歴史の部屋

汪精衛上海へ (原資料220頁)

 1938年12月22日の近衛声明と、同じく29日の汪精衛声明とは、中国に新しい中央政府を樹立する前触れにすぎなかった。1939年3月に、日本の五相会議は、上海を『安全地帯』と認め、汪をここに移すために、影佐をハノイに派遣することを決定した。影佐は汪にあてた外務大臣有田、陸軍大臣板垣、興亜院部長鈴木及び海軍大臣米内の私信を携えて、1939年4月17日にハノイに到着した。汪は影佐に上海を本拠として和平運動を起こすと述べた。日本側によって、汪は極秘のうちにハノイから上海に移され、1939年5月8日に同地に到着した。


汪精衛の日本訪問

 汪は、反対のあることが予想されるので、諸工作のために便利なところに速やかに据えてもらいたいと希望した。そのことを、汪とともに上海に行く途中で、台湾にいるときに、影佐は東京の陸軍省に報告した。その後、影佐は実際に汪のために上海に本部を設置した。日本の憲兵隊と汪の手下との活動を調整するために、影佐機関というものもつくられた。

 汪は日本政府の見解を確かめることに関心をもっていた。影佐とその他の日本人に同伴されて、かれは上海を1939年5月31日に出発して東京へ向かった。東京にいる間に、かれは平沼、板垣、近衛、有田及び米内と懇談した。東京に到着して間もなく行なった平沼との会談で、平沼は自分の内閣が近衛声明の精神を継承し、厳にこれに従っていると汪に述べた。1939年6月15日に、総理大臣平沼の代理としての陸軍大臣板垣と汪は会見した。日本は臨時政府と維新政府との、2つの既成政府を解消することはできないこと、その理由は、これに関係していた人々が日本と中国との和平提携の方針に忠実であったからであることを板垣は述べた。現地における日本と中国との関係を維持する基礎として、臨時政府には政治委員会、維新政府には経済委員会をそれぞれ設置することをかれは提案した。汪はこれに反対しなかった。板垣は、さらに、青天白日旗は抗日の象徴と見られているから、中国の国旗をかえることを提案した。満州国の独立を承認することについて、板垣はまた汪の意見を聴いた。これに対して、自分の目的は日本との和平であるから、満州国を承認するほかに途はないと確信すると汪は答えた。

1939年6月の五相会議の決定 (原資料222頁)

 1939年6月10日の汪精衛との会談で、平沼は中国の将来について懇談し、自分の意見として、『中国において最も適当と思う方策に出られる』ほかに方法はないと述べたと言っている。それにもかかわらず、その4日前に、すなわち1939年6月6日に、汪精衛がまだ日本に滞在していたとき、五相会議は『新中央政府樹立方針』を決定した。この方針は、大体において、『新』中央政府と構成員たる地方政府の一団とをもって、いわば連邦政府の形で、一つの親日政治機構を確立することを目的としていた。『ただしその内容に関しては、日支新関係調整方針に準拠』することとなっていた。重慶政府に関しては、『翻意改替すれば』構成分子となることができると右の方針は規定した。いっそう詳しく言えば、『重慶政府が抗日容共政策を放棄し、かつ所要の人的改替を行なう』ならば、『これを屈服と認め、新中央政府構成の一分子たらしむ』と規定したのである。また、『これが樹立時期並びにその内容等は、日本側と協議の上これを定むるものとす』と規定した。『本工作に関しては、日本側として必要の積極的内面支援を与うるものとす』という決定もなされた。このように方針が定められたのは、当時汪との間に討議が行なわれていたからであって、かれに対して要求しなければならない一連の条件と同時に、『汪工作指導要綱』を規定していた。この方針の決定を考察すれば、中国の全土にわたって日本の支配する政府を発展させるために、汪を利用したという明白な目的が示される。これこそ事実である。もっとも、影佐は、その証言において、汪精衛一派は、中国の主権を尊重すること、内政に干渉しないこと、中国の要請がなければ、日本人顧問をつけないことなどの、広汎な原則を含む要求を提出したといい、中国側のこれらの提案は『概ね認められました』と言った。

日本内閣の更迭と中国における軍事行動の継続 (原資料224頁)

 1939年8月の末から1940年1月中ごろまでの4ヵ月半の間に、日本では内閣の更迭が2回あった。1939年8月22日の独ソ不可侵条約締結の結果として、ドイツ、及びイタリアとの三国同盟を結ぼうとして努力していた平沼内閣は辞表を提出した。1939年8月30日に、阿部大将が新しい内閣を組織した。畑が板垣の後を継いで陸軍大臣となり、武藤が軍務局長となった。1939年9月12日に、板垣は当時東京にあった支那派遣軍総司令部の総参謀長に任じられた。かれは同地で汪精衛の『救国和平運動』を支持して陰謀を続けた。中国における日本軍の軍事行動は、中国の奥地にまで続いた。1939年7月20日に、中支那派遣軍は『情勢判断』を行ない、これを陸軍次官とその他の機関に提出した。他のいろいろなこととともに、これは中国にある日本軍の将来の計画を述べたものである。これには汪精衛を主班として新しい中央政府を樹立すること、またその発達に積極的援助を与えることに同軍が決定した旨を述べてあった。

 1939年12月23日に、日本軍は中国の最も南の地域にある龍州に上陸し、翌日には広西省の首都南寧を攻略した。1939年末には、日本は空軍に出動を命じ、仏印の諸港から中国奥地への軍用資材の輸送を妨害する目的で、雲南鉄道を爆撃させた。1940年1月に、日本に再び政変があった。総理大臣阿部は1940年1月12日辞職し、米内によって引き継がれた。しかし、日本の中国に対する一般政策は変わらなかった。


傀儡中央政府の成立

 汪精衛は日本から帰った後、提案中の傀儡中央政府の樹立に関して、北支派遣軍司令官多田中将と会見し、また臨時政府及び維新政府の首脳部と会見した。そのころに、すなわち1939年7月までに影佐は上海に影佐機関を設立していた。この機関は、興亜院と協力するとともに、陸海軍及び外務省とも協力した。この機関が中央政府の樹立を助けた。この目的のために、日本から汪精衛に四千万円の借款が与えられた。1939年8月28日から9月6日まで、汪精衛は『六全会』を開いた。この大会は国民党の政綱を修正し、日本の提案を『原則』として採用し、新中央政府を樹立するための中央政治会議に関して討議した。その後に、新政府樹立のために、中央政治会議の組織に参加するように、汪は臨時政府と、維新政府に招請を発した。

 影佐によれば、日本では、興亜院が10月につくった試案を実現する手段が講じられていた。これについては、1939年12月30日に、日本政府と汪精衛との間に意見が一致した。新政府の樹立に関する細目も、東京で汪の代表者と日本の官吏との間で同意された。それから、1940年1月には、日本陸軍と臨時政府及び維新政府の代表者とが青島会合して、既成政権を合同することを決定した。1940年3月30日に、汪の政府が正式に成立した。

第6節


大東亜共栄圏 (原資料226頁)

 日本の大陸における中国支配の計画と密接な関係をもつものに、大東亜共栄圏の建設という思想があった。これは日本を第三国の利益と衝突させるようになるにきまっていると認められていた。盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)における戦闘行為の開始から2年を経た1939年7月7日に、平沼内閣の陸軍大臣であった板垣と海軍大臣であった米内とは、日本の東亜新秩序建設の使命達成に対する第三国の不当な干渉は排除しなければならないと述べたということが、ジャパン・タイムズ・アンド・メイルに報道された。この記事は、さらに、『日本は東亜を東亜民族のものとしようとする目的を決して棄てないとの固い決意を、国民全部が示さなければならない。目的の達成のためには、どんな苦難にも堪えなくてはならない』と述べている。1940年6月29日に、当時の外務大臣有田は放送演説を行ない、日本の東亜新秩序建設の使命と、『援蒋行為の根絶を期し、あらゆる手段を尽くす』という決意とを繰り返した。東亜の諸国と南洋の各地は互いに密接な関係をもち、その共同の福祉と繁栄のために、協力して相互の必要を補う運命にあること、また共同の生存と安定の基礎に立って、単一の圏の下に、すべてこれらの地域を統一することは当然の結論であることをかれは述べた。陸海軍と外務省当局の代表者の会議では、イギリス国と戦い、イギリス植民地を占領する可能性に言及され、日本の考えとしては、極東の新秩序に、南洋を含むこと、特に、ビルマとインドの東部からオーストラリアと、ニュージーランドまで延びる諸地域を含むことに言及された。

 日本が東亜と太平洋地域に進出しようとする政策をこのように公表した日、すなわち1940年6月29日は、深い意義のある日である。この地域に関係のあった諸国のうちで、オランダはすでにドイツ軍に蹂躙され、その政府は亡命中であった。フランスはドイツに降伏していた。イギリスはまさにその生死を決する苦闘に直面しようとするところであった。もしアメリカが干渉するとなれば、日本、ドイツ、イタリアとの戦に直面することになるのはほとんど必然的であったが、この戦を行なうには、アメリカの再軍備の状態は充分でなかった。日本が隣邦諸国を犠牲として進出するこのような好機会は、容易に再び訪れそうもなかった。

第二次近衛内閣 (原資料227頁)

 1940年7月の中旬には、畑が陸軍大臣を辞し、陸軍が後任を送ることを拒んだために、米内内閣は陸軍によって辞職を余儀なくされた。木戸の言ったように、近衛は『日支事変の解決を期待されていた人物で』あるという理由で、再び選ばれて新内閣を組織することになった。東条が陸軍大臣となり、平沼、鈴木、星野が無任所大臣となった。新内閣は1940年7月22日に組織された。新外務大臣松岡は、大東亜共栄圏建設政策を継いで、1940年8月1日に、日本外交政策の当面の目的は、日本・満州国・中国を核心として、大東亜共栄の連鎖を確立するにあると声明した。1940年9月28日に、日本政府は『日本外交方針要綱』をつくった。それによれば、日本と中国との全面和平を実現し、大東亜共栄圏建設の促進に努力しなければならないことが述べてある。その計画によれば、仏印、オランダ領東インド、海峡植民地、イギリス領マレイ、タイ国、フィリッピン、イギリス領ボルネオ及びビルマを含む地域において、日本・満州国・中国を中心として、日本は一つの圏を組織し、これらの諸国と諸地域の政治、経済及び文化を結合するということになっていた。


中国に対する日本のその後の軍事行動

 汪精衛の政府は、1940年3月30日に、南京において正式に発足したが、日本に対する重慶の中国国民政府の抗戦は、依然として続けられた。中国政府の降伏を目的とした日本軍の軍事行動は、ますます力を入れて続けられた。1940年6月12日に、日本軍は重慶の存在する四川省の玄関、宜昌を攻略した。1940年6月30日には、中国側が奪還していた開封を再び占領した。その上に、日本政府は、中国軍の補給線を断ち、後方からかれらを脅かすために、仏印に軍隊を派遣することを主張した。1940年9月14日に、木戸はこの目的でとられた行動を是認することを天皇に進言した。中国に対する作戦のために、1940年9月23日から、日本軍を北部仏印に進駐させる協定が、日本とフランス当局との間で結ばれた。この協定は長い交渉の後に結ばれたもので、これについては後に論ずることとする。

日本、汪精衛政府との条約に調印 (原資料229頁)

 新政府の設立にあたって、日本特命全権大使に任ぜられたのは専門の外交官ではなく、軍人である陸軍大将阿部信行であった。この方式は、そのころ、満州国において、関東軍司令官であった軍人が、満州国傀儡政府に対する日本大使に任じられていた型に従ったものであった。阿部大将は1940年4月23日に南京に到着した。そして、中国と日本の関係を回復する一切の準備は完成した。汪と阿部との間に長い交渉があってから、1940年8月28日に、条約草案について意見が一致し、それから3日後に略式の署名をした。その後、さらに交渉があって、いくらかの変更が加えられた後に、最後的形式の条約が確定した。1940年11月13日の御前会議を経て、この条約は枢密院に廻され、1940年11月27日の本会議で可決された。この条約は、1940年11月30日に、南京で正式に調印された。


日華基本条約

 1940年11月30日に調印された条約と関係文書は、一見したところ、相互に尊敬を維持することと、東亜に新秩序を建設するという共同の理想のもとに、善隣として相提携することを目的とし、またこれを核心として、世界全般の平和に貢献しようとするものであった。この条約によれば、両国政府は両国の間の修交に有害な原因を除去し、共産主義に対する共同防衛に当たることを約し、その目的のために、日本は蒙疆と華北の特定地域に必要な軍隊を駐屯させることになっていた。汪政府は中国の特定地域に海軍部隊と艦船を駐留させる日本の権利を認めた。さらに、華北と蒙疆の資源、なかんずく国防上に必要な資源に関して有無相通ずるように、両政府は緊密に協力し、相互の必要を補うものとするとこの条約は定めていた。なお、他の地域の資源を開発するために、日本に積極的な、また充分な便宜を与えることに汪政府は同意した。通商を促進し、揚子江下流地域の通商貿易の促進に特に緊密に協力することに両国政府は同意した。この条約には、2つの付属の秘密協定があった。第一の秘密協定では、外交は一致した行動を基調とし、第三国に関しては、この原則に反する措置は一切とらないということが同意された。その上に、日本軍隊が駐屯する地域の鉄道、空路、通信、水路に関する日本の要求に応ずることに汪政府は同意した。平時における中国の行政権と執行権は、尊重されることになっていた。第二の秘密協定は、日本艦船を『中華民国の領域内における港湾水域に自由に出入碇泊せしめる』ものであった。汪政府は厦門、海南島及び隣接諸島における特殊資源の、なかんずく国防上必要な軍需資源の企画、開発、生産に関して緊密に協力し、また日本の戦略的要求に便宜を与えることに同意した。汪は阿部にあてた別の書簡で、日本が中国で軍事行動を続けている間、中国は日本の戦争目的が完全に達成されるように協力することを約束した。この条約が正式に調印されたと同じ日に、『日満華共同宣言』が発表された。この宣言は、この三国が互いにその主権と領土を尊重し、善隣としての一般提携、共同防共、経済提携を行なうことを定めていた。この条約と付属秘密協定によって、日本は中国の外交活動について発言し、中国内に陸海軍兵力を維持し、中国を戦略上の目的に使用し、中国の天然資源を『国防』に利用する権利を確保した。換言すれば、これらの文書に現われている外交辞令にもかかわらず、中国はせいぜい日本の一地方または一州となるか、悪くすれば、日本の軍事上と経済上の必要を満足させるために搾取される国となることになっていた。

和平交渉の断続と軍事行動の継続 (原資料231頁)

 この条約の締結は、中央政府の樹立、軍事上またはその他の利益の獲得とに関する限りでは、1938年1月16日の近衛声明に述べられた政策の実現されたものとして、日本政府が充分の満足感をもって見てよいものであった。同時に、抗戦を続けていた重慶にある中国国民政府をどう処理するかという問題は、未解決のままであった。この時期における日本政府の態度は正路を外れたような、ぐらぐらしたようなものであった。条約締結以前には、和平工作は重慶の中国政府を対象として行なわれていたが、これという結果をもたらさなかった。外務大臣松岡は、これらの交渉を自分自身の手で行なおうとして、田尻、松本、その他を香港に派遣した。これらの努力も再び水泡に帰した。汪との条約締結の後は、重慶の中国政府に対する日本政府の態度は再び硬化した。1940年12月11日に、阿部は次のような訓令を受けた。『今般帝国政府は(在南京)国民政府を承認し、これと正式外交関係に入りたる次第なるところ、事変はなお継続中なるのみならず、我が方としてはいよいよ長期戦の態勢を取らんとする情勢に鑑み、貴官は帝国既定の方針並びに日支新条約の規定に則り、速やかに(在南京)国民政府の育成強化を図らるべし。』その後も、重慶に対する軍事行動は続けられた。1941年3月1日に、畑は再び支那派遣軍総司令官に任命された。佐藤は1941年3月18日に対満事務局事務官となり、木村は1941年4月10日に陸軍次官となった。総理大臣近衛、木戸、陸海軍大臣の間に意見の一致があってから、鈴木は企画院総裁となった。1941年4月21日には、重慶の後方にあって戦略上の要衝であったところの雲南省の首都昆明が爆撃され、同地のアメリカ領事館の建物が大きな損害を受けた。かねてから、日本軍の空襲のために、損害を蒙っていた重慶は、1941年5月9日、10日及び6月1日に、またもや爆撃された。


中国に関するハル・野村会談

 この間に、世界平和に影響のある問題、特に中日関係について、野村大使はワシントンでアメリカ国務長官コーデル・ハルと交渉を行なっていた。これについては、後にさらに詳しく論ずることにする。ここでは、日本が次のことを求めたということを言っておけば充分である。(1)中国に対するアメリカの援助を停止すること、(2)アメリカの助力によって蒋介石大元帥を動かし、日本と直接和平交渉を行なわせること――実は蒋に日本の条件を受諾させること、(3)満州国の承認、(4)中国に日本軍を駐屯させることによって、中国を軍事的隷属の地位に置く権利である。

 1941年7月2日に、東条、鈴木、平沼、岡の出席した御前会議が再び開かれた。この会議で、情勢の推移に伴う日本の国策要綱が可決された。これには、他のいろいろなこととともに、『蒋政権の屈服を促進するために』、さらに圧力を加えるという決議が含まれていた。

第三次近衛内閣 (原資料233頁)

 外務大臣松岡は、日米交渉の運び方について、総理大臣近衛との間に完全な意見の一致がなかった。東亜と太平洋に進出するとともに、すでにドイツの侵入を受けていたソビエット連邦を日本が攻撃することにも、松岡は賛成していたが、この政策は、日本の大多数の指導者が日本の力では無理だと認めたものであった。この内閣は、松岡を除く手段として、1941年7月16日に辞職した。

 1941年7月18日に、近衛はその第三次内閣を組織した。外務大臣としては、豊田が松岡に代わった。日本政府の根本方針は変わらなかった。

 合衆国と日本との間の交渉は続けられた。1941年8月27日に、近衛はローズヴェルト大統領にメッセージを送った。同日付の日本政府のステートメントも、ローズヴェルト大統領に手交された。このステートメントは、他のいろいろなこととともに、日本の仏印における行動は、『支那事変』の解決を促進しようとする意図に出でたものであると述べていた。ローズヴェルト大統領はこれに答えて、国際関係において当然に基礎としなければならない原則を、すなわち、あらゆる国の領土保全と主権の尊重と、他国の国内問題に干渉しないという主義とを繰り返して述べた。この回答を受け取って、近衛は1941年9月5日に閣議を開き、その席で、1941年9月6日に御前会議を開くことにした。東条、鈴木、武藤及び岡が全部出席したこの御前会議では、10月中旬に交渉を打ち切るという決定を行なったほかに、提案中の近衛・ローズヴェルト会見において、『日支事変』に関して、次の要求事項を提出することも定めた。(1)アメリカとイギリスは『日華基本条約』と日満華共同宣言に従って行なわれる『日支事変』の処理を妨害しないこと、(2)ビルマ公路を閉鎖し、アメリカとイギリスは蒋介石大元帥に対して軍事的援助も経済的援助も与えないこと。1941年9月22日に、豊田はグルー大使に、日本が中国に対して提出しようと考えていた和平条件を記述した文書を手交した。その条件は次の通りであった。(1)善隣友好、(2)主権及び領土保全の尊重、(3)日華共同防衛、そのために中国の一定地域に日本国軍隊を駐屯させること、(4)第三点によるものを除いて、日本軍隊は事変解決に伴って撤退すること、(5)日本と中国の経済提携、(6)蒋介石政府と汪精衛政府との合流、(7)無併合、(8)無賠償、(9)満州国承認。これらの条件は、体裁のよい目的をもち、汪政府との条約を考慮しているが、それにもかかわらず、実際には中国の完全な政治的、経済的、軍事的支配を日本に与えることになるものであったということがわかるであろう。

 1941年10月9日、総理大臣近衛と情勢を論じたときに、木戸は、アメリカといま直ちに戦争を行なうことは得策ではあるまいが、10年か15年の間続くかもしれない『日支事変』を完遂するための軍事行動の準備を日本は行ない、昆明と重慶に対する計画を実現するために、中国にある日本の全兵力を使用する準備をしなければならないといった。1941年10月12日に、内閣は、陸軍大臣東条の主張によって、日本は中国における駐兵の方針または中国に関係のある他の政策について動揺してはならないこと、また日華事変の成果を害するようなことは、一切行なわないということに意見の一致を見た。言い換えれば、どんな場合でも、日本は中国ですでに獲得しているか、あるいは獲得の見込みのある多くの物質的利益を、一つでも放棄してはならないということであった。1941年10月14日に、閣議に先だって近衛は東条と会談し、日米開戦と日華事変の終結とについて再考するようにと要望した。東条は依然として中国からの撤兵について、アメリカに少しでも譲歩することに反対し、近衛の態度はあまりにも悲観的だと言った。その日に行なわれた閣議で、東条はその見解を固執し、完全な行き詰まりを引き起こした。1941年10月16日に、近衛は辞職した。

東条内閣の成立 (原資料236頁)

 近衛の辞職した後、木戸の推薦によって、東条が総理大臣となった。この推薦には、広田も明確な承認を与えた。この新しい内閣では、東条はまた陸軍大臣でもあり、内務大臣でもあった。東郷が外務大臣兼拓務大臣となり、賀屋が大蔵大臣となった。鈴木は興亜院総務長官兼企画院総裁であった。嶋田が海軍大臣となり、星野が内閣書記官長に任命された。以前と同じく、総理大臣が興亜院総裁で、陸軍、海軍、外務、大蔵の各大臣を副総裁としていた。


日米会談の継続

 日本政府は、新しい東条内閣が成立した後も、合衆国政府との外交交渉を続けた。しかし、一方では、決定を急ぐようにも見えながら、他方では、中国に関して、その態度を少しでも真に改めようとする意思を示さなかった。11月4日に、東郷は野村に対して、かれの会談を援助させるために、栗栖(和文では「栗栖」となっているが、英文では「Kurusu」となっている。おそらく和文は「来栖」の誤植で、当時の外交官の来栖三郎のことだろう)が派遣されることを通知した。その日に、東郷は野村に、もう一つの通信を送り、合衆国政府に提出すべき条件を示した。その中には、日本軍の中国駐屯に関する条件が含まれていた。日本の依然として固執した点は、日本と中国との間に平和が成立した後でも、中国、蒙疆及び海南島に軍隊を駐屯させること、その軍隊は不特定の期間撤退しないこととするが、必要ならば、これを25年間と解釈してもよいということであった。これらの条件は、後に東条、東郷、嶋田、賀屋、鈴木、星野、武藤及び岡の出席した1941年11月5日の御前会議によって承認された。野村はその承認について、即刻通告を受けた。


中国における軍事行動の継続

 太平洋戦争の発生は、日本の中国における軍事行動を緩和させなかったし、また重慶の中国国民政府を打倒するという決定にも何の変更ももたらさなかった。太平洋戦争が起こる前でさえも、中国の蒙った死傷や損害は膨大な数量となっていた。1941年6月までに、日本側の統計によれば、中国軍は380万の死傷者と捕虜を出し、日本軍は中国軍から膨大な戦利品を獲得し、中国の飛行機1977機を撃破した。そして、日本軍自身の損害は戦死109250、飛行機203機であった。

 1942年5月に、日本軍は重慶の後方にある雲南省の龍陵と騰衝(とうしょう)とを占拠した。1943年12月に、かれらは湖南省の常徳を攻略したが、これは間もなく中国軍に奪還された。1944年の中ごろには、軍事行動は華中の奥地においていっそう激しくなった。鄭州は1944年4月20日に、洛陽は1944年5月25日に、長沙は1944年6月18日に、衡陽は1944年8月8日に陥落した。次いで、その年の冬には、日本軍は戦略上重要な中国西南部にさらに突入した。日本軍は1944年11月10日に桂林を、1944年11月11日に柳州を攻略した。終戦のときの中国軍の公式記録によれば、1937年7月7日から1945年8月までの期間に、中国側の受けた損害は、軍隊だけでも、死傷者、行方不明者が3200948名であった。戦争中に殺害され、または不具にされた非戦闘員の数は発表されていないが、すこぶる膨大な数の一般人の死傷者があったに相違ない。

第7節


満州と中国の他の地域との対する日本の経済的支配 (原資料239頁)

 被告に対する訴追は、なかんずく、満州とその他の中国の地域における経済的支配の獲得を目的とする侵略戦争を行なったことである。従って、この問題に関して、提出された証拠を簡潔に論ずることが必要となる。すでに述べたように、満州における日本の政策は、同地域を日本に追随する政府のもとに統一し、その政府との協定やその他の手段によって、日本で採用された計画に非常に必要な基礎原料を入手すること、交通と産業及び商業の主要な部分との支配権を獲得することであった。これらはいずれもその後の軍事行動に大きな価値のあるものであった。

 華北においても、同じ目的のために同じ計画が用いられた。わけても、当時外国市場で入手することのできなかった物資で、中国全体に対する作戦のためにきわめて必要であり、また全面的計画の進捗に必要であったものについて、その需要を満たすために、そうであった。戦争が華中と華南に進展するに至って、同じ政策が採用された。政治的支配の問題はすでに論じておいた。採用された種々の手段を次に述べるが、それは経済的支配の政策がどの程度に実行されたかを示すものである。


一般的経済問題

 中国に対する日本の政策に関しては、政治政策に関連して、本判決書の初めの方ですでに取り扱った。その際に言及された『計画及び政策』のほとんどすべては、経済的問題をも扱っている。従って、ここでは、経済的支配の問題に特にあてはまる少数の決定だけに言及する。

 この政策の典型的なものは、1936年8月11日に、広田内閣によって採用された『第二次北支処理要綱』である。その主眼は、『北支民衆を主眼とする分治政治の完成を援助し該地域に確固たる防共親日満の地帯を建設せしめ、あわせて国防資源の獲得、並びに交通施設の拡充に資しもって一はソ国の侵寇に備え一は日満支三国提携共助実現の基礎たらしむるにあり』というのである。さらに、華北の独立を確保するために、日本が現地政権を指導すべきことが定められていた。最後に、『該地方にある鉄、石炭及び塩は我が国防のため、並びに我が交通施設及び電力のために利用するものとす』と定められていた。

 1937年2月20日に、林内閣は『第三次北支処理要綱』を採択した。その主眼は、国防資材の獲得、交通施設の拡充、ソビエット連邦に対する防御及び日満華三国提携共助の実現である。1937年6月10日に、第一次近衛内閣時代の陸軍省は、『重要産業五ヵ年計画要綱実施に関する政策大綱』を作成した。これは、すでにわれわれが述べたように、『我が国運の将来における総合的計画の樹立』に基礎を置いたものと言われていた。さらに、この計画は、『重要資源につき、我が勢力圏内における自給自足の確立に努め、もって第三国資源に依存することなからしむることを目標とするものとす』と述べている。1937年12月24日に、内閣は『支那事変対処要領』を決定した。その中に、『経済開発方針』と題する一項目があった。その項には、華北経済開発の目標は、日満経済の総合的な関係を補強し、それによって、日満華の提携を確立するにあるとあった。そのためには、中国の現地資本と日本の資本とを緊密に結合させ、それによって、日本と満州国との国防に必要な物資の開発と増産に貢献させることが必要であると考えられた。

 右に挙げた最後の計画を実現し、それに関する日本の努力を総合するために、1938年4月に、二つの国策会社の設立に関する規定が設けられた。華北に対しては北支那開発会社、華中に対しては中支那振興会社であった。北支那開発会社の目的は、経済的発展を促進し、華北における各種の企業を統一することであった。その運営は、輸送、港湾の開発、発送電、塩の生産及び販売の各企業、並びにそれに関連する企業に特殊会社として出資し、これを支配することであった。

 この会社は、日本政府の監督のもとに運営され、政府の命令に従わなければならなかった。実際において、日常の業務を除いて、すべての決定事項が政府の承認を必要とした。たとえば、社債の募集、定款の変更、合併と解散と利益の分配との実施には、日本政府の承認が必要であった。各会計年度における投資と金融についての計画も、政府の承認を必要とした。

 梅津はこの会社の創立委員に任命され、岡はその補助者となった。賀屋は相当の期間この会社の総裁を勤め、1941年10月18日に、東条内閣の大蔵大臣になったとき、その職を離れた。

 中支那振興会社も、北支那開発会社と非常に類似した目的をもち、また実質的に同様な政府の支配のもとにあった。後に言及するところの公共事業、交通輸送の振興及び天然資源の開発に関する企業は、これらの会社のうちのいずれかの支配のもとに置かれた。

 各種の企業の運営を取り扱う前に、1939年1月に企画院によって採択された『支那の経済開発要綱』のことを述べておかなくてはならない。この要綱には、中国の天然資源の開発は、東亜新秩序の確立の基本的手段として、日満華三国の経済的協力という観念を実現する上に、寄与するところ大なるものがあると述べてある。さらに、これらの工作は『軍事行動が継続中であっても、作戦行動及び政治工作の進展と並行して行なわるべき重要な問題である』と述べている。

 1940年11月5日に、内閣情報部から出た『日満支経済建設要綱』も、言及しておかなければならない。そのおもな目標は、概ね今後10年間に、三国を一環とする自給自足的経済体制を確立し、それによって、東亜の世界経済における地位を確立することであった。この計画によれば、日本の任務は、科学と技術を振興すること、重工業、化学工業及び鉱業を開発することであった。満州国は重要基礎産業を発展させ、中国はその天然資源を、特に鉱業と塩業を開発することであった。

 この要綱には、その実施に関して、満州国や中国に相談することには、何も定められていないばかりでなく、この文書を全般的に通読すると、これらの各部門の実施に関する決定は、日本によって、しかも日本だけによってなされることになっていたことが明らかになる。

 華北における日本の計画の目的を示しているものとして、重要なのは賀屋の言葉である。すなわち、華北における物動計画には三つのおもな点があって、その第一は日本に軍需品を供給すること、第二は日本の軍備を拡張すること、第三は平和経済の必要を満たすことであった。

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