歴史の部屋

北京条約

 1905年の北京条約によって、中国は満州におけるロシアの権利と財産を日本に移譲することには同意したが、鉄道守備兵を置くという規定は承認しなかった。この条約の付属書となっているところの、日本と清国が1905年12月22日に締結した付属協定に基づいて、日本は、清国政府の表明した『切実な希望』にかんがみて、できる限り速やかに、またはロシアが撤兵に同意したときに、いずれにしても満州の治安が再び確立されたときに、日本の鉄道守備兵を撤退することに同意した。


南満州鉄道会社

 日本は、日本政府と日本国民だけを株主とする会社として、南満州鉄道会社を1906年8月に創立した。この会社は、長春から旅順に至る鉄道が通っている地域に、元の東清鉄道会社の後身として設立されたものである。この会社は、ロシアから取得した鉄道とそれに付属する諸企業とを、日本が満州で新たに設けた鉄道と企業とともに、管理する権限を与えられ、また実際にこれを管理した。そればかりでなく、租借地と鉄道付属地帯において、政府のある行政的権能を付与されていた。要するに、これは満州における日本政府の権益を管理する日本政府の機関として、創設されたものである。

 ポーツマス条約の規定に反して、この会社の定款の規定するところによれば、右の租借地にある日本軍司令官は、軍事に関して、この会社に命令と指令を発する権限、及び軍事上必要のある場合には、この会社の業務事項に関連する命令を発する権限をもつものとされていた。


中国における門戸開放主義

 中国における門戸開放主義は、1899−1901年のいわゆる義和団事件中に、アメリカ合衆国政府によって、次のような言葉で、はじめて宣言された。すなわち、

  『合衆国政府の方針は、清国における恒久的安寧をもたらすような解決を求め、清国の領土と行政を保全し、条約と国際法によって友好国に保証された一切の権利を保護し、かつ世界のために清帝国の全土にわたって平等かつ公平な通商の原則を擁護することである。』

 日本を含めて、他の関係諸国は、このように宣言された政策に同意した。この方針は中国に関するいわゆる門戸開放主義の基礎になった。このようにしてできた門戸開放主義は、その後二十数年にわたって、清国の非公式な約束に基礎をおいていたが、1922年にワシントンで九国条約が締結されるに至って、ついに条約の形に具体化されることとなった。


1908年の日米同文通牒

 1908年11月30日、日本政府とアメリカ合衆国政府との間に、中国と太平洋地域における門戸開放主義に関する同文通牒が交換されたときに、日本はこれらの地域においてこの主義を承認した。(付属書B−4)。これらの通牒の規定は、起訴状に挙げられた本件に関連のある全期間を通じて、日本とアメリカ合衆国を正式に拘束していた。この通牒交換によって、両国は左の点に同意した。

  (1)太平洋における自由かつ平穏な商業の発達を奨励する両国政府の政策は、どのような侵略的傾向にも動かされることなく、太平洋方面における現状の維持と清国における商工業の機会均等主義の擁護とを目的とすること。

  (2)両国政府は、前記の方面において、相互に他方の属地を尊重すること。

  (3)両国政府は、一切の平和手段によって、清国の独立及び保全と同帝国における列国の商工業に対する機会均等主義とを支持し、これによって、清国における列国の共通利益を保存する決意を有すること。及び、

  (4)もし現状維持を脅かす事件が発生したときは、両国政府は、自己がとろうとする措置に関して、たがいに通告すること。


韓国併合

 日本は1910年に韓国を併合し、清国における日本の諸権利を間接に増大した。それは満州にいた韓国人の移民がそれによって日本帝国の臣民となったからである。1928年1月1日までには満州にあった韓国人の数は、約80万人に及んでいた。


中国と日本の主権の対立

 予期された通り、南満州鉄道の経営と遼東半島租借権の享有とに関連して、中国で日本が治外法権を行使したことは、日本と中国の間に絶えず摩擦を引き起こした。1898年の条約によって増補された1896年の条約で、ロシアが清国から譲与された一切の権利と特権を日本がすでに受け継いでいたこと、これらの権利の中の一つは、鉄道付属地帯内の絶対的かつ独占的な行政であったこと、並びに、その地帯の中で、日本は警察、課税、教育及び公共施設の支配というような、広い行政権をもっていたことを、日本は主張した。中国は、このような条約の解釈を否認した。日本はまた、鉄道付属地帯に鉄道守備兵を置く権利を主張したが、この権利をもまた中国は否認した。日本の鉄道守備兵に関して起こった種々の紛議は、鉄道付属地帯内における守備兵の駐屯とその活動だけに限られていたのではなかった。これらの守備兵は、正規の日本兵で、しばしば鉄道付属地帯の外で演習を行なった。それらの行為は、中国側の官民にとって特に不快であり、かれらによって、法律上で正当化しえないものと認められ、また不祥事件の種になるものと考えていた。そればかりでなく、日本は満州に領事館、警察を置く権利を主張した。このような警察は、ハルビン、チチハル、満州里のような都市にある一切の日本領事館管轄区域と、朝鮮人が多数居住していたいわゆる間島地方とにあった日本の領事館及び領事館分館に付置されていた。この権利は、治外法権に当然に伴うものと主張されたのである。


二十一ヵ条要求、1915年の中国と日本の条約

 1915年に、中国に対して、日本は有名な『二十一ヵ条要求』を提出した。その結果としてできた1915年の中国と日本の条約は、日本臣民が南満州において自由に居住往来し、またどのような商工業にも従事することができると規定した。これは重要かつ異例権利であって、条約港以外の中国領土では、日本以外のどの臣民によっても享有されていなかった。しかも、この条約の規定の中の『南満州』という語は、後になって、満州の大部分を含むものと日本によって解釈されるようになった。さらに、この条約は、南満州において、各種の商工業と農業に適当な建物を建設するために、日本国臣民が必要な土地を商租することができると規定していた。

 この条約が締結されたときに、両国政府の間に交換された公文は、『商租』という語に定義を与えた。中国側の解釈では、この定義には、条件付更新の権利を伴う、30年を超えない長期賃借を意味したが、日本側の解釈では、無条件更新の権利を伴う、30年を超えない長期賃借を意味していた。

 以上のほかに、この条約は、日本が関東州租借地(遼東半島)を保有する期間を99年に延長すること、及び日本が南満州鉄道と安奉鉄道を保有する期間を99年に延長することを規定した。

 中国側は、この条約は『基本的効力』を欠いていると、たえず主張した。1919年のパリー会議で、この条約は『戦争をもって脅した日本の最後通牒の強制のもとに』締結されたものであるという理由で、中国はその廃棄を要求した。1921−1922年のワシントン会議で、中国代表は『この条約の衡平及び公正とその基本的効力とについて』中国代表が問題を提起した。さらに1923年3月に、すなわち、関東州の最初の25ヵ年租借期限が満了する少し前に、中国は日本に対してこの条約を廃止するための要求を再び通告し、『1915年の条約と通牒は中国における輿論によって常に非難されてきた』と述べた。中国側は1915年の協定が『基本的効力』を欠いていると主張していたので、満州に関する諸規定は、情勢上それを履行することが便宜である場合を除いて、これを履行することを拒んだ。その結果として、日本が自国の条約上の権利であると主張したものを中国側によって侵害されたことについて、日本側は非常に不満を述べた。


1917−1920年の連合諸国のロシアに対する干渉

 第一次世界大戦は、日本に対して、アジア大陸におけるその地位を強化する機会を再び与えた。ロシア革命は1917年に起こった。1918年に、日本は連合諸国の取極めに参加したが、この取極めによって、ロシア軍が後になって必要とするかもしれない軍需品を守り、ロシア国民の自己防衛の組織を助け、かつシベリアにいたチェッコスロヴァキア軍の撤退を援助するために、一国からの兵力が7000名を越えない程度で、軍隊をシベリアに派遣することになった。


1925年の日ソ北京条約

 日ロ関係は、1925年1月20日に北平で調印されたところの、日本とソビエト社会主義共和国連邦との関係を定める基本的規則に関する条約の締結によって、結局は一時安定を見た。この条約は、起訴状に挙げられた本件に関連のある全期間を通じて日本を拘束していた。(付属書B-5)。この条約の締結によって、当事国は厳粛に次の点を確認した。すなわち、

  (1)両締約国は、たがいに平和と友好の関係を維持すること、自国の管轄権内で自由に自国の生活を定めるという国家として当然な権利を充分に尊重すること、並びに、公然または秘密の行為であって、いやしくも締約国の領域のいずれかの部分で秩序と安全を危うくするおそれのあるものは、みずからもこれを行なわず、自国のために何かの政府の任務にある一切の人と自国から何かの財的援助を受けている一切の団体とにも行なわせないことが、締約国の希望と意向であること。

  (2)いずれの締約国も、その管轄権のもとにある地域で、(イ)他方の領域のいずれかの部分にとって、その政府であると称する団体または集団と存在を、(ロ)その団体もしくは集団のために政治上の活動を現に行っていると認められるような外国の臣民または市民の存在を許さないこと。並びに、

  (3)両締約国の一方の臣民または市民は、他方の領域内に入り、旅行し、居住する完全な自由を有すること、また、身体と財産に対して常に完全な保護を享有するとともに、右の領域内で通商、航海、産業及びその他の平和的業務に従事する権利と自由を享有すること。

1919年の講和条約

 第一次世界大戦は、1919年6月28日に、ヴェルサイユで、同盟及び連合国を一方とし、ドイツを他方として講和条約が調印されるとともに、その終りを告げた。(付属書B-6)。1920年1月10日に、ドイツの批准書が寄託されるとともに、この条約は効力を発生した。同盟及び連合国は、主たる同盟及び連合国と22の他の国から成っていて、その中には、中国、ポルトガル及びタイ国が含まれていた。主たる同盟及び連合国というのは、この条約の中に、アメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス、イタリア及び日本と記されている。この条約は、アメリカ合衆国、ソビエット社会主義共和国連邦及びオランダを除いて、日本及び起訴状を提出した各国によって、またはそれらの名において批准された。

 ヴェルサイユ条約には、他のいろいろのこととともに、次のことが含まれている。(1)国際連盟規約、これは条約の第一部であって、第1条ないし第26条から成っている。(2)ドイツがその海外属地に関する一切の権利及び権原を主たる同盟及び連合国のために放棄したこと、これは第119条である。(3)放棄された従前のドイツ領の統治に関する委任規定、これは第22条である。(4)窒息性、毒性その他のガスの使用を禁止する宣言、これは第171条である。(5)1912年1月23日にヘーグで調印された阿片条約の批准、並びに阿片とその他の危険な薬品の取引に関する協定に対する連盟の一般的監督に関する諸規定、これは第295条及び第23条である。

 起訴状に挙げられた本件に関連のある全期間を通じて、日本はヴェルサイユ条約の一切の規定によって拘束されていた。ただし、その政府が連盟から脱退する意思を1933年3月27日に規約第1条の規定に従って通告したことによって、日本がこの条約に基づく義務を免れたと認められる場合は、この限りでない。この脱退は、1935年3月27日までは効力を発生しなかった。また、この条約の残りの規定には、影響を及ぼさなかった。


国際連盟規約

 ヴェルサイユ条約を批准することによって、日本は国際連盟規約を批准し、連盟の一員となった。28に上る他の諸国も、規約を批准することによって、同様に連盟国になった。 これらの諸国の中には、アメリカ合衆国、ソビエット社会主義共和国連邦及びオランダを除いて、起訴状を提出した諸国が全部含まれていた。もっとも、オランダと他の12ヵ国は、講和条約に調印しなかったが、規約には最初から加入し、ソビエット社会主義共和国連邦も後になって連盟国になった。同一の時期ではないが、63ヵ国が規約に加入して連盟国になっていた。

 この規約の条項に基づいて、他のいろいろなこととともに、日本は次の諸点に同意した。

  (1)平和維持のために、国の安全に支障のない最低限度まで、軍備を縮小する必要があること、並びに、軍備に関して充分で隔意のない報道を交換することによって、この縮小に日本が協力すること。

  (2)日本は一切の連盟諸国の領土保全と当時存在していた政治的独立とを尊重すること。

  (3)他の連盟国との間に紛争が発生した場合には、日本はその事件を連盟理事会または仲裁裁判に付託し、また仲裁裁判官の判決または連盟理事会の報告後3月を経過するまで戦争に訴えないこと。

  (4)もし日本がこの規約に反して戦争に訴えた場合には、日本は当然に他のすべての連盟国に対して戦争行為をなしたものと見なされること。及び、

  (5)連盟国の締結する一切の国際協定は、連盟事務局に登録されるまで、その拘束力を生じないこと。

 戦争の結果として、戦敗諸国の主権から離れた植民地及び領土であって、当時まだ自立することのできなかったものについては、日本は次の点に同意した。

  (1)その住民の福祉及び発達をはかることは、神聖な使命であること。

  (2)これらの植民地及び領土は、連盟に代わって委任に基づいて施政が行なわれるために、先進国の後見のもとに置かれること。

  (3)委任統治領土においては、築城または陸海軍根拠地の建設が禁止されること。及び

  (4)他の連盟国の通商と貿易に対して、均等の機会を確保すること。


太平洋諸島の委任統治

 ヴェルサイユ条約に言う主たる同盟及び連合国、すなわちアメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス、イタリア及び日本のために、ドイツはその海外属地に関する一切の権利及び権原を放棄した。アメリカ合衆国は、この条約を批准しなかったが、同国の旧ドイツ領土に関するすべての権利は、1921年8月25日に調印されたアメリカ合衆国とドイツとの間の条約で確認された。前記の4国、すなわちイギリス帝国、フランス、イタリア及び日本は、1920年12月17日に、国際連盟規約の条項にもとづいて、若干の追加規定に従って太平洋中赤道以北にある旧ドイツ領の諸群島の施政を行なう委任を、日本に付与することに同意した。これらの規定の中には、次のようなものがあった。

  (1)日本は委任統治諸島内において奴隷の売買を禁止し、かつ強制労働を許さないようにすること、及び、

  (2)これらの諸島において、陸海軍根拠地または築城を建設しないこと。

 日本はこの委任を受諾し、前記の諸島を占有し、委任統治地の施政を始めた。それによって、起訴状に挙げられた本件に関連した全期間を通じて、連盟規約と1920年12月17日の協定に定められた委任統治条項に拘束されることになり、また実際に拘束されていた。


1922年の日米委任統治条約

 合衆国は、旧ドイツ領諸島に対する日本の委任統治に同意は与えなかったが、この諸島に利害関係をもっていたので、日本とアメリカ合衆国は1922年にワシントンでこの問題について交渉を始めた。1922年2月11日に条約がまとまり、両国はこれに調印した。(付属書B-7)。批准書は1922年7月13日に交換され、それによって、日本と合衆国は、起訴状に挙げられた全期間を通じて、この条約に拘束されていた。いわゆる主たる同盟及び連合国によって認められた委任統治条項を列挙した後に、この条約は、他のいろいろなこととともに、次のように規定した。すなわち、

  (1)アメリカ合衆国は連盟国ではないが、前期の委任統治協定の第3条、第4条及び第5条に規定する利益を受けること。

  (2)この諸島にある米国人の財産権は尊重されること。

  (3)日本と合衆国との間の既存の諸条約は、この諸島に適用されること。及び

  (4)日本は国際連盟理事会に提出する委任統治に関する年報の複本を合衆国に送付すること。

 この条約の批准書の交換の日に、日本政府が合衆国政府に手交した通牒の中で、これらの島及び水域に寄港するアメリカの国民と船舶に対して、日本は通常の礼譲を尽くすことを合衆国に保障した。


ワシントン会議

 1921年の冬と1922年の春に、ワシントン会議で数々の条約と協定が結ばれた。この会議は本質的には軍備縮小会議であって、その目的は、海軍軍備競争をやめることによってばかりでなく、平和特に極東の平和を脅かしている他のいろいろな面倒な問題を解決することによって、世界における平和の責任感を促進することであった。これらの諸問題はすべて相互に関連したものである。

1921年の四国条約

 太平洋方面における島である属地及び島である領地に関して、アメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス、及び日本の間に締結された四国条約は、ワシントン会議で結ばれた諸条約の一つであった。(付属書B−8)。この条約は1921年12月13日に調印され、日本とその他の調印国によって正式に批准されたのであって、起訴状に挙げられた全期間を通じて日本を拘束していた。この条約で、他のいろいろなこととともに、日本は次の諸条項に同意した。すなわち、

  (1)日本は太平洋方面にある他の締約国の島である属地及び島である領地に関する権利を尊重すること、及び

  (2)太平洋問題に起因して前記の権利に関する紛議が起こり、外交手段によって解決することができず、しかも調印国の間に現に存在している円満な協調に影響を及ぼすおそれのある場合には、日本はその事件全部を考量し、調整するために、共同会議に他の締約国を招請すること。

 この条約が調印された日に、締約国は、この条約を太平洋における委任統治諸島に適用することが、かれらの意図であり、了解であるという意味の共同声明を発した。(付属書B−8−a)

 ワシントン会議で、四国条約の調印国は、1922年2月6日に追加協定を締結したが(付属書B-8−b)、これには次のことが規定されていた。すなわち、

  『前記の条約(四国条約)に使用された「島嶼である属地及び島嶼である領地」という語は、これを日本に適用するにあたっては、単にサガレン島(サハリン、つまり、樺太のこと)の南部、台湾及び澎湖列島並びに日本の委任統治のもとにある諸島だけを含むものとする。』


オランダとポルトガルに対する四国の保証

 1921年12月13日の四国条約を締結した上で、その趣旨に反する結論の生まれる余地をなくすことを望み、この条約の調印国は、日本を含めて、それぞれ、太平洋方面にあるオランダの属地とポルトガルの属地に関する両国の権利を尊重することを保証するという同文声明を、右の両国政府に送付した。(付属書B−8−c)(付属書B−8−d)。


ワシントン海軍軍縮条約

 ワシントン会議で調印された相互に関係のある諸条約中のもう一つは、海軍軍備制限に関する条約であった。(付属書B-9)。この条約は1922年2月6日にアメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス、イタリア及び日本によって調印され、後にこれらの各国によって批准された。日本は1934年12月29日にこの条約を廃棄するという通告を行ない、それによって、1936年12月31日に、その拘束から解放されることになったが、それ以前は、この条約は起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての期間にわたって、日本を拘束していた。この条約の前文には、締約諸国は『平和の維持に貢献しかつ軍備競争の負担を軽減せんことを望み、』同条約を締結したのであると述べられている。しかし、この条約の調印を促す条件として、いくらかの付帯事項が協定され、これらの協定が条約の中に入れられた。合衆国、イギリス帝国及び日本は、次に掲げる各自の領土と属地において、要塞と海軍根拠地に関し、この条約署名の時における現状を維持すべきことを約定した。すなわち、(1)合衆国が太平洋において現に領有し、または将来取得するかもしれない島嶼である属地。ただし、(イ)合衆国、アラスカ及びパナマ運河地帯の海岸に近接する島嶼(アリューシアン諸島を含まず)、並びに、(ロ)ハワイ諸島を除く。(2)香港及びイギリス帝国が東経110度以東の太平洋において現に領有し、または将来取得するかもしれない島嶼である属地。ただし、(イ)カナダ海岸に近接する島嶼、(ロ)オーストラリア連邦とその領土、並びに(ハ)ニュージーランドを除く。(3)太平洋における日本国の次の島嶼である属地。すなわち、千島諸島、小笠原諸島、奄美大島、琉球諸島、台湾及び澎湖諸島並びに日本国が将来取得するかもしれない太平洋における島嶼である属地。この条約は、前記の現状維持とは、右に掲げた領土と属地において、新しい要塞または海軍根拠地を建設しないこと、海軍力の修理と維持のために現存する海軍諸設備を増大する処置をとらないこと、並びに右に掲げた領土と属地の沿岸防御を増大しないことを言うと明記した。

 締約諸国は、条約に挙げられている主力艦だけを保有することに同意した。アメリカ合衆国は、戦艦建造における優越的な首位を放棄し、また合衆国とイギリス帝国は、条約に挙げられている若干の戦艦を廃棄することに同意した。各調印国に対して、主力艦の排水総トン数の最大限度が定められ、各国はこの限度を超えないことに同意した。同じような制限が航空母艦にも加えられた。主力艦に装備される砲は口径16インチを超えないこと、航空母艦に装備される砲は口径8インチを超えないこと、またその後に起工されるどの調印国のどの軍艦でも、主力艦を除いては、口径8インチ以上の砲を装備しないことになっていた。

九国条約

 さらにもう一つの条約がワシントン会議で調印された。この条約を無視すれば、この会議で締結された一団の協定が全体として達成し、実現しようとしたところの、一般的な了解と均衡関係をかき乱すことになる。ワシントン会議に出席した9ヵ国は、同会議で締結された他の諸条約とともに、次の目的を達成するために、一つの条約を結んだ。その目的というのは、極東の事態を安定させ、中国の権利と利益を護り、機会均等の基礎の上に中国と他の諸国との間の交通を促進するための政策を採用することを希望するということであった。この条約は、次の諸国によって、1922年2月6日に調印され、後に批准された。それはアメリカ合衆国、イギリス帝国、ベルギー、中国、フランス、イタリア、日本、オランダ、ポルトガルである。(付属書B-10)。この条約は起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての時期にわたって、日本を拘束していた。

 この条約を締結することによって、他の締約諸国と同様に、他のいろいろのこととともに、日本は次のことに同意した。

  (1)中国の主権、独立、その領土的と行政的の保全を尊重すること。

  (2)中国がみずから有力で安定した政府を確立維持するために、中国に対して、最も完全で最も障害のない機会を与えること。

  (3)中国の領土全体にわたって、あらゆる国の国民の商工業に対する機会均等主義を有効に樹立し、維持するために尽力すること。

  (4)友好国の臣民または市民の権利を減殺するような特別の権利または特権を求めるために、中国の情勢を利用することや、この友好国の安全に害のある行動を是認することを行なわないこと。

  (5)前記の諸原則にそむき、またはこれを害するような条約、協定、取極めまたは了解を他の一国または数国との間に締結しないこと。

  (6)中国のどこか特定の地域で、商業上または経済上の発展に関して、自己の利益のために一般的優越権利を設定することになるかもしれない取極め、並びに中国で適法な商業もしくは工業を営む権利を、またはどのような公共企業でも、これを中国政府もしくは地方官憲と共同経営する権利を、他国の国民から奪うような、または機会均等主義の実際的適用を無効にしてしまうと認められるような、独占権または優先権を求めることをせず、また自国民がそれらのものを求めるのを支持することもしないこと。

  (7)中国の特定地方に勢力範囲を創設しようとしたり、または相互に排他的な機会を与えようとしたりする目的で、自国民が自分たちの間でつくる協定はどのようなものでも支持しないこと。

  (8)中国の中立を尊重すること。並びに

  (9)締約国のある一国が、この条約の規定の適用を必要とするある事態が発生したと認めたときは、いつでも、他の締約諸国と充分な、隔意のない交渉をすること。

 このようにして、中国における門戸開放政策を実行するために、諸国は正式な、厳粛な条約に同意した。日本はこの条約に同意し、調印し、またそれを批准したばかりでなく、ワシントン会議における日本の全権委員は、日本がこの条約中に定められた諸原則に双手を挙げて賛同するものであると声明した。右の全権は、次のような言葉を用いた。

  『何人も支那に対してその神聖な自治の権利を否定するものではない。支那がその偉大な国運を達成しようとすることに対して、何人も妨害するものではない。』


1912年の阿片条約

 本件の争点に関連があり、また特に日本と中国の関係に適用されるところの、もう一つの重要な条約に日本は加入した。この条約は、ヘーグにおける国際阿片会議において、1912年1月23日に調印された阿片その他の麻薬濫用防圧に関する条約及び最終議定書である。(付属書B−11)。この条約は、ソビエット社会主義連邦を除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によって、またはそれらの名において、調印され、批准されたものであって、起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての時期にわたって、日本はこの条約に拘束されていたのである。この条約はまた他の46ヵ国によって調印され、批准され、さらに6ヵ国が後になって加入したものである。阿片、モルヒネ、コカイン、並びにこれらの物質から製造または抽出された薬品で、これらと同様の害毒を引き起こすもの、または引き起こし得るものの濫用を次第に禁止しようとして、諸国はこの条約を締結したのであった。他の締約諸国とともに、日本は次の諸点に同意した。

  (1)日本はこれらの薬品の製造、取引及び使用を次第に、また有効に禁止する措置をとること。

  (2)これらの薬品の輸入を禁止している国に対して、日本はそれらの輸出を禁止すること、また、これらの薬品の輸入を制限している国に対して、日本はそれら薬品の輸出を制限し、取り締まること。

  (3)中国並びに中国内にあるその租借地、居留地及び専管居留地に、日本はこれらの薬品が密輸入されることを禁止するための措置をとること。

  (4)中国政府と同一の歩調をもって、日本は中国内にあるその租借地、居留地及び専管居留地におけるこれらの薬品の取引と濫用を禁止するための措置をとること、及び

  (5)これらの薬品の販売と分配を取り締まるために、中国政府が公布した薬剤に対する法令を、日本は中国に居住する自国民に対して適用することによって、その法令の励行に協力すること。

国際連盟第二阿片会議

 国際連盟の第二阿片会議は、1925年2月19日の条約(付属書B-12)を調印することによって、1912年の阿片条約をさらに補足し、強化した。この条約は、阿片、コカイン、モルヒネその他の有害な薬品の不正取引と濫用を禁止するために、調印諸国の行なった全面的な努力を示すものであった。この条約は、アメリカ合衆国、フィリッピン国、中国を除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によって、またはそれらの名において、調印され、批准された。この条約は、また46ヵ国によって確定的に加入された。同盟及び連合国は、ヴェルサイユ条約の第295条において、この条約の批准は1912年1月23日の阿片条約の批准とみなされることを規定している。ヴェルサイユ条約の第1章にある国際連盟規約は、その第23条において、阿片その他の有害薬物の取引に関する諸協定の実施について、それに対する一般的監視を、連盟国が今後は連盟に委託することを規定した。第二阿片会議は、これらの規定に応じて開催されたものであって、1925年2月19日の条約は、阿片その他の薬品の濫用を禁止するために、連盟常設中央委員会の組織と運用に関する規定を設けた。さらに、その他の調印諸国と同様に、他のいろいろなこととともに、日本は次の諸点に同意した。

  (1)阿片の生産、分配及び輸出に対する有効な取り締まりを確保するために、また、この条約中に指定されている阿片その他の薬品の製造、輸入、販売、分配、輸出及び使用をもっぱら医薬と学術用に制限するために、日本は法令を制定すること、及び

  (2)この条約に指定されている薬品の生産、製造、原料、消費、没収、輸入、輸出、政府用消費、その他に関して、日本はできるだけ完全で正確な前年度の統計を毎年連盟中央委員会に送付すること。

 日本の枢密院は、1938年11月2日に、この連盟中央委員会との協調を打ち切ることを決定した。この決定の理由は、中国に対する侵略戦争であると連盟が非難した日本の行動を阻止するために、規約に基づいて日本に制裁を加える権限を連盟が連盟諸国に与えたということであった。この決定の通告は、右の日に国際連盟事務総長に送付された。


1931年の阿片条約

 麻薬の製造制限及び分配取り締まりに関する条約として知られている第三の条約は、1931年7月13日に、ジュネーヴで調印された。(付属書B-13)。この条約は、日本及び起訴状を提出した各国並びにその他の59ヵ国によって、またはそれらの名において、調印され、批准され、または加入されたものである。この条約は、前述の1912年と1925年の阿片条約に対する補足であり、またそれらをさらに有効なものにするためのものであった。他の締約諸国とともに、日本は次の諸点に同意した。

  (1)この条約に含まれている各薬品について、この条約の適用される自国の各領域に関して、この条約によって許可されている医療用及び学術用並びに輸出に必要な薬品の数量を明記したところの、連盟中央委員会に送付すべき、見積りを、日本は毎年提出すること。

  (2)日本は前述のどの領域でも、またどの1年間でも、どの薬品についても、前述の見積りに記載された数量以上に製造することを許可しないこと。及び

  (3)この条約の規定に従わない限り、どの薬品も締約国の領域に輸入され、またはその領域から輸出されないこと。


交戦法規

 国家が交戦状態に入る場合と、交戦状態にある間の国家の行動に関する法規は、起訴状が取り扱っている期間に先だつ20ヵ年を通じて、また1928年と1929年に、繰り返して確認された。1907年のヘーグにおける第2回平和会議の結果として、13の条約と一つの宣言が成立した。これらはすべて1907年10月18日に調印された。侵略戦争を不法であるとしたケロッグ・ブリアン条約(パリー条約)は、1928年8月27日にパリーで調印された。それから、1929年7月27日には、2つの重要な条約がジュネーヴで調印された。すなわち、俘虜の待遇に関する条約と戦地軍隊における傷者及び病者の状態改善に関する条約とがそれである。これらの協定は、単に締約国に対して条約から直接生ずる義務を負わせるだけでなく、さらに慣習法を一層適確に示している。1907年10月18日にヘーグで調印された条約の中のあるものの有効性は、直接に条約に基づく義務としては、条約中にいわゆる『総加入条款』が挿入されているために、著しく害せられた。総加入条款というのは、すべての交戦国がその条約の当事者であるときに限って、条約は拘束力をもつというのである。この条款の厳密な法律上の効力は、どんなに重要でない国であっても、非締約国が戦争の当初からか、または戦争の途中で、交戦国の列に加わるや否や、直接に条約に基づく義務としての拘束力を、その条約から奪うということにある。右の条約の規定を拘束力のある条約として遵守する義務は、『総加入条款』の作用によって、またはその他の事情で、一掃されるかもしれないけれども、右の条約は依然として慣習国際法のりっぱな証拠であり、与えられた事態に適用されるべき慣習法を決定するにあたって、他のすべての入手し得る証拠とともに、本裁判所が考慮に入れるべきものである。

ヘーグ第一条約

 1907年にヘーグ会議で定められた第一条約は、国際紛争平和的処理条約であった。(付属書B-14)。この条約は、日本及び起訴状を提出した諸国によって、またはそれらの名において、調印され、グレート・ブリテン、オーストラリア、カナダ、インド及びニュージーランドを除いて、右の諸国の全部によって、またはそれらの名において、批准された。そのほかの21ヵ国も同様にこの条約に調印し、批准し、さらに5ヵ国は後に至って加入した。起訴状を提出した諸国であって、この条約を批准しなかった国は、日本との関係に関する限り、1899年7月29日にヘーグで調印された国際紛争平和的処理条約によって、依然として拘束されていた。その理由は、この後の条約が日本と右の各国によって、またはそれらの名において調印され、批准されたからである。この標題をもっている条約のどちらも、『総加入条款』を含んでいなかった。従って、これらの条約は、起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての時期にわたって、直接に条約に基づく義務として、日本を拘束していた。他の締約国と等しく、他のいろいろなこととともに、日本は次のことに同意した。

  (1)他の諸国との関係において、武力に訴えることをなるべく避けるために、日本は国際紛争の平和的処理を確保するのに全力をつくすこと、及び

  (2)重大な意見の衝突または紛争を生じた場合において、武力に訴える前に、日本はその友好国中の一国または数国の斡旋または仲介に依頼すること。



ケロッグ・ブリアン条約

 1928年8月27日にパリーで調印されたケロッグ・ブリアン条約、すなわちパリー条約は、侵略戦争を不法であるとし、かつ、国際紛争の平和的処理に関する1907年10月18日のヘーグ第一条約によって明示された法を再述した。(付属書B-15)。この条約は、ソビエット社会主義共和国連邦、中国及びオランダを除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によって、またはそれらの名において、調印され、批准された。日本はこの条約を1929年7月24日に批准し、中国は1929年5月8日にこの条約に加入した。オランダは1929年7月12日にこの条約に加入し、ソビエット社会主義共和国連邦は1928年9月27日に加入した。従って、日本と起訴状を提出した各国とは、1929年7月24日までに、この条約に確定的に加入していた。その上に、他の8ヵ国がこの条約に調印し、批准していた。ある時期には、さらに45ヵ国がこれに加入していた。この条約は、起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての時期にわたって、日本を拘束していた。

 日本を含む締約国は、国際紛争を解決するために戦争に訴えることを不法とし、またその相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを宣言した。

 次に、締約国は、相互間に起こるかもしれない一切の紛争または紛議は、その性質または起因がどのようなものであっても、平和的手段による以外には、その処理や解決を求めないことを約した。

 この条約の批准に先だって、締約国のあるものは、自衛のために戦争を行なう権利を留保し、この権利のうちには、ある事態がそのような行動を必要とするかどうかを、みずから判断する権利を含むと宣言した。国際法にせよ、国内法にせよ、武力に訴えることを禁じている法は、必ず自衛権によって制限されている。自衛権のうちには、今にも攻撃を受けようとしている国が、武力に訴えることが正当であるかどうかを、第一次的には自分で判断するという権利を含んでいる。ケロッグ・ブリアン条約を最も寛大に解釈しても、自衛権は、戦争に訴える国家に対して、その行動が正当かどうかを最後的に決定する権限を与えるものではない。右に述べた以外のどのような解釈も、この条約を無効にするものである。本裁判所は、この条約を締結するにあたって、諸国が空虚な芝居をするつもりであったとは信じない。


ヘーグ第三条約

 1907年のヘーグ会議で諸国が締結したヘーグ第三条約は、開戦に関する条約であった。(付属書B-16)。この条約は、中国を除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によって、またはそれらの名において、調印され、批准された。しかし、中国は1910年にこの条約に加入した。ポルトガルとタイを含む合計25ヵ国がこの条約に調印し、批准した。後に至って、6ヵ国がこれに加入した。この条約は『総加入条款』含んでいない。この条約には、締約国中の二国または数国間の戦争の場合に効力をもつと規定している。この条約は、起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての期間にわたって、日本を拘束していた。この条約を批准することによって、他のいろいろなこととともに、日本は次のことに同意した。

  日本と他の締約国との間の敵対行為は、理由を付した宣戦布告の形式か、条件付きの宣戦布告を含む最後通牒の形式において、明瞭な事前の通告によらなければ、開始してはならないこと。


ヘーグ第五条約

 1907年のヘーグ第五条約は、陸戦の場合における中立国及び中立国人の権利義務に関する条約である。(付属書B-17)。この条約は、グレート・ブリテン、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、インド及び中国を除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によって、またはそれらの名において、調印され、批准された。しかし、中国は1910年にこの条約に加入した。タイ及びポルトガルを含む合計25の国家がこの条約に調印し、批准した。後になって、3ヵ国がこれに加入した。この条約に調印したグレート・ブリテンとその他の16ヵ国は、これを批准していない。

 この条約は、ヘーグ諸条約のうちで、『総加入条款』を含む条約の一つである。この条約は、1941年12月8日にグレート・ブリテンが参戦したときに、直接に条約に基づく日本の義務としては、こんどの戦争に適用されなくなったけれども、依然として慣習国際法のりっぱな証拠であり、与えられた事態であって、この条約に規定された諸原則が適用できるようなものについて、そこに適用される慣習法が何かということを決定するにあたっては、他のすべての入手し得る証拠とともに、考慮に入れられるべきものである。

 この条約によって、他のいろいろなこととともに、日本は次のことに同意した。

  (1)中立国の領土は不可侵であること。

  (2)交戦国が、軍隊または弾薬その他軍需品の輸送隊を、中立国の領土を通って動かすことを禁ずること。及び

  (3)兵器、弾薬、その他一般に軍隊または艦隊の役に立つ一切の物を、交戦国の一方または他方のために、輸出または輸送することを、中立国は阻止する必要がないこと。

ヘーグ第四条約

 1907年のヘーグ第四条約は、陸戦の法規慣例に関する条約である。(付属書B-18)。陸戦の法規慣例に関する規則は、右の条約に付属し、その一部であるとされた。(付属書B-19)。この条約は、中国を除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によって、またはそれらの名において、調印され、批准された。タイとポルトガルを含むその他の19ヵ国もこの条約に調印し、批准した。後になって、他の2ヵ国がこれに加入した。

 この条約は、ヘーグ諸条約の中で、『総加入条款』のついている他の一つの条約である。この条款についてわれわれがすでに述べたことは、ここでも、同じように適用される。

 この条約の前文に述べられているように、締約国は、どんなに極端な場合でも、戦争の害悪を減らすことによって、人類の福利と文明の要求に副うという要望に動かされ、交戦者の行動の一般的準則としての役目を果たさせようとして、この条約及びそれに付随するこの規則を採択したのである。実際に起こりそうな場合のすべてにわたって適用すべき規定を、その際に協定しておくことは不可能であると認めて、各国は次のように宣言した。予見できない場合を軍隊指揮者の独断に任せてしまうのは締約国の意思ではないこと、一層完全な法典ができるまでは、この規則に含まれていない場合には、一般住民と交戦員は、依然として文明諸国の慣習、人道の法則及び公共の良心の要求から生ずる国際法の保護と原則のもとにあること。

 この条約によって、その他のいろいろなこととともに、日本は次のことに同意した。

  (1)捕虜は敵の政府の権力内に属し、これを捕えた個人または部隊の権力内に属しないこと、捕虜は人道的に取り扱われなければならないこと、捕虜が持っているものは、兵器、馬及び軍用書類のほかは、依然としてその所有物であること。

  (2)交戦国の軍隊に属する者は、戦闘員であるか、非戦闘員であるかにはかかわりなく、捕えられた場合に、捕虜として取り扱われること。

  (3)将校以外は、捕虜の労働を使用することができるが、その労務は過度のものでなく、また一切作戦行動に関係しないものであること、捕虜の行なったすべての仕事に対しては、支払いをすること。

  (4)交戦国間に特別な協定がないときには、糧食、宿舎及び被服に関して、捕虜はこれを捕えた軍隊と対等な取扱いを受けること。

  (5)自国の権力内にある捕虜は、自国の軍隊で行なわれている法規に従うものであり、またその利益を受ける権利があること。

  (6)日本は敵対行為の開始とともに情報局を設置すること、情報局は捕虜に関する一切の問い合わせに答えることを任務とし、各捕虜に関して現在までの銘銘票を作成し、その票に捕虜に関する一切の必要な重要事項その他の有用な情報を記載すること。

  (7)捕虜のための救恤団体に対して、その人道的事業を円滑に遂行するために一切の便宜を与え、その代表者は救恤その他を行なうために収容所に出入りを許されること。

  (8)次のことを禁ずること。(イ)毒または毒を施した兵器を使用すること。(ロ)敵国または敵軍に属する者を奸計をもって殺し、または傷つけること。(ハ)兵器を捨て、またはもはや防御手段を失って、自発的に降伏した敵を殺し、または傷つけること。(ニ)助命しないという宣言をすること。(ホ)白旗、敵の国旗、軍用の標章、制服、またはジュネーヴ条約の特殊記章を濫りに使用すること。または、(へ)戦争の要求上どうしても必要な場合のほか、敵の財産を破壊し、または押収すること。

  (9)包囲及び砲撃をするにあたっては、宗教、芸術、学術及び慈善のために用いられる建物、歴史上の紀念建造物、病院並びに病者及び傷者の収容所が損害を免れるように、必要な一切の手段をとること。

  (10)都市その他の地域は、突撃によって攻め取った場合でも、これを掠奪することを禁ずること。及び

  (11)戦争中家族の名誉と権利、個人の生命、私有財産及び宗教上の信仰と慣行を尊重すること。

ジュネーヴ俘虜条約

 俘虜の待遇に関する条約は、1929年7月27日に、ジュネーヴで調印された。(付属書B-20)。47ヵ国がこの条約に調印し、34ヵ国がこれを批准するか、またはこれに加入した。オーストラリア、中国及びソビエット社会主義共和国連邦を除いて、起訴状を提出した諸国によって、またはそれらの名において、この条約は調印され、批准された。

 日本は全権委員を送り、この委員は会議に参加して条約に調印した。しかし、1941年12月7日における開戦の前には、日本はこの条約を正式に批准していなかった。しかし、1942年の初めに、合衆国、イギリス及びその他の諸国は、かれらがこの条約を遵守することを日本に申し出で、この条約に対する日本の態度に関して、日本から保証を求めた。日本の外務大臣は被告東郷であったが、かれを通じて、日本は関係諸国に対して、日本はこの条約によって正式に拘束されていないが、アメリカ、ブリテン、カナダ、オーストラリア及びニュージーランドの捕虜に対して、『必要な変更を加えて(「必要な変更を加えて」に小さな丸印で傍点あり)』この条約を適用すると言明し、保証を与えた。この保証によって、この保証が与えられた当時存在することが関係諸国に知られていた特別の事情のために、その条項に文字通りに従うことができない場合を除いて、日本はこの条約に従う義務を負うことになった。右の特別な場合には、文字通りの遵守にできるだけ近いものを適用する義務を日本は負っていた。この保証の効果は、この判決で、追ってさらに詳しく考察することにする。

 この条約は、1907年10月18日に締結された陸戦の法規慣例に関するヘーグ条約の締約国が考えていた『一層完全なる戦争法規に関する法典』である。この条約は、その条項によって、右のヘーグ条約に付属している『規則』の第2章と考えるべきであると規定している。この条約は、『総加入条款』は含むことなく、かえって、交戦国の一がこの条約の当事者でない場合でも、この条約の規定はこれに参加した交戦国の間に拘束力があるという規定を含んでいる。

 この条約は、他のいろいろなこととともに、次のことを規定している。

  (1)捕虜は敵国の権力内に属し、これを捕えた個人または部隊の権力内に属さないこと。捕虜は人道的に取り扱われなければならず、また暴行、侮辱及び公衆の好奇心に対して特に保護されなければならないこと。捕虜はその人格及び名誉を尊重される権利があること。女は女性に対する一切の斟酌をもって待遇されること、及びすべての捕虜は捕獲国が給養を与えること。

  (2)捕虜はなるべく速やかに戦闘区域から離れた収容所に移すこと。しかし、徒歩によって移す場合は、必ず1日20キロメートルの旅程で行なうこと。ただし、水と食糧に到達する必要から、一層長い旅程を必要とする場合には、この限りではない。

  (3)捕虜は抑留することができる。ただし、やむを得ない保安または衛生上の手段としてのほかには、これを禁足または投獄することはできない。不健康な地または気候において捕えられた場合には、もっと良好な気候の地に移されること。収容所の清潔と保健を確保するためのすべての衛生的措置を講ずること。捕虜の一般の健康状態を確保するために、医学上の検査が少なくとも月に1回は行なわれること。食糧に関する団体的懲罰手段は禁止すること。食糧はその量と質において主要基地部隊と同一であること。捕虜は追加食糧を自分で調理するための設備と、充分な飲料水とを供給されること。捕虜には被服、敷布類及び靴を支給すること、並びに労働する者には作業服を支給すること。各収容所は捕虜が必要とするあらゆる性質の手当てを受ける医務室を備えること。

  (4)捕虜は捕獲国のすべての将校に対して敬礼しなければならないが、将校である捕虜が敬礼しなければならないのは、捕獲国の上級または同階級の将校に対してだけであること。

  (5)交戦国は、将校を除いて、健康な捕虜の労働を使用することができる。ただし、下士官は監督の仕事だけに使われること。どの捕虜も、その体に不適当な労働には使用しないこと。捕虜の一日の労働時間は過度にならないこと。そして、各捕虜に対しては、毎週連続24時間の休養を与えること。捕虜を不健康な、または危険な作業に使用しないこと。また、労働分遣所は、特に衛生上の条件、食糧、医療手当て等に関して、捕虜収容所と同じような取扱いをすること。捕虜には、その労働に対して賃銀を支払うこと。そして捕虜の労働は、作戦行動、特に各種の兵器弾薬の製造及び運搬並びに戦闘部隊に宛てられた材料の運搬に、なんら直接の関係がないものであること。

  (6)捕虜は食用または被服に供するための小包郵便物を受け取るのを許されること。そして捕虜のための救恤団体がその人道的事業を有効に遂行するために、捕獲国は一切の便宜を与えること。

  (7)捕虜はその抑留状態について要求をなし、また苦情を述べる権利があること。捕虜はどこにいる場合でも、抑留国の軍事官憲に対して、直接自分を代表する代表者を指定する権利があること。右の代表者を移転させるには、かれがその後継者に進行中の事務に通じさせるに必要な時間を与えなければならないこと。

  (8)捕虜は捕獲国の軍隊で行なわれている法律、規則及び命令には服従しなければならないが、同一の行為について、捕獲国の軍隊の軍人に対して定められた罰と異なる罰を課せられないこと。体刑、日光のはいらない場所における監禁及び一般にすべての残酷な行為を加えることを禁止し、並びに個人の作為または不作為のために、団体的な処罰を加えるのを禁止すること。

  (9)脱走した捕虜で再び捕えられたものは、懲罰だけに付せられること。脱走に協力した脱走者の同僚は、懲罰だけに付することができること。

  (10)捕虜に対する裁判手続の開始に際して、少なくとも審理の開始前に、捕獲国は捕虜の保護国の代表者にこれを通告すること。捕虜には弁護の機会を与えないで有罪の宣告をしないこと。訴追された行為について、捕虜はみずから有罪と認めることを強制されないこと。保護国の代表者は審理に立ち会う権利があること。捕虜に対する判決は、捕獲国の軍隊に属する者を審理する場合と同一の裁判所において、また同一の手続による以外には、言い渡されないこと。言い渡された判決は直ちに保護国に通知されること。死刑の宣告の場合には、右の通知から3ヵ月経たないうちには、刑の執行をしないこと。

  (11)交戦国は重病及び重傷の捕虜を、移送できる状態に回復させた後、階級と数に関係なく、これをその本国に送り還す義務があること。

  (12)抑留中に死亡した捕虜が丁重に埋葬されるように、また墳墓がしかるべき一切の標識をもち、尊敬され、維持されるように、交戦国は注意すること。

  (13)敵対行為の開始とともに、各交戦国は捕虜情報局を設置し、情報局は各捕虜について、一定の重要な情報を記載した銘銘票を作成保存し、また前記の情報を関係国に速やかに伝達すること。

 日本はさらに交戦諸国に対して、次のことを保証した。この条約を一般人抑留者に適用すること、この条約の適用するにあたって、捕虜に被服、食料品を給与する場合には、相互条件に基づいて、捕虜や一般人抑留者の国民的と人種的の風俗習慣を考慮することを保証した。

ジュネーヴ赤十字条約

 戦地軍隊における傷者及び病者の状態改善に関するジュネーヴ赤十字条約も、また1929年7月27日に調印された。(付属書B-21)。この条約は、日本及び起訴状を提出した諸国並びにそのほかの32ヵ国によって、またはそれらの名において、調印され、批准された。この条約は、直接に条約に基づく義務として、起訴状に述べられた本件に関連のあるすべての期間にわたって、日本とその臣民を拘束していた。この条約は、どんな場合にも、締約国はこれを尊重しなけらばならないという趣旨の規定を含んでいる。戦時において、交戦国のうちの一つがこの条約に参加していないときは、その規定は参加している交戦国の間に効力がある。

 日本及びその他の締約国は、この条約に調印し、批准することによって、他のいろいろなこととともに、次のことに同意した。

  (1)軍人及び公に軍隊に付属するその他の人員で、負傷しまたは病気にかかったものは、どんな場合にも尊敬され、保護されること。かれらは、国籍の区別なく、これを自己の権力内に収容した交戦者によって、人道的に待遇され、また看護されること。

  (2)各戦闘の後に、戦場の占領者は、傷者や死者を捜索し、また掠奪や虐待に対してこれを保護する措置をとること。傷者や病者で敵の権力内に陥ったものは、捕虜となり、捕虜に関する国際法の一般規則を適用されること。

  (3)傷者と病者の収容、輸送及び治療に、また衛生上の部隊及び営造物の事務に、もっぱら従事する人員と軍隊付属の教法者とは、尊敬され、保護されること。これらの者は、敵の手に陥ったときでも、捕虜として取り扱われないこと。また抑留されないこと。右の人員は、所有する武器や器具を持って、直ちにその属する軍隊に送還されること。

  (4)移動衛生部隊と衛生上の固定営造物は尊重し、保護されること。敵の手に陥ったときでも、傷者や病者の看護のために必要な建物、輸送機関、その他の材料を保有すること。

  (5)この条約によって尊重され、保護される権利のある人員、部隊及び営造物だけが、ジュネーヴ条約の特殊記章を掲揚することができること。及び

  (6)交戦国の軍隊の指揮官は、この条約の一般原則に従って、前述の諸条の実施の細目と規定漏れの事項を補足すること。


ヘーグ第十条約

 ヘーグ会議で協定され、1907年10月18日に調印された第十条約は、1906年7月6日のジュネーヴ条約の原則を海戦に適用する条約であった。(付属書B-22)。この条約は、グレート・ブリテン、オーストラリア、カナダ、インド並びにニュージーランドを除いて、日本及び起訴状を提出した諸国によって、またはそれらの名において、調印され、批准された。この条約は27ヵ国によって調印、批准された。その後に、他の5ヵ国がこれに加入した。この条約を批准しなかった訴追国及び日本は、1899年7月29日にヘーグで調印された条約の参加国である。従って、これらの諸国は、後の1907年の条約にある規定の大部分を含んでいる1899年の条約によって、相互に拘束されている。

 これもまた『総加入条款』を含んでいるヘーグの諸条約の一つである。従って、非締約国が交戦国となったときに、直接に条約に基づく義務として、それは日本に適用されなくなった。この条款に関してわれわれが述べたことは、ここにおいても、同じように適用される。

 この条約は、他のいろいろなこととともに、次のことを規定している。

  (1)各戦闘の後に、双方の交戦者は難船者、傷者及び病者を捜索し、また掠奪と虐待に対して、これらの者と死者を保護する措置をとること。敵の権力内に陥った者は、捕虜となること。抑留国は、捕獲した者の身分を証明する名簿をなるべく早くその本国に送付し、病者と傷者を看護し、死者を埋葬すること。

  (2)病院船は尊重し、捕獲しないこと。しかし、これらの船舶は軍事目的に使用しないこと。ジュネーヴ条約の記章を表示する標識と旗を揚げることによって、識別ができるようにすること。病院船識別のために定められた標識は、この条約によって保護される権利のある船舶以外には、これを使用しないこと。


日本は国際社会の一員であった

 このようにして、1930年の前、多年にわたって、日本は世界の文明社会でその一員としての地位を占めることを主張し、平和を増進し、侵略戦争を不法とし、また戦争の惨害を軽減するためにつくられた以上の義務を自発的に負っていた。被告の行為は、これらの義務に照らして観察し、判断されなければならない。

極東国際軍事裁判所


判決


B部

第4章


軍部による日本の支配と戦争準備


第4章


軍部による日本の支配と戦争準備


序論

 この起訴状が主として取り上げている日本の歴史上の期間を取り扱うにあたっては、まず第一に、同期間内における日本の国内史を考察することが必要である。1928年からこのかた、日本の軍隊はその近隣の多くの国の領土を相次いで侵略した。本裁判所は、これらの攻撃の歴史と、日本が占領した領土の資源の日本による開発とを取り扱わなければならない。しかし、本裁判所の最も重要な任務は、これらの攻撃が違法であったという範囲内で、それらに対する個人の責任を判定することである。この責任は、単に国外における日本の活動を検討するだけでは判断することができない。実際において、『なぜこれらのことが起こったか』、また『それらが起こったことに対して、だれが責任があるか』という質問に対する答えは、日本の国内政治のその当時の歴史がわかって初めて見出されるということがしばしばある。

 その上に、もしわれわれがまず最初に国外における日本の活動の検討に手を着けたとしたら、この検討をしている間に、これらの活動を充分に理解することは不可能であるということをわれわれは発見するであろう。なぜなら、これらの活動を行なうために選ばれた時期並びにその進展の形態及び範囲は、しばしば、海外の事態だけでなく、国内の事態によっても支配されたからである。これらの理由によって、海外における日本の行動を大いに支配し、説明するところの、日本国内の政治的発展を、われわれはここでまず第一に考慮するものである。

  ここに検討中の期間の著しい特徴は、軍部とその支持者が日本政府部内で非常に有力な地位に段々上って行ったので、他の政府機関は、国民の選んだ代表者にしても、内閣の文官大臣にしても、枢密院や天皇の側近者のうちの文官輔弼者にしても、その後期においては、軍部の野望に対して実効のある抑制を何も加えなかったということである。日本の純粋の軍事問題についても、民政や外交についても、軍部とその支持者の勢力が優勢になったことは、一挙に成就されたものでもなければ、その達成を脅かす諸事件が起こることなしに成就されたものでもなかった。しかし、結局は成就されたのである。軍部が優位を占めることによって頂点に達した政治的闘争の中において、主要人物の受けた変転に満ちた運命は、国外で起こった事件の多くに、説明の光を投げるものであることがわかるであろう。日本の軍事的冒険とそれに対する準備は、日本の内地における政治闘争の変転の多い運命につれて消長があった。


皇道と八紘一宇の『原理』皇道、八紘一宇に傍点あり)

 日本帝国の建国の時期は、西暦紀元前660年であると言われている。日本の歴史家は、初代の天皇である神武天皇によると言われる詔勅がその時に発布されたと言っている。この文書の中に、時の経つにつれて多くの神秘的な思想と解釈がつけ加えられたところの、二つの古典的な成句が現われている。第一のものは、一人の統治者のもとに世界の隅々までも結合するということ、または世界を一つの家族とするということを意味した『八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)』である。これが帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった。行為の第二の原則は、『皇道(皇道に傍点あり)』の原理であって、文字通りに言えば、『皇道一体』を意味した古い成句の略語であった。八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)を具現する途は、天皇の仁慈に満ちた統治によるのであった。従って、『天皇の道』――『皇道』または『王道』――は徳の概念、行為の準則であった。八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)は道徳上の目標であり、天皇に対する忠義は、その目標に達するための道であった。

 これらの二つの理念は、明治維新の後に、再び皇室と結びつけられた。1871年に発布された勅語の中で、明治天皇はこれらの理念を宣言した。その当時に、これらの理念は、国家組織の結集点を表現したものであり、また日本国民の愛国心への呼びかけともなった。


大川によるこれらの『原理』の唱道

 1930年に先だつ十年の間、領土の拡張を主張した日本人は、これらの二つの理念の名のもとに、それを主張した。これに続く幾年もの間、軍事的侵略の諸手段は、八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)と皇道(皇道に傍点あり)の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった。

 最初は被告の一人であったが、本裁判の進行中に、精神に異状を来した大川博士によって、1924年に一冊の書物が出版された。日本は大地の最初に成った国であるから、万国の国民を支配することがその天命であるとかれは述べ、また、日本によるシベリアと南方諸島の占領を唱道した。1925年及びその後に、かれは東洋と西洋の間に戦争が起こり、その戦争で日本はアジアの戦士になるであろうと予言した。1926年に、強い物質主義的精神を伸張させることによって、この崇高な使命を達成することに努めるべきであると述べた。かれは有色人種の解放と世界の道義的統一を唱道した愛国結社を組織していた。参謀本部の招請に応じて、かれはしばしばこれらの主旨に基づいて講演した。


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