歴史の部屋

日本は19人委員会の一切の努力を拒否した (原資料99頁)

 19人委員会は、さきの休会の決定に従って、1933年1月16日に再開し、中国と日本との間の解決の基礎に到達しようとして、両当事国に対して、いくつもの質問と情報供与の要請とを出した。同委員会の要請のすべてに対して、委員会が日本から受領した回答は不満足なものであった。そして、1933年2月14日に、日本政府は委員会に対して、満州国の独立の維持と承認が極東平和の唯一の保障であり、全問題は結局右の基礎において、日本と中国の間で解決されるものと確信すると通告した。これによって、委員会の審議は終止符を打たれた。委員会は直ちに総会に報告した。


国際連盟の日本非難

 国際連盟総会は、1933年2月24日に、19人委員会が総会のために作成したところの、日本と中国との戦争において日本を侵略者であるとして非難し、かつ戦争の終結を勧告した報告書を採択した。16ヵ月以上にわたって、理事会または総会が中日戦争の解決策を見出そうと絶えず努力してきたが、事態は悪化の一途を辿り、『仮装せる戦争』が続いたと総会は報告した。総会は次のように宣言した。『満州は、一切の戦争及び「独立」の期間を通じて、終始中国の完全な一部であったもので、また日本文官及び武官の一団は、9月18日の事件の後に存在したような満州の事態の解決策として満州独立運動を構想し、組織し、遂行し、この目的のもとに、ある中国人の姓名及び行動を利用し、中国政権に対し不平を懐くある少数者及び土着の団体を利用した』。1931年9月18日の秋に、奉天とその他の満州各地で日本がとった軍事行動は、自衛の措置とみなすことができないということ、右の紛争の進展に伴って、日本がとった各種の軍事的措置の全部に対しても、同じように右のことがあてはまるということを総会は決定した。さらに、『満州国』の『政府』内の主要な政治的と行政的の権力は、日本人官吏と顧問の手中にあり、かれらは事実上行政を指揮し、支配する地位にあったと述べた。住民の大多数は右の『政府』を支持せず、これをもって日本の手先と見ているということを総会は認めた。『中国領土の広大なる部分が、宣戦布告なくして日本軍隊により実力をもって奪取せられ、かつ占領せられたること、並びに右行動の結果として該部分が中国の他の部分より分離せられ、かつ独立を宣言せられたることは異論を挟む余地なし』と総会は声明した。『1931年9月18日前に存在したる緊張状態発生の際においては、当事国の双方いずれにも若干の責任ありたるがごときも、1931年9月18日以降の諸事件の発展に関しては毫も中国側の責任問題は起こりえざるものなり』ということを当然のこととして総会は認めた。これは日本に対して侵略の認定を与えたものであり、かつ将来において同様な行為は同様な非難を受けることを警告したものであった。従って、それから後には、日本ではだれ一人として、自分はこの種の行動が許されるものと心から信じていたと、正当に言える者はなかったのである。1933年2月14日に連盟総会が採択した報告と意見を異にすべき根拠を、本裁判所は全然認めないものである。

 被告白鳥は、かれが公に行なった諸声明において、満州における日本の行動の正当性を主張するものの急先鋒の一人であったが、当時のベルギー駐箚の日本公使有田にあてた私信の中で、実は本当のことをいっている。これは1935年11月に書かれ、国際問題において協調を支持する日本の外交官について語ったものであるが、『かれらは満州を中国に返還し、国際連盟に復帰し、罪を天下に謝するの勇気ありや』と言っているのである。

日本の国際連盟脱退 (原資料102頁)

 日本は連盟規約(付属書B-6)に基づく自国の義務を履行しないで、かえって、1933年3月27日に、連盟から脱退する意思を通告した。この通告は、日本の脱退の理由を述べて、『連盟規約その他の諸条約及び国際法の諸原則の適用殊にその解釈に付き帝国とこれら連盟国との間にしばしば重大なる意見の相違ある』ためであるといった。


熱河侵入

 連盟総会が日本を中国における侵略者として非難する決議を採択した翌日、日本は熱河省に侵入し、それによって、公然と連盟に反抗した。山海関や九門口のような長城に沿う重要地点は、『山海関事件』に続いた戦闘の結果として、すでに日本軍の手に落ち、熱河の戦略的事態は、1933年2月22日以前に、きわめて重大になっていた。この日に、傀儡国家満州国の名で、日本軍は中国に対して最後通牒を送り、熱河は中国の領土ではないといって、熱河省内の中国軍が24時間以内に撤退することを要求した。この最後通牒は容れられなかった。そこで、1933年2月25日に、日本陸軍の進撃が始まった。日本軍は通遼と綏中の基地から三縦隊に分かれて前進し、長城の北部と東部の全地域を占領して、戦略上重要な長城の諸関門を占領するまで止まらなかった。板垣と小磯は、関東軍の参謀として、1933年3月2日までに完成した全満州の占領に協力した。

塘沽停戦協定 (原資料103頁)

 長城まで進出した結果として、日本軍は中国の本土に侵入するに好都合な位置にあった。しかし、次の進出の準備として、日本軍がすでに得たところを強化し、組織するには、時間を必要とした。この時間を稼ぐために、塘沽停戦協定が1933年5月31日に調印された。武藤司令官は、塘沽で中国の代表と交渉するために全権を与えられ、また関東軍が作成した停戦協定の草案を携えた代表を送った。調印された停戦協定には、長城以南の非武装地帯についての規定があった。その条件は、中国軍がまず一定の線まで撤退するというのであった。その撤退が完全かどうかを随時飛行機で視察する権利を日本軍は与えられた。この撤退に満足した場合には、日本軍は長城の線まで撤退することになっていた。中国軍は再びこの非武装地帯内に入らないことになっていた。


立役者、荒木

 日本軍が全満州を占領したという成功は、日本のある方面で、陸軍大臣荒木を人気者にした。かれは絶えず寄稿や講演を頼まれた。1933年6月に、かれの演説の中の一つをとり入れて作った『非常時日本』という映画の中で、かれは軍の理想を述べ、全アジアと太平洋諸島を支配するために、侵略戦争をする軍の計画を示した。かれがいろいろ述べた中に、次の言葉がある。『果たしてアジアはここ半世紀安寧であったであろうか。シベリア、蒙古、チベット、新疆及び中国の有様はどうであろうか。果たして太平洋の波は静かであろうか。明日も今日と同じように、太平洋の波濤は果たして穏やかであろうか。その理想と力によって東洋の平和を確保することは、日本、大和民族の神聖なる使命である。国際連盟は日本のこの使命を尊重していない。国際連盟を中心とする全世界の日本に対する包囲的攻勢は、「満州事変」によって現われた。やがては世界をして、わが国の徳を歓迎せしめ得る日が到来する。(書面の中央に日本と満州が映り、次いで中国、インド、シベリア及び南洋が現われた)。「奉天事件」の形をとった天の啓示によって建設された満州国と日本は、相携えてアジア永遠の平和を確立しようとする。』次に、かれは国防を次のように定義した。『国家の防衛を地理的に置くというがごとき小乗的な見方は、私の採らざるところである。「皇道」を、空間的には拡大発展性において、時間的には悠久永続性において守ることが軍の使命である。わが軍は「大君の辺にこそ死なめ」という歌の千古不磨の精神で戦った。わが国は空間的の発展をする運命にある。われわれが「皇道」を拡めるにあたって、これに反対するものに対して軍が戦うことは予期せねばならない。諸君、アジアの状態をみよう。この状態でいつまで捨てておくのであるか。アジアに理想郷をつくるということが、われわれの最大の使命である。私は、諸君が挙国一致的に進むことに努力されんことを切にお願いする。』(書面に『光は東方より!』という言葉が現われた)。

第二節 満州の統一と開発


満州国改造 (原資料106頁)

 塘沽停戦協定の調印の後に、満州国が改造された。これは、満州傀儡国家に対する日本の支配力を強化するために、また、中国に対する侵略戦争を続け、日本がアジアと太平洋諸島を支配することに反対するかもしれない諸国に対する侵略戦争を行なう準備として、満州の経済開発を促進するために行なわれたものである。

 1933年8月8日に、日本の内閣は、『満州を大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家として発達』させることを決定した。満州国の支配は、『関東軍司令官統轄の下に、日系官吏を通して行なう』こととされた。満州経済の目標は、『帝国の対世界的経済力の発展の根基を確立するため日満両国経済を融合すること』とされた。『日満共存共栄』は、『帝国国防上の要求に制約せらるる』こととされた。この決定が行なわれた当時に閣僚であった荒木は、疑念をはさむ余地のない言葉で、国防ということを定義している。この政策を遂行するための具体的方策は、慎重に研究された後になって、初めて閣議の承認を受けることになっていた。

 この計画の研究は、土肥原が1933年10月16日に関東軍司令部勤務を命ぜられ、広田が1933年9月14日に外務大臣に任命された後になって、初めて完了された。しかし、1933年12月22日に、荒木と広田の出席のもとに、内閣は『満州政府側においては、なるべく速やかに君主制への改制を考慮しおる趣なり。君主制の実施は清朝の復辟にあらずして、立憲君主制としての国体を確立するものなることを明らかにして、いやしくも満州国国務の進展を阻害すべき原因の絶無を期し、なかんずく近く際会することあるべき国際的危険を克服するため必要なる日満両国国防力の増強拡充に寄与せしむべきこと』を決定した。国務院を強化すること、政府内部組織について、特にその人事について、根本的な改正を加えること、並びに、『従来の日満両国間の条約取極め等は君主制によって確立せしむること』が決定された。

 満州国を、すなわち、日本が世界に対して独立国であると公言していた国を統治する方法を決定したのは、日本の内閣であったということに注意しなければならない。この口実がわれわれの面前で依然として主張され、数百頁に上る証拠と議論によって支持されたのは驚くべきことである。

 満州国のこの従属的な地位が変わらなかったことについての証拠としては、真珠湾攻撃のわずか3日前の1941年12月4日付けで、外務大臣東郷が関東軍司令官梅津に送った電報に優るものはない。この電報で、東郷は次のように訓令している。『四日政府統帥部連絡会議において国際情勢最悪化に際して満州国をしてとらしむべき措置を決定せるところ、往電第873号の次第と相違し我が方の方針左の通り変更せり。「帝国開戦の際は満州国は当分参戦せしめざるものとす。同国と帝国との緊密なる関係より、また英米蘭は同国政府を承認しおらざるにより、同国政府は右三国を事実上の敵国とみなし、しかるべく取り扱うものとす。」

 改造の次の段階は、溥儀を満州国皇帝として即位させることであった。1933年12月22日の閣議決定の後に、関東軍司令官として武藤大将のあとを継いだ菱刈大将は、溥儀を訪問し、かれが満州国を帝国にすることを計画していると述べた。満州国の新しい一連の組織法が1934年3月1日に公布された。これらの法律は、満州国は皇帝がこれを統治するものと定め、皇帝の権能を規定したが、政府の機構を実質的に変更したものではなかった。日本人が依然として政府の重要な地位を占め、『火曜会』は政策樹立機関として存続され、皇帝が降伏後捕虜となった日まで、吉岡中将は引き続きかれを『監督』する任務をもっていた。新しい法律が公布された日に、溥儀は、長春のある寺院で天を祀ってから、満州国皇帝の位に就いた。しかし、かれにはなんの権力もなかった。毎年一回各部長を引見することを許されていたが、それは日本人総務庁長によって注意深く監督された。

 溥儀を満州国皇帝の位につけ、同国の経済開発を促進するためにその法律を改正したうえで、内閣は1934年3月20日閣議を開き、この開発を実行するにあたってとるべき方針を討議した。荒木は1934年1月23日に陸軍大臣を辞職し、軍事参議官となったが、外務大臣広田はこの閣議に出席していた。根本方針は、『満州国を日本と不可分的関係を有する独立国家として進歩発展させ、日本の対世界的経済力発展の根基を確立して満州国経済を強化する』ことに決定された。満州国における交通、通信、その他の事業は、日本帝国の『国防』に寄与させるために、日本の直接または間接の監督のもとに、特殊会社をして開発させることにされた。

 中国に対する日本の意図に関するあらゆる疑いを一掃するためであるかのように、広田の下にある外務省は、1934年4月17日に、一つの声明を発表した。これが後に『中国から手を引けという声明』とか、『天羽声明』とか言われるものになった。前者は同声明の内容によって、後者はこの声明を新聞に発表した官吏の名前によって名づけられたのである。天羽は外務省の一官吏であったばかりでなく、その公式な代弁者でもあった。外務大臣広田は、1934年4月25日に、駐日アメリカ大使と会見したとき、自分の方から進んで、『天羽声明』に言及した。新聞記者の質問に答えて、広田の承認もなく、これに通告もしないで、天羽は声明を発表したのであって、世界は日本の方針について全然誤った印象を与えられたと広田は述べた。さらにつけ加えて、日本の方針は、あらゆる点で、九国条約(付属書B-10)の規定を完全に遵守し、支持することであると述べた。広田がアメリカ大使に言ったことは、私的な言明であって、公式な声明ではなかった。『天羽声明』は決して公然と否認されたことはなかった。この声明を発表したという理由で、天羽は対外進出論者から英雄視された。外務大臣広田は、外務省の許可を受けずに、この声明を発表したことについて、全然天羽を懲戒しなかった。この声明は、日本の外交方針のその後の進展と密接に合致するものである。そこで、本裁判所は、証拠に基づいて、この声明は当時の日本の中国に対する政策を外務省が公式に宣言したものであること、九国条約の締約国に対して、中国における日本の計画に対する干渉を日本政府は許容しないということを警告する目的で発表されたものであることを認定する。

 右の声明は、他のいろいろなこととともに、次のことを含んでいた。『支那に関する日本の特殊なる地位により、支那問題については、日本の見解及び態度は「あらゆる点において」列国のそれとは必ずしも一致せざるものあるやも知れず、しかれども日本は東亜においてその使命及び特別の責(せめ。責任のこと)を果たすべく極力努力を求められつつあることは認めらるるを要す。ゆえに支那にして他国の勢力を利用し、日本を排斥するごとき挙に出ずるは吾人(ごじん。=「わたし」)の反対するところなり。満州事変、上海事変後のこの特殊時期において、列国側においてなされたる共同動作は、たとい名目は技術的あるいは財政的援助にあるにせよ、政治的意味を帯ぶるに至るは必然なり。されば日本は原則としてかかる動作の遂行に敗退するものなり。』

『二者合一』制 (原資料110頁)

 1934年12月10日に、関東軍は新司令官と新参謀副長を迎えた。前者は南、後者は板垣である。これらの任命は、満州国の改組の完成と日本の同国支配機構の改組の完成を先触れするものであった。日本政府は勅令によって各省の満州関係の事務を掌る対満事務局を創設した。同局は、満州での新しい『二者合一』制に合致するように設立された。関東軍司令官はいままで通りに駐満大使となったが、関東州租借地の長官の職は廃止され、その任務は新設の関東局総長に移り、この局は大使に隷属することになった。このようにして、南は関東軍司令官となり、同時に満州国駐箚大使として租借地の行政、大使館及び南満州鉄道会社を支配した。対満事務局は内閣総理大臣の指揮監督下にあったが、陸軍大臣がその総裁の地位を占めていたので、満州国の実査的な支配権は依然として関東軍と陸軍省の手にあった。南は訊問に答えて、大使としてのかれの第一の任務は、『満州国の独立を保存する』ことであったと述べた。当時、かれは『農業、交通、教育というような点に関して』政府に助言を与えた。『あなたの助言というのは、事実上においては命令にひとしいものであったのではありませんか』という質問に対して、かれは『そうおっしゃってもよろしい』と答えた。1936年3月6日に、植田大将が大使兼関東軍司令官として南の後任となり、1936年9月7日に梅津大将とかわるまで在任した。梅津は1944年7月18日までこの職にあった。

対満事務局 (原資料111頁)

 すでに述べたように、対満事務局は各省の満州関係の事務を掌るために組織され、日本政府と満州の『二者合一』の行政官との間をつなぐ鎖として設けられた。この局は関東局、満州の対外事務、満州の経済を開発するために設立された諸会社、日本人による満州植民、満州国の文化事業――それは多分阿片取引を含むものであったろう――その他の満州や関東州に関するすべての事項を担当した。次の各被告は、陸軍大臣の職にあったことによって、この対満事務局の総裁を勤めた。すなわち板垣、畑及び東条である。岡と佐藤もそれぞれ同局の事務官を勤めた。次の者は同局の参与であったことがある。すなわち賀屋、武藤、重光、岡、梅津及び東条である。


満州における世論の統制

 満州から出る新聞報道を統制し、また宣伝を指導するために、関東軍司令官は、すなわち『二者合一』の統制機関は、満州にある新聞と通信社を全部統合した。それまで、日本政府、満州国政府または南満州鉄道会社のもとにあったすべての新聞通信社は、弘報協会と呼ばれた一つの協会に統合された。この協会は、すべての内外通信記事の発表を厳重に監督し、宣伝の方針と方法を決定するとともに、その協会に属すると否とにかかわらず、右の方針を各新聞通信社に対して励行する任務を与えられた。

星野は満州国経済の指導者となった (原資料113頁)

 満州国という新しい組織のもとで、星野は満州経済の自他ともに許す支配者となった。かれがこの仕事に対する訓練をはじめたのは、日本の蔵相の嘱望によって、満州国財務部の一理事官としての任命を受けるために、1932年7月12日日本を出発するとともにであった。その当時に、かれは、満州国政府を支配するための関東軍の強力な機関であった総務庁長官の地位を占める能力があると、認められているということを聞いた。かれは累進して、約束された地位にまで進んだ。満州国の改造が完了する直前に、1934年7月1日、かれは満州国財政部の総務司長に任命された。それから、1936年6月9日に、かれは満州国財政部次長に任ぜられた。1936年12月16日に、かれは総務庁の総務司長となり、この職を1937年7月1日に総務庁長官という高職に昇進するまで勤めた。1940年7月21日に、東京の企画院総裁となるまで、かれは引きつづいてこの職にあった。満州の経済開発をどのように解説するにしても、それは実質的には星野の経歴を物語ることになる。1932年7月、かれが満州国財政部の一理事官となるために東京を出発したときに、かれの職務上の補助者として、訓練された職員を連れて行った。そして、間もなく、関東軍の権限のもとに経済事務を担当する日本人官吏として、かれは満州で認められるようになった。

満州経済の奪取 (原資料114頁)

 軍事占領の最初に、早くも日本側は満州経済の支配権を押さえた。最初に押さえられた公共施設は、鉄道であった。万里の長城以北の中国側所有の鉄道のすべてと、満州の諸銀行にあったこれらの鉄道の貸越勘定とが押さえられた。鉄道はすべて統合され、連絡され、そして南満州鉄道株式会社として知られている日本政府の機関の経営のもとに置かれた。発電、配電の組織は急速に接収された。すべての財源は強制的に接収され、収入は新政府を賄うために使われた。関税は満州国が独立国家であるという口実で押さえられた。1932年6月14日に、各省銀行と辺業銀行を廃し、これに代わるものとして、満州国中央銀行が設立され、前者の資金が新しい組織の資本として用いられた。1932年7月1日から、中央銀行によって、新通貨が発行された。電話、電信及び放送施設は固有であったので、押さえられて日本側の支配下に置かれた。1932年4月14日に、郵政を担当するために特別の職員が任命された。1932年7月26日までには、かれらはこの業務を完全に手中に収めた。これらの公共業務のすべてにわたって、日本人の官吏と顧問が主要な政治的と行政的の地位を占め、これらの組織の実際的な支配を行なった。日本の内閣は、1932年4月11日の決定の中で、この慣行を確認した。星野が満州に派遣されたのは、この決定の後間もなくであった。かれは財政と金融問題の権威者として認められており、満州国の経済を組織するために、そこに派遣されたのであった。

関東軍の満州指導のための経済計画 (原資料115頁)

 星野が7月に満州に到着して後、1932年11月3日に、関東軍参謀長小磯は、満州国を『指導』するについての、かれの計画の概要を電報で陸軍省に送った。そのうちで、かれは次のようにいった。『政治は差し当たり日本関東軍司令官の内面的指導を背景とし日系官吏を中核として運営す。経済的には共存共栄を原則とし、将来日満経済単一ブロックの完整に伴う組織は日満協同の歩調に則らしむ。日満経済を単一ブロックたらしむるため相互関税障壁の撤廃を目途とし、日満を通して産業上「適地適業」主義を実現す』。満州経済の支配と開発のために、その後日本の内閣が採用したすべての計画は、これらの構想に基づいていた。


満州国経済建設綱要

 熱河の占領が完了する前の日に、すなわち1933年3月1日に、満州国政府は『満州国経済建設綱要』を公布した。日本の内閣は、前に述べたように、1933年8月8日の決定で、この『綱要』の要点を承認した。この『綱要』の発表において、次のように述べられている。『無統制なる資本主義経済の弊害に鑑み、これに所要の国家的統制を加え、資本の効果を活用し、もって国民経済全体の健全かつ溌剌たる発展を図らんとす。』経済的開発は、次のような根本原則に基づいて進められることになっていると発表された。(1)『国内賦存(ふそん。理論上存在すること)の固有資源を有効に開発し、経済各部門の総合的発達を計るため、重要経済部門には国家的統制を加え、≪合理化≫方策を講ず。(2)東亜経済の融合合理化を目途とし、まず善隣日本との相互依存の経済関係に鑑み、同国との協調に重心を置き、相互扶助の関係をますます緊密ならしむ』と。これらの根本原則に基づいて、政府は『国防的若しくは公共公益的性質を有する重要産業は公営又は特殊会社をして経営せしむるを原則とす』る意図であると発表した。

 満州国の改造と溥儀の即位との後に、1934年3月20日の日本の閣議で、この『綱要』はさらに内閣の承認を受けた。そして、『国防』に必要なこれらの産業は、特殊会社によって運営されるべきこと、これらの会社は、急速な発展が期待され得るために、満州国の実業界で支配的な地位を占めるべきことが決定された。これらの特殊会社の組織とその運営は、日本人に有利な独占事業をつくり出し、満州における『門戸開放主義』を全然実効のないものにした。合衆国とその他の諸国は、中国における通商上の『機会均等』を保証することを目的とした現存の条約義務の、この不当な違反に対して抗議した。しかし、満州国が独立国家であるという理論に基づいて、満州国による諸条約の違反については、日本は責任がまったくないと主張した。

日満経済共同委員会 (原資料117頁)

 日本と満州国の間の協定によって、1935年に共同経済委員会が設置された。この協定は、委員会が8名の委員で構成され、両国からそれぞれ4名の委員を出すものと規定した。日本側の委員は、関東軍参謀長、在満大使館参事官、関東局総長及び日本政府によって特に任命された1名ということになっていた。この取極めによって、関東軍司令官が自動的に3つの投票を支配していたことがわかる。満州国側の委員が外交、商工及び財政の各部長と日本人である総務庁長ということになっていた。委員会に提出された問題は、すべて多数決によって決定されることになっていた。1935年7月3日の枢密院会議において、右の協定の批准の問題を討議中、質問に答えて、広田は次のように言った。『私はかれ(元田顧問官)に、満州国側から出す4人の委員のうち3名は大臣で、他の1名は総務庁長である、この総務庁長は日本人であり、将来においてもまた永久にそうであるだろうことを確信している、ということを考慮することをお願いする。そして同庁長は満州国の一官吏ではあるが、同時に満州国の指導の任に当たっている中心機関である。ゆえに、もし両国間に意見の相違がある場合でも、かれが日本に不利となるような決定をすることは想像できない。』委員会は両国間の経済的連係に関するすべての問題を論議し、日本と満州によって組織され、後に満州国の諸産業を支配するようになった合弁特殊会社を監督することになっていた。しかし、両政府の経済的連係にとって重要な事項で、しかも日本の権限内にあるものは、委員会によって討議されないことと定められていた。これらの事項は、委員会で論議されないことになっていたのであるから、満州国だけを拘束する片務的契約となるのであった。星野は満州国総務庁長に任命されると同時に、委員会の委員になった。南は、1935年に委員会が設置されたときから、1936年3月6日に関東軍司令官を免ぜられるまで、委員であった。梅津は、1939年9月7日から1944年7月18日まで、関東軍司令官であった間、委員会に加わっていた。1936年3月23日に関東軍の参謀長となった板垣は、職務上当然に同日委員会の一員になった。このように、板垣は満州国建設の主要人物の一人であった。関東軍の参謀長であった間に、委員会に参加した他の者には、1937年3月6日から陸軍次官に就任した1938年5月30日までの間の東条と、1940年11月7日から1941年4月21日までの間の木村とがあった。陸軍次官に任命された後も、東条は委員会の委員としての職に留まったが、それは参謀長としてよりも、むしろ政府の代表者としての資格においてであった。

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