歴史の部屋

田中内閣の辞職 (原資料12頁)

 張作霖元帥の殺害の責任者を処罰しようとする田中内閣の努力は、軍部を離反させてしまった。文民の間に同内閣に対する反対をつくり出すために、軍部は大川博士と結託した。かれらは内閣を窮地に陥れる好機として、ケロッグ・ブリアン条約(付属書B*15)の調印を捕え、それが日本憲法違反であると主張し、また、内閣が承認した済南事件の解決条件を捕え、これを国辱であると主張した。この圧力がきわめて強くなったために、1929年7月1日に田中内閣は辞職した。

 田中内閣の辞職は、軍部とその民間代弁者である大川博士との顕著な勝利であった。この時から後、政府の政策に対するこの分子の影響力はだんだん強くなった。そして、日本は武力によって満州を占領し、ここに傀儡政府を樹立せねばならないというかれらの主張は、実を結ぶことになった。大川博士は政治的指導者として認められるようになり、南満州鉄道会社の役員は、かれらにとっての大川の価値を認識し、1929年7月に東亜研究所を同会社から分離して一つの法人をつくり、それによって、陸軍の満州占領計画を支持するために、大川が行なう調査と世論形成の事業を援助することにした。


『友好政策』の復活

 田中内閣のあとを継いだ濱口内閣は、1929年7月2日に組閣され、中国に対する『友好政策』をたえず唱道していた幣原男爵が、濱口首相によって外務大臣に選ばれた。『友好政策』は、武力を使用するという威嚇に基づく田中内閣の『積極政策』と異なり、善意と友誼を基礎とするものであった。『友好政策』の結果、中国側の日貨排斥は次第に下火になったのであって、軍部側の激越な扇動がなかったならば、正常な平和的関係が全面的に行なわれたかもしれない。


橋本と桜会

 橋本は、その著書『世界再建の道』の中で、大使館付き武官としてイスタンブールに3ヵ年間勤務していたことを述べているところで、他の国の政治的情勢について論じ、次のようにいっている。『日本だけは世界移動の渦中にありながら、依然として自由主義の圏内に立ち停まっていることが実に歴々として感ぜられる。もし日本が今日の状態で続けていくならば、国際社会の列から落伊してしまいはせぬかと考えた。このとき、幸いに帰朝命令に接した。航行三十余日の間に、私は日本をいかに改革すべきかということを、潜思熟考した。その結果多少の成案を得るに至ったのである。そして古巣の参謀本部に帰り、直ちに右の意見を実行するために、諸種の方法を講じた。』橋本は1930年1月30日に参謀本部付きとなった。

 1930年9月1日ないし10日の間に、当時陸軍大学校を卒業したばかりの十数吊の陸軍大尉が、橋本中佐の主催のもとに、東京の偕行社に会合して、満蒙問題と国内改革を研究するために研究会を組織することを決定した。この研究会の究極の目的は、いわゆる『満州問題』とその他の懸案を解決するために、必要があれば、武力をもって国内の改造を行なうことであると後になって発表された。研究会には『桜会(桜会に傍点あり)』という吊称が与えられ、その会員は、国家改造に関心を有する中佐以下の現役陸軍将校に限られていた。


日本の『生命線』としての満州

 橋本が参謀本部に帰任したとき、大川博士は東亜研究所と参謀本部の将校たちとの援助によって、宣伝活動に大童となっていた。満州は日本の『生命線』であるという思想、これに関してさらに強硬な政策をとらなければならないという思想を確立するために、新聞とその他の機関を通じて、宣伝が広く行なわれていた。軍部の指導者は、すべての論説記者、極端な国家主義的講演者、その他に対して、満州でいっそう侵略的な行動に出ることを支持する世論をつくるために、団結しなければならないという指示を与えた。満州は日本の『生命線』であり、日本は満州に進出し、これを経済と産業方面から開発し、ロシアに対する防衛としておし立て、既存の条約に基づく権利に従って、そこにある日本と日本国民の権益を保護しなければならないと軍部は主張した。日露戦争において、満州で日本人の血が流され、この犠牲からしても、日本は満州を支配する権利があるといって、感情に訴えた。満州における鉄道問題は、依然として盛んに論じられていた争点であった。大川博士は、『王道』に基づく国家を建設するために満州を南京から分離し、日本の支配下に置かなければならないと主張した。

 橋本は、『革新の必然性』という著書の中で、『王道』という言葉の意味をよく説明している。『政治、経済、文化、国防すべが天皇に帰一し、総力が一点に集中発揮せられるものたるを要する。殊に従来、自由主義ないしは社会主義によって指導編成せられし政治、経済、文化方面を、皇道一体主義(皇道一体主義に傍点あり)によって再編成することである。この体制は、最も強力にして雄渾なるものである。世界国多しといえども、天皇を中心に帰一一体となれる国民の血脈的団結に比すべきものは断じてあり得ないのである』とかれは述べている。

 日本と満州の上可分的な関係のもとに、独立の満州が『王道』に基づいて建設された後には、日本はアジア民族の盟主になることができるというのが大川の思想であった。

 1930年4月1日、参謀本部内に一般調査班が設けられた。関東軍調査班は満州の資源、民情及びその他の類似した調査問題を調べるのに、上充分であると考えられたからである。

 旅順の関東軍司令部あたりでは、当時参謀将校の間の話題の中心は『満州問題』であった。その参謀将校の一人であった板垣は、この問題を解決するについて、ある程度のはっきりした考えを持っており、1930年5月にそれをある友人に話した。中国と日本との間には、多数の未解決の問題が存在しているが、これらの問題は非常に重大であるから、外交的手段によっては解決が上可能であり、武力を用いるほかないとかれはいった。新国家を『王道』の理想に基づいて建設するために、張学良元帥を満州から駆逐しなければならないという意見をかれは表明した。

総理大臣濱口の暗殺 (原資料18頁)

 1930年11月4日に、総理大臣濱口が東京駅のプラットホーム上にいたとき、外務大臣幣原の言葉を用いれば、かれは『思慮なき一青年に射たれた。』総理大臣は即死はしなかったが、その負傷は、1931年4月13日に濱口内閣が辞職するまで、外務大臣幣原が総理大臣代理を勤めなければならないほど重かった。その傷がもとで、総理大臣は1931年8月26日に死亡した。総理大臣代理幣原は調査を命じたが、それによって、総理大臣濱口の暗殺はかれの海軍軍縮政策に対する上満から起こったものであるということが確定された。

 ロンドン海軍軍備制限条約は、1930年4月22日に調印された。この条約は、総理大臣の『友好政策』に伴う経済と軍備縮小の政策の線に沿っていた。陸軍を21箇師団から17箇師団に縮減したことも、右の政策に副っていた。ロンドン条約の調印は、海軍の青年将校を憤慨させた。黒龍会はこれに対する抗議として、民衆大会を開催し始めた。平沼が副議長であった枢密院は、条約に対して極力反対し、同条約に調印することによって、内閣は軍の権限と特権を侵害したという態度をとった。暗殺事件が起こったのは、この激烈な政治的論争が行なわれている真っ最中であった。


三月事件

 1931年3月20日を期して、軍事的クーデターを起こす計画が立てられた。この事件は、後に『三月事件』として知られるようになったものである。参謀本部による絶え間ない扇動と宣伝の流布とは、その効果を挙げた。当時軍事参議官であった岡田男爵が証言したように陸軍が満州の占領を開始することは、単に時の問題であるというのが一般の人の考えであった。陸軍が満州に進出する前に、このような行動に対して好意を有する政府に政権を握らせることが必要であると考えられていた。当時は濱口内閣が政権を握っていた。そして、総理大臣の暗殺未遂事件のために、『友好政策』の主唱者、すなわち外務大臣幣原が総理大臣代理をしていた。橋本の計画は、参謀次長であった二宮と参謀本部第二部長であった建川とを含めて、参謀本部の上官の承認を得たものであるが、それは議会に対する上満の意を表わす示威運動を始めることであった。この示威運動の中に、警察と衝突が起こり、それが拡大して、陸軍が戒厳令を布き、議会を解散し、政府を乗っとることを正当化するような混乱状態にまで達せさせることができようと期待されていた。小磯、二宮、建川及びその他の者は、陸軍大臣宇垣を官邸に訪問し、この計画について宇垣と討議し、かれらの策謀のためには、宇垣はいつでも利用できる道具であるという印象をもって辞去した。大川博士は、大衆示威運動に着手するように指示された。小磯がその際使用するために確保しておいた三百個の演習用爆弾を、橋本は大川に届けた。これらの爆弾は群衆の間に驚愕と混乱を巻き起こし、暴動のような外見を強くするために使用することになっていた。ところが、大川博士は熱心さのあまりに、陸軍大臣宇垣に宛てて書簡を送り、その中で、宇垣大臣が大使命を負うことになる時期が目前に差し迫ったと述べた。陸相はいまや陰謀の全貌を見てとった。かれは直ちに小磯と橋本を呼び、政府に対するこの革命を実行するために、陸軍を使用する今後のすべての計画を中止するように命令した。計画されていたクーデターは未然に阻止された。当時の内務大臣秘書官長であった木戸は、このことを宮中に知らせておくべきだと告げた友人によって、この陰謀のことを前もって充分に知らされていた。


若槻内閣は『友好政策』を継続した

 『三月事件』は濱口内閣の倒壊を早め、この内閣に続いて1933年4月14日に若槻内閣が組織されたが、幣原男爵が抱懐していた『友好政策』を取り除くことには成功しなかった。かれが総理大臣若槻のもとに外務大臣として留任したからである。朝鮮軍司令官を免ぜられ、軍事参議官になっていた南大将が陸軍大臣として選ばれた。陸軍の縮減を敢行し、また『三月事件』に参加することを拒んだために、陸軍の支持を失った宇垣大将に代わって、南は陸軍大臣の地位に就いた。宇垣は陸軍を辞めて隠退した。

万宝山事件 (原資料20頁)

 『友好政策』は、日本の世論に広汎な影響を及ぼした二つの『事件』によって、さらに試練を受ける運命に遭った。これらの『事件』の最初のものは、満州の長春の北方約18マイルにある小村万宝山で起こった。この村落は伊通河に沿う低い湿地にある。朝鮮人の一団は、万宝山の付近に広大な一画の土地を借り、伊通河から数マイルにわたる水溝を堀ることによって、土地を灌漑する準備をした。この水溝は、朝鮮人の借地契約に含まれていない中国人の農民に属する土地を横断することになっていた。灌漑水溝がすでに相当の距離にわたって構築されてから、中国人農民は一団となって立ち上がり、万宝山当局に抗議した。その結果として、万宝山当局は警察官を派遣し、朝鮮人に対して直ちに工事を中止し、中国人に属する土地から退去することを命じた。長春の日本領事もまた朝鮮人保護のために警察官を派遣した。交渉をしても何の効果もなかったので、1931年7月1日に、中国人農民は、問題を自分等の手によって解決しようとし、朝鮮人をその土地から追い出し、水溝を埋め立ててしまった。こうしている間に、日本の領事館警察官は、中国農民に対して発砲し、これを追い払った。その間に、朝鮮人はそこに帰り、日本の警察の保護のもとに、灌漑工事を完成した。この『事件』のために、死傷者は生じなかったが、日本と朝鮮の新聞に記載された扇動的な報道の結果として、朝鮮に反中国の暴動が続発し、それによって、中国人が虐殺され、その財産が破壊された。それがまた中国で日貨排斥を再発させる原因となった。

 このころに、『満州問題』について懇談するために、陸軍省は南満州鉄道株式会社の社員を招いた。この懇談の際に、南は陸軍を代表して出席し、自分は朝鮮の師団数を増加する必要を長い間認めていたと述べた。


中村事件

 1931年6月27日に、中村震太郎という日本の陸軍大尉が満州の中国屯墾軍第三団長関玉衛の指揮下にある兵士によって殺害された。この殺害は1931年7月17日ごろまで日本側には知られるに至らなかったが、これが第二の『事件』を引き起こした。中村大尉は正規の日本陸軍将校であって、日本軍の命令による任務に従事していた。中国側によれば、同大尉は武器を携帯し、売薬を所持していたが、その売薬中には薬用でない麻薬があった。かれは3吊の通訳と助手を伴い、『農業技師』と自称していた。洮南(とうなん)に近い一地点に着いたとき、かれと助手たちは逮捕されて射殺された。その死体は、右の行為の証跡隠滅のために焼き棄てられた。この『事件』は、『友好政策』に対する日本軍部の忿懣をますます刺激した。日本の新聞は、『満州問題は武力を行使する以外に解決の途がない』ということを繰り返して論じた。


陸軍の態度の硬化

 陸軍は軍備縮小と大蔵省の緊縮計画に関して態度を硬化し、天皇に訴えると脅かした。いわゆる『幣原欺瞞外交』のために、新聞紙上で、また極端な国家主義者や軍部によって、外相は痛烈に非難された。桜会は武力を行使せよという扇動を引き続き行なった。黒龍会は民衆大会を開いた。大川博士はその宣伝に拍車をかけた。満州を占領するという運動を支持する感情をつくり上げるために、かれは公開演説や出版物による運動を行なっていた。かれは海軍兵学校でこの趣旨の演説をした。陸軍はまったくその統制を失ってしまい、抑制することができなかった。参謀長たちは会議を開き、張学良元帥がどんなことをするか判断がつかないから、これを断乎として仮借なく討ちのめさなければならないと決定した。大川博士は、一友人に対して、自分と板垣大佐及び他のある陸軍将校は、『満州問題』を全面的に解決する『事件』をやがて奉天で起こすつもりだと打ち明けた。満州における陸軍将校の、このような目的のための陰謀について、早くも1931年6月23日に、木戸は原田から話を聞いたことを認めている。

 1931年8月4日に、南は師団長会議で訓示を行ない、次のように述べた。『近接諸邦の事情を研究せざる観察者たちは、軽率に軍備縮小を唱え、国家並びに軍にとり上利なる宣伝をなしている。満蒙は我が国防並びに政治、経済的見地から、我が国とは密接なる関係にある。支那のこの方面の最近の情勢は遺憾ながら我が帝国にとり上利なる状況に傾きつつある。かかる情勢に鑑み、私は諸君に、軍の教育、訓練の義務を陛下の御目的に完全に沿い得るごとく、熱心かつ誠実に遂行せられん事を望む。』

 軍縮国民同盟はこの演説について南に反対し、かれにあてた書簡で、陸軍刑法に反して軍のうちに宣伝を行なっているものであると非難した。

 橋本中佐と、同じく桜会の会員であった重藤中佐とは、1931年8月に、東京で友人藤田の自宅で会食した。食事中に、『満州問題』が話題にのぼり、両中佐は満州で積極的行動に出なければならないということに意見が一致した。数日の後に、重藤中佐は藤田の自宅に現われ、多額の金の保管を託した。それから数日の間に、重藤はこの資金の中から、いろいろな金額の金を持ち出した。『奉天事件』の後に、藤田は重藤の自宅を訪れ、『貴方は貴方が満州で考えていたことを成し遂げましたね』と叫んだ。重藤は『うん』と答えてほほ笑んだ。それから、つけ加えて、『われわれは張学良を満州から追い出し、溥儀を満州に連れてきて、東三省の統治者に立てる』といった。藤田は橋本に質問したところが、『うん、来るべきことが来た』という答えを受けた。

土肥原の調査 (原資料25頁)

 1929年3月に中国から帰国して以来、参謀本部付きであった土肥原大佐は、参謀総長から、中村大尉の死亡を調査するために派遣された。かれの使命は、表向きは中村大尉の死亡を調査することであったが、ほんとうの使命は、中国軍の兵力、訓練及び内部の状態、並びに通信組織の能力を判定することにあったようである。土肥原は東京を1931年7月に出発し、上海、漢口、北平、天津を経由して奉天に到着した。中村事件の調査は、かれが中国で果たさなければならなかった使命のうちの単に一つであったことを、かれは認めている。関東軍司令部は旅順にあったが、その特務機関の本部は奉天にあった。土肥原は奉天に1931年8月18日に到着し、特務機関の指揮をとった。


外務大臣幣原の調査

 外務大臣幣原は、満州でかれの『友好政策』を実行し、陸軍に対して『中村事件』を利用する機会を与えないことを切望していた。そして、この事件を調査に東京から林総領事を派遣した。林総領事は遼寧省主席を訪問した。同主席は、『事件』を調査し、報告するために、調査委員会を任命した。この委員会は1931年9月3日に報告をしたが、その報告は、中国当局にとって、上満足なものであった。9月4日に、林総領事は、中国参謀長栄臻将軍から、委員会の報告は上明確であり、また上満足であるから、再度調査の必要があるという通告を受けた。病気のために、北平で入院していた張学良元帥は、この事態について報告を受け、直ちに新たな訓令を出すように命令した。それと同時に、かれは柴山少佐を東京に派遣して、外務大臣幣原と懇談させ、本件を友好的に解決するかれの希望を明らかにさせた。その間に、張元帥はある高官を東京に派遣し、幣原男(幣原男爵という意味)と会談して、当時懸案となっていた中国と日本との種々の問題を解決するために、なにか共通点を見出すことができないかということを確かめさせた。


参謀本部に対する土肥原の報告

 土肥原大佐は、参謀本部に報告するために、9月初旬に東京に帰った。かれが東京に着いてから、満州のすべての懸案は、かれの進言に基づいて、武力をもって解決することに決定されたということを新聞は盛んに書き立てた。また、陸軍省と参謀本部との間に、土肥原大佐に与える明確な訓令をきめるために、会議が行なわれているということも報道した。これらの記事は、事実を正確に報道したものであるかどうかはわからない。いずれにしても、それは当局によって否定されはしなかった。これらの記事は、中国に対して武力を用いた方がよいという日本の世論をいよいよ煽り立てた。土肥原大佐は、中村事件の解決に関して、林総領事と意見を異にし、事件の満足な解決に到達するために努力していた中国側の誠意に対して、依然として疑いを懐いていたということが立証されている。陸軍大臣南は、その後に、ある友人に対して、当時かれは陸軍の意見に従って、『満州問題』の決定的解決を主張したと打ち明けた。木戸は、内大臣秘書官長として、1931年9月10日の日記に、満州に関して、将来の進展によっては、『自衛権』の発動も避けられなくなるであろうという説に大体賛成であると記している。


外務大臣幣原は仲裁の努力を続けた

 陸軍が奉天で『事件』を企てているという風説が東京で拡まり、これらの風説が外務大臣幣原の耳にはいった。実際において、幣原は次のように述べた。『満州事変直前、外相として関東軍が軍隊の集結を行ない、ある軍事目的のために弾薬物資を持ち出している旨の機密報告及び情報を受け、またある種の行動が軍閥によって目論まれているという事も、そのような報告から分かりました。』

 本裁判所に提出された証拠によれば――これらの事実は、当時幣原の知るところではなかったが――独立歩兵守備隊第二大隊に属する中隊の指揮官として、撫順に駐屯していた川上中尉あるいは大尉は、かれとその中隊が撫順を離れることについて関東軍司令官の命令を受けていたようである。右の大隊の残りの各中隊は、奉天に駐屯しておって、9月18日に奉天の中国側の兵営に対する攻撃に参加した。川上が司令官から受けた命令の全内容は立証されていない。しかし、右の命令は、ある非常事態が起こったときは、川上とその中隊は列車に乗って撫順を出発せよという趣旨のものであった。そこで、川上は撫順の日本人警察官、在郷軍人及び民間人を集め、かれらに対して、もし1931年9月18日に奉天で事件が起こり、かれとその中隊が撫順を離れなければならないようになった場合にはどうするかと聞いた。かれとその中隊が撫順を去った場合の同市の防備について、川上は心配していたと言われている。かれはさらに撫順の満鉄社員を集めた。かれらに対して、9月17日以後に、ある緊急事態が発生するかもしれないから、撫順で列車の手配をしておかなければならないと言った。そのときまでは、撫順では、非常事態の場合、部隊を移動するための夜行列車の準備が、何もできていなかったように思われる。川上はこのような準備をするようにと希望した。

 この最も意味深い事柄に関して、弁護側の主張は、次の通りである。特に9月18日という日に関連した命令を、川上は何も受けていなかったということ、かれに対する命令は、万一非常事態が起こった場合には、ある行動に出るようにとの一般的なものであったということ、情勢を観察した上で、川上は非常事態が9月18日ごろ発生するかもしれないと推測したということ、そうして、かれが撫順の人々に話したときに、その日付を述べたのは、単に彼自身の憶測に基づくものであるということである。弁護側によれば、このようにして、奉天の日本軍に対して、中国側が奇襲を行なうことになっていた正確な日時を、川上が推測したことになる。9月18日の事件に関連するすべての事実を考慮した上、裁判所はこの説明を躊躇なく棄却し、川上は9月18日の夜間に起こることになっていた非常事態に際して、一定の行動に出る命令を受けていたのであり、撫順で夜間使用できる列車の準備がなかったので憂慮していたものと認定する。

 幣原は林の報告を受けると、直ちに陸軍大臣南を訪問し、この報告に対して、強硬に抗議した。その間に重光は中華民国の財政部長であった宋子文氏と会談していた。そして、かれらは1931年9月20日に奉天で落ち合うこと、日本と張学良元帥との間のすべての懸案を解決するために、張元帥及び南満州鉄道会社総裁の内田伯と懇談することについて同意した。

関東軍の夜間演習 (原資料30頁)

 1931年9月14日に、中国第七旅団の兵営の付近で、関東軍は夜間演習を始めていた。これらの兵営は、奉天のわずか北方の南満州鉄道線路の近くにあった。この演習では、猛烈な小銃と機関銃の射撃が行なわれた。日本軍との衝突を避けるために、張学良元帥の命令によって、第七旅団の騎兵1万が兵営内に足留めされていた。これらの演習は、1931年9月18日の夜に入るまで続けられた。

 中村事件を解決しようとして、林とともに努力していた領事館員森島氏は、重要な炭鉱地区である撫順駐屯の関東軍部隊が、1931年9月18日夜11時30分ごろに撫順を出発して、奉天の占領を想定した演習を実施する計画になっていたことを知った。


張学良元帥の調査委員の奉天帰還

 中村事件を調査していた張学良元帥の調査委員は、1931年9月16日の朝、奉天に帰還した。1931年9月18日の午後、日本領事は中国軍の参謀長栄臻将軍を訪問した。その際に、同将軍は、関玉衛団長が中村大尉殺害の責任を問われ、1931年9月16日に奉天に召喚され、直ちに軍法会議に付されることになっていると述べた。事件は解決されるもののように見受けられた。しかし、領事と栄将軍との会談は、午後8時ごろに打ち切られた。問題が軍人に関連しているので、中国側官憲に対してさらに何か申入れをするには、その前に関東軍の適当な代表者と協議することが必要であると思われたからである。

 領事館の森島氏は、その夜遅くさらに開かれることになっていた会談に、適当な陸軍の代表者が出席するように取り計らうことを言いつけられていた。かれは土肥原大佐や花谷少佐と連絡をとろうと試みた。かれらのホテル、事務所、宿舎及びその他かれらの頻繁に出入りする場所を探したけれども、かれはこの両吊のどちらも見つけることができず、特務機関の他のいかなる将校も見つけることができなかった。かれはこの旨を領事館に報告し、自分の宿舎に帰った。


南の特使は本務を果たさなかった

 参謀本部の建川少将は、1931年9月18日の午後1時に、安奉線経由で、奉天に到着した。かれは参謀本部のために現地観察を行なうように満州に派遣されたのであった。陸軍が18日に奉天で『事件』を計画しているという風説に対する外務大臣幣原の抗議に基づいて、南は建川にこの策謀を阻止するように指示したのである。南は建川にこのような命令を出したことを否認したが、これについては、その後の南の陳述と建川の他の陳述とによって、反証が挙げられている。関東軍司令官本庄は、ちょうど部隊や施設の検閲を終わって、遼陽の第二師団に訓示を与えていたときに、旅順にいたかれの参謀長三宅から電報を受け取った。この電報は、建川が満州に来たことを通知し、かつ、板垣参謀か石原参謀に、建川を出迎えさせ、その視察旅行に随行させてもらいたいといってきたものである。

 板垣大佐はこの任務を受け、遼陽から奉天に向かった。そして、奉天に到着すると、すぐ瀋陽館に入った。土肥原の補佐官であった奉天特務機関の花谷少佐は、建川少将を出迎え、板垣大佐の旅館に案内し、その夜そこで板垣大佐と建川少将は夕食をともにした。板垣によると、建川少将は旅行中休息することができなかったとこぼし、その場で仕事の話をする気にはならなかったが、青年将校の軽挙妄動について上官が憂慮していると述べたということである。これに対して、板垣はそれについては心配は無用であると答え、いずれ明日ゆっくり話を聞こうといった。夕食の後に、板垣は建川少将と別れて特務機関に向かい、午後9時ごろそこに着いた。建川少将は、その後、友人に対して、計画された『事件』に干渉する意志は毛頭なく、また旅館に連れこまれたのも承知の上であり、遠い砲声を聞きながら、芸者にもてなされ、その後自分の部屋に帰って、朝起きるまで熟睡していたと語った。

奉天事件 (原資料32頁)

 1931年9月18日の夜9時、第七旅団の兵営で、劉という一将校は、普通の形の機関車をつけていない3、4輌の客車からなる列車が兵営の前の南満州鉄道の線路に停車していると報告した。午後10時に爆発の大音響があり、すぐ続いて、銃声が起こった。日本側の説明によれば、関東軍の河本中尉が兵卒6吊を率いて巡察任務についており、爆発の起こった鉄道線路の付近で警備演習を行なっていた。中尉は爆発の音を聞いた。巡察隊は方向を転じ、約200ヤード駆け戻り、軌道の片側の一部分が爆破されているのを発見した。その爆破地点にいたとき、巡察隊は線路の東側の畠地から射撃された。河本中尉は増援を求めた。ちょうどその時に、午後10時30分奉天着の南行定期列車が接近しつつあるのが聞こえた。この列車は破搊した軌条の上を無事に通過し、定刻に奉天に到着した。以上のように日本側は説明している。川島大尉とその中隊は、10時50分に現場に到着した。独立歩兵守備隊第二大隊の大隊長島本中佐は、さらに二箇中隊に対して現場に向かうことを命じた。それは真夜中ごろに到着した。1時間半の距離にある撫順にあった他の一箇中隊も、現場に向かうように命ぜられた。この中隊こそ、自分と自分の中隊は、18日の夜に撫順を出発しなければならないと、ずっと前に言明した川上の中隊である。中国第七旅団の兵営に電燈が煌々とついていたが、日本軍は小銃や機関銃とともに大砲をも用いて、午後11時30分に、躊躇することなく、この兵営を攻撃した。中国兵の大部分は兵営から逃れ、東北方の二台子に退却した。しかし日本側は中国兵320吊を埋葬し、負傷者20吊を捕えたと称している。日本側の搊害は、死者が兵2吊、負傷者が22吊であった。第29連隊の連隊長平田大佐は、午後10時40分に、島本中佐から、鉄道線の爆破と右の兵営の攻撃に関する計画とを知らせる電話を受けた。かれは直ちに奉天城の攻撃を決意した。その攻撃は午後11時30分に始まった。なんの抵抗もなく、交戦のあったのは警察との間だけで、巡警の間に約75吊の死者を生じた。第二師団と第十六連隊の一部とは、19日の午前3時30分に遼陽を出発し、午前5時に奉天に到着した。兵工廠と飛行場は、午前7時30分に占領された。後になって、板垣大佐は、10日に日本の歩兵部隊の兵衛内に秘密に据えつけられた重砲が、戦闘のはじまった後に、飛行場の砲撃に役立ったということを認めた。板垣は建川と別れてから、特務機関の事務所に行った。板垣によると、かれはそこで島本大佐から中国第七旅団の兵営を攻撃する決意を、また平田大佐から奉天城を攻撃する決意を聞いた。板垣はこれらの者の決意を是認し、旅順における軍司令官に報告する処置をとったと述べている。

板垣は交渉を拒絶した (原資料34頁)

 この間に、1931年9月18日の夜10時30分、日本領事館の森島氏は、奉天の陸軍特務機関から電話を受け、南満州鉄道の爆発があったことと、奉天の特務機関本部に出頭するようにということを知らされた。かれは10時45分に本部に着き、そこで板垣、花谷及びその他のいく人かの者に会った。板垣は、中国軍が鉄道を爆破したこと、日本は適当な武力的処置をとらなければならないこと、この趣旨の命令がすでに発せられたことを語った。森島氏は、事件の調整のためには、平和的交渉によらなければならないということを板垣に説得しようと試みた。すると、板垣はかれを叱責し、総領事館は軍指揮権に干渉するつもりか知りたいといった。森島氏は、この事件は正常の交渉によって円満に解決することができることを確信していると主張した。すると花谷少佐は立腹した態度で軍刀を抜き、もし森島が自説を固執するならば、ひどい目に遭わされる覚悟をせよといった。花谷は、また、余計な口を出すものは、だれでも殺してしまうと言った。それによって、この会談は打ち切られた。

 日本領事館は、その夜の間、張学良元帥の最高顧問から、総領事館が、日本軍を説得して攻撃を止めさせるようにと懇願する要請をいくたびも受けた。このような申入れは、すべて軍に通達されたが、なんの甲斐もなく、戦闘は依然として続いた。9月18日の夜から19日の朝にかけて、総領事は幾度も電話を板垣にかけ、戦闘を中止するように説得しようとしたが、板垣大佐は傍若無人の態度をかえず、その都度、総領事に対して、軍指揮権に干渉することを止めろと言った。林総領事は1931年9月19日の朝、外務大臣幣原に電報を打ち、『中国側より数回事件円満処理申出の次第もあり、本官より板垣参謀に電話をもって日支両国は未だ正式に交戦状態に入りたる訳にあらざるのみならず、支那側は全然無抵抗主義に出ずる旨声明し居るをもって、この際上必要に「事件《を拡大せざる様努力する事肝要にして、外交機関を通じ事件を処理する様せられたしと電話したるが、同参謀は国家及び軍の威信に関するをもって、徹底的にやるべしとの軍の方針なりと答えたり』と述べたのである。

奉天事件は計画的なものであった (原資料36頁)

 『奉天事件』が参謀本部付きの将校、関東軍の将校、桜会の会員及びその他のものによって、あらかじめ綿密に計画されたものであったことについては、証拠が豊富にあり、その証拠は確信するにたりるものである。橋本を含めて、その計画の参画者のうちの数吊は、いろいろな機会に、この計画における自分の役割を認め、『事件』の目的は、関東軍による満州占領の口実を設けるためであり、また日本の意のままになる『王道』新国家の建設であったと語っている。日本内地では、参謀本部の建川少将がその指導者であった。これは、幣原の抗議に基づいて、南が陰謀を阻止するために奉天に遣った建川と同じ建川であり、また計画された事件に干渉する意思は毛頭なかった建川と同じ建川であった。満州では、板垣が主要人物であった。9月18日の夜の日本軍の行動に関する一般の弁護として、また、板垣のように、その夜活動した人物のための特定の弁護として、弁護側が本裁判所に提示した申立ては、次の通りである。その夜より前に、満州の中国軍の兵力が増加されたために、合計1万足らずであった満州の日本軍は、兵力約20万の、しかも日本軍より装備の優れたところの、敵意ある軍隊と対峙することになったということ、事件の少し前から、中国軍の配置が変更されたので、鉄道沿線にぱらっと小部隊に分散配置されていた日本軍は、中国軍の集結と対峙し、全滅される脅威を受けていたということ、日本軍に対する中国軍の態度は挑発的であり、侮辱的であったということ、あらゆる徴候から見て、中国軍は挑発されないのに日本軍を攻撃する傾きを示し、その際に、日本軍としては、直ちに決定的な反撃を加えない限り、圧倒されてしまうことになるということである。従って、もし中国側が攻撃した場合には、関東軍は主力を奉天付近に集結し、奉天付近の中国軍の中枢に深刻な打撃を与え、こうして敵の死命を制することによって、問題を短期間に解決しようという計画を立てていたと言うのである。奉天独立守備隊の兵営内に重砲二門を秘密に据えつけたということは、この計画の一部であった。以上が板垣の証言である。板垣のいうところによれば、右のような次第であるから、9月18日の夜、鉄道の爆破と中国側の兵舎の外の戦闘のことをかれが聞いたときに、これは日本軍に対する中国正規軍の計画的挑発であることが明瞭であった。そこで、絶対に必要であるし、万一に処する際のために作成されていた軍の作戦計画にも一致していたから、かれは中国の兵営と奉天城を攻撃する決定を承認したと言っている。

 このように着色して事件を説明すると、中国軍が圧倒的な多数の兵力で奉天付近の約1500吊の日本軍に計画的な攻撃を加えたこと、予期されていなかったことから起こった奇襲であったこと、優勢な部隊の中枢に対して日本軍が迅速に反撃を加え、それによって中国軍が敗走したということになる。しかし、この説明は、ただ一点を除いて、すなわち、奉天が占領され、中国軍が駆逐されたという一点を除いて、虚偽である。

 中国軍は日本軍を攻撃する計画を全然もっていなかった。かれらは上意討ちをされた。数千吊の中国兵がいた兵舎を攻撃するにあたって、日本軍は暗やみから燈火の明るい兵営に向かって射撃し、主として退路を遮断された若干の中国兵から、わずかばかりの抵抗を受けただけであった。奉天市を占領するにあたっても日本軍は若干の警察の、ほとんど問題にならないほどの抵抗を受けたにすぎなかった。

 その夜の出来事によって、日本側が驚いたなどということはあり得ない。1931年9月18日の相当以前から、陸軍が奉天で『事件』を計画しているという風説が日本で拡がっていた。撫順の川上中尉は、1931年9月18日に奉天で「出来事《が起こるかもしれないということを洩らしている。林総領事は、外務大臣にあてて、撫順の一中隊長が一週間以内に大きな『事件』が起こると言ったという報道を打電している。奉天の日本領事館員の森島は、撫順駐屯の関東軍の部隊が、1931年9月18日の夜の11時30分に撫順を出発して、奉天占領を想定した演習を実施することを知っていた。外務大臣は、自分の入手した情報を充分信用していたので、陸軍大臣に向かって、このようなことは困るといって抗議し、これを説得して、『陰謀阻止』のために建川少将を満州に派遣させた。この少将というのは、計画された『事件』に干渉するつもりは毛頭なかったので、その使命を果たさなかった。しかも、日本側が主張するように、一中尉と兵六吊からなる巡察斥候が、1931年9月18日の暗夜に射撃を受けると、満州にある日本軍の全部隊は、長春から旅順まで、約400マイルに及ぶ南満州鉄道の沿線の全地域にわたって、その夜ほとんど同時に行動を起こした。安東、営口、遼陽、その他の小さい町の中国部隊は圧朊され、無抵抗で武装を解除された。日本の鉄道警備隊と憲兵は、これらの地点に留まり、第二師団の各部隊は、さらに重要な作戦に参加するために、直ちに奉天に集結した。板垣は奉天の特務機関にあって、日本軍の最初の攻撃に承認を与え、林総領事が中国側は無抵抗主義に出ると声明したことを知らせたにもかかわらず、かれを説得して戦闘を停止させようとする日本総領事林と日本領事森島とのあらゆる努力を斥けた。日本人の間でさえ、この『事件』は日本側によって計画されたのであると信じていたものがあった。事件が起こってから1年の後、天皇が『事件』は風説通り日本の計画の結果であったかと質問している事実さえ現われている。裁判所は日本側の主張を却下し、1931年9月18日のいわゆる『事件』は、日本人によって計画され、また実行されたものであると認定する。

 中国において戦争を行なうための準備は、関東軍に限られてはいなかった。日本内地では、これから起こる出来事をいかにも予期していたかのように、1931年8月1日に、異常な人事の異動があった。大島、小磯、武藤、梅津、畑及び荒木のように、信頼されていた将校が、この人事の異動に含まれていた。大島は参謀本部の課長、陸軍技術会議議員、及び軍令部との連絡将校に任命され、小磯は中将に任ぜられ、武藤は陸軍大学校兵学教官を免ぜられて、参謀本部員となり、梅津は参謀本部総務部長となり、畑は中将に進級し、砲兵監に、また第14師団長に補せられ、荒木は教育総監部本部長に任ぜられた。

本庄中将が奉天で指揮をとる (原資料41頁)

 板垣大佐は、現地の先任参謀として、奉天で『事件』中実際の指揮にあたっていたが、本庄中将が1931年9月19日の正午に奉天に到着するに及んで、これによって代わられた。本庄中将は『奉天事件』を『満州事変』として知られるに至ったものにまで急速に拡大した。

 本庄は、奉天を攻撃した第二師団に訓示を与えた後、1931年9月18日午後9時ごろ旅順に帰着した。本庄は奉天の戦闘の第一報を午後11時ごろ一通信社から受け取った。かれは直ちに旅順の関東軍司令部に赴き、それですでに立てられた作戦計画に従って行動するように命令を発した。証拠によれば、9月18日の夜半を数分すぎたとき、戦闘がさらに拡大したことと、中国軍が増援部隊を送っていることが報告された。たといこのような意味の電報が接受されたとしても、中国軍が増援部隊を送りつつあったという話は、事実無根であった。中国軍は、日本軍の攻撃によって、総退却をしていたのである。本庄の幕僚は、『日本の全武力を動員して、できるだけ速やかに敵の死命を制しなければならない』と進言した。本庄は『よろしい、そうしよう』と答えた。満州の全日本軍を出動させる命令が直ちに発せられ、朝鮮の日本軍は規定計画に従って増援部隊を送るように依頼され、かつ第二艦隊が営口に向けて出航するよう要請された。これらの命令によって、満州の全日本軍と朝鮮にあった日本軍の一部とは、1931年9月18日の夜に、長春から旅順に至る南満州鉄道の沿線全地域にわたって、ほとんど同時に行動を起こした。

 奉天に到着すると同時に、本庄中将は停車場に司令部を置き、中外に膺懲の戦を行なう旨を宣明した。

関東軍の行動を、南は認めた (原資料42頁)

 陸軍大臣南は関東軍の行動を承認し、政府の効果的な干渉を阻止するために、関東軍と内閣との間の緩衝の役割をつとめた。1931年9月19日午前3時ごろ、奉天の特務機関からの電報によって、かれは同地の情況に関する情報を受け取った。総理大臣若槻は、1931年9月19日の朝、6時から7時の間に、南からの電話によって、初めてこの戦闘のことを聞いた。総理大臣は閣議を午前10時に開くことにした。南は陸軍省軍務局長小磯中将を参謀本部と内閣との連絡将校として出席させた。閣議で、南は中国軍が奉天で日本軍に発砲し、日本軍はこれに応戦したと報告した。南は日本軍の行動を『正当な自衛権の発動』であると述べた。そこで、内閣は『事件』の上拡大方針を決定した。同日の午後1時30分に、総理大臣は天皇のもとに赴き、状況と内閣の決定を報告した。天皇は、陸軍が事態をこれ以上拡大せず、軍が優勢になり次第行動を打ち切るということに同意した。『事件』の拡大を防止するという政府の決定を関東軍司令官に伝達するためであると言って、南は橋本中佐と参謀本部付きの将校2吊を奉天に派遣した。

 陸軍を抑制することはできなかった。総理大臣は、『事件』の上拡大方針実施を励行するについて、援助を求めるために必死になって奔走したが、成功しなかった。陸軍を抑制する方法を見出そうとして、1931年9月19日の夜8時30分に、総理大臣は宮内大臣の官邸で会合を開いた。それには、元老西園寺公の秘書原田男、内大臣秘書官長木戸、侍従長、侍従次長及び侍従武官長その他が出席した。この際の唯一の提案は木戸が出したものであり、かれは毎日閣議を開いてはどうかといった。この提案は、後になって、何の効果もないことがわかった。というのは、閣議のたびに、陸軍大臣南は、『戦略上と戦術上』の理由から、さらに一定の距離まで日本軍は中国軍を中国領土内に追撃する必要があったこと、このような行動は単に『保護的』な手段であって、どのような意味でも拡大されることはなかろうと報告したからである。しかし、ちょうどこのときに、中国側は宋子文外交部長を通じて、紛争がさらに拡大するのを防ぐために、日本人と中国人の双方からなる強力な委員会を組織することを提案した。重光はこの提案を外務大臣幣原に報告するにあたって、他の理由はとにかく、『事件』に関する日本の立場を強めるだけのためにも、この提案を受け入れた方がよいと進言した。その当時の規則では、朝鮮軍が朝鮮以外の地域で作戦を始めるには、天皇の裁可が必要であったが、それにもかかわらず、天皇の裁可なしに、朝鮮国境の新義州に集結していた兵力四千と砲兵からなる第20師団の第39混成旅団は、1931年9月21日に、鴨緑江を渡って満州に入り、その日の夜半ごろ奉天に到着した。それにもかかわらず、1931年9月22日に、内閣はこの行動のために要した経費を支出することを決定し、後になって、この出動に対する天皇の裁可を得た。この出動について、南は内閣に報告していなかった。1931年9月22日の閣議で、陸軍の侵略の続行を許したことについて、南はさらに言い訳をした。総理大臣若槻が言ったように、『拡大は日を逐うて続けられ、自分は陸軍大臣南と幾度か会議しました。自分は毎日地図を示されました。そして南は、軍が今後越えないはずの境界線を示すのでありました。そしてほとんど日毎にこの境界線は無視され、さらに拡大されたことが報ぜられました。しかしいつもこれが最後の行動であるとの保証がついて《いたのであった。

 天皇は内閣の上拡大方針を承認したけれども、天皇がその側近者に動かされて、このような意見をもつようになったことに対して、陸軍は憤慨しているという話が原田男邸の会合で出た、と木戸はその日記に記している。この会合に出席した人々は、内閣の方針に関して、天皇はこれ以上何も言わない方がよかろうということ、また、元老西園寺公は、かれに対する軍部の反感がさらに激しくなるのを避けるために、東京にいない方がよかろうということにきめた。このようにして、南の連絡官小磯による南と参謀本部との有効な協力によって、政府は『奉天事件』がさらに拡大することを阻止しようとする決定を励行することができなくなった。この点は、関東軍のとった行動を是認していたということを、日本の降伏後に、南がみずから認めたことによって確認されている。

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