歴史の部屋

畑の麾下の日本部隊が侵入した他の諸都市 (原資料199頁)

 畑は松井の後任として、1938年2月14日に、中支派遣軍司令官に任命された。3日の後に、畑は西尾の後任として支那派遣軍総司令官となり、1938年11月までその職に留まった。

 畑の本来の任務は、上海、南京、杭州の三都市で結ばれる三角地帯を占領することであった。後になって、軍事行動を続けること、中国が和を講じなければ、さらに奥地に向けて戦闘地域を拡大するという目的が生じた。本庄と木戸が会談したときに、本庄は次のように述べたと木戸は記している。『徐州戦後は一面漢口に向かうの態勢を示すは必要なるも、同時に事変を解決すること緊要なり。もしこれが思うように行かざれば、ぜひ統帥部とも緊密なる連絡をとり、三年間くらい持ち堪うるように計算して持久戦に入るの必要ありと思う。』1938年5月19日の日記に記してあるように、木戸は大体において本庄の意見に同意し、最善を尽くすと約した。

 右の三角地帯を確保した上、畑は漢口に向かって前進した。この市は1938年10月25日に日本軍の手に落ちた。この作戦にあたって、かれは華北から送られた30万ないし40万の兵力をもっていた。これらの部隊は、中国の奥地深く進入し、次に示す日に、次のような重要都市を占領した。

 1938年5月19日に津浦線と隴海線の戦略的交叉点である徐州、1938年6月6日に、河南省の首都である開封、1938年6月27日に揚子江上の重要な要塞である馬(漢字一文字変換不能。へんは土でつくりは當。英文では「Matang」となっている。どこの地点が御存知の方はお教え願いたい)、1938年7月25日に江西省の主要な商業都市である九江、1938年10月12日に京漢線上の要衝である信陽、1938年10月25日に中国の中心に位置する漢口。

 このように、広大な地域にわたる重要都市が占領されたことから考えると、畑が訊問を受けたときに、中国で行なわれていたものは、日本政府が婉曲に『事変』と名づけたようなものではなく、むしろ戦争であったということを認めたのも驚くに足りない。

国家総動員法 (原資料201頁)

 長期戦を予期して、日本政府は国家総動員法を施行した。その草案は企画院によってつくられ、内閣の承認を得た。1938年2月の議会にこれが提出されたときに、当時の陸軍軍務局局員であった佐藤は、必要の説明を行ない、この法案の通過を得るために、近衛首相を助けた。この法律は1938年5月5日に施行された。これは戦時『(戦争に準ずべき事変の場合を含む)』に際して、『国防目的』の達成のために、国力を最も有効に利用するように、すべての人的と物的の資源を統制運用するように計画されていた。この法律は、すべての日本臣民を総動員することを許し、また、すべての日本臣民または法人もしくは他の団体に対して、国家または政府によって指定されたその他の団体もしくは人と協力するように強制することを許した。


板垣陸軍大臣となる

 1938年6月3日に、板垣は陸軍の要望に従って、近衛内閣が5月に改造された後に、その陸軍大臣に任命された。この直前に、板垣は関東軍参謀副長、次いで関東軍参謀長、中国で師団長、それから参謀本部付きを歴任した。武藤は1938年7月に北支派遣軍参謀副長に任命された。徐州会戦は、中国軍の主力と会戦し、これを撃破することによって、中日戦争の運命を決定するものになることを日本は望んでいた。徐州の攻略の後も、中国政府が屈しなかったので、日本の統帥部は、さらにもう一度中国側に打撃を加え、それによって、中国に対する戦争を終わらせるという希望のもとに、漢口へ進攻するという計画を進めた。板垣は戦争が長びくおそれのあることを認めて、日本国民の決意を強化することに努めた。1938年6月26日に、陸軍大臣に就任してから最初の新聞会見で、同盟通信社に対して、陸軍は戦闘をおそらく10年間にわたって続ける準備をしなければならないと語った。さらに、第三国の態度にはかかわりなく、恐怖したり逡巡したりすることなく、日本は独自の政策を遂行するであろうと述べた。1月16日の日本政府の公式声明にかんがみて、正式の宣戦布告の必要はないと説明した。

 陸軍大臣板垣は五相会議に参加した。この会議の決定の中のあるものについては、やがて論ずることにする。

中国に対する政策と五相会議――1938年 (原資料202頁)

 内閣とは別に、総理、外務、陸軍、海軍、大蔵各大臣の間で会議をするという慣行は、板垣が入閣したときには、すでに新しいものではなかった。広田内閣と林内閣のもとでも、この方法で協議が行なわれ、計画が立てられた。しかし、その間に、板垣が陸軍大臣になってから、戦争が激しくなるにつれて生じた状況のために、この会議はいっそう重要となり、いっそう頻繁に開かれるようになった。1938年の6月と10月の間に、五相会議は、板垣の参加のもとに、中国に対する政策に関して、最も重要な決定を相次いで行なった。これらの決定は、戦争の遂行を目的としていたばかりでなく、すでに設立されていた地方的な『傀儡』政府とは別に、中国全体のために、日本の支配下にある政府を、つまり『傀儡』政府を樹立することも目的としていた。たとえば、7月8日には、蒋介石政府が降伏した場合は、次のようにすると決定された。

 『支那現中央政府にして屈服し来たりたる場合においては、帝国はこれを一政権とし、「新興支那中央政権の傘下に合流せしむ」との御前会議決定方針に基づき処理す。

 支那現中央政府にして屈服し、かつ後述第三の条件(本文書第3項、屈服条件)(このリンク先http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C12120098100?TYPE=jpegの資料を見ると、その条件とは「抗日容共政策の放棄及び新日満防共政策の採用」となっている)を受諾したる時は、これを友好一政権として認め、既成新興支那中央政権の傘下に合流せしめるか、または既存の親日諸政権と協力して新たに中央政権を樹立せしむ』

 中国の現中央政府屈服の認定条件は次のことを含んでいる。

 『蒋介石の下野』

 同じ日に、蒋介石大元帥が戦を続ける場合のために、択一的な二つの決定が行なわれた。

 一貫した方針としては、日本が支配する『中央』政府を育成し、拡大するということであったことを注意しなければならない。日本がこのような政府をつくったことは、すでに論じておいた。

 1938年7月15日に、五相会議は、再び中華民国の『新』中央政府に関して、次のように決定した。『支那新中央政府の樹立は主として支那側をして行なわしむるも、帝国これを内面的に斡旋し、その政治形態は分治合作主義を採用す。

 なるべく速やかにまず臨時及び維新両政府協力して連合委員会を樹立し、次いで蒙疆連合委員会をこれに連合せしむ。爾後我が方はこの政権を指導し、右諸政権は逐次諸勢力を吸収またはこれらと協力して真の中央政府を集大成せしむ。』『新』中央政府の成長を指導したのは、中国人ではなく、『我が方』すなわち日本人であった。

 『漢口陥落し蒋政権が一地方政権に転落するかもしくは蒋下野現中央政府改組の事態生起するまで新中央政府樹立せず。

 蒋政権に分裂、改組等を見、親日政権出現したる場合これを中央政府組織の一分子となし中央政府樹立に進む。

 支那新中央政府樹立工作に伴う日支関係の調整は左記に準拠す。その具体的事項は別に定む。』

 この『準拠』することとは、『互恵を基調とする日満支一般提携なかんずく善隣(「隣善」となっているが「善隣」の誤記である)友好、防共共同防衛、経済提携原則の設定。以上の目的を達成するため所要の期間帝国の内面指導を行なう。』

 新中華民国政府の軍事的地位は、五相会議の次の決定の中で定められていた。

 『支那軍の投降を促進してこれを懐柔帰順せしむるとともにその反蒋反共意識を暢達(ちょうたつ。のばすこと)して新政府を支持し、なるべく多数の支那軍をもって抗日容共軍潰滅のため日本軍に協力せしむるごとく努めもって民族的相克を主義的対立に誘導す。

 『我が占領地の海港及び鉄道水路等交通の要衝並びに主要資源の所在地等必要の地点に所要の日本軍を駐屯し、僻陬(へきすう。僻地・片田舎)地方には支那武装団体を組織して治安の確保に当たらしむ。

 『防共軍事同盟を締結して日本軍の指導下に漸次軍隊を改編し情勢これを許すに至れば国防上必要なる最少限度に裁兵(さいへい。軍隊を削減すること)す。』

 経済事項に関する決定は、次のことを含んでいた。

 『経済及び交通の開発は日満支三国国防の確立に資するとともに三国経済の発展並びに民衆の厚生に遺憾なからしむ。特に所要の交通は帝国これを実質的に把握し北支においては国防上の要求を第一義とし中、南支においては一般民衆の利害を特に考慮するものとす。

 『経済は日満支有無相通の原則に従いて開発し三国経済圏の完成に邁進す。但し第三国の既得権益を尊重しあるいは経済開発に参加せしむることを妨げざるものとす。

 『鉄道水運航空通信は実質的に帝国の勢力下に把握し軍事行動遂行に遺憾なからしむるとともに民衆の厚生に寄与せしむ。』

 五相会議の政策決定からの、これらの引用は、日本によって完全に支配されながらも、中国人の自治という名目に隠れて建設されたところの、中国における政府樹立の一般的方式を示したものである。

土肥原機関 (原資料208頁)

 以上述べた線に沿って、中国に新中央政府を樹立する計画を促進するために、五相会議は1938年7月26日に対支特別委員会を設けることに決定した。その決定の詳細は、次の通りであった。

 『対支特別委員会は五相会議に属し、その決定に基づきもっぱら重要なる対支謀略並びに新支那中央政府樹立に関する実行の機関とす。

 前項業務に関係ある現地各機関は該業務に関しては対支特別委員会の区処(くしょ。区分して処理すること)を受くるものとす。

 対支特別委員会と大本営との連絡は陸海軍大臣これに任ず』

 7月29日に、右の委員会は土肥原、津田及び坂西を中心に設置され、その任務は次のように定められた。『第一項の重要なる対支謀略とは政治及び経済に関する謀略にして直接作戦に関係あるものを含まざる義と解す』。土肥原は委員のうちで最も年少者であったが、唯一の現役軍人であった。委員会の任務の執行にあたったのはかれであって、この目的のために、『土肥原機関』という名で、上海に一つの機関を設けた。土肥原は中国に関する広い知識と、中国人との親密な交際を活用することができた。右の方針に従って、まず中国高官連の「陣営内」に反蒋政府を樹立する目的のために、引退した政治家唐紹儀及び呉佩孚将軍を引き出そうとし始めた。呉佩孚は当時北平で引退生活を送っていた。土肥原は呉佩孚を引退から復帰させ、日本と積極的に協調させることをもくろんでいた。この計画は、『呉計画』と言われるようになった。この工作の費用は、中国の占領地区の海関剰余金から出ることとなった。

 唐紹儀は暗殺され、呉佩孚との交渉は失敗に終わったので、土肥原は他にその努力を転じた。中国における土肥原機関は、汪精衛を華中に連れて来る計画をつくり出すことを助けた。汪精衛が上海に来る手配などに関して、汪精衛の同志と行なった会合について、この機関は東京に報告した。土肥原は当時東京にいたと主張しているが、かれがこれらの計画を監督していたことは明らかである。

傀儡政権の『連合委員会』 (原資料209頁)

 知名の中国人を通じて、中国に新しい中央政府を樹立する方針を実行するために、土肥原とその他の者が努力を続けていた間に、日本内地の日本軍当局は、右の政策を遂行する決意を表明した。当時陸軍省新聞班長であった佐藤は、『支那事変』に関して、2回にわたって演説を行ない、政府の根本的態度は1938年1月16日の政府声明に示されており、新政権を樹立する計画は絶対に変更できないと述べた。1938年8月の27日と28日に、日本政府の代表者と天津の日本陸軍当局者は福岡で会合し、臨時政府と維新政府と蒙疆連合政権との間を調整するための基本計画を決定した。1938年9月9日に、五相会議によって、中国におけるこれらの親日機関の『連合委員会』をつくる計画が採択された。日本でなされたこれらの決定の結果として『新』中央政府を発展させる事業は、大陸にいる日本人によって行なわれた。1938年9月の9日と10日に、臨時政府と維新政府の代表者は、日本の代表者と大連で会合し、北平に『合同委員会』を設けることを取り極めた。この会同の目的は、種々の傀儡政権、特に臨時政府と維新政府との間の調整と統一をはかり、将来の『新』中央政府の樹立の準備をすることであった。1938年9月22日に、北平で成立式が行なわれ、その翌日に、この委員会は初会議を開いた。


広東と漢口の占領

 中国の特定の戦略的地点の占領を定めた1938年7月8日の五相会議の決定に基づいて、日本軍は1938年10月20日に広東を、1938年10月25日に漢口を攻略した。この2つの重要都市とそれに隣接する日本の占領地域との行政に関する措置は、いつもの周知のやり方で行なわれた。1938年10月28日に、広東地域と漢口地域の行政に関する取極めは、陸軍、海軍、外務の三大臣の間に協定された。この取極めは、日本側による政務の監理と『治安維持会』の発展とを規定した。以上のような政権は、表面上は中国側の発意によって樹立されることになっていたが、政治的指導は日本側が与えることになっていた。これらの政権は、対支特別委員会と緊密な連絡と協力を保つことになっていた。この委員会は、前に述べたように、土肥原の指導のもとに置かれていた特別な機関である。広東に関しては、次のような特別の訓令が陸軍、海軍、外務の三大臣から発せられた。

 『地方政権の樹立は支那側の発生に委す。ただし地方政権樹立の促進は我が政務指導機関(陸海外広東連絡会議)協力の下に主として謀略機関(対支特別委員会)これに当たり、成立後の地方政権の指導は政務指導機関これに当たるものとす。』

 中国の戦略的地点を占領する方針は、広東と漢口の攻略だけに止まらず、それよりはるかに広い範囲に実行された。なぜならば、1938年11月25日に、五相会議が中国の最南端にある海南島を攻略することを決定したからである。この島は、1939年2月10日に、日本側に占領された。

日本は国際連盟との一切の関係を絶った (原資料211頁)

 日本は1933年3月に国際連盟脱退の通告をしたが、連盟のある種の活動には引き続き参加していた。漢口と広東が陥落してから、日本の第三国に対する態度は強硬になった。1938年11月2日に、平沼が主宰し、総理大臣と、荒木、木戸、板垣を含む国務大臣と、南及び松井の両枢密顧問官が出席した枢密院会議が開かれ、その会議で、連盟との協力を続ける問題が考慮された。外交と条約に関する事項は、枢密院の領域内に属するからである。国際連盟理事会が1938年9月30日に日本を非難する決議を採択したという理由で、国家の名誉にかんがみ、日本は連盟の諸機関とこれ以上協力することはできないと考えられた。そこで、南洋委任統治に関する規定を除いては、日本と連盟の諸機関との協力関係を終止する計画がつくられ、右の会議において全員一致で可決された。この趣旨の通告は、直ちに国際連盟に送付された。


東亜新秩序

 国際連盟から完全に脱退する決定をなした後、日本は『東亜新秩序』と称する方向に進んだ。1938年11月3日に、日本政府は内外に対して声明を発し、中国の主要都市である広東、武昌、漢口及び漢陽の陥落によって、国民政府は一地方政権となり、日本の究極的目的は、満州国と中国との連携によって、東亜永遠の平和を確保する新秩序を確立することであると述べた。

 1938年11月29日に、外務大臣有田は枢密院に対して報告をした。そのうちで、比較的に重要な箇所は、次のようである。

 『日支新関係調整の方針と致しましては、日満支三国の政治、経済、文化の各般にわたる互助連環による東亜における新秩序の建設を目的と致しまして、大体次のような要領に準拠して行きたい所存でございます。すなわち・・・・蒋介石政権との和平については・・・・これを行なわざる方針でございます。・・・・帝国としては漢口、広東に樹立せられたる親日諸政権を基礎と致しまして、新中央政権の成立をみるよう助長しまして、その基礎確立するを待ってこれとの間に大体左のごとき《諸項》を実現したい所存でございます。・・・・日満支一般提携・・・・北支及び蒙疆における国防上並びに経済上日支強度結合地帯の設定・・・・揚子江下流地域における経済上日支強度結合地帯の設定・・・・南支方面においては沿岸特定島嶼に特殊地位の設定を図るほか重要都市を基点に日支協力提携の素地を確保するに努むること・・・・共同防衛の原則・・・・に関しましては、日満支三国は共同して防共に当たるとともに、共通の治安安寧の維持に関し協力することを主眼と致しまして以下の計画を規定致したいと存じます・・・・保障及び共通の治安維持のためにする特定地帯、地点、島嶼等の駐兵を除くほか日本軍隊の早期撤収・・・・最近におきましても英米等よりいわゆる門戸開放、機会均等主義に基づき種々申入れの次第もあったのでございますが、帝国政府と致しましてはいわゆる門戸開放、機会均等の原則は帝国の生存上の必要、国防上の必要に基づく日満支経済「ブロック」確立の見地よりこれを検討し、右と相容れざる限度においてはこれを容認すべき限りにあらずとの方針をもって対処して参りたい所存でありまして・・・・帝国の主なる目的は(イ)主として北支及び蒙疆における国防資源の開発は帝国がこれを実質的に支配すること、(ロ)新支那の幣制、関税及び海関制度については日満支経済「ブロック」の見地よりこれを調整することの二点を大眼目と致しまして右に抵触せざる限りはことさらに列国の在支権益を排除制限せず。』

 総理大臣近衛は、1938年12月22日に、さらに演説をして、中国国民政府を覆滅し、東亜新秩序を確立する日本の決意を繰り返して述べた。

 この日本の『東亜新秩序』は、合衆国に重大な関心を引き起こした。1938年12月30日に、グルー大使は、本国政府の訓令に基づいて、日本政府に対して通達を出した。その中で、かれは次のように述べた。『さらに為替管理、強制通貨流通、関税改正及び支那のある地域における独占事業の計画等のごとき事柄に関し、日本当局の計画並びに実施は日本政府、あるいは日本の武装せる軍隊により支那に創設、支持せられる政権が支那で主権の権限に由来するがごとき権能を持って行動し、またさらにそのように行動することによって合衆国を含めたる諸外国の既得権益を無視しあまつさえその不存在あるいは廃棄を宣言したりする資格を有するがごときこれら当局側の越権を意味せり。』グルー大使は、1938年12月31日に、日本政府に対して、再び通牒を手交し、アメリカ政府の見解では、いわゆる『新秩序』は、日本の一方的宣言によって、建設され得るものではないと通告した。

 1939年3月17日の『ジャパン・アドヴァタイザー』紙によって、いわゆる新秩序を建設するためには、第三国との衝突は避けることができないと、板垣が議会で明言したと報道された。日本の最初の目標はロシアであり、その次の目標はイギリスとフランスであった。

 1939年7月7日に、盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件第二周年の記念日にあたって、板垣は新聞記者と会見したが、そのうちで、日本の東亜新秩序建設の使命を遂行するにあたっては、第三国の不当な干渉を排除することが必要となるであろうとかれは述べたと報道された。

興亜院 (原資料215頁)

 日本軍が中国の奥地深く進入してから、日本側は新中央政府の結成の準備として、それまで日本陸軍の特務機関によって行なわれていた占領地行政を再検討する手段を講じた。宇垣外相は外務省の中に支那事変を取り扱う新しい機関を設けることを希望したが、この提案は陸軍に反対された。その後、陸軍の要求によって、興亜院または何かこれに似た機関を計画することが決定された。設立されることになっていた新しい機関は、1938年7月26日の五相会議によって設けられた対支特別委員会とは別のものであった。この後者は中国国民政府を潰滅させ、新中央政府を樹立する手段に関する機関であって、設立されることになっていた興亜院は、主として占領地行政に関する事項を管掌することになっていた。

 1938年12月16日に、この新しい機関は、「興亜院」という名称で設けられた。その総裁は首相であり、副総裁は外務、大蔵、陸軍、海軍の各大臣であった。その官制によれば、興亜院は次の事項を担当した。すなわち、政治、経済、文化及びそれらに関係する政策を立案すること、特別の法律のもとに中国で企業を起こし、あるいは商業を営む商社を監督すること、日本政府の諸機関によって行なわれていた中国の行政を調整することであった。

 その本部は東京にあり、上海、北平、張家口、厦門(アモイ)に4つの連絡部、また広東、青島に2つの出張所があった。鈴木貞一は興亜院の創立者の一人であり、その政務部長であった。東京の本部でなされた決定は、支部または『連絡』部に伝達されたが、これらの支部や連絡部は、東京の決定を実施する方法を講ずるにあたって、現地の中国人官憲と交渉した。

 興亜院が設置されたにもかかわらず、中国における日本陸軍は、行政に関する事項を自分の手から放さなかった。特務機関は引き続き存在し、陸軍の干渉は作戦上必要であるとして弁護された。

 興亜院の管掌した種々の事項の中に阿片があった。興亜院は中国の各地方における阿片の需要の状態を研究し、蒙古から華北、華中及び華南への阿片の配給を取り計らった。中国における日本の麻薬政策は他の箇所で論じてある。

汪精衛が重慶を去った (原資料216頁)

 中国で『新』中央政府を樹立する運動は、1938年12月18日に、汪精衛が中国の戦時の首都重慶を去るに至って、さらに力づけられた。かれは国民党の副委員長であり、国防会議の副議長であった。早くも1938年の春に、元中国外交部の官吏であった高宗武と董道寧(とう どうねい)とは、参謀本部支那課長影佐とに連絡をつけられ、陸軍機によって日本に連れていかれた。日本で、影佐は中国と日本との間の平和の回復についてかれらと話し合った。両国の間の平和の回復を促進するためには、蒋介石大元帥以外のだれかを求めなければならないこと、それには汪精衛が適任者であろうということが提案された。この会談の内容は参謀本部に報告され、参謀本部はこれを討議した。1938年の秋に、参謀本部の一将校が、上海から高宗武と梅思平の起草した『日支和平条件試案』を携えて、東京に帰ってきた。板垣はこの『試案』を五相会議に提出した。日本政府によってすでに起案されていた『日支関係調整方針』に基づいて、この試案に修正が加えられた。1938年11月18日に、板垣の命令に従って、高宗武及び梅思平と会談するために、影佐は上海に赴いた。提案された条件に数個の修正が加えられた後に、汪精衛はかねての計画に基づいて重慶を去ること、それに伴って、日本政府は提案された和平条件を発表することが取り極められた。これらの取極めは、1938年11月25日に五相会議によって、また1938年11月30日に御前会議によって、それぞれ承認された。以上に述べたように、1938年12月18日に、汪精衛は重慶を去った。かれは1938年12月20日に、仏印ハノイに到着した。汪精衛が重慶を去る予定の期日は、木戸が12月12日その日記に記載しているように、少なくとも6日以前に日本政府に知られていたということに、ここで注意しなければならない。その日記には、『汪兆銘(汪精衛)は18日には重慶を脱出すとの情報もある今日なれば今日我が国の政情に不安あるごとき態勢を表わすのは不可なり』と記されているのである。

近衛の三原則 (原資料217頁)

 1938年12月22日に、汪精衛が重慶を『脱出』した後に、総理大臣近衛は、かねて計画されていた通りに、声明を発表した。この声明の主要な点は、次の通りである。(1)日本、満州及び中国は、東亜新秩序の建設を共同の目的として結合し、これを実現するために、中国は日本に対する反抗と、満州国に対する敵意とを捨てること。(2)日本、ドイツ、イタリアの防共協定の精神に則って、両国の間に防共協定を締結することが、日本と中国との国交を調整するために、緊急の要件であると日本は考えていること。中国に存在する実情にかんがみて、特定地点に日本軍を駐屯させなければならないこと。内蒙は特殊防共地域としなければならないこと。(3)中国において、日本は経済的独占または第三国の利益を制限することを希望するものではないが、日本と中国との平等の原則に立って、中国が日本国民に中国の内地における居住と営業の自由を認めること、両国の経済的利益を促進すること、特に華北と内蒙では、その資源の開発について、日本に便宜を与えることを日本は中国に要求することであった。

 計画通りに汪精衛は、1938年12月29日にハノイで演説した。その中で、日本政府は中国の主権、政治的独立及び領土保全を尊重すること、中国における経済的独占を目的とするのでも、中国における第三国の利益の制限を目的とするのでもないことを厳粛に声明したのであるから、近衛声明に述べられている三点は、平和の精神と一致するものであると汪は宣言した。中国政府は、両国の間に速やかに平和を回復するために、なるべく早く、意見の交換を行なわなければならないとかれは主張した。

 このようにして、日本によって汪のもとに樹立されることになっていた『新』政府が日本の和平条件を承認するための地ならしができた。この方法によって、中国との、困難で厄介な戦争を終わらせることができ、日本はその戦略的計画を他の方面で自由に遂行することができるというのであった。それと同時に、自己満足にふけって平然としている政府が日本によってつくられ、日本に対して、中国の完全な軍事的と経済的の支配を与えようというのであった。

平沼の組閣 (原資料219頁)

 1938年の末に、総理大臣近衛は辞職しようと考えた。平沼はこれに反対した。かれが木戸に述べたように、汪精衛が重慶を去り、計画が着々と進んでいるからというのである。しかし、近衛は依然として辞職を固執した。そして、1939年1月5日に、平沼がその後継者となった。荒木は文部大臣として留任し、木戸は内務大臣の地位を受諾し、板垣は陸軍大臣として留まった。

 留任に同意する前に、板垣は陸軍のために7つの条件を明示した。すなわち、(1)『支那事変』に関しては、『聖戦』の目的は既定の政策に従って達成すること。特に中国との関係を調整する基礎を含んでいる1938年12月22日の声明は、全面的に採用すること。(2)東亜の新事態に対応するために国防計画を確立し、軍備の拡張を目的とすること。(3)日本・ドイツ・イタリアの関係を強化すること。(4)国民総動員組織を強化し、企画院を拡大強化すること。(5)生産の増強のために、全面的な努力を傾注すること。(6)国民の士気を鼓舞すること。(7)貿易を増進すること。

 これらの要求の最初の結果として現われたものは、企画院の起案した『生産力拡充案』を1939年1月に閣議が採択したことである。これは、『我が国運の将来における飛躍的発展』の準備として、1941年までに国防と基礎産業を改善する目的で、日本、満州国及び中国を通じて、生産力の総合的拡充計画を確立することを規定していた。1939年1月21日に、総理大臣平沼は議会で演説し、中日事変に関しては、かれの内閣は前の内閣と同じ不動の政策を受け継ぐこと、認識を欠いて、抗日をあえて続ける者に対しては、断固としてこれを潰滅するほかに途がないことを述べた。その間に、日本は中国における軍事行動を続けていた。すでに述べたように、海南島は1939年2月10日に、江西省の首都南昌は1939年3月26日に、それぞれ占領された。

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