歴史の部屋

奉天に帰還した土肥原大佐 (原資料45頁)

 満州で『事件』が起こったときには、土肥原大佐はすでに、参謀本部に対する報告を終え、懸案中のすべての『満州問題』を、できるだけ早く、武力によって解決しなければならないと進言した上、満州に『王道』を基礎とした新国家を組織するのに主要な役割を演ずるために、奉天の特務機関に帰任する途中であった。中国とその国民についての土肥原の広汎な知識は、次々に現われた中国の軍指導者の軍事顧問として、約18年間にわたって、現地の政治に実際に参加して得られたものであって、これによって、かれは他のいずれの日本陸軍将校にもまさって、『奉天事件』を計画し、実行し、利用するについて、全般的な助言者と調整者としての役を果たすのに適任者となったのである。これが土肥原によって演じられた役割であったことは、疑うことができない。かれが中国を視察旅行し、参謀本部に報告する前に奉天にしばらく滞在したこと、『事件』が発生する直前に奉天に帰還したことは、その後のかれの行動と併せて考えてみるならば、われわれはどうしても右の結論に達するほかはない。


奉天市長としての土肥原大佐

 遼寧省の臨時政府を組織することは、奉天が遼寧省の中心であり、また戦闘中有力な中国人がほとんど全部錦州に遁れ、そこで省の行政を続けていたために、困難なことであった。同省の省長であり、奉天に留まっていた中国の将軍臧式毅(ぞう しきき)は、新しい臨時政府の樹立について、日本と協力することを拒絶した。このために、かれは直ちに逮捕され、投獄された。このように、中国人側が協力しないことによって、その意図を妨げられた日本軍は、1931年9月21日に、土肥原大佐を奉天市長に任ずる布告を発した。かれは、主として日本人からなるところの、いわゆる『非常時委員会』を使って、同市の施政を始めた。1931年9月23日までには、土肥原は同市の完全な支配者になっており、奉天に来た新聞記者によって、かれは日本軍司令部にいて、陸軍の政治的代表者かつ代弁者としての役をつとめていることを発見された。このときから、東三省の臨時政府を組織することは着々と進行した。1931年9月23日に、煕洽(き こう。愛新覚羅氏出身。すなわち満州族)中将は吉林省の臨時政府を組織することを要請され、その翌日、袁金鎧(えん きんがい。張作霖の部下だった人物)氏を『治安維持委員会』の主席とする遼寧省の臨時政府が組織されたことが発表された。日本の新聞は、これを分離運動の第一歩として賞賛した。


自治指導部

 自治指導部は、奉天の日本陸軍によって、1931年9月の後半に組織された。指導部の目的は、独立運動を起こし、満州全土にこれを拡めることであった。板垣大佐は参謀部の中の、指導部を監督する課を担当していた。土肥原大佐は、特務機関長として、中国人に関する一切の必要な秘密情報を指導部に提供した。指導部の部長は中国人であったけれども、指導部に使用されていた職員の約9割は満州に住んでいた日本人であった。

 煕洽将軍は日本側の招請を受諾し、政府機関と日本人顧問の会合を招集し、9月30日に日本陸軍の保護のもとに吉林省の臨時政府を樹立する宣言を発した。

 特別区行政長官張景惠将軍も、1931年9月27日に、『特別区非常時委員会』の組織を討議するために、ハルビンのかれの事務所で会議を開いた。

 本庄中将は、吉林省の間島(かんとう)という町で起こった些細な出来事を口実にして、日本はもはや張学良元帥の政府を認めず、張の勢力が完全に破壊されるまで、軍事行動を停止しないという発表をした。

抗議と誓約 (原資料47頁)

 中国は国際連盟に満州における日本の行動に対する抗議を申し入れた。この抗議は1931年9月23日に提出された。連盟理事会は、日本政府から、日本は鉄道付属地帯にその軍隊の撤収を開始し、かつこれを続行するものであるという誓約を与えられた。この誓約によって、1931年10月14日に再開されるまで、理事会は休会した。

 アメリカ合衆国もまた満州における戦闘に対して抗議し、1931年9月24日に、既存条約の規定に対して、日本と中国双方の注意を喚起した。その日の閣議の後に、ワシントンの日本大使はアメリカの国務長官に通牒を手交した。この通牒の中には、他のいろいろのことと共に、次のようなことが述べられていた。『日本政府が満州でなんらの領土的意図を抱くものでないことは、あえて繰り返す必要がないであろう。』


十月事件

 国際連盟と合衆国に与えたこれらの誓約は、内閣と陸軍との間には、満州における共通の政策について、意見の一致がなかったということを示した。この意見の相違がいわゆる『十月事件』を引き起こした。これは政府を転覆するクーデターを組織し、政党制度を破壊し、陸軍による満州の占領と開発の計画を支持するような新政府を立てようとする参謀本部のある将校たちとその共鳴者との企てであった。この陰謀は桜会を中心としていた。その計画は、政府首脳者を暗殺することによって、『思想的と政治的の雰囲気を廓清(かくせい。悪いものをすっかり取り除くこと)』することにあった。橋本がこの一団の指導者であり、陰謀を実行するために、必要な命令を与えた。橋本は、荒木を首班とする政府を立てるために、1931年10月の初旬に、自分がこの陰謀を最初に考え出したということを認めた。木戸はこの叛乱計画のことをよく知っていた。かれの唯一の心配は、広汎な損害や犠牲を防止するために、混乱を局限する方法を見出すことにあったようである。しかし、根本という中佐は、警察にこの陰謀を通報し、陸軍大臣がその指導者の検挙を命じたので、この陰謀は挫かれた。南がこの叛乱に反対したという理由で、白鳥はかれを非難し、満州に新政権を立てるために、迅速な行動をとることが必要であり、もし南がこの計画に暗黙の承認を与えたならば、『満州問題』の解決を促進したであろうと断言した。

 全満州を占領し、そこに傀儡国家を建設しようとする関東軍の計画を実行するについて、もし東京の中央当局がこれを支持しなかったならば、関東軍は日本から独立すると宣言して、その計画を進めるであろうという意味の風説が、『十月事件』の失敗後に伝えられた。この脅迫は、政府とその態度に、変化をもたらすのに効果があったようである。

 陸軍省は報道の検閲を開始した。また、陸軍将校は、陸軍省にとって不満足なことを書いたり、出版したりした著述家や編集者を訪れて、このような記事は陸軍省にとって面白くないものであると忠告した。編集者や著述家が陸軍省の意見に反するような意見を発表すると、暴力団がこれを脅迫した。

溥儀を即位させる決定 (原資料49頁)

 日本政府の態度のこの変化の後に、板垣大佐と土肥原大佐は、清国の廃帝ヘンリー・溥儀を満州に帰し、その皇帝として即位させることに決定した。これは、ヤング・マーシャル張学良と蒋介石大元帥との結合によって、次第に強力になりつつあった張学良元帥の勢力に対して、対抗するための非常手段であった。日本陸軍の保護のもとに動いていた新しい臨時政府は、徴税機関と金融機関を接収することに成功し、改組によってその地位をさらに強化したが、張元帥が依然として人気があったので、相当な困難を感じていた。関東軍参謀部は、その樹立した臨時政府が張元帥と共謀することをおそれるようになった。そこで、板垣と土肥原の両大佐は、清国廃帝ヘンリー・溥儀の名目上の指導のもとに、黒龍江、吉林、遼寧の東三省を統合することによって、独立国家を組織することに直ちに着手することを決定した。


土肥原大佐、溥儀の満州復帰に乗り出す

 溥儀を満州に復帰させるために、土肥原は板垣によって天津に派遣された。板垣は必要なすべての手配をして、土肥原に明確な指示を与えた。その計画は、満州の一般民衆の要望に応えて、溥儀は再び皇位につくために帰ってくるのであって、かれが満州に帰ってくることに、日本は何の関係もないが、一般民衆の要望に反するようなことは、何もしないというように見せかけることになっていた。この計画を実行するには、営口の港が結氷する前に、溥儀をそこに上陸させることが必要であった。そこで、1931年11月16日以前に、かれがそこに到着することが絶対に必要であった。

 外務大臣幣原は、溥儀を満州に帰らせる企てを知って、天津総領事にこの計画に反対するように訓令した。1931年11月1日の午後に、同総領事は訓令された通りに土肥原に連絡し、かれに計画を放棄するように説得するために、自分でできる限りの、あらゆる手段を試みた。しかし、土肥原はすでに決意を固めていたので、もし皇帝が自身の生命を賭しても満州に帰ることを厭わないならば、計画を断行すること、しかし、もし皇帝が厭うならば、そのときは、皇帝にとって将来このような機会はないであろうという捨て台詞を残して別れ、奉天の軍当局に対して、この計画は成功の見込みがないから、自分は他の方法を考えるという趣旨の電報を打つということを述べた。

 1931年11月2日の夕方に、土肥原は溥儀を訪問して、次のことを伝えた。溥儀の即位にとって情勢は有利であって、この機会を逸してはならないこと。溥儀はぜひとも1931年11月16日以前に満州にあらわれなければならないこと。もしかれがそうしたならば、日本はかれを独立国の皇帝として承認し、その新国家と秘密攻守同盟を結ぶこと。もし中国の国民党軍が新国家を攻撃するならば、日本軍はそれを撃破するであろうこと。これに対して、溥儀は日本の皇室がかれの復帰に賛成していると聞かされると、土肥原の勧告に喜んで従いそうに見えた。

 総領事は土肥原を思い止まらせるように努力を続けたが、効果はなかった。土肥原は、ある場合に、政府が溥儀の復帰を阻止するような態度に出るならば、それは不届き千万であって、万一そういうことになったら、関東軍は政府から離れて、どんな行動に出るかわからないと嚇かしたこともあった。

 溥儀の満州復帰の条件を取り極めるにあたって、土肥原は多少の困難に直面した。上海の一中国新聞は、1931年11月2日付の天津発の記事で、計画の全貌を発表し、溥儀は土肥原の申し出を拒絶したと称した。溥儀の決意を早めるために、土肥原はあらゆる陰謀術策を用いた。溥儀は果物籠にかくされた爆弾を受け取った。『鉄血団本部』やその他の方面からの脅迫状も受け取った。最後に、土肥原は1931年11月8日天津に暴動を起こさせた。これは、かれが板垣から提供された武器を与えたところの、ある下層階級の徒輩、秘密結社及び同市の無頼漢を使って起こさせたものである。日本の総領事は、幣原の命令を実行する新たな試みとして、中国側の警察に対して、暴動が差し迫っていることを警告した。あらかじめ警告を受けていたので、中国側警察は暴動が完全に成功するのを阻止することができた。しかし、暴動は天津を混乱に陥れるに至った。

 この混乱が続いて、1931年11月10日の夜、暴動の最中に、機関銃の装備を持った護衛付きの自動車で、秘密のうちに、土肥原は溥儀をその住居から埠頭に移し、そこで数名の私服護衛と4,5名の日本兵とともに、日本の小型軍用ランチに乗り込み、塘沽に向かって河を下った。塘沽で一行は営口に向かう淡路丸に乗った。溥儀は1931年11月13日に営口に到着し、その日湯崗子(とうこうし。温泉地帯で、満州三温泉地の一つに数えられ、現在は中国四大温泉治療保養地に数えられているそうである)に連れて行かれ、そこで日本の陸軍によって対翠閣(たいすいかく。温泉旅館。ネット上に画像を見つけたので、下部にリンクをはっておく)という宿屋に保護監禁された。脅迫状や天津の暴動の結果、溥儀は生命の危険を避けるために脱出したように見せかける試みがなされた。疑いもなく、これらのことが、土肥原の出した条件に溥儀が承諾するのを促進するようになった。

溥儀の即位延期 (原資料54頁)

 国際連盟における日本の立場がさらに悪化するのを防ぎ、また討議中の理事会における日本全権を有利な立場に置くために、関東軍に対して、南は溥儀の即位を遅らせるように勧告した。1931年11月15日に、かれは本庄中将に電報を送って、次のように述べた。『特に連盟の空気改善に努力の結果、最近ようやく好転の曙光を認め来れる時期において敢えてこの種速急なる行動に出ずるは策を得たるものにあらず。よってここしばらく溥儀をして主動たると受動たるとを問わず、政治問題に全然関係せしめざるごとく一般を指導せられたし。元来新政権樹立に関しては帝国の態度よろしきを失するにおいては、九ヶ国条約に立脚する米国の干渉又は列国会議の開催を見ることとなるを予期せざるべからず。しかも満州現下の状況においては、新政権の樹立は帝国軍の了解支持なくしては成立せざるものたるは中外の等しく認識する所なるをもって、突然溥儀が新政権樹立の渦中に入るときは、たとい形式的に満蒙民意の名をもってするも、世界の疑惑を惹起するの虞(おそれ)あり、いかなる場合においても帝国が少なくも列国を相手に法理的闘争をなし得るごとく内外形勢を誘(いざな)うこと肝要なり、この点了承しおかれたく』と。

 1931年11月20日に、陸軍は溥儀を旅順に移し、大和ホテルに宿泊させた。その説明として、湯崗子でかれがあまりに多くの好ましくない訪問者に面接していたからであるとした。土肥原と板垣は、皇后が旅順で皇帝と落ち合うように内密に取り計らった。


錦州進撃

 嫩江Nonni River 「のんこう」または「どんこう」。河の名前)橋に向かって軍隊を派遣したことは、1931年11月の初旬に、黒龍江省督軍馬占山将軍を破り、かれを東北方の海倫方面に追い払うことに成功した。その結果として、チチハルを占領し、かつ、錦州城周辺の遼寧省東南部の小部分を除いて、張学良元帥の勢力を全満州から一掃することになった。錦州を占領しさえすれば、満州の征服が完成されることになる。

 奉天から逃れた中国側の省政府は、奉天事件の後間もなく、錦州に置かれ、また、1931年10月の初めに、張学良元帥がその司令部を北平から錦州に移した。その結果として、同市は日本の占領に対する抗戦の中心地となった。日本の偵察機は、同市の上空にしきりに飛来し、1931年10月8日には、偵察機6機と爆撃機5機が同市の上空に飛来して、爆弾約80箇を投下した。

 土肥原大佐がつくり上げた騒動や暴動は、関東軍参謀に対して、天津の日本駐屯軍を増援し、同地の日本租界を保護するために、天津に軍隊を送るについての口実を与えた。これらの暴動の最初のものは、すでに前に述べたように、1931年11月8日に起こったのであるが、1931年11月26日には、新しい一連の騒擾が始まった。土肥原大佐は中国人の無頼漢と私服の日本人を使って、天津の中国人区域に騒動を起こさせるために、日本租界内でこれらの者を行動隊に組織した。26日の夜、猛烈な爆発の音が聞こえ、すぐそれに続いて、大砲、機関銃、小銃の射撃があった。日本租界の電燈は消され、租界から私服を着た者が現われ、付近の警察署に向かって発砲した。

 増援部隊を満州から天津に移動させるにあたって、最も便利な経路は、海路によるものであった。しかし、陸路は錦州城を通っていたから、この方に明らかな戦略的利点があった。そして、錦州を経由する出動は、同市に攻撃を加え、そこに集結していた張学良元帥の軍隊を一掃するための口実を与えることになるのであった。

 中立的な観察者は、錦州への進出を予期していた。1931年11月23日に、この問題に関する会談で、外務大臣の幣原は、東京のアメリカ大使に対して、自分と総理大臣、陸軍大臣南、参謀総長との間に、錦州に対しては戦闘行為を行なわないことに意見が一致したと言明した。しかし、26日の夜の土肥原による暴動は、1931年11月27日の朝に、このような進出を促進した。表面上は、天津で包囲されているといわれる日本駐屯軍を救援するという目的で、しかし、実際には、錦州から張学良元帥を駆逐するという意図をもって、軍隊輸送の一列車と飛行機数機が遼河(りょうが)を渡った。日本軍がさらに進出するための、あらゆる口実を除くために、張学良元帥がすでにその軍隊を長城の南に撤退し始めていたので、日本軍はほとんど抵抗を受けなかった。それにもかかわらず、進撃は続けられ、日本の飛行機は繰り返し錦州を爆撃した。アメリカの国務長官は、最近アメリカ大使に与えられたばかりの、錦州に対しては戦闘行為を行なわないという誓約の違反に対して、抗議を申し込んだ。1931年11月29日になって、参謀総長から、本庄に対して、その軍隊を新民の付近の地点に呼び返せという命令を出し、これによって、右の誓約が遅まきながら不承々々に尊重された。

連盟の調査委員会任命 (原資料57頁)

 国際連盟理事会は、すでに約4週間にわたって会合を開き、日華紛争を審議していたが、1931年12月10日に、日本代表の提案を受け入れ、現地で事態を調査するために、満州に調査委員会を送ることを決議した。理事会の決議は、委員会が5名の中立国委員からなり、この委員会を助けるために、中国と日本は各1名の参与員を任命する権利を与えると規定した。

 決議の第2項は、次の通りであった。『(2)10月24日の理事会以来、事態更に重大化したるに顧み、両当事国がこの上事態の悪化するを避くるに必要なる一切の措置を執るべきこと及びこの上戦闘もしくは人命の喪失を惹起することあるべき一切の主動的行為を差し控うべきことを約することを了解す。』

 日本はこの決議を受諾するにあたって、決議第2項に関して留保をつけ、『本項は満州各地において猖獗を極むる匪賊及び不逞分子の活動に対し日本臣民の生命及び財産の保護に直接備うるに必要なるべき行動を日本軍が執ることを妨ぐるの趣旨に非ずとの了解の下に』本項を受諾すると述べた。

 中国は、満州における中国の主権が侵害されないということを留保として、この決議を受諾した。

 右に引用した第2項に含まれた約定と指令に関して、中国は次のように声明した。『本決議が終息せしむることを真に目的となしたる事態より生じたる無法律状態存在の口実の下に右の指令を破るべからざることは、これを明白に指摘せざるべからず。現に満州にある無法律状態の多くは、日本軍の侵入によりて生じたる平常生活の中絶によるものなることを述べざるべからず。通常の平和的生活を回復する唯一の確実なる方法は、日本軍隊の撤収を迅速ならしめ、かつ中国官憲をして治安の維持の責任を負わしむることにあり。中国はいかなる外国の軍隊によるその領域の侵入及び占領をも許容することを得ず。いわんや右軍隊が中国官憲の警察職権を冒すことを寛容することにおいてをや。』

 日本の留保に対する中国の反対留保にもかかわらず、日本側は、自国のなした留保は、日本に対して、満州に軍隊を維持する権利を与え、また匪賊行為を弾圧する責任を負わせたものであると主張した。匪賊行為を弾圧するという口実のもとに、日本は満州占領を完成するための歩を進めた。リットン委員会の言葉をかりていえば、『日本がジュネーブにおいて留保をなしたる上、引き続きその計画により、満州の事態を処理したる事実が存す』るのである。

 1932年1月14日に至るまでは、この委員会はその委員の全員が揃っていなかった。リットン卿(イギリス)が委員長に選ばれ、この委員会はリットン委員会と呼ばれるようになった。


若槻内閣は辞職のやむなきに至った

 総理大臣若槻とその外務大臣幣原が、『友好政策』と『不拡大方針』を実行しようとして続けた努力は、軍部とその共鳴者の間に甚だしい反対を巻き起こしたので、同内閣は1931年12月12日に辞職するほかはなくなった。総理大臣若槻は次のように証言した。『「満州事変」を拡大しないようにと内閣が決定していたにかかわらず、それが拡大していったということは事実であります。色々な方法が試みられましたが、その中の一つは、私の希望では関東軍の行動を抑制できるような連合内閣を作ることでした。しかし、色々な故障のために、それは実現せず、そのため内閣が辞職したわけであります。』


犬養内閣

 犬養内閣は、荒木を陸軍大臣として、1931年12月13日に組閣された。日本憲法によって、後任の陸軍大臣を詮衡(せんこう。選考のこと)する任務を持っていた陸軍三長官、すなわち辞任した陸軍大臣南、参謀総長及び教育総監は、阿倍を陸軍大臣に選んだ。しかし、荒木が陸軍の急進分子の間に人気があったので、かれらは、犬養のもとに行って、かれの任命を要求した。荒木大将は陸軍大臣に任命された。総理大臣犬養は、元老西園寺に、日本の政治は陸軍だけによって支配されてはならないという天皇の希望を実行するつもりであると話し、かつ、満州における関東軍の侵略政策を終わらせる政策を採用したけれども、陸軍大臣荒木はこの政策と同調しなかった。以前に張学良の治下にあった東四省を占領平定すべきであるという本庄司令官の計画に、荒木は賛成したのである。降伏の後、巣鴨拘置所における訊問中に、かれはこれが事実であったことを認めた。かれの最初の行動は、内閣と枢密院において、この計画を実行するための予算の承認を得ることであった。

本庄と板垣は本庄の計画を遂行するために動いた (原資料61頁)

 東四省の占領と平定の計画に同意していた荒木を陸軍大臣として犬養内閣が成立したことは、関東軍にとっては、この計画遂行の合図であった。臨時遼寧省政府を強化するために、板垣は素早く行動した。奉天の西方に部隊の集結が開始された。この部隊は、錦州と天津へ進出するために、待期しているのであった。この計画を実行するために、詳細な手配を行なうについて、板垣は荒木を援けるために上京の準備をした。

 日本の侵入軍との協力を拒否したという理由で、1931年9月21日以来監禁されていた臧式毅(ぞうしきき。121の記事で「威式毅」としていた。訂正する)将軍は、食物を与えられないので遂に屈服し、余儀なく臨時遼寧省政府主席の任命を受諾することを承知した。1931年12月13日の夜、かれは監禁をとかれ、板垣と会見してから、1931年12月15日に、正式に省長として就任した。監禁中絶食させられた結果として、かれは非常に神経質になり、衰弱した状態にあったので、就任式中、かれの写真を撮影するにあたって、撮影者が閃光電球を割ったときに気絶した。臧式毅将軍の就任は、全満州省長会議の下準備であった。そして、関東軍はこの会議の準備を急いでいた。

 錦州に進出するための部隊の集結は、1931年12月10日に始まり、15日までに完了していた。しかし、この進出は、陸軍大臣荒木の承認が得られ、経費が支給されるまでは、開始することができなかった。

 すべての準備が完了したので、本庄司令官は、満州は中国から独立させなければならないという意見を政府に伝えるために板垣を東京に派遣した。陸軍大臣荒木は直ちに本庄の計画を支持し、完全な独立こそ『満州事変』解決の唯一の途であると言った。しかし、この計画に対して、相当な反対のあることがわかり、かれがこの計画の承認を受けることは、なかなか困難であった。この問題は、ついに1931年12月27日の御前会議で天皇に提示され、荒木は次のように述べた。『我々は直ちに奉天省に軍隊を派遣することを決定しました。主要なる計画は総司令部に対する陸軍省の命令で作成されました。そして総司令部は作戦に要する軍隊派遣の手続を執りました。』少なくとも板垣の使命の一部は、ここに達成されたのである。

 錦州に進出するこの決定がなされた日に、外務次官は、東京のアメリカ大使に、日本は連盟規約、ケロッグ・ブリアン条約、その他の条約に悖らない決意であり、満州の事態に関して、連盟理事会が採択した2つの決議に従うと述べた覚書を手交した。


錦州陥落の後に満州は完全に占領された

 すでに述べたように、関東軍はジュネーブでなされた留保を盾にとって、依然として計画通りに満州を処置していった。中国外交部長は、錦州攻撃が目前に迫っていることを知って、残った中国部隊の全部を万里の長城の南へ撤退させることを申し入れ、それによって、さらに戦闘の続けられるのを防ぐために、最後の懇請を行なった。しかし、この懇請は無効に終わった。そして、1931年12月23日に、関東軍はその行動を実際に開始した。中国軍は、その陣地を放棄するほかなくなった。その日から、前進は整然と行なわれ、中国軍司令官が総退却の命令を発していたので、ほとんどなんらの抵抗も受けなかった。錦州は1932年1月3日の朝占領され、関東軍は一気に山海関まで前進を続け、万里の長城の線に達した。

板垣は使命を完了して奉天に帰った (原資料63頁)

 木戸は1932年1月11日の日記に、板垣が満州に傀儡国家を樹立する計画の承認を得ていたことを記している。その日の記事には、次のような部分がある。『今朝10時半、宮城内講書の間に接する溜りの間において余は陛下の側近者とともに、板垣大佐から満州及び蒙古における情勢について聞いた。板垣大佐はまず満州及び蒙古における兵匪討伐の進捗情況と満州における新国家建設の進捗情況について説明した。板垣大佐は、満州は新しい統治者の下に置かれるだろうということ及び日本軍は新満州国の国防を担当するであろうという事について暗示を与えた。板垣大佐は更に日本人は新国家の運営に政府の高官として参加するということを説明した。』板垣は中国兵のすべてを『兵匪』と呼ぶのをいつもの慣例にしていたが、ここでもそれに従っていたことがわかるであろう。ジュネーブでなされた留保を援用する口実が再び用いられた。

 奉天へ帰る途中で、板垣大佐は、かれと木戸との会談の中に挙げられた新しい統治者を訪れた。旅順で溥儀を訪問している間に、溥儀に対して、板垣は次のようにいった。『中国軍閥を追い払い、東三省の人民の社会的な福祉をはかるために、われわれは喜んで満州に新しい政権を樹立する用意がある。』板垣は溥儀がこの新政権の首班となることを提案したが、満州政権が樹立されると同時に、日本人を顧問及び官吏として雇用することを要求した。


独立運動が強くなった

 錦州が陥落した後、特に土肥原がハルビン特務機関長として勤務していた北満州で、独立運動が進展した。1931年11月19日に、日本軍がチチハルを占領し、馬将軍の兵力を海倫方面に走らせた後、黒龍江省に例の型の自治会が設立され、1932年1月1日に、張景惠将軍が省長に就任した。張景惠将軍は、張学良元帥が完全に敗北し、錦州から放逐されたのを知って、奉天の自治指導部の要請を入れ、黒龍江省の独立を宣言した。この宣言は1932年1月7日に発表された。その同じ日に、自治指導部は布告を発した。これは1月1日にすでに準備されていたものであるが、発表の適当な時期がくるまで、保留されていたものである。この布告は、人民に対して、張学良元帥を倒し自治会に参加するように訴えた。布告は『東北の諸組織よ、団結せよ!』という言葉で終わっている。この布告は5万枚散布された。自治指導部部長干冲漢氏と遼寧省長臧式毅氏は、2月に樹立されることになっている新国家のための計画を立てていた。中国から独立するというこの考えは、1931年9月18日の『奉天事件』以前は、満州では大衆の支持を受けていなかった。この考えは、板垣と土肥原の両大佐を指導者とする日本の文官と軍人の一団によって構想され、組織され、遂行されたことは明らかである。日本軍がその権力を行使するために駐屯していたこと、すべての重要な中心的都会に日本領事が駐在していたこと、並びに日本側が管理していた自治指導部が統合の効果をあげたことは、この一団の人々に対して、右のいわゆる独立を引き起こし、後には新しい傀儡国家を支配するための、不可抗的な圧力を行使する手段を与えた。独立運動と中国人の協力者とは、ただ日本の武力だけを後ろ盾としていた。

日本による追加的誓約 (原資料66頁)

 1932年1月7日、張景惠将軍が黒龍江省の独立を布告した日に、アメリカの国務長官は、東京のアメリカ大使に対して、日本政府に通牒を手交することを訓令した。この通牒の中で、国務長官は、中国における合衆国またはその市民の条約上の権利を害したり、中国における『門戸開放』の伝統政策に違反したり、パリ条約(付属書B−15)の義務を侵害したりするような、いかなる事実的辞退の合法性も認めないし、締結されたいかなる条約や協定も承認しないことが合衆国の意思であるとし、このことを日本と中国に通告することが合衆国政府の義務であると考えると述べた。

 この通牒に対する回答は、1932年1月16日までなされなかった。日本の通牒は、ワシントン条約及びケロッグ・ブリアン条約(付属書B−15)の全面的な、完全な遂行を確保しようとする日本の努力を支持するために、合衆国が全力を尽くしてくれることを日本はよく承知していると述べた。この日本側の通牒は、さらに続けて、中国における『門戸開放』主義は、日本がこれを確保することのできる限り、常に維持されるであろうと述べた。われわれが右に述べた満州における日本の軍事行動に鑑みれば、この日本の通牒は、偽善の傑作であった。


橋本はこの誓約に反対した

 その翌日に、条約を守り、中国における『門戸開放』を維持するということの政策に対して、明らかに異議を唱えた論説を、橋本は雑誌太陽大日本に発表した。その論説の表題は『議会制度の改革』というのであった。この論説の中で、橋本は次のように述べた。『責任政治==政党内閣==は全く憲法背反である。それは建国以来昭呼として定まれる、しかしてまた欽定憲法上儼乎として動かし得ざる・・・・「天皇(天皇に傍点あり)」政治を無視する民主政治である。我々は彼等の恐るべき反国体的政治思想とその積悪的罪業を思うとき、明朗なる新興日本建設のために、彼等既成政党をまず血祭りに挙げて、その撲滅を図ることが何よりも急務なりと信ずる。』


土肥原が馬占山将軍と交渉した

 馬将軍が日本軍によってチチハルから放逐され、黒龍江省を統治するために、海倫にその首都を設立した後、土肥原大佐はハルビンにおけるかれの特務機関事務室を本拠として馬将軍との交渉を始めた。馬将軍の態度は、いくぶん曖昧であった。かれは土肥原との交渉を続けたけれども、依然として丁超将軍を支持していた。丁超将軍は、熙洽将軍を名目上の首班とし、関東軍によって吉林省に樹立された傀儡政権を絶対に認めず、熙洽将軍に対抗する軍隊を組織した。馬将軍は丁超将軍を支持したばかりでなく、これらの両将軍は、かれらに援助を与えてくれた張学良元帥及び蒋介石大元帥と、ある連絡を保っていた。

 土肥原大佐は、馬将軍を強いて協調させるために、熙洽将軍に対して、ハルビンに前進し、海倫方面に進撃することを要求した。1932年1月の初旬に、ハルビンを占領する目的で、熙洽将軍は北方への遠征の準備をした。丁超将軍は熙洽将軍のいた場所とハルビンの中間にいた。熙洽将軍は1月25日に雙城へ前進した。しかし、張学良元帥は馬と丁超の両将軍にそれ以上交渉を続けないように命令した。そして、戦いは26日の朝開始された。土肥原は馬と丁超の両将軍を脅迫する企てに失敗し、その上困ったことには、かれの盟友熙洽将軍が丁超将軍の攻撃を受けて重大な敗北を蒙りつつあった。そこで、熙洽将軍を援けるために、土肥原は関東軍に依頼することを余儀なくされた。このことを正当化するために、土肥原大佐はハルビンでかれの『事件』をもう一つつくり上げた。これは裏面工作による暴動であって、その間に日本人1名と日本の臣民である朝鮮人3名が殺害されたと言われている。日本軍の大部分は、錦州への前進に使用されるために、北満から撤収されていた。しかし、第二師団は休息のため奉天に還っていた。第二師団は熙洽将軍を救援せよとの命を受け、1月28日に列車に乗ったが、運輸上の支障で、いっくらかの地帯を来した。そのために、丁超将軍はチチハル市政府を抑え、黒龍江省の傀儡省長を勤めていた張景惠将軍を逮捕する時間を得た。

南の講演 (原資料68頁)

 熙洽将軍を援助するために、増援隊が列車に乗せられていたとき、東京では、軍事参議官の南が天皇の前で講演した。かれの講演題目は、『満州の近情』であった。木戸は陪聴して、それを記録した。南が結論として天皇に披瀝したものは、次の通りである。(1)日本は満州に樹立される新国家の国防を担当し、吉会鉄道を完成し、日本海を湖水化して北満洲への進出を容易にし、これによって、日本の国防計画を一新すること。(2)日本とこの新国家とによる同地域の経済の共同経営は、日本を世界において永久に自給自足できるものとすること。(3)この新国家に屯田兵制を設けるならば、右の措置によって、人口問題が解決されること。木戸はさらに記録して、新国家が成立したときは、満州に三つないし四つもある日本の機関は、一つに統一されなければならないと考えるとしている。この考えは、後に実行されることになった。


第一次の上海侵入

 1932年1月28日の午後、南の講演が終わった後に、中国の新しい場所で戦闘が起こった。午後11時に、第一次の上海侵入の戦闘が始まった。この『事変』の発端は典型的なものであった。『万宝山事件』に続いて、朝鮮で起こった中国人排斥暴動は、上海における中国人の日貨ボイコットを引き起こした。このボイコットは『奉天事件』の後に激化し、その『事件』が『満州事変』に発展するにつれて、その激しさを加えていった。緊迫感は募り、日華両国民の間に重大な衝突が起こった。上海の日本在留民は、かれらの保護のために、日本軍の派遣を要請した。日本総領事は、中国の上海市長に対して、五つの要求を提出した。上海の日本海軍司令官は、右の市長の回答が満足でなければ、行動に訴えると声明した。1932年1月24日に、日本海軍の増援隊が到着した。中国側は上海の中国人区域である閘北(こうほく)の守備隊を増強した。1月28日に、共同租界の工部局は会合を開き、その日の午後4時をもって緊急状態を布告した。この時間に、日本総領事は、領事団に対して、中国人市長から満足な回答を受けたので行動をとらないと告げた。同日の午後11時に、日本海軍司令官は、日本海軍が多数の日本国民の在住する閘北の事態について憂慮し、同方面に派兵して淞滬(しょうこ)線停車場を占領することに決定したこと、中国軍が速やかに同鉄道以西に撤退することを希望することを声明した。閘北区域に派遣されたこれらの日本軍は、中国軍と接触するに至った。右の中国軍は、撤退しようと欲したとしても、その時間があり得なかったのである。これが上海戦の始まりである。


中国は再び連盟に提訴した

 翌朝の1932年1月29日に危急を告げた事態は、中国をして、連盟規約第10、11及び15条に基づいて、連盟にさらに提訴させることになった。上海で戦いが始まったときに、連盟理事会は開催中であった。その翌日に、中国からの提訴を受けた。


馬将軍は土肥原と交渉した

 満州において、新国家建設のために、土肥原大佐は馬将軍の支援を得ようと努め、交渉を続けていた。板垣大佐は馬将軍を『兵力を有っている価値ある人物』と認めて、チチハルの戦いの後、かれと休戦の取極めをしようと試みた。1932年2月5日に、熙洽将軍と日本軍の連合部隊によって丁超将軍が打ち破られたときまで、馬将軍は丁将軍との協力を続けた。丁超将軍が敗北した後、馬将軍は再び土肥原大佐と交渉を始めた。その間に、馬将軍の軍隊は、ロシア領を通過して、中国に逃れた。自己の軍隊が無事に中国の本土に入った後、馬将軍は土肥原より贈られた金百万ドルを受け取ったといわれている。いずれにしても、1932年2月14日に、かれは黒龍江省の省長となること、日本側と協力することに同意するに至った。

最高行政委員会

 荒木によれば、各省の省長に『最高行政委員会』を組織させて、満州における新しい国家の組織のために、勧告させようということを本庄中将は思いついた。本庄はかれの案を荒木に送り、ヘンリー・溥儀を首班として、満州を統治させるために、新しい国家をつくることを許してもらいたいと要請した。ほかにいい提案もなく、本庄の案は『満州問題』を解決するであろうと考えたので、かれの案に賛成したということを荒木は巣鴨拘置所における訊問中に認めた。本庄案を実行するにあたって、自治指導部を援助させるために、荒木はさらにいく人かの専門家を満州に派遣した。

 馬将軍と土肥原との間に意見が一致したので、自治指導部は、新国家建設の『基礎を築く』ためであると発表して、1932年2月16日に、奉天で東三省の各省長と特別区長官との会議を招集した。この会議には、黒龍江省長馬占山、特別区長官張景惠、吉林省長熙洽及び遼寧省長臧式毅が出席したが、熱河省長湯玉麟は出席しなかった。この会議の法律顧問は、土肥原に代わって奉天市長となった東京大学出身の超欣伯博士であった。

 この5名は、新国家を樹立すること、一時東三省と特別区に対する最高権力を行使する東北行政委員会を組織すること、この最高委員会は遅滞なく新国家建設のために必要な一切の準備をすることを決議した。

 会議の第2日には、最高行政委員会が適当に組織され、7名の委員によって、すなわち黒龍江、吉林、遼寧、熱河の各省長、特別区長官、並びに会議の第2日の朝これに参加した2名の蒙古王族によって構成されることになった。この新しい最高委員会は、直ちに会議に移り、次の諸決定をした。(1)新国家には共和制を採用すること、(2)新国家を構成する各省の自治を尊重すること、(3)行政長官に『執政』の称号を与えること、(5)独立宣言を発すること。その夜、『新国家の諸首脳者』のために、本庄中将は公式晩餐会を催した。これらの首脳者に対して、本庄はその成功を祝うとともに、必要の際には、援助を与えると確言した。


独立宣言

 本庄中将の晩餐会の翌朝に、すなわち1932年2月18日に、最高行政委員会によって、独立の宣言が公布された。大川博士は、1939年に発行されたかれの著書『日本二千六百年史』のうちで、この宣言を論評するにあたって、『張学良政権は日本軍の神速果敢なる行動によって一挙満州から掃蕩された』と述べている。本裁判所は、証拠に基づいて、満州では独立国家を樹立しようとする民衆運動は存在しなかったものと認める。この運動は、関東軍と、関東軍によってつくられたところの、日本人を顧問とする自治指導部とによって、発起され、推進されたものである。

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