歴史の部屋

林内閣とその華北政策 (原資料158頁)

 林内閣は1937年2月2日に成立した。梅津は陸軍次官として留任し、賀屋は大蔵次官に任命された。政府の一般政策は変更されなかった。華北に関する広田内閣の離反政策を踏襲し、1937年2月20日に、関係各省によって、『第三次北支処理要綱』が決定された。華北処理の主眼は、満州国を確固たる親日的な防共的なものとし、国防資材を獲得し、交通施設を保護し、ソビエット連邦に対する防衛を準備し、日本・満州・中国の結合を確立することにあった。前記の目的を達成するために、日本は華北における日本の経済政策を実施し、北支政権を内面的に援助し、華北の特殊地位と日本・満州・中国の結合を中国国民政府に認めさせることになっていた。

 さらに、1937年4月16日に、外務、大蔵、陸軍、海軍の各大臣によって、『北支指導方策』が決定された。華北指導の要点は、『該地域をして実質上確固たる防共親日満の地帯たらしめ、併せて交通施設の獲得に資し、もって一は赤化勢力の脅威に備え、一は日満支三国提携共助実現の基礎たらしむるにあり』とある。経済開発に関しては、鉄、石炭、塩、その他のような、国防上重要な軍需資源の開発と交通施設の設置とを、必要な場合には、特殊資本によって、急速に実現しなければならないと定めている。ここでも、また、第三国に日本の意図を誤解させるような行動は避けなければならないという規定がある。関係各大臣の出席した閣議で、これらの政策が作成されたということは、陸軍だけでなく、他の政府各省も、近い将来に実行されるはずの、華北に関する、ある積極的な計画に対して、用意ができていたことを明らかにした。

第一次近衛内閣とその後の華北に対する計画 (原資料159頁)

 林内閣が崩壊した後、1937年6月4日に、広田を外務大臣、賀屋を大蔵大臣として、近衛公爵が総理大臣に就任した。

 軍部内には、中国における軍事行動をさらに推進せよという扇動が行なわれていた。当時関東軍参謀長であった東条英機は、1937年6月9日に、参謀本部に電報を送って、現下の支那の情勢をソビエットに対する作戦準備の見地から観察すると、もし日本の武力でできるならば、まず第一に、中国国民政府に対して『一撃を加え』、日本の背後の脅威を除去しなければならないと進言した。1ヵ月足らずのうちに、進言の通りに、中国国民政府に対する一撃が加えられた。

 われわれが右に検討した出来事によって、次のことがわかる。満州と熱河を奪取したことは、徐々に中国全体を支配しようとする日本の計画の単なる第一歩であって、この中国全体の支配によって、日本製品の一大市場であり、また非常な天然資源のある中国を、日本が東亜の盟主になることに寄与させようというのであった。満州と熱河が奪取されるかされないうちに、そして、これらの地方を日本経済に対する衛星的な供給者に転換することがまだほとんど始まらないうちに、早くも1934年の春に、日本は華北5省に関する特殊地位を主張していたのである。1935年の6月までに、日本はいわゆる梅津・何応欽協定及び土肥原・秦徳純協定の締結を強行していた。これによって、右の5省のうちの2省、すなわち河北省とチャハル省に対する中国国民政府の勢力は大いに弱められた。1935年の終わりには、日本の支持によって、2つのいわゆる独立政府が樹立されていた。これは日本がつくり出したもので、徳王の内蒙政府と、通州に首都を置いた冀東防共自治政府とである。このときには、冀察政務委員会も設立されていた。日本はこれを中国国民政府から独立させ、日本の意志のままになるような華北5省の政府に変えることができるものと予期していた。予期されていた華北5省の独立宣言に続いて、日本はこれらの省を軍事的に占領しようと意図していた。この占領とこの行動に伴って行なうことになっていた宣伝とに関する軍事的計画は、1935年の終わりまでには、実施されるように準備されていた。説得も武力による威嚇も、冀察政務委員会をして華北5省の独立を宣言させるように仕向けることはできなかった。われわれの意見では、日本陸軍は、その軍事的冒険を支持させるように日本政府を支配するために、政府に対するその勢力を増大強化することを日本国内の出来事によって余儀なくされたのであるが、もしこのようなことがなかったならば、日本軍によるこれらの各省の占領は、実際よりもはるか前に行なわれたであろう。1936年2月の陸軍の反乱の結果として、陸軍は陸軍の野心的な政策を支持しなかった岡田内閣を除くことはできたが、この反乱は、陸軍の青年将校の間に、軍紀と責任感がないという重大なことを暴露した。このために、再び軍紀を確立する間、陸軍はひと休みしなければならなかった。次の総理大臣広田とかれの内閣の陸軍、海軍、外務、大蔵の各大臣は、陸軍の主張する進出政策に全面的に賛成していた。そして、1936年の後半には、『1936年6月の国策大綱』、1936年8月の『国策の基準』及び『第二次北支処理要綱』が、かれらのうちの全部あるいは一部の者によって採択された。この間に、陸軍は豊台に足場を確保し、これによって盧溝橋を占拠し、華北5省を南方の中国各地から切り離し、北平を制圧することができるようになっていた。しかし、広田内閣としては、陸軍の政策に対して全面的には賛成していなかった。閣員の中には、政府に対する軍の支配の増大を不満に感じていた分子もいた。これらの者を除く必要があったので、1937年1月に、陸軍は広田内閣を倒壊させ、宇垣の組閣を失敗させた。最後に、1937年6月の初め短命であった林内閣瓦解の後に、近衛公爵がその第一次内閣を組織し、陸軍の冒険に対して、ついに政府の支持が確保された。日本が中国を征服しようという計画の次の一歩をとるについて、今や妨害が除去されるに至った。

第4節


盧溝橋事件(1937年7月7日)から1938年1月16日の近衛声明まで (原資料162頁)

 1901年9月7日の北清事変に関する最終議定書(付属書B-2)によって、北平に公使館を有する諸国に対して、公使館区域内の、また首都と海浜との間の自由交通を確保するために、北平天津間の鉄道線に沿う12ヵ所に、警備兵を置く権利を中国は認めた。1902年7月15日の追加協定によって、それらの地点に駐屯する外国軍隊は、実弾射撃の場合のほかは、中国官憲に通知することなく、野外演習及び射撃演習をする権利を与えられた。1937年7月の初めには、他の議定書署名国が華北にただ小分遣隊だけを置いていたにかかわらず、日本は七千ないし一万五千の間でいろいろに見積もられた兵力を維持していた。イギリスは公使館警備兵252名を含めて合計1007名を有し、フランスの河北省駐屯の実員数は1700名ないし1900名の間を上下し、その大部分は天津に駐屯していた。日本軍隊の数は、議定書に基づく義務を履行するに必要な数をはるかに超えていた。1937年6月から、盧溝橋(マルコポーロ橋)付近において、日本軍は激しい夜間演習を行なった。これらの夜間演習は毎晩行なわれた。これに反して、他の駐屯外国部隊の行なう夜間演習の回数は、日本の行なうものよりも、はるかに少なかった。中国側はその地域の住民に不安を与えないように、夜間演習の事前通告を要求した。これに対して、日本は同意していた。1937年7月7日の夜は、通告なく演習が行なわれた。従って、その夜に、盧溝橋事件が起こったのは緊張と不安の雰囲気の中においてであった。

 その夜の10時ごろに、中国官憲は北平の日本特務機関長松井太久郎(たくろう)から電話を受けた。この電話は、宛平の中国駐屯部隊が演習していた日本の部隊を射撃した後に、日本兵1名が行方不明となったと称し、その捜索を行なうために、日本軍隊を宛平に入れることを許可するように要求した。宛平は盧溝橋の付近にあり、北平の西方の主要な交通線上にあるので、戦略的に相当な重要性があった。豊台の日本軍隊は、1937年7月以前にも、同地駐屯の中国軍隊の撤収を繰り返し要求していたのであった。

 1936年に、日本は兵舎と飛行場の建設する目的で、北平西方の豊台と盧溝橋との間に広大な土地を手に入れようと努力し、それが失敗した経緯とのついては、すでに述べておいた。盧溝橋から中国軍隊を撤収することと、豊台・盧溝橋間に日本軍が駐屯地を設けることが華北に及ぼす戦略的影響は明白である。北平は、南方と西方から完全に遮断されることになったであろう。

 宋哲元将軍が休暇で帰郷して不在であったので、当時29軍の軍司令官を代理していた秦徳純将軍は、中国連絡関係官に対して、日本の宛平入城の要求に対しては、その夜の状況のもとに行なわれた演習は違法であり、従って、日本側の主張する行方不明の兵については、中国官憲は何も責任はないと回答するように指令した。しかし、宛平駐屯の中国部隊に対して、自分の方で捜索を行なうように命令するとかれは言った。日本側はこの回答に満足せず、日本側の手によって捜索を行なうことを固執した。

 宛平城の行政督察専員王冷斎は、秦将軍から、日本軍の演習と日本兵が行方不明になっているかどうかについて調査と報告をするように命令された。この間に、砲6門を有する日本軍1箇大隊が豊台から盧溝橋に前進しつつあるという報告が中国官憲に入った。ここにおいて、中国部隊は待機命令を受け、王冷斎が松井との交渉のために派遣された。王冷斎は調査を行なったが、いわゆる行方不明の兵隊を探し出すことができず、その後行なわれた松井との会談も、何の結果ももたらさなかったが、現地で共同調査を行なうことに決められた。王冷斎と日本代表寺平が城内に入った後に、日本軍は同城を三方から包囲して、射撃を始めた。中国部隊は城壁に拠って宛平を守った。1937年7月8日午前5時、まだ調査が行なわれているときに、盧溝橋の近くにある龍王廟で、大隊長一木の指揮する日本軍1箇大隊が中国軍を攻撃した。6時ごろに、日本軍は宛平城に対して機関銃で攻撃を始めた。

その後の作戦と停戦交渉 (原資料165頁)

 1937年7月8日の朝に、長辛店に至る鉄橋が日本軍に占拠された。その日の午後、日本側は宛平城の司令官に対して、その夜の7時までに降伏するか、そうでなければ、砲撃を開始する旨の最後通牒を送達した。しかし、中国側は頑として譲らず、7時になると同時に、日本軍の砲撃が開始された。翌日、すなわち1937年7月9日に、日本側は、松井とその他の者を通じて、秦将軍に対して、行方不明の兵が発見されたことを通告し、また次の条件による停戦を申し出た。(1)双方直ちに軍事行動を停止すること、(2)双方の軍隊は各々最初の線まで撤退すること、(3)日本に対して一層強い敵意を有していた第37師の代わりに、第29軍に属する他の部隊を宛平の防衛にあてることというのであった。また、双方とも将来これと同様な性質の事件が起こることを回避する旨の了解が結ばれることになっていた。その日にこの停戦は成立した。

 吉星文中佐の指揮する中国部隊はもとの位置に撤退した。他方で、日本軍隊は豊台に向かって撤退することになっていた。もし日本側が停戦条件を守ったならば、事件は当然にこの段階で解決されたものと見られたであろう。しかし、後になって、鉄道トンネル付近の約百名の日本兵が、協定通りに撤退しなかったことが確かめられた。1937年7月9日の夜半、そこにいた日本軍部隊は再び城内に向かって発砲したのである。それから後、日本軍部隊は紛争地へ続々注ぎ込まれた。7月12日には、すでに日本軍隊2万名と飛行機百機がこの地域に入っていた。これに続いて、後に述べる大規模な敵対行為が発生した7月27日まで、この地域で、両軍の間に散発的な衝突が起こった。

日本政府の態度 (原資料166頁)

 敵対行為が起こったという公電は、1937年7月8日に、東京に到着した。その翌日に、近衛内閣は、臨時閣議で、政府と態度として、紛争の規模を拡大しない方針を堅持し、早急に現地で問題の解決をはかるべきことを決定した。この内閣の決定にもかかわらず、1937年7月10日に参謀本部は、関東軍から2箇旅団、朝鮮から1箇師団、日本内地から3箇師団を送って、駐屯部隊を増援することを決定した。広田と賀屋が閣僚であったこの内閣は、7月11日に陸軍案に同意した。関東軍の部隊は北平と天津地域に送られた。しかし、1937年7月11日の夜、中国側が妥協したという北支軍の報告を受けると、統帥部は日本内地における師団の動員を中止することを決定した。1937年7月13日に、統帥部は『北支事変処理方針』を採用した。それには、日本軍は現地解決方針を堅持し、内地部隊の動員は、その後の状況の推移によって決するが、中国側においてその同意した条件を無視した場合、あるいは華北に向かって軍隊を移動させるような不誠意を示した場合には、断固たる処置をとると定めてあった。

 1937年7月17日から後、現地では、北支駐屯軍と第29軍との間に、南京では、日本の外交官と中国政府との間に、それぞれ交渉が行なわれている最中に、日本の統帥部は、1937年7月11日に中断されていた日本内地における動員の準備を進めていた。第29軍司令官兼冀察政務委員会会長であった宋哲元が、1937年7月18日に妥協したという報告があった後になっても、日本の統帥部は、中国政府が誠意を示さなかったという理由に基づいて、まだ動員準備を推し進めて行った。1937年7月20日に、内閣は3箇師団の増援を承認した。1週間の後に、北支駐屯軍司令官は、平和的解決のためのあらゆる手段を尽くした後、第29軍を膺懲するために武力を用いることに決意したと報告し、その承認を求めた。統帥部はこれに承認を与えた。その間に、4箇師団の動員令が下された。さらに、上海と青島の日本人居留民を保護するためという名目で、各都市のために、1箇師団ずつを用意しておくことになった。

 1935年12月2日の『北支における各鉄道の軍事的処理要領案』は、日本軍が山東、河北、山西の各省を席巻する作戦を立てていたが、この要領案において、青島が席巻作戦に参加する日本軍増援部隊の上陸港となっていたということに、注意することが大切である。

 外交の方面では、華北へ軍隊を派遣することに関して、必要な処置をとるために重要な決定が行なわれた1937年7月11日の閣議に続いて、日本外務省は直ちに華北の外交陣を強化する手段を講じた。1937年7月11日に、南京の日本大使館参事官日高は、中国政府に対して、問題を現地で解決したいという日本政府の意向を通告し、日本の努力(迅速に時局を収拾するための)を妨げないように要請せよという訓令を受けた。中国外交部長が、紛争地帯から日本軍を撤退させることと、満州、朝鮮及び日本内地からの軍隊の増派を停止することを要求したときに、日高は中国政府が現地の日本官憲と中国官憲との間の協定を否認する意思であるかどうかと質問し、この点を回避した。中国外交部長は、公文書をもって、現地の協定または了解は、どのようなものでも、中国政府の承認を経て初めて効力を発生すると指摘したが、その後、1937年7月17日に、再び日本外務省から、中国政府が現地において成立した解決条件の実行を妨害しないように要求せよという訓令を受けた。このようにして、日本官憲の現地解決という観念は、中国政府の承認を受けないで、華北官憲が日本の要求を受け入れることを意味していたことが明らかとなった。この提案を受理することは、明らかに、現地当局から中央政府の支持を奪うことによって、現地当局の力を弱め、また中央政府が華北の自治を事実上承認するという二重の効果をもたらすものであった。

アメリカ合衆国の斡旋申出 (原資料169頁)

 華北で起こった敵対行為は、極東の平和を望んでいた第3国の真剣な関心を呼び起こした。1937年7月16日に、アメリカ合衆国の国務長官コーデル・ハルは、次の趣旨の声明を発した。平和を維持すること、国家的と国際的に自制すること、すべての国がその政策の遂行にあたって武力の行使を回避すること、平和的手段によって国際紛糾を調整すること、国際協定を忠実に遵守すること、条約の神聖を擁護すること、すべての国が他国の権利を尊重すること、国際法に活力を与え、強化することは、アメリカ合衆国が絶えず一貫して主張してきたことであり、同盟に加入したり、煩わしい誓約をしたりすることは避けたいが、上述の諸原則を支持するための平和的な、実際的な手段によって、協同の努力をすることにアメリカ合衆国は信頼するというのである。

 その同じ日に、中国政府は九国条約(付属書B-10)の各調印国に覚書を送り、その翌日の1937年7月17日に、蒋介石大元帥は中国が戦争を求めているのではなくて、単に同国の存立そのものに対する攻撃に対処しているにすぎないことを強調した演説をした。そのさいに、平和的解決に対する最小限度の考慮条件は、次の4点であると述べた。(1)中国の主権と領土保全に対して侵害しないこと、(2)河北省とチャハル省の行政制度を変更しないこと、(3)中央政権によって任命された主要官吏を自己の意に反して更迭しないこと、(4)第29軍の駐屯地区に制限を加えないこと。1937年7月19日に、中国外交部は南京の日本大使館に覚書を送り、両国は同時にそれぞれの軍隊の移動を停止し、両国が同意する期日に、もとの地点にそれぞれの軍隊を相互撤退しようという中国の提案を再び提出した。また、中国政府には、事変の解決のためには、直接交渉、斡旋、仲介、仲裁裁判のような、国際法や条約の上で知られているどのような平和的手段でも、これを受け入れる用意があると明確に述べた。


 事態が収拾のつかなくなるほどに拡大する前に、ハルはこれを解決しようとして、1937年7月21日に、日本大使と会談した。他のいろいろなこととともに、日本大使に対して、合衆国政府は、日本と中国の間の現在の紛議をいくらかでも鎮めるようなことであれば、仲介に至らない程度で、いつでも、どんなことでも言い、またはなす用意があり、それを喜んで行なうつもりであること、もちろん、これはあらかじめ双方の当事国の同意を必要とすることであるとハルは述べた。しかし、日本の態度は、1937年7月27日議会の予算委員会で、日本政府は第3国の干渉を排除すると演説した外務大臣広田によって明らかにされた。上海で敵対行為が発生する3日前の1937年8月10日に、東京駐在の合衆国大使ジョゼフ・グルー氏は、日本の外務大臣に対して、明確な斡旋申込みをなす権限を本国政府から与えられたと語った。これに続いて、ワシントンの日本大使は、国務省にあてた1937年8月13日付けの覚書で、日本は世界平和の維持に関する1937年7月16日のハル氏の声明に含まれている諸原則に同意するものであるが、日本政府としては、これらの諸原則の目的は、極東地域の実情を充分に認識し、これを現実的に考察することによってのみ到達されるものと信じていると述べた。しかし、合衆国国務省は、1937年8月23日に、同年7月16日のハル声明の中に挙げられた諸原則を再確認し、交渉によって紛議を解決することを慫慂(しょうよう。すすめること)するという新聞発表を行なった。

廊坊事件 (原資料171頁)

 停戦協定があったにもかかわらず、1937年7月14日に、戦闘が再び起こった。宛平は日本側の砲兵によって継続的に砲撃された。7月18日(1937年)に、宋哲元は日本の駐屯軍司令官香月を訪問し、日本軍に要求された通りに、遺憾の意を表明した。しかし、緊張は緩和されなかった。多くの事件が続発した。7月の25日には、北京と天津の間の廊坊で、日本軍の1箇中隊と中国軍が衝突した。その翌日も、日本の歩兵1箇大隊が、日本人居留民を保護する目的で、北平市に入ろうと努めていたときに、同市の広安門で、中国軍と衝突した。これらの諸事件の起こった真の原因は明らかでないが、重要なことは、26日に日本側が中国側に最後通牒を送り、他のいろいろのこととともに、中国第27師が北平地区から24時間以内に撤退すること、そうでなければ、日本は大軍をもって攻撃するということを要求したことである。


日本の最後通牒は拒否された

 1937年7月27日に、すなわち、日本側が最後通牒を手交した翌日に、総理大臣近衛は、政府は華北に派兵するにあたっては、東亜の平和を維持すること以外には何の目的も持っていないと声明した。日本の最後通牒は受諾されなかった。1937年7月27日に、豊台と盧溝橋の付近とで戦闘が起こった。日本の駐屯軍司令官香月は、優秀な装備と飛行機30機以上をもった増援部隊を天津と通州とから出動させるように命令した。1937年7月28日の早朝に、日本側は飛行機と大砲で北平市外の南苑に攻撃を加え、中国側に甚大な損害を与えた。このようにして、大規模な敵対行為が展開された。

ドイツにおける反響 (原資料172頁)

 日本大使武者小路は、1937年7月28日に、ドイツ外務次官ワイツゼッカーを訪問し、中国における日本の行為に現われている反共的な努力をドイツが理解していないと日本側は感じていると述べた。ドイツ側の利益のためにも、日本は中国において反共の事業を行なっているということを彼は説明しようとしたのである。しかし、ワイツゼッカーはこれに答えて、中国で共産主義を助長する可能性の充分ある日本の行為を、すなわちドイツと日本の双方の目的とちょうど反対なことを認めたり、精神的に支援する義務がドイツ側にあると推論することはできないといった。

 その日に、ワイツゼッカーは東京のドイツ大使に打電して、日本側に穏健な態度をとるように忠告せよと訓令した。日本の中国における行動を防共協定に基づく共産主義に対する抗争と見ることは、その協定が第3国の領土においてボルシェヴィズムと戦うことを目的とするものではないことにかんがみて、見当違いであるとかれは大使に伝達した。それどころか、日本の行動は中国の統一を妨害し、それによって、共産主義の蔓延を促進するものであるから、むしろ防共協定に相反するものと考えられた。なお、日本の中国に対する戦争を、共産主義に対する戦いであるように、ドイツ国内でラジオ宣伝することは、好ましくないとワイツゼッカーは述べた。

 ドイツのこの態度と日本側が採用した施策の性質とを考えると、日本の関心は第一には共産主義と戦うことであると日本は繰り返して声明したが、この声明に対しては、まことに重大な疑念が生じてくる。かような声明は、華北に自治運動を起こそうとする土肥原と板垣の努力の初期に、かれらによって繰り返して行なわれた。後にこの裁判のある証人が証言した事態、すなわち、共産主義者が盧溝橋事件が起こった後の乱れた状態のもとでその勢力を拡大し始め、共産主義運動を育成したのは日本側であったという事態を、ドイツの外務次官は、すでに予見していたもののようである。

北平の占領 (原資料173頁)

 その日、1937年7月28日に、蒋介石大元帥は宋哲元将軍に対して、河北省南部の保定に退却し、同市から作戦を指揮するように命令した。次の2日の間、すなわち1937年7月29日と30日に、天津で猛烈な戦闘が行なわれ、中国軍は頑強に抗戦したが、後に津浦線に沿って南方に退き、他の軍隊も京漢線に沿って撤退した。北平はこうにて隔離され、遂に1937年8月8日に、河辺正三(まさかず)の指揮下にある日本軍によって占拠された。河辺はその部隊を率いて北平市内を行進し、要所々々に自分が軍政長官であると書いた布告を貼り、かれの命令を拒否するものはすべて死をもって処罰すると威嚇した。中立的な観測者の言葉によると、敵対行為が発生してから8週間のうちに、華北で戦闘に従事していた日本軍の総数は約16万であった。


大山事件

 華北における敵対行為が進行している間に、そして1937年8月8日に北平が日本軍によって占領されたのに続いて、すぐその翌日に、全世界の重要な関心を呼び起こしたもう一つの事件が上海で起こった。1937年8月9日の午後に、日本陸戦隊の大山中尉とその運転手斎藤一等水兵が上海郊外の虹橋路の飛行場に入ろうとして、その入口で殺害された。この事件の詳細に関する証拠は互いに矛盾している。しかし、一つの点は疑いの余地なく立証されている。すなわち、大山はこの飛行場に入る何の権限ももっていなかったということである。いずれにしても、この事件は、一般的には事態の緊迫感を強めたが、日本側はこれをその後の行動の口実にしたり、これをもってその後の行動を正当化したりしようとはしなかったので、あまり重要ではない。

上海戦以前の他の諸事件 (原資料175頁)

 大山事件が起こった後、上海の事態はきわめて緊迫してきた。それから48時間足らずのうちに、日本が約30隻の軍艦を上海に集結し、その軍隊を数千名増加した。それと同時に、中国の防備を除去し、または弱体化しようと目論まれた要求が中国官憲に提出された。敵対行為は1937年8月13日に起こり、それからはげしい戦闘が続けられた。

 前に述べたように、1932年の初期に、上海地区における敵対行為は、1932年5月5日の停戦協定の締結によって終わっていた。この協定によって、中国軍隊は、後に同地域の正常状態の回復したときに取極めがなされるまで、その当時占拠していた地点に留まるものと規定されていた。この上海会議へ派遣された中国側代表は、そのとき、この協定を受諾するにあたって、この協定には、中国領土内の中国の軍隊の行動を永久的に制限することを意味するようなことは、一切含まれていないものと了解するということを特に宣言した。1937年6月に、上海の日本総領事岡本は、中国側がかれのいわゆる「禁止区域」で保安隊を増強し、呉淞砲台の再建を含む防御施設を同地帯で行なっているという報告に基づいて、停戦協定によって設置された共同委員会の開催を要求した。1937年6月23日に開かれた会合で、中国側代表の愈鴻鈞(ゆ こうきん)市長は、そのような事柄は共同委員会の権限外であり、この委員会の義務は、協定ではっきりしているように、軍隊の撤収を監督するにあるという立場をとった。この会議に出席した諸国の代表は、相抵触する解釈について意見は述べられないと結論した。中国側代表は、上海地区における保安隊員の数及び要塞の問題に関して、情報を発表するような権能は自分には与えられていないと述べたが、同時に、問題の地区において行なわれていることは、敵意または軍事的準備の性質をもっていないと確言した。

 華北において敵対行為が発生した後の1937年7月15日またはそのころに、愈市長は岡本総領事と日本の陸海軍武官を会談に招き、敵対行為が上海に波及することを阻止したい希望を表明し、日本側の協力を要望した。岡本は協力を約し、中国側がテロ行為や排日運動を取り締まることを求めた。その後、両者の間には密接な連絡が保たれた。同市長は時には日に2度か3度岡本を訪(おとな)い、日本の陸戦隊の、ある行動を抑制するように要請した。中国側が抗議を申し込んだ行動というのは、日本陸戦隊が行なった演習や非常警戒処置であった。岡本によると、かれと日本陸戦隊司令官は演習を抑制することには同意した。しかし、非常警戒措置については、宮崎という一日本水兵の失踪事件の結果行なわれたものであると説明した。もっとも、この水兵は後になって発見された。

 日本においては、大山事件が発生した後、1937年8月10日に、陸軍は海軍から、上海における部隊は、今のところこれ以上の措置はとらないが、情勢によっては、軍隊派遣の準備を要するかもしれないと通告された。そこで、日本政府は、万一の場合の動員に関する案を検討しておくのがよいと決定した。上海における日本の陸戦隊は、この事件の後に、日本から送られた千名の兵力で増強された。1937年8月11日正午には、上海の水域には、旗艦出雲とその他の海軍艦船を含めて、比較的大きな艦隊が集結していた。

 1937年8月12日に、上海で再び共同委員会が開催された。中国側代表は、同委員会には本問題に対して権限はないという主張を繰り返しながら、停戦協定を無効としたものは、日本軍を鉄道線路から撤収することになっていたのに、その鉄道線路から遥か遠く離れた八字橋に、軍隊を駐屯させた日本側であるとし、従って日本は同協定を援用する権利がないと指摘した。同代表はまた日本の武器や補給品が揚陸されていること、増援部隊がさらに輸送途上にあること、これらの措置は上海の治安に対する深刻な脅威となっていること、中国には自衛のための適切な処置を講ずる権利があることを主張した。日本側代表は、この会議で、日本軍が八字橋に駐屯していたことを認め、陸戦隊はまだ何もする準備ができていないという説明をしたほかには、海軍の集結と増援について否認しなかった。他方で、中国側代表は、中国の軍事行動は自衛手段をとる権利に基づいているという言葉を繰り返した。

 1937年8月12日における同じ会議で、双方の当事国が48時間以内に攻撃を始めないと保証するように要請された際に、中国側代表は、攻撃を受けなければ攻撃をしかけることはないと述べ、日本側も、挑発または挑戦されない限りは、紛擾を起こさないと答え、挑発行為の一例として、一人の日本人新聞記者が中国側によって逮捕された件を語った。この会議は紛議を少しも解決するところがなかった。

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