歴史の部屋

ドイツによる対日方針の言明拒絶に基づく米内内閣の苦境 (原資料179頁)

 しかし、米内内閣は、内閣の存続を確保するような協定をドイツと締結するために、努力を続けた。ドイツに対する日本の特派使節佐藤は、ベルリンに到着していた。1940年7月8日に、佐藤と大使来栖は、外務大臣フォン・リッベントロップに、日本の立場を説明した。

 佐藤はドイツと日本がそれぞれの勢力範囲内で『新秩序』の建設に従事しているといって、両国の共通の利益を強調した。両国は今のところソビエット連邦と友好関係を維持しなければならないから、この点においても協力することができると指摘した。佐藤は、中国における戦争が始まって以来、同国に『新秩序』を建設するという任務が日本の最大の任務であったと説明した。これが日本の政策の、一見していかにも複雑な変化を説明するものであって、これらの変化は、すべて中日戦争の事情によるものであるといった。日本は行動の自由を得るために、今では、この戦争の解決に懸命な努力を払っているというのであった。

 佐藤は、日本がドイツに対してなした貢献について、フォン・リッベントロップの注意を促した。過去3年間にわたって、日本はイギリス、フランス及び合衆国の各政府の注意をある程度まで引きつけ、これによって、ドイツの仕事を容易にしたとかれはいった。日本が行動するかもしれないという脅威が絶えず存在するので、今や合衆国の艦隊は太平洋から離れられなくなった。日本の政策は、極東において、または両アメリカ大陸を除いた世界の他の地域において、合衆国の干渉を許してはならないということであるとかれはつけ加えた。

 しかし、合衆国がいっそう厳重な経済的制裁を加えることになれば、日本は南方で物資の新しい供給源を求めなければならなくなるから、これを避けるには、同国をあまりに挑発することはできないと佐藤は説明した。こうなれば、ドイツも日本も合衆国と戦争する危険にさらされることになる。これは両国ともぜひ避けたいと思っていることであった。

 従って、佐藤は、ドイツと日本との間には、他の問題と同様に、経済問題でも協力する必要があると強調した。かれはフォン・リッベントロップに対して、中国では日本が主人で、他の諸国は日本の客であるというのが日本の政策であるといって、日本は中国でドイツに経済上の機会を与えたいと思っていると保証した。かれはつけ加えて、この政策のためにこそ、日本は長年イギリス、フランス及び合衆国のような国の勢力に対して戦ってきたのであるといった。ドイツの経済的援助があれば、日本は九国条約の制度に対する反抗に成功し、中日戦争を解決し、合衆国に依存しなくてもすむようになるであろうというのであった。佐藤の議論の要点は、ドイツは極東における日本の地位を強化することによって、ヨーロッパにおける自己の地位を強化することになるというのであった。従って、仏印及びオランダ領東インドに対する日本の目的に関して、ドイツがその方針を言明することをかれは要請した。

 フォン・リッベントロップは、日本国内における政治的動向について知っていたので、慎重に答えた。日本がドイツと協力したいと希望していることをかれは歓迎したが、ドイツは今ではヨーロッパにおける勝利を確信していて、日本からの援助をもうたいして重要視していないという印象を与えた。将来には新しい協力の機会が起こるであろうとかれは言明したが、日本の政治的目的に関して熟知していないという理由で、それより具体的なことは述べようとしなかった。協力に関する日本の申し出が経済方面に限られるのであるかどうかをかれはあからさまに尋ね、仏印またはその他の太平洋地域に関するドイツの態度については、なんら新しい暗示を与えなかった。


日本に東アジアと南太平洋を支配させようとする枢軸同盟の計画の出現

 右の会談に関する報告は、外務大臣有田の困難を増加した。米内内閣が倒れる3日前の1940年7月13日に、有田はドイツの意図について深い疑念を漏らした。かれは佐藤に向かって、日本をヨーロッパ戦争に介入させることがドイツの目的であるのか、また、極東におけるフランスとオランダの植民地を支配することをドイツはみずから希望しているのではないかということを尋ねた。

 米内内閣を代表して、佐藤が条件を提出したときに、フォン・リッベントロップはそれを控え目な態度で受け取ったのであるが、これらの条件そのものは、1940年6月24日に、小磯と武藤がすでにオットから確かめていたように、ドイツ側にとって受諾し得るものであった。というのは、ドイツ側としては、イギリスとイギリス連邦の諸国に対抗して、日本が今すぐに介入する必要をもう感じていなかったからである。従って、三国枢軸同盟の締結に対する最大の障害は取り除かれていた。ドイツが最も望んでいたのは、西洋諸国に対して、日本をドイツとイタリアの側に立たせる強力な日本政府であった。極東におけるこのような牽制策は、合衆国が引き続き中立を守ることを保証するものであるとドイツは信じていた。

 外務大臣有田がドイツの真意について憶測している間に、外務省の役人は、1940年7月12日に、陸軍と海軍の代表者に新しい案の最初の草案を提示したが、この案の原則は、その時から、日本が西洋諸国に対して攻撃をする時まで、日本の政策を支配したものであった。すべての要点において、これは4日前に佐藤がフォン・リッベントロップに示した案であった。

 これらの二つのどちらの場合にも(「7月8日に佐藤がフォン・リッベントロップに話したときと、7月12日に外務省の役人が陸海軍の代表者に話したときの両方の機会において」という意味だろう)認められたことは、1931年9月に奉天事件が起こって以来、日本の活動は断えず(「絶えず」の誤植か)征服と領土拡張という同じ目標に向けられていたということである。政策と行政機関には、たび重なる変更があったにもかかわらず、日本の目的は、一貫して、東アジアと南方の諸国と領土に対して、自己の支配権を確立することにあった。その目的を達成するために、ヨーロッパ戦争によって生じた情勢を利用することが今や企てられたのであった。

 一方で日本、他方でドイツとイタリアは、それぞれの勢力範囲内で、協調して、また緊密に協力して行動するというのであった。ドイツとイタリアがヨーロッパにおいて不法に獲得したのと同様な行動の自由を、日本は東南アジアと南太平洋地域において享有すべきであるということを、枢軸諸国が協定するというのであった。日本は極東におけるイギリスの勢力と利益をくつがえすことになっており、また、合衆国がドイツに対する戦争に参加するのを阻止する役割を果たすことになっていた。両国の間の連携によって、両国の侵略的な計画に対するソビエットの妨害に対して、それぞれいっそうの安全性が得られるのであった。ドイツの経済的援助は、日本の合衆国に対する依存を減少させることができ、日本は、ドイツが最も緊急に必要とする原料を東アジアから手に入れることができるように保証するというのであった。しかし、現在のところでは、ヨーロッパ戦争に日本が介入することをしつこく要請するドイツのどんな動きに対しても断固として抵抗するというのであった。

陸軍が米内内閣に反対した理由 (原資料185頁)

 米内内閣には、この計画を実現するのに必要な決断力も、目的に専念する熱意もなかった。陸軍は『強力外交政策』、すなわち、新しい内閣で実行されるものと近衛と木戸がきめていた政策を要求した。米内内閣の在任中は、親枢軸政策を採用せよという要求に対して、終始一貫して抵抗が続けられた。平沼内閣在任中の1939年に、米内と有田とは、三国軍事同盟を結ぼうとする軍部派の画策を頓挫させることに与って力があった。陸軍がドイツ及びイタリアとの軍事同盟を急速に締結せよという要求を再び持ち出したとき、今度は有田は躊躇し、米内は反対した。このような人が政権をとっている間は、日本とドイツとの間に、協調の見込みはないと白鳥はいっていた。三国軍事同盟締結の問題は、内閣と内閣の辞職を要求する者との間で、根本的な争点となっていた。

 第二の根本的な争点は、『大政翼賛会』と称する新しい全国的な政治団体の設立に関するものであった。陸軍の計画が脅かされ、あるいは反対された政治的危機に関しては、軍部派は常に政党の廃止を要求してきた。1940年3月に、陸軍少将武藤はこの要求を再び持ち出して、日本に必要なのは全体主義的体制であり、それによって、国家の総力が発揮されるようにすることであるといった。近衛と木戸は、1940年5月26日に会見したときに、すべての既存政党にかわる新しい政党の組織に乗り出すことを計画した。かれらは、新しい内閣の外交政策と国内政策を決定するについては、陸軍と海軍に顕著な役割を与えることも計画した。従って、近衛の内閣は、軍部派を代表することになり、その軍部派の政策に対しては、なんの反対も生じないわけであった。

 大政翼賛会が達成するものと計画されていたのは、これらの目的であった。翼賛会は、国家総動員法の目的に関する陸軍の説明の中で、1938年5月に、繰り返して述べられたところの、国策の基準の原則を完全に実施することになっていた。すべての反対を抑えつけることによって、翼賛会は国家の戦力を増し、陸軍の政策を支持するように、日本国民を組織統制することになっていた。

 このことは、結局において、軍部派の要望に応ずる独裁制の樹立を意味することを総理大臣米内は悟った。すべての既存政治団体は廃止され、議会は審議の自由を跡方もなく失うようになることをかれは知った。そこで、かれの内閣は、大政翼賛会の設立に反対した。

 陸軍次官阿南と軍務局長武藤は、先頭に立って、米内内閣の辞職を要求した。かれらは内閣書記官長石渡に対して、もし内閣が辞職を拒絶するならば、陸軍大臣の辞職を強行することが必要となるであろうと知らせた。陸軍大臣畑は、結局は内閣が辞職した方がよいと思うというあいまいな答えをした。


陸軍による米内内閣の倒壊

 参謀本部の将校は、軍事上と政治上の二つの立場から、米内内閣は当時の世界情勢に対処する能力がないときめていた。この見解が表明されたときに、参謀総長閑院はこれを畑に伝え、畑は陸軍の態度について米内に知らせることになっていた。そうする前に、畑は近衛とこの事情について話し合うことになっていた。

 1940年7月8日に、木戸は陸軍次官阿南と侍従武官長から、これらの事態の進展について知らされた。阿南は木戸に対して、ドイツ及びイタリアと交渉を行なうには、米内内閣はまったく不適当であること、その政務処理方針は、致命的な手遅れを来すことにさえなるかもしれないということを話した。従って、内閣の更迭はやむを得ないことであり、4、5日の中には、そうなるものと思われるといった。陸軍の意見を突きつけられたら、米内内閣がどのような行動に出るかを見極めようと、陸軍は待ち構えていると木戸は聞かされた。

 阿南の木戸との会見は、陸軍がとった威圧的な態度を示すものである。陸軍次官は木戸に、陸軍は一致して近衛が総理大臣の候補となることを支持すると告げた。木戸が新しい外務大臣の人選が困難なことを指摘すると、陸軍はその問題をまったく近衛に一任する用意があると阿南は保証した。

 木戸が知らされていたように、陸軍の意見の覚書がつくられ、米内に提出された。1940年7月16日に、総理大臣は畑を呼び寄せ、陸軍の見解は、内閣のそれと異なっていると告げた。かれは陸軍大臣に、もし内閣の政策に不同意ならば、辞職してもらいたいといった。そこで、畑は辞表を提出し、米内に後継者の指名を求められると、その日のうちにこれに対する回答をすると約束した。陸軍の他の二『長官』と相談した後に、畑は米内に対して、陸軍はだれも推薦することができないと知らせた。

 このようにして、陸軍は米内内閣が崩壊するほかはないようにし向けた。1940年7月16日、陸軍大臣が辞職したその日に、総理大臣は、ほかにまったく方法がないので、内閣の辞表を天皇に提出した。

 その翌日の1940年7月17日に、大使オットはベルリンに報告して、陸軍がむりやりに引き起こした内閣の更迭からみて、いっそう積極的な反イギリス政策へ急速に転換されるものと予期されるといった。この政策が決定された場合に、香港を直ちに攻撃するために、陸軍はすでに攻城砲隊を動員していた。

 米内内閣の倒壊をもたらした策謀に、陸軍大臣畑が積極的に参加したということは、示されていない、かれは米内内閣の政策を支持していた。この政策は、それ自体が武力によって勢力を拡大するという国家目的を推進するために計画された侵略政策であった。かれが在任していたのは、親ドイツ派の人人が、かれらの計画を成功させるには、その前にまず日本の国内的な一致を解決しなければならないことを知っていたからである。かれは、侵略的な目的を隠そうとする内閣の用心深い企てを、単に便宜上の問題であると見ていたことを明らかにしていた。都合のよい時機が来たときに、米内内閣の瓦解と、軍部の要望に応ずる新しい内閣の登場とをもたらすために、かれは利用されるままに任せておいたのである。

米内内閣の倒壊と近衛の総理大臣選任に関する木戸の役割 (原資料189頁)

 1940年6月1日に、内大臣として任命されてから、木戸は近衛と密接な連絡を保ち、米内内閣の更迭を唱えていた者たちの目的を絶えず援けていた。1940年6月27日に、かれは内閣更迭の際にとるべき手続について協議し、また政治体制の強化について、大蔵大臣桜内(さくらうち)と意見を交換した。1940年7月5日に、総理大臣とその他の著名な人々を暗殺する陰謀が発覚したときに、木戸はこれを天皇に報告するにあたって、陰謀者の動機を支持した。それから後は、米内内閣の瓦解と近衛の政権掌握とをもたらす陸軍の陰謀に、かれはひそかに加わっていた。天皇が米内の辞職を避けられないものと信ずるようになっていながら、なお米内に信頼を寄せており、内閣の更迭の必要になったことを遺憾としていることを、木戸は知っていた。1940年7月16日の朝、米内が直ちに辞職することを強いられそうなことが明らかとなったときに、木戸は天皇に畑の辞職の経緯を報告し、新しい総理大臣を選ぶ方法を説明した。

 長老の政治家のあるものが『元老』と呼ばれていて、新しい総理大臣の任命に関して、天皇に進言することが慣例となっていたが、そのうちの一人だけが存命していた。それは西園寺公爵であった。それまでは、西園寺の勢力は大きいものであった。主としてかれの進言と政治情勢に関するかれの知識とによって、宮中関係者は、軍部派の行動に対して、ときにはいくらかの掣肘を加えるように促されたものであった。

 西園寺の秘書であり、腹心であった原田男爵は、米内とともに、木戸がその動機を支持した陰謀者によって、暗殺の対象にされていた。

 1939年11月に、木戸は近衛の要求によって、総理大臣を選ぶ新しい方法を考え出す仕事を行なっていた。かれの提案は、枢密院議長、内大臣及びすべての前総理大臣からなる一団をもって、『元老』にかえてはどうかというのであった。この『重臣』の一団に属する者の意見が天皇に伝達されるというのであった。

 1939年11月10日に、木戸はこの計画を近衛と話し合った。近衛は、できるだけ早く、それが実行に移されることを希望した。木戸が近衛に対して、西園寺が生きている限り、この計画を実行に移すのは困難であろうという懸念を表明したところからすれば、近衛も木戸も、この新しい制度を政治問題における西園寺の勢力を除く手段と見ていたことは明らかである。

 1940年1月に、米内が阿部にかわって総理大臣となったときには、この計画は実行されなかったが、1940年7月に、米内内閣が辞職したときには、西園寺は病気であり、政治問題から遠ざかっていた。従って、内大臣としての木戸の勢力は、大いに強められた。

 天皇はこの新しい制度に関する木戸の説明を受け容れた。そして、米内内閣の辞表が受理された後、木戸に重臣会議を召集させた。この会議で、総理大臣の候補として名を挙げられたのは、近衛だけであった。平沼は、10日前に、近衛が候補となることに賛成であるといっていた。木戸自身は、陸軍が賛成することはわかっており、最近の陸軍の行動には、近衛が就任するという仮定に基づいているものがあると思うといって、近衛の任命を強く主張した。そこで、問題は解決された。この決定を伝えるために、西園寺に送られた使者は、公爵は病体であり、政治情勢にうといので、天皇に進言する責任は負いたくないといったと報告した。

 そこで、木戸は重臣の進言を天皇に報告した。天皇は、最後的な決定が下される前に、もう一度西園寺に相談することを希望した。しかし、西園寺の病気を口実として、木戸は天皇にそれを思い止まらせた。そこで、近衛が呼ばれ、新しい内閣を組織する命令を受けた。


第二次近衛内閣の成立と政策

 近衛は、木戸とかれが1940年5月26日に計画していた方法で、内閣の組織に取りかかった。天皇から新しい内閣を組織すべき委任を受諾した後に、近衛は木戸に対して、離任する陸海軍大臣に対して、陸海軍の相互の協力を行なう意向のある後継者を選ぶように要請するつもりであると告げた。陸軍、海軍及び外務大臣が選ばれたら、近衛はかれらと国防、外交、陸海軍の協力、及び統帥部と内閣との関係の諸問題を充分に相談することになっていた。これらの問題について、四相会議の意見が一致するまでは、かれは他の大臣の選考を開始しないということになっていた。この計画を近衛は実行した。

 海軍大臣吉田は、新しい内閣に留任した。陸軍中将東条が陸軍大臣に選ばれた。米内内閣の倒れた後に、離任する陸軍大臣畑は、東条をかれの後任とするようにと、天皇にひそかに推薦するという前例のない措置をとった。東条は1938年5月30日から1938年12月10日まで陸軍次官として在任し、それ以後は陸軍航空総監をつとめていた。1940年2月24日以来、かれは軍事参議官を兼任していた。

 外務大臣の選考は困難なものと木戸は認めていた。日本とドイツとの完全な協力を主張した極端論者の白鳥がこの地位に適当であると思われていたが、近衛は松岡を選んだ。かれの任命が発表されもしないうちに、新外務大臣はこのことを内々ドイツ大使に知らせ、ドイツとの友好的な協力を希望するといった。

 この期間を通じて、日本の政治の動向について、ドイツはいつも詳細に知らされていた。1940年7月20日に、大使オットは本国政府に対して、松岡の任命は確かに日本の外交政策の転換をもたらすであろうと報告した。

 1940年7月19日に、近衛、松岡、東条及び吉田は長時間の会議を行なった。そこで、新内閣の政策の諸原則が定められ、意見がまとまった。ベルリンの日本大使館は、ドイツ外務省に対して、新しい内閣に主要な地位を占める四大臣が、この異例な手続によって、ドイツとイタリアに対する接近を含む公式の外交政策項目を定めたことを知らせた。

 これらの政策問題が決定したので、近衛はかれの内閣の他の閣僚の選考を進めた。新しい内閣の成立は、1940年7月22日に発表された。

 前に満州国の経済上と産業上の開発を主管していた星野は、国務大臣兼企画院総裁になった。この任命は重要なものであった。なぜなら、新しい内閣は、国家総動員を早めること、日本と満州国と中国の他の地域との経済をいっそう密接に統合することに、非常な重点を置いていたからである。金融上の諸統制が強化され、軍備が大いに増強され、戦争産業がさらに急速に拡張されることになっていた。

 陸軍少将武藤は陸軍省軍務局長として留任し、畑は軍事参議官になった。親ドイツ派の首脳者の一人と認められていた大橋が外務次官に任命された。白鳥は、自分がこの任命(陸軍次官への任命)を拒絶したことを内々でオットに知らせた。かれが外務大臣松岡の常任の顧問になるであろうということが、今や予期されているというのであった。この地位で、日本の外交政策について、広範な勢力を揮うことができると白鳥は考えた。1942年8月28日に、かれは外務省の外交顧問になった。

 東条と星野が今や閣僚になった新しい内閣は、1940年7月26日に、すなわち、内閣が成立してから4日後に、その政策を明らかにした。この新しい声明に示された基本的原則は、1936年8月11日の国策決定の諸原則であった。世界は今や歴史的転換の関頭(かんとう。重大な分かれ目。ただし「関」の字が判読困難。「関」の旧字体に見えるが、定かではない。英文では、threshold。出発点、敷居の意)に立っており、新しい政治的、経済的、文化的の秩序が創造の過程にあると述べてあった。日本もまたその歴史上の類例のない試練に直面しているというのであった。

 もし日本が八紘一宇の理想に従って行動すべきものとすれば、政治組織が根本的に改められ、国家の『国防』体制が完成されなければならないと言明された。『大東亜新秩序』の建設を達成することが日本の目的なのであった。その目的のために、日本は軍備を増強し、国民の総力を動員するというのであった。日本は、何よりもまず、中国における戦争の解決に成功するために、力を集中するというのであった。

 弾力性のある政策を採用することによって、日本は世界情勢の変化を利用する計画と準備を整え、日本自身の国運の発展をはかるようにするというのであった。


第二次近衛内閣、軍部による日本支配の完成を決意

 1940年5月26日に、近衛と木戸は新しい内閣を組織することを計画したが、その内閣は軍部の要望に従って行動することによって、またその政策に反対するかもしれないようなすべての政治的な党派を抑圧することによって、全体主義的国家の政府になるものであったことは、すでに明らかにされた。このようにして、軍部派の指導者は、事実において、日本の不動な支配者となるわけであった。

 早くも1930年9月に、橋本はこのような軍部内閣の成立を唱えたが、その後、それが軍部派の企画の究極の目標となっていた。1936年8月11日の国策決定は、世論を指導統一するために、またすでに採用されていた侵略的政策の遂行に関する国民の覚悟を強固にするために、手段を講ずることを定めていた。1938年2月に、国家総動員法が制定されたので、これらの目標は、達成することができるものになった。陸軍は商法の目的を説明するにあたって、国民生活のあらゆる面は、最高度の戦争能率の達成に向けられることになると指摘した。

 経済産業の分野では、これらの成果は、すでに大部分収められていた。世論も厳重に統制され、陸軍とその支持者の望むままに動いていた。第二次近衛内閣が成立すると、軍部による日本の支配を完成する最後的な措置がとられた。

 新しい内閣の成立は、陸軍の支持のおかげであった。内閣の政策が確固とした基礎をもつように、近衛はあらかじめ新しい陸海軍大臣の同意を得ていた。残っていることは、軍の方針と内閣の方針の統一を確保し、将来の戦争に備えて、日本国民の組織化を完成するのに必要な措置を実施することであった。1940年7月26日に、東条及び星野が閣僚であったこの新しい内閣が、すでに定められていた政策を承認するために会合したときに、これらの目的が非常に強調された。

 そこで、基本国策に関する決定の根本原則に従って、政府のあらゆる部門を改組することが決定された。教育制度が引き続いてこの目的のために利用されることになり、国家に対する奉仕が最高の考慮を払うべきことであるという考えを日本国民に吹きこむことになっていた。

 内閣は、新しい国家政治体制を打ち立てることによって、政治の調製統一をはかるために努力することになっていた。この計画に適合するように、議会制度が変更されることになっていた。国家に対する奉仕と、国民と専制政府との協力とを基礎として、国家が改造されることになっていた。

 これらの目的は、陸軍と内閣との協力によって達成された。採用された新しい方法のうちで、最も重要なものは、『適格会議』と大政翼賛会であった。


適格会議並びに軍部派の支配が完成された方法

 適格会議の目的は、軍と内閣との政策の統一を確保することであった。その設置は、近衛と木戸によって、かれらが1940年5月26日に会合したときに予定されたのであって、そのときに、最高国防会議を設け、総理大臣及び陸海軍大臣とともに、参謀総長と軍令部総長がその構成員になることと決定された。

 この新しい組織は、近衛と木戸が最初に考えたものよりも大きかった。それはすでに示した構成員ばかりでなく、外務と大蔵の両大臣、参謀本部と軍令部の両次長、陸海軍の両軍務局長も含むことになった。ときとしては、企画院総裁や内閣書記官長もこれに出席した。

 1940年7月27日に、すなわち、新しい近衛内閣がその将来の政策の原則について意見をまとめた翌日に、適格会議は会合した。この会合では、国の内外政策のすべての重要な面にわたって、右と同じような決定が行われた。

 この新しい会議は、陸海軍首脳者を内閣の政策の樹立に初めて直接に参与できるようにしたものであるが、それみずから、非常に重要な政策樹立の機関となった。その上に、この会議は、御前会議の審議の機能を自己の手に収めることによって、宮中関係者の勢力を弱めるようになった。御前会議は、最も重大な国務を決定する場合にだけ召集されたものであるが、このとき以来は、連絡会議によってすでに到達された決定に対して、正式の承認を与えること以上には、ほとんどなにもしなかった。

 この新しい会議の決定は、陸海軍と5人の最も重要な閣僚の権能を総合したものを現わしていた。従って、これらの決定を変更することは困難であった。1941年には、連絡会議がしばしば開かれ、ますます閣議の機能を奪いとるようになった。

 連絡会議はまた総理大臣の立場を強化することにも役立った。それまでの内閣は、陸軍の不満によって倒されてきたのであった。四相または五相会議の決定がしばしば無効にされたが、その理由は、陸軍大臣が他の陸軍の軍人や陸軍省の職員と相談した後に、その同意を撤回したからであった。今や軍部の首脳者がみずから重要な決定に参加するようになったので、一度定められた政策は、後に容易に動かすことができなくなった。

 陸軍としては、単にその政策の道具として近衛を利用する計画であったが、近衛の方では、前もって定められた政策を中心にして、その内閣を組織したという慎重なやり方によって、また連絡会議を設けたことによって、専断的な政権の指導者としての支配的地位を獲得した。 内閣と陸軍は、日本国民の政治的活動を取り締まることによって、また政治的反対党を除くことによって、軍部の日本支配を完成するように協力した。

 1940年10月10日に正式に設立された大政翼賛会については、本判決のあとの章で、いっそう詳細に論じてある。この会は、日本政府から多額の補助金を受ける全国的な団体となった。これが設立されてから後は、他のすべての政治団体は消滅した。このような方法で、議会制度の変革がなし遂げられ、国家への奉仕という考えが日本国民の心の中に吹きこまれた。

 陸軍は、この新しい団体を通じて、すべての既存政党を追放し、陸軍首脳部の思うままになるような、一つの新しい『親軍』党を結成する考えであった。しかし、近衛は、木戸と計画した通りに、既成政党の党員をこの新しい団体に引き入れた。軍、官、民は一致団結して、強大な『国防力』をもった国家を建設するようにしなければならないとかれは宣言していた。

 軍務局長であり、陸軍の最も有力な指導者の一人であった武藤は、1940年8月に、事態が変わったことを容認した。大政翼賛会が国民みずから起こした運動ではなく、かれらに押しつけられたものであることをかれは指摘した。この新しい団体に強い政治力が与えられなければならないとかれは考えた。陸軍と内閣とが協力して、この運動を指導し、拡大し、それによって、陸軍と内閣とが今や共通に抱いている侵略的な国家目的を助長しなければならないことをかれは承認した。

ドイツとの提携の試案及び日本の大東亜支配計画の範囲 (原資料200頁)

 1940年7月16日に、近衛が天皇から内閣を組織するようにと命令を受けたときには、日本の新しい外交政策の試案がすでに作成されていた。外務省は、ドイツ及びイタリアと緊密に協力する政策をようやく決定していた。この政策は、その前年に、親ドイツ派の者が、特に著しく白鳥が、たえず主張していたものである。日本自身の目的が明らかにされるまでは、ドイツの意図を示さないとフォン・リッベントロップがいったことに刺激されて、外務省は、日本がヨーロッパ戦争に介入することは約束せずに、ドイツの協力を得ることを目的とした提案を起草していた。

 この提案は、陸軍、海軍及び外務省の代表者によって、1940年7月12日と、さらにもう一度1940年7月16日に討議されたが、この討議から、いろいろな出来事が日本を素通りしているという心配のあることがわかった。ドイツはイギリスを征服するであろうと予想された。ヨーロッパ戦争は近い将来に終わるかもしれないと考えられた。もし日本に速やかに行動する用意がなければ、南方における征服の機会は消え去るかもしれないということがわかった。

 ヨーロッパの戦争が一たび終われば、日本がその支配を東アジアと南洋のすべての地域に及ぼそうとするのをドイツは阻止するであろうということ、ドイツとイタリアは、他の諸国と提携して、日本の進出を挫折させるかもしれないということを日本はおそれた。しかし、一方では、外務大臣松岡が後になって述べたように、今や『皇国は実に世界の天秤を左にでも右にでも上下さす大の力を持っている』と信じられていた。

 ヨーロッパにおけるドイツの成功に力づけられて、日本の指導者が口にしたのは、もはや『東亜新秩序』の建設だけではなくなった。普通に使われる言葉は、今や「大東亜共栄圏」であった。イギリス、フランス及びオランダの勢力が傾いてきたこのときに決定されたことは、東アジア、東南アジア、太平洋の諸地域にあるイギリス、フランス、オランダ及びポルトガルの属領のすべてに対して、日本が支配権を獲得するということであった。

 1940年7月16日に、陸軍と海軍と外務省の代表者は、日本の発展の究極の目標は、一方では東部インドとビルマ、他方ではオーストラリアとニュージーランドの間にある地域全部を含まなければならないということに意見が一致した。もっと手近な対象としては、日本は香港、仏印、タイ、マレー、オランダ領東インド、フィリッピン及びニューギニアを含む地域の支配を目的とするというのであった。

 これらの目的を達成するには、日本がドイツ及びイタリアと協力する基礎として、明確な提案をすることが絶対に必要であると考えられた。日本はヨーロッパ戦争に介入することを約束することなく、むしろ、好機が到来したと考えられるときに、別個にイギリスに対する戦争に乗り出す意思を言明しようというのであった。しかし、宣戦までにはならないあらゆる手段で、日本はドイツのイギリス征服を援助することを約束することにした。極東におけるイギリスの勢力をくつがえし、インドとビルマにおける独立運動を助長するために、日本は手段を講ずることにした。合衆国とソビエット連邦の両方に関して、日本はドイツに支持と協力を与えるというのであった。日本の行動は、太平洋と極東におけるアメリカの利益に対して、常に脅威を与えるものであるから、合衆国がヨーロッパ戦争に介入する可能性を、日本は最小限度に止めるわけであった。その代わりに、日本の計画を合衆国またはソビエットが妨害する可能性に対して、日本は保証を得るというのであった。

 日本はヨーロッパとアフリカにおけるドイツとイタリアの排他的な権利を認め、その代わりに、東アジアと南洋における政治上の優越性と経済上の自由を得る自己の権利の承認を要求することにした。また、中国に対する戦争について、ドイツの協力とドイツの経済的及び技術的援助を求めることにした。その代償として、中国からも南方からも、ドイツの必要とする原料を供給することを約束することにした。日本とドイツは、ヨーロッパ戦争が終われば、両国が支配することになるものと期待している二つの広大な勢力範囲の間の貿易について、互恵主義を取り極めるというのであった。

 この案は第二次近衛内閣の外交政策の基礎となった。


第二次近衛内閣による試案の採用

 日本は東南アジアと東インドを征服することにきめていたが、とるべき実際の措置の性質と時期については、はなはだ不明確であった。この未決定の要素は、ある程度まで、陸軍と海軍と外務省との間の見解の相違から生じたものである。しかし、そのおもな理由は、ドイツの真の目的について、はっきりしていなかったからである。

 仏印、オランダ領東インド及び南洋の他の地域に対して、ドイツ自身がたくらみをもっているのではないかという大きな懸念があった。この問題に対して、日本は強硬な態度をとり、ドイツがヨーロッパで手いっぱいである間に、速やかに行動しなければならないと考えられていた。他方では、ドイツが最も容易に受諾するような形で、日本の排他的な要求を提出することに決定された。日本は政治上の指導権と経済上の機会を求めているということだけを述べて、その征服の目的を隠そうというのであった。

 ドイツとソビエット連邦及び合衆国との関係についても、憂慮されていた。ヨーロッパ戦争が終われば、これらの両国は、ドイツと日本とともに、残った4つの世界的国家となって現われるだろうと予期されていた。そうなったら、日本は引き続いてドイツ及びイタリアと協力するのが望ましいと思われたが、ドイツの政策が変わって、日本はなんの支持も得られなくなるのではないかという心配があった。ドイツ及びイタリアの目的と同時的に、日本はもっぱら日本自身の目的の達成を促進するために、合衆国と交渉することに意見が一致した。ソビエット連邦との関係の改善を助長する政策をとらなければならないが、それはこの政策がドイツと日本の計画にとって都合のよい間に限るものとするということが承認された。

 最後に、日本として与える用意のある程度の協力は、ドイツにとって、受諾できないものではないかという不安があった。日本は、イギリスに対して、いっそう積極的な手段を直ちにとるべきかどうか、また、中国における戦争が終わったら、シンガポールを攻撃すると約束すべきかどうかということが議論されたが、はっきりした言質を与えないことに定められた。

 これらのことが不明確な事柄であって、これを解決するのが、新しい内閣の任務となった。日本の外交政策の基本原則については、このような疑念はまったくなかった。あらゆる困難にかかわりなく、東アジア、東南アジア、南太平洋地域の全体に対して、日本は支配権を確立しなければならないということに、陸軍と海軍と外務省の代表者は意見が一致していた。この目的のために、必要となれば、日本の目的に反対するどの国に対しても、日本は戦うというのであった。しかし、便宜上の必要から、日本はまずドイツ及びイタリアと意見の一致に達しようというのであった。

 1940年7月19日、近衛、松岡、東条及び吉田が新しい内閣の政策を立てるために会合したときに、かれらはすでに作成されていた計画を採用した。『新秩序』が速やかに建設されるように、かれらは日本とドイツ及びイタリアとの関係を強化することにきめた。この案に従って、かれらはソビエット連邦と不可侵条約を締結し、満州国と蒙古とをその新しい協定の当事者にすることにきめた。イギリス、フランス、オランダ及びポルトガルの領土を、日本の『新秩序』のわくの中に含ませることにきめた。もし合衆国がこれらの計画を妨害しないならば、日本は同国を攻撃しようとはしないが、もし合衆国が妨害しようとするようなことがあれば、戦争に訴えることを躊躇しないというのであった。


1936年8月11日の国策決定に基づく第二次近衛内閣の政策

 第二次近衛内閣が就任すると、有田の外交の運営は、近衛と軍部派の『強力』な外交に変わったが、有田の政策の中心的な特色は維持された。日本の長年の国家的野望は、個々でも再び、八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)の理想として説明されたが、それはドイツとイタリアの野望に従属させるべきではないと新しい内閣は決意していた。

 日本のドイツ及びイタリアとの提携の条件は、まだ定められていなかったが、新しい内閣は、1936年8月11日の国策の基準に関する決定で定められていたところの、陸軍の企画の一貫した目的をあらためて強調した。1936年と同じように、1940年7月26日にも、日本の政策の第一の目標は、中国の征服と、戦争のために国家総動員のあらゆる部門を促進することであると述べられた。これらの既定の目的が成就されつつある間に、日本は弾力性のある政策をとり、国際情勢の変化を利用して、自己の利益を増進できるようにするというのであった。

 しかし、1940年7月26日の閣議決定の中では、日本は『大東亜新秩序』を建設しようとすること、日本、満州国及び中国の他の地域はその根幹をなすにすぎないということが明確に述べてあった。1940年8月1日に、この決定は、政府の声明として、外務省によって発表された。その際に、外務大臣松岡は談話を発表し、その中で、日本の使命は『皇道(皇道に傍点あり)』を全世界に宣布することであると述べた。日本の外交方針の当面の目的は、この精神に則って、日本、満州国及び中国の他の地域をそれぞれ一環とする東亜共栄の一大連鎖をつくり上げることにあるとかれはいった。この目的のために、日本はその道程に横たわる有形無形の一切の障害を排除する用意のある友邦と同調して、日本はその理想と天から与えられた使命との達成のために、勇気と決意をもって努力するというのであった。

 他方で、1940年7月27日の連絡会議では、陸軍と海軍が内閣の方針を受諾することを表明し、同時に、『第三国と開戦に至らざる限度において南方問題を解決すること』と定めていた。日本はドイツ及びイタリアとの協力の条件を取り極め、ソビエット連邦との調整を遂げようと試みると同時に、合衆国に対しては、確固とした、しかし穏健な態度を維持するというのであった。連絡会議は、『米国に対しては、帝国の必要とする施策遂行に伴うやむを得ざる自然的悪化は敢えてこれを辞せざるも、常にその動向に留意し・・・・』と決定した。この決定は続けて、『我より求めて摩擦を多からしむるはこれを避くるごとく施策す』と述べていた。

 内閣は、この点においても、日本は他国をいたずらに刺激することを避けるようにつとめるとともに、『外交国防相俟って南方海洋に』勢力を伸ばさなければならないと述べたところの、国策の基準に関する決定の原則を守ったのである。

『限度内において南方問題を解決する』政策 (原資料209頁)

 連絡会議は、この原則に従って、日本の南方進出の政策を遂行するために、直ちにとるべき措置を詳細に決定した。すでに北部仏印は日本の支配下にあった。日本軍は、起こるかもしれない香港攻撃に備えて、すでに動員されていた。日本はオランダ領東インドに対して、原料の供給の保証を求める要求を行なっていた。新しい内閣が就任した日に、この問題について解決に到達するために、日本はオランダ領東インドに経済使節を送るということが発表されていた。

 連絡会議は、これらの政策を続けることに決定した。当分の間は、外交手段によって、日本はオランダ領東インドの重要資源の確保をはかることにした。フランスの太平洋属地を日本が占領することについて、ドイツの承認を求めるために、また委任統治によって現在日本が治めている元のドイツ領諸島を引き続き保有するために、日本は交渉をすることにした。また、南方における他の諸国の支持を助長するために、日本は努力するというのであった。

 しかし、仏印、香港、マレー及び中国における西洋諸国の租界については、蒋介石大元帥の軍隊に対する援助を阻止し、日本に対する敵意ある感情を根絶するために、日本はいっそう強力な措置をとることにした。仏印に対しては、飛行場の使用と、日本軍隊の通過の権利とを要求することにした。日本は仏印に対して、日本の軍隊に食糧を供給することを求め、さらに同国から原料を手に入れる措置をとることにした。

 陸軍大臣東条は、これらの措置で満足しなかった。1940年7月31日に、大使オットはドイツに報告して、東条は日本とイギリスとの関係を極度に悪化させつつあるといった。そうすることによって、東条は日本における新イギリス派の勢力をさらに切りくずし、東アジアにおけるイギリスの属地に対して、日本が行動を起こす時期を早めたいと望んでいるというのであった。


『大東亜』政策に関する重光の見解

 第二次近衛内閣の政策が決定された1940年8月5日に、大使重光は松岡に電報を送り、新外務大臣の就任に対して、また『大東亜政策』の確立と実行に対して、祝意を述べた。

 米内内閣が在任していた間に、重光は外務大臣有田に対して、軍部派の要求を阻止するように力説していた。ヨーロッパ戦争の結果として、東アジアにおける西洋諸国の勢力は次第に減少しつつあるとかれは主張した。日本の熱望する極東における優越的地位を得るには、厳格な中立の政策を維持するのが最もよい途であるとかれは考えた。しかし、軍部派が政権をとってしまったので、厳格な中立の政策をとる見込みはもはやなくなった。重光は次のようにいって、今では新内閣の目的を支持した。『大東亜における我が地位を建設するには、直接には小国の犠牲において行ない、他国との衝突を避け、一時に相手を多くせず、各個処分の方策をもって、最小限度の損害をもって最大の利益を収むることを考慮するの要あらん。』かれは、これらの方策の目標とすべき国の例として、フランスとポルトガルを挙げ、こうして方策を進めれば、イギリスと合衆国に払わせる犠牲は間接的なものとなるであろうと述べた。

 しかし、重光は、結局には、西洋諸国がドイツと、イタリアに勝ちそうであることを、依然として信じているということを明らかにした。ドイツが確実にイギリスを征服するという仮定に基づいた近衛内閣の政策の基本原則に対しては、かれは反対であることを示した。

 新しい内閣は、蒋介石大元帥の軍隊の抗戦を粉砕するために、日本の作戦を強化することを決定していた。しかし、重光は、以前と同じように、中国における戦争の解決のためには、度量の大きい態度をとることを唱道した。

 内閣はまた、極東におけるイギリスの属地に対する攻撃をもくろんだところの、南方進出の政策を採用した。陸軍と陸軍大臣登場は、敵対行為開始の時期を早めたいと熱望していた。たとい日本と合衆国との間の戦争を起こすようなことになっても、南方進出を遂行することを内閣は決意していた。重光は、イギリス及び合衆国との関係については、日本は『周到なる考慮と用意とをもって進むこと』が必要であることを強調した。極東におけるイギリスの勢力が減少しつつあることを重ねて指摘し、合衆国でさえも、東アジアにおけるその地位から退却しつつあると主張した。日本がその東亜政策を遂行するにあたって、穏健に行動するならば、この政策に対するイギリスと合衆国からの障害は、やがて自然に除かれることを期待してもよいという見解をかれは固執した。

 第二次近衛内閣は、日本とドイツ及びイタリアとの協力を助長することを決定していた。陸軍は枢軸諸国間の三国同盟を締結せよという要求を重ねて持ち出していた。重光は、共通の政策をとるように、ドイツと日本とを拘束するような措置をとった場合に、そこに生じてくる危険を強調した。かれは松岡に対して、太平洋でイギリス及び合衆国との衝突に日本を引きこもうとして、有力な運動が行なわれていると警告した。これがドイツの政策であることと、イギリスのある一部の間で、右のような戦争によって、日本の東アジア進出が阻止されることを希望されているということとを、かれは暗示した。1940年の終わりの数ヵ月の間に、重光はロンドン駐在大使として、イギリス政府の閣僚に対して、日本との友好関係を回復するために、新しい基礎を求めることを勧めた。

 この1940年8月5日の電報の中で、重光は、ドイツとイタリアの政策に平行して、日本は独自の政策をもって進むべきであると説いた。日本が従うべき模範として、ソビエット連邦とドイツとの関係に、かれは注意を喚起した。ソビエット連邦は、イギリスとの妥協の余地を残す中立政策を強く維持しているといったのである。それと同時に、ソビエット連邦は、ヨーロッパ戦争と関係のない小国に対する勢力を築き上げつつあると重光はいった。この政策こそ、『東亜における政治的、経済的に実力ある地位』を建設するという主要な目的を達成するために、日本がとるべきものと重光の考えた政策であった。


松岡、日本の対枢軸諸国協力の条件をドイツに提案

 それにもかかわらず、日本とドイツ及びイタリアとの協力の条件が取り極められもしないうちから、最後には、東南アジアと東インドまで、戦争によって進出するということがすでに確定方針と見做されていた。1940年8月の初めに、軍令部総長伏見は天皇に対して、海軍としては、現在のところ、マレーとオランダ領東インドに対する武力行使は避けたいと知らせた。戦争の決意をしてから、準備のために、少なくもさらに8ヵ月を要するとかれはいった。従って、戦争になるのは遅いほどよいと考えた。

 すでに外務大臣松岡は、ドイツ及びイタリアとの協定に達するために、最初の手段をとっていた。1940年8月1日に、かれは大使オットに、日本の政府も国民も、日本とドイツ及びイタリアとの関係を強化したいと思っていると知らせた。かれは自分としてはいつもこのような政策を支持してきたといったが、内閣の決定は、ドイツの方から提案される協力の条件によってきまるということを明らかにした。

 1940年7月の会議で、日本はヨーロッパ戦争には介入を企てないことに決定されていた。かえって、松岡はドイツに対して、世界情勢について、広い見解をとることを求めた。ドイツがイギリス本国を占領した後でも、イギリス連邦の他の諸国を崩壊させるのは、容易なことではないであろうと指摘した。オットはその通りであると同意した。松岡は、ソビエット連邦からも、合衆国と現存するイギリス連邦諸国とから成るアングロサクソン・ブロックからも、ドイツは反抗されることになるだろうといった。そうなれば、日本の地位はきわめて強いものになるというのであった。

 松岡は、中国側の抗戦を粉砕するまで、日本は中国における戦争を続ける決意であるといった。これはドイツの援助がなくても達成できるというのであった。かれは続けて、日本は南方における野心を実現することも決意しているといった。松岡の意見では、日本はまずタイより北の諸国に力を集中するが、日本の目的は、変転する世界情勢とともに変わるというのであった。ドイツの協力を確保するために、松岡はオットに対して、日本の支配を確立すべき諸地方に対して、日本は征服の意図も搾取の意図もないと告げた。

 松岡はこのように話を切り出して、日本の政策に対するドイツの態度と、ドイツがどんな援助を与える用意があるかを知りたいと望んだ。また、ソビエット連邦と合衆国との両国に関するドイツの政策と、日本とこれらの両国との関係についてドイツが日本に何を求めるかを知りたいと望んだ。

 この会談が行なわれた同じ日に、大使来栖はドイツ外務省の一役人に、もし来栖と松岡が東アジアと南洋における日本の目的を間違いなく述べているとすれば、日本側が提案した条件で協力することは、ドイツの利益になるという結論を得た。そこで、1940年8月23日に、日本へのドイツの特使として、スターマーが外務大臣フォン・リッベントロップによって派遣された。

 その間に、松岡は、西洋諸国との協力に賛成するすべての外交官と外務省職員を徹底的に追放した。白鳥は、『独裁主義に則って国務を調整する』ために設けられた委員会で、対外政治事項の代表者になった。この新しい委員会は、枢軸諸国との協力の政策を絶えず要求した。


三国軍事同盟に関する詳細な計画、1940年9月4日の四相会議

 1940年9月4日に、総理大臣近衛、外務大臣松岡、陸軍大臣東条及び海軍大臣は、日本とドイツとの交渉の策略を立てるために会合した。今がドイツとの会議を開始する好機であると思われた。ドイツの特使スターマーは東京に来る途中であったし、日本とドイツ及びイタリアとの協力を強めたいという希望は、非常に明確に現われてきていた。

 この四相会議では、すでに決定された政策から離れた点はなかったが、ドイツ及びイタリアとの交渉のあらゆる面に対して、日本側の態度が確定され、また著しく細目にわたって述べられた。日本、ドイツ及びイタリアは、それぞれアジアとヨーロッパにおける支配の目的を達成するにあたって、戦争に訴えることも含めて、あらゆる手段によって協力するために、基本協定に到達するということが決定された。三国は、これらの目的を成就するにあたって、相互に援助する方法と、イギリス、合衆国及びソビエット連邦に対して、共同にとる政策について、協定するというのであった。

 交渉に費やす期間をできるだけ短くすることにして、でき上がった協定は共同声明の形で発表することにした。これはいっそう詳細な軍事協定の基礎となるものであって、この協定の条項は、必ずしも公表しないことにした。この軍事協定は、軍事上、経済上、その他の種類の相互援助を与えるべき各締約国の義務を定めようというのであった。

 四相会議は、日本としてこの援助がとるべきものと考える形態を詳細に計画し、三国軍事同盟の協議にあたって、日本の従うべき原則を定めた。

 第一に、日本の勢力範囲は、日本の太平洋委任統治諸島、仏印とその他のフランスの太平洋属地、タイ、マレー、イギリス領ボルネオ、オランダ領東インド、ビルマ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、その他の諸国を含むべきであるということに意見が一致した。しかし、ドイツと交渉するにあたっては、オランダ領東インドを含めて、ビルマ以東、ニュー・カレドニア以北の地域だけについて、日本は言及することにした。もしドイツが留保をしたならば南洋をも含めて、東アジアの全地域における優越という日本の目的をドイツに認めさせるような方法で、日本の意図を表明することにした。日本の究極の目標は、仏印とオランダ領東インドを独立させることであるが、まずこれらの諸島に対する政治上と経済上の優位を獲得したいということを主張しようというのであった。

 第二に、ソビエット連邦と合衆国に関して、三国は共通の政策を採用するというのであった。ソビエット連邦と友好関係を維持することが三国の目的ではあるが、もし締約国の一つがソビエット連邦との戦争にまきこまれそうになった場合には、三国が一致して行動するということについても、同意するというのであった。日本はソビエット連邦を東方、西方、南方で牽制し、こうして同国を三国同盟国側の列に加わらせるように努力するという点で、ドイツ及びイタリアと協力するというのであった。

 さらに、戦争に至らない手段によって、合衆国を牽制するために、締約国は提携して行動することになっていた。この政策に従って、フィリッピンは、日本がすぐに支配するつもりであった国々の中に、含まれていなかった。それを含むかどうかは、合衆国の態度によって、きまることになっていた。ドイツ及びイタリアとの政治的と経済的の協力によって、合衆国に圧迫を加え、これによって、日本の野心を達成できるようにするというのであった。
 第三に、各締約国によって与えられる経済的援助の性質は、別個の協定の対象とすることになっていた。日本は、その支配下にある地域から、ドイツがイギリスに対する戦争の遂行に必要とする原料を供給するというのであった。ドイツは、それに対して、中国における戦争の遂行を容易にすることについて、日本と協力しそれまで日本が大部分合衆国に依存していた技術的援助と戦争資材を供給するというのであった。

 第四に、東アジアにおけるイギリスの政治上と経済上の権益を除くために、日本は事態の必要とする措置を講ずることにした。ドイツに対する経済的援助によって、中国におけるイギリスの権益に対する政治的と経済的の圧迫によって、宣伝によって、並びにイギリスの領土における独立運動の奨励によって、日本はイギリスに対する戦争についてドイツとイタリアを援助することにした。もしドイツが望むならば、原則として、イギリスに対抗する軍事的協力を与える意思があることを日本は宣言するというのであった。そうでなければ、日本の主要目標は合衆国とすることになっていた。

 しかし、イギリスと合衆国に対して、武力を行使するようなことがある場合に関しては、日本は自主的に決定する権利を留保することにした。もし中国における戦争が解決に近づいたならば、日本はできるだけ都合のよい時機を選んで、この目的のために武力を行使するというのであった。中国における戦争が続いている間は、情勢がもはや猶予を許さないほどにならない限り、日本は西洋諸国に対する戦争に訴えないというのであった。

 提案された同盟の要点は、さきに松岡がドイツ側に示唆したものであった。ドイツがイギリスに対する戦争に勝利を得た暁には、世界はそれぞれドイツ、イタリア、日本、ソビエット連邦、合衆国によって支配される4つの勢力範囲にわけられるというのであった。この事態が生じる前も後も、日本はドイツ及びイタリアと提携して行動し、おのおのが征服と勢力拡大の目的を完全に実現できるようにするというのであった。

三国同盟の交渉、1940年9月9日―11日 (原資料220頁)

 5日後の1940年9月9日に、外務大臣松岡はスターマーに会って、ドイツとの交渉を開始した。スターマーはドイツ外務大臣の直接の訓令に基づいて語ったのであるが、提案された三国同盟の締結に対する熱意において、ドイツは日本に劣るものではないことを知らせた。すべての重要な点で、ドイツの見解は、1940年8月1日に、松岡が大使オットに表明した見解によく符合していた。

 ドイツはヨーロッパ戦争を早く終わらせることを望んでおり、現在のところでは、日本の軍事的援助を必要としないとスターマーはいった。ドイツは、日本が合衆国の参戦を牽制し、防止することを特に望んでいた。提案された同盟の締結と強力な外交政策の採用は、合衆国と日本またはドイツとの間の戦争を防止するのに、最も確かな途であると考えられていた。ドイツとイタリアは、合衆国を牽制するために、あらゆる可能なことを行なうし、両国が無理をせずに割くことのできるような兵器を日本に供給するであろうとスターマーはいった。

 ドイツの提案は、ほかの点でも、よく日本の目的に副うものであった。ドイツは東アジアにおける日本の政治的指導権を承認し、尊重するとスターマーは言明した。ドイツがこの地域で求めているものは、経済的性質のものだけであった。ドイツは日本と協力し、また日本がドイツの経済上の必要に応ずることを期待するというのであった。ドイツはまたソビエット連邦と日本との間の歩み寄りをもたらすことに援助するであろうし、それは克服しがたい困難をもたらすものではないと考えるというのであった。

 ドイツは、現在のところ、日本の中立を希望しているが、来るべき世界制覇のための争闘においては、日本を同盟国と見なしているということを、スターマーは明らかにした。現在の戦争は速やかに終わるかもしれないが、大きな闘争がなにかの形で数十年も続くであろうとかれはいった。その間、ドイツは、日本と合衆国との間の戦争を防止するために、できるならば、両者の国交を改善するためにも、あらゆる可能なことをするというのであった。しかし、三国は最悪の事態に備えていなければならないとスターマーはいった。日本と合衆国との間の戦争は、結局はほとんど避けられないものとドイツは考えていた。

 スターマーは松岡に対して、ヨーロッパにおける戦争は、最後にはアングロサクソン世界全体を相手とする闘争に発展していく運命にあると告げた。ドイツは、提案された同盟をこの闘争における協力のための長期の取極めであると考えており、従って、イギリスとの戦争が終わる前に、速やかに日本が枢軸に加入することを希望するというのであった。

 スターマーと松岡は、1940年9月9日、10日及び11日に会合した。3度目の会合で、かれらは提案された三国同盟の草案を2人の間でまとめた。ドイツの明白な希望によって、イタリアはこの交渉に参加するようには招請されなかった。イタリアの外務大臣チアノは、1940年9月19日に、フォン・リッベントロップから、提案された同盟について、初めて内示を受けた。そのときに、ドイツ外務大臣は、この同盟は両面――すなわち、ソビエット連邦に対しても合衆国に対しても――威力をもつものと考えると語った。


三国同盟の締結をめぐる事情

 松岡とスターマーが、提案された同盟の草案を決定してから、その締結を確保するのに、一刻も失われなかった。1940年9月16日に、この提案は、天皇の出席した枢密院会議という形式をとった御前会議に提出された。外務大臣松岡は、ドイツとの交渉の経過を述べ、提案された草案の各条項を説明した。しかし、海軍はこの提案に同意しなかった。

 3日後の1940年9月19日に、この問題は連絡会議で審議され、1940年9月24日に、ついに意見が一致した。1940年9月26日に、天皇の出席のもとに再び会同した枢密院に、それは報告された。近衛、松岡、東条、及川が出席していた。及川は吉田のあとを継いで、このときに海軍大臣になっていたのである。同盟の代弁者の中には、企画院総裁星野、陸軍省軍務局長武藤、大蔵省と海軍省との代表者が含まれていた。

 今や非常に緊急を要すると考えられたので、枢密院は、草案を審議し、文書で報告を提出することを審査委員会に委任するという通例の慣行に従わなかった。その代わりに、枢密院会議に出席した者がみずから全員の委員会を構成し、枢密院副議長をその委員長とした。近衛と松岡が最初にこの提案を説明した。そのあとで行なわれた協議は終日続き、夕方にまで及んだ。全員の審査委員会は、ついで全会一致で、提案された同盟の締結を勧告し、一つの警告をつけ加えた。政府はソビエット連邦と日本との関係を改善し、イギリスと合衆国を刺激するような一切の行動を避けなければならないと決議されたが、政府はこれらの措置を講ずるとともに、最悪の事態に備えなければならないと要求された。

 それから、天皇の出席のもとに催される枢密院本会議として、会議がもう一度開かれた。審査委員長は決定された勧告を口頭で報告し、さらにいくらかの協議をしてから、同盟を締結することが全員一致で承認された。

 その翌日の1940年9月27日に、三国同盟は締結された。この新しい同盟は、万邦をして『おのおのその所を得』させる平和の一手段であるということを宣言した詔書が発布された。外務大臣松岡は演説を行なって、東亜『新秩序』の指導者として、日本の責任は増大したと言明した。日本は平和的な手段によってこれらの責任を果たすつもりであるが、画期的な決定を必要とするような場合と情勢が起こるかもしれないといった。日本の将来は、普通の努力ではとうてい乗り越えることのできないような、数知れない困難につきまとわれているとかれはつけ加えた。

 大島と白鳥は、もっと明らさまであった。白鳥は1940年12月に書いたものの中で、三国同盟を評して、『世界新秩序』達成の手段であり、まず満州の征服となって現われた動きの最高潮に達したものであるといった。

 大島の見解では、『大東亜圏』は武力によって南進するのでなければ達成されないということを、今では近衛内閣が確信しているというのであった。唯一の問題は、『いつ事を始めるべきか』であるとかれはいった。

 木戸もまた三国同盟のもつ意義のすべてを明らかに了解した。1940年9月21日に、かれは天皇に自分の考えを報告して、もし同盟が締結されたならば、日本はついにはイギリスと合衆国に対抗しなければならなくなるであろうといった。それであるから、かれは中国における戦争が速やかに解決されなければならないと考えた。

 天皇は、提案された同盟には、決して同意を与えないとかねていっていた。天皇は元老西園寺公の進言を非常に頼りにしていたが西園寺は強くこの同盟に反対であることが知られていた。海軍の同意を得た後も、近衛内閣はこの困難を克服しなければならなかった。それは木戸の通謀によって乗り越えられた。

 内大臣としての木戸の義務は、交渉の経過について、元老に報告することであった。まさに行なおうとする決定の重大性を十分に承知しながらも、木戸は西園寺に対して、何が起こっているかをまったく知らせずにおいた。これについて、義務を怠ったことを責められると、元老の病弱を考慮してのことであると答えるだけであった。同盟が締結されてしまったことを知って、西園寺は大いに憂慮し、天皇の周囲に人がいなくなったと感じた。

三国同盟の条項及び1940年9月27日に日本とドイツの間に交換された誓約 (原資料255頁)

 三国同盟の前文は、ヨーロッパとアジアにそれぞれ『新秩序』を建設するという締約国の決意と、そうするにあたって、相互に援助するという決心を述べている。この文書は、ドイツとイタリアはアジアにおける日本の指導権を尊重し、日本はヨーロッパにおけるドイツとイタリアの指導権を尊重することを規定した。三国は相互の協力を誓約したが、その詳細についての決定は、その目的のために任命される混合専門委員会によって行なわれることになっていた。ヨーロッパ戦争または中国における戦争に現在加わっていない国によって、締約国のいずれかが攻撃された場合には、同盟の他の参加国は、政治的、経済的及び軍事的の援助を与えることになっていた。ドイツとイタリアは、ソビエット連邦と締約国のいずれかとの間の現在の関係に対して、この同盟はなんの影響をも及ぼすものでないということを確認することになっていた。この同盟は、10年間効力を有することになっており、その更新についての規定があった。

 1940年9月27日に、すなわち、三国同盟が締結された日に、書簡の交換によって、さらに他の誓約が日本とドイツとの間に行なわれた。国際連盟の委任によって、当時日本が統治していた旧ドイツ領の太平洋諸島は、日本が保持することにするということが協定された。その当時、他の諸国の支配の下にあった南洋における旧ドイツ植民地は、イギリスに対する戦争が勝利に終わったときは、自動的にドイツの所有にもどることになっていた。しかし、ドイツは、これらの植民地を日本に譲り渡す交渉を行なう意思のあることを保証した。

 松岡は、ドイツ大使あての書簡の中で、日本の希望を述べた。ヨーロッパ戦争の範囲が制限され、速やかに終結されることを希望する点で、日本はドイツ及びイタリアと同じであるとかれはいった。このような結果を得るために、日本は努力を惜しまないというのであった。しかし、『現在大東亜地域及び他所に存在する諸事情』にかんがみ、イギリスと日本との間には、戦争の危険があるとかれはつけ加えた。このような場合には、ドイツはそのできる限りの方法で、日本を援助するであろうということを、日本政府は確信していると松岡は言明した。

 オットはこの書簡を受け取ったことを認め、援助が与えられることになるような事態は、三国間の協議によって決定されることになるであろうといった。ドイツは、みずからの援助と、ソビエット連邦に対する斡旋とを誓約した。また、できる限りの産業上と技術上の援助を日本に与えることを約束した。

 オットは、三国が世界歴史の一つの新しい決定的な段階にまさにはいろうとしており、その段階においては、それぞれヨーロッパと『大東亜』とにおいて、指導者の役割を引き受けるのが三国の任務であるとドイツは確信しているといった。


三国同盟締結に際しての日本の指導者の意図

 三国同盟は、東南アジアと南洋へ軍事的に進出するために、日本の準備における必要な一歩として結ばれた。1940年9月の行なわれた多数の協議や会議では、それに参加したすべての人々によって、次のことが認識されていた。この同盟の締結は、フランス、オランダ及びイギリス連邦の諸国に対して日本が戦争を行なわなければならないようにするであろうということ、この同盟の提案は、もし合衆国が日本の侵略的目的の達成を妨げようとするならば、合衆国に対して戦争するという意思が日本にあることを意味するということである。日本が戦争資材についてまだ自給できないことは認められたが、この新しい同盟が締結されたら、南方において資材の新しい供給源を確保することは、西洋諸国との戦争という危険を冒しても遥かに有利であると考えられた。

 しかし、同時に、この同盟がもっと大きな目的をもっていることも、はっきりと理解されていた。外務大臣松岡が1940年9月26日の枢密院会議でいったように、『本案条約は今後帝国外交の基調をなすもの』であった。ドイツがイギリスを征服してしまえば、世界の大国としては、同盟参加国、ソビエット連邦及び合衆国が残るものと期待された。締約国は、方便として、しばらくは合衆国及びソビエット連邦の両国との戦争を避けるようにすることに同意した。世界に発表されることになっていた同盟の条項は、形の上では防御的であった。相互に援助するという締約国の義務は、締約国のうちの一国またはそれ以上に対して、攻撃が行なわれたときにだけ生ずるものと言い現わされていた。それにもかかわらず、枢密院とその他における討議の趣旨の全体からすれば、三国の画策の促進のために、侵略的な行動が必要と考えられるときは、いつでもその行動において三国は相互に援助する決意であったということが明白である。南方に進出しようとする日本の計画にとって、合衆国は直接の障害として認められていたから、松岡は同盟は主としてこの国を目標としているといった。

 三国のソビエット連邦との関係を改善するために、三国はあらゆる努力をすべきであるということも、それが締約国の目的に副ったものであるという理由で、同様に意見が一致した。しかも、三国同盟は、ソビエット連邦をも目標としていることが認められていた。ソビエット連邦と日本との関係の改善が永久的な性質のものであるということを、松岡は考えていなかった。そのような改善は、2,3年以上も続くということはほとんどあり得ないし、それ以後は、三国は情勢を再検討することが必要になるであろうとかれはいった。松岡は、1940年9月26日の枢密院の会議で、かれに向けられた質問に答えて、同盟の明確な条文にもかかわらず、またドイツとソビエット連邦との間に不可侵条約があるにもかかわらず、三国はそのうちの一国がソビエット連邦と交戦することになれば、相互に助け合うものであるとはっきりいった。

 要するに、三国条約は、侵略国の間で、その侵略的目的を促進するために作られた盟約であった。その真の性格は、ある枢密顧問官が、条約の前文に含まれている万邦をしてその所を得しむという一節と、最も強いものだけが生存すべきであるというヒットラーの主義とが、どのようにして調和させられるかと質問したときに、充分に暴露された。総理大臣近衛、外務大臣松岡及び陸軍大臣東条は、ともどもに、強い国だけが生存するに足るものであると答えた。もし日本がその『皇道宣布の大使命』に失敗するならば、日本自体が滅亡しても、まったくやむを得ないとすらかれらはいった。

 米内内閣の瓦解の後に日本の指導者が行なった諸決定は、特別に重要なものである。従って、それらの決定については、すでに詳細に述べておいた。それらの決定を見れば、共同謀議者は、膨大な地域と人口の上に、日本の支配を拡大し、かれらの目的を達成するために、必要とあれば、武力を行使すると決意していたことがわかる。それらの決定がみずから明白に認めるところによって、三国同盟を結ぶについての共同謀議者の目的は、これらの不法な目的を達成するための援助を確保することであったことがわかる。それらの決定を見れば、公表を目的とした表面上防御的な三国条約の条項にもかかわらず、締約国の相互援助の義務は、防御的にせよ、侵略的にせよ、締約国の一国が交戦するようになれば、効力を発生すると期待されていたことがわかる。それらの決定によって、三国条約の目的は、平和の大義を助長することであったという弁護側の主張は、完全に論破されてしまう。

 共同謀議者は、今や日本を支配した。かれらは自分たちの方針を定め、その実行を決意していた。中国における侵略戦争が少しも力を弱めずに続けられていた間に、さらにいっそうの侵略戦争のためのかれらの準備は、完成への道を大いに進んでいた。中日戦争を遂行するならば、その侵略戦争を引き起こすことは、ほとんど間違いないことであった。本判決のうちで、太平洋戦争を取り扱う章の中において、これらの準備が完成され、攻撃が開始されたことが述べてある。共同謀議者は、これによって、日本が極東の支配を確保するであろうと期待していたのであった。

極東国際軍事裁判所


判決


B部

第5章


日本の中国に対する侵略


第1節及び第2節


第1巻 英文521―647頁

     1948年11月1日


B部

第5章 日本の中国に対する侵略


第1節 満州への侵入と占領


中日戦争とその諸段階 (原資料3頁)

 日本が中国に対して遂行し、日本の指導者たちが『支那事変』あるいは『支那事件』という偽瞞的な呼び方をした戦争は、1931年9月18日の夜に始まり、1945年9月2日に東京湾上における日本の降伏によって終わった。この戦争の第一段階は、満州として知られている中国のその部分及び熱河省に対する日本の侵入、占領及び統一を内容としたものである。この戦争の第二段階は、『盧溝橋事件』に続いて、1937年7月7日に日本軍が北平付近の宛平城を攻撃したときに始まり、継続的な数々の進攻から成り立っていた。これらの進攻は、一つの進攻が終わるごとに、さらに深く中国の領土に進攻するために、しばらくの間、準備の地固めをしては行なわれたものである。被告の中で、ある者はこの戦争の最初から活躍し、ある者はこの戦争が進むにつれて参加した。1940年6月の雑誌ダイヤモンドに発表された講演『大戦の帰趨』の中で、白鳥は『ヨーロッパ戦争の口火は、まず支那事変によって切られたと言うも過言ではないのである』と述べた。


中日戦争の開始の際の満州における日本の足場

 1931年9月18日当時の満州における日本の立場は、リットン委員会によって、次のように述べられているが、裁判所はこれに全然同意するものである。すなわち、『これらの諸条約及びその他の諸協定は、満州における重要にしてかつ特殊なる地位を日本に与えたり。すなわち日本は租借地を事実上完全なる主権をもって統治し、南満州鉄道会社を通じて鉄道付属地の施政に当たれるが、右鉄道付属地は数個の都市並びに奉天及び長春のごとき人口大なる都会の広大なる部分を含み、これらの地域においては日本は警察、徴税、教育及び公共事業を管理したり。また日本は満州の多数地方に武装隊を存置したり。すなわち租借地における関東軍、鉄道付属地における鉄道守備隊及び各地方にわたる領事館警察これなり。満州において日本の有する多数の権利の上記概説により、満州において同国及び中国間に作られたる政治的、経済的及び法律的関係の特殊性は明瞭にして、恐らく世界のどこにも右事態の正確な類例なかるべく、隣邦の領土内にかくのごとき広汎なる経済的及び行政的特権を有する国は他にその例を見ざるべし。もしこの種の事態にして双方により自由に希望せられもしくは受諾せられたるものなりとせば、また経済的及び政治的範囲における緊密なる協力に関する熟考せられたる政策の表現及び具体化なりとせば、不断の紛糾及び論争を醸すことなくこれを持続し得べきも、これらの条件を欠くにおいては右は軋轢及び衝突を惹起するのみなり。』

 この事態は、『双方により自由に希望され、かつ受諾』されたものではなかったので、必然的に摩擦を生じた。武力を使用して、あるいは武力を使用するという威嚇によって、日本は、中国の国力が弱かった時代に、中国から種々の利権を獲得した。腐敗した清帝国が避けることのできなかったこれらの喪失は、再び盛り上がってきた中国の民族主義にとって、忿懣の的となった。いっそう強力な要因、しかも究極的には摩擦を生み出す決定的な要因となったものは、すでに獲得した権益に満足できなくなった日本が、最後には満州の征服を引き起こすほどの規模で、その権益の拡大を計ろうとしたときになって、現われ始めた。中国における権益を拡大しようとする日本のこの政策は、田中内閣の時代に、初めて公式に発表された。


田中内閣とその『積極政策』

 中国に対するいわゆる『積極政策』を提唱して、1927年に政権を握った田中内閣が成立する前に、日本の政治的情勢は緊張していた。軍部は、かれらがその当時の日本の弱体と称したものは、幣原外相の提唱する『友好政策』に示されたような、政府の自由主義的傾向に基づくものであるとした。このようにして、『友好政策』は破棄されたのであるが、それはすでに1922年のワシントン会議から実行されていたものであった。田中内閣の提唱した『積極政策』は、満州の官憲との、特に東北辺防軍総司令で熱河及び満州の政権の長官であった張作霖との協力によって、日本が満州で取得したと主張する特殊権益を拡張し、発展させることであった。田中首相は、また、日本は満州に対する中国の主権を尊重し、中国において『門戸開放主義』を励行するために、できる限りのことはするけれども、この地の平安を乱し、もしくは日本の重大な権益を害するような事態が絶対に発生しないようにするという覚悟を充分にもつものであると声明した。田中内閣は、満州を中国の他の部分とは全く別なものと見なす必要を強調し、もし動乱が中国の他の部分から満州及び蒙古に波及する場合には、日本は武力をもって同地方における権益を擁護するであろうと声明した。このようにして、この政策は、外国においてさらに権益を獲得しようとする公然の意図と、その外国の国内的治安を維持する権利があるという暗黙の主張とを含んでいた。

『積極政策』を支持する扇動 (原資料6頁)

 黒龍会(「黒龍会」に傍点あり)及び国本社(「国本社」に傍点あり)のような諸団体と大川博士(元被告)のような著述家たちとは、必要があれば武力によってでも、中国にある日本の特殊権益を励行せよと日本国内で強力に扇動した。

 黒龍会は、国家主義と反ロシア及び反韓国感情とを助長するために、1901年2月3日に日本の神田で設立された。これは韓国の併合を提唱し、また一般的に日本の領土拡張の野望を支持していた。

 国本社は、国家主義の精神を助長し、宣伝を行なうために、1920年12月20日に設立された。国本社は軍部と密接な関係を保ち、その思想を大衆に示すために雑誌を発行した。平沼はその総裁であり、小磯と荒木は会員であった。

 大川博士は南満州鉄道会社の信頼された社員であり、満州の経済状態研究のために同鉄道会社によって設立された東亜研究所の理事長であった。田中内閣の成立前に、かれは数冊の書物を著わしていた。1924年にかれが著わした『佐藤信淵の理想国家』には、佐藤によれば、日本は大地の最初に成れる国であって、世界万国の根本であり、従って万国に指令する天意の使命を持つと述べられている。この書物は、ロシアの南進を阻止するためにシベリア占領と、イギリスの北進を阻止するために南方諸島の占領とを唱道した。かれは1925年に『アジア・欧州・日本』という書物を著わした。この書物の中で、かれは国際連盟は永久に現状を維持し、アングロ・サクソンによる世界支配の継続のためにつくられたものであると主張した。かれは東洋と西洋の戦いは不可避であると予言した。天は日本をアジアの戦士として選ぼうとしているとかれは主張した。日本は強い物質主義的精神を伸張させて、この崇高な使命の達成に努めなければならないとかれは勧告した。大川博士は多くの会の組織者であり、その中には、有色民族の解放と世界の統一を綱領の一とする行地社(「行地社」に傍点あり)もはいっていた。大川博士の政治哲学は、軍部の一部の共鳴するところとなった。かれらは博士を民間におけるかれらの代弁者として用い、またしばしば参謀本部の会合に招いて講演をさせた。大川博士は被告小磯、板垣、土肥原、及びその他の陸軍の指導者たちと親密な間柄になった。


済南事件

 張作霖元帥は、ワシントン会議の当時に、満州は中国の中央政府から独立していると声明し、みずから満州の支配者となったが、その権力をさらに中国の本土に拡張しようと決意して、かれの司令部を北平に移した。田中内閣の政策は、同元帥と協力するという計画を基礎とするものであったから、その成否は、元帥が満州で指導権を維持できるかどうかにかかっていた。田中首相は元帥に対して満州以外に権力を拡張しようとする野心を捨てるように繰り返して勧告したが、元帥はこの勧告を不快とし、これを拒絶した。そうしている間に、張作霖と中国国民政府との間の内乱が起こった。1928年の春、張作霖軍を駆逐し、これを満州に撃退するために、蒋介石大元帥の国民党軍が北平と天津に向かって進軍していたときに、田中首相は、日本は満州の治安を維持し、満州における日本の権益を危うくするような事態の発生を防止する用意があるという趣旨の声明を発表した。次いで、田中首相は、中国の将領に対して、日本は満州に対する一切の侵入に反対するものであるという趣旨の書簡を送った。その中には、日本軍は敗退軍またはその追撃軍が満州に入ることを防止するという明確な言葉があった。満州へ内乱が拡大する以前においてさえも、日本軍は天津及び山東省に送られた。済南事変として知られている擾乱が続いて発生し、これは満州にある日本の権益を擁護すべきであるという世論を巻き起こした。黒龍会は、中国の行動に対する国民的憤激を戦争気分にまで煽り立てようとして日本全国にわたって大衆的会合を催した。

張作霖元帥の殺害 (原資料9頁)

 張作霖元帥はその権力を万里の長城の南に拡大しようとして、田中首相の勧告を無視したばかりでなく、各種の条約と協定に基づいて取得した特権によって、日本が中国を搾取するのを許すことについて、次第に喜ばなくなってきたことを示した。元帥のこの態度によって、関東軍の一団の将校は、満州における日本の権益を伸張するために、武力を行使せねばならないと主張し、また元帥と交渉しても役に立たないという意見をもつようになった。しかし、田中首相としては、その目的を達成するためには、武力を実際に行使するよりも、むしろこれを行使するという威嚇にたよって、元帥との協力を続けた。元帥に対する関東軍の一部将校の右の憤激がはげしくなったので、関東軍高級参謀の河本大佐は、元帥の殺害を計画するように至った。この殺害の目的は、日本によって支配される新国家を満州に樹立することについて、その障害となっていた元帥を除き、その子である張学良を名目上の首班とすることにあった。

 1928年4月の後半に、元帥は蒋介石大元帥の国民党軍によって破られた。田中首相は、元帥に対して、手遅れとならないうちに、日本軍の線の背後の満州に引き上げるように勧告した。この勧告に対して、元帥は憤慨したが、これに従うほかはなかった。日本は敗退軍が満州に入ることを防止するという田中の声明に従って、関東軍は北平から奉天に向かって退却する中国軍の武装解除を行なった。元帥は護衛とともに、奉天行の列車に乗った。朝鮮から奉天に到着していた日本の第二十工兵連隊は、鉄道にダイナマイトの地雷を埋設し、日本軍の一大尉は、その地雷の周囲に兵を配置した。1928年6月4日、京奉鉄道が南満州鉄道の下を通る点に埋設された地雷に元帥の列車が近づいたとき、爆発が起こった。元帥の列車は破壊され、日本軍兵士は元帥の護衛に向かって発砲した。元帥は計画通り殺害された。全関東軍に対する警急集合命令を発令させ、この事件を利用して、その最初の目的を達成しようと企てられた。しかし、この努力は、この命令の発令を望む者たちの真の目的を理解していなかったと思われる一参謀将校によって妨げられ、失敗に終わった。

 田中内閣は不意打ちをくい、その計画が元帥の殺害によって危険に陥し入れられたのを見て、非常に困惑した。田中首相は天皇に詳細な報告をし、責任者を軍法会議に付する勅許を得た。かれは宮中から退出した後、陸軍大臣とその他の閣僚を招致し、陸軍の軍紀を粛正する決意であると述べた。その席にあった者はこれに同意したが、陸軍大臣が陸軍省でこの問題を討議したときには、同大臣は参謀本部側の強力な反対に力を添えてはどうかと言った。その後、陸軍大臣は首相に報告して、参謀本部の反対は、責任者を軍法会議にかければ、陸軍はその軍機事項の一部を公表しなければならなくなるだろうとの見解に基づくものであると述べた。元海軍大臣岡田の証言によれば、陸軍が政府の政策の樹立に乗り出してきたのはこれが初めであった。

 土肥原が後に重要な役割を演ずるように約束づけられていたところの舞台に登場したのは、このときであった。各種の中国人指導者の顧問を勤めていた坂西(「バンザイ」と振り仮名あり)中将の副官として、張作霖の殺害事件の前に、すでに約18年間をかれは中国で過ごしていた。1928年3月17日に、張作霖元帥の顧問であった松井七夫(「ナナオ」と振り仮名あり)の副官として任命されるように、土肥原は天皇に奏請し、その許可を得た。土肥原はこの任命に基づいて赴任し、張作霖元帥が殺害されたときは満州にいた。


通称ヤング・マーシャル、張学良元帥

 ヤング・マーシャルといわれた張学良が父の後を襲ったが、かれは関東軍にとって失望の種であることがわかった。かれは1928年12月に国民党と合体した。排日運動は組織的な規模で促進されるようになり、非常に激しくなった。中国の国権回復運動が盛んになった。南満州鉄道を回復し、また一般的に満州における日本の勢力を制限せよという要求があった。

 張作霖元帥が殺害されてから間もない1928年7月に、ヤング・マーシャル張学良と交渉するために、田中首相は個人的代表を派遣した。この代表は、張学良に対して、日本は満州をその前哨と見なすこと、また日本政府は『陰で』かれと協力するつもりであり、中国国民党軍による満州侵入を防止するために、田中内閣の『積極政策』に従って、どんな犠牲でも惜しまない用意があることを通告するように訓令されていた。これに対する張学良の回答は、前に述べた通り、国民党に合体することであった。


日華関係の緊張化

 満州における日華関係は極度に悪化した。日本側は中国との『通商条約』の違反がいくつかあったと主張した。南満州鉄道に対する中国の並行線敷設の案、在満日本人に対して不法課税があるとの主張、朝鮮人に対する圧迫があるとの主張、及び満州における日本臣民の借地権の否認などは、日本の扇動者の言葉によれば、すべて「満州問題」であった。軍部は外交交渉は無益であり、中国人を満州から駆逐し、日本の支配のもとに新政権を樹立するために、武力を行使しなければならないと主張した。1929年5月に関東軍参謀に任命されていた板垣は、武力行使の提唱者の一人であった。さきに張学良元帥を訪問し、南満州鉄道を代表して元帥と交渉することを企てたことがあった大川博士は、日本に帰って、1929年4月に50以上の行政区画を巡遊し、講演と映画の旅行を行なった。南を参謀次長とする参謀本部は、大川博士と協力し始め、国民を使嗾して中国に対する行動を起こさせようとするかれの宣伝計画について、大川に援助を与え始めた。参謀本部はまた満州における軍事行動のための計画の研究に着手し、満州は日本の『生命線』であると唱え始めた。

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