歴史の部屋

米内内閣のヨーロッパ戦争不介入政策は日本で強硬な反対を引き起こした (原資料132頁)

 1940年の前半中に、米内内閣は、ヨーロッパ戦争不介入の政策を固く守っていた。これは中国における日本の地位を確保し、戦争のための日本の措置を完了するという任務に、国家の全力を向けることができるようにするためであった。この政策は、日本自身のうちで相当な反対に会いながらも維持された。

 1940年2月23日に、特別な使命をもってドイツから到着したばかりのスマーターは、フォン・リッベントロップに対して、日本では、国内問題が最も主要なものであると報告した。ドイツとの無条件同盟を支持した大島、白鳥、寺内及びその他軍部派の人人の態度は変わっていないこと、かれらはあらゆる援助をする用意があることをかれは認めた、内閣は日本がヨーロッパ戦争に引き入れられることを防ぎ、またイギリスと合衆国との友好関係を維持しようと試みているが、世論は明確に親ドイツ、反イギリス的であるといった。阿部が政権を握っていた間、大いに弱められていた陸軍の勢力は、着々と強くなりつつあった。阿部のもとでは、外務省や陸軍省の親ドイツ的職員は、計画的に国外の職に転任させられたが、今では反対の政策がとられつつあった。陸軍の勢力がさらに増大することを期待して差し支えないというのであった。

 中国における戦争が続いたので、日本の経済的な困難と必需物資の不足が増大し、また長い期間にわたっていた。日本の中国における目的に西洋諸国が反対していることを憤慨して、議会の一部の議員は、九国条約を廃棄し、日本がヨーロッパ戦争に参加することを公然と主張するようになった。1940年の3月中に、有田の不介入政策が議会で攻撃された。外務大臣は日本と枢軸との関係を強化するように迫られた。有田はこれに答えて、日本と他の枢軸諸国との間に友好関係の存在することを強調したが、中国における戦争を解決しなければならないから、日本はヨーロッパ戦争に介入することはできないと主張した。

 1940年2月7日に、米内と有田の出席した議会の予算委員会で、委員の一人が九国条約の廃棄を唱え、この条約は、日本の大陸政策を牽制するために、イギリスと合衆国が考え出した策略であると称した。この条約は、『新秩序』の達成に対する重大な障害であり、また汪政権が樹立された後に、中日戦争を解決するにあたって、非常な困難をもたらすものであるとかれはいった。

 1940年3月28日に開かれた所の、この委員会の他の会議で、委員の一人は、イギリスとフランスに対する結束を固くするために、ヒットラーとムッソリーニが会見したという報道について述べ、このような同盟に対する参加の招請を日本は拒絶すべきではないという意味のことを述べた。外務大臣有田は、これに答えて、ヨーロッパ政局に対する内閣の確固たる不介入方針は、当時の情勢では、最も賢明な策であるという、かれの信念を再び明らかにした。日本が日本自身を中心において、その独自の公正な方針によって行動していく以上は、日本が孤立しなければならないかもしれないという懸念は必要でないといって、国策決定に定められた原則をかれが守っていることを強調した。陸軍大臣畑は、有田を支持した。

 外務大臣の答弁を機会に、いま一人の委員は、日本がその外交方針を完全に変えることが適当であるかどうかという主要問題を持ち出した。かれは、ヨーロッパ戦争が予期したよりも早く終わった場合に、起こるかもしれない情勢について、予想を述べた。イギリスとフランスは、いつまでも、中国の抗戦軍隊を援助することをやめないであろうとかれはいった。もし日本が現在の政策を維持したならば、今では先頭に立って中国における日本の立場を支持しているドイツとイタリアでさえも、日本に反対するのではないかとかれは心配した。阿部内閣が成立したときには、ヨーロッパにおける戦争の結果の見通しがつかなかったのであると指摘した。しかし、今では、事態が変わっていると思うというのであった。イギリスと合衆国に好意を示そうとする内閣の傾向は、日本国民に強い不快の念を起こさせていると同時に、ドイツの不満をも買っていることをかれは強調した。そこで、内閣がヨーロッパ戦争不介入の政策を完全に放棄し、他の枢軸諸国との同盟を結ぶように力説した。汪政権の樹立は、このような政策の変更にとって、適当な機会を与えるのではないかとかれはいった。


陸軍は中国の征服と戦争のための国家総動員とを完了するために不介入方針を支持

 1940年3月28日の予算委員会における陸軍大臣畑の言明は、日本自体の地位が強固になるまで、陸軍はヨーロッパにおける不介入方針を支持する決意であったことを示している。日本は中国における戦争の処理に力を集中していること、したがって、国際情勢の変化に対処するために、政略と戦略を巧みに協調させることが必要であるとかれはいった。中国における戦争を処理するために、日本の方針には、どのような変更もないというのであった。その方針というのは、日本の東亜『新秩序』の建設に対して、どこまでも妨害するどの第三国でも、これを排撃するのに全力を注ぐということであった。

 さらに、畑は、陸軍が不介入方針を純粋な便宜上の問題と考えているということも明らかにした。米内と有田がしばしば述べてきた方針は、陸軍としては、日本の完全な行動の自由を留保するものであると考えているとかれは述べた。

 2日後の1940年3月30日に、汪精衛の指導のもとに樹立されたところの、中国全体のための新しい傀儡政府が正式に成立した。1940年3月28日の予算委員会で、陸軍大臣畑は、この出来事は蒋介石大元帥の地位を完全に覆すものであるといった。また、陸軍は新政権に対してできる限りの援助を与え、中国国民政府軍に対する戦いを続けるといった。中日戦争の目的は、中国の抗戦軍隊を徹底的に壊滅することにあると繰り返していった。従って、汪政権の樹立は中日戦争の処理における一段階に過ぎないとつけ加えた。

 このときの畑の言明は、また、中国の資源の開発によって、日本の経済的困難に対する圧力を軽減し、原料の新しい資源を提供することを陸軍は希望しているということも明らかにした。彼は予算委員会に対して、陸軍は中国の占領地域で得た物資を最大限度に利用しており、将来はこれがいっそう高度に行なわれることが期待されていると説明した。重要物資の自給自足は、陸軍の宣伝工作の実施と相まって確保されることになるというのであった。

日本は国外の原料資源に依存していたので、公然とは九国条約を否認できなかった (原資料136頁)

 戦争の遂行に必要な原料の自給自足という目標に達しようと努力するにあたって、日本はジレンマに陥った。中国の資源の開発は、今では以前よりもはるかに大きな規模で行なわれることになったが、それは九国条約の締約国としての日本の義務に違反して行なわれていた。日本が重要な原料の新しい資源を求めるようになった理由そのものから、日本は直ちに西洋諸国との破局を引き起こすことを差し控えなければならなかった。これら諸国の領土から、日本はこれらの物資の重要な供給を受けていたからである。1940年3月3日に作成された公式の文書の中で、日本は、その戦争準備になくてはならない物資の供給源として、強度に合衆国に依存しているということが認められた。この理由から、合衆国に対して、日本は決然とした態度を取ることができないと述べてあった。

 中国で戦争が起こってから、合衆国とその他の西洋諸国は、中国に対する日本の侵略を常に非難し、また九国条約の遵守を要求していた。この条約の違反がしつこく続けられたので、1938年6月11日に、合衆国はある種の軍需物資の日本向けの輸出に道義的な禁止を課することになった。1938年の終わりの数ヵ月の間、有田が外務大臣であったときに、条約上の義務が自国の重要な利益に相反するときには、それを遵守しない考えであるということを日本はついに認めた。

 1939年中に、中国における日本軍の非行と日本の条約上の義務の違反に関して、合衆国はさらに抗議をした後、日本に対する物資の供給を制限する新しい措置をとった。1939年7月26日には、同国は日本に対して、1911年以来両国の間の通商関係を規定していた通商航海条約を廃棄する意思を通告した。そのころには、この条約は、中国にあるアメリカの権益を日本に尊重させるには、不充分であることが明らかになっていた。しかも、アメリカがその規定を忠実に守るときは、日本にその侵略政策をやめさせることができるような経済的な措置を合衆国としてとるわけにいかなかった。1939年12月15日には、道義的輸出禁止の品目表に、モリブデンとアルミニウムが加えられた。

 1940年1月26日に、既に与えられていた通告に基づいて、通商航海条約はその効力を失った。1940年の3月には、日本に対する軍需物資の供給を禁止する法律が合衆国で考慮されていた。これらの出来事によって、1940年の2月と3月の議会の予算委員会の討議で、九国条約否認の問題が重大な論題となった。1940年2月7日の会議で、ある委員は、合衆国の課している制限的措置について注意を喚起し、有田に対して、汪政権が樹立された後は、九国条約は中国における日本の今後の目的の達成に大きな障害となるであろうということを指摘して、この条約を廃棄するように力説した。この条約の基本原則は、極東の新しい事態には、適用することができないということについて、有田は同意した。それを廃棄することは、一方で、日本の『新秩序』を建設し、日本国内の状態を改善するのに有利であるとかれはいった。しかし、他方で、それを廃棄することは、国際的に面白くない反響を呼び起こす可能性があった。そこで、この問題は、慎重に考慮する必要があった。汪政権が樹立された後に、この問題について、話し合いをするというのであった。

 1940年3月28日の予算委員会の会合で、有田は繰り返して、九国条約の廃棄は、よい結果をもたらすかもしれないし、悪い結果をもたらすかもしれないといった。このような措置が望ましいということは否定しなかったが、廃棄する時期と用いる手段とについて、慎重な研究を要することをかれは強調した。

 陸軍大臣畑は、汪政府の樹立は、中国における日本の目的の達成に向かって、一つの段階に過ぎないことを指摘したが、九国条約の取り扱いに関しては、陸軍は内閣の方針に従うといった。畑は自分の意見として、この問題はまったく便宜上の問題であるといった。中国における現状は、九国条約の範囲を全く超越していること、同条約のために、日本の作戦行動の遂行が妨害されてはならないとかれは考えていた。彼はつけ加えて、目下のところ、陸軍は揚子江を再開することに決めているといった。しかし、これはまったく自主的に決定すべき問題であるといった。


合衆国依存をやめるために、日本の立てた新しい産業上の自給自足計画

 1940年3月3日に、一つの政策が立てられた。その政策は、日本が合衆国に依存していることを認めて、日本が同国に、特にその文書のいわゆる『聖戦』を遂行するためになくてはならない物資の供給について、依存することをやめることができるようにする措置を定めたものであった。この外務省の秘密文書は、欠くことのできない軍需物資の自給自足を達成するために、また、日本が合衆国の好意に頼らなくてもすむようにする経済制度を確立するために、経済産業拡充計画の全体を修正しようという意図をあらわしている。この新しい計画は、工作機械の製造の大拡張と、『特殊鋼』生産のための代用資材の研究と、屑鉄、油、その他の軍需物資のこれまでの供給源に代わるものとを必要とした。精製鋼や電気銅の製造と、原油の精製と、人造石油の生産とのための諸設備は、急速に拡充されることになった。

 この高価な非経済的な方策は、産業上の必要に応ずるために、軍事費の一時的転換によって、賄われることになっていた。産業を国有化すること、満州国と中国の他の地域の経済を日本のそれに統合することに、さらに大きな重点が置かれることになっていた。この新しい計画は、絶対的に必要なものと考えられたから、中国における戦争と、ソビエット連邦との戦争に備える軍事的準備とのために割り当てられた資金が、この計画の目的の実現に転用されることになっていた。この理由で、ソビエット連邦との関係の一時的な調整に到達するために、日本は努力することになった。

 すでに説明した措置の結果として、日本は合衆国に対して強硬な態度をとることができるようになるという考えであった。そして、合衆国は戦争の脅威に直面し、同国民の世論の圧迫を受けて、日本の行動を黙認し、原料の供給に対する輸出禁止を解くであろうと期待した。

米内内閣の南方進出の計画と準備 (原資料141頁)

 米内内閣は、いろいろな考慮から、九国条約を公然と否認することを差し控えたが、その同じ考慮から、日本は南方に対する侵略的意図を偽装することになった。しかし、南方進出の計画は、1940年の前半に用意され、つくり上げられた。

 1940年3月17日に、その会計年度に対する拓務省の膨大な歳出案を審議するために、決算委員会が開かれた。委員の一人は、この支出の目的を探り出そうとして、日本は満州国と中国の他の地域の開発に専念するよりも、南方に進出する方がさらに大きな利益を得ることができるという見解を力説した。日本は南方で原料の宝庫を発見することができることを指摘し、その例として、フィリッピン群島のミンダナオ島とオランダ領東インドのセレベス島とを挙げた。かれはこれらの地域の占領を唱道した。もっとも当時では実行することができない措置であることを認めた。それにもかかわらず日本は北方南方の両方を目標としなければならないこと、特に南方に対してもっとも大きな努力を傾けなければならないといって、国策の根本的変更を強く主張した。

 当時の状況では、日本は一面では防御、他面では攻撃という両面の計画を立てなければならないとかれは考えた。拓務大臣小磯が最近数次にわたる閣議で同様な意見を発表したことを委員会は喜んでいると述べた。

 小磯はそれに答えて、日本は南方も北方もともにその目標と見做さなければならないという意見に完全に同意し、それが拓務省の方針であることを委員会に説明した。満州国と中国の他の地域を将来開発することを計画するにあたっては、人口の移動がおもな仕事であって、経済的な開発は付随的な目標であった。しかし、日本の南方発展は、経済開発がおもな目的であって、植民はその目的への一つの手段であった。

 国策の基準に関する決定の原則に従い、また、西洋諸国との公然の破局を避けようという内閣の希望によって加えられる制限の範囲内で、外務大臣有田は、日本の南進政策の進展を支持した。

 1940年4月15日に行われた新聞会見で、オランダ領東インドに対する日本の政策について、かれは声明した。その間、通商協定のために、1940年2月10日に手交されていた日本の提案に対して、オランダ側からはなんの回答もなかった。

 右の機会に、有田は、東アジアの他の諸国と同様に、日本は南方地域、特にオランダ領東インドと密接な関係をもっているといった。これらの諸国の間の経済的連結が密接であるから、東アジアの拡張は、これら諸国の相互援助と相互依存にかかっているというのであった。

 有田は質問に答えて、もしヨーロッパにおける戦争がオランダ領東インドに影響を与えるとすれば、単にこれらの経済的関係が害されるばかりでなく、東アジアの平和と安定を脅かす事態が起こるであろうといった。これらの理由のために、ヨーロッパの戦争に伴うどのような進展であっても、オランダ領東インドの現状に影響するようなものには、日本は深い関心を持つものであると有田はつけ加えた。その翌日の1940年4月16日に、この声明はワシントンの日本大使館によって発表された。


ヨーロッパにおけるドイツの成功と西洋諸国からの引き続く反対とによる親ドイツ派の勢力増加

 1940年の最初の5ヵ月の間、米内内閣のとった措置は、中日戦争の解決を少しももたらさなかった。日本の国内自体では、困窮と不満が広まり、すでに1940年2月に充分はっきりしていたところの、日本人一般の親ドイツ的感情が強められた。

 1040年4月3日に、日本大使の出席の上で、日独文化委員会がベルリンに設けられた。ドイツ外務省の次官ワイツゼッガーは、かれの祝辞のうちで、数年来喜ばしく発展してきた日本とナチス党の諸団体との関係に言及した。この新しい委員会は、ドイツと日本との伝統的に緊密な精神的連帯を強化する有効な機関であるといい、両国を結びつけている政治的友好関係はさらに増進されることを確信するといった。

 ヨーロッパにおけるドイツの勝利が潮のように高まるにつれて、9国条約の廃棄を唱える者は、いっそう露骨にそれを唱えるようになった。この見解は、単に議会の予算委員会だけでなく、議会そのものにおいて、公然と主張された。

 1940年3月23日に、大使オットはフォン・リッベントロップに報告して、日本における政治的諸事件は、日本と西洋諸国との関係がいっそう悪化したことを示しているといった。合衆国とイギリスは、中国における汪政権の樹立に対する反対を続けた。イギリス大使は、新しい傀儡政権が組織されたことについて、抗議を提出した。合衆国大使は、中国における『門戸開放』主義の違反について、さらに二つの抗議を提出した。

 数個の政党の議員が同時に外務大臣に対して、日本とドイツ及びイタリアとの関係を、すなわち日本の政策に対して友好的であるこの両国との関係を強化するように力説した。1940年3月28日の予算委員会で、委員の一人は、ドイツの勝利を確実と見做し、日本がヨーロッパ戦争に参加することを主張した。

 オランダ領東インドに関する1040年4月15日の有田の言明に対しては、直ちに合衆国からの応答があった。1940年4月17日に、国務省は新聞発表を行ない、オランダ領東インドの現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)に対する干渉は、どのようなものでも、全太平洋地域の平和と安定を損なうものであると言明した。

 1940年5月9日に、ドイツはオランダに侵入した。その翌日に、合衆国から最近に東京に帰ったドイツ外務省の特使スターマーは、フォン・リッベントロップに対して、日本の情勢を報告した。最近のドイツの成功は、日本で深い印象を与え、極東におけるイギリスの重要性を減じたとかれはいった。陸軍部内と日本国民の間には、反英感情が目に見えて強くなった。合衆国がとっている態度から見て、合衆国とイギリスとの了解に達しようとする米内内閣の試みは、不成功に終わるであろうとスターマーは確信していた。

 スターマーは、米内内閣の経済政策が適切でなく、同内閣の困難は再び増大したといった。彼は、これらの政策がかもし出した動揺と不満の結果として、結局はドイツに有利な新しい内閣が成立することになるであろうと考え、そのときが来れば、近衛が新しい総理大臣になるであろうと思った。

 彼はつけ加えて、いずれにしても、一方で日本と、他方で合衆国及びイギリスとの間の緊張した状態は、当然増大するか、少なくともそのまま減少することなく続くよりほかはないといった。しかし、リッベントロップに対して警告し、中日戦争が解決されるまで、また国内の救済に緊急措置がとられるまで、日本はその政策を変えることはできないであろうといった。

重光、有田に西洋諸国との協調を進言 (原資料147頁)

 ドイツとの関係をいっそう緊密にすることと、日本がヨーロッパ戦争に参加することとを要求する声がやかましく高まりつつあったにもかかわらず、外務大臣有田は、ヨーロッパ戦争に介入しないことと、日本と合衆国との関係にははっきりした溝ができるのを避けようというかれの政策を維持していた。スターマーは、1940年5月10日の電報で、米内内閣は依然としてイギリス及び合衆国とさらに進んだ意見の一致を得ようとつとめていると報告した。この政策を有田に絶えず勧めていた外務省官吏の一人は、ロンドン駐在の日本大使重光であった。

 1939年の7月と8月の間、平沼内閣の瓦解の前に、外務大臣有田は、中国における日本の地位をイギリスに黙認させることができるかどうかを探っていた。1939年の終わりに近く、阿部内閣が在任していた間は、これが日本の外交政策の目的であった。米内が総理大臣に、有田が外務大臣となった後に、大使重光はこの目的を維持させようと努力した。かれの主張は、日本の国策の目標は、西洋諸国の反対を受けない政府を中国に樹立することによって、その達成をはからなければならないというのであった。

 汪精衛政権が中国に樹立される前、3週間にもならない1940年3月13日に、重光は、中国における紛争を解決するための日本の条件に対するイギリスの反対を除こうとして、そのころかれが行なった努力について、有田に報告した。かれはイギリスの外務次官R・A・バトラー氏に対して、汪精衛政権を中国の新中央政府として設立するという日本の意思について、すでに話していた。『近衛原則』と日本の政策に関するその他の声明とを説明の基礎として、中国に対する日本の意思を最も有利に理解されるように説明していた。中国で治安を確立し、また新しい中国政府と諸外国との協力を確立することが日本の政策であるといっていた。かれはつけ加えて、新しい政権のもとでは、国内紛争を画策した者だけが排除されることになっているといっていた。この基礎の上に立って、中国国民政府との妥協の機会が見出されることをかれは望んだ。重光は有田に対して、この政策をとれば、イギリスとの間に、双方の国にとって有利な協定を結ぶ機会があるということを感じさせようと努力した。イギリスは、中国国民政府だけを承認するという政策を直ちに変更することはできないが、事態についての重光の予想がその通りになることを望むとバトラーが述べたと重光はいった。原則を犠牲にする結果とならない譲歩ならば、イギリスはそれを行なう意思があることを示すものとして、イギリス政府は、天津のイギリス租界に関する日本との紛議を解決する措置をとっていた。

 重光は有田に対して、ソビエット連邦の行動に関するイギリスの懸念は、日本といっそう根本的な意見の一致に至る基礎を与えるものであると告げた。中国に関しても、さらに一般的に世界の事態に関しても、両国の間の了解をいっそうよくしなければならない理由があるということについて、バトラーは同意していた。

 重光はバトラーに、ヨーロッパ戦争に関して、日本は厳正中立の立場を維持すると決意していることを保証し、両国の間の貿易障壁を取り除きたいという希望を表明していた。バトラーはこれに答えて、イギリスは、その結果に達するために、あらゆる努力を尽くす用意があるといっていた。

 1940年5月13日、すなわち、ドイツがオランダとベルギーに侵入してから4日後に、重光は再び有田に報告した。かれはヒットラーがこの作戦にすべてを賭けるという決意をしていることは明白であるといったが、ドイツはフランスとイギリスを決して打ち破ってしまったのではないということを強調した。日本はあらゆる出来事に応ずる用意をしておかなければならないこと、したがって、東アジアで安定した事態をつくり上げることを国策の指導原理としなければならないことをかれは強調した。

 重光は有田に対して、1936年の国策の基準に関する決定の諸原則の範囲内で、しかもそれ以上の侵略的な措置をとることにならないような一つの方式を提供しようと試みた。

 国際情勢にかんがみて、東アジアにおける日本の指導的地位を確立することは、非常に緊急なことであるとかれはいった。ヨーロッパ戦争の結果にかかわりなく、まず中国における紛争が解決されなかったならば、日本は不利な立場に置かれるであろうというのであった。従って、どんな犠牲を被ろうとも、直接または汪政権を通じて、日本は蒋介石大元帥との和解をもたらすようにつとめなければならないと進言して、妥協的な措置の必要を強調した。

 重光は有田に対して、南方地域全体に対する日本の政策は、オランダ領東インドに対してすでにとられた政策を基礎としなければならないと主張した。日本は南方地域の現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)を変更する意思はないこと、交戦国も中立国もこの地域に干渉しないこと、そして南方原住民の利益を第一に考慮することを日本は宣言すべきであるといった。

日本はオランダ領東インドに対する特別の関心を強調した、1940年5月 (原資料150頁)

 オランダ領東インドに対する外務大臣有田の政策は、その一部は、かれが西洋諸国との公然の破局を避けたいと望んでいたことによって、また一部は、南方に対する日本の発展の野心を達成するために、ヨーロッパにおけるドイツの勝利を利用したいという希望によっていたことによって支配されていた。オランダ領東インドにおける現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)の維持に関して、日本が特別の関心を表明した1940年4月15日の有田の声明に対して、オランダは即座にかねての保証を繰り返した。1940年4月16日、すなわち、この声明がなされた翌日に、オランダの外務大臣はヘーグ駐在の日本公使に対して、オランダは、オランダ領東インドについて、どの国の保証も干渉も求めたことがなく、また将来も求めることはないであろうと通告した。2日の後、すなわち、1940年4月18日に、この言明は東京におけるオランダ公使によって確認された。

 それにもかかわらず1940年5月11日、すなわち、ドイツがオランダを攻撃した2日の後に、有田は、オランダ領東インドにおける現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)維持に関する日本の特別の関心について、ソビエット連邦、合衆国、イタリア及びすべての交戦国の注意を再び喚起した。同じ日に、合衆国国務省は、オランダ領東インドの現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)を維持するという意図を幾多の政府がすでに明らかにしていたことを発表した。国務省の意見では、このような声明は、どれほどしばしば繰り返しても、繰り返し過ぎることはないというのであった。イギリスは日本に対して、オランダ領東インドに干渉する意思がないことを通告し、フランスも同様の保証を与えた。194年5月15日に、東京駐在のオランダ公使は有田に対して、オランダ政府はイギリスもフランスも合衆国も干渉することはないと信じていると通告した。

 これらの保証にもかかわらず、日本においては、論争が引き続き盛んに行なわれていた。1940年5月16日に、合衆国国務長官コーデル・ハルは、日本の大使に対して、日本では、あたかも他の諸国からは現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)維持の制約が与えられなかったかのように、毎日または一日おきに、事態の新しい局面が論議されているといって、憂慮の念を表明した。オランダ領東インドに、日本の何か特別な利益と想像されるものが存在すると日本が主張することは、右のような誓約にかんがみて、了解しがたいことであるとハルはいった。日本は中国の広大な地域を支配し、同国との通商上の平等を排除する意思を明らかにしているから、オランダ領東インドに対しても、同様な企図をもっているかもしれないというようなことをいった。大使はこれを否定し、イギリスとフランスがそこに軍隊を上陸させることを企てない限り、日本は事態に満足していると述べた。

 同じ日に、すなわち、1940年4月16日に、オランダ領東インドの総督は有田に対して、現存する日本との経済関係を維持する意向であること、日本にとって絶対的になくてならない鉱油(mineral oil)、ゴム、その他の原料の輸出に制限を加えないことを通告した。しかし、有田はまだ満足しなかった。彼はオランダ公使に対して、1940年5月20日に、ほかの物資で日本にとって同様に重要なものがたくさんあると通告した。かれは、特定物資の約定された量を日本に毎年輸出するというはっきりした保証を求め、これらの要求事項に応ずることを文書で確認することを要求した。


日本は南方進出を準備し、ドイツはオランダ領東インドに対する無関心を言明

 1939年、平沼内閣が政権を握っていた間に、外務大臣有田は引き続いてソビエット連邦を日本の最大の敵と見做していた。1939年8月23日の独ソ不可侵条約の締結が原因となって、この内閣が崩壊した後に、大島と白鳥は、かれらが日本とソビエット連邦との和解をもたらすために努力することについて、フォン・リッベントロップと意見が一致した。かれらの計画は、ひとたびソビエット連邦との了解に到達したならば、枢軸三国はその活動をもっぱら西ヨーロッパ諸国に対して思うままに向けることができるというのであった。こうして、日本の南方進出に対する妨害が取り除かれるというのであった。大島と白鳥は、かれらの目的を達成するために、東京に帰った。

 1939年の最後の4ヵ月の間、阿部内閣の穏健な政策は、ソビエット連邦との接近を容易にする途を開いた。ノモンハンにおける紛争は急速に終わり、日本の一般民衆のソビエット連邦に対する敵意は、ある程度まで緩和された。モスコー駐在の日本公使東郷は、国境紛争の全般的解決と新しい通商条約とについて、ソビエット政府と交渉するように訓令された。日本とソビエット連邦との不可侵条約の交渉は、蒋介石大元帥に対する援助を放棄する意思がソビエット連邦にあるかないかにかかっているということも、かれは知らされた。

 新しい米内内閣に、有田が再び外務大臣として就任した1940年1月5日以後も、中国における日本の野心に対してソビエットが妨害しないかという懸念は続いた。1940年5月10日には、米内内閣は、イギリス及び合衆国と、より以上の意見の一致に達しようとまだ努力していた。日本とソビエット連邦は、互いに相手を信用していなかった。大島、白鳥及びその他の軍部派の者の助けを得て、ドイツ大使館は、依然として両国の間の和解の促進につとめていた。

 しかし、軍部派と世論の圧力のもとに、米内内閣の政策は、次第に変化を示した。日本の侵略的行動に対して、引き続き行われていた西洋諸国の反対のために、原料の新しい供給源の必要が増大した。1940年3月に、ソビエット連邦に対する軍事的準備のために割り当てられた資金と資材の一部は、合衆国に日本が依存しないでもすむようにすることを目的とする工業生産に転用された。小磯のもとにあった拓務省は、日本の東南アジアへの進出の計画をすでに立てていた。

 ヨーロッパにおけるドイツの勝利は、これらの計画を実行する機会を与えるもののように見えた。1940年5月9日に、ドイツがオランダを攻撃したとき、外務大臣有田は、オランダ領東インドに対するドイツの態度が言明されれば、日本にとって好都合であるとほのめかして、ドイツ側の支持を求めた。外務大臣の新聞会見で、また日本の新聞紙上で、西洋諸国がオランダ領東インドに関する意見を表明しているのに対して、ドイツからはなんの言葉も来ていないということが指摘された。

 このようにして、ドイツは、日本の侵略的目標を西洋諸国に向けさせる機会を与えられた。大使オットは有田に対して、ドイツのオランダ侵入は、ヨーロッパ戦争の遂行だけに関連するものであるということを告げるように、フォン・リッベントロップから訓令を受けた。ドイツ自身としては、オランダ領東インドに対して無関心であることを確定的に言明したことを明らかにして、この通告を口頭で伝えることになっていた。

 1940年5月22日に、オットは有田に、最近のドイツの軍事的成功について話し、またフォン・リッベントロップの通告を伝えた。これに対して、有田は感謝の意を表わした。日本の外務省から、ドイツはオランダ領東インドに対して無関心であると言明したというコミュニケが出された。日本の新聞はこの発表を大きく取り扱い、それはこの地域に対する日本の政策を完全に承認するものであり、また将来のドイツの支持を約束するものであると報道した。ドイツの態度は、西洋諸国のとった態度と対照された。

日本は重光の進言を無視して南方進出の準備を継続 (原資料156頁)

 1940年5月25日に、すなわち、ドイツがオランダ領東インドに対する無関心を言明した直後に、大使重光は有田にもう一度警告を送った。ヨーロッパ戦争の結末はまだ疑問であるから、日本はあらゆる出来事に備えておかなければならないともう一度強調したのである。ドイツがオランダとベルギー方面の戦線で勝利を博したにもかかわらず、イギリスとフランスはまだ戦争を続けることを固く決意しているとかれはいった。日本は厳正な中立の政策を保つべきであり、妥協的な措置をとることによって、中日紛争を終了させなければならないと再び力説した。

 ヨーロッパにおける成行きの結果として、日本はいや応なしに東アジアの安定勢力となったと重光は指摘した。ヨーロッパ戦争の結果がどうなろうとも、妥協によって中国との和解に達すれば、日本の地位は強化されるというのであった。もしこのことが行なわれたならば、日本はいつでも国際的な舞台に立てるようになるというのであった。そうでなければ、もし西洋諸国が勝利を得たときは、再び中日事変に干渉するであろうというのであった。

 重光の進言は、ヨーロッパにおけるドイツの勝利の陰に隠れて、武力によって南方に進出しようとする計画の放棄を意味するものであった。かれは有田に対して、中国における妥協政策を公式に言明し、同時に、ヨーロッパの交戦国の軍隊を中国から撤退させることを要求するように勧めた。日本と満州国と中国の他の地域との沿岸から300マイルの海域に及ぶ中立地帯の宣言について、日本はまた考慮すべきであると重光はいった。このような方法で、ヨーロッパ戦争が太平洋に波及するのを防ぐことができると考え、世論や軍部派の圧力を無視して行動するように、かれは有田に説いた。しかし、日本の政策には、全然変化がなかった。

 1940年5月の終わりと6月の初めに、イギリスとフランスの軍隊は、ドイツの攻撃の重圧を受けて撃退された。1940年6月9日に、ソビエット連邦と日本は、協定によって蒙古と満州国を分ける国境線を定めた。1940年6月10日に、イタリアはイギリスとフランスに対して宣戦した。1940年6月17日に、フランスは休戦を求めなければならなくなった。

 1940年6月10日に、有田は、合衆国艦隊の大半がハワイに置いてあることについて、苦情を述べた。大使グルーはかれに対して、艦隊がその通常の基地の一つにいることは、日本に対する脅威にはならないと保証したけれども、有田の方では、それが引き続いてそこに留まることは、オランダ領東インドとその他の南方地域に対する日本の意図に対して疑惑をもっていることを意味するものであると主張した。かれはもう一度グルーに対して、日本は新しい領土を獲得する意図をまったくもっていないと保証した。

 この間、東京のドイツ大使館は、合衆国に対する悪感情をかき立てるために、報道機関や主要な政治家に働きかけた。大使オット自身、近衛とその他の日本の政界の著名な人物に対して、日本と合衆国との衝突は、結局において避けられないものであるとほのめかした。大島、白鳥及びその他軍部派の者は、この扇動について、ドイツ側と協力した。


日本は仏印に重ねて要求を提出、1940年6月

 フランスの崩壊が切迫するにつれて、オランダ領東インドに代わって、仏印が日本の侵略の次の犠牲として意図された。蒋介石大元帥の軍隊に対する物資供給を中止せよという日本の要求は、1940年3月に、フランスの拒絶にあってそのままになっていた。1940年6月4日に、東京駐在のフランス大使に対して、再び強硬な申入れがなされ、再び拒絶された。

 仏印に対する日本の政策は、東亜『新秩序の建設に対するすべての障害はいかなる犠牲を払っても、これを一掃する』という日本の決意によって支配されていた。どの経路であっても、それによって中国の抗戦軍隊が援助を受け得るものは、すべて閉鎖するというのであった。このために、仏印を日本の支配の下に置くものとすると決定されていた。

 1940年6月12日に、仏印の東部国境と境を接しているタイと、不侵略友好条約を締結することによって、日本はその地位を強化した。同じ日に、仏印の北部国境付近に駐屯していた日本の南支派遣軍は、中国が海外で購入した武器と軍需品の大部分が依然として雲南鉄道経由で重慶に輸送されていると発表した。この発表は、仏印当局が蒋介石大元帥を援助するためにとっているところの、このような行為は看過できないと述べた。4日後の1940年6月16日に、仏印の植民地当局の敵性行為と日本の主張しているものをフランスが中止させるように日本は要求した。1940年6月17日に、すなわち、フランスがドイツに休戦を求めた日に、仏印総督はこれらの要求に屈服した。一切の中国向けの兵器、弾薬、その他の軍需品の供給を中止することに同意し、また、北部仏印への日本軍事使節団を派遣することにも賛成したのである。

 翌日の1940年6月18日に、総理大臣米内、外務大臣有田、陸軍大臣畑及び海軍大臣吉田は会議を開いて、さらに要求をすることを決定した。日本は仏印当局に対して、一切の親中国的活動の抑圧を要求し、もしこの要求が拒絶されたならば、武力を行使するというのであった。武力を直ちに行使してはいけないかという議論があったが、陸軍は武力を用いるという威嚇で充分であろうと考え、この方針に反対の勧告をした。

 今やドイツの支配に服しているフランス政府に対して、日本はさらに約束を要求し、そしてこれを得た。中国向けのある軍需品の供給に対して課せられた禁止は、日本の使嗾(しむけること)によって拡大され、広範な種類に及ぶ他の物資を含むに至った。フランス当局は、密輸入行為を抑えることによって、この封鎖を実施することを約束した。

 1940年6月22日に、日本の使節団の派遣に対して、フランスは正式に同意した。1940年6月29日に、日本の陸軍省、海軍省、外務省の代表者40名から成るこの使節団は、仏印のハノイに上陸し、与えられた約束通りに、封鎖が実施されていることを確かめた。

米内内閣は仏印における行動の自由を欲し、ドイツに西洋諸国に対抗する協力を申し入れた (原資料161頁)

 その上に、ドイツとイタリアに対して、政治的と経済的との両見地から、日本は仏印の将来に重大な関心をもっているということが通告された。ドイツがあまりにひどいかけひきをしない限り、西洋諸国に対して、米内内閣がドイツと協調して行動しようとしていることが今や明らかになった。1940年6月19日に、すなわち、日本の対仏印政策が四相会議で決定された翌日に、大使来栖(くるす)は、ドイツ外務省のある役人との会談で、この問題を一般的に持ち出した。

 来栖は話のはじめに、ドイツとの関係をもっと密接で心からのものにしたいという日本の希望を強調した。以前には、この政策に反対していた人々でさえも、今では、日本の将来が西洋諸国ではなく、ドイツへの接近にかかっているということを知っているとかれはいった。日本がドイツとの国交の改善を望んでいることを示すものとして、来栖は、日本の元外務大臣佐藤尚武が近く訪問することを挙げた。

 来栖は話を続けて、日本の立場を論じ、また、両国の間の協力がどのような形をとるべきかについて、日本側の見解を論じた。ドイツの圧力にかんがみて、西洋諸国は日本向けの輸出に対して有効なボイコットを課することができないから、かれは日本の原料不足を非常に重大なものとは、もう考えなかった。重工業の拡充が今では日本の最も重要な仕事であるとかれはいった。この拡充についてドイツが協力してくれるならば、日本はもう合衆国に依存しなくなるから、行動の自由を獲得することになるというのであった。合衆国の示してきた非友好的な態度にかんがみて、日本の産業家は、喜んでアメリカの供給源をドイツの供給源に切りかえるであろうというのであった。

 日本のソビエット連邦に対する敵意と、日本がドイツに対して実質的な経済的援助を与えることができなかったこととが、枢軸諸国間の緊密な協力に対する障害であった。これらのどちらも乗り越えられるであろうということを来栖は示した。モスコーの大使東郷も自分自身も、日本とソビエット連邦との国交の改善のために、熱心に働いているとかれはいった。日本の将来が南方に存すること、北方の敵を味方にしなければならないことは、日本においても、ますます明白に認識され始めていると言明した。軍部の党派の中には、この方向転換に反対するものもあることは認めたが、大島がこれらのものにその必要を納得させるであろうとかれはいった。

 来栖は、日本自身の範囲とその他の海外諸地域から、ドイツへ向けて、原料輸送を促進する用意がもう日本にはできているはずだということをもほのめかした。西洋諸国の現状に照らして、もはや中立法を文字通りに固く守る必要はないことをかれは指摘した。ヨーロッパ戦争が終了した後は、ドイツ及びイタリア、ソビエット連邦、合衆国、日本及び中国によってそれぞれ支配される4つの勢力範囲が残るという予想をかれは述べた。そうなれば、ドイツ・ブロックと日本ブロックとの緊密な関係は、両国にとって相互に有利であると考え、ドイツがその戦後の経済企画において日本に充分な地位を割り当てることをかれは提案した。


重光は依然として米内内閣の政策に反対

 米内内閣の政策の最近の展開を知った大使重光は、1940年6月19日に、有田に対して、明確な警告を送った。もし仏印またはその他の地で武力に訴えることが決定されたならば、日本はまず合衆国の態度を慎重に考慮すべきであるといった。経済上の諸問題だけでなく、合衆国とイギリスの海軍力に対しても、またフランスの状況に対しても、充分に注意を払わなければならないというのであった。フランスの降伏が完了したならば、フランスの太平洋属地に対して、オーストラリアが干渉するおそれがあると重光は思った。この場合には、日本は積極的な行動に出る好機をつかむことができるかもしれないと考えた。しかし、ドイツの勝利が確実であるという内閣の信念に、かれはくみするものでないということを明らかにした。かれは有田に対して、フランスの崩壊が完全であるとしても、イギリスは戦いを続け、容易には敗れないであろうと注意した。

 西洋諸国の被った挫折にもかかわらず、重光は有田に対して、以前に送った電報の中で唱えた政策の基本原則を重ねて力説した。日本は東アジアにおける自己の立場を強化するために、ヨーロッパの情勢を利用すべきであるとかれは考えていた。日本は、南方の島々を含めて、東アジアの安定に重大な関心をもつことを声明すべきであるといった。ヨーロッパ戦争の拡大を防ぐ決意と、東アジアはもはやヨーロッパの搾取の場所であってはならないという決心とを、日本は言明すべきであるというのであった。ヨーロッパで枢軸側が勝利を得るかもしれないということを考えて、日本はドイツの東アジア侵入をあらかじめ防ぐことも用意しておき、このような侵害から、日本がドイツと戦争する危険に追いこまれないようにしなければならないというのであった。

 この電報とそれより前の電報から、重光の方針ははっきりと現われてくる。西洋諸国は、ヨーロッパの戦争に勝つではあろうが、東アジアにおける勢力は大いに弱められるであろうということ、従って、日本の地位は強められるであろうということをかれは考えた。妥協によって、中国との和解に達したならば、将来において、西洋諸国が介入する機縁がなくなるであろうと指摘した。中立政策をとることによって、日本は国際的な舞台に立つ資格を得るであろうというのであった。

 さらに、アジアと東インド諸島における西洋の勢力に反抗することによって、日本は東洋の諸民族の好意と支持をかち得るであろうし、中国との和解の達成をいっそう容易にするであろうというのであった。このように、平和的な措置によって、日本は現に戦争の準備をしている目的そのものを達成できるというのであった。枢軸国がヨーロッパで勝利を得ることになったとしても、同じ考えがあてはまるというのであった。国力を損なうことなく、アジアの諸民族の間に威信を増したならば、東洋と支配しようとするドイツのどのような企図に対しても、日本は阻止する用意があることになろうというのであった。

有田、合衆国との協力の提案を拒否 (原資料165頁)

 しかし、日本の政策は、米内、有田、畑及び吉田が出席した会議で、1940年6月18日に決定されていた。受諾できるような条件で、ドイツは協力を与える用意があるという問題全体が検討されつつあった。日本の仏印に対する特別の関心は、1940年6月19日に、ドイツとイタリアに漏らされていた。合衆国とイギリスに対する日本の政策は、この知らせに対する回答によってきまるものと決定された。

 これらの回答が待たれている間に、合衆国は日本との了解に到達し、また日本の誠意をためすために、別の試みをした。大使グルーは有田に対して、日本と合衆国は、ヨーロッパ交戦国の太平洋属地に関して、平和的手段によって変更されるのでないかぎり、その現状(「現状」に小さい丸で傍点あり)を維持するという共通の希望を宣言した覚書を交換すべきであると提案するように訓令された。さらに、もし何か問題が起こり、両国のうちの一方がこれについて協議をすることが望ましいという意見である場合には、両国の間で協議するという規定をグルーは提案することになっていた。

 1940年6月24日に、グルーは有田に対して、ごく内密にこの提案を行なった。しかし、そのさいに、合衆国は他の特定の問題についてとった立場を譲歩したのではないということを明らかにした。この新しい合衆国の提案は、両国間の関係を改善するなにかの方法を発見する手段として、企てられたものである。

 有田は日本に対するドイツの態度に確信がなかったので、この合衆国の提案を非常に慎重を要する事柄であると考えた。この提案は九国条約体制の復活であるとかれは見てとった。この条約はまだ日本を拘束していたが、それに含まれた義務を免れ、否認するために、日本はあらゆる努力をしてきたのであった。日本の行動の自由に対して、特にオランダ領東インドに関するそれに対して、新しい制限が加えられることを有田は望まなかった。

 そこで、有田はグルーに対して、日本と合衆国との間に、多くの未解決な意見の相違が残っていることにかんがみ、これらの意見の相違がまず解決されなければ、新しい提案を受諾することは困難かもしれないと述べた。かれは日本の世論の親ドイツ的傾向に言及したうえ、かれ個人としては、合衆国との接近を望んでいるが、この意見のために、自分は激しい非難を浴びせられているといった。それにもかかわらず、かれはその提案に慎重な考慮を払うと約束した。

 1940年6月28日に、外務大臣有田は、合衆国の提案に対する日本の回答を与えた。かれは大使グルーに対して、現存の国際情勢にかんがみ、合衆国が提示した基礎の上で、覚書の公式交換を考慮することができるかどうか疑わしいといった。ヨーロッパ戦争がヨーロッパの交戦国の太平洋属地の地位に与える影響について、日本は、深い関心をもっていると有田はいった。そこで、現在の過渡的時期において、どのような性質の協定も締結することを日本は望ましいとは考えないというのであった。有田は、ヨーロッパ戦争が極東に波及するのを防止するために、かれ自身努力しているといい、日本と合衆国だけに関係のある問題を討議するのが時宜を得たことではないかといった。


有田、日本の政策の基礎が西洋諸国を目標とするドイツとの協力にあることを示す

 1940年6月29日に、すなわち、合衆国の提案を外務大臣有田が拒絶した翌日に、かれは外交方針演説を行なった。それはドイツと協調して行動するという米内内閣の希望を非常に強調したものであった。

 かれは両国が共通の思想をもっていることを明らかにし、日本の肇国(けいこく。国を創始すること)以来の理想は、万邦をして各々その所を得られるようにするにあるといった。日本の外交方針は、この理想に基づいており、そのためには、国運を賭して戦うことすらも敢えて辞せなかったといったのであった。従って、世界の同じ地域の国々は、密接な人種的、経済的及び文化的なきずなによっても結ばれているから、まずそのみずからの『共存共栄』の分野を建設するということは、自然の順序だというのであった。

 ヨーロッパの戦争によって、戦争というものは、現存する秩序の不正を是正しえなかったことに普通に基づくということが示されたと有田はいった。日本が東亜『新秩序』建設の事業に着手したのは、この理由によるものであった。日本の目的が誤解され、中国の抗戦軍隊を支持する国々によって、この目的が阻害されてきたことは、はなはだ遺憾なことであるとかれはいった。このような反対を、日本はすべて根絶する決意をしているというのであった。

 有田の演説の残りの部分は、東アジア及び東南アジアと東インド諸島の全地域に対して、日本の宗主権を言明したものにほかならなかった。東アジアの諸国は相互に協力し、相互の必要に応じ合うという運命を持ったところの、単一の分野を構成しているとかれはいった。続いて、ヨーロッパ戦争がはじまったときに、日本はヨーロッパに対する不介入の方針を宣言し、ヨーロッパの紛争を東アジアに波及させてはならないという希望を声明したといった。

 有田はこの演説の結びとして、西洋諸国に日本の諸計画を妨害しないようにと勧告した。西洋諸国が戦争を太平洋にまで拡大するようなことは、なにも行なわないものと日本は信ずるとかれはいった。日本は東亜『新秩序』建設の事業を遂行するかたわら、ヨーロッパにおける事態の進展に対して、またヨーロッパ戦争が東アジアと南洋の諸地域に及ぼす反響に対して、慎重な注意を払っていると述べた。これらの地域の運命は、『東亜の安定勢力たる帝国の使命と責任とに顧みて』、日本にとって重大な関心事であると言明した。

親ドイツ派、米内内閣の打倒と枢軸同盟の締結を準備 (原資料169頁)

 1940年5月と6月における外交方針の諸声明と通告の中で、日本はドイツの協力を希望するが、ヨーロッパ戦争に参加する意思はないということが明らかにされていた。しかし、1940年1月に米内内閣が就任して以来、西洋諸国に対する戦争に参加せよという一般の声は絶え間なく高まって行き、大島、白鳥、その他の日本における親ドイツ派の指導者と協力して働いていたドイツ大使館の館員によって、たゆみなく培われていた。

 1939年8月、阿部内閣が平沼内閣にかわって就任したときに、日本とドイツとの間の密接な協力に対して、重大な障害が起こっていた。日ソ不可侵条約(独ソ不可侵条約の誤りだろう)の締結によって、ドイツに対する大衆の憤慨が引き起こされていたのである。陸軍内のある党派と一般の日本民衆の間では、ソビエット連邦は依然として日本の最大の敵と見做されていた。阿部内閣は、西洋諸国との接近をはかることを誓約していた。

 1940年1月、米内内閣が就任したときに、世論は再びドイツとの協力を支持し、ソビエット連邦に対する敵意がある程度まで減少した。しかし、中国における闘争はまだ終わっていないし、政界では、ヨーロッパ戦争に対する不介入の原則が確固とした地歩を占めていた。日本における親ドイツ派は、そしてドイツ大使自身でさえも、中国の紛争が解決され、国内の政治的分裂が収拾されるまで、日本はヨーロッパに介入できないことを認めていた。

 従って、陸軍は内閣と協力していた。陸軍大臣畑は、日本にドイツとの無条件的な同盟を約束させようということについて、板垣と希望を同じくしていたけれども、阿部内閣と米内内閣のいずれの政策にも反対しなかった。日本がヨーロッパ戦争に参加することに対する障害は、徐々に取り除かれた。ヨーロッパにおけるドイツの勝利に刺激され、また南方における大きな利得の見込みがあったので、米内内閣の政策は、機会主義的な変化を遂げた。満州国の北部国境は、ソビエットとの協定によって定められ、南進の計画と準備はでき上がっていた。西洋諸国が、ソビエット連邦にかわって、日本の侵略の第一の犠牲として意図されていた。蒋介石大元帥と和解を計るために、陸軍は再び交渉を始めていた。

 1940年3月以来、適当な時期が来たら、米内内閣は更迭するであろうと広く予想されていた。1940年5月に、ドイツ大使は、親ドイツ派の新しい内閣が多分近衛の指導のもとに組織されるだろうと期待していた。そのときから、大使オットは大島、白鳥、その他の有力な日本人との協力を続けて、ヨーロッパ戦争に対する日本の介入――すなわち、米内内閣が断然反対していた措置――を実現させるために働いていた。

 1940年6月中旬に、フランスが崩壊すると、親ドイツ派のある者は、米内内閣の更迭が行なわれなければならないときが急速に近づいていると感じた。1940年6月18日に、日本の政治体制の再調整及び強化と強力な外交政策の樹立とを目的とした政治団体の会員に対して、白鳥は演説を行なった。この会合で、かれは官吏として内閣の倒壊を主張することはできないが、ドイツの成功にかんがみて、一つの機会はすでに失われたと感じていると述べた。三国枢軸同盟に反対する者が内閣に地位を占めている限り、ドイツとの協調の見込みはないと考えるというのであった。

 ドイツは日本に対して、オランダ領東インドにおける完全な行動の自由をすでに与えていたので、日本の仏印に対する計画に従って、米内内閣が行なった新しい申入れには応答しなかった。この新しい利権を要求したことは、ドイツにかけひきをする機会を与えた。ドイツ外務省の一官吏は、中国に対する日本の政策を尊重して、ドイツが払った経済上の犠牲について詳しく述べ、また、ヨーロッパ戦争が始まってから、日本は中立的な役割を固執し、ドイツ船舶乗組員が合衆国から送還されたり、ドイツに向けられた物資が日本経由で輸送されたりすることについてさえも、便宜を計らなかったことを指摘した。


親ドイツ派の人人、ドイツ大使と直接に折衝

 1940年6月19日に送った仏印に関する通告に対して、ドイツの回答を米内内閣が待っている間に、親ドイツ派に属する者は、かれらの計画に対する二つの重要な障害を取り除く手段をとった。

 1939年10月26日以来、軍務局長と国家総動員審議会幹事の任に就いていた陸軍少将武藤は、ドイツ大使館付き陸軍武官と話し合った。日本と蒋介石大元帥との間に、すでに長い間行なわれている妥協の話し合いについて、機会があったら、ドイツが仲介者として立ち、日本の受諾できる方法で、中日戦争を終わらせることができたならば、陸軍はこれを歓迎するであろうと武藤はいった。また、日本は中日戦争を解決したいと望んでいるから、仏印に非常な関心をもっていると言明した。ドイツ陸軍武官の質問に答えて、陸軍はソビエット連邦との妥協を必要と考えていると武藤は告げた。

 外務省における有田の後継者として、しばしばその名をあげられていた白鳥は、1940年6月23日に、新聞会見において、日本とソビエット連邦との不可侵条約の締結を主張した。

 拓務大臣小磯のもとにあった拓務省は、日本の南方進出の企画に直接関係していたが、かれは直接に大使オットと話し合い、もし日本が仏印とオランダ領東インドの諸地域とで軍事行動を起こしたならば、ドイツはどのような態度をとるであろうかと質問した。オットは、オランダ領東インドについては、これに対して無関心であるというドイツの言明に言及したが、仏印に関しては、ドイツは条件をつけるであろうということを示した。ドイツはおそらく異議を唱えないであろうが、それには、合衆国がヨーロッパ戦争に加わったならば、フィリッピンとハワイを攻撃することを約束するとでもいったようなことによって、合衆国を太平洋地域にしばりつけておくことを日本が保証してくれることを条件としてであるといったのである。

 小磯は、この提案については、なおよく考慮しようといい、さらに進んで、枢軸諸国間の共同の行動に対する他の障害について語った。締結の可能性のある日ソ不可侵条約の問題に言及して、ソビエット連邦は、多分蒙古と中国の西北部で、ある種の領土的利権を要求するであろうと考えるといった。これらのことについては交渉の余地があるとかれはいった。仏印とオランダ領東インドにおいて、日本の植民地獲得の目的が実現された後でも、日本が合衆国から経済的に独立することは、漸進的にしか行なわれないであろうということをかれは認めた。しかし、仏印における日本の目的の達成とソビエット連邦との条約の締結は、来るべき近衛内閣に対して、蒋介石大元帥との和解に達する有望な出発点を与えるのであると考えた。

来るべき近衛内閣と一国一党制度とのための政治的準備 (原資料174頁)

 内閣の更迭が長い間徹底的に準備されていた。近衛の最初の総理大臣在職のときの特徴は、閣僚間の意見の相違から、また陸軍と内閣の方針との衝突から、政治的危機が頻繁に生じたことであった。以前に陸軍がその計画に対して反対に会ったときと同じように、このときにも、政党を廃止せよという差し迫った要求が起こっていた。外務大臣宇垣の辞職をもたらした1938年9月の政治的危機の際に、既存の政党にとって代わり、日本の国内と対外の問題に『断乎として対処』する一国一党制度の組織に対する強い要求があった。当時の総理大臣近衛は、このような統一された政権の首班にすえられることを望んでいた。こうなれば、陸軍の方針は内閣の方針となり、反対も意見の相違も起こり得なくなるというのであった。

 1938年には、『一国一党制度』が実現しなかったが、1940年中、米内内閣が在任した間に、『国内政治体制整備強化』の運動が、内閣の更迭と『強力外交』の採用に対する要求と同時に大きくなった。1940年3月19日に、陸軍大臣畑が政治における陸軍の役割に関する質問を受け流した後、軍務局長武藤少将は率直な言明をした。日本の指導原理は、『主義と信念において完全なる国家主義、すなわち全体主義でなければならぬ』という断定的な見解をかれは引用し、これに賛意を表した。かれはつけ加えて、このようにして、国家の総力が発揮できるといった。もし政党が現在の危機においてかれら自身の利益を助長することだけを求めているならば、陸軍は政党の解消に賛成であると武藤はいった。

 1940年5月10日までには、新しい政党をつくり、近衛がその総裁になり、木戸が副総裁になるということが決定されていた。木戸は、近衛が指導者となることを自分は望んでおり、近衛が政界に留まる限り、かれを支持すると受け合った。

 1940年5月26日に、近衛と木戸は、予期される内閣の更迭と、かれらの新しい政党の樹立とのための計画を話し合った。内閣の更迭の際には、少数の大臣だけを選ぶということに同意した。そうしてから、新しい政党の樹立を公表し、あらゆる既存政党に解消を要求するというのであった。すでに選ばれた少数の閣僚は、新党に加わるように要求され、他の閣僚は、すでに入党した者だけから選ばれることになっていた。

 新しい内閣は、国防、外交及び財政に関して、陸海軍の要望に特別な考慮を払うことにするつもりであった。この目的のために、総理大臣、陸軍大臣及び海軍大臣とともに、陸海軍の両総長も加わる最高国防会議を設置することが提案された。


親ドイツ派による内閣更迭の準備と総理大臣米内その他の暗殺の陰謀

 1940年6月1日に、木戸は内大臣の地位を提供された。かれはこの任命を拒絶するように強く勧められた。それは、新しい近衛の政党の幹部として、かれが務めるものと予期された役割が重要なものであったからである。しかし、木戸は近衛と相談した後、この職を受諾した。近衛はかねて彼の任命を推薦することに力を添えていたのである。

 内大臣の在任期間は、内閣の更迭とは無関係であったが、その職務は、国務に関して常に天皇の相談相手となり、また天皇と内閣との間の正式の仲介者をつとめることにあった。従って、内大臣の地位は、大きな勢力をもつものであった。

 1940年6月24日、米内内閣が枢軸国の間の協力についての同内閣の提案に対してドイツの応答を待っていたときに、近衛は枢密院議長の職を辞した。大使オットはドイツに対して、この辞職は、近衛の指導のもとに、新しい内閣と新しい単一政党を組織することを目的とした政治的企画が進んでいることを示すものであると報告した。

 さらに、本国政府に対して、近衛一派の有力者は、明らかに自分と連絡をしようとしていると報告し、武藤と小磯が提唱していた考えについて、その一派と討議を行なう権限を要請した。このようにすれば、ドイツが近衛一派と協力することからして、どのような結果が期待できるかということを、かれは確かめることができるというのであった。

 このような事情において、米内内閣を力づけることは、ドイツの利益にならなかった。1940年7月1日に、オットは、1940年6月29日の外務大臣有田の外交方針演説は、いっそう積極的な対外政策の採用を発表することによって、国内の政治的進展と同調しようとする試みであると報告した。これによって、有田は米内内閣の立場を強化しようと希望していたのである。

 この演説に関連して、米内内閣に対する反対は、表面に現われてきた。有田は、内閣が枢軸政策の線から離れようと考えたことは決してなかったといって、ドイツ及びイタリアとの友好関係を強化しようという内閣の決意を無条件的に宣言しようと計画していた。反対派は、陸軍のあとに続いて、この政策の急変に対して抗議した。その理由としては、枢軸諸国に同調するという有田の声明は、内閣が今までとってきた政策と矛盾しているというのであった。米内内閣の崩壊を希望していた陸軍は、ドイツと緊密に協力してきた反対派を犠牲にして、内閣の面目をよくしようという有田の試みをねたんでいた。陸軍の強要で、有田の演説の原案は、相当の修正を施された。こうして、かれの企ては失敗に終わった。

 陸軍の勢力は、米内内閣が就任する前に弱くなっていたが、再び非常に強力になってきていた。仏印と香港との両方に対して、武力で威嚇する態度がとられた。オットは、国内政治の動向には、圧力が加えられており、やがて内閣の更迭が起こるであろうという典型的な前兆が現われたと言った。

 その翌日に、火に油を注ぐようなことが起こった。とりやめになった有田の演説の原文と、陸軍がそれに反対して成功した事実とを、外務省情報部長が暴露したのである。そこで、情報部長は憲兵に逮捕され、訊問を受けた。

 この暴露があってから、軍部派の目的に反対していた総理大臣米内とその他の者の声明に対して、陰謀がたくらまれた。1940年7月5日に、陰謀者は逮捕され、同じ日の後刻に、木戸は内大臣として事情を天皇に報告した。木戸は天皇に対して、陰謀者の行動は非難すべきであるが、かれらの動機は内閣の慎重な考慮を要するといった。ついで、かれは近衛と、政治体制の変更に関するかれらの計画と、内閣の更迭があった場合にとるべき措置とについて話し合った。

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