歴史の部屋

新国家の組織 (原資料73頁)

 独立宣言が発布されたので、馬省長と熙洽省長はそれぞれその省の首都に帰還した。しかし、新国家建設計画の細目を定めるために、かれらは代表を任命し、臧式毅省長、張景惠長官及び超欣伯市長と会合させた。1932年2月19日に、この一団の人々は、新政府の形態は権力分立主義に基づいて制定された憲法を有する共和制とすることに決定した。次いで、この一団の人々は、新国家の首都を長春とすることに同意し、国旗の図案を確定し、また溥儀に新国家の『執政』の任についてもらうように頼むことに同意した。

 自治指導部は直ちに各省で民衆大会や示威運動を行なうことを始めた。その際に、満州人に日本の力を感銘させるために、関東軍は分列行進を行なって威力を示し、祝砲を射った。これらの示威運動によって、適当な基礎が築かれてから、自治指導部は全満大会の招集を主唱した。この大会は2月29日に奉天で開かれた。この大会では、いろいろな演説が行なわれ、張学良将軍の旧政権を非難する決議が満場一致で採択され、溥儀を新国家の執政とする新国家を歓迎する決議も可決された。

 最高行政委員会は直ちに緊急会議を開いて、6名の代表者を選び、これを旅順に派遣して、新政府の首班となるようにという招請を溥儀に伝えた。溥儀は最高行政委員会からの最初の招請に応じなかった。そこで、1932年3月4日に、溥儀を受諾させるために、第二回の代表団が任命された。板垣大佐の勧告によって、溥儀は第二回の招請を受諾した。3月5日に代表団と会見してから、溥儀は6日に旅順を出発して湯崗子に向かい、2日後に、すなわち8日に、『満州国執政』としての礼を受け始めた。就任式は3月9日に新首都の長春で行なわれた。溥儀は、新国家の政策は道義と仁と愛を基礎とするものであると宣言した。その翌日に、日本側の提出した名簿によって、かれは政府の高官を任命した。

 溥儀の到着に先だって、超欣伯博士が相当期間準備していた法律や規則は、その採択と公布をまつばかりになっていた。これらの法規は、3月9日に、満州国政府組織法と同時に施行された。新満州国の成立の公けの通告は、1932年3月12日に、新国家の承認を列国に要請した電報の中で行なわれた。大川博士は、満州国は日本政府の承認を得た関東軍の計画の成果であって、新国家の建設はあらかじめ計画され、準備されていたから、非常に順調に行ったと述べた。溥儀は、満州国は最初からまったく日本の支配のもとにあったと述べている。


日本内閣は既成事実を承認した

 本庄案が閣議で承認されたと荒木がいったのは正しい。しかし、これは1932年3月12日になってからのことであって、そのときは、この案がすでに実施され、満州国という新国家がすでに出現した後であった。閣議が開かれて、『満州新国家成立に伴う対外関係処理要綱』が決定されたのは、1932年3月12日であった。この日は、満州国の成立を通告する電報が外国に発せられた日である。新国家に対しては、国際公法上の承認に至らない範囲で、『各般の援助』を与えるとともに、将来列強が同国を独立国として承認するように、『漸次独立国家たるの実質的要件を具備する様誘導』することが決定された。九国条約(付属書B−10)調印国からの干渉を避けるためには、その条約が保証している『門戸開放』の政策と両立し、機会均等の原則と調和する政策を満州国に宣言させるのが一番よいと考えられた。内閣はまた税関と塩税徴収機関とを接収することを決定したが、接収にあたっては、『対外関係上の支障を生ぜざる様』にすることを決定した。接収をするための一つの方法として、意見の一致を見たのは、税関吏を買収して、かれらを日系官吏とかえることであった。ジュネーブでなされた留保に従って、匪賊を討伐するという名目のもとに、満州国における軍事力を把握することが計画された。これを要するに、日本が満州を占領したことと満州に独立国家を樹立したことは、既存の条約義務の直接の違反であることを内閣は充分に知っていた。そして、表面上義務を守るように見せて、実際の違反を隠すことができるような計画を考え出そうとしていたのである。

リットン委員会の東京到着 (原資料76頁)

 全満大会が奉天で開かれていた日に、すなわち1932年2月29日に、リットン委員会は東京に到着した。かれらは東京で天皇に謁見し、日本の総理大臣犬養、陸軍大臣荒木及びその他の人々を含めて、政府と連日の会談を始めた。この連日の会談は8日間にわたって続けられたけれども、これらの官吏のうちのだれ一人として、日本が満州で新国家を建設しようとしていたことを委員会に知らせたものはなかった。委員会が東京を立ち、中国に赴く途中、京都に着いたときに、委員会は初めてこのことを聞いた。

 委員会が東京に到着した日に、荒木は小磯を陸軍省軍務局長から陸軍次官の顕職に昇進させた。


荒木は増援軍を上海に派遣した

 1932年1月28日に上海で起こった戦闘の規模が大きくなったから、海軍大臣は荒木に増援部隊の派遣を依頼しなければならなくなった。中国の第十九路軍は、その戦闘力を充分に発揮していた。多数の日本駆逐艦が黄浦江に碇泊しており、日本の飛行機は閘北を爆撃していた。日本の陸戦隊は、虹口にあったその常駐兵営を作戦根拠地としていた。そして、この兵営と虹口との間に築かれたバリケードが、両軍の間の第一線となっていた。日本の駆逐艦は零距離射撃で呉淞砲台を砲撃した。この砲台は、日本駆逐艦の備砲に応戦することができる砲をもっていなかったから、応戦しなかった。日本の陸戦隊は共同租界に隣接する諸地域に侵入し、警察の武装を解除し、市の機能を全部麻痺させた。海軍大臣がこれらの増援部隊の派遣を求めたときには、まったく恐怖時代の真っ最中であった。荒木は、かれが閣議に諮り、速やかに掩護部隊を派遣することが決定されたと述べている。その翌日、一万の将兵が高速の駆逐艦で派遣された。これらの増援部隊は、戦車と砲の充分な装備をもって、共同租界に上陸した。海軍は大型艦を並べ、市内の砲撃を始めた。しかし、1932年2月20日に始まったこの攻撃は、数日間も続いていたにもかかわらず、何も著しい成果をあげなかった。この攻撃の後に、荒木は、植田中将が大きな損害を蒙ったから、さらに増援部隊を派遣する必要があると主張して、上海を防衛していた中国軍に対抗させるために、第十一、第十四の両師団を派遣した。

国際連盟の行動 (原資料79頁j)

 国際連盟は立ち上がって行動をとり始めた。中国と日本以外の理事国は、1932年2月19日に、日本政府に宛てて、規約第10条(付属書B−6)に注意を喚起する切実な要請を送った。そして総会が招集され、1932年3月3日に開かれた。

 アメリカの国務長官は、上海のアメリカ総領事に対して、同長官がポラー上院議員に送ったところの、中国の事態に関する書簡が新聞に発表されるであろうと通知した。国務長官は、この書簡で、九国条約(付属書B-10)は『門戸開放主義』の法律的根拠をなすものであると述べた。かれはこの条約の長い歴史を述べた。この条約は、すべての締約国に対して、中国におけるかれらの権利を保証し、また、中国人に対して、かれらの独立と主権を発展させる充分な機会を保証することを目的とするところの、慎重に考慮された国際政策の現われであるとかれは説明した。イギリスの首席全権バルフォア卿が、条約の調印に列席した代表者の中に、勢力範囲が弁護されたとか、許容されるであろうとか考えたものは、一人もいないものと了解すると述べたことをかれは指摘した。パリ条約(付属書B-15)は、九国条約を強化することを趣旨としていた。これらの二つの条約は、相互に依存するものであり、一切の紛議を恣意的な暴力によらないで、平和的な手段で解決することを含めて、国際法による秩序ある発展の体制を支持するように、世界の良心と世論を一致させることを趣旨としたものであるとかれは述べた。従来、合衆国は、その政策の基礎を、中国の将来に対する不変の信頼と、中国との交渉にあたっては公正な態度、忍耐及び双方の好意を原則とすることによって、究極の成功を収めるということとに置いていたと述べた。

 イギリスの提督サー・ハワード・ケリーは、友好諸国の斡旋によって、上海の戦闘行為の停止を確保しようとする多くの試みの一つとして、1932年2月28日に、その旗艦で会議を開いた。双方の同時撤退を基礎とした協定が提案された。しかし、当事国の意見の相違のために、会議は成功しなかった。この干渉を憤慨したかのように、日本軍は中国軍の撤退した江湾西部を占領し、呉淞砲台と揚子江沿岸の諸堡壘とは再び空から爆撃と海からの砲撃を受け、爆撃機は虹橋飛行場と京滬線を含む全戦線にわたって活動した。

 連盟が総会を開くことができる前に、上海の戦闘行為を停止させるための現地取極めをするように、2月29日に円卓会議を開くことを理事会は提案した。両当事国はこの会議を受諾した。しかし、日本側が強要した条件のために、会議は成功しなかった。

 2月29日に、日本軍の最高指揮官に任命された白川大将が増援部隊とともに到着した。かれの下した最初の命令は、約百マイル隔たった杭州飛行場に対する爆撃であった。海軍の猛烈な砲撃の結果として、白川大将は徐々に前進し、3月1日における側面攻撃の後、戦闘行為停止の条件として、日本が最初に要求した20キロメートルの線の外に、中国軍を駆逐することができた。

 この『面目の立った』成功によって、日本は1932年3月4日の、連盟総会の要請を受諾することができるようになった。この要請は、両国政府に対して、戦闘行為を停止することを求め、また戦闘行為を終結させ、日本軍を撤退させるための交渉を勧告したものであった。双方の司令官が適当な命令を出し、戦闘は終わった。交渉は1932年3月10日に始まった。

 総会は紛争の調査を続け、1932年3月11日に連盟規約(付属書B-6)の規定がこの紛争に適用されるということ、殊に条約は厳重に尊重されなければならないこと、締約国は外部の侵略に対して、一切の連盟国の領土保全と政治的独立を尊重しなければならないこと、連盟国はその間の一切の紛争を平和的解決方法に付する義務があるという諸規定がこの紛争に適用されるという決議を採択した。総会は、この紛争が武力的圧迫のもとに解決されるようなことがあっては、規約の精神に反することを確認し、1931年9月30日及び同年12月10日の理事会の決議と1932年3月4日の総会自身の決議とを確認し、上海の紛争を解決するために、『19人委員会』を設立することにした。

 その義務に違反して、日本側は停戦を利用して増援部隊を送った。これらの部隊は、1932年3月7日と17日に上海に上陸した。1932年5月5日になって、ようやく完全な協定が調印を待つ運びになった。重光が日本側を代表して調印した。上海の戦闘の特徴は、日本側の極度な残忍性にあった。必要のない閘北の爆撃、仮借のない艦砲射撃、無力な中国農民が虐殺され、その死体が後になって後ろ手に縛られたまま発見されたことは、上海で行われた戦争方法の実例である。

 この事変も、目的のためには、どんな口実でも設けて、中国人に対して武力を行使し、日本の威力を中国人の肝に銘じさせようという日本の決意の一例を示すものである。この場合における武力行為の表面の理由は、上海の日本居留民のうちの一部の者から出た保護の要請であった。本裁判所は、行使された武力は、日本国民と財産に対して当時存在した危険にくらべて、まったく均衡を失したものであるという結論に躊躇なく到達する。

 当時感情がたかぶっていたこと、少なくとも一部分は満州における日本の行動によって誘致された中国人の日貨排斥の影響が感じられていたことは、疑いのないところである。一切の事実に照らしてみて、日本の攻撃の真の目的は、もし中国人の対日態度が変わらなかったら、その結果どうなるかということを示すことによって、中国人を恐れさせ、それによって、将来の工作に対する反抗を挫こうとすることにあったというのが本裁判所の見解である。この事件は一般計画の一部分であった。

満州国が傀儡として建設され、運営された (原資料83頁)

 満州国は、その執政に与えられた権限からいって、確かに全体主義国家であった。そして、執政を支配したものが国家を支配した。1932年3月9日に公布された勅令第一号は、満州国の組織法を規定した。正式な言い方をすれば、次のような構成になっていた。政府の権力は行政、立法、司法及び監察の四部にわかれていた。執政は行政長官として国家の首班であり、すべての行政権と立法院に対する拒否権とが与えられていた。行政部の任務は、執政の統監のもとに、総理と各部総長によって遂行され、総理とこれらの総長は国務院を、すなわち内閣を組織していた。総理は強力な総務庁を通じて各部の事務を監督し、総務庁は各部の機密事項、人事、会計及び用度を直裁した。国務院に従属して、立法院のような、諸種の局があった。しかし、日本の憲法にならって、立法院が開かれていないときに、参議府の助言に基づいて、執政は勅令を発布する権力をもっていた。監察院は官吏の業績を監察し、会計を検査した。立法院は遂に組織されず、従って法令は執政の勅令によって制定された。

 形式とは著しく相違して、実際上は総務庁、法制局及び資政局が国務総理の官房を形成していた。建国の後に、自治指導部は廃止され、その人員は資政局に移された。この資政局は、かねて各省と県に設立されていた自治委員会を通じて、自治指導部の仕事を継続した。総務庁は、他の何物にもまして、満州国の政治と経済の各分野を有効に実際に統御し、支配するための日本人の機関であった。

 各部総長は一般に中国人であったが、各総長には日本人の次長がついていた。満州政府の中には、憲法に規定されていない『火曜会』と呼ばれる委員会があった。火曜日ごとに、日本人の総務庁長を議長とし、関東軍参謀部の一課長も出席して、日本人次長の会合が行なわれた。これらの会合で、すべての政策が採用され、すべての勅語、勅令及びその他の法令が承認された。『火曜会』の決定は、それから総務庁に移され、そこで正式に採用され、満州国政府の法令として公布された。このようにして、満州国は関東軍によって完全に支配されたのであった。1932年4月3日に、本庄中将から陸軍大臣荒木に送られた電報の中で、本庄は次のように述べた。『満州国全領域にわたる施策は、満州国との交渉に関する限り、主として関東軍において統一して連繋実施すべきは御異存なきことと信ずるところなるが、昨今在満各官庁その他諸派遣機関の行動より見るときは、この際これを徹底せしめずんば、不統制に陥ることなしとせず。』これに対して、荒木は『対満州国施策統制に関する貴見に趣旨において同意す』と答えた。

 最初は、日本人の『顧問』は、満州国のすべての重要な官吏に助言を与えるために任命された。しかし、建国の後間もなく、これらの『顧問』は、中国人と同一の立場で、完全な官吏になった。建国の後1ヵ月を経た1932年4月には、軍政部と軍隊にいるものを除いて、中央政府だけで、200人以上の日本人が職に就いていた。大多数の局科には、日本人の顧問、理事官及び事務官がいた。監察局の一切の重要な職は、日本人によって占められていた。最後に、執政の最も重要な官吏の大部分は、宮務局長と執政護衛隊指揮官も含めて、日本人であった。執政でさえも、関東軍によってそのために任命された吉岡中将によって、『監察』されていた。これを要するに、政府と公共事務に関しては、おもな政治的と行政的の権力は中国人であったといえ、おもな政治的と行政的の権力は顧問、参議、監察官、事務官、次席の官吏としての日本人官吏によって握られていた。

 日本の内閣は、1932年4月11日の閣議で、満州国を『指導する』ための方法を審議し、以上に略述した方法を是認した。荒木は当時に陸軍大臣として閣僚の一人であった。その決定は次のようであった。『新国家をして我が方より権威ある顧問を傭聘(ようへい。招聘して雇用すること)せしめ、財政経済問題及び一般政治問題に関し、これが最高指導者たらしむること。新国家の参議府、中央銀行その他の機関の指導的地位に本邦人を任命せしむること』。次いで、内閣は日本人を任命することになっている満州国の官職を列挙したが、それらは総務庁長、総務庁各局科長、参議府参議及び秘書局長並びに収税、警察、銀行、運輸、司法、関税その他の部門における官職を含んでいた。この措置は、新国家をして「政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係において帝国存立の重要要素たる性能』を発揮させるために、そして「日満両者を合わせる自給自足の一経済単位を実現せしむる』ために必要であると認められたのである。

協和会と『王道』 (原資料86頁)

 協和会は1932年4月に奉天で板垣その他の者から成る委員会によって組織された。関東軍司令官は、職務上当然に同会の最高顧問にされた。協和会の特別の使命は、国家の精神と理念を、すなわち王道を弘め、アングロ・サクソン世界とコミンテルンとに対する日本の争闘において、日本の役に立つことができるように、満州国を強化することであった。満州国政府の方針は、1932年2月18日と1932年3月1日に発表された布告の中に述べられた。その方針というのは、王道の根本原則に従って統治することであった。このようにして、日本の満州占領が思想宣伝の分野で地歩を固められた。満州では、協和会以外の政党は一切許されなかった。同会の名義上の会長は満州国国務総理であったが、実際上の指導者は、関東軍参謀部の一員であった。


リットン委員会の満州訪問

 リットン委員会は、1932年4月に満州に到着し、関東軍と満州国の日本人官吏が住民を脅迫したり、同委員会の努力を妨げたりして、事態の上に投げかけた秘密の蔽いを透視し、実際の事実を見抜くという委員会の仕事を開始した。この委員会の委員と証人となりそうな人物とに『保護』を与えるという口実のもとに、陸軍と憲兵隊はかれらの活動と動静を『監視』した。溥儀は、『われわれは皆日本陸軍将校の監視下にありました。そしてリットン卿は、どこへ行っても、日本憲兵の監視のもとにありました。私がリットン卿と会見したときには、多くの関東軍の将校が私の側で監視していました。もし私が彼に真実を告げたならば、委員会が満州を去った後私は殺されたでありましょう』と証言している。板垣によって準備された声明書を溥儀はリットン卿に手交したが、現在になって、それが真の事実を現わしたものではないと溥儀が言っている。委員会の満州滞在の間、ロシア語や英語を話す人々は注意深く監視された。その中には、逮捕された者もあった。

 1932年6月4日に、陸軍省に宛てて送った電報の中で、関東軍参謀長は、リットン委員会の訪問中に税関を接収することによって、委員会を日本が監視していることを示してはどうかと申し出た。『連盟調査委員会の滞在中、これを敢行し満州の独立性を発揮し、かつ「満州事変」に対する日本及び満州国の断乎たる決意を示すを有利なりとす」とかれは述べた。

犬養首相の暗殺 (原資料88頁)

 独立国家としての満州国の樹立に反対したために、総理大臣犬養はその命を落とすこととなった。総理大臣は、日本が満州国を承認することは中国の主権の侵害になると主張し、終始一貫してこのような承認に反対していた。

 総理大臣の職に就いて後、数日を出ないうちに、和平条件を取り極めるために、犬養は萱野という密使を蒋介石大元帥の許に派遣した。蒋大元帥は萱野の申入れに大いに満足し、交渉は円満に進行していた。そのときに、総理大臣犬養あての萱野の電報の一つが、陸軍省によって捕捉された。内閣書記官長は、犬養の子息に、『君の親父は蒋大元帥と交渉をしている。これについて陸軍省は非常に憤慨している』と知らせた。交渉は断念されたが、総理大臣と陸軍大臣荒木との間に、軋轢が続いた。

 総理大臣犬養と当時荒木を指導者とした『皇道』派との争いは、1932年5月8日に、犬養が横浜で反軍部的な、民主主義賛成の演説を行なった日に、爆発点に達した。1932年5月15日、総理大臣が病気で一時的に独りで官邸にいたときに、数人の海軍士官が闖入して、かれを暗殺した。大川博士はこの暗殺のために拳銃を提供した。橋本は、その著書『世界再建の道』の中で、かれがこの暗殺事件に関係があったことを認めた。

 その当時に陸軍省軍務局員であった鈴木中佐は、もし新内閣が政党指導者のもとに組織されるようなことがあったら、第二、第三の暗殺が起こるだろうと警告した。鈴木は、この暗殺に二日後に、原田男爵邸で、木戸、小磯及びかれが同席して食事をとっていたときに、その警告をしたのである。対外進出政策に対する反対は、主として日本の諸政党の代表者から出ていた。

日本の満州国承認 (原資料89頁)

 荒木と小磯は、それぞれ陸軍大臣と陸軍次官として、新内閣に留任した。かれらの指導のもとに、満州国は独立国家として日本政府の承認を受けた。関東軍参謀長からの電報に対する1932年6月4日付けの回答の中で、承認問題について、陸軍大臣は次のように述べた。『内外諸般の方面にわたり、極めて機微の関係にあるをもって、目下いつにても承認を実行するの決意の下に機を窺いつつあり』。かれはまた関東軍を通じて、満州国を支配する計画を明らかにした。かれは次のように述べたのである。『在満機関の統一については、迅速なる満州国の確立安定及び国防上の要求に則応する満州産業開発等を目標として軍を中心とする統一機関の確立を企図しあり。万一にもかくのごとき底意が内外殊に外国に漏洩するがごときことあらんか、満州国の指導上すこぶる不利なるものあるべきにより内部的研究といえども特に慎重ならんことを望む』。1932年6月の半ばごろ、軍事参議官会議の席上で、満州国建国前の満州に関する国際連盟の諸決議と日本の行なった諸声明とは、もはや日本を拘束するものとは考えられないと荒木は述べた。

 1932年6月に、いわゆる『協和使節』を東京に派遣することによって、関東軍は政府を強要して満州国を承認させることについて荒木を援助した。この使節団の目的は、黒龍会と協力して活動し、黒龍会は、この『使節団』を援助するために、日比谷の東洋軒で種々の懇談会を開いた。

 内閣の更迭に鑑み、リットン委員会は1932年7月4日に東京に帰り、満州の事態に関する内閣の見解を知ろうとして、新政府の当局者と会議を重ねた。荒木はこれらの会議に出席した。

 同委員会が北京に帰ってから、すなわち1932年8月8日かそのころに、荒木が関東軍参謀長あての電報で述べた。『軍を中心とする統一機関』は計画通り設立された。この新制度のもとにおいて、『四位一体』制が『三位一体』制に変わった。この新制度によって、関東軍司令官は、関東州租借地の長官となり、同時に満州国駐箚(ちゅうさつ。=駐在)大使を兼任することになった。この新制度は、1932年8月20日に実施された。この制度を実施するために、人事移動が行なわれた。武藤信義が本庄にかわって関東軍司令官になった。板垣は関東軍参謀部に留まり、陸軍少将に昇進した。陸軍次官小磯は、関東軍参謀長兼関東軍特務機関の長、すなわち諜報機関の長として、満州に派遣された。

 降伏後に、荒木は次のように述べた。『三巨頭会議(外務、海軍、陸軍各大臣)の席上、満州国を独立国家として承認することを討議したとき、私は、満州国が独立国家である以上、大使の交換をしてはどうかと言った。この問題は、1932年8月の閣議にかけられた。討議は満州国が承認を受ける時期に関して、すなわち即時かまたは後日にかについてであった。関東軍は、われわれが即時承認するように申し入れてきた。私は1932年9月15日を、満州国正式承認の日と定めた。この閣議でわれわれは、満州国との間に締結される条約の内容を討議した。可決された内容を私は承認した。

 『日満議定書調印』問題を協議するために、枢密院副議長として、平沼は1932年9月13日に枢密院会議を召集した。枢密院審査委員会の委員にも任命されていた平沼は、枢密院の本会議で、同委員会の報告を朗読した。この報告には、他のこととともに、次のように述べてあった。『帝国政府においては、遅滞なく同国を承認することが望ましいと確信したが、慎重を期するため、半歳にわたって満州国の事態の発展と、国際連盟及び各国の動静を注視したのであって、同国に対する帝国の承認が、世界に対し一時相当の衝動を与えるであろうということは、想像するに難くはないが、しかもこれによって国際的危機を招来するであろうとも思われない状況にある。我が国は共存共栄の目的をもって、本議定書及び往復文書による取極めを締結し、それによって満州国を承認する措置を執ろうとするものである。

 平沼は次の四つの往復文書に言及していたのであった。(1)第一の文書は、一つの書簡とそれに対する回答からなっていた。この書簡は、1932年3月10日の、すなわち溥儀の就任の翌日の日付で、溥儀から本庄にあてたものであった。この書簡の中で、満州国建国に際して日本の払った努力と犠牲を感謝するが、満州国の発展は日本の援助指導にまつほかはないと溥儀は述べた。さらに、他のいろいろなこととともに、次のことに日本が同意するように要請した。(イ)関東軍の必要とする一切の軍事施設を満州国が供与するという了解で、経費は満州国負担として、日本は新国家の国防と国内秩序の維持に任ずること。(ロ)日本は一切の既設の鉄道及び他の運輸施設の管理、並びに望ましいと考えられる新施設の敷設に任ずること。(ハ)日本人が満州国政府の全部門に官吏として勤務すること。但し、これは関東軍司令官が任意に任用、解職、更迭するものとすること。この書簡に対する本庄の回答は、単に日本は溥儀の申出に反対しないというにすぎなかった。(2)第二の文書は、1932年8月7日付けの満州国国務総理と本庄の間の協定で、運輸施設の管理に関するものであり、日本による管理をさらに絶対的のものとするものであった。(3)第三の文書は、1932年8月7日付けの満州国国務総理と本庄の間の他の協定であった。これは日本航空株式会社の設立に関するものであった。この会社は、1932年8月12日の閣議の決定によって、軍事通信という名目で関東軍の手ですでに満州に敷設されていた航空路を譲り受けることを許された。(4)第四の文書は、1932年9月9日付けの満州における鉱業利権に関する武藤司令官と満州国国務総理の間の協定であった。

 平沼の朗読した報告によれば、これらの文書は、その署名の日付に遡って効力を発生することになっており、また国家間の協定と認められるが、厳秘に付せられることとなっていた。

 議定書は公表されることになっていたもので、次のことが規定されていた。日本は満州国を承認したこと、満州国はその建国の当時に、満州で日本の国と臣民が有していた一切の権益を確認すること、並びに、一方の国に対する脅威を両国に対する脅威であると認め、満州国内に軍隊を駐屯する権利を日本に与えることによって、両国はその国家的安全の維持のために協力することを約束することである。調査委員会は右の議定書と往復文書の承認を勧告した。

 調査委員会の報告を朗読した後の討議によって、提案された議定書と往復文書が、九国条約(付属書B−10)とその他の条約上の義務に違反するものであることを、枢密顧問官は充分に承知していたことが示される。枢密顧問官の岡田がこの問題を提出した。これより前に、外務大臣は議会に対して、満州国は独立国となっているから、日本は満州国を承認しても九国条約の違反にはならないし、日本は中国国民の独立を防止するという約束もしてはいないと説明していた。しかし、合衆国とその他の国は、この説明では満足しないであろうという意見を岡田は述べた。かれの説明したところによれば、『米国人は言わん、満州国の独立も満州人の自主によるものならば不可なからんも、日本がその独立を援助しかつこれを維持せんとするは、中国の主権を無視せるものにして、条約違反にあらずや』というのである。これに対して、外務大臣は、『もとよりこの点については、米国を始めとして、各方面に種々の意見あるも、それは先方の見解なり』と答えた。荒木は『満州国の国防は同時に我が国の国防たり』と説明した。石井顧問官は、『「満州問題」の国際連盟に対する関係については、帝国の主張ははなはだ心もとなし』といい、さらに、『満州国における我が行動が不戦条約(付属書B−15)及び九国条約違反なりとは、米国等における多数人のほとんど定説なりき』と述べた。しかし、石井顧問官は、『今や日本が満州国と国防上同盟を締結したる以上、日本軍の満州駐在に対し何者といえども異議を挟むの余地なく、従前の連盟の決議は死文たるに至るべしと考う』と付言し、次いで『満蒙民族が今日まで独立運動を起こさざりしことはむしろ不可思議なりき』と述べたのである。

 採決が行なわれ、議定書と往復文書は全員一致の賛成を受け、天皇は退席した。武藤大使は、『これが議定書である。これに署名願いたい』という言葉とともに、議定書を満州国国務総理に提示した。溥儀は、議定書が署名のために提示された日まで、それが存在することを知らなかったと証言したが、かれは1932年9月15日にこれに署名したのである。

熱河占領の準備 (原資料94頁)

 熱河省の省長であった湯玉麟将軍を説得して、中国からの熱河省の独立を宣言させ、これを満州国の管轄下に入れようとする努力は、何の効果もなかった。そこで、東三省の占領と統一が完了するとともに、日本陸軍は熱河の占領のための準備を開始した。降伏後に、荒木は次のように述べて、熱河への侵入の決定を説明しようとした。かれは満州征服のための経費の支出が1931年12月17日の枢密院会議で決定されたといっているが、その会議について語りながら、『張学良の領土を包含する三省は平定を要するものであることが決議されました。しかしながら張の、彼の管轄権は四省に拡張せられたという意味の声明は、行動の部隊を熱河にまで拡大しました。』と述べたのである。

 1932年2月17日に各省の傀儡省長によって最高行政委員会が組織されたとき、熱河も同委員会に代表を送ることに定められた。しかし、同省内の諸同盟の蒙古人は、新国家との協力をはかり、満州国によって国民とされたけれども、湯玉麟省長は右の招請を無視し、同省の支配を続けた。

 日本側はすでにジュネーブで留保をしていたので、熱河を満州国に併合する計画を進めるためには、単に一つの口実を発見しさえすればよかった。最初の口実は、関東軍付きの石本という官吏が1932年7月17日に北票と錦州の間を旅行していたとき、『行方不明になる』という芝居を演じたときに、見つけられた。日本側は直ちにかれが中国義勇軍によって拉致されたと主張し、石本を救い出すという口実で、関東軍の一部隊を熱河省内に派遣した。この部隊は砲をもっていたが、同省の省境の一村落を占領した後に、撃退され、その目的を達しなかった。この戦闘中に、日本軍の飛行機は朝陽の町に爆弾を投下した。また、1932年8月中、日本軍の飛行機は、熱河省のこの地方の上空で、示威非行を続けた。1932年8月19日に、表面上は石本氏の釈放を交渉するために、関東軍の一参謀が北票と熱河省境の間にある小村落南嶺に派遣された。かれは歩兵部隊を従えていた。帰りの途中で射撃され、自衛上応戦したとかれは主張した。あたかもあらかじめ手筈を定めていたかのように、他の歩兵部隊が到着して、南嶺は直ちに占領された。

 南嶺の抗戦の後間もなく、熱河省は満州国の領土であるという趣旨の声明が発せられた。このようにして、関東軍の行動によって、これを併合するための基礎が築かれた。次々に口実が設けられ、主として錦州・北票線に沿って、軍事行動が続けられた。この線は、鉄道によって満州から熱河に至る唯一の道である京奉鉄道の支線である。当時では、中国の本土と満州に残留する中国軍との間の主要連絡線は、熱河省を通っていたのであるから、以上のことは、当然に予期されたところであった。熱河への侵入が切迫していたことは、ちょっと見た人にも明白であったし、日本の新聞も、遠慮なくこの事実を認めた。1932年9月に、第十四混成旅団が満州に到着した。その表向きの使命は、満州と朝鮮の間を流れる鴨緑江の北岸地帯である東辺道内の匪賊を『掃蕩』するというのであった。しかし、この旅団の真の使命は、熱河への侵入の準備をすることであった。

リットン委員会の報告提出 (原資料97頁)

 ジュネーブでは、1932年10月1日に受け取ったリットン委員会の報告を審議するために、1932年11月21日に、連盟理事会が開かれた。この討議の際に、日本代表の松岡は、『われわれはこれ以上の領土を欲せず』と言明した。しかし、どのような紛争解決のための基礎に対しても、松岡が同意することを拒んだために、1932年11月28日に、理事会はリットン委員会の報告を総会に移し、その処置を求めるほかはなくなった。

 リットン委員会は、その報告書の中で、次のように述べた。『開戦の宣言なくして、疑いもなく中国の領土たりし広大なる地域が日本軍隊により強力をもって押収かつ占領せられ、しこうして右行動の結果として、中国の他の部分より分離せられ、かつ独立と宣言せられたるは事実なり。日本はこれを成就せしめたる措置をもって、この種の行動の防止を目的とする国際連盟規約(付属書B-6)、ケロッグ条約(付属書B-15)及びワシントン九国条約(付属書B-10)の義務に合致するものなりと主張す。この場合において、一切の軍事行動は合法なる自衛行為たりしものにして正当とせられたり』。しかし、この委員会は、1931年9月18日の夜の奉天の出来事を論ずるに当たって、さらに次のように述べた。『同夜における叙上日本軍の軍事行動は、合法なる自衛の措置と認むることを得ず。』

 連盟総会は1932年12月6日に会合し、一般的討議の後に、さきに1932年3月11日に総会が任命した19人委員会に対して、上海における敵対行為の終結をもたらし、リットン報告書を検討し、紛争解決のための提案を起草し、これらの提案をなるべく速やかに総会に提出することを要求する決議を採択した。

 19人委員会は、この委員会がその努力を継続することができるための基礎であると考えるところを、概括的に示した2つの決議案と1つの理由書を起草した。1932年12月15日に、これらの2つの決議案と理由書が当事国に提示された。中国と日本の代表は修正を申し入れた。委員会は、両国の代表と連盟事務総長と委員会議長との間で、その修正案を討議することができるように、1932年12月20日に休会した。

山海関事件 (原資料98頁)

 右の商議があまり進行しないうちに、1933年1月1日、重大な『山海関事件』が起こった。北平と奉天との中間で、万里の長城の終端にある同市は、大きな戦略的重要性をもつものと常に認められていた。同市は、満州から入って、現在の河北省に進入しようと欲する侵入者のたどる通路の上にある。その上に、河北から熱河に入るには、最も容易な通路である。

 錦州が占領されてから、日本軍は山海関まで――長城の線まで――進出し、奉天・山海関の鉄道を手に入れていた。この鉄道は、山海関から、張学良元帥がその司令部を置いていた北平まで続いている。山海関の停車場は長城のちょうど南側にあるが、奉天からの日本側の列車は、この停車場まで通っていた。従って、列車を護衛するという口実のもとに、日本側はこの停車場に軍隊を駐屯させていた。北平からの中国側の列車も、この停車場まで通っていたので、中国側はそこに軍隊を駐屯させていた。中国側の司令官は、右の『事件』が起こるまでは、異常がないという報告をしていた。

 19人委員会が提出した2つの決議案に対する修正案の討議中に、この『事件』が発生したということは、中国と日本の間の解決の基礎に到達するための、同委員会の一切の努力をしりぞけようとする日本政府の行動を正当化するために、この事件が計画されたのであるということを強く示唆するものである。

 1933年1月1日の午後に、若干の中国人が手榴弾を投げたと日本側は主張した。これが山海関を直ちに襲撃するための口実であった。付近の小さな町々は機関銃で射撃され、アメリカの宣教師の財産は爆撃を受け、戦闘は発展して旧式の塹壕戦となり、そのために、北平と長城の間の華北平野は、幾百マイルもの塹壕網を張りめぐらされるに至った。数千の平和的市民が殺戮された。1933年1月11日に、中国政府は1901年の議定書(付属書B-2)の署名国に訴えた。

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