歴史の部屋

中立条約


ソビエット連邦に対するドイツの攻撃 (原資料292枚目)

 前に述べたように、1931年と1933年に、日本はソビエット連邦から中立条約の締結を求められたが、それを拒絶した。1941年までには、ドイツとイタリアを除いて、日本はほとんどすべての国との友好関係を失っていた。国際情勢が非常に変化していたので、日本は10年前に拒絶したことを今度は喜んで行なう気になった。しかし、この気乗りは、何もソビエット連邦に対する日本の態度の変化を示すものではなく、この国に対する日本の領土獲得の企図が減じたことを示すものでもない。

 1941年4月13日に、すなわちドイツのソビエット連邦に対する攻撃の少し前、日本はソビエット連邦との中立条約に調印した。この条約は、次のことを規定した。

    『第1条

 『両締約国は両国間に平和及び友好の関係を維持し、かつ相互に他方締約国の領土の保全及び不可侵を尊重すべきことを約す。』

    『第2条

 『締約国の一方が一又は二以上の第三国よりの軍事行動の対象となる場合には、他方締約国は該紛争の全期間中中立を守るべし。』

 日本政府は、その当時に、防共協定と三国同盟とによって、ドイツに対する約束があったので、この条約に調印するにあたっては、その立場が曖昧なものであった。日本政府が中立条約に調印した行為は、さらに一層曖昧なものであった。この政府が調印したときに、それはソビエット連邦に対するドイツの攻撃が切迫していたことを予期するあらゆる理由をもっていたからである。

 すでに1941年2月23日に、リッベントロップは大島に対して、ヒットラーは冬の間にいくつかの新しい部隊を編成したこと、その結果として、第一流の攻撃師団186箇を含めて、ドイツは240師団をもつことになろうと告げた。リッベントロップは、さらに『独ソ戦』の見通しについて詳しく述べ、これは『結局ドイツの偉大なる成功に終わり、ソビエット政権の終焉を意味するであろう』といった。

 ソビエット連邦に対するドイツの来たるべき攻撃は、1941年3月に、ドイツの指導者――ヒットラーとリッベントロップ――と日本の外務大臣松岡との会談において、さらに一層具体的に論ぜられた。

 1941年3月27日の松岡との会談で、リッベントロップは松岡に対して、『東部のドイツ軍はいつでも使用することができる。万一ロシアがいつかドイツに対して脅迫と解釈される態度をとるならば、総統はロシアを粉砕するであろう。ロシアとのこのような戦いは、ドイツ軍の完全な勝利と、ロシアの軍隊とロシアの国家との絶対的破壊で終わるであろう、とドイツではだれでも確信している。総統は、ソビエット連邦に対して進撃した場合には、数ヵ月後には、ロシアは大国としてはもはや存在しなくなるであろうと確信している』と述べた。

 同じ日に、ヒットラーは松岡に同じ趣旨のことを話した。すなわち、大島、オット、リッベントロップの列席している所で、ドイツはソビエット連邦とある条約を締結したが、それよりも一層重要なことは、ソビエット連邦に対して、自己の防衛のために、ドイツは160箇ないし180箇の師団を使用し得るという事実であるとヒットラーは述べた。リッベントロップは、1941年3月29日の松岡との会談で、ドイツ軍の大部分はドイツ国の東部国境に集結されていると述べ、ひとたびソビエット連邦との戦争が発生すれば、この国は3、4ヵ月以内に席巻されてしまうという確信を再び表明した。その会談において、リッベントロップは、また次のように述べた。『・・・・ロシアとの紛争は、どうしても起こり得ることである。いずれにしても、松岡は帰国の上、日本の天皇に対して、ロシアとドイツとの間の紛争は起こり得ないと報告することはできないであろう。それどころか、事態は、このような紛争が起こりそうだとまではいかないにしても、起こることがあり得ると考えなければならないものである』と。これに答えて、松岡はかれに、『日本は常に忠実な同盟国であって、共同の努力に対して、単によい加減のやり方ではなく、すべてを捧げるであろう』と保証した。

 モスコーで中立条約に調印した後、帰国して間もなく、松岡は東京駐在ドイツ大使オットに対して、『ドイツのロシアとの衝突の場合には、日本の総理大臣や外務大臣は、だれであっても、日本を中立にしておくことはとうていできないであろう。この場合に、日本は必然的にドイツ側に立って、ロシアを攻撃しないわけにはいかなくなるであろう。中立条約があったところで、これは変えられない』と述べた。

 大島は、1941年5月20日の松岡あての電報で、ワイツゼッカーがかれに対して、『松岡外相が、もし独ソ開戦せば、日本はソ連邦を攻撃すべきことをオットに述べられたることは、ドイツ政府がこれを重要視しあり』といったと報告した。

 中立条約を調印する際に、日本政府がとった不誠実な政策は、この条約の調印のための交渉と同時に、ドイツとの間に、1941年11月26日に満了することになっていた防共協定を延長するための交渉が行なわれていたという事実によって確認される。防共協定は、ドイツとソビエット連邦との間の戦争が起こってから、1941年11月26日に、さらに5ヵ年延長された。

 ソビエット連邦と中立条約とに対する日本の政策は、1941年6月25日、ドイツがロシアを攻撃してから3日後に、スメタニンが松岡と行なった会談によって示されている。日本駐箚のソビエット大使スメタニンによって、日本は1941年4月13日のソビエット連邦と日本との間の中立条約に従って中立を維持するかどうかと聞かれたときに、松岡は率直な回答を避けた。しかし、三国同盟は日本の対外政策の基礎であり、もし今次の戦争と中立条約がこの基礎及び三国同盟と矛盾するならば、中立条約は『効力を失うであろう』ということを力説した。スメタニンとの会談について、松岡が悪質な批評を行なったことに関するドイツ大使の報告に行ついては、すでに前に述べた。1941年6月、ソビエット連邦に対するドイツの攻撃の少し前に、梅津はウーラッハ公爵との会談において、『日ソ中立条約を目下のところ歓迎している。しかし、三国同盟は日本の外交政策の不変の基本をなしているから、中立条約に対する日本の態度も、従来の独ソの関係が変更を受けるようになれば、直ちに変更しなければならない』と述べた。

 日本はソビエット連邦と中立条約を締結することに誠意をもっていなかったが、ドイツとの協定がいっそう有利であると考えたから、ソビエット連邦に対する攻撃の計画を容易にするために、中立条約に調印したように見受けられる。ソビエット連邦に対する日本政府の態度についてのこの見解は、1941年7月15日に、東京のドイツ大使がベルリンあての電報の中で報告した見解と合致する。ドイツとソビエット連邦の戦争における日本の『中立』は、ソビエット連邦に対して日本自身が攻撃を行なうまでの間、ドイツの与え得る援助に対する煙幕として、実際に役に立ったのであり、またその役に立つために企図されたようであった。本裁判所に提出された証拠は、日本がソビエット連邦との条約に従って中立であったどころか、その反対に、ドイツに対して実質的な援助を与えたということを示している。

ドイツに対する日本の一般的軍事援助 (原資料297枚目)

 日本は満州で大規模な軍事的準備を行ない、また同地に大軍を終結し、それによって東方のソビエット陸軍の相当な兵力を牽制した。この事がなかったならば、この兵力は西方でドイツに対して用いることができたであろう。これらの軍事的準備は、ドイツと日本の政府によって、右のような意味のものと見なされていた。駐日ドイツ大使は、1941年7月3日に、ベルリンあての電報で、『なかんずく、右の目的の実現を目途とするとともに、ドイツとの戦いにおいて、ソビエット・ロシアを極東において牽制する目的をもって軍備を増強することは、日本政府が終止念頭に置いているところである』と報告した。

 同様に、リッベントロップは、1942年5月15日に、東京あての電報で、ソビエット連邦に対する奇襲攻撃の成功は、三国同盟諸国に有利に戦争を進ませるのに非常に重要であろうということを指摘したが、同時に、前に述べておいたように、『ロシアは、どんな場合でも、日本とロシアとの衝突を予期して、東部シベリアに兵力を維持しなければならないから』、ソビエットに対する戦争におけるドイツへの積極的援助として、日本の『中立』の重要性を強調した。

日本、ソビエット連邦に関する軍事的情報をドイツに提供 (原資料298枚目)

 日本がソビエット連邦に関する軍事的情報をドイツに提供した証拠は、リッベントロップから東京のドイツ大使にあてた1941年7月10日の電報に含まれている。この中で、リッベントロップは、『モスコーの日本大使の電報を回送したことに対して、この機会に、日本の外務大臣に礼を述べられたい。われわれがこの方法で定期的にロシアからの報告を受けることができれば、仕合わせである』と書いた。

 日本の軍事機関と外交機関から得たソビエット連邦に関する経済上、政治上、軍事上の情報を、日本がドイツに提供していたことを証明する証拠が提出された。1941年10月から1943年8月まで、参謀本部のロシア課長をしていた松村少将は、参謀本部の命令に従って、参謀本部の第16(ドイツ)課に対して、東京のドイツ陸軍武官クレッチマー大佐のために、極東におけるソビエット軍、ソビエット連邦の戦争能力、ソビエット部隊の東方から西方への移動、ソビエット部隊の国内における移動に関する情報を、組織的に提供したと証言した。

 前に東京のドイツ大使館付陸軍武官補佐官であったフォン・ペテルスドルフは、日本の参謀本部から、ソビエット陸軍、特に極東軍に関する秘密情報――軍隊の配置、その兵力、予備軍について、ヨーロッパ戦線に対するソビエット軍隊の移動について、ソビエット連邦の軍需産業などについての詳細な情報――を組織的に入手したと証言した。フォン・ペテルスドルフは、かれが日本の参謀本部から受け取った情報は、その範囲と性質において、陸軍武官が普通の経路を通じて通常受け取る情報とは異なっていたと述べた。

ソビエットの船舶に対する日本の妨害 (原資料299枚目)

 日本に中立の義務があるにもかかわらず、極東におけるソビエット船舶の航行に対する日本の妨害によって、ソビエットの戦争努力は大きな障害を受けたということを検察側は主張し、そのことを示す証拠を提出した。わけても、1941年に、香港で、ソビエット船舶として明白な標識をつけたところの、碇泊中の数隻の船舶が砲撃され、一隻が撃沈されたこと、同じ月に、ソビエット船舶が日本の飛行機からの爆弾によって撃沈されたこと、多数のソビエット船舶が日本海軍艦船によって不法に停船させられ、日本の港湾に護送され、ときには、長期間そこに抑留されたことの証拠があった。最後に、日本は津軽海峡を閉鎖し、ソビエットの船舶がソビエット極東沿岸に行くのに、もっと不便な、もっと危険の他の航路をとらなければならないようにしたと非難された。これらの行為は、すべて中立条約に基づく義務を無視して、また日本がソビエット連邦に対して行なおうと企てていた戦争の間接的な準備として、ソビエット連邦をドイツとの戦争で妨害するために行なわれたのであると主張された。

 中立条約が誠意なく結ばれたものであり、またソビエット連邦に対する日本の侵略的な企図を進める手段として結ばれたものであることは、今や確実に立証されるに至った。

1938年−39年におけるソビエット連邦に対する日本の攻撃作戦 (原資料301枚目)

 さきにソビエット連邦に対する日本の態度を論じた際には、起訴状の訴因第25、26、35及び36に挙げられた2つの事項については、われわれは詳細にわたって考察することを差し控えた。前の論議のときに、これらの事項が意義がなかったというのではないが、起訴状がそれらの事項を直接に取り上げているから、これに対する詳細な考察をここまで保留しておく方が都合がよいと考えたのである。

 1936年11月の防共協定に基づく日本とドイツの同盟と、1937年の盧溝橋事件の後の華北及び華中における日本の軍事的成功とに続いて、日本陸軍は、1938年と1939年に、ソビエット連邦に対して、まず満州東部で、次いでその西部で、敵対行為に訴えた。1938年7月に、敵対行為が行なわれた場所は、満州、朝鮮及びソビエット連邦沿海州の国境の接合点に近接したハサン湖地区内であった。それから、1939年5月には、満州国と外蒙古との、すなわち蒙古人民共和国と満州との、領土の境界線上のノモンハン地区内で、敵対行為が起こった。日本側では、これらの作戦行動はどちらも単なる国境事件で、境界線が不明確であったために起こり、その結果として、相対峙する両国の国境警備隊の衝突となったものであると主張した。

ハサン湖地区における敵対行為 (原資料302枚目)

 1938年7月の初めに、野戦部隊をハサン湖のすぐ西の図們江の東岸に集結することによって、ハサン湖西方地区の日本の国境警備隊の兵力は増強された。右の河と湖の間には、その河と湖の双方を見下ろす丘陵が続いており、ソビエット連邦の主張によれば、それらの丘の稜線に沿って、境界線が走っていた。これに反して、日本側では、その境界線はもっと東に寄ったハサン湖の西岸に沿っていたと主張した。

 この高地は、図們江、南北に走る鉄道、並びにソビエット沿海州及びウラジオストック市に通ずる道路を西に見下ろしているために、戦略上相当な重要性をもっている。日本側から見て、この高地の重要性は、北と東に向かう交通線をなしている鉄道と道路に対する観測と攻撃を防ぐことができるということに価値があった。日本側はその軍事上の重要性を認識し、早くも1933年において、関東軍はこの地区の地形に関する研究を充分に行なっていた。この研究は、1933年12月に関東軍参謀長から陸軍次官に提出した報告に述べてあるように、『対ソ作戦の場合』を顧慮して行なわれたものである。

 ソビエット国境警備隊前哨の当時の報告とその他の証拠は、1938年7月中に、日本の部隊集結はますます大規模に行なわれていたことを示している。7月の末以前に、朝鮮軍の約1箇師団が長さ3キロメートルを超えない小さい地区に集結された。田中隆吉少将は、弁護側のために述べた証言の中で、かれが7月31日に同地区に到着したとき、日本側は相当の兵力をもって攻撃をしていたと言っている。ついでながら、それより前に行なわれた準備に関するかれの証言は、興味深いものがある。かれは7月15日にすでに同地区を訪れていた。そして、そのときに、ソビエットの軍隊は、西側斜面に、すなわち張鼓峰――ソビエットの解釈によれば、その稜線に沿って境界線が走っているとされた――の満州側に、壕を掘っており、また鉄条網を張っていたとかれは述べた。それらの防御的措置は、ソビエット連邦軍の意図を示している点に意義がある。しかしながらソビエット人の証人達はかような措置がとられたということを否定している。もしわれわれが田中証言を全部そのまま受け容れたとするならば、これはソビエット軍が満州領に侵入したということを暗示するかもしれない。しかし、これらの防御措置に関して、日本側はなんの抗議もしなかった。あとでわかるように、日本側の苦情は、ハサン湖の西側にはどこにもソビエットの部隊を配置すべきではないということにあった。衝突の起こる前には、ソビエット国境警備隊は兵力が少数であり、今問題としている地区では、百人を超えていなかった。

 日本の部隊がハサン湖地区に集結していた7月の初めごろに、日本政府はソビエット政府と外交交渉を開始した。その目的は、ハサン湖東岸まで、ソビエット国境警備兵を撤退させようというのであった。7月15日に、モスコーの日本代理大使西は、日本政府の訓令に基づいて、ソビエット外務人民委員に対して、ハサン湖西部地方は全部満州に属すると述べ、同湖西岸からソビエット軍が撤退することを要求した。同じころに、西ヨーロッパで任務に就いていた重光は、日本の要求貫徹を確実にするための訓令を帯びて、モスコーに派遣された。それから会談が行なわれ、ソビエット代表は、境界線はハサン湖の西の高地に沿って走っているのであって、ハサン湖の岸に沿っているのではないと繰り返して述べた。この事実は1886年の琿春議定書によって裏づけられており、それによって境界線は確定されていると述べた。重光は断固たる態度をとり、琿春議定書に関して、『私の気持ちとしては、この危急の際に、何かの地図のことなどを話すのは不合理だと思います。それはただ事情を複雑にするばかりです』と言った。7月20日に、重光はソビエット軍の撤退を正式に要求し、さらに『日本は満州国に対し、不法にも占領された満領からソビエット軍を撤退させるために、実力を行使する権利と義務を持っています。』とつけ加えた。

 右の境界線の位置の問題に関して、多くの地図が本裁判所に提出され、一枚の地図と他の多数の証拠書類が出された。すでに言及した琿春議定書は、1886年に清国とロシアの代表によって調印され、それに境界線を示す地図がついていた。この議定書の中国語の正文にも、ロシア語の正文にも、その地図に言及している。そして、どちらにも、次のような重要な箇所がある。『・・・・地図上の赤線は境界線の印である。それは分水嶺に沿っており、西に向かって流れて図們江に注ぐ水は清国に属し、東に向かって流れて海に注ぐ水はロシアに属する。』境界線を詳細に説明した部分には、双方の正文にわずかな食い違いがある。境界線の正確な位置について、当時いくらか疑問があったかもしれないということは、これを無視することができない。しかし、現存の国際法の状態では、そのような疑問は、たといあったとしても、そのために武力に訴えてもよいというようなものではなかった。

 1938年7月21日に、陸軍大臣板垣は、参謀総長とともに天皇の引見を受け、日本の要求を押し通すために、ハサン湖における武力の行使を天皇が裁可するように要請した。陸軍大臣と陸軍がいかに熱心に軍事作戦行動に訴えることを望んでいたかは、板垣が天皇に対して、ソビエット連邦に対する武力の行使は、海軍大臣及び外務大臣とも協議ずみであり、両大臣とも完全に陸軍に同意しているという虚偽の言葉を述べたことによって明らかである。しかし、その翌日に、板垣が列席した五相会議で、ハサン湖での敵対行為の開始の問題が討議され、そこで採択された決議の中には、『(我が方は)万一に備うるため準備を行ないたり。準備したる兵力の行使は関係当事者間協議の後大命により発動するものとす』と述べられていた。このようにして、ハサン湖における武力行使の許可が得られた。残る唯一の未解決の問題は、敵対行為を開始する日取りであった。この問題は一週間の後に、すなわち、その高地の丘の一つであるベジミアンナヤ高地の付近で、日本軍が偵察という形で最初の攻撃を開始した1938年7月29日に解決された。この攻撃は、おそらく一箇中隊を超えないと思われる小部隊によって行なわれた。この部隊は、この丘に配置されていたソビエットの小国境警備隊を圧倒することに成功した。その日の後刻、ソビエット国境警備増援隊が派遣され、日本軍をその占拠した地点から駆逐した。

 7月30日から31日にかけての夜間に、一箇師団を主力として、こんどはザオゼルナヤ高地として知られていた高地の中の丘の一つに対して、日本側はまた攻撃に出た。証人田中隆吉が弁護側のためにした証言はすでに引用したが、かれが7月31日その地区へ帰ったときに、日本軍が大きな兵力で攻撃中であったという事実をかれは確認した。日本軍は満州領にいたとかれがつけ加えたことは事実であるが、この陳述は、満州領がハサン湖の西岸にまで及んでいたという日本側の主張に基礎を置いているのであろう。どちらにしても、裁判所は、日本側の攻撃を正当化する唯一の理由となるところの、ソビエット軍が口火を切ったということの証拠を少しも見出すことができない。

 この地区の戦闘は、1938年の7月31日から8月11日まで続いた。そのときまでには、敵対行為の開始後に派遣されたソビエット側の援護部隊の助けによって、この作戦に使用された日本軍は打ち破られ、ほとんど全滅した。そこで、日本政府は敵対行為をやめ、境界線はソビエット側の主張の通りに、山脈の稜線に沿う線に戻されなければならないということに同意した。

 すべての証拠から見て、本裁判所は、ハサン湖における日本軍の攻撃は、参謀本部と陸軍大臣としての板垣とによって故意に計画され、また少なくとも1938年7月22日の会議に参加した五大臣の許可は受けていたという結論に到達した。その目的は、同地区のソビエット側の勢力を打診してみるか、ウラジオストックと沿海州への交通線を見下ろす高台の戦略上重要な地点を奪うかの、どちらかであったのであろう。この攻撃は相当の兵力をもとにして計画され、実行されたものであるから、これを国境警備隊間の単なる衝突と見なすことはできない。日本側が先に敵対行為を開始したということもまた、本裁判所が満足するところまで立証されている。使用された兵力はさして大きくなかったが、上に述べた目的と、万一攻撃が成功した場合の結果とは、本裁判所の見解では、この敵対行為を戦争と呼ぶことを充分正当化するものである。その上に、当時存在していた国際法の状態と、予備的外交交渉で日本側代表がとった態度とを考慮すれば、日本軍の作戦行動は、本裁判所の見解では、明白に侵略的なものであった。

ノモンハン(ハルヒン・ゴール)の作戦行動 (原資料307枚目)

 1939年の5月から9月まで続いたノモンハン地方の敵対行為は、ハサン湖における敵対行為よりも、はるかに大規模なものであった。これは黒龍江省に接する外蒙古の東部国境で起こった。そのすぐ南は、1939年において日本の支配下にあったチャハル省である。

 ソビエット連邦に対する日本の軍事計画に関連して、外蒙古の重要性は大きかった。外蒙古は、満州からバイカル湖の西の一地点に至るソビエット領土と境を接しているために、非友好国によって軍事的に支配されるときは、一般にソビエット領土に対して、わけても、ソビエット領土の西部と東部を結びつけ、外蒙の北部国境とほぼ並行し、それからあまり離れずに長い距離を走っているシベリア鉄道に対して、脅威を与えることになるのである。外蒙古の戦略上の重要性は、ソビエット連邦も日本も、ともに認めていた。すでに1933年に、『昭和日本の使命』と題する論文で、荒木は外蒙古の占領を唱え、『日本は日本の勢力圏に接触して蒙古のごとき曖昧なる地域の存在することを欲しない。蒙古はあくまでも東洋の蒙古でなければならぬ』と付言した。数年後の1936年に、当時関東軍参謀長であった板垣は、有田大使との会談で、次のように指摘した。『外蒙は今日の日満勢力に対し極東ソ領と欧ソとの連絡線たるシベリア鉄道の側面掩護の地帯としては、極めて重要性を有す。従ってもし外蒙古にして、我が日満側に合体せんか、極東ソ領の安全性はほとんど根底より覆さるべく、また戦わずしてソ連戦力を極東より後退せしむることを得るに至るやも知るべからず。従って軍はあらゆる手段により日満勢力の外蒙古に対する拡充を企図しあり・・・・』

 ソビエット連邦は、日本または他の国が行動を起こすことがあり得ることを予測して、1936年に蒙古人民共和国と相互援助条約を締結し、これに基づいて、ソビエット軍は蒙古のいくつかの町に駐屯していた。こうして、ノモンハンで敵対行為が発生する少し前に、いくらかのソビエット軍が外蒙古の東部に派遣されていた。

 敵対行為は、1939年5月11日に、数百名に及ぶ日本軍偵察隊が蒙古側国境警備隊を攻撃したことで開始された。この日から、その月の27日までの間、少数の日本軍がさらに攻撃を加えたが、すべて撃退された。この間に、両軍とも増援部隊を派遣していた。5月28日に、飛行機、砲、戦車の支援のもとに、戦闘が再び大規模に開始された。それから後、戦闘はますます大規模に展開され、日本側が敗北を認めた9月になって、ようやく終わった。

 使用された兵力の大きさを正確に述べることはむずかしいが、それが大きなものであったことは、死傷者総数に関するいろいろな推定数と作戦行動の行なわれた地域からして判断することができる。戦死、負傷、捕虜による日本側の損害は5万人を超え、蒙古とソビエット側の損害は、九千人以上であった。作戦行動は、正面50ないし60キロメートル、深さ20ないし25キロメートルにわたっていた。

 この事件に関する弁護は、ハサン湖事件の場合と大体同じである。すなわち、この事件は、外蒙と満州との国境の正確な位置に関する紛争について、国境で起こった衝突にすぎないというのである。日本側の主張は、戦闘が起こった地域では、国境はハルハ河であり、この河はこの地点で西北の方向に流れているというのであった。これに対して、蒙古側の主張は、国境はハルハ河の東方約20キロメートルの所であるというのであった。国境の位置について、多数の地図が提出され、多くの証拠が挙げられた。その上に、この衝突の前しばらくの間、蒙古側国境警備隊に勤務していた者によって、かれらが国境であると主張する線に沿って、国境線は国境標識ではっきり示されていたという証言がなされた。ここで、国境の位置を決定することは必要ではない。それについては、その後に協定がなされた。本裁判所で決定すべき問題は、発生した戦闘の正当性についてである。

 この作戦行動の性格と規模に関する最も有力な証拠は、1939年9月5日付の、第六軍司令官布告である。これは押収された日本側文書の中にある。それには、次のように書いてある。

  『第六軍の再編成を行なうように指令は前に発せられたにもかかわらず、その指令が遂行されなかったために、西北地域の防備の大きな使命実現が失敗に帰したことを残念ながらここに認めなければならない。我が軍は満州及び蒙古国境の変則な戦の渦中に投ぜられた。かかる行動は前線において10日以上の間続き今日に至っている。小松原中将の率いる諸部隊の勇敢にして断乎たる措置により交戦中の混乱は減少した。現在我が軍は新攻撃のためにジンジン・スメ地方に準備をしつつある。

  関東軍司令官は、この秋に満州に駐屯する最精鋭部隊を送って我々を援助することを決し、彼はそれら軍隊を将来の戦場となるべき所に移動せしめ、彼らを我が指揮下において、争を解決せしむるため、緊急な方策を計画している。今や問題が既に単なる国境紛争の域を超えている事態にあることは明らかである。我々は今や中国において聖戦を遂行しており、複雑な内外情勢の諸条件下においてこの紛争におけるいかなる変化も極めて大なる国家的重要性を持つことになる。我が軍の諸行動が遂行せらるべき道はただ一つしかない。それはすなわち我が軍を一致団結せしめ、すみやかに敵に殲滅的打撃を加えてもって増長して行くその傲慢不遜を絶滅することにある。現在のところ、軍の準備は着々運びつつある。我が軍はこの秋が来るとともに、一撃のもとにこの鼠退治を終了して、世界に対し誇らかに精鋭皇軍の威力を示すであろう。将兵も現在の状態の重要性を充分理解している。全軍は、一兵から幹部に至るまで断乎たる攻撃精神に充ちており、勝利を確信している。軍は常に我が大元帥陛下への深い忠誠をもって、喜んで到るところ敵を粉砕撃滅するものである。』

 蒙古またはソビエットの軍隊が先に戦闘を始めたということの立証を、弁護側が本気に試みたことは一度もなく、弁論の際にも、そうであると主張されたこともない。これに対して、検察側では、この作戦行動に参加した証人を出廷させた。この証人は、敵対行為は日満側軍隊によって始められたといっている。本裁判所は、この点については、検察側の証拠を受け容れるものである。この紛争のための準備が関東軍の手によって行なわれていたことは疑いがないが、参謀本部または政府がこの敵対行為の開始を認めていたかどうかをわれわれに判断させ得る証拠は、一つも提出されなかった。本裁判所が言い得ることは、せいぜいのところ、少なくとも日本の参謀本部と陸軍省があらかじめ知っていないで、このように、広汎な規模で作戦行動が行なわれたということは、ありそうもないということだけである。この事件が発生してから間もなく、当時総理大臣であった平沼は、陸軍大臣板垣から、この事件の発生を知らされた。本審理前の訊問の際に、かれは板垣に対して敵対行為を中止するように要求したが、『何らの指令も出すことはできなかった』し、また『軍部は違った見解をもっていた』といっている。従って、この紛争のごく初期の段階において、平沼も板垣も事態を充分に承知していたことは明白である。しかも、両人の中のどちらかが、この紛争の継続を阻止するために、何かしたという証拠は少しもない。

 ハサン湖事件の場合と同じように、日本軍は完全に敗退した。もし日本軍が勝ったとした場合、その後どんなことが起こったであろうかということは、まったくの想像に属する。しかし、日本軍が敗れたという単なる事実によって、この作戦行動の性格がきまるものではない。これらの作戦行動は、4ヵ月以上の期間にわたる大規模なものであった。第六軍司令官の布告から見てわかるように、明らかに日本軍が慎重な準備の後に企てたものであり、その意図は、日本軍に対抗する敵の軍隊を殲滅することであった。従って、この事件が対立する国境警備隊間の単なる衝突であったという主張は、成り立たない。これらの状況のもとにおいて、本裁判所は、この作戦行動は日本側によって行なわれた侵略戦争というべきものであると認定する。

宥恕の防御 (原資料313枚目)

 ハサン湖とノモンハンの両戦闘に関する弁護側の補助的主張は、どの戦闘も、日本とソビエット連邦の両政府の間の協定で解決されたということである。1938年8月10日に、重光とモロトフによって署名された協定で、ハサン湖における戦闘は終わった。双方とも敵対行為が開始される前にそれぞれが占めていた位置に後退し、その後は平静が回復されたのである。

 ノモンハンで戦闘が終わってから長い間経って調印された1940年6月9日の東郷・モロトフ協定で、日本とソビエット連邦は、外蒙古と満州との間の境界線について協定した。これらの協定に続いて、1941年4月に、日本とソビエット連邦との間の中立条約によって、一般的解決が行なわれた。

 これらの3つの協定に基づいて、弁護人は、二種類の協定――一つは特殊的、一つは一般的――が結ばれた以上は、これらの問題を今になって再び取り上げることはできないと述べ、それによってこの点に関する弁論を結んでいる。弁護側の弁論の基礎になっているこの3協定の中のどれにも、まったく免除の特権が与えられておらず、刑事上またはその他の責任の問題も取り扱われていなかった。従って、本裁判所は、これらの協定は、この国際裁判所で刑事訴訟を行なうことに対して、少しも妨げになるものではないという見解をもつものである。国内的のものにせよ、国際的のものにせよ、刑事責任の問題については、どのような裁判所であっても、明示的にせよ、黙示的にせよ、犯罪の宥恕を黙認することは、公の利益に反することになるであろう。


蒙古が独立していなかったとの防御

 被告東郷の弁護人は、大体に訴因第26に対する弁論の中で、『いわゆる蒙古人民共和国』が1945年までは中華民国の不可分な部分であって、主権国家ではなかったということを理由にして、子の訴因は証明されていないと主張した。本裁判所は、外蒙古の地位に関心ももっていないし、それについて決定する必要があるとも考えない。われわれは意図が最高の重要性をもつ刑事問題を取り扱っているのであって、蒙古人民共和国の地位を正式に承認した日本政府の文書による約束を今になって弁護側が否認することを許すことはできない。被告東郷が日本の名において署名したソビエット連邦と日本の政府との間の1940年6月9日の協定で、満州と外蒙古との間の境界線を画定するための規定が設けられた。すなわち、締約国は、それぞれ蒙古人民共和国と満州国のために、その協定に同意するということを述べたのである。

 このように明白に外蒙古の主権国としての地位を承認した以上、またこれに反する証拠がない以上、今になって被告がこの点は証明されていないと申し立てても、それは聞き入れられるものではなく、外蒙古が1945年までは中華民国の不可分な部分であった事実を、裁判所が裁判上顕著な事実として認めるように申し立てても、これも聞き入れられるものではない。

極東国際軍事裁判所


判決


B部

第7章


太平洋戦争


英文843−1000頁

1948年11月1日


B部


第7章


太平洋戦争 (原資料3枚目)

 1938年のハサン湖における日本の攻撃の失敗によって、極東におけるソビエット連邦の意外な軍事力が明らかになった。1939年8月23日に、ドイツとソビエット連邦との間に不可侵条約が締結され、また、ドイツがイギリス及びフランスに対する戦争に没頭していたために、ソビエット連邦はさしあたりその西部国境に対する不安がなくなった。それまで、日本の国策を実現する第一歩として企てられていた北方への日本の進出は、ここにおいて、いっそうよい機会が来るまで延期された。

 北方における機会の扉が閉ざされると、南方の扉が開き始め、日本の国策の第二の主要部分を、すなわち南方への進出を実現するために、日本は種々な予備的措置を講じた。フランスとイギリスは、1938年9月に、ミュンヘンで深刻な反発を受けた。それから後、1938年11月3日に、近衛公は東亜新秩序を建設する日本の意図を公けに声明し、その同じ月に、日本は条約体制を無条件に適用することはもはやできないと発表した。『門戸開放』及び『機会均等』の原則の適用は、中国における状態の変化に応じなければならないかもしれないと日本はいった。その同じ1938年11月に、五相会議は、海南島を占領することを決定した。この島は1939年2月に、また新南群島は1939年3月に攻略された。

 1939年9月に、ドイツとポーランド、フランス、イギリスとの間に戦争が始まった。すると直ちに大島大使及び寺内大将が日本は南方に進出するのが得策であると提唱している。1939年の9月から以後、中国における日本軍の外国権益に対する態度は、ますます目立って強硬となり、またそのころに、日本側は雲南鉄道の爆撃を始めた。1939年11月に、日本の外務省は、フランスが雲南鉄道によって軍需物資を中国に輸送するのを中止すること、及びこのような物資が輸送されないように監視するために、日本の軍事使節団が仏印にはいるのを許すことを要求した。南方に対する日本の侵略性をこれほど公然と示したものはない。なぜならば、フランスはこれらの物資を送る権利があったのであり、その当時には、まだフランスの軍事力がくじかれるという徴候がなかったからである。それにもかかわらず、フランスがヨーロッパにおける戦争に専念していることにかんがみ、日本はこのような要求をフランスに提示する力が充分にあると考えた。1940年2月2日に、日本はオランダに対して要求を出したが、もしこれが受け入れられたならば、オランダ領東インドの経済に関して、諸国の間で優先的な地位が日本に与えられるのであった。1940年3月に、小磯は議会の決算委員会で、経済的にアメリカ合衆国に依存しなくなるように、日本は太平洋の諸島へ進出しなければならないと述べた。

 1940年5月9日に、ドイツはオランダに侵入した。日本は直ちにアメリカ合衆国、イギリス及びフランスに対して、かれらがオランダ領東インドの現状を維持するという誓約を要求し、それを受け取った。日本もまた同じような誓約を与えた。それにもかかわらず、1940年5月22日になるまでに、日本はドイツに対して、ドイツがオランダ領東インドにまったく関心をもっていないとの声明を出すことを要求し、それを受け取っていた。日本では、この声明は、ドイツに関する限り、オランダ領東インドとの関係において、日本に自由行動を許したものと解釈された。これは正しく解釈されたものであるということが後になってわかった。

 1940年6月17日に、フランスはドイツに対して休戦を申し入れた。1940年6月19日に、日本は仏印を経由して中国に向けられる物資の輸送を停止すること、及び物資が全然輸送されないことを確実にするために、日本の軍事使節団を入国させることを仏印に対して重ねて要求した。1939年に、これらの要求をしたときには、フランスに拒絶されたのであるが、今ではフランスの立場は非常に変わっており、この事実を日本は利用したのである。ここに至って、仏印総督は同意し、日本の軍事使節団は1940年6月29日にハノイに到着した。

 当時の拓務大臣小磯は、1940年6月24日に、ドイツ大使に、仏印とオランダ領東インドに植民地を獲得したいという日本の熱望について語り、これらの領土において、日本が起こそうとしている軍事行動に対して、ドイツの態度はどうかと尋ねた。大使は、すでに1940年5月22日に与えられたところの、ドイツはオランダ領東インドに対して無関心であるとの宣言を確認した。さらに、ドイツはおそらく仏印における日本の行動に異議を申し立てることなく、フィリッピンとハワイに対する攻撃の威嚇によって日本が合衆国を太平洋に牽制することを望むと述べた。ヨーロッパ戦争の間太平洋の現状を維持する協定についてのアメリカの申入れを1940年7月1日に日本は拒絶した。この拒絶の理由としては、木戸と外務大臣有田との会談のときに、オランダ領東インドにおける活動をも含めて、このさい日本の活動を制限されることは得策でないからであると述べられた。日本の隣接諸国に対する侵略的意図をこれほど明らかに告白したものはない。1940年7月8日に、来栖と佐藤は、9ヵ年にわたって日本が目指してきたのは、条約体制から解放された新しい中国をつくることであったとリッベントロップに語った。こうして、9ヵ年の間日本が繰り返して行なった公式声明の虚偽を示した。1940年7月16日に、日本はオランダに対して、オランダ領東インドの日本に対する物資供給の問題を協議するために、バタヴィアに経済使節団を送ると通告した。その同じ日に、米内内閣が辞職したが、これは軍部とその支持者の圧力によるものであった。かれらは、ヨーロッパにおけるフランス及びオランダの崩壊とイギリスの不安とによって、今与えられている日本の南方侵略の好機を利用するには、米内内閣はあまりにも安閑としていると考えたのである。1940年7月22日に行なわれた第二次近衛内閣の登場に対して、また、日本のこの南方侵略政策を促進するために、この内閣がとった種々の措置に対して、障害が除かれた。

1940年の日本の政策 (原資料7枚目)

 1940年7月22日に就任した第二次近衛内閣の在任中に、1941年12月8日における太平洋戦争の開始に直接貢献した重要な諸決定がなされた。

 1940年9月27日に、三国条約を調印するという運びになったドイツとの交渉に関しては、この判決において、すでに論じておいた。しかし、第二次及び第三次の近衛内閣時代と、その後を継いだ東条内閣の時代とになされた決定と採用された計画とをいっそう明らかに理解するためには、1940年7月から10月までの間に採用された政策と計画を簡単に再検討することが適当である。これらは、1936年8月11日に広田内閣が言明した政策を再確認したものであり、そして、1940年の後半に存在した情勢に対して、この政策を実際に適用したものである。

 その重要な事項は次の通りである。1940年7月26日の閣議決定、1940年9月4日の四相会議と1940年9月19日の連絡会議の決定、1940年9月28日――三国条約調印の翌日――に外務省で作成された日本の外交方針要綱、1940年10月3日の閣議の諸決定、並びに1940年10月4日に外務省で作成された『対南方策試案』である。

 これらの結果として、1940年10月の初期までには、日本政府の方針は、ソビエット連邦及びアメリカ合衆国との戦争を回避することにつとめると同時に、シンガポール、イギリス領マレー及びオランダ領東インドを占領する目的で、南方に進出するということに定められていた。合衆国との戦争は起こり得ることと考えられており、その場合には、フィリッピン、グアム、その他のアメリカの領土も、占領すべき地域の中に含まれることになっていた。

 もう少し細かくいえば、この方針は次のことを目標としていた。(1)三国条約に依存すること、(2)ソビエット連邦と不可侵条約を締結すること、(3)中国における戦争を完遂すること、(4)仏印、オランダ領東インド、海峡植民地、イギリス領マレー、タイ、フィリッピン、イギリス領ボルネオ及びビルマを大東亜共栄圏(以後は省略して『共栄圏』と呼ぶ)に編入すること、(5)ヨーロッパ戦争を終結するために仲介を申し出で、その代償に不侵略条約を結び、それによって、日本がフィリッピンの独立を尊重する代償として、合衆国が共栄圏を承認すること等である。

 1940年10月4日に、近衛は新聞に発表した声明の中で、もし合衆国が日本、ドイツ及びイタリアの真意を理解することを拒み、その挑戦的態度と行為を続けるならば、合衆国もイギリスも日本と戦争しなければならなくなるであろうといった。これは日本が両国と戦争することを余儀なくされるという意味であった。ソビエット連邦、イギリス及び合衆国に対して、中国援助を中止させようとして、日本は外交的に工作しているとかれは説明した。このときまでには、日本の侵略的意図が非常に明らかになったので、アメリカ合衆国には、これらの侵略的目的を達成するために使用される軍需品の製造原料を、続けて日本に供給する意思はなくなっていた。日本が条約を無視したことに対する抗議として、1938年と1939年に課した輸出禁止を、西半球とイギリス向けのものを除いて、一切の屑鉄と屑鋼とに及ぼした大統領布告が発せられた。1940年1月26日に、アメリカ合衆国が日本との通商条約を停止したことに注意を払わなければならない。1940年12月10日に、輸出禁止が拡張され、許可制のもとに置かれた。1941年2月3日に、銅、真鍮、亜鉛、青銅、ニッケル及び炭酸カリが輸出禁止品目表に加えられた。1941年6月20日までには、情勢が非常に悪化していたので、イギリスと南アメリカ向けのものを除いて、合衆国からの一切の石油の輸出が禁止された。

 日本の国家経済を強化し、日本、満州国及び中国を一つの経済ブロックとして組織することによって、アメリカの輸出禁止に対抗しようとする措置がとられた。内閣は、ブロック内の三国が経済競争、二重投資及び企業の重複を避けるために、これらの三国のそれぞれに対して、労働、財政、為替、製造、通信、交通等について、明確に定められた活動範囲を割り当てることが必要であると決定した。

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