歴史の部屋

上海戦 (原資料178頁)

 1937年8月13日に、日本陸戦隊本部付近と八字橋地区の他の地点とで戦闘が起こった。日本側では、その発生の原因は、日本陸戦隊に対する中国軍隊の発砲であると主張した。この点についての証拠には互いに矛盾するところがある。日本側の見解が正しかったとしても、われわれの意見では、次に述べる行動の範囲と重大さを正当化するものではない。

 衝突の発生した直後、1937年8月15日に、上海の日本臣民を保護するという吊目のもとに、内地から2箇師団を派遣する決定を日本政府は声明した。動員令も同じ日に下され、松井岩根が日本の上海派遣軍の司令官に任命された。明らかに、日本内閣は局地解決方針を放棄することに決したのである。上海における戦闘は苛烈であった。さらに日本軍の増援部隊が1937年8月23日に上海に到達した。両国ともに航空機と活躍させた。日本の航空機は中国の首都南京を爆撃し、港湾や奥地の都市にも、数多くの空爆が行なわれた。日本艦隊は、陸上部隊と協力すると当時に、中国船によって港湾に補給品が持ち込まれるのを防ぐために、沿岸を哨戒した。中国船舶のあるものは撃沈された。

 上海における戦闘が盛んに行なわれている間に、日本の外務次官堀内は、1937年9月1日に、アメリカ向けのラジオ放送で、中国側の反日行動を理由として、中国における日本の行動を弁護し、日本の意図は平和的であると主張した。現在の華北と上海における戦闘の究極の目的は、両国の間に真の協力ができるような事態を実現することにあるとかれは述べた。その後に、同じような趣旨をもった演説が、外務大臣広田によって、日本の議会で行なわれた。こうした演説が行なわれていた間にも、かれらの念頭には、1935年以後、代々の内閣が公然と採用してきた政策、すなわち華北を日本に隷属した特別地区にしようとする政策があったことは明白である。この政策を実現するために、遥か南方の華中の上海にまでわたって、本格的な戦争が行なわれていたのである。

 戦闘が続くにつれて、増援隊が続々として上海地区に送り込まれた。日本の統帥部は、1937年9月の末から11月の初めまでに、日本から5箇大隊、華北から5箇師団以上を派遣した。1937年11月の初めには、上海から約50マイル南方にある杭州湾に3箇師団が上陸し、その月の中旬には、さらに1箇師団が白茆口に上陸した。ここは上海から揚子江を遡って60マイルの地点にある。このようにして、紛争地区が拡大するに従って、松井の指揮の下にある派遣軍と杭州湾に上陸した第10軍の諸師団とは合体させられ、松井を司令官とする中支派遣軍として新編成された。戦闘は3ヵ月続き、中国軍は11月12日までに西方へ退却した。

 1937年12月5日に、日本大使館武官府の楠本大佐と参謀本部の影佐(かげさ)大佐との主唱によって、日本で教育を受けた蘇鍔文を市長として上海大道市政府が設立された。

華北における軍事行動の継続 (原資料180頁)

 中国において行なわれていた日本の軍事行動を統合するために、1937年8月26日に、畑俊六が教育総監に任命された。教育総監は、内閣の更迭があった際に、陸軍大臣を指吊する三長官の一人である。第14師団長の土肥原は、1937年8月に京漢線に沿う進出作戦に参加し、東条は兵団長としてチャハル省の戦闘に従事していた。平綏線に沿って、張家口に向けて進撃していた。そして、これを1937年8月26日に占拠した。ここで、注目に値することは、1938年11月に、チャハル、綏遠、山西の三省が蒙疆自治連盟の下に別個の地方政権の領域として編成されたことである。この連盟は、日本側によって、蒙古と新疆を統治しようとして設置されたものであった。この連盟の首班は徳王で、その顧問には、日本の陸軍将校とその他の、同連盟で政治的と経済的の問題を担当していた人々があった。

 1937年8月31日に、北平を距(へだた)ること約百マイルの西北方にある懷來(懐来。かいらい)で、板垣はヨーロッパやアメリカの通信員と会見し、かれは黄河へ向けて南下するかもしれないと言明した。この言明は、日本の計画には、華北の協会を越えて南進する意図が含まれていたことを示した最初のものである。この意図は、その後間もなく、事実として現われた。1937年9月4日には、中国に日本軍を派遣した目的は『中国の猛省を促し、速やかに極東に平和を確立せんとする』にあると声明した勅語が発布された。

 これらの軍事行動には、新聞会見、演説、その他の発言の形で、中国国民の士気を沮喪させようとする目的の宣伝が伴っていた。

 河北省の首都保定が1937年9月24日に占領された。当時戦闘に参加していた日本の将官は、ある外国新聞記者に対して、日本軍の軍事目標は『領土を獲得するというよりも、中国国民軍を殲滅し、破壊し、殺戮する』にあると語った。この中国軍を殲滅するという方針は、これより先、1937年9月5日に、広田が議会で行なった演説の中にも述べている。『わが国がかかる国家をしてその誤謬を反省せしめんがため、これに決定的打撃を与えんことを決意せるは、正義に基づくのみならず、自衛権によるものと確信するものである。日本帝国がとり得る唯一の途は、中国軍が戦意を完全に喪失するように、これに右のごとき一撃を加えることである。』かれはまた同じ演説で、華北に関する日本の方針を繰り返して述べ、日本がその時なさなければならない緊急必要事は、『断乎として支那の猛省を促すことを急務とするのである』と結論した。日本の望むところは、華北を明朗にし、中国全土から今回のような戦禍の再発を除き、両国の国交を調整し、それによって前述の国是を実現しようとするにほかならないともいった。

 板垣の軍隊はさらに前進し、1937年10月14日には、綏遠省の首都帰綏を占領した。その翌日の1937年10月15日に、勅令が公布され、内閣参議制が創設されて、荒木がその一員に任命された。内閣参議の責任は、『支那事変に関する重要国務につき内閣の籌画(はかりごとを巡らすこと)』に参劃(参画)することであった。

 1937年11月9日に、日本軍は山西省の首都太原を占領した。日本側は直ちに山西省北部を統治する自治政府を太原に設立することに着手した。この傀儡政権は、すでに触れておいたように、後になって、新しい『蒙疆自治連盟』の一部として、張家口と帰化(きか。地吊)に創立されたものと合併された。山東地区においては、1937年12月25日に、北支派遣軍が山東省の首都済南を占領した。この段階において、日本軍は華北の要衝全部をその軍事占領下に置いたのである。

中国、国際連盟に提訴 (原資料182頁)

 1937年9月12日に、中国は国際連盟規約第10、11、17条(付属書B-6)を援用して、国際連盟に訴えた。1937年9月21日に、国際連盟は、日本政府を23ヵ国諮問委員会に参加するように招請した。しかし、国際連盟から脱退しているという理由で、日本は連盟のどのような政治的活動にも参与しないという態度を維持し、その招請を拒絶した。その当時、広田は第一次近衛内閣の外務大臣であった。

 1937年10月6日に、国際連盟は、日本が中国に対して行なっている軍事行動は、紛争の原因をなした事件とは全く比較にならない大規模なものであること、このようの行為は、日本の為政者が政策の目的として言明している両国間の友好的協力を万一にも増進し、助長することのできるものではないこと、現存の法律上の約定に基づいても、自衛権に基づいても、正当化することのできないものであること、また1922年2月6日の九国条約(付属書B-10)と1928年8月27日のパリー条約(付属書B-15)に基づく日本の義務に違反するものであることを指摘した。その日に、アメリカ合衆国政府は、これらの結論に同意すると声明した。


日本側の和平条件

 軍事作戦が成功のうちに進んでいる間に、日本政府は1937年10月1日に、『支那事変対処要綱』を採用した。これは軍事行動の成果と外交措置の機宜と、両々相まって、速やかに事変を終結させなければならないと規定していた。華北においては、ある一定地域を非武装地帯とし、同地帯の治安維持は武装した中国警察をその責(せめ。責任のこと)に任じさせることになっていた。日本は駐兵権を保持するが、駐屯軍の兵数は『事変』の発生の当時の数に減らすことがあるかもしれない。塘沽停戦協定は有効とするが、土肥原・秦徳純協定、『梅津・何応欽協定』その他の、通車、通郵、通空などに関する協定は、これを解消しなければならない。冀察政務委員会と冀東自治委員会は解消し、これらの地区の行政は、中国政府が任意に行なうことになっていた。しかし、これらの地域の行政首脳者が日本と中国の融和を具現することが希望された。上海地区に関しては、ここにもまた一定地域を非武装地帯とし、この地帯の治安維持は国際警察または武装を制限した中国警察にその責に任じさせ、租界工部局警察にこれを援助させることになっていた。日本の陸上兵力は撤収するかもしれないが、これには日本軍艦の在泊権を含まれないことになっていた。中日国交の全般的な調整のためには、同時に、またはその後に、政治的、軍事的、経済的方面の交渉を行なうことになっていた。中国は満州国を正式に承認し、日本と防共協定を締結し、華北の非武装地帯内は取締りを厳にすることになっていた。特定品の中国関税率を引き下げ、冀東における中国側の密輸取締りの自由を回復することになっていた。この要綱は、総理大臣近衛、外務大臣広田、陸軍大臣及び海軍大臣によって承認された。

イギリスの斡旋申出 (原資料184頁)

 1937年10月27日より前に、外務大臣広田とイギリス大使クレーギーとの間に、中国における敵対行為の停止に関する会談が行なわれた。当時外務次官であった堀内の言葉によると、広田はかれの個人的意見として、つぎのような処理条件を表明した。(1)華北における非武装地帯の設定、(2)現実に即した華北と満州国の関係の調製、(3)中国側の排日運動の防遏(ぼうあつ。防圧)、(4)華北地区における経済的機会均等。これらの見解は、クレーギー大使によって、中国政府に伝達され、中国政府の見解も、イギリス大使を通じて、2度か3度広田に伝達された。

 1937年10月27日に、広田はイギリス、合衆国、ドイツ及びイタリアの大使との会談で、日本としてはブラッセル会議の招請に応ずることはできないが、4ヵ国のいずれにしても、日本と中国との間の直接和平交渉が行なわれるように斡旋することを希望すると述べた。イギリス大使は間もなく広田を訪問して、イギリス政府は喜んで両国間の交渉を斡旋すると通告した。堀内は広田がこの申出を受諾したと証言しているが、後になって、陸軍部内に、イギリスの仲介に対する強硬な反対があったことがわかって、この計画は中止となった。しかし、堀内は、反対訊問で、干渉や仲裁裁判はいつでも排除するのが日本の方針であったこと、第3国の斡旋はいつでも歓迎するが、日本と中国の間の紛議の処理は直接交渉によって達成したいというのが日本政府の希望であり、方針であったことを認めた。


ブラッセル会議

 国際連盟が交渉によって紛争を解決するために、会議の席に日本を出席させようとして、それに失敗した後、同じ目的を達するために、別の方法が講じられていた。ベルギー政府は、1937年の10月20日と11月7日の2回にわたって、九国条約第7条(付属書B-10)に基づいて、極東の事情を検討し、紛争を友好的に解決する方法を考究しようとする見地から、日本がブラッセルにおける会議に参加するように招請した。日本は、これに対して、この会議の招集は、日本に敵意のある見解を表明した国際連盟と密接に関係があるから、日本政府としては、正当な紛争処理をもたらすような隔意のない全面的討議を、期待することができないと信ずると説明して、またも参加を拒絶した。1937年11月15日に、ブラッセル会議で採用された決議によって、日本は中日紛議における侵略者(the aggressor)であると宣告された。

大本営 (原資料186頁)

 内外の困難に直面した総理大臣近衛は、1937年11月中旬に辞職を希望したが、木戸の勧告によって、辞意を翻した。

 1937年11月20日に、戦時だけに設置される機構である大本営を内閣は設立した。これは作戦用兵を統轄する機関であった。このようにして、参謀総長は事実上陸海軍両大臣に対する支配権を手中に収めた。大本営の会議は毎週1回か2回開かれた。太平洋戦以前には、大本営の発言は、参謀本部と軍令部の発言であるばかりでなく、その長であった天皇の発言でもあったから、日本政府に対して、これを左右する大きな力を持っていた。


南京攻撃

 松井が上海派遣軍の司令官に任命され、戦地に向かって東京を出発したときに、予定の上海を攻略した後には、南京に向かって兵を進める考えをかれはすでに抱いていた。東京を去る前に、上海派遣軍のために、かれは5箇師団を要請した。中国の首都に対する進攻のために、現実の準備がなされた。というのは、かれはこれより前に上海と南京との付近の地形の調査を行なっていたからである。1937年10月8日に、松井は声明を発して、『降魔の利剣は今や鞘を離れてその神威を発揮せんとしている。また軍の使命は日本の居留民及び権益を保護する任務を完全に果たし、南京政府及び暴戻支那を膺懲するにある』と述べた。上海の周辺の戦闘地域は拡大するものと思われたので、松井は中支派遣軍司令官に任命された。

 1937年11月下旬に、武藤章は松井の参謀副長に任命された。上海が攻略されてから約1ヵ月を経て、日本軍は南京郊外に到着した。松井は、南京は支那の首都であるから、その占領は国際的事件であり、日本の武威を発揚して中国を畏朊させるように、周到な研究をしなければならないという意味の命令を発した。日本側の降伏条件は、中国政府によって無視された。爆撃が始まえい、同市は1937年12月13日に陥落した。南京に入城した日本軍は、新編成の部隊ではあったが、経験のある部隊からなり立っていた。1937年12月17日に、松井は意気揚々と入城した。12月13日から後に、『南京暴虐事件』として知られるようになった事件が起こった。これは追って取り上げることにする。

 1938年1月1日に、臨時の自治団体が設立され、中国の正式の国旗である青天白日旗の代わりに、廃止されていた昔の中国の五色旗を揚(「掲《かも)げた。

ドイツの仲裁 (原資料188頁)

 合衆国とイギリスとの斡旋の申入れを無視して、日本陸軍はドイツに仲裁の労をとってもらうように依頼することを望んだ。日本の提案したある和平条件が、1937年11月5日に、南京のドイツ大使トラウトマンを通じて、中国政府に伝達された。次いで11月28日、29日、12月2日に、ドイツ大使は再び日本政府の意図を通達し、11月に日本政府によって提案された条件がなお有効である旨を中国当局に通知した。日本によって提案された点を中国は協議の基礎として受け入れる用意があった。提案された条件は、八月案と称せられるものの中に定められていた。この八月案は、日本の外務、陸軍、海軍各省の当局者によって、1937年7月に起草されたものであるが、右の各省によって承認されたのは、1937年8月5日であった。その計画は三つのおもな点からなり立っていた。(1)白河に沿って非武装地帯を設け、中日両軍は右の地帯の外に撤退すること、、(2)無併合、(3)無賠償。このような条件の線に沿う交渉は、日本大使川越と中国側との間に行なわれた。しかし、1937年8月13日に、上海で戦闘が起こったことによって中断された。

 堀内の証言によれば、1937年12月のある日に、ドイツ大使ディルクセンは外務大臣広田に対して、南京のトラウトマン大使から、中国政府は日本の条件を基礎として和平交渉を再開する意思があるという報告を受けたことを話し、また八月案の和平条件に何かの変更があったかどうかを尋ねた。そこで、問題は政府と陸海軍の連絡会議に提出され、1937年12月20日の会議の議題となった。1937年12月13日の南京陥落は、日本の中国に対する態度を相当に硬化させた。連絡会議は次のような和平の四基本条件を決定した。(1)日本と満州国との防共政策に協力すること。(2)指定地域に非武装地帯を設け、また特殊行政機構を設置すること。(3)日本・満州国・中国の間に緊密な経済関係をつくること。(4)中国による必要な賠償。これらの和平条件と、すでに中国政府に通告されていた1937年8月のそれとの間の差異は、根本的に非常に大きかったので、この四条件を中国側が受諾すれば、他のこととともに、1931年以来中国が承認を拒んでいた条件、すなわち満州国の独立ということを認めることになるわけであった。このような事情のもとで、この提案が紛争を実際に解決するに至らなかったことは驚くに足りない。

 1937年12月22日に、広田はこの条件をディルクセン大使に通告して、情況が大いに変化したので、以前の条件を提案することはもはや上可能であると述べた。もし中国側が新条件に対して大体において同意するならば、日本は交渉に入る用意があるが、そうでなければ、日本は新しい立場からこの事変を取り扱わなければならないとかれは述べた。これらの新しい条件は、トラウトマン大使を通じて、1937年12月27日に中国政府に通告された。

 1938年1月13日に、中国外交部長はトラウトマンに対して、日本によって提案された新しい和平条件は、その字句が甚だしく一般的であるので、中国政府は慎重に検討し、はっきりとした決定に到達するために、その性質と内容を詳しく通告してもらいたいと回答した。中国側の回答は、1938年1月14日に広田に通告された。

1938年1月11日の御前会議 (原資料190頁)

 中国に対して和平条件が提案されていた間に、日本では、陸軍と政府との間に、意見の相違が生じた。参謀本部は、その和平条件が単に漠然としているばかりでなく、また強硬すぎると考えた。かれらはもっと具体的な条件を提示することを望んでいた。参謀本部は、中国における戦争の長期化を憂慮していた。それは日本の資源を消耗させるばかりでなく、ロシア、アメリカ及びイギリスに対する戦争の軍事的と経済的の準備に支障を来すものだったからである。近衛を首班とする政府は、和平条件を漠然とした言葉で表明した方がよいと思った。外務大臣広田と文部大臣木戸は、近衛の見解を支持した。内務大臣末次がその四条件を起草し、外務大臣広田はこれを中国政府に通告させた。中国政府の回答を待っていた間の、1938年1月11日に、御前会議が開かれた。この会議には、枢密院議長であった平沼が出席した。広田は日本・満州国・中国の間における緊密な協力と結合とを規定した『支那事変処理根本方針』を説明した。この方針に基づいて、択一的な二つの措置が採用された。一方では、もし中国が和解を求めてきたならば、日本は『日支講和交渉条件細目』の別紙中にある和平条件に基づいて交渉することを御前会議は決定した。その中には、他のいろいろなこととともに、中国は満州国を正式に承認すること、内蒙古に防共自治政府を設立すること、華中の占領地域に非武装地帯を設定し、華北、内蒙古及び華中の指定地域に日本の駐兵権を認めることが含まれていた。他方で、もし中国が反省を拒んだならば、日本は中国政府を敵として考えるばかりでなく、日本が協力することのできる新しい中国政府の成立を援助することになっていた。そこで、参謀総長、軍令部総長及び枢密院議長は賛意を表した。こうして、和平条件の細目が起草されたのである。

 御前会議がこの案を採用した日に、トラウトマン大使は、本国政府に対して、かれが東京から受け取った電報は、ドイツ大使館を通じて発せられた和平提案を日本が再び変更しようとしているように思われるという以外には、何も新しい情報を含んでいないことを報告し、そして『われわれはこれによって中国に対しても面目を失っている』と報告した。

1938年1月16日の近衛声明 (原資料191頁)

 中国の回答は、和平条件が非常に広い範囲にわたるもので、最後の決定をするために、さらに細目を知りたいと述べていた。ドイツ大使を通じて、1月14日に、この回答を受け取って、広田は非常に憤慨し、戦争に負けて和を乞わなければならないのは、日本ではなく、中国であると言った。公式には、中国は単に四つの根本条件を知らされていただけで、その他は、広田の希望で、甚だ上明確な形に止めて置かれていたということを指摘されたときに、広田は問題を閣議に諮ることに同意した。木戸によれば、1938年1月14日に、終日開かれた閣議で、広田は中国との和平交渉の経過を報告し、最後に中国側に誠意がなかったと確言した。内閣は、蒋介石大元帥を首班とする中国国民政府をもはや相手にしないことを決定した。

 1938年1月15日に、連絡会議が開かれ、ながながしい討議の後に、参謀本部部員の数吊がなお歩み寄った方がよいと言ったけれども、政府の案が採用された。1938年1月16日に、近衛は、内閣と連絡会議によって決定された日本の確乎たる方針を表明した声明書を発表した。この歴史的に重要な文書は、これらの二つのアジアの両国の間の関係の動向を決定したものであるが、本裁判所の翻訳によれば、次の通りである。

 『帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日に及べり、しかるに国民政府は帝国の真意を解せず、みだりに抗戦を策し、内人民塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みるところなし、よって帝国政府は爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝国が支那の領土及び主権並びに在支列国の権益を尊重するの方針には毫も渝(か)わるところなし、今や東亜和平に対する帝国の責任いよいよ重し、政府は国民がこの重大なる任務遂行のため一層の発奮を冀望(きぼう)してやまず』

 このようにして、交渉継続への扉は閉ざされ、さらに侵略を進めるとともに、日本と協力するような『新興政権』を中国に樹立することを究極の目的として、地方の諸政権を育成するための舞台が整えられた。

第5節


華北の臨時政府 (原資料193頁)

 日本は中国国民政府を相手とせずという近衛声明に先だって、各占領地域には、日本側によってすでに新しい政権が樹立されていた。山西省北部、帰化、張家口及び上海にあったもの、並びに各地のいわゆる『治安維持会』がそれである。これらは単に限られた範囲の地域を治めていた地方政権にすぎなかった。その中で、遥かに大きな地域を包括し、華北で親日の自治政権を樹立しようとする日本の方針に沿ったものが一つあった。それはすなわち北平の臨時政府であった。戦闘行為が初めて華北で起こったときに、王克敏(おう こくびん)は香港にいた。かれは撤退中の中国の高官であって、後に臨時政府の首班となった人である。かれは、北平と上海に駐在していた日本陸軍軍人によって、北上することを説得された。この目的のために、参謀将校が北平と台湾から香港に派遣された。その結果として、1937年11月24日に、王は上海に来た。そして、同年12月6日に、飛行機で日本に赴き、次いで華北に赴いた。華北の日本官憲は、将来北支政権を中国の中央政権にしようという計画に基づいて努力していたのであって、王だけでなく、華南にいた他の著吊の士も、上海に駐屯していた陸軍の将校を通じて、招請するように手配した。王が北平に到着した後、1937年12月14日に、すなわち南京陥落の翌日に、日本陸軍将校の臨席のもとに、臨時政府が正式に発足した。外国新聞記者も出席するように招待された。

 王克敏は、1937年12月に、日本の北支派遣軍の命令によって設立された新民会の会長にもなった。この会の任務は、傀儡政府の諸政策を人民に知らせ、政府と人民との接触を保つことであった。この会の副会長は日本人であった。

 1938年1月16日の近衛声明は、この臨時政府に新しい活力を与えた。北平と天津地区の諸治安維持会がこれに合流した。そして、その後、1938年6月30日には、冀東政権もこれに併合された。

 1938年1月末には、臨時政府は華北の外国輸出入貿易の一部の品目に対する関税を改正していた。グルー米国大使は、1938年1月31日に、広田に対して抗議文を手交した。それには、この処置をとる唯一の権威者は中国国民政府であること『右臨時政権の創設並びに行為に関しては日本政府においては免れがたき責任あり』という理由で、合衆国はその申入れを日本に対して行なうものであると述べてあった。中国連合準備銀行が2月に設立され、1938年3月10日にその業務を開始し、臨時政府によって紙幣発行の権限を与えられた。この銀行の総裁と副総裁とは中国人であったが、幹部は主として日本人であった。

 この臨時政府は、華中の維新政府とともに、後にいわゆる新中央政府の組織に参加するために、汪精衛からの招請を受諾した。

 臨時政府の結成にあたって、日本が演じた役割は、日本外務省総務局の記録の中から取り出された文書によって、これを認めることができる。それは次のように記録している。『昭和12年≪1937年≫北支地方にては徳州、綏遠、彰徳、太原等の要地相次いで陥落し、また中支方面においては11月下旬、国民政府は漢口、重慶、長沙各地に分散移転を行ない、12月13日首都南京も遂に陥落する等戦局の大勢決するに至れり。ここにおいて予(かね)て北支要人間において考慮中なりし新政権樹立の機運次第に熟せり。

 北支政権の首班に王克敏の出馬したる経緯について述ぶれば、王は事変の当初香港に遁(のが)れいたるが、北平特務機関長喜多少将は熱心に王を北支に出馬せしめんとし、上海の山本栄治をしてもっぱら右工作を担当せしめ、北平より直接また台湾軍より特に軍参謀を香港に派し、勧誘に努めたる結果、王は11月24日上海着、12月6日飛行機にて福岡に飛び、出迎えの山本、余晋龢(よ しんわ)とともに北支に向かえり。

 王は上海着の際は未だ北支政権の首脳者たることを完全に同意したるにあらず、単に状況視察を条件として承諾したるものと言わる。

 北支軍当局は、北支新政権は結局将来の支那中央政権として守り立つる方針にして、陣容の整備に意を用い、王のみならず南方有力者を漸次北方に誘発せんとして吉野及び今井(当時武官)等上海にありて熱心にこれが工作を進めたり、右北支中心主義は軍中央部及び北支寺内大将等も略(ほぼ)賛成なりしも、上海武官室側においては反対にして、殊に楠本大佐は政権樹立工作上始めより北支を中心と定めて掛かる必要なく、この意味にて上海より多数要人を引き抜くことは反対なりとの意向を有しおりたり。

 王克敏北平到着後、王も出馬を決意するに至れり、かくて新政府の組織、大綱を決定し、昭和12年12月14日北平に中華民国臨時政府の成立を見ることとなれり。』

華中の維新政府 (原資料196頁)

 右の文書はさらに次のことを示している。『中支における政権樹立運動』

 『日本軍上海付近において支那軍を撃破し、昭和12年12月13日南京を攻略するや、中支における政権樹立運動開始せられ、まず上海に12月5日上海大道政府の成立をみたり。上海以外においては治安維持会の成立をみたるが、主たるものは昭和13年1月1日成立せる南京自治委員会及び杭州治安維持会なり、然るに上海方面においては蒋政権及び国民党の勢力は南京陥落の頃においてもなお意外に強く、親日分子も共同租界内においてすら公然とは日本側に接近すること上可能の状態なりしものにして、北支におけるごとく有力なる新政権の樹立は永く困難の事情にありたり。』

 1938年1月16日の声明に続いて、同年1月22日に、総理大臣近衛と広田とは議会で演説し、日本の政策を論じ、究極において東亜で新秩序を樹立するために、日本と緊密に協力する新しい中国の政権がやがて出現することを強調した。1938年1月27日に、近衛内閣は『中支新政権樹立方案』を決定した。言い換えれば、中国側の自発的な運動であったという主張にもかかわらず、日本政府は『中支政権樹立方案』の決定をあえてみずから行なったのである。日本外務省総務局の記録の中から取り出されたものとしてすでに言及した文書は、次のように、この運動を日本側がどの程度まで指導したかを示している。

『第一方針(英文を参照すると、「第一《という項目の内容が「方針《であるようで、第二方針や第三方針があるのではなさそう。英文では「Ⅰ. General Principles.《となっている)

1、高度の連日政権を樹立せしめ、漸次欧米依存より脱却し日本に親倚(しんい。親しくよりそうこと)する支那の一地域たる基礎を確立せしむ。

2、右政権の指導はその発育に従い将来北支政権と円満相投合し得るごとくし、大綱に関する邦人顧問の内面指導に止め、日系官吏等を配し行政の細部にわたる指導干渉を行なわざることを方針とす。

3、蒋政権の潰滅を計るとともに、皇軍占領地帯において至短期間に排共滅党の実現を期しその全勢力を速やかに隣接地域に拡大す。』

 この計画は、中国側の吊目上の支配について定めていたが、行政と財政については、次のように指令していた。『速やかに財政の基礎を確立し、金融機関を整備し、中支における日支経済提携具顕を期す。その処理要領別冊要綱のごとし。』軍備に対する指令は――『軍備は治安維持のため最少の兵力を整備し、日本軍の指導の下に速やかに治安回復を図るを主旨とす。但し海空軍は挙げて日本の国防計画内に包含せしむ。』新政権は次のように育成されることになっていた。

『新政権は速やかにこれを樹立し、これが培養により、有形無形の圧力をもって反抗勢力の破摧(はさい。=破砕)を期す。

 これがため皇軍の駐防地に逐次発生する地方自治会を強化し、日本を背景とする新政権の擁立を企図する空気を激成せしめ、また上海を中心とする地域に経済の更生を速やかに実現し、もって新行政機構の確立を期す。

 新政権樹立当初における一般経費中相当額は日本側より援助す。

 難民の救済、産業復興のため速やかに応急対策を講じ特に農産出回りを円滑にするとともに春耕の着手に上安なからしむ。

 これがため地方の治安維持は新政府機関の現地確立まで日本軍により可及的完成を期す。

 新行政機構確立順位左のごとし。

1、中央政府機構特に立法並びに行政部門

2、上海特別市政府機構

3、省政府機構

4、県以下自治機関の組織

 右1(「1《が和文では脱落しているので英文を参照して補った)及び2と並行して上海特有の青幇(ちんぱん)紅幇(ほんぱん)(中国の秘密結社)等の勢力回収を企図し、新政権を直接間接に後援せしむ。

 地方行政区画は大概旧区画を尊重す。

 租界においては新政権の強化に従い漸次我が方の勢力を扶椊す。既に陸海軍の掌握下にある旧政府機関等は新政権樹立後適時該政権に移管するとともに未解決事項を速やかに処理せしむ。』

 戦争の初期に、新政権を樹立する運動がすでに始められていた。菅野を通じて、松井は新政権を組織するために中国のある高官連を説得しようと試みたが、成功しなかった。後に華中の政権の首班となった梁鴻志(りょう こうし)とその他の者が、日本陸海軍の特務機関の支援によって、この件に携わるようになったときに、新政権はさらにはっきりとした形をとり始めた。1938年3月28日に、維新政府が正式に樹立された。この政府は、華北の臨時政府とともに、後になって、いわゆる新中央政府を組織するために、汪精衛からの招請を受諾した。

 このようにして、親日の、そして実に日本人によって支配された、中国の『政府』の樹立に関する日本の計画が実現されたのである。

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