歴史の部屋

各種の産業 (原資料243頁)

 以上は日本政府によって採用された一般的な計画と政策との概要を示したものである。これらの一般的計画がどういうふうに各種の産業や経済のそれぞれの特殊部門に適用されたかについて、簡単な概要を述べることは、この場合価値のあることであろう。


運輸と通信

 1935年に、土肥原が華北の自治を確立することに関して活動していたとき、かれは天津と石家荘との間の鉄道建設を要求した。北支駐屯軍によって、1935年11月に立案された鉄道計画については、すでに言及した。この計画は、山東鉄道と隴海線の一部とを獲得し、中国で新しい鉄道をさらに建設しようとする日本の希望または意図を示していた。

 1938年7月に、北支那電信電話会社が組織された。北支那開発会社はその資本株の70%以上を所有した。右の会社の目的は、華北における海底電線を含めて、日本、満州国及びその他の世界各地と連絡する電信電話施設を建設し、運営することであった。このほかに、北支那開発会社に従属する会社は、華北交通会社と華北航空公司であった。華北交通会社は、華北の3750マイルに及ぶ鉄道線、6250マイルのバス路線、625マイルにわたる内河水運を運営していた。

天然資源 (原資料245頁)

 1937年12月の『支那事変対処要綱』によって、日本のために収入を得る目的で、華北の塩業を、また鉱産事業のほとんど全部を接収するために、国策会社を設立することが規定された。

 中支那振興株式会社の子会社である華中鉱業公司は、約1億トンと推定されていた華中の石炭を開発するために、1938年4月に設立された。

 約2億トンと推定され、中国全体の大半を占めると言われていた華北の鉄鉱埋蔵量は、北支那開発株式会社の子会社であった龍煙鉄鉱公司によって、1939年7月に接収された。この公司の管理のもとにあった鉱山のうちで、最も大きな埋蔵量をもつと見積もられていたのは、チャハル省の龍煙鉱山であった。この鉱山から発掘された鉄鉱の一部とそれから生産された余剰銑鉄とは、日本に輸出された。この公司が発掘した総発掘量430万トンのうちで、70万トンは銑鉄生産に使用され、残りのうちの140万トンは満州に、100万トン以上は日本に送られた。

 華中における揚子江流域の鉄鉱埋蔵量は1億トンと推定されていた。この埋蔵資源の発掘を続ける目的で、1938年4月に華中鉱業公司が設立された。この公司は中支那振興株式会社とその他の日本の会社に支配されていた。この会社の資産のうちで、中国側の権利に対する支払いは、設備と商品の形で行なうことになっていた。

 華北の石炭埋蔵量は莫大なもので、中国全体の埋蔵量の5割以上を占めると推定されていた。これらの石炭を開発するにあたって、日本側は特にコークス用炭の必要を考慮し、日本に対する供給を確保するために、中国側に対する供給を統制する方針をとった。年産高の最も多かった大同鉱山は、北支那開発会社の子会社であった大同炭鉱公司によって接収され、経営された。

 1938年まで日本において消費された塩の大部分は、中国を含めて、東洋と中東の諸国から輸入されたものである。中国からの供給を増加する目的で、華北で塩を生産するために、北支那開発会社の子会社として、華北塩業株式会社が設立された。同じ目的のために、華中では1939年8月に、中支那振興株式会社によって、華中塩業株式会社が組織され、持株会社の資金の投資によって、新しい塩田を開発する計画が立てられた。

公共事業 (原資料246頁)

 1937年12月に上海を占領した直後に、日本側はいろいろな公共事業会社を接収した。そのうちに、次のようなものがある。(イ)浦東電燈会社、これは接収の上、華中水電公司の子会社にされた。この華中水電公司もまた日本側に支配されていた。(ロ)上海の中国電力会社は1938年6月に接収され、右の持株会社の子会社となった。これらの場合に、各会社の所有者は、その会社の真の価値よりも相当低い評価で補償を与えられた。

 閘北水電公司が接収され、太平洋戦争が起こった後には、アメリカ人所有の上海電力会社も接収された。1945年における降伏の後、種々の施設が元の所有者の手に取り戻されたときに、設備と機械が普通の損耗よりもはるかにひどく傷んでいたという証拠が裁判所に提出された。


金融

 華北を占領した初めから、若干の軍票とともに、華北では朝鮮銀行券を、華中では日本銀行券を、日本軍は流通させていた。しかし、占領地域で日本の通貨を使用することは、日本の通貨制度に混乱をもたらすものであった。この状態を改善するために、日本政府は1938年2月に中国連合準備銀行を設立した。そのおもな目的は、通貨を安定し、外国為替の金融市場を統制することであった。この銀行は、日本の円貨にリンクされ、それによって、華北における日本の投資の基礎となる紙幣を発行することを認可された。日本政府に支配されていたこの銀行は、きわめて重要なものとなり、その運営の金融面で日本の政策を実行した。

 日本が中国の非占領地の経済を事実上支配し、また商工業の重要な部分を支配した結果として、多数の日本の実業家や企業家が中国に渡り、その支配力を隠そうともしないで、中国の経済生活にはいって行った。

 以上に述べた措置を採用したことは、必然的に他の国の通商貿易に影響を及ぼす結果となった。そのために1938年10月6日に、合衆国大使グルーは総理大臣近衛にあてた書簡で、満州で起こったことが再び繰り返されていること、華北における為替管理は差別的であること、日本が交通と通信を統制していることと、羊毛と煙草の独占を始めようという案とは、関税率の変更によって、日本と日本の商人に中国で優先的地位を与えることになると述べた。そこで、グルー大使は、次のことの中止を要求した。(1)アメリカの貿易と企業に対する差別的な為替管理とその他の措置、(2)日本権益に与えられた独占権または優先権、中国における通商上または経済開発上の権利の優越、(3)アメリカ人の財産と権利に対する妨害、特に郵便に加えられる検閲、アメリカ人の居住と旅行、並びにアメリカの貿易と権益に加えられる制限。この抗議に対して、外務大臣は、その中で非難されていることが真実であることを認めたが、経済的措置は、中国と東亜の利益であるからという理由によって、正当であると主張した。

中国における麻薬 (原資料248頁)

 満州における麻薬の売買に関しては、すでに述べた。

 満州において採用された方針と類似のものが、中国の北部、中部及び南部で軍事行動が成果を収めるに伴って、随時採用された。この売買は、軍事行動と政治的発展に関連していたものである。この売買によって、日本側によって設置された種々の地方政権のための資金の大部分が得られたからである。そうでなければ、この資金は日本が供給するか、地方税の追加によって捻出しなければならなかったであろう。ついでながら、阿片吸飲者の非常な増加が、中国の民衆の志気に与えた影響は、容易に想像することができるであろう。

 中日事変が起こる前に、阿片の吸飲を撲滅するために、中国政府は決然として努力を続けていた。これらの努力が成果を収めていたことは、1939年6月の国際連盟諮問委員会の報告によって示されている。この報告によれば、1936年6月に実施された規則に基づいて、中国政府のとった阿片中毒鎮圧の措置は、きわめて満足な効果を挙げたというのである。

 1937年以後に、中国の阿片売買に関係していたのは、日本の陸軍、外務省及び興亜院であった。三菱商事会社と三井物産会社は、日本、満州国及び中国のために、イランの阿片を多量に購入していた。外務省との取極めによって、この2社は、1938年3月に、阿片の輸入先と事業の分担範囲とについて協定を結んだ。日本と満州国に対する阿片の供給は、三菱によって取り扱われ、華中と華南に対しては、三井物産が取り扱うことになっていた。華北に対する供給は平等に分担し、毎年の購入高は、日本、満州国及び中国の官庁が決定し、2社に通告することになっていた。興亜院の要請に基づいて、この協定は修正され、イラン産阿片買付組合を設立することが規定され、この組合の阿片営業は、右の2社の間に平等に分担されることになった。

 阿片の販売は、支那派遣軍のもとに、都市や町に設けられた特務機関に委託されていた。興亜院の経済部が華北、華中及び華南における阿片の需要を指定し、その配給を取り計らった。阿片販売の利益は興亜院に渡された。その後、戒烟総局が設けられ、阿片販売からの利益である程度まで賄われていた維新政府によって、阿片の売買が管理された。しかし、その当時においてさえも、興亜院と華中の日本軍の司令部とは、依然として阿片売買に関する方針決定に対して責任をもっていた。

 阿片売買を表向きに統制または減少させる措置が随時採用された。1938年に設立された戒烟総局がその一つの例である。それとほぼ同じころに、維新政府は、阿片の禁烟を宣伝するために、月2千ドルの予算をとっていた。これらの措置とその他の措置が採用されたにもかかわらず、阿片売買は引き続き増加した。その理由は、1937−39年に、上海駐在の日本陸軍武官原田熊吉の曖昧な証言のうちに見出すことができる。『私が特務部長の時、陸軍部より阿片禁止局を設ける事によって支那人へ阿片を供給するよう指示を受けました』とかれはいっている。

 1937年6月に、国際連盟の阿片売買に関する諮問委員会の会議で、中国における不法な売買は、日本の進出と相まって増加したということが公然と言われた。

内蒙古 (原資料250頁)

 すでに述べた通り、1935年の土肥原・秦徳純協定の後に、北チャハルから中国軍が撤収してから、日本の勢力はチャハル省と、綏遠省に及んだ。それから後は、農民に対して、阿片をさらに栽培することが奨励された。その結果として、阿片の生産は相当に増加した。


華北

 華北では、特に河北省と山東省では、1933年の塘沽停戦協定と非武装地帯の制定があってから、中国人は阿片売買を取り締まることができなかった。そこでは、その結果として、阿片中毒者の数が驚くほど増加した。阿片の供給は、日本側に管理されていた種々の会社や組合によって取り扱われていたのである。

 1937年に天津が占領されてから、麻薬の使用に著しい増加がみられた。天津の日本租界は、ヘロイン製造の中心地として知られるようになった。少なくとも200のヘロイン工場が日本租界に設けられた。1937年5月には、国際連盟の阿片売買に関する諮問委員会では、世界中にある禁制薬白丸(「白丸」に「パイワン」と振り仮名あり)《ヘロインを使用した丸薬》のほとんど9割が天津、大連、その他の満州と華北の都市で製造された日本品であることは、周知の事実であると述べられた。


華中

 ここでも、実質的には右と同様なことが行なわれた。南京の阿片の吸引は、1937年までにほとんど一掃されていた。日本軍による占領の後は、麻薬の売買は公然と行われるようになり、新聞に公告までされた。本章の初めの部分で立証されたように、麻薬売買の独占から得た利益は莫大なものであった。1939年の秋までには、南京における阿片売買の月収入は、300万ドルと推定された。従って、満州、華北、華中、華南における阿片売買の規模から推してみれば、日本政府にとって、収入の点だけからしても、この事業がどのように重要であったかが明らかである。われわれは、麻薬売買に関して、さらに詳細を述べる必要を認めない。1937年以後に、上海、華南の福建省と広東省、その他の地域で、日本によって省や大都市が占領されるごとに、阿片売買は、すでに述べた中国の他の地域におけると同様な規模で増加したということを述べれば充分である。

極東国際軍事裁判所

判決


B部

第6章


ソビエット連邦に対する日本の侵略


英文776−842頁

1948年11月1日


ソビエット連邦に対する日本の政策


日本の『生命線』満州 (原資料254頁)

 裁判所に提出された証拠に関係のある期間を通じて、ソビエット連邦に対して戦争をしようという意思が、日本の軍事的政策の根本的要素の一つであったことが示されている。アジア大陸の他の地域と同様に、軍閥はソビエット連邦の極東の領土を日本に占領させることを決意していた。満州(中国の東三省)の占領は、その天然資源のために、進出と植民に対する関心を引いたけれども、ソビエット連邦に対する企図された戦争の発進地としても望ましかった。満州は日本の『生命線』と呼ばれるようになったが、それは防御の線というよりも、むしろ前進の線を意味していたことは明らかである。

 ソビエット連邦の極東の領土に侵入して、これを領有するという目的は、日本の軍事的野心を絶えず駆りたてる刺激となっていたように思われる。日本の対外侵出の強い主張者であった大川は、すでに1924年に、シベリアの攻略を指して日本の目標の一つであると呼んでいた。大川と意見がよく一致していた軍部も、これと同じ態度をとっていた。陸軍将校は、満州は日本の『生命線』であり、ソビエット連邦に対する一つの『防御』として発展させなければならないという考えを提唱し始めた。1930年、関東軍の一参謀将校であったときに、板垣は満州に新しい国家を建設するために武力を用いることを主張した。大川にならって、かれはこれが『王道』の発展であり、アジア諸民族の解放をもたらすものであると主張した。1931年、モスコーの大使であったときに、広田は参謀本部に対する情報として、いつでも必要なときに、ソビエット連邦と戦争する覚悟をもって対ソ強硬政策をとる必要がある。しかし、目的は共産主義に対する防衛というよりも、むしろ極東シベリアの占領にあると提言した。

 1932年5月、斎藤内閣の成立とともに、満州の冒険に関して、内閣の軍人閣僚と文官閣僚との間に起こっていた軋轢について、ある程度の妥協が成立した。その結果として、内閣は満州における陸軍の政策を受け容れ、日本の支配下にある地域を開発することに決定した。今や閣内の反対を受けなくなった陸軍は、北方におけるソビエット連邦との戦争を唱道し、それとともに、この戦争の準備にとりかかった。1932年7月には、モスコー駐在の日本陸軍武官河辺は、ソビエット連邦との戦争に対する準備の重要性を説き、この戦争は避けられないものであるといった。かれは中国及びソビエット連邦との戦争を当然の帰結であると見た。1932年に、被告南は日本海を湖水化することを提唱したが、これによって、かれは明らかに日本海に臨むソビエット領極東の占領を意味したのである。1933年4月に、当時陸軍省軍務局にいた鈴木は、ソビエット連邦のことを日本の絶対の敵であるといった。かれの言葉によると、ソビエット連邦は日本の国体を破壊することを目的としているからというのであった。

『国防』 (原資料256頁)

 ここで、荒木の『国防』という言葉に関する論議を述べることは、興味のあることである。荒木の指摘するところによれば、この言葉は、日本の具体的な防御だけに限られず、皇道すなわち天皇の道の防御をも含んでいる。これは、武力によって隣接諸国を占領することは、『国防』として正当化することができるということを、別な言葉でいったものにすぎない。このころに、すなわち1933年に、当時陸軍大臣であった荒木は、『国防』について婉曲な言い回しを捨てて、地方長官会議で、少なくともソビエット連邦に関しては、かれの意味したところを正確に語った。『日本はソビエット連邦との衝突を避けることはできない。従って日本にとって沿海州、ザバイカル、シベリアの領土を軍事的手段によって確保する必要がある』とかれは述べたのである。荒木の『国防』の定義は、斎藤内閣によって、満州における政策の基本として採用された。すでに示されたように、日本の指導者は、かれらの侵略的な軍事的冒険を、それが防御のためであるという主張によって正当化しようと常に努めてきた。満州が日本の『生命線』として開発されたのは、この意味においてであった。


外交上の応酬

 ソビエット連邦に対する日本の政策が攻勢的または侵略的なものであって、守勢的でなかったということは、1931年から1933年に至る期間の、外交上の応酬によって示されている。この期間に、ソビエット政府は日本政府に対して、不侵略中立条約を締結することを2回にわたって正式に提案した。1931年に、日本の外務大臣芳澤と広田大使に対してなされたソビエット側の文書の中で、不侵略条約の締結は、『政府の平和を愛好する政策と意図との表現であり、また日ソ関係の将来が西ヨーロッパとアメリカとにおいて思惑の対象となっている現在、それは特に今が好時機であろう。条約の署名はこの思惑に終止符を打つことになる』と指摘された。日本政府は、この提案に対して、1年の間回答を与えなかった。1932年9月13日になって初めて、駐日ソビエット大使は、日本の外務大臣内田から、『・・・・この場合両国政府の間において本件に関し交渉を正式に開始することは時機にあらず』という理由で、この提案を拒絶した回答を受け取った。

 1933年1月4日に、ソビエット政府は、前回の提案は『一時的考慮によって行なわれたものではない。その平和政策に由来するものであるから、将来にわたっても効力がある』ということを強調して、条約の締結に関する提案を繰り返した。1933年5月に、日本政府は再びソビエット連邦の提案を拒絶した。その当時に、日本政府は、それが極東におけるソビエット連邦の平和政策の誠意のある表明であるという保証を受けていたにもかかわらず、日本がこの提案を拒絶したということに注意しておかなければならない。1933年4月に、外務省欧米局長であった被告東郷によって書かれた秘密の覚書の中で、『ソビエット連邦が日本との不侵略条約を望む動機は、日本が満州に進出して以来、その極東の領土に対して次第に脅威を感じ、この領土の安全を保障したいという希望にある』とかれは述べた。1933年12月になると、関東軍は、日本が満州をソビエット連邦に対する攻撃の基地として用いる日のために、計画と準備を行なっていた。

ソビエット連邦に対する計画の継続 (原資料258頁)

 広田は日本の意図が侵略的であったということを否定したのであるが、1934年に就任した岡田内閣は、1935年に、満州における陸軍の経済計画に支持を与えた。1935年11月に、当時スカンジナビア諸国の公使であった白鳥は、ベルギーの大使有田に書簡を送って、次のように指摘した。『ソ露現下の実力は、単に数字上よりこれをみればすこぶる偉大なるがごとくなるも、革命なお日浅く、国内不平分子は所在に充満し、器材物資人的要素においていまだ欠如するところ多く、一度大国と兵火相まみえんか、たちまち内部崩壊を来たすべきは、ほぼ明瞭なり。実情を熟知するものの意見一致するところにして、今日のソ露にとり最も望ましきは、対外関係の無事平穏ならんことにあり。したがって、ソ露と境を接する諸国にして早晩清算を要すべき案件を要する者は、今日の時季を空過すべきにあらず』と。かれの提言したことは、ソビエットに対して、『断固として』、また譲歩させる『最小限』のこととして、『ウラジオストクの軍備を撤廃すること』、その他、『バイカル湖地方に一兵も駐めざる・・・・』ことを要求しなければならないということである。ソビエット連邦との間の日本の問題の根本的な解決策として、『・・・・ロシアの脅威を永久に除去するがためには、彼をして無力な資本主義共和国ならしめ、その天然資源を著しく制限するを要す・・・・今日ならばいまだその見込み十分なり』と白鳥は提言した。


2・26事件

 1936年2月26日に、東京で陸軍の叛乱によって引き起こされた岡田内閣の瓦解について、われわれはすでに論じた。陸軍の非難は、この内閣の態度が充分に強硬でないということにあった。2月27日に、すなわちこの事件の翌日に、厦門の日本の領事館は、この叛乱の目的は、当時の内閣を軍部内閣に置き換えることであり、軍部の青年将校は、日本がアジアの唯一の強国となるために中国の全土を占領し、ソビエット連邦に対して即座に戦争するための準備をさせる意思であると説明した。

1936年の国策の決定 (原資料259頁)

 1936年8月に、今や総理大臣となった広田は、外務、陸軍、海軍、大蔵の各大臣とともに、日本の国策について、一つの決定を行なった。これは重要な、意義の深い文書であって、他のこととともに、『外交国防相まって東亜大陸における帝国(日本)の地歩を確保するとともに南方海洋に進出発展する』ことを目的としたものであった。『国防』という言葉が持ち出されたことは、意義の深いことである。実際上の措置の一つとして、日本は『満州国の健全な発展と日満国防の安固を期し、北方ソ国の脅威を除去することに努むるもの』とされていた。この決定は、軍事力の程度は、『ソ国の極東に使用し得る兵力に対抗する』ために必要な程度のものとすることを定めた。日本が『ソ国の兵力に対し開戦初頭一撃を加え』ることができるように、朝鮮と満州における軍事力の充実に特別の注意が払われることになっていた。この政策の決定から必要となる広汎な戦争準備を行なうにあたって、軍備の拡充は、ソビエット連邦がその東部国境に沿って展開することのできる最も強い兵力に対して、殲滅的な打撃を与えるに充分な強さの戦闘力をつくり上げるまで行かなければならないと決定された。当時の状況に照らして、日本の国策のこの決定を検討すれば、ソビエット連邦の領土の一部に対して、占領の目的で攻撃する意思があったことがわかる。そればかりでなく、この目的は、防御的であるという口実に隠れて、その準備を行ない、実行されることになっていた。

 1936年8月の国策決定の結果として、陸軍によってつくられた1937年の諸計画は、明らかにソビエット連邦との戦争を予期することによって必要になったものである。1937年5月に出された重要産業に対する計画は、『東亜指導の実力を確立すべき飛躍的発展』をかち得るためであった。同じ目的で、1937年6月に出された計画は、『万難を排して達成され』ることになっていた日本の運命の『飛躍的発展に備うるため』に、1941年までに自給自足の体制が達成されなければならないということを定めた。戦争資材に関する計画は、同じ目的に向けられたもので、日本の経済は『軍政により事務の処理を統合帰一することによって合理的に発展させる』と定めた。平時体制から戦時体制に、急速に移行するための準備に注意が払われることになっていた。

 陸軍によるこの計画は、中国における戦争が盧溝橋で継続されるすぐ前になされたものであるけれども、この戦争だけを目標としたものではなかった。岡田は、本裁判所に対して、これらの計画はソビエット連邦に対する日本の国力を維持する目的をもっていたと陳述した。重要産業と、戦争資材の生産に比較的に直接の関係のある産業とに対する諸計画を検討すれば、一見して、それらの計画が、『国防力』を確保するためであったことがわかる。さきに述べたように、『国防』とは、日本の軍国主義者にとって、武力によるアジア大陸への進出を意味した。ここでいま論じている諸計画は、この進出を達成しようとする陸軍の意図を啓示した。

 これらの計画が攻勢的な計画であって、防衛的なものではなく、ソビエット連邦を目標としていたことは明らかである。1932年のモスコー駐在陸軍武官の所見と、1933年に同様な趣旨を述べた鈴木の所見とに、われわれはすでに言及した。華北における政治的な工作は、『反共』という標語に基づいていた。1936年8月の国策の決定は、日本の軍事力の拡充の尺度として、ソビエット連邦の軍事力を明確に指摘していた。そして、1937年の陸軍の諸計画が出されたちょうどそのときに、中国の事態とソビエット連邦に対する軍備の状態とを考慮すれば、ソビエット連邦に対して行動を起こす前に、関東軍の背後に対する脅威を除くために、中国を攻撃することが望ましいという東条の意見具申があった。ある新聞記事の中で、日本の軍備の主柱としてばかりでなく、ソビエット連邦に対して使用するためにも、空軍を拡充すべきことを橋本が説いたのも、このときであった。すなわち、1937年7月である。

ソビエット連邦との戦争の予期と唱道 (原資料262枚目)

 すでにわれわれが述べたように、1938年において、日本の報道機関が陸軍によって有効に統制されていたときに、当時の文部大臣荒木は、大阪の経済研究会の会合で、『中国及びソ連と最後まで戦うという日本の決心は10年以上もそれを継続するのに十分である』と述べたと新聞に報道された。

 1938年に、関東軍司令官植田大将も、華北の事態を論じて、『緊迫せる対ソ戦』に言及した。最後に、一般的に陸軍が、特に参謀本部が、急いで中国における戦争を終わらせようとしたのは、疑いもなく、陸軍がソビエット連邦に対して意図していた戦争が切迫していたので、ぜひともそれが必要だったからである。


防共協定

 1930年代の中頃から、ヨーロッパのおもな侵略的な勢力として現われてきたドイツとの関係は、ソビエット連邦に対する戦争を企てるという日本の目的にかんがみて、日本にとって特に重要なものであった。

 被告大島は、早くも1934年3月、陸軍武官としてドイツに派遣されていたときに、参謀本部から独ソ関係を注視し、ソビエット連邦との戦争の場合には、ドイツがどんな行動に出るであろうかを見きわめるように命令されていた。

 1935年の春に、大島とリッベントロップとは、日独同盟のための討議を始めた。1935年12月初旬から、日本の参謀本部からその目的のために特に派遣された若松中佐が、この討議に加わった。

 計画されていた協定は、一般的な政治的目的を有し、その調印は陸軍の管轄外のことであったから、この問題は政府にその考慮を求めるために提出された。そして、1936年から、日本大使武者小路が交渉の任にあたった。

 1936年11月25日に、いわゆる『防共協定』が日本とドイツによって調印された。この協定は、条約の本文と一つの秘密協定から成り立っていた。条約の本文だけが世間に発表された。それには、締約国は共産インターナショナルの活動について相互に通報すること、必要な防衛措置について協議すること、緊密な協力によって右の措置をとること、第三国に対して、この協定に従って防衛措置をとるか、この協定に参加することを共同に勧誘することが述べてあった。

 秘密協定は、協定自体の中で規定しているように、秘密にしておくことになっていた。実際において、それは侵略国によって発表されたことはまったくなく、押収された秘密文書によって初めて連合国に知られるようになった。新聞に発表された声明書の中で、日本の外務省は、この協定に付属する秘密条項の存在を否定し、この協定は、共産インターナショナルそのものに対する闘争において、二国の間で特殊な協力を行なうことを表示すること、日本政府は、国際ブロックの形成を考慮していないこと、『この協定はソビエット連邦またはいずれの他の特定国をも目標としたものではない』ことを宣言した。

 協定の目的は、日本とドイツの間に、ソビエット連邦を対象とした制限的な軍事上と政治上の同盟を成立させることであった。元合衆国国務長官コーデル・ハルは、『この協定は、表面上は共産主義に対する自己防衛であったが、実際はその後の匪賊国家による武力的対外進出の手段のための準備工作であった』と指摘した。独自の立場から到達されたところの、われわれの見解もこれと同じである。

 この協定は、主としてソビエット連邦を対象としたものであった。秘密協定は、ソビエット連邦に対して、ドイツと日本の間に、制限的な軍事上と政治上の同盟を成立させた。両当事国は、相互の同意なしに、この協定の精神に反するような政治的協定をソビエット連邦との間に締結しないことを約束した。

 1年の後、1937年11月6日に、イタリアが防共協定に参加した。

 この取極めは、形式的には、ドイツと日本のどちらかに対して、ソビエット連邦が挑発されない攻撃を加えた場合にだけ、両国の間に相互的な義務の生ずることを規定し、その義務を、このような場合に、ソビエット連邦に対して援助を与えないということだけに限った。事実において、このときに、ドイツまたは日本に対して、ソビエット連邦が侵略的意図を持っていたという証拠はまったくない。従って、ソビエット連邦によって挑発なしに攻撃を受けるという万一の場合に備えて、この協定を締結したことは、まったく正当な理由がなかったと認められるであろう。この協定が真に防御的でなかったことは、秘密協定による当事国の約束が広く解釈されたことによって示される。このような解釈は、すでに最初から、ドイツと日本によって、これらの約束に与えられていた。このようにして、1936年10月に、リッベントロップの了解と同意のもとに、ドイツ駐在の日本大使武者小路が送った電報の中で、外務大臣有田に対して、『上述の秘密協定の精神のみがソビエット連邦に対するドイツの将来の政策に決定的なものとなるという確信』をもっていたということを武者小路は報告した。外務大臣有田は、平沼を議長として防共協定を可決した1936年11月25日の枢密院会議で、同様の趣旨を述べた。この協定はおもな趣旨は、『今後においては、ソ国は日独双方を敵とせざるべからざることを考』えなければならない点にあることを有田は強調した。ソビエット連邦に対するドイツと日本との同盟の性質が防御的でなかったということは、1939年8月23日にドイツがロシアと不侵略条約を締結したことを、日本の指導部が防共協定に基づく約束を明らかにドイツが破ったものと見なしたという事実によっても示されている。ドイツ外務大臣に伝達されるように、ベルリンの日本大使にあてた1939年8月26日付の書簡の中で、『日本政府は、ドイツ政府とソビエット社会主義共和国政府との間に最近締結された不可侵並びに協議条約を、国際共産党に反対する協定の付加的秘密協定に矛盾するものと見なしている』ということが指摘された。

 防共協定のおもな目的は、ソビエット連邦の包囲であった。このことは、この協定の起草者の一人であったリッベントロップが次のように述べたときに、かれが部分的に容認したところである。『もちろんロシアに対する政治的意義もあるにはあった。それは多少協定の背景をなしていた。』

 防共協定は最初5ヵ年間効力があると規定されていたが、その防共協定が1941年11月25日に満了し、かつ延長されたときに、秘密協定は更新されなかった。今やその必要はなかったのである。秘密協定の約束は、この延長に先だって締結された三国同盟の中に包含されていた。

 その後の数年間、防共協定は、ソビエット連邦に対する日本の政策の基本として用いられた。ドイツとのこの軍事同盟は、ソビエット連邦に対する日本の政策と準備との上に、重要な役割を演じた。1939年5月4日付でヒットラーに送った声明書の中で、総理大臣平沼は、『・・・・我々両国間に確立している防共協定が、両国に課せられたる使命の遂行に当たりいかに有利であるかを確認することは私にとり喜びであります』と明確に指摘した。

メールを送る


Copyright (C)masaki nakamura All Rights Reserved.