歴史の部屋

円ブロックの組織 (原資料118頁)

 この経済共同委員会の最初の事業の一つは、両国の通貨を統一することであった。1935年11月に、円ブロックが設定されて、満州国の通貨は銀本位を離れ、円と等価に定められた。


治外法権の撤廃

 この経済共同委員会によって行なわれた次の重要な経済上の取極めは、1936年6月10日に、満州国と日本との間に調印された条約であった。この条約の目的は、満州国の市民権に伴う一切の利益を、それに相当する義務を課することなく、日本人に与えることにあったもののようである。この条約には日本が満州国で享有していた治外法権を、漸進的に撤廃することを目的とすると述べてあった。しかし、この条約には、『日本国臣民は満州国の領域内において自由に居住往来し、農業、商工業、その他公私各種の業務及び職務に従事することを得べく、一切の権利を享有すべし』と述べてある。付属協定はもっと詳細にわたったもので、満州国における日本人の権利を長々と述べている。規定の一つは、『満州国政府は従来日本国臣民の有する商租権を土地所有権その他の土地に関する権利に変更するため速やかに必要の措置を執るべし』というのであった。このようにして、1915年の日支条約の付属交換公文から生じたところの、商租権に関する非常に論議の的となった問題は解決された。このことは、日本が早い速度で満州を植民地化していたことに鑑み、きわめて重要なことであった。1936年から1940年の間に、日本人約22万1千名が満州に移住した。1945年までには、この数は百万を超えた。満州に移住した日本人の大部分は兵隊に適した者で、関東軍の新師団編成に使用された。これら日本人が移住するための土地は、名ばかりの値段で徴発され、それによって土地を剥奪された中国農民は立ち退かされ、未開拓の土地を割り当てられた。

満州国興業銀行 (原資料120頁)

 1936年12月に、資本金六千円で創立された満州国興業銀行は、日本の内閣の方針のもとに開発される重点産業に融資する手軽な手段として役立った。この銀行は満州国における産業上の目的の融資一切を取り扱った。満州国人は、満州国中央銀行及びその視点に預金することを許されたが、興業銀行から貸し付けを受けることはできなかった。日本人だけがこの銀行から貸し付けを受けることを許された。日本人のために貯蓄し、中央銀行に預金するように国民を強制する貯蓄法が制定された。降伏当時に、この銀行には約60億ドルあった。これはすべて強制的貯蓄法の結果である。


第二期建設計画

 星野は、その訊問中に、1931年から36年に至る最初の5年の期間における無計画な開発をやめて、満州国開発のために具体的な総合計画を立てることが必要であると認められたと述べた。満州国の関係各部、内閣企画院、南満州鉄道会社、関東軍参謀長としての板垣とともに、星野は『満州産業開発五箇年計画要綱』を起草した。この要綱は1937年1月に完成した。この計画をめぐるすべての問題に対する『最後的決定権』は、関東軍司令官にあったと星野は述べている。この第二次五ヵ年計画は、第一次五ヵ年計画に含まれた根本原則を踏襲したもので、満州国の資源を開発し、これを『国防』に、すなわち『戦争』に役立たせることに重点を置いていた。鉱工業に関する方針は、『兵器、飛行機、自動車、車両等の軍需関係産業の確立を期すること、鉄、液体燃料、石炭、電力等の基礎的重要産業を開発し特に国防上必要なる鉄、液体燃料の開発に重点を置くこと』であるとこの要綱には述べてある。

 この計画は、1937年1月に、満州国の省長と各部の総務司長との会議で採用された。1937年2月17日に、満州国政府は『第一次五ヵ年施政の実績と第二期建設計画概要』を公表した。概要は次のように述べている。『国を樹ててよりここに五周年をけみし、行政経済の一応の整備を終わり、1937年度よりいよいよ第二次五箇年計画の年に入り、画期的建設工作に邁進することになった』。要するに、関東軍の満州経済開発の第二次案は、変更されないで、そのまま採用されることになっていた。

 この五ヵ年計画の指導を援助するために、実業家鮎川が満州に派遣された。満州の全産業、特に石炭や鋼鉄のような重工業を統制するために、かれは一大持株会社を設立することに賛成した。

産業統制 (原資料121頁)

 1937年5月1日に、満州国は『重要産業統制法』を公布した。この法律は、『重要産業』の許可制を規定するようにつくられ、ほとんどすべての産業がこの法律によって『重要』と指定されていた。この法律は、満州の経済を日本の経済に統合するために公布されたのであった。1937年5月29日に、日本の陸軍省が発表した『重要産業五箇年計画要綱』には、次のことが含まれていた。『われわれはわが国をして1941年を期し、有事の場合においても日、満、北支における重要資材の自給自足を可能ならしむるべく一般重要産業の総合的拡充計画を企図するものである。』この計画は、さらに続けて、『国防重要産業の振興は「適地適業」の主義に則り、所要産業を努めて大陸に進出せしめ』るとしている。『重要産業統制法』は、この『適地適業』の原則を実施するために、満州国の傀儡政府が公布したものであった。



満州重工業開発株式会社

 1937年10月22日に、内閣は『満州生産開発計画遂行の確立促進を期し、満州における重工業の総合的速急確立を図るため』に、満州重工業開発株式会社を設立することに決定した。これは一大持株会社とし、その株式は満州国、日本及び両国の国民だけによって所有されることになっていた。最初に発行された株の半数は満州国政府に、他の半数は日本の民間資本に売却されることになっていた。同社の経営は、『日本民間の有力なる適任者に一任するものとす。日本民間の有力なる適任者は現日産社長鮎川義介氏を予定』し、商社の社長と理事は両政府によって任命されるはずであった。この閣議決定に従って、この会社を設立するために、満州国との間に協定が結ばれた。

日本の工場としての満州国 (原資料123頁)

 重工業開発株式会社の設立によって日本が完成した経済組織は、日本と日本人にだけに利益をもたらすことになった。その唯一の目的は、満州をして日本の使用する戦争物資を生産させる工場にするということであった。この目的がどのように効果的に達成されたかは、その成功にだれよりも功労のあった星野の言葉によって、如実に示されている。日本は満州で得られるものはすべて手に入れたとかれは言った。中国の実業家は重要産業から閉め出され、貸し付けを許されなかったので、その大部分は破産した。中国の農民は、日本の移民に土地をとられた。貯蓄法によって、中国の労働者は、いくら働いてもかろうじて命をつないで行けるにすぎない状態に陥った。米と綿花の専売制によって、中国人は充分な食料や衣料を得られなくなった。それは最良の米と綿花を日本軍に供給するためであった。勤労奉仕法が関東軍司令官であった梅津によって施行された。この法律によれば、18才から45才までの者は、すべて道路の構築や鉱山の採掘や土木工事に従事して、日本軍に労働奉仕をしなければならなかった。これらの労務者は、量の足りない給食を受け、医療も全然施されないような収容所に入れられていた。逃亡に対しては、重刑が科せられた。その結果として、第一に日本人、次に朝鮮人、最後に中国人という制度ができたのである。

阿片と麻薬 (原資料125頁)

 日本は満州におけるその工作の経費を賄うために、また中国側の抵抗力を弱めるために、阿片と麻薬の取引を認可し、発展させた。早くも1929年に、中国国民政府は1912年と1925年の阿片条約(付属書B-11及びB-12)による義務を履行しようと努力していた。中国政府は1929年7月25日から施行すべき禁烟法を公布していた。1940年までに、阿片の生産と消費を次第に静止する計画であった。日本は、右の阿片条約調印国として、中国領土内の麻薬の製造と販売を制限し、また中国内への麻薬の密輸入を防ぎ、それによって、阿片吸飲の習癖の根絶について、中国政府を援助する義務を負っていた。

 奉天事件の当時とその後のしばらくの間は、阿片と麻薬のおもな出所は朝鮮であった。朝鮮では、日本政府が京城で阿片や麻薬をつくる工場を経営していた。ペルシャ阿片も極東に輸入されていた。日本陸軍は、1929年に、約一千万オンスに上る大量のアヘンの積み荷を押収し、これを台湾に貯蔵していた。この阿片は、将来の日本の軍事行動の経費に充てられることとなっていた。台湾にもう一つ禁制麻薬の出所があった。1936年に暗殺されるまで、日本の大蔵大臣高橋が運営していたシンエイのコカイン工場では、月産200キロないし300キロのコカインが生産されていた。これは、戦争のための収入を得る目的で、製品を販売することを特別に認可されていた唯一の工場であった。

 日本陸軍の進出した中国の到るところで、軍のすぐあとから、朝鮮人や日本人の阿片行商人がついて来て、日本側当局から何の取締りも受けずに、その商品を販売した。ある場合には、これら阿片密売者は、陰謀、間諜行為又は破壊行為に従事することによって、進入軍のために準備を整えておくように、侵入軍に先んじて送りこまれた。華北でも、厳崎≪ゲンキ≫工作の行なわれた福建省でも、そうであったようである。日本軍の兵や将校までも、時には、利益の多いこの阿片や麻薬の販売に従事したことがあった。日本の特務機関は、占領地で、その占領の後直ちに、阿片と麻薬の取引を取り締まる任務をもっていた。そして関東軍の特務機関が、小磯のもとで、この不法取引に深入りしたために、南が1934年12月に関東軍司令官になったときには、その特務機関が関東軍におけるすべての軍紀を乱すのを防ぐために、かれはこの機関を廃止しなければならなかった。土肥原はこの機関の最も主要な将校の一人であった。麻薬の取引に対するかれの関係は、すでに充分示されていた。

 阿片と麻薬の取引及び使用を次第に制止するという一般的原則は、中国によって公布された麻酔剤法だけでなく、1912年、1925年及び1931年の国際阿片条約(付属書B-11、B-12、B-13)の根本的原則であった。日本はこれらの条約を批准したので、その拘束を受けていた。この漸進的制止の原則を利用して、日本は中国における占領地域に阿片法を公布した。これらの法律は、登録されている阿片常用者に対して、官許の吸飲店で吸飲することを許すことによって、漸進的禁遏(きんあつ。禁じてやめさせること)の原則に表面上は従っていた。しかし、これらの法律は、日本の真の意図と工作を蔽い隠すごまかしにすぎなかった。これらの法律は、阿片と麻薬を官許の店に配給する政府統制の専売機関をつくり上げたのであって、これらの専売機関は、麻薬からの収入を増加するために、その使用を奨励する徴税機関にすぎなかった。日本に占領されたあらゆる地域で、その占領のときから、日本の降伏に至るまで、阿片と麻薬の使用は次第に増加していた。

 満州で行なわれた方法は、次の通りである。1932年の秋に、阿片法が満州国によって公布され、満州国阿片管理部がこの法律を施行する行政機関として設立された。この機関は、満州国総務庁長の全般的監督のもとにあって、重要な満州国財源の一つとなった。これらの財源からの収入がいかに確実であったかは、星野が満州国に着任してから間もなく行なった交渉によって、満州国の阿片益金を担保とした三千万円の建国公債を、日本興業銀行が引き受けることを承諾したという事実によって証明される。

 この方法は華北で繰り返され、さらに華南でも繰り返された。しかし、これらの地区では、行政機関は、興亜院、すなわちチャイナ・アフェアーズ・ビューローであって、東京にその本部を置き、華北、華中、華南の各所にわたって支部を置いていた。これらの機関が阿片の需要を大いに増加させたから、内閣はときどき朝鮮の農民に対して、けしの栽培面積を拡張することを許可しなければならなかった。この取引は非常に収益の多いものになったから、三菱商事や三井物産のような日本の貿易会社は、外務省の斡旋によって、それぞれの阿片販売地域と供給源を限定する契約を結ぶに至った。

 麻薬取引に従事するにあたって、日本の真の目的は、単に中国人民を退廃させること以上に悪質なものであった。日本は阿片条約に調印し、これを批准したので、麻薬取引に従事しない義務を負っていたのに、満州国のいわゆる独立によって、しかし実は虚偽の独立によって、全世界にわたる麻薬取引を行ない、しかもその罪をこの傀儡国家に帰するという都合のよい機会を見出したのである。朝鮮で産出された阿片の大部分は、満州に輸出された。満州で栽培され、また朝鮮とその他の地方から輸入された阿片は、満州で精製され、世界中に送られた。世界の禁制白色麻薬の9割は、日本人の手から出たものであり、天津の日本租界、大連、並びにその他の満州、熱河及び中国の都市で、常に日本人によって、または日本人の監督のもとに、製造されたものであるということが、1937年に、国際連盟において指摘された。

極東国際軍事裁判所


判決


B部

第5章


日本の中国に対する侵略


第3節より第7節まで


第2巻 英文648−775頁

     1948年11月1日


第3節


中国にさらに進出する計画 原資料131頁)

 日本の満州と熱河占領は、1933年春の塘沽停戦協定とともに完了した。西は内蒙古の他の一省であるチャハル省に面し、南は華北の河北省に面する熱河が、新しくつくられた傀儡満州国の国境になった。もし日本がすでに占領した地域からさらに中国に進出しようとすれば、その進出は、万里の長城の東端にある山海関付近の遼寧省の細い回廊によって、満州国を中国の他の部分と結びつける道をとるほかには、熱河から西方チャハルに向かうか、または南方河北に向かうかであった。

 1934年4月17日に、日本外務省は『天羽声明』を発表し、中国における日本の諸計画に対する干渉は、一切日本政府の容認しないところであると九国条約(付属書B−10)加入国に警告した。その後に、質問に答えて、広田はアメリカ大使グルーに対し、『天羽声明』はかれの承認も得ず、またかれに知らせもせずに発表されたものであると説明したが、『天羽声明』が日本の中国に対する政策を真に表明したものであることはやはり事実であった。ここで、すでに、日本の中国に関する野望は、満州と熱河の占領だけでは、満たされていなかったかもしれないと思われた。その後間もなく、1935年の5月と6月に、2つの事件が起こった。その事件の起こったことを理由として、日本側が出した要求に比べれば、その事件はさして重要なものではなかった。しかし、その結果として、河北方面でも、チャハル方面でも、中国国民政府の地位が大いに弱められることになった。

河北事件 (原資料132頁)

 1935年5月の中頃に、天津の日本租界内で、2人の中国人新聞記者が氏名不詳の者に襲われて暗殺された。これらの新聞記者は、親日的感情を持っていたといわれていた。梅津は当時北支那駐屯軍司令官であった。かれの参謀長は、かれの承諾のもとに、北平における中国の軍事機関の長であった何応欽に対して、ある要求を提出した。1935年6月10日に、この事件は解決され、中国側当局は次の点に同意をした。河北省から第51軍を撤退すること、同省内の国民党党部を閉鎖し、一切の党活動を禁止すること、また同省内の一切の排日行動を禁止することである。

 この解決がいわゆる『梅津・何応欽協定』である。

 広大な河北省に対する中国の主権に、このような大きな権限を加えることを同意するように説き伏せるために、中国当局に対して、圧力が加えられたことは、どんな形においても全然なかったと弁護側は申立てている。日本側は、将来の両国関係を改善することができるような、ある『提案』を出したにすぎなかったと弁護側は言うのである。この点については、弁護側証人桑島の証言に注意しなければならない。かれは当時日本外務省のアジア局長であって、中日関係はかれが直接担当していたことであった。日本側が中国側に対して、『相当強硬な要求』をしたということを、かれは北平の日本公使館から聞いたと証言した。かれの証言の全体を考察すれば、中国側は最後通牒をつきつけられたということを、桑島は承知していたことが明らかになる。原田・西園寺日記にも、次のような記事がある。当時の日本の首相岡田が、『初めは好意的に極めて軽い意味の警告』を出すつもりであったが、『結局あんなことになった訳である』と言ったと書いてある。1935年5月30日に、木戸が当時の外務次官重光に、日本の北支那駐屯軍が中国政府に対して重大な要求を提出したという、その朝の新聞の報道に注意を促したとき、重光はその報道を否定しないで、むしろ、日本陸軍内で、そのような行動に対して責任のある人々はだれかということについて推測をした。

北チャハル事件 (原資料133頁)

 1935年6月に、『梅津・何応欽協定』によって、河北事件が解決されようとしていたところ、4名の日本軍人がチャハル省の張北県に入っていった。同県はチャハルの西南部、万里の長城のやや北方にある。かれらはチャハル省政府発行の必要な護照を持っていなかったので、中国軍師長の司令部に連行された。その師長は、これを中国第29軍の司令官に通告した。同司令官はこれらの4名を釈放し、また張家口と北平への予定の旅行を許可することを命令した。ただし、今後は所要の護照を入手しなければならないという警告付きであった。この問題は、最初は張家口の日本領事が取り上げ、中国第29軍副軍長秦将軍に対して、中国警備兵が日本軍人の身体検査を強要したり、小銃を擬したり、師団司令部に4、5時間抑留したりして、日本陸軍に侮辱を与えたと抗議をした。その後間もなく、同領事は、問題がきわめて重大であって、かれの権限では解決できないと述べた。問題は陸軍に移管された。1934年12月に、南が関東軍司令官になり、板垣がその参謀副長になっていた。当時関東軍に配属されていた土肥原が、秦将軍と交渉するように任命された。最後には、関係連隊長及び関係師団の軍法処長を懲戒免職すべしという協定が成立した。たといこれらの将校が悪かったとしても、これらの措置によって、事態は満足に解決されたものと、だれしも考えたに相違ない。しかし、この協定の条項のうちで、何よりもはるかに重要なものは前述の条項に続く諸条項であって、それらは、全部ではないにしても、大部分は上述の事件とは関係のないものである。中国第29軍の全部隊は、張北県より北の諸県から、すなわち実質的にはチャハル省全体から撤退することになっていた。この地域の治安の維持は、保安隊に、すなわち警察隊の性質をもつ組織に委ねられることになっていた。将来においては、中国人はだれもチャハル省北部に屯田移民を許されないことになっていた。これから後は、チャハル省内で、国民党の活動は一切許されないことになった。チャハル省内の一切の排日機関と排日行為は禁止されることになった。これがいわゆる『土肥原・秦徳純協定』である。

 弁護側は、これについても、広大なチャハル省に対する中国主権に、このような大きな制限を加えることを同意するように説き伏せるために、中国当局に対して圧力が加えられたことは、どんな形においてもまったくなかったと申立てている。秦将軍は、その証言の中で、この協定を『一時的の解決』と呼び、中国政府がこれを受諾したのは、『平和を維持せんがためであって、喜んでしたのではない』と言っている。

 このようにして、2ヵ月も経たないうちに、1935年6月までには、国際問題としてさして重要でない2つの事件の解決に名をかりて、熱河における日本軍の右側面は、チャハルからの攻撃の直接の脅威をまったく免れることとなった。日本軍に対して敵意を抱いていると考えられた中国側の2箇軍は、チャハルと河北から退去させられ、また中国国民党の一切の党活動と一切の排日行為とは、両省で禁止されたのである。

内蒙古自治政府 (原資料135頁)

 1935年の初めに、内蒙古における蒙古族の指導者徳王は、この地に自治的な蒙古政府を樹立するために努力を続けていた。この運動のその後の歴史は、田中隆吉少将の証言からとったものである。この証人は、検察側も弁護側も、ときどき必要に応じて出廷させ、かつ、検察側も弁護側も、やはり必要に応じて、反対訊問によって、失格させようとした証人である。しかし、この内蒙古自治政権樹立に関する問題については、かれの陳述が信用できないという理由はなく、経緯の詳細について、かれが精通することのできる地位にあったことは確実である。

 この問題に関する田中の陳述は、次の通りである。南と板垣は、内蒙古自治政府の樹立を熱心に支持した。かれらはこの政府を日本の意志通りにしようと意図していた。1935年4月に、右のような政府を樹立する目的で、徳王と会見するために、南は田中ほか1名の将校を派遣したが、このときには、徳王は承諾しなかった。それに続いて1935年6月に、いわゆる梅津・何応欽協定と土肥原・秦徳純協定が結ばれたが、後者は内蒙古の北部に、すなわちチャハル省に重大な影響を与えたことに注意しなければならない。田中によれば、1935年8月に、南は徳王と会見した。その席上で、徳王は日本との提携を約束し、南は徳王に財政的援助を与えることを約束した。1935年12月に、徳王がチャハル省の北部を占領するのを援助するために、南は騎兵2箇大隊を派遣した。1936年2月11日に、徳王は自治政権の所在地を綏遠省(すいえんしょう。中華民国にかつて存在した省)の百霊廟から西スニトに移した。そして、日本人文官がかれの顧問として、同地に派遣された。

 北平の日本大使館事務総長から、広田外務大臣にあてて、1935年10月2日付けで、他のいろいろなこととともに、次のような内容の重要な電報が送られている。『関東軍の対蒙古工作は着々として進行し居ること本官及び張家口領事累次の報告の通りにして、過日土肥原少将が張家口、承徳間を往来し、チャハル省主席及び徳王と会見せるが如きも、内蒙自治促進の使命を帯びたること疑いを容れず。』

 1936年1月13日に、中国にある日本軍に伝達された日本陸軍北支処理要綱の中にも、この内蒙古自治政府が関東軍の援助と支配を受けていたことを明らかにするいろいろな言葉がある。この文書は、少し後に、さらに詳しく考察することにする。

北支自治政府を樹立する企図 (原資料137頁)

 田中少将の証言によれば、1935年9月に、南は華北に自治政権を樹立するようにとの命令を与えて、土肥原を北平に派遣した。田中は当時関東軍付きの参謀であって、土肥原への指示の起草に参与したと述べた。土肥原・板垣及び佐々木は、北支自治政権樹立の目的の旗印として、『反共』という言葉を追加しなければならないと考えたと、田中はさらに述べた。本裁判所はこの証言を正しいものと認める。なぜなら、それはその後の事態と合致するものであって、また華北のいわゆる自治運動のほんとうの張本人に関する陳述は、これから論ずる各種の日本側から出た文書によって確認されているからである。

 次の2ヵ月間の事件については、ほとんど証拠が提出されていない。しかし、これは驚くに足りないことである。なぜなら、この2ヵ月間は、陰謀の、しかも危険な陰謀の月であったと思われるからである。このような事柄についての交渉が記録されたり、公表されたりすることは稀である。

 最初は、土肥原は呉佩孚(ご はいふ)に北支自治政府の首班になるように説得しようとしたが、失敗に終わった。その後は、土肥原は当時の北平、天津方面防衛司令官宋哲元将軍を説いて、この政府を指導させようと努めたが、それも失敗に終わった。そこで、土肥原と日本大使館付き武官高橋は、説得をやめて、北支自治政府を樹立せよという要求を出すようになった。また、土肥原と特務機関長松井は、さらに、華北において日本側に特別の経済的権益を与えよと要求した。

 勧誘という手段によって、自治政府をつくることが失敗に終わったとき、1935年11月に、土肥原は武力による威嚇に訴え、このような政府の樹立を確保するために、最後通牒を発することさえしたこと、関東軍は、万里の長城の東端にある山海関に戦車、機動部隊、航空機から成る攻撃部隊を集結し、平津地方へ侵入する用意を整えさせることによって、土肥原の威嚇を支援したことが証明されている。

 1935年の末ごろに、華北に2つの新しい形態の政府が現われた。1つは土肥原の努力の直接の結果として樹立されたもので、『冀東(きとう)防共自治政府』と呼ばれた。1935年11月末ごろに、それは殷汝耕(いん じょこう)を首班として樹立された。かれはそれまで冀東地区の長城の南方の非武装地帯の行政督察専員であった。この政府は、中国国民政府からの独立を宣言した。その首都は、北平の東北の、非武装地帯にある通州であった。日本軍は同地に守備隊を置いていた。この政府の支配は、非武装地帯内の多数の県に及んでいた。証人ゲッテは、この政府が樹立された後に、何度も同地方を旅行し、日本守備隊を見、日本側によって徴募され、訓練され、日本人を将校とする新政府の中国人保安隊を見た。この新政府は、非武装地帯にあったので、中国国民政府軍の力は及ばなかった。国民政府は、このいわゆる自治政府の存在に対して、日本側に抗議したが、何の効果もなかった。

 ちょうどこのころに、華北に現われたもう一つの政治機関は、冀察政務委員会であった。これは、土肥原の加えた圧力の結果として、また表面上はかれの希望に副うために、中国国民政府の手によってつくられたものである。日本年鑑によれば、友好関係を維持するために、日本及び満州国と交渉する権限をもつ新しい政治機関であった。

 これらの政権についての土肥原の希望は、1935年の末に、田中も同席していた所で、土肥原が南に行なった報告から窺い知ることができる。冀察政権と冀東政権は、不満足なものではあるが、とにかく樹立され、関東軍の言うことは大体に聞くであろうということ、北支政権は冀察政権を中心にして、樹立されるであろうということを土肥原は報告したのである。

 同じような希望は、このときに、内地にあった日本陸軍も抱いていた。1936年1月13日に、内地の陸軍当局は、中国にある日本軍に、北支処理要綱を伝達した。その要綱の目的は、華北の5相(5省の誤植)の自治を実現することにあると述べられていた。ここで思い出されるのは、これこそ、1935年9月に南が土肥原を北平に派遣した目的であったということである。この要綱は、次のことを指示した。冀察政務委員会に対しては、日本の助言と指導を与えること、冀察政務委員会がまだ充分でない間は、冀東の独立を支持しなければならないが、同委員会が信頼できるほど確立したときは、両政権の合流をはかること、日本が満州国と同様の独立国家を育成するのだと認められるような施策は避けること、従って日本人顧問の数を限定しなければならないこと、内蒙に対する施策は従来の通り継続すること、ただし冀察政務委員会の自治力に対する阻害となっている施策は、当分これを差し控えなければならないこと、華北の処理は支那駐屯軍司令官の任務とすること、同司令官は、直接に冀察と冀東(「冀」というのは河北という意味。「察」は察哈爾省、つまりチャハル省の略。冀東というのは河北省の東部という意味)両当局と接触することによって、これを非公式に実施することを本則としなければならないことである。

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