりその日日本国軍隊は長城以南の中華民国領土に侵入し、日本政府もまた右侵略を採用し、支持しかつ継続せりその後の日本国政府はいずれも同一政策を踏襲せり

  本段階におけるその後の主要なる出来事は左のごとし


 1937年《昭和12年》9月19日より25日に至る頃日本軍は南京及び広東を爆撃し故意に多数の一般人を殺害せり


 1937年《昭和12年》12月13日頃日本軍は南京を攻略し数万の一般人を鏖殺しかつその他非道なる行為を行ないたり


 1940年《昭和15年》中に日本は当時日本の占領下にありたる中華民国の部分(前記東北四省以外)に『中華民国国民政府』なりと主張する別個の傀儡政権を樹立し1940年《昭和15年》11月30日頃正式にこれを承認せり


 このたびもまた日本は中華民国に対し何ら宣戦の布告をなすことなく、平和的手段又は仲介若しくは仲裁裁判によりその主張する紛争なるものを解決せんとするいかなる努力もなすことなく、1937年《昭和12年》9月25日には国際連盟の極東諮問委員会に参加することを拒絶し、1937年《昭和12年》10月27日及び11月12日の二回にわたり1922年《大正11年》2月6日締結せられたる九ヶ国条約の他の調印国が「ブラッセル」に開催したる会議に出席し又は同条約の適用につき論議することを拒絶し、1938年《昭和13年》9月22日中華民国との紛争を仲介する国際連盟に出席することを拒絶し、ついに1938年《昭和13年》11月4日前記九ヶ国条約はもはや現時代には適用されざるものなりと宣言せり


 日本は他の諸都市とともに1938年《昭和13年》10月27日漢口を、1944年《昭和19年》6月18日長沙を、同年8月8日衛陽を、11月10日桂林を、しかして11月11日には柳州を攻略しもって中華民国におけるその軍事的侵略を継続せりしかも上述諸都市のそれぞれにおいて故意に多数の一般人を殺害しかつその他非道なる行為を行ないたり

第3節 (原資料163枚目)


中華民国及び大東亜における経済的侵略


 本起訴状の及ぶ期間中において日本は自国民に有利なる権利上の一般的優越性を確立しよってもって当初は満州において後にはその支配下に帰したる中華民国の他の部分において商業上、産業上及び金融上の諸企業の事実上の独占を樹立しかつ啻(ただ)に日本及びこれら諸企業に携わる自国民を富裕にするためのみならず中華民国の抵抗力を弱化し他国及び他国民を排斥しかつその後の侵略の資金及び軍需品を準備せんとする計画の一部としてこれら地域を開発利用せり


 本計画はその創業者の少なくとも一部の者の意図せるごとく経済的及び軍事的両面において漸次東「アジア」の残余の部分及び太洋州《オセアニア州》に対する同様の企画を包含するに至れり


 その後本計画は公式に「大東亜共栄圏」(本名称はこれら地域における日本の完全支配を目指す企図を偽装せんとせるものなり)にまで発展し日本はこれをもってその軍事行動の究極の目的をなすものなりと宣言せり


 本書第4節に記述せられたると同一の諸機関は上述の目的のために使用せられたり

第4節 (原資料164枚目)


中華民国及び他の占領地における腐敗化及び強制の方法


 本起訴状の及ぶ全期間中において歴代の日本国政府は陸海軍司令官並びに軍部以外の機関を通じ中華民国及び彼らが既に占領し又は占領を企図せる他の地域においてあるいは残虐及び残忍行為によりあるいは武力及び武力の威嚇によりあるいは贈賄及び腐敗化によりあるいは地方政客及び将領間の陰謀によりあるいは直接間接に阿片その他の麻薬の生産及び輸入の増加の奨励によりあるいは又上記地域における民衆間にかかる麻薬の売り込み及び消費を促進することによりそれら住民の抗戦意力を弱化せしめんとする組織的政策を続行せり 日本国政府は秘密裡に多額の金銭を支給し右金銭は上記地域のおける政府後援下の阿片その他の麻薬取引及びその他の貿易活動により獲たる利益とともに日本国政府の代行機関により上述のすべての目的のために使用せられたり 同時に日本国政府は「阿片その他の有害薬物の取引に関する国際連盟委員会」の議事に積極的に参加しつつありたりかつ上述の秘密活動にも拘わらず日本がその当事国の一員たりし阿片その他の麻薬の取引の取締りに関する諸条約の実施につき他の当事国と充分に協力しつつありと世界に向かって公言したり


 麻薬の不法取引に対する参加及び後援は1942年《昭和17年》に大東亜省創設のため統合せられたる対満事務局、興亜院及び南方事務局《英文より直訳、実は拓務省拓南局か》のごとき幾多の日本国政府機関並びに諸多の占領国及びいわゆる独立(傀儡)国にありて陸海軍の上級将校又は軍の任命せる文官により運営又は監督せられたる多数の補助機関及び商事会社により遂行せられたり


 加うるに上述の阿片その他の麻薬の取引による収入は本起訴状中に述べたる侵略戦争の準備及び遂行に要する財源として用いられ又日本国政府により諸多の占領地に樹立せられたる傀儡政権の確立及びこれに対する資金供給のため使用せられたり

第5節 (原資料165枚目)


戦争に対する一般的準備


 将来の侵略戦争を考慮に入るるとともに中華民国に対す既に行ないつつある侵略戦争に対する他国の干渉を防止するため日本は1932年《昭和7年》1月1日以来海軍、陸軍、生産及び財政上の戦争準備を強化したりその中特記すべきものは以下のごとしただしこれにより上記の主張を制限するものにあらず


(イ)海軍


 日本は他の調印諸国を説得し自己に明らかに有利なる海軍総噸(トン)数の共通最大限に同意せしめんとの企てに失敗したる後1934年《昭和9年》12月29日頃「ワシントン」海軍条約を廃棄せり


 1936年《昭和11年》6月23日頃日本は「ロンドン」海軍条約への加入を拒絶せり


 1938年《昭和13年》2月12日又はその頃日本は「アメリカ」合衆国、「イギリス」及び「フランス」の要請に際し自国海軍建艦計画の通報を拒絶せり


 日本は不断に自国の海軍力を秘密裡に増強せり


 1941年《昭和16年》12月7日―8日真珠湾、「シンガポール」、香港、「マレー」及び上海に対し遂に行なわれたる奇襲攻撃と太平洋及び「インド」洋における他の場所並びに「ソビエット」社会主義共和国連邦の領土に対する同様の攻撃とを目的とする秘密海軍計画を日本は不断に特に1941年《昭和16年》中を通じてなしたり


(ロ)陸軍


 日本は単に中華民国に対する侵略戦争のためのみならず、大部分は他の侵略戦争のために必要とせらるるごとき程度に自国陸軍の兵力量を継続的かつ漸進的に増強せり1939年《昭和14年》4月6日には国家総動員法を可決しその後これを実施せり


(ハ)海陸軍


 日本は国際連盟より委任統治権を与えられたる島嶼を継続的かつ漸進的に要塞化せり


 違反せられたる条約条項=第15、第17、第18、第31


(ニ)生産


 日本は中華民国に対する侵略戦争に必要なる限度を越え、他の侵略戦争のために自国領土内及びその占領下又は支配下にある地域内において軍需生産力を継続的かつ漸進的に増強せり


(ホ)財政


 上述の諸目的のために要せる財源は一部は予算に計上せられたる租税により一部は国債によりさらに一部は本付属書第3節に記述せるごとき搾取による利得、特に本付属書第4節に記述せる麻薬の販売により充当せられたり

第6節 (原資料169枚目)


日本の政治及び世論の戦争への編成替


 命令又は慣習により日本憲法中に編入せられたる二個の規定は政府に対する支配力を得るの機会を軍国主義者に与え彼らは本起訴状の及ぶ期間中かかる機会を捉えたり


 その第一は参謀総長、軍令部長及び他の陸海軍の首脳者が随時天皇に帷幄上奏をなし得るのみならずいかなる政府においてもその陸海軍大臣を任命し又はこれを解任せしむる権利を有したることなりかくして右両者のいずれも政府の成立を阻止し又は成立後その瓦解を惹起することを得たりこの権力は1936年《昭和11年》5月において陸海軍両大臣は現役上級将校をもって任ぜざるべからずとする規定の制定によりさらに強化せられたり例えば1940年《昭和15年》7月21日における米内内閣の瓦解、1941年《昭和16年》10月16日における第三次近衛内閣の瓦解は事実上陸軍により惹起せしめられたるものなりしかして各々の場合右の各政府は陸軍の要望にさらに一層追従する政府により引き継がれたり


 その第二は議会は予算否決権を有したるもこの権利は議会に何ら統制力を与えざりしことなり何となればこの場合においては前年度予算が引き続き効力を有したればなり


 この時期において従来存したる自由なる議会的諸制度は漸次撲滅せられ「ファシスト」あるいは「ナチ」型類似の組織が導入せられたりこの事実は1940年《昭和15年》10月12日の大政翼賛会及びその後の翼賛政治会の設立により明確なる形を採るに至れり


 この時期において膨張主義扇動の熾烈なる運動が進められその初期においては個々の著述家あるいは講演者によりてなされたるも漸次政府機関により組織化せらるるに至れりしかしてこれら機関は右政策に対する反対者の言論著述の自由を撲滅したりこれと同様の目的を有する多数の団体が――そのあるものは秘密結社として――陸海軍部内及び軍部以外の人々の間に設立せられたりこの政策に対する反対は本政策に充分なる好意を有せざるものと思考せられたる指導的政治家の暗殺並びにかかる暗殺の恐怖及び威嚇により潰滅せしめられたり警察機関殊に憲兵隊もまたかかる戦争政策に対する反対を弾圧するために使用せられたり


 教育制度は陸海軍と軍以外とを問わず全体主義の精神、侵略、戦争要望、残忍、仮想敵国に対する憎悪の念を鼓吹するために使用せられたり

第7節 (原資料171枚目)


日本、「ドイツ」及び「イタリア」間の協力

仏印及び「タイ」国に対する侵略


 1936年《昭和11年》初期以後の歴代日本国政府は「ヨーロッパ」の全体主義国家すなわち「ドイツ」及び「イタリア」と緊密なる友好関係を修めたり該両国は東亜、「インド」洋及び太平洋に関する日本の計画と同様なる計画を世界の残余の部分に関して抱懐せるものなり


 1936年《昭和11年》11月25日右三国は秘密議定書及び秘密軍事条約を含む防共協定に調印せり 本協定は表面上「ソビエット」社会主義共和国連邦の及び共産主義を対象となせるも実際においては一般に共同の侵略的行動への序幕としても意図せられしものなり


 「満州国」傀儡政権及び中華民国の南京政権を含めて枢軸三国の支配下にありし諸国は防共協定に加入を許されたり


 1938年《昭和13年》1月1日より1939年《昭和14年》8月23日に至るまでの期間において日本、「ドイツ」及び「イタリア」間には経済的、政治的及び軍事的同盟の確立を目指し広汎なる交渉行なわれたり


 1939年《昭和14年》8月26日日本は在「ワシントン」日本国大使を通じ「アメリカ」合衆国に対し日本は防共協定に基づく一層緊密なる関係を結ぶための独伊との交渉を爾後一切放棄するに決したる旨確言せり


 日本及び「ドイツ」間における経済的、政治的及び軍事的同盟確立のための交渉は1940年《昭和15年》7月再開せられたり


 後に「ドイツ」に追従する「フランス・ビシー」政権として知らるるに至りし当局者との間に「ドイツ」が1940年《昭和15年》6月休戦し「フランス」の大部分を占領したる後1940年《昭和15年》8月13日より9月22日に至るまでの期間において日本は仏印総督府を誘導、強制しもって該地域特にその北部における軍事的、経済的権益の譲与を目的とする協定を日本と締結せしめたり1940年《昭和15年》9月22日日本軍は、その同日中に協定が調印せられたるに拘わらず仏印軍隊を攻撃し強力なる抵抗に遭遇せり


 1940年《昭和15年》9月27日日本は「ドイツ」及び「イタリア」と三国協定に調印せり


 1941年《昭和16年》の初期「タイ」国、仏印間の国境紛争の機会に乗じ日本は右紛争の仲介者又は仲裁者として行動すると称しながら事実は将来の侵略において「タイ」国の援助及び服従を得んことを考慮し「タイ」国にとりて不当に有利なる解決をなせり同時に仏印においてさらに軍事的、経済的権益の譲与を要求せり右解決は1941年《昭和16年》5がつ6日ないし9日に至る間において最後的に成立せり


 1941年《昭和16年》2月下旬より始めて日本及び「ドイツ」は「シンガポール」及び他国の領土に対する共同軍事行動の件に関する交渉をなせり


 1941年《昭和16年》7月1日「ドイツ」、「イタリア」及び他の「ヨーロッパ」諸国における右両国への追従諸政府は日本の要請によりいわゆる「中華民国国民政府」を承認せり


 1940年《昭和15年》7月12日日本及び「タイ」国間に友好条約が調印せられたり


 1941年《昭和16年》5月より7月に至るまでの期間において日本は仏印総督府をさらに誘導かつ強制して日本軍の南部仏印上陸、同地域における海軍及び空軍の基地建設並びに一般的支配の獲得を許可せしめたりこの場合における主要目的は直接には全「イギリス」連邦と「オランダ」領「インド」に対し間接には「アメリカ」合衆国に対する侵略のための基地を準備するにありたり該協定は1941年《昭和16年》7月21日及び29日最後的に締結せられ日本国軍隊は29日「サイゴン」に上陸し海空軍基地を建設しかつ仏印の支配力を一般的に獲得したり


 上記の対仏印交渉を通じて日本はその目的達成のため「ドイツ」及び「イタリア」の援助を利用して「ビシー」政権を強制し同時に不法武力による直接威嚇手段をも使用せり


 この侵略及びその後の侵略の威嚇に対する反動作用の意味において「アメリカ」合衆国は7月25日「グレート・ブリテン」国は7月26日その支配下にある日本及び中国の資産を凍結し日本に対し他の経済的圧迫を加えたり


 1941年《昭和16年》11月25日日本は秘密条項付の防共協定を更新せり


 1941年《昭和16年》12月1日又はその頃日本は三国協定を援用し敵対行為開始後における合衆国に対する宣戦の布告及び「単独不講和条約」の締結を「ドイツ」及び「イタリア」に対し要請せり


 1941年《昭和16年》12月5日日本は「アメリカ」合衆国に対し仏印における軍隊の移動は予防手段にすぎずと確言せり


 1941年《昭和16年》12月7日―8日日本は「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦及び「タイ」国の領土に対し奇襲攻撃を行ないたりしかしてこの後の二国に対する攻撃には仏印基地を使用せり


 1941年《昭和16年》12月11日日本、「ドイツ」及び「イタリア」は「単独不講和協定」に調印せり


 1942年《昭和17年》1月18日日本、「ドイツ」及び「イタリア」間における軍事協定が「ベルリン」において調印せられたり


 1936年《昭和11年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間中上記三国間に緊密なる軍事上、経済上及び外交上の協力並びに情報交換が維持せられたり「ドイツ」の要請に応じ日本は1941年《昭和16年》12月7日―8日の戦争の当初より仮借なき潜水艦戦と沈没又は捕獲されたる艦船の乗組員の撲滅とに関する「ドイツ」の政策を採用せり


 1939年《昭和14年》より1941年《昭和16年》に至るまでの期間「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「オランダ」王国並びに「フランス」共和国に対し又1939年《昭和14年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し日本は威嚇的態度を持続しかつこれら諸国に対する攻撃に便利なる地方への軍隊の集中強化をなし名目上いまだ中立を維持せし間においてすら上記諸国に対する戦争において「ドイツ」及び「イタリア」を直接援助せしなり

第8節 (原資料176枚目)


「ソビエット」社会主義共和国連邦に対する侵略


 長年にわたり日本は「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し絶えず戦争を準備しかつ侵略行為を行ない来たりたり


 1918年《大正7年》より1922年《大正11年》に至るまでの期間において日本は「ソビエット」領極東を略取せんとするその企図に失敗せしも「バイカル」湖以東の「ソビエット」領略取の意図を放棄せざりき


 1928年《昭和3年》以来日本国参謀本部は「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し侵略戦争を計画しひたすらその開始の好機を窺いつつありたり


 「ソビエット」社会主義共和国連邦に対する侵略戦争の準備における重大なる一段階は1931年《昭和6年》における満州の占領にして該地は朝鮮とともに数年の間に「ソビエット」社会主義共和国連邦攻撃のための軍事的根拠地に変ぜられたり戦略上重大なる意義を有する鉄道及び国道(high ways高速道路のこと)が1931年《昭和6年》以後満州において建設せられかつ「ソビエット」社会主義共和国連邦の国境に延びたり関東軍兵力は1931年《昭和6年》における二箇師団より増加せられ1941年《昭和16年》には十五箇師団となれり


 「ソビエット」社会主義共和国連邦に対する侵略戦争において有用となるべき多数の飛行場、要塞地帯、集積所、兵営、海港及び河港が新たに構築せられたり


 満州においては軍需産業は急速に発達せり「ソビエット」社会主義共和国連邦の国境に隣接せる地域は動員の際関東軍を増強するの目的をもって日本の予後備兵によって植民せられたり新聞紙、「ラジオ」等による反「ソビエット」宣伝は熾烈に行なわれたり満州地方において日本は「ロシア」移住民中「ソビエット」連邦に敵意を有する分子を大規模に組織しかつ支援し彼らをして「ソビエット」社会主義共和国連邦に対する敵性行為に出ずるの準備をなさしめたり日本は組織的に国境において武力衝突を仕組み又東支鉄道における破壊行動及び「テロ」行為を仕組めり


 1932年《昭和7年》中日本は二回にわたり不侵略協定を締結せんとの「ソビエット」社会主義共和国連邦の申出を拒絶せり


 1938年《昭和13年》日本は宣戦布告をなさずして「ソビエット」連邦領を「ハーサン」湖地域において攻撃せり


 1939年《昭和14年》再び日本は宣戦布告をなさずして「ソビエット」社会主義共和国連邦の同盟国たる蒙古人民共和国の領土を「ハルヒン・ゴール」河(ノモンハン)地域において攻撃し蒙古人民共和国軍及びその同盟軍たる赤軍と交戦せりその双方の場合において日本は戦闘により赤軍の兵力を偵察せんとするの目的及び「ソビエット」社会主義共和国連邦に対する将来の戦争のための戦略的地点を略取せんとするの目的を追求せしものなり日本は二回にわたり撃退せられかつ重大なる損害を蒙りたるも「ソビエット」社会主義共和国連邦に対する奇襲攻撃の準備を中止せざりき


 「ソビエット」連邦に対する戦争を準備するの一方日本は数年にわたり共同侵略に関し「ヒットラー・ドイツ」及び「ファシスト・イタリア」と交渉を行ないたり侵略者達の本策謀における主要段階は1936年《昭和11年》におけるいわゆる「防共協定」の締結及び「ソビエット」社会主義共和国連邦を含む民主主義的列強に対する共同侵略行為を目的とせる1940年《昭和15年》における《日独伊》三国協定の調印なりき


 1941年《昭和16年》3月民主主義的諸国に対する共同の侵略につき「ヒットラー」と謀議する目的のため「ベルリン」に滞在中、被告松岡は「ドイツ」国政府より「ソビエット」社会主義共和国連邦に対する「ドイツ」国の戦争準備に関する情報を受けたり松岡は1941年《昭和16年》4月13日に日本の全権代表として中立条約を締結したる後、「ソビエット」社会主義共和国連邦に対する「ドイツ」国の背信的攻撃の行なわれたる後早くも7月初旬に、東京駐箚の「ソビエット」大使に対し、日本外交政策の基調は「ドイツ」との同盟にある旨及び「ドイツ」が日本に対し援助を要求したる場合「ソビエット」社会主義共和国連邦との中立協定は日本が「ドイツ」側に立ちて戦争を行なうことにつき何らの障礙(しょうがい。障害のこと)をなすものに非ざる旨を公式に言明せり右言明の通り日本を支配せし軍閥は独「ソ」戦の全期間中公然と「ソビエット」連邦に対し敵意を示し精鋭なる軍隊を「ソビエット」国境に駐屯せしめかつ広汎なる反「ソビエット」」連邦宣伝を組織的に行なえり日本は「ソビエット」社会主義共和国連邦に関する情報を「ドイツ」に提供して積極的に「ヒットラー」支配下の「ドイツ」を援助しかつ禁止区域及び特別制限水路を設定して海峡を封鎖しもって極東における「ソビエット」社会主義共和国連邦の商船に対し海賊的攻撃を組織的に行なえり


 1941年《昭和16年》夏期における「ソビエット」社会主義共和国連邦に対する「ドイツ」の攻撃後日本は「ドイツ」に援助を与うるため満州における兵力を倍加しかつ後にはこの兵力を百万に増強しもって「ソビエット」連邦をして相当兵力を対「ドイツ」戦に用うる代わりに極東に維持するのやむなきに至らしめたり


 この1941年《昭和16年》の夏日本は「ソビエット」社会主義共和国連邦に対する奇襲攻撃の新たなる計画を作成しかつ関東軍をして右攻撃のため準備完了の態勢に在らしめたり日本は右計画の実行を阻止せられたるがこれは中立条約のために非ずして――上記に見らるるごとく日本は同条約を無視せり――「ソビエット」社会主義共和国連邦軍隊の対「ドイツ」戦における成功に基因したるものなり

第9節 (原資料180枚目)


日本、「アメリカ」合衆国、「フィリッピン」国及び全「イギリス」連邦

  本付属書中の他の節はすべて本節に関連するものなるもここに反復せず


 1931年《昭和6年》より1941年《昭和16年》12月に至るまでの間日本対「アメリカ」合衆国及び「グレート・ブリテン」国の関係は東亜における日本の侵略行為及び国際交渉におけるその言行不一致のゆえに悪化の一路を辿れり


 「アメリカ」合衆国及び「グレート・ブリテン」国は数次に渉り日本の軍事行動が本起訴状訴因第2に記載せる条約規定の違反なることを主張しかつ同条約に基づく中華民国及び日本の義務について両国の注意を喚起せり「アメリカ」合衆国及び「グレート・ブリテン」国は又同条約に違反して満州その他の地域において生起せしめられたるいかなる状態もこれを承認せざるべき旨宣言せり


 日本は紛れなき言辞をもって中華民国に何ら領土的野心を有せざること並びに中華民国における門戸開放政策を尊重すべき旨の誓約を与えたり、これらの誓約にも拘わらず日本は満州国に傀儡政権を樹立し次いで「アメリカ」合衆国及び「イギリス」の通商に対し門戸を閉鎖するの挙に出でたり

 日本は長城以南に何ら領土的野心を有せずとの保証にも拘わらず満州における地歩を固めたる後東亜における侵略政策を継続せり


 「アメリカ」合衆国及び「グレート・ブリテン」国は日本の最大の利益は平和にあることを悟らしめんと努力したり然れども日本の行動よりして同国が隣接せる諸国及び領土を獲得せんがために武力に訴えんと意図せることは明白なりき


 1935年《昭和10年》において日本はその陸海軍兵力を増強し中華民国に対する支配を拡張せんがために制限的軍事行動に着手せり「アメリカ」合衆国及び「グレート・ブリテン」国は引き続き条約上の義務に関し日本の注意を喚起したるも日本の軍事行動に対して何ら効果をもたらさざりき


 1936年《昭和11年》「アメリカ」合衆国は日本をして商業及び産業の分野における機会均等の原則を承認せしめ優先的権利獲得のため武力を行使せしめざることに努力したるもこれまた日本の拒否するところとなりたり


 1937年《昭和12年》日本は「アメリカ」合衆国の提案せる国際関係の諸原則が自国のそれと一致する旨宣言したるも東亜における特殊事情を認識することによりてのみその目的を達し得るものなることを述べこの言明に制限を加えたり1937年《昭和12年》日本はさらに中華民国に軍事的侵略を開始したるをもって「アメリカ」合衆国はその直後紛争に関し斡旋の労を採るべき旨申し入れ両国に対し戦争を回避すべく要望せり該申入れは日本の受諾するところとならず右要望は何らの効果を生ぜざりき同年日本は九国条約の規定に基づき召集せられたる「ブラッセル」会議に出席すべき旨の招請を拒絶せり1937年《昭和12年》8月26日日本国軍隊は在中国「イギリス」大使館所属の自動車を攻撃し又12月12日には揚子江上において「アメリカ」合衆国及び「グレート・ブリテン」国所属の軍艦を攻撃せり


 1938年《昭和13年》末日本は東亜における新秩序政策を宣言しかつ中華民国における門戸開放政策の維持に関し無条件保証を与うることを拒絶せり


 爾後日本支配下の地域における「アメリカ」合衆国国民及び「イギリス」国民の権利の日本による侵害の事実多数発生したるをもって1939年《昭和14年》7月「アメリカ」合衆国は1911年《明治44年》の日米通商条約を終了せしむるの旨の通告を発したり


 1940年《昭和15年》9月日本の「ドイツ・イタリア」両国との軍事同盟締結後「アメリカ」合衆国は日本に対する鉄、鋼鉄及び諸原料の輸出に制限を加うるのやむなきに至れり


 1941年《昭和16年》3月諸懸案を解決し平和的解決に到達せんとの「アメリカ」合衆国の努力により在「ワシントン」日本国大使と「アメリカ」国務長官との間に数次の会談行なわれたり、右会談の進行中日本は引き続き戦争の準備に狂奔せり、7月2日の御前会議において明白に「アメリカ」合衆国、「オランダ」王国及び全「イギリス」連邦に対して向けられたる南進政策決定せられたり、さらに9月6日に開かれたる会議においては日本の要求が10月上旬のある時期までに実現不可能と認められたる場合、「アメリカ」合衆国、「グレート・ブリテン」国及び「オランダ」国に対し敵対行為を開始すべき旨の決定を見たり、越えて12月1日における会議は確定的に開戦を決定せり、上述の最後の二回の会議の決定は秘密になされたり、1941年《昭和16年》12月7日―8日いまだ交渉の続行中日本は真珠湾において「アメリカ」合衆国の領土に対し、「シンガポール」、「マレー」、香港、及び上海において全「イギリス」連邦の領土に対し、又「フィリッピン」国並びに「タイ」国の各領土に対し奇襲攻撃を加えたり日本は宣戦布告書の伝達をなさず又全「イギリス」連邦及び「フィリッピン」国に対しては何らの文書をも交付せざりしなり、「アメリカ」合衆国に対しては前記の攻撃を加えたる後宣戦布告には該当せず又該当せしむる意図なき文書を交付せり

 日本は本起訴状の訴因第7及び第8中に言及したるすべての他の条約上の義務をまったく無視せり

第10節 (原資料184枚目)


日本、「オランダ」王国、「ポルトガル」共和国


 「オランダ」領東「インド」及び「チモール」島の「ポルトガル」領は日本により垂涎せられ「大東亜共栄圏」と称せられたる地域内にありたり


 これら地域を攻撃せざるよう日本を拘束せる一般条約に加うるに条約条項第20及び第21は各々明確なる語句にてこれら諸国に言及せり日本は又「オランダ」と東「インド」に関する条約を締結し居りたるも該地域に対する侵略準備のため1940年《昭和15年》6月12日これを廃棄せり時あたかも「オランダ」本国は日本の同盟国たる「ドイツ」により背信的に席巻せられて間なく、「オランダ」政府はやむなく「イギリス」へ亡命し居りたりその後日本は右亡命政府を強要し日本に不当に有利なる条件にて新条約に同意せしめんと努力したるも右政府はこれに応ぜざりきものなり日本の東亜における一般的侵略戦争の準備には「オランダ」領東「インド」を侵攻する意図を含み居りたり1941年《昭和16年》7月に完了せる日本の仏印占領並びに1941年《昭和16年》12月7日―8日における「アメリカ」合衆国並びに全「イギリス」連邦の諸領土に対する攻撃はすべて「オランダ」領東「インド」への侵入を含む計画の一部なりしなり

 右計画は特定的に1941年《昭和16年》9月6日の御前会議の決議事項の一とせられたるものなりゆえに「オランダ」政府は右攻撃後直ちに自己防衛のため日本に対し宣戦を布告せり


 1942年《昭和17年》1月11日日本は「オランダ」領東「インド」に侵入しその後急速にこれを占領せり


 1942年《昭和17年》2月19日日本は何らの権利を主張することなく又は「ポルトガル」共和国との紛争も存せざるに「ポルトガル」領「チモール」に侵入し全連合国に対する侵略戦争続行の目的のためこれを占領せり

付属書B (原資料186枚目)


日本の違反せる条約条項にして第1類及び第2類に編入せられたるものの表


国際紛争平和的処理条約

1899年《明治32年》7月29日「ヘーグ」において調印


 本条約は日本により、又本起訴状において起訴せる各国により、ここには重要ならざる点につき若干の留保を付して、調印及び批准せられたるものなり

1、第1条

「列国間の関係において兵力に訴うることをなるべく制止せんがため記名国は国際紛議を平和に処理することにその全力を尽くさんことを約定す」

2、第2条

「記名国は重大なる意見の衝突又は紛争を生じたる場合には兵力に訴うるに先だち事情の許す限りその交親国中の一国又は数国に周旋又は居中調停を依頼することを約定す」


国際紛争平和的処理条約

1907年《明治40年》10月18日「ヘーグ」において調印


 本条約は日本により、又本起訴状において起訴せる各国中「イギリス」帝国並びに「ソビエット」社会主義共和国連邦を除きたる諸国により、ここには重要ならざる点につき若干の留保を付して、調印及び批准せられたるものなり


3、第1条

「国家間の関係において兵力に訴うることをなるべく予防せんがため締約国は国際紛争の平和的処理を確保するにつきその全力を尽くさんことを約定す」

4、第2条

「締約国は重大なる意見の衝突又は紛争を生じたる場合には兵力に訴うるに先だち事情の許す限りその交親国中の一国又は数国の周旋又は居中調停に依頼することを約定す」

敵対行為の開始に関する「ヘーグ」第三条約

1907年《明治40年》10月18日「ヘーグ」において調印 (原資料188枚目)


 本条約は日本並びに又本起訴状において起訴せる各国により調印及び批准せられたるものなり

5、第1条

「締約国は理由を付したる開戦宣言の形式又は条件付き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告なくしてその相互間に戦争を開始すべからざることを承認す」

2、第2条

「記名国は重大なる意見の衝突又は紛争を生じたる場合には兵力に訴うるに先だち事情の許す限りその交親国中の一国又は数国に周旋又は居中調停を依頼することを約定す」


「アメリカ」合衆国及び日本国間において極東における双方の政策を表明せる公文の交換により成立せる合意文《別称==太平洋方面に関する交換公文》

1908年《明治41年》11月30日付



6、「2、両国政府の政策は何ら侵略的傾向に制せらるることなく前記方面における現状維持及び清国における商工業の機会均等主義の擁護を目的とす

7、 3、従って両国政府は相互に前記方面において他の一方の有する所領を尊重するの強固なる決意を有す

8、 4、両国政府は又その権内に属する一切の平和手段により清国の独立及び領土保全並びに同帝国における列国の商工業に対する機会均等主義を支持しもって清国における列国の共通利益を保存するの決意を有す

9、 5、前述の現状維持又は機会均等主義を侵迫する事件発生するときは両国政府はその有益と認むる措置に関し協商遂げんがため互いに意見を交換すべし


阿片及びその他の麻薬濫用防遏に関する条約及び最終議定書

1912年《明治45年》1月23日及び1913年《大正2年》7月9日「ヘーグ」において調印


10、本条約は日本並びに本起訴状において起訴せる各国により調印及び批准せられたるものなり

同盟及び連合国と「ドイツ」国との間に締結されたる平和条約、通称「ベルサイユ」条約と称するもの

1919年《大正8年》6月28日「ベルサイユ」において調印 (原資料189枚目)


11、国際連盟規約第10条

「連盟国は連盟各国の領土保全及び現在の政治的独立を尊重しかつ外部の侵略に対してこれを擁護することを約す 右侵略の場合又はその脅威若しくは危険ある場合においては連盟理事会は本条の義務を履行すべき手段を具申すべし」

12、国際連盟規約第12条

「連盟国は連盟国間に国交断絶に至るのおそれある紛争発生するときは当該事件を仲裁裁判又は連盟理事会の審査に付すべくかつ仲裁裁判官の判決後又は連盟理事会の報告後三月を経過するまでいかなる場合においても戦争に訴えざることを約す」

13、国際連盟規約第13条

「連盟国は連盟国間に仲裁裁判に付し得ると認むる紛争を生じその紛争が外交手段によりて満足なる解決を得ること能わざるときは当該事件全部を仲裁裁判に付すべきことを約す

 条約の解釈、国際法上の問題、国際義務の違反となるべき事実の存否並びに該違反に対する賠償の範囲及び性質に関する紛争は一般に仲裁裁判に付し得る事項に属するものなることを声明す

 審理のため紛争事件を付託すべき仲裁裁判所は当事国の合意をもって定め又は当事国間に現存する条約の規定の定むるところによる

 連盟国は一切の仲裁判決を誠実に履行すべくかつ判決に服する連盟国に対しては戦争に訴えざることを約す判決を履行せざるものあるときは連盟理事会はその履行を期するため必要なる処置を提議すべし」

14、国際連盟規約第15条

「連盟国間に国交断絶に至るのおそれある紛争発生し第13条による仲裁裁判に付せられざるときは連盟国は当該事件を連盟理事会に付託すべきことを約す 何れの紛争当事国も紛争の存在を事務総長に通行しもって前記の付託をなすことを得 事務総長はこれが充分なる取調べ及び審理に必要なる一切の準備をなすものとす

 この目的のため紛争当事国はなるべく速やかに当該事件に関する陳述書を一切関係事実及び書類とともに事務総長に提出すべく連盟理事会は直ちにその公表を命ずることを得

 連盟理事会は紛争の解決につとむべくその努力功を奏したるときはその適当と認むるところにより当該紛争に関する事実及び証明並びにその解決条件を記載せる調書を公表すべし

 紛争解決に至らざるときは連盟理事会は全会一致又は過半数の評決に基づき当該紛争の事実を述べ公正かつ適当と認むる勧告を載せたる報告書を作成しこれを公表すべし

 連盟理事会に代表せらるる連盟国は何れも当該紛争の事実及びこれに関する自国の決定につき陳述書を公表することを得

 連盟理事会の報告書が紛争当事国の代表者を除き他の連盟理事会員全部の同意を得たるものなるときは連盟国は該報告書の勧告に応ずる紛争当事国に対し戦争に訴えざるべきことを約す

 連盟理事会において紛争当事国の代表者を除き他の連盟理事会員全部の同意ある報告書を得るに至らざるときは連盟国は正義公道を維持するため必要と認むる処置を執るの権利を留保す

 紛争当事国の一国において紛争が国際法上もっぱら該当事国の管轄に属する事項につき生じたるものなることを主張し連盟理事会これを是認したるときは連盟理事会はその旨を報告しかつこれが解決に関し何らの勧告をもなさざるものとす

 連盟理事会は本条による一切の場合において紛争を連盟総会に移すことを得 紛争当事国一方の請求ありたるときはまたこれを連盟総会に移すべし ただし右請求は紛争を連盟理事会に付託したる後14日以内にこれをなすことを要す

 連盟理事会の行動及び権限に関する本条及び第12条の規定は連盟総会に移したる事件に関しすべてこれを連盟総会の行動及び権能に適用す ただし紛争当事国の代表者を除き連盟理事会に代表せらるる連盟各国代表者及び爾余過半数連盟国の代表者の同意を得たる連盟総会の報告書は紛争当事国の代表者を除き他の連盟理事会員全部の同意を得たる連盟理事会の報告書と同一の効力を有すべきものとす」

15、国際連盟規約第22条

「他の人民殊に中央「アフリカ」の人民は受任国においてその地域の施政の責に任ずべき程度に在りもっとも受任国は公の秩序及び善良の風俗に反せざる限り良心及び信教の自由を許与し奴隷の売買又は武器若しくは火酒類の取引のごとき弊習を禁止し並びに築城又は陸海軍根拠地の建設及び警察又は地域防衛以外のためにする土民の軍事教育を禁遏すべきことを保障しかつ他の連盟国の通商貿易に対し均等の機会を確保することを要す

 西南「アフリカ」及びある南太平洋諸島のごとき地域は人口の稀薄、面積の狭小、文明の中心より遠きこと又は受任国領土と隣接せること その他の事情により受任国領土の構成部分としてその国法の下に施政を行なうをもって最善とす ただし受任国は土着人民の利益のため前記の保障を与うることを要す」

16、国際連盟規約第23条(ハ)

「連盟国は現行又は将来協定せらるべき国際条約の規定に遵由し・・・・

(ハ)婦人及び児童の売買並びに阿片その他の有害薬物の取引に関する取極めの実行につき一般監視を連盟に委託すべし」

1920年《大正9年》12月17日「ジュネーヴ」において締結されたる「ベルサイユ」条約に基づく国際連盟の委任統治条項 (原資料193枚目)


17、第3条

「受任国は奴隷売買を禁止すること並びに須要なる公共的工事及び役務のためにする場合を除くの外強制労働を許容せざることを督視すべし 右例外の場合においても相当の報償を支払うことを要す」

18、第4条

「土着民の軍事教育は地域内警察及び本地域の地方的防衛のためにする場合を除くの外これを禁止すべし 又本地域内に陸海軍根拠地又は築城を建設することを得ず」


1921年《大正10年》12月13日の全「イギリス」、「フランス」、日本及び「アメリカ」合衆国間の太平洋方面におけるその島嶼たる局地及び島嶼たる領地に関する条約

本条約は署名国により調印及び批准せられたるものなり


19、第1条

「締約国は互いに太平洋方面におけるその島嶼たる属地及び島嶼たる領地に関するその権利を尊重すべきことを約す

 締約国は何れかの間に太平洋問題に起因しかつ前記の権利に関する争議を生じ外交手段によりて満足なる解決を得ることを能わずかつその間に幸いに現存する円満なる協調に影響を及ぼすおそれある場合においては右締約国は共同会議のため他の締約国を招請し当該事件全部を考慮調整の目的をもってその議に付すべし」


全「イギリス」より、又「必要なる変更を施したる上」1921年《大正10年》12月13日の四国太平洋条約の署名国たる日本及び他の諸国より「オランダ」国政府に対し発したる1922年《大正11年》2月4日付同文通牒に曰く


20、「オランダ」国は 前記条約の署名国にあらず従って太平洋方面における同国の属地は前記協定中に包含せられざるにより「イギリス」皇帝陛下の政府は該条約の精神に反する断定の生ずる余地なからしむることを望み太平洋方面における「オランダ」国の島嶼たる属地に関する同国の権利を尊重することを固く決意したる旨ここに声明せんと欲す《言語部注==起訴状英文に引用符なくして引用されあるゆえ訳文もそのまま引用す》


全「イギリス」連邦より、又「必要なる変更を施したる上」1921年《大正10年》12月13日の四国太平洋条約の署名国たる日本及び他の諸国より「オランダ」国政府(「ポルトガル」国政府の誤り)に対し発したる1922年《大正11年》2月6日付同文通牒に曰く


21、「ポルトガル」国は前記条約の署名国にあらず従って太平洋方面における同国の属地は前記協定中に包含せられざるにより「イギリス」皇帝陛下の政府は該条約の精神に反する断定の生ずる余地なからしむることを望み太平洋方面における「ポルトガル」国の島嶼たる属地に関する同国の権利を尊重することを固く決意したる旨ここに声明せんと欲す

「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「ベルギー」、中華民国、「フランス」、「イタリア」、日本、「オランダ」及び「ポルトガル」間において1922年《大正11年》2月6日「ワシントン」において締結調印せられ九国条約として知らるる条約 (原資料195枚目)


 本条約は日本により、又「ソビエット」社会主義共和国連邦を除き本起訴状において起訴せる各国により調印及び批准せられたるものなり


第1条

「中華民国以外の締約国は左の通り約定す

22、(1)中国の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること

23、(2)中国が自ら有力かつ安固なる政府を確立継持するため最完全にしてかつ最障礙なき機会をこれに供与すること

24、(3)中国の領土を通して一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するため各尽力すること

25、(4)友好国の臣民又は人民の権利を減殺すべき特別の権利又は特権を求むるため中国における情勢を利用することを及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控うること」

第2条

26、「締約国は第1条に記載する原則に違背し又はこれを害すべきいかなる条約、協定、取極め又は了解を相互の間に又は各別に若しくは協同して他の一国又は数国との間に締結せざるべきことを約定す」

第3条

「一切の国民の商業及び工業に対し中国における門戸開放又は機会均等の主義を一層有効に適用するの目的をもって中国以外の締約国は左を要求せざるべく又各自国民の左を要求することを支持せざるべきことを約定す

27、(イ)中国の何れかの特定地域において商業上又は経済上の発展に関し自己の利益のため一般的優越権利を設定するに至ることあるべき取極め

28、(ロ)中国において適法なる商業若しくは工業を営むの権利又は公共企業をその種類のいかんを問わず中国政府若しくは地方官憲と共同経営するの権利を他国の国民より奪うがごとき独占権又は優先権あるいはその範囲、期間又は地理的限界の関係上機会均等主義の実際的適用を無効に帰せしむるものと認めらるるがごとき独占権又は優先権

本条の前記規定は特定の商業上、工業上若しくは金融業上の企業の経営又は発明及び研究の奨励に必要なるべき財産又は権利を取得を禁ずるものと解釈すべからざるものとす

中国は本条約の当事国なると否とを問わず一切の外国の政府及び国民よりの経済上の権利及び特権に関する出願を処理するにつき本条の前記規定に記載する主義に遵由すべきことを約す」

第4条

29、「締約国は各自国民相互間の協定にして中国領土の特定地方において勢力範囲を創設せんとし又は相互間の独占的機会を共有することを定めんとするものを支持せざることを約定す」

第7条

30、「締約国はその何れかの一国が本条約の規定の適用問題を包含しかつ右適用問題の討議をなすを望ましと認むる事態発生したるときは何時にても関係締約国間に充分にしてかつ隔意なき交渉をなすべきことを約定す」

1922年(大正11年)2月11日「ワシントン」において調印せられたる「アメリカ」合衆国日本間の条約 (原資料198枚目)


 本条約は署名国により調印及び批准せられたるものなり


第2条

31、「合衆国は国際連盟の連盟国にあらざるも同国及びその国民は前記委任統治条項第3条第4条及び第5条に規定する日本国の約束の一切の利益を享くべし」


1925年《大正14年》2月19日「ジュネーヴ」において調印せられたる国際連盟第二回阿片会議条約


32、本条約は日本により、又「ソビエット」社会主義共和国連邦、中華民国及び「アメリカ」合衆国を除き本起訴状において起訴せし各国家により調印及び批准せられたるものなり


1928年(昭和3年》8月27日「パリー」において締結調印せられ「ケロッグ・ブリアン」条約さらに又「パリー」条約として知らるる「アメリカ」合衆国大統領、「ドイツ」国大統領、「ベルギー」国王陛下、「フランス」共和国大統領、「グレート・ブリテン・アイルランド」及び「イギリス」海外自治領国王「インド」皇帝陛下、「イタリア」国王陛下、日本国皇帝陛下、「ポーランド」共和国大統領、「チェッコスロバキア」共和国大統領間の条約


 本条約は署名国により調印及び批准せられたるものなり


第1条

33、「締約国は国際紛争解決のため戦争に訴うることを非としかつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言す」

第2条

34、「締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争又は紛議はその性質又は起因のいかんを問わず平和的手段によるの外これが処理又は解決を求めざることを約す」


1928年《昭和3年》8月27日の「ケロッグ・ブリアン」条約第1条に関する1929年《昭和4年》6月27日の日本帝国政府宣言


「帝国政府は1928年《昭和3年》8月27日「パリー」において署名せられたる戦争放棄に関する条約第1条中の「その各自の人民の名において」なる字句は帝国憲法の条章より観て日本国に限り適用なきものと了解することを宣言す」

麻薬に関する条約

1931年《昭和6年》7月13日「ジュネーヴ」において調印 (原資料200枚目)


35、本条約は日本により、又「ソビエット」社会主義共和国連邦、中華民国、「オーストラリア」連邦並びに「ニュージーランド」を除き本起訴状において起訴せる各国により調印及び批准せられたるものなりただし日本の場合においては署名議定書記載の留保付なりとす


友好関係の存続及び相互の領土尊重に関する日本国「タイ」国間条約

1940年《昭和15年》6月12日東京において調印す


本条約は署名国により調印及び批准せられたるものなり

第1条

36、「締約国は相互に他方の領土を尊重すべくかつ両国間に存在する恒久の平和及び無窮の友好関係をここに再確認す」


陸戦の場合における中立国及び中立人の権利及び義務に関する条約

1907年《明治40年》10月18日「ヘーグ」において調印


第1条

37、「中立国の領土は不可侵とす」

第2条

38、「交戦者は軍隊又は弾薬若しくは軍需品の輜重をして中立国の領土を通過せしむることを得ず」


「ロシア」及び日本国間に「ポーツマス」において1905年《明治38年》9月5日調印せられたる条約


左記のごとき規定あり

第2条(第3項)

39、両締約国は一切誤解の原因を避けんがため露韓間の国境において「ロシア」国又は韓国の領土の安全を侵迫することあるべき何らの軍事上措置を執らざることに同意す《英文に引用符なきゆえそのまま、以下47項まで同じ》

第3条(第1部及び第2部)

日本国及び「ロシア」国は互いに左のことを約す

40、(1)本条約に付属する追加約款第1の規定に従い遼東半島租借権がその効力を及ぼす地域以外の満州より全然かつ同時に撤兵すること

41、(2)前記地域を除くの外現に日本国又は「ロシア」国の軍隊において占領し又はその監理の下にある満州全部を挙げて全然清国専属の行政に還付すること

第4条

42、日本国及び「ロシア」国は清国が満州の商工業を発達せしめんがため列国に共通する一般の措置を執るにあたりこれを阻礙(そがい。=阻害)せざることを互いに約す

第7条(第1項)

43、日本国及び「ロシア」国は満州における各自の鉄道をまったく商工業の目的に限り経営し決して軍略の目的をもってこれを経営せざることを約す

第9条(第2項)

44、日本国及び「ロシア」国は「サガレン」島又はその付近の島嶼における各自の領地内に保壘その他これに類する軍事上工作物を築造せざることを互いに同意す又両国は各宗谷海峡及び韃靼海峡の自由航海を防礙(ぼうがい)することあるべき何らの軍事上措置を執らざることを約す

日本国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦間の関係を律する基本的規則に関する条約

1925年《大正14年》1月20日北京において調印 (原資料202枚目)


本条約は署名国により調印及び批准せられたるものなり

第5条

45、両締約国は互いに平和及び友好の関係を維持すること、自国の法権内において自由に自国の生活を律する当然なる国の権利を充分に尊重すること、公然又は陰密の何らかの行為にしていやしくも日本国又は「ソビエット」社会主義共和国連邦の領域の何れかの部分における秩序及び安寧を危殆ならしむることあるべきものはこれをなさずかつ締約国のため何らかの政府の任務にある一切の人及び締約国より何らかの財的援助を受くる一切の団体をして右の行為をなさしめざることの希望及び意嚮(いこう=意向)を厳粛に確認す


又締約国はその法権内にある地域において (イ)他方の領域のいずれかの部分に対する政府なりと称する団体若しくは集団又は (ロ)右団体若しくは集団のため政治上の活動を厳に行なうものと認めらるべき外国人たる臣民若しくは人民の存在を許さざるべきことを約す


「ソビエット」社会主義共和国連邦及び日本間の中立条約

1941年《昭和16年》4月13日「モスコー」において調印


本条約は締約国により調印及び批准せられたるものなり


第1条

46、両締約国は相互間に平和的かつ友好的なる国交を維持しかつ相手国の領土保全及び不可侵を相互に尊重することを約定す

第2条

47、締約国の一が他の一国又は数国の軍事行動の目的となりし場合においては他の締約国は該紛争の全期間を通じて中立を維持するものとす

付属書C (原資料205枚目)


日本の違反せる公式誓約にして第1類の一部をなせるものの表


1、1931年《昭和6年》9月25日=日本は満州に何ら領土的企図を有せずとの誓約


2、1931年《昭和6年》11月25日=日本軍の錦州進撃の報は事実無根なりとの誓約


3、1931年《昭和6年》12月22日=日本は中華民国の主権を承認し又門戸開放政策を維持すべしとの誓約


4、1933年《昭和8年》1月5日=日本は中華民国長城以南に領土的野心を有せずとの誓約


5、1934年《昭和9年》4月25日=日本は中華民国において特殊権益を求め、中華民国の領土的及び行政的保全を侵害し、又は中華民国と他国間の善意なる貿易に支障を来たすがごとき意図は一切有せずとの誓約


6、1937年《昭和12年》8月15日=日本は中華民国に対し領土的企図を懐かず又中華民国における外国の権益を保護するに努力を惜しまざるべしとの誓約


7、1937年《昭和12年》9月=日本は北支において平和的意図を有し領土的企図を有せずとの誓約


8、1939年《昭和14年》2月17日=日本は中華民国において領土的企図を有せず又占領は軍事的必要を超ゆることなかるべしとの誓約


9、1939年《昭和14年》8月26日=日本は防共協定の下に「ドイツ」及び「イタリア」と尚一層緊密なる関係を結ぶがごとき交渉は今後一切これをなさざることに決定せりとの誓約


10、1940年《昭和15年》4月15日=日本は「オランダ」領東「インド」の現状維持を希望すとの誓約


11、1940年《昭和15年》5月16日=日本は「オランダ」領東「インド」攻撃の計画又は意図を有せずとの誓約


12、1941年《昭和16年》3月24日=日本はいかなる事情の下にも、「アメリカ」合衆国、「グレート・ブリテン」国並びに「オランダ」領東「インド」を攻撃することなかるべしとの誓約


13、1941年《昭和16年》7月8日=日本は現在まで「ソビエット」社会主義共和国連邦との戦争の可能性を考慮せることなしとの誓約


14、1941年《昭和16年》7月10日=日本は仏印に対する行動を何ら企図せずとの誓約


15、1941年《昭和16年》12月5日=仏印における軍隊移動は予防的措置なりとの誓約

付属書D (原資料208枚目)


第3類の一部をなすべきもの


 戦争の法規及び慣例は一部分は文明諸国の慣行により、又一部分は当事者を直接拘束するか又は確立せられかつ承認せられたる規則の証拠たる条約及び誓約によりて確立せらる 以下本付属書の各部分に記載せる条約及び誓約は何れも概して両目的のために依拠せらるるものにして、ここにはその最も重要なる条項のみを引用す


1、1907年(明治40年)10月18日「ヘーグ」において締結せられたる陸戦の法規慣例に関する第四条約は(他の事項とともに)左のごとく規定す


 「締約国の所見によれば右条規は軍事上の必要の許す限り努めて戦争の惨害を軽減するの希望をもって定められたるものにして交戦者相互間の関係及び人民との関係において交戦者の行動の一般の准縄なるべきものとす


 ただし実際に起こる一切の場合に普く適用すべき規定はこの際これを協定しおくこと能わざりしといえども明文なきのゆえをもって規定せられざる総ての場合を軍隊指揮者の擅断に委するまた締約国の意思にあらざりしなり


 一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至るまでは、締約国はその採用したる条規に含まれざる場合においても人民及び交戦者が依然文明国民の間に存立する慣習、人道の法則及び公共の良心の要求より生ずる国際法の原則の保護及び支配の下に立つことを確認するをもって適当と認む」


 右条約の一部をなす付属書中に記載せられたる規定はその第1款において交戦者及び俘虜に関し第2款において戦闘に関し並びに第3款においては敵国の領土における軍の権力に関し規定せり

 右付属書第1款第4条は(他の事項とともに)左のごとく規定す


「俘虜は敵の政府の権内に属しこれを捕えたる個人又は部隊の権内に属することなし」


 その同じ時その同じ場所において締結せられたる第十条約は海戦に関す

条規諸条約は日本により、又本起訴状において起訴せる各国を含む40箇国以上の国々により、又はこれらの国々を代表して、本件には重要ならざる若干の留保を付したる上、調印及び批准せられ、かくして戦争の法規及び慣例の一部又はその証拠となるに至れり

(原資料209枚目)


2、上記条約により意図せられたる戦争法規に関する一層完備したる法典は俘虜に関しては1929年《昭和4年》7月27日「ジュネーヴ」において締結せられたる「俘虜の待遇に関する国際条約」(以下『「ジュネーヴ」条約』と称す)に包含せらる。

 日本は右条約を批准せざりしといえども右条約は下記理由の一又は数個のため日本は拘束するに至れり


(イ) 本条約は日本により、又本起訴状において起訴せる各国を含む47箇国により、若しくはこれら諸国を代表して、上記日付をもって調印せられ、かつ40箇国以上により批准せられ、かくして戦争の法規慣例の一部分となり又はその証拠となるに至れり


(ロ) 被告の一人たる東郷重徳が日本を代表する外務大臣として署名したる1942年《昭和17年》1月29日付東京駐箚「スイス」公使宛の通告は左の声明を包含せり

『俘虜の待遇に関する条約の拘束を受けざる次第なるも日本は「アメリカ」人たる俘虜に対しては同条約の規定を準用すべし』


 被告の一人たる東郷重徳より日本を代表する外務大臣として東京駐箚「アルゼンチン」公使に宛てたる1942年《昭和17年》1月30日又はその頃の日付の通告中には左のごとく声明せり

「帝国政府は1929年《昭和4年》7月27日付俘虜待遇に関する条約はいまだ御批准あらせられず、よって帝国政府はいささかもこれに拘束されず、しかれども帝国政府は右条約の規定を帝国の権力下にある「イギリス」、「カナダ」、「オーストラリア」及び「ニュージーランド」の俘虜に準用するものとす

俘虜に対する食料及び衣料の補給に関しては帝国は交互的を条件として俘虜の国民的及び民族的習慣を考慮すべし』


右二つの通告又はその一により日本は該条約第95条に従い該条約に加入したるものにしてその当時における戦争の状況はかかる加入に直ちに効果を与えたり


(ハ) 右二つの通告はその各受領者を通じ右通告が伝達さるる事を意図せられかつ実際伝達せられたる「アメリカ」合衆国、「グレート・ブリテン」北「アイルランド」連合王国、「カナダ」、「オーストラリア」及び「ニュージーランド」に対する誓約を構成するとともにその各場合において日本と戦争中なりしすべての国家に対する誓約を構成せしものなり

上記の事項を除外すれば上記「ジュネーヴ」条約中には「準用(「準用」に小さな丸で傍点あり)」なる字句が適当に当てはまるべき規定なし

付属書E (原資料220枚目)


    起訴状に記載せる犯罪に対する個人的責任に関する記述

 以下において各被告の氏名の次に示されたる記述は検察当局において他の事項とともに当該被告の個人的責任を確証するものとして依存する事項たり


 各被告に対してその占むる地位よりする権力、威信及び個人的勢力を利用し、本起訴状中当該被告の氏名を記載せる各訴因に掲げられたる犯罪行為を促進しかつ遂行するために用いたることを訴追するものとす


 各被告に対して以下においてその氏名に対し掲げられたる期間中彼が団員たりし諸内閣及び彼が支配的地位を有せし一般官庁機関、陸軍機関又は海軍機関のすべての行為又は懈怠行為に対する責任者の一人たりしことを訴追するものとす


各被告に対してその氏名の後に掲げられたる番号により示さるる通り1941年《昭和16年》12月7日、8日の不法なる戦争を準備しこれに導きたる1941年《昭和16年》における左記時日又はその頃開催せられたる会議及び閣議のいくつかにおいて採択せられたる諸決議の際に出席しかつこれに同意せしことを訴追するものとす


1、1941年《昭和16年》6月25日 (連絡会議)

2、1941年《昭和16年》6月26日 (連絡会議)

3、1941年《昭和16年》6月27日 (連絡会議)

4、1941年《昭和16年》6月28日 (連絡会議)

5、1941年《昭和16年》6月30日 (軍事参議官会議)

6、1941年《昭和16年》7月2日  (御前会議)

7、1941年《昭和16年》8月7日  (思想対策協議会)

8、1941年《昭和16年》8月22日 (閣議)

9、1941年《昭和16年》9月6日  (御前会議)

10、1941年《昭和16年》10月17日 (重臣会議)

11、1941年《昭和16年》11月28日 (連絡会議)

12、1941年《昭和16年》11月29日 (重臣会議)

13、1941年《昭和16年》12月1日  (御前会議)

14、1941年《昭和16年》12月1日  (閣議)


荒木

 被告荒木は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 教育総監部本部長(1931年)《昭和6年》

 犬養内閣及び斎藤内閣の陸軍大臣(1931年12月より1934年7月まで)《昭和6年12月より昭和9年7月まで》

 陸軍大将(1933年)《昭和8年》

 軍事参議官(1934年より1936年まで)《昭和9年より昭和11年まで》

 内閣参議(1937年)《昭和12年》

 近衛内閣次いで平沼内閣における文部大臣(1938年5月より1939年8月まで)《昭和13年5月より昭和14年8月まで》

 内閣参議(1940年)《昭和15年》


土肥原

 被告土肥原は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 在満州特務機関長(1931年9月)《昭和6年9月》

 奉天市長(1931年9月より同年年10月まで)《昭和6年9月より同年10月まで》

 関東軍司令部付(1933年)《昭和8年》

 華北の自治政府の顧問

 満州駐屯第五軍司令官(1938年より1940年まで)《昭和13年より昭和15年まで》

 軍事参議官(1940年より1943年8月まで)《昭和15年より昭和18年8月まで》

 陸軍航空総監(1941年)《昭和16年》

 陸軍大将(1941年4月)《昭和16年4月》

 東部軍司令官(1943年)《昭和18年》

 在「シンガポール」第七方面軍司令官(1944年より1945年まで)《昭和19年より昭和20年まで》

 教育総監(1945年4月)《昭和20年4月》

 《出席せる》会議 五《英文第118及び119頁すなわち付属書E第3パラグラフ以下参照)

橋本

 被告橋本は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 参謀本部付(1933年9月)《昭和8年》

 退役(1936年2月)《昭和11年2月》

 『橋下欣五郎の宣言』の著者(1936年)《昭和11年》

 復役(1937年)《昭和12年》

 南京暴虐事件当時における現地砲兵連隊長(1937年)《昭和12年》

 「レディーバード」号及び「パネー」号砲撃の日本軍指揮官(1937

年)《昭和12年》

 多数の書籍並びに雑誌『太陽大日本』誌その他多数の出版物に掲載せられたる多数の論文の筆者にして又講演者。右は何れも侵略的戦争を鼓吹せるものなり

 軍による政治支配の扇動並びに侵略的戦争促進を目的とする多くの団体の会員

 彼が充分侵略的又は積極的なりと思考せざる政治家及び将校の抹

殺を目的とせる多数策謀の張本人

 大政翼賛会創設者の一人(1940年)《昭和15年》

 衆議院議員(1942年)《昭和17年》

畑 (原資料223枚目)

 被告畑は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 在満州師団長(1933年)《昭和8年》

 陸軍航空本部長(1935年)《昭和10年》

 台湾軍司令官(1936年より1937年まで)《昭和11年より昭和12年まで》

 教育総監及び軍事参議官(1937年8月)《昭和12年8月》

 陸軍大将(1937年2月)《昭和12年2月》

 中支那派遣軍最高指揮官(1938年2月)《昭和13年2月》

 軍事参議官(1939年1月)《昭和14年1月》

 阿部内閣陸軍大臣(1939年8月より1940年1月まで)《昭和14年8月より昭和15年1月まで》

 中支那派遣軍最高指揮官(1940年7月より1944年まで)《昭和15年7月より昭和19年まで》

 元帥府に列せられ元帥の称号を与えらる(1944年6月)《昭和19年6月》

 教育総監(1944年11月)《昭和19年11月》


平沼

 被告平沼は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 国本社の創設者及び1926年より1936年《大正15年より昭和11年》に至るまでの期間における総裁

 枢密院副議長(1930年より1936年まで)《昭和5年より昭和11年まで》

 枢密院議長(1936年より1939年まで)《昭和11年より昭和14年まで》

 内閣総理大臣(1939年1月より8月まで)《昭和14年1月より8月まで》

 近衛内閣無任所大臣並びに一時内務大臣後に副総理(1940年7月より1941年10月まで)《昭和15年7月より昭和16年10月まで》

 思想対策協議会委員(1941年8月)《昭和16年8月》

 枢密院議長(1945年)《昭和20年》

 《出席せる》会議 1、2、3、4、6、7、8、12、《土肥原の項参照》


広田

 被告広田は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 「ソビエット」社会主義共和国連邦駐箚大使(1930年)《昭和5年》

 斎藤内閣外務大臣(1933年9月より1934年7月まで)《昭和8年9月より昭和9年7月まで》及び岡田内閣外務大臣(1934年7月より1936年3月まで)《昭和9年7月より昭和11年3月まで》

 内閣総理大臣及び一時外務大臣兼攝(1936年3月より1937年2月まで)《昭和11年3月より昭和12年2月まで》

 近衛内閣外務大臣(1937年6月より1938年5月まで)《昭和12年6月より昭和13年5月まで》

 内閣参議の一員(1940年)《昭和15年》

 《出席せる》会議 10、12、《土肥原の項参照》


星野

 被告星野は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 満州国政府財政部総務司長(1932年)《昭和7年》

 満州国財政部総務司長(1934年)《昭和9年》

 満州国政府財政部次長(1936年)《昭和11年》

 満州国国務院総務庁長(1936年12月)《昭和11年12月》

 満州国総務長官(1938年)《昭和13年》

 近衛内閣企画院総裁、後に無任所《国務》大臣(1940年7月より1941年4月まで)《昭和15年7月より昭和16年4月まで》

 東条内閣書記官長及び国務大臣(1941年10月16日より1944年7月まで)《昭和16年10月16日より昭和19年7月まで》

 大蔵省顧問(1944年12月)《昭和19年12月》

 《出席せる》会議 11、14、《土肥原の項参照》


板垣

 被告板垣は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 関東軍陸軍大佐(1929年)《昭和4年》

 関東軍陸軍少将(1932年)《昭和7年》

 関東軍参謀副長(1934年)《昭和9年》

 在支第五師団長(1937年3月)《昭和12年3月》

 関東軍参謀長(1936年より1937年まで)《昭和11年より昭和12年まで》

 参謀本部付(1937年5月)《昭和12年5月》

 近衛内閣及び平沼内閣陸軍大臣兼内閣対満事務局総裁(1938年6月より1939年8月まで)《昭和13年6月より昭和14年8月まで》

 支那派遣軍参謀長(1939年9月)《昭和14年9月》

 陸軍大将(1941年7月)《昭和16年7月》

 朝鮮軍司令官(1941年7月より1945年まで)《昭和16年7月より昭和20年まで》

 軍事参議官(1943年)《昭和18年》

 在「シンガポール」第七方面軍司令官(1945年4月)《昭和20年4月》

賀屋 (原資料228枚目)

 被告賀屋は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 大蔵書記官(1934年)《昭和9年》

 近衛内閣大蔵大臣(1937年6月より1938年5月まで)《昭和12年6月より昭和13年5月まで》

 興亜委員会委員(1939年)《昭和14年》

 北支那開発会社総裁(1939年より1941年まで)《昭和14年より昭和16年まで》

 東条内閣大蔵大臣(1941年6月より1944年2月まで)《昭和16年6月より昭和19年2月まで》《英語原文のまま》

 翼賛政治会理事(1944年)《昭和19年》

 《出席せる》会議 11、12、13、14、《土肥原の項参照》


木戸

 被告木戸は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 内大臣秘書官長(1930年)《昭和5年》

 近衛内閣文部大臣(1937年)《昭和12年》

 近衛内閣厚生大臣(1938年)《昭和13年》

 平沼内閣内務大臣(1939年)《昭和14年》

 内大臣(1940年より1945年まで)《昭和15年より昭和20年まで》

 《出席せる》会議 10、12、《土肥原の項参照》


木村

 被告木村は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 関東軍参謀長(1940年)《昭和15年》

 近衛内閣及び東条内閣陸軍次官(1941年より1944年2月まで)《昭和16年より昭和19年2月まで》

 軍事参議官(1943年)《昭和18年》

 「ビルマ」方面軍司令官(1944年)《昭和19年》

 陸軍大将(1945年)《昭和20年》


小磯

 被告小磯は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 陸軍軍務局長(1930年)《昭和5年》

 犬養内閣陸軍次官(1932年)《昭和7年》

 関東軍参謀長(1932年より1934年まで)《昭和7年より昭和9年まで》

 朝鮮軍司令官(1935年より1936年まで)《昭和10年より昭和11年まで》

 陸軍大将(1937年)《昭和12年》

 平沼内閣拓務大臣(1939年)《昭和14年》及び米内内閣拓務大臣(1940年)《昭和15年》

 朝鮮総督(1942年5月)《昭和17年5月》

 内閣総理大臣(1944年7月より1945年4月まで)《昭和19年7月より昭和20年4月まで》

松井

 被告松井は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 「ジュネーヴ」会議における日本陸軍代表(1931年)《昭和6年》

 軍事参議官(1933年3月)《昭和8年3月》

 陸軍大将(1933年)《昭和8年》

 大東亜協会創設者の一人(1933年)《昭和8年》

 中支那方面軍司令官(1937年10月より1938年2月まで)《昭和12年10月より昭和13年2月まで》

 内閣参議(1938年7月より1940年1月まで)《昭和13年7月より昭和15年1月まで》

 興亜同盟顧問(1940年)《昭和15年》

 大政翼賛会大東亜事務局顧問(1943年)《昭和18年》

 大東亜振興会総裁(1944年)《昭和19年》


松岡

 被告松岡は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 国際連盟会議への首席代表(1933年)《昭和8年》

 南満州鉄道会社総裁(1935年より1939年まで)《昭和10年より昭和14年まで》

 内閣参議(1940年)《昭和15年》

 近衛内閣外務大臣(1940年7月より1941年7月まで)《昭和15年7月より昭和16年7月まで》

 『昭和維新』(1938年)《昭和13年》及び侵略的戦争を鼓吹せるその他の著書、論文、演説の筆者及び講演者

 《出席せる》会議 1、2、3、4、6、《土肥原の項参照》



 被告南は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 朝鮮軍司令官(1929年)《昭和4年》

 若槻内閣陸軍大臣(1931年4月より1931年12月まで)《昭和6年4月より昭和6年12月まで》

 軍事参議官(1931年より1934年まで)《昭和6年より昭和9年まで》

 関東軍司令官(1934年より1936年まで)《昭和9年より昭和11年まで》

 朝鮮総督(1936年より1942年まで)《昭和11年より昭和17年まで》

 枢密院顧問(1942年より1945年まで)《昭和17年より昭和20年まで》

 大日本政治会総裁(1945年)《昭和20年》


武藤

 被告武藤は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

  陸軍大学校教官(1930年より1932年まで)《昭和5年より昭和7年まで》

 陸軍省軍務局先任将校(1935年より1936年まで)《昭和10年より昭和11年まで》

 参謀本部課長(1937年)《昭和12年》

 中支那方面軍司令部付(1937年8月)《昭和12年8月》

 陸軍大佐、関東軍司令部付

 陸軍省軍務局長(1939年10月より1942年4月まで)《昭和14年10月より昭和17年4月まで》

 在「スマトラ」近衛第二師団長(1943年)《昭和18年》

 山下大将麾下在「フィリッピン」第十四方面軍参謀長(1944年10月)《昭和19年10月》

 《出席せる》会議 1、2、3、4、6、9、11、13、《土肥原の項参照》



永野

 被告永野は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 海軍軍令部次長(1930年)《昭和5年》

 「ジュネーヴ」海軍軍縮会議への全権委員(1931年)《昭和6年》

 軍事参議官(1933年)《昭和8年》

 海軍大将(1934年)《昭和9年》

 「ロンドン」海軍軍縮会議への首席代表(1935年)《昭和10年》

 広田内閣海軍大臣(1936年3月より1937年2月まで)《昭和11年3月より昭和12年2月まで》

 連合艦隊司令長官(1937年)《昭和12年》

 軍事参議官(1940年)《昭和15年》

 海軍軍令部総長(1941年4月より1944年2月まで)《昭和16年4月より昭和19年2月まで》

 天皇のための海軍関係の最高顧問、1944年《昭和19年》2月より

 《出席せる》会議 1、2、3、4、6、9、11、13、《土肥原の項参照》

岡 (原資料233枚目)

 被告岡は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 海軍軍令部付(1930年)《昭和5年》

 海軍省軍務局課長(1938年)《昭和13年》

 海軍省軍務局長(1940年10月より1944年8月まで)《昭和15年10月より昭和19年8月まで》

 海軍中将(1942年)《昭和17年》

 小磯内閣海軍次官(1940年10月より1944年8月まで)《昭和15年10月より昭和19年8月まで》

 鎮海(朝鮮)警備府司令長官(1944年9月より1945年6月まで)《昭和19年9月より昭和20年6月まで》

 《出席せる》会議 1、2、3、4、6、9、11、13、《土肥原の項参照》


大川

 被告大川は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 南満州鉄道会社東亜経済調査局理事長、1926年《大正15年》より

 奉天事件の組織者の一人(1931年9月18日)《昭和6年9月18日》

 『日本歴史読本』の著者(1935年)《昭和10年》並びに「アジア」より白色人種の武力放逐を目的とする侵略戦争を鼓吹せる著書、論文及び演説の筆者並びに講演者



大島

 被告大島は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 「ベルリン」大使館付陸軍武官(1936年)《昭和11年》

 「ドイツ」国駐箚大使(1938年10月より1939年10月まで)《昭和13年10月より昭和14年10月まで》さらに1941年《昭和16年》2月より1945年《昭和20年》4月まで同国駐箚大使



佐藤

 被告佐藤は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 陸軍大学校教官(1935年)《昭和10年》

 陸軍省軍務局付

 企画院事務官(1937年より1938年まで)《昭和12年より昭和13年まで》

 陸軍省軍務局軍務課長(1941年2月より1942年4月まで)《昭和16年2月より昭和17年4月まで》

 陸軍少将(1941年10月)《昭和16年10月》

 陸軍省軍務局長(1942年4月より1944年12月まで)《昭和17年4月より昭和19年12月まで》

 陸軍中将(1945年3月)《昭和20年3月》


重光

 被告重光は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 中華民国駐箚公使(1931年)《昭和6年》

 斎藤内閣及び岡田内閣における外務次官(1933年より1936年まで)《昭和8年より昭和11年まで》

 「ソビエット」社会主義共和国連邦駐箚大使(1936年11月より1938年11月まで)《昭和11年11月より昭和13年11月まで》

 「イギリス」駐箚大使(1938年より1941年6月まで)《昭和13年より昭和16年6月まで》

 南京傀儡政権駐箚大使(1941年12月より1943年4月まで)《昭和16年12月より昭和18年4月より》

 東条内閣外務大臣(1943年4月より1944年7月まで)《昭和18年4月より昭和19年7月まで》並びに小磯内閣外務大臣兼大東亜大臣(1944年7月より1945年4月まで)《昭和19年7月より昭和20年4月まで》


嶋田

 被告嶋田は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 連合艦隊参謀長(1930年)《昭和5年》

 海軍軍令部長(1935年より1937年まで)《昭和10年より昭和12年まで》

 第二艦隊司令長官(1937年12月)《昭和12年12月》

 支那方面艦隊司令長官(1940年5月)《昭和15年5月》

 海軍大将(1940年)《昭和15年》

 東条内閣海軍大臣(1941年10月)《昭和16年10月》

 軍事参議官(1944年)《昭和19年》

 海軍軍令部総長(1944年2月より7月まで)《昭和19年2月より7月まで》

 《出席せる》会議 12、13、14、《土肥原の項参照》


白鳥

 被告白鳥は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 外務省情報部長(1930年)《昭和5年》

 「スェーデン」、「ノルウェー」、「デンマーク」、「フィンランド」駐箚公使(1936年)《昭和11年》

 「イタリア」駐箚大使(1939年)《昭和14年》

 外務省顧問(1940年)《昭和15年》

 『コンテンポラリー・ジャパン』誌上の『東亜新秩序』建設上世界戦争の必然性を指摘せる論文の筆者(1941年4月16日)《昭和16年4月16日》

 翼賛政治会総務(1943年)《昭和18年》


鈴木

 被告鈴木は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 陸軍省軍務課員(1931年)《昭和6年》

 陸軍省軍務局付(1933年)《昭和8年》

 内閣調査局調査官(1935年)《昭和10年》

 第十四連隊長(1936年)《昭和11年》

 興亜院政務部長(1938年12月より1941年4月まで)《昭和13年12月より昭和16年4月まで》

 興亜院総務長官心得、1940年《昭和15年》

 近衛内閣及び東条内閣企画院総裁並びに無任所大臣(1941年4月より1943年10月まで)《昭和16年4月より昭和18年10月まで》

 内閣顧問(1943年11月より1944年9月まで)《昭和18年11月より昭和19年9月まで》

 大政翼賛会理事(1944年)《昭和19年》

 《出席せる》会議 6、8、9、11、13、14、《土肥原の項参照》


東郷

被告東郷は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 「ドイツ」駐箚大使(1937年10月)《昭和12年10月》

 「ソビエット」社会主義共和国連邦駐箚大使(1938年10月)《昭和13年10月》

 東条内閣外務大臣及び拓務大臣(1941年10月より1942年3月まで)《昭和16年10月より昭和17年3月まで》

 鈴木内閣外務大臣及び大東亜大臣(1945年4月より)《昭和20年4月より》

 《出席せる》会議 11、12、13、14、《土肥原の項参照》


東条

被告東条は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 参謀本部第一課長(1931年より1932年まで)《昭和6年より昭和7年まで》

 陸軍通信学校研究部長[1932年]《昭和7年》

 関東憲兵隊司令官(1935年)《昭和10年》

 関東軍参謀長(1937年)《昭和12年》

 近衛内閣陸軍次官(1938年5月より12月まで)《昭和13年5月より12月まで》

 陸軍航空総監(1938年より1939年まで)《昭和13年より昭和14年まで》

 近衛内閣陸軍大臣(1940年7月より1941年12月まで)《昭和15年7月より昭和16年12月まで》

 陸軍大将(1940年10月)《昭和15年10月》

 内閣総理大臣兼陸軍大臣(1941年12月2日より1944年7月まで)《昭和16年12月2日より昭和19年7月まで》なおその間内務大臣、軍需大臣、参謀総長を兼攝せしことあり

 《出席せる》会議 1、2、3、4、5、6、8、9、11、12、13、14、《土肥原の項参照》


梅津

被告梅津は1928年《昭和3年》より1945年《昭和20年》に至るまでの期間においてなかんずく左記の地位を占め居りたり、すなわち

 陸軍省総務部長(1931年)《昭和6年》

 在中国日本軍《支那駐屯軍》司令官(1934年)《昭和9年》

 広田内閣、林内閣及び近衛内閣陸軍次官(1936年3月より1938年5月まで)《昭和11年3月より昭和13年5月まで》

 関東軍司令官《次いで同軍総司令官》兼満州国駐箚大使(1939年より1944年まで)《昭和14年より昭和19年まで》

 陸軍大将(1940年)《昭和15年》

 参謀総長(1944年7月より1945年まで)《昭和19年7月より昭和20年まで》

          《付属書A終わり》

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