歴史の部屋

日本陸軍の華北進出計画 (原資料140頁)

 土肥原が関東軍司令官南に対して、冀察政務委員会は関東軍の言うことは大体聞くであろうし、また独立の北支政権が冀察政権を中心として樹立されるであろうと期待していると述べていたころに、関東軍は、中国に対する日本の意図について、きわめて重要な意義をもつ宣伝計画を東京に送付した。1935年12月9日に、これは関東軍参謀長から陸軍次官にあてて送付された。この計画のある部分は、全文引用の価値がある。計画実施の時期については、『軍の関内進出以前においては、主として支那駐屯軍及び中央部の行なう宣伝を側面的に援助するの主義において実施し、出動後においては軍の行動を容易ならしむるの趣旨において行なう』と述べてある。方針としては、『関東軍の関内進出に際しては、その正当性を中外に徹底せしむるとともに、北支民衆に対し反国民党、反共産意識を昂揚し、北支一帯に中央分離の機運を醸成し、また爾余(じよ。そのほか)の地帯の支那軍及び支那民衆の非戦熱を激成す』と述べている。

 さらに、使用されることになっていた宣伝の型を引用する。『1、北支は従来国民政府の植民地視する所にして、事ごとにその搾取の犠牲に供せられあるの事実、並びに北支民衆はその桎梏より脱せんがため、国民政府より分離し、自ら自治政権を樹立せんことを熱望しあり、また北支当事者もまた内心独立の希望に燃え真剣なる覚悟を有す。

 『2、国民政府の銀国有制の実施は該政府に対する怨嗟反感を激成し、ここに急速なる自治政府の樹立運動が展開されつつあり。

 『3、北支自治政権が帝国と相提携して赤化防衛に当たらんとするは、東洋永遠の平和確立のため日満支合作の曙光として帝国の最も希望するところなり。故に自治政権出現及びその発達に対しては挙国一致確乎不抜の態度をもってこれを支持す。

 『4、国民政府の北支停戦協定その他軍事諸協定の蹂躙、排日排貨の使嗾、満州国撹乱等は、北支にあるわが権益及び居留民の生活、並びに満州国の存立に対する脅威なるをもって、依然裏面的策動を続行するにおいては、帝国としても威力に訴うるのやむなき場合あるべきを中外に了知せしむ。

 『5、派兵に至れば、わが武力行使は支那軍部を膺懲するを目的とし、決して支那一般民衆を対象とせざる点を明らかにす。

 『6、国民政府その他支那軍閥の武力行使は人民を塗炭の苦境に陥らしめ、国家を破滅に導く所以を宣伝し、一般民衆の非戦熱を昂揚す。

 『7、支那軍に対しては特に各軍相互の反目を助長するとともに、日本軍偉大視観を増大し、その戦意を喪失せしむ。

 『8、満州国に対しては、北支自治政権の出現は満州国政府の善政に対する翹望(ぎょうぼう。首を長くして待ち望むこと)の具体的現われにほかならず、満州国の前途に光明をもたらす所以を明らかにす。』

 このように、この文書を全文引用したのは、1935年12月9日に提唱されたこの提案を、弁護側の全体によって、特に南、梅津、板垣、土肥原によって、提出された主張と対照させるためである。この主張によれば、いわゆる北支独立運動は、日本が起こしたものでも、また促進したものでもなく、華北民衆の側の自発的運動であったというのである。

 華北のいわゆる自治運動に対する日本側の態度と意図の問題について、同じように関連性のあるのは、1935年12月2日に、当時の北支駐屯軍司令官多田中将が東京の陸軍省に送付した『北支における各鉄道の軍事的処理要領案』である。

 この文書は、華北において軍事行動に従事する日本軍のために、華北のいくつかの鉄道を運用するについての、詳細な計画を含んでいる。この計画された軍事行動の性質については、この文書は特に述べてはいない。その軍事行動は、『作戦目的』、『作戦行動』、『軍は武力解決のやむを得ざるに至れば』というような漠然とした言葉で説明されている。しかし、文書全体を厳密に検討してみると、日本陸軍が長城に沿う線の付近から出動し、前面の中国国民政府の軍隊を駆逐し、華北5省のうちの南部3省である山東、河北、山西を掃蕩しようとしていたことが明らかになる。また、この軍事行動が、懸案の北支自治政権を支援するために開始されることになっていたことも明白である。従って、中国人鉄道従業員に、『北支自治運動の精神を理解』させることになっていた。そして、正常な政情が回復した場合における鉄道の処理について、多田中将は私案として極秘の案を述べている。かれは次のようにいっているのである。『作戦終了し北支の情勢平常化するに伴い・・・・鉄道は北支政権に移譲す・・・・。日本人顧問または職員の一部を傭(ようへい。招いて雇い入れること)させて、各鉄道を北支政権交通部に掌握させる・・・・付記。「日本」鉄道線区司令部の撤去に際しては、北支政権に左記の事項を要求する。

 『1、各鉄道に顧問及び公休職員の傭聘

 『2、各鉄道の警備権並びに沿線主要地の駐屯権

 『3、膠済(こうさい)鉄道及び徐州以東の隴海(ろうかい)鉄道の譲渡

 『4、新鉄道の敷設権

 その上に、この文書は、この行動を容易にするために、華北でいくつかの措置がすでにとられていたことを示している。すなわち、

 『2、南京政府の各鉄道輪転材料吸収策に対し努めてこれが南下を防止す。これがため努めて各種間接手段を講ずるも、北寧鉄路に対しては、要すれば威力をもってこれを抑制す。威力使用に当たりては南京政府の抗日戦備に対する自衛並びに北寧鉄路の保護を名目とす。(北寧とは協定の結果、憲兵を出し実施中)』

 このようにして、1935年の後半に、関東軍と北支駐屯軍は、中国の北部5省を中国国民政府から離反させ、この地に日本の意に従うような一つまたはそれ以上の自治政権を樹立しようとする計画を実行していたのである。この計画は、日本の満州と熱河の征服の際に見られた二つの主要な要素を含んでいた。すなわち、(1)日本による軍事的支配、(2)日本の目的に仕えるようにさせることのできるような、少数の中国要人による独立宣言を含んでいた。しかし、満州の場合には、軍事的征服が、人為的に醸成された独立宣言よりも、前に行なわれた。華北の場合には、日本軍部は、軍事的征服の外形を避けようと希望し、初めは説得によって、後には武力行使の威嚇によって、人為的につくられた北支自治政府を樹立させようと熱心に努力した。1935年の末までには、以上に考察した侵入の計画を日本の軍部は練り上げていた。日本の軍部のいろいろな努力は、日本の外務省に知られていて、遺憾とされていた。しかし、それはこれらの努力が外務省の領域――日本の対外関係の処理――を侵害しようとする陸軍の企てと見られたからにすぎない。

広田の三原則 (原資料145頁)

 中国にある日本の各軍が、華北における軍事行動を予想して計画を立てていたときに、他方で、日本政府は外交手段によって中国を隷属させる計画を練っていた。1935年8月5日に、外務大臣広田は、かれの訓令に基づいて外務省東亜局が作成した計画を、中国にある外交官と領事官に送付した。この計画は、陸海軍当局と協力して、東亜局が日本の中国に対する政策を再検討した結果であった。三原則は、この計画には、次のように述べられていた。(1)中国側において排日言動の徹底的な取り締まりを行なうとともに、日華両国は相互独立尊重及び提携共助の原則による和親協力関係の増進に努め、かつ満華関係の進展をはかること、(2)この関係の進展は、中国側で満州国に対して正式の承認を与えるとともに、日満華三国の新関係を規律する取極めをなすことを結局の目標とするものであるが、さしあたり中国側は少なくとも満州に接した地域である華北とチャハル地方で満州国存在の事実を否認することなく、満州国との間に事実上経済的及び文化的の融通提携を行なうこと、(3)チャハルその他外蒙に接した地方では、日本と中国の間で共産主義の脅威排除の見地に基づく合作を行なうこと。

 その後に、1935年9月28日付けで、中国と満州国における日本の外交官と領事官にあてて送付された電報で、日本を中心とし、日本、満州、中国の提携共助によって、東亜の安定を確保し、その共同繁栄を計るのは、日本の対外政策の根幹であるとして、広田は右の三原則を繰り返し強調した。その三原則は、実質において、次のように述べられた。(1)中国側に排日言動の徹底的取り締まりを行なわせ、欧米依存政策から脱却して、具体的問題について日本と提携させること、(2)中国側をして満州国に対して究極には正式の承認を与えさせるが、さしあたっては、満州国の独立を黙認させ、少なくとも満州に接した地域である華北方面では、満州国との間に経済的と文化的の融通提携を行なわせること、(3)外蒙に接した地域で、赤化勢力の脅威を排除するために、中国側に日本と協力させること。右の電報には、以上の原則が着々と実行に移され、中国側の誠意が充分示されるならば、日本と満州と中国の間の新関係を定める一般的協定を行なうものとするという追加的訓令が付加されている。1935年8月5日の三原則の文面と比較すれば、この文面に見られる一つの重大な変更は、この後の文面では、日本と中国とが相互独立尊重の原則によって協力することという字句が省かれていることである。

 1935年9月28日の第二次の文面に述べられた計画は、陸海軍と相当議論をした後、1935年10月4日に、総理、外務、陸海軍及び大蔵諸大臣によって採択されたものである。在外の日本外交官は、問題を厳秘に付するように、重ねて通告と訓令を受けた。1936年1月21日に、右の三原則は、広田の議会演説を通じて公表された。しかし、これらの原則は、中国による満州国の「事実上の」状態の承認を含むことになるために、中国側からは、これを認めようという熱意は少しも示されなかった。このようにして、日本の外交官は、日本のために、満州征服の成果を確保することになっていた。

 1936年1月21日、中国に対する日本の政策に関して、広田がかれの三原則を発表していたときに、日本の外務省は、中国北部5省に自治政府を樹立しようとする陸軍の計画を充分承知していた。なぜなら、その同じ日に、すなわち1936年1月21日に、外務省は中国の日本大使にその計画の写しを送付していたからである。

2・26事件 (原資料147頁)

 2・26事件は、海軍内閣として知られ、また陸軍の武力によるアジア大陸進出政策に反対であると一般に考えられていたところの、岡田を首班とする政府に対する陸軍側の憤懣が爆発したものであった。この事件は、1936年2月26日に起こった。これよりさき、岡田が斎藤内閣の海軍大臣であったときに、陸軍の激しい反対にもかかわらず、この内閣は陸軍予算を削減する政策を遂行したために、非常な難局に遭遇した。1934年に岡田が総理大臣になったときには、陸軍の勢力は強くなりつつあった。すでにこの内閣の組閣中に、陸軍が新内閣の邪魔をし、問題を引き起こそうとしている徴候があった。

 1936年2月26日に、22名の将校と約1400名の兵士が政府に対して反乱し、東京を3日半にわたってテロ化し、首相官邸、議会、内務省、陸軍省、警視庁及び参謀本部を占領し、大蔵大臣高橋、内大臣斎藤、渡辺大将を暗殺し、侍従長鈴木と岡田自身を暗殺しようとした。この事件の結果として、1936年3月8日に岡田内閣は辞職し、代わって広田が総理大臣となった。

 この事件の目的は、岡田内閣をしりぞけ、その代わりに、大陸においてさらに進出しようとする陸軍の政策と合致する、もっと強力な政策をもつ内閣をつくることであった。この事件は、陸軍の野心に対して政府が同情をもたなかったことについて、陸軍の青年将校の一団が不満を抱いていたが、その不満が自然に爆発したものと考えると岡田は証言した。

広田内閣の成立 (原資料149頁)

 1936年3月9日に、2・26事件の結果として、広田は岡田の後をついで日本の総理大臣に就任した。広田は陸軍の紀律を確立して、当時その恐ろしい結果があらわれたばかりの、政治問題への陸軍の干渉を除去するということをしないで、組閣にあたって、すでに、ある大臣の人選には陸軍の要求に屈従した。その上、かれが総理大臣に就任して間もなく、1936年5月には、陸海軍両省の官制が改正され、陸海軍大臣は中将以上の階級、次官は少将以上の階級を持ち、いずれも現役でなければならないと定められた。1913年このかた、官制はその規定において、予備役の将校を陸海軍大臣に任命することを認めていたのであった。こんどの変更は、陸海軍大臣を現役高級将官から任命していた当時の慣例を事実において、法律化したものではあるけども、それは陸軍の要求に従って行なわれたものである。これによって、現役の者であろうと、予備役から現役に再編入された者であろうと、陸軍大臣になる者は、だれでも陸軍の紀律と指揮のもとに置かれ、それによって陸軍の支配を受けるということを陸軍は確保したのである。

広田内閣の外交政策 (原資料149頁)

 1936年6月30日に、陸海軍省は『国策大綱』を定めた。その根本政策は、日本の国防を安定するために南方海洋に進出し、これを発展させるとともに、東アジア大陸に強固な地歩を手に入れることであった。ここに挙げられた大綱は次の通りである。すなわち、(1)日本は列強の覇道政策を実現すること。(2)日本は東亜の安定勢力となる帝国の地位を確保するに必要な国防軍備を充実すること。(3)日本は満州国の健全な発展を期し、日満国防の安固を希望し、経済的発展を促進するために、ソビエット連邦の脅威を除去し、アメリカとイギリスに備え、日本・満州・中国の緊密な提携を具現し、この大陸政策の遂行にあたっては、列国との友好関係に留意すること。(4)日本は南方海洋では民族的経済的発展を策し、つとめて他国に対する刺戟(=刺激)を避けつつ、漸進的平和的手段によってその勢力の進出をはかり、それによって、満州国の完成と相まって、国力充実と国防強化の両全を期すること。

 以上の計画は、総理大臣広田と陸軍、海軍、外務、大蔵各大臣とからなる五相会議で、『国防大綱』として、1936年8月11日に採用された。これらは平和的手段によって達成されるものであって、防衛的性質のものであったと広田は主張しているが、この大綱の内容は、説明がなくてもおのずから明らかである。日本はみずから東亜の指導者の役割を引き受け、それによって、大陸における進出から、さらに南洋方面に進出し、ついに西洋諸国の勢力を除去することによって、この全地域を日本の支配下に置こうと志したものである。すでに言ったように、この文書にある『国防』という言葉の使用に注意しなければならない。この言葉は、日本の国策に関する多くの声明に現われている。この言葉は、決して他国の侵略的行為に対する日本の防御だけに限られているのではない。侵略的であろうとなかろうと、日本が常に自国の政策を軍事力で支持することを意味しているのである。

板垣の蒙古政策 (原資料151頁)

 国防の名のもとに、広田内閣が対外進出の外交政策を立てていたときに、関東軍は北方の蒙古に注意を向けていた。これより先、すなわち板垣が関東軍参謀長に昇任した5日後の1936年3月28日に、板垣は有田大使と会見し、外蒙古と内蒙古との戦略的重要性について、かれの意見を述べた。板垣はいった。『外蒙の関係位置が今日の日満勢力に対し極東ソ領と欧ソとの連絡線たるシベリア鉄道の側面掩護の地帯としては極めて重要性を有す。従ってもし外蒙古にして我が日満側に合体せんか、極東ソ領の安全性はほとんど根底より覆さるべく、また万一の際においてはほとんど戦わずしてソ連勢力を極東より後退せしむることを得るに至るやも知るべからず、従って軍はあらゆる手段により日満勢力の外蒙古に対する拡充を企図しあり。』

 さらに内蒙古に関して、かれは次のようにいった。『西部内蒙古及びその以西の地帯は、帝国の大陸政策の遂行上重要なる価値を有す。すなわちもし該地帯を我が日満側の勢力下に包含せんか、積極的には進んで同一民族たる外蒙古懐柔の根拠地たらしむべく、さらに西すれば新疆省よりするソ連勢力の魔手を封ずるとともに、支那本部をして陸上よりするソ連との連絡を遮断し・・・・如上の見地に立ちて軍は西部内蒙古に対し数年来逐次工作を進めつつあり、軍は将来さらに万難を排して工作の歩を進むべく固き決意を有す。』

 この板垣の言葉は、日本の『大陸政策』の線に沿って、関東軍がこれらの地域ですでに行なったこと、また将来続けて行なおうとしていたことを示すものである。土肥原と他の関東軍将校との努力によって、1935年に、徳王の下に内蒙古自治政権が樹立され、すでに内蒙古の一部は日本の勢力下に置かれていたことを想い起こさなければならない。残された仕事は、日本の勢力をさらに西方に、そして外蒙古にまで伸張することだけであった。以上によって、徳王の率いる内蒙古自治政権の首都が1936年2月に百霊廟から西スニトに移され、さらにその年の6月に徳化に移された理由が明らかになる。

蒙古における建国会議 (原資料152頁)

 日本が積極的な蒙古政策を採用した結果として、内蒙古の自治運動は順調にはかどった。1936年4月に、徳王と李守信は、日本特務機関長田中と西ウシュムシンで会見した。蒙政会、シリンゴール盟、チャハル盟、ウランチャップ盟、トモテ旗、アラシャン、コシンオウ旗、イコチャ盟主、青海及び外蒙古の各代表がこの会合に出席した。この会合は建国会議と称せられ、1936年4月21日から26日まで続いた。この会議で決定されたおもな事項は、次の通りである。(1)内外青海、蒙古を一丸として蒙古国を建設する案、(2)君主制を立てる案、但し当分の間は委員制とすること、(3)蒙古国会を設ける案、(4)軍政府を組織する案及び(5)満州国との相互援助協定を締結する案である。

 1936年6月に、この政権の所在地は徳化に移され、独立の蒙古政府が設立された。1936年7月に、この政府と満州国との間に政治的と経済的の相互援助を規定した協定が結ばれた。この条約の締結された後に、徳王はその軍隊の装備に着手した。その目的は、それまで三箇師団であった騎兵師団を九箇師団に増強することであった。南も板垣も、蒙古国の樹立に熱心な支持を与えた。陸軍の政策は、極秘のうちに遂行された。内蒙古の独立を承認する準備は、日本陸軍によって整えられた。

華北に対する日本の政策――1936−1937年 (原資料153頁)

 1936年8月11日に広田内閣の関係各省によって、『第二次北支処理要綱』が決定された。この政策の主眼は、華北民衆が分治政治を完成することを援助し、防共親日満の地帯を建設し、日本の国防に必要な資材を獲得し、ソビエット連邦の可能な侵寇に備えて交通施設を拡充し、このようにして、華北を日本と満州と中国の協力のための基礎にしようとすることにあったと述べてあった。華北5省には、究極においては自治を与えるものとされた。冀東政権は、河北とチャハルとの全体に対して模範となるように、その内政を改革するように指導すべきものとされた。華北経済開発の目的は、自由投資によって伸暢(しんちょう)された相互的経済利益を基礎とする日華不可分の事態を構成し、これを平戦両時における日本と華北の友好関係の保持に資せしめると述べてある。華北各省の鉄、石炭及び塩は、日本の国防と交通施設及び電力の開発とに利用されることになっていた。この計画は、輸送機関の統一改善と華北の天然資源の開発との方法について、詳細に規定していた。この計画には、冀察政務委員会が日本に追随するであろうという、1935年の終わりごろの日本の希望が実現しなかったことに関して、内的証拠がある。この計画は、冀察の要人を指導するにあたっては、公正な態度で臨まなければならないと述べている。機構を改善し、その人員を浄化し、刷新するとともに、中国軍閥の財政、経済、軍事、行政を清算するように努力しなければならないと述べている。

 ここで日本が提案した華北の自治の内容は、新政権が財政、産業、交通を支配し、中国国民政府の排日的干渉を受けないようにすることであった。それと同時に、この計画は、日本が中国の領土権を侵害しているとか、独立国家を樹立しているとか、あるいは華北を満州国の延長としようとしているとかいうように解される行動は、これを避けなければならないと定めている。1936年1月13日に、外務省から中国の日本大使に回送されたところの、華北に関する第一次案にも、すなわち陸軍案にも、同様な規定があったことが、ここで思い出されるであろう。日本の国策立案者は、まだ世界人の眼に黒を白く見せることができると信じていたのである。満州に関する日本の二枚舌についての国際連盟の暴露も、一向かれらの戒めにはならなかった。

 その後、1937年2月20日に、林内閣の関係各省によって、『第三次北支処理要綱』が決定された。その内容には、何も実質的な変更はなかった。1937年4月16日には、同内閣の外務、大蔵、陸軍海軍大臣によって、再び『北支指導方策』が決定された。この計画の要点は、華北の特殊地位を中国政府に認めさせ、経済工作を遂行することであった。林内閣によって決定された第三次北支処理要綱と北支指導方策は、いずれも、後にさらに詳しく取り扱うことにする。

豊台事件 (原資料155頁)

 1936年5月に、日本軍と華北の中国官憲との交渉の結果として、日本軍1箇大隊が北平の西方の町、豊台(ほうたい)に駐屯することが認められた。1936年9月18日に、豊台で日本兵1箇中隊が演習を行なった際に、一つの事件が起こった。日本兵が中国軍の駐屯地域を通過したときに、中国の哨兵がかれらを停止させようとし、そこに衝突が起こった。それは直ちに解決されたにもかかわらず、日本側はこの事件を増援の口実に用い、豊台を占領した。豊台の占領によって、日本軍は京漢線の連絡を支配し、また華北を華中から切り離すことができる地位を占めた。これが1937年7月7日に起こった盧溝橋事件の、すなわち、時としてマルコポーロ橋事件とも呼ばれる事件の、舞台装置であった。この橋は豊台から北平に至る鉄道線上にあって、もしも日本がこの橋を制圧することができたならば、西方から北平を制圧することが容易になる。そして、豊台駐屯の日本軍は、盧溝橋から、また、北平に至る鉄道線上のもう一つの戦略的地点である長辛店とから、中国駐屯部隊が撤退することを繰り返し要求した。1936年の冬に、日本軍はこの緊要な戦略的地域における駐屯部隊の増援を企て、同地に兵舎と飛行場の建設を計画した。このために豊台と盧溝橋との間の地域で、かれらは広大な土地を買収したいと思っていた。しかし、これらの要求は中国側によって拒絶された。

張と川越の会談 (原資料156頁)

 1936年の秋に、中国外交部長張群と日本大使川越との間に、中国と日本との外交関係を調整する目的で、一連の会談が行なわれた。1936年11月の終わりに、川越はまた蒋介石大元帥と会見したが、その際に、両国の外交関係の調製を実現する希望が相互に述べられた。中国外交部長との会談で、日本側は次の重要な諸点を内容とする提案を示した。(1)中日経済協力、(2)中日防共協定、(3)華北と日本との関係にかんがみ、これを特別地域とすることである。張群は、中日経済協力にはもちろん賛成であるが、これは互恵平等の原則を基礎とすることを希望していると答えた。中日防共協定に対しても、かれはやはり大いに賛成であるが、この場合にも、またこの協定が中国の主権を侵害しないようにしたいと希望した。華北と日本との関係にかんがみて、これを特殊地域にすることに関しては、単に特殊経済関係を認め得るだけで、特別な行政的変更を認めることはできないとかれは言った。中国政府の態度は、日本の政策、特に華北に関する政策と相容れなかったので、これらの会談は何の成果ももたらさなかった。

広田内閣の倒壊 (原資料157頁)

 1937年1月20日に、日本の二政党のうちの政友会は、広田内閣を攻撃する声明文を発表した。攻撃の理由として、他のいろいろなこととともに、次のようなことを挙げた。閣僚はあまりにも官僚と軍部の独断的偏見にとらわれており、あらゆる面に干渉しようとする陸軍の欲望は、日本における立憲政治に対する脅威であるというのであった。1937年1月22日に、陸軍大臣寺内は辞表を提出した。その理由は、かれの述べたところによると、いく人かの党員を閣僚に出している政党の時局に対する認識が、陸軍のそれと根本的に相違しているからというのであった。その当時の情勢のもとでは、陸軍の過激な政策と政党政治をなんとか調和させることのできる新しい陸軍大臣を得ることは、まったく望みがなかったので、広田内閣は辞職しなければならなかった。


宇垣は組閣に失敗した

 広田内閣の辞職に伴って、1937年1月24日に、宇垣は組閣の勅命を受けた。宇垣は陸軍から好感をもって見られていなかった。宇垣の就任を妨げるために、陸軍は然るべき有効な手段を講じた。これが重要な、深い意味のある出来事であって、この判決の他の部分で、さらに詳しく検討されている。従ってここでは、単にいろいろな出来事に関する叙述の一部として、これに言及するに留めておく。

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