歴史の部屋

三国同盟 (原資料267枚目)

 大陸において利欲的な諸計画を実現しようとする日本の希望は、ドイツと一層密接な連繋を得ようという政策を促進した。

 1940年9月27日の三国同盟の成立をめぐる経緯は、すでに本判決の初めの部分で、充分に論じておいた。われわれは、ここでは簡単にそれに言及することに止めようと思う。この同盟の適用は、ソビエット連邦だけに限られるものではなかったけれども、日本が特に交渉の初期において関心を持っていたのは、ソビエット連邦であった。これらの交渉は、1938年の中ごろには、すでに始められていた。ドイツはヨーロッパで広汎な侵略計画に没頭し、すべての仮想敵国に対する軍事同盟を求めていたので、その交渉は1年半以上も実を結ばなかった。他方で、日本の方では、三国同盟は、ソビエット連邦だけではないにしても、主としてこれを対象とした防共協定の発展したものであるように望んだ。この期間の初めの頃の彼の手記の中で近衛公爵は次にように言っている『この時の同盟の対象はソ連であって、当時すでに存在せる三国防共協定を軍事同盟に変えるものとして計画せられたものである。』

 この交渉に参加した者のうちで、最も積極的な一人であった被告大島は、1938年6月に、かれが日本の参謀本部の主任課から受け取った訓令には、ソビエット連邦を対象とするドイツと日本の協力を促進することを定めてあったと証言した。

 1939年4月に、リッベントロップは、東京のドイツ大使あての電報の中で、日本は『本条約が署名され、公表された後に、イギリス、フランス及びアメリカの各大使に対して、概略次のような内容の宣言をすることができるように、われわれのはっきりした賛意を要求した。すなわち、本条約は防共協定から発展したこと、同盟国はロシアを敵と見ていること、イギリス、フランス及びアメリカは、かれらが本条約の対象であると思う必要はないことである。』

 その三国同盟自体には、ソビエット連邦を目標としたということは、特に挙げられてはいないけれども、このことは、1940年9月にこの同盟が調印されたときに、疑いもなく、日本陸軍の念頭にあった。第5条の『本同盟の前記諸条項が三締約国の各々と「ソビエット」連邦との間に現存する政治的状態に何らの影響をも及ぼさざるもの』という留保は、真意を示したものではない。ベルリンの日本大使来栖は、1940年9月26日の東京あての電報の中で、『ドイツ政府は、ドイツ新聞を指導して、本条約はロシアとの戦争を予期しているという趣旨ではないことを特に強調させる意向であるが、他方ドイツは、ロシアを牽制するために東部地域に軍隊を集結している』と述べた。

 外務大臣松岡もまた、1940年9月26日の枢密院審査委員会で、この協定の第5条に言及して、『不可侵条約ありとも、独ソ戦う時は、日本はドイツを援助し、日ソ戦う時はドイツは日本を援助す。現存とは、ソの現状は変更できぬかというと、然らずして、この条約では変えないとの意なり・・・・』と述べた。この同盟について、右と同じ解釈が、その発案者であるリッベントロップによって与えられた。『・・・・これは一石二鳥の手である。ロシアに対してとアメリカに対して』とかれはいったのである。

 1941年6月22日に、すなわち三国同盟が締結されてから1年足らずのうちに、ドイツのソビエット連邦に侵入した。追って論ずることにするが、ソビエット連邦との中立条約にもかかわらず、日本はドイツに援助を与えた。もっとも、ソビエット連邦に対する公然たる戦争は差し控えた。


満州国境における日本の攻撃

 1938年および1939年に日本が満州の国境を越えて、東はハサン湖、西はノモンハンで攻勢作戦を開始した。これらのことは、追って一層詳しく論ずることにする。


日ソ中立条約

 1941年4月13日に、ソビエット連邦と日本は中立条約を締結した。この問題は、後に論じた方がもっと便利であろう。しかし、これから言及しようとする事項について、日本がこの条約を無視したから、右の時期にこの条約が締結されたということをここに述べておくのである。

1941年6月のソビエット連邦に対するドイツの攻撃 (原資料270枚目)

 1941年6月に、ドイツがソビエット連邦を攻撃した後、極東におけるソビエット領土を占拠せよという主張が根強く続けられた。ドイツによるこの攻撃は、ソビエット連邦に対する日本の利欲的な政策を、確かに刺激した。日本の為政者は、ソビエット連邦に対するドイツの勝利を必然であり、かつ目前にさし迫っていると見なし、日本がソビエット連邦に対する侵略的な計画を実行に移すために、これを好機であると考えた。

 ソ連に対するドイツの攻撃が最初は成功したので、日本の軍国主義者の間に、初めのうちは、ソビエット連邦に対する攻撃を早めようとする傾向があった。ドイツ大使オットは、1941年6月22日、すなわちドイツがソビエット連邦を攻撃した日の電報で、松岡との会談について報告し、その中で、『かれ(松岡)は、従来と同じく、日本は結局この衝突に中立を保ち得ないという意見である。・・・・会談の終わりごろ、松岡は大島からいま一つの電報を受け取った。それによれば、ドイツ外務大臣は、ロシアが極東から撤兵したとの説に対して注意を喚起していた。松岡は、直ちに適当な対策を提案しようとみずから進んで言明した』と指摘した。

 日本には、攻撃の軍事的準備が遅れるのではないかという心配さえあった。このような考えは、外務大臣豊田からワシントンの日本大使に送られた1941年7月31日付の電報(第433号)に現われていた。いわく、『もとより独ソ戦争は、わが方に北方問題解決の絶好の機会を与え、またわが方としては、この機に乗ずる準備を進めていることは事実である。・・・・もし独ソ戦争の進み方があまりに速いと、帝国としては必然的に、何らの有効な一致の行動をとる余裕がなくなるであろう』と。

 1941年7月2日の軍部と政治指導者との秘密御前会議は、『独ソ戦に対しては、三国枢軸の精神を基調とするも、しばらくこれに介入することなく、ひそかに対ソ武力的準備を整え、自主的に対処す。この間、周密なる用意をもって外交交渉を行なう。独ソ戦争の推移帝国のため有利に親展せば、武力を行使して北方問題を解決し、北辺の安定を確保す』と決定した。

 この決定は、ソビエット連邦との中立条約にもかかわらず、日本がソ連に対する共同謀議に参加しなければならないと考えたか、または自己に有利な好機をうかがっていたかのいずれかを示唆するものである。いずれにしても、日本はそのソビエット連邦に対する攻撃の時機を、ソビエットとドイツとの戦争における最も都合のよい瞬間とするつもりであった。

 この会議の決定の後に、準備が強化されたことは、ドイツ大使オットが東京からベルリンにあてたところの、1941年7月3日の電報によって示されている。独ソ戦争の発生とともに、駐日ソビエット連邦大使スメタニンは松岡と会見し、この戦争に対する日本の態度に関する根本的な問題について尋ねた。スメタニンは、松岡に向かって、1941年4月13日のソビエット連邦と日本との間の中立条約に従って、ソビエット連邦と同様に、日本が中立を維持するか否かを尋ねた。松岡はこの質問に対する率直な回答を避け、この問題に対するかれの態度は、ヨーロッパから帰朝した際にかれがなした声明の中で、(同年4月22日に)すでに表明されていると述べた。それと同時に、三国同盟が日本の対外政策の基礎であり、もしこんどの戦争と中立条約とが、この基礎及び三国同盟と矛盾するようなことがあるならば、中立条約は『効力を失うであろう』とかれは強調した。オットはこの会談のことを知って、これについて7月3日の電報で、次のように報告した。『松岡は、ソビエット大使に対する日本の言明の用語は、軍備がまだ不完全であるので、ロシア側を欺くか、または少なくともロシア側に確実なことをわからせないでおくことが必要であったからである、といった。現在、スメタニンは、われわれに伝達された政府の決定が暗示するように、ソビエット連邦に対する準備が迅速になされていることに感づいていない』と。

 このときに、日本ができるだけ早くソビエット連邦を攻撃するように、ドイツは力説していた。東京のドイツ大使にあてた1941年7月10日の電報で、リッベントロップは、『なお、貴官は、松岡あての予の伝言に基づき、貴官の手中にある一切の手段を用いて、日本ができる限り速やかにロシアに対して参戦するように努められたい。何となれば、この参戦の実現は早いほどよいからである。従来と同じく、ドイツと日本とが、冬になる前にシベリア鉄道上で相会するようにすることが当然の目標でなければならない。ロシアの崩壊と同時に、世界における三国同盟国の地位は絶大なものとなるであろうから、イギリスの崩壊の問題、すなわちブリテン諸島の完全な滅亡は、ただ時の問題にすぎなくなるであろう』と述べた。

 少なくとも日本の外務省は、日本のソビエット連邦に対する戦争の計画の実行が間近に迫っていると考えたので、戦争を挑発する適当な手段を見つけることを話し合うほどであった。1941年8月1日のかれの電報で、オットは次のように報告した。外務次官事務取扱であった書記官山本との会談の中で、『ソビエット政府に要求を提出することによって、日本は積極的な進出を開始するつもりであるかと、これを予想しているように尋ねたときに、外務次官は、その方法は、中立協定にもかかわらず、ロシアの日本攻撃に対する防衛の口実を見出す最上の方法であるといった。かれ個人としては、ソビエット政府がとうてい受諾できないほど峻厳な要求を考えているが、これによって、かれは領土の割譲を念頭に置いているように思われた』。

 ドイツのソビエット連邦に対する当初の作戦が失敗したことは、日本に自身の攻勢的計画を遅延させた。ソビエットとドイツとの戦いの状況は警戒を要した。8月の初めに、ドイツ陸軍の進撃の速度が遅くなったときに、大島はリッベントロップにその理由を尋ねた。リッベントロップはカイテルに尋ねるようにといった。カイテルは、ドイツ陸軍の前進が遅れたのは、兵站線があまりにも長くなったので、後方部隊が次第に遅れているためであること、その結果として、前進が計画より約3週間遅れていることを説明した。

 ソビエットとドイツとの戦争の成り行きは、日本の当面の政策には、引き続いて影響を与えたが、その長期政策には、影響を与えなかった。オットは、1941年9月4日に、ベルリンあての電報で、『ロシア軍がドイツ軍のような軍隊に対してなしている抵抗にかんがみ、日本参謀本部は、冬が来るまでにロシアに対して決定的な成功を収め得る自信がない。さらに、おそらく参謀本部は、まだ生々しいノモンハンの記憶、特に関東軍の記憶に支配されているのであろう。』これにかんがみて、『・・・・大本営は、最近ソビエット連邦に対する行動を延期する決定に到達した。』

 オットは、1941年10月4日の電報で、リッベントロップに対して、『依然として戦闘態勢にあると考えられている極東軍に対して、日本が戦争を行なうことは、来春までは実現できない・・・・。ソビエット連邦がドイツに対して示した頑強さは、日本による攻撃が8月か9月に行なわれたとしても、本年はシベリア経由の路を開くことはできそうもないことを示している』と報告した。

 日本はソビエット連邦に対する即時攻撃を延期したが、この攻撃を依然としてその政策のおもな目的の一つと見なし、攻撃のための決意もゆるめなければ、準備もゆるめなかった。日本の外務大臣は、1941年8月15日に、イタリア及びドイツの大使と秘密の会談を行ない、日ソ中立条約と、日本は戦争に参加しないであろうというロシアの推定とに言及して、『今日帝国が進めつつある軍事的な対外進出にかんがみ、現在の状況においては、ソビエットに関して、ドイツ政府とともに企てられる将来の計画を遂行するための第一歩として、前述のソビエットとの取極めが最良の措置であると私は考える』といい、また『これは単に一時的の取極め、言いかえれば、準備が完成するまでソビエットを牽制する性質を帯びるものである』といった。

 多分日本の外務大臣から日本大使にあてられたところの、1941年11月30日の東京からベルリンあての傍受された電報において、日本大使はヒットラーとリッベントロップに会見するように訓令された。この電報は、『現在のわが方の南方への行動は、ソビエットに対するわれわれの圧迫を緩和することを意味せず・・・・しかしながら現在、われわれは南方を圧迫することが有利であり、当分は北方に直接行動を起こすことをむしろ避けたいと伝えられたい』と訓令したのであった。

 しかし、日本の指導者は、その欲望と企図とを捨てなかった。1941年8月に、荒木は大政翼賛会の事務総長に対して、『次にシベリア出兵だが・・・・今日、日本の大陸支配の抱負はシベリア出兵の際に萌していたと言い得るのである』と述べたと新聞に報ぜられた。これと同じ思想は、東条が総理大臣になった後、1942年に、かれによって敷衍された。かれがドイツ大使オットと会談した際に、日本はロシアの不倶戴天の敵であること、ウラジオストックは日本にとって絶えず側面からの脅威となっていること、この戦争(すなわちドイツとソビエット連邦との間の戦争)の間に、この危険を除くための機会があることを述べた。最も精鋭な軍隊を有する立派な関東軍があるから、これを行なうことは困難でないとかれは自慢した。

日本、ソビエット連邦に対する攻撃を延期 (原資料276枚目)

 リッベントロップは、1942年5月15日に、東京あての電報で、日本が『できるだけ早くウラジオストックを攻撃する決定に達する』ようにという希望を表明した。かれは続けて、『これはすべて日本がこの種の作戦ができるほどに強大であり、イギリスとアメリカに対する立場、たとえばビルマにおける立場を弱めることになるように、他の兵力を割く必要がなかろうという前提の上に立っての話である。もし日本がかような作戦を企てて成功するに必要な兵力を欠いているならば、そのときは、当然日本はソビエット・ロシアと中立関係を維持する方がよい。どんな場合にも、日本とロシアの衝突を予期して、ロシアは東部シベリアに兵力を維持しなければならないから、これもまたわれわれの負担を軽くすることになる』と述べた。

 1942年の末期に、ソビエットとドイツとの戦況にかんがみ、日本がソビエット連邦に対して戦争に入るようにとのドイツの希望は一層強くなった。1943年3月6日のリッベントロップとの会談において、大島は次のように述べた。『ロシアを攻撃するというドイツ政府の提議は、日本の政府と大本営との連絡会議で問題になった。この会議で、この問題は詳細に協議され、極めて徹底的に検討された。その結果は次の通りであった。』

 『日本政府はロシアから迫って来る危機を充分に認めており、また日本もロシアに対して参戦するようにという盟邦ドイツの希望を完全に了解している。しかし、日本の現在の戦局にかんがみ、日本政府は参戦することはできない。むしろロシアに対して今開戦しない方が双方の利益であると確信する。他方日本政府は、ロシア問題を決して等閑に付することはないであろう。』

 この決定を説明するにあたって、大島は次のようにいった。自分は『長い間、日本がロシアに敵対する意図をもっていたことを知っている。しかし、明らかに、目下日本はそれができるほど強力ではないと感じている。全兵力を北方に移動するために、南方戦線を後退させ、若干の島を敵に渡したならば、これはできるかもしれない。これは、しかしながら、南方における重大な敗北を意味することになる。南方への前進と同時に、北方への前進をするということは、日本にとっては不可能なことである。』

大東亜共栄圏はシベリアの一部を含む (原資料278枚目)

 東亜における日本の覇権ということの婉曲な言葉として、大東亜共栄圏という考えがつくり出されたときに、シベリアと極東ソビエット領がこれに含まれることになったのは、避けがたいことであった。これは前からの目的と計画の当然の結果であった。

 1941年の終わりから1942年の初めにかけて、すなわちアメリカ合衆国とイギリスに対する戦争が勃発してから間もなく、日本の陸軍省と拓務省によって作成された『大東亜共栄圏における土地処分案』において、極東ソビエット領の領土の占領は既定のことであると考えられ、問題はただどの部分を占領するかということだけであった。この案の中の『ソビエット領の将来』という見出しの一項に、『本件は日独協定によりこれが解決をなすべきをもって、今決定しがたしといえども』、いずれにしても、『沿海州は帝国領土に加え、満州帝国の接壌地方はその勢力圏内に収め、シベリア鉄道は日独両国の完全なる管理となし、その分界点をオムスクとなす』と指示してあった。

 被告橋本は、『大東亜皇化圏』と題する1941年1月5日の論説で、大東亜皇化圏に含まれるべき各国を挙げた際に、中国、仏印、ビルマ、マレー、オランダ領インド、インドなどとともに、極東ソビエット領を挙げている。かれは続けて、『これらの地域を一挙に皇化圏に編入すべきやは、今のところ決定し得ざるも、少なくとも国防的に、これら諸邦をわが勢力圏内に包含せしむるの処置は絶対に必要とする』といった。

 著明な日本の政治家と軍部指導者(東郷、賀屋、武藤及び佐藤を含めて)が会員であり、政府の政策の立案にではないにしても、少なくともその促進に重要な役割を演じたと推定される『国策研究会』は、1943年6月に公表した『大東亜共栄圏建設対策案』において、『・・・・大東亜共栄圏の合理的範囲』は、他の構成地域とともに、『バイカル湖を含む東方ソ連一帯・・・・及び外蒙の全部を含む』と予想した。同様な日本の熱望は、1940年に設立され、総理大臣に対して直接責任を負っていた総力戦研究所の研究の中に見受けられる。このようにして、1942年1月に同研究所によって立案された大東亜共栄圏設立原案は、日本によって連結される各国の『中核圏』は、満州を華北のほかに、ソビエット連邦の沿海州をも含むこと、またいわゆる『小共栄圏』は、中国の残部と仏印とのほかに、東部シベリアをも含むことになっていた。

 本裁判所は、ソビエット連邦に対する侵略戦争は、本裁判所が審理している全期間を通じて企図され、計画されていたこと、この侵略戦争は日本の国策の主要な要素の一つであったこと、その目的は極東におけるソビエット連邦領土を占領することであったという見解をもつものである。

ソビエット連邦に対する基地としての満州 (原資料280枚目)

 日本のソビエット連邦に対する好戦的政策は、日本の戦争計画に示されていた。ここで考察している期間の初めから、日本の参謀本部の戦争計画は、その第一歩として満州の占領を企図していた。日本の戦争計画では、満州の占領は中国の征服の一段階としてだけでなく、ソビエット連邦に対する攻勢的軍事行動の基地を確保する手段として考えられていた。

 当時参謀本部の将校であった川辺虎四郎の証言によれば、1930年に、被告畑が参謀本部の第一部長であったとき、ソビエット連邦に対する戦争計画が立案されたが、それはソ満国境でソビエット連邦に対する軍事行動を起こすことを企図していた。これは日本が満州を占領する前のことであった。

 被告南と松井も、本裁判所で、ソビエット連邦との戦争の場合には、満州は日本にとって軍事基地として必要であると考えられていたということを確認した。

 1931年3月16日に、ソビエット連邦に対する『乙』作戦、中国に対する『丙』策戦に基づく作戦の目的で、畑は鈴木という一大佐に対して、北満と北鮮の方面の視察旅行を命じた。旅行の結果について、この将校が提出した機密報告の中には、ソビエット沿海州の占領を目標としていた『乙』作戦に関する詳しい情報が述べてあった。

 1931年の満州の占領は、極東ソビエット領の全部を占領する目的で、広大な戦線にわたって、ソビエット連邦に攻撃を加えるための基地を与えた。ソビエット連邦駐在の日本陸軍武官笠原幸雄は、1931年の春に、参謀本部に機密報告を提出して、ソビエット連邦との戦争を主張し、その目標を定めているが、その中で次のように述べた。『少なくともバイカル湖までは進出を要すべく・・・・バイカル湖の線に停止する場合は、帝国は、占領せる極東州は帝国の領土と見なす覚悟と準備とを要すべし』と。笠原証人は、その反対訊問に際して、この文書の信憑性を認め、かれは参謀本部に対して、ソビエット連邦に対する戦争の速やかな開始と、いつでも戦争準備ができているように、軍備の増強を提案したと証言した。1932年の春に、笠原は参謀本部に転任を命じられ、そこで第二部ロシア班長の職に就いた。笠原は、1932年7月15日に、すなわち右の任命の間もなく、神田中佐を通じて、当時モスコー駐在の陸軍武官であった川辺虎四郎に、次のような参謀本部の重要な決定について通報した。『・・・・(陸海軍の)準備完成せり。満州を固めるために、日本は対露戦争を必要とす』と。笠原証人は、反対訊問で、参謀本部では、『1934年までに戦争の準備をなすことについて、課班長の間の申し合わせがあった』と説明した。

 右の決定が行なわれたときに、被告梅津は参謀本部の総務部長であり、東条と大島はそれぞれ参謀本部の課長であり、また武藤は第二部の部員であった。

陸軍省と参謀本部との間の申し合わせ (原資料281枚目)

 1932年の夏に、陸軍省の課長は参謀本部の課長と、これらの準備について申し合わせをした。これは明らかに陸軍省の上官の許可と承認がなくてはできないはずであった。被告荒木は当時陸軍大臣、被告小磯は陸軍次官、被告鈴木は陸軍省軍務局員であった。すでに指摘したように、荒木と鈴木は、1933年に、沿海州、ザバイカル、シベリアの諸地方を武力をもって占領する意図を公然と表明した。


モスコー駐在の陸軍武官、攻撃を主張

 1932年7月14日に、川辺はモスコー駐在陸軍武官として参謀本部に報告を送り、その中で、『将来における日ソ戦争は不可避なり』、この理由からして、『戦備充実の重点は、ソ連邦に指向するを要す』と述べた。さらに、『ソ連邦より提議しある不侵略条約の締結に対しては、不即不離の関係に置き、もって帝国の行動に自由を保留するを要す』ということもかれは力説した。これは、疑いもなく、すでに述べた中立条約に関するロシアの提議に言及したものである。

ソビエット連邦に対する戦争計画 (原資料282枚目)

 1931年における満州の占領と同様に、1937年における中国の他の地域に対する侵略においても、いつかはソビエット連邦と戦争することになるということが、常に念頭に置かれていた。戦略はソビエット連邦に対する攻撃の準備に向けられていた。このことは、1937年6月に、当時関東軍参謀長であった被告東条によって指摘された。すなわち、中国に対する攻撃を開始する直前に、陸軍次官梅津と参謀本部とに宛てた電報の中で、かれは次のように述べたのである。『現下支那の情勢を対ソ作戦準備の見地より観察せば、我が武力これを許さば、先ず南京政権に対し一撃を加え、我が背後の脅威を除去すべきものと信ず』と。同様に、1931年の満州占領の際にも、また1937年の中国の他の地域に対する侵略の際にも、中国とソビエット連邦とに対する日本の戦争計画は、参謀本部、日本陸軍省及び関東軍司令部によって統合されていた。

 被告武藤は、本裁判所で、かれが参謀本部の第一課長であったときに、1938年度の計画の研究をしたことを認めた。日本の参謀本部の1939年度と1941年度の戦争計画は、ソビエット領土の占領を目標としていた。1939年度の戦争計画は、攻勢に出るために、日本の主力を東部満州に集結することを基礎としていた。関東軍は、ウオロシロフ、ウラジオストック、イマン、それからハバロフスク、ブラコエシチェンスク、クイブイシェフカのソビエットの都市を占領することになっていた。ドイツがソビエット連邦を攻撃する前の、1941年度の計画は、同様な目的をもっていた。戦争の第一段階においては、ウオロシエフ、ウラジオストック、ブラゴエシチェンスク、イマン、クイブイシェフカを、その次の段階においては北樺太、カムチャッカのペトロパブロフスク港、黒龍江のニコラエフスク、コムソモルスク、ソヴガヴァンを占領する意図であった。

 これらの計画と手段の攻撃的性質は、連合艦隊司令長官山本大将の1941年11月1日付の機密作戦命令に示されている。その中で、『・・・・帝国よりソ連を攻撃せざる場合は、ソ連はあえて開戦せざるものと信ぜらる』と指摘されている。1941年12月8日の枢密院審査委員会の会合で、同じ意見を東条が述べた。『ソ国は対独戦遂行中なる関係上、帝国の南方進出に乗ずることなかるべし』と。

 これらの計画は、『慣例』であるとか、『戦略的防衛』のためのものであるとか、その外いろいろといわれたが、攻撃的なものであって、防衛的なものでなかったことは明らかである。ある場合には、防衛戦略が攻撃的作戦を正当化し、またおそらくそれを必要とするということがあるかもしれない。これらの計画の性質とソビエット連邦に対する日本の軍事的政策とを考察すれば、これらの計画は侵略的であって、『戦略的防衛』のためではなかったという結論に到達するほかはない。それは、日本側が『王道』を弁護したような、すなわちアジア大陸の隣国を犠牲にして日本が対外的に進出することを弁護したような、すでに論じたところの、あの歪められた意味においてのみ、『防衛的』であったのである。

ソビエット連邦に対する積極的戦争準備 (原資料284枚目)

 満州占領の直後に、日本はその軍隊の主力をそこに駐屯し始めた。軍隊の訓練の目的は、おもにソビエット連邦と中国に対する軍事行動の準備に置かれていた。さきに陸軍省兵務課長、後に兵務局長であった田中は、満州で訓練された日本の兵隊は250万と推定した。

 1938年に、東条は、関東軍参謀長として、チャハル気象観測網配置計画の中で、その目的は『日本及び満州における天気予報業務を一層適確ならしめ、特に対ソ作戦準備のため、航空気象網を増強す』ることであると述べた。

 元関東軍司令官被告南は、反対訊問中に、満州における鉄道の建設は、ソビエット国境に向けられていたことを認め、さらに、『これらは主として北満開発のためでありました』と主張したが、戦略的な価値もあり得るということを認めた。

 1938年1月に、関東軍司令部は、東条のもとで、『新興支那建設方策大綱』を立案した。陸軍大臣に送られたこの文書は、『緊迫せる対ソ戦準備に資せしむる』ように、現地住民を納得させる仕事に関して述べている。東条は蒙疆地方を『対外蒙侵略基地として』使用することを企図していた。

 当時の関東軍参謀長東条は、1938年5月に陸軍省に送った極秘電報の中で、南満州鉄道会社を『・・・・軍は満州国の政策遂行ないしは対ソ作戦準備等に協力せしむる如く指導しあり』と指摘した。

 陸軍当局は、1941年4月に調印された中立条約があるからといって、ソビエット連邦との戦争に対する準備をゆるめることはしなかった。このようにして、関東軍参謀長は、1941年4月に、兵団長の会合で行なった演説の中で、日ソ中立条約を論じて、次のように述べた。『本次条約は三国同盟強化の見地よりする外交上の一措置とし、帝国の現況に即ししばらく日ソ国交の平静を企図せられたるものにして、これが実効を収むるは一に今後における両国の態度いかんに存し、今日の状態をもって直ちに友好関係に入るものと思惟する能わず、従って今後におけるこれが条約の実効を収むるためには、軍として作戦準備の弛緩は絶対に許されず、ますますこれを強化拡充することによりこれを促進し得べく、軍従来の方針に何ら変更を加えらるることなし。

 『日満両国を通じ、巷間往々にして中立条約の締結をもって我が対ソ戦備の軽減を云々するものなきにしもあらざるところ、我が対ソ戦備は前述のごとくいささかも既往の方針に何らの変化なきのみならず、特にこの機会における思想、防諜その他各種謀略対策等に関しては周密巍然(ぎぜん)たる態度をもって望むの必要特に大なるをもって、隷下一般に対しこれが趣旨を速やかに徹底し遺憾なからしむるを要す。』この本文は押収された『軍極秘』の文書から得たものである。この報告は、当時の関東軍司令官梅津が出席していたことは示していない。かれは出席していたかもしれない。しかし、このような重要な演説は、しかも記録がつくられ、保管された演説は、少なくともかれの承認を得ていたに違いない。

 1941年12月5日の同様な会合において、関東軍参謀長は兵団長に対して、ソビエットに対する作戦準備を全うし、機を逸せずに戦局の転換点を利用するために、極東ソビエット領と蒙古における軍情の変化を独ソ戦争の推移に関連して注視するように訓示した。この演説は、梅津がまだ関東軍司令官のときに行なわれたものである。

ソビエット占領地域の管理計画 (原資料287枚目)

 日本の指導者は、ソビエット領土の占領は実際に行なうことができると考えたので、参謀本部と関東軍司令部とで、これらの領土の経営のために、特定の計画が立案された。1941年7月から9月まで、参謀本部の将校の特別の一団は、日本軍が占領することになっていたソビエット領土の占領地統治制度の研究を行なった。

 1941年9月には、梅津の部下の池田少将を課長として、関東軍司令部に第五課が組織された。かれもやはりソビエット領土の占領地統治制度に関する問題の研究に従事していた。満州国の総務庁の専門家がこの仕事に使われた。

 少なくとも公式には、国策研究会は私的な団体であると主張された。しかし、その起案や研究のために、この団体は陸軍省、拓務省、その他の政府機関から極秘書類を受け取った。その一例は、1941年12月に、陸軍省と拓務省によって作成された極秘の『大東亜共栄圏における土地処分案』である。この案によれば、ソビエット連邦の沿海州が、バイカル湖までの他のソビエット領土とともに、日本か満州国のどちらかに併合されることになっていた。右の研究会は、その1942年2月18日付の『大東亜共栄圏の範囲及びその構成に関する試案』で、『欧露を追われるスラブ民族のシベリア集中』を阻止する対策をあらかじめ計画した。

 戦争準備の強化に伴って、これに使用される人の数はますます増大した。特殊な団体が設立された。その中には、内閣のもとに置かれた総力戦研究所と国策研究会があった。総力戦研究所の元所長であった村上啓作中将は、総理大臣東条から、日本軍が占領することになっていた大東亜地域における占領地の行政制度の計画を立てるように、研究所が指示されたと証言した。研究所が行なったすべての研究において、ソビエット連邦への侵入という問題は既定のものであるとみなされていた。1942年度の研究所の総合研究記事の中に載せられている『シベリア(含外蒙)統治方策』には、日本側占領当局のための規則が含まれていた。その中に、次のようなものがあった。

 『旧来の法令の全面的無効を宣言し、素朴かつ強力なる軍令をもってこれに臨み、皇国の強力なる指導下原住民は原則として政治に関与せしめず。要すれば低度の自治を付与す。

 『国防上経済上、要すれば内鮮満人移民の送出を行なうものとす。

 『必要に応じ、原住民の強制移住を断行するものとす。

 『我が威力を滲透せしむるを旨とし、峻厳なる実力をもって臨み、いわゆる温情主義に堕せざるものとす。』

 『国策研究会』の事業は、総力戦研究所と同じ線に沿って進められた。

 1942年の春までに、関東軍司令部は、日本が占領することになっていたソビエット地域の軍政に関する計画を作成していた。この計画は、梅津の承認を得て、参謀本部に送られた。この計画には、『行政、治安の維持、産業の組織、金融、通信及び輸送』の各部が含まれていた。

 1942年に、東条と梅津は、池田少将その他の将校を派遣して、南方地域のために立てられた占領地統治制度を研究させた。それは、ソビエット連邦の領土に対する占領地統治制度の立案をさらに進めるために、右の研究を利用するためであった。

ドイツのソビエット連邦攻撃後における積極的戦争準備 (原資料289枚目)

 ドイツがソビエット連邦を攻撃した後に、日本はソビエット連邦に対する戦争の全面的準備を増強した。その当時に、日本はすでに中国と長期戦を行なっていたが、ソビエット連邦に対する企図を達成するために、ヨーロッパの戦争を利用することを希望した。これは関東軍の秘密の動員と兵力の増強とを必要とした。1941年の夏に、計画に従って秘密の動員が行なわれ、30万の兵力、すなわち新しい2箇師団と種々の特科部隊とが関東軍に加えられた。1942年1月までに、関東軍の兵力は百万に増加されていた。関東軍の多量の新しい装備を受け取った。戦車の数は1937年の2倍になり、飛行機の数は3倍になった。部隊の大集団が満州でソビエット連邦の国境に沿って展開された。関東軍のほかに、朝鮮軍、内蒙の日本軍、日本内地の部隊が、企図されていたソビエット連邦に対する攻撃に使用されることになっていた。兵員と物資に加えて、大量の糧秣が関東軍のために準備された。


謀略と妨害行為

 直接の軍事的準備と同様に、平時と戦時の両方に処するためのソビエット連邦に対する謀略的活動の綿密な計画も、あるいは考慮中であり、あるいは進行中であった。このことは、参謀本部と関東軍司令部に対して、早くも1928年に、神田正種が提出した報告によって示されている。この神田は日本の情報将校であり、後に参謀本部第二部ロシア班長の職にあった人である。この報告の中には、ソビエット連邦に対する謀略的活動の大綱と施策が記述されていた。特に謀略的と挑発的の行動は、北満における交通線、主として東支鉄道において計画され、実施されていた。この報告は、『対露謀略の包含する業務は多岐にして、その行動は全世界にわたるべき』ものと述べている。この報告の起草者である元陸軍中将神田は、本裁判所で訊問されたときに、この文書を確認した。

 1929年4月に、ベルリンにおいて、当時の参謀本部第二部長であった被告松井によって招集された数ヵ国の日本陸軍武官の会議は、当時すでに計画されていたソビエット連邦との戦争の間に、ヨーロッパ諸国から行なうべき妨害行為の方法を審議した。この会議は、外国における白系ロシア人避難民を使うことを考慮した。また、ソビエット連邦外にいる日本の陸軍武官によって行なわれるところの、ソビエット連邦に対する諜報の問題も審議した。当時トルコ駐在の陸軍武官でありこの会議に出席し、発言した被告橋本は、本裁判所で訊問されたときに、会議の他の参加者の名を挙げた。その中にはイギリス、ドイツ、フランス、ポーランド、オーストリア、イタリア及びロシア駐在の陸軍武官がいた。そして、ソビエット連邦に対する謀略的活動は、この会議で、松井その他の者によって論議されたということをかれは認めた。この会議の後、1929年11月に、日本の参謀本部に対して、橋本は『コーカサス事情及びこれが謀略的利用』に関する報告を提出し、その中で、『コーカサス地方は・・・・対ソ謀略上重要なる一点たる』ことを強調した。かれは『コーカサスにおける各種人種を相反目せしめ、コーカサスに混乱状態を現出せしむること』という意見を具申した。

 被告大島は、ベルリンに駐在している間、ソビエット連邦とその指導者に対する謀略をひそかに行ない、これに関して、ヒムラーと協議した。

 1942年に、日本の参謀本部と関東軍司令部は1943年までそのまま有効であったソビエット連邦に対する新たな攻勢的な戦争計画を立てた。これらの計画によれば、ソビエット連邦に対する戦争は、満州に約30箇師団が集中された後に、不意に開始されることになっていた。それ以前の計画と同じように、これらの、後の計画も、実行に移されなかった。このころに、ドイツ、イタリア、日本の枢軸国の軍事上の見通しが悪化し始めた。その後、これらの国はますます守勢的な立場に置かれ、日本の企図したソビエット連邦に対する攻撃のような冒険は、ますます可能性が少なくなり、ついに1945年の枢軸国の決定的な敗戦となった。いずれにしても、本裁判所は、1943年まで、日本はソビエット連邦に対して侵略戦争の遂行を計画しただけではなく、このような戦争のために積極的準備を継続していたものと判定する。

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