歴史の部屋

極東国際軍事裁判所

判決

A部

第一章


極東国際軍事裁判所


アメリカ合衆国、中華民国、グレート・ブリテン・北アイルランド連合王国、ソビエット社会主義共和国連邦、オーストラリア連邦、カナダ、フランス共和国、オランダ王国、ニュージーランド、インド及びフィリッピン国



荒木貞夫、土肥原賢ニ、橋本欣五郎、畑俊六、平沼麒一郎、広田弘毅、星野直樹、板垣征四郎、賀屋興宜、木戸幸一、木村兵太郎、小磯国昭、松井石根、松岡洋右、南次郎、武藤章、永野修身、岡敬純、大川周明、大島浩、佐藤賢了、重光葵、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、東郷茂徳、東条英機、梅津美治郎


判決


本裁判所の判決は1948年 月 日、これを言い渡した。


A部−第1章

本裁判所の設立及び審理

 本裁判所は1943年12月1日のカイロ宣言、1945年7月26日のポツダム宣言、1945年9月2日の降伏文書及び1945年12月26日のモスコー会議に基づいて、またこれらを実施するために設立された。

 カイロ宣言はアメリカ合衆国大統領、中華民国国民政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣によって発せられた。それには、次のように述べてある。すなわち、

『各軍事使節は日本国に対する将来の軍事行動を協定せり。

『三大同盟国は海路、陸路及び空路によりその野蛮なる敵国に対し仮借なき圧迫を加うるの決意を表明せり。右圧迫は既に増大しつつあり。

『三大同盟国は日本国の侵略を制止しかつこれを罰するため、今次の戦争をなしつつあるものなり。右同盟国は自国のために何らの利得をも欲求するものにあらず。また領土拡張の何らの念をも有するものにあらず。右同盟国の目的は1914年の第1次世界戦争の開始以来、日本国が奪取し又は占領したる太平洋における一切の島嶼を日本国より剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のごとき日本国が清国人より盗取したる一切の地域を、中華民国に返還することにあり。日本国は暴力及び貪欲により日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしむるの決意を有す。

『右の目的をもって右三同盟国は同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し、日本国の無条件降伏をもたらすに必要なる重大かつ長期の行動を不撓不屈続行するものなり。』

 ポツダム宣言(付属書A-1)はアメリカ合衆国大統領、中華民国国民政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣によって発せられ、後に、ソビエット社会主義共和国連邦がこれに参加した。この宣言中、本件に関連のある主要な規定は次の通りである。すなわち、

『日本国に対し、今次の戦争を終結するの機会を与うべし。』

『無責任なる軍国主義が世界より駆逐せられざれば、平和、安全及び正義の新秩序が生じ得ざることを吾らは主張するものなるをもって、日本国国民を欺瞞し誤導して世界征服の挙に出でしめたる者の権力及び勢力は、永久に除去せられざるべからず。』

『「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく、また日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに吾らの決定する諸小島に局限せらるべし。』

『吾らは日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものにあらざるも、吾らの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、峻厳なる正義に基づき処罰を加うべし。』

 降伏文書(付属書A-2)は日本国天皇および日本国政府の名において、また九つの連合国の名において署名された。その中には、いろいろなことのほかに、次の布告、約定及び命令が含まれている。すなわち、

『下名はここに日本帝国大本営並びにいずれの位置にあるを問わず、一切の日本国軍隊及び日本国の支配下にある一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す。』

『下名はここに「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行すること、並びに右宣言を実施するため、連合国最高司令官又はその他特定の連合国代表者が要求することあるべき一切の命令を発し、かつかかる一切の措置を執ることを天皇、日本国政府及びその後継者のために約す。』

『天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、本降伏条項を実施するため適当と認むる措置を執る連合国最高司令官に服せしめらるるものとす。下名はここに一切の官庁、陸軍及び海軍の職員に対し、連合国最高司令官が本降伏実施のため適当なりと認めて自ら発し又はその委任に基づき発せしむる一切の布告、命令及び指示を遵守しかつこれを施行することを命ず』

 モスコー会議(付属書A-3)の結果、アメリカ合衆国、グレート・ブリテン国及びソビエット社会主義共和国連邦の各政府によって、またこれらの各政府の間に、中華民国の賛同を得て、次のことが協定された。すなわち、

  『最高司令官は日本降伏条項の履行、同国の占領及び管理に関する一切の命令並びにこれが補充的指令を発すべし。』

 右の権能に基づいて、連合国最高司令官マックアーサー元帥は1946年1月19日に特別宣言書により、『平和に対する罪又は平和に対する罪を含む犯罪につき訴追せられたる個人又は団体員又はその双方の資格における人々の審理』のために本裁判所を設置した。(付属書A−4)。この宣言書によって、裁判所の構成、管轄及び任務は、同日最高司令官の承認を得た裁判所条例中に規定されたところによると宣言された。本裁判の開始に先立って、この条例は数箇の点で修正された。(修正された条例の写しは付属書A−5にある。)

 1946年2月15日、最高司令官は各連合国からそれぞれ指名された9人の裁判官を任命する命令を発した。この命令もまた『裁判官の責任、権力及び任務は同裁判所条例中に規定せられあり・・・・』と規定している。

 裁判所条例に加えられた修正の中の一により、インド及びフィリッピン国によって指名された裁判官を任命することができるようにするため、裁判官の人数の最大限は9名から11名に増加された。最初に任命されたアメリカ及びフランスの裁判官が辞任したので、その後任として、その後の命令によって現在の裁判官が任命され、またインド及びフィリッピンの裁判官が任命された。

 裁判所条例の第9条(ハ)の規定に従って、各被告は、裁判の開始に先立ち、自己を代表する者として、みずから選んだ弁護人を指名した。かくて、各被告とも、アメリカ人弁護人と日本人弁護人によって代表されている。

 1946年4月29日、裁判所によって採用された手続規定に従って、あらかじめ被告に渡されていた起訴状が裁判所に提出された。

 起訴状(付属書A−6)は、1928年1月1日から1945年9月2日までの期間中の平和に対する罪、通例の戦争犯罪及び人道に対する罪について、28名の被告を訴追する55の訴因を挙げた長文のものである。

 それは次のように要約することができる。すなわち、

 訴因第1では、全被告について、1928年1月1日から1945年9月2日までの間に、東アジア、太平洋及びインド洋とこれに接壌する諸国及び隣接する諸島嶼とにおける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得しようとする日本の目的に反対する国または国々に対して、日本をして単独または他の諸国とともに侵略戦争を行なわせるために、指導者、組織者、教唆者または共犯者として共同謀議を行なったものとして訴追している。

 訴因第2は、全被告について、右と同じ期間を通じて、日本をして遼寧、吉林、黒龍江及び熱河の中国諸省(満州)の完全な支配を獲得するために、中国に対して侵略戦争を行なわせる共同謀議を行なったものとして訴追している。

 訴因第3は、全被告について、右と同じ期間にわたって、日本をして中国の完全な支配を獲得するために、中国に対して侵略戦争を行なわせる共同謀議を行なったものとして訴追している。

 訴因第4は、全被告について、東アジア、太平洋及びインド洋とこれに接壌する諸国及び隣接する諸島嶼とにおける完全な支配を獲得するために、日本をして単独または他の諸国とともに合衆国、全イギリス連邦、フランス、オランダ、中国、ポルトガル、タイ、フィリッピン及びソビエット社会主義共和国連邦に対して、侵略戦争を行なわせる共同謀議を行なったものとして訴追している。

 訴因第5は、全被告について、日独伊がおのおのその勢力圏内において特別の支配権をもつとともに――日本の勢力圏は東アジアと太平洋とインド洋にわたるものとして――これらの三国が全世界の完全な支配を取得するという目的に対して、いやしくもこれに反対するあらゆる国に対する侵略戦争において、右の三国が相互に援助するために、ドイツ及びイタリアと共同謀議を行なったものとして訴追している。

 訴因第6ないし第17は、全被告について、訴因中に名を挙げられた諸国に対する侵略戦争を計画し、準備したものとして訴追している。

 訴因第18ないし第26は、白鳥を除いた全被告について、訴因中に名を挙げられた諸国に対する侵略戦争を開始したものとして訴追している。

 訴因第27ないし訴因第36は、全被告について、訴因中に名を挙げられた諸国に対する侵略戦争を遂行したものとして訴追している。

 訴因第37は、被告中のある者について、1907年10月18日のヘーグ第三条約に違反して、合衆国、フィリッピン、全イギリス連邦、オランダ及びタイに対して不法な敵対行為を開始することにより、これらの諸国の軍隊の人員及び一般人を殺害する共同謀議を行なったものとして訴追している。

 訴因第38は、右と同じ被告について、1908年11月30日の合衆国と日本との協定、1921年12月13日のイギリス、フランス、合衆国、及び日本間の条約、1928年8月27日のパリー条約並びに1940年6月12日のタイ日本友好条約に違反して、敵対行為を開始することにより、軍人及び一般人を殺害する共同謀議を行なったものとして訴追している。

 訴因第39ないし第43は、右と同じ被告について、1941年12月7日及び8日に、真珠湾(訴因第39)、コタバル(訴因第40)、香港(訴因第41)、上海における英国軍艦ペトレル号上(訴因第42)、及びダバオ(訴因第43)において、殺害を行なったものとして訴追している。

 訴因第44は、全被告について、日本の権力内にある捕虜及び一般人を大規模に殺害する共同謀議を行なったものとして訴追している。

 訴因第45ないし第50は、被告中のある者について、南京(訴因第45)、広東(訴因第46)、漢口(訴因第47)、長沙(訴因第48)、衡陽(訴因第49)及び桂林と柳州(訴因第50)において、武装を解除された軍人及び一般人を殺害したものとして訴追している。

 訴因第51は、被告中のある者について、1939年ハルヒン・ゴール河地域で蒙古及びソビエット連邦の軍隊の人員を殺害したものとして訴追している。

 訴因第52は、被告中のある者について、1938年7月及び8月ハーサン湖地域でソビエット連邦の軍隊の人員を殺害したものとして訴追している。

 訴因第53及び第54は、大川と白鳥を除いた全被告について、各作戦地の日本軍指揮官、陸軍省の職員、各地方の収容所及び労務班の職員に、起訴国の軍隊、捕虜及び一般人抑留者に対して戦争の法規及び慣例の違反行為を頻繁にまた常習的に行なうことを命令し、授権し、または許可するために、また、日本政府をして戦争の法規慣例の遵守を確保し、その違反を防止するに適当な手段をとらせないために、共同謀議を行なったものとして訴追している。

 訴因第55は、右と同じ被告について、その官職によって戦争の法規慣例の遵守を確保し、その違反を防止するために適当な手段をとるべき法律上の義務を負っていたのに、これをすこしも顧慮しないで無視したものとして訴追している。

 起訴状には5箇の付属書がついている。すなわち、

 付属書Aは、訴因の基礎となっている主要な諸事項と出来事を要約している。

 付属書Bは、条約の条項の一覧表である。

 付属書Cは、日本が違反したといわれている誓約を明記している。

 付属書Dは、違反されたといわれている戦争の法規及び慣例を包含している。

 付属書Eは、被告の個人的責任といわれているものに関する諸事実の部分的な記述である。

 これらの付属書は、≪この判決の≫付属書A−6に包含されている。

 審理の途中で被告のうちの2人、すなわち松岡と永野は死亡し、大川被告は、審理を受けるに適せず、また自分を弁護することができないと宣告された。従って、松岡と永野は起訴状から削除された。大川に対しては、この裁判で、起訴状に基づいて審理を続けることを中止された。

 5月3日と4日に、起訴状は公判廷において全被告の出席の上で朗読された。それから、裁判所は被告の申立を受けるために6日朝まで休廷した。6日には、現在本裁判所で審理されている全被告が『無罪』の申立をした。

 そこで、裁判所はその年の6月3日を検察側の証拠提出の開始の日と定めた。

 その間に、弁護側は、起訴状に含まれている起訴事実を審理し決定する本裁判所の管轄権を争う動議を提出した。1946年5月17日、弁論の後に、右の動議の一切を「追って示すべき理由によって」却下するという判定が言い渡された。これらの理由は、本判決のこの部の第2章で、本件に関する法を論ずるにあたって、これを与えることにする。

 検察側はその主張を1946年6月3日に始め、1947年1月24日に終わった。

 弁護側の証拠提出は、1947年2月24日に開始され、1948年1月12日に終了した。その間に、弁護人が全被告に共通な証拠を提出するについて、彼らの仕事を調整することができるように、1947年6月19日から8月4日まで、休廷が許された。

 検察側の反駁証拠と弁護側の回答証拠が許容され、証拠の受理は1948年2月10日に終わった。総計して4336通の法廷証が証拠として受理され、419人の証人が法廷で証言し、779人の証人が供述書と宣誓口供書によって証言し、審理の《英文》記録は48412頁に及んでいる。

 検察側の最終論告と弁護側の最終弁論は1948年2月11日に始まり、同年4月16日に終わった。

 『争点の迅速なる取調べ』と『不当に審理を遅延せしむるがごとき行為を防止するため厳重なる手段』をとることを要求している裁判所条例第12条にかんがみ、この裁判に要した期間については、いささか説明と注釈を必要とする。

 提出される前に準備することのできる証拠や陳述やその他の事項を、そのときどきに、途中でさえぎって通訳するという普通の通訳方法を採用したならば、不必要な遅延が引き起こされたであろうが、それを避けるために、精巧な発言聴取装置(パブリック・アドレス・システム)が備えつけられた。この装置によって、できる限り、英語または日本語への同時通訳が行なわれた。これに加えて、必要な場合には、中国語、ロシア語及びフランス語からの、またはこれらの国語への、同時通訳が行なわれた。このような便宜がなかったならば、裁判はもっとはるかに長い期間にわたったことであろう。しかし、反対尋問や、異議についての即席の議論や、その他の偶然的な発言は、その進行につれて、普通の方法で通訳しなければならなかった。

 裁判所条例の第13条(イ)は『本裁判所は証拠に関する専門技術的規則に拘束せらるることなし。本裁判所は・・・・本裁判所において証明力ありと認むるいかなる証拠をも受理するものとす・・・・』と規定している。提出された大量の文書と口頭証言にこの規則を適用したために、必然的に非常な時間を費やす結果になった。その上に、起訴状の中の起訴事実からして、直接に、1928年から1945年に至る17年間の日本の歴史の調査が必要となった。それに加えて、われわれの調査は、それほど詳細にではないが、それ以前の日本の歴史の研究にも及んだ。なぜならば、この研究をしなければ、日本とその指導者とのその後の行動を理解し、評価することができなかったからである。

 起訴事実に包括されている期間は、日本の内政と外交において、強度な活動の行なわれた期間であった。

 国内的には、明治維新の時代に発布された憲法が、これを運営した軍人と文民との間で、重大な闘争の主題となっていた。結局には軍部が優位を獲得し、それによって、かれらは和戦の問題ばかりでなく、外交と内政の遂行についても、これを左右することができるようになった。政府部内における文官側と軍部の間の闘争において、議会(選挙された国民の代表者)は早くから重要ではなくなった。文民と軍部の争いは、文民の側では、職業的文官によって戦われたのであるが、これら文官は、ほとんどもっぱら内閣の中の文官大臣の地位や天皇の周囲の輔弼の地位を占めていたものである。軍人と文官の間の闘争は、長い期間にわたるものであった。多くの事件がこの争いの消長を示しているが、どの事件についても、検察側と弁護側の間で、意見の一致したことは稀であった。各事件の事実も意義も、ともに論争の種であり、それに向かって多量の証拠が提出される論題であった。

 国内的には、さらに、起訴状に言及されている期間は、日本が近代的工業国家への転換を完成した時期である。また、日本の急速に増加する人口のはけ口として、日本の工場のために原料を手に入れることのできる供給源として、日本の製品に対する市場として、他の諸国の領土に対する要求が増大した時期である。対外的には、この期間中に、右の要求を満たそうとする日本の努力が行なわれた。この分野でも、諸事件の発生や意義について、弁護側はこれを争った。しかも、しばしば、争う余地がないように思われることまで争うというほどであった。

 25人の被告がこれらの事件で演じた役割を調査しなければならなかったが、この点でも、一歩一歩困難と戦って進んだのであった。

 裁判所に提出された争点に関連する時間と場所との広汎な範囲と、重要であってもなくても、各事件について一々行われた論争とのために、裁判所条例の要求したように、『迅速』に裁判は進むわけに行かなかった。その上に、法廷で話される言葉は、いちいち、英語から日本語に、またはその反対に、通訳する必要があったので、審理は少なくとも2倍の長さになった。日本語と英語の間の翻訳では、西洋の一つの国語を同じ西洋の他の国語に翻訳するときのような速さと確実さをもって、翻訳を行なうことができない。日本語から英語に、またはその反対に、逐語的に翻訳するのは不可能なことが多い。大部分はただ意訳ができるにすぎない。しかも、両国語の専門家の間で、正しい意訳について、しばしば意見を異にすることがある。その結果として、法廷の通訳者たちの間に、たびたび、どう訳したらよいかについて困難を生じた。そこで、通訳に関する争いの問題を解決するために、裁判所は言語裁定部を設けなければならなかった。

 これらの遅延に加えて、検察官や弁護人や証人は、冗長であったり、関連性を欠いたりする傾向があった。この傾向を抑制することは、最初はなかなか困難であった。というのは、多くの場合に、念が入りすぎたり、関連性のない質問や答弁が日本語で行なわれて、裁判所が英語の翻訳を聞き、それに対する異議の申立てができるようになったときには、すでに弊害が生じたあとであり、無用の時間が空費されていたからである。ついには、この時間の空費を防ぐために、特別な規則を実施することが必要になった。

 この目的のための主要な規則は、予定された証人の供述書をあらかじめ提出しておくことと、反対尋問を主尋問における証拠の範囲内の事項に限ることであった。

 裁判所によって課せられた規則は、これらの規則にせよ、その他のどの規則にせよ、厳格に適用されたものはなかった。裁判所は被告に対して公正であり、また諸争点について関連性や重要性のある一切の事実を手に入れておかなければならないという最高の必要にかんがみて、ときどきは、寛容な取扱いが許された。

 提出された証拠のうち、特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された。それは主として証明力がほとんどないか、全くなかったからであり、または、全く関連性がないか、非常に希薄な関連性しかないために、裁判所の助けにならなかったからであり、さらには、すでに受理された類似の証拠を不必要に集積するものであったからである。

 証拠が受理され得る性質のものかどうかについての議論に、確かに多くの時間を費やしたのであるが、もし提出のために準備された証拠をすべて裁判所が受理したとしたら、審理ははなはだしく長びいたであろう。かりにこれらの制限がなかったならば、裁判はさらにいっそう長くなったであろう。なぜなら、右のような制限がなければ、実際に提出されたよりも、はるかに関連性や重要性のすくない証拠が提出のために準備されたとおもわれるからである。

 証言の多くは直接口頭でなされるか、または少なくとも証人が宣誓し、自己の供述書であることを確認し、その供述書が受理され得るものとして決定された上、その範囲内で、検察官または弁護人がそれを朗読することによってなされた。証人は反対尋問を受けたが、それも異なった利害を代表する検察官や弁護人から受けることがしばしばであり、さらに、それから、再直接尋問を受けた。

 証人を反対尋問する希望がなかったときは、多くの場合に、その証人は出廷することなく、その宣誓口供書が提出され、朗読された。

 提出された証拠の大部分は、裁判所を失望させるようなものであった。事件の説明というものは、証人が臆せずに自己の困難に直面し、これらの事件が疑いもなく発生したということから通常生ずべき推論がこの場合には排除されなければならないことを裁判所に納得させるのでなければ、信ずるに足りないものである。本裁判所の経験では、弁護側の証人の大部分は、かれらの困難に敢然と直面しようとはしなかった。かれらは冗長なごまかしや言いのがれをもってその困難に対処したが、それはいたずらに不信用を招くにすぎない。弁護側の最終弁論の大部分は、弁護のために提出された証拠を裁判所が信頼できるものとして取りあげるだろうという仮定に基づいたものであった。これはやむを得ないことであった。なぜなら、弁護側としては、裁判所がどの証人を信用できる証人として認めるつもりであるか、どの証人を拒否しようとするかを予見することができなかったからである。これらの弁論は大部分失敗に終わっている。というのは、証人として率直さを欠くために、裁判所では信頼できるものと認めるつもりのない人々の証言に、かれらの議論の基礎が置かれていたからである。

 こういった証人の証言のほかに、非常に多数の文書が提出され、証拠として受理された。これらの文書は性質においてさまざまであり、ドイツの外務省を含めて、多くの出所から来たものである。裁判所にとっては、日本の陸海軍、外務省、内閣、その他政府の政策樹立機関の重要な公式記録の原本の多くが存在しないという不利があった。ある場合には、写しであるといわれるものが提出されたが、何かの価値のあることが分かるかもしれないから、そのために受理された。公式記録の存在しないのは、日本に対する空襲中に焼失したことと、降伏後に陸海軍が故意にその記録を破棄したこととによるとされた。爆撃が始まったとき、または切迫していたときに、外務省や内閣官房やその他の重要な官庁のこのように大切な書類が安全な場所に移されなかったというのは、奇怪なことに思われる。これらの書類がこのようにして破棄されたのでなく、この裁判所に提出されないように抑えられているということがわかったならば、国際正義のためにとって、著しい害が加えられたことになるであろう。

 われわれとしては、入手し得た証拠について、われわれが受理した他の証拠と照合によって結びつけた上、これに頼るほかはない。これらの書類がないことは、われわれが事実を探求するにあたって不利となったけれども、他の出所から、関連性のある情報を多量に入手することができた。非公式の、あるいは少なくとも半公式の性質にすぎないところの、この種の他の証拠のうちには、木戸被告の日記と西園寺・原田回顧録とが含まれている。

 おびただしい量に上る木戸の日記は、1930年から1945年までの期間にわたって、かれが内大臣秘書官として、国務大臣として、それから後には、内大臣の職を占めていた間、枢機にあずかる天皇の助言者としての地位において、重要な人物との折衝をその当時に記録したものである。これらの事情にかんがみて、われわれはこの日記を重要な文書と考えている。

 いま一つの重要な文書、または一連の文書ともいうべきものは、西園寺・原田回顧録である。これは弁護側の酷評の的となったのであるが、それは無理もないことであった。というのは、これらの文書の中には、弁護側が迷惑におもった辞句があったからである。われわれは、この批評は充分な根拠がないという意見をもつものであって、これらの文書に対して、弁護側がわれわれに望んだところよりも、大きい重要性を与えている。西園寺公は最後の元老(元老の2文字に傍点あり)として特殊の地位を占めていたので、その秘書原田を通じて、真相を充分にあからさまに知ることができた。政府や陸海軍の最高上層部から情報を入手するという、この特別な任務において、原田が長い間元老(元老の2文字に傍点あり)に仕えたということは、かれが信頼しうる人で、思慮があることを示すものである。もし弁護側で言っているように、かれが信頼するに足りず、また無責任であったとしたら、かれの情報の入手先である人物と、西園寺公がみずから頻繁に接触したことから見て、公は間もなくこれに気がついたであろう。そして、原田はこの役目に引き続いて留まっていなかったであろう。裁判所に提出された西園寺・原田文書の確実性については、これらの文書が原田によって口述され、西園寺によって校訂された回顧録の原本であることを、裁判所は認めるものである。これらの文書が本件に関連性をもっている限り、それに記録されている事柄について、これらの文書は有用な、信頼のできる、当時の証拠であると裁判所は考える。


極東国際軍事裁判所


判決


A部

第2章



A部 第2章


(イ)本裁判所の管轄権

 われわれの意見では、裁判所条例の法は、本裁判所にとって決定的であり、これを拘束するものである。本裁判所は、最高司令官が連合国から与えられた権能に基づいて設置した特別な裁判所である。その管轄権の根拠は裁判所条例にある。この裁判では、裁判所条例の中にあるものを除いては、裁判官はどのような管轄権ももっていない。本裁判所の裁判官を任命した最高司令官の命令は、次のように述べている。『本裁判所の裁判官の責任、権力及び任務は同裁判所条例に規定せられあり・・・・』。その結果として、もし右のようなことがなければ、本裁判所の裁判官は、被告の裁判に関して、まったく権限をもっていないのであるが、本裁判所を構成し、かれらを裁判官として任命した文書によって、被告を裁判する権限を与えられたのである。ただし、いかなる場合にも、裁判所条例に定められた法を裁判に適用するという義務と責任の下に常に立たされている。

 右に述べた意見は、つぎに述べるような見解が主張されることがあるとしても、その見解を支持するものと解釈してはならない。その見解というのは、連合国またはどの戦勝国でも、戦争犯罪人の裁判と処罰について規定するにあたって、確立した国際法またはその規則もしくは原則と矛盾する法律を制定または公布したり、それらと矛盾する権限を自国の裁判所に与えたりする権利を国際法上でもっているという見解である。このような戦争犯罪人の裁判と処罰という目的のために、裁判所を創設する権利を行使し、その裁判所に権限を与えるにあたって、交戦国は国際法の範囲内で行動することができるにすぎないのである。

 起訴状に含まれている起訴事実を審理し、判決を下す本裁判所の管轄権に対して、弁護側が抗弁したおもな理由は次の通りである。

  (1)連合国は、最高司令官を通じて、『平和に対する罪』(第5条(イ))を裁判所条例に含め、これを裁判に付し得るものと指定する権能をもっていない。

  (2)侵略戦争はそれ自体として不法なものではなく、国家的政策の手段としての戦争を放棄した1928年のパリー条約は、戦争犯罪の意味を拡げてもいないし、戦争を犯罪であるとしてもいない。

  (3)戦争は国家の行為であり、それに対して、国際法上で個人的責任はない。

  (4)裁判所条例の規定は、『事後』事後の2文字に小さな丸印で傍点あり)法であり、従って不法である。

  (5)ポツダム宣言の実施を定めている降伏文書は、この宣言の当時(1945年7月26日)の国際法によって認められていた通例の戦争犯罪だけが訴追される犯罪であるという条件を課している。

  (6)交戦中の殺害行為は、交戦法規または戦争の法規慣例の違反を構成する場合を除いて、戦争に通常伴うものであって、殺人ではない。

  (7)被告のうちの数名は捕虜であるから、1929年のジュネーヴ条約の規定に従って、軍法会議で裁判することはできるが、本裁判所で裁判することはできない。

 裁判所条例の法は、本裁判所にとって決定的であり、これを拘束するものであるから、弁護側が申し立てた右の7つの主張のうちで、初めの4つについては、本裁判所はこれを却下すべき形式上の拘束を受けている。しかし、これに関連する法の諸問題が非常に重要であることにかんがみ、本裁判所は、これらの問題に関する裁判所の意見を記録しておく。

 1946年5月に、本裁判所は、この弁護側の申立てを却下し、裁判所条例の効力とそれに基づく裁判所の管轄権とを確認し、この決定の理由は後に申し渡すであろうと述べたが、その後に、ニュールンベルグで開かれた国際軍事裁判所は、1946年10月1日に、その判決を下した。同裁判所は、他のこととともに、次の意見を発表した。

 『裁判所条例は、戦勝国の側で権力を恣意的に行使したものではなく、その制定の当時に存在していた国際法を表示したものである。』

 『問題は、この条約(1928年8月27日のパリー条約)の法的効果は何であったかということである。この条約に調印し、またはこれに加わった諸国は、政策の手段として戦争に訴えることを将来に向かって無条件に不法であるとし、明示的にそれを放棄した。この条約に調印した後は、国家的政策の手段として戦争に訴える国は、どの国でも、この条約に違反するのである。本裁判所の意見では、国家的政策の手段としての戦争を厳粛に放棄したことは、必然的に次の命題を含蓄するものである。その命題というのは、このような戦争は国際法上で不法であるということ、避けることのできない、恐ろしい結果を伴うところの、このような戦争を計画し、遂行する者は、それをすることにおいて犯罪を行ないつつあるのだということである。』

 『ある事情のもとでは、国家の代表者を保護する国際法の原則は、国際法によって犯罪的なものとして不法化されている行為には、適用することができない。これらの行為を行なった者は、適当な裁判による処罰を免れるために、公職の陰にかくれることはできない。』

 『「法なければ犯罪なし」(法なければ犯罪なしという文言に小さな丸印で傍点あり)という法律格言は、主権を制限するものではなく、一般的な正義の原則である。条約や誓約を無視して、警告なしに、隣接国を攻撃した者を処罰するのは不当であると主張することは、明らかに間違っている。なぜなら、このような事情のもとでは、攻撃者は自分が不法なことをしていることを知っているはずであり、従って、かれを処罰することは、不当であるどころでなく、もしかれの不法行為が罰せられないですまされるならば、それこそ不当なのである。』

 『裁判所条例は次のように明確に規定している・・・・「被告人が自己の政府又は上司の命令に従い行動せる事実は被告人をして責任を免れしむるものにあらず。ただし刑の軽減のため考慮することを得。」この規定は、すべての国の法と一致している。・・・・程度はいろいろであるが、大多数の国の刑事法の中に見られる真の基準は、命令の存在ということではなく、事実において心理上の選択が可能であったかどうかということである。』

 ニュールンベルグ裁判所の以上の意見とその意見に到達するにあたっての推論に、本裁判所は完全に同意する。これらの意見は、先に挙げたところの、弁護側の強調した理由の初めの4つに対して、完全な答えを表すものである。本裁判所とニュールンベルグ裁判所との条例が、重要な点において、すべて同一であることにかんがみ、本裁判所は、ニュールンベルグ裁判所の意見であって本件に関連のあるものには、無条件の賛意を表するものである。いくらか違った言葉で問題を新たに論じ、そのために、両裁判所の述べた意見について抵触する解釈が行なわれるようになって、論争の起こる途を開くよりは、その方がよいと考える。

 本裁判所の管轄権を弁護側が争った第5の理由は、降伏文書とポツダム宣言によれば、裁判を行なうべきものと考えられていた犯罪は、ポツダム宣言の当時の国際法によって認められていた戦争犯罪だけであるから、それは裁判所条例の第5条(ロ)に述べられている通例の戦争犯罪だけであるというのである。

 侵略戦争は、ポツダム宣言の当時よりずっと前から、国際法上の犯罪であったのであって、弁護側が裁判所条例に与えようと試みている限定された解釈をする根拠は全然ない。

 いずれにしても、日本政府が降伏文書の条項を受諾することに同意したときには、戦争に対して責任があるといわれていた日本人が訴追されるということは、実際において日本政府が了解していなかったという、特別な議論が申立てられた。

 この議論には、実際においてなんの基礎もない。本裁判所が満足と認める程度に立証されたところによれば、降伏文書に調印する前に、問題の点はすでに日本政府によって考慮されていたのであり、降伏文書の受諾を唱えた当時の閣僚は、戦争に対して責任があるといわれた者が裁判に付せられるであろうということを予想していたのである。早くも1945年8月10日に、すなわち、降伏文書の調印よりも3週間前に、天皇は被告木戸に対して、『戦争責任者の処罰・・・・を思うと忍び難いものがある・・・・しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う』といった。

 弁護側の第6の主張、すなわち、殺人を行なったという起訴事実に関する主張は、後に論ずることにする。

 これらの主張の第7は、捕虜として降伏した4名の被告、すなわち、板垣、木村、武藤及び佐藤のために行なわれている。かれらのために行なわれた申立ては、かれらはもと日本の軍隊に属していた者であり、また捕虜であるから、捕虜に関する1929年のジュネーヴ条約の条文、特に第60条と第63条に従って、捕虜として軍法会議で裁判し得るものであって、この条約に基づかないで構成された裁判所では、裁判し得ないというのである。この点こそ、山下事件において、アメリカ合衆国最高裁判所が決定したところである。 故ストーン最高裁判所長官は、この裁判所の多数を代表して判決を言い渡すにあたって、次のようにいった。『以上に挙げた諸規定の文章のかかり具合からして、第3節とそれに含まれている第63条とは、捕虜である間に犯した罪について、捕虜に対して行なわれる裁判手続だけに適用されるものであることが明らかであるとわれわれは考える。この部分が第3章の第1節と第2節に言及されているもの以外の罪を取り扱うものとして定められているということは、第5款には少しも示されていない。』この結論とこの結論に到達するにあたっての推論に、本裁判所は敬意をもって同意するものである。

 本裁判所の管轄権を争うことは、まったく成立しない。


(ロ)捕虜に対する戦争犯罪の責任


 捕虜と、一般人抑留者は、それを捕える政府の権力内にある。これは必ずしも前から常にそうではなかった。しかし、最近の二世紀の間に、この立場は承認され、この趣旨の慣習法は1907年のヘーグ第四条約に正式に規定され、1929年のジュネーヴ俘虜条約でも繰り返された。従って、捕虜と一般人抑留者(以下すべて『捕虜』という)の保護の責任は、捕虜を留置している政府にある。この責任は、単なる扶養の義務に限られるものではなく、虐待の防止にも及ぶものである。特に、条約によってと同様に、慣習国際法によっても禁止されているところの、捕虜に対する非人道的な行為は、捕虜に対して責任のある政府が防止すべきものである。

 捕虜に対するこれらの義務を果たすについては、政府は人によらなけらばならない。この意味で、責任ある政府とは、実に政府の職務を指揮し、統制する人々のことなのである。この場合に、また上に述べた点についても、われわれの関心は日本の内閣の閣僚にある。捕虜に対する義務は、政治上の抽象的な存在に課せられた無意味な義務ではない。それは特定の義務であって、第一次的に、政府を構成する人々によって履行されなければならない。近代の政府には非常に多くの義務と任務が伴うので、必然的に、義務の分割と委任に関する複雑な制度が生じる。戦時において、政府の手にある捕虜に対する政府の義務についていえば、その政府を構成する人々は、たとい捕虜の扶養と保護の義務をほかの者に委任したとしても、その捕虜に対して主要な、継続的な責任をもつものである。

 大体において、日本の手にあった捕虜に対する責任は、次の者にあったといってよい。

  (1)閣僚

  (2)捕虜を留置している部隊の指揮官である陸海軍武官

  (3)捕虜の福利に関係のある官庁の職員

  (4)文官であると、陸海軍武官であるとにかかわりなく、捕虜を直接にみずから管理している職員

 捕虜に正当な待遇を与え、かれらの虐待を防ぐことは、責任のあるすべての人の義務であって、それには、これらの目的にあてられた組織を設け、それを継続的に、効果的に運営されるようにしなければならない。これらの者は、次の場合に、この義務を怠り、捕虜の虐待について責任があることになる。

  (1)このような組織を設けない場合

  (2)このような組織を設けたとしても、それを継続的に、効果的に運営されるようにしない場合

 すべてこれらの者は、この組織が運営されていることを確かめる義務があり、もし確かめることを怠ったならば、それに対して責任がある。単に適当な組織を設けただけで、その後はその実際の運用を知ることを怠るならば、自己の義務を果たしたことにならない。たとえば、軍司令官または陸軍大臣は、この点に関するかれの命令について、かれが最も重要な事項について発したほかの命令の場合と同様に、それが確実に守られるように努力しなければならない。

 しかし、適当な組織が設けられ、継続的に、効果的に運営されるようになっていて、しかも通例の戦争犯罪が行なわれたという場合には、これらの者には責任がない。ただし、次の場合はこのかぎりでない。

  (1)そのような罪が犯されていることをかれらが知っており、そして、それを知っていながら、将来そのような罪が犯されることを防ぐために、自分の権限内の措置をとらなかった場合、

  または

  (2)右のようなことを知ることができなかったことについて、かれらに過失がある場合

 このような者は不注意または怠慢でない限り、右のことを知っていたか、または知っているべきであったという場合に、このような犯罪を防ぐために、なにかの措置をとることを、かれの属する官庁がかれに要求し、または許可していたのであるならば、かれは不作為に対して責任を免れることはできない。他方で捕虜の管理について、自分よりいっそう直接に関係している他の者からの保証を受け容れたということを示しても、ほかの点で責任があれば、その者は罪を免除されるのに充分ではない。すなわち、右の他の人の地位とか、このような犯罪の報告の回数とか、そのほかの一切の事情から見て、それらの保証の真偽をさらに調査しなけらばならない立場におかれた場合である。犯罪がよく知られており、数が多く、時と場所から見て非常に広い範囲にわたっているということは、知っていたものと推定するについて、考慮されるべき事項である。

 内閣は政府の主要な機関の一つとして、捕虜の保護について、連帯して責任を負うものであって、その閣僚は、すでに論じた意味の犯罪が行なわれていることを知っており、しかも将来このような犯罪が行なわれるのを防止する措置をとることを怠ったり、それに失敗しながら、あえて閣僚として引き続き在任する場合には、かれは責任を解除されることはない。たといかれの主管している省が捕虜の保護について直接に関係していない場合でも、これはあてはまることである。閣僚は辞職することができる。かれが捕虜の虐待を知っており、将来の虐待を防ぐ力がないのに、あえて内閣に留まり、これによって、引き続き捕虜の保護についての内閣の連帯責任を分担するならば、将来のどのような虐待についても、かれはみずから好んで責任を引き受けるものである。

 陸海軍の指揮官は、命令によって捕虜に正当な待遇を与えるように、またその虐待を防ぐようにすることができる。陸海軍大臣もそうすることができる。もしかれらの管理の下にある捕虜に対して犯罪が行なわれ、そのようなことが起こりそうなことをかれらがあらかじめ知っていたか、知っているべきであった場合には、かれらはこれらの犯罪に対して責任がある。たとえば、自己の指揮の下にある部隊の中で、通例の戦争犯罪が行なわれ、それについて、かれが知っていたか知っているべきであった場合に、将来におけるそのような犯罪の発生を防ぐために、充分な措置をとらない指揮官は、将来のそのような犯罪について責任がある。

 捕虜の虐待を知っていた各省職員は、辞職をしなかったという理由では、責任があることにはならない。しかし、もしその職務が捕虜の保護組織の運営を含むものであり、また、犯罪を知っていたか、知っているべきであったのに、その将来における発生を防ぐために、自己の権限の範囲で、効果のあることを何もしなかったとすれば、そのときは、そのような将来の犯罪に対して、かれらは責任がある。


(ハ)起訴状


 『平和に対する罪』という表題のもとに、裁判所条例は5つの別個の犯罪を挙げている。これらの犯罪は、侵略戦争または国際法、条約、協定もしくは誓約に違反した戦争の計画、準備、開始及び遂行であって、この4つに加えて、右のいずれかを達成するための共通の計画または共同謀議に参加するというもう一つの罪がある。起訴状は裁判所条例に基づいており、以上のすべての罪は、裁判所条例の他の規定に基づくそのほかの起訴事実に加えて、訴追されたものである。

 侵略的または不法な戦争を遂行する共同謀議は、その犯罪を行なおうとする合意に、2人またはそれ以上の者が参加したときに生ずる。その後に、この共同謀議を進めるために、このような戦争の計画と準備が続いて行なわれる。この段階において参加するものは、最初の共同謀議者であるか、あとになって加わった者かである。もし後者が共同謀議の目的を採用し、その達成のために計画と準備をするならば、かれらは共同謀議者となる。この理由によって、すべての被告が共同謀議について訴追されているのであるから、共同謀議についてわれわれが有罪であると認定するかもしれない被告に関して、さらに計画と準備についても有罪の認定をする必要があるとは考えない。いいかえれば、われわれは起訴事実の妥当性を問題とはしないけれども、共同謀議について有罪の認定をされるかもしれないどの被告に関しても、訴因第6ないし第17については、これを考慮に入れることも、有罪の決定をすることも、必要であるとは、考えない。

 侵略戦争の開始と遂行に関する訴因に関連しても、同じような事態が生ずる。侵略戦争を開始するということは、ある場合には、ほかの意味をもつかもしれないが、本件の起訴状においては、敵対行為を開始するという意味が与えられている。この意味において、それは侵略戦争を実際に遂行することを含んでいる。このような戦争がある犯罪者によって着手され、または開始された後に、その戦争を遂行することで有罪になるというような事情において、ほかの人がそれに参加するということがあり得る。しかし、この考慮は、侵略戦争の開始という訴因と、その遂行という訴因との双方について、有罪と決定すべき理由を少しも与えるものではない。従って、われわれは、訴因第18ないし第26については、あえて考慮しないことにする。

 訴因第37と第38は、殺人の共同謀議を訴追している。裁判所条例第5条の(ロ)号と(ハ)号は、通例の戦争犯罪と人道に対する罪を取り扱っている。第5条の(ハ)号には、次の一句がある。『上記犯罪の何れかを犯さんとする共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に参加せる指導者、組織者、教唆者及び共犯者は、かかる計画の遂行上なされたる一切の行為につき、その何人によりてなされたるを問わず、責任を有す。』

 ニュールンベルグの裁判所条例にも、同じような規定があったが、そこでは、独立した項になっており、本裁判所の条例のように(ハ)号のうちに入れられていなかった。この規定の前後の関係からして、それは明らかにもっぱら(イ)号、すなわち平和に対する罪に関連しているものである。なぜなら、『共通の計画又は共同謀議』が犯罪とされているのは、ただこの部類においてだけだからである。通例の戦争犯罪と人道に対する罪を犯す共同謀議は、本裁判所の条例では、犯罪とされていないから、この規定はこれらの犯罪には適用されない。検察側はこの見解に対して争わず、これらの訴因は、裁判所条例第5条(イ)によって、支持され得るものであると申し立てた。侵略戦争の遂行は不法であり、殺人という不法な殺害行為を引き起こすものであると主張したのである。この点から、さらに、戦争を不法に遂行する共同謀議は、殺人を行なう共同謀議でもあると申立てられた。本裁判所が裁判することのできる犯罪は、裁判所条例に述べられている犯罪である。第5条(イ)は、その中に示されている罪を犯す共同謀議は、それみずから一つの犯罪であると述べている。第5条(イ)に明記されている罪で、共同謀議以外のものは、侵略戦争の『計画、準備、開始又は遂行』である。侵略戦争の遂行またはその他の方法によって、殺人を行なう共同謀議の罪については、なんら明記されていない。従って、われわれは、訴因第37と第38に含まれている殺人を行なう共同謀議という起訴事実については、これを取り扱う管轄権をもっていないものと認定し、これらの起訴事実を受け付けることを拒絶する。

 起訴状には、全部で55の訴因があって、25人の被告を訴追している。訴因のうちの多くのものでは、各被告がそれぞれ訴追されており、その他の訴因では、10人またはそれ以上の被告が訴追されている。平和に対する罪だけについても、考慮すべき個々の起訴事実が756に上っている。

 この状態は、たとい起訴事実のうちのあるものが重複しているか、2つのうちのどちらかという場合でも、ある事項について有罪なことが検察側の提出しようとする証拠によって示されるならば、その事項をすべて訴追するという普通のやり方を検察側が採用したことから起こるのである。

 起訴事実の実質に関する以上の考察によって、本裁判所の義務を避けたり、被告に対して公正を欠いたりしないでも、判定を与えなければならない平和に対する罪の訴因をこのように減らすことができるということがわかる。

 訴因第44と第53は、戦争放棄に違反する罪を犯す共同謀議を訴追している。すでに論じた理由によって、平和に対する罪以外には、いかなる罪を犯す共同謀議に関しても、裁判所条例は、管轄権を与えていないとわれわれは認定する。通例の戦争犯罪を行なう共同謀議の罪については、なんら明記されていない。この見解は、検察側によって受諾されており、これらの訴因の下に有罪の決定をすることは、まったく求められていない。従って、これらの訴因は無視することにする。

 訴因第37、第38、第44及び第53に関して、以上に述べた意見は、本裁判所の管轄権を問題とする動議を却下したところの、1946年5月17日の本裁判所の判定と矛盾しているように見えるかもしれないという点に関しては、その動議を審理したときには、この問題が提出されなかったといえば充分である。ずっと後になって、ニュールンベルグの判決が下された後に、この問題は被告の一人を代表する弁護人によって提出された。この点に関しては、本裁判所はニュールンベルグの裁判所の見解に同意する。従って、これらの訴因については、本裁判所は、被告に有利な検察側の承認を受け容れる。

 訴因第39ないし第52(すでに論じた訴因第44を除く)は殺人という起訴事実を含んでいる。これらのすべての訴因では、示された場所と日時において、戦争を不法に遂行した結果として、殺害行為が行なわれたというのが訴追の要旨である。ある訴因では、その日時は、示された場所において敵対行為が開始された日時である。ほかの訴因では、その日時は、不法と主張される戦争がすでに進行している間に、その場所が攻撃された日時である。すべての場合に、殺害行為は戦争の不法な遂行から起こったものと主張されている。不法であるというのは、殺害行為が行なわれる前に、宣戦が全然なかった点においてであるか(訴因第39ないし第43、第51及び第52)、殺害行為が戦争の継続中に行なわれた場合に、それらの戦争がある特定の条約の条文に違反して起こされたからである(訴因第45ないし第50)。どの場合でも、もしその戦争が不法でなかったと認定されたとすれば、殺人という起訴事実は、不法な戦争の遂行という起訴事実とともに成立しなくなる。他方、なにかの特定の場合に、その戦争が不法であったと認められるとすれば、そのときは、それに伴って、これらの訴因に示されている日時と場所においてばかりでなく、戦争地域内のすべての場所と、戦争期間を通じてすべての時期とにおいて、不法な殺害行為が生じることになる。殺人の訴因によって、右の犯罪のこれらの部分を取り扱うことは、われわれの見解では、少しも有益な目的を果たすことにならない。というのは、これらの戦争を不法に遂行するという罪全体が、このような戦争の遂行を訴追する訴因において、問題となっているからである。

 以上の所見は、列挙されたすべての訴因、すなわち訴因第39ないし第52(第44を除く)に関連するものである。訴因第45ないし第50は述べ方があいまいである。これらの訴因は、異なった場所で、示された日時に行なわれた殺人を訴追している。これらの殺人は、日本軍隊に対して、これらの場所を攻撃し、住民を殺害することを不法に命令し、行なわせ、許可し、それによって、一般人と武装解除された軍人を不法に殺害することによって行なわれたものとされている。これらの訴因の言葉からは、不法な殺害という主張の基礎を、攻撃の不法性に置こうとするのか、その後における戦争法規の違反に置こうとするのか、またはその両方に置こうとするのか、あまり明瞭ではない。その意図が前者にあるのならば、この類の初めの方の諸訴因の場合と事情は同じである。もし戦争法規の違反に起訴を置くものとすれば、訴因第54と第55の起訴事実と重複している。これらの理由だけで、そして、このような事情のもとにおいて殺人の起訴事実の妥当性に関してどのような意見も表明する必要がないと認めて、われわれは、訴因第39ないし第43と訴因第45ないし第52とについて、判定を与える必要がないと決定した。


極東国際軍事裁判所


判決


A部

第3章


日本の負担した義務及び取得した権利


A部


第3章要約《法廷で朗読のこと》


  (法廷においては、A部第3章全文の代わりに、この要約を朗読する。)


 本判決書のA部第3章は、これを朗読しないことにする。これは、起訴状に関連している限り、列強に対する日本の義務と日本が1930年以前に中国において取得した諸権利との記述を含んでいる。その主要な義務は、次の諸項目に属し、各項目の下に別記してある諸文書によって立証されている。

 1、中国の領土及び行政上の独立を保全する義務

  1901年の合衆国の宣言

  1908年の同文通牒

  1022年の九国条約

  1020年の国際連盟規約

 2、中国全土における平等かつ公平な商業の原則、いわゆる「門戸開放政策」を、世界各国のために維持する義務。

  1900年ないし1901年の合衆国の宣言

  1908年の同文通牒

  1922年の九国条約

 3、阿片と類似の麻薬との製造、売買及び使用を禁圧する義務。

  1912年の国際阿片条約

  1925年の国際連盟規約

  1931年の国際阿片条約

 4、太平洋に利害関係をもつ諸国の領土を尊重する義務。

  1921年の四国条約

  1926年のオランダとポルトガルとに対する覚書

  1920年の国際連盟規約

 5、中立国領土を侵害しない義務

  1907年の第五ヘーグ条約

 6、外交手段、仲介又は仲裁裁判によって国家間の紛争を解決する義務。

  1908年の同文通牒

  1921年の四国条約

  1922年の九国条約

  1907年のヘーグ条約

  1928年のパリー条約

 7、国際紛争の平和的処理を確保することを目的とする義務。

  1899年のヘーグ条約

  1907年のヘーグ条約

  1928年のパリー条約

 8、戦争開始に先だって事前の通告をする義務。

  1907年の第三ヘーグ条約

 9、交戦中の人道的行為に関する義務。

  1907年の第四ヘーグ条約

  1929年のジュネーヴ赤十字条約

  1929年のジュネーヴ俘虜条約

 これらの義務の多くは一般的なものである。これらの義務は、単に一つの政治的または地理的な単位に関するものではない。これに反して、本章で考慮されている文書によって、日本が要求した権利は、概ね中国に関係するものであった。中日戦争の初めに日本が中国内でもっていた足場は、本判決中の中国に関する章の冒頭で充分に述べられるはずである。

A部


第3章


日本の負担した義務及び取得した権利


1928年1月1日以前の諸事件

 1928年1月1日以前に、すなわち起訴状に言及されている期間の初めに、すでにある事件が発生しており、日本はある権利を取得し、かつある義務を負担していた。被告のとった諸行動を理解し、判断するためには、それらのものを認識しておくことが必要である。


1894−5年の日清戦争

 1894−5年の日清戦争は、下関条約によって終わったが、それによって中国は、遼東半島に対する主権全部を日本に譲渡した。しかしながら、ロシア、ドイツ、及びフランスは、日本に対して外交的圧迫を加え、それによって日本がこの譲渡を放棄しなければならないようにさせた。1896年に、ロシアは清国と協定を締結した。この協定は、シベリア横断鉄道を満州を縦断して延長し、同鉄道地帯においてある行政上の権利を与えるとともに、80年間この鉄道を経営する権能をロシアに与えたものであった。この利権は1898年のロシア・中国間に締結された別の協定によって拡大された。この協定によってロシアは、ハルビンで東清鉄道を旅順と結びつける権利を認められ、また遼東半島南部の25ヵ年間の租借とその租借地における関税徴収の権利とを認められた。


第1回ヘーグ平和会議

 世界のおもな諸国は、第1回平和会議のために、1899年ヘーグに会合した。この会議の結果として、3つの条約と1つの宣言が成立した。

 この第1回平和会議の貢献したところは、当時存在していた国際法体系に新しい諸規則をつけ加えたというよりは、むしろ、すでに確立されたものと認められていた慣習法上の規則と慣行とを一層明確な形で再び述べたという点にある。1907年の第2回ヘーグ平和会議と1906年7月6日及び1929年7月27日にジュネーヴで採択された条約とに対しても、右と同じことをいうことができる。

 第一条約、すなわち国際紛争平和的処理条約(付属書B−1)は、1899年7月29日に調印され、日本と、起訴状を提出した各国及びその他の20ヵ国とにより、またはそれらのために批准され、かつその後さらに17ヵ国がこれに加入した。このようにして、全体で44の主要な諸国がこの条約に加入した。従って、この条約は、後に1907年10月18日にヘーグで採択された第一条約で改廃された部分を除いて、1904年2月10日の日露戦争の開始より前に、かつ起訴状に挙げられた本件に関連のある時期を通じて、日本を拘束していたのであった。

 1899年7月29日にヘーグで締結された第一条約の批准によって、日本は国際紛争の平和的処理を確保するために全力を尽くすこと、並びに、兵力に訴える前に、事情の許す限り、その交戦国中の一国または数国の周旋または仲介に依頼することに同意した。


1899−1901年の義和団事件

 1899−1901年の中国におけるいわゆる義和団事件は、北平における最終議定書の調印によって、1901年9月7日に解決された。(付属書B−2)。この議定書は、日本及び起訴状を提出した各国とドイツ、オーストリア・ハンガリー、ベルギー及びイタリアとにより、またはそれらのために調印された。この議定書によって、清国は北平の外国公使館所在の区域をもっぱら各国公使館の使用に充てること、かつ、各国がその公使館を保護するために、護衛兵を置くことを認めることに同意した。清国はまた、各国が北平・海浜間の自由交通を維持するために、協定中に名を掲げられた諸地点を占領する権利を容認した。

 この議定書の調印によって、日本は他の調印国とともに、その年の9月22日前に、協定の中に挙げられている地点に駐屯する軍隊を除いて、直隷省から全面的に撤兵することを約した。


日露戦争

 1902年の1月30日に締結された日英同盟条約に基づいて、中国における門戸開放主義の維持に関して、1903年7月に日本はロシアと交渉を開始した。これらの交渉は、日本政府の思うようには捗らなかった。そこで、1899年7月29日にヘーグで日本が調印した国際紛争平和的処理条約の諸規定を無視して、1904年2月、日本はロシアを攻撃した。満州における激戦で、日本は10万の将兵の生命と正貨20億円を犠牲にした。この戦争は、1905年9月5日のポーツマス条約の調印によって終わった。


ポーツマス条約

 1905年9月5日に調印されたポーツマス条約は、日露戦争を終結させ、起訴状に挙げられた本件に関連のある期間を通じて、日本を拘束していた。(付属書B-3)。この条約の批准によって、日本とロシアは、ロシアと韓国との間の国境で、ロシア国または韓国の領土の安全を脅かすおそれのある軍事的措置は、一切これを執らないことに同意した。しかし、ロシアは日本が韓国で最高の利益をもっていることを承認した。ロシアはまた、清国が承諾することを条件として、旅順口と大連とその付近の遼東半島の領土との租借権を、この租借権に関連し、またはその一部を形成する一切の権利と特権と利権とともに、さらにこの租借権の効力が及ぶ地域の一切の公共営造物と財産を加えて、日本に移譲した。この移譲は、次のような明確な約定に基づいて行われた。すなわち、日本とロシアは、租借権の効力が及ぶ地域を除いて、満州から撤兵し、満州の全部を完全に排他的に清国の行政に還付すること、及び日本は租借地にあるロシア帝国臣民の財産権を完全に尊重することという約定である。これに加えて、長春から旅順までの鉄道及びその一切の支線並びにこれに付属する一切の権利、特権及び財産を、清国が承諾することを条件として、ロシアは日本に移譲した。この移譲は、日本もロシアも、各自の鉄道をもっぱら商業上の目的のために利用し、決して戦略上の目的には利用しないという約定に基づいて行われた。日本とロシアは、これらの移譲に対して、清国の承諾を得なければならないこと、及び清国が満州の商工業を発達させるために、列国に共通な一般的措置をとるについて、これを妨害しないことに同意した。

 ロシアは、北緯50度の線を境界として、サガレン島のそれから南の部分と、その線から南でその付近にある一切の島々とを日本に割譲した。この割譲は、日本とロシアがサガレン島またはその付近の島々で、堡塁やこれに類する軍事上の工作物を築造しないこと、及び宗谷海峡と韃靼海峡の自由航海を維持することという約定に基づいて行われた。

 ポーツマス条約の付属議定書で、ロシアと日本は、両国の間で、満州にある各自の鉄道線路1キロメートルごとに、15名を超えない守備兵を置く権利を留保した。

Copyright (C)masaki nakamura All Rights Reserved.